場面跳ばし機能を使用しますか?  振り下ろす一閃――  分類上、それは斬り伏せるという行為に属すが、及ぼす効果は砕き散らす爆発に等しい。刃物による攻撃なので斬撃と言える。などとは到底形容できぬ激烈な猛撃だった。  ゆえに、弾き返したその一閃も同じく爆撃。およそ鋼と鋼が噛み合うものとは思えぬ轟音を響かせて、大気が断末魔の絶叫をあげている。 「はッ―――」  伝播する衝撃に四肢を震わせ、初手の一刀を放った側はこの事態を歓迎していた。  己の攻撃、己の牙、それを真っ向受け止めて撥ね返した存在に、満腔の喜びを向けている。呆れと怒りと微量の驚愕が混じっているが、総て喜悦の亜種に他ならない。  そう、こんな嬉しいことが何処にある。己に触れても易々壊れぬ存在とは、ただそれだけで愛おしいと。 「失敗、だったか。悪ぃな、実際舐めてたよ」  男の業は人の範疇を超えている。手にした得物を標的目掛け、力任せに叩きつけたというだけのことだが、速さと膂力が魔性の域だ。ゆえに武器が耐えられない。  失敗とはそれ。蟻を相手に本気を出すなど無粋の極みと思っていたこと。  しかし、現実の敵は獅子だった。これでは逆に、真価を発揮できないことこそ遺憾である。 「まあ、いざとなりゃあ素手っていうのも有りだよな。あと何発保つか知らねえが……」  軋みあげる刀の精。一般には名刀と呼ばれる類だが、男にとっては〈鈍刀〉《ナマクラ》である。  何の法儀式も特殊な鍛造も施していない、時代が下れば文化財にはなるだろうという程度の代物。人外に足を踏み入れた者同士の戦いには、言うまでもなく不足している。  だから、〈刀〉《これ》が死ねば殴り合おう。きっとその方が面白い。  口角を吊り上げ、牙を剥き、凶猛な笑みを浮かべて男は言った。声はもはや、餓獣の唸りにしか聞こえない。  酷烈な主によって塵同然に使い捨てられる刀の嘆き……そんなものを〈斟酌〉《しんしゃく》してやる感傷など、この男には微塵もなかった。  道具はただ道具として、すり潰されるまで働けばいい。友だの情人だの兄弟だのと、ワケの分からぬ想いを込めて、凶器を擬人化したところで意味などないと冷酷なまでに弁えている。  死地において、いいや〈行住坐臥〉《ぎょうじゅうざが》総てにおいて、己以外の何かに縋るのは狂気の沙汰だ。天下にただ一人である自分を除き、そも何を信仰しろと言うのだろう。  それがこの時代、この世界における〈共通常識〉《あたりまえ》。誰もが己を神と崇め、絶対と信じる自己の〈姿〉《りそう》にのみ順じている。他者への敬意や友情、愛などは、つまるところ素晴らしき我を彩る風流にすぎない。  ゆえに―― 「ああ、同感だわ。俺もおまえを舐めてたよ」  対峙するこの彼も、そこはまったくの同類だった。得物が耐え切れず悲鳴をあげていることも、その事態を引き起こした敵手の強さも、総て己を演出する風流としか見ていない。 「けどなあ、せっかく華の都で立ち回るんだ。ちっとは型ァ重視した艶を出そうぜ。分かるだろ」  己を良い気分にさせ輝かせること。彼らにとって価値ある者とは、そうした存在に帰結する。 「殴り合う? やめてくれよ、美しくない」 「お互い見立ての甘かった馬鹿同士。条件五分だぜ、こうなりゃいけるとこまでいってみようや」  そして、だからこそ、彼らから見る他者の評価は極端な乱高下を繰り返す。僅かでも不快な真似をした瞬間に、至高の宝石がただの石くれへと変わるのだ。  無論、逆もまた然りだが、ともかくこの場で言えることは一つだけ。 「ふふ、ふふふふふ……」 「はは、ははははは……」  双方噛み合っているうちは、極上の桃源郷に身をおける事実。ならばそれに沿う限り、迷いも恐れもありはしない。 「いいぞ、乗ったぜ。面白ぇ」 「つまり、あれだな? 〈士〉《サムライ》たらいう、頭あったけえ花道演出してみようやと」 「もともとそういう興行だろうが。こりゃ名目上、〈益荒男〉《ますらお》募るってもんじゃねえのかよ」 「なら、それっぽくいってみようや。御前らしくよ、撃剣かましてみようじゃねえの。これを軍記に残るような晴れ舞台に」 「出来たら、なあ、最っ高にいかしてんじゃねえのか、俺たちは」  〈天〉《かみ》を知らぬ。〈地〉《みち》を知らぬ。死後の浄土も奈落も何も、概念自体存在せぬからこの生にのみ総てを欲する。  普遍的信仰というものが何処にもない無道の世。後に天狗道と定義される、魔界の理がそれであった。 「軍記に残る、ねえ……」  己が燦然と輝くためなら、親兄弟はもちろんのこと自分自身すら焼き尽くすことに躊躇しない。  これより始まる一世一代の大戦争。神州の半分を奪い返す東征に先駆ける狼煙として。  数十万の兵どもを鼓舞する益荒男――士道の華を演じてみるのも、なるほど、なかなか悪くはないと。  芝居がかった抑揚で。 しかしこの上なく真摯に、苛烈に、容赦なく―― 「いざ尋常に――」 「――勝負しようかァッ!」  今、ここに餓獣が二匹、その自己愛を爆発させる。  合意は成された。もはや会話は一切不要。  俺が輝くためにおまえは死ねと――両者は千年の朋友を抱きしめるかのように激突した。  乱れ飛ぶ火花。吹き荒ぶ暴風。常人には視認どころか、音を正確に聴き取ることさえ出来ないだろう。  両者の剣速、体捌きは、共に常軌を逸している。真っ当な動体視力で捉えられるものではないし、剣戟の轟音は大気の爆発によって掻き消されるのだ。  その様は、言わば雷光。稲妻に乗った魔性同士のぶつかり合い。他者が介入できるものではないし、触れようものなら微塵に砕かれる鋼の嵐だ。  事実、互いの剣が唸るたび、発生する衝撃波が四方に弾け、爆ぜている。未だ刃は肉に届いていないというのに、二人の皮膚が、衣が、裂けていくのだ。  後退は共にない。ネジを外していると言うよりは、初めから付いていないと見るべきだろう。両者の気質と戦い方は、戦慄を通り越して滑稽なほど似通っていた。  薙ぎ払う一閃。抉り貫く一刺し。叩き割って両断どころか、四散させようという打ち下ろし。そのどれもが達人域の冴えである。  しかし、それでありながら、徹底的に型を無視した変則だ。順手、逆手は無論のこと、時には投擲さえ混ざるほどに掴みが千変万化しながらも、奇術のように柄が手の平から離れない。  有り得ぬ角度と機の連続は野生の獣そのもので、にも拘らず技の連絡自体は呆れるほどに流麗だった。基本を熟知し、かつそれを飛び越えるのが巧者の術理とするならば、この二人は共に同じ結論へと至ったらしい。  すなわち、技は力の中にあり。  膂力、握力、反応速度に、それらを支える耐久力――土台となる身体性能を最重要視した上で、だからこそ可能な技を突き詰めている。  柔よく剛を制すではなく、剛よく柔を断つでもない。  〈剛〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈柔〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈至〉《 、》〈高〉《 、》。  その答えに、異を挿ませない。挿める者などいないだろうと言えるほどに、彼らの戦闘技術は極まっていた。  強いて言うなら前述の通り、真っ当な武器では使用に耐えられないということだろうが……  嵐は血を巻き、真紅と化して、なお一層その激しさを増していく。  すでに二人の得物は砕ける寸前。如何な業物であろうとも、人が使うことを前提にしている以上は限界がある。  だが、あと一歩というところで両者の剣は壊れない。加減をしているわけではないし、刃の衝突を避けているわけでもないというのに。 「ああ……」  なるほど、つまりそういうことかと、ただ一人の観客として彼らを見守る少女は思った。  この者らは、命を懸けて遊んでいるのだ。  先に言っていた、あくまで撃剣を演じるという言葉通りに。  最初の一合を交えたとき、互いの得物がどこまで保つかを悟ったはず。相手の力量も察したはず。  そこから逆算し、絵図を描き、終局までの手を総て瞬時に決めたのだろう。あとはそれに倣うだけの、言わば約束組み手と変わらない。  恐るべきは、その思考的瞬発力より、導き出した流れに双方まったく差異がないこと。相手がどう攻め、どう受けるか、初対面にも拘らず完璧に読んでいるのだ。  驚異の〈慧眼〉《けいがん》。そして異常な信頼と言えるだろう。己以外を一切信じていないくせに、いや、だからこそと言うべきなのか。俺の目に狂いはない。俺が見込んだおまえなら、天地が砕けようとそれくらいはやるだろうと……  一手読みを誤れば、即致命となる剣舞に喜々として興じているのだ。  そんな信頼、なんて歪な…… 「馬鹿どもが……」  理解できない。理解できないがゆえに認めたくない。  常と異常の線引きを支持者の数で行うなら、異端はむしろ自分のほうだと分かっている。この世の当たり前たる価値観から、漏れているのは己なのだと知っている。  だがどうしても、少女はどうしても彼らが正しき人間だとは思えない。それを認めることに抵抗がある。  己よりも大事なものがなぜ存在しない。純粋に他者を想い、誰かのために何かをしてやりたいという気をなぜ持てない。  つまるところ彼らの情など、水面に映った自分を見ているだけではないか。  そんな醜く、愚かな性で…… 「なぜこれほど、形ばかりとはいえ信頼を実現することが出来るのだ」 「私はおまえ達ほど、他者を信じたことも信じられたこともないというのに」 「はああァァァッ―――」 「おおおォォォッ―――」  裂帛の気合い。弾ける轟音。終局はもう間近。  ここまで完璧に互いの手を読みあっていた彼らだが、決着にだけは差異が生じる。  すなわち、俺こそ至高。それを絶対の法則として信ずるゆえに、己が勝利を疑わない。  俺はあと一撃だけ保つように打ってきた。  しかし奴の得物はこの一撃で砕け散る。  双方、微塵の疑いもなくそう信じているからこそ、終局の一手に防御はない。  今、彼らが思い描いている様は、己の剣が相手を切り裂き、相手の剣は己を断てずに粉砕されるという光景だろう。  だが、実際はどうなのか。少女は確信をもってこう思う。  ここまで伯仲している二人の勝負だ、どちらか一方だけが読み誤るなど有り得ない。  ゆえに答えは、双方読みきって読み誤る。  すなわち共に斬られる相討ちか、共に武器が砕ける引き分けか。  どちらに転ぶか分からないが、間違いなくそうなるだろうことが分かっていて……  その結果がもたらすものは、つまり彼らが相手を信じぬいたという事実。  少なくとも形だけは、そのようなものとなって世に残る現実。  誰が何と言おうとも、そう捉えてしまうことを少女自身が否定できない。  だから…… 「やめろ……」  呪うように、縋るように、少女は軋る声を絞り出す。 「おまえ達は、間違っている……!」  溢れ出る憤激の波と共に、叫びあげたい己を止められない。 「絶対に、絶対に、絶対に、絶対に……」 「御前を、〈御稜威〉《みいつ》を、誇りを、国を……」 「そんな歪んだ血と思想に染めるなど――」 「許さん、汚すな! 貴様らは下郎だッ!」 「益荒男などでは断じてないッ!」  だが、叫びを無視して、共に振り下ろされる最後の一刀。 「やめろおおォォォッ――――!」  その、結末は…… 「ああああああぁぁッ―――」  絶叫と共に目を明ければ、そこは見知った自室だった。 「は、ぁ……ぁ……」 「今、のは……」  喘ぐような声と共に、胸を押さえて周囲を見回す。  広すぎて落ち着かぬと文句を言い、強引に部屋替えをさせてから以来数年……今や畳の編み目すら記憶している、天下でただ一つ安息に浸ることを許された自分の聖域。  のはずだったが、そこに異分子の侵入を許してしまった。遺憾と言うか、不覚である。 「夢、か……」  それも悪夢。とびきりに嫌な悪夢。寝汗で髪と着物が肌に貼り付く。気持ちが悪い。  その不快さに呻きながら、少女は苛立ちに眉を顰めて呟いた。 「冗談では、ない」  なぜこんな気分を味わわねばならないのだ。臆病な町娘でもあるまいに、夢でうなされるなど屈辱だと。  まして、先見たあれはガラクタではない。まず間違いなく正夢になることを、彼女はよく知っている。  であれば、つまり、脅威に感じている未来に対し、精神が悲鳴をあげているということなのか。それを避けたい、見たくないと、自分自身に訴えかけている本音なのか? 「馬鹿馬鹿しい」  恐れてなどいないし、逃避も論外。不愉快な催しだとは思っているが、もとより公務とはそういうものだ。この世の諸々は少女にとって、ほぼ例外なく度し難いうえに汚らわしい。  だが、だからといって殻に篭ってもいられないだろう。現状に不満があるなら立ち向かわねばならない。彼女はそうした責任を負っている。  問題は、そうした違和を抱えているのがどうも自分くらいしかいないということなのだが…… 「結局私も、要は己か」  自嘲して、溜息をつく。この世のあり方、価値観が、歪んでいるように思えて仕方ない。ゆえにそれを正したいと常々思うが、他の者らは何ら疑問に思ってないのだ。これでは空回りというものだろう。 「私が心安くなるためだけに、こんな感情を振り回しているのなら、しょせん同じ穴の狢だな」 「しかし、どうしても認められん。毎度ながら、堂々巡り……」 「まったく、こんな様で何が……」 「竜胆様」 「お目覚めになられましたか? 〈朝餉〉《あさげ》の用意が出来ております」 「―――――」  障子の向こうから掛けられる、控え目な侍女の声で我に返った。それで気を切り替えて、〈久雅竜胆〉《こがりんどう》――この国における武門の長たる家の姫――は、その立場に相応しい凛とした声音で応じた。 「分かった。だが先に湯浴みをする。朝餉の後は、〈中院〉《なかのいん》か?」 「は、その予定でしたが、〈御門〉《みかど》のご当主様が参られております」 「なに?」  その名を聞いて、竜胆の目が僅かに細まる。声も若干険を帯びた。それに恐縮したような侍女の気配。 「なんだ、またぞろ私に説教でもしにきたか」 「いえ、ただ、来たる御前試合についてとのこと」 「つまり、そういうことであろう。しかし早いな。ろくに食事をする暇もない」 「すまぬが、〈龍明〉《りゅうめい》殿の膳も用意してくれ。どうせあの方も、朝餉は摂っておらぬだろうし。話は食いながらでも出来る」 「ですが竜胆様、そのような……」 「構わぬ。今さら礼法を気に掛けるような仲でもない。そもそも無粋なのはあちらであろうが」  事前になんの断りもなく、このような早朝から面会を求めるなど無礼を通り越している。ならば応じる代わりにこちらも相応の対処をするだけ。  些か大人気ないきらいもあるが、別に構わないと思っているのだろう。言ったように、そうした付き合いが許容される仲なのかもしれない。 「まず、言ったように私は風呂だ。龍明殿は待たせておけよ。心配するな、半刻もかけん」 「かしこまりました」 「ああ。では、さて……」  去っていく侍女の気配を見送って、乱れた髪を掻きあげる竜胆。心なしか楽しげに独りごちる。 「私が揺れているときに限って、狙ったように現れる」 「あの怪物め、屋敷に式でも放っているのではないか」  そんな悪態を吐きながらも、口調は軽い。  やはりその客人は彼女にとって、数少ない懇意な人物であるようだ。  ここに建国の伝説がある。  今は昔、そうとしか形容できない遥かな過去の日、この世は異形の者らが跋扈していた。  何をもって異形とするかは諸説入り乱れて不明だが、早い話が今現在の常識では理解できないモノらの総称。まさしく見たことも聞いたこともない法理が存在していたということらしい。  それが、始祖によって討伐される。異形の法は一掃され、世は塗り替えられて今に至った。これを公正に分析するなら、渡来人による先住民への侵略戦争。要はそうしたものに違いあるまい。  英雄が悪鬼を斃して平和を築いた……などと、聞こえのいい歴史を妄信するほど、もはや素朴で未発達な文明ではなくなっている。  いらぬ幻想を排除して、現実と伝説の虚実を弁えられる程度には人も文化も成熟していた。そしてだからこそ、自分たちが侵略者の系譜であることに負い目を抱く者も存在しない。  誰しも今の生活があり、立場があり、それを自己の〈常識〉《せかい》として認識している。遠い祖先の行状など、知ったことではないというのが当たり前の反応だろう。  これは正邪を論ずる次元の問題ではないのだから。人に限らず、万物自然淘汰の理とはそういうもので、早い話が栄枯盛衰。繁栄があれば衰退があり、誕生があれば死も存在する。  湖の暮らしに慣れた鯉が、そこはもともと鰐のものだったのだから海に戻せと言われても困るだろう。つまり要はそういうことで、口さがない言い方をすれば勝者の論理というやつだ。  そして敗者……奪われ、追われた鰐の名を〈化外〉《けがい》という。 『又高尾張邑有土蜘蛛 其為人也 身短而手足長』 『与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之』 『因改号其邑曰葛城』  建国の伝説……それを記した書物にはそうした一節が存在し、これが葦原中津という国家の起源として認識されているのが現状だ。  その原典は誰の手によるものか分からない。昨今ではそれを探るのが学術の徒たちの間で流行らしいが、おそらく答えは出ないだろう。  重要なのは、そこに記されている征服の歴史。曰く土蜘蛛討伐という名の戦いである。 『又高尾張邑有土蜘蛛 其為人也 身短而手足長』――かつて土蜘蛛と呼ばれるモノらがおり、その様は異形にして卑しく汚らわしい存在だった。 『与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之』――よって、〈皇〉《すめらぎ》の軍勢がこれを捕らえ、責め苛んで誅戮……すなわち殺害する。 『因改号其邑曰葛城』――この覇業により世は平定され、土蜘蛛が生きた地を我が物として塗り替えた。  要約すればそういうこと。筆者の趣味か、何かの揶揄か。ひたすら長大で回りくどい内容の書であるが、建国の起源を語るならばこの三項目で片がつく。  つまり侵略、虐殺、旧世界の抹消。  哀れなる土蜘蛛は、まつろわぬ化外の民として排されたというただ一点。  無論、言ったように、そのことを指して我らは外道だと悔いる者など一人もいない。  すでに海は湖となり、幾らかの不都合を抱えながらも皆その水に適応している。今さら鰐のために泣く鯉は、天下に存在しないのだ。  海を隔てた諸外国でも、そこは同じ。  何処も似たような伝説があり、似たような歴史を辿っている。それが世の習いというもので、おかしなことは何もない。  現存する総ての国家は、みな化外を斃した過去を持つのだ。各々の文化的背景により、それが竜であったり蛇であったり、あるいは蜘蛛であったりと様々だが、異種討伐の果てに今があるということは変わらない。  ゆえに大事なのは現実で、もはやこの世に彼らが生きる場所など在りはしないという事実。  化外は旧世界の遺物であり、別法理の亡霊。鰐にとっての楽園は、鯉にとっての毒でしかない。  湖に塩は不要。それが混ざれば必然として戦が生じる。  たとえば、今。  この中津国……〈秀真〉《ほつま》を都とする神州が、世界で唯一そうした均衡の上にあるように。  ことの起こりは、三百年ほど前になる。  諸将が天子の奉戴を競い合い、領土拡張の戦に明け暮れていた動乱の時代。  当時、彼らが認識していた神州は、西半分が総てであった。いや、正しく言えば東半分が不明だった。  その原因は、〈近淡海〉《ちかつあわうみ》。  国土の中央に穴を穿つ、巨大な〈断崖〉《うみ》の存在である。  濃霧に包まれたこれを越えることが長らく出来ず、その先にある領域を確認することが不可能だった。  外海もまた荒れており、やはり同様に踏破不可能。まるで侵入を拒んでいるかのような自然だったが、結果としてここより先には何もないと、そう誤認させるだけの条件はそろっていたのだ。  有るか無きか分からぬものを、命懸けで確認しようとする者などそういない。  いたとしてもそれには技術と資金が必要で、権力者がその気にならねば実現できないことだった。  そう、権力者。  当時、群雄が奉戴を競い合っていた天子その人。  国の実権からはとうに離れていたものの、武家の総ては名目上、残らず皇主陛下の臣である。名分を何よりも重んじるこの国の気風に照らせば、より強固な形で忠を示した者こそが玉を握れる。その論理展開は自明であったと言えるだろう。  ゆえに、ここで求められるのは英雄譚。 建国の伝説たる、東征である。  上洛を果たし、天子を抱えたのは竜胆紋。武家の最大勢力であった久雅家だが、もはやそれだけではこの乱世にけりは着かない。  東へ。勅命を帯びて東へ攻める、征夷の将とならねばならない。  逆に言えば、久雅に先んじて東を征することにより、一手遅れた者達の巻き返しも可能になる。  後はもはや、説明不要というものだろう。  戦乱があらゆる技術を進歩させるということは、言うまでもなく常識だ。  百年続いた乱世の果て、当時の極限にまで達していた技術の粋は、ついに天嶮を越えるに至る。  だが――淡海の先に待っていたのは栄光でなく、異形そのものとの邂逅だった。  久雅を筆頭とする有力武家。総勢二十万を超える西軍は、東の軍勢によって大敗する。それは人知を超えたものであり、常軌を逸する魔であったという。  曰く、死者が骸のまま動きだした。  曰く、鎧も刀槍も腐り落ちた。  曰く、炎と〈雷〉《イカヅチ》の風に蹂躙された。  神州の東には妖異が棲む。土蜘蛛、鬼神、まつろわぬ化外の国。  〈穢土〉《えど》と名付けられた地に君臨する八柱の大天魔は、こう呼ばれた。  〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》。  すなわち〈悪路〉《あくろ》、〈母禮〉《もれい》、〈奴奈比売〉《ぬまひめ》、〈宿儺〉《すくな》、〈紅葉〉《もみじ》、〈常世〉《とこよ》、〈大獄〉《おおたけ》、〈夜刀〉《やと》。  潰走した東征軍で、西の人界に帰りつけた者はごく僅かだったという。  東の鬼どもは追撃をしてこなかったが、一度境界を踏み越えた影響か、後の西側には異能を持った者らが生まれ始める。  それは呪いであり、毒であろうか。堤防をこじ開けたことで、湖に塩が混じりだしたということなのか。  真相は分からない。  だが、だからこそ――  屈辱の敗戦より、三百年を経た今だからこそ―― 「化外は排除せねばならない」  鉄芯を呑んだように揺るぎなく強い声が、それこそ絶対の方針なのだと告げていた。 「〈御国〉《みくに》の開闢より今この時まで、奴らは存在し続けている。国土の東半を異形の領域にさせたままなど、武門の名折れであろう、烏帽子殿」  口調に一切の抑揚を混ぜず、率直すぎる言を述べたのは妙齢の美女だった。  〈御門龍明〉《みかどりゅうめい》――この国において、あらゆる術師を統べる言わば裏の総帥である。  武の頂点である五つの将家。 すなわち久雅を核とする〈中院〉《なかのいん》、〈六条〉《ろくじょう》、〈岩倉〉《いわくら》、〈千種〉《ちぐさ》と同じく、国家鎮守を担う両輪の片側と言っていい。  烏帽子とは、そうした立場の長として、昇殿を許された久雅の当主に対する敬称だ。もとより高位の貴人は名を秘すもので、みだりに呼ぶことは許されない。  竜胆というのも、五将の連合である武の象徴、五つ竜胆車を指している号にすぎない。呪いの的にならぬよう、彼女の名は厳重に隠匿されている。殿上人にとっては当たり前の自衛であり権利であろう。 「私は別に、戦そのものを否定しているわけではないよ龍明殿」 「ただ、な。悪趣味を悪趣味と言っているだけだ」  そうした立場をことさら強調するでもなく、淡々とした口調で答える竜胆。対面に座す龍明は礼則の教本にそのまま載せられるほど姿勢を正して不動だが、別に畏まっているわけではない。  これがこの女性にとっての日常的な態度なのだ。慇懃無礼と評せば分かりやすい。 「つまり、武門の長たる身でありながら血がお嫌いと?」 「無駄な流血ならばな。好まないよ、当たり前だろう」 「この時期、〈御〉《 、》〈前〉《 、》〈死〉《 、》〈合〉《 、》など戯けている。陛下は神楽の生贄だとでも仰るつもりか」  そう言って、視線をあげる。声音はやはり抑えたものだが、先とは異なり内心の憤りが滲み出ていた。 「あなたにとっても、これは他人事ではないはずだ。化外を滅ぼす? ああそれについては異論などない。もとより我らの役目はそのためにある」 「だが、その先駆けとして、なぜ同胞同士殺し合わねばならん。まして御前における武芸の上覧を許されるほどの者達だ。最低でもその半数を失うなど、有り体に言って惜しい。ゆえに馬鹿げている、度し難い」 「あなたはそう思わぬのか、龍明殿」 「無論、思う。だがこれも勝利のためと心得られよ」 「それはどういう――」 「まあ、聞かれるがよい。今日はそのために参ったのだ」  手をあげて竜胆を制し、宥めるように声の調子を和らげる。まるで子に対する親を思わせる態度だったが、二人の関係は事実それに極めて近い。 「烏帽子殿、初めてお会いしてから何年が経ったかな」 「……十五年だが、それがいったい?」 「そう、十五年になる。当時の御身は三つか四つであったかな。よく覚えているよ」 「……私も、当然覚えている」  と言うより、現在進行形で痛感している。そう胸中で呟きつつ、竜胆は言った。 「流石は御門のご当主殿。これは化生の者に違いない。歳をまったく取らぬとね」 「若作りが上手いだけだが。ともかく今、それは関係ない話」  記録上、八十に届こうかという歳のはずだが、軽く五十年は若く見えるのが御門龍明の不可思議だ。しかしそんなことはどうでもいいと、妖しの術師は含み笑って言葉を継いだ。 「私は先代の烏帽子殿、すなわち御身のお父上から後見役を頼まれた。あの方は御内儀共々病弱であったからね。どうか竜胆を守ってくれと。このままでは他の四家に久雅の家は潰されると」 「結果、まあ、些か利かん気な姫君にお育ち遊ばされたのは不徳のいたすところと猛省するが、友の遺言は概ね守ってこれたと思う。武も、教養も、ご立派になられた」 「それで?」 「世辞を言いたいわけではないだろう。あなたは話をもったいぶる悪い癖がある」 「これは失礼。そうしたところはおそらく師の影響でね。昔は毛嫌いしていた相手なのだが、困ったことに歳を取ると似てくるらしい。我ながら痛恨と言わざるをえない」 「だが、改める気もないのだろう」 「然り。よく分かっておいでだ。嬉しい限り」 「では、そう、一つ訊かせてもらおう。今現在の我が国が直面している難事について、御身はどう捉えておられるのか」 「…………」 「私の意見は、論と理をもって述べさせてもらおう。ゆえその前に、御身がどの程度事態を認識しているのか知る必要がある。そう嫌な顔をされるな」 「私は教育係でもあるのだから、その一環と思われればよい。物事を順序だてていくのは大事なことだ」 「これもまた、将には必要な資質なれば」 「……分かった」  正直、面倒どころの話ではないが、抗議は暖簾に腕押しというものだろう。竜胆は観念した。 「では……」  まず、最大の難事と言えば決まっている。 「あなたも言ったように、東の化外、蜘蛛どもだ。あれが天下に在る限り、我らは無能の誹りを免れない」 「それは我々の面子に関わる話であって、国家の難事とするには些か弱いな。事実奴らはこの三百年、先の大戦から一切姿を見せていない。引き篭もっている」 「まだ話は途中だ」 「ほぅ、ならば?」 「決まっているだろう、歪みだ」  つまり、目に見えぬ〈陰〉《かげ》の流入。汚染のことだと、苦々しげに吐き捨てた。 「三百年前の東征に敗れたことで、良くも悪くも乱世は終わった。武家の大半が潰れたのだから、続行不可能になったと言ったほうが正しいが」 「ともかくそうした経緯によって、陛下を中心にした今の体制が確立したのだ。国を〈鎖〉《とざ》し、弱みを外に知られぬよう、隠匿しつつ回復を図る」 「だが、それも時間切れが近い」 「あちら側から流れ込む陰気とやら、蜘蛛がこちらに直接関わってこなくとも、奴らの吐く息は毒でしかない。一度境界を踏み越えたことで、それが人界を侵している」 「特に昨今、歪みを身に宿す者どもが増えているというではないか。この目で実際に見てはいないが、噂だけは耳に入るし誇張でもあるまい」 「国家の〈基〉《もとい》を危うくするほど、剣呑な歪みが生まれだした。ならば病の源を絶たねばならない」 「今がまさに、その分水嶺だと聞いている。そこはあなたのほうが詳しいのではないか?」 「確かに」  御門龍明は術師の頭領。いわゆる異能と呼ばれる者たちは、彼女の監視下に置かれている。  厳密に言えば呪術と異能は別であり、一括りにされるものではない。  前者は習い覚える技術にすぎず、分類的には武術や学問と同じものだ。出来ることと出来ないことが存在し、この世の理に則ったもの。単に説明のつく力と言い換えてもいい。  対して後者、異能とは、説明のつかない超常である。世の理を無視した現象、すなわち歪み。異界の法則。  本来まったく別種なのだが、物質主義の武門よりは御門のほうが異能に近い。  そうした事実を踏まえた上で、今が分水嶺だと竜胆は言い、龍明はその通りだと頷いた。  つまり。 「歪みが戦力として機能し得るギリギリの天秤。実際、彼らが蜘蛛を斃すのに効果的な武器となることは疑いようもない。元はあちらの力なのだから」 「さしずめ、〈屏〉《 、》〈風〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈人〉《 、》〈喰〉《 、》〈い〉《 、》〈虎〉《 、》〈を〉《 、》〈斃〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈力〉《 、》か。異能はそういうものだと聞いている」 「だがこれ以上汚染が進めば、獅子身中の虫にしかならん。我らの世界は、内から腸を喰い破られる羽目になる。ゆえに今やるしかない」 「これがまあ、私の認識している最大の難事だ。化外を一掃しなければ国が滅ぶ」 「他には?」  まだあるだろう、と意地悪く笑う龍明に、竜胆は苦りきった顔で小さく呻いた。どうやらあまり口にしたくないことらしい。 「……決まっている、黒船だ。威丈高に開国を迫る異人ども」 「先の汚染が内憂ならば、これは外患にあたること」  いわゆる、悪いことは連続するというやつだろう。それを単なる偶然とは言い切れない。  弱っている生き物は、単に狙われやすいという自然の摂理だ。山犬はそうした嗅覚に長けており、当たり前だが執拗に追い詰めてくるものだから。 「今、国を開くなど論外だ。そんな真似をしたら最後、御国は嘲笑の的だろう。異人どもは嵩にかかって攻めるはずだ。未だに国一つ平定できぬ土人めとな」 「奴らは、自国の化外をとうに滅ぼしているのだから」  遅れた社会と蔑まれても仕方なく、事実こちらも劣等感を抱えている。これでは対等の関係など、到底望むべくもない。 「かといって、頑なに鎖国を続けても意味がない。我らは三百年前に天嶮を越えているのだから、今の異人どもなら容易に東地へ至るだろう」 「結果、予想できるのは泥沼の奪い合いだ。今まで隠し通せたのが、むしろ奇跡に近いと言える。もはや世界は狭い時代になった」 「だから――」 「そう、速やかに、我らの手で、東征を成し遂げなければならない。開国云々、異人云々、それらは残らずその後だ」  竜胆の後を引き継ぎ、龍明はそう断言する。実際のところその意見が、現状における大勢を占めているのだ。  反対意見は無論ある。列強の脅威を前にして、いたずらに国力を低下させるだけだというのも確かに然り。否定できないことだろう。  しかし、異人と手を組んでの東征というのは有り得ない。よほど上手く立ち回って理想的な同盟を築き、勝利しても、待っているのは東地の領土割譲だろう。それを許すのは弱腰であり、認めてしまえば禍根を残す。早い話が舐められる。  庇を貸して母屋を取られるの喩え通り、外異に対して譲歩するのは危険なのだ。一を許せば十も二十も要求してくるに違いない。  そしてそういう事態になったとき、自力で平定を成せなかった事実が誇りを挫く。奮い立つための気力を削ぐ。牙に自信を持てなくなれば犬となり、首輪を甘受する羽目になるだけ。  ゆえに、まずは独力による東夷征伐。尻に火がついている今だからこそやるしかない。先ほど竜胆が言ったように、もはや穴熊を決め込んでいられる情勢ではないのだから。 「ひとまず丁重にお帰りいただくことには成功したが、〈黒船〉《ぺるり》殿は中々の人物だ。これで終わりとはいかぬだろう」 「まず間違いなく数年の内、早くて一年、遅くとも二年か三年、その間に再度やってこられるはず。おそらく東地の存在にも気付いておられるに違いない」 「次回は、陛下に親書を渡すだけとはいかぬだろうな。それであっさり引き下がったところからも、すでに今頃、一足先に蜘蛛と接触している可能性もある」 「いっそのこと、それで滅ぼされてくれれば嬉しいが」 「私もそう思っているよ、烏帽子殿。だがその場合、何にせよ戦だな。あちらは我々がやったと信じる。再度の来航はもはや防ぎようもない」 「……ふむ、しかし整理すればするほどに、なんとも最悪な状況だ。気鬱の病にかかりそうだよ」 「自らその話をさせて今さら何を」 「それで、龍明殿。結局何が言いたいのだ。私の疑問には未だ答えを貰っていない」  つまりこの時期、この逼迫した状況下で、否応ない戦に踏み切る前だというのに―― 「一月後に執り行われる御前試合。来たる東征に先駆けて兵を鼓舞し、尚武の心を取り戻すべく益荒男を募る撃剣の神楽」 「それを、真剣による死合とするなど有り得んだろう。先も言ったが、士の損失だ。いったい誰が――」 「陛下にいらぬことを吹き込んだのかと? 他ならぬ私だよ」  何ら悪びれもせず当たり前のように言われたため、竜胆は一瞬意味を判じかねた。 「なっ――、え……はあ?」 「だから、私の発案だ。その反応は愛らしいが、些かはしたないぞ烏帽子殿。久雅の鬼姫ともあろう方が、人前で大口など開けるものではない」 「な、な……だけど、あなたは……いや、あなただって……」 「ああ、もしかして本人から聞かれたか。ならばその通り、私の娘も上覧の栄誉を授かった」 「未だ嘴の黄色い雛にすぎんが、〈義母〉《はは》としては恐悦至極と思っているよ」 「――龍明殿!」  知らず声を荒げていた。それはある種の失望に対する憤激だったと言っていい。 「結局、あなたも同じなのか……!」  この国に生きる者らは、皆一様に自分のことしか考えない。要は己を輝かせるということにのみ執心している。  その観測者もやはり己。つまるところ、自分が自分を愛するためなら何でもやるのだ。  竜胆の父は龍明に後見を頼んだが、それは武門の長たる久雅の当主としての『己』を守るためであり、娘の将来を純粋に案じていたわけでは断じてない。  身体弱く、男子も成せず、自分の代で家を潰すという恥辱に耐えかねただけである。他の四家が介入してくるのを防ぐため、御門の一門に庇護を願った。そして結果、功を奏した。  ゆえに最低限の格好はつけたと、勝手に満足して逝っただろう。行為がどのようなものであろうが、動機は利己で、利他ではない。  仮に、恋人を守って死んだ男がいたとする。  しかし彼の本音はこういうものだ。  〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈方〉《 、》〈を〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  そして、守られた女の本音はこういうものだ。  〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈涙〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈素〉《 、》〈晴〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。  あくまでも我。どこまでも自己愛。突き詰めれば他者を必要としておらず、愛や信頼という概念自体がただの装飾品と変わらない。  ゆえに、喪失や裏切りを体験しても真実のところでは平気なのだ。唯一無二かつ絶対である己が存在すればそれでよく、そうした考えがこの世における当たり前。  だが竜胆には、そのことが汚らわしく見えてしょうがない。 「娘が武芸上覧の栄に浴せば、どうなろうと知ったことではないとでも?」 「否定は出来ぬね。そも東征に参加するという時点で、身の安全も何もない」 「要は戦。殺し合いだ。その本質も理解せぬまま、お遊戯で勘違いされても困るだろう。皆の規範として、益荒男かくあるべしという栄誉を賜るのが御前なら、命で魅せるのが華というもの」 「そんな程度も懸かっていないじゃれ合いで、いったい何処の誰を鼓舞できると? 仲間同士、互いに認め、友情を育むための通過儀礼的にまずは模擬戦? 笑止だよ。そういったものを茶番と言う」 「今時、頭の残念な小童でもそんなお芝居に燃えたりはせん。導火線には緊迫感が、そして火薬には激情が必要なのだ。殺意なくして、なんの勝負」 「しかし、だからといって……」 「まあ、詭弁だがね。言いたいことは分かっているよ。我々が、御身から見れば狂人の集団に見えるというあれだろう?」 「…………」 「しかしな、その感覚に照らして言うなら、この国はマシなほうだぞ。たとえどのような形であれ、大儀や名分が存在する」 「先の黒船にしてもそうだが、異国で絶対の法となっているのはあくまで力だ。周囲をねじ伏せた者が盟主となり、それを斃した者が後を継ぐ。血筋、家柄など塵芥だよ。ある意味先進的とも言えるだろうが」 「少なくとも御国のように、祭り上げられているだけの存在が、象徴として敬われるなど有り得ないな。……いや、失礼。別に御身や陛下を愚弄しているわけではない」 「要はともかく、そう頑なに嫌うものではないということだ。言ったように、ここは大分マシなところだよ。御身にとって」 「なぜそうなのかは、分からんがね」  含むように間を置いて、最後にそう付け足しつつ笑う龍明。竜胆は何ともいえない気分になる。  この相手は怪人物。〈ど〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈属〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  自分と相容れないように見えて、理解者のようでもある。  〈異常〉《まとも》のような、〈正常〉《きょうき》のような……  考えても分からないゆえ、結局のところいつも通りに竜胆は降伏した。 「……分かった。私も論を急ぎすぎたと自覚している」 「それで、結局何がしたいのだ龍明殿。先の言を詭弁と言うなら、真意は別にあるのだろう」 「私の意見は変わらないが、それを抑え込む何かがあると?」 「無論。だが、せめて翻意と言ってほしいものだな。私はそう嫌な人間ではないよ」  来たる大戦を前にして、無意味にすぎる武芸者同士の殺し合い……それを容認させる札とは何か。  実際のところ、もはや竜胆がどれだけ反対しても覆らない案件なのだが、御門龍明は強引であっても一方的ではない。  何のかんのと、最終的には納得させられてしまうのだ。それは竜胆も分かっている。  ついと視線を逸らしてから、独り言のように龍明は言った。 「東征の総大将は、誰なのでしょうな」 「歴史的には、言うまでもなく久雅の御当主。であるはずなのだが……」 「残念なことに、彼の御方は未だ年若い姫君だ。実力云々、家格云々、言いたいことは色々あろうが、これが隙である事実は否定できない」 「〈千種〉《ちぐさ》、〈六条〉《ろくじょう》、〈岩倉〉《いわくら》、そして〈中院〉《なかのいん》……武門四家は、当然そこを狙ってくるだろう。何せ今は、三百年ぶりに訪れた乱世だ」 「この期に他家を追い落とし、玉を担ぐ征夷の将となりたかろう。であれば、分かりやすく力を示す必要がある」 「そう、たとえば、陛下の御前で華々しく、家門の武威を披露し奉る……などというのは、なかなか有効ではないだろうか」 「―――――」 「そこで無双の腕を見せ付ければ、天晴れ御国随一の武辺者よ――と、陛下は称えられるに違いない。敗北した家は何も言えぬ。最小限の犠牲をもって、他家の面目を潰すわけだ」 「つまり――」  続きは、言われずとも理解した。 「政治だと?」 「そう、これは代理戦争だ。避けられぬ争いならば速やかに、最大の効率をもって終わらせる。大事の前なら、なおさらに」 「だが、将は相応しい者がなるべきだろう。あなたは先ほど、これが勝利のために必要なことだと言われたが、この身にそのような将器があるとでも?」 「ないのかね?」  問われ、逆に竜胆は押し黙る。そんなことを言われても、答えようがない。 「私が分かっているのは、他の連中では話にならぬということだ。六条や千種、岩倉……あれらは純粋な武技のみを信じている。まあ、それが矜持というやつなのだろうが」 「彼らが征夷の軍を掌握すれば、我ら御門の一門は厄介者だよ。吉凶を判じて差し上げるくらいしか役目を与えられぬだろうし、それすらそもそも信じまい」 「まして、歪み者を戦線に投入するような柔軟さなど、欠片すら持ち合わせんさ。恥だ誇りだ格好悪いだ何だかんだと、餓鬼のように駄々をこねる様が目に浮かぶ」 「彼らの思い描く東征とは、煌びやかな甲冑に身を包んだ精兵による、壮麗な絵巻物なのだよ。〈厳〉《いかめ》しく〈武張〉《ぶば》っているのは〈形〉《なり》だけで、頭の中は夢見る乙女だ。これでは始める前から敗北の足音が聞こえるというもの」 「ゆえにだ。こちらとしても見せ付けてやる必要がある。冷酷で容赦なく、間抜けは討ち死ぬという戦場の現実を」 「このままではこうなるぞと、実際に血を見せねば到底理解せぬだろう。御身もそうだが、武家というのは頭が固いものだから」 「まあ、中院はいくらか賢明であろうがね。それでもあの家に軍権を渡すのは気が進まない」 「なぜ?」 「なぜと? 愚問だな。御身はあそこの若当主殿を毛嫌いしているだろう。輿入れの話が引きも切らぬこと、私が知らないとでも?」 「…………」 「ここで地位を確立せねば潰されるからだ。正確には、輿入れせねばならなくなる」 「さしずめ、景品に近かろう。東征の将には、久雅の姫を組み伏す権利が与えられるというわけだ」 「…………」 「予想していなかったわけではあるまい?」  心なしか面白がっているようなその問いに、竜胆は眉を顰めるだけで何も言わない。それは肯定の意でもある。  浅ましい権力争いに興味はないが、景品という喩えは的を射ているだけに不愉快だ。自分は女で、力もないから、そんな道具のような扱いをされる。  正直、許容できる運命ではない。 「御身のご気性は分かっているし、私も女だ。舐め腐っている男どもに、一泡吹かせてやりたくなってね」 「ああ、無論、先代に後事を頼まれたということもあるが、私の本音はそんなものだよ。男の思い通りになる女など、この世にいないということを教えてやろう」 「潰してやろうではないか。思い上がった馬鹿どもの面目を」 「しかし……」  それは同感だが、と付け足して竜胆は言った。 「本当に、そこまでやる必要があるのだろうか。千種、六条、そして岩倉……あれらの家が御門を軽んじているのは知っているし、そういう意味では将に相応しくないのだろう。東征に必勝するため、排除すべきというあなたの意見はきっと正しい」 「そして中院……ああ確かに、私は景品になどなりたくないが、そうした私情を度外視してもなぜかあの男は認められない」 「であれば、征夷の将は誰がなるか、答えは一択だと分かっているし」 「怖気づいている、わけでもない」  国の命運を懸けた東征の総大将。その座はもともと久雅のもので、自分にはそれを果たす責任があると竜胆は思っている。生半可な重圧ではないが、だからといって逃げるという選択肢は許されないのだ。 「役者として足りているか否かは分からない。だがやらなければならないのだから、やるのみだろう」 「そうだ、よい覚悟だよ烏帽子殿。しかしならば、いったい何が気に入らぬ。軍を率いる身となれば、死ねと下知することなど日常だぞ」 「有り体に言って、戦はもう始まっている。先ほど惜しいと言われていたが、それは無駄な流血がという話だろう。これは違う。無駄ではない」 「分かっている」 「ならば」 「私は――」  さらに何事か言わんとする龍明を制すように、竜胆は語気を強めて思いを吐露した。  理解してもらえるとは、到底思っていなかったが。 「私は、信じたいのだ」 「私の采配で、私の意志で、死ぬやもしれぬ益荒男たちを信じたい」 「彼らの忠義、彼らの勇気……誠、御国の〈兵〉《つわもの》よと、その美々しさを称えたいし誇りたいのだ」 「そして、それに恥じぬ私でありたい。将とは、そういうものではないのか、龍明殿」  結局自分も別方向で、夢見る乙女なのかもしれない。竜胆はそう思いつつも、これは必要なことだと信じている。  烈士、英傑、そして益荒男……勇者を意味する言葉は数あれど、正しく使われているのを見たことがない。少なくとも、竜胆にとってはそう感じるのだ。 「国を愛し、家族を愛し、友や女を守るため、命を懸けるというなら〈否〉《いや》はない。たとえ市井の民百姓、歪みの者であろうとも、その志があれば私の同志だ。死ねとも言おう、久雅の当主として彼らの想いを背負ってみせる」 「しかし、現実は違うだろう。自己愛に酔った者ども、仁も義も礼も智も、信も忠も孝悌もない。あるのはただ、我の一文字だ」 「そんな者らに死ねとは言えない。ある意味喜んで死ぬかもしれんが、見つめる先が違う者の想いは酌めない。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈不〉《 、》〈愉〉《 、》〈快〉《 、》〈だ〉《 、》、ではなく?」 「理解してもらおうとは思っていないよ」  低く、諦観を込めて、しかし凛として声音で言葉を継いだ。 「繋がりとか、絆とか、私にはそういうものが大事なのだよ。何と言うのか心の奥底、胸の根幹にある部分で触れ合いたいと強く望む」 「そんなものは見たことがないし、世に有り得ないと言われても納得できん。……ああ確かに、私は狂っているかもしれないな。だがこれだけは断固譲れん」 「東征そのものは、もはや否応のない生存競争と化している。やらねばならぬことだから、そこから私は逃げないよ。不満もあるが、是非もない」 「しかし現実問題として、家中に益荒男がいないのだ。武芸の腕がという意味ではなく、私が想いを酌んでやれる忠臣がおらぬ」 「この身が征夷の将となる――そのために御前の死合が要るのなら、すなわち当家の代表は、私が最初に死ねと下知せねばならぬ者だ。であれば、せめてそこだけは」  その者の気持ちだけは、十全に酌んでやりたい。竜胆はそう言って、表情一つ変えぬ龍明を見た。 「たった一人でいい」 「これから数万、数十万の死を生む立場になるというなら、たった一人でも抱いてやりたいと思うのだ。それを何と言うのか言葉を知らぬし、概念自体存在しないのかもしれないが……」  どう説明すればいいのだろう。言いながら心の中でかぶりを負って、自分自身、何を言っているのか分からなくなりかけたとき―― 「魂、か。御身はその救済を望んでいると」  ぽつりと呟かれたその言葉に、竜胆ははっとした。 「たましい……?」 「そう、御身が言っておられた胸の奥にある何がしか。それを指して魂と言う。廃れた言葉で、消えた言葉だ。今では私くらいしか知らぬだろう」 「なぜなら常識、死ぬということは死ぬということ以上も以下もないからな。そこで環を閉じ完結する。ゆえに生き様と死に様が等価なのだよ。断崖から先は無いから見ない」 「だんすまかぶる、とぉてんたんつ……異国ではそう言うらしいぞ、死者の踊りだ」 「死者の、踊り……」  鸚鵡返して、それが今世の在り方だと言う龍明を見る。正直、戸惑いを禁じ得ない。  この相手の博識ぶりは知っているし、加えて相当の年長者だ。自分が知らなかった魂とやら、その単語とその概念を、古びた書物から知識として汲み取っていたとしても不思議はない。  だが、本当にそうなのだろうか。今のはもっと、別のような…… 「まあ、御身の気持ちは分かったよ。この世の常識でない考えを、言葉にして説明するのは難しかろう。当然私にも出来ないし、同じ深度で理解も出来ん」 「だから年の功で纏めると、つまりこういうことになるのか」 「御身は死した後にも先があると思っている」 「胸の魂は不滅であり、それが良きところへ行けるようにと願っている」 「だが、私を含めた世の馬鹿どもは、魂を知らず死後を思わず、ただ痴呆のように踊っているだけ。哀れ暗黒に帰す定めなら、それを救ってやりたいと」 「そうした業を可能にするのが絆であり、将にとっての益荒男とは、かくあるべしだと思っている」 「せめてたった一人でも……とな。違うかな?」 「いや……」  まさにその通りだと言っていい。自分にも説明できないと言いながら、龍明の纏め方は当の竜胆が驚くほどに的確だった。  今さらながら困惑する。いったいこの相手は何者なのかと。 「しかし、困ったな。これでは埒があきそうにない。御身を将とすることで意見は一致しているのに、その手段を容認出来んとなればどうするか」 「久雅の代表には勝ってもらわねばならぬのに、そのための人材がいないとはね」 「困ったな。ああ本当に困ったよ」  詩歌でも口ずさむように嘯きながら、肩を揺らして笑う龍明。言葉の内容は嘆きでありつつ、しかし同時に竜胆を称賛しているかのような……  それでこそだと言わんばかりの、意味ありげな流し目を向けて龍明は座を締めた。 「まあよい。まだ僅かだが時間はある。年が明けるそのときに、使いを出すから答えをお聞かせ願いたい」 「絆で繋がる臣とやら、感じるままに選ばれるがよかろうよ。いっそ恋でもしてくれれば、大いに助かる」 「…………ッ」 「おっと、そう怖い顔をされるな」  向けられた怒りを逸らすように、ゆらりと龍明は立ち上がった。懐から紙を取り出し、無造作に渡してくる。  それを手にして、竜胆は驚愕した。 「これは……」 「今現在、出場が確定している者らの名だよ。そうそうたる面子だろう」 「〈玖錠〉《くじょう》、〈凶月〉《きょうげつ》、伝説の武に伝説の歪みだ。まだ組み合わせは不明だが、これらと当たれば私の娘、死ぬかもしれんな」 「………ッ」  なるほど、確かにそうなりかねない。龍明が言った二つの名が、どういうものかは竜胆とて知っている。まさかこんな者たちまで出てくるとは、いよいよ冗談事ではすまされない。  ある少女の顔が、脳裏に浮かんだ。姉妹のように育った少女が…… 「〈龍水〉《りゅうすい》を殺されたくなかったら、一刻も早く相応しい者を見繕えと?」 「ふむ、まあそう取ってもらっても構わんが」 「あなたは龍水の母だろうッ」 「だからなんだね? 私は御身が思うところの狂人だぞ。国体のため、娘を犠牲に捧げる母というのも悪くない。結構な陶酔感だ」 「ともかく、龍水に限らず言わせてもらえば」  無情にも突き放すように冷めた声で、龍明は言った。 「御身は将だ。間違われるなよ、烏帽子殿。信を望むなら探すのではなく、その〈狂気〉《りそう》とやらで〈兵〉《つわもの》どもを酔わし、勝ち取れ。それが久雅の、竜胆車の主たる者の王道だ」 「―――――」 「では、これにて。人選が決まったら、それに記して使いの者に渡してくれ」 「よいお年を、烏帽子殿」 「待っ――」  思わず呼び止めようとしたがそれも叶わず、御門龍明は去っていった。後にはただ、竜胆だけが残される。 「…………」  自分はどうするべきなのだろう。何を成さねばならぬのだろう。考えたところで堂々巡り、答えはいっかな出てこない。  一般に、己はおかしいと自覚している者はまともだという。真に混じり気のない狂気なら、自分が間違っているだの正しいだのと思い悩んだりはしないとのこと。  その通りかもしれない。なぜなら先の龍明も、他の総ての者たちも、強固に自分を持って疑うことを知らぬから。無様に揺れて懊悩するのは、天下に己、ただ一人。  ならば久雅竜胆は正常なのか? しかし現実的に異端は自分で、あちらが正しいとされているのはどういうわけだ? そも何をもって線を引くかは、同類が多いか少ないかの話だろう。  常識とはそういうもので、ゆえに形がどうであっても、社会が維持され集団を作る。  国とはその最大単位で、それを愛していると言いながらも、その在り方を許容できない。 「何なんだ、私は……」  分からない。分からない。分からない。分からない。  結局自分が気に入らぬから、自分の都合で駄々をこねているだけなのか?  少々系統が特殊なだけで、久雅竜胆も自己愛に酔った者の一人だと? 「違う……!」  違うと、信じさせてほしい。そう思わせてくれる益荒男を抱きたい。  天下にただ一人でいいのだ。魂で繋がる同志が欲しいと願いながら……  言いようのない寂寥感に囚われて、いっそ溶けてしまいたいと竜胆は思っていた。  年の瀬の喧騒に少なからず触発されて、心は浮き足立っている。こんな大勢の人を見るのは、いったい何年ぶりだろう。  流石は〈秀真〉《ほつま》、華の都だ。異国だ化外だ何だのと、騒ぎ立てる空気までもが妙に垢抜けて綺羅綺羅しい。じめじめと陰湿なだけの田舎とは、どうやら根本から違うようだ。  この騒々しさと明るさは、晦日の夜に相応しい。そろそろ除夜の鐘でも鳴り始める刻限だろうが、それもいい風流となるはずだ。  ――が。 「そういや、除夜の鐘って何なんだ?」  わりとどうでもいい疑問だったがふと気になって、思わず独りごちていた。 「確か百八発鳴らすんだよな。じゃあ百八って何の数字よ?」  俺の素晴らしさを天下に称えるためだとしたら、百八ごときじゃ足りんだろう。せめてその十倍は鳴らしてもらわにゃ釣り合わない。  いやまあ、千八百発鳴らすというのも、鐘突きの小僧が辛いだろうが。  そこはほら、どうにか頑張ってもらわんと。 「ん? 何か違うか? 計算、あれ?」  ちょっと気になったが、面倒になったので考えるのやめた。除夜の鐘の起源も意味も、どうせみんな遥か彼方に吹っ飛ばしている。  鐘を鳴らしたいから鳴らしている奴がいて、それがまたいい感じだから真似する奴が増えてきて、いつの間にやら文化っぽくなってるだけにすぎないはずだ。意味も意図もないのなら、聴く奴それぞれ勝手に解釈すればいい。  結局のところ歌謡と一緒だ。気持ちよくなることが目的だから、俺も気持ちよく受け取らせてもらうまで。ごーんと一発鳴るたびに、そこらの姉ちゃんが恋に落ちてくれるとかね。  そういう展開をただの妄想で終わらせないため、さっさと用事を済ませるべきだと考える。 「て、言ってもなあ……」  咥えた〈煙管〉《キセル》を燻らせつつ、現実に帰った俺は少々うんざりしながら呟いた。 「ちょっとこれ、おっかねえぞ」  眼前に聳え立つ――と言ったほうが絶対正しいだろうふざけた規模の、庶民に喧嘩を売ってるかのような大伽藍。その敷地に入ることが躊躇われる。 「御門の本家。洒落なってねえわ、色んな意味で」  だって俺の田舎にあったのは、この百分の一くらいだったし。  大きさも、厳つさも、そして漂う雰囲気も。  全然違う。別次元。  引くわ実際。どうしよう。 「ん~~~~~」  頭を掻きつつ、思案する。  この国には、下手すりゃ殺人よりも重い罪が一つあって、それはこうして年始のときに、御門の所へ赴くという義務の不履行。バックレである。  皇主陛下や〈公達〉《きんだち》や、五つ竜胆やらのお偉方には逆に御門が出向くんだろうが、その他はこうして、わざわざやって来なけりゃならない決まりだ。  正直、かなり嫌すぎる。面倒くさいという意味じゃなく、人によっては審判に他ならない瞬間だから。  この中で何があるのか、端的に言うと調べられる。老若男女例外なく、そいつに陰気が宿っているか、宿っているならどれだけ濃いか。  大概は、まず間違いなく白だろう。仮に運悪くそうじゃなくても、ほとんどは灰色に留まるはず。  だが、黒と判断されたら最悪死刑。いや、むしろそれで済んだら幸せと言うべきかもしれない。  なぜなら、黒すぎる者らは殺せないのだ。〈も〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  だから監視されて封印されて、要するに一生涯囚人の憂き目。自由も何もあったもんじゃない。  そんなのは、誰だって嫌だろう? 俺だって嫌だ。  ゆえに―― 「帰りてぇ……」  心底、俺はそう零していた。  こうしている間にも、何人もが脇をすり抜けて御門の家に入っていくけど、そりゃおまえらはいいだろうよ。言ったように、高濃度の陰が入ってる奴などそういない。  だが俺は、はっきり言ってやばいんだ。今まで田舎のシケた〈術屋〉《みかど》を相手にしてりゃあよかったから、何とか隠し通せていただけで……  この雰囲気、この霊気、やべえよ母ちゃん、ここにいる奴ホンマもんだよ。 「かといって、マジに帰ったら終わりだよな」  懐から手紙を取り出し、忌々しさに眉を顰める。  御門龍明――当代のご当主様から、じきじきにやって来いと言われたからには逃げられない。  田舎じゃしっかり隠していたのに、なんで今さら名指しを食らったのか分からないが、やっぱりバレていると見るべきだろうか。  いや、いやいや希望は捨てるな。俺の偽装は結構なもんだと自負している。  いくら三下同然の末端とはいえ、これまで御門の術師を〈誑〉《たぶら》かしてきたのは伊達じゃない。現に今このときだって、髪の色が少々特殊だからという理由以上で人目を引いてはいないはずだ。  これが汚染されている異形の証拠か、単に傾いた婆娑羅な趣味か、ぱっと見で判断することは出来ないだろう。本来、ある一定値を超えたら素人相手でも隠し通せなくなる陰気の濃さを、気付かれないようにするのが俺の特技なわけだから。  正確に量られたことも実際ないし、もしかしたら本当に大したことないかもしれないじゃん?  母ちゃんとか、祖父ちゃんとか、先祖代々やべえ領域だったりしたけれど。  そういう嫌な遺伝系譜も、そろそろ昇華される頃合だろうよ。そう思おうぜ。 「なあ――」 「え?」 「あ………」  脇を通り過ぎようとした何処かの誰かに同意を求めて、肩を思いっきり叩いちまった。  ズガンバガンドンガラガシャンと、派手な音を立てて名も知らぬ人が吹っ飛んでいく。 「うわ、やっべ…」  手加減、全然してなかったよ。 「えっと、その……死んでねえよな?」  ここで逝かれたら、流石に言い訳きかねえんだけども。 「あ、つ……うーん……」 「なんですか、いきなり、酷いじゃないですか……」 「――おおっ」  良かった。何とか無事だった。その様子に安堵しつつ、即座に駆け寄って頭を下げる。 「いやほんと、俺のために生きててくれてありがとう!」 「……は?」 「すみません、待ってください。何だか少し、混乱しちゃって」 「これって普通、謝るところのような気が……」 「へ? なんで?」 「なんでって、そりゃあ、僕はいきなり痛い思いをしたわけで」 「心配するな。俺は凄く幸せだ」  ゆえに何も問題はない。世界は今日も美しい。  そんな当たり前のことを言っているのに、目の前の優男はどうやら理解できなかったらしい。ほややんとした顔で首を傾げている。ちょっとトロいのかもしれない。 「まあ、なんだ。色々大変だろうけど、頑張って生きてくれよ」 「はあ……どうもありがとうございます」  なんだか哀れになってきたので、服の埃を払ってやる。その間も優男はぼーっとしていて、正直ふらふらと頼りない。  頭でも打ったのだろうか。いや、きっと天然ってやつなんだろうな。色んな意味でネジが緩い系統に見える。  正直、よくも今まで無事にやってこれたもんだよ。こんなんじゃ苦労することも多かったろうに。 「おまえ、あれだろ。お上りさんだろ。しかも超がつくド田舎から、やってきたばかりと見た」 「え、なんで分かるんですか?」 「そりゃあなあ……見てりゃもろバレっていうか」 「そんなおまえ、のんびりしてたら都でやっていけねえぞ。ここは村人十人とかいう、山ん中じゃねえんだからさ」 「なんだっけ、ほら、生き馬の目を抜くってやつだ。舐められないようにしゃんとしないと、目ん玉どころか〈命〉《タマ》抜かれるぞ」 「ははあ、なるほど」 「いや、おまえなあ……」  人が心配してやってるのに、こいつは変わらず呑気な様子で、感心なんかしてたりする。  言ってる意味が通じてんのか不安になったが、やがて何を得心したのか、にっこり笑って分かりましたと言ってきた。 「あなたも、お上りさんなんですね」 「む……」  ちょっと待て。なんでそうなる。  いや確かに、間違っちゃいねえけども。 「えーっと、つまり、僕と同じで、ずいぶん狭い世界にいたんだろうなって思いました。今まで関わってきた人の数は、どうせ十人そこらか、そんなもんだと」 「見たとこ地方豪族の末か何か、めちゃくちゃ零落しちゃったけれど、ド田舎じゃあよいしょされてきたってとこですか。端的に、いわゆる御山の大将ってやつじゃないかと」 「…………」 「違いましたか?」 「違うとか、違わないとか、そういう問題じゃなくてだな……」  そんな初対面で恐れ気もなく、にこにこ笑いながら毒を吐くなよ。まったくこれっぽちも悪気は無いのか、仲間ですね、などと言ってくる。  激しく調子の狂う奴だった。その態度に呆れながらも、しかし言うべきことは言っておく。 「御山の大将云々は、どうなんだろうな。俺も世間知らずなのは認めるが、井戸の中にいたのが蛙とは限んないだろ」 「もちろん、そんなつもりで言ったわけじゃないですよ。お気を悪くさせちゃいましたか?」 「別に。実際には蛙どころかアメンボかもしれねえしな」 「ははは、面白い人ですね。謙遜なんて、殿上人の雅なのかと思ってましたが」 「意外にいい血筋だったりするのでしょうか。だとしたら光栄ですよ、僕は〈壬生〉《みぶ》――」  言って、優男は俺のほうに手を差し伸べると―― 「〈壬生宗次郎〉《みぶそうじろう》――これもきっと何かの縁だ。よければお名前を聞かせてください。井戸に棲んでいたという龍の人」  その瞬間、首筋に氷刃を突きつけられたような気になった。 「……おい」  気のせい……ではないだろう。一瞬すぎて分からなかったし、今はただの和み系にしか見えないが、こいつは何か奇妙な奴だ。 「……おまえ、親戚にカラクリ人形でもいたりしないか?」 「どういう意味です?」  上手く言えないが、特定の条件に嵌れば特定の行動に移るみたいな、ある種歯車めいたものを感じる。さっきの悪寒は、それがカチっと嵌りかけた気配のようで……  平たく言えば、危ない匂いがするのだが…… 「いや、なんでもない。気にしないでくれ」  考えてみれば、別におかしなことじゃないだろう。  上京したてで、御門の本家に呼び出されるという同じ境遇。ならばその背景も、俺と似たようなものであるに違いない。  だから思わず、笑みがこぼれた。 「流石は秀真、華の都だ」  こんな変人にいきなり出会う。  その事実に嬉しくなって、差し出された手を取り、名乗った。 「俺は〈覇吐〉《はばき》――」 「〈坂上覇吐〉《さかがみはばき》だ。よろしくな、宗次郎」 「はい。よろしくです、覇吐さん」  いったいこいつのよろしくとは、どんなよろしくなのだろうか。  なんとも先行き怪しすぎるが、退屈だけはしないだろうと確信できた。 「ほっほ~う」  それはその、当座の運命共同体が得られたことの、安堵と言うか何と言うか。 「坂上覇吐に壬生宗次郎。確かにそう言ったな、おまえたち」  ここが何処で、俺たちそもそも何しに来て、これから何が待ち受けてるかって言やあ、そりゃつまり―― 「いつまでそんな所で突っ立っている。邪魔になるだろう、さっさと来んか!」  当然、御門の審判が待ってるわけだが、それはそうとさっきから、きんきんやかましいこの声、なんだよ。 「今夜は我々も忙しいのだ。つまらん手間を掛けさせるなよ、この〈虚〉《うつ》けども!」 「…………」 「…………」 「な、なんだその目は、反抗するのか? 私を誰だと思っている!」 「…………」 「…………」 「な、なんとか言わんかぁっ!」 「おい」 「はい」 「なんだこのチンチクリン」 「ち、チンチクリンだとぉぉっ!」  きしゃー、と髪の毛逆立てて、チンチクリンが絶叫した。 「き、き、きさ、貴様、貴様貴様貴様ぁぁ―――!」 「ようも言うたな、言いよったな! 言ってはならんことを言ったな貴様ぁぁ――!」 「まあ、落ち着きなさいよ」  どこから迷い込んできたのか知らないが、父ちゃん母ちゃんとはぐれたのだろうか。  だったらそう言えばいいものを、素直に迷子だと白状するのが恥ずかしい年頃ってことかもしれない。俺はとっておきの笑顔を浮かべて、この愛らしい生物を保護してやろうと考えた。 「お嬢ちゃん、声を掛けてもらったのは光栄だし、本来なら蕎麦の一つでもご馳走してやりたいところなんだが、俺は清く正しいスケベというのを信条にしている男なんだ」 「は、はあ?」 「うん、だからね、君はまだ何というか若いだろう。もちろんその上で魅力的だとは思うけど、大人の階段を上るには、親御さんを納得させなきゃいけないんだよ。でないとお互い不幸になる」 「そういうわけで、まずはお父さんかお母さんに報告をしてきなさい。そして許可を貰ってくるんだ」 「私、とっても素敵な殿方に出会ったから、彼と姫始めしてもいいかしらって」 「心配要らない。勇気を出そう。俺も一緒についていってあげるから」  と言い終えて、我ながら完璧な男前ぶりに陶酔する。ああ、どうして俺って奴は、こうも危険なほどに罪作りなのだろう。 「あの、覇吐さん?」  許可貰ってよし。駄目出されてよし。どう転ぼうが問題なし。これでこの子は大義名分のもとに親を捜せて、俺に惚れること間違いなし! 「すみません、聞いてますか?」  すなわち我が人生に、新たな伝説が刻まれる。坂上覇吐、上京したてで幼女を一人、虜にしたと――そんな達成感に痺れていたのに。 「覇吐さーん」 「うるせえなっ! ごちゃごちゃやかましいんだよ宗次郎!」 「いや、なんだかこの子、震えてますよ」 「あん?」  見れば、なるほどチンチクリンは、さらに身を縮めてぷるぷるしていた。 「えーっと、どうした? 便所か?」 「いきなり変なこと言われて、怖くなったんですよきっと」 「俺は変なことなんか言ってねえだろ」 「言ってましたよ。頭大丈夫ですか、あなたは」 「とにかく、このままほっとけないし、親を捜すか家まで送るか」 「おお、まあ、そりゃそうだ」  そんなの、言われなくてもそのつもりだったし。 「それで嬢ちゃん、聞こえてるか? 親が何処にいるのか分かんないなら、家まで送ってってやるから場所教えろよ」 「僕らもこの辺に詳しいわけじゃないですが、夜に子供の一人歩きは危険ですから気にしないでください」 「なあ」 「ほら」 「こ……」 「こ?」  こってなんだ? 俺に恋煩いか? 「こ……こ……」 「はい?」  小声で聞き取りにくかったので、宗次郎と一緒に耳を寄せた瞬間だった。 「私の家は、ここだ馬鹿者ぉぉぉ――――――ッ!」  のー、ものー、かものー。  素晴らしい山彦が頭蓋骨の中で木霊する。 「あっ、つ……」 「やばい、やばい、鼓膜やばい」 「貴様ら、貴様ら本当に、どこまでも私のことを舐め腐りおって!」 「家は何処だと? 親は何処だと? 虚け虚け大虚け! 私の家も、私の親も、天下に一つ、ここにしかない!」 「御門家、そして龍明の〈母刀自〉《おもとじ》殿だ! 分かったか、愚か者どもッ!」  怒髪天を衝きながら、反り返って吼え猛るチンチクリン。どこからそんな声が出るんだよという、大声量にもびびったが。 「え、あ、じゃあ、あなたは……」  先の言が本当なら、こいつが御門の世継ぎだと? 「ええええええええ、うっそおおおおおお」 「嘘ではない!」  今にも泣きそうな勢いで、チンチク……もとい、お嬢様はご立腹であらせられる。 「〈御門龍水〉《みかどりゅうすい》! 私の名だ! 覚えておけよ坂上覇吐、壬生宗次郎!」 「なんで俺らの名前知ってんだよ」 「貴様らが自分で名乗りあっておったのであろうがああああ!」  キレる。キレる。超沸騰してる。術屋ってのはもうちょっと、冷静沈着なもんじゃないのかよ。 「まあ、まあまあ、覇吐さん、あんまり刺激しないでくださいよ」 「それで、その、龍水さん? ご無礼はお詫びしますよ。僕らは――」 「分かっておるわ。陰気の査定に来たのであろう。面倒だから、この場で私がやってやる」 「へ? なに、おまえがやんの?」 「文句があるのか?」 「いや、ねえけども」  むしろ好都合と言えるかもしれない。こんなチンチクリンが相手なら、今まで同様、誤魔化せると思うし。 「そこに並べ」  言われた通り、その場に並ぶ。龍水は、そんな俺と宗次郎をじろじろと〈睨〉《ね》め上げてから、即座に一言、言ってのけた。 「黒い」 「はあ?」 「黒い、黒いぞおまえたち。いと歪んでおる。特に覇吐」 「呼び捨てかよ」 「おまえの陰気は洒落にならん。これまでは上手く誤魔化してきたのであろうが、御門を舐めるな。ぷんぷん匂うわ」 「ちょ――」  おまえそんな速攻で、人を病原菌みたいに言いやがって。 「それから宗次郎」 「は、はい」 「おまえは危うい。陰気はともかく、性根が崖っ淵に立っておる。そんなことでは、早晩歪みに呑まれるぞ」 「…………」 「とまあ、そういうことだ。感謝しろよ。等級は追って告知してやるゆえ、私について来るがいい」  威丈高にそう言って、踵を返し歩く龍水。  いや、いやいや、ちょっと待てよ。 「――おい」 「ん?」 「なんだよ今のは。あれで終わりか?」 「そうだ。疑うのか覇吐。私は嘘など言わないぞ」 「まだ未熟だが、仮にも母刀自殿から仕込まれた〈見鬼〉《けんき》だ――間違いなどない」 「じゃあ、僕たちはあれですか?」  困っていると言うよりは、感情の込もってない声で宗次郎が割って入った。 「ここで〈御門家〉《あなたがた》に拘束されると? そうするために、わざわざ本家まで呼び寄せたのですか?」 「……まあ、ついて来いって言ってるしなあ」  こりゃ、最悪の展開かもしれない。不本意だが、もうバックレるしかなさそうだ。  宗次郎がどうなのかは知らないが、俺は洒落にならんとまで言われた以上、どのみち愉快な結果にはならないだろう。  そんなこちらの意図を察したのか、龍水は嫌そうに手を振って鼻を鳴らした。 「早まるなよ。おまえたちをどうするかなど、私は知らん」 「そもそも、手紙を寄越したのは母刀自殿であろうがよ。ならば待つ運命が何であれ、会っていくのが筋というもの。違うか?」 「……それは確かに、そうですがね」 「要はおまえたちの男次第だ」  こまっしゃくれた感じに一笑し、挑発めいた口調で言ってくる。 「母刀自殿が怖いというなら逃げればよいさ。まだどうなるかも分からんのに、敵前逃亡した腰抜けよと、私がおまえたちの名を記憶するだけのこと」 「それで構わんのならな、好きにしろ」 「さあ、どうする?」 「このガキ……」  ずいぶん言ってくれるじゃねえか。ちょっと聞き捨てならないぞ、今の台詞は。 「なるほど」 「そうまで言われては立つ瀬がない。いいですよ、行きましょう。そもそも僕は、それほどでもないとのことですし」 「あなたはどうされますか、覇吐さん」 「俺は……」  そんなの、決まってる話だろう。  俺にとって、何より我慢ならんのは舐められることだ。自由を制限されるのも確かに嫌だが、そもそも自由ってのは天衣無縫であることだろう。  誰かに舐められ、侮られ、それでも構わんと達観するような境地に俺が求める自由はない。御門の当主だが何だか知らんが、ご要望なら正面から受けて立ってやろうじゃないか。  坂上覇吐は拘束不可能だと、天下に知らしめてやるにはちょうどいい。 「ああいいぜ。行ってやるよ。おまえの母ちゃんとやらを、俺の魅力でメロメロにしてやる」 「ほほう、言うたな。身のほど知らずが」 「あの、覇吐さん……そういう問題じゃないと僕は思うんですが」 「なんでもいいだろ。とにかく行くって言ってんだから、案内しろよ」 「相分かった。では参れ」  言って、俺たちを促す龍水。それに続こうと、一歩踏みだした時だった。  こんな見え見えの手に乗るなんて、安すぎるし軽すぎる。舐められるのは好きじゃないが、大局的に見ればここで引っかかるほうがショボいだろう。いわゆる手の平の上ってやつだ。 「誰が行くかよ。俺を手玉に取ろうなんざ十年早ぇぞチンチクリン」 「そういうのは、女の魔性を身に付けてからやってくれ。そんときゃ喜んで踊ってやるが、今のおまえじゃ駄目だ」  色っぺえ姉ちゃんだろうと、こまっしゃくれたガキだろうと、女全般は等しく好きだが、系統が違えば愛でかたも変わるのが当たり前だ。  少なくとも俺の辞書には、幼女すなわち弄り倒すべき者と書いてある。 「というわけで、俺は帰る。おまえは母ちゃんに説教されて、尻でも叩かれるのがお似合いだよ。さようなら」 「あ、待たんか――」  慌てて呼び止めてくる龍水を〈無視〉《シカト》して、踵を返した瞬間だった。  しゃん、と耳を震わす鈴の音。そして同時に、周囲から静かなどよめきの声があがる。 「これは……」  俺と宗次郎は驚いて息を呑み、龍水は舌打ちするように呻いていた。 「……やはり来おったか。傍迷惑な」  その目と言葉が向けられた先に、現れたのは……  〈牛車〉《ぎっしゃ》……それも殿上人が乗るような、華美で絢爛な〈檳榔毛〉《びろうげ》だ。こんな物は当然今まで見たことがないし、都生まれでも日常見る物じゃないだろう。  そんな別世界とでも言うべきモノが、門を潜って俺たちの前をゆっくりと横切っていく。  それに合わせて流れる冷気。地を這い広がるその気配に、背筋の毛がぞわぞわと逆立っていくのを自覚した。 「……下がれ、おまえたち。目も合わせるな、死ぬぞ」  抑えた声でそう告げる龍水は、隠しようもないほどに緊張していた。それは周囲の者らも同様で、水を打ったような静寂の中をある種の感情が満たしていく。  恐怖。嫌悪。忌避といった負の諸々。この場の連中は一人残らず、目の前の存在が何者なのかを理解していた。  俺とても、説明不要で感じ取る。そこは宗次郎も同じだろう。  たとえどれだけ鈍い者でも、この違和感に気付かないなど有り得ない。 「おい、ありゃなんだ。人間か?」  百鬼夜行――俺の目にはそうとしか映らなかった。  あまりに陰が強く濃すぎて、牛車の形すら歪んで見える。  供をしている男のほうも相当だが、何よりも尋常じゃないのは牛車の主だ。あの〈御簾〉《みす》の向こう、薄っぺらな幕の先に、どれだけの異常が座っていても何ら不思議はないだろう。  してみれば、金糸銀糸に彩られたその豪勢さも、どこか呪術的な結界を思わせた。牛は牛でこの寒空に、一切白い息を吐いていない。 「〈牛〉《あれ》は式ですか。命あるものは近づけないほどの歪みだと?」 「そうだ。しかもだいぶ低俗で〈人形〉《カラクリ》と変わらん。意志を持った高位の式では、逆に何が起こるか分からんからな」 「アレはそういう、因果を狂わす。聞いたことくらいあるだろう」  忌々しげに、畏怖を込めて、存在そのものを否定するかのように、龍水は言った。 「〈禍憑〉《まがつ》き――〈凶月〉《きょうげつ》一族だ」 「へえ……」  それに感嘆の吐息を漏らす宗次郎。 「そりゃまた……」  俺は俺で、思わず口笛のひとつも吹きたくなる。 「な、なんだおまえたち、分かっているのか? あれは凶月だぞ? 知らないのか?」 「いいえ、当然知っていますよ」 「有名だもんな。田舎もんの俺らでも知ってるほどに」 「ええ。〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈凶〉《 、》〈運〉《 、》〈に〉《 、》〈憑〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》」 「〈周〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈不〉《 、》〈幸〉《 、》〈を〉《 、》〈ば〉《 、》〈ら〉《 、》〈撒〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》、〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈残〉《 、》〈る〉《 、》」 「ふふ、ふふふふふ……」  楽しげに、本当に楽しげに笑う宗次郎。  なるほどやはりこいつはこういう奴で、俺の目に狂いはなかった。  そして凶月…… 「おまえたち……」  呆気に取られた様子の龍水だったが、そんなものは無視して思う。 「いいなあ、あれ。斬りたいなあ。絶対死なないだなんて、燃えるなあ」 「そうだよ、何が絶対だ」  この世に俺一人を除き、そんな概念許さねえよ。 「馬鹿じゃねえのか。目立ちすぎなんだよ、腹が立つぜ」  素直に、心からそう思うのを、止められようはずもなかった。 「チッ……」  自らに向けられる様々な感情に舌打ちして、男は盛大に眉を顰めた。 「虚けどもが、誰に喧嘩を売っていやがる」  久しく経験していなかった感覚だが、だからといってそれが愉快なものとは限らない。  慣れ親しんだ恐怖も嫌悪も、等しく鬱陶しい上に不快だが、遠巻きに忌避してくれる分にはまだ処しやすい。そういう消極的な感情なら、互いの領域を侵さない限り事態は不変だ。平たく言って無視できる。  しかし、積極的では困るのだ。凶月を恐れるにしろ嫌うにしろ、だから滅ぼせという論理展開は不都合を生む。そういう輩は速やかに、この手で殺してやらねばならないだろう。  それが自分の使命であると、男は思っているのだが…… 「うふふ、そう憤らずに。〈刑士郎〉《けいしろう》兄様」  御簾の向こうから、優しく窘めるようにそんな声。 「お気持ちは理解しますが、この場ではなりません。大事の前ではないですか」 「ああ、そんなことくらい分かってる」  だから目を合わせないのだと、凶月刑士郎は吐き捨てた。顔を見てしまったらその瞬間に、自分を抑えきれる自信がない。 「おまえのほうは、大事ないか〈咲耶〉《さくや》。遠慮はいらねえ。言ってみろ」 「そうですねえ。些か窮屈ではありますが、まずまず快適と言えますわ。都の雪景色すら見せていただくことも叶わぬのは、寂しい限りと思いますけど」 「外はどのような様子です?」 「変わらねえさ。中途半端で薄汚くて、薄っぺらだから嘘くせえ。率直に言って反吐が出る」 「また兄様は、そのような」 「手に入らぬものだからと、貶めて考えるのはよくありませんよ。届かぬ柿はきっと渋いと、自分に言い聞かせている子供のよう」 「我々が触れ得ぬ世界。ゆえに美しいのではないですか。咲耶の夢を壊さないでくださいまし」 「…………」 「兄様、もう一度窺います。外の様子は?」 「白い」  短く、端的すぎるほど簡単に、刑士郎はそう言った。 「それをおまえが良いと言うんならそうなんだろうさ。仮に違っても心配するな。俺がそのように変えてやる」 「都の雪景色、存分に見られるような世の中にな」 「はい。咲耶は兄様を信じております」  頷く気配を御簾の向こうから漂わせ、神州最大の歪みを宿す異能の少女――凶月咲耶は微笑したようだった。  常人の何者にも恐れられ、忌避されて、ただ一人孤立した異世界そのものであるにも拘らず、この少女に嘆きはない。  先ほど言った言葉通り、同族であり想い人である兄を信じているのだろう。境遇からは想像できないほど華やかに、娘らしく、しかし楚々とした慎みを持って、彼女は恋に生きていた。  己は兄を想うことが幸せなのだと、決定しており揺るがない。  その華やかさを維持したまま、小鳥が歌うように咲耶は言った。 「あらまあ、兄様、ご覧になって。先の物騒な御方たち、彼らも邸内に来るようですよ」 「分かっている。だがご覧になってはねえだろう。顔を見たら殺したくなると、ついさっき言ったはずだぞ」 「ああ、そうでしたね。困りましたね。広いお屋敷ですけれど、偶然行き当たったらどうしましょう。そこは龍明様のお計らいを期待するようにいたしましょうか」 「もともと野郎が呼んだ、野郎の家だ。起こったことは家主の責任ってのが筋だろうよ」 「本当に。ええ、そうするよりありませんわね。まあ、おそらく大丈夫でしょう」  牛車が邸内に入り、停止する。上がっていく御簾のほうへと刑士郎は手を伸ばし、現れた少女を優しく壊れ物のように抱き下ろした。 「あの方たちも、ここに呼ばれた理由は同じなのかもしれませんしね」 「しかしまあ、礼も趣もあったもんじゃねえな、これは」  御門家邸内の長い廊下を歩きつつ、刑士郎はそう零す。  彼らの前方、数間先には、拳大ほどの土か金属か分からぬ球が、ころころと転がっているのみだった。これが案内役ということらしい。  こんなものは式神ですらない。徹底的にただの無機物。おそらくは龍明という磁力に引きずられているだけなのだろう。 「てめえで呼び出しておいてこれかよ」 「仕方ありませんわよ。ここで女中の方など来られては、逆にわたくしが恐縮します。龍明様は龍明様なりに、気を遣ってくださったのだと思いますが」 「何にせよ、気に入らねえ。そもそもこの家は窮屈なんだ」 「まあ、そんな利かん気なこと。兄様は辛抱というものが足りません」  それは特級の禍憑きであり、歪み者の頂点と言える咲耶ならではの言い分であり感覚だった。  衣服や髪結い、爪の切り方から呼吸の仕方に至るまで、彼女はあらゆる面での呪的拘束を受けている。御門家邸内が、霊域として歪みを抑える場であることに刑士郎は堅苦しさを覚えているが、咲耶にとっては今さら大差ない変化なのだ。  血を凍らせるように常時強要された者が、氷室に入れられたところで何も感じないという理屈であろう。  そうした意味を読み取って、刑士郎は決まりの悪い顔になった。 「ああ、すまん。別に当て擦ってるわけじゃねえ」 「要は大袈裟だって言いたいんだよ。びびりすぎっつーか、逆効果っつーか」 「変に触るのが怖ぇなら、放っといてもらいたいんだがな。実際よ」  彼ら凶月――禍憑きとは、原則として身を守るために凶事を起こす。それが意図的であろうとなかろうと、発動するのは本人に危険が及んだときなのだ。  凶事の種類も、方向性も、起きてみなければ分からない。確実なのはその結果として、凶月だけが一切被害を受けないこと。  仮に刃物を持った暴漢に襲われても、刃は凶月に届かない。暴漢本人がしくじるか、あるいは別の誰かが妨害するか、それとも天災がいきなり起こるか。  何にしろ、〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈が〉《 、》〈不〉《 、》〈幸〉《 、》〈を〉《 、》〈被〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈事〉《 、》〈態〉《 、》〈は〉《 、》〈収〉《 、》〈ま〉《 、》〈る〉《 、》。  その際の悲惨さは、高位の禍憑きほど増していくのだ。咲耶ほどの凶月ならば、文字通り何が起こるか見当もつかない規模になるだろう。  そういう意味で、下手に触れるなという刑士郎の意見は正しいと言える。拘束が咲耶の重荷として一定値を超えてしまえば、それを排除する禍が発生してしまいかねない。 「仕方ありませんわよ。わたくしは兄様のように、機を選ぶことが出来ません」 「もともと臆病な性質ですし、虫を見ただけで卒倒するかもしれないでしょう? 客観的に見て、そんなわたくしが迷惑だというのは分かります」 「発動を抑えたいと思っているのは、〈凶月〉《われわれ》にとっても同じなわけですし」 「まあ、な……」  刑士郎は禍憑きが起きる機を制御できるが、咲耶はできない。ゆえに突発的な事態のため、基本封じておく必要がある。  それは公にとって当然の処置だろうが、凶運に守られている咲耶たちが大人しく従っている理由は別にある。  返し風――つまり不幸の帳尻合わせだ。 「俺だって、こんなもんは出来る限り使わねえよ。反動でおまえに何が飛んでいくか分からねえ」 「それはわたくしも同じです」  何が起ころうが守られるという凶月は、因果を確実に歪ませている。その不条理を埋めるため、無関係の誰かが被った分と同じ不幸が、別の凶月を直撃するのだ。  すなわち刑士郎が禍憑きを使った場合、咲耶を含めた一族の誰かがツケを支払う羽目になる。ある意味彼らは群体で、一蓮托生と言っていい。  ただ、唯一の例外として、咲耶の返し風は何処に吹くか分からない。まさに彼女はあらゆる意味で、歩く爆弾そのものなのだ。 「満天、日や月、星やそして雪の下、誰はばかりなく兄様と歩けるように……こんな力は消えてなくなったほうがよいのです」 「だからこその化外討伐。成さねばなりません。でなくばこの身の存在意義を世に示せぬから」 「龍明様は一筋縄でいかぬ御方ではありますが、そんな我々の立場を理解してもくれています。ですから兄様もよく弁えて、どうかご寛恕くださいますよう。短気を起こしてはなりませんよ」 「ふん……」  物柔らかに窘めてくる妹の言葉を心地良さ気に聞きながら、刑士郎は鼻で笑った。 「俺はそれほど虚けじゃねえよ。おまえの説教好きは何とかならねえもんなのか」 「なりません。これはわたくしの趣味ですから」 「不詳の妹を持ったものだと、どうか諦観してくださいまし。兄様を困らせるのが、咲耶はとても楽しいのです」 「ゆえにあとは、お分かりでしょう?」 「ああ……」  それきり二人は口を噤むと、無言のまま歩を進める。先導役の球が転がる音のみが、薄暗い廊下の中に響いていた。  そう、ころころと、ころころと、転がりながら進み行く。決まった道順を通らぬ限り、目的の場所へは決して辿り着けないとでも言うように。  だから今、この廊下は咲耶と刑士郎のために用意された〈径〉《みち》なのだろう。何せ術師の最高峰である御門の屋敷だ。門外漢の常識で推し量ってはいけない。  それだけに―― 「――おい」  立ち止まった刑士郎が口にしたのは、本来この場にあってはならぬ者への誰何だった。 「止まれよ、てめえ。それ以上近づくな」  見据える先は、ただの暗がり。そこには何もありなどしない。  だが刑士郎は一切気にせず、見えぬ何者かに語りかけた。 「聞いてただろう。妹は事を荒立てたくねえんだとさ。俺も出来れば従ってやりたい」 「だが、決めるのはてめえだよ。分かるな? 最後通牒ってやつだ」 「二度は言わねえ。出て来い」  静かながらも険を帯びたその言葉に、応えた者は……  女……それも二十歳そこらの、まだ少女と言って差し支えないような存在が、暗がりの中から浮き出るように現れた。 「ほぉ……」  刑士郎が低い感嘆の吐息を漏らす。野性的だがどこか品のある面立ちと、引き締まった長身の体躯はなかなか魅力的な美女だと言えるが、重要なのはそこではない。  強いて言うなら、匂いだろうか。何事においても、ある一定線を超えた者に共通する質の空気をこの女は纏っている。つまり端的に言って、只者ではない。  登場の仕方が充分すぎるほど異常であることを差し引いても、それは刑士郎をして感心せしめるほどのものだった。 「てめえ、どうやってここに来た?龍明の術も案外当てにならねえな」 「別に。私は隙間を抜けるのが得意なだけだよ。一応あの人に断りも入れたし」 「後学のためにね、この目で凶月ってのを見たかったんだ。怒らせたんなら、すまないね」  だから他意は何もないと、気安い口調で詫びる声には本気の親しみが込っている。それは先の行動を鑑みれば、刑士郎が激昂しても不思議でないような態度だろう。  龍明に断りを入れたとは言っていたが、邸内の陣は解かれていない。その上で術の隙間をすり抜けるとは、つまり予告した上で脱獄したに等しいのだ。  加え、姿そのものが視認できなくなるほど桁の外れた隠形の法――まさしく暗殺のためにだけあるような技能と言える。そんな技を揮いつつ接近しながら悪気はないと言い放つのは、いったいどういう神経なのか。 「ふふ、ふふふふ……」 「なるほどねえ、つまりあれかい。手加減したつもりだってか」 「値踏みされるのは好きじゃねえが、まあいいさ。俺らはお眼鏡に適ったかい?」 「そうだねえ。凶月なんて運頼みのつまんない奴らだとばかり思ってたから、嬉しい誤算って言えるかな」 「そういうわけで、ごめんってば。流石にこれ以上調子に乗ると、龍明さんが怒っちゃう。私、あの人を敵に回したくはないんだよ」  鉄格子は潜り抜けたが、〈邏卒〉《らそつ》までは出されていない。つまり自分の行動は、あるていど龍明が容認してくれたからこそ可能だったのだと、女は殊勝に笑っていた。 「続きはいずれね、出来るかもしれないし」 「――と、いうと」 「あなた様も、我々と同じ立場にあるのですか? 先ほど後学のためと仰っておられましたし、よければお名前をお聞かせください」 「わたくしは凶月咲耶。こちらは兄の刑士郎」 「〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》〈同〉《 、》〈志〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈方〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》――」 「うん。そうね。いずれは〈刎頚〉《ふんけい》の交わりってやつだ」  ほがらかに頷いて、女は刑士郎と咲耶を見る。  自分たちは生死を共にし、互いに首を切り落とそうとも後悔しない関係にいずれなると言いながら。 「私は〈玖錠〉《くじょう》――」 「〈玖錠紫織〉《くじょうしおり》だよ。よろしくね、凶月のお二人さん」  やはり気安く、気負いなく、己が何者なのかを名乗っていた。 「玖錠……」 「へえ、こりゃ珍しい」  実物を見るのは初めてだと、口笛でも吹きかねない調子で笑う刑士郎。咲耶はただ、素直な反応で驚いている。  なぜなら、その名が意味するところを知らぬ者はおそらく神州に存在しない。それは凶月の悪名とは対極をなす威名にして雷名だった。  九条大路から一条大路、これが都の正門から最奥の大内裏までに存在する横向きの大道であり、皇主陛下の御所を囲む壁である。  その一つ一つを不落とするもの。すなわち秀真と皇室そのものを守護する盾であり結界だ。  玖層からなる皇都の錠――  彼らはそうした任を帯びた一族で、名目上神州最強とされている。五つ竜胆のような将家の武は軍事力だが、玖錠はあくまで皇家の私兵。ゆえに個の技という意味であり、流派の強さと言い換えてもいい。  もっとも、そうした性質から表に出たことがほとんどなく、実在共々伝説視されているのが現状だ。玖錠が戦うのは皇室の危機に他ならないわけだから、おいそれと喧嘩を売ることも買うことも出来ない。  そうした存在が、いま目の前にいる。 刑士郎は愉快気に喉を鳴らした。 「面白ぇ。かび臭いただの噂だと思ってたが、どうやら実のある話だったみたいだな」 「そんなツチノコみたいに言われてもねえ。別に日頃潜伏してるわけじゃないから、いる所にはいるし出る所には出るよ」 「で、あれば紫織様、あなたは今このときが皇主陛下の危機であると仰るのですか?」 「そりゃそうでしょうよ、危機も危機。大事だ」 「異人、化外、そしてあんたらみたいな歪みの連中……私にだってちょっとそういうのが混じってるしね。陛下どころか神州の危機だよ。正直もうこの国は、いつぶっ壊れてもおかしくない」 「そのわりには嬉しそうだな。おおっぴらに暴れられるのが、堪らねえって顔してるぜ」 「まあ、それも否定はしないけど」  照れたように笑いながら、紫織は刑士郎の指摘を肯定しつつも、完全な正解ではないと暗に匂わす。 「あんた達にも色々あるでしょ。そこは私だって同じだよ」 「玖錠が出るってなれば五つ竜胆の連中が騒ぐだろうけど、それはそれでね。龍明さんには感謝もしてる」 「まだ会ってはいないけど、世継ぎの子と当たったら手加減してやってもいい」 「つまり――」  これまであえて誰も言わなかった事柄を、咲耶はこのとき口にした。 「あなたも御前試合に出られるのですね、紫織様」 「そうだよ。そっちは二人かい?」 「いいや、出るのは俺だけだ。こいつが出たら洒落にならんし、させねえよ」 「だろうねえ」  凶月咲耶は爆弾だ。触れれば何が起こるか分からない。  そうした事実を弁えた上で言葉にしない慎みは、彼女なりの礼儀だろう。代わりに紫織は静謐な声で、ある種の宣戦を布告した。 「来たる東征に先駆けて、神州の益荒男を募る撃剣の神楽――」 「玖錠降神流、玖錠紫織――〈皇家〉《すめらぎ》の代表として出させてもらうよ。あとは御門の代表と、竜胆紋の五家」 「さしずめ〈凶月〉《おれ》は、仮想化外か」 「そうだよ。だからあんたを斃した奴の主家が、おそらく東征の将になる」 「どこも目の色変えて狙ってくるから、気をつけたほうがいいね」 「ふん――」  ならば自分が勝ち抜いた場合はどうなるのか。無論のことそうする気だしそうなるだろうが、落とし所が剣呑になってきたのを自覚して、刑士郎は失笑した。  まあいい。どうあっても凶月を排さなければ収まりがつかないというのなら、皆殺しにしてやるまでである。それで東征そのものが瓦解しようと、知ったことではないのだ。  こちらを見つめる咲耶に対し、安心しろと目配せする。化外であろうと何であろうと、自分一人いれば斃しきれるという狂信にも似た自負があった。 「ではまたそのとき、ご武運を紫織様。わたくしはただの箱入りでございますが、戦場の〈慣〉《ならい》は弁えているつもりです」 「うん、そうだね。いいお姫様だよ咲耶。要は恨みっこなしってやつ」 「表であんたらに喧嘩売ったのが、どうも二人ほどいたようだけどさ。案外そいつらも御前試合に出るんじゃないかな」 「だったらその二人と刑士郎、三人全員と戦ってみたいもんだよ」  さらりと言った言葉に邪気はない。しかしだからといって、その目にお遊戯めいた親善の色は皆無だった。  きっとこの女はこういうノリで、何ら躊躇なく死合に臨む。 殺すことも殺されることも、覚悟という概念が入り込む余地すらない日常なのだ。  不敵な台詞を刑士郎が許容したのは、そういう在り方に自己と近しいものを感じたからだろう。紫織もそれを理解したのか、楽しげに言葉を継いだ。 「どうやら今、この屋敷にいる中で、あんたと龍明さんを除けばそれが全部みたいだからね、ちょっとおかしい域にいる奴は」 「いいえ」 「もうお一方、いらっしゃいます」 「……なに?」  咲耶が漏らした不意の否定に、紫織と刑士郎は訝しむ。どうやらそれは彼らにとって、認識の外だったらしい。 「もう一人ってな、誰だ?」 「もしかして、御門の世継ぎ? 言ったように会ってないけど、まだ修行中のチンチクリンだって聞いたんだけどな」 「それは、分かりませんけれど……」  注目されて照れたのか、困ったように視線を宙に彷徨わせつつ、ぽつぽつと歯切れ悪く咲耶は続けた。 「なんと申しますか、先ほどから、どこかに穴が空いているように思うのです。ゆえに男であるのか、女であるのか、そもそもこれは、人であるのか……確かなことは何も言えませんけれど」 「そうした御方が、おられます。そのことだけは、確かかと」 「ふーん?」  問い質すような紫織の目に、刑士郎はかぶりを振って溜息をついた。 「知らねえよ。だが嘘じゃないだろうしマジなんだろうさ。こいつのこういうところは図抜けてる」 「そう。じゃあ期待だけはしておこうか」  ――穴。  咲耶は歪みでなく穴と言った。  それは究極的に別種という意味ではないのか。世界という画布の上、異能が色彩を乱す染みだとしたら、穴とは画布そのものを穿つ概念。まったく存在が異なるものだと…… 「ま、ともかくそれはそれで、今日のところはもう帰るよ。家で弟に蕎麦でも作ってあげなきゃいけないし」 「よいお年を、お二人さん。来年もよろしくね」 「ええ、こちらこそと言いたいのですが……」  咲耶は刑士郎に向き直ると、やや途方に暮れた声で言った。 「どうしましょう、兄様。何時の間にか、案内役が何処にも見えなくなっています」 「あ……」 「げ……」  龍明の所へ案内するため、二人を先導していた球がない。おそらくここで話している間に、さっさと行ってしまったのだ。考えてみれば、ごく当たり前のことである。  目を逸らしてこの場を去ろうとする紫織を見咎め、刑士郎は怒号した。 「てめえこの馬鹿女、どうしてくれんだ責任取れ!」 「や、ややや、ちょい待ってよ。だってここは、普通空気読むとこでしょうよ」 「あれはただの球です」  ごもっとも極まりない。人でも式でもない物体に、そんな高尚な精神活動は不可能である。  にこりと可憐に微笑んでから、咲耶は言った。 「案内してください、紫織様」 「ええええーー」 「自業自得だ。諦めろ」 「そんなこと言われてもーーー」  単独で遁甲破りをした紫織だが、咲耶と刑士郎を連れてとなればそうもいかない。おそらく相当な時間を要することになるだろう。  してみればこの末路は、勝手な真似をした紫織に対する罰かもしれない。今夜複数の客を相手にする龍明にとって、来客の順を調整するという意味合いもあるのだろう。 「弟がお腹空かせて待ってるんだよおおーー」  果ての見えない廊下の闇に、紫織の嘆きが虚しく尾を引きながら呑まれていった。 「ふふ、ふふふふ、はははははは」 「はははは、ははははは、はははははははははは」  その様子を天眼で眺めつつ、ソレは腹を抱えて笑っていた。 「素晴らしいな、麗しいな。退屈せぬぞ、いと愉快なり」 「兄であり妹であり、姉であり弟か。なんともなんとも、滑稽よな。陰に塗れた身でありながら、その人がましさは愛しくさえある」  伽藍の屋上、高楼の端にある奇怪な棟飾りに身を預け、美麗の〈公達〉《きんだち》が謳うように眼下の者らを評していた。 「流石は〈秀真〉《ほつま》――華の都だ。奇人変人勢ぞろいときたものよ」  降り積もる雪の白さに相反し、闇を刳り貫いたかのごとき漆黒の〈狩衣〉《かりぎぬ》姿は、まるで人型をした奈落のよう。  なるほど、確かにこれは穴だ。咲耶が茫漠と感じ取っていた違和感とは、この男に他ならない。  手にした杯には〈満々〉《なみなみ》と黄酒が注がれ、それを浴びるように飲んでいる。強かな酔いに身を任せているようでいて、同時にどこまでも醒めたような……見る者にこそ酩酊感を与えかねない男だった。 「あなたがそんなことを仰っては、他の者らは立つ瀬がないでしょう、〈夜行〉《やこう》様」  そしてその脇には、侍従と思しき童子が一人。主とは対照的に謹厳な面持ちで、しかしずばりと思ったことを言ってのける。 「奇人変人……恐れながらこの私が知る限り、それはあなたのことだと存じます」 「そうか? なんだどうした〈丁禮〉《ていれい》よ。せっかくの晦日にその暗さ、〈爾子〉《にこ》が共におらぬので寂しいか」 「いいえ。ただ一つだけ忠言をお許しください。どうかご自重くださいますよう」 「あまり引っ掻き回されては、龍明殿の面目も立ちますまい」 「ああ、分かっておるさ。まだ何もせん」  くつくつと喉を鳴らし、夜行と呼ばれた男は意地悪げに目を細める。そしてふざけたことにそういう顔が、また息を呑むほどに麗しい。もはや存在の根本からして、他者を玩具にしか見れない者であるようだ。 「しかしおまえも酷いな丁禮。私に自重しろということは、つまり龍水を見殺しにしろということだろう」 「あれは死ぬぞ。運が悪ければの話だが、良いほうにも見えんからな。おまえは私を〈鰥〉《やもめ》にする気か」 「……そういうわけでは、ありませぬが」 「そこはまだ、龍明殿の領分ではないかと」 「確かにな。だがあの方に、そんな安い情が宿っているかと言われれば……」  もちろんのこと、否だろう。  そう言いつつ再度杯を傾けながら、夜行は芝居がかった口調で嘯いた。 「では、一つ占って進ぜようか。龍水、秀真、この神州の命運をば――」 「まず何よりも恐るるべきは、化外どもの怨念よ。かつてこの地を征しながら、無常にも奪われ、追われた敗残の蜘蛛」 「血涙が見える。憎悪が香る。怨嗟が聞こえる。ああ感じるぞ」 「無念なり。あな口惜しや。〈鏝〉《こて》で臓腑を焼かれるようじゃと、東の果てで哭いておるわ」 「うふふ、はははは、わはははははははははははは――――!」  同時に、神明な音色をもって除夜の鐘が鳴り響く。それに合わせて吟するように、夜行の〈呪歌〉《うた》が流れ出した。  それは既存のどんな術体系にも含まれない、ともすればこの場で彼が適当に口ずさんでいるとしか思えないものだった。  しかしにも拘らず、〈呪歌〉《うた》は雪を溶かし空を穿ち、咲耶が評した穴が密度を増していく。  主従はそのまま、そろって〈拍手〉《かしわで》を打ち合った。 「謹賀新年」 「さあ、吉凶は如何に?」  そして今、神州・秀真のみならず、この世に生ける総ての者にとって運命の年が幕を開けた。 「よく来た、坂上覇吐。おまえに頼みたいことがある」  これより、激動となる一年間の物語―― 「約束どおり、参りましたですの烏帽子殿。お心は決まりましたか?」  その始まりは、御前における死合をもって火蓋を切る。 「掛けまくも〈畏〉《かしこ》き〈吾〉《あ》が〈皇〉《すめらぎ》の大前に畏み〈白〉《もう》さく、御世、神州に化外有りて、〈月日佐麻弥〉《ひさむね》く〈病臥〉《やみとこ》せり、〈故是〉《かれここ》を以て益荒男に〈事議〉《ことはか》りて〈雖恐〉《これけど》」 「吾が皇の大前を〈斎〉《いつ》き〈奉〉《まつ》りて〈蒼生〉《あおひとくさ》を恵み給う」 「〈恩頼〉《みたまのふゆ》を乞い〈祈奉〉《のみまつ》らむとして、今日の〈吉日〉《よきひ》、〈吉時〉《よきとき》こそば、神州に〈礼代〉《いやしろ》の〈幣〉《みてぐら》を捧げ持ちて恐み恐み〈称辞竟〉《たたえごとお》え、奉らしむなり」  年が明けて十と五日が経った後、朗々と響き渡る祝詞と共にその時はやってきた。  待ち望んでいた者、厭うていた者、懸ける思惑と心情は様々だが、絶対に覆らない事実としてあるのは一つだけだ。  すなわち、本日この場をもって戦が始まる。歪んだ形ではあったものの三百年続いた太平が、物理的な意味をもって終わるのだ。  命を捧げる死合によって、以降始まる大戦を占う最初の流血。  してみれば先月より降り続いているこの雪も、天が纏わせた死装束ということかもしれない。 「浮かない顔ですな、烏帽子殿」  神楽の祭壇と化す御所の庭には、都の文武百官がそろっていた。上座に位置する殿上には皇主陛下が御簾向こうに座しており、その一段下には〈藩屏〉《はんぺい》たる竜胆紋の五大当主。  その中で沈思していた竜胆に、隣の男が落とした声音で話し掛けてきた。 「見ればなにやら、物憂げなご様子。この我に出来ることがあれば何なりと」  〈中院冷泉〉《なかのいんれいぜん》――五大竜胆紋の次席であり、家格においては久雅に劣らぬ大諸侯だ。いや現実的には、この男が武家の最大勢力と言って問題ない。  現当主が女であり、本来武門と相容れぬ御門と通じている今の久雅家は、明らかに求心力を失っている。五家筆頭の立場こそは維持しているが、半ばお飾りに近くなり始めているのが現状だ。 「御身に何かあっては意味がない。暮れからの寒気は厳しゅうございましたからな。もし体調が優れぬのならば――」 「よい。要らぬ心配だ冷泉殿」 「つまらぬことに心を砕かず、口を噤んでおられるがよい。今は祭事の最中だ。私語など不謹慎であろう」 「ああ、これは確かに。仰せの通り。相も変わらず猛々しいご気性、頼もしくあります」  そう言下に一蹴されていながらも、冷泉は気分を害した風もない。むしろ竜胆の反応を楽しむように、その横顔を眺めている。  私語も、慎む気はないようだった。 「あれは治病祈祷の祝詞でしたか」  死合の場となる御所の中央、雪に覆われてなお一層白さを増した庭に立ち、御門龍明が祈祷を謳いあげている。その声音は玲瓏にして厳格、たとえどのような病魔であれ払ってみせるという矜持のほどが窺えた。  神州に取り憑いた病を絶つ。すなわち化外を討伐し、人の世を揺るぎないものにするという大前提。国を滅びから救うため、〈皇〉《すめらぎ》のもとへ集うがいい益荒男よ――  平たく言えば、祝詞の内容はそういうものだ。東征に先駆ける神楽として、本日この場をもって戦端が開かれるという祝福にして激励。御門の当主による峻厳な〈命和利〉《みことわり》は、この手の祭事に疎い者でも引き込まれる清冽さを備えていた。  ――が、それだけに。 「酷い話ではありますな。つまるところ喜んで死ねと龍明殿は仰っている」  感じ入るどころか失笑を隠さずそう言ってのける冷泉は、確かにある種の肝が据わっていた。なるほど武家の男子なら、斯くあるべしと言えるかもしれない。  こんな〈祈祷〉《もの》は茶番であると、言外にだが断じている。これより命を懸けるのは、この場で戦う者たちだ。彼らの生にも死にも何もかも、物質的な意味以外が入り込む余地などない。  ただ強い者が勝ち、弱い者が負ける。畏まった儀式で神秘な雰囲気を作り出そうが、それ以上も以下もないのだ。その点、冷泉はよく弁えているのだろう。  高位の武家として〈公達〉《きんだち》めいた趣味も嗜む男だが、芯の部分は殺しを生業とする者である。ゆえに死と流血を殊更美化して捉えはしない。  これはそうしたものに耐性のない皇主や公達、いわゆる物の哀れとやらいう高貴な雅を好む者らへの演出である。それが証拠に龍明は、死ねというただ一言で済む話を無駄に仰々しく語っているのだ。これが茶番でなくてなんだと言うのか。 「まこと滑稽であることよ。そう思われぬか」 「こんなことをするくらいなら、一人一人に声を掛けていただきたいと我は思う。陛下ご自身が面と向かい、言えばよいのだ。死ねよと」 「そうしたほうが、幾らか気が利いているというものではありませんかな、烏帽子殿」 「…………」 「それとも御身、これはこれで風流であると? まあ我も否定はしませぬが――」 「いや」  無視を決め込もうと思ったが、放っておけば際限なく喋り続けるに違いない。すぐ間近に皇主陛下がおわすというのに、不敬を通り越した台詞が聞き捨てならぬということもある。  結局竜胆は、黙れという意味合いで会話に応じた。 「私も幾らかは同感だ。しかし冷泉殿、そこまでになされい。先も言ったが、場を弁えられるがよろしい」 「どだい我々のごとき武辺のみで、国体など立ち行かぬ。龍明殿も然りだが、この身はそれを回す歯車の一つだろう。ならばこそ、我を押し通すのみで事は成せん」 「己が事象の中心に立っている――などと思い上がらぬのが賢明だ」 「無論、それは御身に言われるまでもなく」 「ご気分を害されたのなら許されよ。我はただ、可能な限り〈兵〉《つわもの》どもを慰撫してやりたいと思っただけ」 「将たらば、それが当たり前の考えではありませんかな」 「であれば、なおのこと軽口は慎まれよ」  そう冷ややかに切って捨てる竜胆だが、心の中では〈忸怩〉《じくじ》たるものが渦巻いていた。  冷泉は、おそらく〈佳〉《い》い男なのだろう。些か洒脱がすぎるものの、見方を変えれば剛毅な性質と言えなくもない。  そして実際、彼は声望も高かった。知勇兼ね備えた中院の若当主は、宮中において不動の地位を確立している。先の不敬な発言など、仮に皇主陛下に聞かれたところで何ほどのこともあるまい。  天子とは玉であり権威だが、同時にそうでなければ生きられない人間でもあるのだから。早い話、力ある家臣を排斥することに利はないのだ。己は担がれてこそ輝けるのだと、陛下は弁えておられるだろう。  ゆえに冷泉は、皇室という威光に怖じない。この国の社会機構上、必要な道具であるという認識しか持っていない。己を取り巻く総てのものを、彼はそういう風に捉えている。その上で問題ないと認められている。  つまり、どこまでもらしい男なのだ。まともであると言い換えてもいい。  この国、この世界において至極真っ当かつ優秀な男……それが中院冷泉の客観的な評価であろう。しかしだからこそ、竜胆は吐き気を催すほどこの貴公子が嫌いだった。 「…………」  忸怩たる内心は、その嫌悪感が単なる嫉妬ではないのかという疑念。鬼子と呼ばれ鬼姫と呼ばれ、自分の扱いは珍獣だ。そうした己が、冷泉を妬んでいないと言い切れる根拠はない。  彼の求婚を拒み続ける理由が結局それなら、そこに大儀はなくなってしまう。よって見極めなければならないのだ。もう時間がない。 「掛けまくも畏き皇。此の〈状〉《さま》を平らけく安らけく聞こえし召して、御国が悩む病を速やかに直し給い、癒し給い、〈堅盤〉《かきわ》に〈常盤〉《ときわ》に命長く〈夜守日守〉《よもりひもり》に守り給い〈幸〉《さきわ》い給えと畏み畏みもうす」  祝詞が終わる。いよいよ血の神楽が幕を開ける。数瞬訪れた静寂の間、竜胆はこの死合の果てに何を得て何を失い、何にならねばならぬのか、意志を固めねばならなかった。  運命とやらいう曖昧な何がしかを受諾するわけではなく、自ら選び手に入れたと誇れるような……  断じて流されたわけではないと、胸を張って言えるような結果を求めて…… 「ふふん、始まりますぞ」  今、久雅竜胆は、東征戦争の狼煙をその目で見届ける。 「では御国の益荒男どもよ、出ませい!」  立ち上がった龍明が大喝し、出場者たちの入場を促す。同時に、御所は凍結したような緊張に包まれた。  益荒男たちの数は八名――それぞれ主家の威信を背負い、その剣として流血の代行を果たす。  竜胆紋の五家より五人、御門より一人と皇家より一人。  そして、仮想化外とも言える歪みの象徴が一人。  御前試合という武の祭典に、龍明が行司を務める理由は最後の一人を抑えるためだ。文武百官そろったこの場で、人外の技が炸裂しても被害を出さないよう立ち回ること。それが可能な者は御門の当主以外に有り得まい。 「ほう、あれが凶月……」  それぞれ控えの間から白幕を潜って現れた者たちの中、一際異彩を放っている男を見咎め、冷泉は低く呻いた。流石の彼も、声音に畏怖が混じっているのは無理からぬことだろう。 「なんという……」  なんという血臭、なんという歪み、そしてなんという凶念か。瘴気とも形容すべき暗い陽炎を纏いつかせ、その男は悠然と歩いてくる。  白蝋のごとき髪と肌の色からして一目瞭然。あれが異形の域まで汚染されている〈蛭子〉《ひるこ》なのは間違いなく、御所を恐怖が満たしていくのを竜胆は肌で感じ取っていた。 「これは些か、予想以上だ。陛下には厳しいのではありませんかな」 「だが、仕方ありますまい。これより我々が討とうというモノどもは、おそらくあの比ではない」  東から流れ込んできた陰気を数割宿しているというだけであの様だ。では純粋な化外とは如何ほどか、想像するだにおぞましい。  竜胆や冷泉を始めとする武家筆頭や、その他高位の武官たちは流石に耐えているものの、気の弱い文官たちは恐怖に気死しかけている。彼らも当然知っているのだ。  凶月を生き死にの場で戦わせるというのがどういうことか。その結果に何が予想されるのか。  いかに龍明が守るとはいえ、絶対に安全だという保障はない。まさにこの場はあらゆる意味で、総ての者にとっての死地となり得る。  そういう意味では、確かに公正な前哨戦と言えるかもしれない。彼ら凶月は仮想化外であると同時に、生きた爆弾として東征に組み込まれることが検討されているのだから。  アレを東の鬼どもに放り込んだらどうなるか――その試金石としてこの死合は、言うまでもなく重要な意味を持つだろう。 「汚らわしい下賎よな。見るに耐えぬわ」 「誠、この場に相応しくない者であることよ」 「誰があのような穢れを御前に招き入れたのやら」  不快さを隠しもせず、吐き捨てるようにそう言ったのは千種、岩倉、六条の当主たち。彼らは歪みを毛嫌いしており、東征には必要ないと断じている。  ゆえに、いっそこの場で何人か、アレの陰気に当てられて死ぬ者が出れば好都合。その事実をもって竜胆や冷泉、龍明のような層を軍権から遠ざけるつもりでいる。毒はあくまでも毒であり、別の毒を制せるのなら便利であるという柔軟さなど、彼らは欠片も持ち合わせない。  現実を見ず、理想の中に生きている。なるほど、夢見る乙女とはよく言ったものだと竜胆は思いながら、しかし〈面〉《おもて》には一切出さない。自分も彼らと、さほど変わらないかもしれないのだから。 「しかしまあ、他の者らは流石に勇壮でありますな。皆、中々に華がある」 「左様。それぞれ当代一の達者であると、音に聞こえた者ばかり」 「まずはお褒めいたそうか。太平の世に倦むことなく、これほどの士を育て上げていた各々方の手腕と見識を」 「然り、然り」 「誠、御国の精兵よ」 「猛々しくも、美々しくある。見られい。御門の代表など、まだあのような稚児ではないか」 「やれやれ……」  六条らが褒め合っているのは、互いの家中の者だけだ。それを横目にしながら呆れ果てたと言わんばかりに、冷泉は苦笑している。 「なにやら堪りませんな。男同士の〈阿〉《おもね》りというやつは」 「では先ほどから、御身が私にしているのは何だ」 「さて、一般に求愛と呼ばれるものであると、我は自覚しておりますが」 「痴れ言を」  そんなことを言っている場合ではない。六条らの会話は確かに呆れ返るものもあるが、現実に彼らの代行者として現れた者らは強壮だ。神州に知らぬ者はいないほどの名門流派、各々の家中で武芸指南役を務める達人たちである。  対して、笑う冷泉はどうなのか。中院の代表として現れた者は、あまりにも…… 「勝負を捨てられたのか、冷泉殿」  竜胆が抱いた印象と同じことを、岩倉が指摘していた。 「あれは何ぞ? まるで〈女子〉《おなご》ではありませぬか。御身はあのような者がこの死合を勝ち抜けるとでも?」 「さぁて。我はただ、面白き噂を耳にしたゆえ、あの者を呼び寄せたにすぎませぬ」 「面白きとは?」 「あの細腕で、我ら家中きっての武辺者らをどう相手取る?」 「まあそこはそれ。百聞は一見にしかず。我も楽しみでなりませぬ」 「そもそもからして、真の女子なら他にもいるではありませぬか」 「玖錠か……」  そう、緊張のためか、心なしか硬い面持ちを隠せない龍水の他にもう一人。  中院の代表であるという優男のすぐ隣、端正な女が瞑目したまま立っている。あれが玖錠であるということは、この場の皆が知っていた。 「伝説と言えば陳腐だが、玖錠の技をこの目で見られるとは眼福よ。さらに見た目麗しい女子ときては、期待せずにおれますまい」 「ふん……」 「せいぜい鍍金が剥がれねばよいがな」 「あれの最強など眉唾も甚だしかろう」  玖錠流は皇家の私兵。ゆえに彼女が勝ち残ることなど六条らは望んでいない。それは冷泉も同様だろう。  何を思って出場してきたのか知らないが、これは皇室にとって諸刃の選択ではないだろうか。まさか陛下ご自身が軍権を握ろうとしているとは思えぬものの、このような争いの場に玖錠が出れば、皆はその可能性を思い描く。  すなわち東征が成った後、否が応にも国際化していくだろう神州において、旧態依然とした武門の存在は不要であると。  陛下がそう考えておられるのなら、既得権を持つ五つ竜胆は警戒を禁じ得ない。殊に六条らのような守旧派は、そうした思いが強いだろう。  針の〈莚〉《むしろ》に晒されているはずなのに、しかし玖錠の女は何処吹く風だ。一切の気負いも硬さも見受けられない。ことによれば、これから何が起こるのか理解していないようにさえ見える。  霞のようだと、そんな彼女を見て竜胆は思った。ある種羨ましく思えるほどに、この玖錠は達観を友としている。 「しかし、それはともかくとして」  龍明の号令に従い、〈出〉《 、》〈揃〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈七〉《 、》〈名〉《 、》〈は〉《 、》〈膝〉《 、》〈を〉《 、》〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。これより御前に神楽を捧げると宣誓し、平伏して拝礼している。  そう、数が一人足りないのだ。 「どういうことですかな、烏帽子殿」  冷泉の問いは当然と言えるだろう。武門の長である久雅の代表だけがいない。 「放棄と見なしてよろしいか」  そう取られても仕方ない。そしてそれは、一つの事実を意味している。 「征夷の将の伴侶となること、ご了承頂けたのですな?」  つまり、我の嫁になるのだなと。 「言ったはずだ。私語は慎まれよ、冷泉殿」 「私は誰のものでもない。だが強いて言えば国のもので、その基となる民草のものだ。そしてこの身を預ける伴侶とは、真の益荒男に他ならん」 「御身がそうであると言うならば、それを示してくれればよい」 「ふむ……」  要領を得ない返答ではあったものの、冷泉は鷹揚に頷いて理解を示したようだった。 「ではそうさせて頂こう。何を考えておられるのか分からぬが、我は我の望むがままに」 「そうされるがよい。どうせ御身らはそんなことしか出来ぬ」  皮肉として機能しないことを分かった上で、竜胆はそう告げるのを止められなかった。 「益荒男など一人もおらぬわ」  ゆえに見ているがいい。続く言葉を胸の中で呟きつつ―― 「ではこれより、第一の比武を始める」  今ついに、血戦の火蓋が切られようとしていた。 「西方、皇主光明帝直属禁軍兵――玖錠降神流、玖錠紫織!」  その組み合わせは武道性を重視するため、当事者たちも名を呼ばれるまで分からない。それぞれの主が無作為に引いた〈籤〉《くじ》の結果を、この場で龍明が口にすることにより初めて知れる。  結果、第一番手から玖錠が出た。その事実に、居並ぶ者たちは驚きを禁じ得ない。 「さて……」  ならば対手となる者はいったい誰か。  この死合は全体として、皇主陛下と五大竜胆紋が良しと言うまで続行する。つまり一回戦で終了することも充分有り得、逆に最後の一人が残るまでの勝ち抜き戦と化すことも有り得るのだ。  そうしたことから、初戦となるこの勝負は重要な意味を持つ。神州最強、伝説の玖錠流――それを相手取るのは何者か。 「東方、〈雍州〉《ようしゅう》大納言、中院冷泉公が〈麾下〉《きか》の一―――」  ざわりと――その瞬間、場に緊張が走り抜けた。 「〈石上神道流〉《いそがみしんとうりゅう》、壬生宗次郎!」  そしてそれは、掛け値なしの戦慄と化して顕現する。 「―――――――」  竜胆には何が起きたのか分からない。 そこは他の者らも同様だろう。 「な、ん……」  あまりに突拍子がなさすぎて。あまりに理解の範疇を超えていて。  起こった事態を脳が認識するまでの間、無限に等しい数瞬を要したのだ。  当初竜胆は、その色彩を花吹雪と見紛った。いや、事実その通りなのかもしれない。  雪が、降り積もる白がみるみる真紅に染まっていく。それはまるで、舞い散る花弁。桜のようにはらはらと、牡丹のように頭を落として…… 「石上神道流、丙の第三――首飛ばしの〈颶風〉《かぜ》」  壬生宗次郎の一閃が、過剰なまでの流血をもって神楽の始まりを告げていた。 「馬鹿な……!」  有り得なさすぎて信じられない。  いったい何を考えて何をしている。  その暴挙と呼ぶもおこがましい蛮行に、千種、岩倉、六条らも呆然として声もない。なぜなら今、首を飛ばされたのは彼らの代表である三名なのだ。 「はッ―――、見事」  ただ一人、冷泉だけが愉快げに、手を打ち鳴らし喝采していた。 「天晴れよ、〈武士〉《もののふ》とはそうでなくてはならん!」 「開始の合図? 対戦相手? 知らぬ知らぬ聞こえぬ見えん!此処を何処だと心得ておる」 「〈戦場〉《いくさば》であろう。死に場所であろう。命を賭して武心を燃やす、晴れの舞台であろうがよ!」 「そうした場に立ちながら、油断だ卑怯だ笑止千万!〈呆〉《ぼ》けられたかお歴々、ならば〈疾〉《と》く思い出されるがよろしい」  常在戦場――それが武に生きる者の在り方だろうと、呵呵大笑して嘲る冷泉。ここにきて、ようやく正気を取り戻した六条らが激昂した。 「貴様、冷泉――!」 「見苦しい。弁えられよ、ご老体」  しかしそんな抗議の声も、この男には通じない。掴みかかってきた手を侮蔑も露わに払いながら、惨劇の場を指し示す。 「躱せぬほうが悪いのだ。それが証拠に、ほれ、見られるがよい」 「玖錠、凶月、あれらは生きているではないか」 「………ッ」  確かに冷泉の言う通り、二人は弾かれたように飛び退いて死の一閃を回避している。つまりこれはそういうことだ。 「御身らの代表は力が足りなかっただけのこと。弱かったのだ。ゆえに死ぬ。そこに言い訳は通用しない」 「それは……ッ」 「しかし……ッ」 「しかし、何ぞ?」  反論は不可能だ。躱せる者がいた以上、躱せなかった者らは劣っていた。覆しようのない事実である。  もとより死合。ならば順序が狂おうと結果は同じであると言う。その論法に異は挿めない。 「まあよいではありませぬか。これよりが真の見物」 「雑魚が淘汰された後、兵たるを見極めるのが我らの務めというものよ」  それきり六条らを一切無視し、冷泉は庭の中央に視線を戻す。楽しくて堪らないと、含み笑いを浮かべながら―― 「そうであろう、烏帽子殿」  竜胆は、これより先がさらなる修羅の場となることを予感した。 「あの者……」  壬生宗次郎と言っていたか。女のような細面と矮躯であるにも拘らず、一撃で三名の達者を斬り倒した武練の程――断じて尋常なものではない。  半眼に開いた瞳の色は静謐そのもの。凪いだ湖面のように茫洋と、秋風のごとく透明に、しかし緩く捧げ持った白刃は、紅の凶気に濡れている。  妖々と吹きつけてくる殺意の濃さに、竜胆は総身を締め上げられるような悪寒を覚えた。  アレは間違いなく違っている。壊れていると表現するのは、元がまともであった者だけだ。最初から何かがズレて生まれた者を、そのようには評せない。  ゆえに先の蛮行も、あの男自身の意志だろう。  冷泉は、奇妙な噂を聞いたと言った。  ならばそれを当てに呼び寄せて、好きなように振舞わせた結果がこれだと見るべき。下知を受けたわけでもなく、アレはそういうものなのだ。  剣鬼――強いて言うならその類。  思わず、竜胆の口から喘ぎにも似た声が漏れた。 「逃げろ、龍水……ッ」  おまえの手に負える相手ではないと、妹のような少女に呼びかけるが…… 「おかしいですねえ。なんであなた、生きてるんです?」  剣鬼は今、尻餅をついて放心している少女の顔を不思議そうに見下ろしていた。 「あなたが躱せるようなものじゃなかったはずだ。僕はそのように撃ちましたよ」 「無駄な剣は揮いたくない性分なんです。一生は短い。時間は有限なのだから、戦うに値する相手は選ばないといけません」 「でないと僕は、生きてるうちに夢を叶えることが出来なくなる」 「………ッ」  その口調もその顔も、過日出会ったときのまま変わらない。しかし全身から立ち昇る気の凄烈さは、もはや完全な別物だった。 「宗、次郎……」  これがこの優男の本性なのだ。剣に狂い、剣に生き、強者を斬殺することにしか興味がない鬼想の持ち主。  龍水がまだ幼いとさえ言える女子だから。曲がりなりにも知己だから。そんなことはまったく何の意味もないのだ。  そもそもこの場にいる以上、神州の益荒男という誉れを名目上授かっている。ならばもうそれだけで、宗次郎の斬殺対象になるのは避けられない事実だろう。 「僕が天下最強の剣士である。それを証明するためには、まずこの場の全員を殺さないといけませんよね」 「だから差し当たって、取るに足らない人たちを排除しようと思ったのですが……」 「龍水さん、あなたについてはどうも読み誤ったみたいです。こんなことは初めてだし、解せませんが、まあいいでしょう」 「流石は御門の世継ぎ殿、何かがあるということで」  凶剣がゆらりと泳ぐ。刹那のうちにそれは走り、少女をただの肉塊へと変えしまうに違いない。 「次はそれなりに、気を入れていきます。抵抗はご自由に、どうせ意味はありませんから」 「しょせん女性などというものは、弱すぎて話にならない生き物でしょう」 「――――――」  瞬間―― 「―――おい」 「今、なんて言ったのよ、あんた」  爆発に等しい轟音と共に、御所を揺るがしたのは踏み込みで発生した衝撃だった。比喩ではなくそれだけで、地震が起きたのかとこの場の全員が錯覚したほどの体術である。 「女が? 弱い? それは私も含めて言ってるわけ?」  玖錠紫織――割って入った彼女の一撃が宗次郎を吹き飛ばしていた。先の踏み込みが地震なら、続く拳は落雷だったと言うしかない。その速度もその威力も、常人が理解できる域を遥かに超えて余りある。 「あんたの相手は私だろう。何を一人で勝手に〈羨〉《 、》〈ま〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈さ〉《 、》」 「そっちがその気なら、別にいいんだよ。ぐちゃぐちゃに始めちゃってもさあ」 「その通りだ」 「すまねえな龍明。ムカついたぜ、少し本気出す」 「舐め腐りやがってクソガキが。上等だよブチ殺してやらあァッ!」  怒号に先立ち、庭の四方に撃ち込まれたのは鉄杭と形容できるほど巨大な苦無だ。それはこの場における地脈を絶ち、限定した領域内の自然を殺した。  その効果は術封じ。すなわち結界破壊に他ならない。外に被害が及ばぬよう、龍明が張り巡らせていた鎖を消失させたのだ。  これによって刑士郎は、曰く窮屈な思いをせずに戦える。ことによれば、禍憑きを発生させる気かもしれない。 「まったく、この問題児ども……」  しかし、そんな場にあってなお、龍明はどこか楽しげに苦笑していた。やれやれと溜息さえつきながら、まるでうっかり茶を零したという程度の反応しかしていない。  そのまま周囲を見回して、騒然となっている百官を窘めるように言葉を継いだ。 「ああ、落ち着かれよお歴々。逃げるのは猛獣を刺激するようなものだから逆に危ない」 「遺憾だが、これもまたいい機会と思われよ。我々が成すべき東征とは、いったいどれほどのものなのか。その熱量を直に感じ取ってみるのも悪くない経験だろう」 「どだい机上の空論では、戦場など理解できはしないのだからな」  ゆえに等しく命を懸けて見守れと、慇懃無礼に言い放つ。皆の安全を確保するという職務を放棄した言動だが、誰もそこに文句は言えない。言えるような状況ではないのだ。  はたして周囲は、衝撃による〈騒擾〉《そうじょう》から恐怖による静寂へと移り行く。それをゆるりと見届けて、龍明は己が娘へと目を向けた。 「さあ、立ち上がれよ龍水。何をだらしなく呆けている」 「再び結界を張り直すのに、私は少々時間を取られる。おまえがやるべきことはその間、馬鹿どもの暴発を防ぐことだ。出来るだろう?」 「頼むから、失望させないでくれよ、我が娘」 「………ッ」  だが、それに応えようとした龍水より早く―― 「痛いなぁ……」  茫とした、しかし血も凍るような声が響く。  紫織に殴り飛ばされて大の字になっていた宗次郎が、むくりと上体を起こしたのだ。 「おかしな技を使いますね。確かに躱したと思った刹那、まったく別の方向から見えない拳打が飛んできた」 「うふ、ふははは……凄い、本当に凄いなあ。自分が何をされたか分からない。こんなことがあるなんて」  掛け値なしに感動したと、武者震いに痺れながら立ち上がる宗次郎。彼が言った言葉の意味を、理解した者がはたしてこの場に何人いたのか。  先の攻撃、紫織が踏み込んだのは宗次郎の右後方で、繰り出したのは何の変哲もない直突きだ。  しかし、にも拘らず〈宗〉《 、》〈次〉《 、》〈郎〉《 、》〈は〉《 、》〈真〉《 、》〈後〉《 、》〈ろ〉《 、》〈に〉《 、》〈飛〉《 、》〈ば〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。まるで真正面から殴られたとでも言わんばかりに。 「遁甲……ではないですよね。もちろん錯覚でも有り得ない。だってどちらにも気配があったし、どちらにも実体があった」 「あなたは、腕が五・六本でもあるんですか。玖錠の……ええっと」 「紫織だよ」  快活に応える声は、だが同時に掠れてもいた。どうやらこちらも、武者震いに痺れているらしい。 「怖いね、あんた。おっかない。二発目まで躱そうとした奴なんか初めて見た」 「しかも……」  そのとき、前方に構えたままであった右の拳……そこから微かに血が滴った。 「私の身体に触れるなんて」  それがさも有り得ないことであるかのように、紫織は宗次郎へ畏怖と称賛の意を送っている。 「理屈じゃないんだけどなあ、私のコレは」 「それを破るってことは、つまりあんたも同類なわけだ」  遁甲――すなわち空間を捻って繋げたわけではないと、宗次郎は推察した。そしておそらく、その通りだろう。  入り口と出口を設けた上で距離を縮め、もしくは広げ、またあるいは角度を狂わす。それが遁甲と呼ばれる技術であり、御門の屋敷に張ってあったものがその典型だ。  これを戦闘に応用するなら、拳や剣を穴に潜らせ、別の場所から吐き出させること。つまり空間的な晦ましによる死角攻撃に他ならない。  避けたと思ったのに別の方向から殴られた――宗次郎が評した紫織の技は、そこだけ見れば遁甲に極めて似ている。だが違うのだ。  なぜならどちらにも気配があり、実体があったと彼は言う。それは二連撃を意味するもので、事実紫織も二発目という言葉を口にした。  遁甲ならば、どれだけ機や角度が面妖だろうと一発は一発だ。しょせん晦ましである以上、最初の軌道は虚にすぎない。むしろ使うと見破られれば、そこに殺傷力はないのだから特攻されると不利になる。  虚と実。武道の基本だが、それも一対一において手数を増やす苦肉の策と言っていい。兵法上、多勢で無勢を押し潰すのが必勝の型であるのだから、もっとも恐ろしいのは総てが実。  すなわち、たった一人による同時多角攻撃だ。腕が五本も六本もある者ならば、その不条理を実現できる。  無論、紫織の技が本当にそうであるならの話だが。 「――ふん」 「虚けが、だから何だってんだ。知るかよ、てめえらのシケた歪みの種明かしなんぞよォ」 「〈凶月〉《おれ》に攻撃しかけるような奴は生かしちゃおけねえ。見逃せねえんだよ、立場上なあ」  膨れ上がる凶猛な怒気と殺意。その奔流に晒されながら、紫織は困ったように苦笑した。 「あんた意外と可愛い奴だね、刑士郎。そんなに咲耶が大事かい?」 「あの子に害が及ぶかもしれない未来は、欠片も許せないっていうわけだ」 「でもね――」  再度大地を踏み鳴らす衝撃を轟かせ、視認できるほどの闘気が爆ぜる。  神州最強と謳われた玖錠の武威は、決して偽りの看板ではないのだと。  その激しさとは対照的に、どこまでも気楽な調子で―― 「知らないよ、バーカ。文句あるなら掛かっといで」  いったい何処の風習なのか、悪戯っぽく中指を立てて嘯いた。 「ほらこれで、私も〈凶月〉《あんた》の敵ってわけだ」 「――面白ぇ!」  怒声一喝。こちらも地を陥没させる勢いで蹴り上げると、五間の距離をただの一足で詰めて来る。  その所業は、体捌きを練り上げた縮地と呼ばれる技術に非ず。高濃度の陰気によって、人の埒外へと身体能力を変容させた法則外の運動だ。  凶月を代表とする高位の歪みは、己を一つの異世界へと変えている。ゆえに骨格や筋量がどうだのという理屈や常識など受け付けない。  まさに超常強化と呼べるだろう。それは五感総てに及んでおり、ならば無論言うまでもなく―― 「横取りはやめてくださいよ、彼女は僕の獲物です」  こちらは縮地で踏み込んできた宗次郎の一閃を、高速疾走中にも拘らず視認もしないで躱していた。 「抜かしやがれ、おとぼけ野郎。それをぶっ壊した張本人がよく言うぜ」 「ああ、そう言えばそうですね。じゃあこうしましょう。二人まとめて遊んであげます」 「最初に斬られたいのはどっちですか?」 「クハッ―――」 「あっはっは」 「ん? 僕は何かおかしなことを言ったでしょうか」 「いい冗談だ」  同時に、風を巻いて刑士郎の裏拳が走る。 「てゆーかあんたら隙だらけすぎ」  呆れ気味な口調とは裏腹に苛烈極まる紫織の蹴りが、なぜか一発で二人の男を左右対称に弾き飛ばす。 「こらァ……」 「ちょっと洒落にならないですね。一度ならず二度までも」  紅蓮に燃える刑士郎の目と、深く静かに凍っていく宗次郎の目。  まったく正反対でありながら、ほぼ同量かつ同等に剣呑な殺意を浴びて、紫織は晴れやかに破顔した。 「わーお、私ってモテモテぇ」  事実それは彼女にとって、素晴らしく魅力的な色男からの求愛と同じ意味を持つのだろう。 「優しくしてね。まだ殿方を知らないの」 「そりゃいいこった」 「じゃあ穴だらけにしてあげましょう」  にこやかに、涼やかに、滾るように――三者三様の態ながら、その目は等しく他者の絶命を見据えている。  小手調べはこれで終わった。今より本気の勝負が始まる。  現状、紫織の怪能力が一手先んじているように見えるが、宗次郎はまだ真価の片鱗すら見せていない。まして刑士郎が禍憑きを発生させれば、あらゆる意味で何が起こるか分からないのだ。〈趨勢〉《すうせい》は誰にも読めない。  ゆえに、この均衡を崩す要素があるとすれば…… 「母刀自殿……」  今ようやく立ち上がり、自分のことなど忘れているかのような三人を見る御門龍水。  当初、宗次郎は彼女を取るに足らないものだと断じた。しかしその一閃は、なぜか龍水の命に届いていない。  単に仕損じたわけではないだろう。剣鬼の牙は凶悪なだけに精妙で、そうした狂いと無縁である。  では、なぜ? 「竜胆様……」  母と、そして姉のような女性へと、自らが絶対の敬意を抱く二人に向けて少女は頷く。 「大丈夫です。私とて」  この場にこうして立った以上、覚悟は決めているのだと。 「私とて、そう易々と終わるほど簡単ではありません」  印を結ぶ。そして流れるように指が動き、術の形を組み上げていく。  龍明は暴発を防げと言った。ならばまず前提として、今まさに荒れ狂おうとしている歪みそのものを抑えねばならない。  本来まったく別の法則下にある力とはいえ、人の身体に宿っているのだからこちらの理も通じ得る。要は彼らの人間部分に訴えればいい話だ。  そのためにこの場の何を利用するかは、考えるまでもなく決まっていた。 「私は龍水」  龍とは〈蛟〉《こう》――流れる水の化身である。  降り積もる雪の総て、水氣なら腐るほど溢れているのだ。 「チンチクリンではないぞ、御門の世継ぎだ」 「少しばかり年長だからと、舐めるなよこの虚けども!」  術の発動に伴い瞑想へと入るその刹那、些細な邪念が胸を焦がす。  そういうところが未熟なのだと言われるだろうが、それは彼女にとって必要不可欠なものだった。 「夜行様……」  どうか私を見てください。  龍水は、あなたに相応しい女になってみせます。  ――と、祈って誓う恋心。  彼こそ天下最高の男であると、勝手に決めている自分の法則に順ずることだ。 「あー、あー、あー」  そんな眼下の展開を眺めながら、呑気に間延びした声が流れる。 「危ないですの。やばいですの。龍水このままじゃ死んじゃうですの」 「ねえ夜行様、いいんですの? 無視するですの? ほんとに手助けしないんですの?」 「ああ、そう言っただろう。何もせんよ。あれもそれを望んでいる」 「むぅ~~~」  ごろごろと唸りながら、納得いかなげに首を捻っているのは犬だった。  いや、これは本当に犬なのか? 「夜行様は、悪ですの」 「ははははは、そうかそうか。私は悪か。爾子は今日も今日とて愉快よな」  爾子と呼ばれたそのモノは、白くむくむくとした仔犬に見える。だが比率を間違っているとしか思えない。  巨大な頭、短い脚、太く寸胴な体格は、確かに仔犬のそれである。しかし全体として牛ほどもあるとすればどうだろう。  言わば、十倍に拡大した仔犬だった。無論そんな生き物は自然界に存在しないし、そもそも犬は人語で悪態など吐きはしない。  見る者を和ませるような容姿だが、これは紛れもない異形のモノ。常とは違う条理で在る、神秘と幻想の具現なのだ。 「丁禮、丁禮、ちょっとそっちからも言うですの。夜行様は今日も外道で、爾子はやってられないですの」 「無駄だよ。意味がないから諦めたほうがいい」  水を向けられた童子は落ち着き払い、犬とは対照的な静けさで首を横に振っている。 「そもそも爾子、君だって本当は龍水殿を案じているわけじゃないだろう。単に夜行様を絡ませたほうが、より面白くなりそうだから。違うかい?」 「あれ、なんで分かったんですの?」 「……君の考えていることくらい当たり前に分かる」  日頃から相当苦労しているのだろう。童子が吐いた溜息には、疲れと諦観が滲み出ていた。 「しかし、とはいえ夜行様。私も正直これはどうかと思います」 「先日は龍明殿の領分と思い、自重を求めたわけですが……恥ずかしながら私の見込み違いでした。このままでは本当に殺されます」 「龍水殿を軽く見ているわけではありません。年齢と経験を考慮すれば、現状の実力でも大したもの。御門の世継ぎに相応しい才の持ち主であると言えるでしょう」 「ただ、あの三人は違いすぎます。武も、歪みも、そしてその精神性も……」 「いくらか健闘できたとしても、今はまだ荷が重い。割って入れば……」 「ぐちゃぐちゃばらばらどっかーん、ですの!」 「爾子、頼むから黙っていてくれるかい」 「うぅ~、丁禮が冷たいですのぉ……」  前足で瓦をぺしぺし叩きながら、爾子は拗ねたように愚痴っている。 「そもそもからして、あれですのよ。最初から夜行様が出場してれば何の問題も無かったですのに」 「そりゃあ龍水は世継ぎだけれど、御門の最強は夜行様に決まってますのよ。ぶっちぎりの、敵無しの、他とは変態的なほど差があるですの」 「だからそうしてさえいればこんなことにはならなかったし、他の連中に舐められることもなかったですの。御門の代表はチンチクリ~ン、ぷぷぷーなんて誰にも笑われなかったですのよ」 「それは言ってもしょうがないだろう。夜行様がこんな催しに出るわけがない。そこは龍明殿も分かっている」 「丁禮、ちょっとさっきからなんなんですの。意味がないから諦めろとか言っておいて、自分も夜行様を説得しようとしてるのは変ですの。矛盾ですの」 「私は別に説得しようとなどしていない」 「ふにゃ、ていうと?」 「つまり――」  丁禮は、先ほどからにやにや笑って二童子の言い合いを眺めている夜行のほうへと向き直った。 「ただ、許しを頂きたく思うのです。私があの場へ参ずることへの」 「すでに御前試合の体裁などないも同然。仮に何か言われようと、私の助勢は龍水殿の立場と人望に起因するもの。ならばそれも、彼女の力と言えるでしょう」 「なるほど。まあ確かにそうかも」 「だけど丁禮、どうしてそんなに龍水の味方をしようとするですの?」 「決まっている。龍水殿は夜行様の許婚だ」  ゆえに助けるのは当たり前のことだろうと、眼光鋭く言い放つ。 「我々にとって、未来の母御となる方ならば」 「はにゃあ、どうでもいいけど貧相な母様ですのね~」 「どうか夜行様、お許しを――」  と、懇願する丁禮に。 「ならぬ」  夜行は変わらぬ笑みを湛えて、無情にそれを切って捨てた。 「私は何もせぬと言った。つまりおまえたちもしてはならぬのだ、丁禮よ。履き違えてはいけないな」 「その身は私と同体ゆえに、切り離して扱う気は微塵もない。ああ実のところ本音を言えば、困るおまえが愛らしくて堪らないのだ。げに甘露だよ」 「変態! 変態! あんたどうしようもないド変態ですの!」 「しかし、このままでは龍水殿が――」 「死ぬるなら、あの者らは皆そうよ」 「え?」 「はい?」  それは彼らが全員相討つということなのか、もしくは別の意味があるのか。放心する童子たちの疑問も視線も置き去りにして、夜行の瞳はぎらぎらと、ぎらぎらと輝きながら眼下の御所を見下ろしている。  まるでそう、天上の視界を持つ者のように。 「〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》」 「うふふ、ふふふふふ、はははははははははははは」  そして初めは呻くように、次第に轟き爆発していく哄笑が、〈秀真〉《みやこ》の空を揺るがしながら溶けていく。  俗に天狗笑というものがあり、まさにこれこそがそうだと言える享楽の塊めいた笑い声。  それに合わせて、ぼう、ぼう、ぼうと、周囲に獣面の田楽者らが浮き出てきた。これも夜行の〈僕〉《しもべ》であるに違いない。  彼らが歌う。舞って踊る。 狂想的な曲調で、神楽を礼賛するかように。 「心配無用だ。なるようになる。龍明殿は何かと気の利く御方だよ」 「彼女がああしておられるから、私はおまえたちと戯れ続けることが出来るのだからな」 「感謝して、ほら歌うがいい。龍水を激励してやろうではないか」 「ああ、案ずるなよ――〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈さ〉《 、》!」  酔い始めた、あるいは覚醒し始めた主に何を言っても無駄だと悟っているのだろう。爾子と丁禮は言われた通り、田楽者の中に混じって歌いだした。  曰く、このままいけば全員死ぬという戦いの場を見下ろして。 「〈天〉《あめ》切る、〈地〉《つち》切る、八方切る。天に〈八偉〉《やちがい》、地に十の〈文字〉《ふみ》――」 「ふっ切って放つ、さんびらり」  そこに何が起こるのかを見届けるべく、そろって拍手を打ち唱和した。 「よおおおぉぉ、――はッ!」 「今さらに雪降らめやも〈陽炎〉《かぎろい》の燃ゆる春へと成りにしものを――」 「〈唵〉《おん》・〈摩利支曳〉《まりしえい》〈娑婆訶〉《そわか》――」  それはある種の瞬間自己催眠を意味するのか、唱え終わるのとほぼ同時に紫織の気が変質していく。  猛烈に、だが曖昧に、存在そのものがズレるような。まるで陽炎か〈蜃〉《しん》の夢。  二重、三重、四重、五重――際限なくぶれて重なっていく彼女のどれが本体なのか分からない。否、もしかしたら、総てが本体なのではないだろうか。  多重身――これまでの技を鑑みても、玖錠の秘伝はおそらくそれに違いあるまい。だが紫織は歪みを宿している。  ただの分身とは根本から異なる何がしか……未だその正体は不明だが、間違いなくこれより明らかとなるだろう。そう断言できるほど、ここは苛烈な死地と化していた。  それが証拠に―― 「〈如医善方便〉《にょいぜんほうべん》、〈為治狂子故〉《いじおうしこ》、〈顛狂荒乱〉《てんおうこうらん》、〈作大正念〉《さくだいしょうねん》」 「〈心墜醍悟〉《しんついしょうご》、〈是人意清浄〉《ぜにんいしょうじょう》、〈明利無穢濁〉《みょうりむえじょく》、〈欲令衆生〉《よくりょうしゅうじょう》、〈使得清浄〉《しとくせいじょう》」 「〈諸余怨敵皆悉摧滅〉《しょよおんてきかいしつざいめつ》――」  いま宗次郎が口にしたのは、狂気を正気に変ずる祈念である。無論のことその意図は、自身の鬼想を当たり前の常識であると正当化することに他ならない。  その上で、皆悉く敵を滅すと宣言した。彼にこの場の敵を生かして帰すつもりは毛頭ない。  剣が揺らぐ。〈鬼哭啾啾〉《きこくしゅうしゅう》と刃鳴りを起こす。それは清澄な風のようでありながら、斬人の鎌鼬を発生させる前奏なのだ。およそ獣性とは無縁の冷涼たる血嵐こそ、壬生宗次郎の本領と言って構わない。 「アホか」  そしてだからこそ、この場の刑士郎は完全に異質だった。全力全霊の戦いに際し、言わば識域を切り替えた紫織と宗次郎の変質を、何かの茶番であるかのように鼻で笑う。 「いちいちぶつぶつと面倒くせえ。寒い演出で格好つけなきゃ殺し合いも出来ねえか」 「大変だよなあ、兎ってのはよ」  口調に哀れみさえ混ぜながら、侮蔑も露わに言ってのける。自分に〈儀式〉《そんなもの》は必要ない。生来の虎を自認しているからこそ、雰囲気作りや自己催眠で変身しなければ戦えない人種を軽蔑しているのだろう。 「さぁて……」  全身の筋肉が蠕動する。今、彼の体内でどのようなことが起こっているかは誰にも理解できないはずだ。  骨の形、筋密度、内臓の位置や経絡に至るまで、常人とは隔絶した異界の法則に則る活性は、運動において力学の限界に囚われない。  低く構えた前傾姿勢で一瞬身をたわめると、地を抉る加速の第一歩を踏みだした。 「――いくぜェッ!」  その疾走は蛇のように、野獣のように、本来両立しない二つの属性を兼ね備えている。すなわち、滑るように跳ねているのだ。  大和人の平均を大きく上回る体躯でありながら、刑士郎の全身は子供の股下さえ潜れるほどの低空に収まっている。つまり、成人から見れば膝より下。  地を這う跳躍と言えば矛盾して聞こえるが、他に表現のしようがなかった。  それが向かう先は、言うまでもない。 「―――――」  先ほど、紫織に一発もらったことを刑士郎は覚えていた。彼の気性を考慮すれば、まずはその意趣返しを優先するのがごく当たり前の選択である。  ゆえに迎え撃つ玖錠流。とはいえ迫り来る敵の位置は膝より低く、かつ速い。刑士郎の身体能力を鑑みれば、回避を選ぶのは論外だろう。間違いなく瞬時に方向を切り替えて、不充分な体勢のところを追撃される羽目になる。  よって、ここでの選択は二つに一つ。蹴り上げるか踏み潰すか。  前者は危険が大きすぎる。真っ向からの交差法など、下手をすれば脚ごと吹き飛ばされかねない。狙う場所が顔しかないという事実からも、この選択で結果を出すのは限りなく不可能に近かった。  しかし、かといって踏み潰すというのはどうか。  およそあらゆる武道において、下段への打ち下ろしは止めの技だ。必殺の威力は持つものの、それは相手が静の状態だからこそ可能なこと。逆に言えば、動体に打ち下ろしを決める術理は存在しない。  まともに考えて、詰みのようなものだった。その総ては、常識の埒外にある刑士郎の体術が原因と言える。想定の範囲から逸脱したモノを相手に、技術は効果を発揮できない。  だが、常識を外れているのは紫織も同じだ。 「ふッ―――」  短い呼気一つで繰り出した一撃は、〈下〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》〈を〉《 、》〈か〉《 、》〈ち〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈た〉《 、》。それもほぼ地面に密接していた胴の部分、心臓、肝臓、鳩尾を撃ち抜く形で―― 「あんた私の何を見てたの」  有り得ぬ角度からの奇襲を受け、身体ごと跳ね上げられた刑士郎に容赦のない追撃が走る。  今度は眉間、こめかみ、人中、喉―― 総て言うまでもない急所であり、内の一発でもまともに食らえば致命となり得る四連撃が全弾命中。  たかが女の攻撃だと、侮れるようなものではない。硬気で強化され、貫気で推力を増している紫織の拳足は鉄板さえ容易に貫く。たとえ大熊であろうとも、今の連撃は頭部を四散させて然るべき威力があった。 「くッ、はッはァ――」  しかし、にも拘らず刑士郎は笑っていた。かち上げられた勢いを利用するどころかまったく無視し、反り返った体勢から跳ね戻るように打ち下ろしが放たれる。 「ぐゥッ――」  防御はした。なのにまったく意味がない。交差した腕ごと背骨を押し潰すような圧力に、紫織は前のめり地面に叩きつけられる。  僥倖は、今のが打撃であったことだろう。あの速度とあの威力で刃物を叩き付けられたら、いかに気功で剛体を維持していようが両断は免れない。  顔面が大地にめり込むその刹那、間一髪両手をついた紫織は前方回転の要領で両足を跳ね上げる。倒立しながらの蹴撃が、下から刑士郎の顎を撃ち抜いた。 「効かねえよ」  断じて非力なわけではない。紫織の攻撃力も充分すぎるほど常人離れしたものだ。しかし刑士郎の耐久力は桁が違う。  一般に、陰気の濃さには十の段階が設けられ、五を超えた者らは理屈を無視した身体能力を獲得する。その基準に照らした上で、刑士郎の汚染度は等級六だ。もはや怪物じみていると言っていい。  神州において五本の指に入る高位の歪み、それが凶月刑士郎という男である。加えて言うなら、その中で達人域の武練を有する者は現状分かっている範囲で彼しかいない。  純粋な武術の腕なら紫織のほうが勝るのかもしれないが、土台の性能が反則的だ。些細な差は覆してしまう。 「おらァッ――」  そのまま紫織の足首を掴みあげると、人形のように振り回して投げ捨てる刑士郎。放る瞬間に延髄を蹴られたが、やはりまったく意に介していない。素手の打突では、おそらく意味などないのだろう。  それが証拠に、宗次郎の一閃は受けることなく躱してのけた。のみならず腰の双剣を抜いて応戦し、剣鬼の刃を紫織の拳以上には警戒している。  ならば後は剣術の腕比べだが、そこは宗次郎が上回った。  速い――とはいえ、刑士郎でも反応できないほどの速度ではない。並の者なら閃光にしか見えないだろうが、あくまで万に一人か二人は辿り着ける域である。真に恐るべきところは別にあった。  〈宗〉《 、》〈次〉《 、》〈郎〉《 、》〈の〉《 、》〈剣〉《 、》〈は〉《 、》〈殺〉《 、》〈気〉《 、》〈の〉《 、》〈塊〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈意〉《 、》〈が〉《 、》〈読〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。その一撃一撃を正確に捌くのは、喩えるなら大瀑布の中から氷柱を見つけるに等しい作業だ。つまり有り体に言うと、木を隠すなら森である。  放射している殺気の密度が常軌を逸して濃すぎるため、攻撃に伴う意が消されている。達人になればなるほど重要になる読み合いが、この優男にはまったく通用しないのだ。  必然、刑士郎は後手に回り、防戦へと追い込まれる。数合続いた打ち合いの末、無理な姿勢から躱したことで僅かに重心の乱れが生じた。  見逃す宗次郎ではない。  大気を突き破る轟風と共に、繰り出されたのは渾身の刺突。ここに必殺を予感して、鬼剣は驚異的な冴えを見せる。  これまで一度も出していなかった点の攻撃をこの刹那に、ただでさえ読みにくい剣筋をさらに幻惑する周到な一閃だ。おそらく総てを計算した上なのだろう。  なぜなら、刑士郎の頑強さを前に斬撃は効果が怪しい。いかに利刀の一撃を叩き込もうと、折られる可能性が生じてしまう。  ゆえに突く。刺して抉る。殺人技として弾丸のごとく放たれる点より怖いものはない。  宗次郎をして会心と言える一撃は、狙い過たず刑士郎の左胸を背中まで貫いた。後は刃を返して心臓と動脈を引き裂けば総てが終わる。 「で?」  はずだったが、刃はぴくりとも動かない。筋肉に絡め取られて抜くことも出来ず、逆に宗次郎が縫い付けられる羽目になった。 「―――――ッ」  その一瞬生じた停滞を、刑士郎は見逃さない。横殴りに放たれた一撃を回避すべく、宗次郎は刀を手放して後方に飛び退った。 「なぜ……」  いったいどういうことだ?  困惑する彼に向けて、刑士郎は冷笑ししつ賛辞を送った。 「そんな顔すんな。大したもんだぜ。てめえの血を見るのは久々だ」  ずるずると左胸から剣を抜いて、刀身にこびりついた血を舐め取る。その所業云々よりも、不思議なのはあまりに出血が少ないこと。 「天下最強が夢だったか。ああ、おまえさんならなれるかもしれねえな。だがまだ経験が足りねえよ。俺みたいなのと殺り合うのは初めてか?」 「狙うなら首にしとけ。こっちは胴の中身なんざ好きなように弄れるんだ」  つまり、先の刺突は心臓を捉えていない。のみならずあらゆる大動脈、急所の位置を刑士郎はずらしているのだ。これでは首を切断でもしない限り、必殺とはなり得ないだろう。 「つっても、来ると分かってるもんを易々食らうほどトロくはねえがよ」  嘯いて、刑士郎は引き抜いた宗次郎の刀を放り渡した。 「拾いな。それがなきゃ戦えねえだろう」 「………ッ」  恐るべき屈辱に、宗次郎の肩が大きく〈戦慄〉《わなな》く。無論それは戦意の発露で、怖気づいているわけではない。そこはもう一人とて同じはずだ。 「なんとまあ、本当に出鱈目だね」  立ち上がり、再び構えを取った紫織の拳には、凶悪な手甲鉤が握られていた。その先端にまで硬気が及び、金剛石すら砕く域まで武器が強化されていく。  現状、総ての攻撃を命中させている彼女なら、これで話は変わってくるかもしれない。 「あんまりこういうもんに頼るのは好きじゃないんだけど、こりゃしゃあないね。もとより真剣勝負ってのが名目だ」 「そのにやついた顔、整形してやるよ刑士郎」  言うが早いか、紫織は地を蹴って攻撃に移る。 「後悔しますよ。僕にこれを返したこと」  走りながら刀を拾い上げた宗次郎もそれに続く。 「おお、いいぜ。掛かってきなァ」  口角を吊り上げ笑いながら、今度は迎え撃つ形を取る刑士郎。  しかし実際のところ、三者の力量にそれほど差があるわけではない。先の攻防が刑士郎の有利に働いたのは、ひとえに高位の歪みというものを紫織と宗次郎が正しく理解していなかったためである。  その誤差は、もう修正された。そうなれば形勢は変わってくる。  少なくとも技においては、紫織と宗次郎のほうが上手なのだ。刑士郎が彼らの攻めを完全に捌ききれないのは先ほど証明されており、ならば後はどのように有効打を与えるか避けるかの勝負となる。  唸りをあげる紫織の拳と、空を切り裂く宗次郎の剣。二人は協力し合っているわけではないが、第一に刑士郎を斃すという点で方針が一致していた。ゆえに必然、攻めは連携と化していく。 「はああァァッ――」  抉るような左の鉤突き。肝臓が何処に移動しているかは不明だったが、紫織はそんなことに頓着していない。渾身の力で放たれた一発は、寸でのところで防御されたがそのまま振りぬく。  結果として、刑士郎の身体は横に流れた。そこには当たり前のように宗次郎が待ち受けている。  刃を寝かせた首への刺突は、命中と同時に薙ぎ払って斬首する気に違いない。刑士郎はその軌道上に、一髪千鈞の際どさで自らの短刀を滑り込ませた。  鋼が高速で擦れ合い、耳を覆う金切り音が響き渡る。軌道を逸らされた剣先は紫織に向かうが、首と肩の中間を削り飛ばされても彼女は意に介さない。再び追撃へと移行して、宗次郎もまたそれに倣う。  なぜここまで徹底的に、彼らは刑士郎を狙うのか。真意はその首級に価値があるからというわけでも、まして先の意趣返しを優先しているからというわけでもない。  単純に、この相手は速殺しなければならないという強迫観念。 「早く――」 「早く――」  一刻も早く殺してしまう必要がある。それこそ電光石火の早業で、彼が脅威を感じる暇もないほど速やかに。 「ふ、ふはは……」  今、刑士郎は劣勢だ。そしてそういう状況を、この男は自ら作り出した。それが何を意味するのかは、深く考えるまでもない。  禍憑きを出される。  凶月を追い詰めるとはそういうことで、そうなってしまえばどうにもならない。直接禍憑きを体験したことはない二人だったが、刑士郎と切り結ぶことで否が応にも理解していた。  常識外れの身体能力と勘働き、それだけでも有り得ないほど厄介なのに――  このうえ凶運まで武器にされたら、まったく手に負えなくなってしまう。 「つまり時間との勝負か」  麗々しい雅楽でも聴き入るような表情で、冷泉は陶酔に目を細めながら独りごちた。 「げに恐ろしいものよな、凶月とは。禍憑きという鬼札で、兵法を崩しておる」 「なあ烏帽子殿、御身とてそう思うだろう?」 「……確かに」  頷く竜胆も、問い掛ける冷泉も、眼前の戦いを総て把握しきれているわけではない。だが大局としてどういう流れになっているかは、彼らとて分かっていた。  順当に考えるなら、ある程度実力の伯仲した者を相手に一撃必殺など狙うべきではない。まずはその戦力を微量でも削いでいくことが重要で、そうした積み重ねのうえに勝利をもぎ取るのが当たり前の筋道だろう。  しかし、ここで常道は選べないのだ。刑士郎にとっての危機的状況を深刻化させればさせるほど、それを覆すご都合主義が発生する。  してみれば、冷泉の言った通り凶月の怖さはこれなのだろう。禍憑きという反則の存在が、戦いの論理性を崩している。必然、どんな達人でも攻めが大味にならざるを得ない。 「で、あればだ。可能性として二つの答えが予想される。一つは額面通りそのままに、凶運の発動を防ぐか否かという勝負」 「もう一つは――」 「それを餌に、釣ろうとしている」 「そう、我にはどうもそちらに見えるが」  禍憑きを意識させるだけさせておいて、攻撃が荒くなったところを一網打尽にする戦法。刑士郎の狙いはそうしたものではないのかと、冷泉は言っていた。 「ふふふ、いったいどうでありましょうな。これは実に悩ましい」 「我らでも思い至れる程度のこと、あれだけの武辺者らが気付かぬはずはありますまい。しかしだからといって、事態が変わるわけでもない」 「万が一、もしかして、その疑念がある限りどうにもならず、事前に答えを知る手段はないのだ。あの凶月、見た目に反して切れ者ですな。まるで敵手の運気を奪い取っているかのようだ」  つまり、それも含めて凶月であると。  事の真偽はまだ分からない。だが薄ら笑う冷泉の神経が異様に太いことだけは確かだろう。  仮に禍憑きが発生すれば、この場の全員に予測不可能な災厄が降りかかるかもしれないのだ。事態をまともに鑑みれば、呑気に戦況など分析している場合ではない。  慌てふためいて逃げるような腰抜けでは武門の長など務まらぬが、かといって一切の緊張と無縁の態度は異常に過ぎた。  おそらく、自分が死ぬことは絶対にないと盲信しているのだろう。己の中の真実にのみ酔いしれている典型例と言っていい。  それを豪放と評するのは絶対に違うし、いま目の前で戦っている者たちにもまったく同じことが言える。  なるほど、彼らの武威は大したもので、凄まじい。しかし、勇壮で華々しいと思えないのはどういうわけか。  この齟齬はどこからくるのか。  自問するうち、脳裏に過ぎった一つの言葉を、知らず竜胆は呟いていた。 「死者の、踊り……」  そうだ、彼らの在り方は浮遊している。まるで虚構の世界の住人であるかのごとく、行動に立体感を与える要素が欠けているのだ。  それを指して何と言うのか、その概念は何だったか……  いま竜胆は、長年に渡る違和感の正体を実感として受け止めた。そして同時に、強く悟る。 「だからか……」  〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈三〉《 、》〈百〉《 、》〈年〉《 、》〈前〉《 、》〈は〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。〈ゆ〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈負〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》。  どこまでも虚ろな者ども、浮遊しているその死生観。そんな様では、生き残ることも勝利することも叶わない。  確信をもって、間違いないと思えるから……  自分が何をするべきかは、決まっている。いつか龍明に言われた通り、将たる者の王道はただ一つで、他には無い。  信を望むなら探すのではなく、その〈狂気〉《りそう》とやらで〈兵〉《つわもの》どもを酔わし、勝ち取れ。 「そうだ」 「私は……」 「ぬ? どうされた烏帽子殿」  いきなり立ち上がった彼女を、訝しげに冷泉が見上げたその刹那。 「づおらァァッ!」  ついに生じた隙を衝いて、繰り出した刑士郎の一撃が袈裟切りに紫織の身体を両断していた。やはり彼は最初から、禍憑きを餌にこの瞬間を狙っていたことになる。 「――がッ」  噴き出る鮮血が御所の雪景色を真紅に染めた。先ほど冷泉が言った通り、刑士郎が凶運を発動させるか否かを事前に見破る術はない。よってこの結末は必然であり、紫織はどう足掻こうとこうなるより他になく――  そうした運命の蟻地獄……他者の希望的未来を恣意的に奪い取ることも含めて、なるほど凶月恐るべし。そう言わざるを得ないだろう。 「か、は、はは、は……」  いや、本当にそうなのか? 「あは、ははは、はははは……」  紫織の死は、もはや疑いようもない。刑士郎の怪力で胸郭を完全に断ち割られ、肺も心臓も致命の損傷を受けている。それは間違いないはずなのに――  なぜ今、彼女は笑っているのか。 「「絶対、そうだと思ったよ」」 「―――――ッ」  そのとき、驚愕の事態が起こった。 「あんたみたいな妹大好きお兄ちゃんが、やるはずないってことくらい分かってんのよ!」 「なッ―――」  刑士郎の右後方斜め上――〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈無〉《 、》〈傷〉《 、》〈の〉《 、》〈紫〉《 、》〈織〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。血を噴いて、血を吐いて、今まさに〈頽〉《くずお》れようとしている彼女も存在しているはずなのに。  分身ではない。幻覚でもない。紛れもなく紫織は死んだし殺された。刑士郎ほどの武芸者が、血の匂いと肉の感触を誤認するなど有り得ない。  では、いったいこれは何だ? 「よくも私を一人殺ってくれたね!流石に殺されたのは初めてだよ!」  怒号と共に、振り抜かれる渾身の右正拳――自身が斬り倒した存在と、自身を殴り倒そうという二人の存在を前にして、ようやく刑士郎は理解した。  これまで幾度か見せてきた玖錠紫織の怪能力は、すなわち可能性の拡大なのだと。  無限に存在する平行世界とでも呼ぶべきもの、そこには今の攻撃で死んだ紫織も存在すれば、躱して反撃に移れる紫織もいる。  どちらも本物で、どちらも実体。僅か一挙動であらゆる角度から複数発食らわせるという攻撃も、そうした無数の〈可能性〉《おのれ》を並列起動させていたからに他ならない。  ゆえに、この女を完全に殺すなら、何人いるか分からない玖錠紫織を同時に滅ぼすしかないということ。  それは総てが実体でありながら、同時に本物は一人もいないのと同じである。  まさに陽炎。彼女は触れ得ぬ蜃気楼。  理屈も常識も通用しない。術でも技能でも無論ない。  この不条理極まる歪みこそが、玖錠紫織の異能だった。  硬気を纏った手甲鉤に側頭部を強打され、刑士郎の意識が闇に沈む。彼ら高位の歪みは尋常ならざる再生能力を有しているが、それでも瞬時には回復できない重度の損傷を受けてしまった。  ならば――  続く鬼剣の一閃は、紛れもない必殺と化す。今の刑士郎に彼の刃を防ぐ手段は皆無だろう。 「―――――」  だが、しかし宗次郎は、ここで意図的に一拍の間を置いた。  その行動に明確な理由はない。傍から見れば愚行としか思えぬもので、千載一遇の機をみすみす逃したようなものだろう。ここで余計な間を空ければ、刑士郎は復活するのだ。  ではなぜ? 強いて言うなら勘である。  宗次郎の第六感が、ここで攻めることの危険を察した。意識をなくした凶月こそが、もっとも恐ろしいという事実に本能で気付いたのだ。  刑士郎に禍憑きを使う気はない。しかしそれは彼が起きている状態でのみ言えることで、意識をなくせば制御を離れる。  つまり、ここで止めの一撃を放つことは、逆に自分の首を刎ねるに等しい。  ほぼ無意識にそれを弁え、宗次郎は機を待った。  何を? もちろん―― 「てめえらァッ!」  刑士郎が意識を取り戻し、禍憑き発生の可能性が激減する瞬間―― ではない。 「東海、〈阿明〉《あめい》――西海、〈祝良〉《しゅくりょう》――南海、〈巨乗〉《きょじょう》――北海、〈禺強〉《ぐきょう》――四海、百鬼を退けて凶災を〈蕩〉《はら》う! 急々如律令!」  先刻から龍水が何かを試みていたことに、宗次郎だけは気付いていた。今この場において、彼がもっとも御門の少女を評価していたと言っていい。  よって彼女の乱入を許し、誘った。結果がどうなるかは知らないが、間違いなく何らかの決め手になると確信して揺るがない。  特筆すべきは、その歪んだ信頼にあると言える。龍水の力量ではなく、自分の剣を逃れた者だという事実のみ、〈己〉《 、》〈の〉《 、》〈腕〉《 、》〈を〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「禁! 〈水位之精〉《すいいしせい》――悪星退散!」  はたして、それは覿面の効果を発揮した。 「なッ、にィ――」  印を結んだ龍水の指が振り下ろされるのとまったく同時に、降り積もった雪が蛇のように跳ね上がって刑士郎を禁縛する。その拘束は物理的な意味のみならず、精神的な面にも及んでいた。  俗に冷水を浴びせるという比喩があり、頭を冷やすという言葉がある。だから龍水は〈雪〉《みず》を使った。彼の行動だけでなく、沸騰した〈心〉《あたま》を縛って無理矢理鎮静させたのだ。  ゆえに、今の刑士郎は禍憑きどころか戦意そのものを解かれている。 「やった!」  自らをして会心の手応えに、思わず歓喜の声をあげる龍水。だが、彼女は分かっているのか。 「――お見事」  血に濡れた賛辞の声。それが引き起こす最終的な結末を。  宗次郎が一拍の間を空けたことで起きる事態は、刑士郎の無力化だけに留まらない。彼の斬撃は、その軌道上にもう一人の敵をも捉えている。  今、紫織と刑士郎の位置は完全に重なっていた。放たれた鬼剣の一撃は二人を諸共に両断し――  その後で、この男が龍水を見逃すことなど有り得ない。  敬愛する母の命を果たしたと、浮かれる少女はそこまで思い至らなかった。現状、これが御門龍水の限界だったと言えるだろう。  だから代わりに、別の者が反応した。 「くッ、このォ――」  紫織とて回避は不可能。だがそれはこの場合に限っての話である。先刻同様、〈可能性〉《じぶん》の一人が殺される事実を受け止めて、別の〈可能性〉《じぶん》に託せば宗次郎を斃せるかもしれない。  しかしなぜか、紫織は彼に斬られることを異様に嫌った。  次の瞬間、蜃気楼が出現したのは龍水のすぐ目の前。七・八間近く離れた位置にいきなり己を飛ばすのは、言うまでもなくかなり出鱈目な確率だろう。可能性としては、千の中に一つあればいいという域に違いない。  そんな離れ業を実現させることのほうが、紫織にとって宗次郎の剣を処するより易いというのか。  真相は分からない。ただ結果だけは明確に現れる。 「あっ、きゃあ――!」  放たれた拳に吹き飛ばされて、龍水の術が掻き消えた。同時に繋がれていた獣が常態を取り戻す。 「ぐッ、づおらァッ――」  今さら回避は出来ないと踏んだのか、刑士郎は躱すどころか前に出て、宗次郎の脇腹に廻し蹴りを叩き込んだ。それによって軌道が揺らぎ、剣は必殺を僅かに外れる。 「ぐッ――」 「つァ――」  弾かれるその場の全員。刑士郎に斬られた紫織も、龍水を殴った紫織も姿を消して、正しく四人だけが雪の御所に深手を負って倒れていた。  息を呑むような静寂が、ほんのしばらく流れた後…… 「面、白いなあ……本当に、皆さん中々、斬れませんね」  立ち上がった宗次郎は吐血した。彼の肉体は気功で強化もされてなければ、歪みで異形と化してもいない。ただの一発蹴られただけで、砕けた肋骨が内臓に刺さっているのだ。もはや瀕死と言っていい。 「ああ、くそ……てめえら真剣にイラつくぜ」  憤怒に歯軋りする刑士郎も、そこは同じようなものだった。先の一閃が首を掠め、頚動脈を裂かれている。おそらく戦意を絶たれたことで、急所も元に戻されたのだ。これは再度の肉体変異が間に合わなかったということだろう。 「まあそれを言うなら、私が一番ムカついてんだけどね……」  そして紫織の消耗も深刻だ。何せ一度、冗談抜きに殺されている。  その事実が少なからぬ疲弊を生むのか、滝のような汗をかいて呼吸も荒く、下肢はふらついて覚束ない。 「で……」 「そっちは」 「どうよ、御門のお嬢ちゃん」  問い掛けられた龍水は、しかし答えられる状況になかった。 「あ、つ……」  意識ははっきりしているのに、四肢が痺れて動けない。人に殴られたと言うよりは、転がる巨岩に撥ね飛ばされたようだった。何処が痛くて何処を負傷しているのかも分からない。 「ごめんねえ。加減する余裕なんかなかったし、そんなタマでもないでしょあんた」 「いや、驚いたよ。大したもんだ。そもそもなんでまだ生きてんの?」  先ほど宗次郎が言った台詞と、まったく同じ疑問を紫織は投げる。加減などしていないし、殺す気で攻撃したのになぜ息をしているのだと。 「おそらく、予知か何かでしょう。ほんの一瞬先だけなら、見えているんじゃないですか。だから躱せた」  だからさっきも、そして今も、致命傷を間一髪で免れた。土台の運動能力が貧相なせいで有効利用は出来ていないが、それでも役に立つ力と言っていい。事実その証明はもうしている。  ゆえに紫織と宗次郎は彼女の異能を賞賛し、同時に危険だと判断していた。誰にも分からない未来の情報を、たとえ一瞬先でも持つ者などは…… 「生かしちゃおけねえな」  混沌としたこの戦況で、もっとも剣呑と言えるのだから。 「てなわけで、悪いねチンチクリン」 「あなたも覚悟はしているのでしょう?」  個々ばらばらの乱戦で、もっとも劣勢に陥った者が一番最初に脱落する。龍水はその条件に合致しており、放置も出来ない特異性すら有しているのだ。実戦においてとことんまで現実的なこの三名が、小さな術師を見逃す理由はどこにもない。  向けられる三つの殺意に、数瞬先の死を感じながらも、龍水は…… 「く、あ……」  動かない四肢に力を込めて、立ち上がろうとしていた。感覚を取り戻せば特大の激痛に襲われるだろうことも踏まえた上で、このまま倒れている自分というものを許さない。 「ふざ、けるな……」  なぜなら彼女は怒っていた。どうしようもないほど恥じていた。 「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな虚け……!」  こんな様で、何が龍明の娘なものか。何が夜行の許婚か。  大した能もない自分にたった一つ許された力すらまともに使えず、一度術を成功させたくらいで緊張を解いた間抜けさ加減に目眩すら覚える。  屈辱だ。自分自身に激昂するほど腹が立つ――と猛りながら。 「誰が、チンチクリンだ。もう一度、言ってみろ……!」 「貴様らの背が、ちょっと私より高いだけであろうが!」 「ぐッ、づ、あああああァァァッ―――」  身体がバラバラになるような激痛に叫びながら、仁王立ちに立ち上がった。  その時に―― 「―――それまでだッ」  凛と響いた女の声が、四人の視線を釘付けにする。 「よく来た、坂上覇吐。おまえに頼みたいことがある」  風雲急を告げる事態を前に、俺はあの日、御門屋敷で龍明に言われたことを回想していた。 「御前試合だあ?」  そんなものが催されるとは知らなかったし、俺に関係あるとも思えない。  だが、御門のご当主様は含み笑って、えげつない交換条件を出してきたのだ。 「そう、御前試合だよ。おまえ、それに出てくれぬか?」 「なんで?」 「凶月の者に妙な対抗意識が湧いたのだろう? おまえのような頭が単純な輩の考えなど見え透いている。実に典型的な馬鹿だ」 「ならば鋏と同程度の役には立ってもらわんとな。断れば拘束するぞ。おまえの陰気は野放しにできる域を超えている」 「答えは?」  などと、有無を言わせぬ悪役ぶり。しかし当然この俺だって、はい分かりましたと易々頷くタマじゃない。 「答えも何も、無理だろう。俺は御門の人間じゃないし――」 「誰が私の一門から出ろと言った。おまえは久雅の代表として出ろ」 「まさか知らぬとでも思っているのか? 坂上は、久雅の立派な分家であろうが」 「ぐっ……」  立派、と言うには凄まじく無理があるような気もするのだが、確かにそれはその通りで、俺は久雅の家に繋がりがある。 「けど、かれこれ三百年放置だぜ? 別に恨み言いう気もねえし、むしろ堅苦しいのは嫌いだから感謝してるくらいだけどさあ」 「今さら俺が、久雅のために身体張る義理なんかねえよ。そもそも、あっちだってお呼びじゃないに決まってるだろ」 「それは先方が決めることだ」 「いやだったら、あんたが決めることでもねえじゃねえか」 「わざわざ俺なんぞ引っ張らんでも、久雅のお殿様ならご立派な家臣の方々をそろえるんじゃねーの? それくらいの駒は、幾らでもいるだろうし」  だから俺には関係ない。重ねてそう言っているにも拘らず―― 「駒はいない」 「はあ?」  御門のご当主様は、そんなことを―― 「そして、殿ではなく姫だ」 「はあああ?」  嘆いているのか笑っているのか、なんとも判別のつかない顔で言ったのだ。 「姫さんだあ?」 「そうだよ。おまえはそんなことも知らなかったのか。相当な虚けと言うか、間抜けだな。山の中で猿とでも暮らしていたのかと呆れ果てる」 「ともかく、件の姫君は些か以上に奇矯な方でな。頭は悪くないのだが、非常に頑固で物分りが悪い」 「曰く、家中に益荒男などいないとさ。それで家を破るばかりか、自身も不本意な目に遭うというのに、どうしても譲れぬものがあるらしい」 「正直、見かねてね。保険をかけておきたいのだ」 「それが俺だと?」 「ああ、細工はしておいてやる。後はおまえが判断しろ」 「つまり――」  俺がこの目でその姫を見て、主に足ると思えれば―― 「晴れ舞台だ。男なら格好よく踊ってみせろよ」 「私を敵に回すより、ずいぶん気の利いた道であろうと思うがな」  御前試合に出場しろと、最後に意地悪く脅迫しつつ、御門龍明は笑いやがった。 「―――それまでだッ」  そして今――御所を囲む木の上から俺は問題の姫君とやらを目におさめている。  変人だか変態だか知らないが、ともかく一風変わったお方であるらしい立場上のご主君様。 「……ふん」  いったい何をするつもりと言うか、何を考えていらっしゃるやら。  玖錠、凶月、そして宗次郎の奴らは半端じゃない。それはこれまで見物していた俺にも当然分かっているし、そこはあの姫さんだって同じだろう。  まあ、龍水のチンチクリンには少しばかり驚いたが、事態はいわゆる修羅場ってやつだ。もはや白黒つけなきゃ治まるまい。  ゆえに、さあ、いったいどうする? 「何がしたいんだ、お姫様」  龍明に言われたことなど関係なしに、眼下の状況から目を離せなくなっている俺がいた。  そう、覚悟はすでに固めたのだと〈眦〉《まなじり》を決し、竜胆は自らの意志を矢に番えて弓を引く。 「剣を下ろせ。以降僅かでも続ける気なら、この私が容赦なく射る!」  益荒男などおらぬ。〈兵〉《つわもの》など幻想。この世の諸々は異界の法則めいていて、自分一人が孤立しているのだと分かっている。  しかし、だからといって染まる気はないし、拗ねて背を向けるつもりもない。自分の意地と価値観にだけ固執して、後は勝手にやれなどという無責任……そんなことでは、他の〈奴儕〉《やつばら》と何ら変わらぬことになるのだから。  考えて、考えて、ずっとずっと考えて、ついに竜胆は己がどうするかを決めたのだ。 「烏帽子殿、御身は何を……?」  傍らで、訝しげな顔をしている中院冷泉……この男には到底理解できぬことだろう。 「別に。おかしなことなど何もない。なぜなら当家の代表は、他ならぬ私なのだから」 「あの者らを私が制せば、それで神楽は終わりであろう」 「なッ……」  来たる東征には、必勝しなければならない。生きるため、国体を守るため、理由や動機が何であれ、それがこの国に住まう者たちの総意である。  ならば、将は相応しい者がなるべきだろう。千種や六条、岩倉では、龍明が言った通り話にならない。  であれば後は、久雅か中院の二者択一。  そこで筋や伝統を振りかざすなら久雅の一択となるのだが、今までの竜胆には迷いがあった。武家筆頭の責任という言葉を盾にして、我を通しているだけなのではと懊悩していた。  ゆえに、事はそんな感情論が入り込む余地のない次元で、公正に決めなければいけない。  仮に、冷泉がもっとも将に相応しく、彼の指揮で御国が救われるなら否はない。たとえ景品として扱われても、嫌いな男に抱かれても、それで救国が成せるなら喜んで受け入れよう。  真実、民の幸せを思い選択すること。そこに覚悟を持って誇りとすること。武家の本懐とはそうしたもので、それこそ尊き利他だと久雅竜胆は信じている。  だから、この場で見極めんとした。神州に平安をもたらす東征軍の総大将は、いったい誰であるべきなのか。  結論として、冷泉にその資格はない。放っておけば全滅必至なこの惨状を、薄ら笑って見物しているのが何よりの証。  兵の死も己の死も、浮遊した感覚でしか捉えられない者に勝利はないし、だからこそ三百年前は大敗したのだと断言できる。  なぜならこれは、世の者どもから根本的に欠けている視点。  他者を労わり、愛せぬ者に、どうして国が救えると言うのか―― 「さあおまえたち、聞いた通りだ。矛を収めよ」  そして、そういう理由から冷泉を認めぬ以上―― 「出来ぬというなら、この私を見事斃してみるがいい」  これより自分自身のことを、公正に試さなければならないだろう。 「竜胆様……」 「何を唐突に」 「噂で聞いてはいたけどさ」  正気ではない――言外にそう言われているのを自覚して、竜胆は苦笑した。 「頭大丈夫か、お姫さんよ」  ああ確かに、そちらからはそう見えるかもしれない。  だがもはや迷わぬと威勢を高め、強く覇気をもって問い質す。 「おまえたちの見つめているものは、いったい何だ?」 「それだけの腕を持ち、この場に選ばれ、神楽を舞い何を思う?」 「何を望み、何を成し、何者たらんとしているのか」 「答えよ、玖錠! 凶月! 壬生宗次郎!」 「そして龍水! 貴様もだ!」  細い外見からは想像もつかない大喝に、龍水は息を呑んで押し黙る。刑士郎ら三名もいきなりのことに困惑し、咄嗟の言葉が出てこない。  それは他の者たちも同様で、いま竜胆は紛れもなく回転軸の中心にいた。この場における皆が皆、彼女の一挙一動に引き付けられて目を離せない。 「己の意地か? 沽券が大事か? 目先の勝ち負けにしか思いが行かず、ただ気分よく好きなようにやりたいだけか?」 「愚かしい――小さいわ、戯けども! 貴様らの狭窄した視野で成せるものなど何もない!」 「我ら、真に目指すべき地平は何処だ? その武は? 心は?何をもって満ち足りる?」 「ここが貴様らの死に場所ならば、なんとも安い! 軽すぎる!そんな魂に何があるのだ!」  本来誰もが持っているべき、胸の奥にある何がしか……それを魂と呼ぶのだと、龍明は言っていた。  そして、今では廃れた概念だとも。 「その身に詰まっているのは血と肉だけか? 他には無いのか?心は自己への狂信のみで、不滅なるものは持ち合わせぬか?」 「だとしたら、ガランドウだよ貴様らは。生きながらにして死んでいる」 「死んでいるから、何も怖いものがないのだろう。殺すことも、殺されることも、その意味というものを感じられない」 「だから……」  一歩、また一歩と前に出て、雪の降り積もる白砂の庭に竜胆は降り立った。  それはすなわち、彼女もまた血戦の舞台に足を踏み入れたという事実の証明。  殿上にある貴人としての立場を捨てて、真に命を懸けるという覚悟の発露に他ならなかった。 「今から、私が教えてやる」 「へえ……」  それに、もっとも早く応じたのは宗次郎だった。自らの負傷など意にも介さず、痛みすら感じていないような涼やかさで斬人の気を立ち昇らせる。  冷泉が何か叫んでいたようだったが、彼の耳には入らなかった。もとより壬生宗次郎は剣の鬼――この場に足を踏み入れれば、たとえ何者であろうと斬殺するべく動きだすのみ。  その単純極まる公式こそが、彼の宇宙を回す法則ゆえに迷いはない。 「いいでしょう、久雅のご当主……何を教えてくれるのか知りませんが、興味が湧きましたよ。面白い人だ」 「あなたは、とても斬りたくなる」 「馬鹿な、させぬぞ宗次郎……!」  二人の間に割って入るべく、龍水もまた負傷を忘れて前に出た。竜胆の奇行にはいくらか耐性があったものの、流石に今回のこれは度を超えている。看過していいわけがない。 「私が至らぬから、何かご不興を買ったのなら詫びまする。ですからどうか、竜胆様、〈ワ〉《 、》〈ケ〉《 、》〈の〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈止〉《 、》〈め〉《 、》〈く〉《 、》〈だ〉《 、》〈さ〉《 、》〈い〉《 、》!」  泣訴に近い声で止めに入る彼女ですら、竜胆の理屈は分からないのだ。ならば無論、残る二人は言うまでもない。 「まあ、なんか知らないけど、馬鹿にされてんだよね私たち」 「とにかく、止めろって言うなら止めさせてみてよ。出来るとは思えないけど、実は凶月だったりするのかな?」 「笑えない冗談だ」  紫織は困惑しつつもからかうように、刑士郎は憮然と吐き捨てるように言い放った。 「視野が狭い、ねえ……随分とまあ、言ってくれたが、てめえの力量さえ見えてねえ虚けには言われたかねえな」 「心配するな。十二分に見えているよ」  そんな、数々の言葉と反応を受け止めて、竜胆は薄く笑った。  呆れと諦観からくる自嘲の亜種には違いなく、しかしだからと言って捨て鉢とはまったく無縁の、力ある笑み。  それは恐怖を知って、なお挫けない。死を感じて、なお奮い立つ。  曰く久雅竜胆が思うところの、魂を持つとはそうしたことで…… 「おまえたちと私では、覚悟の意味と重さがまったく違う」 「無論、身分や立場ゆえのことではない。勇気の有無を論じているのだ」 「言っただろう。おまえたちは軽いと」  平然と殺す。平然と捨てる。死ぬということは死ぬということ以上も以下もないものだから、雄々しく振舞っているように見えてもその行動には重みがない。  命を懸けて、死合に臨んでいるなど空言だ。どこまでも茶番であり実がない。  彼らは魂を知らないのだから。いかに勇壮で華々しかろうと、本質は死者の踊り。  そこには覚悟も何もありはしない。 「だが私は違うぞ。白状してやる。おまえたちが怖くて堪らぬし、死にたくない」 「ああ、足が震えるよ。正直少し泣きそうだ。こんなことを口にするのは久雅の当主として恥ずべきだろうが、あまりにおまえたちが馬鹿ぞろいなので言葉にせねば分からんだろう」 「その上で、このように行動しなければまるで認められぬだろう」 「おまえたちがその武威を、何のために手に入れたかはもはや問わん。だがこれだけは聞くがいい」 「〈至〉《 、》〈高〉《 、》〈の〉《 、》〈芸〉《 、》〈と〉《 、》〈誇〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈魂〉《 、》〈を〉《 、》〈懸〉《 、》〈け〉《 、》〈ろ〉《 、》」 「私は今、私の魂を信念のもと懸けている。おまえたちのそれと違い、この我ながらの無鉄砲さは死者の踊りではないのだよ」 「だから告げる。剣を引け。こんな実のない乱痴気騒ぎで、それほどの芸を浪費するなど許さない」 「おまえたちが魂を持ち、芯から燃焼を求めるようになったなら、そのときこそ相応しい死に場所を与えてやろう」 「つまり――」  死を賭すことの、意味と価値を与えてやると竜胆は言う。  その権限を有するのは何者か。己はそうした者であると宣誓するのはどういうことか。  それら言葉の意味するところは、この場の全員が理解した。 「私が東征の将となる」 「ゆえにここで、これ以上一人たりとも死ぬことは許さない」  何も恐れていないから、何も懸けていないただの蛮勇……そんな虚ろで空っぽなものは、久雅竜胆の率いる兵が揮っていいものではないと断言する。  総てはそう、東征に必勝するため―― 「私にはおまえたち全員の武が必要で、それを十全に指揮するならば……」 「まずはこの思い、理解してもらわねば始まらん!」  凛と響き渡ったその宣言は、はたして聞く者の胸に届いたのか。 「なんと……」 「こりゃまた……」 「不思議なことを仰る御方」  ただそれが、この場に何らかの変化を生んだことは確かだった。 「なるほど、だから口だけではないところを証明すると?」 「要するに、自分を試せって言うんでしょ?」 「てめえに俺を連れ回すだけの器があるのか」  無謀、無策、自殺行為。竜胆の行動は傍から見ればそうしたもので、この死者たちを生き返らせることは言うまでもなく容易くない。  だが、魂の何たるかを知らしめるには、真に命を懸けてみせねば意味などないと思ったのだ。  なぜなら、来たる東征は生存権を賭けた戦いである。この奇怪な人界とはまったく異なる化外の鬼と対する以上、死を恐れてなお立ち向かう気概を持たねば勝利は出来ない。 「竜胆様、私は……」 「ああ、おまえもだぞ龍水。いつもいつも人から言われたことや、与えられた立場だけを甘受して、思考を停止するのは悪い癖だ」 「自分が何をしたいのかは自分で選べ。誰を想っているのか己に問え。最初から出来あがっている状況だから、その中に在るのが御門龍水の王道なのか? あまり自分を甘やかすなよ」 「私は真実、選んだぞ。おまえもそうした問いの果てに、なお私を慕ってくれると言うのなら……」  言葉を切って皆を見据え、久雅の鬼姫は次の瞬間、腹の底から大喝した。 「ついて来い、いくらでも抱いてやるわ!」 「おまえたち全員――」  紫織も、刑士郎も、宗次郎も、そしてこの場を見極めんとしている他の者らも、等しくそのとき、我が身の内で奮える何かを感じ取った。 「益荒男ならば〈率いて〉《愛して》やる。さあ口上はこれで終わりだ!」 「おまえたちの将たる者を、今こそ見極めてみるがいい――私は死なんぞ!」 「仮にもしそうなったとて、我が一命が火を灯すと信じている。そのときおまえたちは、もう死者ではない!」  自分の死の先にある事象を思い、それを信じていると言う竜胆。その思考も論法も、この世の異端であり常識外には違いない。  だが少なくとも彼女の言葉は、一切の衒いがない本気だということだけは伝わっていた。  なぜならその、烈しくも暖かい情―― 「そんなおまえたちならば、必ずや化外に勝てよう」 「私はそう確信している。ゆえに魂を知ってくれ」  降り積もる雪の総てを溶かすような……これほどの輝きを目にしたのは、皆初めてのことだったから。 「――いいだろう」  刹那――彼女を守り、包むように、一陣の烈風が御所の庭へと舞い降りる。 「惚れたぜ、久雅の姫さん。〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈の〉《 、》〈う〉《 、》」  征夷の将となる姫のため、身命を賭すと誓った初めの一人が、現れていた。 「―――――――」  最初の反応は、ただひたすらの驚愕一色。そりゃそうだろう。このおかしな勇ましい姫さんには、まったく予想外だったに違いない。 「自分で呼びかけといて驚くなよ。ほんとに無鉄砲だな、ご主君様」  だがその潔さ、実に凛々しい。誰かが助けてくれるかもとか、奴らが退いてくれるかもとか、そんな打算は一切持っていなかったのだ。  その上で、捨て鉢だったわけでも無論ない。恐怖が麻痺していたなんて有り得ない。強いて言うなら信じていたのだ。  何をって、そりゃあその、生憎まだ俺には分かんねえけど……  興味が湧いた。それを知りたい。だから今ここにいる。  いい女だと思い、惚れたから。理由としちゃあ、そんなもんで充分だろう。 「おま、えは……」 「坂上覇吐。あんたの家臣だよ、お姫様」 「坂上……?」 「なんだ? 本家じゃもう忘れられてんの?」  まあ、仮にそうでも無理はない。何せ俺のご先祖様は、三百年前にどぎつい陰気を被ったせいで所払いを食らっている。  まず何よりも俺自身、今まで家が続いたことを不思議に思ってるくらいだから、五大竜胆の筆頭様に忘れられても仕方がないわな。当たり前だろ。 「一応昔は、それなりに高い地位だったって聞いてんだけどな」 「ありゃ母ちゃんのフカシなんかね。別に真偽はどうでもいいけど、俺みたいなのに担がれるのは不服かい?」 「……いや」  問いに、お姫様は首をゆっくり横に振って、それからまじまじと俺を見た。 「知っているぞ、坂上か。おまえは私の、家臣なのだな」 「ああ、そうだよ」 「私についてくると、そう言うのだな」 「もちろん、言ったろ。あんたのために俺は死ぬ」 「おまえのためではなく?」 「あんたのためにだ」  この姫様特有の理屈ってやつは、正直ピンとこないところもまだあるが。 「あんたは面白い。俺にとっちゃあ、それが何より大事なんだよ」 「いいじゃねえか、酔わしてくれよ。あんたが大将なら退屈せずにすみそうだし」 「その、なんだったか。ほら、言ってただろ」  胸の奥に生じる何がしかを指していう言葉。 「そう思うのが俺のタマシイ?てことで、一つ納得しちゃくれないか」 「あんたが見ているものを俺も見たい」 「――――――」  はたして思いは通じたのか。そしてお気に召してくれたのか。  分からないが、一拍の間を置いた後に静かな声で。 「竜胆だ。以後私をそう呼ぶがいい、覇吐」 「なにやらまだズレもあろうが、おまえを信じよう。我が剣となれ」  姫は微かな笑みを浮かべて、同時に力強く言ったのだ。 「ならばその魂、将たる私が抱いてやる」 「よし来たァッ!」  聞きたかったのはその言葉だ。欲しかったのはその許しだ。こんないい女に抱いてやるとまで言われた以上、俺のするべきことは決まっている。  向き直って竜胆を背にし、哀れにもさっきから舞台背景と化している端役どもを睨み据えた。  まあおまえらも今日のところは、大人しく俺たち二人の引き立て役になっておけよ。 「見せてやるから覚えとけ。今から俺の〈覇〉《き》を吐いてやる」 「なあ、てめえらも、一緒に東へ征こうじゃねえかッ!」  みなぎる覇気は大気を震わし、〈秀真〉《みやこ》の空へと響き渡る。  ゆえに無論、その呼びかけが向かう先は御所の舞台だけに留まらず―― 「夜行様……」 「あの者、こちらに気付いております」  西の人界における奈落の穴にも、確と熱を帯びたまま届いていた。 「面白い。私を呼ぶか」  ぎらぎらと、ぎらぎらと、空の深淵より覗く天上の瞳。  それが見据える先の者らは、あまりに眩しく輝いて見えて―― 「あなや、愉快なり。これはいよいよ末法も近いか」 「本当に、なんと破天荒な方々でしょう」  神州最大の歪みを宿す少女の胸にも、何か不明なものが揺らぎ始める。 「どうしてでしょう。なぜか我々が空虚なものに見えるのは……」 「ねえ兄様、わたくしどもは本当にこのままで……」  問いの答えはまだ出せない。出せないからこそ始めねばならない。  そう、これより真なる東征の神楽を。 「北方、久雅竜胆公が〈麾下〉《きか》の一―――坂上覇吐!」  流石、仕掛け人だけあってノリは弁えているらしい。龍明が声高らかに威厳をもって、俺の参戦を公式に承認する。  当然、書類上の諸々なんかはとっくに改竄済みなのだろう。まったく、頼もしいと言うか恐ろしいと言うか、確かにあれを敵に回すのはやべえよな。 「彼の者は紛れもなく久雅家の臣。よって御姫君の代行となり、神楽の益荒男となるべく参上した。各々、異存はあるまいかッ!」  捻じ伏せるような大音声に、小賢しい異を唱えられる奴などいるわけがない。六条どもでは格が違うし、中院とてもはやどうにもならないだろう。  陛下は、まあ、言っちゃ悪いがお飾りだ。後は俺が速やかに、この場を治めれば全部終わる。 「は、覇吐……」 「ああ、おまえも頑張ってたなチンチクリン。見直したぜ大したもんだ」 「後は任せて、休んどけよ。それともあのおっかねえ母ちゃんに、まだいいとこ見せたいか?」 「な、ぐ――、だ、誰がチンチクリンだ。この大虚け!」 「い、痛い。こら馬鹿、頭をぐりぐりするでない!」 「まあ、ともかくそんなこんなでよ」  ぎゃーぎゃー喚いているチビを放置し、こいつほど簡単にはいかない連中へと目を向ける。 「やるかい、宗次郎。それから玖錠のお姉ちゃん」 「愚問ですよ、覇吐さん」 「あんたはこう、何て言うかあったまくるわ」 「そりゃ、あれだけいいとこ取られたらなあ。カッコよかったろ、俺様」 「んで、俺よりイカしてんのはうちのおかしなお姫様だ。そのお方が言ってんだよ、くだらねえことでぽんぽん命捨てんじゃねえ」 「今のおまえら、ぼろぼろだろうが。そんな奴ら捻ったところで自慢にならんし、何より〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈株〉《 、》〈を〉《 、》〈下〉《 、》〈げ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》」 「喧嘩なら、この先いくらでも出来るだろ。どう見ても弱ってる状態で勝ったの負けたの、どっちが強ぇの、周りの連中におまえらを値踏みさせたかねえんだよ」 「そういうのは、俺と竜胆の王道じゃない」 「恥かくぜ、やめとけよ」 「――笑止」 「ならば僕の王道も教えましょう。ひとたび抜けば、誰であろうと斬ることです」 「それに覇吐さん、覚えているでしょう。僕は最初から、あなたを斬りたくて堪らなかった」 「そこのご主君流に言わせてもらえば、そうした僕の気持ちを酌んでくださいよ。将であるなら」 「むっ……」  なるほど、確かにその通りで、そういう理屈も成り立つわけだ。なんだか堂々巡りになりそうだな。  するとやっぱりこの考えは、構造的にでかい欠陥があるらしい。主流じゃないのも当然で、口には出せないが狂った論理なのだろう。  だが、それでこそ面白い。姫は俺を飽きさせない。  その証明が、いま成されたように思えたから…… 「何が可笑しいんです?」 「いやなに、ちょっと運命ってのを感じてな」 「それで、そっちは?」 「こっちも愚問」  玖錠の女は鼻で笑って、宗次郎とはまた質の違う気勢を叩き付けてくる。 「退けないんだよね、無理な相談。こんないい男たちが一杯いるのに、なんで遠慮しなきゃいけないの」 「私も益荒男に恋してる。お姫様とはきっと違うんだろうけど、譲りたくないってそう思う」 「だから正直、嫉妬しちゃうね。こっち向かせたくて堪らない」 「おまえはもっとふらふらと、掴み所ないのが味じゃねーのか」 「そうだよ、惑わせたいと思うのが私の王道」 「そりゃまた、なんつーか……」  こいつはこいつで変態的だわ、いい女だわ、アレをコレしてナニをそうしつつヌキヌキポンとかやりたくなるけど。 「あーもう分かった。いいぜ、来いよ」  どだいもとから、俺は口が達者な人種じゃない。こいつら大人しくさせるんだったら、手段は一つしかないだろう。 「じゃあ……」 「行きますよ」  二人が踏み込んでくるその直前、そういや言っておくべきことを思い出したんで、口にした。 「俺って実は、まともに陰気を測られたことがなくてよぉ」  現にあの大晦日、御門の屋敷に行くまでは自分自身でも知らなかった。 「龍明が見た限り、俺の等級――」 「七、だってよ。そこの凶月より上らしいぜ」 「なッ―――」  背後から伝わる、龍水の驚愕。  ああ、おまえの見鬼も相当だろうが、流石にそこまでいっちゃってるとは、いくらなんでも思わなかったわけだよな。 「馬鹿な……」  麗しの姫君が呆気に取られているのを苦笑で受け止め、瞬間――俺は全力で地を蹴った。  宗次郎に、それから玖錠の、おまえらの気持ちってやつを酌んでやるよ。手加減はしない。 「――はあああァァッ!」  迫り来る刺突の一閃は精妙にして無謬、いっそ華麗とさえ言えるだろう。並みの人間なら立つことさえ出来ないほどの怪我と消耗を抱えながら、こんな技を出せる宗次郎の腕には心の底から感心する。  確かに竜胆が言うように、これはもったいなさすぎるよな。おまえの剣には、もっと相応しい晴れ舞台ってのがあるだろうよ。  だから、なあ、一緒にそれを探しにいこうぜ。きっと滅茶苦茶熱くなれる気がするから。  走る剣先が額を掠めて通り過ぎる。そのまま潜り込むような形で懐へ入ったのとまったく同時に、俺は宗次郎の鳩尾へ肘の一発を叩き込んだ。 「ぐァッ―――」  まあ、こいつならきっと死にはしないだろう。二・三日メシが食えなくなるかもしれないが、それくらいは勘弁してくれ。  〈太陽神経叢〉《たいようしんけいそう》を貫かれ、吹き飛ばされた宗次郎はもう動けまい。あいつの歪みは異形を発生させるほどじゃなく、肉体的には至極真っ当な範囲のはずだ。  ゆえに次は、もう一人――  俺が顔をあげるよりなお早く、囲い込むような突きと蹴りが実に八方向から飛んできた。凄ぇな、これ。いったい全体どうやってんだよ。  惑わせたいと、確かそう言っていたのを思い出す。なるほど実に幻惑的で、もはや魔性とすら言いたくなった。こんなものを見せられたら、否が応にも目が吸い付いて離れない。  その上で、だけど自分には触らせないって? まったく何だよ淑女すぎる。ツボ弁えすぎて鼻血出るわ。  あまりに色っぽいものだから、躱すのなんて惜しかった。八発全部まともに受けて、それら丸ごと女の身体を抱きしめる。 「いいいいぃぃ」  玖錠の、確か紫織だったか。うん、こうしてすぐ間近に見ると、中々結構な美人じゃないか。化粧っ気ないけど良い匂いだし、胸でかいし。思わずくんかくんかしてしまう。 「ちょ、ちょ、ちょちょちょ――」 「あ、悪ぃ。つい癖で」  今はそんな場合じゃないよな。心なしか背後から、竜胆の凄い殺気が飛んできたような気もするし。 「おやすみっと」 「あ、がッ―――」  そのまま締め上げるように力を込めて、落とすことに成功した。硬気の剛体は打撃や斬撃に強い反面、こういうところに脆さが出る。  さあ、それじゃあそんなわけで―― 「後はおまえだけなんだが、どうするよ凶月の」  最後に残った一人へ向けて、俺は油断なく問いを投げた。 「おまえは正直、別物だからな。やるなら一対一に持ち込む必要があったわけでよ」  それは紫織や宗次郎に比べて、実力がどうのという話じゃない。俺とほぼ変わらない規模で汚染された歪みがどういうものか、知りすぎるほど知っているがゆえのことだ。  今のこいつには、怪我も疲れも何もない。あの僅かほんのちょっとの間だけで、先の負傷が残らず帳消しになっている。  俺の乱入でこいつに回復の機を与えてしまったわけだから、先に宗次郎らを退場させたのはごく当然の対応だろう。そうしなければ勝負に公正性を欠いたまま、あいつらは殺されていたことになる。  よって必然、後は俺がこいつをどうにかしなければならない道理で…… 「喧嘩してえんなら、受けて立つぜ」  だから、よお、どうするチンピラ。  共に戦意を目に込めて、俺と凶月は睨み合った。 「……………」  一触即発の状況に呼吸も忘れ、竜胆は二人の男を見つめている。  まるでそう、いつかの夢の再現だ。  あの時は途中で目覚めた。ゆえに結末まで至らなかったが、今度のこれはそうもいかない。  ではいったい、どうするべきか。  この場をどのように見るべきか。  固唾を呑んでいたその時に、ついと袖を引かれて我に返った。 「竜胆様、どこも大事無いですか?」 「……ん、ああ。私は何も」  見れば、なんとも複雑な目でこちらを見上げる少女の視線とぶつかった。乱れた髪と汚れた顔が痛々しい。 「おまえこそ、平気なのか龍水。強かに殴られただろう」 「それは、まあ、そうですが……私のことなどはいいのです 」 「本当に、肝が潰れるかと思いました。なぜいきなりあんなことを……」 「竜胆様は、常々私にも不満を持っておられたのですか?」 「…………」 「私も他の者らと変わらない。そう苦々しく思っておられたのですか?」 「いや……」  そういうわけではないのだが、この少女の献身ぶりもどこか歪んで見えたのは事実。 「それについては、また話そう。今は一つだけ言わせてくれ」 「私はおまえが好きだよ、龍水。気苦労かけて、すまなかったな」 「あ……は、はい」  手を伸ばして頬の汚れを拭ってやると、龍水は驚いたように硬直したが、やがて目を細めて安らいだ表情を浮かべていた。竜胆もまた、微笑する。  そう、今はこれでいい。  自分とて、ずいぶん殻に篭っていた。他者に心を開かなかった。  結局世界を狭めていたのは自分自身で、ほんの少しでも勇気を出せば景色は変わっていたかもしれない。  それが証拠に、こうやって、いま自分を案じてくれる者がいる。剣となってくれた者もいる。  だから、それらの現実を信じよう。もはや夢とは違うのだ。 「あの時とは、違う」  あの夢の再現とはならない。  そう、強く心から信じ抜いて……  竜胆は神楽の終焉を見届けるべく、ただ決然と顔をあげた。  そして迎えたこの局面、ひりつくような静寂を破ったのは、地を這う含み笑いだった。 「ふふ、ふふふ、はははははははは」 「ははは、はははははははははははははは……」  堪えきれぬとばかりに肩を震わせ、凶に憑かれた男が俺を見る。  その目はある種の喜びに染まりながら、同時に怒気と殺意の混交だった。これがこいつの、人格として基本となる在り方というやつなのだろう。  低く、静けさすら感じさせつつ、しかし暴力への興奮を隠そうともしない。 「ボケが、何をいきなりしゃしゃり出て、気持ちよく仕切ってやがる。阿片でも食ってんのか、よォ」 「てめえのほうが阿片食ってるみたいなノリじゃねえか。いちいち最初に絡まねえと喧嘩できねえのか、タコ」  天下の嫌われ者である凶月だということが、こいつにとっての自負なのだ。その好戦性も、排他性も、喜々として発揮することが存在証明になっている。  まあ、言われなくてもこいつの背景なんてものは、容易に想像できるところだ。  いつも周りは敵だらけ。悪意に悪意をぶつけ返して潰し続けてきた人生だから、そうする以外は何も知らない。  そこらへんは似た者同士、理解できるし酌んでやれないこともない。  が、しかしだ。 「あんまりカッコよくねえな、そういうのは」  好き勝手に暴れ回るだけならガキでも出来る。稚気を否定するつもりはまったくないが、ムカついたから殴りますじゃあ白けるだろう。  どうせやるなら小粋に洒落て、魅せる舞台じゃなければ意味がない。 「おまえも俺も、漢なら――」  同じガキ臭いノリでいくなら華のように―― 「せめてもうちっと〈傾〉《かぶ》いていこうや」 「〈御前〉《ここ》は何処だ? 〈神楽〉《これ》は何だ? 俺らァそもそも、なんつー名目で戦り合うんだよ」  神州の命運を懸けた、益荒男を募る撃剣の神楽。アホ臭い欺瞞だらけのお題目だが、それを信じようとしている姫さんがいる。  〈東征〉《まつり》の大将がそうだと言うなら、乗ってやるのが筋だろう。だったらこの場を、単なる私戦にしちまったらつまらない。 「分かるか、要は気分の話だ。今の俺は久雅の家紋を背負った益荒男なんだぜ。じゃあてめえはなんだよ?」 「何も背負ってなければ懸けてもねえ、たかが野良犬みてえな凶月一匹ぶちのめす? ――はン、笑わせんなよそんな茶番じゃ、俺のタマシイは燃えねえのよォ」 「ほぉ……」 「たかが、と言ったか。田舎モン」  瞬間、明らかに空気が変わった。 「ああ、思い出したぞ。ありゃてめえか。龍明の屋敷じゃ随分調子付いた真似してくれたよなぁ」 「真似っつーか、俺はてめえに声もかけちゃいねえんだがな」  どうやらそういう問題でもないらしい。  ぎりぎりと、ぎちぎちと、音を立てて奴の筋肉が蠕動していく。そこにどれだけの力が込もっているのか、握った得物の柄が軋み、今にもひしゃげかかっているのが容易に分かった。 「たまにな、出てくるんだよ、てめえみたいな虚けモンが。〈凶月〉《うち》に喧嘩売るのが男の証だとでも勘違いしてやがる阿呆ども」 「迷惑だ。鬱陶しいんだよ邪魔臭え。だから俺はそういう奴らにいっつも言う」 「後悔はしなくていい」 「する暇すら与えねえよ。なあ、その頭沸いた夢心地のままよ」  同時に、雪と白砂を噴流のように巻き上げて奴が消えた。 「――消えちまいなッ!」 「――――――」  速い――こいつの体術は一通り観ていたはずだが、それでも瞬間的に見失った。  何事も実地に体験しないと分からない。それは確かにその通りだが、こいつの武力は中でも特級ということなのか。  まったく、なんとも―― 「面白ぇ!」  瞬時に身を翻し、側背からの唐竹割りを受け止める。防御が成功したのは半分以上ただの勘だが、だからといって冷や汗なんぞはかいちゃいねえ。  そういう諸々、丸ごとひっくるめて俺様だ。偶然だろうが何だろうが、一度凌げたなら百でも千でも同じだろう。俺はこいつに殺られるタマじゃないってことだ。  が―― 「何を安心してやがる」  次の瞬間、押し切るような圧力が刀身に加わった。そのまま武器ごと両断しようと重さが増して、刃金が軋み…… 「阿呆が、誰と力比べしてんだよ。――死ねやァッ!」  鈍く響いた音と同時に、俺の得物は中ほどからへし折れた。 「馬鹿な――」 「とかいう三下御用達の糞台詞――」  同時に、カラクリよろしく折れた刀身が組み変わる。これは俺がやったんだよ。  同じ高位の歪み同士、こんなあっさり力負けするとでも思ったか。 「言うわけねえだろ、相手見て物言えタコがァッ!」  直角に折れ曲がった刀身が、さらに〈撓〉《しな》りながら凶月を襲う。その様は、喩えるなら獲物を絡め取ろうとする蛇の動きに見えたろう。  もとより俺は最初から、自分が剣士だなんて一度たりとも言っちゃいない。  押し切る力を逆利用され、首を巻き切るように迫る刃は常人ならば即死ものだ。普通は意味も分からないまま引き裂かれて終わるはず。  だが、しかしそこはそれ。 「てめえ……」  言うまでもなく、こいつは常人じゃないわけで、即座に飛び退き躱している。俺もあれで決まると思っていたわけじゃないが、一泡噴かせるくらいの効果はあっただろう。  まあ、最初の一合としては中々の演出だったと言えるんじゃないか。 「どうしたよ、凶月の。後悔する暇も与えねえんじゃなかったか」 「このままじゃあしそうだぜ。てめえが思いのほかショボいんでよ」  挑発に、奴は乗らない。ただじっと無言のまま、しかし抉るような鬼気を込めて俺の得物を凝視している。 「気になるかい、これが」 「こんなもんはただの玩具だ。術にもならねえ宴会芸のびっくり箱だぜ? あんま大仰に驚くなよ、こっちが恥ずかしくなってくらァ」  最大で二十の刃に分裂し、蛇腹のように伸縮する剣であり鞭。これはこういう武具なだけで、何も特別なものじゃない。  ちょいと手品めいた器用さは要るものの、結局はそれだけの代物だ。 「おまえさんの禍憑きに比べりゃあ、カスみたいなもんさ」 「だから、びびってないで来いよ。悪名が廃るぜ」 「それとも――」  うねくる刃を従えて、そのまま一歩、前に出る。 「こっちから行こうか?」  鋼が擦れ合う金属音を響かせて、地を跳ねるように蛇行しながら刃が走る。  こいつの射程は十間に達し、その角度は変幻自在だ。初見でそう易々と対応できるものじゃない。  足元から跳ね上がった一閃を躱す凶月。しかし次の瞬間に切っ先は向きを変え、奴の背へと襲い掛かる。  だが当然、まだ王手にゃ早いだろう。 「はッ――」 「へッ――」  躱す。躱す。躱し続ける。  鞭状の武器はただでさえ速さを増し、使い手が常人でも先端速度が音の壁を突き破るのだ。龍明曰く七等級の俺が揮えば、この乱舞は音速など欠伸が出る代物となっているに違いない。  しかし、それでも奴は躱す。うちの何割かは勘だろうが、だからといって偶然でもない。刃そのものより俺の手元、そこを注視することで攻撃の先読みをやっていやがる。  その技量、素直にお見事。称賛してやっていいだろう。  だが、それだけだ。  こいつは俺に近づけない。躱し続けるのに手一杯で、次の行動を起こせない。  まあ、そこを言うなら俺とても、現状維持に手一杯と言えるのだろうが。 「クソが、うぜえッ!」  悪罵は、そっくりそのまま返したかった。  ひょいひょいひょいひょい飛び回りやがる。どうやら速さは奴が上だが、そこは武器の特性で相殺できた。  勝負は、近づきたい凶月と突き放したい俺の間で、間合いの取り合いと化している。それが膠着しているということは、すなわち技量が伯仲している証だろう。  その事実に少なからず驚嘆しながら、しかし俺の心は焦りの類と無縁だった。  むしろこうでなくちゃつまらない。 「まったく――」  自然と口元が緩み、笑みがこぼれる。  柄を背に回しながら手元を隠し、俺の股下から跳ね上げた変則さえこの馬鹿野郎は躱しやがった。 「なあ、おい――」  さらに御所の柱を経由させ、副次的な角度を生じさせても当たらない。立ち回りながら周囲の地形を、しっかりを記憶していたというのだろうか。  そのしぶとさ、鬱陶しさ、一髪千鈞の鬩ぎ合い。  ぎりぎりの淵で感じるこの緊迫感―― 「やるねえ。悪ぃな、舐めてたよ」 「だから言ったろうが、田舎モン」  ああ本当に、綺羅綺羅しいじゃねえか華の〈秀真〉《みやこ》よ。逢う奴どいつも変態ばかりで退屈しない。  宗次郎なら、紫織なら、あの二人だったらこの攻撃をどう捌くだろう。たぶんこういう根競べにはならないはずだ。  あいつらは俺たちほど強健じゃないが、同時に俺たちより技が切れる。  ならばおそらく、いや確実に、もっと早い段階で見切ってしまうに違いない。  すなわち―― 「ぐ、ッラァッ」  一閃――ここで初めて凶月は、俺の攻撃を武器で弾いた。  高速で宙を走り、変幻自在に襲い来る二十の刃。その中で流動的に変化する芯の一枚を看破したのだ。これをやられると総ての刃は制御を失う。  瞬前まで毒蛇の鋭さを具現していた刃の群れが、途端に糸くずのごとく萎れて落ちた。そこに雷光の速さで踏み込んでくる影―― 「見せすぎなんだよ、井の中の蛙がァッ」  刹那のうちに間合いを詰めた凶月が、膝より低い位置から跳ね上がるように迫り来る。  なるほど確かに、俺は上京したての田舎モンで、井戸の中にいたんだろうよ。世間知らずなのは認めてやる。  だがな―― 「違ぇぞ、よく見ろ。俺は龍だ」  蛙じゃなければアメンボでもねえ。  制御を失った刃がうねくり戻り、再度得物が組み変わった。まさしく龍のごとき巨大な〈顎〉《アギト》へ。  〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈型〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》。 「いらっしゃい、お馬鹿さん」  さっきはわざと弾かせたんだ。宗次郎らにゃ劣るだろうが、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈ず〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈よ〉《 、》。  弾く刃も、その角度も、誘導されたとは思わなかったか? 俺の手元をやたら警戒してやがるから、この変形はおまえ自身にやらせたんだよ。 「事前に〈傾〉《かぶ》いていこうと言ったじゃねえか」  クソ退屈な膠着なんぞ、だらだら続けてられっかよ。 「上等だてめえェッ!」 「よっしゃ来いやァッ!」  基本は大剣、次は刃鞭、そして第三の型はこの大鋏だ。中距離、遠距離、近距離全部にこの三種で対応できる。  下から迫る凶月を、俺は上から迎え撃った。機の面ではほぼ同時。  ならば後は、単純な力勝負―― 「おらあああァァッ―――!」  渾身の一撃に咆哮を乗せて、大気を砕く轟音が御所の庭を震撼させた。 「……ん」  その衝撃に四肢を震わせ、玖錠紫織は瞼を開いた。 「あ、っ……何よ、今のは……」  気絶していても心臓を潰されるかと思った戦意の爆発。あんな気合いを間近で受けて、眠っていられるほど鈍感ではない。 「目が覚めましたか、紫織さん」  ゆえに、傍らから掛けられた声にも特に驚きはしなかった。落ちる前に何があったかは記憶してるし、今がどうなっているかも想像はつく。  まあ、強いて言うなら、この相手が自分より先に目覚めていたというのが少しばかり悔しいだけで。 「やあ、おはよう宗次郎」 「はい。大事ないようで安心しました」  双方、ふざけていると言えば、これほどふざけた会話はあるまい。つい先刻まで殺し合っていた者同士、呑気だのさばけているだのいう次元を通り越した態度である。  だが、少なくとも二人の間に、衒った空気は皆無だった。再び戦えないわけでもないが、一度舞台から落ちた以上は乱入の資格などないと思っている。ならば続きは棚に上げるということで、いっそ気持ちがよいほど潔く、そういうところを割り切っていた。  そのまま、世間話に近い口調で宗次郎が訊いてきた。 「経緯の説明は要りますか?」 「いや、いいよ。観ればなんとなく分かるから」  それは、つまり今の状況。 「かー、惜しいね。もうちっとだったんだがな」 「図に乗るんじゃねえぞ、このペテン師野郎が」  御所の中央を鬼気で染め上げ、向かい合っている二人の益荒男。先の激突は互いに必殺を逃しており、両者の勝負はまだ終わっていない。  だが双方の気勢、呼吸、目に見える負傷も見えない消耗も残らず含めて、紫織は戦況を看破した。 「覇吐、だっけ? あいつがちょっと押してるね」 「今のところは。ですが微々たるものですよ」  差はほとんど無いに等しい。言って宗次郎は付け加えた。 「速さは刑士郎さん。力は覇吐さん。戦術に関しては、やや後者。とはいえそれは事前情報の差でしかない」 「つまりあれでしょ、あの傾奇もんは登場するまで私らの勝負を見物してた。だから刑士郎のことが少しは分かる」 「対して逆は、そうもいかない」 「ええ。ですから逆に言えば、その優位性を発揮できるうちにさっさと斃すべきだった。いやまあ、出来なかったからこうなっているのでしょうが」 「ほんとに?」 「というと?」 「わざと引き伸ばしてんじゃないの、ってこと。加減してるわけじゃないだろうし、実際にさっさと殺れたとも思えないけど、確実に楽しんでるよね、あれ」 「まるで初めて馬に乗った子供みたい」  高位の歪み同士による戦いなど、お互い未知であるに違いない。  ゆえに己が手にある馬力を楽しみ、その限界値を探る作業に興じている。紫織の目には、覇吐がそのように映っていた。  それが良いか悪いかはともかくとして。 「なるほど。気持ちは分かるとだけ言っておきましょうか」 「ただ何にせよ、もう誤魔化しは効かない」 「えらくけったいな得物だけど、流石にこれ以上はやらせないでしょ」  三段変形する覇吐の武器は、それを操る技術も含めて確かに凶悪と言っていい。もしかしたら第四・第五の型すら存在するのかもしれないが、組み立ての難易度は間違いなく跳ね上がるだろう。  特異な武器には違いないが、それ自体は常識に属する拵えである。ならばその扱いは一般の法則に則るもので、変形を重ねるごとに手順が複雑となっていくのは避けられない。  刑士郎ほどの敵を前に、戦いながらこれ以上の型を出すのは困難だろう。単純な意味での難度に加え、種はもはや割れているのだ。  覇吐の手癖がどれだけ巧く、悪辣でも、さらに騙しを打てる可能性は限りなく低い。  つまり、武技と身体性能に差がないことを踏まえつつ、理屈で観るなら手詰まっている。 「ですがそれは、あくまでも理屈上での話」  冷静に、ここまでの考察をただの前提と断ずる宗次郎。そこは紫織も弁えていた。  なぜなら、彼らは共に鬼札を持っているから…… 「勝負は常識を打ち破る反則技のぶつかり合い。してみれば覇吐さんは、あえてその土俵を作り上げようとしたのかもしれませんね」 「彼流に言うならば、〈傾〉《かぶ》いた舞台を演出するための、お膳立てというところでしょうか」 「でも、刑士郎は禍憑きを使わないよ」 「そのようですが、しかし、それでは……」  曰く、七等級という桁外れの歪みである覇吐。彼の異能に対する術が、禍憑きを封じた刑士郎には存在しない。 「もとより伯仲した実力同士、必殺の札を伏せたまま戦えるわけがないでしょう」 「何の事情で封じているのかは知りませんが、刑士郎さんも馬鹿ではない」 「〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈思〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈け〉《 、》〈ど〉《 、》」  心なしか責めるように、意地悪げな流し目を向けつつ、紫織は言った。 「まあともかく――」 「私はあのお兄ちゃんが、妹遺してくたばるとも、無碍に扱うとも思えないなあ」  では、いったいどうなると言うのか。見守る視線の先で、今―― 「いくぜェェッ―――!」  重なり響く咆哮と共に、おそらくは終局となるだろう第二の幕があがっていた。  乱れ飛ぶ火花。吹き荒ぶ暴風。常人には視認どころか、音を正確に聴き取ることさえ出来ないだろう。  覇吐の得物は基本の大剣に戻っている。三種試してこれが一番に刑士郎に適していると判じたのか、再び変形させる気はないらしい。  ただ速く、どこまでも重く、容赦ない苛烈さで打ちかかり攻めかかる。  そして対する刑士郎も、それら悉くを真っ向から弾き返した。まさに文字通り一歩も退かない。  その様は、言わば雷光。稲妻に乗った魔性同士のぶつかり合い。他者が介入できるものではないし、触れようものなら微塵に砕かれる鋼の嵐だ。  薙ぎ払う一閃。抉り貫く一刺し。叩き割って両断どころか、四散させようという打ち下ろし。そのどれもが達人域の冴えである。  しかし、それでありながら、徹底的に型を無視した変則だ。順手、逆手は無論のこと、時には投擲さえ混ざるほどに掴みが千変万化しながらも、奇術のように柄が手の平から離れない。  有り得ぬ角度と機の連続は野生の獣そのもので、にも拘らず技の連絡自体は呆れるほどに流麗だった。基本を熟知し、かつそれを飛び越えるのが巧者の術理とするならば、二人は共に同じ結論へと至ったらしい。  すなわち、技は力の中にあり。  膂力、握力、反応速度に、それらを支える耐久力――土台となる身体性能を最重要視した上で、だからこそ可能な技を突き詰めている。  柔よく剛を制すではなく、剛よく柔を断つでもない。  〈剛〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈柔〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈至〉《 、》〈高〉《 、》。  その答えに、異を挿ませない。挿める者などいないだろうと言えるほどに、彼らの戦闘技術は極まっていた。  そう、誰の目にもそれは明らか。ゆえに見る者の技量に関係なく皆が思う。  この後、いったい何がどうなる――?  神楽の結末はどこに向かう――?  嵐は血を巻き、真紅と化して……  なお一層、その激しさを増していき…… 「〈憂〉《う》けれども、生けるはさても、あるものを、死ぬるのみこそ、悲しかりけれ」  奈落は嗤い、詠嘆しながら御所を見下ろす。 「さあ魅せてくれよ、まだ温いぞ」  そして、禍津の少女はただ密やかに。 「兄様、あなたはそうまでして……」 「少々、わたくし腹が立って参りました」  しとやかだが、強い心を込めて呟いていた。 「覇吐……」  竜胆は目を逸らさない。傍らにある龍水の手を強く握り、事態の趨勢を見守っている。  あのときと同じ。あの夢の再現。だが信じているのだ。決してあの通りにはならないと。 「そうだろう? なあ、分かっているよな?おまえが誠、我が剣ならば……」 「まだ私は、誰にも死ねとは言っていないぞ」  ゆえに、その荒れ狂う歪みの奔流、見事制してみせてくれ。  それでこそ―― 「それでこそ、我らは東征に必勝できるはずだから」 「おまえの考えは分からぬが、私はただ信じている」  主君の期待に見事応えよ。その凛烈な信頼を〈背中〉《せな》で受け止め―― 「そりゃ抱いてもらいてえもんなァッ!」  迫る一刀を渾身の力で弾き返し、俺はあらん限りの声で叫んだ。  眼前の野郎は仮想化外であると同時に、東の鬼どもへ撃ち込む矢の一本だ。我が麗しの姫君へ俺が捧げる、最初の武功でなければならない。 「てめえの王道は何処にあるッ」  そのタマシイ、その信念――曝け出せよ、〈東征〉《まつり》に相応しい益荒男か否か。 「てめえはいったい何のために――」  凶月であるという自負の総ては、いったい何を主として存在するのか。 「言わなきゃぶっ殺しちまうぞ、出し惜しみ野郎がァッ!」  同時に、叩き降ろした乾坤一擲。それを躱しもせずに真っ向受け止め、野郎の膝が崩れかける。  その中で―― 「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ……」  軋るような、声と共に―― 「やかましいんだよ、虚けモンがァッ!」  ぶつかり合う爆発に等しい衝撃が、俺たち二人を弾き飛ばした。 「つゥッ――」 「ぐゥゥッ――」  そして再び、距離を開けて睨み合う。共に肩で息をしながら、しかし戦意は倍増し以上に高まっていた。  ばりばりと音を鳴らす歯軋りが聞こえる。立ち昇る怒気の陽炎が視認できる。  狂おしいほどの激情を纏わせて、凶月一族の頭領が俺を見る。 「黙って聞いてりゃ、くだらねえことばかりペラ回しやがる。出し惜しんでるのは、てめえじゃねえのか」 「出せよ。ほらよォ、チンケな歪みを見せてみろよォ!ぶっ潰してやるぜ、俺は負けねえ!」 「誰にも、何処のどいつだろうと、舐められるわけにはいかねえんだよォッ!」  その憤激。天下の総てに牙を剥くような戦意の発露は、ただの面子に関わる矜持のみとは思えない。  こいつら凶月がどんな集団であるのかは、噂だけだが聞いている。そこから想像する限り、野郎にとっての芯の部分が仄見えた。 「つまり、要は返し風か?」  禍憑きという歪みの性質、その特性。 「てめえら凶月は一蓮托生らしいじゃねえか。珍しい概念だ」  紫織や宗次郎のような〈常〉《 、》〈識〉《 、》〈人〉《 、》は、基本として個だ。 自分を他者に重ねなどしない。  そういうことをマジにやれるのはおそらく天下に竜胆だけで、俺はその狂気じみた在り方を面白いと思う。だがこいつはどうだ?  強いて言うなら、龍水に近いのか。利他的なようで利己的。自分を保つための献身というやつ。  それが個人の思想でも、社会機構上の法でもなく、より現実的な縛りとなっている共依存の群体。この世においてそんな奴らは、他に類がまったくない。  言わば、凶月の中でのみ機能している絶対的な因果応報。  やったらやり返されるから大人しくしましょうなんてのは、誰でもガキの時分に教わることだが、こいつらはそれを文字通り強制されてる。 「てめえが禍憑き使うと別の凶月がおっ死んじまう。なら一人一人は無敵でも、丸ごと攻められりゃあ将棋倒しの全滅だわな」 「だから凶月一族は大したことねえ。そんな風に思われたらお終いだってのはよく分かるぜ。でもよ……」  深く、息を吐いて―― 「確認させろや。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈を〉《 、》〈守〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈を〉《 、》〈封〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈ん〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?」 「ああァ?」 「だからよ、結局のところてめえの身可愛さが全部なのかって訊いてんだよ」  あの日、初めてこいつを見たとき、晦日の夜を回想する。  まるで主君に対する侍従のように、いや、崇拝する天意か何かの信徒のように、こいつは牛車の何者かを守っていた。  詳しい事情は知らないが、確か紫織も似たようなことを突っ込んでたろう。  こいつには、単純な保身と異なる事情がある。  まあ、俺の見たところ…… 「女だろうが。恥ずかしがんなよ、言ってみろ」 「そっちのほうが、まだしもカッコいいんじゃねえのかい?」 「――うるせえッ!」  怒号と共に大気を震わし、仮借ない殺意の一閃が放たれる。今まで受けた攻撃の中で、これがもっとも強烈だった。 「――図星かよ」 「てめえに何の関係があるッ!」 「ないこともねえよ」  こいつが凶月を不可侵の存在にしたがる理由。それが結局のところ、自分に返し風が吹くのを避けるためならばどうしようもない。  そのときは、この沸騰脳みそ野郎を切り倒すしか事態を治める術がなくなる。そうなれば、俺の姫君はあまりいい顔をしないだろう。  仕方ないとは言うだろうが。  よくやったとも言うだろうが。  やはり駄目だったかと肩を落とす。自分の理想は戯言なのかと、一人悩むに違いない。  そんな顔をあいつにさせたら、俺が俺自身に失望するだろ。  こういう理屈は姫にとっちゃあまだズレてるだろうが、そこは追々修正するから、とりあえずは大目に見てくれ。  まずは結果だけでも出さねえとよ―― 「つーわけで、なあ、教えろっての!」  剣戟の最中、乱れ舞う轟風と衝撃を俺の〈言霊〉《こえ》が透過した。 「てめえが禍憑きを封じる理由は?」 「俺だって、余裕こいて訊いてるわけじゃねえんだぞ」  負けるなんて思っちゃいないが、このまま続けて易々勝てるとも思っちゃいない。  なぜなら、〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈状〉《 、》〈態〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈あ〉《 、》〈使〉《 、》〈え〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。  無敵と自負はしちゃいるが、笑っちまうほど使い勝手が悪いんだよ。 「だから――」 「てめえ、いつまでも恥ずかしがってねえで……」  迫る一刀――身をねじ切るようにして躱しざま。 「――言えっつってんだコラァッ!」  その勢いを回転に乗せて、交差法の一撃を叩き返した。 「ぐうううゥゥッ――」  吹っ飛ぶ凶月。手ごたえ、いま確かにあった。  受け止めた刀身ごと腕はへし折れ、アバラの四・五本もブチ折れたろう。腹の中がどうなってるかは知らないが、どこかの内臓も間違いなくいったはず。 「さあ、これでお膳立ては整ったぜ。その様、危機に陥ったんじゃねえのかよ」  無茶な動きをしたせいで、俺のほうも骨だの靭帯だのがいっちまったが、そんな消耗はおくびにも出さない。 「俺の歪みが見てえんなら、いっちょ〈告白大会〉《ハズバナ》してみろや。使うかどうかは、そのうえで判断してやる」 「ボケがぁ……」  血走る双眸は〈赫怒〉《かくど》を燃やし、我慢の限界を告げている。  我ながらしつこいほどの挑発に、ようやく奴は乗ってきた。 「俺は死ぬのなんざ怖くねえ」 「そもそも死んだりなんかしやしねえ」 「〈凶月〉《うち》のもんらが何をやって、どんな返し風が俺に吹こうが、どうでもいいんだよそんなことは」 「つまり――」  その意味するところはただ一つだ。 「てめえ、死なせたくない奴がいるんだな?」 「――悪いかッ」 「守るだの、幸せだの、知らねえ見えねえ何だそりゃあ食いもんか! 小賢しいこと抜かしてんじゃねえぞ!」 「俺の王道? タマシイだあ? ワケの分からねえ小理屈こねて、穢すんじゃねえよ単純なことだ」 「俺のせいで俺の女殺しちまったら、俺が俺を許せねえだろうがよッ!」  吐き出されたその激情。  凶災と呼ばれ、異形と呼ばれ、それに相応しい羅刹のごとき男が口にした真実は、この場を見守る全員の胸に響き渡った。 「なるほど」  俺が俺が俺が俺が、一回の台詞に『俺』を四回も言いやがってこの馬鹿野郎。清々しいほどの自己中ぶりだが、共感してやる。俺もまったく同感だ。 「安心したぜ。ならいいんだよ」  肩越しに、ちらりと竜胆を見て確認する。色々複雑なご面相だが、まあ今の段階じゃあ俺たちなんざこんなもんだよ。さっきも言ったが、この場はこれで妥協してくれ。  だってこいつが、心底他人なんかどうでもいいと思っている輩なら、マジに収まりつかなかったところなんだぜ?  何より、自分は返し風を食らうことなど恐れていないし、それで死ぬなど有り得ないと言い切ったこと。その強固な自負は、まさか口だけじゃあるまいよ。  だったら――なあ、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈俺〉《 、》〈も〉《 、》〈本〉《 、》〈気〉《 、》〈を〉《 、》〈出〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈か〉《 、》。 「禍憑きを出しな」  声は低く、重さを持って御所を流れた。さっきまでの挑発とは明らかに次元の違う要求だと、いくらこいつがクソ阿呆でも分かるだろう。 「心配するな。てめえの女に返し風は吹かねえよ」 「〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》」 「なに……?」  それはハッタリでも、方便でも、希望的観測でもない絶対的事実。俺の発言に周囲が戦慄しているのを感じ取るが、嘘じゃないからビビるんじゃねえよ。 「まさか――」 「本当に?」 「そんなことが……」 「出来るとでも……?」  ああ出来るとも。ガチな話だ。  と言っても信じるのは困難だろうが、なぁに、おまえなら分かるだろ。 「どうせここでやられちまったら、女は路頭に迷うだけだぜ」 「そんな自分は、てめえ自身が許せねえだろ?」  だから出せ。六等級というおまえなら、理屈すっ飛ばして俺の言葉を信じられるはず。  あとはせいぜい龍明と、こいつ以上であろう凶月の女。  それから、なあ、ずっと高みの見物決め込んでやがるてめえもよ。 「いいだろう、見極めてやる」 「どう〈傾〉《かぶ》くか見せてくれ」  目と、耳と、肌と心で感じ取る諸々の視線、思惑。それら総てを受け止めて、俺は言った。 「来いよ凶月、刑士郎――」 「―――――」  瞬間、竜胆に言わせれば歪な信頼というやつが結ばれた。  俺の言葉そのものを信じるのじゃなく、自分と互角以上にやり合えた相手だからこそという論法で、こいつはいま決断したのだ。  そして、これは天佑か。あるいは凶事の一つなのか。期せずして駄目押しとなる引き金が引かれる。 「やってくださいませ、兄様」 「咲耶は、見とうございます」  声だけ届く、こいつにとって絶対の〈懇願〉《めいれい》。もはやこうなれば躊躇はするまい。 「……いいだろう」 「本当に、何が起きるか分かんねえぞ」  そのとき、紛れもなく世界が震えた。この世の法則を総て無視する、何の理屈もつけられない非常識な歪みの発現。  それを前に、捻じ曲げられる理が叫喚しているのを感じ取った。〈西側〉《こちらがわ》の法では断じてない、〈穢土〉《えど》の瘴気に呼吸も忘れる。  骨まで染み透ってくる凶事の予兆に、鳥肌どころじゃない〈怖気〉《おぞけ》が走った。  同時に。 「〈禍津〉《まがつ》――」  ぼそりと、別世界の何者かに宣誓するかのごとく呟いて。 「〈日神禁厭〉《ひのかみのかしり》」  身構える俺に目掛けて、白い凶影が攻め込んできた。 「つううゥゥッ―――」  迫り来る圧力は、無論これまでの比ではない。今のこいつは文字通り、有り得ない領域の凶運を纏っている。  振り抜かれる斬の一閃。俺の首を刈り飛ばすべく走るそれは、ただでさえ回避は怪しい鋭さを持っていた。  そしておそらく、〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》〈回〉《 、》〈避〉《 、》〈は〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  足が滑るか、目が眩むか、それとも、いいや――きっとそんなものじゃねえ。  仮にも凶月の頭領が放つ禍だ。もっと何か、目玉吹っ飛ぶようなふざけたことが、起こるはずで……  何にせよ、まずはそいつを受けなきゃ始まらねえ! 「さあ――」 「さあ――」 「見せろ覇吐! おまえの大言、見届けてやる!」  ――瞬間。 「あ……」 「――これは」  目を焼く閃光。次いで衝撃。そして鼓膜を破壊する大轟音が迸る。  発生した〈禍事〉《マガゴト》は高津神の災――こともあろうに脈絡もなく、俺の頭上にいきなり落雷が起きやがった。 「がああああぁぁァァァッ―――」  全身を蹂躙する〈厳津霊〉《イカズチ》の鉄槌に、血が沸騰して肉が燃える。  有り得ねえ、有り得ねえ、ふざけてるだろ。雪の日に雷なんか落ちて堪るか! それが狙い済ましたように俺へだなんて、悪夢どころか馬鹿げた冗談としか思えない。  ――が、それを起こすからこそ凶月の面目躍如。まさに噂以上の出鱈目ぶりで、続く本命など躱せるわけねえ。 「思い知ったか、てめえの負けだ」  雷撃だけでも常人なら即死。俺であっても瀕死は免れない衝撃に加え、首を切り裂く刃の一閃が止めとなって絶命を悟った。  ゆえに―― 「……そうかよ」  崩れ落ちかかるその刹那、俺は勝利を確信する。  〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈く〉《 、》〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 「伊邪那美命言 愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭」  弾け、身を焼く紫電の奔流。青く瞬く世界の中で〈咒〉《しゅ》を唱える。  それは言うなれば、俺が俺自身のために謳う凱歌であり宣誓だ。  斯く在れという、自己に対する絶対命令。不可能だとか有り得ないとか、無粋な常識は残らず捻じ伏せる自負の発露。 「爾伊邪那岐命詔 愛我那迩妹命 汝爲然者 吾一日立千五百産屋」  たとえ千の凶災、万の絶望、億の不条理が襲い掛かろうと関係ない。俺は必ず、それら総てを上回るから。  他者の歪みを食らうことで、俺の歪みは発動する。 「是以一日必千人死 一日必千五百人生也」  奇しくも、その意味するところは返し風。 「〈禊祓〉《みそぎはらえ》――〈黄泉返〉《よもつがえ》り」  受けた穢れを、のし付けて叩き返す。絶対不可避の因果応報に他ならなかった。 「なッ、にィ―――」  再度炸裂した轟音に、驚愕の叫びが重なった。  てめえが呼んだ斬も雷も、数割増しで返杯されては堪るまい。俺の負傷が消えてなくなるわけじゃないが、千の死を食らえば千五百の命が生じる。ゆえに即死だけは絶対にしない。  そのあたり、反則なのはお互い様だ。お望み通りおまえに凶災を返したのだから、まさか文句はねえだろう。 「がッ、ぐゥゥッ……」  火と血煙を噴き上げながら倒れる凶月。俺でさえ死を垣間見たほどの攻撃なんだ。もはやどう足掻こうと立てないだろう。  だからやれやれ、ぎりぎりだったがようやくこれで―― 「――それまでだ!」  神楽は、いま終結を迎えていた。 「これをもって、勝負ありと私は断ずる。異論ある者は前に出られい!」  未だ落雷の余韻が木霊する中、凛然とした姫の声音が響き渡る。どうやら龍明も最低限の仕事だけはしたらしく、致死の領域で巻き込まれた奴は一人もいない。  とはいえ、大の男が気絶するほどの感電はしたはずだろう。そんな状況で毅然と立ち、場を取り仕切る竜胆の器量は大したもんで、まさに惚れ直したと言うしかない。  そして、その呼びかけに応えるかのごとく。 「ありません、お見事でございます」 「誠に眼福。良い神楽でありました」  御所の中央に吹く旋風。舞い上がる雪の渦が、人型となってそこに生じた。 「これなるは凶月一族、当主刑士郎の妹――〈禍津瀬織津比売〉《まがつせおりのひめ》・凶月咲耶」 「久雅の御姫君、竜胆様に申し上げます。本日今このときをもって、我らがあなた様の臣となること、伏してお許しくださいますようお願いしたく、ここに参上いたしました」 「同じく、御門一門が陰陽頭、〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》・摩多羅夜行」 「この場を借りて、皇主光明帝陛下に奏上いたす。征夷の将は、久雅の御当主こそが相応しいと存じますが如何に?」  現れた〈黒白〉《こくびゃく》の二人は、明らかに常人じゃない。だいぶ前から存在を感じ取ってはいたものの、こうして間近に見ると人語を話しているのが不思議に思えるほどの連中だ。  女のほうは刑士郎が可愛く見えるほどの歪みを纏い、男のほうはそもそも生き物にすら思えない。 「はいはい、賛成ー、異議なしですのー!」 「……爾子、本当に頼むから、少し空気を読んでくれ。真剣に、お願いだから……」  そして、ええっと、何だこりゃあ? 犬っていうか熊っていうか、よく分かんない不思議物体が子供を乗っけて飛び跳ねてるし。 「夜行様……」 「咲耶、あんたは……」 「これで勢ぞろい……というところでしょうか」  そんな、それぞれの思いが交錯するなか、呻き声と共に刑士郎が目を覚ました。 「あ、ぐッ……咲耶……」 「はい。ご無事で何よりです、兄様。ですがもう終わりました」 「俺は――」 「分かっております。兄様は負けてなどいません。わたくしの期待に応えてくださったのですから」 「ねえ、覇吐様?」 「むっ……」  唐突に水を向けられ、何と返すべきか言い淀む。そこに竜胆が、静かな声で割って入った。 「聞かせてくれ、覇吐。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》は単なる結果論か?」 「おまえ、この者を討つ気だったのか?」 「あ、つか、そりゃあ……」 「そんなはずはありませんわよね?」  一方は真摯な顔で詰め寄るように、そしてもう一方は微笑しながらも脅迫するように、二人の女がずずいと圧力をかけてくる。  おい、ちょっと待てよ何だこれ。どうして俺が説教されてるみたいな空気なんだよ。 「いや、だってよ、こいつが自分は返し風じゃあ死なねえなんて言うもんだから……」 「つまり、なんだ?」 「仰ってください」 「あー、もう!」  苦手だ、こういうの。勝てる気がしないし勝ってもいけない気がするし。 「分かった。言うよ。言うったら」  頭をばりばり掻きながら、降参の意を表明して俺は叫んだ。 「信じたんだよ、こいつのことを。あれだけ豪語しておっ死んだら、いくらなんでもダサすぎるもん、なあ!」 「なにィ――」 「兄様」  ぴしゃりと、ただの一言で狂犬を抑え、さらにその、こっちを見ながら深くなっていく笑顔が怖ぇんだよ、この咲耶とかいう女。 「つまり、認めたわけですね。兄様が起こした禍に、全力であなた様の武威を乗せても、凶月刑士郎は死になどしないと。そして事実、そうなっている」 「それはすなわち、兄様の勝利ということではないでしょうか」 「なッ――」  いやいやいやいや、ちょい待てや。 「おぉー、これまた凄い屁理屈ですの」 「いや、どうだろう。実際のところ判断が難しいと言うか……」 「まあ、あくまでそういう見方も有り得るという話」 「第三者の身で勝敗を弄ぶのは、当事者として身命を賭した益荒男に対する侮辱であると弁えております。ゆえに兄様、覇吐様」 「真実は、おまえたちの間で競い合っていけばよい。これより先、いくらでも出来る」 「紫織様、宗次郎様」 「おまえたちもだ。異論はなかろう」 「まあ、確かに」 「無論ですね」 「だって、よ」 「ちッ……」  お互い惚れた弱みってやつか。こいつもこの場は牙を収めることにしたらしく、俺は俺で超絶あちこち痛かったから、さっさと尻餅をつかせてもらった。 「ではそういうことで、各々収まりはついたようだが」  にやにやと笑いながら、まるでお気に入りの愛玩動物でも見るように周囲を睥睨している黒衣の男。問題があるとすればこの野郎だ。  嫌な、というわけじゃないが、なんとも奇怪な目をしてやがる。御門にこんな奴が存在して、この神楽にこいつが参加しなかったことは、ある意味僥倖だったのかもしれない。 「龍水、そして龍明殿……私もまた、東征に加えさせていただきたい」 「久雅竜胆公、烏帽子殿の〈麾下〉《きか》として」 「これも含めた先の奏上、再度畏みて申し上げる」 「皇家及び五大竜胆紋の承認なくば、神楽は終われぬのでありますが?」 「――よかろう」 「我としても異論はない。征夷の将には、烏帽子殿を推挙いたそう」  夜行とやらの奏上に、もっとも速く応じたのは中院冷泉だった。  こいつはこいつでどうやら抜け目が無いらしく、即座に計算して動いている。きっと油断がならない奴なのだろう。  だが、しかしそんなことはどうでもいい。 「よろしいかな、各々方」  千種、六条、岩倉の三家、渋々といった表情で肯定の意を返しているこいつらも、中院や陛下も含めた神州の総てが敵になっても。 「ならばここに、神楽は決した。陛下の玉言を代行し、東征の始まりを謳うがよろしい。麗しき我らが将よ!」 「さあ」 「どうぞ遠慮なく」 「ばしっと決めてね」 「これが始まりだというのなら」 「竜胆様……」  俺が、俺たちが命を懸けて、何があろうとこの姫を守り抜こう。 「こら、てめえもなんか言えよ」 「うるせえ。馴れ馴れしく話し掛けんな」  まあその、連帯感やら仲間意識は、先が思いやられるどころじゃないけどよ。 「見られるがよい、烏帽子殿。これが御身の勝ち取った益荒男たちだ」 「龍明殿……」  この姫さんがいなければ、この〈結末〉《はじまり》は生まれなかった。その事実を、今はただ誇ってほしい。  なぜなら俺にとってそれこそが、最初の褒美というやつだから。 「相、分かった」  いつの間にか雪は止んで雲は晴れ、蒼穹が覗く光の下で我らの姫君が宣言する。  雄々しく、凛々しく、天にその気概を煌かして―― 「天晴れ。御国の益荒男たちよ、大儀である!」 「来たる東征、本年卯の月に我らは淡海を越え化外を攻める! 敵は人外法理の鬼どもゆえに、穢土は苛烈な死地と化すであろう!」 「だが負けぬ――我らは勝つと断言する! なぜなら其の方ら益荒男が、我が剣となり勇武を示すと信ずるゆえに他ならん!」 「いざ参ろう、魂を胸に!」 「その烈しさ、その矜持、私に託し抱かせてくれ!」 「我は征夷大将軍――」  そこで間を置き、俺たちを見て。 「久雅竜胆鈴鹿なり!」  貴人にとって、伏せるべき真名を声高らかに名乗り上げた。その意味するところが何なのか、分からないボンクラなどいるわけがない。 「よっしゃー、ですのー!」  同時に、膨れ上がる大歓声。明らかに素性が怪しい奴も多数混じっているこの場において、それは最上級の信頼を形にしたものなのだろう。  こりゃいよいよマジで、期待裏切るわけにはいかねえよな。 「だから、君は――空気を読めって、私が、あれほど……!」  飛び跳ねる犬の背中で悪戦苦闘しながら子供は抗議しているが、あれはあれで空気を読んでるはずだろう。おまえが堅物すぎるだけだ。 「感服いたしました、竜胆様」 「来たる東征、誠に楽しみでなりませぬ」 「まあ、それまでは養生するかな」 「卯月ですか。長いと言えば長いですし」 「わ、私は、さらに修練をいたします。もうチンチクリンとか、誰にも言われたくはありませぬから!」  いやそれは、まず背丈を伸ばさんことにはどうにもならんように思うのだが。 「そうか。励めよ、龍水」 「はいっ!」  まあ、いいや。夢は見させておいてやろう。 「で、おまえはまた何も言わねえの?」 「知るか」 「そうかい」  こいつは本当に可愛くねえな。共に黒焦げ、血だらけで、舌打ちしながらそっぽを向き合う俺たちの間に、咲耶が苦笑しながら割って入った。 「お二人とも、喧嘩はやめてくださいまし。強がっておられますが、どちらも立つことさえ出来ぬでしょうに」 「そうだな。まずは休んで、傷をしっかりと癒すべきだ。何ならば、私が祈祷のひとつでもしてやろうか?」 「要らねえよ!」 「まあ、仲が本当によろしいことで」 「あのなあ……」  もはや脱力しすぎて怒る気にもなれねえ。それは刑士郎も同じなようで、勝手にしやがれと言わんばかりに不貞腐れていた。 「ともあれ、これでひとまず片はついたことになりますな。本来なら、景気付けに酒宴など開きたいところでもありますが……そうもいくまい、なあ烏帽子殿」 「え、ああ……それは確かに、その通り」  ええー、と俺も含めた不真面目組から声があがるが、竜胆は清々しいほど一顧だにしない。こういうところは、もうちょっと柔らかくなってほしいもんだった。 「皆消耗している。覇吐は当家へ。凶月は……」 「私が引き受けよう。夜行、分かるな?ここまで来たのだ、少しは働け」 「御意に、お任せいただきたい」 「そして宗次郎は……冷泉殿、よろしいか?」 「構いませぬが、よいのかな?」 「何がだ? この者は、中院の家臣であろうに」 「ふむ、さはさりながら……」  ちらりと、感情のこもらない目で俺を見てから、中院は首をゆるりと横に振った。 「いや、やはり遠慮いたそう。なに、別段これといった理由があるわけでもありませぬが、強いて申さば臣の意を汲んでやろうと思う次第」 「つまりは褒美の一環ということで。玖錠の娘よ、頼まれてくれぬか?」 「え、私?」 「其の方の技、玄妙であった。我が臣も、そこは感服しておるだろう。よければ春までの間、共に切磋してもらいたい」 「そうしたほうが宗次郎は喜ぶであろうし、陛下の衛士である玖錠と縁を持つのは当家にとっても誉れである。まあ、無理にとは言わぬがな」 「いや、まあ、そういうことなら私はいいけど……」 「どうする宗次郎、うちに来る?」 「……………」  問いに、宗次郎はしばらく無言を通してから、頷いた。 「ええ、でしたら申し訳ありませんが、お世話になります」 「……て、なんですか、覇吐さん。妙な顔をして」 「んー、別に。ただやべえんじゃねえの、色々と」  中院は明らかに何かを考えてやがるんだろうが、そんなことはともかく単に状況がやばいだろう。 「心配は要りません。僕も常時斬り合いばかりを渇望しているわけではありませんし、あなたのご主君に言われたことも多少は考えています。大丈夫ですよ」 「いや、そうじゃなくてよ……」  むしろそうだからこそあれっつーか。 「分かんないな。なに言ってんのあんた」 「まあ、いいです。どうせろくでもないことでしょうし」 「冷泉様、宗次郎はそのようにさせていただきます」 「うむ、さらなる飛躍を期待しよう」 「では、これにて」  当座の身の振り方が各々決まったことにより、龍明が座を締めた。 「最後に御門家当主として、誉れ高き益荒男たちの未来を占ってしんぜよう。なに、難しいことではない」  ばらら、と懐から無造作に札を数枚取り出して、不敵に告げる。 「今よりこれを宙に投げる。ゆえにそれぞれ、好きなもの選んで掴み取るがいい。その結果が、おまえたちの未来を暗示したものとなるだろう」 「己が何者で、何を成し、何処より生じて何処に行くのか。当たるも八卦、当たらぬも八卦の遊びだが、あまり堅苦しいのは嫌であろうと思うしな」 「では参るぞ、爾子、丁禮」 「はいですの」 「心得ました、龍明殿」  頷く犬と子供が飛び跳ねて、声高らかに音頭を取る。 「〈天〉《あめ》切る、〈地〉《つち》切る、八方切る。天に〈八偉〉《やちがい》、地に十の〈文字〉《ふみ》――」 「ふっ切って放つ、さんびらり」 「よおおおぉぉ、――はッ!」  そして、空に霊符が舞い上がった。  はらはらと落ちるそれを、皆が選んで掴み取る。  俺、竜胆、宗次郎、紫織、夜行、龍水、咲耶に、刑士郎――  当たるも八卦、当たらぬも八卦。各々の未来を暗示し、己が何者なのかを判ずるという札の結果が、示したものは……  ………………  ………………  ………………  ……………… 「にゃもろーん、ですの!」 「もぎゅわあっ」  唐突に上から覆い被さってきた重量に驚愕して、一気に眠りから飛び起きた。 「ふんふふ~ん、にょにょにょ~、うりうりー、ですのー」 「まっ、ぐ、ちょ――もがが、が……」  いや、目は覚めたが起き上がれない。それどころか息が出来ない。 「ただいま帰って参りましたですのー。〈母様〉《かかさま》ー、〈母様〉《かかさま》ー、爾子はお役目を果たしですのよー。褒めてー。褒めてー」 「う、あ、ぎぎ、ぎぎぎぎぎぎ……」  死ぬ。毛が口に入って窒息するというか、重すぎて圧死する。 「はにゃ? なんか痙攣しだしたですのよ。爾子の愛に感激して、震えるほど嬉しいですのか?」 「う、が、がが、がががが……」 「ああ、そこ、そこですの。母様の貧相ながりがり肢体が、丁度いい感じにツボを刺激するですの。お陰でコリがほぐれるわぁ……ごろごろ」 「ぎゃ、ぎ……げぁ、ぶぶ……」 「これは好きなように甘えろってことですのか? だったらこのまま遠慮なく、思いっきり全体重を預けますのよ?」 「――――――」 「せーっのぉ」  人体には、切羽詰ったときに発揮される、火事場の馬鹿力という神秘の御業があるらしい。 「うがあああああぁぁっ、どかんかあァッ!」 「ほぎゅわああ」  命を懸けた全身全霊の爆発で、軽く米俵四つぶんはあろう重さを撥ね飛ばした。真っ白い毛玉の巨大生物が、地響きを立てながら畳の上を転がっていく。 「ぶっ、はあ――、はあ、がはっ、はあ――」 「き、貴様、いきなり、ごほっ――なにをっ」  胸を押さえて咳き込みながら、なんとか気息を整える。いきなり命を奪われかけては、到底穏やかじゃいられない。 「なんのつもりだこの大虚け! 貴様私を殺す気かっ!」 「はにゃあ?」  真剣、本気で怒号したのに、起き上がった犬――みたいなもの――は、首を傾げてきょとんとしている。そのつぶらな瞳が、また余計に腹立たしい。 「何を怒ってるんですの、母様。照れ隠しのつんでれですのか?」 「やかましい! 誰が母様だふざけるな! つんだのでれだの、ワケの分からぬ下賎な言葉を使うでない!」 「貴様、いったい何を企んで私の寝室に踏み入った! まさか食らう気だったのではあるまいな!」 「母様みたいながりがりちびのチンチクリン、食べたところでお腹の足しにはなりませんのよ。まあ、うどんのダシくらいにはなるかもしれないと思うけれども」 「ち、チンチクリンだとぉぉ―――!」 「そのほっそい手足、かったい関節、うっすい胸板。丸みの欠片もなければ威厳の兆候すら見受けられない、ちびで貧弱で色気も食い気も皆無極まった有り様を、他にどう表現すればいいですのか」 「ああ、それに汁気もよく見ればないですのね。やっぱダシにもならんですのよ」 「き、き、き、き……」 「というわけで、爾子が母様を食べようとしたって指摘は、濡れ衣言いがかりの勘違いぽんぽこりんですの」 「お願いなので、頭の中までチンチクリンなのはやめてほしいと思いますのよ」 「貴様ぁぁぁ―――、ようもそこまで言いよったなああああっ!」  もう許さん。もう怒った。誇りに懸けてこいつは滅さなければ気がすまんと立ち上がる。 「決闘だ、〈爾子多童子〉《にしたどうじ》! 今日という今日は勘弁ならんぞ! 毛玉の一つたりともこの世に残さんから覚悟しろ!」 「そういう無粋な名で呼ばないで、爾子は爾子と可愛く呼んでほしいですのよ。これでも乙女なんですのよ?」 「ですのですのですのですのと……」  暖簾に腕押しを地でいく態度に、いよいよ血圧が危険な領域にまで跳ね上がった。 「貴様、無理矢理その語尾使っておるだけであろうが! たまに文法無視しておるわっ! それで乙女になったつもりかっ!」 「とにかく、今すぐ表に出ろ! それだけ私に喧嘩を売って、まさか逃げなどするまいな!」 「むー、別にそんなつもりはないですのが」  ちっとも困ったように見えない様子で、爾子は大仰に溜息をつく。  そして、さらりと爆弾発言。 「夜行様がお呼びしているというのに、母様は無視するですの? それじゃあただの龍水に戻るということで、お望み通りこてんぱんにしてあげるけれども」 「な、な、なにィ――?」  いきなりそんな、寝耳に水というか早く言えというか。とにかく一気に、怒りは何処かへ吹き飛んだ。 「あっ、ちょ、ちょま――」 「着替えなら、そっちの箪笥にあるですの。鏡はあっち。櫛はそこ」 「わ、分かっておるわ! ええい、もう――あいたぁ!」 「ああ、そんな慌ててばたばたやるから」  転んだり喚いたり大騒ぎのしっちゃかめっちゃかやりながら、とにかくようやっとのことで諸々の乱れを正す龍水。爾子はお座りの姿勢で行儀よく見守りながら、肩で息をしている少女に深呼吸を促す。 「はい大きく息を吸ってー、吐いてー」 「ついでに息を止めてー、永眠してー」 「――するかっ!」  ついさっき窒息させられかけたことを思い出し、再び怒りが込み上げかけるがぐっと堪える。今はそれどころじゃない。 「で、でだ」 「そ、それはほんとか? 夜行様が……」 「嘘言ってどうするんですの。そもそも爾子がここにいるという時点で、分かりそうなもんですの」 「え、ああ、それは確かに、そうであるな……」 「ん? その反応はもしかして、単に夜だから寝ていたわけじゃないですのか?」 「うっ……」  痛いところを突かれて、言い淀む。正直情けない話なので、出来れば知られたくなかったことだが。 「まあ、その、そうだ。察しの通り」 「しかし、あれだぞ。別にずっと寝ていたわけではないのだぞ。ちょくちょくと起きてはいた。ちょくちょく、だが……」 「今日は何月何日ですの?」 「うぐっ……」 「あれから何日経ったか分かるかですの?」 「むぐぐ……」 「つまり消耗が激しすぎて、あれから今までほとんど寝たきりだったということですのね?」 「ああああ、そうだ悪いか、その通りだっ」  笑わば笑えと言いながら、ふくれて龍水はそっぽを向いた。 「私とて恥じておるわ。しかし、今現在で未熟なのは仕方あるまい。逸る心はあるものの、修行を再開するには神気の回復に努めねばならん。そうした物の順序くらい分かっている」 「だから、なんだ。今は休むのが私の戦と弁えてだな、こうして大人しくしていたというのに、いきなり貴様が……」 「決闘だー、とか言ってたくせに転嫁ですの。神気の回復云々は、どこいったって話ですの」 「うるさい。それで」 「あれから四日が経っております」  そのとき、音もなく障子が開き、龍水よりさらに幼く見える〈禿〉《かむろ》髪の童子が入ってきた。  〈丁禮多童子〉《ていれいたどうじ》……爾子と同じく夜行の従者であるこの式神は、謹厳実直な性質なので犬よりかは相手にしやすい。 「爾子、君は何をやっているんだい。あまりに来るのが遅いから、心配になって来てみれば……」 「あー、それは龍水が」 「ご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません龍水殿。爾子に代わってお詫びします」 「ちょっと丁禮、なんですのそれ。爾子の言い分は無視ですのか?」 「聞く耳持たない。やはり君に行かせたのは失敗だったと悔いている」 「むががー、ですのー!」  贔屓だ、差別だ、冤罪だと喚きながら、爾子がそこらを転げまわる。絵面としては仔犬の行動なので微笑ましいはずなのだが、この巨体でやられるのは色々間違っているだろう。 「私の部屋を破壊する気か、この馬鹿犬は」 「誠に申し訳ない。下手に構うより、放っておいたほうがすぐに収まりますのでご容赦を」 「ぷんぷんですの。つんつんですの。二度とでれでれしてやらないから、後悔すればいいですの」 「後悔ならずっとしている。それで龍水殿、我々は……」 「凶月の者らを送り届けて、今帰ってきたところなのだよ。覚えているだろう?」 「あ……」  続いて現れた御門家当主に、龍水は飛び上がるような勢いで姿勢を正した。 「お、お帰りなさいませ。母刀自殿……」 「ああ、ずいぶん怒鳴り散らしていたが、元気になったようで何よりだよ。大儀だったな、爾子」 「はいですの。爾子を気遣ってくれるのは、龍明さんしかいないですの」 「龍明殿、あまり甘やかされては困ります。ただでさえいつも私が…」 「なんだ丁禮、まだ機嫌が悪いのか? 珍しいこともあったものだよ。なあ龍水」 「え、あ……」  珍しいと言うならば、今の龍明のほうが珍しい。今夜の彼女は、殊のほか上機嫌に思える。 「凶月の二人が、こやつはどうも気に入らんらしい。まあ、好かれるような者らでもないが、いつも冷静沈着な丁禮多童子ともあろう者が、相方の爾子にまで八つ当たりとはね。これはいったいどうしたことかな」 「……別に。そういうわけではありません。強いて言うなら、危険物の運搬に気疲れしたというだけです」 「ふむ? そうなのか?」 「なんですか、龍明殿。あなた、面白がっているでしょう。意味が分からない」 「ともかく、今後はなるべく、私をあの者らに関わらせないでいただきたいと思います」 「あー、それは爾子も同感ですの。なんて言うか、近くに寄るとビリビリっていうか、イライラっとするですの」 「向こうも、私たちに同じような感想を抱いたようですし」 「つまり、犬猿というやつかな。初対面だというのに、不思議なこともあるものだが……そこは夜行が判断するところだろう」 「あまり期待はしないほうがいいと思うがね」 「うわー……」 「そう言われると、不吉な予感しかしないのでやめてください」 「えっと、その……」  一応、ここは自分の寝室なのだけど……なぜか蚊帳の外に置かれたような気分を味わい、龍水は手持ち無沙汰になってしまった。  そんな彼女をちらりと見やって、龍明は意地悪く笑う。 「なんだ、まだそこにいたのか。さっさと化粧でもして、夜行のところに行ってこい。なんなら、白無垢も用意しようか?」 「な、――お、母刀自殿!」 「喚くな。惚れた男に誘われているのだ、一も二もなく乗らんでどうする。私も若い頃はそうしたものだぞ」 「まあ、その男がどういう人種かにもよる話だがな」 「あ、駄目。それを言うなら、夜行様は危険度最高潮ですの」 「否定できないのが、なんともあれな話ではあります……」 「ともあれ、おまえは私の娘だ、龍水」  二童子のぼやきを笑って横に流しつつ、龍明は開け放たれた障子の向こう、天を指して言葉を継いだ。 「ならば、ああいう手強い男を追いかけるのも有りであろうよ。周りは色々と言うだろうが、なに心配するな。そう悪いものでもない」 「と思って、許婚にしてやったのだ。それとも、要らぬ親心だったかな?」 「そ、そんなことはありませぬ!」  その反応は半ば以上脊髄だったが、だからといって追従したというわけでもない。龍明の真意は量りかねるところが多々あるものの、迷惑などと思ったことは一度もないのだ。  親も、許婚も、稀代の傑物。ならばそれを誇りこそすれ、不満に感じるなど有り得ない話だろう。 「そうか。ならよい。烏帽子殿の影響で、おまえは悩んでいるかもしれんと思ったものでな」 「考えてみれば、私はおまえに選択肢など与えていない。御門の養女にした時点で、他の生き方は有り得んわけだし……色々自省するところもあるのだよ」 「まあ、だからといって方針は変えんがね」 「…………」  おまえは自分で選んでいない――竜胆にそう言われたことを思い出したが、そのことに対する答えはとうに出ていた。  自分にとって、確かに周囲の諸々は与えられたものばかりかもしれないが、だからといってそれが下劣なものであれば誇ったりはしないのだ。  ゆえにこの先、たとえ穢土で何を見ようと、正邪の判断くらいつけられるはず。  そう信じて、龍水は己が母に一礼した。 「至らぬ身ではありますが、今後もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします、母刀自殿」 「では、私は行かせていただきますので」 「ああ、何なら朝帰りしても構わんぞ。今宵は月が美しいゆえ、私はこやつらと飲むことにする」 「えー、龍明さんは酒癖悪いから嫌ですのー」 「加えて言うなら、あまり月も好きではないです」 「固いことを言うな。つれない奴らだ。それから龍水」  場を辞そうとしたところを呼び止められ、なんでしょうかと振り向いたとき―― 「先の神楽、よく奮戦した。東征においても期待しているぞ、我が娘」 「――――――」  そんな、夢かと思うような言葉が贈られた。 「ぁ、え……」  今夜の彼女は、本当にだいぶおかしい。だってこんな風に褒められたのは、初めてのことだったから。 「……はい」  思わず放心しかけたものの、湧き上がる嬉しさがすぐさま心を満たしていく。 「はい――ご期待に添えるよう、龍水は励みます。母刀自殿の娘として、恥ずかしくないように」  感極まるあまり、そのときはそう返すのが精一杯で……  肝心の夜行が何処にいるのか、龍水は訊くのをすっかり忘れていた。  いや正確には、教えられたのに気付いていなかっただけなのだが。 「ふむ……なるほど」  それらの状況を見下ろして、低く愉快げな声が流れる。 「今宵は眩しい。誰もが浮かれ、気も緩むか。お陰で珍奇なものを目に出来たな」  そこは天。まさしく龍明が指し示した先に彼はいた。  月光に浮かぶ美貌の凄まじさ。悪辣としか思えぬ笑みを湛えているが、この男にはそうした〈貌〉《かお》こそ相応しい。御門一門の陰陽頭にして、次期当主の許婚、摩多羅夜行その人である。  眼下では、龍水が独楽鼠のように走り回って彼を捜しているのだが、夜行は薄ら笑うだけで何もしない。そもそも、何を思って彼女を呼んだのかが不明であった。用があるなら、さっさと声をかけてやるべきだろう。  なのにゆるゆると、手酌で月見酒などをやりながら、時が流れること一刻以上。その間、飽くことなく眼下を見続けている彼も彼なら、捜し続けている龍水も龍水だ。見方によっては、お似合いの二人と言えるのかもしれない。  そうして、ようやく龍水が許婚のいる場所に気付いたのは、さらに半刻経った後だった。 「――夜行様っ」  すみませぬとか、遅れましたとか、色々大慌てで詫びながら、悪戦苦闘しつつも彼女は高楼の屋根によじ登ってくる。  言うまでもなくそこはかなりの高所であり、手でも滑らせたら命に関わる大事だろう。しかし夜行は相変わらずで、何の手助けもしようとしない。  第三者がこれを見れば、満場一致でその男はやめろと言うはずだ。獅子の子落としという言葉もあるが、夜行は明らかに少女の奮闘を肴にしており、平たく言えば愛情がない。  ただ、蟻の行列を眺める子供のように。自重の数十倍はあろう餌を牽引する小さき者へ抱くような……次元の違う世界からの感心を覚えている。  圧倒的に上からの目線は、しかし他者への侮蔑や失望という形を決して取らない。彼は今の龍水や、他の者らが直面している壁や障害を知らないゆえに、ある意味で己の器量に懐疑的なのだった。  蝉を運べる蟻の器量は、疑いの余地なく素晴らしい。己は容易く摘み上げることが出来るものの、それは相対比として当たり前のことである。誇るようなことでなければ、蟻を見下げる理由にもならない。  つまり、夜行にとっての蝉とは何か。それを前にしたとき、運ぶことが出来るか否か。  論点はそこであり、答えはまだ出ていない。ゆえに彼は、世の諸々を愛でている。教師と仰ぎ、敬いながら、同時に玩具と断じている。  自己愛に酔った者どもが溢れ返っているこの世において、我こそ至高と自負するのは決して珍しいことではない。しかし彼ほど、他者と己を断絶して考えている者は皆無だった。  それをただの思想的自慰。少児的全能感と嗤うことは出来ないだろう。大なる者が我は大なりと思うことに、何の滑稽さも不自然さもないのだから。  傑出した人物特有の屈折だと言われたところで、当の本人からすれば曲がっているつもりなどまったくない。  ゆえに摩多羅夜行は正確に観ていた。 己が他者と違う階層に在ることを弁えて、分に合った――つまり手に負えぬような蝉を探している。  それを前にして、この少女のように挑戦することが出来るのかと。  小さき教師であり玩具に対し、夜行が求めたのはそういうことなのかもしれなかった。 「なあ、龍水よ」  そして、だからこそ―― 「お、遅くなりまして、誠に――申し訳、ありません」  息も絶え絶えに、ようやく這い上がってきた龍水へ、彼は己の目線を見せることにしたのである。 「――太・極――」  紡がれた〈咒〉《しゅ》はただの一言。彼しか到達した者が存在せず、ゆえにこれより上があるのかまったく読めない世界の門が、今開く。 「え、あっ――」  そこは、無限の卍の中心にある宇宙の座だった。これが夜行の存在する階層であり、彼の目線に他ならない。  そういう意味では、門を開くという表現は正確性に欠けていた。夜行は常時ここに在り、そしてここから出られない。今、入室したというわけではなく、彼の目には万象がこのように見えているというだけなのだ。  つまり、先の〈咒〉《しゅ》によって弄ったものは、むしろ龍水の視点である。彼女の存在を摘み上げ、己の目線に合わせたこと。  人の視界を見た蟻は意味が分からなくなるだろうし、夜行の視界を見た龍水は同様の現象に陥っている。  瞬く銀河も、天体も、一つ一つが途轍もない巨大さを持つ森羅の一片。それが点描と化し世界を象る大曼荼羅。  まさしく〈現世〉《うつよ》を俯瞰する、天上とも言うべき世界である。 「ここ、は……」 「驚かせたかな、まあ許せ。慣れてしまえば大したものでもない」  放心する龍水の反応はごく自然で、逆に意外と言えるかもしれない。理解を絶した物事には、奇矯な反応こそ当たり前という見方もある。  が、裏の裏は面であり、今の龍水はそれが何周回ったのか分からないのだ。ゆえに結局のところ、考えるだけ無駄であるのはこの世界と同じだろう。 「これは私流の労いだよ。一種、親愛の表現とでも思ってもらえばそれでよい」 「し、親愛などと――」  いきなりの甘い言葉に、顔中真っ赤にして狼狽える龍水。彼女にとっては、それがこの世界云々よりも衝撃的だったのかもしれない。 「そんな、私ごときに恐れ多い……もったいのうございます」 「なんだ? では嬉しくないと? おまえはこの眺めがお気に召さぬというのかな」 「い、いいえ。そういうわけではありませぬ。ただ、なんと申しますか、びっくりしすぎて……」 「それで、あの、夜行様……これはいったい、何なのです?」 「知らん」 「はい?」  即行で返ってきたいい加減なその答えに、龍水は目を丸くした。 「少なくとも言葉以上は。だからこそおまえを招いたと言ってもいい。先の神楽には感じ入ったし、東征を前にした私なりの予感もある」 「そもそも、いつからこうなのか分からんのだよ。ただ私は、気付いたときからここにいて、要はそれだけのことでしかない」 「私はこんなものだから、御門に拾われたと言えばよいのかな。龍明殿曰く、太極だ。おまえも知っているだろう」 「それは、まあ……」  太極――陰陽道における万物の元始であり、宇宙の中心点を指す概念。彼ら御門の人間にとっては常識的な単語だが、その意味するとこは茫漠としてはっきりしない。  陳腐に言えば究極のようなものだから、そこがどのようなものであり、知れば何が出来るようになるというのか、具体的な解がないのである。 「真理を悟るだの、何だのと、まあそういうことを言われているがな。では真理とは何だ? 知らんよ、そんなもの」 「俗に考えれば、不可能なことがなくなるのかもしれん。万物の元始には総ての事象の元があるゆえ、そこに触れればあらゆる知と力を引き出せる。総てを悟り、総てを成せる」 「――と、いうことならば、なんとも小人の好みそうな座ではないか。単なる金銀財宝と何が違う。そういうものが真理なのかね」 「龍水、おまえはどう思う?」 「私は……」  問われ、龍水は恐る恐るといった風に周囲の情景を見回している。そして彼女流の考えが纏まったのか、遠慮がちに語りだした。 「夜行様が、天眼を持っておられるというのは聞いています。それはつまり、何もかもが見えていらっしゃるということでしょう?」 「私には、ここにあるものの一片たりとも分かりませんが、視点の違いがそのような差を生んでいると……そのことだけは理解できます」 「そういう意味で、ここと一般に言われる太極は、合致しているのではないでしょうか。夜行様はお好みでないのかもしれませんが、らしい荘厳さであるとも思いますし」 「ただ……」  と、言葉を切って、上目遣いに夜行を見る。そのまま、叱られるのを恐れているような態度で、おずおずと続けた。 「あの、ご気分を害さないでほしいのですが……最初の印象でこう感じました。ひどく狭いと」 「ほう?」  それは斬新、と言うより極度に矛盾した意見である。那由多の宇宙を見通すこの場で、〈狭隘〉《きょうあい》な感覚に囚われるなど有り得ない。 「そういえば、おまえも目に関しては一家言ある身だったな。先見の視力は、ここをそのように捉えるのか」 「い、いいえそんなとんでもない! 私の目など、夜行様に比べればゴミ虫みたいなものでして、いつも見えるわけじゃないし、見えても本当に一瞬先だし、しかも結構外れるし」 「よい、感想を訊いたのは私だ。それがおまえの本音であれば、別に間違った答えでもあるまい」 「しかし、そうか。狭いか、なるほど……」 「あうう……」  哀れなほど縮こまっている龍水を無視したまま、夜行は思索に耽っていく。  実際にここが狭いかどうかは関係ない。ただ、なぜ龍水がそう感じ、夜行はそう思わないのか、問題はその齟齬だろう。  では逆に考えて、広いと感じたことはあったろうか。 「ない」  そもそも空間の概念自体を意識したことがない。思えば有り得ない話である。  その意味するところは何なのか。視点の違う見方が何を生むのか。  揺らめく卍の綾模様に囲まれて、森羅を解きほぐすようにしながら物思う。 「広がりとは、己を中心にした世界に対して言うものだ。それを一切感じぬとは、すなわち、ああ、なるほどこれは……」  ぼそりと、夜行は呟いた。 「もしや、型に嵌ったか」 「え?」 「そうであるなら、ふむ、兆しかな。そもそも今宵は、らしくないことが多すぎる。龍明殿然り、爾子丁禮然り、凶月然り、そして私も……」 「ふふ、ふふふ、ふふふふふふ……」 「あ、あのぉ……」  いい加減、置き去りすぎて不安です。  そんな龍水の意を汲み取ったわけでもないだろうが、夜行は唐突に顔をあげると、まさにらしくないことを口にした。 「礼を言おう、龍水。おまえをここに招いて良かった」 「あ、や、そんないいえ、もったいない!」  何を感謝されているのかまったく理解できない様子だったが、ともかく龍水は恐縮している。そんな彼女を見やりながら、夜行は意味深に含み笑った。 「まあ、分からんでもいい。とにかく貴重な意見であったよ」 「〈爾〉《 、》〈子〉《 、》〈と〉《 、》〈丁〉《 、》〈禮〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈私〉《 、》〈が〉《 、》〈拾〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈が〉《 、》、〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈道〉《 、》〈理〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「そしておそらく、龍明殿もな」 「母刀自殿が? どうしたのです?」 「彼女らはおまえと違うということだよ。なに、気にするな。悪い意味ではない」 「…………」 「では、先ほど、型に嵌ったと仰っていたのは……」 「ああ、それか」  問いに、夜行は意地悪く目を細めると、龍水を指差した。 「おまえは御門龍水だ」 「はい?」 「ゆえに御門龍水であり、御門龍水という〈咒〉《かた》に嵌る。半ば騙しに近いものだが、真実の創造には違いあるまい」 「分かるな? この程度のことで質問返しなどしてくれるなよ。陰陽道の基本だぞ」 「あ、それはもちろん、分かりますが……」  訊きたいのは、そんなことを言い出す意味だろう。しかし困惑した龍水を放置したまま、夜行の弁舌は回転率を上げていく。 「要は、何事も分かりやすくしてやるということだ。誰も見たことも聞いたこともない独創というものがあるとして、それは何も分からぬということに他ならん。なぜなら誰も知らんのだからな」 「ゆえに、たとえ無理矢理だろうと、既存の型に嵌めてしまう。そうすることで属性を帯び、理解できるものに変質する」 「その逆に、手垢のついた既存品を、神秘に見せる手段はこうだ。何か別の〈咒〉《な》で呼べばいい」 「火をふぁいやー、月をむーん、これは異人の言葉だが、そう呼ばれれば摩訶不思議なものに感じるだろう。馬鹿馬鹿しい限りだが、これには皆が騙される。私とて例外ではない」 「歪みを陰気などと呼んでいるのもその一環だ。陰は暗い。よろしくない。だからこそ、剣呑な不条理はその型に嵌りやすい。かくして化外は、大衆にとって分かりやすい悪となる」  そこで一旦言葉を切り、夜行は呵呵と大笑した。この上もなく楽しそうに、蝉が見つかるかもしれないと言いながら。 「〈太〉《 、》〈極〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》、〈万〉《 、》〈象〉《 、》〈を〉《 、》〈型〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈龍〉《 、》〈水〉《 、》――〈ゆ〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈の〉《 、》〈太〉《 、》〈極〉《 、》〈を〉《 、》〈狭〉《 、》〈隘〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》」 「夜行様の、太極……?」  それではまるで、複数の太極があるような言い草ではないか。総ての中心であり元始であるという概念にそぐわない。 「前に母刀自殿が、言っていました。夜行様の術は、夜行様だけのものであると……」 「私は今まで、それを才の話だと思っていました。違うのでしょうか?」 「さてな。だが結局は、やはり型の話であろうよ」  言いつつも、夜行は大雑把な手つきで杯に酒を注ぐ。しかしそれを途中で止めて、何かを思い出したように龍水を見た。 「時に、おまえは私を好いていると思うのだが、相違ないか?」 「へ? え、――ええええっ? 」 「相違ないなら、酌でもしてくれ。丁禮はやってくれぬし、爾子では色々と話にならん」 「あ、あああはい、ただいまぁっ!」  叫ぶと同時に、滑り込むような勢いで酒瓶を受け取りつつ座る龍水。緊張なのか照れなのか、とにかくがちがちと震えている。  こんな様で酌などされては、酒がどれだけ飛び散るか分からない。しかし夜行は、特に気にもしていないようだった。 「なあ龍水よ、私にはおまえの気持ちが分からん」 「太極に座し、天眼を持ち、総てが見えていると言われても、おまえの視界は理解できんよ。ゆえに慕われても応えられぬ」 「私にとって、万象はこの曼荼羅だ。景色は遠い。美しいが掛け離れている」 「ここから一歩も動けぬのが、摩多羅夜行という男なのだぞ?」 「……構いません。ならば私が昇りますから」  もとより自分は追いかける者。少女はそう返答して、なんとかぎこちくなく酌をした。 「先ほどああは言いましたが、一応少しは目に自負があります。私から見た夜行様は、初めから明らかに他と違う方でありました」 「ゆえに追いつきたいと思います。対等、などとは申しませんが、せめてチンチクリンと呼ばれるくらいの距離感には……」 「夜行様にそう言われるなら、正直……悪くはないかもしれぬと思うのです」 「そうか」  注がれた酒を飲み干して、夜行は己が太極を顧みる。  これが彼の世界。彼の天座。  〈未〉《 、》〈だ〉《 、》〈型〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、〈無〉《 、》〈形〉《 、》〈な〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈の〉《 、》〈阿〉《 、》〈頼〉《 、》〈耶〉《 、》〈識〉《 、》〈だ〉《 、》。  人界の穴とはよく言ったもの。彼は現世の何者とも交わらぬまま、ただ一人の〈宙〉《ソラ》を見ている特異点に他ならない。  であればきっと、この座の外にはさらに巨大なものがある。  彼以外の総てを呑み込み、己が宇宙を創りだしたモノが蠢いているに違いない。  龍水という異物を招いたことで、その違和感を自覚した。  狭いと言った、先の指摘。それはすなわち、彼女を型に嵌めたモノが途方もない証であろう。  そんな存在を、何と定義するべきなのかは知らないが…… 「あちらから見れば、私こそが蟻以下か」 「くくく、これは面白い」  吊り上がる口元は、魔的に、美的に亀裂を深める。どうやら自分にとっての蝉というやつ、〈巨熊〉《きょゆう》どころではないやもしれぬと。  はたして蟻一匹で抗し得るのか、さあお立会い。 「夜行様?」 「ああ何でもない。俄然、東征が楽しみになってきたというだけだ」 「奪われ、追われ、蜘蛛と型に嵌められた者ども、おそらくは……」  再度注がれた酒を飲み干し、夜行はそこに思いを馳せる。  総ては今春、それ以降――  淡海の先、穢土の地に答えが待ち受けているのだろう。  特別付録・人物等級項目―― 摩多羅夜行・御門龍水、初伝開放。  ………………  ………………  ………………  ………………  初めてそれを自覚したのは、三つかそこらの時分だった。  どうやら世には、他人というものがいるらしい。その意味するところを解した瞬間、途轍もない違和感に襲われたのを覚えている。  まだ幼い心であったから、輪郭は曖昧なものの感覚は激烈だった。まるで揺り篭の中に、いきなり冷水をぶち撒けられたような気分がして……  有り体に言えば、非情に迷惑だったのである。 「どうやら、いくらか傷は癒えたようだな」  神楽の儀から十日ほど経った後、玖錠の屋敷で療養していた宗次郎の許に、中院冷泉が訪れた。名目は、見舞いということらしい。 「まだ全快というわけでもなさそうだが、それでも恐るべき回復力と言うべきか。正直、驚嘆しておるよ」 「おまえたちのような者は、皆そうなのかな? だとしたら、羨ましくもある」 「ご冗談を」  本気でそう思っているわけでは断じてない。いわゆる建前というやつで、さらに言えば気遣いの一種だろう。人と人が、他人同士無用な衝突を避けるための便法だ。  社交辞令――宗次郎が嫌いなものの代表である。 「中院の御当主様が、僕のような者に恐れ多い。不甲斐ない身に、もったいなくあります」 「何を言うか。おまえはよく尽くしてくれたぞ、宗次郎」 「下知など一つもしていないがな。それでも我の望むようにおまえは動いた。忠臣とは、斯くあるべしよ」 「いつも思うのだ。無駄に人の顔色など窺わず、各々好きにやればよいのに。それでもこの世は、巧く回るように出来ているはずだろうと」 「おまえもそういう人種であろうと思ったから呼んだ。そして実際、そうだった。ならば目出度い。それが総てよ」 「…………」 「腰の軽い男だ、などと思っているかな?」 「いいえ。決してそういうわけでは」  冷泉のような立場の者が、ろくに共も連れず一剣士の許へ、しかも玖錠という政治的に難しい家へと気軽い調子でやってくる。まともに考えれば有り得ない話であり、腰が軽いどころではない。  してみれば、いま自分自身で言ったように、この男も他人という者を見ていない人種なのか。  そう思い、宗次郎は先の感想を僅かながら修正した。  彼は社交辞令など口にしない。あれは諧謔の類だろうと。 「僕よりは、遥かに〈武士〉《もののふ》然としておられます。それは当たり前のことであり、このようなことを言うのは不敬なのでしょうが」 「お察しの通り、こちらも遠慮というものが苦手です。宗次郎は飾ることが不得手なので、礼をあまり知りません」 「構わんよ。奥ゆかしさとやらは害悪だ。男子が身に付けるものではない」 「飾る。化ける。誤魔化す。隠す。女子の専売特許であろうが、それは女子に備わっているからこそ美点なのだ。そこを離れれば単なる化生の属性よ」 「ゆえに抜き身であること、悪いとは思わん。しょせん如何に取り繕おうと、疑心の暗鬼は生じるものだ」 「究極、解決手段は古今まるで変わらぬのに、そこまでの道程は時代を経るごとに回りくどくなっていく」 「それを文明的、文化的進歩とでも言うのなら性に合わんよ。我にも、そしておまえにも」  つまり、先ほどから彼が言っているのはこういうことだ。 「障害になるなら斬ればよいのだ。なあ、宗次郎」  見据えているのは我が道のみ。そこに邪魔が入れば斬り捨てる。  それが男子たる在り方であろうと冷泉は言い、宗次郎は苦笑で返した。 「ならば今、僕に胸襟を開いて厚遇してくださるのも、いざ邪魔となれば斬り捨てると決めていらっしゃるからですか」 「おまえとてそうであろう。言ったではないか。我らは同じ人種であると」 「でしたら冷泉様、僕はあなたの期待に十全な形で添えなかったと思うのですが」 「それは将の座についての話かな? ふむ、まあ確かに残念ではあったが、別によい」  東征の将は、久雅竜胆に決定した。その事実に関してなら冷泉は挫折しており、宗次郎は忠を果たせなかったと言えるだろう。  だというのに、不首尾を咎めるつもりはないと言う。これまでの話を統合すれば、それほど寛容な男でもないだろうに。  そこで、ふと宗次郎は思い当たることがあったので口にした。 「まさか代わりに、玖錠を取り込むつもりですか?」 「と言うより、その上だな」 「では……」  さらりと言った言葉に少なからず驚いたが、それ以上は面に出さない。ただ首を振りつつ溜息だけつく。 「本当に、〈武士〉《もののふ》でありますね。清々しいほど」 「個人的に、冷泉様は生まれるのが三百年以上遅かったのだと思います」 「それは、我に天運なしということかな?」 「さあ、どうでしょう。今も乱世と言えばそうですし、そもそも冷泉様は天運など歯牙にも掛けておられぬでしょう」 「道を切り開くのは、ただ我意のみ」 「ほう、よく分かるな」 「〈僕〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈よ〉《 、》」  ゆえに何も迷いなどしない。そちらはそちらで勝手にやれ。  似た者同士と言うならその通りで、冷泉はここで危険なことを口走っても、それに宗次郎が興味を持たないと知り抜いている。  ゆえに口止めをする必要性がまったくない。彼に言わせれば訊かれたから答えたのみで、宗次郎としてもさらに知りたいとは思わなかった。  つまり、もはや話は終わりである。  冷泉は楽しげに一笑した。 「天下最強の剣士が夢か。よいな、それは。我も心惹かれるものがある」 「この地上にただ一人、壬生宗次郎だけが残るまで……斬って斬って斬りまくるがいい。穢土の天魔も、何もかも」 「そうなると、冷泉様も斬ることになりますが」 「それはそれで面白かろう。我は我の道の征くのみよ」 「ではな、まずはしっかりと養生せい。ああ、それから……」  立ち上がって場を辞す間際、振り返った冷泉は弄うような声で言った。 「好きなようにしろとは言ったが、多少は我を利するように、滅私を心得てくれると有り難い」 「これは烏帽子殿の論理だが、それに一杯食わされた者同士だ。真似てみるのも有りだろう」 「時に狂気も、また善き哉だ」 「……………」  言われ、数瞬だけ考える。まあ、確かに件の姫とその家臣にはやられたわけで、ある種の敬意は抱いているし。 「聞くだけ聞きましょう。なんですか?」 「うむ、それはだな」  しかつめらしく間を置く冷泉。いったい何を言うかと思いきや。 「玖錠の娘、何なら〈誑〉《たら》し込んでくれぬかな」 「お断りします」  やはり、他人など迷惑以外の何者でない。 「………さて」  冷泉が去った後、謁見の間として通された道場に一人残された宗次郎は、これからどうするべきか考える。  それは別に、中院がどうだの東征がなんだのという意味ではなく、単に当座の方針だ。  傷はまだ癒えきっていない。肋骨を粉砕され、内臓にも甚大な損傷を被ったのだから、本来は絶対安静のはずである。むしろ現在の医療的には、半ば致命傷とさえ言えるだろう。  しかし、宗次郎は常人と異なっている。刑士郎や覇吐ほどのものではないが、それでも決定的に違っている。  彼の歪みは等級四――御門龍明にそう評され、曰く『おまえはギリギリだ』とのことらしい。  五を超えれば紛れもない異形と化すが、だからといって四が真人間なわけでもない。  まさにギリギリで、人と鬼の境界に立っている。どちらでもあり、どちらでもなく、どちらからもおまえは違うと言われそうな領域だ。  ゆえに、なんとも中途半端な傷の治り具合に関しても、そうした特性の表れというやつなのだろう。 「……ふぅ」  まあ、ともかく、もう寝たきりでいるほどきついというわけでもないし、この状況に飽きがきていることも確かである。  だから、再び部屋に戻って寝直すという選択肢は排除した。せっかく玖錠の道場にいるのだから、何かしら実になることをしたいと思う。  剣を振れるかどうかは不明だが、ここは座禅でもしてみるか? 頭の中で先の神楽を再演し、もう一度戦ってみるのも有りだろう。  と、思いつつ瞑目しようとしたときに…… 「――――と」  いきなり鼻先を掠めてクナイが走り、道場の壁に突き立った。しかもさらによく見れば、なにやら紙片が結び付けられている。 「矢文……?」  のようなものらしいが、これは自分に宛てた物か?  訝りつつも、とにかく内容を見ることにしてみた。クナイを抜いて結び目を解き、畳まれていた紙を広げてみる。  すると…… 「えーっと……」  なんだろう、これは。ひどくその、何と言うか色々と酷い。 「紫織さん……字、下手ですね」  女性たるもの、それなりに麗筆でなければならないと思うのだが、こういう大雑把というか文化的側面の残念さ加減は、よくよく考えると彼女の印象に合致していると言えなくもない。  きっとあれだ、今まで身体を鍛えることばかりやっていて、他は完全にお留守なのだろう。自分とて教養があるわけではないけれど、いくらなんでもこれよりはマシな字を書く。 「というか、これは文章としてもどうなのですか」 「再戦の戦が線。決着の決が欠。候が……その、あの、これわざと間違ってるわけじゃないですよね」  だが、まあ、呼び出された以上は無視できない。この玖錠家に来て以来、一度も顔を合わせていなかったが、どうやらあちらは回復したということらしい。  こちらはまだだが、同条件下の休憩を挿んだのだから文句を言っては駄目だろう。  自分の回復が遅れたのは、より負傷が重かった自分の不明。そこに付け込むのはまるで卑怯なことじゃなく、むしろ当たり前の兵法だ。  ゆえに、この挑戦は受けなければならない。背を向けては男が廃り、壬生宗次郎の自負が地に落ちる。 「自分を嘲って生きるのは、ガラじゃないので……」 「やれやれ、厳しいことになりそうですが、行きますか」  立ち上がり、図で説明されている決闘の場所とやらへ行くことにした。 「愚痴を言うなら、せめてもう少し趣のある果たし状を貰いたかったものなのだけど……」  と、ぼやく宗次郎ではあったものの。 「ふっふ、ふふふふ、ふふふふふ……」  彼は彼で、もう少し疑うことを覚えておく必要があったと思う。 「――――――」  頭から被った井戸水の容赦ない冷たさで縮こまりそうになりながら、紫織は歯を食いしばってもう一杯、再び思いっきりぶっ被る。 「ぃぃぃィィ―――~~~」  全身を針で刺されるどころか、鈍器で殴打されたような気分になった。これでは血行が良くなるどころか、その前に心臓が止まってしまいそうに思う。 「やばっ、寒っ、ちょっと何これありえない」  こんな荒行、いったい何処の誰が考えたのか。まったく見当もつかないが、間違いなくそいつは人間じゃないと断言できる。 「うぎゃあああああ」 「ずああああああああ」 「どりゃああああああ」 「ああああああばばばばばばばばば……」  もはや気合いなのか悲鳴なのか分からぬ声をあげながら、しかし手は止まらない。ほとんど意地に近かった。 「ああ、でも、なんか変な気分になるよ、これ」  自虐的快感とでも言うのだろうか。ひたすら自分を苛め抜き、それに耐えることで妙な門が開きそうな気がする。  そういう点は武道の修行と似通った部分もあるにはあるが、こっちはより観念的だ。寒さに耐えることで克己心を養うのは立派だけれど、あまり実際的とは思えない。  現実において、精神の鍛え抜かれた下手糞は精神の緩みきった巧者にボロ負けする。高潔な人間性などは鍛える過程で偶発的に発生するおまけのようなものであり、あくまでも付属品だ。  ゆえにそれが目的となってしまえば技が死ぬ。踊りになる。そもそも他人を叩き伏せるために血道をあげる武芸者などが人格者であるはずはないし、そうなる必要性も感じられない。 「だから、寒いのを我慢するんじゃなくて、寒い日でも戦えるように、装備整えたりするほうが、重っ要!」  などと言いながら、また被る。言動が矛盾しているが、紫織はその矛盾を体現しようとしているのだった。  先の神楽の結果が不本意である。それなりに練れているつもりだったが、最善を尽くしても納得のいかない事態になった以上、今のままでは駄目だということだろう。  なので、とりあえず物は試し。ぱっと思いつく不条理なことをやってみようと考えたのだが、想像以上に馬鹿らしくてどうしようかと思っている。  しかし、何かしら行動を起こさずにはいられない。まだ完全回復したわけでもなかったが、動けるのだから動くべきだ。 「それに、うん……この先面白くなりそうだしさ」 「というか、面白い奴らが一杯いるしさ」  指折り数えながら、紫織はごちた。 「覇吐でしょ。刑士郎でしょ。咲耶、お姫様、龍水……はいいとして、夜行だっけ? あいつは変だわ」 「それに、あとは宗次郎かぁ……」  ほう、と溜息をつきながら宙を仰ぐ。今挙げた一人一人に思うところはあるものの、強いて言うなら一番印象に残っているのは最後の一人だ。 「天下最強ねえ」 「ド単純だねえ」  だが悪くない。それを求める動機は色々あるのだろうけれど、他の連中に比べれば共感できる部分が多かった。 「ま、私の夢はもうちょっと感傷的って言うか、情緒深いノリだけど、男はあれくらい真っ直ぐなほうがいいかな」  世間的には弩級の危険人物なのだろうが、ああいう男だからこそ成せることもきっとある。 「そうじゃなければ私が困るし」 「だから、こっちはこっちで初志貫徹をっと、しましょうか」  最初に百回被ると決めたので、馬鹿みたいだろうが何だろうがとにかくやろう。  気合いを入れなおした紫織は桶を勢いよく持ち上げようとしたのだが、間を空けたことで表面の水が凍っており、手が滑った。 「あっ――」  そして――  指定の場所へ向かうべく屋敷の裏手に回った宗次郎は、角を曲がった瞬間に予想外の攻撃を受けた。 「―――――」  冷たい。かなり途轍もなく。  何をされたのかは分かっているが、なぜこんなことをされたのか分からない。  滴る冷水をぽたぽた垂らし、幽霊みたいに立ち尽くす。  だが、とりあえず何か言わなければいけない。思って、ゆっくりと目を開いたら…… 「あ、ごめん……」  これは、その、いったいどういう状況なのか。 「大丈夫、宗次郎? なんか、固まっちゃってるけど」  まさに比喩でもなんでもなく、このとき彼の頭は完全に止まっていた。 「出歩いちゃって、怪我はもういいの? 私に何か用でもあった?」 「ねえ、ちょっと本当にどうしたのよ? もしかして、怒ってる?」  問いに宗次郎は答えないが、おそらくそういう次元の問題ではないだろう。 「だったら私、謝ったじゃない。あー、誠意足りなかったかな。じゃあ言い直すよ。ごめんなさい」 「私の不注意でした。少し考え事してたし、そもそも慣れないことやってたから、ぼろが出たんだね。反省してます」 「だからほら、機嫌直して? ねえ、宗次郎」  言いつつ、控えめに頭を下げる紫織の態度は真摯なもので、表面だけのものではない。  だが、そもそも公正に見るならば、これは何もそこまで低い姿勢で謝罪することでもなかった。  なぜならここは紫織の家で、その彼女がいつ何をしていようと勝手である。むしろ居候である宗次郎が無遠慮にうろつくことこそ礼を失した行為であり、その結果としてこの様ならば、それは自業自得とさえ言えるだろう。  加えて、紫織の格好だ。 「あのー、流石にそこまで無視されると、私もちょっと辛いんだけど」  井戸の前で〈禊〉《みそぎ》めいた真似をしていた彼女の姿は、薄く白い襦袢一枚。言うまでもなく肌に張り付いた布は大部分が透けており、もはや裸体同然と言っていい。  そんな乙女の肢体をまじまじと――見ているかどうかは別にして、先ほどから短くない時間二人が向き合っている事実に変わりはない。  ゆえにこの状況、気配りが足りないのは明らかに宗次郎のほうであり、普通は悲鳴と共に張り手の三・四発でも叩き込んでやるべきではないのか。 「紫織、さん……?」 「うん、どうしたの?」  なのに、紫織は怒らない。それどころか恥じらいもしない。  豪放で男勝りな性格ゆえとか、そういう理屈ならまだ分かる。だがそれだと、先の態度に説明がつかない。  その場合、おまえも不注意だったのだからお互い様だと言うだろう。しかし彼女の低姿勢は慎み深さに似たもので、別の言い方をすれば淑やかさだ。これは普通同居しない。 「な、な、なんで……」  玖錠紫織は、戦いになれば誰であろうと殴り倒す。刑士郎然り、宗次郎然り、そして龍水のような少女であろうと容赦しない。  そんな彼女が、しかし平時になれば男を立てる。今どき化石かと思うほどに、三歩近くは下がってくれる。  そんな一面を持っているのに、なぜか羞恥心は欠片もない。  何が虚で、何が実か、いったいどれだけの顔を持っているのか。  その不確かさは、彼女の歪みとそっくり同じで、捉えどころがまるでなく―― 「これは、どういう……勝負、です、か」 「ああぁーー、ちょおぉーっ」  鼻血を噴いてぶっ倒れる宗次郎と大差ない、変な奴だと言うしかなかった。  ………………  ………………  ……………… 「ほっんとごめん、ちょーごめん!」  そして半刻後、目覚めた宗次郎の前で、紫織はまた謝っていた。 「うちのバカ弟、絶対きつく言っとくから。何ならお尻叩くから。許してやってよ、ね?」 「……いや、僕のことはもういいですから」 「弟さんのことも、叱らないでやってください。いきなり僕みたいなのが居着いたら、面白くないのは当然でしょうし」 「違う。違うよ宗次郎。あれはただの悪戯盛りなんだから、締めるときに締めないと癖になっちゃう。躾は大事っ」 「今だって、直接謝れって言ったのに顔出さないしさ。ほんと最近、どんどん手に負えなくなってるのよね」 「はあ……まあその、なんというか……姉弟仲がいいんですね」  紫織の愚痴になんと返していいか分からなくて、宗次郎は曖昧に微笑する。  先の果たし状は要するにそういう事情で、彼女の弟による悪戯だったということらしい。考えてみれば見破れる種はあったのだから、騙された自分が迂闊だっただけだろう。 「それに、将来有望じゃないですか。飛んできたクナイがそこの壁に刺さるまで、僕は反応できませんでしたし……もし本気で狙われたら危なかったですよ」 「あー、あいつそういうことだけは上手いんだよね。でもいざってなったら別もんでしょ。謙遜謙遜」 「だけどあんたにそう言ってもらえると、お姉ちゃんとしては嬉しいかな。あんなんでも、うちの次期当主様だしね」 「……え?」  それはつまり、紫織は玖錠を継がないということなのか。意外に思って、宗次郎は質問した。 「どうして紫織さんが継がないんですか、もったいない」 「どうしてって」  呆れたようなその失笑は、何を分かりきったことを訊くのだと言わんばかりのものだった。 「あのね宗次郎。私は女だよ? 将来お嫁に行くんだから、自分の家継いでどうすんの」 「あんただって言ってたじゃない。女なんか弱い。話にならんって」 「それは……」  確かに、言いはしたが…… 「紫織さんは、強いでしょう」  むしろ、驚異的な域の達人だ。代々の玖錠がどうだったかは知らないが、それに劣っているとは絶対に思えない。 「過去の無礼は詫びましょう。その上で言わせていただきますが、何事においても重要なのは実力だ。それが武の、ましてや伝統ある流派ならなおのこと」 「そもそも、女だから継がないと言うのなら、何を思って玖錠の技を修めたのですか? 今のあなたになるまでの道は、決して甘くなどなかったはずです」 「正直、意味が分かりません」  人生の時間を無駄にしている。嫁に行くなどと言っていたが、それが最終的に落ち着く場所なら料理の修業でもしていればいい。そのほうが、まだしも気が利いているというものだろう。  目指す先と、そこへ至るまでの道筋に、不要な物を混ぜる感性が宗次郎には分からなかった。 「ん~~、そう言われると辛いんだけどなあ」 「そこはほら、人それぞれってことでよくない? 理由は色々あって複雑なんだよ」 「たとえば、そうね。私の技は玖錠の正統じゃないってのも一つ」 「ご存知の通り、陰が混じっちゃってるからさ。邪拳なんだよ。後継を育てられないし、陛下の〈御宸襟〉《ごしんきん》を安んじ奉るには相応しくない」 「だから鉄砲玉志願。何だかんだで神楽に出られるよう無理言って、東征に行こうと思った。化外を斃せば邪道の玖錠はもう生まれないし、それが私みたいな奴の責任なのかなと」 「女云々と、関係ないように思いますが」 「え? そこはほら、あんたと似たようなもんだよ。きっと」  言って、紫織は宗次郎の顔をまじまじと見てくる。えらくぶしつけな視線なので、思わず仰け反ってしまったほどだ。  そして―― 「かーわいーよねー。女の子みたい」 「なッ―――」 「――と、こらこらちょい待ち。こんなんでキレないでよ」  瞬間的に血が上りかけたが、寸前で堪える。柄に手が行きそうになった宗次郎を見て、紫織はからからと笑っていた。 「ふふん、やっぱりこういうのが怒りのツボなの?分かりやすいなあ」 「要するにね、そういうことだよ。私もあんたも、見た目に強者の属性ってやつを持っていない」 「苦労してきたんでしょ、あんただって。だから女に手厳しいわけだ。一緒にされたくないから」 「そこはすぐに見当ついたよ」 「……………」  その指摘に、宗次郎は何も言わない。だがそれは肯定の意でもある。 「どこのどいつを倒してもさー、なかなか認めてくれないんだよねー。ていうか、勘違いされちゃうのかな」 「あれは勝ったほうが強いんじゃない。負けたほうが弱いんだ」 「そういうのって、堪んないよね」 「……………」 「でしょ?」 「……ええ」  再度促され、今度は静かに頷く宗次郎。  そうだ、確かに堪らない。  女であったり、女のような優男であったり、見かけ上に強者の属性がない者は、どうしても色眼鏡で見られる。これは避けられないことだろう。  そして、実を示せばいいかと言われれば、これもやはり違うのだ。 「女に負けてやんの、だっせー」 「とかね、言われちゃうでしょ。私が玖錠を継いだら、それこそずっと。過去も未来も」  それが現実で、普通はそうなる。女子供が鍛えて辿り着ける領域などは実際たかが知れており、大の男が同様に鍛えていれば勝負にならない。ゆえに女子供に負けた者は、才も修練の度合いも男の底辺層たる雑魚であろうと見なされる。  偏見には違いないが、同時にこれはあらゆる分野の九割九分に適用される常識だ。何事にも例外は存在するといったところで、そんな極度に稀なものが今目の前で起こったのだと、即座に認められる人間はそういない。  つまり紫織や宗次郎のような存在は、己を含めた周囲総ての格を歪めてしまう典型なのだ。 「だからですか?」 「そ。看板を守るためには、女が継げるような玖錠流であっちゃいけない。先達や後継や、好敵手の沽券に関わる」 「流石に性別は変えられないしね。あんたよりかは、もういくらか根が深い問題なのよ。まあ、久雅のお姫様なら分かってくれるかもしれないし、そんな彼女を担ぐのは面白そう」 「てね。それも間違いなく本音だけど、最初のやつと合わせてみたら、微妙に矛盾がちょろちょろ出るから突っ込まれると困っちゃう」 「だからこのへんでもう許してよ。私の態度や、言い方が気に入らなかったんなら謝るからさ」 「……いえ」  間を置き、宗次郎はゆるりと首を横に振った。 「僕のほうこそ申し訳ない。らしくないことを言いました」  おそらく、今喋ったことが全部ではないだろう。まだ何かがあるような気もするが、そこは彼女が言ったように人それぞれだ。外野が口を出すことではない。  久雅の姫君も、冷泉のような者と確執を抱えているし、御門もそこは同様だ。  あの龍明とて若い頃は苦労したに違いなく、だからこそ夜行で帳尻を合わせている。要らぬ周囲の嘴を封じるため、龍水の立場が許されるよう配慮した政治判断。そういう面はきっとあろう。 「まったく……」  本当に面倒くさい。これだから他人とはなんとも――  と思いながら、そんな自分が紫織の事情に口を挿んだことがおかしかった。自嘲してしまう。  これでは、彼女の道が何処かで自分とぶつかりそうだと予感したみたいではないか。一見してあれやこれやと、何が本当か分からない女性だというのに。 「詮索めいた真似をするつもりはなかったのです。ご迷惑だったでしょう」 「ん、別に。私はあんたに興味があるから、話をするのは面白かったよ。個人的には、もっとしたい」 「それはどういう……」  いったい、何を言っているのか。この人は…… 「僕に語って聞かせるようなことはありませんよ」 「うっわー、何それ。自分だけ秘密主義ってのはどうなのよ」 「私は私で、一個だけあんたに訊きたいことがあるんだけどな」 「と、いうと?」  本当に見当がつかなかったので促してみれば、紫織はすっと表情を改めた。  そして、問う。 「宗次郎は、〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈と〉《 、》〈き〉《 、》〈使〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》?」 「……………」 「〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》、〈ま〉《 、》〈だ〉《 、》〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》」  そんな、ともすれば曖昧で、何のことかはっきりしない言い様。  だが宗次郎には、紫織の言わんとしていることが飲み込めた。 「僕の歪み……ですか?」 「そう。返答次第によっては、出てってもらうよ。私はそれが知りたいから、中院のお願いを聞いたんだからね」  強い口調ではなかったものの、だからといって軽くもない。紫織の声には、微かに責めるような響きがあった。 「困りましたね……」  そういえばあのときも、暗に訊かれて責められた気がする。禍憑きを出すまいとする刑士郎を批評したら、おまえがそんなことを言うのかと。  なるほど確かに、神楽の儀では宗次郎だけがその歪みを見せていない。真っ先に開陳したのはこの紫織だし、次いで龍水。刑士郎でさえが禍憑きを起こし、それを覇吐が迎え撃った。  ゆえに紫織の憤りは正当であろう。あれは死合だったのだから、誰もが手加減抜きに本気を出したし、出さなければならない。  その苛烈さも、真剣さも、中途半端にのらりくらりと凌げるような舞台ではなかった。もしそんな者がいたというなら、それはあの場の全員に対する侮辱である。  だから宗次郎は、正直に答えた。 「分からないんですよ」 「え?」 「だから、分からない。僕には、自分がどう歪んでいるのか見えないんです」  壬生宗次郎は剣である。ただ斬人の刃である。そう思って、そう在ることが総てだから、他のことは分からない。 「龍明さんは?」 「訊いてませんし、訊く気もないし、訊いても教えてくれないでしょう。ただ、そうですね」  これは関係あるのかどうか分からないし、意味のないことかもしれないが、あまりに紫織が途方に暮れた顔をするので困ってしまい、何か言わなければいけない気になったから、口にした。 「僕と剣を交えた人は、皆例外なく死んでいます。その場で斬り殺したという意味じゃなく、道場の竹刀稽古や、子供の時分にやったチャンバラ遊びに至るまで」 「今、生きている人は一人もいません。そういう事実だけが、あるんです」 「一人も?」 「ええ、……いや正確に言えば、あなた達がいるんですけど」  紫織、覇吐、龍水、刑士郎……  宗次郎の斬撃にたとえ一度でも狙われて、現在生きているのはこの四人だけ。しかし先がどうなるかは分からない。  東征という大戦を間近に控えている以上、全員が死に直面していると言ってもいいのだ。 「ただ、分かりませんよ。何の根拠もないですし、単なる偶然かもしれません」 「今までの人たちは、どういう死に方を?」 「ばらばらです。病気だったり、事故だったり」 「時期的にも、早くて数日、遅くて一年」 「だから、僕だって最初は意識していませんでした。暇で想像力の豊かな人が、ただ一つの共通点を見つけるまでは」  壬生宗次郎と遊んだ者は死んでいく。 「それにしたって、初めは誰も信じてなんかいませんでしたよ。だけど、その人が亡くなってからは……」  戯言が冗談ではなくなり、疑惑は恐怖に変わっていった。冷泉が宗次郎を呼び寄せたのは、おそらくそうした噂を聞いたからだろう。  剣気で人の命を刈り落とす。それは直接的な意味に留まらず、もっと観念的な存在の次元にまで効果が及ぶ。  そんなことがもしも可能であったなら、それは歩く死の鎌に他ならない。  常に抜き身で血に濡れた、妖刀魔剣とでも言うべきだろうか。 「田舎なんですよ、僕の故郷は」  黙りこんでしまった紫織を安心させるように、宗次郎は屈託のない調子で肩を竦めた。 「迷信深いし、噂が好きだし、そもそも人が少ないですしね。ちょっとしたことでもあれこれごちゃごちゃ結びつけて、いつの間にやら大事件です。困りものですよ、本当に」 「だから、そんな大したものじゃないでしょう。僕は単に未熟なだけで、自分自身を操れない。そういうことじゃないでしょうか」  ゆえに、言えることは一つだけ。その一点だけは、しっかり主張しなければと思ったから…… 「あのときは、誓って全身全霊戦いましたよ」  手など微塵も抜いていないと、宗次郎は断言した。 「そう。分かった、ならいいよ」  紫織も頷き、微笑する。 「まあ結局、総ては春か」 「ええ、正直楽しみでなりません」  事実、今現在の宗次郎にとって最大の興味はそこにあった。  紫織も覇吐も刑士郎も、今まで見たことがないほどの強者だった。いずれ借りは返すと決めているが、彼らの強さを思えば行き当たる事象はただ一つ。  すなわち歪み――自分にもあるらしいが自覚できない、東から流れてきたという異界の法則。  ならば穢土の天魔とはどれほどのものか。斬りたくて斬りたくて堪らない。  まるで童子のように、そう焦がれて…… 「じゃあ、せっかくだし組み手でもする?」  と、持ちかけてきた紫織に、頷こうとしたときだった。 「――あたっ」「――いたっ」  いきなり横から、頭に硬い物が飛んできた。二人ともまったく同時に声をあげて、こめかみを押さえつつ〈蹲〉《うずくま》る。 「あ、つぅぅ~~~」 「これは……碁石、ですか?」  ならば誰かが投げた物で、彼らがまったく察知できなかったというのは素直に凄い。 「お~き~つ~ぐ~~~っ!」 「あんた、ちょっといい加減にしなさいよ! 忍者じゃあるまいし、いつもこそこそと、この馬鹿っ!」  叫んで、紫織は道場を飛び出ると庭に降り立ち、周囲をきょろきょろと見回してから。 「――見つけたっ!」  再び叫ぶと、目にも留まらぬ速さで飛んで行った。それをぽかんと見送る宗次郎。 「……………」  オキツグとは、弟のことか。いや実際、凄い腕前と言うしかない。 「諸々、彼のためでもあるんですかね」  竜胆なら、そんな風に言うかもしれない。事実がどうかはさておきとして。 「解せませんよ、〈他人〉《ひと》のためになど」  呟いて、宗次郎もまた道場を出た。 どのみち己の生き方は変わらない。  雪が降る。だがいずれ血が降るだろう。  そのときは、もう間近に迫っているのだ。  特別付録・人物等級項目―― 壬生宗次郎・玖錠紫織、初伝開放。  ………………  ………………  ………………  ………………  彼らは、よく夢を見る。  闇の中でひらひらと、微かな光を孕んで奇妙に映え、踊るように落下していく小さな花弁。  それが何なのかは分からない。  こんなものは現実で見たことがない。  少なくとも彼らが知る常識の中で、該当するものが他にまったくない無二のもの。  花弁は、赤かった。まるで血のように〈紅〉《あか》かった。  ゆえに彼ら、凶月の者はこの花を指して言う。  〈血染花〉《けっせんか》―― 我ら禍津の一族を繋ぐ、これは血盟の花なのだと。 「咲耶、起きろ。着いたぞ」  開けられた御簾の先から声と光を感じ取って、凶月咲耶は目を覚ました。 「どうした、呆けた顔をして。俺の顔に何かついているか?」 「あ、いえ……そういうわけではありません」 「ただ、夢を見ていたものですから」 「ああ……」  それだけで、刑士郎は委細承知したらしい。彼も凶月である以上、夢という単語が何を指すかは知っている。  彼はあの夢を快く思っていないようだったが、咲耶は逆に好いていた。ゆえに暇さえあればよく眠っている。  血に染まったかのように赤い花弁……それは一族という形をとっていても血縁などなく、単に禍憑きという異能者の寄り合いである凶月を、真に家族たらしめている繋がりのように思うのだ。  すなわち、自分とこの兄を分かち難く結び付けている宿縁の象徴……ならば愛着を持つのが自然であろう。 「わたくしのことなどより、兄様のお加減はどうなのですか?流石にまだ本調子ではないように思いますが」 「俺はそんなに柔じゃねえ。歩いてるうちに、粗方治った」 「そもそも、丸一日寝かされたこと自体気に入らねえんだ。それから三日もかけてここに帰ってきたんだから、もうなんでもねえよ。要らん気を回すな」 「そうですか。ならばよいのですが」  神楽の儀のあと、即座に帰ると言い出した刑士郎を半ば無理矢理休ませたのは咲耶である。しかしそれも一日が限界で、以降は帰路だ。この兄の、こういう短気な性格まではどうしようもない。 「まあ、ゆったりとした道中であったことも幸いでしたね。その点は感謝しております」  ちらりと視線を横に流して、咲耶は自分たちをここまで送ってくれた人物に頭を下げた。 「あなた様がたなら、半日も掛からず往復できるだろう道行きですのに……お気遣い痛み入ります、龍明様」 「いや、私は別に、おまえたちを気遣ったわけではないのだがな」 「単純に、危険物の運搬だから慎重を期したというだけのこと。神速通など試みて、融爆されては堪らん」 「なあ、夜行」 「御意に。我々はともかく、民に危険が及んでしまう。それはそちらにとっても不本意であろう、咲耶殿」 「咲耶で構いませぬ、夜行様」  龍明に話を振られて応えた美麗な男――摩多羅夜行にそう微笑で返しつつも、咲耶はこの陰陽師が本気で民がどうこうと言っているようには思えなかった。  無論、竜胆のような特殊例を除いて、それは珍しいことではない。だがこの男は、どこか違う。  何よりも自分を中心に置いているのは確かだろうが、度合いの次元が違うような……  強いて言うなら、まともすぎておかしい。出会ってまだ日が浅く、言葉も数度交わしただけにすぎない彼に対する、それが咲耶の印象だった。 「ともかく、あなた様のお手並みには感服いたしました。これほど安らいだ旅路は初めてでこざいます」 「おお、まるで窮屈じゃなかったぜ。誰かさんの家とは偉い違いだ。具体的にどうやったんだよ?」 「別に。特殊なことなど何もしていない。だが賛辞はありがたく受け取ろう。良い神楽を見せてもらった礼でもある」 「ただし、龍明殿を貶めるような発言はやめてもらいたいな、刑士郎。立場上、素直に喜べん」 「ふん、本当のこと言って何が悪いんだよ」  この道中、歪みを封じる禁縛は主に夜行が取り仕切っていた。それがこれまで龍明に施されていたものより遥かに軽く、また強い効果を示したことで刑士郎は機嫌がいい。この、どこか異様な陰陽師に好印象を抱いている。 「もういっそのこと、おまえが御門の頭領になっちまえよ。あのチビスケには荷が重いぜ」 「兄様、またそのようなことを。失礼にあたります」 「どうかお許しください、龍明様。兄はこの通り、どうにも粗忽な性質ですので」 「構わんよ。これが図抜けているのは事実だからな。刑士郎のそういうところは率直で良い」 「だが、御門の当主云々は別の話だ。夜行はそういうのに向かん」 「まあ、そうでありますな。私には人望が無い」 「陰陽頭と伺いましたが」 「それは名目だよ。飾りにすぎん。つまり実際には、何もするなと言われている」 「上に龍明殿という当主がいるからこそ許される立場であり、〈陰陽寮〉《うらのつかさ》も機能するのさ。私個人としても、それでよいと思う。気楽であるしな」 「つまり、なんだ。おまえは放蕩公家みたいな身分かよ、夜行」 「ああ、それは的を射た喩えだな。私は日がな一日酒でも飲んで世を眺め、歌を詠みつつゆるゆると……そんなものだ」  優雅だろう、と肩を竦める夜行の態度に嘘はないように思う。だがそれなら、どうして自分も東征に参加するなどと言いだしたのか。  疑問に思っている咲耶の横から、ずばり刑士郎がそこを突いた。 「じゃあおまえは、物見遊山で東に行くのか?」 「そうなるな。だから龍明殿にも窺いを立てたのだ。流石に私も、断りなしで遊びに紛れ込むほど勝手ではないよ」 「……遊びか。まったくおまえは言ってくれるよ、本当に」  苦笑する龍明。それが彼女の、この弟子に対する諸々の感情らしい。 「だが二人とも、これでよく分かっただろう。この男はこういう人種だ。当主の座など与えたところで、早晩飽きて放り出す」 「それにそもそも、人を育てるということの適性がまったくない。肩書きは陰陽師だが、こやつは陰陽術など使わんぞ」 「あん?」 「それはどういうことでしょう?」 「だから言っただろう、飽きやすいのだ。いや、分に合わぬと言ったほうがいいのかな」 「おまえたちも体験したように、夜行の業は既存の術体系を容易く凌ぐ。おそらくこやつの目には、酷く不合理なものに見えるのだろうよ。ゆえに変えてしまうのだ。勝手に。自分が思うように」 「だがそれはこやつだけのもので、誰にも真似できんし伝えられん。そんな者が上に立ったら、おい、下の者はどうしたらいい?」 「なるほど……」  それは確かに、どうしようもない問題か。要は飛び抜けすぎて迷惑なのだろう。何もするなと言われているのも頷ける。  そこは刑士郎も呆れたようで、東征を遊び呼ばわりされたことに憤る気持ちはないようだった。 「なんかまあ別にいいがよ。おまえんとこのチビ娘はこいつをしっかり扱えんのか? 上に立つ身で、てめえより上の下がいるって認めるのは、そんな簡単じゃねえぞ」 「他所の事情に口出しするのは趣味じゃねえが、御門が割れた日にゃあ俺らも困る。だからどうなんだよ、そこらへん」 「それならば問題ない。龍明殿を軽く見るなと言っただろう」 「忠言、ありがたい限りだが、そこについてはおまえ達と同じだよ」 「なに?」  意味が分からないといった風の刑士郎に、龍明が答えた。  しかも、かなり驚愕的なことを。 「〈龍水〉《あれ》には、〈夜行〉《これ》と娶わせることにしている」 「はあああ?」 「まあ、そうでしたの」 「うむ。伴侶を敬い、立てるのは当たり前だ。まさにおまえたちと同じだよ。どちらが上とか、そういう問題は関係ない」 「いや、しかし待てよ。これとあれって、おまえ、そりゃあ……」 「龍水様は、素直に受け入れていらっしゃるんでしょうね。思えば、夜行様にはそのような態度を取っておられましたし」 「ですが……」 「私か? まあ面白いからいいだろう。正直困っていないでもないが、構うまい。重要なのは刑士郎が言ったような問題を起こさぬことで、それは〈龍水〉《あれ》が納得しているなら回避できる。私の生活は何も変わらん」 「愛してはいらっしゃらないのですか?」 「愛しておるよ。あれは見ていて飽きぬから、ある種尊敬すらしているほどだ。不屈で懲りもしないところなど、素晴らしい」 「……………」 「童女趣味はないがね。と言うよりも女色自体、自分にあるのかどうか分からんが」 「ともかく、そういうことだ。夜行も、本気でそう思っているなら少しは龍水を労ってやれ。おまえに愛がどうだのと言われたら、墓の下からでも這い出てきて飛び跳ねるだろう」 「あれが陰陽道にやたらと〈気触〉《かぶ》れて、本来の適性を歪めておるのもおまえのせいだ。未来の妻なら、正しい方向に導いてやれよ」 「そうだな、何なら〈天眼〉《め》を見せてやれ。少しは視点が変わるかもしれん」 「目……?」  不明な言葉に咲耶と刑士郎は訝しむが、夜行は薄く笑って問いを返した。 「それは当主としての命令ですかな? それとも母としての願いですかな?」 「どちらもだが、どちらでもない面もある。要はおまえが決めろということだ。よいな?」 「ふむ……とりあえず承りました。考えておきましょう」 「では考えろ。咲耶、刑士郎、神楽は大儀であった。しばしの別れだが、次は春にな」 「おう」 「こちらこそ、お送りいただいてありがとうございます」  頭を下げた咲耶に頷き、龍明は自らの牛車へと戻っていく。術師の乗り物としてそれがまともな物であるはずはなく、おそらく今夜半には秀真へ帰り着くのだろう。 「ならば私も行かせてもらうか。だがその前に」  ぱん、と夜行は手を鳴らした。そして呼ばわる。 「出て来い、爾子・丁禮。挨拶ひとつ出来ぬようでは恥ずかしいぞ」 「な―――」 「それは……」  刑士郎の目が吊り上がり、咲耶の顔も僅かに強張る。そんな二人の頭上から―― 「いやーん、いやいや、いやですのー」 「いくら夜行様のお言葉でも、そればかりは……」  重なり合い響くように、木立を振るわせる二つの声。 「出て来ぬならば、これより毎食の〈索餅〉《さくへい》に〈山葵〉《わさび》でも塗り込んでやろうか」 「――――――」 「うぎゃーっ、そればかりはご勘弁ですのー!」  同時に、木の上から雪と共に巨大なものが落ちてきた。 「―――――」 「…………」  絶句する二人の前に現れたのは、犬と人間。仔犬と童子だ。しかし犬のほうは牛ほどもある巨体であり、子供のほうも正確なところ人間ではない。  爾子多童子に丁禮多童子……夜行の僕を務める式神だという。  奇怪な外見も登場の仕方も、そういった背景を持つなら別にいい。  そう、それは問題じゃないのだが…… 「う~~~、うるうるうるるるるるる」 「……………」  毛を逆立てて威嚇してくる爾子に、無言のまま冷たい眼光を飛ばしてくる丁禮。この一人と一匹は、明らかに咲耶と刑士郎を嫌っていた。  そしてそれは、一方的なものではない。 「てめえ夜行、ふざけんなよ。なんでこいつら呼びやがんだ」 「せっかく龍明様は気を利かしてくださっていたのに……」  咲耶らも、同様に彼らのことが苦手だった。理由はまったく分からないが、なぜか関わりたくないのである。 「そ、それはこっちの台詞ですの。爾子だって、出て来たくなんかなかったですの!」 「同感です。冗談ではない」 「んだこらァッ」 「や、やるかですのー!」  正直、奇妙な話だった。嫌われることには慣れているものの、こちらから――特に咲耶が――嫌い返すというのは珍しい。さらに言えば、好戦的な刑士郎が彼らに対してはいまいち及び腰なのだ。  本来なら有無を言わさず攻撃するはずだろうに、なぜかそこまではいかず、口喧嘩で追っ払おうとする。勝てるとか負けるとかの話ではなく、とにかくお互いに寄りたくないのだ。  これはもう、あらゆる意味で相性が悪いとしか言いようがない。 「はっはっは、あっはっはっはっは」  そして夜行が、そういう彼らを明らかに面白がっていることも。 「何が可笑しいのですか、夜行様」 「趣味が悪すぎます、夜行様」 「てっめえ、終いにゃ本気でキレるぞ」 「変態、変態! 履歴書に趣味は嫌がらせっていうこと以外、書くことないに決まってますの。この万年放蕩実質職歴無し男っ!」 「くく、ふふふふ……まったく酷い言われようだな。しかし、これは……なんとも――くははっ」  ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「丁禮、これは当分いじられ続けると思いますのよ」 「覚悟を決めよう。だけど不快であることを示し続けるのは重要だよ、爾子。たとえ暖簾に腕押しであっても」  それは余計に面白がられるだけではないのか。咲耶はそう思ったものの、話し掛けたくないので黙っていた。 「うむ、ははは……ではそういうことで、また会おう凶月のお二人」 「おまえたちは面白い。私は面白いものが好きだし、敬ってもいる。ゆえに友情を受け取ってくれるなら、望外の喜びだ」 「さあ行くぞ、爾子・丁禮。いつまで愛らしく膨れているのだ、秀真で龍水が待っているのだから早く帰ろう」 「うふふ、はははは、あはははははははは」  と、喜色満面高笑いしながら去っていく夜行。二童子もぶつくさ言いながらそれに続いた。 「はあ……しかしこう何と言うか」 「皆まで言わないでくれ、爾子。あれでも私たちを拾ってくれた主人なのだから、もう運が悪かったと諦めよう」 「そういう人生なんですのねー」 「まさに。痛恨だが仕方ない」  そうして、雪の上をてふてふと歩き去っていく。数瞬のうちに、龍明の牛車も含めて夜行と彼らは霧の中に消えていった。 「……………」 「……………」  まあ、ともかく。 「こうして無事に帰郷したわけですから、あまりそういうしかめ面はやめましょう、兄様」 「まずはただいまと、里の者たちに言わなければ」 「ああ、どうやら迎えも来たようだしな」  龍明たちが去ったことで、今まで控えていたのだろう里の者らがこちらのほうにやって来ている。彼らも凶月として当たり前に排他的だし、外部の者に接触するのが怖いのだ。  ここは閉じた隠れ里で、原則外に出られないし出たいとも思わない。全員で三十名ほどの家族であり、血の夢と禍で繋がった運命共同体なのである。  近づいてくる里人たちを遠目に見ながら、咲耶は言った。 「心なしか、皆の顔が明るいですね。兄様の武勇伝などをきっと楽しみにしているのでしょう」 「偉そうに語るようなことはやっちゃいねえがな。ふん、まあいい」 「今夜は酒宴を開くぞ、咲耶。飲まなきゃ色々とやってられねえ。まさか文句はねえだろう」 「ええ、ですがあまり羽目を外しすぎないようにお願いします」 「保証は出来ねえぞ」  と笑う刑士郎は珍しく穏やかな面相だが、彼がこういう顔をしているときに何を考えているかは知っている。  この兄はひどく屈折した性格で、外面が凪いでいるときほど内面では荒れているのだ。無頼に暴れて激発していた神楽のほうが、精神的にはむしろ穏やかだったはずと言っていい。少なくとも、咲耶はそのように彼を見ている。  問題は、なぜそんな真反対のことが成立しているかなのだが…… 「どうした、まだ小言が言い足りねえか?」 「そうですね。ですがそれはゆるゆると……」  兄を内心で苛つかせているのが何なのかを理解しながら、しかし咲耶は詮無いことだと割り切った。どのみち自分のしたいことは止められないし、止めるつもりもない。  ただ、その結果が望みとズレるのが悲しいだけで……  あるいは、自分も楽しんでいるのかもしれなかった。何せこの身は最大の禍を招く女であり、それが男を破滅に導くのは道理だろう。  そんな、奇妙に甘い期待と諦観を抱きながら、咲耶は里人たちの許へ向かう兄の背を追っていった。  ………………  ………………  ………………  酒宴は夜半をすぎるまで、四刻以上に渡って続いていた。  刑士郎は早々酔わない。それどころか酒の旨さをあまり理解していない。  味覚は正確であるものの、美味いも不味いも同じようにしか感じないのだ。しかしそのうえで美酒美食を好み、鯨飲して馬食する。  何のためにと言われれば、本人にも分からなかった。強いて言うなら模倣の類なのかもしれず、自分の感性や感覚を一般のそれに照らし合わせて実験している。  たとえば、今――  凶月の誰もが夢見、安らぎを覚える花弁の舞いに……  どうして自分は苛つくのだと、嘲りながら憎悪するのと同様に。 「お目覚めになられましたか、兄様」 「今宵は少々、飲みすぎだったのではありませんか? お酒に強いのは存じていますが、何事も限度というものがあるでしょう」 「お陰で、皆潰れております。御前の栄に浴した兄様を称えるためとは申しましても、これでは明日が大変です。当主として、ご自重なさってくださいまし」 「ふん……」  真上から降ってくる窘めの声は、先ほどまで夢に見ていた血染花の舞いを想起させて麗々しい。まるで花弁の海に埋もれていくような心地を覚え、その柔らかさが逆に彼の癇性を刺激した。 「二日酔いで起こる凶災もないだろうよ。他の連中が俺に付き合って酔い潰れても、それは勝手だ。共に飲めとは言ってねえ」 「上に立つ者が、下の者から真似をされるのは必然です。子供じみた言い逃れは聞きません」 「ですが、まあ、たまには良いのかもしれませんね。この里が活気に沸くのは珍しいこと。これで兄様が、もういくらかご機嫌麗しければ咲耶も小言は申しませんけど」 「まだ、不安なのですか?」  問いはあまりに端的過ぎて、それのみでは何を指しているのか分からない。だが、この血染めの夢で結ばれた兄妹には、その程度で事足りた。お互いに隠し事は出来ない。 「別におまえがどうこうというわけじゃねえ。性分だ、許せよ」 「許しはしておりますが、時に悲しくなるのは仕方のないことでしょう。咲耶が想えば想うほど、兄様は苛立っていかれます」 「里の者は、皆どこかしら似た部分を持ちますけれど……兄様は特に酷く、病的な」 「これはもう、なにやら呪いめいているやもしれぬと思うほどです」 「幸せなど、知らぬ。見えぬ。分からぬと」 「覇吐様も、面食らっておられたでしょうに」 「あの野郎の話はするな」  それは御前の神楽で、彼が覇吐に言ったこと。決して憤激に任せた暴言ではなく、凶月刑士郎という男の真実を表した言葉だった。  もとよりこの世に生を受けてから今これまで、彼が立ってきたのは悪意と殺意の大地である。  なぜなら人間とは知れば知るほど邪悪で残虐なものであり、ゆえに彼はそうした性質を理解しつつ上回ることが出来た。  悪辣さも卑劣さも総て良し。妥協も利用も猜疑も憎悪も、等しく刑士郎が思う人間世界の縮図であり、大地の構成物質に他ならない。  よって、その渦中に身を置くことこそ彼にとっての安心だった。常に嵐の環境こそが、この男を納得させると言っていい。  だから、むしろその対極――羽毛に包まれ花弁に埋もれるような、咲耶から与えられる安らぎこそが恐怖となる。足場のない空間に放り出されたような不安を覚え、強い苛立ちが増していく。  つまるところ、刑士郎は幸せが苦痛なのだ。それは不慣れなゆえの戸惑いでも、己が相応しくないと思う自虐でもなく、もっと根源的に病んだ人格。咲耶がいみじくも言ったように、呪いを帯びているとしか思えない精神だった。 「わたくしが覇吐様の話をすると、すぐそのような不機嫌に。もしや兄様、嫉妬でしょうか?」 「違ぇよ」  そして、あるいは――  そうであるからこそ、彼は咲耶を求めるのかもしれない。  火に誘われる蛾のように、暗闇で燃える大凶星へと吸い寄せられているのだろう。 「単にくそったれだから気に入らねえ」 「久雅の小娘も同様だ。あいつらは気持ちが悪い」  そうした慢性的な癇性を増幅する不快事として、刑士郎は覇吐らのことを毒づいている。しかしそれは、神楽で不覚を取ったからというだけではないようだった。 「言うに事欠いて、タマシイだとよ。おい、なんともふざけた話じゃねえか」 「ええ、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈方〉《 、》〈が〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》〈ね〉《 、》」 「〈凶月〉《われわれ》の一部にしか、伝えられていない概念なのに」 「しかも俺たちだって信じちゃいねえ。正直言うと、忘れてたぜ」  この世で自分たちしか知らないはずであることを、どういう事情か知っていた者がいる。それは少なくとも刑士郎にとって、剣呑な予感を覚えるものだった。  なぜならたとえどんなものでも、凶月の内にあったものが外に流れてよいわけがない。  彼らは禍津、凶災の民。ならばそこに秘匿されていた代物は、特級の危険因子に他ならないはずである。  刑士郎はそう考えるが、しかし咲耶の意見は違ったようだ。 「わたくしは、素直に嬉しゅうございましたよ。まるで道が開けたような……」 「この御方についていけば間違いはない。そのように感じました」 「感じましたって、おめえはなあ……」  そんなその場の閃きで、勝手に臣従など表明されては堪らない。腹立たしくも寝ていた間に、咲耶が久雅に跪いたことは知っている。 「一応、当主は俺なんだがな」 「はい。そして兄様を誰よりも慕っているのがわたくしです。ゆえにわたくしの考えは、すなわち兄様の考えです」 「なんだそりゃあ」 「おかしいですか? 逆もまた然りであると思いますよ」 「そのわりには、よく俺の方針に対してごちゃごちゃと言う」 「それは兄様が、ご自分に素直でないことが多いからです」 「そんなことはねえ」 「いいえ、あります。わたくしがそう思うのだから、兄様はそうに違いないのです」 「なんですか? 続けますか? 子供の頃から一度だって、わたくしに勝てたことがありますか?」 「…………」  もはや何もかも滅茶苦茶である。論もクソもあったものではない。  だが刑士郎は、己が咲耶のこういうところに酷く弱いと自覚していた。いま胸を満たしていく感覚が、狂おしいほどの激痛を与え続けていることも。  彼を包み、埋めていく、無限に舞い散る血染花。安らぎという茨の中で、刑士郎は今も幸福を憎悪している。  いつか耐えられなくなるだろう。総て引き裂きたくなるだろう。  この閉じた花園を破壊して、血風の大地へ塗り替えたくなるに違いない。  それは確信に近かった。度し難く今の延長線にあるものだと分かっていた。  思えば咲耶が言う呪いとやらは、自分の魂に刻み付けられた宿業なのかもしれないと――  そんな思考を弄ぶほど、彼は哀れにも病んでいる。 「ああ……」  ゆえに分かった。どうやら咲耶は正しいらしい。 「おまえの言う通りだ。逆もまた然りか」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈気〉《 、》〈だ〉《 、》〈な〉《 、》、〈咲〉《 、》〈耶〉《 、》」 「何のことでございましょう」 「覇吐が気に入ったらしいが、なるほどな。あいつがいれば返し風が曲がる」 「面白ぇじゃねえかよ、くくくく……今から東の空が楽しみだぜ」 「それはよろしゅうございました」  喉を鳴らして笑う刑士郎に、こちらも微笑しながら応える咲耶。そのまま彼女は、先と同じく疑問符のつかない口調で問い掛けた。 「わたくしもお供してよいでしょうか」 「駄目だ」  と、刑士郎は言うものの、そんなことに意味などなく。 「またご自分に素直でない」  そう返されるのは自明の理で、事実その通りなのかもしれなかった。 「困った兄様。愛しい兄様。咲耶が憎いのでございますね」 「ならば東へお連れください。穢れの源泉を見せてください。わたくしは兄様の血染花になりとうございます」 「それが咲耶の望みなれば、すなわち兄様の望みであるはず……」 「じゃあ、ついてきて何をする」 「当然のこと」  膝上にある刑士郎の顔を両手で挟み、咲耶は上から覗き込むようにしながら熱く睦言を囁いた。 「〈禍津瀬織津比売〉《まがつせおりのひめ》の〈咒〉《な》にかけて、咲耶が〈穢土〉《えど》の災厄を祓ってみせます」  きっとそのとき、この奇妙な感覚の答えも出る。刑士郎をしてそう予感させるほど、それは絶対的な確信だった。  東へ――凶災の二人は駆けるだろう。  血染めの花が、魂に刻まれた紅の毒が呼んでいるのだ。  特別付録・人物等級項目―― 凶月刑士郎・凶月咲耶、初伝開放。  ………………  ………………  ………………  ………………  彼女が回復したと聞いたのは、神楽から五日後のことだった。 「思ったよりも大事ないようで安心した。壮健そうで何よりだよ、龍水」 「はい。お気遣いいただいて、ありがとうございます」  御門の屋敷へ見舞いに訪れた竜胆は、元気な様子の龍水を見て安堵の微笑を浮かべていた。 「しかし竜胆様、よろしいのですか? 今は正直、私のところなどを訪れている暇はないと思うのですが」 「ん、ああ、忙しいのは確かだよ。龍明殿もそうであろうし、諸々やることは多い」 「何せ、春に出陣だからな。軍備を整えるだけで目が回るようだし、政治的なこともある。将になったとはいえ、内心色々と私に言いたいことがある者は多いだろう」 「では――」 「いや、そうなんだが、おまえが思っているほど汲々としているわけでもない。冷泉殿が助勢をしてくれているから、大変ではあるものの予想よりはだいぶ楽だよ。正直、拍子抜けしたほどだ」  五つ竜胆の筆頭と次席が共同歩調を取った以上、大抵のことはどうにかなる。加えて龍明もいるのだから、少なくとも春までは大過なくいけるだろう。神楽の儀で勇武を示し、皇主陛下の覚えが目出度くなったということも大きい。 「流石に孤軍奮闘している状況だったら、ここまで余裕を持ってはいない。だから心配無用だよ、龍水」 「ですが……」  安心させるように宥めたつもりだったのだが、龍水は一層不安げな顔になっていた。  まあ、理由は分かる。 「おまえが言いたいのは、冷泉殿のことだろう」 「はい。中院は油断がなりませぬ。あの男に気を許すのはおやめください」 「気など許してはいないさ。しかし認めているところもある。彼は野心家だし、自信家だし、それに見合う力も持っていて危険なのは間違いないが、だからこそ愚鈍でもない」 「この次期、例えば私が〈弑〉《しい》されるようなことになった場合、もっとも疑われるのは彼だ。ゆえに六条らは何をするか分からんが、そこは己のためにも彼が止めるさ」 「加えて言うなら、まあなんだ。彼は私に懸想していて、久雅の利用価値を分かっている。冷泉殿が思い描いているだろう栄光に、私は必要なのだよ、たぶん」 「だったら是非とも守ってもらうよ。あちらとしても男の見せ所という感じだろう」 「はあ、それはその、何と申しますか……」 「悪女めいたやり口だとでも言いたいのかな、龍水」 「い、いいえ、決してそういうわけでは」  悪戯っぽく笑って問うた竜胆に、龍水は慌てて首を振りつつ否定する。そして、苦笑しながら言葉を継いだ。 「……少し、変わられましたね竜胆様。以前は、そういうお顔をなされなかったように思います」 「そうか? 自覚はないのだが、もしかしてはしたなかったかな」 「より魅力的になられたと申し上げているのです」 「ただ、重ねて言いますが、やはりお気をつけください」 「分かっているさ。私とて冷泉殿を本気で手玉に取れるとは思っていないよ。彼に限った話ではないが、他者とは良くも悪くも理解を超えたところがある」  特に自分には――と付け足して自嘲した。それはあちらから見ても同じだろうし、だからこそ中院冷泉は危険な男だ。舐めていないし油断もしていない。  ただ、向き合う覚悟を固めただけだ。そしてそう決めた以上は迷わない。龍水が言うように、もはや以前の自分と違うのならば。 「冷泉殿とは今後も色々あるだろうが、私は退かぬよ。彼が変わらぬ限り気など許さんし、そうなればいずれ剣呑なことになるかもしれない。だがそれはそれだ」 「私にはおまえたちがいる。ゆえに大丈夫だと断言するよ。これで満足かな、龍水」 「え、ぁ……それは……」  ぽかんと呆気に取られたような龍水を見て、不意に可笑しさがこみ上げてきた。 「なんだ、酷い反応だな。信頼していると言ったのに、そう気持ち悪がらないでくれよ」 「久雅の鬼姫はちょっと頭がおかしいのだ。そんな私を好いてくれると言うのなら、これくらい受け止めてくれよ。悲しくなってくる」 「う、や、いえ――そういうわけでは」 「あのとき、後でちゃんと話そうと言っただろう? 言いっ放しで逃げるのは性に合わんし、おまえから私に言いたいことがあったら聞かせてくれ。知りたいと思う」  もとより、今日はそのためにやってきたのだ。言って竜胆は、あたふたとしている龍水に優しく尋ねた。 「さあ、何かないのか?」 「私は……」  もじもじと、恥ずかしがって困惑しているような態度。その様がとても可愛く、妹がいればきっとこんな感じなのだろうなと竜胆は思った。  が、龍水の感覚は違ったらしい。 「竜胆様は、本当に姫御ですか?」 「は?」  予想外の問いに面食らう。それはどういう意味だろう。 「ですから、ついているのかついていないのかどちらですか?」 「いや、おい……ちょっと待て」  いったいこの娘は、何を分からぬことを言っているのか。さらに訝しむ竜胆の前で、龍水はやはりもじもじしながら語りだした。 「竜胆様の仰りようは、何と申しますか、女子的に痺れるのでございます。私が愛読している和歌集の恋歌より、その……」 「そういうことをさらりと言われる竜胆様は、本当に私と同じ女子なのだろうかな……と。そうであったら良いなというか、困るなというか……」 「……………」 「竜胆様が色々特殊であられるのは、もしや何かの事情があって、殿御が姫御を演じているからではないのかなと。そうであったら、精神的に奇態なところがあるのも頷けますし……」 「お顔も、美丈夫然として凛々しくありますし……」 「つ、つまり――」  ばん、と畳を叩いて少女は叫んだ。 「龍水は、女子として惚れそうになり申したっ!」 「……………」 「ていうか竜胆様は、正直女子に見えませぬっ!」 「よく分かった」  やおら立ち上がった竜胆は、龍水の腕を掴んで引きずるように歩きだした。 「え、あっ、何をなさるんですか竜胆様?」 「風呂に行くぞ」 「はい?」 「だから風呂に行く。おまえの考えはよく分かった。受けて立とう」 「私が真実、女子であると証明してやる。刮目して見るがいい」  言いつつ、笑顔でぐいぐい引っ張る。龍水の顔は青くなった。 「り、竜胆様、目が怖いです。力が強いです。やっぱり、とても女子のものでは……」 「貴様、本当にいい度胸だな。よいよい、俄然やる気が出てきた」 「私が女子に化けた男と言うなら、おまえは逆にしてくれよう。そのただでさえ薄い胸の膨らみ、たわしで削り取ってやる」  声音で本気なのを悟ったのか、龍水は血相変えて絶叫した。 「あーっ、待って待ってすみません、龍水が悪うございました間違っておりましたぁっ!」 「竜胆様は、天下に比類のない大和撫子でございますぅ!」 「はっはっは、こやつめ心にもないことを」 「ぎゃーっ、龍水の乳房は発展途上にあるというのにーっ!」  悲鳴をあげながら引きずられていく龍水と、竜胆の乾いた高笑いが御門の屋敷に木霊した。  そんなこんなで。 「気に入らん」  竜胆は、まだ納得いかなげに眉をひそめて愚痴っていた。 「巡りあわせが悪い。よりによってこんなときに風呂が壊れていただと? いったいどういう偶然だ」 「よ、よかった。そういえばそうだったんだ、忘れてた。ここは奴に感謝しよう」 「奴?」 「あ、いえいえ、こっちのことです。何でもないです」  ぶんぶんと手を振る龍水に竜胆は訝しげな目を向けるが、まあいいと溜息をつく。 「とにかく、あまりくだらぬことを言うなよ。私とて娘らしさが足りぬのは自覚しているが、立場上仕方ないところもあるのだ。そもそも龍明殿とてそうだろう」 「これはこれで矜持だし、恥じてもいないが、それでも面と向かって言われればやはり傷つく。特に凶月の娘のような、しとやかでたおやかで慎ましやかな……ああいう女子の手本めいた者を見た後ではな」 「私にも、多少だが劣等感に似た思いはあるのだ。おまえも女子なら、それくらい察してくれよ」 「……はあ、誠に申し訳ありませぬ」  これで疑惑が晴れたのかどうかは知らないが、竜胆もなにやらどっと疲れたのでこの話をするのはやめにした。 「ではな、私はもう行かせてもらう。おまえも、病み上がりで無茶な修行などするなよ」 「あ、はい。竜胆様はお帰りになってから何を?」 「私か? そうだな、せっかくだからまず風呂にでも入るよ。どうもそういう気分になってきた」 「それが何かしたか?」 「いえ、その……」 「………?」  歯切れの悪い龍水の様子に、軽い困惑を覚える。何を言い淀んでいるのだろう。 「言いたいことがあるなら言えと言ったが? これは今後、永続の命令でお願いだ。二度は言わんぞ」 「……分かりました」  と、促したことで龍水は顔をあげる。そのまま、何かを確かめるような声で言葉を継いだ。 「ならば言わせていただきます。覇吐は如何しておりますか?」 「…………」 「竜胆様は、その後あの男とどう接しておられますか?」 「どう、と言われても……」  そんなこと、どのように答えればいいのだろう。とりあえず竜胆は、現状をありのまま語ることにした。 「あれは私の臣なのだから、当家で預かるのは当たり前だ。ふざけたことに、ほぼ無一文で上京して来おったらしいし、衣食住の面倒くらいは見てやらねばならんだろう」 「だが同時に、あの男は強い歪みだ。私はそんなことなど気にせぬし、実際気になるような違和感もないが、事実として凶月と同等以上ということが家中にも知れ渡っている」 「ゆえに、なんだ。無駄な混乱を生まぬよう、今は離れに閉じ込めておるよ。悪いとは思っているが、実質軟禁に近いかもしれん」 「それで、竜胆様は如何様に?」 「私は、その、それなりに忙しいと言ったではないか。世話は口の硬い侍女数人に任せているし……聞いた話では、もう回復はしているらしい」 「つまり、あれ以降ほぼまともに会っていないのですね?」 「それは、そうだが……」  いったい、だから何だというのだ。龍水の口調は、段々詰問めいたものになってきている。  自分でもよく分からない気分になり、竜胆は僅かに声の調子が高くなった。 「二度は言わんと言ったぞ、龍水。はっきりしろ」 「はい、ですから言わせていただきます。竜胆様は楽観視しすぎです」 「なに?」  一瞬、言葉の意味が分からず呆けてしまった。楽観しているとは、どういうことか。 「覇吐をもっと厚遇しろとか、放り出せとか、ましてや絶対有り得ませぬが、色がどうだのという次元の話でもありません。これは歪みの者を管理する御門の人間として言っております」 「竜胆様、あなたはあの覇吐の歪みを、どう捉えていらっしゃいますか? まさか、都合のよい無敵技とでも思っているのではないでしょうね」 「いや、流石にそこまでは……」  と答えながらも、実際はどうなのか。竜胆は自分自身でも分からなくなった。 「凄いな……とは思ったぞ。あとはそう、便利であるとも……」  受け止めた他者の歪みを、それ以上にして撥ね返す。これだけでも相当に強力だが、何よりも特筆すべきは相手の初撃で死なないことだ。戦いにおいては、実質不死身と言っていい。  苦痛や負傷は残っても、必ず余剰の生命力が生じる特性。ならば覇吐を殺せる者は存在せず、逆に攻めれば攻めるほどやり返される。これが便利でなくて何だと言うのか。 「ただ問題があるとすれば、精神的なものなのか。痛みはあるのだから恐怖もあろうし、度を越えれば耐えられなくなるだろう。死ななければ何でも出来るというものではない」 「実際、あれと同じ力を持っていても、笑って禍憑きを受け止めようとするほど豪胆な人間はそうおるまい。死に無頓着な輩はさほど珍しくないものの、痛みは別だ。誰も好んで受けたくはないだろう」  だから、攻撃されなければ攻撃できないという覇吐の歪みは、逆に重い枷とも言える。通常なら死に到るほどの傷を負って、それでも死ねないのは激烈な拷問であるとも……  そういう意味で、紛れもなく彼は勇士だ。他の者には経験できない域の苦痛を覇吐は知っているはずで、それは簡単に呑めるものではないだろうと評価もしている。 「と、私は思うのだが、違うのか?」 「ええ、確かにそういう面もあるでしょう」 「ですがそれは人間の、〈こ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈側〉《 、》〈の〉《 、》〈常〉《 、》〈識〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》」 「こちら側?」 「はい。竜胆様の仰ったことも覇吐にとっては真実でしょうし、あやつめが、顔に似合わず並外れて我慢強いのも確かでしょう。そこは私も、一目置かざるを得ません」 「ただ言ったように、それは我々のような人間の理屈であり、感覚なんです。歪みというものは、そんなものを考慮しません。平たく言えば、痛いのを我慢するという程度の負荷では追いつかないのです」 「〈異〉《 、》〈界〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈異〉《 、》〈界〉《 、》〈な〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈法〉《 、》〈則〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈ま〉《 、》〈す〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」  つまり、その意味するところは竜胆にも呑み込めた。 「凶月で言う返し風のようなものが吹くとでも?」 「可能性は高いですね。禍憑きはとても分かりやすいので表面化するし、有名ですから、あれが彼らだけのものと思われがちですが…」 「原則、総ての歪みには何かしらの法則性がありますよ。それが私たちには理解できない理屈なだけで」 「玖錠の女も、かなり都合の良いものを持っているように見えますが、実情はそれほど甘くないですよ。あの調子で使い続ければ、いずれ人知の及ばない何かで帳尻を合わせられることになるでしょう」 「まして覇吐は、ぱっと見であまりにもご都合がすぎる。あんなものを揮う以上、何を持っていかれるのか見当もつかない」 「いや実際、足せば引かれるはずだというのはこちら側の理屈ですから、本当のところは分からないのですが……」 「凶月と、あと幾つかの実例から、そうなる確率が高いと私は見ています。ですから竜胆様、あまり覇吐から目を離さないように」 「……………」 「竜胆様?」 「ああ、分かった。忠言感謝するよ龍水」  頷いて、竜胆は先の神楽を回想する。あのとき、自分の前に颯爽と現れたあの男……  あれから今まで、忙しいだの何だのと理屈をつけて彼から遠ざかっていた理由。それが何なのかは、自分自身でも分かっていた。 「本音を言うとな、私は少し照れ臭かったのだ。色々とふざけたような男だが、御前で覇吐が現れたときは嬉しかったし……自信をもらったと感謝もしている」 「だから何かしら労いをかけねばならないのに、どのように伝えればいいのか分からなくて……いかんなこれでは。将として失格だ」 「おまえが覇吐をそこまで案じていることには驚いたが、嬉しいよ龍水」 「いや別に、私はあんな薄ら阿呆なぞどうでもよいのですが」 「本当か? なにやら随分と真摯だったぞ」 「誤解しないでください。私には夜行様がおります!」 「夜行?」  言われ、ああと思い出す。彼女に許婚がいるのは龍明から聞いていたし、どんな男かもつい先日この目で見た。  そのうえで思うのだが…… 「龍水、あの夜行と申す者は、正直……」 「放っておいてください。龍水は聞く耳持ちません!」  まだ皆まで言っていないのに、ぷいとそっぽを向かれてしまった。 「竜胆様までそのようなこと。いいです。いいんです。誰に何を言われようと、龍水の気持ちは変わらないのです」 「昨晩、凄いものを見せていただきました。夜行様は、やはり無窮に無謬な御方なのです。あれほどの殿御は世に二人とおりません!」 「いや、その……」  自分とて言うほど男を知っているわけではないし、むしろまったく知らない部類だが、そんな力いっぱい力説されると逆に不安になってくる。 「竜胆様こそ、覇吐ごときに間違っても気を許さないでくださいませ。先ほどの仰りよう、お顔といい口調といい、なんだか色々と怪しかったです」 「怪しいって……」 「とにかく、あらゆる意味で覇吐には気をつけるようお願いします。この世で夜行様以外の男は、どいつもケダモノですからねっ!」 「そ、そうか。分かった……」  龍水の勢いに気圧されて、思わず仰け反りながら頷く竜胆。  しかし、男から動物的で狩猟的な感性がなくなれば、女も困るのではないだろうか。いや無論、だからといって野獣たれと言っているわけではないが。  礼節を弁えたケダモノならばいいのではないか? と、そんなことを思いながらも、しかしそれってケダモノじゃないよなと真面目に悩む竜胆だった。  ………………  ………………  ………………  ケダモノの鳴き声が夜のしじまに響き渡る中、ついに俺の内なるケダモノも我慢の限界に達していた。 「ああああああ、有り得んわこれえええっ!」  月に吼える。絶叫する。俺の血中興奮物質は最大稼動で駆け回り、もう目から口から怪光線が発射されそうなくらい鬱憤堪ること山の如し。  つまり、有り体に言うと性欲持て余して息子がやべえ。 「ねえよ、こんなの! どんな扱いだよ! 俺は霞かなんか食ってる仙人かっ!」  そりゃあね、最初はね、我慢してたのよ俺だって。高貴なお姫様には雅んな余裕を見せつつ、粋な伊達男っぷりを発揮しようと思ってたのよ、本当に。  だがそれ、もはや挫折。流石に五日も放置されるとは思っちゃいなかったものだから、予定が狂って元気に狼が目を覚ましました。  そもそも俺の立てた予想では、こんな感じになるはずだったっていうのによ。 「覇吐、私のためにこんな傷だらけになって。いったいなんと詫びればいいのか」 「馬鹿、謝るなよ竜胆。俺が見たかったのは、あんたの泣き顔じゃないんだぜ?」 「ただ、優しく笑ってくれればいい。それが何よりの褒美だし、薬になるのさ」 「ああ、ではせめて私に介抱をさせてくれ。おまえの傷を癒したい」 「おっと、迂闊に触れちゃいけねえや。俺に近づきすぎると火傷するぜ、お姫さん?」 「本当だ……こんなに熱い」 「だろう? あんたがそうさせてるんだぜ。まったく罪な女だよ……その目が俺を――惑わせる」 「だ、駄目だ覇吐、そのような……」 「怖いんなら、目を閉じてな。見てるのは、あのお月さんだけさ」 「覇吐……」 「竜胆……」 「抱いてくれ……おまえの熱さを、感じたい」 「よっしゃおらああああぁぁァァッ――――!」  ………………  ………………  ……………… 「やめよ、アホらし」  そういう展開を想定して何回も練習してはいたものの、実現しなかったもんはしょうがない。ここは頭を切り替えて、さっさと次の行動に移るべきだ。 「名付けて、お風呂でばったりヌキヌキポン大作戦っ!」  じゃじゃーん。 「うん。やっぱりヌキヌキポンって、我ながらいい表現だよな」  語呂が良くて言い易いし、そこはかとなく可愛い響きだから下品さも薄れている。しかもそれでありながら、何を指しているのか一発で分かるというのが素晴らしい。  清く正しく美しく、明るいスケベを信条とする俺にとっては、まさにぴったりな表現だろう。これ、真面目な話流行んねえかな。  とかそんなことはいいとして、お風呂でばったり作戦の概要は簡単なことだ。  この家には、なんとまあ大したことに露天のでかい浴場がある。思うに当主専用のやつだから、張ってりゃそのうち竜胆が来るはずだ。  そこでこうなる。 「今日も覇吐に逢えなかった……こんなに避けて、私は嫌われたりしていないだろうか」 「ああ、違うんだ。信じてくれ。私は単に、ちょっと恥かしがり屋さんなだけなんだ。おまえの目で見られると、何も言えなくなってしまうものだから」 「逢いたいんだぞ、ほんとなんだぞ? だけど逃げてしまう臆病な私を許してくれ。こんな様ならいっそのこと、出逢ったあのときと同じように……」 「雄々しく、颯爽と現れて、私を連れ去ってくれないだろうか」 「そう、叶うならば今この瞬間、そこの戸を開けておまえが来てくれたらどんなにか……」 「あれ、竜胆じゃねえか。風呂入ってたのか」 「きゃあっ」 「あっと、悪ぃ。でも、まあいいじゃねえか。今夜は月が綺麗だしよ。二人で見ようぜ」 「は、は、覇吐、私は……」 「おまえに逢いたかったのだ……抱いてくれ」 「よっしゃおらああああぁぁァァッ――――!」  最高。最高。これ超最高! 一点の曇りもないマジ完璧作戦! 「あなや、げに麗しい! いと雅んであらかりけれっ!」  なんか言葉間違ってるような気もするが、別にいいんだよこんなもんは、雰囲気だ雰囲気。 「つーわけで、行ってみようかあああ――!」  必勝の予感を胸に抱き、俺は露天風呂へと向かっていった。  そして…… 「よっしゃああああ、入ってる入ってる。誰か入ってますよー」  柵をよじ登りながら中を確認したことで、俺はそれを確信した。湯気が酷くてはっきりとは分からないが、人がいるのは間違いない。  だって鼻歌とか聞こえるし、これはもうガチで当たりでしょ。ならばあとは楽園へ特攻するのみ。 「行ってまいります、お母さんっ」  〈故郷〉《くに》のお袋に、覇吐は坂上の家門をこれから磐石に建て直しますと誓いつつ、いざ―― 「尋常に――」  勝負のとき――  俺は風呂場へ続く引き戸を力いっぱい開け放った。  すぱーん、と小気味いい音と共に、視界へ飛び込んできたものは。 「はー、こりゃこりゃ、いい湯ですのー。びばのんのん」 「……………」 「やっぱお風呂は広いに越したことはないですのねー。安らぐわぁ」 「……………」 「御門のお風呂は爾子が犬かきして壊しちゃったから。龍水がぶつくさ言ってたけど知ったことじゃないですのー」 「……………」 「だいたい、そもそもからしてあれですのよ。お風呂に入るときくらい人型になれって、いちいち大きなお世話ですの。爾子はこの型が気に入ってるんだから、このままでいいですの」 「なので、見たいと思ってるぷっぷくぷーな奴らは、今すぐ諦めたほうがいいですの。つまんない夢見られると、こっちが迷惑するですの」 「……………」 「はー、それにしてもいい湯ですのねー。今後は爾子の縄張りにしようかと思いますのよ」  ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 「おお……」  おお、まあ分かった。とにかく待とうや。色々言いたいこと言う前に、ちょっと確かめたいことがあるんだよ。  物は試しなんだが、聞かせてくれ。 「この展開、読んでた奴どれくらいいる?」  ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノ ノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノノ 「おおおおおぉぉォォッ、てっめえコラふざけんなボケカスゥッ!」  有り得ん! 有り得んぞ、ちょっとマジで責任者出て来いっ! 「俺のっ、俺のヌキヌキポンが、ちっくしょおおおおあああっ!」 「なんか頭の哀れな奴が、ふるちんで泣きながら叫んでるですの。キモイですのー」 「やかましいこのクソ犬がぁ! 見てんじゃねえぞ犯すぞコラァ!」 「きゃー、獣姦野郎ですの。貞操の危機ですのー」 「助けて丁禮ー、なんで爾子たちの周りには変態ばっかり集まるんですのー!」  叫んで、犬は飛び跳ねながら逃げていく。俺はその背に桶やら軽石やらを投げつけながら、ある一つのことを強く誓った。 「ほんっっっとにあのボケだきゃあ……」  このままじゃあ割が合わず、ちょっとやそっとのことじゃあ俺の怒りは収まらない。 「てめえ、いつか絶対に人型見てやっからなァ! 覚悟しとけよォ!」  そして、その形態は幼女か? 幼女なんだな? 連れの坊主と同じくらいの年頃とみていいんだな?  だったら上等、余裕で守備範囲内だ。 「獣耳とかついてたら萌えるぜえええぇぇっ!」  月に消えていく犬を追い、俺のタマシイの叫びが再び夜のしじまを震わせていた。  ……ああ、遠吠えが虚しいぜ。 「そんで俺様敗残兵っと……」  なにやらもう性も根も尽き果てて、ぶつくさ言いつつ自分の庵にとぼとぼ帰る。今日はこのまま不貞寝しよう。 「……はあ、しかし金かかってそうな庭だよなあ、おい」  俺の実家が何戸入るか分かんねえぞこれ。しかも秀真の中なんだから、地価も大違いのはずだろうに。 「土地と金と権力ってのは、やっぱある所にはあるんだよなあ」 「こういう家で生まれ育つってのは、実際どういう気分なんだか」  別に妬み嫉みで言ってるわけじゃないんだが、純粋に疑問だわ。  そう思っていたら―― 「別に、言われてみれば意識したことはなかったが、気になるか?」 「……ぉ」  不意に横合いからかけられた声にはっとして立ち止まる。少し間抜けな顔になったかもしれない。 「なんだ? そんな呆けた顔をして」 「あ……っと、いや悪ぃ。何でもねえよ」  今夜はもう何もなしかと思っていたら、意外にも向こうの方から素敵展開がやってきたんで驚いた。そういうことなんで、その通りに言う。 「会えて嬉しいぜ、お姫さん。俺はてっきり、無視されてんのかと思ったからよ」 「ああ……それはすまないことをした。気分を害しているのなら謝罪する。おまえを粗略に扱うつもりはなかったんだが……」 「いいっていいって。まあ、ちーっとばかり寂しかったけどよ、そっちはそっちで色々あんだろ? 大将には大将の仕事があらぁな」 「……そうか。そう言ってもらえるとありがたいよ」  うん、だから今は楽しく話そうや。  と思って続きを待ってるのに、お姫様はなぜか下向いて黙り込んじまった。  あー、……えーっと、なんだよこの沈黙は。 「――で」  ――と。 「悪い。見切り誤った」 「いや、私のほうこそ」 「――それで」  じゃなくて。 「――そっちのほうから」「――そちらのほうから」  て違ぇだろ。 「――何かあるなら言ってくれよ」「――何かあるなら言ってほしい」 「…………」 「…………」  気まずい。何なんだよこれ。俺はこんなに会話が不自由なやつだったか? 「ぷっ」 「ふふふ、ふふふふふ……何だこれは、馬鹿みたいだ。私はこんなに、会話が不自由な性質だったかな」  ああ、それまったく俺も同じこと思ってるわけで。  なんか男としてダっせえところを晒してしまったような気もするが、面白がってくれてるようなんでまあいいか。 「そこはほら、気が合うってことで」 「気が合う? 気が合うだと?」  それなりに無難なことを言ったつもりだったのに、竜胆はさらに面白がって身を捩るようにしながら笑いだした。 「そ、そうか。私とおまえは、気が合うのか……そんなことを言われたのは、ふふふ、初めて、だよ」 「あー」  そういやこの姫さんは、結構な変人だからな。色々とけったいな理屈や価値観をお持ちだし、そもそも俺みたいなのを怖がらないばかりか、こっちはタメ口以前の態度なのに怒りもしない。  よくよく考えれば思想がどうこうより、そういう身分無視な大らかさのほうが立場的にヤバイんじゃないのか。 「お喜びいただいたようで、光栄ですぜ姫様」 「やめろ――馬鹿、おまえの敬語など、気持ち悪い。しかも……くくく、言えてないでは、ないか」 「とんでもねえでありまする。俺はこれでも姫の身を心配してっから、そういうお甘いところを直していただけるようにっつーことを考えましたうえでの努力であり、ます……あれ?」 「ぷっ、くくく、あははははははははははははは」 「いや笑うなよ」 「だ、だっておまえ、いったいどういう――生活をしたら、そこまで言語機能が、狂うのだ」 「絶対、わざとやっておるだろう。私が箱入りだからといって、駄目だぞ。騙されん、騙されんからな……くくくくくく」 「おーい」  欠片も信じちゃくれねえよ。人を信じるのがあんたの美点じゃないのかよ。 「別にいいけどよ。だったら姫さんも俺の言葉遣い真似してみろよ。ぜってー上手くいかねえから」 「なん、だと……そんなことはないだろう」  気丈で勇ましく笑い上戸の姫さんは、当たり前に負けず嫌いでもあったらしい。笑いの発作を収めようと深呼吸を始めたので、俺は適当なお題を用意することにした。 「じゃあ、今日の天気について語ってくれ。なるべく長文で、二・三言じゃ終わらせないように。はいどうぞ」 「……いいだろう。天気だな」  少し考え込むように宙を見上げて、それから俺に視線を戻すと、クソ真面目な顔と声で竜胆は言った。 「雪が降っていやがる。去年からひっきりなしでクソ寒いったらありゃしねえ。こう景色がずっと真っ白だとあれだよな、キレイとか趣とか通り越してつまんねーっつーか飽きるっつーか、ぶっちゃけたとこ白けるよな。って今の洒落じゃね?」 「……………」 「どうだ?」 「すんません。負けました」  てゆーか凄ぇなこいつ。抑揚が堅物だったのはともかくとして、よくもあんな即興で言語変換できるもんだよ。  今まで周りに俺みたいなのはいなかったろうし、大衆本を読んでるわけでもねえだろうから、短期間で覚えたのか。だったら大した記憶力と応用力だわ。素直にお手上げ降伏の姿勢を取る。 「そうだろう、そうだろう。これくらい出来ないほうがおかしいんだ。おまえの嘘には騙されないぞ」 「だがまあ、力が抜けるように私を気遣ってくれたんだろう? お陰で久しぶりに気持ちよく笑ったよ。礼を言う」 「いやー、それほどでもあるけどよ」  ごめんなさい。ほんとはそんなのまったく考えてなかったけど、夢を壊しちゃいけないような気がするんでそういうことにしといてちょうだい。そうすりゃ俺も君も気分がいいしね! 「で、俺になんか用かい。まさか偶然じゃないんだろ?」 「ん、ああ……それは確かに、そうなのだが」 「……?」  話を切り替えて問いを投げると、また竜胆は急に歯切れ悪くなる。いったいどうしたってんだろう。 「その、おまえには、まだ諸々礼を言っていなかったから……用というのはつまりそういうことなんだ」 「こんなに遅くなって申し訳ないし、誠意のない話ではあるが、慣れないことで私も戸惑っていたというか……すまん、これは言い訳だな。とにかく聞いてほしい。いいだろうか?」 「ああ、なんだそういうことね」  たいして気にもしちゃいなかったんだが、竜胆にとっちゃあきっと大事なことなんだろう。俺は頷き、先を促す。 「いいぜ。ご主君様の労いってやつを聞かせてくれよ」 「ああ、聞いてくれ」  言って、竜胆は顔をあげると、表情を改めて真っ直ぐ俺のほうを見る。  ……ごめん。たぶん真面目にやろうとしてるせいなんだろうけど、睨まれてるようにしか思えねえよ。超怖いんだけど。  思わず身構えそうになってる俺の前で、しかし姫は凛とした、そして穏やかな声で話しだした。 「坂上覇吐。久雅家第十五代当主、竜胆鈴鹿はおまえの忠を嬉しく思う。よく我が下に参じてくれた。これは私にとっても誉れである」 「ゆえにおまえの主として、臣に恥かしくない将でありたい。おまえがおまえである限り、私が私である限り、この日の契りを永遠にしたいと思っている」 「これをもって、心中よりの感謝としたい。受け取ってもらえるだろうか?」 「……ああ」  頷いて、俺にしては神妙な声を出す。  こいつはたぶん一種の天然なんだろうが、言葉の端々がたまに凄ぇ男殺しだ。自覚のないタラシとでも言うべきか。  まあ、そういうところも大将の才能ってやつかもしれない。おかげでこっちも、直前までのチャラけたノリがどっか飛んでっちまったよ。  大儀である、以後は気合い入れて働けい――みたいなのでもこっちは全然よかったのに。 「まったく――」  こんな面白くて格好良くて可愛い姫さん、どうにも放っておけなくなるじゃねえか。 「ご厚情、ありがたく受け取らせてもらいますよ、姫。覇吐めは、あなたのために死ぬと言いました。その言葉を信じてください」 「だから、敬語はやめろと言っているだろう。気持ち悪いぞ」 「なんだよ、今のは結構上手く言ってただろ」  俺の目に狂いはない。こいつを担ぐことに間違いはない。きっと最高に楽しいことが、これから待っているに違いない。  それがたとえ、鬼や化け物との殺し合いであったとしても――  勝って生き残って帰ってくれば、総て良しの万々歳だろ? 違わねえよな、この理屈。 「だが覇吐、誤解するなよ。私はおまえに死んでほしいわけではない」 「誰のためでも、喜んで死にに行くようなことは絶対に許さん。それも違えぬとここに誓え」  ああ、そりゃもちろん大丈夫だよ。分かってる。 「心配すんなよ。あんたの好みは何となくだが見えてきた。見当違いやってお冠食らわねえように気ぃつけるから」 「俺は負けねえ。どこのどなた様が相手でもな」  俺が俺であるための、それが唯一絶対の自負だから。 「そうだ覇吐、これは龍水に聞いたんだが」 「んなチンチクリンの話題はどうでもいいって」  そもそも、今の俺にとって一番大事なめっちゃ気になることを、まだ聞いていなかったんだよ。 「なあ、竜胆」 「東征に勝って帰ったら、おまえは俺の嫁さんになるってことでいんだよな?」 「は?」 「え?」  ……?  ちょっと待て。なんだよこの寒い反応。 「そんときは、鈴鹿って呼んでいいよな?」 「なに?」 「はい?」  ……?  あれー、なんかどんどんお顔が険しくなっていってるぞ。 「おまえは何を言っているんだ。意味が分からんぞ」 「いやいや、いやいやいやいや――ちょい待てや!」 「だって竜胆言ったじゃん! 抱いてやるって言ったじゃん!」 「ばっ――、おま、どこまで頭が悪いんだ。あれはそういう意味ではない!」 「じゃあどういう意味だよ」 「それは、その、志と言うか、目標と言うか……そう、あれだ。魂だ! 魂を抱いてやると言ったのだ!」 「断じて私は、なんというか男女の肉欲的な閨の意味で言ったのではない! 誤解するな!」 「はあああああああ、何だそりゃああああああああ」 「超ずっけえよ、知んねえよ。ワケ分かねえよタマシイとか意味不明概念持ち出して逃げんなよォ!」 「し、し、知らんだとォ! 貴様今まで、適当に口裏合わせておっただけかァッ!」 「全部、全部私の身体を目当てに――汚らわしい、そこへ直れェッ! 今すぐこの場で斬り捨ててやるッ!」 「うわーーーーーーーーーー」  やっべえ、この人。超怒ってるよ、本気の目だよ。  うん、そりゃ俺もね、いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないんだよ。ただなんつーか、駄目もとでも試したくなるじゃん、こういうの。抗い難い誘惑あるじゃん、男として――否、漢なら。 「いやー、今夜は月がキレイだなぁ」 「話を逸らすなァ―――っておい、逃げるなァッ!」  あー、追っかけてくるよ。凄い気合いだよ。もう俺いなくても勝てるんじゃねえか、正味な話。  前途多難どころか、こっちのやる気がぶっちゃけ七割くらい落ちたんだけども。  まあ、頑張って東に征くわ。点数稼がんと殺されそうだし。 「待たんか覇吐ぃぃ―――!」  今んところ、あっちにそういう気はこれっぽちもないようだけど。  カッコよすぎる俺様見せたら気も変わるだろ。  だからそうしてみせるよ、タマシイ懸けて。  特別付録・人物等級項目―― 坂上覇吐・久雅竜胆、初伝開放。  場面【極月・秀真】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【ここで退くのは格好悪い】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【挑発に乗るほうが格好悪い】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・秀真・選択肢後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【睦月・秀真】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【世界の真理に至る者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【己が求道を貫く者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【逃れえぬ因果の縛りに抗う者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【新たな世界を生みだす者】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【卯月・淡海】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【卯月・不和之関】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【皐月・不和之関】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【男の話を知りたい】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【女の話を知りたい】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【不二――覇吐・竜胆】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【不二――宗次郎・紫織】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【鬼無里――刑士郎・咲耶】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【鬼無里――夜行・龍水】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【水無月・鬼無里】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【水無月・不二】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【文月・穢土諏訪原】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【刑士郎&咲耶組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【夜行&龍水組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【覇吐&竜胆組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【宗次郎&紫織組】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【文月・穢土諏訪原・合流後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【葉月・奥羽】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  選択肢を選んで下さい。  場面【東――覇吐】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【西――刑士郎】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【南――夜行】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【北――宗次郎】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【葉月・奥羽・合流後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【霜月・東外流】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・刑士郎×咲耶】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・宗次郎×紫織】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・夜行×龍水】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【極月・無間蝦夷・覇吐×竜胆】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【葉月・奥羽・合流後】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【卯月・秀真】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【神世創生篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【威烈繚乱篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【咒皇百鬼夜行篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【楽土血染花篇】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【神咒神威神楽】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  場面【閉幕】は既に一度見ています。 この場面を見ますか?  それは花畑の中にいた。  いつからそうなのかは分からない。ただ、時の流れが不明になるほど永い間、何の疑問もなくずっとずっとそこいたのだ。  それを好み、安らぎと感じ、ゆえに祝福と信じて疑わない。事実そのモノにとってはそうだろうから、これは紛れもない幸せのカタチである。  愛よあれ。光あれ。ここは願い求めた天上楽土。  遥かな過去に一度容赦なく壊されたが、崩れ落ちるそれの世界を守ってくれた者がいる。  それがどれだけの大恩か。結果として無間の牢獄に囚われてはしまったものの、不平不満はまったくない。  なぜなら〈花畑〉《ろうごく》の外こそが、それにとっては度し難い邪悪であり敵だったから。  あのおぞましい〈世界〉《ソラ》になど、呑み込まれて堪るものかと強く思う。  他の記憶は不鮮明。思考は茫漠とした砂のよう。しかし魂に刻まれた恐怖と憤怒の想念だけは、決して薄れることがない。  重要なのは正邪と敵味方の認識で、〈花畑〉《ここ》には幸せがあるということ。  そのことだけ分かっていれば、何も問題はないのである。花を守りたいという願いこそがそれにとっての総てであり、そこを侵す者には全身全霊をもって攻撃するのみ。  ゆえに祈ろう。そして謳おう。己がここに在る総て、愛という名の憎悪をもって。  この楽土は絶対に渡さない。  愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。  〈私〉《 、》〈は〉《 、》〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈愛〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈を〉《 、》〈守〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。  そう一点の曇りもなく〈渇望〉《のぞみ》ながら……  花に守られ花を率い、それは蠢動を開始した。  健気な虫けらが這うように。  敗残の徒が足掻くように。  その〈咒〉《な》を、西では土蜘蛛と言う。  世界が軋みをあげていた。  文字通り水も漏らさぬ堅固さをもって組み上げられた外枠が歪み、内部に構築された空間もろとも粉砕しようと、容赦ない圧力をかけ責め立てられている。  荒れ狂う轟風と激流に痛めつけられ、今にも分解寸前に傾いでいるのは当代最高の造船技術を結集した巨大戦艦であったものの、大自然の暴威を前に人の業など何ほどの意味もない。  そう畏怖をもって言いたくなるほど、巨船は木の葉よりも頼りなく翻弄され、この航海が並大抵のものではないと証明している。  西と東の境界、淡海――人界から魔界へ到る道行は、まさしく両界の間に存在する壁の高さを想起させる難所であり、渡るには異形へ変わる必要性すら感じさせた。過去、この海をもって世界の果てと誤認したのも無理からぬ天嶮として、今現在も機能している。  神州においてもっとも古い記録でも、千八百年の昔から航海不能域として恐れられた帰らずの海。ここに僅かでも踏み込んだなら瞬く間に抜け出せなくなり、あとは嵐に呑まれて藻屑と化すのみである。  ゆえに、古の船乗りたちは言っていた。この海の果ては断崖だと。ここより先には何もないと。  少なくとも、生きて渡ることの出来ない彼岸が待ち受けるという意味で、それは正しかったと言えるだろう。  東西の陸地を隔てる距離は、直線にして五十里ほどしかなかったものの、年間を通して晴れることのない濃霧と大時化が視界を完全に封じている。  何の規則性もなく向きを変える潮流は無数の大渦巻を発生させ、また干潮時にはいたる所で巨大な岩礁が頭を覗かせるという危険海域。淡海を抜けるにはそれら総てを躱さねばならず、結果として極度に蛇行した航路は直線の十倍以上に延びていた。  まともに考えて渡れるような海ではなく、渡ろうと考えることすら狂気の沙汰と言っていい。だが事実としてこの海は、今より三百年前に一度越えられているのである。  そして、現在もまた同様に。東を征すべく集い組織された益荒男たちが、危険極まりない海の墓場を越えようとしていた。  その先にある世界から忘れられた地……穢土に棲むという化外の魔性を滅ぼすために。  それをもって平定を成し、人界を侵す異界の毒を絶つために。  旗艦となる巨大戦艦を筆頭に、三十余隻の大型船で構成された艦隊が、総勢一万の兵力を乗せてこの航路に臨んでいる。  先の御前試合より三月の後、卯月をもってついに出陣と相成った。しかし当然と言うべきか、この船団が東征の全軍というわけでは無論ない。  言ったようにここは危険な海であり、その先にあるのは人跡未踏と表現してよい鬼の大地だ。まずは少数で航路の安全を確認し、その帰還をもって本格的な遠征へと移行するのが常だろう。いかに一度越えたとはいえ、三百年前の情報など頭から信用できるものではない。  ゆえにこの艦隊は、全軍の二十分の一以下である。第一陣として後続に道を開くのが役目だが、しかしそれでも多すぎだった。先遣隊としての規模を、明らかに逸脱している。  航路を確保すると同時に穢土の地へと楔を打ち込み、征服のための橋頭堡を打ち立てる――一万名からなる軍兵はそこまで求められているとしか傍目に思えず、そして事実その通りだった。戦略としては、紛れもなく拙速の部類と言っていい。  無謀と評されても仕方のない蛮勇には違いないが、彼らにはそうしなければならない理由があった。  すなわち、時間的な余裕の無さ。列強との軋轢という外憂を抱えている神州にとって、内憂たる東征は速やかに終わらせなければならない。  よしんば異国の介入を許す羽目になろうとも、その時点で何処まで東に踏み込んでいるか……これが重要な意味を持ってくるのは言うまでもないことだろう。  後の領土問題に関わる以上、一刻も早く僅かでも多く、穢土の領域を皇旗で染め上げる必要があった。これはそのための編成である。  そして、だからこそ――  玉砕、全滅すら視野に入れられているこの第一陣は、同時に何が何でもそうなってはならぬものでもあった。  不沈艦として、この波を越えなければならなかった。  それをただの精神論で終わらせぬため、考えつく限り最良かつ最善の手段も採られている。  いや、あるいは最悪の鬼手と言えるのかもしれないが……  旗艦の船上、暴風と連続する高波に晒された剥き出しの甲板に、身じろぎ一つしないまま佇んでいる影があった。  まるでそこに縫い止められているかのように、どれだけの揺れと波を身に受けようとも動かない。まして、それがたおやかな女性の輪郭を持っていることも踏まえれば、驚異を通り越して幻想的ですらある光景だった。  しかし無論のことこれは現実。迷妄した夢では有り得ない。紛れもなく生身の女人であり、荒ぶる海魔を静めるための人身御供であるかのように思わせる。  そして実際、彼女はそこに繋がれていた。 縛られていると言っていい。  樹齢千年を越える霊木の繊維と、臨月の女数百人分の髪を合わせて編み上げられた封印咒帯――書き込まれた血文字の術式によりその効果は増幅され、常人ならばただの一巻きで肉体ごと潰されかねない拘束が、百合のような儚い肢体に何と百八枚も巻かれていた。  そこまで過剰な禁縛をもって、ようやくこの少女を封じている。彼女が内に抱えた凶星の、破滅的な発動を抑えている。  何層にも渡り重ね掛けされた封咒の力は、同時に少女を外的な危険から隔離するための壁でもあった。ゆえに逆巻く風雨も、大波も、彼女の身体には届かない。まるでそこに見えない膜があるかのように、真白い着物は水滴一つ被ってないのだ。  そのあらゆる意味で異常な扱いは、少女が何者であるかを考慮すれば正当なものだと分かるだろう。禍津の姫、凶月咲耶である。 「取り舵……針路、北北東へ。大波が来ます」  咒帯に覆われた咲耶の腕が静かに上がり、それが示した角度を正確になぞって船体が向きを変える。のみならず、背後に続く船団も連動して動きだした。  直後、咲耶が予告した通りの位置で海面が盛り上がり、大波となって噴き上がる。もしもあのまま進んでいたら、巨船は成す術も無く粉砕されていただろう。九死に一生の瞬間であったはずにも拘らず、彼女の表情は小揺るぎさえしていない。  ただ淡々と、舞いのように優雅な仕草で次なる指示を出していく。そして先ほどと同様に、総ての艦が咲耶を脳とした神経網で繋がっているかのごとく、理想的な連携を発揮していく。  その魔性のものとしか思えぬ操艦力は、無論彼女の技術ではない。正しくは、咲耶を媒介にして得た情報を背後の人物が処理しているのだ。 「良いな、大した手並みだよ咲耶。お加減は如何かな」 「多少窮屈ではありますが、問題ありません龍明様」  咲耶を拘束している咒帯は旗艦全体に張り巡らされ、各艦に導波を飛ばすための送信端末にも繋がっている。龍明はこれを利用して指示を伝え、受信側に待機している御門の人間が瞬時にこれを実行するのだ。  言わば霊信。思念波による通信技術と言えるだろう。信号弾や手旗では、荒天下で正確性を保ち続けるのが困難だし、何よりも伝わるまでの時間落差が発生する。この狂える荒海の只中で、それは致命的な遅れを生みかねない。  この方式ならそれらの不安要素を克服でき、かつ故障することも有り得ないのだ。三十余の艦に対して、同時に念を飛ばすのはかなりの導力を要するものの、それを請け負うのは御門龍明。ゆえに不可能なことではない。  並の術者なら数度の通信を行った時点で心身ともに損耗し、最悪廃人と化すだろう。だが龍明の力は桁が違う。この程度の術行使で擦り切れるほど柔ではない。  出航より今日で十日。流石に常時これを続けていたわけではないが、特に危険な海域に入った昨晩からは不眠不休となっている。しかし彼女に疲弊した様子はまったく見えない。  それどころか、全身から〈横溢〉《おういつ》する精気で他者を癒す活性の咒法さえ同時に行い、身体的には手弱女にすぎない咲耶の疲れを拭っているという余裕ぶり。  その器、その技量、共に絶人の域と言うしかなく、まさに術師の頭領たる御門の主に相応しい。加えて特筆すべき事柄は、それほどの技を持ちながらも他者に合わせることが出来るという点。  彼女の通信を受け取る者らは、各々精鋭には違いないが雑把に言うなら凡人である。少なくとも、龍明に匹敵する技量の持ち主では断じてない。  そうした者らに過不足なく指示を送って従わせるのは、並大抵のことではないだろう。導波の連絡とは意識の交流に他ならないわけだから、精神世界の在り様がもろに出る。つまり人間の格に差があれば、別世界の言語のように感じるのだ。  凡夫に才人の世界は分からず、逆もまた真なりだろう。狂人と常識人に置き換えても同じことが言えるはずだ。  龍明の格は、そういう齟齬を発生させて余りあるほど突出している。しかしにも拘らず、受け取る側に一切の誤解を与えない。ただでさえ高難易度の通信技術を、翻訳作業と並列しながら行っていると言っていい。  これが仮に夜行ならば、通信自体は可能だろう。ことによれば龍明よりも、大量かつ長時間に渡り行うことが出来るかもしれない。  しかし彼は、他者へ合わせるという意識が根本から欠落している。そこが未熟なのではなく無いのだから、たとえ学ばせたところで身につくまい。  よって、この役を負えるのは御門龍明ただ一人。その事実から、彼女は本航海における艦隊総司令の地位に就いていた。  まさに、大胆さと繊細さが紙一重のまま同居している編成と言えよう。熾烈な切り込み役には違いないが、それを可能にするべく人材は選び抜かれている。  洋上において要となるのはこの二人で、穢土の地へと降り立った後に真価を発揮するだろう者らも組み込まれていた。すなわち、先の神楽における花形であった益荒男たちである。  紫織、龍水、刑士郎、宗次郎、夜行、覇吐……そして彼らを率いる将までも。等しくこの艦に同乗していた。  神州が誇る烈士らを無事に対岸へと送るため、咲耶が求められた役割とは、つまるところ目の代わりである。 「面舵……針路、東北東へ。岩礁があります」  再び、まるで初めから知っていたかのように障害の存在を言い当てる。実際、彼女は見えているのだ。  龍水のような先見による予知ではない。それは西側最大の歪みである咲耶ならでは、〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈の〉《 、》〈異〉《 、》〈能〉《 、》〈が〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈込〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈道〉《 、》〈筋〉《 、》〈を〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  すなわち、一種の帰巣本能に近いだろう。元来、穢土の理であった歪みの力が、その源泉に吸い寄せられていると言えば分かりやすい。  史上、この航路を最初に見出したのは初代の御門で、『彼女』は化外の離反者だったという伝説がある。亡命した西側で時の天子に穢土の存在を教え聞かせ、三百年前の東征を先導したと……  真相は不明だが、ともかく咲耶は今現在の道を見ていた。それが遺された過去の海図と相違なければ問題なく、ずれがあるなら修正したうえで西に送る。そうすることで、後続も淡海を渡れるようになるだろう。  咲耶を矢面に立たせることによって生じる危険は、過剰なほどの封印咒帯で何とか相殺しようと試みていた。それが十全に機能しているかどうかは別にして、彼女以上に航路を読める者はいないのだから是非もない。  たとえ船室の最奥に匿っていたとしても、船が沈めば起こる事態は同じである。ゆえに龍明は、他ならぬ咲耶の希望でこの方式を採用した。背負う危険性の度合いで言えば、どちらであろうと大差ない。  むしろ、龍明のように豪胆な人間からしてみれば、情報が正確になるぶんこちらのほうがいいだろう。一手も誤れぬ緊張感は倍増し以上になるものの、要は己が間違えなければいいだけの話だから。  揺るがぬ自負と、そして度胸。そうした面で、咲耶と龍明はある種似ていた。並の男なら裸足で逃げ出す女傑然とした御門家当主と、常に柔らかで儚げな佇まいである禍津の姫君……外見上は正反対の二人だが、芯の部分は共に鋼だ。基本、迷いや恐れをまったく持たない。  そうした親近感から出たものでもないだろうが、二人はこの状況を楽しんでいる風だった。両者とも、口元が僅かだが綻んでいる。  世間話をする暇さえあるのか。どこか含み笑うような口調で龍明が言った。 「ところで咲耶、おまえの兄君はどうしたね。まだ膨れているのかな」 「おそらくは……利かん気な兄で誠に申し訳ありません。そもそも、わたくしがついてくることを反対しておりましたから」  応じる咲耶の言葉には、こちらも笑みの成分が混ざっていた。兄、兄と言いながらも、まるで弟か息子を語るような口振りである。  それは男を永遠の悪童と見立てたうえで、呆れながらも慈しむ特有の姿勢……女の多くに共通するものであり、母性と呼ばれる感情だろう。ゆえに龍明にも、似たような感性はあるようだった。 「過保護だな。まったく男とは、いつの世でもそういうところが幼稚だよ。守るという言葉が大好きで、その行為に酔いしれたがる」 「それはそれで可愛いがね。置物のように扱われる女の人格は無視ときた。ああいうノリはつまるところ、自分の矜持を守っているだけであろうにな」 「そのこと自体、わたくしは自然であると思いますよ。間違っているとは感じませぬし、殿御にそうされるのを好む女人もいるでしょう。少なくとも、価値は認められているのですから」 「だが、おまえは違うわけだ」 「ええ……兄様には申し訳ないことですが」 「わたくしはわたくしの理をもって、わたくしが望むように動くのみです。それが互いに想い合ってのものであれば、多少の食い違いはあっても結果はついてくるものでしょう」 「もしついてこなければ?」 「しょせんそれまでの仲ということ。いや、あるいは、そうなることが美しいという意味ではないでしょうか。何にしろ、己を通して後悔するなど有り得ませぬ。常識かと」 「ふむ、確かに『こちら』ならばな」  吹き荒ぶ嵐の向こう、まだ見ぬ穢土の地へと視線を向けて、龍明は続けた。 「あちらでそれが通じるか否かは分かるまい。私も人のことは言えんがね。強固であるとは壊れにくいという反面で、壊れたら修復できぬという意味もある」 「価値観を変えろと言っているわけではないが、見識を広げたほうがいいかもしれんな。何せ我々は、曰く狂気に率いられているらしいから」 「竜胆様のことでございますね」  話しながらも淀みなく操艦の指示を出しつつ、咲耶は同様の作業を続けている龍明を顧みた。姿勢はそのまま、あくまで意識の一部のみを後方に向けて問いを送る。 「わたくしは、軍事や政治の機微についてさほど詳しくもない身でありますが、本当にこれでよかったのかと思います。素人意見でしょうか?」 「ああ。素人にも突っ込まれるほどよろしくないよ。常識外れと言っていい」 「この艦隊に烏帽子殿まで同乗するのは、説明したくもないほど間違っている。迂闊とか無謀とか、もうそうした言葉では追いつかん」 「我々は、平たく言うと貧乏くじを引かされているのだよ」 「貧乏くじ、ですか」  台詞は辛辣であったものの、龍明の口調は楽しげだ。この女傑が途方にくれるような事態が世にあるのかどうかは別として、咲耶は彼女が言った言葉の意味を理解しようと試みる。  総大将である竜胆が、こんな特攻紛いの第一陣に同乗していること自体そもそも異例の状況だろう。そこから察せられるのは政治的な問題で、おそらく厄介払いに近いもの。つまるところ、下手を打たせて彼女の失脚――と言うより死亡――を狙う陰謀の類かもしれない。  だが、件の姫君とて愚者ではないのだ。こんな見え透いた手が読めないはずはないだろうし、馬鹿正直に乗る必要もない。  だいたいからして、どういう理屈で竜胆をこの艦に乗せるという話が出てきたのか、咲耶はその時点で分からなかった。名分というものが何処にもないように思える。 「ふふん、分からんかね。無理もない」  そんな彼女の困惑を楽しむように、背後の龍明は笑っていた。もはや上機嫌に近い風情で、その理由も分からない。何がそんなに面白いのか。 「これは烏帽子殿自身が希望したことなのだよ。別に誰彼から嵌められたというわけではない」 「ま、好都合だと手を叩いた輩は多かろうがね」 「はい?」  自分は今、もしや言葉を聞き違えたか? 咄嗟にそんな疑問さえ抱くほど、答えは予想の埒外だった。慎ましやかな咲耶にしては珍しく、思わず驚いて目を見開く。 「竜胆様が、自ら望んで?」 「そうだよ。率直にどう思うね?」 「どう、と仰られましても……」  だとしたら、いよいよ意味が分からない。恐れ多いことではあるが、馬鹿なのではないだろうかと思ってしまい、そこを龍明に読み取られてしまった。 「うむ、馬鹿だな。しかも弩級の大馬鹿者と言っていい。だから我々は狂気に率いられているというわけだ」 「しかし龍明様は、そんな竜胆様を称えておられるご様子」 「なに、そう見えるのか? ……ふふふ、ならばこれは遺憾だな。立場上、烏帽子殿にはしかつめらしく小言を繰り返したつもりなのだが、伝わっていないかもしれん」 「つまり、どういう意味なのでしょう」  先ほど説明したくもないと言っていたのとは裏腹に、龍明は話したがっているように見える。いや、聞かせたがっているのだろうか。  何にせよ、咲耶も段々と気になってきた。もとより竜胆の奇行には興味があったし、龍明が事情を知っているのなら聞いておきたい。 「ああもう、答えを言ってしまうとだな、烏帽子殿はある種の賭けに出たのだよ。古今、身内の敵を黙らせるのに効果的な手は二つあり、一つは無論殺してしまうことなのだが……」 「あの姫君はそれを好まぬ。恐怖で縛る実力行使は、中院あたりの専売だからな。彼では戦に勝てぬと断じた以上、別のやり方で将器を示さねばなるまいよ」 「それは?」  問いに、龍明はたった一言で返答した。 「軍功だよ」 「この第一陣は無謀に等しい特攻だが、成したときの見返りはとてつもなくでかい。ゆえに先手必勝というやつだな。最初の一撃で黙らせる。実に単純明快だ」 「実際、内輪の揉め事など引き伸ばしていいものではないだろう。穢土の内地に入ってまで、統制が取れぬようでは話にならぬという理屈は分かるな?」 「ええ、確かに……」  竜胆が将として器を示し、軍を完全に掌握するのは早いほうがいい。それはなるほど理解できるが、だからといって軽率であることに変わりはあるまい。何がそこまであの姫君を駆り立てるのか。  久雅竜胆という人物を咲耶なりに推し量り、出した答えを半信半疑ながらも口にした。 「まさか、龍明様を見捨てられなかったということですか?」  この第一陣には、御門の者らが多く最初から組み込まれていた。淡海を越えるには必要な技術者たちということで、そこは妥当な配置だろうが、実情は使い捨てに等しいと言える。  だからこそ、竜胆は彼らを守るためにもあえて乗船したのかもしれない。なぜなら、彼女が動けば人も物資も拡張されて設備は整い、強化され……  生き残る確率が飛躍的に上昇する。  たとえ今は名目が先行している飾りに近いものであろうと、将の立場とはそういうものだ。竜胆がそこにいるというだけで、この艦隊を救う方向へと導ける。  咲耶の推察を否定も肯定もしないまま、龍明は変わらぬ含み笑いで返答した。 「年々、あの姫君は可愛くなくなってくるものだよ。将たる者、腰が軽すぎるのは如何なものかと諌めたのだが、勝つための配置を磐石にしただけだと返しおった」 「なあ、だから貧乏くじだと言っただろう?」 「それは、もしやわたくしのことですか?」 「おまえも、おまえの兄も、他の者らも、神楽で暴れた問題児どもをここに勢ぞろいさせたのは烏帽子殿だ。曰く、これが必勝の布陣ということらしい」 「なんとも、また……」  どう反応していいか分からなくなり、咲耶は思わず口篭もった。つまるところ、自分たちは最大級に評価されているということなのか。  あの者たちが共に在るなら必ず勝てると。そういう理屈で、この第一陣に集められた。なるほど、それは確かに貧乏くじと言えるかもしれない。  知らされた現状を鑑みれば、竜胆の手で死線へ送られたようなものだろう。なのになぜか、まったく腹立たしさを感じない。これはいったいどういうことか。  むしろ逆に、ある種の可笑しみさえ込み上げてくる始末。 「龍明様が、先ほどから愉快げにしておられたのはそういう事情だったのですね。なるほど、わたくしもなにやら頬が緩みます」 「我らの将は、本当に不思議な御方」 「あまり持ち上げるなよ。言ったようにただの馬鹿者だ」 「またそのように辛辣な。立場上、小言も言わねばならぬのでしょうが、笑いながらでは説得力がありません」 「咲耶は今思いました。どうやら竜胆様は、私情が私情でないからこそ面白いのでしょう」  将の立場を確立したい。そのために軍功を勝ち取りたい。それは確かな本音だろうし、御門の者らを救いたいという気持ちも間違いなく入っている。  だが、それらの総ては東征に必勝するという大儀のもとに機能しており、決して己の欲ではないのだ。国を、民草を守るため、彼女流の最善手をつくした結果がこれなのだろう。そこには当然、咲耶らのことも含まれている。なぜなら期待されているようだから。  でなくば、いつ弾けるか分からない爆弾めいた凶月などを、この編成に組みなどすまい。これが生き残るための布陣であると、真実思っているからこそやっている。  つまるところ、竜胆の〈私〉《し》は公なのだ。突き詰めれば己のためという結論にならないところが面白く、それは一般に私情と言わない。  人の上に立つ者が独自の精神構造をしているのは常だろうが、中院を始めとする他の五大竜胆とも違っている。  彼らも芯の部分は他と同じで、己の主はあくまで己だ。天下国家などという得体の知れないものに仕えてはいない。  なるほど久雅竜胆はやはりおかしい。狂気に率いられているとはよく言ったもの。知らず微笑みを深くしながら咲耶は続けた。 「わたくしには、理想の将がどのような者であるかなど分かりません。一般的には、非情に徹するとか現実的であるとか、そのようなことを言われているようですが……」  そういう意味で、久雅竜胆は甘い部類だ。軍とは殺すための装置であり、死ぬための駒である。救うとか守るとか、そうしたものを第一義にしていては罷り通らない局面も出てくるだろう。 「しかしわたくしは、気分がようございます。兄様を不機嫌にさせてはおりますが、やはりついてきて良かったと思うほどに」 「なにやら、楽しくてたまりませぬ。これより死地に向かうというのに……おかしいでしょうか?」 「さてな」  応じた龍明の声は素っ気なかったが、だからといって咲耶の言葉を適当に流したわけでもない。心なしか自嘲するように、粛々と付け加える。 「私が思う理想の将とは、他者を狂奔させる才を持つ者。それが恐怖であろうが利であろうが、はたまた愛とやらであろうが同じ」 「要は伝染、影響力だよ。そしてその手の資質はな、己一人で完結する者になど宿らない。〈と〉《 、》〈か〉《 、》〈く〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈求〉《 、》〈道〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈多〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈重〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》、〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈の〉《 、》〈資〉《 、》〈質〉《 、》〈だ〉《 、》。他者を染めることが出来る者」 「覇道?」  その言葉自体は知っているが、何かまったく別の概念を聞いたような気になって、咲耶は思わず鸚鵡返した。 「では竜胆様が、そういうものだと?」 「そうであったらよいかもしれんな。事実おまえは、烏帽子殿の影響を楽しんでおるようだし」 「結構なことではないかと私は思うが……」  ――と、そこで龍明は言葉を切り、前方に広がる風雨の先を透かし見る。恒常的に続いていた嵐の勢力圏内から、艦隊はついに抜け出そうとしていたのだ。 「龍明様……」  進行方向の視界が急速に明るくなっていく。  咲耶の口から、控えめだが紛れもない安堵の吐息が漏れていた。彼女にしても、この海域に入ってからの連続した緊張状態は少なからず堪えたのだろう。気丈に振舞っていても、やはりまだ少女である。  ついに淡海を抜けられると、微かに気が緩んだその一点――咲耶の精神状態は咒帯を通じて艦隊にも伝播していき、船室からも仄かに見える光を目にした兵たちが、歓びの声を上げ始める。  だが、それは些か早すぎる安堵だった。 「―――――」  絶望とは、希望が覆される一瞬の変転。その落差が大きいほど、直面した者の心を打ち砕く。  してみれば、この狂える海の化身とも言うべき存在は、絶望の何たるかを深く弁えていたのかもしれない。  それはいつ生じたのか。断じて目など離していないし、仮にそうでも今の今まで気付かなかったなど有り得ない。進行方向を完全に塞ぐ形で、巨大な大渦が牙を剥いているのである。  半径だけで数里はあろう、規格外にもほどがあるその巨大さは、もはや渦という概念を逸脱し、何か途轍もない生物の〈顎〉《アギト》にすら見えてくる。三十余からなる艦隊が、気付けば残らず脱出不可能な海の蟻地獄に巻き込まれていた。 「そんな……」  有り得ないことである。咲耶はここまでの航路を正確に見ていたし、過去の海図にもこんな代物は載っていない。まるでたった今、時空を無視していきなり現れたかのような非現実ぶり。悪夢のような死角からの急襲だった。 「抜けられぬか」  呟く龍明の声音には、あらゆる感情が欠落していた。すでに舵の大半は言うことを聞かず、総ての艦は船体を軋ませながら渦の中心へと滑り落ちていく。  このままでは、いくらも待たずに深海の底へと引きずり込まれるだけだろう。いや、そんな未来さえ生温いと、狂気の渦はさらなる絶望を叩きつけてきた。  渦中のいたる所から、凄まじい勢いで迫り上がってくる岩礁の群れ。旗艦の帆柱さえ優に凌ぐ高さを持ち、剣山のごとく聳え立つそれらの威容は、さながら獲物を噛み砕く牙そのものを思わせる。  事実上操艦不能なこの状態で、待ち受ける死の〈顎〉《アギト》から逃れ出る術は無い。  そして、これは果たして海鳴りなのか―――  重なり合って輪唱するかのごとく響き渡り、周囲を木霊する不協和音。歌のように聴こえるが、だとしても断じて人の声ではない。  その音階も、その言語も、少なくとも西では未知のものだった。人間の口はこのような音を紡ぎ出さない。  ならば、導き出される答えは一つであろう。 「ふん、面白い。お出迎えというわけか」 「こやつがここで出張るとはな。〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》〈三〉《 、》〈百〉《 、》〈年〉《 、》〈前〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈事〉《 、》〈情〉《 、》〈が〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》」  龍明の奇妙な言い回しすら、今の咲耶には意の外だった。押し寄せてくる破滅的な暴威を前に、ただ確信だけを抱いている。  これが化外、これが土蜘蛛――穢土のモノらが自分たちを阻んでいる。ここから一歩も進ませぬと、怨嗟を撒き散らしながら猛っている。  ああそうだ、間違いない。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。身に宿った歪みの異能が、先祖返りに等しい感覚でこの存在を思い出させた。  紅玉のような咲耶の瞳が、右手に聳え立つ岩礁をぎらりと睨む。あれはそう、岩などではなく―― 「取り舵――いっぱァァァいッ!」  瞬間、連なっていた五本の岩塊が、食虫花のごとく閉じられた。 「―――――ッッ」  噴き上がる水飛沫、そして連続する大轟音。操艦が間に合ったのは奇蹟に等しい。咲耶の激情に呼応して、龍明が飛ばした導波は限界以上の鞭となり、半ば不能状態であった舵を無理矢理に切らせたのだ。  結果として第一波は躱したものの、船体に掛かった負荷は甚大極まるものだった。今後そう何度も出来るような曲芸ではなく、依然危機的状況は続いている。  なぜなら―― 「手……」  大渦の中、少なくとも百に達する岩の柱は巨大な手――その指の一本一本に他ならなかった。つまりろくに身動きとれぬ状態で、十人からの巨人に囲まれていると言っていい。  その掌は弩級の戦艦すら包み込み、一撃で握り潰し粉砕する。まさに人知を超えた怪物そのもの、人の世の埒外にある化生の業と言うしかない。  岩が動く。手となって。激流の中を艦隊目掛けて殺到してくる。  そしてその中を響き渡る、あの奇怪な魔物の歌い声―― 「咲耶、胆を潰してはおるまいな」  熟練の船乗りでさえ恐怖で狂い死にしかねぬ光景を前に、しかし龍明の声は平静だった。迫り来る異形のモノどもを睨みすえ、不敵とさえ形容できる調子で言葉を継ぐ。 「こんなものは序の口だぞ。玄関口の番犬程度、多少気の利いている雑兵にすぎん」 「少なくとも天魔と号された者どもは、これくらいのこと小指の先でやってのける」 「――――――」  穢土に君臨するという八柱の大魔・〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》――それを龍明は見知っているかのような言い草だったが、疑問はともかく棚に上げた。 「ならば――」 「そう、ならば――」  この程度の局面、切り抜けられぬようでは先などない。咲耶は気息を整えて、再度目の前の化生を見る。  恐ろしく、凄まじく、そしてどこか哀れを誘う不思議なモノども。なるほど彼らは敗残者で、生くる場を追われた鰐なのだ。  しかし今の世は湖であり、そこに混ざる塩は毒でしかない。彼らの理はただ在るだけで、自分のような歪みを生じさせてしまう。  この身を嘆いたことはないけれど。  人の世が桃源郷だとも思わないけど。  ただ愛する兄と誰はばかりなく、天下を共に歩いていきたい。  ゆえに化外は滅ぼさねばならない。負けるわけにはいかないのだ。  これは双方、生存を懸けた戦いだから―― 「わたくしはわたくしに出来ることをいたします。何としてもこの艦を、維持し続けてみせましょう」 「ですから後は、龍明様……」 「ああ、荒事は専門の者らに任せようか」  覚悟のこもった咲耶の声に、艦隊総司令は微笑で応えた。次いで、襲い来る波浪に劣らぬ大音声を嵐の中に轟かせる。 「出て来い小童ども――戦の時間だッ!」 「御門家当主、龍明が総司令の名において貴様らに命ずる!この小賢しい蜘蛛ども総て、一匹残らず殲滅せしめろ!」 「勝利を我らが御大将のため――」  響く歌声を掻き消すように、御門龍明は宣言した。 「この地を凱歌で染め上げるがいいッ!」  そして、それに応えるかのごとく―― 「――了解」 「はン――」 「面白くなってきました」  吹き荒ぶ暴風を切り裂くように、武が矢となって放たれた。  嵐の甲板へ出ると同時に、宗次郎らは跳躍して帆柱の上へと駆けあがっていく。まったくどいつもせっかちなことで、自分が敵をぶっ殺すことしか考えていやがらない。  そりゃあここまで十日の間、退屈な船旅だったんだから鬱憤たまってるのも分かるけどよ。そんなノリでこの事態が何とかなるのか。  四方を囲む巨大な手の群れ。あれに掛かればこの船だろうと一撃なのは間違いないし、上手く躱したところでいずれは海の底に引きずり込まれる。  ゆえに即断即決、神速で必勝を狙うのは正しいだろう。まごついている場合じゃないことだけは俺にも分かる。  が、本当にそれでいいのか? 何とも言えない違和感に襲われて、俺は先陣切った連中に続くべき足を、一歩踏み出しかねていた。  初めて目にした化外、土蜘蛛――その度外れた異形に驚愕してはいるものの、それにも増して抱いた印象は、もっと別のものだった。  どこからどう見ても人外なのに、野獣の群れという感じがまるでしない。あれは、そう、喩えるなら…… 「わっ――、ぷっ」 「ば、馬鹿者、そんなところで立ち止まるなこの大虚けっ」 「―――とっ」  思案していたところに後ろから軽い衝撃を受けて振り返ってみれば、そこには俺らより三歩くらい遅れてやってきたチンチクリン。 「おい……今なにか、頭にくるようなことを考えておったであろう」 「いや、そんなことはねえけどよ」  つか、そんなことはどうでもいいんだよ。 「わっ、きゃあ――」 「――危ねえ」  再度、船べりを掠めた手の衝撃で、船体が大きく傾ぐ。危うく海へ落下しそうになった龍水を、反射的に受け止めた。 「ちょ、ちょま―― どこを触っておる貴様、離さんか助平っ 」 「私には夜行様がいるのだから、貴様ごときが馴れ馴れしく触るでないわ、無礼者っ」 「だぁー、もう、うるっせえ!」  キンキンキンキン耳元で怒鳴りやがってクソチビが。状況見て物言えよ。 「てめえ生意気なのは構わねえがな、助けてもらったら礼だろうが」 「そこさえ押さえりゃ文句だろうがビンタだろうが受けてやっから、萎える反応するんじゃねえよ。――分かったか」 「ぐっ――」  吼えた瞬間、なんで俺はこんなに苛ついてるんだと疑問を持ったが、ともかくチビは大人しくなった。些か以上に大人気なかったのはまあ置いといて、何にしろ今はじゃれてるような場合じゃねえ。 「そ、そうだな。すまぬ……助かった」 「ああ、そんじゃお利巧さんになったところで訊くけどよ」  ついさっきまで、俺は何を考えていたっけか。ワケの分かんねえ違和感を言葉に出来ず、ともかく反射で龍水の言葉尻を捕まえてみた。 「おまえの夜行様とやらは何処行った? 犬と坊主はチラチラ見てたが、あいつの顔は一回も見てねえぞ」 「あ、そ、それは……」 「いるんだよな?」  問いに龍水は数瞬視線を彷徨わせたが、やがてきっぱりと頷いた。 「いる。いや、いらっしゃる。それは絶対間違いない」 「ただ、夜行様は気紛れなのだ。何処で何をしておられるかは、私ごときの知るところでは……」 「そうかよ」  あの陰陽師野郎、ろくでもない奴に違いないとは思っていたが、やっぱりそういう系統かよ。何をするのか読めない味方は、正直敵より鬱陶しい。  再度上へと視線を向けると、すでに宗次郎らの姿は何処にもない。おそらく各艦の帆柱を足場にして、飛び跳ねつつ移動を続けているのだろう。  全員、物の見事にばらっばらだ。いっそ清々しいほど好き勝手にやっていやがる。  それ自体は当たり前だし俺も本来そういう部類のはずなんだが、なぜか今はそのことが腹立つんだよ。  ああもう、何なんだこのもやもやは。 「――龍明ッ」 「あいつら煽ったのはてめえだろ、本当にこれでいいのかッ」  我ながら意味不明な癇癪に任せて八つ当たり気味に怒鳴り散らすと、返ってきたのはさらに苛つくような失笑だった。 「そんなことは知らん」 「私はこの艦隊を預かる者として、蜘蛛の迎撃を命じたまでだ。後は現場の裁量だろう」 「と言うより、こちらはこちらですでに手一杯だしな」 「――――ッ」  そこで三たび艦全体が大きく傾ぐ。危うく転覆しそうなほどの衝撃で、確かに龍明は手一杯だ。こいつにこれ以上の余裕はない。 「まあ、些か越権行為だったのは認めるがね。単にちょっとした悪戯心だ。愛の鞭とでも思ってくれよ」 「尻は叩いたが手綱には触れん。そこは私の役目ではないだろう」 「つまり――」  吹き荒れる轟風のただ中で、真剣だがどこか楽しげな咲耶の声が流れてきた。 「指揮を執ってください、竜胆様」 「我々は、あなた様に率いられる神州の益荒男です」 「――――――」  その言葉が、意味するもの。  それに俺は思い至って、先ほどからの苛つきが何なのかをようやく悟った。  ああ、そうか。そういうことかよ。慣れないことなんで今までピンとこなかったが…… 「――分かっている」  要は、俺たちが大将に戴いたこの姫さんの下知なくして、戦端など開いてどうするという義憤の類――これはそういうものだったのだ。 「はッ……」  じゃあ、あれか。何だかんだで俺もちっとは、主持ちらしくなってきたってことなのか。我ながら面白い変化の兆しに、知らず笑いが込み上げてくる。  悪くない――そう単純に思える心境が愉快だし、こいつの前でカッコつけるにはそれが一番いいってことだ。 「覇吐、龍水、おまえたちが残っていてくれて嬉しく思う。よく暴走せずに踏み止まった」 「駆けつけるのが遅れたのは私の不明なのだから、あまり龍明殿を責めるなよ」 「むしろ、この段階で問題が表面化したのは僥倖だ」  凛々しい戦装束に身を包み、嵐の空を見上げる竜胆に気後れした様子はない。静かだが覇気のある声で、力強く続ける。 「理屈の上では分かっていたはずなんだがな。あれらの主はあくまで己だ。私の立場や肩書きだけで手綱を握れるわけがなかったのだよ」 「こうなれば実戦で、実地に暴れ馬を乗りこなすしかないだろう。まったく気忙しい話だが、そういうのも嫌いではないよ」 「協力してくれるか、二人とも」 「は、はいっ!」 「そこは偉そうに、命令すりゃいいんだよ」  宗次郎らは言うことなんか聞きやしねえ。別に竜胆を舐め腐ってるわけでもないんだろうが、ぶっちぎった個というのはそういうもんだ。群れることを枷と捉える傾向がある。  そういう奴らの心情は、俺が察して事前に手を打つべきだった。乗船以降、特に用もないと思ってろくに絡まなかったこっちの不手際。家来としちゃあ落第だろう。  だからここで、その失敗ぶんを取り返さないといけないよな。 「衆にあってこその己であると、弁えている者らはそれでいい。〈歯〉《 、》〈車〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈愛〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》、少なくともこの局面では有効だろう。そこは龍明殿に任せられる」 「艦隊そのものはそれで統一されているのだから、私が口を挿むべきところではない」 「要は、どう攻めるか」  防の面での操艦は、咲耶と龍明で機能している。そして現状、それが限界なのだから、あいつらは逃げ回ることに全精力を注ぎ込んでくれればいい。  ここで竜胆に求められているのは、攻撃の指揮だ。そこで思い返してみる限り、初めて遭遇した化外へ抱いた妙な違和感が引っかかる。  俺自身、まだ上手く掴めていないその印象を、しかし竜胆は理解しているようだった。迷いのない瞳が、そう告げている。 「今、確信したよ。これは私以外に出来ない」 「兵は歯車。それで納得している軍は強いし、駒を揃えるだけなら簡単だろう。一度型にさえ嵌めてしまえば、己の理でそう在りたがる。私情はともかく、優秀な兵だ」 「問題は、そういう枠に嵌らぬ者たち。歯車には大きすぎ、型も奇抜だから噛み合わないという問題児ども」 「これを制御しようなどと考えては駄目だし、かといって放任しすぎても意味がない」 「重要なのは、方向性を与えることで――」  四たび、船体を傾ぐ大波の衝撃。小山のような異形の手を〈睨〉《ね》め上げて、竜胆は大喝した。 「すなわち、魂を狂奔させる将器の質だ!」 「なあ、〈化外〉《おまえたち》もそれに率いられているのだろう! なんとも皮肉な話だな!」  旗艦を丸ごと押し潰そうと、落ちかかってくる蜘蛛の爪。先ほどから連続する攻勢が示すように、こいつらは間違いなくここを第一目標として狙っている。  一つ一つが狂える〈妖〉《アヤカシ》でありながら、その動きに支離滅裂なものはまったくない。そこで俺も、竜胆が言っていることを理解した。  こいつらは歯車なんて柄じゃなく、俺たち以上にぶっ飛んだばらばらの個だ。しかしにも拘らず、たった一つの思考に狂奔している。穢土の地にすら立たせぬと、無言の想いが伝わってくる。  それはおそらく、〈人界〉《にしがわ》への憎悪と憤激。遥かな過去にこいつら化外を追いやった、俺たちの祖に対する呪詛の念に他ならない。  何百年、何千年、下手すりゃもっと古くからの怨讐を、未だこれだけの純度で保ち続けているのは、つまり―― 「どうやら、そちらの将には大した才があるらしい。敵ながらまずは見事――敬服に値する!」  奴らの将が、〈人間〉《おれたち》を恨み抜いて狂い抜いているという証だった。その理が、穢土の総てを染め上げている。  たとえそれが憎悪にしても、思えばそうした繋がりこそが、竜胆の求める絆なのかもしれないと感じるほどに――  艦隊を取り囲む異形の群れは、魂で結ばれた同志であると言わんばかりの個にして全――まさに完全なる群体だった。 「しかし、こちらもおさおさ引けは取らんぞ!」  落ちる爪を迎撃しようと、反射的に抜きかかった俺を制して竜胆がなお叫ぶ。 「導波を飛ばせ、龍水! 凶月の兄に伝えろ!」 「貴様――大局も見えずに妹を危機に晒すのか、愚か者がァッ!」  瞬間――  波涛を粉砕する大音響と共に、眼前まで迫っていた異形の手が横殴りに弾かれた。  それが誰の攻撃によるものなのかは、もはや疑う余地もない。 「言ってくれるじゃねえか、お姫さんよォ」  刑士郎――敵の殲滅を優先して、ただ闇雲に突っ込んでいたこいつが旗艦を守るために戻ってきた。  いや、正確には咲耶を守るためなんだろうが、結果的には同じことだ。ここに妹がいる限り、あいつは何に替えてもこの艦を死守するだろう。 「断っとくが、あんたに呼ばれなくても〈化外〉《こいつら》の狙いには気付いてたぜ。でなきゃこんな一瞬で、戻ってなんかこれるかよ」 「俺がやろうとしてたところに、偶然あんたの突っ込みが重なっただけだ」 「ああ、そうだろうさ。いちいち分かりきったことを主張するな」  口の減らない馬鹿野郎の言い分を、しかし竜胆は軽く流す。そんなことは問題じゃなく、この状況が生まれたことこそ重要なのだと剛胆にも笑っていた。 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈発〉《 、》〈破〉《 、》〈を〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈た〉《 、》。頼りにしているぞ、刑士郎。この艦を守れ」 「まあ、言われなくてもそうするだろうが、気も入るだろう。何せ互いに良いところを見せる好機だからな」 「チッ――」 「竜胆様は、意外に人のお悪い方ですね」  舌打ちと苦笑。だがそれは、二人の凶月が竜胆の指揮を受け入れたという事実を意味する。  妹のほうはもとよりそのつもりだったようだし、このチンピラ兄貴が右に倣うなら問題ない。これで旗艦に限った話、だいぶ戦力は充実したと言えるだろう。 「ですが、他はどうされるのです?龍明様の指示にしろ、限界はありますが」 「恐慌をきたして散を乱すことだけは防げるが、裏を返せばそれだけだ。各艦、砲も積んではいるが、言ったようにそちらへ手を回す余裕はない。何せこの渦中だ」  巨大な手による攻撃は言うまでもなく目下最大の脅威だが、実際に一番の問題は艦隊総てが渦に巻き込まれているという点にある。竜胆は頷いて、二人に続く指示を出した。 「そちらは何とかして、ここから抜ける道を見つけろ。出来るな、咲耶。いいやおまえにしか出来まい」 「この渦、どう見ても尋常ではないが、あの手が〈攪拌〉《かくはん》することでさらに激しさを増している。ならばこそ、攻めで痛打を浴びせれば弱まるだろう。その瞬間を見逃さないでくれ」 「龍明殿も、脱出するための操艦にのみ集中してほしい。アレはこちらで引き受ける。文字通り手など出させん」 「ゆえに、あとは分かるな覇吐」  こちらへ向き直った姫の目を見て、俺は頷く。ああ、言いたいことは分かってるよ。 「龍水、おまえは中継役だ。導波の要になってもらうが、やれるな?」 「はい、やってみせます」  言うと、龍水は小刀を取り出して、髪の一房を断ち切った。それを俺に渡して続ける。 「私の波は母刀自殿ほど強くない。この嵐の中、正確性を保つなら媒介が必要だ。これを持っていけ、覇吐」 「無くすなよ。腕にでも括りつけるか、何なら食え。嬉しかろうが、この助平めが」 「おまえ、俺をどんな変態だと思ってんだよ」  流石に髪の切れっ端に欲情する趣味はないが、まあこいつのやる気は伝わった。女の命を貰ったからには無碍にも出来まい。 「紫織と宗次郎のことは任せとけ。それから――」  頭上を見上げて、こちらを見下ろしている〈刑士郎〉《バカ》に言う。 「てめえ、気合い入れろよ。ここにゃあ俺の姫さんも乗ってんだからな。うっかりなんざ通らねえぞ」 「誰に言ってんだ、クソ阿呆が」 「言われなくても指一本触れさせねえよ。てめえのほうこそ、せいぜい海にでも落ちないようにするんだな」  それこそ、言われるまでもねえ。  本音を言うと旗艦の防備は俺がやりたかったところなんだが、こいつと足並み揃えるなんざゾっとしない。不満もあるが、ここは譲ろう。  大将直属の家来なら、もっと広い目で戦場ってやつを見ないとな。 「じゃあ、行くぜ」 「ああ、暴れてこい。一艦たりとて落とさせるな」 「言うことを聞けよ、覇吐。間違っても暴走などするな」 「ご武運を」 「なに、神楽と同じだ。盛り上げてやれば夜行も絡んでくるだろう」 「おおよ、あの引き篭もり野郎。また引きずり出してやる」  応えて、俺は一気に甲板を蹴り上げた。 「てめえも持っとけッ」  駆け上がった帆柱の上、龍水の髪の一部をすれ違い様に刑士郎へと押し付けた。 「禍憑き使いたくなったら俺を呼べ。また風を曲げてやっからよ」  どれくらいの精度で実現できるか分からないが、こいつが撃って俺が受けて、化外に叩きつけるという変則も可能かもしれない。それは神楽からこっち、何度か考えていたことだった。 「ふん、そんなにくたばりてえなら、お望みのときにやってやるさ」  そして、そこはどうやらこいつも同じで、その戦法を前から考えていたんだろう。俺の提案に驚きもせず、憎らしげに笑っていやがる。 「俺の助けが欲しかったら、せいぜい哀れっぽく泣きついてこいよ」 「抜かしやがれ、タコが」  まあ、そんな博打は出来ればやりたくなんかない。いずれ必要になるかもしれんが、まだまだこんな初戦ごとき、華麗に切り抜けてみせないとよ。  なあ、先が思いやられるってもんじゃねえか―― 「いざ――」  壁のような暴雨風と、行く手を阻む蜘蛛の爪――それら纏めて粉砕するべく、抜いた得物に武気を込める。  これが俺たち西軍にとって、東へ撃ち込む第一番槍。 「踊るぜ開戦だぁぁァァッ!」  穢土の理、何するものぞ――狂奔しているのはこちらも同じだ。  俺の、俺たちの魂を、披露してやるから目に物見やがれ。  天魔外道皆仏性・四魔三障成道来 魔界仏界同如理・一相平等無差別に――  こんなところで負けちまったら、俺の〈人生〉《はなし》はクソ面白くもねえだろうよ。  激奔する化生の嵐に囲まれて、そこはすでに第一級の死線上と化していた。  押し寄せる岩塊、襲い来る波涛、総てを引きずり込もうとする大潮流。絶え間なく迫るそれらの規模は山の如く、弩級の戦艦すら木の葉よりも頼りない。  まして人間一人の力など、あらゆる意味で芥子粒以下でしかないだろう。  だが―― 「――はああああぁぁァァッ」  物理的な相対比として冗談でしかない敵を前に、彼女は真っ向戦っていた。  岩を、波を、暴風を、その拳足で打って打って打ち砕く。激流よりもなお烈しく、怒涛を超えて攻め破る。  怪力乱神そのままに、剛波を揮う女自体がもはや幻想としか思えない。艦隊を囲む異形の群れにも劣らぬほど、紫織の武気は現実離れして極まっていた。  そして、そんな彼女と競うようにもう一人。 「つああァッ――」  宗次郎の剣は怜悧に精緻に、紫織とは対照的な鋭さで迫る諸々を斬割する。その動きは緩やかで、静から動への連結に無駄がまったく存在しない。傍目には止まっているように見えるものの、実情は彼の体捌きを誰も捉えられないだけである。  目まぐるしく流れる戦場はすでに海面へと移行しており、今や二人は水の上すら足場にしていた。  極限の域にある体術が、神業めいた体重移動を連続で成している。僅かな表面張力を逃さずに、大地の上と変わらぬ動きを実現している。  噴き上がる水飛沫はそれ以上の闘気で蒸発し、足元の激流は彼らの〈踝〉《くるぶし》さえ濡らせない。  まさに獅子奮迅。修羅のごとき戦ぶりは、共に無双と言って差し支えないだろう。  ゆえに負けることは有り得ないと、二人は等しく思っていた。そして同時に、これでは埒があかないとも。 「かぁー、うざったいねえ」 「流石に、大きすぎますか」  迫る巨手の指一本すら、大人十人が輪になって囲い込めるかどうかという馬鹿げた太さだ。紫織の拳も宗次郎の剣も、それらを相手に中々致命打までは与えられない。  このまま続けて削り殺すことが出来たとしても、その頃には艦隊そのものが深海に引きずり込まれているだろう。早急にケリを着けなければいけないのは、彼らとて分かっていた。 「ねえ宗次郎。あんたはなんか大技ないの?」 「ないこともないですが、そう何度も撃てません。この状況では……」 「事後が隙だらけになっちゃうか。実は私もそうなんだよね」 「少なくとも、一網打尽に出来ないようでは……」 「駄目ってわけかァッ!」  置き土産とばかりに拳を巨手にぶち込んで、紫織は身を翻した。 「しゃあない、一旦退こう宗次郎」 「止むを得ませんね」  こちらも同様に一撃を加えてから、荒れる海面を蹴り上げると手近な艦に駆け戻る。  甲板に降り立った二人は、周囲の状況を見回してから眉を顰めた。 「よく保ってる……と言いたいけど」 「時間の問題ですね、これは」  龍明の仕切りが良いせいか、各艦の混乱は最小限に抑えられているものの、だからといって余裕などない。屈強な乗組員たちが船上に身体を括り付け、持ち場を死守しようと奮闘してはいるのだが、自分たちがアレをどうにかしない限り全滅必至だ。 「数が多すぎる。僕の手は二十本もありません」 「あっちは十人掛かりだからね。しかも何て言うか、知能もあるでしょ。中々誘いに乗ってこないよ」 「なんだ。じゃあやっぱりあなたも、自分に引き付けようとしたわけですか」 「え? いやだって、そういう役はカッコイイじゃん?」 「まあ、気持ちは分かりますが」  きょとんとしたような紫織の顔に、思わず状況を忘れて宗次郎は苦笑をこぼした。  彼らとて何も考えていなかったわけではない。これ見よがしに派手な大暴れをすることで、敵の注意を引き付けようとしていたのだ。そうやって大半の攻撃が自分たちに集中すれば好都合。そのほうがこの二人にとっては戦いやすい。 「上手くすれば、纏めて斃せるかもしれませんしね。時間の余裕がない以上、そうするのが一番いいと僕も思いましたよ」 「でもあいつら、引っかかんないんだわ。可愛くないよね」 「可愛くても困りますよ」  今このときも、三十余の僚艦が二十の巨手に襲われている。それは固まりすぎず、ばらけすぎず、実に理想的な布陣を組んだうえでの攻勢にさえ見えてきた。  強いて言うなら、旗艦が何割増しかで狙われているのが唯一の偏りみたいだが、知能のある敵ならばそれも当然。あちらはこちらの編成や戦力を把握しているということだろう。  ならば、どうする? 「面倒ですね。こういう戦は好みじゃない。船上というだけで、すでにどうしようもない足枷だ」 「なんかお腹のあたりがむずむずするよね」  極論すれば、紫織と宗次郎は自分の生存しか考えないし、そのために他者を支援するという思考がない。自分が強くなって自分を生かす――そういう個を突き詰めてきた者たちだ。  ゆえに、船がなければ生き残れないという海戦そのものを苦手としている。生命線が他者の手にあり、それを守らなければならない状況が居心地悪く、二人の特性を鈍らせていた。 「どうにかして、もっと単純な話にしたいところですが……」  そのためにはどうすればいい? もしや、もう詰んでいるのか?  そんな思考が二人の間を一瞬流れ、停滞したとき―― 『おまえたちがそんなことで悩む必要はない』  突如頭に届いた声が、まさしく霧を払うように凛と響き渡っていた。 「――っとに、マジ探したぞ。このアホども」  ようやく見つけた二人の前に降り立って、開口一番とりあえず毒づかせてもらった。 「覇吐さん……」 「あんたどしたの? そんな一人でぷりぷりしちゃって」 「うっせえバーカ。人の苦労も知らんで、てめえら」  実を言うとあれ以来、結構雷が苦手なんだよ。この嵐の中を飛び回るのは、少なからず心的外傷を刺激される経験だったというだけだ。 「なんでもかんでも自分らだけで片が付けられるなんて思ってんなよ。つーかおまえら立場兵隊なんだからよ、俺の姫さんシカトしたまま好き勝手やってんじゃねーって話だ。分かったか、このバカ」 「は、はあ……」 「そりゃ、まあ、うん……」 「ちっとは恐縮しろや、この自己中ども」  自分のことは凄まじく棚にあげて、上目線の説教するのは心地いいですね。止められませんね。お陰で溜飲も下がってきたよ。  些か竜胆の太鼓もちみたいなノリになっちまったが別にいいや。もう二・三言言っておこう。 「だいたいおまえらときたらそもそもからして――」 『おまえのくだらん話に時間を割いている余裕はないぞ、覇吐』 『二人と合流したのなら、さっさと自分の役目を果たせ。こんな無駄話にも龍水の導力は削れるのだ。いい加減にしろ』 「……はい」  仰る通りなうえに声音も少し怖かったので、ここは大人しく任務を遂行することにする。 「うわ」 「ダっさ」  距離が近いせいか、こいつらも導波の圏内に入っているらしい。俺と竜胆のやり取りに、呆れ返ったような顔をしてやがる。 「あー、はいはい。ダサいですよー。僕パシリなんでー、これ受け取ってくださーい」 「え、わ――ちょっ」  俺は爽やかな笑みと共に、紫織の襟元から胸に手を突っ込んで龍水の髪の毛をお渡しすると、本能の赴くまま揉みしだいた。 『でかっ』 「うわ、マジでかっ」 「あ、うん。そりゃそれなりにあるほうだけど」 『……おまえ、死にたいのか覇吐』 「あまりふざけていると、殺しますよ覇吐さん」 『最低です、覇吐様』 『もう帰れよ、おまえ』 『はっはっはっは』  なんかもうボロクソに言われちまったが、これは俺なりに場の緊張を和らげようと思ったからで、別に邪念とかそういうのはさあ…… 『嘘をつくな』  導波って、考えてることモロばれだから面倒くさいよね。 『よいよい。その馬鹿さ加減、頼もしいよ。動機はともかく、気が紛れたのは確かだろう』 『烏帽子殿もそうだが、皆あまり気負うな。何事も上手くやるコツは楽しむことだよ。そこは少し覇吐を見習ってみればいい』 『断固それだけはお断りします』 『とりあえず、いつまで揉んでいるんだおまえ』 『感触がこちらにも伝わってきて、わたくしなんだか女として打ちのめされてしまいますから、紫織様もいいようにされていないで拒絶してください』 「いや、あまりに堂々としてるから、逆に感心しちゃってさ」 『うぜえ。腕ごとぶった切っちまえよ、宗次郎』 「そうですね」 「――ておい、待て、おまえ本気だろ」  これ以上やってると洒落にならない予感を覚えて、名残惜しかったが胸の谷間から手を引っこ抜いて後退した。 「それで――」  もはや何事もなかったかのように、襟元を正しつつ宗次郎にも髪を渡している紫織は実に冷静だった。これっぽちも感じちゃいなかったのかと少なからず落胆したが、まあ確かにこれ以上ふざけている場合でもない。 「何か案でも、お姫様? 大将の言うことならとりあえず聞くよ。理に適ってればの話だけどね」 『竜胆でいい。実の伴っていない敬称など要らん』 『要は私の方針に、おまえの魂が震えるか否かの話だよ紫織。宗次郎も聞くがいい』 『見ての通り、まずはこの馬鹿げた手の群れをなんとかしないと始まらん』 『理想は各個撃破だが、攻め手の数で負けているのだから反撃されるのは必至だろう。おまえたちも無事では済まぬし、僚艦にも少なくない犠牲が出る』 『私はここで、誰も死なせるつもりはないのだ』 「そりゃあ、そうだけど……」 「戦ですよ、久雅のご当主。そんな甘い話が通るとでも……」 『竜胆だ。何度も言わせるな、宗次郎。私は冷泉殿と違う』 『彼ならば旗艦一つ、いいや己一人生き残れば勝ちだとでも言うだろう。将としてそれはある意味正しいのかもしれんが、私の考えは違う』 『おまえたちは、狂気に率いられているのだと自覚しろ。ワケの分からん常識などクソ食らえだ』 「おい竜胆、言葉遣い言葉遣い」  俺の口調が多少なりとも写ったのか、姫にあるまじき暴言を聞いて紫織と宗次郎はぽかんとしてる。だけど竜胆はまるで気にせず、鼻で笑いながら言葉を継いだ。 『時間もないのだ。単刀直入に言うぞ』 『紫織、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈全〉《 、》〈員〉《 、》〈纏〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈に〉《 、》〈撃〉《 、》〈て〉《 、》』 「え?」 『おまえなら出来るし、おまえにしか出来ん。そうだろう?』 「い、や……ちょっと待ってよ。姫……じゃなくて、えっと」 「無茶だ。どれだけ個々が離れていると思ってるんですか。せめて最低限、敵を固まらせないと」 「そうだよ。それが出来なくてさっきから困ってるのに」  紫織の歪みは強力だが、等級自体は高くない。つまり可能性を飛ばすと言っても、実現できる異常度には限度があるのだ。  個々が数百間は離れた標的を、しかも同時に二十ときては、流石に処理の限界がくるのだろう。まして、それぞれに渾身の一撃を求められるとなればなおのこと。  俺から見ても無茶としか思えない要求だったが、しかし竜胆は言を曲げない。それどころか、さらに突飛なことを言いだした。 『〈今〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈僚〉《 、》〈艦〉《 、》〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈を〉《 、》〈密〉《 、》〈集〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》』 「へ?」 「はああああ?」 「それは、しかし……」 『何か言うことはあるか?』  正気かよ。この場で絶句している俺たち三人はもとより、他の連中も間違いなくそう思ったろう。  敵が一つ所に集まらないなら、逆にこちらが固まることでそうなるように仕向けてしまう。それは確かに理屈だし、むしろ真っ当な筋道だと言えるのだろうが…… 「竜胆、盤上の遊びじゃないんだぞ」 『当たり前だ。私はおまえたちより怖がりだし、命の何たるかも分かっているつもりだよ』 『伊達や酔狂でこんなことは言わん』  こちらが固まるということは、全滅の危険が跳ね上がるということで、同時に動きも壊滅的に効かなくなるという事実を意味している。  いくら理屈がそうだからといって、実行できるかどうかは別次元の話だ。これは戦で、死がそこにある。零か百かの決断など、普通は出来ない。 「冷泉様とは違う、ですか。本当にその通りですね」 「僕も、そしてあの方も、他人というものを見ていません。生きるにしろ、死ぬにしろ、自分と同列には扱わないんですよ。あなたはまた違った意味で、信じられないくらい傲慢な方だ」 「しかも恐ろしいことに、決め手が他力本願に近い」  自分は死なない。自分は無敵だ。そう信じて突っ走り、その結果が他者を大勢巻き込むことは俺たちにだって有り得るだろう。だが今、宗次郎が言ったように、竜胆の理屈は根本から違う。  〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》、〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈力〉《 、》〈を〉《 、》〈頼〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。 「失敗したらどうしようとか、考えねえの?」 『考えているよ。人を馬鹿みたいに言うな』 『私は怖がりだとも言っただろう。自分のちっぽけさは、物心ついたときから自覚している。何せ、散々いじめられて育ったからな』 『私は無力で、そして独りで、大したことは何も出来ない。〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》』 『頼るし、扱き使うし、命を貰う代わりに命を預ける。それが私の王道だ』 『だいたいからして、他に手などないだろうが』 「ぷっ――」  カッコいいのかカッコ悪いのか、そんな自説を正々堂々言い放った竜胆に、紫織が腹を抱えて爆笑した。 「あは、あははは、ははははははは―――」 「面白いなあ、めっちゃ受けるよ。最高だわお姫様」 『竜胆』 「ああ、はいはい。そこは徐々に慣らしていくから勘弁してよ。これから長い付き合いなんだし」 『それはつまり、了承したと受け取っていいんだな?』 「もちろん。大将の言うことには従いますよ。覇吐の気持ちがよく分かったわ、ねえ宗次郎?」 「……ええ、見ていて飽きない人だ。そこだけは間違いない」 「おお、いいだろ。けどやんねえぞ」 『とにかく』 『話が纏まったなら行動に移すぞ。操艦そのものはこちらに任せろ』 『理想は奴らと向かい合う形でよろしいな? そのためにはまず引き離さねばならんから、潮に逆らわず渦の中心近くまで滑り降りるぞ。言うまでもなく背水の陣だが』 『ゆえに機は一度しかない。今から勝負に出る』 『紫織は何としても、奴ら全体を一瞬でも無力化しろ』 「了解。それでその後は?」 『おまえの出番だ、宗次郎。殺すことの鼻は一番効くだろう』 「つまり、こういうことですか」  竜胆の言わんとしていることを皆が察し、宗次郎が確認した。 「紫織さんの一撃で奴らを止める。その瞬間の減圧を見極めて、僕が止めを刺せと」 『そういうことだ』  あれだけ巨大な化け物の群れ、一撃で殺しきれるとは思えない。ゆえに狙うのは絶妙の間を置いた二連撃。  なるほど確かに、その見極めは宗次郎が適任だろう。こいつの嗅覚はそうした瞬間を見逃さない。 『もって脅威を排除する。咲耶は言ったように、脱出路の看破だ。奴らが消えれば、間違いなくこの渦も勢力を弱める』 『心得ております。では兄様は、全艦集まるまでの防備に専念してください』 『言われなくても分かってる。はッ――、面白くなってきたじゃねえか』 『龍水は引き続き導波の維持だ。気張れよ、これは連携が要だぞ』 『はい、絶対に途切れさせません。任せてください』 「よっしゃァッ、やるぞォ」  きっとこの嵐は抜けられる。そう確信すると同時に、ちょっとした疑問も湧いてきたので口にした。 「なあ、それで俺の役目は何なんだよ? まだすげえカッコいいのが残ってんだろ?」  まさに真打ち登場な桧舞台が用意されているに違いない。そこらへん、姫は当然のように俺を遇してくれるはずだと、信じて微塵も疑わなかった。  だというのに―― 『そんなものはない』 「は?」 『おまえの役目は、さっき自分でも言っていただろう。パシリだ。そしてそれはもう終わっている』  ゆえにご苦労。大儀である。などと今この姫さん、ごく当たり前のように言っちゃったよ! 「はあああああああ、なんじゃそりゃああああああ!」 「くっ――」 「駄目、駄目だよ宗次郎、笑っちゃあ。あいつあれで、きっと超期待してたはずだから……」 「英雄爆誕、とか……ぷっ、くく、ふふふふふ……」 『あはははははは、もう戻ってきていいそうだぞ、使いっ走り』 『っ、っっ、~~~~~、っ』 『咲耶、可笑しいんならちゃんと笑っとけ。アホはいくらでも馬鹿にしていいに決まってんだろ』 『そうだな。それが虚けのためでもある』 「冗談じゃねえ、ふざけんじゃねえ! なんだてめえら、俺ナメてんのか、ブッ殺すぞ!」  すっげえやる気なくなったじゃんか。どうしてくれんだよ、この切なさは! 『聞く耳持たん。文句があるなら後にしろ』 『おまえは私の直臣だ。多少扱いが他と違うことくらい受け入れろ』 「まあ、見方を変えれば大事にされているということで、いいじゃないですか」  そんな慰めは余計惨めになるんだが、すでに艦は動き始めている。もうそういう状況なのだから、これ以上うだうだ言っている場合でもないか。 「……分かった。今回はもうそれでいいよ。その代わりおまえら、とちるんじゃねえぞ」 「どいつも、死ぬ気で竜胆の期待に応えやがれ」 「はいはい」 「分かっていますよ」  嵐はなお激しさを増し、佳境へと向かっていく。先の神楽と同様に、これは俺たちにとって大きな意味を持つ始まりの局面なのだろう。  なので口惜しいが私情は封じた。主役は竜胆で、あいつに勝利を与えることが俺の王道なんだからと……  そう信じられる心境が、今は悪くないと思えていた。 「ふーん、なかなか思い切ったことをするですのねえ」  眼下で陣を変えていく艦隊を見下ろしつつ、呆れと感心が入り混じったような声が流れる。 「確かに、もうこうするしかないように思えるけれど、それは予想の範疇ってことじゃないですのかね。そのあたり、丁禮はどう思いますの?」 「さあ。猫を噛める窮鼠は非常に稀だと分かっているけど、君の言うように予想できる抵抗ではあるね。問題は、あちらの頭が猫より回るか」 「犬の頭でも分かることだし」 「夜行様はどう思われますか?」  竜胆たちの行動にいまいち辛い二童子だったが、問われた夜行は珍しく、静かな様子で彼らの意見を否定した。 「烏帽子殿とて、それくらい分かっておるさ。万事そのうえでやっておられる」 「彼女の目も、どうしてなかなか立派だよ。化外の本質を、この短時間で見極められた」 「と、言うと?」 「あれらは狂している」  それは絶対の事実であると言いながら、夜行は今まさに固まりつつある異形の群れを指差した。従者共々足場のない宙に浮遊し、どういう理屈か当たり前のように滞空している。彼の〈禹歩〉《うほ》は、重力さえ無視するのかもしれない。 「つまり、我慢など出来んのだよ。怒り狂っていると言えばいい」 「状況だけ見れば、包囲したまま脱出を封じるだけでこちらは詰む。あえて攻撃など仕掛けずとも、逃がさなければあの渦に呑み込まれるのだ。勝負に応じる必要などない」 「だが、それは出来んようだな。ゆえに烏帽子殿もそこを理解し、真っ向からの殴り合いを演出したというわけだ。奴らは意地に懸けて乗るしかあるまい」 「と言うよりは、そうしたかったからこうさせたと見るべきかな。であれば誘われたのは烏帽子殿だが、そこは望むところであるだろうから……」  言葉を切って薄く笑い、夜行は現状を端的に纏めてみせた。 「双方、見事狙い通り。これは要するにそういうことだ」 「なるほど」 「ならば夜行様、このままぶつかればどちらに利があると思われますか?」 「拮抗――だが」 「だが、なんですの?」 「不確定要素を使えるほうが有利であろうな」  言葉の意味を察した丁禮は宙を仰ぎ、爾子は長々と溜息を吐いた。 「自分で仰いますか、そういうことを」 「夜行様がやる気になると、爾子は後が怖いですのよ」 「そう言うな。私は楽しくて堪らない」  ぎらぎらと、ぎらぎらと、夜摩天を号された男の双眸が輝きだす。その目が何を見ているのかは誰にも分からず、その〈咒〉《な》が何を意味するのかも分からない。  ただ、神号――そうとだけ言われて御門龍明から拝領した〈咒〉《モノ》であり、これを授かったのは今のところ、神州に夜行と咲耶の二人しかいなかった。  それほどまでに逸脱していると言われた男が、愉悦しながら動こうとしている。彼の従僕であるはずの二童子ですら、その結果を畏怖しているかのようだった。 「面白いな、面白い。烏帽子殿は私を数に入れているのかな?来ると信じておられるのかな?」 「何にせよ、ある種の運はお持ちのようだ。結果論でも成り行きでも勝利を手繰り寄せる才がある。それに酔わせてくれる天稟がある」 「ならば、初陣は華々しく決めさせてやるのが筋だろうよ」  言って、夜行は二童子の背を抱くようにしながらそっと押した。いつもの悪辣な笑みとは違う、慈父の面相で厳かに告げる。 「多少、やり易くなるように手伝ってやれ。おまえたちの〈咒〉《しゅ》は解かんが、そのままでもやれるだろう」 「……御意に。ご命令、承りました」 「夜行様は、そういう顔をしてるときが一番おっかないですの」 「では……」  応えて、二人は掻き消えるように眼下の座標へと己を飛ばした。後に残された夜行は一人、緩やかな所作で宙に印を描いていく。 「花か……ならば散るのが定めであろうよ。しょせん、〈現世〉《うつよ》に咲くべきではない徒花だ」 「葬送曲は必要かな、いと儚き者どもよ」  そうして、吊り上った口元から独特の韻律が漏れ始めた。彼にしか出来ない彼だけの〈咒〉《しゅ》が紡ぎ出される。  それに合わせて揺らめく太極。組替えられる森羅の理が軋みながら、夜摩の万象が位相を変えてこの世界に顕れだす。 「総て、〈一時〉《ひととき》の夢ぞかし」  狂い咲く〈愛〉《ハナ》、〈幻〉《カゲ》にすぎぬ。そう断罪するかのように、中天から嵐の乱雲が穴を穿たれ、徐々に広がり始めていた。  そして―― 「ただいま参上ー、ですのー!」 「主の命により、我らが助勢いたします」  空からいきなり駆け下りてきた犬の背に跨って、確か丁禮とかいう名前の坊主が俺たちに告げる。 「我ら二人で、奴らの動きを封じましょう。逃げられぬようにいたしますから、後はどうかご随意に」 「さあ、行くぞ爾子ッ!」 「はいですの!」  瞬間、これまで耳にした事がない規模の大轟音が迸った。 「いやあああああぁぁぁァァァッ――――!」  それはその場の全員、鼓膜が吹っ飛んだかと思うほどの衝撃だった。いきなり信じられない高速で駆け始めた犬の姿は、もはや白い閃光にしか思えない。音の壁をいったい何百倍破っているのか、見当もつかない異様な速さだ。  そして、その軌跡は群がりつつあった化外どもを囲むように周回している。あれだけの速度で回られたら、言うまでもなく脱出不可能。台風の目に密集させられ、そこから一歩も動けなくなるに違いない。 「おいおい……」 「なんという……」  夜行の式神、爾子と丁禮――ふざけた外見とは裏腹に、こいつら呆れ返るほど化け物じみたガキどもだ。  あの主人にして、この従者あり。桁が外れているとしか言いようがなく、そんな奴らが味方であるという事実は、ただ単純に頼もしい。 「黙れッ!」 「うるさいですの!」 「不快な歌だ、聞くに堪えん」 「おまえらなんか知らないし――」 「私たちは私たちでしかないッ!」  悲鳴にも似た異形の歌を、さらなる轟風が引き裂いていく。  切り刻み、ばらばらにし、砕き散らして消えてしまえと言わんばかりに―― 「我らの主は摩多羅夜行だ――他のことは諸々総て、那由他の果てに忘却した〈轍〉《わだち》でしかないッ!」 「それだけ分かっていれば問題ないし――」 「我らは抱きしめてもらえればそれでいいんだッ!」  同時に、高速の暴嵐が消えて視界は晴れた。そこに姿を現したのは、捻り切れる寸前まで一纏めにされた十人分の巨大な手。  花のようだと、その様を見て俺は思った。 「さらばだ。夢はもうよかろう」 「いずれ総ての霧は晴れる。新世界で逢おう」  なぜか悼むように落とされた龍明の独白に重なって…… 「――紫織ッ!」  引き絞られていた二本の矢が、いま放たれる。  気脈を司る経絡を制御し、膨大な気を循環させながら圧縮させ、もはや物質化するほどの闘気が拳に集まる。  跳躍と共に弾けた余剰の生命力は周囲一帯に伝播して、艦隊全員の疲労を瞬時に拭い去るほど、紫織が練り上げた気の総量は夥しいものだった。  甲板から宙に舞い、標的目掛けて振り降ろされる渾身の一撃。  こいつはこいつでとんでもなく、それを同時に二十も放つという絶技を繰り出す。  まともに食らえば、たとえどんな奴でも無事では絶対いられまい。 「おおおおおおおぉぉぉォォッ――――」  噴き上がる生気の圧が爆発し、その残光が翼のごとく見えた瞬間。 「玖錠降神流―――陀羅尼孔雀王ォォォッッ!」  まるで天から落ちた災害であるかのごとく、総計二十発に及ぶ鉄槌が総ての妖花を撃ち抜いていた。  毒を浄化し、七難摧滅を成す破魔孔雀――その名に相応しい過剰なまでの生命圧を纏った拳は、人外の異妖に特効的な痛打を浴びせる。  今それを前に、奴らの抵抗力は間違いなく零となり―――  必殺と化す刹那の空隙を、宗次郎の勘は逃さない。  放たれた斬気は先の神楽で見せた技と同じものだが、威力は数段違っていた。この一点だけを狙い澄まして溜め抜いていた刃風は、一切の減速を見せず波を切り裂き宙を走り、獲物の喉笛に喰らいつく。  行為の残虐性とは裏腹に冴え凍るような静の剣気は、完全に宗次郎独特のものだろう。  殺害行為に毛先ほどの躊躇も見せず、何の嫌悪も愉悦も抱かないまま機械のように殺しきれる異形の感性――たとえ誰でも、こいつほど指を鳴らすような気軽さで殺しに踏み切ることは出来ない。  もはや異能に属する域の殺意は、それだけに猟犬を上回る殺しの嗅覚を持っている。狙い過たず会心の瞬間を捉えた斬気は、そのまま走り抜けて妖花の頭を牡丹のように切り落としていた。 「――よし!」 「手ごたえ有りです」  そう、つまりはこれで―― 「期待に応えましたよ、竜胆さん。間違いなく殺りました」 「針路、東へ――道が開けます!」  俺たちは、ついに境界である淡海を抜けたのだった。  甲板に飛び戻った紫織を乗せて、再び艦隊は走り始める。勢力を一気に弱めた大渦は、すでにもう遥か後方。前方の視界には、霧を開いて徐々に穢土の地が見えかけていた。 「やったぞ!」 「よっしゃあッ」 「ま、本番はこれからなんだろうがよ」  確かに刑士郎の言う通りではあるものの、最初の難関を見事越えたことに変わりはない。今回、俺は解説しかしてないような気がするんだが別にいいさ。気分はそう悪くなかった。  勝利という二文字が頭に思い描かれ、誰もが歓声を上げかける。  しかし―― 「まだです、早くここから抜けてください!」  そのとき、それはやってきた。 「―――――」  背後からの切迫した丁禮の声に皆が振り向き、そしてその全員が愕然とする。 「な、ん……」 「だよ、ありゃあ……」  呆然と、気の抜けたとしか言いようのない声が口から漏れた。それほど、目の前の光景に度肝を抜かれていたからだろう。 「なんて、大きさ……」 「あれが、本体……?」 「……いや、それにしても大きすぎます」  その存在が何なのか、どういう理屈でそこに在るのか、欠片も分からないし分かりたくもない。  ただ、哭くようにひしりあげながら俺たちを追ってくる、度外れた異形の巨体。顔のように見え、血涙を流しているように見えるそれは、他に形容のしようがなく山だった。常軌を逸して巨大すぎ、あれが生物などとは天地が引っくり返っても思えない。  ついさっき、総力を結集してようやく斃した手の群れなど、これに比べれば爪楊枝だ。あらゆる意味で規模と次元が違いすぎる。 「馬鹿が、毎度よろしく逃げていればよいものを……」 「本当に救えぬ愚か者だよ。こんなときだけ格好をつけて、いったいどうするというんだ、貴様は」 「龍明……」  こいつが何を言っているのか分からない。しかしその口振りは、目の前の存在を知っているということなのか。 「……おい、何か知ってんなら教えろよ」 「あれは何です、母刀自殿……」  問いに、返答はたった一言。 「天魔さ」 「〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》とは違うがな。穢土の特別であることに変わりはない」 「ああ、参ったな。しかしこれも宿縁か。どだい避けては通れぬ道であろうし……」  龍明は踵を返し、そのまま天魔に背を向けて呟く。  先と同じく、いや、さらに深い惜別の悼みをもって。 「好きにしろ夜行。あれはおまえにくれてやる」 「その儀、しかと承りました」 「――――――ッ」 「夜行様ッ―――」  見あげた上空、そこには奈落のような笑みを湛えて、浮かぶ黒衣の陰陽師。  いつからそれをやっていたのか、虚空に踊る十指の動きが尾を引く蛍光の軌跡となって、何層にも及ぶ立体の大曼荼羅を織り上げている。  そこに集中する極大の神気は天を震わせ、穴を穿ち、まるで何かを通すための道を開いたかのような……  ともかく、こいつが規格外であることだけは間違いない。 「おまえたち、早々に立ち去れ。巻き込まれても知らんぞ」 「なにッ――」 「分からんか、手加減せんと言っておるのよ」 「―――――ッ」  嘯く夜行は、すでに俺たちを見ていない。奇怪な光を放つ双眸は愉悦に濡れて、愛しむかのように眼下の天魔へと注がれている。 「まさか、あいつあれとやる気?」 「信じられない……あんなもの、いったいどうするというんですか」 「しかし、わたくしたちに手はありませんし……」 「いけすかねえ、いけすかねえぞ龍明ッ!」  怒号する者、困惑する者、反応は様々だったが、このままここにいても成す術がないのは皆一様に分かっていた。 「夜行様、龍水は信じております! 心配などしておりませんッ!」 「ですから――」  健気に叫ぶ許婚の声すらも、天上の男には届かない。ただ遠目に分かる咒力の密度は幾何級的に膨れ上がり、途轍もない何かをやるつもりなのだということだけは俺にも分かった。  その中で、総ての疑問を断ち切るように竜胆が決を下す。 「全艦、全速前進! 至急この海域を脱出する!」 「どいつもこいつも、早くさっさと逃げろですのー!」 「夜行様が咒を使われる、振り返るな――死ぬぞォッ!」  嵐の空に、轟き爆発する天狗笑。煙る渦中を顧みた俺が最後に見たものは―― 「穢土の太極に与する者よ、其の方に問う。私の座に降る気はあるか?」 「あるならば、見逃してやってもよいぞ」  狂奔する天魔の咆哮と、その前に立ち塞がって雅楽を指揮するかのような夜行の姿。 「くくく、くくくく……そうか、ないか。潔きこと、あな麗しや」 「では死ぬるがいい」  丁禮が見るなと言い、見れば死ぬと叫んだ奴の咒法が励起される。 「ここに天地〈位〉《くらい》を定む」 「〈八卦相錯〉《はっけあいまじわ》って〈往〉《おう》を〈推〉《お》し、〈来〉《らい》を知る者は〈神〉《しん》と成る」 「天地陰陽、神に非ずんば知ること無し」 「〈計都〉《けいと》・〈天墜〉《てんつい》――凶に敗れし者、凶の星屑へと還るがいい」  そして中天――夜行の呼びかけに応えるかのごとく、〈宙〉《ソラ》の果てから燃える大火球と化して迫り来る計都彗星の威容を俺は見た。  星墜しの衝撃と爆発すら意中から失せるほど……それは俺にとって、避けられない運命を決定付けられた瞬間だったのかもしれない。  消えていく。消えていく。天魔が星に呑まれていく。  呑まれ喰われて光となり、断末魔すらもはやない。  その残響を背に負ったまま……  結論から言うと、俺たちは無事に脱することが出来ていた。  流れ星が地に落ちるという現象そのものは知っていたが、実際目にするのは言うまでもなく初めてだ。ゆえに通常、それがどれくらいの被害を及ぼすものなのか分からない。  だが主観では、規模の割に驚くほど効果が狭かったと思っている。爆風や熱線、津波や諸々の脅威から、あの状況で艦隊が逃げ切れたのは有り得ないことのように感じるのだ。  あれだけ巨大な怪物を、一撃で滅ぼした星の天墜……なのに、まるで激突面の僅かな範囲にしか効果を与えていないような、そういう不自然さが残っている。  だから結局、皆がそこは曖昧なまま呑みこんだ。夜行の術は常識を著しく外れており、まともに考えてもしょうがない。それは徒労だと思って割り切った。  そして何より――  ついに訪れた穢土の地を見て、誰もが仰天していたからというのが本当のところだった。 「これは……」  呆気に取られた竜胆の声が、皆の気持ちを代弁している。ある意味、淡海で見た怪異の数々よりもその光景は驚愕だった。  人外の鬼が棲む穢土……各々がそこに抱いていた印象は当然あって、俺も乏しい想像力なりにあれこれと予想していた。  しかし、この実情を予見していた奴は絶対に一人もいないと断言できる。  空気が毒を帯びているとか、世界がおどろおどろしく染まっているとか、そういうありきたりな異常じゃない。これはもっと決定的で、単純すぎるゆえに戦慄を覚える〈人界〉《にしがわ》との差異。 「秋、だと……」  季節が、流れる時間の概念そのものが違っていたのだ。それは問答無用で、ここが異界であると認識させるに相応しい落差だった。  今は卯月。桜咲く春であり、そこは絶対間違いない。だというのに、この穢土では山が紅葉に染まっている。  〈実〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈長〉《 、》〈月〉《 、》、〈十〉《 、》〈一〉《 、》〈の〉《 、》〈月〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈一〉《 、》〈年〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈で〉《 、》〈秋〉《 、》〈の〉《 、》〈盛〉《 、》〈り〉《 、》。まるでその季節のまま止まっているかのような情景は、赤い夕映えの色彩めいて…… 「世界の総てが、黄昏のようだ」 「終わらない逢魔ヶ刻……か」  俺たちが臨む東征は、真実これより始まるのだと……誰もが確信していたのだ。 「」 「」  総身を貫く衝撃に、ソレは〈魂切〉《たまき》る絶叫をあげていた。  痛い。痛い。狂おしい。今、世界の一部を喰い破られた。  その損傷は規模という意味で言えば軽微であり、万里を誇る蛇体から鱗一枚剥がれた程度のものにすぎない。  ゆえに痛みは心的なもの。悲痛すぎて哭いているのだ。許せなくて苦しいのだ。  物理的な苦痛など、五体砕かれようとソレは微塵も感じない。  なぜなら、もう遥かな昔に殺されている。奪われ、汚され、蹂躙されて、完膚なきまでに潰されている。  今のソレは、夢に近い。  実体など欠片も残らず粉砕されて、それでも消せない想いが総て。  死の瞬間、その刹那を無間の憤怒に染め上げた〈渇望〉《いのり》がソレを象っている。  だからこそ、消された同胞の哀絶に涙した。喪失の全き追体験を味わって、業火に魂が焼かれているのだ。  他の総ては不鮮明。思考は茫漠とした砂のよう。しかしだけどその呪詛は、決して薄れることがない。  許さない――と、ただそれだけを不変にするため、穢土は外界を拒んでいた。刹那を永遠に固定して、憎悪を〈縁〉《よすが》に留まっている。  彼らは化外、敗残の蜘蛛。本来この世に在るべきではなく、とうにいないはずのモノたちゆえに。  まつろわぬ、〈八束〉《やつか》の〈脛〉《はぎ》から成る軍勢は、侵略者の排除を望んでいるのだ。  消えろ。来るな。進ませない。この地は絶対に渡さない。  主柱の太極に呼応して、他の七柱も憤激している。魂で繋がった同志として、彼らも外の理を許容できない。  もはや在りし日の性はなく、蜘蛛に堕とされた化生の情念。誇りも輝きも失せ果てて、魔性に変じた今となっても亡くした黄昏を愛している。  そう、愛しているのだ。ならばこそ―― 「」 「」  蛇体が蠢く。とぐろを巻いた地獄の中から、神威の殺意が牙を噛み鳴らして鎌首を起こした。  旧世界の英雄たる魂たちが、〈祟神〉《たたりがみ》の鬼相に染まって戦に赴く。  愚かしくも恥知らずな侵略者どもが、救国の御旗などを掲げているのは知っていた。そして同時に、真実のところ彼らに理由など有りはしないということも。  生きることも、死ぬことも、何も懸けず道も知らず、ただ酔いに酔い狂った亡者ども。そのあらゆる意味で浮遊した、軽々しすぎる在り方は、震えがくるほど『奴』の〈赤子〉《せきし》に相応しい。  知るまい。何も分かるまい。そのちっぽけな唯我論に基づく〈自己愛〉《どうき》すら、極大の下種から流れ出たものであることを。  しょせんは『奴』の渇望にすぎぬことを。  おまえたちに大儀はない。  ゆえに許さぬ。死ぬがいい。絶望の味を教えてやる。  大天魔・〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》出陣――この永劫神無月を守るため、穢土の太極が声なき声で憎悪を綴った。  〈滅尽滅相〉《めつじんめっそう》―― 誓うぞ、誰も生かして帰さない。  特別付録・人物等級項目―― 御門龍明、丁禮、爾子、初伝開放。  その後、上陸に相応しい場所は思いのほか容易く見つかった。  湾状に抉れた巨大な入り江は半里ほどの砂浜が続いており、そこに数々の揚陸艇が物資を吐き出していく。  荷揚げされた木材や石材等、膨大な建築用資材はすでに成形が完了しており、それを土木部隊と工兵が無駄のない手順で組み上げていく光景は、中々に壮観だった。  この分なら、今夜中にも堅固な砦が築かれるだろう。東に打ち込む楔として、張り子ではない橋頭堡が完成するに違いない。  つまり、竜胆が思い描いた構想は、これでほぼ実現したことになる。加え、今では淡海の嵐も鳴りをひそめ、後続を気遣う必要もなくなった。おそらく天魔を排した影響で、このことも俺たち第一陣の軍功だろう。  これによって竜胆は、間違いなく将の地位を確固たるものにできるはずだ。後は最初の占領地であるここを守りつつ、本隊の到着を待つのが常道。  もしくは……さらに進軍して、東を切り取っていくべきか。  緊急時の退却拠点としてここの砦が完成すれば、それも充分有りだろう。今現在も続々と上陸を続け、隊列を組んでいく一万の軍勢は士気も万全の状態にある。ゆえにこのまま、次なる拠点を確保しながら進んでいく手も悪くない。  ただ問題は、〈化外〉《あちら》の手がまったく読めず、俺たちをどの程度認識しているのか分からないということだった。何せここは未知の大地で、迂闊な真似は死に直結する。  だから攻めるにしろ守るにしろ、必要なのはまず情報。敵はどのくらいの規模で、何処にいて、どんな奴らか……それを見極めるための斥候は、言うまでもなく少数の精鋭でなくてはならない。  となれば無論、そこは俺たちの出番なわけで。  兵隊なんてガラじゃなく、同時に部隊を率いるような人種でもないのだから、こういうところで働く必要があるだろう。今だってこんな余裕を許されている以上、俺らの役目が他と一線を画しているのは明白と言える。 「だったら、ふふん……気合い入れて活躍しないとな」  海の上ではろくに見せ場もなかったので、これから巻き返さないといけない。  と、岩場に座ったままそんなことを呟いていたら、そこらの雑木林からひょっこり顔を出してきた奴がいた。 「おー、いたいた覇吐。あのさあのさ」 「紫織か、なんだよ?」  こいつ、一人でそこらの探検でもしていたのか。軽い調子で笑いながら、俺のほうにやってくる。 「あっちにアケビが生ってたから取ってきたけど、食べる?」 「アケビって、おまえな……」  差し出された物体と紫織の顔を交互に見つつ、呆れの溜息が漏れてきた。 「……おい、ちっとは警戒しろよ」  〈穢土〉《こっち》の物なんか下手に食ったら、腹がどうなるか分かったもんじゃない。 「いいじゃん。固いこと言わないでさ、ほら」 「て、ちょ――おまっ」  俺が何か言う前に、再度差し出されて断る機を逸してしまった。押し付けられたアケビを手にして、どうしようかと思案する。 「…………」  まあ実際、旨そうではあることだし。 「後々考えりゃあ、今のうちに毒見しといたほうがいいか」 「そうそう。こっちで兵糧調達できるかどうかって、何気にすごい大事じゃない? 補給線がいつも磐石とは限らないわけだしさ」 「そんなわけで、まずは一番頑丈そうなあんた、試してみてよ」 「おまえは食ってねえのかよっ」  いい性格してんな、この野郎。なんか色々言ってやりたかったが、あまりに悪びれてないので毒気も抜かれた。仕方なく、手にしたアケビを食ってみることにする。 「どう?」 「ん……別に。旨いぞ、普通に」 「えええ~~~」 「なんで残念そうなんだよ、おまえ」 「だってさあ、なんかつまんないっていうか……」 「あ、咲耶、いいとこ来た。ちょっとこの水飲んでみて」 「おい待てやコラ!」  紫織が呼びかけた先を視線で追えば、とことこと砂浜を歩いていた着物姿は紛れもなく凶月のお嬢様だ。こいつに怪しげなもん飲ませるとか、意味分かってんのかよこの女は。 「紫織様、なんでございましょう。水……ですか?」 「うん。喉渇かない? ほら、ぐいっと」 「はあ、ではいただきます」 「ああああ~~~」  俺の静止も間に合わず、咲耶は紫織から渡された竹の水筒に口をつけて上品に飲み始めた。 「どう?」 「どう、と言われましても、これといって……普通に美味しゅうございましたが」 「えええ~~~」 「だからなんで残念そうなんだよ、おまえはよ!」  運良く何もなかったから良かったものの、もしかしたら大事になってたかもしんねえんだぞ。咲耶がどういうもんか分かってんのか、この馬鹿は。 「だいたいあれだよ。なんでおまえは一人でふらふら歩いてんだよ」 「別にいいじゃんね。いつも籠の鳥じゃ窮屈でしょ」 「はい。皆様にはご迷惑かと思いますが、わたくしも船旅で少々鬱屈しておりましたから。見つからぬようにこっそりと」 「おお、いいね。意外にお転婆しちゃうんだ。そういうあんた、私は好きだよ」 「俺はこいつを乗せる羽目になった輸送船の奴らに同情するよ」  笑顔で乗せてくださいまし、なんて言われた日には断れまい。下手に拒絶するのも怖かろうし、請け負ったら爆弾の運搬をやることになる。さぞかし生きた心地がしなかったろう。 「遅かれ早かれ誰かがやることになるんだから同じじゃない。あんた、見かけによらず神経細いね」 「立場上ってやつだ、阿呆。ちっとは竜胆の面子も考えてくれよ。他に示しがつかねえだろ」 「あ……」  俺の指摘に、咲耶は決まり悪げな顔で一瞬言葉を詰まらせると、深々頭を下げてきた。 「それにつきましては、誠に申し訳ありません。わたくしの浅慮でございました」 「竜胆様や龍明様のお立場を考えていないわけではないのですが、なにやら衝動に負けてしまって……」 「いや、そんな畏まって謝んなくてもいいけどよ」  言ったようにさっきのは立場上の話であって、俺もこんなことでぶつくさ言ってるガラじゃないんだ。本音のところは紫織と同じで、こういうお転婆も嫌いじゃない。 「来ちまったもんはしゃあねえよ。俺らが傍にいりゃあ問題ないし、〈本陣〉《あっち》にゃ断り入れときゃいいだろう」 「確か、導波がまだ繋がってるよね? なら御門のおチビさんに言っとこうよ。怒られるのは、あの子に任せるっていうことで」 「だな。あいつはそういう役回りだよ」 「なんだか、龍水様に悪いですね」  などと言いながらも、咲耶は楽しげに苦笑している。こいつもこいつで、結構ノリがいいらしい。  その身が尋常じゃない歪みなのは分かっているし、今だってそれを肌で感じちゃいるが、同時に咲耶はただの女だ。気晴らしに付き合ってやるくらいの度量がなくては、男が廃るってもんだろう。  それにそもそも…… 「真面目な話、おまえらとはちゃんと交流持とうと思ってたんだよ。そこらへんが甘かったから、海の上じゃあごたついたし」 「竜胆はちょっと変わった奴だから、お互いピンとこないところもまだあるだろう。そのうえ俺たちまでばらばらだったら、色々話になんねえよ。先が思いやられるどころじゃない」 「あー、そりゃそうかもね。実際今だってこんなだし」 「別に団体行動心がけようってわけじゃないけどな」 「我々は、お互いのことをもう少し知る必要があるということですね。それにつきましては同感です」 「要は足引っ張りあうことがないようにって話でしょう? 好みくらいは把握しとけと」 「そういうこと。竜胆の好みは俺がだいたい分かってるし」 「刑士郎は咲耶かな?」 「紫織様は、宗次郎様ですか?」 「んー、どうだろう。あいつあれで結構手強いよ。今だってさ…」  言いつつ、紫織はしばらく考え込むような顔をしてから、肩を竦めて首を大きく横に振った。 「駄目だ。導波切られてる。筋金入りなんだよね、宗次郎の個人主義は」 「人当たりはいい奴だけど、基本あいつは周りをかぼちゃくらいにしか思ってないよ」 「と言うよりは、自分を人間と思ってないような感じかな」 「それはどういうことでしょう?」 「まあ、話せば長くなるんだけど……そこはあいつの口から直接聞いてよ。私がぺらぺら話すのも気が引けるし、そもそも他人の人物評なんか当てになんないでしょ」 「今は、ともかくこの三人。そっち優先したほうが確実じゃない?ねえ覇吐」 「そりゃあな」  紫織も宗次郎と大差ない人種かと思っていたが、どうやらこいつのほうがいくらかは柔軟らしい。俺と咲耶も含めて、この三人が一番懐っこい面子というわけだ。  実際のとこ、お喋り好きの上位三人みたいなもんだろうけど。 「おまえの兄貴はどうしてる、咲耶」 「龍明様のところへ行っておりますね。解せないことが多々あるとのことで」 「あんたはその隙に抜けてきたと」 「はい。ですから事が露見したら、機嫌を悪くするでしょう。状況的に、矛先は覇吐様へ向きそうですが……」 「面倒くせえなあ。自重はするが、保証はできねえぞ」  つーか俺たち、絶対そのうちまたやらかすよな。宗次郎にしても紫織にしても、神楽の決着はほぼ全員棚上げ状態になってるんだから、仲良し軍団というわけには当然いくまい。俺もそういうノリは気持ち悪いし。 「そんな顔をされないで、兄とは忌憚なく付き合っていただきたいと思います。色々と難しい性格ですが、あれで覇吐様を認めているところもあるのですよ」 「もういっそのことさ、喧嘩するときの法度でもお姫様に決めてもらったほうがいいんじゃない? そっちのほうが健全でしょ」 「我々の第一義は東征の勝利ですが、そのために言いたいことも言えないようでは息が詰まりますものね。咲耶もそれには賛成です」 「じゃあ何か、歪み禁止は当然として……」 「武器なし。素手の殴り合い」 「それだと、紫織様がひどく有利に思うのですが。せめて宗次郎様には木剣くらい持たせるべきかと」 「いや、あいつは何か持たせること自体が危ないと思うんだよね。あー、私的には相撲とかでもいいんだけどな」 「おまえが褌一丁になるなら喜んで受けるよ俺は」  とか、まあ。  そういう諸々含めたうえで、お互いを知りつつはっきりさせておくべきことは多かろう。俺は立ち上がって伸びをすると、咲耶の顔を見て言った。 「ともかく、まずはおまえの気晴らしに付き合うって話だからな。行こうぜ。ぐずぐずしてると過保護な兄貴が飛んでくるぞ」 「そうそう。一足先に、穢土の見物でもしてみようよ。確かあっちに、高台っぽいところがあったからさ」 「それは、是非見てみたくありますね」  俺も紫織も、そして咲耶も、今ははっきり言って機嫌がいい。その原因が何なのかは、たぶん三人とも分かっていた。  人外の地、穢土……悪鬼の世界と聞かされ続けた異境なのに、ここの空気は落ち着くのだ。心なしか、力が湧いてくるような気さえしてくる。  そしてそれは、きっと錯覚なんかじゃない。西では異能の扱いだった俺たちだが、ここにはその源泉がある。ゆえに故郷へ帰ってきたような気になって、平たく言うと安らぐのだ。  咲耶が思わず一人で出歩きたくなったのもそのせいだろう。こいつは禍憑きを制御できないとのことらしいが、あるいはこっちならそれも可能になるかもしれない。  まだどうなるかは分からないけど、変化の兆しを確信できる気配がここにはある。だからいてもたってもいられなくなり、ついついお転婆をしてしまった。  気持ちは分かるし、可愛いじゃねえか。そして何より―― 「俺もさっきから、こっちのことが気になってしょうがねえんだよ」  ここはもうそういうことで、少し身勝手な自由行動を許してほしい。あながち無駄でもないことだし、別にいいだろ?  と、その旨断りを入れた際、龍水はブチ切れていたけれど。 『ちゃんと情報を持ち帰れよ』  当の竜胆がそう言うのだから、何も問題はないだろう。 「あんっっの自分勝手全開突っ走り大虚けどもがあああっ!」  砦の完成を待つまでの間に建てられた簡素な小屋の中で、龍水は憤怒の絶叫を上げていた。 「作業の手伝いも、軍議のことも、何もかも放り出して事もあろうに穢土見物だとおおっ! 物見遊山で東に来おったのか、あやつらは!」  その憤りは至極真っ当かつもっともなものだったが、そういう常識に当て嵌めるべき者たちなのかと言われれば大いに疑問で、彼女の剣幕は空回っていると言うしかない。  地団駄踏みながら騒ぎ立てる様子が何だか妙に可笑しくて、竜胆は思わず噴き出してしまっていた。 「な、なぜ笑うのですか竜胆様。もしや私が間違ってるとでも言うのですかっ?」 「いや、いやいや、そんなことはないよ。落ち着け龍水」 「だが、あやつらに手伝わせることなどないだろう。こういうときはただの役立たずなのだから、遊んでくれているほうがまだ楽でいい」 「そもそも私とて、あれらには斥候を命じるつもりだった。手間が省けたくらいだよ」  今回の軍において、覇吐らの立場は竜胆の個人的な親衛隊や隠密のようなものである。広い意味での用兵に関わる存在ではないのだから、戦略を練る軍議の場にも必要ない。  そういうことは、実際に部隊を率いる将兵や龍明のような者と詰めていく。覇吐らは覇吐らで、彼らだからこそ感じ取れるものを見聞きしてくれればそれでいい。  正直、だいぶ甘いとは思っているが、一定以上の束縛は逆にあの者たちの持ち味を削ぐ。不安要素がないわけではないけれど、竜胆はそのように了解していた。未だ納得いかなげな龍水を宥めつつ、傍らのもう一人に目を向ける。 「おまえはいいのか、刑士郎」 「別に。好きにさせるさ。あんたがいいってんならいいんじゃねえか」 「なんだ、随分と理解があるな。てっきりおまえは飛び出していくと思ったんだが」 「あんた、俺を妹の太鼓持ちだとでも思ってんのか?」  咲耶の行動に怒りだすだろうと思われた刑士郎は、しかし意外にも平静だった。機嫌がいいというわけでもないだろうが、特に何か言うつもりもないらしい。 「咲耶もガキじゃねえし、気持ちが分からんでもない。ま、お供が阿呆二人なのは不安だがな」 「し、しかし、実際に危険だろう。ここでは何が起こるか分からんのだぞ」 「何もねえさ。少なくとも今はな」  先の神楽からまだ苦手意識が残っているのか、些か身構えるような口振りで割って入った龍水に、刑士郎は素っ気なく否定で応えた。 「一定以上に陰が入ってる奴なら気付く。まだ何も寄ってきちゃいねえ」 「咲耶も、それを踏まえたうえでの行動だ。連れの頼りなさは、そこらへんで相殺できるだろ」 「つまり、化外どもはまだ私たちを捉えていないと?」 「たぶん、な。それかもしくは……」 「嵐の前というやつかもな」  刑士郎の後を引き継ぎそう言ったのは、たった今やってきたのは龍明だった。彼女に皆の視線が集中する。 「母刀自殿、それは誠ですか?」 「そちらの指示は、もうよろしいのか龍明殿」 「ああ。〈御門〉《うち》の者らに導波で付近一帯を捜索させた。驚いたことに、四方二里に渡って虫一匹おらん。さらにだ」  言いつつ、龍明は軽い所作で小石ほどの何かを投げ渡した。それを受け取り、刑士郎は眉を顰める。 「柿だと……これがどうした?」 「渋いが食える。というのはともかくとして、この近辺に植物以外の生き物はいないのだよ。加えて厳密に言えば、それも生きていない」 「え?」 「どういうことだよ?」  訝しむ竜胆たちに、龍明は苦笑しながら端的に告げた。 「気が止まっている。意味合い的には氷付けに近い」 「つまりだ、〈穢土〉《こちら》の面妖な状況と何か関係があるのだろう。まるで見えない氷河に覆われているかのようだ」 「表面上は実りの季節だが、さながら死の世界だよ」 「何も生きてはいない……か」  〈穢土〉《ここ》は死国……龍明の言葉に、竜胆はこの地に抱いた最初の印象を思い出す。  黄昏のような秋の世界。西では春だったというのに、どういう理屈か季節感が狂っている。現状、それが危険に直結しているわけではないが、だからといって無視できる異常でもない。 「まず最初に見極めるべきは、そこなのかもしれないな。穢土の法理を解き明かせば事を有利に運べるし、逆に言えば解かない限り何が起こるか分からない」 「単に土地柄、気候が違うということではないでしょうか? 常夏や常冬の国もあるのですから、こちらのよく分からない磁場やら何やらでそんな感じになっているとか」 「龍水、私は気が止まっていると言ったぞ。額面通りに受け止めろ」 「つまり、なにか」  胡散臭そうに手の柿を眇め見ながら、刑士郎が呟いた。 「ここは時間が止まっていると?」 「かもしれん」  穢土のものは生命活動をしていない。凍りついたように止まっている。それが本当にその通りなら、確かにそうだとしか思えなかった。 「しかしだとしたら、どうして私たちはその影響を受けない?」 「異物だから、ということで説明はつかんかな。我々にこの世界が分からんように、この世界にも我々が分からない」 「常識が違う。ゆえに理の縛りも受けない。まあ、分からんがね。もしかしたら、明日の朝には全員そろって止まるかもしれん」 「お、脅かさないでください母刀自殿……」 「だが、その可能性も無いではないか」  だとしたら最悪だ。それは全滅と同義だし、防ぐための対応策も思いつかない。今のところ総てが推測の域を出ない以上、やはり何よりもまずは情報が必須だろう。  腹に冷たい石を呑み込んだような気分になったが、竜胆はかぶりを振って気を切り替えた。ともかく出来ることからやっていくしかない。 「それで、とりあえずこの近辺に危険なものはないということでよいのだな? 先ほど、嵐の前と言っておられたが」 「なに、過去と照らし合わせたうえでの予想だよ。三百年前の東征は、初戦で壊滅的打撃を受けている。そこから推察する限り、蜘蛛は小手調べや出し惜しみなどしないだろう」 「来るなら一気に、怒涛のごとくだ」 「だ、大丈夫でしょうか?」 「そのために斥候が出たのだろう? 期せずしてだが、人選はそう悪くない」 「咲耶の感覚が優秀なのはすでに証明されておるし、覇吐と紫織は隠身に長けている。この男が何だかんだでここに留まっているのも、それを分かっているからだ。なあ刑士郎?」 「どうだかな」  水を向けられた刑士郎は、鬱陶しげに溜息をつくだけで否定も肯定もしなかった。が、じろりと底冷えのする目で龍明を睨むと、詰問するような声で続ける。 「俺がここにいるのは、てめえに用があるからだよ。性分でな、決めたことの順序はきっちり通さねえと具合が悪くなる」 「龍明、おまえは何を知ってる?」 「ほう?」 「何、とは何かな? 質問の意図は明確にしてもらいたい」 「とぼけんなよ、てめえはあれを知ってたんだろう」 「つまり?」  その意味するところが何なのかは、竜胆も分かっていた。実際、彼女にしても気になっていたことである。 「天魔か……」  今はまだ影も見えないとのことらしいが、いつ雪崩れ込んでくるか分からない。そしてそうなったときは、戦わなければならないのだ。  淡海で勝利したとはいうものの、化外の脅威はすでに充分すぎるほど分かっている。中でも天魔という存在は、人知を超えるところがあった。  正直、夜行がいなければ全滅していたかもしれない。そう思うからこそ、龍明が何かを知っているのなら聞く必要があるだろう。  出来れば二人のときに問うつもりだったのだが、こうなっては仕方ない。竜胆も刑士郎に倣って質問した。 「あのときあなたは、あれを旧知であるかのように言っておられた。どういうことか、よければ説明してもらいたい」 「おまえが色々物知りなのは結構だがよ。化け物に知り合いがいるような奴は流石に信用できねえな」 「信用? 信用だと?」 「おまえがそういうことを言うとは、驚きだな刑士郎」 「では逆に訊くが、おまえは分からんのか?」 「なに?」  素朴に、さも不思議そうな様子で問い返され、刑士郎はもちろんのこと、竜胆も龍水も鼻白んだ。 「それはどういう意味ですか、母刀自殿?」 「だから、単純な疑問だよ。凶月刑士郎は神州屈指の歪みなのに、天魔のことが分からんのかと問うている」 「元はあちら、いや今はこちらか。とにかくおまえの中には穢土の成分が混ざっているのだ。ならばあれを知っていてもいいはずだがな」 「喩えるなら先祖返りのような感覚を、体験したことがないのかな」 「……………」  刑士郎は何も言わない。ただ眉間に皺を寄せたまま、龍明を睨んでいる。その態度から、彼がそうした感覚を持っているのか窺い知ることは出来なかった。 「つまり、龍明殿はこう言うわけか? 歪みを持っている者ならば、天魔を既知のものとして捉えられる」 「ですがそうだとしても、母刀自殿は陰気を宿していないのでは?」 「ああ、だから私は別の事情だ。とはいえ似たようなものでもある」 「御門の当主は、代々先達の知恵や研究を継承しているのでな。それには記憶の一部も含まれる」 「〈天〉《 、》〈魔〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈初〉《 、》〈代〉《 、》〈様〉《 、》〈だ〉《 、》。ゆえに厳密に言うと、あのときの私は彼女だよ。そういう混在がたまに起こるし、今後は頻繁になるかもしれん」 「もしも初代様が伝承通り、穢土の離反者だったというのならな」 「…………」  龍明の言い分は確証の取りようがないことだったが、この何かと謎めいた人物に抱いてきた諸々は、そういう事情なのだと思えば合点がいった。  要するに御門龍明は、記憶という面において歴代当主の集合体めいたものなのだろう。それだけ膨大な情報をどう処理しているのか知らないが、たまに混線するというのも頷ける話だ。 「では私も、いずれそれを継ぐことになるのですか?」 「そうだよ、怖いか? 実際のところ、自我が弱いと人格が壊れるという危険性もある」 「まあ今のおまえでは難しかろうが、そう構えることもない。そもそもこれは、いずれ化外を討伐するために続けてきたことだからな」 「今回、事を成せば用済みのものでもあるし、そのとき継ぐかどうかはおまえの意思に任せよう」 「じゃあそうなるように、出し惜しみしねえで記憶ってやつを開陳してほしいんだがな」 「無論、そのつもりだよ。ここから先は夜行を上手く使う必要があるわけだし……そのためには、差し当たって烏帽子殿」  と、話を振られ、竜胆は少しばかり嫌な予感がした。  それは勘だが、自分のこういう予感は大概当たると経験上分かっていたから…… 「まずは皆の理解を深め合うという名目で、今宵は酒席でも設けていただきたいと思うのだが」 「絶対駄目だ」  とりあえず即答でそう返したのは、間違いじゃなかったと確信している。 「酒など、馬鹿な……」  あんなものは不謹慎だし、気が緩むし、いいことなんて何もない。  そう思っているのに…… 「あぁ……ははは……」 「堅っ苦しい」 「こういうところばかりはどうにかならんものかと常々……」  なぜそういう反応をされるのか分からなかったし、分かりたくもなかったから無視してしまうことにした。  戦力として夜行が重要なのは分かっているし、あれにはあれで問うべきところもあるのだが、だからといって酒がなければ絡めないなどという理屈は意味がまったく分からない。  酔えば手早く打ち解けられるとかそんなものは、意思の伝達力に欠陥のある社会不適合者の言い訳だと一片の迷いもなく断言できる。 「ともかく、まずは軍議だ龍明殿。今後の方針を固めるうえで、あなたの知識と意見を参考にしたい」 「問題児どもの処遇についてはその後で。姿が見えん夜行然り、宗次郎は……」 「秀真へ折り返す一団の所へ行っておったよ。おおかた中院に書状でも送るのだろう。あれの立場は言ってみれば、間諜のようなものだから」 「そうか……」  自分が誰の下についているとか、そんなことは歯牙にも掛けない人種だろうが、宗次郎は臣下として最低限の役目を果たしているらしい。  そういうところは立場抜きに好感を持てるし、もしかしたら一番真面目なのは彼なのかもしれないな……と、竜胆は少し複雑な気分になっているのを自覚した。  そしてその点、確かに宗次郎は真面目だった。謹厳実直とさえ言っていい。  基本、他人との関係に価値を見出さない彼にとって、そういうしがらみは速やかに片付けるのが信条だった。面倒な事態になるのが嫌だから、無視や引き伸ばすという選択が逆に億劫なのである。  ゆえに必要最低限、怒りを買うことも重用されることもない〈塩梅〉《あんばい》で、相手の要求に応えてやる。それが一番大過ないと経験上分かっていて、要は宗次郎なりの処世術だ。結局のところ自分自身のためでしかない。  だから今も、淡海での顛末と竜胆に対する感想などを主観で忌憚なく書に〈認〉《したた》め、秀真へ連絡のために帰還する船に預けてきた。もはや嵐は晴れたのだから、それが冷泉のもとに無事届くのは確かだろう。これでひとまず、役目を果たしたことになる。  よって後は、ある程度自由にしていて構わないはず。そう見切りをつけた宗次郎は、砦の建設に忙しなく動き回っている者たちの間を縫って、一人になれる場所を探してみることにした。  先の戦、落ち着いて省みるところは無数にある。彼が望み、目指すところである無謬の剣たる己に成るためならば、何よりも自分自身を常に研ぎ上げていなければならない。  心が波打っていては刃が欠ける。そう弁えて宗次郎は、静謐な空間を求めていたわけなのだが…… 「おや、これはまた奇遇だな」  お誂え向きに思えたその場所には、どうやら先客がいたらしい。 「どうしたのかな、こんな所に一人きりで。もし何かを探しているのなら、及ばずながら手伝ってもよいが」 「夜行様、それは正直嫌味です。分かっておられるくせに、お人が悪い」 「宗次郎はひねた一匹狼なんですのよ。それがカッコいいと思ってる年頃なんだから、そっとしておいてやるのが優しさですの。いつか自分で恥かしさに気付くまで、放っておくべきですの」  夜行、そして爾子と丁禮。思いも寄らない者たちが、我が物顔でこの場所を占拠していた。紅葉を肴に、すでに一杯やっているかのような風情である。 「誰かと思えば、あなた達でしたか……」 「うむ、何なら一緒に飲まんかね。お近づきの印だ」 「断るに骨付き肉十本」 「というか、断ったほうがいいですよ宗次郎殿」  にやつきながら酒盃を差し出してくる夜行に、供の童子たちは好き勝手なことを言っている。  この男が途轍もない業前を誇るのは直に見たし、それについて知りたいことがないでもないが、優先順位としては二の次以下だ。自分は自分なのだから、夜行の真似が出来るわけでもないしするべきでもないだろう。  ならば、彼が成した諸々について訊くこと自体、意味がある行為とも思えない。宗次郎は溜息をついて、首を横に振っていた。 「せっかくですが遠慮しましょう。お酒も嫌いではないですが、どうもあなたは底なしのようだ夜行さん。僕にお付き合いはしかねます」 「とにかく、お楽しみのところ邪魔をしたようで申し訳ない。僕は行かせてもらいますので、後はどうぞご自由に」  と、踵を返した宗次郎を、しかし夜行は呼び止めた。 「ああ、待て待て。そう急くこともあるまい」 「ここは誰のものでもないのだから、遠慮などしなくてもよかろうよ。ご自由にと言うのなら、そちらこそだ宗次郎。我らのことなど、気にしなくてよい」 「そうだな、景色の一つだとでも思って結構。私はもう、そのように認識した」 「……?」  よく分からない理屈に、宗次郎は訝しむ。いったいこの男は、何を言っているのだろう。 「逃がさないと言っているのですよ」 「諦めなさい。諦めなさい。夜行様の自己中具合はほんとに半端ないですの。こうなったら何言っても無駄ですの」 「それは……」  呆れと同情が入り混じったような二童子の言葉に眉を顰める。  要するに、こういうことか? 「あなたは僕を、この場の点景か何かだと思っているということですか? 絵なら動くなと」 「それが趣のあるものならばな。穢土の大地に、剣は映えるよ宗次郎。実に結構な肴だ」 「そちらから見て、私はこの場に無粋かな?」 「そうですね」  別に腹を立てたわけではない。ただ問われたことに率直な感想を述べたまでだ。  この男には、おそらくどんな景色もそぐわないと宗次郎は思っている。 「僕の個人的事情は置きましょう。一人で落ち着ける場所を探していたのに、そこには先客がいて落胆したというのは確かです。だがそれは関係ない」 「夜行さん、あなたは何処にいても浮きますよ。まるで〈世界〉《いろ》と喧嘩をしているかのようだ。ひどく虚ろな気分にさせる」 「正直、あなたが傍にいて居心地が良いと思う者など、天下にいないと思いますがね」  喩えるなら、そこに穴が空いている。絵の例に倣うなら、そんな印象を抱かせる男だ。  飾ることが苦手な宗次郎ならでは、思ったことを率直に告げてみれば、はたして夜行は楽しげに笑っていた。 「言うな。口舌もなかなか切れるようで素晴らしいよ。だが私がそういうものであるのなら、おまえもそういうものではないのかな」 「天下一などを切望するのは、つまるところ誰も要らんということだろう。鎬を削る好敵手も、終いには斬ると決めているのなら」 「であれば、剣とは喜劇だな。真価を問うために他者を求め、だが決して共存できん。矛盾だ、美しいよ歪んでいる。おまえの目指す求道とは、ほら、景色から浮くためのものではないか」 「…………」 「私は穴などと言われているがね。おまえはさしずめ切創だ。絵からしてみれば、どちらも同じものだろう? 色ではない。混じれんのだから」  言いつつ、勝手に酒盃を傾け続ける夜行に返すべき言葉はない。確かに彼の言う通りかもしれないし、違うかもしれない。  だが何にしろ、今は夜行が少々以上に鬱陶しいことだけは間違いなかった。まあ、誰でもそう思うような男ではあるけれど。 「で、僕はまだここから出してもらえないのですか? あなたのことです、どうせ口で足止めしているだけではないんでしょう」 「察しがいいですのね。実は宗次郎が来るずっと前から、遁甲のえげつないやつがそこらに張られているですの」 「行きはよいよい帰りは怖い。そういうことですよ、宗次郎殿」 「皆がここへ興味を持ち、容易に来られる半面で、しかし自由意志では帰れない」 「平たく言えば、嵌められたということですか」 「せめて招待したと言ってくれよ。私なりの説明責任があるのかと思ったものでね」  宗次郎は自分でここを選んだつもりだったのだが、どうやら実情は選ばされたということらしい。人を食ったような扱いだが、もはや憤るのも馬鹿らしくなった。  面倒事は速やかに終わらせるのが宗次郎の信条で、その点彼は実に律儀だ。ゆえにここは夜行の遊びに乗るしかあるまい。ここ最近、そういうしがらみがどんどん増えていくのが困りものではあったけど。 「では夜行様、我々は付近の哨戒に戻ります。何か異変があれば知らせますので、それまでどうかごゆるりと」 「なんだ、付き合いが悪いなおまえたち。どうせなら最後までここにおれよ。仲間との交流は大事だぞ」 「その提案、絶っっ対に嫌がらせ目的で言ってるですのね。ほんと冗談じゃないですの」 「どうかここはお許しを。交流しろと仰るなら、必要なときだけ個別にやりますから」 「では宗次郎殿も、ごゆるりと」 「相手したくないのは分かるけれども、無理矢理逃げたらえらいことになるから諦めたほうがいいですのよ」 「では、じゅわっち」 「意味の分からない掛け声はやめようよ、爾子」  と、二童子は慌しくこの場から駆け去っていく。逃げると言うなら今の彼らこそがまさしくそんな感じだったが、一応あれでも夜行の許しを得たことになるのだろうか。 「あれらはどうも、凶月の二人と相性が悪いらしくてな。嫌がる様が可愛らしいから、つい煽りたくなるのだよ」 「趣味が悪いですね」 「よく言われる。だがまあ、今日くらいは大目に見ようさ。これから先、いくらでも機会はあることだしな」  夜行の言葉の合間合間に、後方からこちらへ近づいてくる声が聞こえる。それで面子を察した宗次郎は、肩をすくめて問いを投げた。 「あなたの許婚はいらっしゃらないようですが?」 「そのようだな。痛恨だ。私の愛は届かんという予兆めいて、これは甚だ気鬱になるよ」 「だったらいっそのこと、そのまま引きこもり続けてくれたほうが皆にとってはいいのかもしれませんがね」  戯れ言にそんな揶揄で返しながら、しかし宗次郎は半ば以上に本気でそう思い始めていた。 「じゃあ、あれか。あのテンプラ天とかオリヒメなんとかいう名前は、龍明がつけてくれたわけ?」 「はい、深い意味までは教えていただけませんでしたが、ただ忘れるなと」 「ふーん。なんで私らにはそういうのくれないんだろうね」 「贔屓だな」  道すがら、俺たちはそんなことを話しながら歩いていた。  夜行と咲耶は何かイカス感じの二つ名みたいなのを名乗っていたから、そういやあれは何なんだよという話になって、どうして俺らにはないんだよという突っ込みが今入っている。  ああいうものを持ってると、名乗りあげるときにババンと見栄が効いて、実にこう燃えるじゃない。紫織もそこは同感なようで、不満に口を尖らせていた。 「なんか悔しいな。その、神号だっけ? 絶対私も貰ってくる」 「俺も俺も」 「あんたどんなのがいい?」 「唯一絶対無敵俺様覇吐様」 「……あぁ、うん。頭悪いのは分かったから、もう喋らなくていいよ。可哀想になる」 「決めるのはあくまで龍明様ですから、こちらの希望は通らないと思いますが……」  とにかく、ちょっとした目標が出来たことに変わりはない。どういう基準で選んでるのか知らないが、俺もそのうち神号とやらを貰うと決めた。ゆえに手柄の一つでもさっさとあげたい。  いい加減しつこいようだが、淡海で見せ場なしだった身としては結構切実な問題だった。 「勇んでおられますのね、覇吐様。ですがわたくし思いますに、竜胆様はきっと危惧しておられるのでしょう。その勇敢さが、いつか仇になるのではと」 「そりゃどういう……」  意味だよ、と言いかけたとき、前方に生い茂っている梢の向こうに切れ目が見えた。その先へ行くと同時に視界が晴れて、眩しいばかりの紅葉が目に焼きつく。 「おぉ……」 「絶景ぇ……」  ここが穢土と呼ばれる鬼の大地であることなど、瞬間的に忘却するほどそれは絵になる眺めだった。俺たちは三人並んで感嘆し、次いで一緒に驚愕する。 「ようこそ。来るのを待っておったよ」 「――え?」 「うおっ」 「てあんた、いつからいたのよ」  唐突に声を掛けられ、驚いている俺たちを横目にしながら夜行が酒を飲んでいた。そして、その傍らには宗次郎。 「僕はほんのついさっき、夜行さんはそのさらに前からいたそうですよ。どうもこの人に誘い込まれたらしいです」 「そういうことだ。気を悪くしたなら謝ろう。これより〈銜〉《くつわ》を並べる同志として、お近づきの印がてら一献いかがかと思ってね」 「まあ、そこの宗次郎には丁重に断られてしまったわけだが」 「へえ……」  それはまた、なんとも気の利いた話だな。俺らの理解を深めるにあたり、こいつが一番意味不明な奴だと思っていたが、まさかそっちから振ってくるとは予想していなかった。 「ふぅん、じゃあ私はありがたく、ご相伴に預かろうかな。咲耶はどうする?」 「……そうですね。どうしましょう。わたくしはあまり、お酒に強くないのですが」 「覇吐様はどうされます?」 「俺はいい」 「へ?」 「それから、おまえらも出来ればここは断ってくれ」 「と、申されますと?」  俺の返答は、たぶん予想外だったのだろう。きょとんとしている咲耶と紫織、そして薄笑っている夜行とのんびり構えてる宗次郎へ代わる代わる目を向けながら、思ったことを口にした。 「酒は好きだし、お近づきの印に一杯どうかって案にも賛成だ。けどそういうのは、全員そろってやんねえか? 夜行、おまえはいま同志と言ったな」 「ああ、言ったが?」 「おまえがどこまで本気なのかは知らねえし、それぞれの事情も感情も分かんねえけど、何が同志だってんなら竜胆を頭に戴いた同志だろう。だったら大将不在のまま、固めの杯なんかは交わせねえよ」 「なぜならあの姫さんは、きっと全員呼べって言うだろうしな」  ゆえにここでは、少々惜しいが酒は飲まない。どういうつもりであれ同志という単語を名目にした以上、そこは守るべきだろうと考えた。  宗次郎が断ったと言うなら好都合。なら俺たちもまだ飲むべきではない。 「やるならこんな、おまえの気紛れみたいなノリじゃなくてよ。ちゃんと段取って頭数そろえて、大将の許しを得たうえでやるのが筋じゃねえか? それでこそお近づきの印ってもんだろう」 「ほぉ……なるほどそういうものなのか」 「僕に振られても分かりませんよ。ただ覇吐さんの言い分にしては、珍しく理があるようにも思えますがね」 「まあ、僕はこの場をすでに辞してるわけですから、あなたが本当にそういう席を持ちたいなら改めるしかないでしょう」 「紫織さんは?」 「ぐっ……でもなあ、それすごい美味しそうなんだけどなあ」 「わたくしは覇吐様に賛成です。正直なところ、これ以上兄様を不機嫌にさせる要素は増やしたくないですし」 「よければ、紫織様も弁えてくださいまし。それで事は丸く収まるわけですから」 「あぁ~、もう、分かったよぉ。あんたが妙に格好つけた言い回しするもんだから、覇吐が対抗して格好つけようとしちゃったじゃない」 「よぉ、飲むか? とか、そんなノリでいいんだよ夜行」 「ふふ、ふふふふ……そうか、それはすまないな。以後気をつけよう」 「おまえの言い分は理解したよ覇吐。だが現実問題として、私はすでに飲んでいるのだがこれは別に構わんよな?」 「そこはもうしゃあないだろ。酔っ払いが一人いるだけだ」  こいつが酔っているのか醒めているのか俺にはさっぱり分からんし、見ているほうが酩酊しそうな男ではある。  だが何にせよ、この陰陽師野郎は東征におけるでかい武器だ。ここで遭ったこと自体を無駄にするつもりはなかったので、俺はその場に腰を下ろして胡座をかいた。 「好きに飲んでろ。これだけ色男と色女が目の前にいるんだ。肴代わりの華には困んねえだろ」 「おまえらも、突っ立ってねえでそこに座れよ。どうせこいつが満足するまで、ここから出しちゃくれねえんだから」 「ですね」 「うん、でもちょっと腹立つなあ。人が飲んでるのを見るだけっていうのは」 「そうですか? わたくしはなんだか楽しくなってきましたよ。このように外で車座になることなど、今まで経験がなかったですし」 「本来なら花見に打ってつけなのだがな。まあ、紅葉も悪くはなかろうよ」 「それで覇吐、私からおまえに問いたいことがあるのだが」 「あん?」  いきなり水を向けられ、訝しむ。逆はともかく、こいつが俺に問いたがるようなことが何かあったか? 「龍水が気にかけておってな。烏帽子殿にも言上したようだが、その顔では聞いておるまい。ゆえに私から質問しよう」 「おまえ、自身の歪みが結果的にどういう事態をもたらすか、そこは考慮しているのか?」 「はあ? なんだそりゃ?」  意味が分からず、問い返す。夜行は鼻で笑ってから、次いで紫織に目を向けた。 「おまえもだ、玖錠の。どうも深く考えていないように思うので、老婆心ながら問わせてもらおう」 「ツケがないとでも思っているのか?」 「ツケ?」 「咲耶、おまえなら分かるだろう。宗次郎は……まだそれ以前の問題らしいが」 「どういう意味です?」  そろって困惑する俺たちの中で、しかし咲耶だけは夜行の言わんとしているところを察したらしい。静かに頷いて、呟いた。 「つまり、返し風のことでございますね。あれは我ら凶月だけに吹くものではないと」 「少なくとも、龍水はそう思っておるな。そして私も、その説を否定はしない」 「そこで、当の本人たちはどう考えているのかと思ってな」  からかうように目を細めて、再度俺たちを見る夜行。こいつが言っていることは、要するにあれか? 「俺らが死ぬかもしれないと?」 「ツケってのは、反動があるって言いたいわけ?」 「たとえば凶月のように?」 「分からんよ。だがおまえたちの生き死にで済むのなら、むしろ安い話であろうな」 「例に挙げた凶月だが、これは相当な不条理だぞ。本を正せば血縁でもない赤の他人の行状が、なぜか己に撥ね返ってくるという無茶ぶりだ。ゆえに望むと望まざると、彼らは寄り集まって家族の形態を取らざるを得ん。互いを守るため、監視するため」 「単体では無敵であろうと、その実彼らに個は許されん。凶月の者に自由などなく、喩えるなら烏帽子殿が好みそうな関係を模倣するよう強制されている集団だ」 「どうだ、捻じ曲がっておるだろう。歪みとは、斯くのごときものではないかな」 「確かに、夜行様の仰る通りでございますね」 「特に私など、一族の枠を超えて何処に風が吹くかも分からない身でありますから……ひたすらに不条理であると弁えております」 「が、どうでございましょう。それが覇吐様たちにも適応される理かどうかは、正直……」 「分からん。ゆえ訊いている。おまえたちに自覚症状はないのかと」 「どうかな? 覇吐、紫織、宗次郎」  改めてそう問われ、俺は返答に詰まってしまった。そんなものはこちらだって分からないと言うしかない。  歪みを使えば反動が来る。何処かしらにツケが溜まり、いずれは何かで帳尻を合わされる――かもしれないということだが…… 「俺自身、今まで数えるほどしか使ったことがないから自覚はねえよ。少なくとも、他人に何かを飛ばしてるとは思わないがな」 「私はたぶん、この中で一番使ってるクチだろうけど何もないね。強いて言うなら、神楽のときみたいに殺されるごと寿命が縮んでるのかもしれないけど」 「でもそれは、全然不条理じゃないよねえ。むしろ利点って言うか、死んでるところを命削られる程度で済むんだったら、代価としては余裕だもん」 「俺が痛いの我慢してるのと、大して変わりゃしないわな。おまえが言っているのはそうことじゃないんだろ、夜行」 「無論だ。それで?」 「僕ですか? 紫織さんには話しましたが、生憎と自分の歪みが分からないんですよ。だから何も答えられませんし、さして興味もありません」 「持っていかれるのが何であろうと僕は僕だ。この場でどうしようが推測の域を出ないことに時間を割くなど無粋ですよ。夜行さんの肴になれず、申し訳ないとは思いますがね」  さらりと言い捨てた宗次郎が一番淡白な反応だったが、実際のところ俺も紫織もそこは似たようなものだった。  仮に凶月みたく他人と一蓮托生なら、俺たちとまったく同じ種類の歪みが複数存在しているはずだろう。  だがそんな話は一切聞かず、もしあるなら龍明が言うはずだ。夜行にしろ龍水にしろ、神州の異能を管理している御門の人間がそこを指摘しない以上、俺たちの同種はいないと見ていい。  だったらもう、要らん世話だと言うしかなかった。 「結局自分がやったことは、自分でケツを持つしかないだろう。何がどうなるかは分かんねえけど、納得できるようにやってくだけさ」 「そうだね。私もそこは同感。後悔しないように生きて、死ねればそれでいい」 「わたくしも、その覚悟がなければこの場に居りはしませんから」 「なるほど、よく分かったよ」  俺たちの答えに頷いて、夜行はまた一人で飲み始める。 「でだ」  それはそれで置くとして、気付いたことがあったから口にした。 「もしかして、さっきおまえが言おうとしてたのはこれかよ咲耶」 「そうですね。わたくしも、いま確信しました。竜胆様は覇吐様を気遣っておられるのでしょう。あの方はそういうお人のようですから」 「そうだとしたら、そりゃ光栄な話だけどな」  龍水に妙なことを吹き込まれたせいで、歪みの行使そのものを快く思っていないのかもしれない。  しかしそういう気遣いは、俺にとって牙をへし折られるようなものだった。正直、なんとも複雑な気分になる。 「ねえちょっと、だったら逆に、使えって命令された私はいったい何なのよ?」 「あの場では、それが最善だったからではないですか? 神楽で竜胆様は仰ったでしょう。命の無駄遣いなど許さない」 「皆様勇ましすぎる方々ですから、使いどころを選ぶのはあまり得意でないご様子。ゆえにそういうことではないのかと」 「僕らに相応しい死に場所を与えると、確かそうも言っておられましたね。ならば覇吐さん、もうそれでいいじゃないですか」 「まさか、竜胆は俺に惚れているから云々と、おめでたいことを考えているわけでも……ありそうですね、あなたの場合」  凄まじく放っておいてもらいたい。俺たちの末路を竜胆がどう捉えているかは気になるが、ここでこれ以上推察しても意味はないと思ったので棚に上げた。  むしろ夜行――俺たちにそんな話題を提供し、あれこれ言い合ってる様を面白がってるこの野郎だよ。 「結局おまえ、一から十まで愉快犯だろ。その場その場で楽しけりゃあ、後はなんでもいいんじゃねえの?」 「心外だな。私はそこまで野放図ではないよ」 「同志だと言っただろう? 私は私なりに、おまえたちとの付き合い方を考えている。先の話題にしたところで、動機は友好的な好奇心だ。別に悪意あってのものではない」 「己の選択は己で負い、それに納得すると言った答えは潔いと思ったよ。あまり穿った見方をせんでほしいな」 「じゃあ俺からも訊くぜ」  肴にされてばかりじゃ癪なので、こっちも一つやり返すことにした。先の話を混ぜ返すってわけじゃないが…… 「おまえにツケってやつはこないのかよ、夜行」  こいつの力は、言いたかないが俺らの中でも飛び抜けている。ならば当然、それに見合う帳尻合わせが発生するべきではないのか。  そう思い、訊いた俺に、夜行は変わらぬ笑みを湛えて返答した。 「もう来ている」  あの不可思議な、第一印象からやけに気になっていた目で俺たち全員を見回しながら、素っ気なくそんなことを。  諧謔の塊みたいな男だとは分かっていたが、思わず引き込まれてしまいそうな、それはある種の真摯さが宿った声だった。 「そのモノと如何にして対峙するかが、摩多羅夜行の命題だよ。ゆえおまえたちには教えられた。衒いなく感服している」 「特に覇吐、おまえは私の〈咒〉《しゅ》を見ただろう? ならばいずれ分かるさ、何もかも」  そう言われても、何のことやらさっぱり俺には分からねえが。 「まあ今は、最初に言っていたことを実現させてくれればいい」 「烏帽子殿も交えたうえで、皆の固めとやらを誓うのならばな。それもある意味、〈咒〉《しゅ》の一種だ」 「私はここで待っている。楽しみにしているよ」  ともかくその要求についてなら、当たり前に実行するつもりなんで言われるまでもなかったけどな。 『斥候――臣・覇吐による報告の纏め。代筆者、凶月咲耶』 『本陣より五里ほど先まで捜索した結果、敵はもとより生物と思しき存在は影も無し。鳥や獣はおろか虫すら見当たらぬ様は不気味なことこの上なく、風光は明媚なれど山水画のごとき非現実感を覚えるものなり』 『御門一門陰陽頭、摩多羅夜行の僕たる爾子・丁禮が申すところ、二十里先まで同様の状況が続くらしく、その先も変化があるとは思えぬとのこと』 『これに当方、軍の糧食を案じ候。柿や〈茸〉《たけ》、栗、その他山菜等はそこらに散見されるものの、これら悉く生の拍動が絶無なり。食すことは可能なれど、栄養素という面において効果があるのか甚だ疑問極まりなし』 『穢土では自給がままならぬ。おそらくここでは、生を育むこと自体が不可能なり。ゆえに敵の城邑を攻め落とし、その備蓄を奪うといった戦の常道が意味を成さぬ恐れあり』 『現状、率直に見る限り、化外が食を必要としておらぬのは間違いなく、飲料水を得られることがせめてもの救いと言うより他なし』 『ゆえ、万が一にも〈輜重〉《しちょう》を失ってしまわぬよう、進むにしろ守るにしろ、ご英断を賜りたく、以下に各種情報を列挙いたす所存なり』 『我ら、御大将の下知に粉骨砕身報いること、固く誓うだけの身でありますれば、これをもって勝利の一助となればこの上ない幸いなり』  と、その後もだらだらと言えば語弊はあるが、ともかく堅苦しい調子の報告書は続くわけで、その主旨は要約するとこういうことだ。 「つまりここは慎重にいくべきだと、それがおまえたちの意見とみていいのだな」 「そ。なんだそのツラ、ガラじゃないとでも言いたいのかよ」 「別にそういうわけではない」  言いながら龍水は肩をすくめて、相変わらずこまっしゃくれた感じに溜息なんかを吐いている。 「龍水様は、ご不満なのでしょうか?」 「だから、そういうわけではないと言っているだろう。私がそんな、不機嫌そうに見えるのか?」 「ええ、まあ……」 「いつも通りっちゃ、いつも通りだが」  年明けからこの春まで、俺はこのチンチクリンと顔を合わす機会が何度かあったので、それくらいの機微は分かるし原因も想像はつく。  そこらへんの突っ込みを入れちまったら、こいつは余計に怒りだすだろうから言わぬが花と弁えちゃいるけど。 「咲耶、そう困惑した顔すんな。別にたいしたこっちゃねえ」 「要はただ、嫉妬してやがんのさ。このガキは」 「え?」 「なッ――」  横から入ってきた馬鹿兄貴の言葉に、咲耶はきょとんとして龍水は絶句する。俺は呆れて宙を仰いだ。 「ああ、もう、てめえはいらんこと言ってんなよ」  爆竹に花火ぶっかけるような真似は遠慮願いたいところだったが、咲耶が解せない顔をしていた以上、これは仕方のない流れだったのかもしれない。なおも刑士郎は、にやつきながら続けていく。 「久雅の大将が、おまえらに甘いのがこいつは面白くねえんだよ。加えて、なんだ。夜行の野郎にも会ってきたって? そりゃ腹立つよなあ、嬢ちゃんよ」 「な、わ、私は別に、そんなこと」 「軍議のほうは、とりあえずここに篭城ってことで決まったらしいぜ。聞いた話じゃ、進軍するべきだっつー意見も結構あったらしいがよ。大将は反対してた。そこにおまえらの報告だ」 「つまり、好き勝手やってるだけにしか見えねえ馬鹿連中が、結果だけ見りゃ上手いこと援護をした形ってわけだ」 「まるで愛しの竜胆様と、お心が通じ合ってるみたいによ。察してやれや」 「その間、こいつは特に何がやれたってわけでもねえんだからよ」 「き、貴様が言うなぁァ――!」 「え、偉そうに、なんだ貴様、このチンピラがっ! それを言うならそっちのほうこそ、何もしてなかっただろうが。妹の手綱も握れん分際で」 「余裕ぶるな、大物ぶるな。おまえが今さらどんなに格好つけたところで、しょせんは女の尻に敷かれている軟弱者だと天下に知れ渡っておるのだ、この阿呆めが!」 「あー、あー、あー」  予想通りだよ。始まっちゃったよ。すげえ面倒だよ。帰っていいかな、俺。 「なんだてめえ、ずいぶん威勢がいいじゃねえか。ここにゃあ今、〈龍明〉《ほごしゃ》がいねえってことを分かって口利いてんのか、おい」 「喧嘩なら買ってやるがよ。その気があんのか、てめえによ」 「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬ~~」 「兄様」 「大人気ない真似はやめてくださいまし。話が一向に進みません」 「龍水様、どうか非礼をお許しください。分かりにくかろうとは思いますが、兄はこれで喜んでいるのです。もちろん、このわたくしも」 「〈凶月〉《われわれ》に、そのような態度で接してくださる方は、そうおられませんから」 「あ、う……うむ」 「別に俺は喜んでなんかいねえがよ」 「これ、このように、まったく素直ではないのです。どうか愛嬌と思って、ご寛恕を」 「チッ……」  こいつ、ほんとに尻に敷かれてんな。  と思ったが、それを口にしたらまた一悶着起こりそうだったんで黙っていた。どうもこういうときは、全部咲耶に任せたほうが手早く収まりそうな気がする。 「まあ、その、私は別に、おまえたちのような者に対してこれといった偏見はない。……いや、あったのだが、少し考えを改めた」 「もう知らぬ仲でもないし、ゆくゆくは御門を継ぐ者として、それ相応の器でなければならんのだ。母刀自殿や夜行様に、恥をかかせるわけにはいかない」 「それに咲耶、おまえはたぶん良い奴だ。正直言うと、まだ怖いのだが……それは私の未熟ゆえのことだと思って、慣れぬうちは大目に見てくれると助かる」 「おまえとなら、友人になるのも悪くないと……本気で思っているのだ、私は」 「はい。わたくしも同感です。どうやら龍水様は兄様と同じく、少々困った可愛らしいご気性のようですから」 「一緒にするな! あと言っておくがな、私はおまえの兄とそこの阿呆が大嫌いだっ」 「なんで俺まで……」  こっちはずっと黙ってたのに、連座で一緒くたの扱いかよ。理不尽すぎて泣けてくるぞ。 「なに見てやがる」 「相手してねえよ。絡んでくんな」  しかもこの馬鹿兄貴、何だかんだでやっぱり俺にムカついてやがる。無断で咲耶を連れてったことが、本音じゃ気に入らないんだろう。  兄様と龍水様は、共に困ったご気性ね。なるほど、確かにそんな感じだわ。全然可愛いとは思わねえけど。 「まあともかく、当座は〈砦〉《ここ》を守るという方針になったのでしたら、我々は何をしていればよいのでしょうね」 「地図だよ、地図。実質、それがなきゃ始まんねえだろ」 「そういうことだ」 「ああ……」  と、咲耶も得心したようだった。文字通りの箱入りだから軍事どころか諸事全般に疎かろうこいつでも、それくらいは分かったらしい。 「そもそも、我々は穢土の地理をまったく知らぬ。すでにもうそこからして、今はこうするより他にない」 「そりゃそうだ」  俺たちも可能な限り辺りの地形を見て回って、それを報告に加えもしたが、万単位の軍を動かすにあたって要求される精度のものでは無論ない。まさしく鬼が出るこの地において、そんなものを頼りに進むのは自殺行為でしかないだろう。 「まあ、まったく無理ってわけでもないだろうがな。事実今だって、式を鳥に変えて飛ばしてんだろう?」 「地図を作るためにな」 「とはいえそれでも、限界はある。基本として術者から離れすぎては駄目だし、使役に必要な咒力もそのぶん増すのだ。周辺の地理を把握するだけでも、万全を期すならやはり数日は掛かってしまう」 「俯瞰の視点と連動しつつ軍を進めるという手もないではないし、進軍を主張する者らはそうするつもりだったようだが、母刀自殿が撥ね退けたよ。何せその場合、式が襲われたらどうしようもないからな」 「〈穢土〉《ここ》が現地徴発の出来ぬ地だというならなおのこと。石橋を叩いて悪いことなどない」 「徴発できぬのは、兵糧だけではありませんものね。生の営みが見えぬのならば、地図を持った何者かがいるという可能性すら怪しいと」 「うむ、まあそういうことだ。先ほど、秀真に折り返す一団にも軍議の結果は伝えたはずだし。もはや嵐は晴れたのだから、本隊の到着まではおそらく四・五日」 「最初から全軍揃わせるわけでもなかろうが、やって来る者らに格好はつけておかねばならないだろう。だからその間、我々のやるべきことは大きく二つ」 「守りを固めて、地理把握して、戦略の自由度を広げることだろ? 後から来る奴らに舐められねえように」 「そうだ。武功という意味ではすでに充分な戦果をあげているが、それは極論、運と勢いさえあれば馬鹿でも出来る」 「むしろこういう、一見して地味なことをこなせるかどうかのほうが重要だ。曰く、名将とは兵をいたずらに死なせない者であるそうだから」 「主導権は、常に竜胆様が握らなければならない。特に中院、あの男の風下には、絶対立ってはいけないのだ。分かるだろう?」  と、気炎を吐く龍水だったが、それに対する反応と言えば…… 「わたくしには、そういうことの細かい機微までは分かりませんが」 「同感だな。ていうより興味ねえよ。中院だのなんだのと、別に知ったこっちゃねえ」 「むぅ……」  いまいち以上に反応が悪い二人を前に、眉根を寄せて唸る龍水。 だがそれは、やがて諦めの溜息に変わった。 「……まあ、おまえたちはそれでいい。竜胆様の指揮に従ってくれるなら」 「覇吐、おまえはどうなのだ?」 「俺か? 正直なとこ、半々だな」  竜胆の意向には沿うつもりだが、中院に関しては微妙なところだ。  無論、あいつが竜胆を脅かすなら許さねえし、嫁にくれてやるつもりもない。てめえが権力を握るために、久雅の家を取り込む政略結婚なんてのは、ふざけんなっつー話だ。  そこらへんの政治事情は、この三ヶ月あまりで俺も一応は把握している。  が、しかしだ。 「あいつ、実はマジっ気もあるんじゃねえかと思ってよ」 「あん?」 「それはどういうことでしょう?」 「だから、あれはあれで、ちゃんと竜胆に惚れてんのかもしれねえなって」 「そう思うのか?」 「いや、分かんねえけどよ」  仮にそうなら、俺とあいつは恋敵で、仲間なわけだ。同じ女に参っちまった者同士、ある種の親近感がないわけでもない。 「ガキじゃねえんだ。つまんねえ独占欲でぶん殴るより、一緒に酒でも飲むほうが面白そうだなってよ……思わんこともない」 「まあ、根拠のねえ希望的観測だが」 「…………」 「殿方は、稀にそのようなことを思う場合があるようですね。兄様はどうなのでしょう?」 「知るか」 「こいつは無理だろ」  仮に俺が咲耶にちょっかいなんぞかけた日にゃあ、本気でキレそうだ、この野郎。  俺はそういうノリを好まない性分だが、他の奴らの考えにまでとやかく言うつもりもない。  単に俺個人として、あの竜胆に真剣な気持ちで惚れた男がいるというなら、それは邪魔くさいのと同時に、誇って喜ぶべきことじゃないのかと思うのだ。  何せあの姫様は、だいぶ変な目で見られながら育ったようだし。 「ごちゃごちゃ難しいことは分からんけど、惚れた女がモテるってのはそう悪いもんでもねえだろうよ」 「……そうか」  いまいち納得のいかなげな様子だったが、渋々といった風に龍水は頷いた。 「まあその、おまえの言いたいことは分かった。いや、正直に言うと分からんのだが、とにかく下種で不埒で破廉恥なことを考えているわけではないのは分かった。珍しいことだし、そこは認めてやる」 「……おまえな、もっと言い方ってもんねえのかよ」 「まるで俺が、年がら年中下半身的なことしか考えてないみたいじゃねえか」 「だってそうだろう」 「残念ながら」 「むしろなんで反論できるつもりでいるかが謎だ」 「とにかく」 「〈本陣〉《こっち》の方針は分かったろ。次はそっちだ、咲耶」 「中院のことなんざどうでもいいが、他の奴らは何してる?おまえら、一緒にいたんだろうが」 「はい。それは確かに」 「宗次郎様は、偶然ですがわたくしどもと合流しておりました。あの方は中院のご当主様と繋がりがありますので、先も仰っておられた秀真への連絡船に立ち寄った後、運悪くと言いますか、夜行様に捕まったようです」 「宗次郎が中院に? あやつ、いったい何を報告したのだ?」 「それは存じませんけれど……もしや龍水様は、宗次郎様を獅子身中の虫であるとお考えなのですか?」 「……別にそういうわけではない。奴のことなら多少なりとも分かっているし、あれは走狗が務まるような男ではないだろう」 「そして、だからこそ気を許していないというだけだ。奴は何と言うか、ある日いきなり、その場の気紛れでこちらの首を刎ねにきかねんような男だぞ」 「中院がどうこうではなく、あいつ個人が危ないのだ。というか、率直に苦手だ」 「まあ、そんな直截な」  一度殺されかかった身として至極ごもっともなことを言う龍水に、咲耶は柔らかな微笑で応じていた。 「お気持ちは分かりますが、宗次郎様はご自分に素直すぎるお方のようですし、気持ちの真っ直ぐな良い殿御であるとわたくしは思いますよ。ねえ兄様?」 「なんで俺に振るんだよ」  舌打ちする刑士郎。龍水は龍水で、拗ねたように膨れていた。  まあそりゃ確かに、しょうがねえわな。あの人斬り馬鹿にゃあ、俺でも最初は引いたもんよ。 「でだ、質問の答えがまだねえぞ咲耶。他の奴ら何やってる?」 「ああ、それは……」  宗次郎に、紫織に、夜行。期せずして偵察――と言っていいのか分からんような有り様だったが、とにかくそれに絡んだ五人の中で、この場に戻ってきたのは俺と咲耶の二人だけだ。そこを刑士郎が訝っている。  なんかこいつ、いらんところで勘がいいな。普段なら、おそらくそんなの気にもしない奴なんだろうに。 「おまえよ、周りの連中が気になるような性分なのか?」 「あァ、くだらねえこと混ぜ返すんじゃねえよ。てめえは黙ってろ、ボケ」 「あン、なんだって?」 「だコラ、やんのか?」 「わ、わ、ちょちょちょ、待たんかおまえら」 「お二人とも、今は喧嘩などやめてください。分かっておられるでしょう、覇吐様」 「む……」  いや、そうだが、この野郎がいちいち可愛くねえもんだからよ。  なんかもう面倒になって、がしがし頭を掻きながら俺はぼやいた。 「なあ咲耶、『あの件』に関しちゃあ、もう俺が一人で片付けるってことでいいじゃねえかよ」 「駄目です。わたくしはそういうことについて覇吐様をまったく信用しておりません。これを許しては、女としての沽券に関わります」 「宗次郎様はこのようなことに付き合ってくれる方ではありませんし、紫織様には別の用事がお有りでしょう。龍水様では、いざというときに不安が残りますし、夜行様は論外です」 「なので、適任は兄様しかおりません。ここを譲るつもりはありませんので、どうか覇吐様も、お聞き分けください」 「……? 何を言っているんだ、おまえたち」 「おい、咲耶……」  俺たちの会話に不穏なものを感じたのだろう。二人が目を眇めながらこっちを見ている。 「おまえ、なに考えてんだ。どうもさっきから、この野郎と一緒に含みがあるような態度が気に入らねえ」 「まさか咲耶、俺を妙なことにでも巻き込もうと思ってんじゃねえだろうな? 言っとくが、ごめんだぞ」 「いったいどうしたというのだ? 何かあるのか?」 「ええ、それはもう」  あからさまに警戒してる兄貴と、きょとんとしている龍水を見て、咲耶は可笑しそうに肩を震わす。  そんで俺はというと、正直結構困っていた。  こんなもん、一人で充分だっつーのに、女ってやつは…… 「兄様、これは咲耶にとって、とても真摯なお願いです」 「どうか今から、覇吐様と一緒に竜胆様を攫ってきていただけませんか?」 「なッ――」 「はあ?」  堅物の竜胆を酒席まで引っ張り出す――その状況を作るなら、まずは力ずくで行くのが一番手っ取り早いという話になったのだ。まあ、発案者は俺だけど。 「知るか馬鹿、冗談じゃねえぞ。何で俺が」 「ちょ、ちょ、ちょっと待て。一から詳しく説明しろ」 「はい、それはですね」  何の因果か、だったら兄様も連れて行けと言って咲耶が聞かない。  にこにこしながら事情を説明している様を横目にしながら、しみじみ思う。 「勘弁してくれよ……」 「俺の夜這いでどっきりヌキヌキポン作戦が……」  もういっそのこと、今のうちに一人で行っちまうべきなんじゃねえのかと、俺はかなり真剣に悩んでいた。 「……なんでこうなる?」  そりゃあこっちが一番言いたいことなんだよと、怒鳴りたい気持ちは山々だったが、もはや敵陣に侵入してるんで大騒ぎは出来ない。俺は深く盛大に溜息を吐いて、首だけ後ろの馬鹿に振り返った。 「全部、残らず、一切合切、てめえが悪い。男ならすぱっと断れ。兄貴の威厳、ねえのかよ」 「あァ、うるせえよ馬鹿野郎。それを言うならてめえだって、最初から一人で行っちまえばよかったろうが」 「咲耶は言い出したら聞かねえんだよ。一度あいつから、延々くどくど言われ続ける経験してみやがれ。何処の誰だろうと、あれから逃げられるなら頷いちまうわ」 「だいたい、てめえに信用ねえのが悪いんだろうが」 「つーより、おまえの妹が潔癖すぎるだけなんだよ」  竜胆を攫おう。じゃあ俺が行く。いいえ駄目です、覇吐様はきっとそれだけで終わらせるつもりなどありません。うん、まったくその通り。ならばお目付け役を用意します。以上、終了。実に簡単な流れがそこにあった。 『それにそもそも、皆の固めを行いたいと仰られたのは覇吐様でしょう。ならば兄様とも、打ち解けてもらわねばなりません。傍から見まして、一番ぎくしゃくしておりますよ』 『ですからわたくし、妹として友情の掛け橋になりたく思います。聞いた話によりますと、殿方とはこのような冒険を共に越えることで、絆を育むそうですし』 『まさか、嫌とは仰いませんよね? 竜胆様が求める、魂の繋がりを体現すると誓った覇吐様なら』 『咲耶は信じておりますからね』  なんてな、痛いところ突かれたんでしょうがない。一緒に夜這い、もとい人攫いに行くなんて凄ぇ嫌な絆だが、ここまで来たらもう諦めよう。賽は投げられちまったわけだし。  龍水は大反対するだろうと思ったのだが、意外にも条件付きで同意してくれた。どうやらあいつにとって、『夜行様のお望み』というのは最優先される要素らしい。 「ほら、行くぞ」  そんなわけで夜陰に乗じ、砦の最奥にある幕舎――と言うより簡易建築された木造家屋の前まで俺たちはやって来た。  無骨で質素な造りだが、これはこれで結構でかいし、田舎のちょっとした地主の家くらいはあるだろう。竜胆はこの中にいる。  戦地にある身として当然の警戒から、見張りも相当つけてるようだ。物陰からそれを観察してみた限り、これを突破するのは中々に骨かもしれない。 「参ったな。のしちまえれば楽なんだが」 「やりゃあいいじゃねえかよ。殺さなきゃ別にいいだろ」 「阿呆、そんなわけにもいかねえだろ。〈見張り番〉《あいつら》なんも悪くねえし、下手に怪我でもさせたら竜胆が怒り狂うわ」 「そんなもんかねえ」 「そんなもんだよ。おまえもちっとは平和主義になれっての。なんでも腕っぷしで通る世の中じゃねえんだからさ」 「ふん、別にそんなの俺にゃあどうでもいいが」  投げやり気味に吐き捨てて、刑士郎は俺のほうを睨んでくる。その目は胡乱げながらも苛立たしげで、現状に対する不満がありありと見て取れた。 「おい覇吐、この際だから言っとくぞ」  まあ、こいつが続けて何を言うかは、だいたい想像ついてたけど。 「俺はてめえが気に入らねえ」 「咲耶がなに考えてんのか知らねえが、俺とお友達になったなんて思ってんなら調子乗んな。固めがどうのと、こっちはそんなもんに興味なんぞ欠片もねえんだ」 「…………」 「なんだ、なんとか言ってみろよ」 「……ああ、俺もおまえと仲良くしようなんて思っちゃいねえよ」  人間、相性っていうもんがあるわけで、俺とこいつはどうもそこらへんが最悪だ。そういう奴とは、そういう関係なりの付き合いってのがあるだろう。 「けどま、今回のこれに限って言やあ俺が言い出したことだからよ。おまえ巻き込んじまったことに対する負い目があるわな。だから借りってことにしといてくれ」 「今度は何か、おまえの都合で振り回されることになっても呑みこんでやる。それでいいだろ」 「…………」 「不満か? 男同士、こういうところは公平にいこうぜ。後で喧嘩の相手しろっつーんでも、しっかり受けてやるからよ」 「……ふん」 「面白ぇ、じゃあそれにしようか。逃げるんじゃねえぞ」 「誰に言ってんだ、バーカ」  お互い失笑して、鼻を鳴らす。  面倒と言えば面倒だし、望むところと言えば望むところ。今後、嫌でも面突き合せないといけない相手に対する、これが現実的な処方だった。 『あー、もしもし。聴こえるか? どうぞ』   ――と、不意にそこへ割って入ってきたのは、龍水の〈導波〉《こえ》。 『む、駄目か、通じてないのか? おーい、覇吐ー。馬鹿スケベー』 「この野郎……」  なんで俺の代名詞が馬鹿スケベなんだよ。せめて愛欲戦士と言いやがれ。 「なんか用か、クソチンチクリン」 『ち、ち、チンチクリンだとおおおお―――!』 「あー、はいはい。もういい加減、お腹いっぱいだからそれ」  ぎゃーぎゃー喚いてるお約束を華麗に右から左へ流しつつ、極めて事務的に俺は続けた。 「こっちの状況なら、今から侵入試みるところだ。見張りが結構多いから、ちょっと手間取りそうな感じだけどな」 「ああ、それから心配すんな。誓って荒っぽいことはやらねえよ」 『ぐっ――、そうか。ならよいのだ。てっきり私は、おまえたちのことだから……』  キレて大暴れでもしかねないと思っていたのだろう。導波越しだが、あからさまに安堵している龍水の気配が伝わってきた。 『私は正直、このようなことは反対なのだが、夜行様も望んでおられるとなれば是非もない。片棒を担ぐ以上は協力してやる。ありがたく思うがいい』 「へいへい……」  こいつが付けた条件とは要するにこういうことで、つまるところ誘導役というお目付け役その二だ。 『たーだーし、竜胆様に絶対危害など加えるなよ。分かっておるだろうな、二人とも』 「だから言われるまでもねえってば。おまえ、俺をタチの悪い痴漢とでも思ってんじゃねえだろうな」 『違うのか?』 「てめえのノリは常に変質者丸出しじゃねえか」 「あー、ったく、これだからよぉ」  さっきもそうだが、こいつらまったく分かっちゃいない。しょうがないので、いっちょ講義してやることにした。 「いいか、龍水。刑士郎。まだガキで無粋なおまえらにゃ分かんねえだろうが、夜這いってのは崇高かつ高貴な大人の遊戯で、そこには厳然とした理念と規則と、そして駆け引きが存在すんだよ」 「忍び込む家を壊しちゃいけません。家人に見つかってもいけません。素早く優雅に美しく寝室まで馳せ参じ、姿勢を正して全裸正座で、姫が起きるのを待つんだよ。そして厳かに告げるんだよ」 「今宵、あなたを抱くために、我は千の山を越えて参りました。いざ尋常に、夜の立ち合いを所望いたす」 「この閨という一つの宇宙で、あなたという海に溺れてみたい」 「…………」 『…………』 「やっべえ……この決め台詞、超かっけえ」 『そうか、分かった。相変わらず頭おかしいな、おまえ』 『私が目を覚ましたとき、枕もとでそんなことを抜かす全裸男がいたら間違いなくブチ殺している』 「おい、そんなことより、咲耶はいま何してる?」 『ん、ああそれならば、玖錠の手伝いに行ったようだ。まあ、少々不安だが、それなりに期待できるのではないのかな』 「玖錠の? 手伝い? なんだそりゃ?」 『内緒だ。せいぜい楽しみにしておけよ』 『正直、私も驚いたというか、かなり意外性のある事実が判明してだな――』 「聞けよ、てめえら。キレイさっぱり俺は無視かよっ!」 「あ……」 『ば、馬鹿者、この大虚け――』 「クソが、めんどくせえ」  つい立ち上がって大声出しちまったものだから、見事に不審者丸出しで見つかっちまった。そこら中で警笛が鳴り響き、いくつも松明が近づいてくる。 『に、に、逃げろ。こんなの見つかったら洒落にならんぞ。下手をしたら第一級の謀反罪だっ』 「ああもう、ちっくしょおおお!」  まさか撃退するわけにもいかないし、とにもかくにもここは一旦退くしかねえ。 「最悪だ、てめえ。もう一人で捕まっちまえよ」  逃げる際にそんなことを言われたが、断固拒否させてもらいたい。  だって俺は、まだこれっぽっちも諦めてなんかなかったからな。  そんなこんなで。 「何はともあれ、結果良しだ」  一時は蜂の巣をつついたような騒ぎになったものの、それに乗じて見事屋内に潜入成功。期せずして得たこの幸運を、利用しない手はないだろうと考える。  再び静寂が戻ってきたのを確認し、張り付いていた天井から床に降りた。 「おっしゃ、おまえもう帰っていいぞ」 「はあ?」 「だーかーら、何を馬鹿正直にやってんだよ。おまえだって、いつまでも俺にくっついてんのは不本意だろうが」 「ここまで付き合えば、最低限のかっこはつけただろ。咲耶のやつには、途中ではぐれたとか適当に言っとけ。どうせ確かめる方法なんかねえんだし」 「おまえはあいつの勘の鋭さ分かってねえな。そんな誤魔化し、通じねえよ」 「そりゃおまえが堂々と主張しねえから見破られんだろ」 「そうかもしんねえが、なんにしろ無理だ」  俺の突っ込みに怒りだすかと思ったが、意外にも刑士郎は諦観気味に肩をすくめるだけだった。 「それにだ、ここまで来たらっつーんなら、むしろ途中でケツまくるほうが気持ち悪ぃわ。帰らねえぞ、俺は」 「はあ、なんだおまえ、もしかして真面目なのか? その顔で?」 「顔は関係ねえだろう。性分の話だ」 「きっかけがなんだろうが、やると決めたもんはやり通す主義なんだよ。咲耶がどうたらは、正味なところもう関係ねえ」 「あとはまあ、てめえに都合のいい展開なんざクソ食らえ。てなもんだ」 「はっきり言いやがるな、この野郎……」  無性にムカついたが、ここで感情的になってはいけない。務めて冷静になろうと深呼吸する。 「へえ、思いのほか堪え性があるんだな。俺ゃまたてっきり、キレやがるかと思ったが」 「てめえに都合のいい展開なんざクソ食らえ……そういうことだよ」 「そりゃまた、どうも」  咲耶がこの野郎に頼んだことは、俺の見張りであって作戦の成功ではない。ゆえに首尾がどうなろうと、最後まで俺と一緒なら任務は果たしたことになるのだろう。  屁理屈みたいなもんではあるが、こいつの中ではそれで筋が通っている。だったらさっきの言葉どおり、俺に都合のいい展開がぶっ潰れるのは大歓迎。ここで喧嘩を売れば喜んで買うだろう。そんなのは御免だ。  なら結局ここはこのまま、こいつを連れて作戦続行するしかないわけで、そうなると言うまでもなく、ヌキヌキポンは遠ざかる。 「ああ、ちくしょう」  真面目に詰んでねえか、これ…… 「諦めろ。おまえの頭で咲耶を出し抜こうなんざ身のほど知らずもいいところだ」 「全部読まれてんだよ。俺がどう思ってどうするか。結果何がどうなるか」 「あくまでおまえが俺の傍を離れなきゃあ、俺も素直に事を運ぶしかねえってか。そんでそうなりゃ……」 「ま、〈乳母日傘〉《おんばひがさ》の姫さん一人、掻っ攫うのはそう難しいことでもねえわな」 「否定はしねえよ」  竜胆は世間一般の男以上に気が荒いし、腕のほうもあれはあれでそう捨てたもんでもない。  しかしそれが、俺やこいつと比べられるものじゃないのは当たり前のことだろう。紫織や龍明のような超絶例外を除いて言えば、しょせん女は女ということ。  真剣にね、邪念なくね、咲耶に言わせればそういうノリで事にあたれば、まあ刑士郎の言う通り難しいことでもないんだよ。  だけどそれじゃあつまんねえだろうが。 「おまえ、ほんっとに諦め悪いな」 「哀れむように言ってんじゃねえよ。つか、同情してんなら協力しろよ」 「やなこった。何で俺が」 「それに哀れんでんじゃねえ。呆れてんだ」 「ああ、そうですかい」  おまえは妹のパシリかよと、普段なら嘲り笑ってやるところだが、その状況にハメられてる身としてはグウの音も出ない。  まだ完全に諦めたわけじゃないが、ここでうだうだやってる余裕もそれほどない。とにかくなんとかして、この鬱陶しいのを引き剥がさないといけないんだが、どうするべきか。 「で、御門のチビはどうしたよ? さっきから音沙汰なしだが」 「あ、知んねえよ。これ以上、邪魔臭いのに構ってられるか」 「大方あれだろ。さっきの騒ぎで母ちゃんに捕まって、尻でも叩かれてんじゃねえのかと――」  言いかけて、不吉な予感に背筋が一瞬で寒くなった。 「――やべえッ」 「あん?」 「馬鹿、ぼっとしてんな、急ぐぞコラ! 洒落にならねえ」 「何がだよ?」 「だから――」  理解の遅いアホの胸倉つかんで、今の俺たちがどれだけ薄氷踏んでるのかを認識させる。 「もう夜這いでドッキリとかヌキヌキポンとか、そんな状況じゃねえんだよ!」 「それはてめえが言ってるだけだろうが。んだてめえ、やんならやんぞ!」 「あァ?」 「おォ?」  いやもう、俺自身焦っちまって、何が何やら上手く説明できねえんだけども。 「元気がいいな、小僧ども」 「夜這いがどうだの、面白そうだな。聞かせてくれよ」  現状、この軍で竜胆に次ぐ地位のこいつも、ここに高い確率でいるだろうという、ごく当たり前のことを忘れていたのだ。 「は、覇吐ぃ~、すまぬ。捕まったぁ……」 「ああ、もう……」 「終わったな」  最悪、封印されるかもしれない。俺たちを見る龍明の微笑みは、まさしく蛙を前にした蛇のそれという風情だった。  で。 「ほう、つまり総ての元凶は夜行だと?」 「そう、そうなんだよ。俺もこんなことやるべきじゃないとは思ったんだけど、あいつがどうしてもって聞かねえから成り行きで」  俺は未だかつてない真摯さと情熱をもって、正座しながら大熱弁を振るっていた。 「つまり、こうか? おまえは夜行の剣幕に逆らえず、尻尾を丸めて奴の走狗に甘んじたと?」 「いや、違う。違うんだよ龍明。そうじゃない、そこ違う!」 「俺はね、別にね、夜行が怖いとかそういうわけじゃないんだよ。そりゃあ奴がね、すげえのは認めるよ。流石は御門の秘密兵器? あんなのを飼いならしてるあんたも含めて、一目置いてるよ。確かにね」 「だけどさあ、びびってるとか、ほら、そういうのは違うでしょ。俺様あれだよ? 覇吐様だよ? そんなちょっと強いとか凄いとか、そういうことに腰が退けちゃう奴だなんて、思ってほしくないなあ、切実に」 「びびりまくっておるではないか」  黙れクソガキ。全力で引っ込んでろ。 「これはその、なんていうか、暴の中にも法ありってやつで」 「聞いたことねえよ。そんな理論」  当たり前だろ。いま俺が考えたんだから。とにかく黙れ。俺の話を聞いてろ馬鹿。 「いきなり酒飲みたいから連れて来いとか、確かに夜行はメチャクチャだよ。強引だよ。意味分かんねえよ。変態かよ」 「変態はおまえであろうがっ!」 「そこだけは間違いねえな」 「そういうね、どうしようもない奴だとは思ったけどね、試み自体はそう悪くないと感じたわけよ。だって俺ら、出航以来ろくに口も利いてねえじゃん? 全員そろうこともなかったじゃん?」 「だったらそこらへんに対する埋め合わせをしないとさ。この先まずくなるかもしれないと俺様思ったわけなのよ。だって重要じゃん、そういうの」 「だからここは不本意ながらね、夜行の話に乗ってやることにしたわけよ。もちろん本音は反対だけど、大局的に今はこういうことも必要かなあって」 「喜々として夜這いか?」 「そう。然り――いや違う! 馬鹿言っちゃいけないなあ。あまり偏見で人を見るなよ。上に立つ者はもっと寛容に、海のように!」 「深く、そう、絆ってやつ。人を信じるって素敵だなあ!」 「ふむ、烏帽子殿の信念だな」 「だよ。一の家来として当たり前っていうか、ご主君様をお呼びに行くなら、そりゃ俺の役だろうってか」 「とにかくここは俺を信じて、黙って行かせてくれると嬉しいなあ」 「……信じられん。こいつ、まだ諦めていないのか」 「おい龍明、いつまで言わせとくんだ、これ」 「そんなこんなで諸々あって、俺の行動は至極正当なものなんだよ。だから止めちゃ駄目っつーか、止めないでよ行かせてお願いこのとーり!」 「よく分かった」 「忠道、大儀だ。烏帽子殿も喜ばれるだろう、行くがいい」 「え?」 「なッ……」 「おい、マジか?」 「無論だ」  立ち上がった龍明は頷いて、とても柔らかに微笑んでくれた。 「その壮志、なかなか感激させてもらったよ。そもそも酒宴云々は、私もやるべきだと思っていたことだ。止めはせん」 「久方ぶりに、よいものを見せてもらった。この場は覇吐に任せるとしよう」 「よっしゃおらあああああああ!」  歓喜、感激、大勝利。俺は拳を天に突き上げて勝鬨を謳う。 「ちょ、ちょ、ちょちょちょ――お待ちください母刀自殿。分かっておられるのですか、この阿呆は」 「もう自分でも何言ったのか、絶対覚えちゃいねえぞこいつ」 「なんだおまえたち、疑うのはよくないな。信じろ」 「し、しかし……」 「そうだ、信じろ。信じた者は救われるんだよ、ばーかばーか」 「くッ……」 「こいつが調子乗ってると、異様に腹たってくるなおい」 「まあ、よいではないか。後は久雅の主従の問題だ。酒宴の席で待っているから、覇吐は烏帽子殿を連れて来い」 「行くぞ、龍水、刑士郎。野暮はするな」 「し、しかし……」 「なんだ、まだ説教が足りんのか? あまりくだらんことに手間を取らせるなよ」 「なんなら咲耶にも、少々釘を刺してもよいのだぞ」 「おい」 「それが嫌なら、行くぞ」 「……分かりました」 「チッ……」 「お疲れ様でしたー!」  龍明に連れられて、不承不承という風に去っていく馬鹿どもの背中を満面の笑みで俺は見送る。  信じる。信じる。いい言葉だなあ、最高だ。  じゃあとにかくそういうわけで、色々回り道はあったもののこれからがお待ちかね、本番だ。 「いざ、尋常に――」  勝負のときと弁えて、俺は小躍りしつつ竜胆の寝室へと向かっていった。  そして…… 「こ、この向こうに……」  この向こうに、竜胆があられもない姿で俺が来るのを待っている。  驚くかな? いや驚くだろうが、きっとそれは一瞬で、不安と緊張に胸を高鳴らせながらも、上気した顔で許しの微笑みを浮かべてくれるに違いない。  ああ、すぐ行くよ竜胆。今宵覇吐は、あなたという海に溺れたい。 「俺は、君を信じてる」  誓いの言葉を謳うがごとく、俺は襖を開け放った。  その瞬間。 「ああ。私もおまえを信じている」  冷徹極まる声と共に、頭頂から爪先まで一気に振り下ろされた銀光一閃。 「おまえがこういう奴だということ。信じていたとも、予想通りだ」  あ、あ、あれー?  なんか、ちょっと、待って、痛い。  初めてが痛いのは、女の方じゃねえの、普通。 「死ね。遺体は海に流してやる」  パチンと小気味いい納刀の音と共に、なんか左右の視界が微妙にずれた。 「お、おわああ、ちょ、ちょま――なんじゃこりゃあああああ!」  痛え。血が出る。斬られてる。  洒落なってねえよ、やりすぎだろこれ。 「あれだけそこらで大騒ぎして、いつまでも眠っているような盆暗だとでも思ったか」 「いや、今はそんな説明どうでもいいから。これなんとかしないと、死ぬから俺!」 「だから死ねと言っただろう。命令だ」 「命令かよ!」 「信じているぞ、覇吐」 「どっちに」  俺が死ぬほうか、死なないほうか、満面の(氷の)笑みから予測するのは難しく、確かなことは一つだけ。 「つれえな、信じるって……」  修羅の道だよ。血飛沫すげえ。  今後、気軽い調子で口にするのはマジやばい。それは竜胆の逆鱗なんだと、そのことだけは理解できた。  今後があるかどうかは、知らないけど。 「しかし、本当に頑強だなおまえ」  しみじみと呆れたようなその言い様に、俺は憮然とするしかない。  正真正銘、真っ二つにされたわけではなかったが、かなりそれに近かった。少なくとも、瞬間的に左右がずれたのは間違いなく、それくらいはやられたということで。  未だ顔を両側から押さえ込んでいる俺のほうを、竜胆は興味津々という風に覗き込んでくる。我ながら、世界観を疑いたくなるような有り様だった。 「正直、おまえなら躱すだろうと思っていたから手加減していなかったんだが、痛むか?」 「そりゃあね、痛いですよ。当たり前に」 「不思議だな。おまえたちの身体は、私程度の剣など当たったところで撥ね返すものではないのか?」 「…………」 「油断というか、まあくだらんことに意識が向いてたせいもあるのだろうが、それにしても予想外だ。端的に、おまえ脆いぞ」 「あのなあ……」  流石に嫌気顔で嘆息する。さっきは頑強だって言ったくせに、そういうこと言われると傷つくだろ。 「ああ、すまん。別に嬲っているわけではないんだ。許せ」 「ただ、気になってな。どうも腑に落ちないというか……」 「おまえ、何か気に掛かることはないのか?」 「さあねえ」  曖昧に答えつつも、俺も実際のところ驚いていた。  完全に油断していたのは確かで、そのぶん柔になっていたというのも間違いじゃないだろう。だけど竜胆の言う通り、それにしたってこの様は脆すぎる。  たとえば刑士郎がそうであるように、俺たちの身体は常態で並外れた頑強さを持つはずなのだ。気を抜いていようが何だろうが、竜胆の剣でここまでやられることは有り得ないはず。  それでも生きているのだからやはり出鱈目とは言えるんだろうが、俺としては少々以上に鼻をへし折られた気分だった。格好悪いことこの上ない。 「分かんね。さっぱり見当もつかん」 「拗ねるな。これは大事なことだぞ」 「もし、自覚できない域で何かの異変が起きているなら捨て置けん。ここは穢土だ。西の常識など通じない」 「そりゃあそうだが、でもその理屈だと、俺は逆に強くならないとおかしいんじゃねえの?」 「むっ……」  穢土の法理が、西の存在に異常事態を起こしている。なるほど有りそうな話だが、そうだとしても俺はそこに当て嵌まらない。歪みとは、元々こちらの力なはずだ。  俺が本当に弱体化したというならそれは矛盾で、その不自然さが竜胆を悩ませている。夜這いがどうとか、そういう馬鹿を棚に上げてこっちの心配をしてくるほどに。  それ自体、ありがたいし光栄なことなんだけど…… 「どうでもいいさ。気にすんな」  傷口をくっつけていた手を離して、気楽に笑う。 「ほら見ろ。もう治ったから。大したことねえさ」 「しかし」 「なんだあ? もしかして初めて人斬ったからびびってんの? そんなことで、これから先やってけんのか」 「なんだと」  挑発が効いたのか、竜胆はむっと眉を顰めてこっちを睨む。 「そうそう。あんたはそれでいいんだよ」 「さっき、〈穢土〉《ここ》じゃあ常識は通じないって言ってただろう。だったら理屈に囚われるのもよくないぜ。考えたって分からんことを、考え続けてもいいことはない」 「もう単純に自慢しちゃえよ。いざとなりゃあ俺より強ぇって、噂が広まりゃ大将の株も上がるってもんだ」 「おまえの名誉を踏みつけてか。馬鹿を言うものではない」 「臣下に恥をかかせて得られる武勇伝などいらん。私の誉れは、おまえたちの誉れでもなくてはならない」 「実情がどうであれ、坂上覇吐は神楽の益荒男だ。それが私程度に斬られたと、そんなことを喧伝していったいどうする。宗次郎や刑士郎たちの立場もあるまい」 「おまえの評価は、今やおまえ一人のものではないのだ」 「と言っても、まだ分からんか、おまえには」 「うーん、どうだろ。分かるような分からんような……」  つーか、夜這いに来た賊を手打ちにするのは当たり前のことなんだけどな。どうせ俺は他の奴らからすりゃ油断できない危険物みたいなもんで、化外との本格戦を前に歪みの一人をぶった斬ったとなれば、士気も当然上がるだろう。  俺の名誉? 宗次郎らもひっくるめて、その他大勢が何言ってようが痛くも痒くもねえし別にいいよ。俺が俺を評価してれば問題ない。 「何を考えているのか分かるぞ、覇吐。おまえからは私が奇異に見えるのだろうが、私からすればおまえたちは皆同じだ」 「同じ?」 「そう。歪みであろうとなかろうと、等しく奇異に映っているよ。そこに何の違いもない」 「というわけで、おまえ一人を特別に扱うつもりはない。良かれ悪しかれ、どういう意味でも。そこから変わらん限りはな」 「不届きを働いた罰については、先のでよかろう。しょせん個人同士の問題だ。大仰に触れ回るようなことでもない」 「これに懲りたら、二度と許可なく私の寝室に踏み入ろうなどと思うなよ」 「へーい」  じゃあ許可さえ貰えばいいのかなと思ったが、それを口にするのはやめておこう。またばっさりやられそうだし。  竜胆は咳払いをしつつ立ち上がると、居住まいを正して俺を見る。 「それで、おまえは気にするなと言ったが、私はやはり気に掛かるのでな。龍明殿に訊いてみよう。あの方なら何か知っておられるやもしれん」 「ついてくるか、覇吐」 「あ、や、ちょっと待て」  危ねえ。うっかり当初の目的を忘れてたよ。 「龍明なら、今ごろ――」 「なんだ?」  と、訝る竜胆を前にして思い留まる。  ここで馬鹿正直に言ったところで、はたしてこいつは頷くのか。いいや、まず間違いなく否だろう。何せ堅物が服を着て歩いているような女だし。  だったら余計なことは黙ったまま、このまま連れてったほうが手っ取り早い。もう、全部勝手に夜行と龍明がやっちゃったということにして…… 「おまえ、何かよからぬことを考えているだろう?」 「ばっ、おま――何言ってんだかそんなことねえですよ!」 「本当に?」 「誓ってマジ」  だって龍明に用があると言い出したのは竜胆のほうなんだから、こりゃ不可抗力ってやつだろう。もっと大袈裟に言えば運命みたいなもんだ。 「……まあいい。何か知らんが、乗ってやる。私を怒らせたら怖いことになると、その身で体験したわけだしな」 「龍明殿が何処におられるかは知っているのか?」 「ああ、そりゃ一応」 「なら案内しろ。もう夜も遅いし、兵に要らぬ緊張を強いたくないから忍びになるが、それくらいの骨は折れよ」 「分かってるって」  ぞろぞろ護衛を引き連れて酒など飲めないのは当たり前だ。ゆえに出る際、警護の連中の目を晦ませる必要があるのだが、そのくらいは俺一人でなんとかなるだろ。 「なんだか楽しそうだな、おまえ」 「そりゃあな。竜胆は違うのか?」 「別に、こうするべきだと思っているからしているだけだが、あまり褒められた真似ではないのは自覚している。そういう意味で、楽しむようなことではない」 「ただ……」  と、考え込むように一拍置いて。 「こういう経験は初めてなので、何やら落ち着かぬのは確かなようだ。これを浮き足立っていると言うのなら……」 「あるいは、そういうことかもしれないな」  照れたようなその苦笑に、俺は胸を撃ち抜かれたような気分になり。 「どうした?」 「や、なんでもねえって」  もう一つ、こいつに言わなきゃいけないことがあったのを、綺麗さっぱり忘れていた。 「――――――」  不意に奇妙な違和感を覚えて、宗次郎は空を見上げた。  その先に、不思議なものは何もない。目にも眩しい銀盤の満月が、冷たく冴えた光を地上のものに注いでいるだけ。今まで何度も見てきた通り、ごく当たり前の月夜である。  いや、〈穢土〉《ここ》が鬼の異界であることを鑑みれば、それこそが最大の異常と言うべきなのかもしれないが…… 「どうしたね、宗次郎」 「呆けたように。魅入られたかな?」 「……いえ、別にたいしたことではないのですが」  傍らからの問いかけに、かぶりを振って嘆息する。覇吐らの悪ノリに付き合うつもりはなかったので、この場に残った彼だったが、結果として待つ間、夜行の相手をする羽目になったのは失敗だったのかもしれない。 「なんとなく、誰かに見られているような気がしたので」 「ほう」  面白がるようなその声に、しまったと思ったときにはもう遅い。 夜行は笑いながら、弄うように宗次郎へと語りかける。 「つまり、魅入られたのだろう。私の指摘は正しかったわけだ」 「魅入られた、と言いますが」  いったい、何にという話だ。ここには今、彼ら二人以外の誰もいない。 「揚げ足取りなら、勘弁していただきたい。ただの気のせいですよ」 「ふむ、ならば言うが、おまえはあれの視線に気付いたのだろう?」 「あれ?」  と、夜行が指した先を視線で追えば、そこにあるのは空の満月。やはりからかわれているだけのようで、宗次郎は投げやりに返した。 「月は月でしょう。目ではない」 「いいや、あれは〈天眼〉《め》だ」 「…………」  それは断定。しかも宗次郎とは、また微妙に異なる意味あいを込めているようにも感じられた。 「覗いているよ、こちらをね。凍るように鋭い目だ。おお、背筋が寒い。この私ともあろう者が。ただ事ではない証だよ」 「おまえの目も、相当に優れているようだ宗次郎。単純な剛性では覇吐や刑士郎に一歩譲るが、その眼力、その感性、群を抜いている。自覚したほうがいい」 「超越した域にある感覚で捉えたものを、気のせいなどと断じるのは感心せんな。賢い行為ではない」 「おまえは今、あれに気付いていたし魅入られていた」 「分からぬことを」  夜行の言い様に、何か背筋がざわつくような気分になったが、益体もないと笑っていなす。この男は、暇つぶしに自分で遊んでいるだけなのだ。感覚を信じろと言うのなら、それこそが現状における最大の勘である。  そのまま無視してもよかったが、遊ばれ続けるのも癪だったので、宗次郎は少し意地の悪い問いを投げることにしてみた。 「穢土では時間が止まっていると、あなたはそのように仮定していましたね。ではこの昼夜の流転、どう説明付けるのです?」 「まさか〈月〉《あれ》を目と言った冗談をそのままに、巨大な怪物の瞬きだとでも言うつもりではないでしょうね」 「ほう、流石に鋭いな。その通りだ」 「なんですって?」  宗次郎としては思いつく限りの戯言を口にしたつもりなのに、夜行は至極当たり前のように肯定した。当てが外れるどころか馬鹿馬鹿しすぎて、もはや苦笑すら出てこない。  それを見て、夜行は嘆くような声で続ける。 「なぜ、自ら言っていながら信じない? 力ある者の言葉には、それが戯れ言であろうと〈咒〉《しゅ》がこもるぞ。迂遠なその思考回路は、いつもの直截なおまえらしくない」 「言い方を変えようか、宗次郎。おまえは見抜いていたからそう言ったのだ。逆に見抜いていなければ、先のような言葉は出ん」 「〈月〉《あれ》は、つまりそういうものだ」 「…………」 「とまあ、些か戯れがすぎたかな。そう怖い顔をするなよ。暇だったのでな」 「おまえも退屈そうにしていたし、時を忘れるような遊びをしてみた。ほら耳を澄ませよ。時間を操る程度のこと、そう難しくないと分かっただろう?」 「あなたは……」  怒るべきか、呆れるべきか、それともいっそのこと帰るべきか……  諸々悩ましいところだったが、言われた通り耳を澄ませば、なるほど確かに時を操られた感は否めない。酒宴とやらを始めるべく、戻ってきた者らの声と気配が近づいてくる。  つい先ほどまで、やることもなかったのでぼんやり空を見ていたのが嘘のようだ。まったく業腹な話だが、終始手の平の上だったということだろう。 「ただいま帰りましたですの夜行様。周囲、異常なしですの」 「今宵は何事もなさそうですね。少なくとも付近一帯には、何の兆候もありません」 「ご苦労。ではおまえたちも楽にしろ。これから覇吐の意向でな、皆の固めとして酒宴を開くことになるらしい」 「えー、それはまあ、あいつにしては粋な企画と思うけれども」 「皆というと、全員ですか?」 「無論だ。凶月もおるが、逃げるなよ」 「ぐっ……」 「……分かりました。ご命令ならば、是非もない」  見るからに嫌そうな二童子の様子が可笑しくて、ようやく宗次郎は小さいながらも笑みを漏らした。自分より夜行に遊ばれている者を見て、多少は気も紛れたらしい。 「あー、なんですの宗次郎。すごいヤな感じですの。腹立つですの」 「察するに、同情はしますが、それでも人の不幸を笑うのは感心しませんね」 「いや、申し訳ない。そういう意味ではなく」  他にどういう意味もないのだが、絡まれたくないので再び宙に視線を逃がす。それを見て夜行が笑う。 「やはり、無意識に気になるのかな?」 「しつこいですよ、夜行さん」  天空には巨大な月。穴のように、目のように、穢土の異物である自分たちを見下ろしている。  あれはただの天体だ。他に何の意味もないし、そもそも仮に夜行の戯言が真実ならば…… 「そんな怪物に、僕らが何をしようと勝てるわけがないでしょう。あなたがどれだけの手練であろうと、それを知ってそんな余裕でいられるわけがない」 「ああ。現状、打つ手などないからな」  軽口に軽口。そのまま詩でも吟ずるように、夜行は不吉なことを口にした。 「ゆえに一度、皆々死ぬる必要があるのだよ」  その言葉が不可解すぎて、料理を持ってやってきた紫織と咲耶の声も聞こえない。  もう一度、宗次郎は何かを確かめるように頭上の月を見上げていた。  ともあれ、酒宴自体は滞りなく始まるらしい。 「あ、あー、その、皆々、準備はよいだろうか?」  遠慮気味かつ怯えが多分に混じった声で、龍水がぎこちなく音頭を取る。  本来、それはこいつの役じゃないんだが、主賓がまったく役に立たないのでしょうがない。以下は消去法の連続で、こいつがやることになってしまった。 「ほ、本日、この場を得られたことを嬉しく思う。いや、正直なところちょっと反対だったりもう止めようとか思っていたりするのだが、こうなってはしょうがないというか私のせいではないというか」 「お願いなのでもう勘弁してくださいという気持ちを是非とも汲んでいただきたく思う御門龍水、春の日の憂鬱――でも夜行様のために頑張りますと、それだけは主張したい!」 「長ぇよ」 「まあ兄様、これも余興と思われて」 「龍水ー、声小さいぞ気合い入れろー」 「あなたは逆に、もう少し控えてください紫織さん」 「この程度の場も仕切れんとは、やれやれ」 「先が思いやられるですのー」 「夜行様は、……まあどうでもいいんですね」 「そうでもないが、哀れであろうが。聞いてやれよ」 「と・に・か・く」  ようやく諸々吹っ切ったのか、やけっぱち気味に龍水が叫ぶ。 「唱和しろ虚けども! 我らが御大将、久雅竜胆様の栄光に――」  ギロリと、その瞬間に凄まじい視線が飛んだが、龍水は目を瞑って無視していた。  おお、すげえ度胸だ。並じゃねえ。後でその勇気を褒めてやろう。  俺に後なんてもんがあるならの話だが…… 「か、か、かんぱーーーい」 「かんぱーい」 「――貴様ら全員ふざけるなァッ! 」  唱和の直後に、〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈で〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈十〉《 、》〈二〉《 、》〈度〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》落雷がぶちかまされた。 「またかよ」 「そろそろ飽きて参りましたね」 「どうやらまだ甘いらしいな。――紫織」 「あー、りょうかーい」 「ちょ、ま――、貴様本当にいい加減にせんと、もがががががが」 「はーい、飲ーんで飲んで飲んで、飲ーんで飲んで飲んで、飲ーんで飲んで飲んで」 「飲んで♪」 「――ごはァッ」 「いきましたかね?」 「逝ってはいないと思いますが……」 「ふむ、そろそろ限界か。思いのほか烏帽子殿は下戸のようだな」 「いや、夜行様、すでに何杯飲まされていると思っているのですか」 「一升の杯で十二杯一気だろう? 何のこともあるまい」 「死にますから、普通。竜胆様の体重の半分くらいの量ですよ!」 「だが、ああして生きている」 「き、貴様ら、よくも、やってくれたな……こんなことをして、許されるとでも……」 「つっよーい、姫さまー。紫織とってもびっくりしちゃ~う」 「見てるこっちが先に酔っ払ってきそうですの~」  ていうか、紫織と犬はもう完全に酔っ払っている。何度も何度も仕切りなおしをしている間に、竜胆の煽りで酒ぶっ被っていたこいつらはすでにやばい状態だった。  なのに当の竜胆は、まだギリギリだが理性らしきものを保ち続けているようで、もはや凄えと言うよりおっかねえ。 「仕方ないな。十三度目の正直というやつに期待しよう。もう一度最初からだ、龍水」 「え、ちょ、またですか?」 「無論。おまえ以外に誰がやるのだ?」 「で、ですが……」 「龍、水、貴様……覚えて、いろよ……」 「ぎゃー、やめてください。もうできません。殺されますー!」  とか、まあ。そういうことで。  この状況の半分くらいはたぶん俺のせいなんだが、あまり考えたくないので現実逃避をすることにした。  いやー、酒うまいなあ。 「そう恨めしそうな顔をするな、烏帽子殿。誰が悪いかと言えば、御身に事情を話さずここへ連れてきた覇吐が一番悪かろう」 「こやつが臣として主君を説得しておらぬから、我々としてもこのような実力行使をせねばならなくなったわけだ」 「ぶほおおおお!」 「なんだ、汚ないな。吐くなら他所でやれよ」 「てめえ、こら、何をさらっと全部俺のせいにしてんだよ!」 「私は事実を言っただけだが」 「は、覇吐……そうだ、元はといえば、すべては貴様が……」 「いや鯉口切るな。話し合おう。てかおい、十三杯目持って来い!」 「悪いがそれは無しだ。十三という数字は、何やら無性に腹が立つので使いたくない」 「同感です。なぜだかそういう気がしますので、ここらが潮時というやつかと」 「俺もそう思うぜ。つーかいい加減飽きてんだよ」 「竜胆様も、もう一暴れされたら落ち着かれるでしょうし」 「というわけで、すまん覇吐。死んでくれ」 「発案者として責任を取るのが当然の筋かと」 「まあ、おまえは死にたくても死ねん身のようだから構うまい」 「構うよ! なに勘違いしてんだてめえ! 俺のはそんな都合のいいもんじゃなくて――」 「爾子ちゃーん、あれやってあれ」 「吹っ切って放つ、さんびらり」 「よおおおぉぉ――」 「はッ!」  普通に、当たり前に攻撃されたら、不死身でもねえし撥ね返したりもできねえんだってば。 「とまあ、些細な漫談はあったものの、落ち着くところに落ち着いたようで何より」 「些か強引だったのでご不興を買ったようだが、それも浅薄ゆえの不調法だと、ご寛恕いただければ幸いだ、烏帽子殿」 「……ああ、分かった。もういい」  苦虫をまとめて十匹噛み潰したような、もう好きにしろと言わんばかりな竜胆の口調が、現状を端的に説明していた。 「私に騙し討ちをかけたことは、覇吐に免じてさし許す。だがこの場を認めたわけではないのだぞ。分かっているな?」 「もちろん。他の兵らを差し置いて、我らだけが酒宴に興じるなど、御身にとっては度し難い暴挙でありましょう」 「単純に、貴重な兵糧を私的に浪費したという面においても、軍律に照らし合わせば重罪は必至」 「そうだ。ゆえに皆、後で罰する。そのことさえ弁えていれば、今や私も同罪なわけだし……」 「ねー、宗次郎ー、なんで私が傍に寄ったらすぐ逃げるのー? 嫌いなのー?」 「も、申し訳ありませんが、勘弁してください紫織さん。今のあなたは、その、色々と無防備すぎる……」 「にゃはははは、照れてるのー? 可愛いー」 「だ、抱きつかないで!」 「今、少しの間だけ、目を瞑って、やらんでも、ない!」  バキリと、杯ごと噛み砕くような勢いで、一気に酒を飲み干す竜胆。あまりに煽り方が男前すぎて、さっきとはまた別の意味的に近寄りがたい。 「注げ、覇吐」 「あ、うぃっす」 「まるで男芸者ですね……」 「すっげえダサいですの。見てらんないですの」 「じゃあ見てんじゃねえよ」 「まあ、よいではないか。大虎の生贄を買って出てくれているのだ。英雄的行為だろう」 「で……」 「あの、母刀自殿も、少し量が過ぎるのではないでしょうか。何やら、心なしかお顔の色も尋常ではないような……」 「まったく、おまえは小五月蝿い奴だな。あまりごちゃごちゃ抜かすなよ。興が削げる」 「おまえはあれか? 実は私が嫌いなのか? 年寄りの楽しみに水を差すなど、残酷だとは思わんのか? 早く死んでほしいのか?」 「い、いいえ、そんなとんでもない。龍水は、母刀自殿を尊敬しておりまする」 「だが、目の上の瘤ではあろうが。よいよい、隠すな。分かっている。師というものは、どうしようがそのように見られるものだ」 「まあ、私の師は心底腐った男だったが……」 「また始まった……」 「あの愚痴、始まると長いんですのよ」 「何か言ったか、爾子。貴様余興代わりに、火輪でも潜ってくれるのか?」 「勘弁してくださいですの…」 「……あれも、結構酔ってんな」 「いつも厳格なお二方が、一番正体をなくしておりますね」 「覇吐、注げ」 「もう飲んだの」 「竜胆様、あまりお酒ばかりをお召しにならず、こちらのほうも」 「ん、ああ……なんだ、旨いな。これはおまえが作ったのか、咲耶」 「多少は。ですが実際のところ大半は……」 「わったしでーす!」 「はあ?」 「なに?」 「嘘でしょう?」 「いや、どうやら本当らしい。私も正直、驚いた」 「これはこれは、意外な一面があったものだな」 「兵糧用の物資など、保存を前提にした味気ないものが常だというのに、それでここまでのものを用意するとは、なるほど、なかなか」 「紫織はいいお嫁さんになれそうですのね。他の連中は女の風上にもおけないけれども」 「……なに?」 「ほう……」 「爾子様、もう一度仰ってください」 「やーやーやー、まあいいじゃない。俺は全員守備範囲内よ?」 「黙れ」 「死ね」 「すっこんでいてください、覇吐様」 「おいなんだよこれ、なんで俺が怒られてんだよ」 「僕に同意を求めないでください。あなたが悪い」 「そんなことより、今の流れでなぜ私を抜かしたのか貴様らに問いたい」 「入れてほしかったのかよ……」 「私はたまに龍明殿が分からなくなる……」 「どうなのだ?」  どうもこうもねえっつーか、そんなことはともかくだ。 「その、なんだ。それなりに、どいつも楽しんでるようじゃねえの」 「なあ竜胆、こういうのも、やってみればそう悪いもんじゃあねえだろう?」 「……ふん」  よほど紫織の料理が気に入ったのか、むくれながらもぱくぱく摘む手は止めず、竜胆は鼻を鳴らす。 「何を言われようと、理性が怪しくなるような場は性に合わん。恥をかくし、不快な目にも遭うし、驚かされるしで身が保たない」 「そして何より腹が立つのは、そこであった物事を正確に覚えていられないということだ」 「人は忘れるべきでないことを、忘れてはいけない」 「ふーん?」 「それは、つまり……」 「烏帽子殿は烏帽子殿なりに、この場を得難い瞬間であると思っていらっしゃるようだ。そう解釈してよろしいか?」 「ああ。おまえたち一人一人の罪状を、しっかり記憶していなければならないだろう。当然のことだ」 「まあ」 「意外と根に持つ人ですね」 「その上で」  言葉を切ると、まず竜胆は俺のほうに目を向ける。また何か怒られるのかと思ったが、すぐに全員へ視線を戻すと、静かに言った。 「この愚臣の思いつきに、付き合ってくれたことには礼を言う。これはこれなりに、私のことを慮ってくれたのだろう」 「色々心得違いはあるものの、確かにそう悪いものでもなかったよ」 「だから……」  そのとき、風が吹いていた。ここが鬼の大地であることなど忘れるような、清涼で心地いい風。  他の奴らはどうだか知らんが、少なくとも俺は、このときのことがやたら深く印象的で…… 「今後こういうことは事前に話せ。今までよりは考慮してやる。分かったな?」  了解の意を示す全員を前に、次回の予約もしたくなった。だってこれ一回で終わらせるのは勿体ねえしよ。 「なあ、だったらちょっといいか?」 「実は俺、今いいもん持っててよ」  伊達男の嗜みとして、出航前になんとなく持ち込んだ物だったんだが、これは使えると思ったので背から取り出し、地面に立てる。 「これは……」 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿とか言うなよ」  そういう突っ込みは期待してない。俺が西から持ち込んだ桜の枝はまだ〈煙管〉《キセル》程度の大きさだけど、きっとそのうちでかくなる。  根を張って、枝を伸ばして、俺らが穢土を征するように。 「この〈東征〉《いくさ》、勝って帰ったらまたここで、〈桜〉《こいつ》見ながら派手に飲もうぜ。祝勝の宴だ」 「なるほど。中々悪くない。私としても異論はないが」 「あんた、こういうときだけいいこと言うよね」 「結局、今回はお花見というわけにもいきませんでしたし」 「化外を祓えば、この奇怪な季節も流れるようになるのだろうか」 「知らねえし、どうでもいいが」 「まあ、いいでしょう。断る理由もありませんので」 「乗らせていただきます」 「賛成ですの」 「とのことだが、どうされる烏帽子殿」  皆の視線を受け止めて、しばらく沈黙していた竜胆だったが、やがて頷く。 「いいだろう。その件、私が確約する。だからそれにあたって言わせてもらおう。まずは夜行――」 「おまえは正直、この中で一番わけが分からん。何を考えているのか、何を見ているのか、そもそも何者なのかと言いたくなるほど、あからさまに怪しすぎる」 「だが、淡海で我らを救ってくれたのは揺るがぬ事実だ。その行いを信じよう。おまえが見据えているものを教えてくれ」 「なに、さして大したことではありませぬ。ただ、蝉を探しているだけのこと」 「私は御身らを崇敬している。皆、私にないものを持っており、私に出来ぬことをやっているとね。ゆえにこの摩多羅夜行、その末席に加わりたいと切に望む所存なり」 「これが偽りない私の〈赤心〉《たましい》。御身に従おう、烏帽子殿」 「相分かった。ならば龍水――」 「おまえの〈許婚〉《おとこ》はこの通り、甚だ不可解で危険だぞ。そして東征もまた然り。覚悟はあるか?」 「愚問です、竜胆様」 「私は自分で考え、自分で選んでここにいます。覚悟という意味、神楽で竜胆様に教わりました。それを汚したくはありません」 「望むのは、御門龍水として今ある諸々、それに恥じぬ私であること、ただ一つ。そのために我が魂というものを懸けましょう」 「では宗次郎、おまえは冷泉殿の家臣だが――」 「お気遣いなく。僕とあの方の関係は、おそらくあなたの思う主従というやつではないでしょう」 「今も昔もこれからも、僕から言えることは一つだけです。この天下に、壬生宗次郎こそ最強の剣であること。たとえ何処の誰であろうと、それが強者であれば斬るのが王道」 「ゆえに冷泉様にもあなたにも、この場の誰にも何かを捧げているわけではないということ。その旨、ご留意願いたい」 「ああ、分かっているさ。構わんよ。心が虚ろでないのなら、おまえの剣には熱が宿る。それを自覚しているなら何をか言わんや、この首いつでも狙うがいい」 「紫織はどうだ? おまえも大概分からん奴だが、料理が得意とは驚いたぞ。いったい何を考えてここにいる?」 「内緒、てわけにもいかないだろうし、じゃあちょっとだけ語っちゃうとね」 「私は花嫁修業をしているの。全部、みんな、それの一環。分からないだろうし、分からなくていいけど、玖錠紫織には大事なのよ。それが私の魂ってことで」 「なんなら今度、家事全般の修行に付き合ってあげてもいいよ?」 「それは全部終わった後でな。ああ、楽しみにしているよ」 「咲耶、おまえは自分の立場を分かっていような?」 「もちろんです、竜胆様。ゆえだからこそ、わたくしは穢土の災厄を祓いたい」 「正直申しまして、もう嫌なのです。自由というものが欲しいのです。好きな所へ行きたいし、好きなものを諦めたくない」 「そして、ええ、何よりも……わたくしの星が愛する殿御の禍となるなど許せない。そのような凶月咲耶でしか在り得ぬ己を、この東征をもって殺したいと願うのです」 「ならば死ぬなよ。おまえの命はおまえだけのものではない」 「聞いていて恥かしくなるような口上だったが、兄としてはどう思うのだ、刑士郎」 「どうだろうが関係ねえだろ。あんたに話すような義理はない」 「ただ、妹のことは俺が一番分かってる。その上でこうしてるんだ、余計なことはもういいだろう。そっちで勝手に判断してくれ」 「俺は単に、このクソったれな歪みの元凶ってやつを潰してえだけなんだよ。〈凶月〉《おれ》のためにな」 「ではそうするがいい。誰のためでも、道を見出しているなら貫き通すべきなのだ。私の幕下にある限り、歪みがどうだの外野に戯言は一切言わせん」 「爾子、それに丁禮は――」 「我らは夜行様に従うのみです。お気遣いなきように」 「烏帽子殿は律儀ですのねー。爾子たちなんて、放っといてもいいですのに」 「そういうわけにもいくまいよ。おまえ達の働きにも期待している」 「それで、龍明殿――」 「私もか? 困ったな。正直、手のかかる小僧どもの世話焼き以外、さして期するものなどないのだが……」 「まあ、強いて言うなら遣り残した仕事だ。これを片付けなくては往生できん。何せもう老体なのでね、後悔というものを皆より多く持っている」 「説得力がまったくないな。あと百年は生きそうなくせに」 「いや、そもそも誰一人として死にそうではないよ」  皆の決意表明を訊いて回った竜胆は、そう柔らかに苦笑する。  どいつも好き勝手なことを言うばっかりで、きっと呆れているんだろう。だがそれと同時に嬉しそうで、頼もしい奴らだと思っているのが俺には分かった。 「それでは覇吐、最後はおまえだ」 「何を思って今ここにいる? 締めに、私を唖然とさせるような放言を聞かせてくれ」 「お安い御用だ」  俺の理由。俺の願い。坂上覇吐が目指すものなら、天下に一つっきゃねえだろう。  胸を張って堂々と、それをこの場で宣言した。 「おまえを俺の女にすることだ、竜胆」 「惚れたからな。前にも言ったろ」 「うわー」 「まあ、好きなように頑張ってくださいとしか言えませんが」 「よいではないか。覇吐らしい」 「身のほど知らずなところがでしょうか」 「て言うより、清々しい馬鹿なところが」 「らしいですか。同感ですね」 「わたくし、感想は控えさせていただきます」 「夢見んなって言いたいんだろ、咲耶」 「というのが、我々の総意と思え」 「うるせえなあ。別におまえらの反応なんて興味ねえしどうでもいいよ」  俺が俺の気持ちをどう判断するかは俺の勝手で、俺の自由だ。外野の意見なんぞは一切知らん。  唯一例外があるとすれば、そりゃ竜胆しかいないわけで。どう応えてくれるのかと思っていたら、たった一言。 「戯けめ」  ……ああ、はい。そうですか。なんとなくそんな風に言われるような気はしてたけど、実際体験するときっついなおい。 「冷泉殿にも言ったことだが、私は誰のものでもない。そういう口振りは好きになれん」 「だが……」  そこで、口調が微かに変わる。今までの冷ややかなものから、どこかはにかむような響きへと。 「私の伴侶となる者は、真の益荒男と決めている。ゆえにおまえがそうだと言うなら、それを示してくれればいい」 「願いを叶えたいのなら、その旨留意して今後も勇戦するがいい」 「よいな、覇吐」 「…………」 「ん、どうした?」 「お、おう。いや、なんでもねえって」  びびった。あんまり綺麗に微笑むもんで、声が裏返っちまったよ。 「鼻の下が伸びておるぞ、みっともない」 「うるっせえな馬鹿、ほっとけよ」 「とにかく、皆もそういうことだ」  咳払いを一つして、手の杯を掲げ持つ竜胆。自然と他の奴らもそれに倣った。 「私が狂気と言われているのは、今さら語るまでもないだろう。ただ誤解しないでもらいたいが、別に各々が己のために生きることを、頭から毛嫌いしているわけではない」 「それはそれで重要だし、我が身を救えぬ者に他者など救えぬと思っている。自分を嫌いな人間に、誰かを愛することなど出来ぬとも」 「少し前まで、私はまさにそれだった。しかし今は違う。おまえたちがいる。そしておまえたちも、今やもう一人ではない」 「私の主張に染まれとは言わん。だが各々、願うものが至高の輝きを持っていると信じるのなら、それが空虚なものであるはずはない。そこには必ず、魂があるのだ」 「そのことだけは、どうか見失わないでくれ。そして誓おう、ここに勝利を」 「勝利を」  示し合わせることもなく、まったく同時に全員の声が重なった。  そしてそのまま、皆が手の杯を一気に干す。 「これをもって、我らの固めの儀を終える。皆々、誠に大儀であった!」 「よっしゃああッ!」  まだ小さいが、確実にここへ根を張った桜を囲んで、俺たちの固めは終わった。あとはこの戦に勝利して、凱歌と共に生還するのみ。  それぞれ、まだ思うところはあるんだろうが、紛れもなくこの一瞬だけ、俺たちは一つとなっていたに違いない。  だから―― 「―――ぬ?」 「え―――?」  続く異常の始まりを、皆がまったく同時に察知することが出来ていたのだ。  それは月。見上げた全員の視線の先には、ぎんと凍るような満月が俺たちを見下ろしている。 「……なんだ?」  それだけ、本当にただそれだけなのに、なぜか全身の毛穴が開く。呼吸が止まり、心臓も止まり、総ての音が消えていく。 「兄様……」 「こりゃあ……」  そして気付いた。〈違〉《 、》〈う〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈月〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》。 「目……」 「来たか」  文字通り、穢土を覆う何者かが、あの目で俺たちを見ているのだ。  まるで先ほどまでのやり取りが、あれにとっての逆鱗だったとでも言うように。 「全員、退がれぇェッ―――!」  竜胆が叫ぶと同時に、世界が一気に変転した。 「  」 「 」 「 」 「 」 「」 「」  声――には違いないが音ではない。まるで俺という存在の芯、対象の中核を直接握って潰すような、それは別位相からの強制介入。  轟く無音の衝撃に、凄まじいまでの咒波嵐が月から放射状に広がっていく。  その規模も密度も桁違いだが、これが何かは知っていた。俺たちのうち何人かには、慣れ親しんだものだった。 「歪み……」 「でも、なんて強さ……」  次元が違う。格が違う。俺たち個々の身に宿り、些細な異常を起こす陰気などとは、比較にならない極大の歪みがそこにある。  その差がいったいどれだけあるのか、単純な質量にしても一目瞭然すぎるだろう。  天に浮かぶ太陰すら、あれにとっては瞳にすぎない。あれの巨大さに比べれば、俺たち全軍合わせたところで〈蟻螻〉《むしけら》の域にすら届かないのだ。  そう本能的に直感するほど、規格外すぎる異界の波動――いいや、覇道。  総て塗り潰してやると言わんばかりのその念は、まさに征圧の力そのもので―― 「 」 「 」 「」 「 」  言語として認識できない別世界からの妖言は、しかしなぜか、そこに込められた想いだけは感じ取れた。 「 」 「」  底抜けの悲憤。狂わんばかりの慟哭。そして―― 「」 「」  西の諸々、死に絶えろという極限の憎悪に他ならなかった。 「    」 「 ――  」  それは月蝕と表現していいのか分からない。だが紛れもなく、いま太陰は塗り替えられた。  天に浮かぶのは、もはや完全に生物の眼球そのもの。比喩表現などでは無論なく、正真正銘そうでしかない大異常が妖麗夢幻と顕現している。  物理的に降り注ぐ零度の殺意は、紅の色と匂いを帯びていて―― 「血の雨……」  いいや、これは血の涙だ。土砂降りに穢土と俺たちを濡らす液体は、今もあの眼球から溢れ出ている。ならば雨とは言えないだろう。  その一滴一滴、残らず総てが、あれの涙であり化外そのもの。俺たちを抹殺するべく解き放たれた軍勢に他ならない。 「だったら……」  おい待て。この状況は―― 「――夜行!」 「御意に。言われるまでもなく」  俺が危険に気付くのとほぼ同時に、夜行と龍明が反応していた。目も眩む閃光と共に、降り注ぐ血涙が飛沫をあげて弾け飛ぶ。 「これは、符界……?」 「てめえ、こんなもんいつの間に……」 「備えあれば、というやつだ。敵地で何の防御もせず、漫然としていたわけではないのだよ」 「ここと、そして本陣まで、事前に壁を用意していた。皆、今のうちに血を拭え」 「一定量集まらせると厄介だぞ、見るがいい」 「あッ―――」  夜行が顎で示した先に、皆の視線が集中する。  符で区切られた境界の向こう側、ここから弾き飛ばされた血が集まって異形の存在へと変じていく。その様はまさに産み落とされた蜘蛛そのもので、一つ一つが大熊の体格と変わらない。  それが数百、数千以上、無尽蔵かと思えるほどに増え続け、牙と爪を噛み鳴らしている。あの涙が降る限り、この増殖は終わらない。 「そう焦るな。あの程度の奴らごときに、夜行の符界は突破できん。まだ時はある」 「とはいえ、いつまでもこの状況を続けるわけにもいきますまい。どうされるか、烏帽子殿」 「……何にせよ、あれをどう撃退するか、か」  未だ衝撃覚めやらぬ中、竜胆は呻くようにそう呟く。きっとその頭の中では、様々な計が浮かんでは消えているのだろう。  全員、大将の決定が下るまでは動かない。先の海戦のときとは違い、皆が竜胆の指示を待っていた。  ――が。 「」 「」  天を揺るがすその声が、またしてもこちらの初動に先んじていた。 「 」 「    」 「 f」 「、、、。」  言葉の意味は、相変わらず分からない。異世界の言語は俺たちの理解を超えていて、その内容を認識することは不可能だったが…… 「  」 「    」 「   」 「」 「 」 「」 「」 「? ? ?」 「、。、。」 「。。。」 「」 「。」 「」 「」  男の声、女の声、それが〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈八〉《 、》〈人〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》呪いの斉唱だということだけは感じ取れた。 「   」 「   、」 「」 「」 「、、・」 「・、――、」 「――!」 「」  瞬間、その密度において今までとは比較にならない血晶が二つ、天の眼球から地表目掛けて零れ落ちた。 「なッ――」 「つァ―――ヴッ」  ただ落下してきた、本当にそれだけのことなのに、間違いなくその衝撃は、淡海で夜行が行った星墜しを数倍上回るものだった。 「これは、また……なんとも豪気な」  距離にして、おそらくここから半里ほど先……  噴煙立ち込める爆心に途轍もないのが二人いると、これだけ離れていても感じ取れる。  噴き上げる鬼気の凄まじさは、火砕流など生易しい。まるで溶けた毒の鋼鉄そのもの。奴らの気炎に直接触れれば、並の人間は跡形すら残るまい。 「なるほど、これが……」 「……〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》」  穢土の大天魔、神州を侵す歪みの元凶―― 「夜行、符界はッ?」 「まだなんとか。しかしあれは無理ですな。おそらく直撃を受ければ壊されましょう」 「ふふはは、まったく面白い。こんなことは初めての経験だ!」  夜行の咒でも、天魔の侵攻は防げない。それがどういう意味を持つのか、俺たち全員が理解していた。  このまま守勢に回れば全滅すると。 「ならば分かった。打って出る!」 「群がるあの蜘蛛どもは我らに任せよ。今より私が本陣に戻り、龍明殿と共に兵を指揮して当たらせる」 「ゆえに夜行、おまえは最低でもその準備がすむまで符界を維持しろ。分かったな?」 「御意に。してその後は?」 「愚問だ。おまえも含めて、紫織、宗次郎、刑士郎――」 「そして覇吐」  竜胆の鋭い目が、俺たちを順に見回す。ああ、言われるまでもねえよ、分かってる。 「天魔狩りだ。各々、最強の自負があるなら武威を見せろ!必ず勝て!」 「当たり前だ!」  強く応じて、共に俺たちは戦闘態勢へと移行する。ここで死ぬ気も負ける気もないのは、誰であろうと同じことだ。 「竜胆様、私は――」 「おまえは我々と来い、龍水。咲耶もそうだ。共に前線へ出るべき特性ではない」 「分かりました。どうか皆様、ご武運を」 「爾子・丁禮、おまえたちもだ。烏帽子殿らを守ってやれ」 「心得ました、夜行様」 「こっちのことは任せるですの」 「では皆、よいか?」  時間はもうない。皆が無言のまま頷いて、まずはここでの勝利を胸に期する。  それは絶対的な前提だから、たとえ一時別れようが沈鬱になることじゃねえんだよ。 「早く行けって。こっちのことは俺らがやるから」 「大将には、大将の仕事ってのがあるだろう?」 「ああ、そうだな」  去り際、竜胆はもう一度俺たちのほうを振り向いて、力強く激励を飛ばした。 「まだ幕は上がったばかりだ。下ろすには早すぎるぞ」 「何せおまえたちには、今夜私を謀った罰を与えねばならんのだからな。断じて死ぬことは許さない」 「ではな。もう行く――また会おう」  そうして竜胆は身を翻すと、龍明らと共に本陣へと駆けて行った。その背が見えなくなってから、俺も残った奴らへ振り返る。 「ふふふ~ん」 「なんだよ、にやついて。気持ち悪ぃな」 「いや別に。やっぱ面白いね、竜胆さん。あれ、どうも本気で私らのこと心配してたよ。自分でやれって言ったのにさ」 「我々が負ければ、当然彼女もただではすまない。指揮官としての立場もある。そういうことでしょう」 「そういうことなの?」 「俺に訊くなよ。だが、きっと違うな」  ありゃあマジで、二心なく俺たちの身を案じている。曰く、おまえの命はおまえだけのものではないってやつか。 「別にそんなもんはどうでもいいが、采配は気に入ったぜ。そこらの雑兵となんざ組んでられねえ」 「咲耶も一応は安全圏だし?」 「うるせえな。減らず口叩いてる暇があんなら、足引っ張らねえように気合い入れろ」 「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ」 「まあ皆、そのくらいにしておけよ。そろそろ真面目に切り替えねば、いざというときに決まらんぞ」 「おまえに言われたくねえよ」「あんたに言われたくないよ」「てめえに言われたかねえよ」「あなたに言われたくないです」  ――と、そんな軽口も確かにここまで。 「来るぜ……」 「ああ……」 「さぁて……」 「いったいどれほどのものか……」 「くくく……面白いなあ」  迫る夜都賀波岐の妖気に押され、夜行の符界がじりじりと後退し始めているのをこの場の皆が理解していた。  血を燃やせ。気力を絞れ。  これよりもう数寸後に、間違いなく過去最大の戦が始まるのだ。  初め、それはただの影だった。  物理的な質量を備えていない映像のようなものであり、実体と評せるものをあらゆる意味で持っていない。  だがそれでありながら、凄まじいまでの鬼気と存在感を放っている。さもあろう。これは怨念の集合体。視認できるほど強く残った、力そのものなのである。  影が厚みを持ち始めた。穢土太極の理に従って、その魂がかつてどのようなものだったか、在りし日の姿に近い形を成していく。  完全な再現はもはや不可能。夢であり、残骸である彼らは根本的に壊れているのだ。過去に喪失した身である以上、それぞれ重度の欠落を抱えている。バラバラの破片を拾い集めて組み直しても、無くした欠片は補填できない。  そう、無くしたものは戻らない。消えたものは帰らない。誰よりも身につまされてそれを知り、ならばこそ成した残留ゆえに、その存在は歪みとなる。  もはやこの穢土を除いて、世界に居場所など有りはしない。かつて海に生きた鰐たちは、湖と化した世に残るため異形の化外となっているのだ。  許さない。認めない。消えてなるものか、時よ止まれ――  ただ一つ、その渇望のみを拠り所にしてここに在るため…… 「……おかしい」  今、血肉を編んだ彼らの姿は、彼ら以外に認識できない。声帯を得たことでいくらか流暢になった声も含めて、その真実は歪みの向こう。あくまで湖側の目線から、彼らという鰐を推し量るのが限界だ。  しかしそれでも――鯉の主観で見ればこそ、妖異の美とも言うべきものが際立っていた。  一瞬の永遠化。刹那の輝きを不滅のものとして固定されているがゆえの、それは必然なのかもしれないが…… 「僅かに侵攻が遅れている。どうやら誰か、食い止めている者がいるようだ」  声に微量の陰りを滲ませて、そう漏らしたのは長身の青年だった。  青灰色の肌に精気はなく、どこか躯のような沈鬱さはあるものの、そこに醜悪さはまったくない。憂いを湛えた瞳は魔性の紅に染まっているが、それら異形の記号がむしろ花を添えるような、妖しいまでの美男である。 「そのようだけど、だからいったいどうだというの。息を吹きかけた程度のこと、紙で止められたなら指で弾けばいい」 「〈滅尽滅相〉《めつじんめっそう》――でしょう、兄さん」  それに応じたのは、西の人間には有り得ない金の髪を靡かせた女だった。まだ少女と言うべき外見なのかもしれないが、禍々しい面鎧に覆われた顔は鬼面のごとく、その双眸は業火のように燃えている。  兄と言われた青年が土葬の屍めいているのと対照的に、こちらは火葬の大輪だった。烈しく、そして〈煌々〉《こうこう》と、滅びの光を身に纏いつつ、凄艶なほど麗しい。  熱という意味においては掛け離れた二人だったが、それでも両者に共通するのは死を連想させる者であること。滅尽滅相と言った台詞そのままに、殺戮を期してこの場に在ることだけは間違いない。  彼らは天魔、夜都賀波岐――穢土最強の怪物であり、西の感覚では三百年前、時の東征軍を壊滅せしめた鬼神なのだ。 「指か、そうだね。まあそれでもいいが……」  青年が苦笑する。端然とした容姿が僅かに崩れ、倒錯的な色気を醸し出すが、同時に浮かんできたのは妖々とした凶の気配だ。 「君はずいぶんと優しいね。誰がそんなもので済ますものか」 「拳の一撃を与えよう。自分が何に牙を剥き、何処に足を踏み入れたのか、彼らには深く思い知ってもらいたい」 「いや、正確に言うと、長く関わりたくないんだよ。外の者はおぞましすぎて、見るに耐えない」  だから最速、最短をもって撃滅する。穏やかな口調とは裏腹に剣呑極まりないことを言ってのけた青年に、女は首肯で同意した。 「じゃあお願い。思い知らせて」 「〈穢土〉《ここ》は私たちの〈世界〉《もの》だということを」 「そのつもりだよ」  同時に、青年を中心にして何かがじわりと広がり始めた。拳を与えると言っていたが、腕一本どころか指一本、眉の一筋すら動かしていない。  だがそれが、先の台詞と異なる行為かと言えば否だった。彼にとっての攻撃とは、傍目に見える動作というものに限定されない。  存在自体が極大の歪みであるがゆえ、感覚そのものが違っている。つまり有り体に言えばこういうことだ。星は猛烈な速度で自転と公転を続けているが、それを認識できる〈塵〉《ヒト》などいない。 「〈種種〉《クサグサ》の〈罪事〉《ツミゴト》は天津罪、国津罪、〈許許太久〉《ココダク》の罪出でむ、〈此〉《カ》く出でよ」  静かだが、地の底から這い出るようなその文言は祝詞であろうか。  青年の周囲に広がる闇は粘性を帯びた泥に似て、まるで原生動物のごとく蠢き、捩れ、溢れ出し―― 「〈此久佐須良比失比氐〉《カクサスライ ウシナイテ》――〈罪登云布罪波在良自〉《ツミトイウツミハアラジ》」  一気に、その質量を数百倍へと爆発させた。  泥が走る。闇が奔る。総てを攫う津波さながら、進行方向に存在するあらゆるものを呑み込んで、音を超える速さで広がり続ける。  それは言うなれば、死滅という概念そのものだった。触れた物は悉く、土も木々も石くれさえも、分解されて腐泥に変わる。  まるで墓穴の侵攻だ。万物、形あるものは崩れ落ちるのが定めならば、腐敗という理からはどう足掻こうと逃げられない。  必然、〈化外〉《かれら》の軍勢を食い止めていた障壁などは、一瞬にして破壊され――  その奥に布陣していた侵略者どもの軍勢は、諸共、腐蝕の津波に呑み込まれた。 「綺麗……」  風に乗って、阿鼻叫喚の調べが聴こえる。信じ難いほど効率の良い大量虐殺と言っていい。  今の一撃で、少なく見積もっても五千強……一万名からなる軍兵の半数以上が死ぬか重傷を負ったはずだ。たとえ即死を免れようと、手足が腐り落ちた人間などはもはや死人と変わらない。  初撃にして大打撃。軍の機能維持という面においても、壊滅以上の有り様だった。まさに青年は言葉通り、敵の本営を直接殴り潰したことになる。  だが―― 「……へえ」  それでも、この結果は彼にとって不本意なものだったらしい。意外そうに眉根を寄せて、僅かながらも驚きの意を覗かせている。 「まだやる気のようだ。士気が折れない」 「一、二、三、四、計五人」 「来るわね、どうも普通じゃない」  先の一撃を食らいながら、食われることなく戦意も消えず、逆襲に転じようという者らがいる。まともに考えて有り得ないことだろう。 「前とは違うか。進化したのか」 「奴の気が濃い。純度があがっている」 「いや、それとも……」  言葉途中に、腐泥の波を突き破って黒衣の男が宙に〈現〉《あらわ》る。二人はそれをじっと見上げる。  ぶつかり合う視線と視線。男の瞳は狂熱を帯び、天魔の瞳は憎悪に燃えた。  不倶戴天。有り得ない。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈は〉《 、》〈許〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と、双方同時に認識して―― 「〈計都〉《けいと》・〈天墜〉《てんつい》――!」  超圧縮され、紡ぎ出される大咒法――腐蝕の津波に対する礼は、摩多羅夜行の星墜しに他ならない。淡海の化外を一撃の下に葬り去った、事実上、東征軍最強の剣である。  眼下の者らを撃滅するべく、天の果てから招かれた計都星は、しかしそれでも―― 「――貴様か」 「その眼、反吐が出る!」  二柱の天魔に触れる寸前、爆轟した気炎によって跡形もなく消え去っていた。 「誓うぞ、一人も生かして帰さない」  続く雷電の閃光が、真一文字に地表をなぞりながら駆け抜けて、穢土の大地を幾何学模様に染め上げる。  魔界。まさしく人智を超えた、ここに地獄の戦場が具現していた。 「ぐおおおおぉぉォッ―――!」  その一撃を回避できたのはただの勘。ほぼ運の領域だったと言っていい。  最初の一波は、夜行の符界が崩されるまでの時間差があったからこそまだ躱せたが、次の二波目は問答無用にやばかった。  まさかあの一発を瞬時に消されるとは誰も予想しておらず、ゆえに完全な想定外。ごく控えめに表現しても、度肝を抜かれたと言うしかない。  奴らが星墜しを耐え切るにしても、相応の効果は見込めるだろうと考えたのは、どうやら甘すぎた楽観でしかなかったらしい。こうして無事に凌げたことが、正直なところ自分でも不思議だった。 「今のは稲妻……? しかし真横に走るなんて」  未だ爆発の粉塵が立ち込めるなか、咄嗟に回避した方向が同じだった宗次郎がすぐ傍らに着地している。そうだ、今のはおそらく雷撃。  地上三尺あたりの高さを真横に薙ぎ払った放電切断。巨大な刃状の閃光が一直線に駆け抜けたのだ。言わば稲妻の斬撃に違いない。 「他の奴らは?」 「さて……いや、健在なようです。しかし全員、よく躱せたものだ」  宗次郎も俺と同じく、自分の無事に困惑している。先の稲妻はそれくらい致命的で、にも拘らず誰も死んでいないのは、奇跡と言っても出来すぎだったが…… 「まあ、今はそんなことを考えてる場合じゃねえか」 「〈悪路〉《あくろ》、〈母禮〉《もれい》……」  腐蝕の波と、〈轟雷〉《イカヅチ》の嵐。それだけ分かれば正体も知れる。西ではガキの御伽噺にすら語られている存在で、知らない奴など一人もいない伝承上の怪物だ。  そいつらが、いま現実のものとしてここにいる。噂にゃ尾ひれがつくものだが、むしろそっちのほうが可愛いくらいだ。まだ直接姿は見ていないのに、近い距離にいるというだけで信じられないくらい消耗していく。  ゆえに、やるなら短期決戦。他の選択は有り得ない。 「考えていることは同じですか」  宗次郎の台詞に笑って頷く。俺たちに下された命は天魔を斃すというただ一つで、今はそれだけを優先すると決めているんだ。  竜胆は死んじゃいない。あんなもので終わってたまるか。だからここで俺たちが、退くことなんて許されねえ。 「行くぞォ――!」  同時に粉塵の帳を引き裂いて、俺と宗次郎は〈疾風〉《はやて》のごとく突貫した。また迎撃の一閃が飛んでこようが躱してやるし、なんとなれば撥ね返してやる。  そうだ、俺に歪みは通じねえ。来ると分かってさえいれば、たとえそれがどんなものでも返杯してやる。  びびるなよ、男は度胸だ。ちっとくらい痛かろうが、要は死ななきゃいいんだよ――!  そして突き破った帳の向こう、ついに俺たちは敵の姿を視認した。 「あれが、天魔――」 「意外に色男じゃねえか、だが分かるぜ」  化け物だ――なまじ人の姿をしているからこそ、どれだけあれが外れているかがよく分かる。目の前にいるのは長身の男だけだったが、もう一人は何処にいるのか。  なんて、そんなことはどうでもいいよな。まずはさっきのお返しをしてやるよ。 「――おらァッ!」  走りながら地面に剣を突き立てて、そのまま一気に振り上げる。再び舞い上がった土砂の帳に、今度は奴がいきなり視界を奪われるという形になった。  しかも、まったく同時に俺と同じことをした奴がいる。あれはおそらく、刑士郎か? いやはや、まったく不本意ながら、考えることが似てるな、おい。  期せずして二方向から巻き上げられた煙幕は、天魔の視界をかなり急激に狭めただろう。たとえどんな怪物だろうが、その刹那は確実な隙になる。  ならば―― 「はあああァァッ!」  そこを他の二人は見逃さない。宗次郎より一瞬早く間合いに踏み込んだ紫織が、膨大な気を練りこんだ拳で打ちかかった。その連携は即興だったが、ほぼ完璧だったと言えるだろう。  叩き込まれた生命圧の振動が轟音となって響き渡り、奇襲の成功を告げていた。先とは違い、間違いなく直撃を食らわしたのだと全員が確信する。  そう、それは間違いじゃなかったのだが…… 「なッ――」  単純な威力においても凄まじく、陰気特効の技でもある降神流の孔雀王――歪みがそれを受けたからには必ず減圧するはずで、前と同じくその瞬間を狙っていた宗次郎は、寸でのところで停止していた。俺と刑士郎も同様に、愕然と固まるしかない。  いや、もっとも戦慄していたのは、紫織だったことだろう。  孔雀の拳を顔面に受け、そいつは小揺るぎもしていなかった。どれだけ地力に差があろうと、陽気を食らって陰気が減じないなど有り得ない。頑強だとか耐久力とか、もはやそういう次元じゃなかった。  ならば、あれは歪みじゃないのか? いいや馬鹿な――絶対違う。誰が何処からどう見ても、陰気の塊にしか思えないのに……  皆が呆けたとも言えるその一瞬、しかしまだそれすらも、さらなる異常の前触れでしかなかった。 「あっ、く、あああああ―――」  〈紫〉《 、》〈織〉《 、》〈の〉《 、》〈拳〉《 、》〈が〉《 、》〈崩〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。のみならず手首も、肘も、肩までも、異界の獣がその〈顎〉《あぎと》で食らい尽くしていくかのように、凄まじい勢いで体細胞を分解していく。  腐っているのだ。あれは視線も呼吸も何もかも、触れるという概念総てにその現象を付随させると見て間違いない。  ゆらりと、紅の瞳が横に動いた。そのまま、絶叫する紫織の姿を視界に収めて…… 「消えろ」  次の瞬間、内から爆発するかのように、紫織の身体は塵になるまで分解された。 「くっ、―――まだまだァッ!」  しかし、それで終わったというわけじゃない。一人殺されたのは確かだが、紫織は無数の〈可能性〉《じぶん》を持っている。消される寸前にその一人を具現化し、今度は逆方向から蹴りを延髄に叩き込んだ。 「ぎ、があああァァ――」  だが、今度も結果は変わらない。蹴りが当たった瞬間に膝から脚が腐り落ちて、傍目には空振りしたようにすら見えてしまう。  なんていう出鱈目さだ。こいつはまるで、猛毒の鎧を纏っているようなものだろう。攻撃することそれ自体が、命取りになってしまう。  迫る追撃――それは睨むというだけのものだが、この一瞬で二度も全身を微塵にされてはいくら紫織でもただじゃすむまい。ならばどうする?  俺と、おそらく刑士郎も、次に採るべき行動を判じていた瞬きにも満たない刹那、それより早く動いていたのは宗次郎だった。  膨れ上がった殺意の奔流が〈颶風〉《ぐふう》となって駆け抜ける。こいつは何の躊躇もなく、紫織が止めを刺される瞬間こそを好機と解釈したらしい。  一人味方が減る危険より、一人敵を減らせる可能性を優先した。腐蝕の魔眼を発する時には、なるほど守りが薄くなるかもしれない。人も獣も、喰らうという行為に際して無防備を晒すのは共通だ。  だから殺す。それは実にこいつらしく、おそらく宗次郎の中では選択肢という概念自体が無かったのだろう。でなくば説明がつかない神速の攻勢だったし、それは結果として紫織を救った。  飛来した斬気は悪路に当たる寸前で消し飛ばされたが、その衝撃で紫織の身体は魔眼の視線上から弾かれる。殺害を意図した宗次郎としては不本意だろうが、少なくとも最悪の流れではない。  そして宗次郎は、まだ必殺を諦めてなどいなかった。 「――邪魔です」  地に転がった紫織を無造作に蹴り上げて、一気に斬人の間合いへと入り込む。前者の行為に俺は何も思わなかったし、そこは蹴られた紫織も同じだろう。このまま戦闘を続行するなら、即座に動けない味方など邪魔な肉塊でしかない。  だからいい。それはいい。俺たちが瞠目したのはむしろ後者。 「馬鹿野郎、てめえ!」  ど正面から攻め込んでいったいどうする。剣が届くということは悪路の間合いにも入ることで、すなわちあれに触れるということ。  そんな真似は、ただの自殺行為でしかないだろうに――  二撃、三撃、走る銀光が清流の滑らかさで、しかし瀑布の勢いで連続する。直後に、宗次郎の剣も肉も腐り落ちる様を幻視した俺だったが、その光景は現れなかった。  当てていない? いいや、違う。あれはまさか…… 「野郎、あの間合いで飛ばしてるのか」  超接近戦での飛び道具。もとより宗次郎の刃とは、その研ぎ上げた殺意の斬気だ。鋼という物質に頼まない攻めだからこそ、あれに真っ向から挑みかかれる。刃風、気閃は腐らない。  加えて、その過剰な殺意は本身を隠す。  双方、肩が触れ合うほどの間合いにいるのに、悪路は宗次郎の位置をおそらく特定できていない。体裁き、虚実のずらし、刹那の単位で死角へ滑り込む視線誘導の技と魔的な勘、洞察力――  それら総てを動員して、魔眼の直撃を躱している。言葉にすると簡単だが、どちらも神技の領域だろう。  殺られずに殺るという面において、その白兵における技量は宗次郎こそ神州最強。歪みの特性や陰気の濃さを頼みにして、守りが大味な俺たちでは辿り着けない武の到達点。一つの形だ。  しかし、だけどそれだけにと言うべきか。この状況に活路は無いと分かってしまった。 「くッ――」  矢継ぎ早に繰り出される斬撃の悉くを、悪路は事も無げに防いでいる。まるで蝿を箸で摘むがごとく、指先の動きだけで総ての斬気を砕いていた。  一歩も動かず、視認もせず、何の困難でもないとばかりに宗次郎渾身の技を無効化している。  つまりそこに存在するのは、絶望的な格差だった。存在としての強度はもちろん、単純な技量においても次元が違う、正攻法でどうにかできる相手じゃない。 「おのれ――」  そして当然、宗次郎もその事実に気付いていた。ゆえに退かない。いいや退けない。屈辱に沸騰している。  それは言うまでもなく、ここまで遊ばれたのは初めてだという憤激だった。死と引き換えにしても一撃食らわし、斬り殺すと、剣気が雄弁に語っている。  そう、あの防御を潜り抜けることが出来ればと、だが―― 「木偶の剣だな。芯が無い」 「なまじ相手をしたので、勘違いをさせたか?」  瞬間、だらりと腕を下げた悪路の首に、宗次郎の斬気が真っ芯で命中した。 「効かんよ。〈穢土〉《われら》の〈太極〉《ことわり》を舐めるな」 「―――――ッ」  なのに無傷。まったく無傷。薄皮一枚切り裂けない。それは紫織の拳を受け止めたときと同様で、頑強さと言うより別位相の物理を目にしたかのようだった。  喩えるなら、絵の中でどれだけ猛火を描写しようと、それが現実の人間を燃やせるわけがないのと同じ。  立っている場所がそもそも違うという断絶感。  そして、絵に現実は害せなくても、現実が絵を破壊することは容易に出来る。  高次元から低次元への攻撃は、赤子の手を捻るよりも通しやすい。 「やべえ、逃げろ宗次郎――!」  衝撃に一瞬硬直したことで、今の宗次郎は魔眼の圏内に入っている。 「さっきのお返しッ!」  ばらばらに分解される寸前だった宗次郎を救ったのは、下から放たれた紫織の蹴りだった。 「がッ―――」  好悪、両方の意味での意趣返し。予期せぬところから加減なしの蹴りを食らって宗次郎は吹っ飛ぶが、粉々にされるよりはましだろう。その反動を利用して紫織も飛び、悪路の視界から離脱を図る。  先ほど失った脚が生えているところから、紫織が再度の可能性を呼び出したのは明白だった。それは無論、あいつに多大な消耗を強いたはずに違いない。  僅か最初の攻防だけで、圧倒的に追い詰められた。この状況でやれることは、ともかく身を隠すしかない。  散開した俺たちは周囲に散って、そのまま一斉に気配を消す。腐った糞のような泥に身を沈めるのは不快だったが、そんなことを気にしているような場合じゃなかった。 「どうした、もう怖気づいたか」  漏れ出るその声すらも、大気を伝播して鼓膜に異常を起こさせる。内耳に抉るような痛みがかかり、頭の中身が腐っていくような感覚に囚われた。  あれが悪路、大墓公……まさしく墓穴の怪物だ。接触すれば死に繋がる。  敵が毒の塊であるってことが、あらゆる意味での問題だった。仮に俺が奴の歪みを撥ね返しても、おそらく意味はないだろう。  なぜなら毒をもって毒を制すと言ったところで、この場合はより強化させてしまう可能性のほうが遥かに高い。  ゆえに何か、別の方法が必要なんだ。そう、たとえば…… 「くそッ……!」  思いつく手がないでもないが、この状況では連携など不可能だ。奴にしたって、いつまでも静観などしていないだろう。 「どうすれば……」  歯噛みする焦燥の中、しかし希望は、予想外のところから現れた。  いきなりの、それも常軌を逸した奇襲を受けて大混乱に陥った本陣だったが、ここにきて徐々にではあるが統制を取り戻しつつあった。 「怪我人は下がれ! 動ける者は前に出ろ! ここを落とされては絶対にならん。押し返すぞ!」  第一波、総てを腐らせる津波によって兵の半数以上が死傷した。のみならず物資の大半が破壊され、その上で数千もの異形が群れを成して殺到してくる。  まともに考えて絶望以外の言葉が見つからない状況であり、恐慌に駆られて自失しても仕方がない。  事実、最初はそうだった。無駄を承知で逃亡する者、自棄に駆られて突貫する者、混沌と化した戦場に救いはなく、全滅は時間の問題と思われていた。  しかし、それでも―― 「恐れるな、思い出せ! 奴らも決して殺せないということはない」  総大将である竜胆が、迎撃の前線に立っている。彼女はその指揮において、特殊な策を講じたわけでも高度な智謀を編んだわけでも断じてない。  むしろ、愚行にさえ近いと言える。指揮官が死ぬとしたらそれは一番最後なはずで、そうでなければ軍という集団などは維持できないのが道理というもの。  しかしそういう理屈と並行して、不合理でなければ成せない事柄も厳然と存在する。ここで必要とされるのは、まさにそうしたものだった。  すなわち、それは士気の問題。この場における最上位者がもっとも危険に身を晒すなら、それを目にした誰もが思う。  自分だけが危機に直面しているわけではないのだと。  しょせんは気分の問題だが、劣勢においてそう思えるか否かというのは雲泥の差だ。  軍とはある意味、極限的な自虐嗜好の集団でもあるのだから、一種の悲壮美に酔いやすい。麗しき姫将軍の神兵として、ここに果てることを良しとした男どもが蛮声をあげて反撃に転じ始める。  竜胆自身の好みはともかくとして、ここではそうした状況が必要だった。悔いるのも悼むのも後でいい。今はそんな贅沢を楽しんでいる余裕などない。 「よし、ひるんだぞ! 全軍、突撃にィ移れェッ!」  氷の鈴が砕けるようなその声に、兵どもの士気はより一層跳ね上がる。将たる者の資質の一つに声というものがあり、その点竜胆は充分以上のものを持っていた。ほぼ天賦の才と言って構わない。  戦況は依然として苦しいものの、絶望と直結しない域にまでは押し返した。そしてだからこそ、ここで次の手を迷ってはいけない。  こちらの状況が五分に近くなったなら、趨勢を決するのは最前線の勝敗だろうと竜胆は弁えている。 「龍水!」 「導波の接続は完了したか? 早く奴らを助勢してやれ!」 「はい!」  自分は無事だから心配するな――などとくだらないことを伝えるつもりは微塵もない。そんな当たり前のことなどより、戦場で修羅に在る漢たちには現実的な処方が必要なのだ。  導波の連絡は超常現象と違うのだから、周囲が乱れている状態では波が混線して上手くいかない。ようやっとのことで接続を完了させた龍水は、最前線への中継役という任を開始した。  この苦戦を、なんとか勝利に導くための一助となるよう。 「どうか、兄様たちのお力添えを願います」 「任せておけ」  強く応えて精神を集中し、念じるままに思いを飛ばして…… 『覇吐、覇吐――聴こえるか、大虚け!』 「……龍水?」  突如頭の中で響いた声に、俺は驚いて目を見開く。 『そうだ私だ、生きておるな? そちらはどうなっている。戦況は』 「どうって……」  一瞬放心したものの、同時に笑いがこみ上げてきた。そうだこれだよ、こいつの助けがあればやれることは一気に増える。 『おい、何を笑っているのだ。私の質問に答えんか』 「ああ、いや悪ぃ。助かったよ」  そして同時に気合いが入った。こいつが助勢にくるってことは、すなわち竜胆も無事だということ。やっぱあの姫さんは、そうそうくたばるタマじゃねえよな。 「戦況は、正直悪い。だが最悪ってほどでもねえ。他の連中も生きてはいるよ。繋いでくれ」 『分かった』  そうして数瞬待ったのち、別の声が頭に届いた。 『よぉ、おまえ何処にいる?』 「野郎の右手側、十間ほど離れた泥ん中だ。そっちは?」 『なるほど、じゃあ俺はてめえの左だな。野郎の背中が見えてるぜ。だからって突っ込む気にゃあなれねえが』  癪だが、まったく同意してやりたい。あれを相手に直接特攻かけるなんてのは自殺行為でしかないのだと、ついさっき思い知った。 『僕は覇吐さんと対称方向。奴を挟んだ形ですね。紫織さんは』 『宗次郎の右ー。ちょっとこの泥、臭いし汚いしで気分最悪。吐いちゃいそう』 「おまえ、大丈夫かよ」 『ああ、うん。なんとかね。てかあんたらさあ、女の私に一番きっつい目遭わせるとか、それ男としてどうなのよ』 『知るかよ。てめえが突っ込んでやられたのはてめえの勝手だ。俺にゃあまったく関係ねえ』 『前から思っていましたが、紫織さんは防御の面が稚拙ですね。技術がどうこうという意味ではなく、単に勘が鈍いですよ』 『ちょっとあんた、さっきのことに礼もなし?』 『頼んだ覚えはありません』  宗次郎の返しは平板な口調だったが、内では激昂しているに違いない。自分の技が悪路に通じず、助けられなければ死ぬところだったという事実に深い屈辱を感じている。  まあ気持ちは分かるが、それを抑えている辺りは流石と言っておくべきか。キレてどうにかなる相手じゃないと、正しく理解はしているわけだし。  全員が特攻主義であることを鑑みれば、この局面でもまずは冷静。 「でもよ、今はそれこそが必要なんじゃねえか?」 「触れもしないし見られても駄目。そんな出鱈目を相手にして、無傷が通るとは思ってねえだろ。少なくとも相打ち覚悟は、どう転ぼうが要るわけでよ」 『あんた、また私に働かせる気?』 「そうだ」  これは避けられない配役というやつ。あれと正面からぶつかって、曲がりなりにも耐えられる奴が最前線に出るしかない。  すなわち、他でもないこの俺が、だ。 「おまえら全員、合図のあとに俺を撃て」 『はあ』 『それは……』 『なるほどな』  刑士郎だけは、俺の狙いを委細承知したらしい。出来るかどうかなんてことは、この局面で推し量ってる場合じゃない。  狙うのは、最大効率の一撃必殺。この面子で可能な一番でかい攻撃をぶつけることのみ。 「上手く嵌れば、絶対効くはずの攻撃だ」 「なあ、ここまで言えば分かるだろ。いつまでも喋くってる余裕はねえんだ」 「伸るか反るか、どうだよてめえら」  問いに、沈黙はほんの一瞬。 『いいでしょう。ただし僕は自分の歪みが分からない。ぶっつけ本番になりますが、どうなろうと知りませんよ』 『同じく。手加減しないから、死んでも文句は言わないでよね』 『分かってるだろうが、保証は一切できねえぞ』  ああ、そんなの言われるまでもねえって馬鹿ども。 「今から俺が特攻かける。それが合図だ。とちるんじゃねえぞ」 「それから龍水」 『なんだ?』 「状況は分かったろう。そういうことで、竜胆に言っとけ。恩賞弾んでくれよってな」 「それから夜行は――」 『おそらく、もう一人と交戦中だ。あの方に私の導波は届き難いが、なんとかして補足する』 『だから覇吐、どうか武運を』 「任せとけって」  自信半分、強がり半分、だが口だけ野郎になる気はない。  さあ、それじゃあいっちょ勝負と行ってみようか。 「汚らわしい異界の者ども。この黄昏に埋もれる塵となれ」  吹き付けてくる腐臭を孕んだ妖気に負けじと、武気をみなぎらせて身体をたわめる。  これから仕掛ける攻撃のため、この全身を火矢そのものへと変ずるように。 「汚らわしい? 異界の者ども?」  ふざけろ――こっちから見りゃあてめえらこそが、ろくでもねえ糞撒き散らす諸悪の根源でしかねえんだよ。  遠目に、それは箒星のようだった。  絡み合い、激突し、共に競うが如く舞い踊りながら、星の〈軛〉《くびき》を破る速度で〈天〉《ソラ》を飛翔する二つの光点。  流星以外の何ものにも形容できず、そして絶対に流星では有り得ない。それは上昇を続けているのだ。  空を飛ぶのは人の夢。ゆえに未だ実現されぬ技術であり、飛行機械はこの時代に存在しない。落下という下方の死点を消す咒を極め、浮くことができる術師ならばごく少数存在するが、これはその領域を数百桁規模で逸脱している。  重力無視に、高速飛翔。加え縦横無尽の機動性――いったいどれだけの理屈をもってその超常を成しているのか、まったく見当がつけられない。あるいは、理屈を取り去ってこそ成せる類の魔性なのか。  すでに雲海すら遥か下。成層圏に達する超高高度の絶空こそが、それらの戦場と化していた。相応しいと、そう言えるのかもしれない。 「名は――名乗るがいい下郎」 「摩多羅夜行――神州西方、御門一門が陰陽頭にして、東征軍総大将、久雅竜胆公〈麾下〉《きか》の末席を汚す者なり」 「御身は夜都賀波岐が一柱――母禮殿とお見受けするが、如何に?」  切り裂く烈風と低酸素、極低温の世界においても、両者は何の影響も受けていない。常人には生存不可能なこの場所こそが、なるほど鬼と魔人の一騎打ちには誂え向きの舞台だろう。 「知らんな、好きに呼んでいろ。貴様ら異界の蛆どもが、勝手に付けた名などに興味はない」 「ではお言葉に甘えよう。どんな〈醜女〉《しこめ》が現れるかと思っていたが、意外にも〈愛〉《う》い容貌の女人であって、まあ正直なところ男の見せ甲斐がある戦だよ」 「ふん――」  挑発めいた軽口に、母禮と号されている東の天魔は失笑一つ漏らさない。そういう性分なのであろうし、何より嚇怒に燃えている。 「私に言わせれば予想通りだ。貴様らは相変わらず醜悪極まる」 「むしろ以前より輪をかけて汚らわしいよ。まるで糞溜めを覗く気分だ」 「これはこれは」  螺旋状に絡みながら上昇するただ中で、母禮の放った腕の一振りを高速の咒で夜行は迎える。  親指を中央へ、人差し指と中指を西方へと向けた構えは土生金。すなわち金気を増幅させる法印であり、木気に属する雷電を防ぐための金剋木に他ならない。  結果、母禮の稲妻は軌道を曲げて、遠雷のごとく遥か彼方に飛び去っていく。その衝撃に両者は弾かれ、高度一万丈の空に浮遊したまま対峙した。 「それは些か、傷つくな。手前味噌だが、今まで容姿を貶されたことなどないのでね」  常通りの諧謔味を滲ませて夜行は微笑を浮かべているが、先の攻防は無論のこと、そんな長閑なものではない。  金は木に〈剋〉《か》つ――道理だが、根本の格が違っている。山をも両断する母禮の〈雷〉《イカヅチ》は異界の法で編まれており、言わば人が知っている稲妻とは別概念のものなのだ。  ゆえにそれを剋すなら世界法則の改変こそが必須となり、並の術者が万人掛かりでも防げるようなものではない。  そんな猛撃を都合十一、ここに至るまで夜行は凌ぎ続けている。初撃において覇吐らが全滅を免れたのも、実のところ彼のお陰に他ならない。  よって現状、母禮は攻撃の総てを無効化されていることになり、そうした意味でも夜行優勢……のように見えるのだが。 「寝起きでまだ冴えぬのかな。御身の力はその程度ではあるまいよ」 「どうやら穢土の破壊を懸念しておられるようだから、このような場所まで〈誘〉《いざな》ったのだ。遊びの時間はもうよかろう」 「さあ、その本領を見せてくれぬか。天魔殿」  母禮はまだ、力の片鱗すら見せていない。夜行はそのように捉えていた。  無論、彼とて余力はある。しかしはたして、それが同規模のものなのか。 「私の力を十として、そちらは幾つだ?」  この傲岸不遜な陰陽師をして、己を十と評すること自体が敵手の異常性を表している。なぜならこれまで彼にとって、自分に近い域の存在などは皆無だった。  夜行を十などという数値に置けば、他の者らは表現できぬほど小さくなって、比較そのものが成り立たなくなる。だが、今は違うのだ。  十二・三か十五ほど、ここに至るまでの母禮を査定するならその辺りだが、前述の通り彼女はそんなものではない。  仮に百なら斃せるだろう。五百であっても封印できると、夜行は冷静に分析している。千に届こうが相打ちは可能だろうし、二・三千でも逃げることはできるかもしれない。  そのくらいの覆し、逆転を成す技量と知識が夜行にはある。  しかし…… 「一万、二万、それ以上か」  万象見通す天眼が、敵をそのように見定めている。いや正確に言うならば、夜行の目を持ってすら完全には測れないのだ。  そもそも星墜しを無効化されたという時点で、窮地以外の何ものでもない。だが、だからこそ未だ浮かべている微笑の正体が謎めいていて、不可解な態度だった。 「……奇妙な男だ」  母禮もそこに無視できぬものを感じたらしい。ここまで様子見に徹していた理由の一つはそれだろう。直情なようでいて、意外に聡い面がある。 「そして危険な男だな。どうやら貴様、座が見えているらしい。でなくば私の技は防げない」 「つまり、それをもっての自惚れか。なるほど、あちら側ではおまえに伍する者などいなかったろうよ。その手の人種なら見たことがある」 「下種め。貴様のような輩が行き着く場所などただ一つだ。総て無に帰す。それしかない」 「まあ、御説ごもっとも。無に云々はともかくとして、大方のところ否定はせぬよ」  苛烈で底冷えのする糾弾に、夜行は肩を竦めて笑うだけだ。変わらぬ慇懃無礼な口振りで、弄うように言い返す。 「だがその態度は、女子特有の悪癖だな。相手を測った気になっているとき、己も測られているという意識が欠落している」 「存外に俗だな母禮殿。自分だけは他者より複雑だとでも思っているのか。可愛らしいぞ」 「〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈の〉《 、》〈娘〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》、〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈の〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈ぬ〉《 、》と、思っているのだろうなあ。あはははははははははははは――――!」  哄笑は、爆ぜる轟雷によって掻き消された。 「愉快。愉快。なるほどつまりそういうことか。少し穢土の法理が見えてきたぞ」 「――分からぬことを」  弄言ごと撃ち落してくれると言わんばかりに、拳が、手刀が、空を裂く。それに合わせて雷気が走る。  飛び回る夜行はその悉くを躱し、逸らし、防いでいるが、徐々に追い詰められているのは否めない。母禮の技は一撃ごとに威力を増しているのだから、至極当然のことだろう。  しかしそれでも、精神的な主導権は夜行にあったのかもしれない。ただの虚勢や狂気ではなく、彼は何かを確信している。  迫る過去最大の雷電雨――先の基準に照らして言えば、五百を超える攻めの前にも夜行の態度は変わらない。 「〈阿迦陀〉《あかだ》・〈須多光〉《しゅたこう》・〈刹帝魯〉《さっていろ》――〈唵〉《おん》・〈蘇陀摩抳〉《そだまに》〈娑婆訶〉《そわか》――」 「くっ、ははは――、素晴らしい!」  ついに避雷の咒をもってしても防ぎきれない規模の技に弾かれて、確実に進退窮まってもまだ笑う。連続する猛撃に符は焼き切れ、咒は破壊され、鎧の悉くを剥がされて丸裸となっていくのに――  火達磨と化しても疲弊を見せない。効いていないわけでは断じてなく、むしろ痛みと敗勢こそを楽しんでいるように見える。  そのまま夜行は、対峙する母禮を指差し言葉を継いだ。 「貴様に何が分かるのかと言いたげだが、では一つだけ。〈剣〉《つるぎ》を見せてはくれまいか」 「御身の構えも、その挙動も、それは拳法のものではないよ」 「どうかな。意外に見切られているものだろう?」  これまで母禮の攻撃は、総て徒手空拳によるものだった。それに付与する雷電によって格技の範疇は超えていたが、術理が肉弾であったことに変わりはない。  しかし、夜行は否と言う。おまえの本性は別のものだと、確信をもって告げている。  それが真実だとしたならば、確かに夜行は母禮の見立てよりも彼女に踏み込んでいると言えるだろう。だが、仮にそうだとして何があるのか。  未だ敵が、武器すら抜いていない状態でこの様ということ。  すなわちそこに待っているのは、より隔絶とした両者の力量でしかないというのに。 「言っただろう。そちらが気兼ねせずともよいように、こんな場所へと誘ったのだ」 「もう一度言う。剣を見せてはくれまいか」 「〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈せ〉《 、》〈ん〉《 、》〈役〉《 、》〈者〉《 、》〈風〉《 、》〈情〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈分〉《 、》〈際〉《 、》〈で〉《 、》、〈舞〉《 、》〈台〉《 、》〈を〉《 、》〈慮〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈滑〉《 、》〈稽〉《 、》〈だ〉《 、》〈ぞ〉《 、》」 「―――――」  瞬間――高空の大気が原子に至るまで凝結した。 「貴様……」  漏れた呟きはごく静かで、怒りも恥辱も何もない。  だがそれでありながら、戦慄を喚起する極度の威圧がそこにある。  他者が触れてはならぬもの、胸に秘めている何がしか。  逆鱗という名の起爆装置―― 「まだ確証がないのだ、教えてくれ」  そんな爆裂を前にしても、夜行は飄然としたままだった。今、彼の耳にはようやくこの位置を補足した龍水によって、ある作戦を告げられたのだが、そんなことは関係ない。  ただ優雅に髪を掻き揚げながら、伊達男よろしくおどけた仕草で。  別位相を透かし見る超視力が、一つの言霊を掴みあげた。 「まさか役者が良ければ芝居は至高……などと戯言に縋っているわけでもあるまいよ」 「貴様ぁぁぁァァッ―――――!」  そのとき、そこに恒星が出現した。  成層圏に発生した大熱量は物理法則を裏切って燃え狂い、天地を貫く火炎と稲妻の大柱は、一つ一つが国を消滅させる程の規模にある。  それが都合十数本。母禮を中心に旋回しながら束となって形を成し、両の手へと握られた。  そう、まさしく森羅摧滅を成す二振りの剣として。 「いいだろう。望み通り焼き払ってやる。影の欠片も残さない」 「その驕慢、その在り方……やはり貴様、奴の〈継嗣〉《けいし》だ」 「奴……?」  一瞬、眼前の脅威すら意中から失せたように、夜行は眉を曇らせる。それがこの戦いにおいて初の異常、彼の動揺と言えば動揺だった。 「なぜ貴様のような者が生まれるのだ」 「なぜ貴様のような者が勝利するのだ」 「私たちの黄昏に、そんな罪悪があったというのか」  母禮の目は夜行を見てない。彼を素通りして何か別の、遥か遠方にある事象を見ていた。  業火に燃える赤の剣も。  鬼電が瞬く青の剣も。  今より切り伏せるべきはその存在で、〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  それが稀代の陰陽師にして、人界の穴と評された天才の胸に、曰く言いがたい感情を呼び起こした。 「もう負けない。私は強くなったんだから」  そしてここに、さらなる異常が巻き起こる。 「――行くぜェッ!」  その一瞬に勝負を懸けて、腐泥を蹴散らし俺は駆けた。  紫織は心配していない。宗次郎も大丈夫だろう。問題があるとすれば刑士郎だが、そこはあらゆる意味での運に任せた。  この特攻は、俺たち全員にとっての生死を分かつ。ならば一蓮托生として、禍憑きが起きる条件は満たしている。  ゆえに後は、その方向性さえ誘導できればそれでいい。  すなわち俺に落とすことが、皆の生存に繋がるという結果に結びつきさえすれば―― 「――来ォい!」  悪路がこちらを見るより早く、三つの歪みがそのとき俺を貫いた。 「――――――ッ!」  あまりに度を越えた衝撃に、周囲の音も感覚も消え去った。時間すら止まったかのような世界の中で、自分の身体があるかどうかさえあやふやになる。 「……ぁ、――っ、………!」  もはや何が何で、どれが誰だか分からない。  だが、それでも一つだけ……確かなことは頭上から炎雷が落ちたということ。 「てめえ、マジで刑士郎……」  また雷かよ、この馬鹿野郎。だがよくやったぞ、これは母禮の技に間違いない。  完璧、ここまで想定通り、俺たちに抜き難く存在していた火力不足を、この一手で補える。  同じ夜都賀波岐、化け物同士。だったらこれが効かない道理などあるわけがない。  このまま撥ね返すことが出来さえすれば、それは間違いなく決め手となって――― 「――覇吐!」 「覇吐さん!」 「てめえ、それで終わりかくそったれ!」  声援とは程遠い、むかつく三重奏がしっかり聞こえる。問題ねえ。  いま俺は確実に、総てを受け止め立っている。  ならば―― 「食らええええええぇぇェェッ――――!」  誓った勝利を手にするため、裂帛の気合いと共に振りかぶる。 「禊祓ェ、黄泉返りィィッ!」  全身全霊の叫びを武威に乗せて、最大最強の一撃を送り返した。  その威力に疑うべきところは何もなく、紫織の特性も付加したことで絶対躱せないものと化している。  そして上手く言えないが宗次郎、あいつの歪みはまさしく悪路に対する相剋だと、俺は肌で理解していた。 「――行け」 「決まって」 「ぶちかませェッ!」  ゆえに結論――これは紛れもない必殺だ。  あらゆる面で穴はなく、数瞬後に俺たちが見るものは一つだけ。  この轟音の果て、舞い上がる粉塵が晴れた頃には、対象を消し飛ばした無人の荒野が広がっているに違いない。  確信を持って、誰もがそう思っていた。  他の結末を思い描くことなど不可能だった。  だから―― 「なっ……」  そこに現れた不条理に、誰もが絶句するしかなく。 「――太・極――」  格が違うという言葉の意味を、ここで初めて知ることになる。  それは形を持った一つの宇宙。主たる者の渇望に沿い、絶対の法則として顕現した彼らの本性に他ならない。 「〈随神相〉《カムナガラ》――〈神咒神威〉《カジリカムイ》・無間焦熱」  太極とは、それを定義した者の魂に属した色を帯び、その理をもって他の総てを塗り潰すもの。  曰く、万象を型に嵌める法則そのもの。 「〈随神相〉《カムナガラ》――〈神咒神威〉《カジリカムイ》・無間叫喚」  よって彼らは、神格の座に達している。  西の常識では抹消された概念だが、神の位階に属する者には、人や人もどきの業などあらゆる意味で通用しない。  ゆえにその座へ至らずして、どのような策と力を重ねようが結果は蟷螂の斧にもならぬ。  絶対原則――神格は神格にしか斃せないのだ。 「ふざけろよ……」  先に撥ね返した攻撃などは、低位階の業だったからこそ出来たことに他ならない。  この領域に移行した彼らを傷つけることはもはや不可能。  かつ、その業を再度弾ける可能性もすでに絶無。  そしてそれは、色も形も定まっていない未熟な太極からしても同様で…… 「素晴らしい」  これか、これこそ型に嵌った姿なのかと、夜行は舌を巻きつつ感嘆していた。  まだくすんでいる面はあるものの、大方において見たいものは見たと満足し…… 「御身の勝ちだ。好きにされよ」 「ただ――」  伏し目がちだった両眼が、そのとき凄絶な光を放った。 「少しばかり気に入らんな。いったい誰と戦っているつもりなのだ」 「私を無視した存在など、これまで一人もいなかったというのに」 「落ちろ、波旬――」  神威の法を纏わせて、穢土太極の大炎柱が落ちてくる。  その軌跡、その狂おしさ、美々しさ眩しさ醜さよ――! 「決めたぞ。おまえは私のものだ」  事ここに至ってまだ己を見ていない女にそう告げ、夜行はその総てを目に焼き付ける。  見る。見る――見続ける。  網膜が蒸発しても捉えた〈霊質〉《すがた》を逃さない。 「ああ……なんだ、やはりただの娘ではないか」 「泣いているのかな。笑えるな」 「おまえにだけは、断じて降らん!」  魔天に大輪を咲かす火葬の爆発――鬼面を彩る凄絶哀絶なその顔が、摩多羅夜行の生涯最後に見たものとなった。  そして…… 「総て腐れ。塵となれ」 「この屑でしかない我が身のように」  天を圧する巨人の剣が振り下ろされる。  それを前に、俺たち全員は成す術もなく…… 「つァァッ――」  視界の端で、紫織の両腕が吹き飛ばされた。  あれの繰り出す一撃を前に、どんな理も意味を成さない。無限数存在する可能性を一纏めにして、玖錠紫織というモノ自体が腐毒の法で塗り潰される。 「――おのれェッ!」  そして宗次郎は、発生した衝撃の余波に呑み込まれた。  それは直撃を避けられたとも言えるはずだが、ある意味でより深刻な結末を引き起こすだろう。常軌を逸した規模の陰気に溺れてしまったわけなのだから。 「――くそがァッ!」  加えて、刑士郎も同様だった。  もとから高濃度に汚染されていたこいつにとって、それがどういう事態を招くのかは分からない。ただ決定的な爪痕を刻まれることだけは間違いなく、どのみち無事ですむはずがないだろう。  ならば俺は、いいやだからこそ俺だけは…… 「舐めるな、来いよォッ――!」  一歩も退かず、総てを正面から迎え撃った。 「ぐッ、があああァァッッ」  諦めない。諦めない――死んで堪るか、絶対退かねえ!  たとえ何がどうなろうと、こいつを弾き返してみせるんだ。 「でねえと――」  でねえと、なあおい、背後に守った俺の姫様―― 「竜胆がッ――死んじまうだろうがああァァッ!」 「無駄だ」  自らの絶叫すら掻き消される、濁流のような陰気の中で…… 「おまえは死ぬ。何を置いても殺すべきだと、いま直感した」  無慈悲なその声だけが、耳にいつまでも残っていた。  そして次の瞬間に、何も分からない暗黒の淵へ俺という存在が落ちていく。  溶けて、砕けて、腐りながら。  何処までも、何処までも何処までも…… 「ああ……」  なんだろう。いつか遠い、果ての記憶。  何かを忘れているような、何かを知っているような。  俺の名前は? 坂上覇吐?  誰だよそれは? 〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈俺〉《 、》〈に〉《 、》〈名〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》?  懐かしく忌まわしい〈揺籃〉《ゆりかご》へ、俺はゆっくりと落ちていった。 「うわああああああああ―――!」  委細余さず、総ての状況を見ていた龍水は絶叫して顔を覆った。 「そんな、そんな馬鹿な――夜行様!」  もはや狂乱していたと言っていい。彼女にとって有り得ないもの、一つの世界が音を立てて崩れ去ったのだから無理もない。 「覇吐、紫織、宗次郎、刑士郎……!」  皆、皆、残らず砕けた。あれではおそらく、誰一人として…… 「う、うぅ、うあああああああ!」  ただ事ではない様子に駆けつけてきた者らの声も聞こえない。御門龍水は今このとき、まさしく崩壊したのだろう。たとえ導波越しであろうとも、神格というものに触れてしまった必然だ。 「覇吐たちが……?」 「兄様が……?」  ゆえに龍水が語らずとも、皆が等しく事態を悟った。そもそも異常ならば此処からでも見える。 「なんだあれは……」  おどろに染まった空の向こう、天を衝く異形の怪物が二ついた。  淡海で見たものよりもさらに巨大でおぞましく、吹き付けてくる気の凄まじさも比ではない。こうして遠目に見るだけでも、心がばらばらになりそうだ。  覇吐らが負けた? ではあれをどうする? どうしたらいい?  竜胆の中で、このとき何かの線がぷつりと切れた。それに呼応するかのように、周囲の兵たちも壊乱状態に陥っていく。  駄目だ、これではいけない。立て直さないと――  そう強く思ってはいるものの声が出ない。手足が動かぬ。震えが止まらなくなって視界すらも狭まっていく。 「嘘だ……私は信じない!」  言うが否や相方の背に飛び乗って、主人が消えた方角へと駆け去っていく丁禮を止めることすら出来なかった。  ただ喘ぐような吐息と共に、切れ切れの言葉が漏れるだけで…… 「龍、明……殿…」  この場においてただ一人、自分が頼ってもよさそうな相手。甘えが許されるかもしれない相手。  縋りたいと、無意識にその姿を捜し求めているというのに……  なぜだ、なぜ彼女すら見当たらない! 「薄汚い波旬の細胞ども」 「死に絶えろ。絶望を知れ」 「ここは貴様らが踏み込んでいい世界ではない」 「うっ、く――、ああああああああああァァッ!」  耳を抉り取って捨てたくなるような呪いが辺りを震撼させ、先のものとは比較にならない腐蝕の津波が押し寄せてくる。  絶望――どうしようもないその二文字が、総てを捉えようとしていた瞬間だった。 「――竜胆様ッ!」  乾いた音が響き渡り、強い衝撃に首が揺れる。次いで一拍置いた後に、痺れるような痛みが頬を伝って…… 「お気を確かになさってください。まだ終わってはおりません」 「……咲耶?」  自分は今、もしやこの少女に横っ面を張られたのか? 瞬時に事態を理解できず、思わず呆然としていたところに柔らかな詫び言が続けられた。 「どうかご無礼をお許しください。差し出た真似をいたしました」 「ですが竜胆様は我らの将……強く立っていただかなければなりません。生きていただかなければなりません」 「希望を捨てないでくださいませ。まだ始まったばかりではないですか……そうでしょう?」 「ぁ……」  視界が急激に広がっていく。そうだ、何を自分は呆けていたのだ。  自分は生きて、ここにいて、まだ立っている者もいるというのに。  霧が晴れていくような意識の中で、竜胆は恩人とも言うべき少女の顔をまじまじと見つめてから、頭をさげた。 「すまない……そして礼を言う」 「咲耶、おまえの言う通りだ。将として恥ずべきところを見せてしまった。忘れてくれ」 「いいえ、しっかりと覚えておきます。竜胆様にも姫御然とした、可愛らしい面があったのですね。新鮮でした」 「おまえな……」  この状況で軽口とは恐れ入る。それを言うならこちらのほうこそ、咲耶の強さに驚きだった。  いつも淑やかで慎ましい態度の裏に、これほどの剛胆さを持っていたとは……正直、想像すらしていなかった。 「私もしっかりと覚えておこう。承知だろうが、なにぶん友人が少ないものでな」 「実に貴重な体験をさせてもらった。忘れるのは惜しいし、無にしたくもない」 「そのために、おまえは進言をしたいのだろう?」 「はい」  強く、迷いなく頷く咲耶。竜胆もまた微笑で頷く。 「この局面をどう乗り切るか……試していない手がまだ一つだけ残っていたよ。おまえの口から聞かせてくれ」 「では……」  凛然と顔をあげて、淀みなく綴られた咲耶の言葉は。 「ここでわたくしが、禍憑きを使います。どうかその旨、お許しください」 「認めよう」  短く応えて、竜胆は強く咲耶を抱きしめていた。 「ぁ……」 「なんだその反応は。女同士ではないか、恥ずかしがるなよ」 「これはまあ、なんというかだ。なるべくおまえの傍のほうが、生き残れるかと思ったものでな。別に変な意味はまったくないよ」 「ならば、一緒に龍水様も……」  言って、咲耶は気絶している龍水を抱き寄せた。傍から見れば滑稽な図で、とても戦う者の姿ではない。  だがこれこそが彼女らにとって、この場における最強の策であり生きるための布陣なのだ。 「申し訳ありません。なんだかこんなときだというのに、妙に楽しゅうございます。ご存知でしょうが、わたくし友人が少ないもので」 「人肌とは、これほど安心するものなのですね」 「同感だな。それに龍水が寝ていてくれて助かった」 「こいつはぎゃんぎゃんとうるさいから、起きていたらふざけたことを抜かすに決まっている。竜胆様は、本当に姫御ですかとかなんだとか」 「まあ、それはなんとも」 「失礼な話だろう。前にそう言ったんだぞ、不届きな奴だよ」 「申し訳ありません。わたくしも少し、それは思っておりました」 「ほう……」 「いた、いたたた、あの竜胆様、つねらないで……」  腐蝕の波はすぐ間近に迫っている。これから何がどうなって、どのような収束を見せるのかは分からない。  咲耶の禍憑きは強大だが、それに比例して返し風も強く吹き、また何処に向かうかも分からないのだ。これは博打と言うよりも、単なる爆弾の破裂に等しい。  だが、何もしないよりは遥かにましだ。座して待っていても死しかないなら、一か八かに総てを賭けよう。責任の所在は明白にある。 「いいか咲耶、何があってもおまえは悔やむな。これは私の判断だ」 「何処の誰にも、絶対文句など言わせはせん。大丈夫だよ、きっとみな上手くいくから」 「兄様も、覇吐様も、そして他の方々も……ええ、そうですね。きっと、きっと……」  そして腐泥が押し寄せてきたその瞬間、極限まで張り詰めた危機意識により咲耶の封印は弾け飛び―― 「わたくしも、皆様のことを信じたいと思います」  ここに、最大の禍憑きが発現した。 「―――――――」  主の安否を確かめるべく、宙を駆けていた童子たちの身にそれは起こった。 「えっ―――」  身体が熱い。止める間もなく、内からめくりあがるように存在そのものが反転していく。  爾子と丁禮という外装の下、あまりに手に負えない代物ゆえに、夜行が封印していた本性が曝け出される。  その性は狂。その状は暴。敵も味方も何もなく、ただあるもの悉くを喰らい尽くす魔性の姿が―――― 「あ、あ、あぁ、ああぁぁあああぁぁあぁぁぁぁ――――」  狂乱の咆哮と共に、穢土の空へと解き放たれた。  その衝撃に腐蝕の波は吹き飛ばされて、跡形もなく消え失せる。  代わりに現れたのは山ほどもある巨大な銀狼――右目から血を迸らせて轟哮する、異形の獣に他ならない。  これは紛れもなく〈随神相〉《ずいじんそう》。天魔のそれと同じものだ。でなくば悪路の法を打ち破ったという事実の説明がつけられない。  神格には神格でしか対抗できない道理なら、これがそうだという結論に異を挿むのは不可能だろう。なぜ彼らがという疑問はあるが、それに答えられる者はこの場にいない。  ゆえに……  その破壊衝動の爆発が、さらなる混沌となってこの修羅場を掻き乱す。もはや人の子に出来ることなど、一毫たりとも有りはしないとでも言うように。  そして実際、それは厳然たる事実だった。  大地を砕き、空を割り、人智を超えた法則同士が相剋しながらぶつかり合う。三者は格において近しいからこそ、起きる事態の凄惨度合いは先ほどまでの比にならない。  煮え滾る神威と神威に巻き込まれ、塵屑のごとく散っていく兵の数々と死の嵐。大災害と呼ぶことすらおこがましい悪夢を前に、咲耶はただ呆然とそれを見ていた。 「ぁ、ぁぁ………」  自分たった一人だけが、まったく傷を負うことがない。当たり前だろう、分かっていたはず。なぜならそういうものなのだから。 「わた、くし……」  これが真の禍憑き、真の歪み。  大凶星――禍津瀬織津比売・凶月咲耶。  覚悟はしていたはずなのに、これまで培ってきた自負と人格が木っ端微塵に吹き飛ばされる。  眼前に展開するのはそれほどまでの暴虐で、こんな凶威を内に収めながら生きてきた自分が信じられない。  いったいなんだこの有り様は? ふざけすぎているだろう、爆弾どころの話ではないと――  今、初めてそれを知り、咲耶は己にこそ恐怖した。  何をつけあがっていたのだろう。何を勘違いしていたのだろう。これが何かの幸せにでも繋がると、本気で思っていたのか恥を知れ。  具現するのは、ただ底抜けの凶事、凶災、それしかない。そう弁えていたからこそずっと今まで封印し、この異能を消し去ろうと願ったのではなかったか。 「 」 「 」 「 」 「 」  猛り狂う異界の神々。彼らの言葉は分からないが、同時に分かるような気もしていた。  あれは自分たちを許さない。何があろうと絶対に、ここまで攻め込んでくるだろう。その揺るぎない妄執を強く感じる。  ああ、だったらそれならば、その結末を受け入れればいいではないか。  自分の望みは消えること。凶月咲耶がいなくなれば、この忌まわしい力も霧消するはず。  そうだ、それでよいはずだ。何の不都合もありはしない。  だから早く、一刻も早く、全部お願い終わらせて――  銀狼の吼え声が断末魔へと変わっていった。同格ならば二対一で勝ち目がないのも当然で、そうさせたのは言うまでもなくこの自分。  なんて害悪。有り得ない。まさに疫病神そのものだ。  つい先刻、不思議で素敵な人から言われたことも。  それに感化されたような自分に酔ってみたことも。  すでに何処か、遥か彼方へ飛び去っていて思い出せない。  しょせん人は己一人、自己の都合のみを愛しながら生き死んでいくだけなのだから、こんなものでしかないのだろう。  そう諦観して、目を閉じて…… 「兄様……」  迫り来る凶気の神威に怯えながら、総てを忘却の海に沈めようとしたそのときだった。 「――――――」  強く頬を叩かれて、あまりに容赦ない一撃だったのでその場に倒れる。何事かと、思わず涙を滲ませながら目を明ければ…… 「お返しだ。これで貸し借りなしにしよう」 「そして何度も言わせるな。魂のない死者の踊りなど許さない」 「私はまだ、諦めてなどいないのだからな」 「―――竜胆様!」  叫び、手を伸ばすが届かない。  自分の禍憑きは銀狼が斃れた時点で終わっており、ならばこれはどういうことかと刹那のうちに悟ってしまった。  そうだ、きっとこれこそ返し風。  あれだけの凶事を起こしてまで身を守った代償として、もっとも大きくもっとも輝く星が奪われる。  それが何かは、言うまでもなく―― 「さあ来い! 私はここにいる!」 「貴様ら天魔など恐れていない!」  駄目だ、駄目だ、視界が薄れる。なぜ涙が溢れるのだろう、自分のことではないというのに。  これはどういう感情なのか、自分は狂ってしまったのか。  分からない。分からないまま無情にも―― 「滅尽滅相、一人残らず」 「誰も生かして帰さない」  東征軍総大将、久雅竜胆鈴鹿の死を前にして咲耶も砕けた。  目を覚ましたとき、俺は泥の中にいた。  起き上がってみれば辺りは荒野で、自分の有り様も含めた事態の成り行きを思い出す。  正直なところ、初めは特にこれといったものを感じなかった。  ああ、なんだ。そういうことかと……気抜けしたような感覚が一番強く、寝起きそのままの頭が幾分ましになってきても、湧いてくる思いはただの困惑。  なぜ俺は生きている? 死んだはずじゃなかったのか?  天魔の力は想像を遥かに絶し、どこか暗いところへ落ちていったはずなのに……  あれは死だろう。そうとしか思えなかったし、状況的にも他の解釈は成り立たない。〈死〉《そこ》での記憶はまばらだったが、自分が無になっていくという感覚だけは鮮明に覚えている。  消えたと感じたし、終わったと思った。あの時点で俺は間違いなく零になり、ならばそこからの帰還なんて不可能なことでしかない。  死にかけたことは何度かあっても、本当に死んだのは初めてだ。自分の特性は理解してるが、それにしても現実味がなさすぎる。  なぜなら、天魔の前ではこちらの理屈など通じなかった。まったく撥ね返せずに潰されたという事実がそれを如実に証明していて、だからこそ自分の生が信じられない。  まさか向こうが俺を生かしてくれた……などと、そんな都合のいいことがあるはずもなく……  もしやこれが、夜行の言っていたツケというやつかもしれない。歪みを使い続ければその反動で、何か不条理なことになるはずだとか。  だったらこれは、いったいどういう帳尻合わせだ?  状況だけ見れば途轍もない幸運でしかないのだが、これから何かが変わっていくのか?  悩んだところで仮定に仮定を重ねていくだけ。答えなんか出るはずもない。  何もかも分からないことだらけだったが、ともかくそうして、俺は生き恥を晒す羽目になったわけだ。  軍の被害状況。他の奴らの安否。そして、あれからもう十数日経っていたらしいという事実。  それらを俺は、全部この後で知ることになる。 「ちッ……」  秀真から新たにやって来た中院の本隊により、場所を移された基地になど気分的に居たくもなかった。俺は治療もろくに受けず、近辺にある森の中ですでに二日ほども過ごしている。  あの戦いとは打って変わった静寂で、落差が激しすぎるせいだろう。俺は今ごろになって、言いようのない悔しさが込み上げてくるのを感じていた。  敗北というものは初めての経験だったが、力で劣ったことよりも自分の意を通せなかったことのほうが数段増しで腹立たしい。  勝つと言ったし、任せろと言ったし、守ると言ったのにこの様だ。腹を百回は切りたくなるほどの恥辱であり、なぜそうしないのか自分自身でも不思議に思う。  このままじゃ終われない。やり返したいという気持ちは確かにあったが、どうもそれだけじゃあない気もする。  今の俺は、いったい何を核としてここに在るのか。そういう芯が不明瞭で、やはりこれも初めての経験だったから余計に腹が立ってくるのだ。もはや自嘲すらする気になれない。  本当、分からないことがあまりにも多すぎて…… 「よぉ」  つい俺は、傍らへ声をかけた。返答などはまったく期待していなかったが、そうせずにはいられなかった。  刑士郎に、宗次郎……別に三人仲良く遠足しようぜと示し合わせたわけじゃなく、この状況は単なる偶然でしかない。  俺がここへやって来たとき、すでにこいつらがいただけで、場所を変えるのも面倒だったからそのまま今に至っているだけ。おそらく向こうも似たようなものだろう。  それぞれ腹を立てて、苛々して、ワケ分かんねえよくそったれと思っているから、お互い一言も喋らず自問のみを続けていたのだ。  が、どうやら俺が一番短気だったということらしい。思考の迷路に、いい加減我慢が出来なくなっている。 「なんで俺たち、生きてんだ?」  死んだはずの俺がこうしていること。それも含めてもう一つ。 「なんで〈天魔〉《やつら》は、いなくなったんだ?」  皆殺しにすると言っていた。一人も残さないと言っていた。奴らの殺意はそう告げていたし、それは可能だったはずだろう。  なぜ? どうして? 誰かが撃退した? 有り得ねえよ。  確かに東征の第一陣は壊滅以上の損害を受けたが、それでも俺たちを含めて生き残りは少数いる。  どころか、知己の面子が誰も欠けていないときたもんだ。犬と坊主は少々複雑なことになってるらしいが、そこはあまり問題じゃない。  あれほどの大敗だったにも拘らず、言わば主力の連中が生きている。奇跡的と言うしかないのだろう結果だが、俺はそのことが信じられない。あいつらが残敵の掃討もせずに戦場から消えるものか。  こいつらに問うたところで答えが出ないのは分かっていたが、多すぎる謎のせいで吐き出さなければ破裂しそうな気分だった。  ゆえにこれは、ただの独り言に近いもの。  二人は見るともなく俺を見てから、静かに首を横に振った。 「知らねえよ」 「分かりませんね」  短い一言で、共に『知らない』。 「はっ……」  それは当たり前のことすぎて、嘆息しか出てこなかった。俺はそのままな宙を見上げて、今の気持ちをごく端的に述べるのみだ。 「情けねえなあ……」  そろって役立たずときたもんだ。途方に暮れていると言っていい。  そんな様なものだから、ふとくだらないことまで思い出した。 「そういや刑士郎、すまねえな。喧嘩に付き合ってやるって言ったけど、今はそんな気分になれねえわ」  男の勝負っていうもんは、華がなければ意味がない。こんなシケた空気でやったところで、馬鹿みたいなことになるだけだ。 「ああ、俺もそんな気分にゃなれねえよ」 「それにそもそも、今の俺にそんな力はない」 「え?」  よく分からない口振りに、俺と宗次郎は訝しむ。刑士郎は鼻で笑って言葉を継いだ。 「確証はねえが、歪みが消えちまったみたいでな。これはこれで望んだことの一つではあるんだが、いざとなってみると……」  言いつつ、刑士郎は無造作に髪の数本を引き抜いた。それをこちらに見せて自嘲する。 「笑うぜ。憑き物が落ちるって言うのか?」 「何にせよ、白けちまうよな」 「これは……」  刑士郎の髪の毛は、根元の部分が黒く変色したものになっていた。それが何を意味するのかは、言うまでもない。  俺もそうであるように、高位の歪みは髪と瞳の色がまず真っ先におかしくなる。全部が全部ではないらしいが、異形の証としてもっとも顕著な変質を見せやすいのがその二つだ。  それが黒――つまり大和人にとって常態の色に変わるってことは、すなわち歪みの希薄化、ないし消滅に他ならない。 「なんで、とか言うなよ。俺だって分かんねえんだ」 「けどま、原因の心当たりはあるけどな。理屈は知らねえが、たぶんあのときだ」 「あの一撃を受けたときに……」  天魔の攻撃を受けたとき。死んだはずの俺がいま生きているのと同様に、こいつはこいつで、何か別の不条理に囚われたということか。 「そういうことだ。なあ覇吐よ、どうせおまえもおかしなことになってんだろう」 「ああ……」  頷いて、端的に説明する。結局俺もこいつと同じで、なぜって言うなよと締め括るしかなかったが。 「なるほどね。そりゃあんなもん食らわされて、どうもならねえなんてない話だわな」 「ツケね……他には何か、思い当たることあんのか?」 「いや。表面上、何もないってことが一番ワケ分からねえ」  死の実感。あのときに見たものを説明することはできなかった。なぜなら自分自身、もうほとんど忘れている。 「贅沢な悩みかもしんねえが、流石に俺でも楽観はできねえよ」 「それはそうでしょうね。ある意味、そういうものこそ最悪だ」 「じゃあおまえはどうだ、宗次郎」 「僕ですか。おそらく刑士郎さんの逆ですね。単純な意味で、深い汚染を受けました」 「髪の色は変わってませんが、それはきっと許容を遥かに超えているからでしょう。御せる域のものではないから、陰気に身体が蝕まれていく」 「たぶん、長くはないでしょうね。自分でも分かります」 「そうか」  つまり病人同然。歪み者という人種であれる域を超えたから、汚染は毒としてしか機能しない。実質、殺されたのと同じことだ。  牙を折られた刑士郎も、未来を奪われた宗次郎も、そして文字通り死んだはずのこの俺も。  全員、自負を叩き折られた。先ほど刑士郎が言った通り、白けたという表現こそが今の俺たちに相応しい。  悔しさも腹立たしさも、強く感じているのに芯を掴めない半端な感覚。まるで他人事のように自分の被害状況を口にしているところからも、どこか浮遊感めいたものが場に漂っていた。  だからだろうか。 「おいおい、ここは墓場なのか? 辛気臭すぎて辟易するぞ」  嘲るような声と共に現れた闖入者……その接近に、俺たちは三人とも気付かなかった。 「てめえ……」 「冷泉様……」  中院冷泉……こいつはいったい、何しにきたのか。  まさか偶然でもないだろう。立場的にも状況的にも、こんなところでふらふらとしていられるような奴じゃない。 「うむ、そう構えるな。楽にしろ」 「まったくおまえたちときたら、呼ぼうにも何処におるか分からぬし、人を遣わそうにも使者が恐れて近づきたがらんときたものだ」 「ゆえにこうして、我が直接捜す羽目になってしまった。まあ上陸以来、軍議ばかりでうんざりしていたこともある。ちょうどよい気晴らしにはなったがな」 「俺たちを捜す?」 「処罰でもしようってか」  先の負け戦は誰かが責任を取らねばならず、さらに言うならそれで士気を下げるわけにもいかない。だったら体のいい生贄として、首を切られる役は俺たちが適任だろう。刑士郎の推察は理に適っている。  だが中院は薄く笑って、まったく関係ないようなことを言いだした。 「ときにおまえたち、墓というものをどう思う?」 「はあ?」 「だから墓だ。昔は、そう、初めの東征が起こった頃まで、死骸はそこらに野晒しであったそうではないか」 「浜なり山なり河原なり、あるいは家々の軒下なりか。何にせよ、無知とは恐ろしいものよなあ。そんなことをしていては、瞬く間に疫病が蔓延する。事実、よくそうなったと記録にもある」 「それを止めさせ、今のように土葬の習慣を広めたのが御門の初代殿であったとか。賢人よな。だが初めは奇異に思われたことだろう」 「だから、なんです?」 「なぜ火葬ではなかったのかな?」 「なぜって……」  そんなのは決まってる話だろう。意味の分からない話に苛々しながら俺は答えた。 「薪がもったいねえからだろうが」 「そう、もったいない。その通りだよ。たかが死骸、肉の塊でしかない物体に薪など使う価値はない。食うとなれば別だがな、そういう者は今も昔も一握りだろう」 「だから埋める。よい手だな。穴掘りに労力は使うものの、疫病を防ぐための代価としては最低限だ。かくして土葬は御国にとっての慣例となる」 「そこでだ、思うのだよ。墓とは何だ?」  再度の問いに、俺たちは黙り込む。何を言っているのか未だによく分からないが、ともかく額面どおりに受け止めれば返せる答えは限られている。それを刑士郎が口にした。 「この下に埋まってるっていう印だろ」  土葬が慣例になった以上、何処に埋めるかを制度化しつつ、その場所に印をつけないと面倒なことこの上ない。そうしなければ、おちおち畑も耕せないだろう。 「そうだな。そういう理屈になるのだが、我はあれがどうにも気持ち悪くてな」 「気持ち悪い?」 「ああ、気持ち悪いとも。なにやら自己主張めいていてな」 「まるで、自分はこの下に埋まっているから、どうか忘れないでくれと言わんばかりに」 「何を馬鹿な」 「死んだ者に主張も何もないでしょう。冷泉様ともあろう方が、ずいぶんと奇矯なことを言われますね」 「〈墓〉《あれ》は単に、我々の都合で印をつけているだけのこと。刑士郎さんの言ったこと以上の意味はありませんよ」 「つまり我らは、期せずして死者を忘れぬようにさせられているというわけだ。そう思うと、それはそれで気持ちが悪い」 「あのなあ」  いい加減、鬱憤が溜まってきたのは皆同じか。吐き捨てるように刑士郎が言う。 「てめえおちょくってんのかよ。いったい何が言いたいんだ」 「何も。単なる世間話だ。……ああ、おいおい、そんな顔をするな」 「最初に我は言っただろう。ここは墓場かと」 「おまえたち皆、土中の〈死骸〉《おのれ》を見下ろしている木石のように見えたものでな。墓場に近寄ったときと似た気分になったのだよ」 「つまり、なんだ……」  凄まじく遠まわしで嫌味ったらしい言い草だったが、今のはこの男なりの叱咤激励か? 「おまえは、俺たちが気持ち悪いと」 「そういうことだ。有り体に、覇気がなさすぎてつまらん」 「迂遠すぎるでしょう……」 「逆にわけ分かんなくなるわ」  それは大いに同感だったが、しかし分かったことも一つある。  俺たちの覇気云々に口を出すっていうことは、処罰のために現れたんじゃないということ。  いやまあ、活きがよくなければ殺す気も起きんっていう意味かもしれんが。 「もうちょっとさ、上手い言い方ねえのかよ」 「慣れんものでな。だが本音だよ」 「特に坂上。我はおまえに腑抜けてもらいたくはない」 「別に腑抜けてるわけじゃねえよ」  ただ諸々、今後というやつに迷いが生じてしまったのだ。いくら俺が馬鹿だろうと、この状況で何も思わないほどお気楽じゃない。  不明なことは無数にあって、自負も矜持も砕かれて、それでも生きてる。なんのために?  今、俺に残っているものは何なのだと、あるはずのそれが定義できなくて足掻いている。  だから腑抜けと言われれば、あるいはその通りなのかもしれないが。 「だいたいよぉ」  こいつにそんなことを言われる意味が分からなくて、俺はぶっきらぼうに混ぜ返した。 「あんた、なんで俺が腑抜けだと困るんだよ」 「決まっているだろう。同じ女子に〈恋〉《こゆ》る者同士」 「は?」  一瞬、言葉を聞き違えたかと思ってしまった。 「なんだって?」 「何度でも言おう。おまえも我も、烏帽子殿に惚れている」 「つまり我らは、恋敵というわけだ。競う相手が脆弱ではつまらんだろう。自明のことよ」 「敵とは強い方がいい。それを征し、越えてこその我が王道。男子たるの本懐だ。おまえもそこは同意してくれると思ったのだが、見込み違いか?」 「あ、つか、それは……」  自信満々、傲岸不遜に言い放った中院に、俺は呆気として二の句が継げない。  恋敵って、それはそうだが、今はそういう次元の話なのか?  いや、そういう次元の話なんだな。少なくともこいつの中では。 「宗次郎に、凶月の、おまえたちもだ。なぜ燃えん」 「強かったのだろう、天魔とは。やられたのだろう、手も足も出ぬほど。ならばそれは、むしろ〈欣喜雀躍〉《きんきじゃくやく》すべき事態だ」 「〈寿〉《ことほ》げよ。人生において、おまえたちほどの壁に出会える者などそういない」 「どうして己は生きているのか。どうして奴らは退いたのか。知らんよそんなもの、どうでもよい。ただそうなるべきだからそうなったのだ。くだらん理屈付けなどは、後の歴史家にでも好きにさせておけばよい」 「大敗? 確かにそうだろう。だが未だ我らは生きている。そして戦も終わっておらぬ。過去の東征に比べれば、これは驚くべき進歩ではないか」 「前とは違う。ゆえに勝機、充分に有り。我はそう思うのだが、おまえたちは違うのか?」 「…………」 「…………」  中院の放言に、俺たちは即座に返すべき言葉がない。  直に天魔と向かい合い、その脅威を体験した者にしか分からないことがあると、そう言い返すのは簡単だろう。  だが、ここでそんな言葉に意味はない。事実として中院は知らないのだから、言ったところで泣き言に聞こえるだけだ。  というか、そりゃどういう意味でも泣き言だ。 「……別に僕は、もう止めたとも帰るとも思っていたわけじゃないのですがね」 「まあいいです。どうも下手なことを言えない空気になってしまった。用件をお聞かせください、冷泉様」 「まさか本当に、そんなことを言いに来ただけというわけではないのでしょう」 「ああ、そうだな。これは前振りが長くなった。許せ」 「この野郎……」  好き放題抜かした上で、さくっと切り替えやがったよ。むかつくことこの上ないが、宗次郎が言うように今は下手なことを口に出来ない。ごちゃごちゃ言い返してると男が下がる。  まあそういう意味では三人とも、当座のことに目を向けるられるようになったわけだが。 「言ったように、我らの東征はまだ何も終わっておらぬし、むしろこれから始まるのだから今後の方針というものがある」 「おまえたちそれぞれの問題はそれぞれでどうにかしてもらうとして、本営からの通達だ」 「それは?」  問いに、中院はうむと頷き、懐から取り出した紙を広げて俺たちの前に突き出した。 「こりゃあ……」 「穢土の地図だ。天魔どもとの接触により、その意識から龍明殿が汲み取ったらしい。これはまだ簡易なものだが、すぐに詳細な物も出来あがる」 「どうだ? これ一つをとってみても、緒戦が無駄ではなかったと思えるだろう。確かに一軍の壊滅は手痛いが、紛れもない武功だ」  穢土の地図……戦をするに当たりもっとも必要だったのはまさにこれで、そのためには一軍の犠牲も已む無しと言う。天秤としては、実際そういうものかもしれない。 「これの信憑性は?」 「それを言い出したら切りがあるまい。可能な限り慎重は期すが、疑っているばかりではどうにもならん。兵は拙速を尊ぶだ」 「細かい意味でのズレはあっても、重要なことはかなりの確度で判明している」 「この点ですね。これは?」  地図には幾つか、強調するような紅点が記されている。それは何を意味するのか。  淡海のすぐ先にあるここが現在地なわけだから、そこから見て北東と南東に一つずつ。そしてその先にもう一つ。 「天魔どもの居城……ないし、何らかの重要な場所であるとのことだ。この地に強力な歪みが渦巻いているらしい」  中院が龍明から聞いた話によると、これをそれぞれ〈鬼無里〉《きなさ》、〈不二〉《ふじ》、そして〈諏訪原〉《すわはら》と言うらしい。 「それを念頭に置いてもらった上で、方針を言おう。ここより先、二手に分かれる」 「―――――」  一瞬、視界が暗くなった。つまりあれを相手に各個撃破でいくってことかよ。 「言いたいことは分かるが、仕方がないのだ。この北東にある点……分かっているだけでも道のりが峻険すぎてな。大軍で動くには危険すぎる」 「ゆえに主力は海沿いを進軍していき、その先を目指す」 「分かるだろう。上を放置したまま進んでいけば、挟撃されかねんのだよ。そうなってはどうにもならん」 「確かに……」 「じゃあ〈鬼無里〉《こっち》は、少数精鋭っていうわけか」 「そういうことだな。人選は任せよう」 「ともかく、この二地点を同時に落とし、その先で合流を果たす。理解したかな?」 「ああ……」  そう言われれば、頷くしかない。だがどっちの道にしろ楽じゃないことだけは確かだろう。 「ならばよい」  こちらの気持ちを分かった上で無視しているのか、再び地図を仕舞った中院は、特にどうということもないって顔で座を締めた。 「柄ではないのでな。訓示するような言葉は持たん」 「千種、六条、岩倉には、主力の補給線として海上を攻め上がるよう、秀真へ使いを出しておいた。その準備が整い次第、進軍を開始する」 「猶予はそれまで。諸々、答えを出しておけ。敵がどれほどのものであろうと、おまえたちには後退の選択肢などないのだろうし、我にもない」 「要は気持ち次第だな。……ああ、それから」  去り際、中院はわざとらしく小首を傾げて、一つの情報を残していった。 「あちらに半里ほど行った先で、御門の陰陽頭がなにやら奇妙なことをやっておったよ」 「我にはまったく分からぬことだが、おまえたちには何らかの意味を与えるものかもしれん。気が向いたなら、行ってみろ」 「……さて」  そういうことで残された俺たちだったが、確かに答えは出さなきゃならない。  中院が言った通り、ここでケツをまくるという選択肢は言うまでもなく有り得なかったが、問題になっているのはじゃあどうするということだ。  天魔は強い。洒落にならない。今のままじゃあ逆立ちしたって太刀打ちできないのは分かっていて、東征を続ける以上はそのことに対する解決策が必須になる。  そこで夜行――中院に踊らされてるようで癪な気持ちもあるにはあったが、確かにあいつならこの閉塞した状況に一石を投じることが出来るかもしれない。  俺たちが悪路に負けたのと同じように、あいつも母禮に負けたはずだが、少なくとも何らかの指針は得たのだろうと、中院の言からも予想はできる。  だから俺たちもそれを得るため、夜行を捜すことにした。  けど、そんな中でも気に掛かっていることが一つだけ。 「僕は悪路を斃します。きっとそうしなければ助からない」 「死ぬのは怖くないんですがね。このままじゃあ収まりがつかないんですよ」  誰に言うでもなく、宗次郎が漏らした台詞。  こいつは自分の身体と誇りのために、悪路との再戦を何よりも上位に置いていた。  今まではそれを成すための糸口が見当たらなかったので迷っていたが、微かな可能性を得たことでもはや完全に吹っ切っている。  たとえこの場で期待のものが得られなくても、二度と立ち止まることはないだろう。宗次郎は今の自分が在るための、芯になるものを見つけたのだ。  しかし俺は、いや刑士郎もそうなのか……  強くなるという目的は目的として捉えながらも、そのことに宗次郎ほどのめり込めないままでいる。  何かが足りないのだ。しかしそれが何かは、未だに曖昧として分からない。  ちくしょう、俺はこんなにふらついた奴だったか。やっぱりどこか、壊れちまったんじゃないだろうか。  思いながらも、辿り着いたその先で……俺は一つの驚異的な変質を見ることになる。  そもそもが――  太極とは何ぞやと言われれば、端的に法則と言うしかない。  すなわちその世界における絶対法であり、そうした決まり事を定めた張本人を指す。  無論、世に法則といったものは無限に近く存在するし、それら一つ一つが太極というわけではない。  現実に刃物は切るという法則を帯びているし、火は燃やすという法則がある。水中の法則ならば肺呼吸ができないというものであろうし、そうした細々としたものは単なる物理だ。  重要なのは規模、密度。その法を構成する単位が宇宙という規格であり、ゆえにそれのみをもって独立した世界となり得るものを太極と定義する。  何も難しい話ではない。前述した水中の法が太極と化したなら、全宇宙が水底に変わるというだけのこと。もしくは、宇宙を砕く領域の法でなければ蒸発も凍結もしない水が誕生するだけのこと。  前者を覇道。後者を求道。  己が法則で森羅万象を制圧する太極と、己が法則のみ森羅万象から外れるという太極である。  この法を色と呼び、それを決定するのは人の想念。我は何々がしたい、何々になりたい。そうした祈りや願い、つまり渇望と言われるものが、太極を発生させる原動力となる。  よって、型に嵌めるとはそういうことだ。己を象徴する〈渇望〉《いろ》をもって、自らが願う宇宙の在り様を決定する行為に他ならない。  それは分かった。分かったゆえに摩多羅夜行は考える。  これまでのことは確信に近い推論として東征前から立てており、事実その通りだったと判明した。ならばもう、後に残っているのはただ一つしかないだろう。  己の〈渇望〉《いろ》とは? 我が宇宙を定義する願いとは?  その壁さえ乗り越えれば、夜行は真実の太極へ至れるだろう。最初からその場所へ達しているのだから、後は何がしたいのかを定めるのみ。至極簡単なことに思える。  しかし、夜行には〈渇望〉《それ》が何か分からない。狂おしく希求する何某か、久雅竜胆が言う魂の形というものが見えぬのだ。  そもそもからして、彼の場合は順番が狂っている。太極に至るなら、まず何よりも願いありき。己が理想に焦がれる心を持ってなければ、そこに達することなど出来はしない。  だというのに、夜行は想い無くしてなぜか届いた。〈空〉《カラ》の曼荼羅に一人座し、はて私の色は何なのだろうと、今頃になって考えるという異常事態。  別に何の欲も願いもないというわけではない。むしろどちらかと言えば俗な感性を持っているし、世の諸々にそれなりの興味もある。  だがやはり、始まりから飛び抜けていた彼は根源的にずれていた。今もっとも願うのは、それ自体を探すこと……などという本末転倒の結論へと至っている。  ゆえに夜行は、思わず苦笑を漏らしてしまった。まあよい、これも中々風雅であると楽しみながら、特に落胆もしていない。  なぜなら〈穢土〉《ここ》には、それを解き明かすための要素がごまんとあるのだ。焦る必要などまったくないし、もともとそういう性分でもなかったから。  〈敵〉《セミ》を探す。〈壁〉《セミ》を求める。嬉しや、退屈せずにすみそうだ。  と、不敵に笑いながらもどこかで…… 「落ちろ、波旬――」  あの一言が、拭えぬものとなって今も胸に残っている。有り体に言って不愉快なのだ。  よって、思う。  よかろう。ソレがどのようなモノか見極めてやる。 「――夜行様」  瞑想よりの覚醒は、彼を呼ぶ声と寸分の狂いもなく同じだった。 「おまえも何かを識ったか、龍水」 「はい、夜行様。私が識っていることは、あなたが絶対であるということ、唯一つです」 「それを確認していただけのこと。何ら問題はありません」  いつの間にか背後で禅を組んでいたらしき龍水は、そう力強く断言する。夜行はそれに些細な違和感を覚えながらも、すぐにどうでもよいことだと気を切り替えた。  額が熱い。そこに高まる咒力を感じる。  ああ、これが新しい天眼かと思いながら、新たに得た咒の情報を無意識のうちに編み上げていく。  未だ我が太極に色はないが、万象に対する理解を深めたことで至極単純なことが判明したのだ。  それは自分の好みでないものの、東征における強力な剣となることは間違いない。  ゆえに同志へその可能性を与えてみようと考える。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》という強い思いが、なぜか目覚めと共に溢れてくるのだ。  彼らの芯へ、魂へ、霊的に刻み付けるべく言霊を組んでいく。 「南無大天狗、小天狗、有摩那天狗、数万騎天狗来臨影向、悪魔退散諸願成就、悉地円満随念擁護、怨敵降伏一切成就の加持」 「唵 有摩那天狗 数万騎 娑婆訶・唵 毘羅毘羅欠 毘羅欠曩 娑婆訶」  そこには、巨大な常緑樹の根元に座している夜行がいた。独特の韻律で上下するその唇が、流水の滑らかさで咒を紡ぎあげ続けている。  そう、文字通り紡いでいるのだ。  漏れ出る膨大な咒の数々が、肉眼で視認できる言霊となって周囲の空間に書き込まれていく。複雑に絡み合い、瞬きながら、何重もの立体的な構造体を織り上げている。  それが何を意味しているかは、門外漢の俺たちにも理解できた。  これは咒法の駆動式、その設計図に他ならない。詠唱までも含めて、夜行の脳内に形成されていた法則が、いま完成を見ようとしていた。 「夜行さん……」 「おまえ、目が……」  あのいつも謎めいた、人の奥を見透かすような光を湛えていた双眸が潰れている。  失明だろう。こいつも俺たちと同様に、これまで自分を立たせていた大きなものを先の戦いで失った。  あるいは、自ら捨てたのか。  さらなる高みへ達するため、飛翔に伴う必然的な代償として…… 「太極は非想を経て回帰を巡り、転輪は今、この天狗道に至る」 「されど」 「黄昏の残党が八欠片……歪みか、業だな」  いつの間にか詠唱を終えていた夜行が、常の口調で何事かを呟いていた。  そして、〈無〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈目〉《 、》〈の〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈得〉《 、》〈た〉《 、》〈目〉《 、》〈が〉《 、》〈開〉《 、》〈く〉《 、》。 「――見えたよ。天魔に伍する法」 「〈我〉《 、》〈々〉《 、》〈が〉《 、》〈我〉《 、》〈々〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》」  額を縦に割って開かれた、第三の目。その瞳で見られた瞬間、俺の中でも何かが弾けた。 「………あ」 「咲耶……」 「紫織さん……」  なぜ今まで気付かなかったのだろう。  夜行が座している木の裏側には龍水も座していて、その前には俺たちと同じく竜胆たちも立っていた。  つまり男組と女組が、線対称の構図でいたこと。  視力がおかしくなっていたのだろうか。それともさっきまでのが正常で、今のほうがおかしいのか。  どちらでもあるような。どちらでもないような。  ただ一つだけ言えることは、物の見方が変わったこと。見えないものが見えるようになったこと。  だから分かる。ああ、本当にまったくどうして、俺はこんなことすら分からなかったのかと自分自身で呆れるほどに。 「竜胆……」  俺はただ――〈心〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈勝〉《 、》〈ち〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》と、そう思うようになっていたんだ。  負けた悔しさも、腹立たしさも、総ては俺個人の問題ではなく、竜胆の敗北になってしまったことへの憤り。  なんのために再起して、誰のために強くなるのか。  その定義を履き違えていたんだから、そりゃあしっくりくるわけないだろう。もしかして刑士郎の奴もそうだったのか? 「悪い、俺馬鹿だからよ。ちょっと勘違いしちまってた」 「次からちゃんと、しっかりおまえと同じもん見る。そういうことで、一緒に行こうぜ」  竜胆は大将だから、当然軍の主力を率いなければならない。だったら俺もそっち側だ。  夜行が述べた天魔に伍する法とやら。意味はまったく分からないが、感覚として胸に残るものがあった。それは他の奴らも同じだろう。  ああそうだ。もう負けはしないと強く思える。 「では、僕もそちらに付きましょう。勘ですが、そのほうがよい気がするので」 「なら俺は別口だ。咲耶もな、頭数少ねえほうが楽でいい」 「となれば私は、否応もないな。今の刑士郎らを捨て置くわけにもいかぬだろうし」 「爾子と丁禮のこともある。もうしばらくは、身軽なうちにやらねばならんことがありそうだ」 「じゃあそういうことで、決まりだな」 「せっかくだし夜行、そのけったいな目で占いでもしてくれよ」 「おまえはいったいどっちの道が、より派手なことになると思う?」 「さぁて……」  問いに夜行は、肩を竦めて薄く笑う。鬼でも蛇でも、二つに一つ。 「だがどちらにしても、一筋縄ではいかんだろうな」  記憶しているのは、身体を断ち割られた痛みと熱さ、そして死というものの実感。  その中で聞きとがめた、不可解なやり取りだった。 「  」 「  」  それは会話だったのだろうか、誰かが喋っているように思えたが、何を言っているのかは分からない。轟々と渦巻く海鳴りのようで、意味を判じることは不可能だった。  死に瀕した――あるいは死んだ――身の上ならばこその、暴走した感覚が起こす錯覚というやつかもしれない。  しかしなぜか、これは現実だと確信したのを覚えている。 「    」 「  」 「    」 「  」  射るような、嘲罵に等しい大上段からの物言いは、同時に哀れみめいたものを含んでいた。  無論、そのように感じるというだけで、確証はまったくない。しかし誰が言っているのかはともかくとして、誰に言っているのかは想像がついた。  あれだ。あの怪物たちに傲然と命じているのだ。やはりこれは、実体の妖しい迷妄の類かもしれない。あれにそんな態度を取れる者などいるわけがないのだから。 「 」 「  ……」 「 」 「  ……」  誰何、困惑、そのような気配を感じた次の瞬間…… 「 」 「  」 「 」 「  」  絶叫が、爆発した。 「―――――!」 「―――――!」  魂切るような、断末魔を思わせる叫びと共に巨大な気が消えていく。それはまるで、崩れ落ちていく砂上の楼閣を思わせた。 「。、。、」 「、。、」 「 ―――!」 「……! ……」 「。……」 「。、。、」 「、。、」 「、―――!」 「……! ……」 「。……」  怨嗟の声をあげながら、薄れ溶けていく二柱の魔性。びょうびょうと吹き荒ぶ唸りは泣き声のようで、どこか儚さのようなものすら感じていた。 「…………」  そして、後に残ったのはただの暗黒。  それ以外は何もなく、自分がどうなったのかも分からない。  当たり前に考えれば死の運命しかないはずだが、すでに諸々、常識なんてものは遥か遠くに消し飛んでいる。  そもそも、自分に死ぬ気はなかった。死に逃げが許されるような立場ではないし、やらねばならないことは無数にある。  命を惜しんでいるわけではないが、だからといって死が怖くないわけではないし軽んじてもいない。  矛盾と言えば矛盾と言えるこの感覚を、しかし自分は間違っていると思わないから、大事なことだと信じているから……  将としても、久雅竜胆個人としても、まだ生きねばならない。死者の踊りを無くしたいと願う。  そう考えるのは、傲慢な押し付けだろうか? 「いいや、違うな。御身はそれでいい」 「その志、覇道の魂を大事にされよ。私としても期待している」  どこか聞き覚えのある声に優しく諭され、ゆっくりと竜胆の意識は闇に沈んだ。  覚えているのはこれだけ。本当にただこれだけ。  そしてそれも、徐々に思い出せなくなっていく。  まるで、砂上の楼閣が崩れるように……  ………………  ………………  ……………… 「ではそういうことで。私から言えることはそれだけだ」 「自愛? ああ、そうさせてもらうが、要らぬ気遣いは無用だ」 「先の敗戦について、私は如何なる責任も拒むつもりはない。貸しを作った、などとは思わないでもらおう」 「下がられるがよい、冷泉殿。こんな様だが、女の部屋だ」 「その程度の礼は、御身も弁えているだろう」  切り口上でそう言って、招かれざる客を追い返す。必要以上に険のある言い草だったのは自覚していたが、それでも冷泉は慇懃な態度を崩さないまま、微笑で総てを受け止めて退室していった。  嘉永十年、皐月の第六日目……夜都賀波岐・悪路と母禮によって第一陣を壊滅させられてから、実に十三日が経った日の夜だった。 「……くそ」  再び一人となった室内で、竜胆は小さく呻いた。先の態度は我ながら余裕がなさすぎて、自己嫌悪に陥っている。  目覚めてからまだ一日、動けない間に軍権を奪われたかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。冷泉はあくまで一時的な代理としての範疇でしか行動を起こしておらず、その手際は嫌味なほど完璧に近い。  崩壊した前線砦は速やかに捨て去って、竜胆ら生存者と使用可能な物資の救護と搬送、秀真との兵站線を確立しつつ新たな砦を築き上げ、東征の本格的な下拵えを着実に進めている。  まるで、自分たちの敗戦など存在しなかったかのような水際立った指揮ぶりだった。如何についさっきまで寝ていたとはいえ、この第二陣が極めて良好な状態にあることは竜胆にも分かる。  二重の意味での敗北感。居ても居なくても構わないどころか、居ないほうがいいと言われているような状況を見せられながらも、冷泉は竜胆を立てている。彼女の立場を侵害せず、斃れた兵たちの武勇を称え、あくまで二番手としての態度を崩さない。  正直、面と向かって無能を謗られ、罷免されたほうがまだ楽だった。これでは生殺しの道化に近い。  そうした苛立ちから見舞いに現れた冷泉を追い払ってしまったが、しかし竜胆は分かっている。自分にこんな感情を楽しんでいる暇などないということを。  敗北の責任云々とは言ったものの、罷免や切腹で許されるような失態ではない。その手の逃げは、何より彼女自身が唾棄すべきものと心得ている。  冷泉の意図はどうであれ、自分が成すべきは勝利に貢献することなのだ。失地回復などという個人的な意味ではなく、斃れた兵たちを無駄死ににさせないためにも立たねばならない。  それこそが自分の責任。いま考えて、これから成さねばならないこと。その重要性に比べれば、現状味わっている謎や屈辱など取るに足らない。  なぜ己は生きているのか? 知らない。心底どうでもいい。死んでいないなら生者に出来ることをやるのみで、それはこのように悶々としていることではないだろう。  図らずも冷泉に煽られたようで複雑だが、ともかくもう充分に休んだ。特に身体的な異常も〈表〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  謎や不思議の究明などは、全部終わってからやればいいのだ。ゆえにまず、さし当たっては…… 「あやつらを、労わねば……」  自分と同じ戦場に立ち、同様に打ちのめされた者たち……久雅竜胆の指揮下で敗北し、深手を負いながらも生き残った勇士らを称えねばならない。  彼らに詫び、彼らを慰撫し、彼らと共に再起するのが、いま何よりも重要なことだと思っている。  彼らは強く自負に依った人種だから、それを砕かれれば脆いだろう。別に蔑むような意味ではなく、冷静にそう感じる。  他者のそうした性質が、今までは時に不愉快ですらあったのだが、このときの竜胆は妙に悲しく、儚い愛おしさのようなものを感じていた。  傲慢な考えかもしれないが、彼らが迷っているのならそれを救えるのは自分しかいないと、なぜか確信できていたから…… 「いつまでもそんなところに隠れていないで、出てこいよ紫織」  つい今しがた気付いた者へ、優しく竜胆は語りかけた。その呼びかけにびくりと驚いたような気配が生じて、柱の陰から細身の女が現れる。  その姿は、どこか歪なものになっていた。 「……まずった。まさか竜胆さんに見破られるとは、私もヤキが回ったね」 「見舞いにきてくれたんだろう。だったら普通に正面から来ればいいのに、変な奴だな」 「私は別に、そんなつもりじゃなかったんだけど……」  基本、竜胆の前でもまったくへりくだらない紫織だったが、今は流石に所在なさげだ。無理もないだろうと思う。彼女は肩から先の両腕を失っていた。  その様に驚きを覚えなかったと言えば嘘になる。報告は受けていたが、直に目にすることで悲痛な気持ちがこみ上げてきた。武道の大家である玖錠の娘が、腕を失うということの意味が分からないような木石ではない。  だから、あえてそこに触れようとはしなかった。暗くなっても仕方がないし、出来るだけ快活な調子で言葉を継ぐ。すでに先ほどまでの苛立ちは、竜胆の中から消え去っていた。 「冷泉殿から貰った菓子がある。おまえもどうだ、一緒に食おう」 「え、だけどそれは……」 「紫織、おまえは私を太らせたいのか? 命令だ。片付けるのに手を貸せ」 「何なら茶も淹れてやるぞ」 「出来るの?」 「舐めるな。それくらいの娘らしさはある」  得意ではないがなと付け足して、竜胆は寝床から出ると部屋の隅にあった茶道具一式を持ってあれこれと準備を始めた。その手元は怪しかったが、まあそれなりの形にはなっている。  ああ、とか、いや、とか、それを見ながら紫織はぶつぶつとこぼしていた。おそらく諸々の手際について言いたいことがあるのだろう。  これで意外にも料理が得意な娘だし、茶の湯についても一定の腕前があるのかもしれない。竜胆の為様が見るに耐えないということか。  奇妙な可笑しみを覚えながらも、しかし表情だけは拗ねたようなものにして、竜胆は紫織を睨んだ。 「おい、何か言いたいことがあるなら言えよ。というか、不味い茶を飲まされたくなかったら言ったほうがいいぞ」 「龍水など、一度私の茶を飲ませてからは頑として拒絶するようになった」 「あ、あ、じゃあ、えっと――」  渋々、あるいは恐々とか、ともかくそういった態で紫織が口を挿んできた。一度それを許してしまえば、これがまた実に細かく、終いには竜胆がうんざりするくらい駄目を出されて辟易したが…… 「ん、まあ合格かな」  何度目かの挑戦でようやくお墨付きを貰えたようでほっとした。同時に少々腹が立ったので、碗に添えていた手を押し上げて残りを一気に煽らせる。両腕のない紫織は抵抗ができない。 「ちょっ、ま―――、もがが」 「態度がでかい。あと、いつぞやのお返しだ。確かこんな風にして、無理矢理酒を飲ましてくれたな」 「ぐ、ぐ、がはぁっ!」 「しかし、それでも一滴もこぼさんか。変なところで礼儀正しいな」 「あ、あ、あのねえ!」 「なんだ?」  相当に熱かったのだろう。噎せながら睨んでくる紫織を冷然と見返す。無論、内心では噴き出しかかっているのだが。 「お茶の極意はおもてなしの心よ。和の心。こんな乱暴しちゃ駄目でしょうが」 「気にするなよ、私なりのもてなしだ。それでほら、これも食え」 「ん――、もが、もがが」 「かすてらという異国の菓子だ。私も何度か食ったことがあるが、まあ旨い。実は結構気に入っている」 「なあ、おまえはどう思う?」  問いながら、自分は自分でかすてらを摘んでいる竜胆を、紫織は憤然と見つめていた。ようやく喉の物を呑み込んで、呆れ気味に言う。 「別にどうでもいいよ。ていうかそんなことより、中院も意外にマメっていうか、わりかし真面目に口説こうとしてるんだね」 「何がだ?」 「だから、竜胆さんを。傷心の女に甘いもの持参とか、ベタだけど弁えてるっていうか」 「実際、竜胆さんはさ、なんであいつのこと嫌ってんの? そりゃ立場的に色々あるのは分かるけど、そうおかしなもんでもないんじゃないの、客観的に」 「さて、な」  おかしな方向に矛先が向いてきて戸惑いながらも、竜胆は曖昧に答えた。  というよりも、曖昧な言い方しか出来ないのが本音なのだが。 「おまえは彼のような男をどう思うのだ?」 「私は駄目だよ。ああいう気障いの苦手だし、男は腕っ節だと思ってるし」 「でも、竜胆さんはさ」 「ああ、言いたいことは分かっているよ」  確か覇吐にも言ったことだが、自分から見て他の総ては大差ない。冷泉だけが自分と相容れないわけではないのだから、彼を特別嫌う理由など本来ならないはずなのだ。  しかしなぜか、どうしてもあの男は癪に障る。今まで何度か自問したことはあるものの、答えは一度も出ていない。  それを深く考えることも、逆に意識しているようで嫌だったから、結局竜胆は逃げるように話題を変えた。 「何にしろ、かすてらに罪はないのだからしっかり食べるさ。言ったように、好きだしな」 「これのために開国というわけにもいかんだろうが、製法をこちらの職人にも覚えさせたいところだよ。そう難しいものでもないと聞くし」 「卵と砂糖と水飴でしょ。それを小麦粉に混ぜて焼いてお終い。たぶん竜胆さんにだって作れるよ」 「私はまあ、もう無理だけど」 「それは……」  そんなつもりで言ったわけではないのだが、期せずして嫌な流れになってしまった。紫織は今後、菓子作りどころか日常の生活さえ満足にならないかもしれないのだ。  臍をかむような気持ちになりつつ、しかし竜胆はそれを面に出さなかった。紫織は同情など求めてはいないだろうし、自分は先を見なければいけない。  だから努めて平易な口調で、同時に力強く竜胆は言った。 「御門に機工学の分野がある。どの程度のものなのかは分からんが、義手を得ることは出来るだろう」 「すまない、紫織。だけどおまえが生きていてくれてよかった。これは本音だよ」 「う、うん、そりゃまあ、その……」 「なぜ謝られるのか、よく分からないといった顔か、それは」 「え、いや、そういうわけじゃ、ないよ」 「ならばいい。ついでにもう一つ、先の言葉と矛盾するようだが、私は嬉しい」 「はあ?」 「よく私のところに来てくれた。甘えたいなら、甘えていいぞ」 「ばッ―――」  紫織は絶句し、次いで顔中真っ赤にする。ふざけるなと言いたいようだが、口をぱくぱくさせるだけで彼女は二の句を継げられない。たぶん図星なのだろうと、竜胆は勝手に思うことにした。 「おまえはあまり、他者に構わない奴だろう。他の連中も似たようなものだが、その中でも比較的上位というか」 「宗次郎や夜行と似たような系統かな、と思っていたのだ。実際奴らは顔を見せんし、普段纏わりついてくる覇吐や龍水すら同じときた。凶月どもはいつものように人馴れせぬし……」 「まったく、どいつもこいつも一度負けたくらいでじめじめと、殻にこもりおって情けない。その点、紫織、おまえだけだよ。私に可愛いところを見せてくれたのは」 「ちょ、何を勝手に決め付けてんの」 「違うのか?」 「違うったら!」 「じゃあ何をしに来た?」 「そ、そりゃあ別に、何て言うか……」  もごもごと歯切れ悪く、紫織は何か言っていたが、竜胆はあまり聞いていなかった。 「とにかく私がそう思ったのだから、私の中ではそうなのだ。これはおまえたちの理屈だろうに、文句を言うなよ」 「仮におまえが、珍獣の相手をして気を紛らわそうと思っていたのだとしても、意味合い的には同じなのだからな。そうだろう?」 「…………」 「な?」 「あーもう!」  上体ごとぶんぶん頭を振り回して、やけっぱち気味に紫織は叫んだ。 「分かった分かった。それでいいよ」 「でもなんか、そういうことにすると私だけがへたれちゃってるみたいでムカっ腹が立つんだけど」 「そうでもない。言ったように、引き篭もっている奴らよりはマシだと思うぞ」 「でも竜胆さんは違うじゃん」 「当たり前だ。私はおまえたちの将だぞ。一緒にするな」  即答でそう返すと、紫織は目を白黒させていたが、やがて大仰に嘆息した。 「はあ、うん、そうね。はいはい。分かりましたよ、敵いません」 「やっぱ頭おかしいわこの人」 「何か言ったか?」 「いいえ、なんにも」 「まあ、とにかくだ」  東征はまだ終わっていないのだから、立ち止まっている暇もない。生きているのならやることをやるだけだ。  そう言って、次の話に移ろうとしていた瞬間に、遠慮のない笑い声が耳朶を打った。 「はっはっは、いやまったく然り」 「龍明さん……」  いつからそこにいたのだろうか、気付けば御門龍明が、部屋の入口で肩を震わせながら立っていた。 「気落ちしているようなら発破をかけてやろうと思っていたが、どうやら要らぬ世話だったか」 「ああ、やはり御身はこう、実に可愛いな烏帽子殿」 「……何か用でも?」  知らず険を帯びたその口調に、竜胆は自分自身で当惑していた。なぜ彼女に対し、敵でも見るような緊張感を覚えているのか。  記憶、夢、分からない。何かあったように感じるのだが、思い出せない。気のせいかもしれない。  微かな頭痛が走ったが、それが去った頃には先の違和感も消えていた。 「どうした。まだ体調が優れんかね?」 「……いや、なんでもない。それで」 「ああ、幾つか報告があってだな。紫織もいるのなら丁度いい」  言って龍明は、二人の傍までやってくるとそのまま静かに腰を下ろした。 「まずはこうして、再びまみえられたことを嬉しく思うよ。無事にというわけにはいかんようだが、それでも僥倖には変わりない」 「天魔どもがなぜ退いたのかはさっぱり分からんが、事態は前向きに捉えよう。他の者らのことは聞いているかね?」 「冷泉殿から、少しは」 「私はあんまり」 「ではそこからだ」  やってくるなり場を仕切られたような気がしたが、別に異を唱えるようなことでもない。黙って竜胆が促すと、龍明は料理の説明でもするような調子で話しだした。 「第一陣で、死亡者数は九千七百四十八名。生き残った少数も、我々のように皆負傷している。事実上の全滅だ」 「冷泉殿の艦隊が、兵三万を引き連れてやってきたのが八日前。今では七万になっているが、これでようやく三分の一といったところだな。とはいえ全軍揃うまでここに待機するわけではない」 「次の陣が到着した時点でその者たちにここを守らせ、現存の兵は進軍を開始する。兵站線を断たれぬように陸海の連携を要するが、まあそれについては冷泉殿の手腕に任せよう。あの御仁はこういったことの達者だから、我々の役目は依然として変わらない」  つまり切り込み、最前線。先の戦で大敗したことを踏まえれば有り得ない配置だが、ある意味では当然のこととも言えるだろう。  直に化外の脅威を知っている者が前線の指揮を執ることに理はあるし、戦力的にも第一陣の生き残り組は外せない。  龍明はそういう理屈で通したのだろうし、冷泉はともかく他の三家は竜胆が危険に身を晒すことを好都合だと思うはずだ。七万という兵力は、切り込みを成立させつつ玉砕しても立て直せるというギリギリの数なのだろう。  すなわち裏を返せば、竜胆にもう後はない。次に敗北を喫すれば、どうなろうと将の座を追われる。生死を問わず、戦犯として吊るし上げられることになるだろう。  その意味を解して表情が険しくなった竜胆を、龍明は楽しげに見つめていた。 「無論これは仮のもので、最終的な決定権は総大将たる御身にある。どうするね烏帽子殿、気に入らんなら体調の回復を待ってからの再軍議となるが」 「いや、時間もないのだ。これでいい」 「私が起きていてもこの手を主張しただろう。感謝している」 「それで、陣容だが」 「〈勢州〉《せいしゅう》と〈雍州〉《ようしゅう》、つまり久雅と中院の連合だな。内訳は六:四といったところで、私の一門もこれに加わる。まあ、あからさまだが」 「六条らにとっては態のいい捨石か。漁夫の利でも狙っているのだろうが、まったく……」  こんなときにまで、いやこんなときだからこそというべきか。度し難い限りだが、やる気のない者たちと直接組むよりはマシだろう。 「冷泉殿は利用しておけ。色々思うところはあるだろうが、あれはとかく優秀だ。少なくとも東征の間は頼りになる」 「ああ、分かっているよ。利害の一致だ。それくらい分かる」 「だけど私が、真に頼っているのは彼ではない。そこについてはどうなのだ?」 「うむ、それだがな」  龍明は含み笑って、先ほどから居心地悪げに沈黙している紫織のほうへと流し目を向けた。 「どうだ紫織、天魔は強かったか?」 「……………」 「ここで戦線離脱したいと言うなら構わんぞ。何せその様だし、それが普通だ」  両腕を失った者が戦い続ける道理などない。龍明の台詞に、紫織は嫌気顔で鼻を鳴らした。 「倣岸も大概にしてよ龍明さん。私のこと馬鹿にしてるの?」 「もう帰るなんて一言もいってないし、このままでもそこらの奴らよりは充分やれるつもりだよ」 「そこらの奴より、そう言ったか。なるほど確かにそうだろうが」 「その程度で我らが総大将の期待に応えられると思っているわけでもあるまい」 「だから」  冷徹な言い様に、紫織は怖じることなく反駁する。彼女は彼女で、先の敗北が腹に据えかねているのだと竜胆にも分かった。 「義手、ちょうだいよ。御門にはそういう術科もあるんでしょう? そう聞いたよ」 「ああ、傀儡の法というのだが。はっきり言って痛いぞ。寿命も縮まるかもしれん」 「問題無いね。あいつらぶん殴る手が戻るならなんだっていい」 「どうしたら勝てるかなんて、まだ全然分からないけど、まずは立たないと始まらない。そのためにはね、でしょ竜胆さん」 「そうだな」  問題は山積みだが、今はともかくそういうことだ。誰も退くつもりはないのだから、前向きに出来ることからやっていくしかない。 「紫織はこの通りだよ、龍明殿。これ以上意地の悪いことを言っても嫌われるだけだ」 「私が嫌われることで戦に勝てるならいくらでもそうしてやるが、まあ分かったよ。烏帽子殿に泣きついて気も晴れたようだな」 「私は別に泣きついてなんか――」 「他の餓鬼どもは泣きついてこんのかね」 「~~~~っ」  暖簾に腕押しを地でいく態度はいつも通りで、この人は本当に変わらないなと思ってしまい、苦笑が漏れた。 「……ああ、まあ、その通りだよ。可愛げがあるのはどうも紫織だけのようだ」 「ちょっと二人ともいい加減に――」 「分かった分かった。少し黙れ、これでも食ってろ」 「もがが」  再度、紫織の口にかすてらを詰め込んで黙らせる。 「それで、他の者らだが……」  竜胆の問いに、龍明はそれぞれ簡潔に答えてくれた。誰がどういう負傷や異常を抱えたかは、だいたい知っていたから驚かない。  が、現状彼らがどうしているのか、それを聞いて呆れの溜息が漏れてしまった。 「なんとまあ、あの馬鹿ども……」  特に男どもときたら情けない。自分の前に顔を出さないだけではなく、そろって雲隠れを決め込んでいるとは。 「覇吐だけは死んだのかと思われていたが、ちょうど御身が目覚めたのと同じ時期に戻ってきたらしい。その後は何処に行ったやら分からんが」 「おそらく、この近辺におるだろう。宗次郎と刑士郎も似たようなものだ。捜してみるかね?」 「そうしたいのは山々だが、やめておこう。あれらにも面子はあろうし……」  いま会ったら、引っぱたいてしまいそうだ。別に男同士膝を抱えているわけでもあるまいが、絶対そこに雄々しい絵面はないだろうと断言できる。 「まあ、概して男とはそういうものだ。女なら、それを可愛いと思ってやる度量が必要かな。私は無理だが」 「ふふっ、私も無理だ」 「私は別にいいと思うけど」  器用にかすてらを租借し終えた紫織が、とぼけた調子で割って入った。竜胆はじろりと一瞥を与えたが、あまり効果はなかったらしい。 「夜行の奴は?」 「さあな。あれは少々特殊だから、何かやってるのかもしれん。直に天魔と対したことで、変わるとしたらあの男だろう。あるいは、それこそを目的としていたとしても不思議はないしな」  自らの言葉に奇妙な確信めいた含みを持たせて、龍明は続けた。 「龍水もそう思っているようで、あれは夜行を捜しに行ったよ。甘える相手として私と烏帽子殿は振られたわけだが、まあ素直でよい」 「爾子と丁禮は咒を破られ、型を壊された。あれらは式だから死んだという表現は正しくないが、何にせよ夜行が再起せねば復活できん状態だと思えばいい」 「あとは咲耶か……」  自然と声が低くなる。実のところ竜胆にとって、一番気に掛かっているのはあの少女のことだった。  彼女に禍憑きを起こさせたのは自分だし、結果に責任を感じている。あれで気丈な娘なのは知っているが、だからといって平気なわけがないだろう。 「臥せっていると聞いたが、どこか悪くしているのか?」 「いや、身体的に特にはない。ただ心がな」  龍明にしては珍しく、悼むように声を落とした。そして続ける。 「外部からの刺激に一切の反応を示さん。壊れてしまったのかもしれん」 「壊れたって……」  心の負荷が許容を超えた人間は、自己を守るため時に無感の人形と化す。そうした事例があることは、竜胆も知っていた。 「そうか……」  無理もないと言えるだろう。あれはそれだけの禍で、心が壊れても不思議はない。 「咲耶には借りがあるし、見舞いに行こう。紫織も付き合え」 「あ、うん。そりゃいいけど、ねえ龍明さん。今後の方針っていうか、そういうのはもうないの?」 「いいや」  応えて、龍明は懐から紙を取り出すと広げてみせた。 「先の戦で、化外どもの意識から穢土の地理を汲み取った。まだ未完だが、これがそうだ」 「烏帽子殿は、すでに冷泉殿から大方聞いているだろう。私からの説明は必要かね?」 「いい。紫織には私が話す。龍明殿は引き続き、地図の完成に務めてくれ」 「了解した。ではそういうことで、これはここに置いて行こう」 「咲耶の見舞いに行くのなら、気晴らしに外へ連れ出してやってくれ。身体的に異常はないのだ。こんな所に詰められているよりはそのほうがいいだろう」 「出来れば龍水の様子見もな。頼んだよ」  言って、龍明は立ち上がると去って行った。紫織と竜胆は、その場に残された未完の地図に目を落としている。 「ねえ、これって……」 「ああ、つまりこれより先、二手に分かれるということだ」  地図に記された紅点は、化外にとっての重要拠点を意味している。現在地から進むにあたり、北東の地は道のりが険しすぎて大軍を導入できない。  かといってそこを無視したまま進んでしまえば、挟撃の危険が発生する。 「じゃあ上は少数精鋭、そういうことだね」 「問題は、誰が行くか……」  最悪の場合、再びそこで天魔とまみえることになる。竜胆は軍を率いなければならないし、傷の重い紫織も行かせるべきではないだろう。  いいやそもそも、どれだけの戦力を整えようがあれをどうにかする術があるのだろうか?  と考えながらも、竜胆は己の内に生じる不可思議な気持ちに気付いてしまった。 「…………」  正直、心当たりはなくもないと。 「……竜胆さん?」 「ああ、すまん。ともかく冷泉殿から聞き及んでいた方針を伝える」 「〈鬼無里〉《きなさ》、〈不二〉《ふじ》、そして〈諏訪原〉《すわはら》……天魔どもの意識では、この地をそう呼んでいるらしい」 「私は軍と共に不二へ向かわなければならないし、おまえもそちらに来い紫織。鬼無里の面子は、また熟慮する」 「そうしてこれら二点を制し、その先にある諏訪原で全軍集結させるのだ。すでに嵐は晴れたのだから、海上の兵站輸送も機能する。不可能ではない」 「私らが全滅せずに進めたら、でしょ」 「そうだが、やらねばならんだろう」  短く言って、竜胆は立ち上がると素直な気持ちを口にした。 「言うまでもなく困難は予想されるが、それについて私が一番頼っているのはおまえたちだよ。だから私のことも信じてほしいな」 「どんな風に?」 「まだ口にはできないが」  不思議と竜胆の中には確信があった。自分たちは天魔を斃せる。  あれは、あの恐ろしいモノたちは、決して無敵の怪物ではない。  むしろどうしようもないほど脆く儚く、砂上の楼閣のような敗残者の群れなのだと。 「まず言ったように咲耶を見舞うさ。その後に龍水も捕まえよう」 「なあ、せっかくだから女同士、そんな夜も一日くらいいいだろう」  呆れた顔でこちらを見上げる紫織に対して、微笑で応える。  ああ、まったく本当に、どうしてこんな風に思うのだろう。これは狂気なのだろうか。  分からないが、ただの楽観や逃避の類でないことだけは確かだった。  自分は幸せな人間なのだという自覚がある。  幸福の定義とか、そういったことを論じているつもりはないが、単純に嫌な目というものをこれまで自分は見ていない。  別の言い方に替えてしまえば、今まで思う通りにならなかったことが記憶にないのだ。  無論それは、才や努力で道を切り開いたという意味ではない。自分は凡才だと分かっているし、人並みはずれた研鑚を詰んだわけでもないのだから、単に幸運と言うしかないだろう。  なぜか恵まれているだけの人生。諸々。  自分はこれまで、好ましく思える道の上だけを歩いてきた。他の道が目の前に現れることがなぜかなかった。  つまり、幸せな人間であるということ。  それが御門龍水にとって、己に対する認識だったと言っていい。 「では、なぜ……?」  瞑想の中、自問する。幸福という己の世界が初めて破壊された不条理に、少女は困惑を禁じ得ない。  それは自己への了解で、人生に対する契約だった。〈龍水〉《せかい》を構築する秩序の域で彼女は幸福を信じていたし、それが狂わされることなど想像すらしていなかった。  なのに。  現実を知れと誰かが囁く。〈幻想〉《ユメ》を見るなと嘲笑う。何の根拠もない確信など、迷妄の類でしかないのだと糾弾してくる。  言われてみれば、確かにそれはそうだろう。  二十年も生きていない若輩の身で、狭い世界しか知らなかったというだけのこと。  古びた常套句を使うなら、世の中そんなに甘くない。要はそういうことかもしれない。  だが、同時に断固否だと思う自分もいる。そんなものは認めない。この気持ちは嘘じゃないと、強く強く強く強く―――  信じ続ければ、あるいはこの今も変わるのだろうか。  自問は徐々に形を無くし、なにやら形容できぬ層へと繋がっていく。己の内に埋没するほど、御門龍水という〈咒〉《かた》が散逸していく。  ひたすら自分を見つめることで、自分が分からなくなったと言うのが近い。それはつまり忘我の境地で、別の言い方をすれば脱魂、入神……すなわち高次域への接触である。 「――――――」  そこで彼女は、何かを見た。いや、すでに彼我の境が曖昧である以上、それは龍水自身なのかもしれない。  煎じ詰めればこの行為、固我を見失うほどの精神潜行――  それを成す自己探求の深さこそ、御門龍水の最大適性。  龍明にも、夜行にも、他の誰にも成し得ぬ域で己というものを見たがる〈渇望〉《おもい》。  実にそれこそ西側的な、人界の法則に基づく正統な在り方だろう。  だから彼女は、これが何なのか分からない。  この、血走った三つ目がいったいどういう存在なのかを……  がりがりと、ざりざりと……それは偏執的なほどの単調さで自らの顔を掻いている。  痒がって……いるのだろか? 当たり前に考えればそうとしか思えないが、その行為はどこか自壊的にすら見えてしまう。  なぜなら、それは掻くと言うより削っていた。己自身を解体しているかのように、自らをこそぎ取っているのである。  阿片など薬物の一種には、身体に虫が湧いたと錯覚する禁断症状があるらしい。そうしたものと似た雰囲気。何か汚らわしいものを自身から拭い去ろうとする過程で、己もまた破壊している。  そうした病的と言える気配がある反面で、〈同〉《 、》〈時〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈安〉《 、》〈定〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》。完全に矛盾するが、己を削ぎ取るという行為が負の方向へと傾いていない。  自己の削ぎ落としは休むことなく続けられているものの、だからといってそれの総体は一向に小さくなっていないのだ。おそらくは、捨てる分と拮抗するかたちで生産も起こっている。  際限なく膨張していく自らを厭うように、削り続けることで均衡を保っているモノ……龍水には、それがそのように見えていた。  そして、それ以上この存在を推し量ろうとはしなかった。  ぼんやりと、漠然と、主観が曖昧なまま在り続ける。彼と我の間に明確な線引きを施さないこと。  それは偶然であり、才能であり、そして最大の幸運だった。これを前にして、無事を保つための唯一絶対と言える手を、龍水は無意識にだが選択していたのである。  よって…… 「〈おまえ〉《わたし》は何がしたいのだろう?」  それを前に、己は他者であると主張しながら立つということ。  その存在に、おまえは誰だと認識されてしまうこと。  それが他者をどう認識しているのか、そのことを理解するという最大の禁忌に龍水は触れずにすんだ。  今、その幸運が形を成す。 「」 「」 「――――――」  僅かな揺らぎ、睫毛の先が震えたほどの念だったが、その質量は膨大という言葉ごときでは追いつかない。  もしも個我を持ったままこれに触れたら、宇宙規模のうねりを前に砂の一粒が呑み込まれていくかのように、龍水は掻き消されていただろう。  だが、今の彼女は彼でもあった。そして彼は彼女だった。ゆえにその奔流を乗り切れる。それが何を念じているのか理解することは出来ないまでも、同化することでやり過ごせる。  それの〈渇望〉《いろ》は、この場において龍水の〈願い〉《いろ》とも繋がっているのだから。 「、」 「、」  意味の分からぬ短い答えに、しかし心から同意する。そうだ。そうだ。そうなのだ。 「わた、しは……」  何を祈り、何を願い、何を求めて何に縋る?  愚問――御門龍水が信じるものは、天上天下に唯一つ。 「  」 「  」 「――夜行様」  己が祈るモノの形を見出して、瞬間――御門龍水は夢から覚めた。 「ぁ………」  開いた視界に映るのは夜の森。そして背から伝わる男の気配。  その感覚を捉えた途端、龍水は今の今まで〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈忘〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  ただ分かるのは、確かなものだと感じているのは一つだけ。 「おまえも何かを識ったか、龍水」  自分が座していた木の裏側に、この男もまた座していたこと。そして、彼が以前の彼ではないということ。  ああ、そうだ。間違いない。〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈願〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈当〉《 、》〈た〉《 、》〈り〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。  天魔に負けた? 冗談ではない。摩多羅夜行は無敵無双――天下に比類なき英傑なのだ。これより約束された逆襲を始めるのみ。  と、龍水は微塵の疑いもなく信じていて…… 「はい、夜行様。私が識っていることは、あなたが絶対であるということ、唯一つです」 「それを確認していただけのこと。何ら問題はありません」  蒼く、闇の中で燐火のように薄く輝く瞳が未来の情景を捉えていて、同時に、ようやくと言うべきか――目の前にいる仲間の存在にも思い至った。  竜胆は心配げな顔をして、紫織は不思議そうに小首を傾げ、そんな二人に支えられるようにしながらも、焦点の合わない瞳で虚空を眺めている咲耶の姿。  さらに言えば、自分の背後……夜行の前には覇吐たちもいるらしい。期せずして、この場に全員が集まったのは何かの符号なのだろうか。  分からない。分からないが、ともかく東征はまだ続く。自分が思い描く最高の物語は、こんなところで挫折して終わることなど望んでいない。  自分は幸せな人間だから。それが世界との契約だから。若輩者の万能感だの、現実を知らない思い上がりだの、そんな〈咒〉《ことば》は聞く耳持たない。  起きて見る〈理想〉《ユメ》は叶えようとする意志があり、叶えられるからこそ価値がある。寝て見る〈迷妄〉《ユメ》とは根本から違うのだ。  だから…… 「ご心配をおかけしました、竜胆様。そちらは大事ないですか?」  明朗に微笑みつつ、そう問いかける。竜胆は若干面食らったような顔をしたが、すぐに苦笑しつつ頷いた。 「ああ、まあ、私は見ての通りだよ」 「何があったか知らないが、少し〈面〉《つら》付きが変わったな龍水。頼もしくなったと言うべきか」 「あんたはもっとこう、ぴーぴー言ってるときのほうが私的には可愛げがあってよかったんだけど」 「抜かせ。生憎だが、いつまでもチンチクリンではないのだよ」  不思議と、視界が以前より開けて見える。恐れることは何もないと信じられる。  悲観的なことばかり考えていたら、本当にそうなってしまいそうだと思うから。 「私は、勝利の未来を見ているのだ」 「そうか……」 「ではそのためにも、現実的な話に移ろう」  微笑む竜胆。未だ意識の覚束ない咲耶を刑士郎の手に渡しつつ、彼女はこれからの方針を簡潔に教えてくれた。 「第二陣が揃い、傷が癒え、諸々準備が整った後、二手に分かれる」  ゆえにおまえはどうするかと訊かれて、龍水は即断した。竜胆と紫織が不二に向かうと言うのなら、自分は鬼無里へ行くしかない。  もとより、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈展〉《 、》〈開〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「そちらは私にお任せください。竜胆様も、どうか武運を」  思いのほか泰然としている龍水に、やはり竜胆は軽く面食らっているようで、しかし次には、頼むぞと言って微笑んだ。 「では、鬼無里の面子の指揮はおまえが執れ。龍明殿も、きっとそう言われるだろう」 「これより負けは許されぬ。ゆえに何としてでも生き残れ」 「戦場での競争は愚かだが、おまえが見ているという勝利の未来とやらに興味が湧いたので訊こうか、龍水――」 「おまえはこれより、誰が一番武功を立てると予想する?」 「そうですね……」  問いに、しばらく考えて、しかし龍水は見えているものを正直に告げた。 「きっと、私はこうなることと思います」  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後に、俺はお姫様に捕まった。  いや別に、逃げるつもりなんかなかったけど、俺としてはなんつーかこう、ちょっとばかりバツの悪い心情があったわけで……  そこらへん、汲んでくれないかなぁと思ったのは、どうやら甘い楽観でしかなかったらしい。 「で……」  腕を組み、胸を反らし、居丈高に見下ろしてくる我らが大将。はいその威圧感、マジおっかねえ。 「とりあえずおまえ、こっち来い」  なんすか、頭でも撫でてくれるんすかと思って近づいたら。 「この馬鹿者がぁっ!」  容赦なし、全力で、頬にすげえ張り手をもらった。 「――痛ぇ、ちょ、なにすんの!」 「うるさい、この根性なし。ちょっとやられたくらいで女のようにめそめそと引きこもりおって。これはその罰と思え」 「そんなことだからおまえたちは駄目なのだ。俺様最強とかいつも馬鹿みたいに思っておるから、些細な挫折ですぐへこたれる」 「ああもう、分かっていただけに腹立たしいぞ。男同士が雁首そろえて、何を鬱々と愚痴っていたのだ」 「そんなことで、私の臣が務まるとでも思っているのか」 「ああ、うん。そりゃ、はい……」  お怒りはごもっともで、ぐうの音も出ないわけだが、一応俺も俺なりに、思うところがあったわけで…… 「なんだ、文句があるなら言ってみろ」 「……いや、なんもねえよ。全面的に俺がショボい」 「反省してるから、今回はもう勘弁してくれ。これが最後のヘタレ場にするから」 「言われるまでもない。二度は許さん。私はそう寛容でもないぞ」 「それでおまえ、ちゃんとやる気はあるんだろうな? 言ったからには、実践してもらうぞ」 「分かってるって」  俺は、つーか俺たちだって、竜胆曰く男同士で鬱々と愚痴っていただけじゃない。  どうやって天魔に勝つか、具体的な方策はともかくとして、今後に懸ける気の持ちようはしっかり確認したつもりだ。 「俺はその、今までは確かに、てめえの勝った負けたでしか物事考えてなかったかもしれねえ。だから竜胆が言う通り、そういう自信を砕かれたら終わりみたいな、脆さはあったんだと思う」 「でも違う。……ていうか、違ったんだよ」  何が、と問う竜胆を真っ直ぐ見つめて、俺は言った。 「俺はただ、竜胆を勝たせたかった」 「俺が負けて、それが竜胆の負けになって、おまえが駄目な大将みたいに思われるのが嫌だったんだ」 「俺の沽券だけならよ、俺が気合い入れりゃあいいことじゃんか。もう一回、我武者羅やって、ぶっ殺して、ぶっ殺されてもまあいいかって……そういうノリで片が付く問題のはずなのに、なんかしっくりこなくてよ」 「自分でもワケ分かんねえもんだから、その、鬱々悶々としてたんだわ。俺はこれから、何考えて東征を続けんだよって……」  それが自分自身定まらなくて、情けねえとこ見せちまったけど答えは出た。  事態は俺が突っ走ってどうにかなる問題じゃない。俺が格好つければ万々歳って話じゃねえんだ。 「竜胆、言っただろ。俺の名誉は俺だけのものじゃないって」  それはつまり、俺の名誉が竜胆の名誉でなければならないということ。  こいつが笑って喜ぶような、誇って抱いてくれるような、そういう未来を目指さなければ意味がないんだ。 「なんかごちゃごちゃしたことは分かんねえけど、俺はただ、竜胆の笑顔が見てえと思ってたんだ」 「そのことのほうが、俺の目先のああだこうだより大事だったんだなって、分かったんだよ」 「だからすまねえ。これからちゃんと、何が大事か考えていくよ。根拠になってねえことだけど、おまえのことを想ってる限り、俺は負けねえって思えるんだ」  なぜなら、俺が気持ちよく暴れた末に散ったとしても、後に遺したこいつのことを考えたら身震いするだろ。絶対怒り狂うに決まってるから。  そんときのこいつにかけてやれる言葉がない。怒られてやることも、殴られてやることも、何をしてやることもできはしない。  そう考えたら恐ろしい。俺は生まれて初めて死と戦いが怖くなって、それは取り返しのつかないことだと思ったんだ。 「だから俺は、生きたいと思う」 「おまえのためにも、俺のためにも」  と考えるのは、やっぱり竜胆の嫌いな自分本位の言い分にすぎないのだろうか。  我ながら上手く纏めきれないことをうだうだと言ってしまい、耳まで赤くなってきちまったからなんか言ってくれよと思っていたら…… 「あ……その、う、うん……」  よく分かんねえけど、竜胆も耳まで真っ赤になっていた。 「えっと、その、どした?」 「ばっ――、いや、なんでもない」  不安になって手を伸ばしてみたら、ずざざーと音がする勢いで後退する竜胆。  いやそりゃ確かに、今の俺はちょっとキモかったかもしんないけど、そんな全力で引かなくてもいいじゃんかよ。 「な、なんだその目は? 貴様また、不埒なことを考えているのではあるまいな」 「考えてねえよ」  つーか考えてほしいのかよ。 「と、とにかく、まあおまえの心意気は分かった。私もこれ以上過ぎたことを言う気はないから、あとは男らしく行動で証明しろ」 「今後の、差し当たっては不二でのおまえに期待している」 「ああ、失望されねえように頑張るよ」  そこに何が待っているかは分からないが、もう二度とこんな無様は晒さない。  だって俺の姫さんは、この通りとっても厳しい奴だから。 「言うの遅くなったけど、おまえが無事でよかったよ」 「竜胆、どこも怪我とかしてないか?」 「え……?」 「あ、ああ、そうだな。私はまあ、平気だよ」 「……?」 「それより、そちらはどうなのだ? 聞いた話では、おまえだけずっと生死不明だったらしいが」 「あ、いや、そりゃあ……」  平気だよと答えながらも、続く言葉が即座に出ない。このまま適当に空元気張って誤魔化すのは簡単だったが、それはやっちゃいけないことのように思えたんだ。  なぜなら竜胆は、俺のことを信じてくれる。だったらそんなこいつに対し、出来るだけ誠実な自分でいるのが筋だ。  かっこ悪いとかダサいとか、そんな見栄はうっちゃって、びびってる俺のことも話しておこう。  そう決意するのに勇気が要ったが、もう二度とヘタレないと言ったのだからやらなきゃならん。深呼吸を一つして、継ぐのが遅くなった二の句をようやく俺は口にした。 「なあ竜胆、おまえ、俺が歪み使うの反対か?」 「なに?」 「だから、龍水に何か言われてたんだろう。夜行に聞いたよ」  返し風は、凶月だけに吹くものじゃない。形は違えど、歪みを使えば何かしらの反動が必ず来るという推論。  それが真実だったなら、俺の現状はそうしたものの結果なのかもしれないんだ。 「俺はたぶん、一度死んでる。だけどこうして生きている。それがどうしてだか分からねえ」 「そういう特性だっていっても、〈天魔〉《あいつら》には何も通用しなかったんだ。なら理屈は通らねえよな」 「正直、怖ぇよ。意味がまったく分かんねえし。ただ、これが俺流の返し風なのかなって風にも思うから、おまえはどう思うかなって」  気持ち悪がられるだろうか。不吉な奴だと避けられるだろうか。この先何がどうなるか分からないから、俺を危険視するだろうか……  そういうことを見越した上で、俺に歪みを使わせないようにしていたのかなって、ちょっとばかり考えている。  久雅竜胆に、要らないと言われたら嫌だなぁって、要はそういう不安なわけで、これはもしかして早速ヘタレちゃってんじゃねえのかよ。やべえ、シバかれると思っていたら―― 「おまえは強いな、覇吐」 「はい?」  なんか、よく分からんが、俺様感心されているみたい。 「え、えっと……」  ちょっと意味が見えないんだけども。  あれ? もしや今、知らずの内に竜胆の乙女的なツボ突いた?  母性本能がどうたらとか、そういうあたりを?  だったらおい、ちょいちょい待てや。今すぐいい顔作るから。 「竜胆――分かった、皆まで言うな」 「さあ、空を見よう。星が綺麗だ」 「は?」 「でも、おまえのほうが綺麗だ」  やっべえ、最高。超決まったよ。さあこのまま手をとって接吻して押し倒して草の〈褥〉《しとね》があら素敵! 「いざ、めくるめくヌキヌキポンへ――」 「ふ、ふざけるな戯けぇ――!」 「ぐぼはぁっ!」  ばしこーん、と全力のビンタを受けて、俺はきりきり舞いながらぶっ倒れた。 「ひ、ひでえ! なんなの。何するのっ?」 「こ、こっちの台詞だ破廉恥漢! き、貴様のような奴に一瞬でも気を許しかけた自分が腹立たしい!」 「何が空だ! 何が星だ! 何がぬ、ぬ……」 「ヌキヌキポン?」 「うるさい馬鹿! 言わせるな馬鹿!」  すげえ、過去最高にキレてるよ。俺、なんかやばいこと言ったっけ? 「とにかく、貴様がその足りない頭で考えていることは見当違いの杞憂だからさっさと忘れろ。私は別に、おまえがどうだろうと忌避などしないし、それを恐れてなどもいない」 「いま、思いっきり拒絶したじゃん」 「それとこれとは話が別だ」  いや、同じようなもんだと思うんだけど。 「死んでいない? 結構ではないか。おまえが生きるというのなら、その気持ちで前に進め。勝利しろ。私がそれを見届けてやる。分かったな!」 「はい」  有無を言わせぬ剣幕に、思わず犬のように頷く俺。竜胆は鼻を鳴らして、さっさと踵を返し、去っていく。 「ああ、ちょっと待てよ。何処いくの」 「もう寝るんだ。馬鹿の相手をして頭が痛くなってきた」 「じゃあ俺も」 「ついてくるな。おまえはそこで頭を冷やせ。というか、私の寝室まで来る気なのか、また斬るぞ」 「ええ~、それは確かにあれだけどよぉ……」  もうちょっとこう、雰囲気の出る終わり方で今日という日を締めたかった。これじゃあいつかと同じじゃねえかと、愚痴りつつ…… 「すまない、覇吐。ありがとう」 「ん、何か言った?」 「何でもない!」  ともかく竜胆はあの通り健やかで、先の敗北は何の影も落としていないのだと分かったことは収穫だった。  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後、不意に呼び止められた宗次郎は振り向いた。 「や、元気?」  軽い声に、屈託のない笑み。いつも通りの彼女だが、その見た目は些か以上にいつも通りとは言い難い。  正直言って、よく歩けるものだ。その一点だけを感心して、宗次郎は会釈のみを返し去ろうとする。 「あー、ちょっと待ってよ。何一人でつかつか歩いちゃってんの」 「せっかくだしさ、ほら、ちょい、ここ座りなよ。どうせ眠たいわけでもないんでしょ?」 「…………」 「おーい。聞いてるー?」  まったく、いったい何だというのだ。鬱陶しいとは言わぬまでも、意味の分からない紫織の態度に辟易しつつ、宗次郎は足を止めると振り返る。 「僕に何か用ですか?」 「いや別に、用ってほどじゃないけどさ」 「強いて言うなら、作戦会議? あんたも不二に行くんでしょ?」 「だったら連れの近況くらい、知っときたいと思うじゃない。背中預けるとか、そういう関係じゃあないにしても」 「…………」 「ね?」  立ち止まったまま、数寸の間考える。ここで紫織の相手をすることと、紫織の主張を黙殺すること、どちらがより労力を要するだろうと思案して、結局のところ前者が無難なのかと溜息をつきたい気分になった。 「作戦会議……ですか。まあ、後々を考えれば、無為というわけでもないですね」 「そそ。分かったらこっちおいで」  両腕がないから、器用に顎で手招いている紫織に呆れつつ、その傍まで戻った宗次郎は言われるがまま腰を下ろした。 「で?」 「で、って何よ? 私に話振っちゃうわけ?」 「呼んだのはあなたでしょう」 「そうだけど、こういうときって男が仕切っていくもんじゃない? 覇吐とかだったら、言われなくてもそうしようとするんじゃないかな? 出来るかどうかはともかくとして」 「あの人と一緒にしないでくださいよ」 「いやまあ確かに、あれの真似はするもんじゃないと思うけどさ」  言って、けらけらと笑う紫織の様子に影はない。だがその両腕は欠損していて、断端を覆った包帯からは血が滲んでいる。  今さら確認するまでもなく、彼女は不具となったのだ。その割には悲観した様子がまったくないのを、褒めるべきか呆れるべきか。  分からないので、とりあえず宗次郎は思ったことを口にした。 「怪我をしていない〈可能性〉《じぶん》というものを呼び出すことは出来ないんですか?」 「んー? ああ、そりゃ無理だよ。あの状況で、そんな可能性はマジに一個もなかったし」 「これが最善。この様が限界。正直、生き残ったのが自分でも不思議だわ。なんでだろうね」 「さあ、僕も分かりませんよ」  それはつい先ほどまで、覇吐らとさんざっぱら話したことだ。どう議論しても分からないことは分からないし、ともすればみっともない泣き言になりかねないからここで蒸し返すつもりもない。  紫織も、そういうところは自分と似通った感性だろう。過ぎたことは過ぎたこと。大事なのは、その上でこれからどうするかということにある。  作戦会議と言うのなら、話題の焦点はそこにあてるべきだろうと考えたので、宗次郎は続けて言った。 「あなたも不二に行くと言うのなら、ここで引っ込むつもりもないんでしょう。ならばその様、どうするんです?」 「ああ、龍明さんに義手もらうよ。なんだっけ、傀儡の法? とにかくそういうのがあるらしい」 「どうせなら、こう、じゃきーんと色々隠し武器とかくっついてるような、ごてごてしたのがいいんだけど、どうかな?」 「どう、と言われても」 「実はさ、結構憧れだったんだよね。弟が、そういうカラクリっぽいの好きでさ。私も影響されたっていうか」 「なんだろう、改造人間みたいでカッコよくない?」 「…………」 「ねえねえ、宗次郎もやっぱ男だし、ああいうの好き?」  紫織が言っているものがどういう類かは一応分かる。鋼鉄の骨格を歯車で動かして、ぎりぎり言わせつつ肘や拳から刃が迫り出してくるような、要するにあれだろう。  剛毅というか楽天的というか、恐ろしいほどに前向きな性格だ。無論、自分は彼女の総てを知っているわけではないのだから、裏では色々思うところがあるのかもしれない。  ここで再会する前に、もしかしたら竜胆たちとそういうことを話しあったのかもしれないし、だとしたらここでの印象だけを見て、気楽な奴だと断ずることは出来ないだろう。  いや別に、だからといって何がどうだというわけでもないのだが。 「ねえねえ」 「あぁ、もう」  ともかく今の屈託ない紫織に対し、自分の態度は余裕のない柔弱な男のように感じてしまったものだから、宗次郎は素直に答えた。 「僕は出来るだけ、生身と見分けがつかないものであるべきだと思います」 「へ、なんで?」 「なんで、と言われても……理由は色々あるでしょう」 「まず、あからさまにカラクリっぽい外装だと、誰でも警戒しますよね」 「これは普通の腕じゃないと、宣伝しながら歩いているようなものだから、その、隠し武器ですか? そういったものの効果も薄れると思いますし……」 「ふんふん、それで?」 「あとは単に、日常生活的にも不便でしょう。今の機工学がどの程度のものかは知りませんが、最低限五指があって、精密な動作も出来るようでなければ……」 「紫織さんの技を正確に伝えることが難しくなるのでは? 単に鉄の棒をくっつけるだけで足りるようなら、それはもう武術じゃない。僕はそう思いますし……」 「なるほど。うん、それから?」 「それから、と言われても……」  他にまだ、何かあったか? 思いのほかぐいぐい来る紫織に面食らいながら、宗次郎は考えて……  単純に、そう、もっと単純な話で言えば…… 「仮にも女性の身体です。それを禍々しい武器で飾るのは、美しくないと思いますよ」  と、らしくないと言えばらしくない、一般論的な指摘で締め括っていた。 「あ……」  その点、まったく考えてなかったのか。紫織は放心したようにぽかんとして。 「あ、あぁ、うん。そうだね! そうだよね!」 「ごめん。なんかこう、図々しくて。えっと、その……」 「宗次郎もさ、やっぱ綺麗な女がいいんだよね。当たり前だよね」 「はあ?」  何を慌てているんだろう、この人は。まったく意味が分からない。 「僕がどうこうではなく、紫織さんの身体でしょう」 「いや、そりゃ分かってるけど、あんたごてごてした女は美しくないと思ってるんでしょう?」 「まあ一般論的には」 「何よその言い方。なんか腹立つ」 「そんなことを言われても」  一般論は一般論で、覆しようがないことだ。さっきまであたふたしていたかと思いきや、急に今度は怒り出すし。自分にどうしろと言うのだろう。 「とにかく、義手といえどもあなたの身体だ。紫織さんが納得したものを求めるべきでしょう。妥協はしないほうがいい」 「僕は僕で、いつもそういう気構えでいますから」 「むー」  と恨めしげな視線を向けて、睨んでくる紫織。そのまま拗ねるような口調で問うてくる。 「宗次郎の気構えって、じゃあ何よ? あんた、なんか切羽詰ってんの?」 「まあ、ある意味そうですね」  立ち上がり、自嘲するように笑って言う。 「たぶん、僕はもう長くないです。悪路の陰気を、深くこの身に受けすぎた」  覇吐たちには特に主張しなかったが、今このときも手が震えるし目が霞む。気を抜いたら内臓ごと吐いてしまいそうな嘔吐感が慢性的になくならない。  しかしそれでありながら、力だけは湧き上がってくる始末。なんとなれば星まで跳躍できるような、矛盾した感覚が同居しているのが今の自分だ。  それは言うまでもなく暴走の類。遠からず壊れることを前提にして、限界を超えた駆動をしている証だろう。  陰気汚染による強化が行き過ぎて、自己の肉体を破壊している。それを自覚していればこそ、宗次郎は決めているのだ。  悪路を斃す。そしてこの毒を消し去らねば、自分は生きていくことができないのだと。 「僕を討ち漏らしたこと、必ず後悔させてやる。奴からもらったこの毒で、奴の総てを断ってやる」 「木偶の剣などと言われたからには、こちらとしても退けませんよ。僕はまだまだ、生きなければいけない」  この地上にただ一人、壬生宗次郎だけが残るまで。斬って斬って斬りまくる。その求道を完成させるそのときまで。  悪路を討滅することで、いま湧き上がる力を手放すことになるかもしれないのは惜しいことだが、自分の最終目的は神州の平和でも東征戦争の勝利でもない。もっと先を見ているのだ。 「そういうことです。分かりましたか?」 「ふーん」  と決意のほどを答えたのに、当の紫織はいまいちどうでもいいような顔をしている。 「つまり、こういうことだよね。この東征が終わったら、宗次郎は私たちにも剣を向けると?」 「……? それは当たり前でしょう。第一あの御前試合、決着はまだついていない」 「そうじゃないですか?」 「ま、そりゃそうだけどね」  言って、紫織も立ち上がる。宗次郎に目線を合わせ、ついで含むように笑みを浮かべ。 「でも私、正直言ってあんたには楽勝できそうな気がするんだけど」 「それは、また……」  聞き捨てならないことを言う。宗次郎はその手の冗談を一切認めない性分だし、そこは紫織も同じだろう。数瞬睨み合った二人だが、やがて宗次郎は頷いた。 「分かりました。では最初の相手は紫織さん、あなたにしましょう。もとより御前試合でもそうでしたし」 「言ったからには、必ず受けてもらいますから。つまらないところで死なないように。せいぜい良い義手を見繕ってください」 「ああ、うん。だけど今でもあんたにゃ勝てると思うよ」 「えっと、ほら、ちょっとこう、ここ持って」  言いながら、襟元を掴むように促す紫織。今でも勝てるとはどういうことかと、少なからず腹の立った宗次郎は言われるがままそれに従い、次の瞬間―― 「うりゃ」  唐突に身をよじった紫織によって、掴んでいた襟元ははだけられ、ぷるんとこぼれものが、ものが、ものが、ものが、否応もなく目の前に晒されてしまったから―― 「ごふぅっ!」 「あはははは、ほら一本ー!」  すぱん、と軽くはあったが繰り出された足払いによって、宗次郎はその場にひっくり返されてしまった。 「ちょ、ま――、なんですか今のは、卑怯でしょう!」 「えー、なんでー? すっごく正当な勝負だったような気がしなーい?」 「違う。絶対、こんなの違う。僕は認めませんよ、納得できない」 「そんなこと言われてもなー。あんたの言う女っぽい身体を使っただけなんだけども」 「だから、それは一般論の話であって」 「あんたに通用したんだから、あんたの意見でもあるんじゃない?」  ああ言えばこう言う。口ではどうにも勝てそうにない。  憤慨する宗次郎を見下ろしつつ、紫織は失われた両腕を優雅に振り回す仕草をすると、微笑んだ。 「怖いなー、やっぱり宗次郎は危ない奴だね」 「こりゃあ私も身を守るために、新しい腕は綺麗なやつにしてもらおう。あんたの弱点に付け込めるように」 「ねえ、そういう腕のほうが、宗次郎はぐっとくるでしょ?」 「知りません」  と答えながらも、これは由々しい問題だと宗次郎は痛感していた。  どうもこの女性に対し、自分はとんでもない弱みを晒してしまったようで、早急に手を打たなければならないのだが…… 「いやん、どうしよう。宗次郎が野獣の目で私を見てる。やっぱりちょっと、露出抑えたほうがいいのかなー」  何が楽しいのか、鼻歌交じりそんなことを言っている紫織を見てると、ムキになって怒るのも馬鹿らしく思えるのだ。 「あ、ちょ、宗次郎。胸元またはだけそうだから直してくんない? おっぱいこぼれそう」 「勝手にこぼしてればいいでしょう。というか、常にこぼしてればいい。そうすれば僕も鍛えられる」 「えー、でもそれだと有り難味ってもんがさあ」 「ていうか、常にこぼしてて宗次郎は平気なの?」 「平気じゃないから鍛えるんでしょうが」 「いや、そういう意味じゃなくてさあ」  何の会話だ、これは。  ともかく、後々のことを考えれば、次の不二で覇吐から女に対する気の持ちようでも伝授してもらう必要があるかもしれない。  いやまあ、あれにしたって、自分とは違う意味で女に骨抜きの男なのだが…… 「ねえねえ、宗次郎。おっぱい落ちるよ」 「うるさい!」  ガラにもなく大声を出して、それに紫織が大笑いして。  なんとも締まらない感じだったが、この短期間に二連敗した男の威勢などそんなものかと、不思議と不快ではない自嘲が漏れていたのだ。  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後、刑士郎は竜胆に引き渡された咲耶と二人で残された。 「…………」  彼女は何も口にしない。瞳は焦点がずれており、自分のことを認識しているのかも分からない。  その様が、どうしようもなく腹立たしかった。自分の無力さを叩きつけられているように思う。  なんてことだ。なんて様だ。正直視界にすら入れたくないが、刑士郎の精神は自分にそれを許していない。  見ろと、見続けて噛み締めろと、己に直視を強いている。この現実を忘れてはならぬと思ったし、忘れるつもりも毛頭なかった。 「おまえ、禍憑き使ったってな……ああ、全部俺のせいだ」  咲耶が正気ならなんと言うか、きっとそんなことはないと言い、それに刑士郎は違うと言い、不毛な水掛け論が延々と続くのだろう。これまでそうしたやり取りを何度も繰り返してきた二人だから、容易くその情景が目に浮かぶ。  ゆえに、そうならない今が許せなかった。これは何の冗談だと、刑士郎をして目眩を覚えるほどの断絶がそこにある。  思えば今まで、咲耶とこれほどまでに切り離された状況は初めてのことだったから、刑士郎はその溝を埋めるようにぽつぽつと話しはじめた。  今まで、面と向かっては言えなかったようなこと。  聞いてもらうべき相手はここに居てここに居ないと、分かっているからこそ言えるような類のことを…… 「おまえ、いつも言ってたよな。俺はどこか病的だってよ」 「ああ、確かにそうかもしれねえ。だってこんなんなっていながらよ、俺はどこかでほっとしてんだ」 「おまえが話さねえ。おまえが笑わねえ。おまえが俺を顧みねえ。そういう今の状況が、なんだか妙に心地いい」 「こりゃなんだろうな。分かんねえよ。腹は立つし、ムカついてんだが、同時に気も抜けた感じでよ……ああこれで、俺はおまえを顧みなくていいなんて……正直言うと、そういう気持ちが多分にある」  だから、凄まじく憤怒している。そして同時に安心している。幸福という恐怖を与える存在がいなくなって、いよいよ自分は一人きりで、何も恐れるものがなくなったのだと、胸を撫で下ろしている下種な己に。 「俺は禍憑きを失った。理屈はまったく分かんねえが、陰気が身体にねえんだよ。その上おまえまでこうなって、ある意味解放されたわけなんだが……」 「笑えねえ。笑えねえな。だから誓うぜ。必ずおまえを戻してやる」  でなくば己の在拠が分からない。こんなある日いきなりやってきた災害のような展開で解放されても、何も呑み込めはしないのだ。  凶月刑士郎にとっての凶月咲耶は何なのか。それを知るためにも取り戻さねばならないと思う。その結果がどうなろうとも、今のままでは糸の切れた凧と同じだ。  自分はこの女をどうしたいのか、その答えを見つけるためにも…… 「俺はこの戦を続けるぜ。今の様じゃあ能無しも同然だが、だからって退くわけにもいかねえ」 「なあ咲耶、おまえもそう思うだろう?」  問いに彼女は答えない。ふらふらと彷徨う視線に釣られるように、木の根に躓いて倒れるその身を刑士郎は抱きとめた。 「あ、ぁあ、あぁう……」  腕の中でか弱くもがく、その力のなんと儚いことだろう。そしてなんと強烈無比な暴力か。  かつて刑士郎はこれほどまでに、痛いと思う〈打擲〉《ちょうちゃく》を受けた経験は記憶になかった。  そうだ、これに比べれば、天魔の強さなどまったく大したものじゃない。 「だからおまえも、早いとこ目ぇ覚ませ。少し休むのは許してやるから、いつまでもこんな様ァ晒してんな」 「何を見て、何を恐れて、どんだけひでえ気分になったのか知らねえが、弱い女は嫌いなんだよ。俺を失望させんな咲耶」 「俺が来んなっつったのに、我が侭言って〈穢土〉《ここ》に来たんだ。ならその目的を果たしてみせろよ」 「おまえは俺の血染花になりてえんだろうが。なあ、そうだろうがよ……!」  軋るように搾り出して、刑士郎は穢土の空へと目を向ける。そこにはいつかと同じ太陰が、無言で彼らを見下ろしていた。 「見てろよ……俺は誰にも負けやしねえ。それをこの先、証明してやる」  鬼無里……なんともふざけた名前だ。ならば己こそがその地を壊す鬼になろうと、壊れた温もりを抱いたまま、刑士郎は誓っていた。  そうして三々五々、皆がそれぞれ散った後、立ち上がった夜行もこの場を去っていこうとする。  そんな彼の背後から、ちょこちょことついてくる気配はもはや慣れ親しんだものであり、ことさら何かを語らうつもりもなかったのだが、今は少々肩が軽い。  爾子と丁禮の具現に咒を割いていないという状況は、思い返すにいつぶりだったか記憶にないほどだったので、その余剰分が夜行の口を軽くしたのかもしれない。  彼はなんとなく振り返って、気付けば後についてくる少女へと、たいした意味もなく話しかけていた。 「龍水、おまえは何を見た?」  本音のところでは、どうでもいいと思っていることを問う。摩多羅夜行にとって奇行に属する部類だったが、彼にその自覚はない。  そしてさらに言うならば、龍水の見たものがまったく予想できないということも、彼が自覚していない奇妙なことの一つだった。 「あ、え――何を見たと言われましても……」 「その、すみません。まったく覚えていないのです」  自らの不甲斐なさを恥じるように、龍水は恐縮して縮こまる。その反応もまたいつも通りのものなのだが、やはり今の夜行には、それが妙に面白かった。 「覚えていないと? だとしたら解せないな。今のおまえは、少なからず自信を持っているように見えるのだが」 「龍水よ、おまえは何かしら、確信を得るに足るものを掴んだのではないのかな?」 「確信、ですか?」 「まあそれならば、今に始まったことでもないのですが一つだけ」 「ほう、それは?」 「夜行様が、この天下で無敵の御方であるということです」 「正直申しまして、少しばかり、本当に少しですが、私はそれを疑いかけていたのです。先の敗戦が、あまりにも衝撃的だったので……」 「別に現実の夜行様がどうこうではなく、未熟な私に弱気の虫がついたのです。それが自分自身許せなくて、その、ひたすら自罰していたというか……」 「私はなんという虚けなのかと、ここまで駄目な私はそもそも何者なのだろうかと、そんなことを益体もなく、延々考えていたらですね……」 「これがまた、お恥ずかしい話なのですが、自分は誰で何をやっていたのかなと、それすら分からなくなってしまいまして……」 「あれ? あれ、あれ、と思っている間に、私が溶けてなくなっていくような感じがしたので、これはいかんと思ってですね。なんとかしないといけなかったのですが、無様なことに確たる自分というものが見出せず……」  上目遣いで詫びるように、おずおずと龍水はその先を告げた。 「夜行様を、ただ思い浮かべていたのです」 「私を?」 「はい、私が思う無謬の御方。決して崩れることのない夜行様を」 「それに縋って、〈縁〉《よすが》にして、はっと目が覚めたら、そこには現実の夜行様がいらっしゃって……」 「私の妄想など及びもつかない、ご立派な、というわけでして」 「やはり夜行様は夜行様なのだなと、龍水は確信したわけなのです。ゆえに今の私が自信を持っていると仰るのなら、おそらくそのことではなかろうかと……」 「あの、どうされました、夜行様?」 「…………」  問いに、夜行は何も言わない。ただじっと黙したまま、閉じた〈眸〉《まなこ》を龍水に向けて、ふっと溜息をつくと肩をすくめた。 「おまえの中の私というものがどういうことになっているのかは与り知らんが、まあよいわ。せいぜい夢を壊さぬように心がけよう」 「無粋なことを訊いたようだ。許せよ龍水」 「あ、いいえそんな、恐れ多い」 「それであの、夜行様?」 「なんだ」  再び踵を返して歩く夜行に追い縋りながら、龍水は興味を隠せぬといった風に問いを送った。 「夜行様は、いったい何を見ていらっしゃったのでしょうか?」 「きっと私には想像すらできないような、深奥の理を見出されたのではなかろうかと」 「よければその一端でも、教えていただければ嬉しいなと、思うのですが……駄目でしょうか?」 「別に構わん。だが、たいしたことではないぞ」 「と、いうと?」 「天魔どもを滅する法だ。それも至極簡単なものであると分かってしまった」 「ええっ?」  驚天動地の発言にまさしく龍水は飛び上がるが、夜行はまったく意に介さず、歩きながら独り言のように呟いていく。 「もともとそれを探るために一戦交えた。その結果として、初戦は敗北も視野に入れておったわけだし、まあ狙い通りと言えなくもない。業腹なのは、逆襲をかける前に彼らが退散してしまったことなのだが……」 「正直、拍子抜けしておるよ。あれらは骸の型に嵌っているのだ」 「骸の、型?」  それはいつか夜行が言ったこと、万象は型に嵌めることで属性を帯び、何がしかの色に変質する。  理解できないものを理解できる型に押し込めれば、それはもう未知ではない。  捉え、掴み、壊すことも可能であると。  否、あれらはもう壊されている存在なのだと。  骸の型とは、つまりそういうことなのだろうか。 「こちらの土俵に引っ張り込むと言えばよいかな。彼ら天魔は、穢土にあってこそ無敵であれる。こちら側に来れば耐えられんよ」 「それが儚く、呆気なく、私としては面白くない。もとより私には出来ぬことのような気もするし」 「せめて私は、あちらの土俵で勝負するようにしてやろう。そうせねば、蝉と出会うことも出来まいから」 「は、はあ……」  未だ不得要領といった感じの龍水だったが、その足音が僅かに弾んでいるのを夜行の耳は聞きとがめた。 「何が面白いのだ、龍水」 「いえ、ただ嬉しくて。やはり夜行様は、凄い御方なのだなと」 「だから私も、足手まといにならないよう励みます。そしてこの東征を、我らの勝利で終えましょう」 「無論、言われるまでもない。それはただの前提よ」 「次は鬼無里と言ったかな。我らと、そして凶月の四人だけ。いいや実質、私とおまえの二人だけだ」 「御門の世継ぎとして、指揮はおまえが執るのだろう? ならばせいぜい、龍明殿の恥にならぬように奮うのだな」 「はいっ!」  元気に応える龍水に、知らず夜行は苦笑を漏らす。この娘は、本当に分かっているのだろうかと。  自分が何者かも分からなくなるほど、自分の中に埋没した? 挙句の果てに、個我が散逸しかけるほどの深みに入った?  それは咒の奥義に通じるものであるというのに、まったくそのことを分かっていない。この自分であろうとも、そう容易く成せることではないというのに……  まして、そこで摩多羅夜行を取り上げたから目覚めた、などと…… 「まさか、な……」  益体もないことを考えているなと、自分自身を嘲って、夜行はそれら諸々を忘却した。  なぜなら〈考〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》、〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  そこは夥しい数の鳥居からなる空間だった。  何千、何万、それ以上か、ひしめき合う鳥居はさながら樹海のように空間全体を埋め尽くし、同時に一定の規則性をもって道を作りながら林立している。  蛇行を繰り返す鳥居の通路は血管、もしくは神経網……赤、青、黄の三色によって構成された道であり、その色によって通る者へ及ぼす効果が違うのかもしれない。  今、青い鳥居が連なる道を歩いているのは二人の男女で、彼らは相当に消耗していた。足取りは淀みなく、呻き声ひとつ漏らさないが、その気配が穴だらけとなっているのがこの空間内では感じ取れる。  喩えるなら、砂で固めた人形が、一瞬だけ水の中に浸ったような……致命的な崩壊は防いだものの、型としては脆くも崩れかけている。  そんな印象を引きずりながら、しかし鉄の克己心で何事も無いように振舞って、凄愴とも言える面持ちで歩いているのは悪路と母禮。先の一戦で東征の第一陣を壊滅させた、天魔二柱に他ならない。  その彼らに、何処からか揶揄するような声が届いた。 「よぉ、お帰りお二人さん。久しぶりの荒事はどうだったい?」  歓待し、労うようなことを言いながらも、その口調には嘲弄の響きがある。悪路はそれに苦笑で応えただけだったが、母禮は冷たく目を細めてから切り口上で言い返した。 「どうも何も、見ての通りよ。奴らの中にあの人がいる」 「これはもう看過できない。傷が治り次第、私がもう一度出向くから、いいわよね?」 「いいも何も、それはオレが決めることじゃねえだろう。もちろん、おまえが決めることでもねえわけで」 「まあ、そう気張んねえで休んどけよ。何されたかは察しもつくし、いま無理こいたら死ぬぞおまえ」 「でも――」 「分かんねえかな。頭冷やせって言ってんのよ。ちっとはお兄ちゃんを見習えや」 「さっさとあいつのとこ行って、その緩みまくった〈神咒〉《カラダ》を固め直してもらってこい。時よ止まれ、時よ止まれ、君はキレイだ、永遠だってな」 「嬉しいだろ。あんなんなっても愛してくれてんだぜ、おまえのことをよ」 「――――――」  それは逆鱗に触れる言葉だったか、母禮の目に怒気が満ちる。しかし声の主にまったく堪えた様子はなく、糠に釘を地でいったまま一向にへらついた態度は改まらない。  結局、嘆息した悪路の手が静かに母禮の肩へ置かれたことで、彼女は憤りを鎮めたようだ。ゆるく頭を振りながら、呆れを混ぜた声で言う。 「あなたって人は、本当に昔から変わらないわね。なぜそんな風に、協調性がないのかしら」 「それはしょうがねえだろう。だってオレはあいつのアレだぜ。おまえらとは、微妙にノリも違ってくるっていうもんよ」 「ええ、それは分かっている。だけどいい? その違いが私たちの亀裂になるなら……」 「心配すんな。〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈有〉《 、》〈り〉《 、》〈得〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈よ〉《 、》」  含むようにそう言って、再び声は笑いだす。母禮もそれに苦笑で返す。  どれだけ反目しているように見えたところで、結局自分たちは一つのものだ。彼らは互いにそう了解し合っていて、相手のことを信じている。  西の者には到底理解が及ばないだろう、深い深い絆の〈咒〉《カタチ》……彼らはそういうものを持っているのだ。  ゆえに声は変わらず軽薄に、嘲りと親愛を込めて問いを投げる。 「裏切り者が混じってるのはいいとして、あっちの連中自体はどうだったよ?」 「別に。どうということもない。相変わらずの、あのままで、ただただ不快なだけだったわ」 「ふーん」 「それが何か?」 「いや、おまえは時々、嘘言うからな。つーよりか、見えてるもんを見ようとしない悪癖がある」 「まあそんなわけで、実際のところはもうちっと目端の聞く姉ちゃんがたが見極めてくれるだろうよ。あれもこれも、諸々込みで」 「指揮官様がその気なんだ。そっちは任せてみようじゃねえの。だからおまえらは言ったように、無理しねえで休んどけって」 「…………」 「返事は?」  問いに、答えはただ一言。 「分かったわ」  短くそう言って頷くと、母禮は再び悪路と共に歩きだす。傍にいるのだろうが姿を見せない同胞へ、屈折した気遣いに対する感謝と嫌気の念を覗かせながら、鳥居の奥へと消えていく。  その間際に。 「次は見極めだと言っていたけど、それでやはりどうしようもないと分かったら、どうするの?」 「決まってらぁな」  瞬間、常に笑いを帯びていた男の声音が、一気に氷点下のものへと変わった。 「オレが直接、出て潰す」 「あの街は、あの子の墓標だ。それを連中に荒らさせたくねえってのは、このオレだって同じなんだぜ」 「そう……」 「あなたの口からそれが聞けて、私も少し安心した」 「  」 「  」 「ああ、誰が負けたまんま終わるもんかよ」  祈るように、呪うように、誓いの言葉は鳥居の連なりに呑まれていく。誰もいなくなった空間には、ただ慟哭のような風の唸りだけが響いていた。  特別付録・人物等級項目―― 坂上覇吐、中伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 壬生宗次郎・玖錠紫織、中伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 摩多羅夜行・御門龍水、中伝開放。  不和之関を出立して十日ほど。竜胆らと別れた刑士郎たちは、まだ目的地に到着していなかった。  行軍ではない少数精鋭。足はそれなりに早いはずだったが、山越えが続く経路がそれを阻んでいる。  放置された人の手が入っていない自然とは、それだけでも天然の要塞なのだ。  せめてもの救いは夜行の術による空間展開により、野営の安全が確保されていることだろうか。こちら側ではない何処か、食料や水など必要な物を備蓄したまま移動できているのが大きい。  必要時にはそこに入り、食事を摂ったり就寝したりする。ただでさえ困難な山越えが続いている身にとって、警戒を解ける瞬間以上にありがたいものはないだろう。同時に夜行が術者として如何に並外れているかを刑士郎は再認識させられる。 「何度も使わせて貰っているが、やっぱりこいつは便利だな」 「然り。だが、これを扱えるのは私ぐらいだ。ゆえに使えぬ、所詮は余技よ」 「他の術者で使える者が現れれば、戦の姿も大いに変わるであろうが」 「未来永劫、無理な話というわけかよ」  夜行の独創を得ることは誰にも出来ぬため、絵に描いた餅でしかないということ。  仮に体系化することが出来たとしても、不和之関に陣を構えた東征軍七万。この穢土の地で活動できるだけの兵糧、弾薬、武器の類。賄うことが可能とはとても思えない。  結局は、大船団を組織した行軍という妥当な形に落ち着くのだろう。 「いやいや。人を入れたまま、というのは術者にとって不都合が多い。やはり理につながったものを別の理で包みきるのは、それはそれで面倒でな」 「……そうかよ」 「とりあえず、休息の合間にも現状を確認したいと思います」 「すでに、私たちは十日の時間を費やしました。ですが、まだ目的地にはたどり着いていません」  刑士郎と夜行の間に入って、龍水が本題を口にする。これで微妙に緊張していた二人の間が若干緩むことになった。  実際のところ夜行は何とも思っていない。だが刑士郎が神経質になっているためか、それを収めたいのだろう。  彼の心を波立たせるもの……それを己も気遣っているがために、珍しく龍水は刑士郎の意識にも配慮しているらしい。  己より歳若い女にそう思われていることに内心歯噛みしながらも、刑士郎も夜行と龍水の会話に参加した。 「だが、俺たちの足で最速だろ。それはおまえもよく分かってるはずだ」 「思った以上に山々を抜けるのが大変で、これはそれだけのことだろうが。そう気負うな」  それは実際に歩いている刑士郎だからこそよく分かっている。そして、あの戦いの後、龍水が急速に成長しているのも見て取れているからこそ出た発言。  何かと言えば龍明を頼っていた龍水が、この探索ではもっとも指導的な立場に立って行動している。それが間違いなく型にはまってきているのだ。手一杯な自らの舵を、少しは預けていいと思えるほどに。 「それで……その、なんだ、刑士郎」 「咲耶の容態だが、少しは改善しているのか……?」 「……迷惑は掛けてねえつもりだ」 「それは、そうだが」  それでも、咲耶に話題が及ぶとどうしても態度が乱暴になる。龍水の方もそこから先に言葉が詰まり、そろって沈黙してしまうのだ。  心神喪失……言葉にすればそれだけの結果が、しかしなんと重いことか。咲耶は今も精神の天秤が砕けたままだ。  本来はこのまま連れて行くなど愚の骨頂だと分かっていても、打つ手がまるで思いつかない。  西に帰すことも労力がいる。ここで一人の女を丁重に送るぐらいなら、敵陣に放り出して発破の代わりにすればいい、というのは凡そ兵法で考えるなら当然の選択だろう。  嫌なら守り、武勲を挙げろ。それしかないと分かっていながら、しかしやり遂げるには無理難題というものだから……  黙り込む二人を見て夜行は小さく含み笑う。この場で彼はただ一人、余裕を湛えてくつろいでいた。 「男の矜持というものだろう。好きにさせておけ、それがいい」 「ですが、ろくに食事も摂れない状態では……やはり本陣で、他の者に世話を任せるべきではないかと」 「他の奴とはいったい誰だよ。凶月の者が、俺らの他にいたとでも?」 「それに咲耶は俺が面倒を見る」 「迷惑は掛けねぇ。俺の歩みがへばっていると見えるなら、ああいいぜ。だったら明日は、その倍進めば帳尻が合う」 「いや、我らの歩みは遅くはない。それに、これ以上の進行速度は無意味だと思う」  索敵に式を用い、地図との整合性を確かめながら、その日定めた距離を行く。それは遅くとも早くとも不都合。正確さを第一にしている以上、現状は何の不都合もない。 「だったら話は終わりだ」 「だが、おまえは、禍憑きを失っている」 「その髪の色……それは、我らと同じ髪の色になり始めているということだ。つまり、完全に抜け落ちている」 「それは隠しているつもりかは知らないが、あまり私を見縊るな。体力がどれほど落ちているのか、見抜けないとでも思ったか」 「その状態で、歩くこともままならない咲耶を負ぶっていくなど、無茶だ」 「今はいい。ただ山道を歩いているだけだ。だが、仮に──」  ここで奴らと遭遇すれば、どうなるのかなど言うまでもない。  逃げる? 戦う? 馬鹿なことだ、現実が見えていないにも程がある。そんな暇すら残されないし、そもそも戦いにすらならないだろう。  ここにいない覇吐や宗次郎、紫織らもまとめて相対しながら悪路に叩き潰されたのだ。その記憶は強く刑士郎にも焼きついている。待っている結果は、二の舞よりさらにひどい。  何一つ理屈では説き伏せることなど出来ない。だからこそ、これ以上は無駄だと首を振った。 「不要な心配だ」 「迷惑はかけねえよ。何かあったとしても、俺と咲耶が死ぬだけだ」  何を言っても取り合わない。そう示した態度を前に、龍水もこれみよがしなため息をつく。 「おまえのことは、それこそ心底どうでもいいが……咲耶のことは死んでも守れ」 「その、私の……な、なんだ」 「友人、なのだからな」 「……阿呆くせえ」  顔を赤らめた龍水を面倒だと言わんばかりに手で追いやり、刑士郎は呻く咲耶に粥を食べさせる。  ほんの少しだけ口を開け、匙をすすっていく咲耶。その瞳は何も映してはおらず、態度も稚児のように幼い。 「あ……あ、ぁぁ……」  言葉をなさぬ声に、胸へよぎった苛立ちは何なのか。  忸怩たる思いで咲耶の食事を続ける。もう少し己に力あればここまでのことにはならなかった、これはつまり不甲斐ない自分への返し風だと刑士郎は歯噛みする。  力が欲しい……などと思うのは、果たして彼にとって何時以来のことだろうか。西では五指に入る強者として君臨していた凶月刑士郎は、久方ぶりに力への渇望が胸の中で渦巻いている。  邪魔な存在を喰い荒らし、己が血肉と変えることで、凶兆を宿しながらより高く飛翔することができたとすれば──  とは思うが、龍水の指摘通り刑士郎に宿った陰気は失われている。実際身体の中を暴れ回っていた力の鼓動は消えうせて、いまや綺麗に抜け落ちていた。  期せず訪れた本懐だが、それを望めるような局面ではない。なんたる皮肉。  歪みなしでこれから先、己は戦うことができるのか?  天魔を打ち破り、咲耶を守ることができるのか? 不安は常に付き纏う。  無くなってしまったものを嘆いてもしょうがない以上、行動に移した結果が今だった。やるべきことをただやるのみ。それが今の自分にできる唯一であり、捨ててはならない矜持というものだろう。 「危惧するのは構わねえし、理屈も通るがその前にだ」  そちらに言われたくはないぞと、盲いた両眼を睨んで告げる。 「一番やばいことになってるのは、おまえだろう。どうなんだよ、そこんところは」 「さてなぁ」  夜行は首を傾げる。それはまさに何を言われているか分からない、という態度そのものだった。 「失明したからといって、別にさほどの問題などない。それともあれか、私が不自由しているように見えると?」 「見えねえな」 「ではそういうことだ」 「音と匂いは感じ取れるし、霊覚までは無くしてはおらん。むしろ精度に関してならば、前より鋭くなったくらいだとも」 「世の広がりを、さらに深く感じられるようになった。僥倖とはこのことよ」  上機嫌、なのだろう。迂遠で感情を読み取りにくいが、視界の消失は夜行にとって単なる損壊ではないらしい。  額に宿した新たな視界。その存在を知っているからこそ、別のものについて言及した。  聞きたいことはもう一つ……咲耶によって枷を解かれたらしい、あの童子たちのことである。 「……あいつらは結局どういうことになったんだ? 死んだのか?」 「いいや、消滅してはおらぬよ。ただし呼び出すことは不可能だがな。仮死のような状態だ」 「まあ再生は試みている。かなり派手にやられたので組み上げるのは容易でないが、何かきっかけがあれば可能であろう」 「もっとも、眠りを起こすだけの何かと出会えるか、そこは運が絡んでくるがな」 「そうか」  要約すればなるようにしかならないということ。賽の目にかかっているなら今やれることはない。夜行は微笑み、晩酌を続けている。  行きがけに竜胆より聞かされた、丁禮と爾子を暴走させた咲耶の禍憑きについてと、その軽い顛末。  この目では見てはいなかったが、いずれにせよあの酷い不和之関の有様を見れば大変なことをしでかしたのだと理解できる。  あのとぼけた式神が如何なる暴威を振るったのかは知らないが、そちらは運次第で回復するらしい。ならば引き金となった咲耶はどうだ? 何をすれば戻るのか、皆目検討つかぬままだ。  こちらも運頼みというのなら、なるほど刑士郎に出来ることはまったくない。その瞬間まで守り抜き、共に旅路を歩むだけだが…… 「……それじゃあ、意味がねぇんだよ」  何も、何一つ、自分は変化を起こせていない。それが歯痒く、このまま狂乱しそうになるほど胸の内をかき混ぜている。 「こういうのは、俺らしくねえだろう」  守る? 脆弱? どれもまるで己の芯に不似合いだ。久雅竜胆の言葉に当てはめれば、魂が喜んでいないということだろうか。  耽美、暴虐、殺戮──それらの方が、なぜか自分には懐かしい。そこから遠ざかる感触が刑士郎を焦燥させる。  水瓶に映る己の顔を衝動的にひしゃくで叩き、咲耶の元に戻った。 「あ、うぅ……あぁ……」  吸い口を差し出すと、半開きの口が水を求めて動く。  だが吸い付くことはできず、ただ震えるだけ。赤子のように飲んでは口端からこぼしていく。  吸い口を動かし咲耶の唇にゆっくりと押し当てた。少し傾け、僅かばかりの水を流し入れる。 「ん、ぅ……げほっ、げほっ!」 「……落ち着け」 「ゆっくり、少しずつ飲め。誰も取らねえよ」  上手く飲み下すということもできない咲耶は、水を飲む度に噎せ返る。そのたびに背中をさすり、飲み下すという行為を一つ一つ教えていた。  咲耶が伏してから当たり前になっている光景だが、やはりそれでもやり辛い。これではまるで、赤子の世話をしているようだ。  〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈似〉《 、》〈合〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そう思っているからか、時折ふと暴力的な衝動が浮かぶ。  このまま何もかもを破壊したいような想いがあるものの、それはいつも形となる前に刑士郎の中で消えた。無くした歪みと同様に像を紡がず霧のように霧散する。  咲耶を招きよせ、膝の上に座らせた。そうすれば自然と彼女は落ち着くから、そのままの姿勢で夜行と龍水の話に耳を傾ける。 「竜胆様は、ご無事でしょうか」 「確か、不二での探索と言うことでしたが……」 「我らが心配せずとも烏帽子殿は上手くやるさ。そうしてくれねば立ち行かん」 「この東征が成立したことそれ自体、そしてあの御前試合から、我らが共に旅をしている今まで。ああ、まったく奇蹟に近いだろう」 「ならばこれ杞憂と信じ、我らは我らのやるべきことをやるしかあるまい」 「〈鬼無里〉《きなさ》か……」  辿り着く手筈の拠点、穢土の重要な地名を口にしたことで……なぜか心の何処かがざわめく。  刑士郎の中にある何かが、この先に待ちかまえているものに対し警鐘を鳴らしているようだった。気味が悪いほどに心臓の鼓動が落ち着かない。  夜都賀波岐か――いや、違う。  そういう不安ではない。もっと別の、何か自分にとって決定的な契機がその地で訪れるような……どこか運命的なものを感じるのだった。  これは自分だけに感じられるものなのか。だとすれば尚更、今の咲耶を連れて行くのは無謀なのではないかと思うものの、同時にある種の確信もあるのだ。  これが契機になりうるということ……咲耶の意思に訴えかける、何か大きな意味があるのではと思っていた。  ──瞼の裏に、白貌の影が浮かぶ。  鬼無里に近づくたび頻繁となった幻にざわめく心を抱えながら、刑士郎は咲耶を抱く手に力をこめた。  何かが起こる──必ず起こる。  心臓がまた、牙を鳴らして悦ぶように、大きく跳ねた。  ──ゆえに、誰も予想ができなかっただろう。  鬼無里の地。化外の民にとっての拠点であり、穢土に存在する紛れもない人外魔境。  そう予想していたし、彼らはそれに身構えてもいた。油断などしていなかったし、真実いまこの時もしていない。たとえ後手を踏もうとも、即座に反撃へ転ずることが出来るはずだ。  しかし、そのような心構えが本当に必要だったか、甚だ疑わしくなってしまう。  木々を抜けた山道の先、そこで見えた光景は── 「こ、これは……一体?」 「おい、何だってこんなものが……」  あまりにありふれた、活気ある変哲のない町だったのだから。  驚くのも無理はなかった、拍子抜けという言葉でも生温い。往来には多くの人々が行き交っており、その明るさが余計に身構えていた彼らを嘲笑っているようだった。  町の入り口は宿場も兼ねているのか、何件か旅籠が軒を連ねている。一服入れるための茶屋まであった。そこでは旅人が世間話に華を咲かせて、茶と団子を楽しんでいる  飛脚も通っており、馬子が役目の終えた早馬の世話をしている。悪路のように腐蝕している箇所などなく、母禮のように稲光と炎もまた見当たらない。  まるっきり何処にでもある、神州の街道町のようになっていた。 「なんだこりゃあ?」 「見ての通りだと、言えば話は早いのだろうが」 「あり得ない。なぜこの地で、このような営みが行なわれている」 「だが、現に……」 「いらっしゃい、いらっしゃい。安いよ安いよ!」 「おっと、どうだい? 粋のいい魚だろう。こいつは朝の獲れたてだが、いつものよしみでお安くしとくよ?」 「馬鹿言っちゃいけねえなぁ、これのどこが偽物なんだよお客さん。お天道様に誓って、あっしは嘘などついてませんさ」  刑士郎が指差した先では威勢のいい商人が客を呼び込み、値切りの声まで飛び交っている。  これが化外の民なのか? 穢れや歪みの元凶だと? とてもじゃないが見えやしない。頭がおかしくなりそうだった。  まさに泰平そのものだ。誰もが笑顔で道を行き、それぞれの人生を謳歌している。  場違いなのは呆気に取られている刑士郎らの方だ。 「ほう……」 「なるほどなるほど、これはまた」  そして、街の喧噪をよそに夜行だけは興味深そうに周囲を伺っている。  鼻を鳴らし、耳を澄ませ、風を感じる。  その一つ一つの動作に優雅さを見せながら、何がおかしいのか悠々と行き交う町人に意識を向けていた。 「……ますます訳が分からねぇ」 「おまえに同意するのも癪だが、私も同感だ。ここは街で、それ以外には決して見えない」 「……そう、ただの街なのだ」  くぐもった言葉にひっかかるものを感じる。 「どうした?」  罠であると言え。それならばこの馬鹿げた状態から脱出できると思いながら、刑士郎はその先を促したが…… 「いや、よく分からない。だがこれは、何だろう」 「上手く言えないが、何か……」  笑顔の行商。談笑する旅人。耳に入る営みの声。  僅かに、龍水は眉を顰めた。 「何か、この風景はおかしくないか?」 「〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、というか。決定的に欠けているものがある……ような気がする」 「何かだの、はずだのと、正鵠射ねえな」 「う、うるさい! デカイだけの木偶の坊に言われたくないわっ」  案の定気炎を吐いてきたのをあしらいながら、刑士郎は再び周囲の様子を眺めてみる。  あるはずのものがない、という発言。それに思い至ったことは何なのかと見回してみても、取り立てて欠けているものが見当たらなかった。  百姓、問屋、町民、どれも取りそろっている以上、少なくとも奇妙な部分は見当たらない。間違いなく危険なものは存在していないと感じる。ここにいる存在が総て敵だとしても、蹴散らせるだけの力は残っているつもりだった。  だが──ふと、そこで何かが刑士郎にもひっかかる。  ここに存在する町民が敵と仮定したこと。いや、〈仮〉《 、》〈定〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈条〉《 、》〈件〉《 、》〈を〉《 、》〈満〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》ということに、何か言い知れない齟齬を感じた時に…… 「おい、咲耶!」  気づけば覚束ない足取りで、咲耶が行商の方へと足を運んでいた。  物珍しそうに辺りを見回しながら、稚児そのものの態度で進む。声を掛けるが止まる気配はなく、導かれるように露店の前で座り込んだ。  花売りの男の前で、焦がれるように、じっと花弁を見つめている。 「お、なんだ。えらいべっぴんのお嬢ちゃんだな」 「この花が欲しいのかい? よし、それじゃあこいつは記念にもっていきな」 「あ……」  そのまま、伸ばした指先に花を一輪受け取った。  後ろでそのやり取りを見ていた刑士郎にも手を振ってから、気前よく往来の中に消えていく。 「あ、は……」 「この花は……」  それがよほど嬉しかったのか、花を見て咲耶は小さく笑っていた。  新雪の如く、純白に彩られた一輪の花。紅葉に彩られた穢土では見当たらない色彩に、刑士郎は若干訝しむ。  何という花……なのだろうか、これは?  どこかで見たことがあるような気もするが、しかし明確な記憶に思い当たらない。咲耶はなぜかその花を見て笑んでいる。取り上げることもできないまま、嬉しそうな表情をした妹から目を逸らした。  似合いすぎていると、なぜか思ったから……  絵になるにも程がある光景を前に、魂から感じる高揚を握り潰した。 「ともかくここでこうしていても仕方あるまい」  このまま下手をすれば町の営みを見るだけで日を跨ぎかねない現状に、区切りをつけるべく夜行が静かに場をまとめる。  閉じた両眼ながら、確かな意識の視線と共に、龍水へ向き直った。 「この場の決定権はおまえにある。御門の次期当主として、どうするかはおまえが決めよ」 「烏帽子殿からもそう仰せつかったのだろう? ならば我らは黙して従うのみよ」 「……分かりました」  言われ、考えることしばし。 「ならば、周囲を探ってみましょう。決して単独にはならず。取りあえずこの町の中心らしいところまで行ってみましょう」  そうすれば見えてくるものがあるかもしれぬと、妥当な案に男たちも同意した。 「分かった」 「結構。問題ない」 「では、行きましょう」  離れぬよう、出来るだけ一塊になりながら……かつ自然な旅人を装って鬼無里の情景を散策していく。  やはり、どう見てもここは宿場町。さらに奥の方は、城下町のように栄えているのが見受けられる。  取りあえず、情報を得るのならば人の多いそこだろう。水面下に警戒を潜めながら、中心部らしき場所をまずは目指して足を運ぶ。  宿場町から城下町の様相へと変わっていく町の作りは神州そのままの情景であり、特に違いが見受けられない。自分たちが何のためにここへ来たのかということすら忘れそうだ。  まったく別の、外国じみた建造物でもあれば感想も違うだろうが。 「しかし、見れば見るほど普通の町だぜ」 「うむ。確かにそうなのだが、やはり何か、どうしても違和感が……」 「ほう、具体的には?」  問われれば、龍水は黙り込むしかない。核心に至らない答えに対し、夜行は愛玩するように喉をくつくつと鳴らしていた。 「ならおまえはどうなんだよ、夜行」 「さてなあ、だが目が見えぬぶん、気になることはある」 「町は町だが、これでは繁栄できんだろうとな。まあよく見れば判ることなのだが」 「あの、それは?」  何なのかと、問いかけたその時に── 「さあさあ、よってらっしゃい。見てらっしゃい!」 「前の方から御順に並んでー、これが天下の語り草。聞いて逃せば、ああ末代までの恥でござーい!」  両替商と反物屋の辻ほどから、威勢のいいよく通る女の声が響いてきた。  号外でもしているのだろう。集まっている人々の中心から活気の良い声が届き、何か催しでもしていると伝えていた。  人混みを割って先に進むと、そこは一段高い演壇のようになっている。その壇上にいる小柄な少女が講談師か、大仰な仕草で町民に何事かを語っているようだった。 「とざいとぉーざい! ここより西、不和之関にて異変が起こった! なんと西から、鬼が攻めてきたって話だ!」 「残虐非道で冷酷非常。わたしたちを皆殺しにしようとしている。怖い怖い。とっても危険」 「だが心配に及ぶこたーねぇってんだ! 我ら護国英雄がたが、不和之関に攻め入ってきた鬼の軍勢を打ち破ったよ。めでたいめでたいめでたいねー!」 「号外、号外! 大勝利だー!」  そうして講談師をやっていた少女は瓦版を配り始める。最後に至っては、ばらまいてみせるという大判振る舞い。気前よく紙の束が風に舞って宙を飛ぶ。  刑士郎も龍水も瓦版を拾って目を走らせた。そこには講談師の少女が言ってた内容が、こと詳細に書かれている。  曰く、西に住まう悪鬼羅刹。  曰く、護国の英雄たちの健闘。  曰く、不和之関には近づくな。犇く鬼の残党に、臓腑を喰われて殺されると── 「は、笑えるぜ。これはあれか、俺たちのほうが鬼らしいだと?」  思わず漏れた嘲笑は、何とも複雑な感情を含んでいた。  呆れのようでもあり、なぜか納得するような響きもある。 「まあ確かに、こちら側から見ればそうなのだろうよ」 「裏から見れば、表の方こそ裏というもの。逆転しておると考えれば、さほど面妖なものではない」 「それは分かりますが……私は、いまいち納得できません」  まあ、それもそうだろうと刑士郎は考える。実際、彼もいい気分はしないものだ。誰だとて虚仮にされれば腹が立つ。  相手の都合は相手の都合、構いもしなければどうでもいいが……見も知らぬ阿呆どもに痴愚と呼ばれるのは苛立つだろう。  瓦版を真剣に読んでいると、さっきの壇上の少女がこうも付け加える。 「ああ、それと最後に」 「鬼どもだけどさ、まだ生き残りがいて、懲りずにこっちへ攻め込んでこようとしているんだってさー!」 「だから、みんなも十分気を付けるんだよー!」  少女の言葉に頷きながら、人々は少しずつ散っていく。  恐い恐い、ああ恐ろしいと。隣にいる者と口々に西の鬼を危惧しながら、それぞれの日常へ戻っていった。  なんとも気味が悪く、また同時に滑稽な光景だと刑士郎は思う。  〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈鬼〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈く〉《 、》〈様〉《 、》〈子〉《 、》〈も〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  見分けで見当がつかない相手を鬼と恐れているなどとは、よくよく皮肉なことだと思ったから。  人垣がまばらになったことで、龍水は視線をめぐらせる。壇上から降りてきた少女を見て、何かを決心したように小さく頷いた。 「あの子に聞いてみることはできないか? 何か分かっているかも知れない」 「そりゃいいが……大丈夫か?」  確かに情報通らしき者に話を聞くのが手っ取り早いが、気づかれる危険性も当然出てくる。  ましてや不和之関について知っている者だ。下手すれば、あの少女だけは西の者だと気づく恐れがあるのだが…… 「まぁ、なんとでもなろう」  一見何も考えていないようにも取れる夜行の言葉に、龍水の方針は決まる。ため息をつきながら刑士郎も同意して、茫洋と傍に立つ咲耶を己の背中におぶさった。  足音を忍ばせて近づき、一度だけ大きく深呼吸してから話しかける。見掛けは特に普通だが、心の中ではまさに緊張の一瞬を迎えていた。 「あの……すみません」 「──ん?」 「ああ。見ない顔だね。何処から来たのかな?」 「え、あ、私たちは、えーっと……」  と、西から来たと気づかれた様子はないが……機転が利かずあろうことか龍水はそこで口ごもる。  何処から来た? 西側の地名は当然言えない。東側の地名に関しても、こちらに知識はほとんどない。  黙してどう言うべきか思案する刑士郎と、言葉を続けられぬ龍水を置いて、夜行が悠々と前に出る。  整った美しい……彼の本質を知っていれば、胡散臭いとしか取れぬ微笑を湛えて語りかけた。 「あいや、済まぬ。このふたりは話し下手で失礼をした。私たちは不和之関の近くに住んでいた者だがな、西から来た鬼に追われたのだ」 「家は壊され、畑は焼かれ、何もかも失ったのでな。この通り、財も持たずに着の身着のままで逃げてきたというわけよ」 「加えて──」  刑士郎に寄り添う咲耶を指し。 「そちらの男の妹は、よほど酷い目にあったらしくてな。心に深い傷を負っておる」 「なので我ら、癒す術があればと思い一路ここまで来たのだが……」  どうしたものかと、肩を竦めて息を吐く姿は実に様になっている。  これで騙されなければ相当なものであり……町娘もまた、感じ入ったように目を丸くして驚いていた。 「ああそりゃ、大変じゃないの」 「うん。そういう事情なら任せてちょうだい。わたしが良い医者紹介してあげるからさ」 「それは深く感謝する。私は、摩陀羅夜行。そっちは、凶月刑士郎。負ぶされているのが、咲耶だ。こっちは――」 「御門龍水と言う。その、あなたのお名前は?」 「翡翠って言うんだ。よろしくね」 「それじゃあ、ついておいで」  早くその子よくなるといいね、と付け足して先導すべく歩き始める。疑っているようには微塵も見えない。  まあ、それはいいのだが…… 「よくもまあ、口から出任せが次から次へと……」 「嘘も方便というであろう?」  そ知らぬ顔で微笑する夜行を見て、刑士郎は何ともいえない感情を抱いた。  背負われたまま首傾げる咲耶になんでもないと返し、翡翠の後を追って刑士郎たちは先を進む。  道を歩む道中、刑士郎と龍水は基本無言で付き添うだけだ。共に彼ら、親しい者以外との会話を端から得意としてはいない。言葉遊びを嗜むよりは、より実直で単純明快な解を求める気性である。  此度のように、一瞬で暦や出自を偽ることには向いていない。ゆえに当然、会話はもっぱら夜行一人が引き受けている状態だった。  年頃の少女と表面上は親しげに会話をする夜行に対し、龍水の心は幾らかざわめくものを感じるのか、その表情はやや険しい。  もしくは単に、先ほどから言っている謎の違和感を探ろうとしているのか。御門の次期当主としてそれなり以上の霊感を有している彼女のことだ、その第六感がどこかで警告を鳴らしているのかもしれない。  であれば、龍水より優れている夜行もまた、より強く── 「翡翠とやら。おまえはこの鬼無里の者か?」 「そうだね。鬼無里の傍の、〈高志〉《こし》って村の人間だよ。この近くの川ではね、翡翠が取れるんだ」 「だから、私の名前も翡翠っていうわけ」 「ほう。では、おまえたちの村は翡翠を集め、加工し、売り捌くのが生業か」 「そうだね。お城にもよく持っていくよ」 「では、先のあれは何だ?」  生業というのなら、先のような号外がとても仕事とは思えない。 「ああ、あれは趣味みたいなものかな。この辺りには全く娯楽とか無いからね」 「翡翠を卸しに来る過程で聞きかじった噂を、瓦版にして売ってるわけ」  そう言って翡翠は軽快に小銭入れを鳴らしてみせる。まずまずの実入りのようで、確かに小遣いと趣味を兼ねた行いとしては申し分ないだろう。 「なるほど。しかし、瓦版が数少ない情報源とは、些か不便ではないのか?」 「この近隣の者たちも、大過が起これば困るだろう」 「件の、鬼が攻めてきたときのように」  近隣の者たちも、大過が起これば逃げられない。有体にいって、危機を想定していない。鈍すぎる。  人の営みに争いは常に付き纏う。何も恐ろしいのは鬼だけではないだろうと、言葉の裏に潜ませたが翡翠は腹を抱えて笑っていた。 「あははは! ないない。今回みたいなこと、そう起こるものじゃないからね」 「西から何かが来ない限り、何にも事件がないのが鬼無里だからねー」 「この辺りは全く変わった話が出てこないから、いつもはせいぜい山のお爺さんに話を聞いて、天気の予想をやったりとか。他には……祭りの知らせを書いたりするぐらいかな」 「そうなると、今は稼ぎ時というわけだな」 「ふふん。そういうこと」  自慢げに小銭入れへ頬ずりする姿は、年頃の娘らしく愛らしい。  だがしかし、そのように呑気な言葉が真実なら、それはなんとも。 「誠、平和なことよ」  離れて聞いている刑士郎もその言葉には同感だった。およそ考え付かないほどに、ここは平和だ。とても穢土とは思えない。  東の地を踏むまで想像もしていなかった。奇妙な気分になってくる。 「そういうこと。それでみんな十分なのさ。だから今回の事件、凄いみんなの興味を引いているんだよ」 「確かに、私たちも焼け出されて、大変なことが起こっていると理解させてもらったとも。ああただ、逃げ惑っていたので姿を見るのは出来なかったが――」  夜行は一拍おいて、言葉をつなぐ。 「西の鬼、あれらはいったい何なのだ?」  東の者よ、おまえら我らをどう思っているのだと──真を覆い隠したまま訊ねてみると、ここで初めて翡翠の表情が悲痛に歪んだ。 「鬼は鬼だよ。すっごい悪い奴らさ」 「あいつらは、この地を破壊しようというとんでもない連中だよ! 悪逆非道、無慈悲で残酷。血も涙もありゃしない」 「人の心や痛みなんて、ちっともわかってないもの」 「それはそれは、背筋の凍る。身震いするな、恐ろしいことだ」 「では、その鬼どもに立ち向かう護国の英雄がたは、大層尊敬されているらしい」 「うん、だってとても可哀想な人たちだから」 「可哀想?」 「そうだよ」  その問いに、翡翠は朗々と古い伝承を語り出す。  彼らに伝わっている英雄の歌。今この時も続いている、八人の益荒男の物語を。  ――今は昔、そうとしか形容できない遥かな過去の日、この世には護国の英雄と呼ばれる者たちがいた。  だが、何時からか、この地におぞましい化け物が現れた。それが何ゆえこの世界に入り込んできたかは分からない。ただ、その圧倒的な力で英雄たちの世界を引き裂いていった。  彼らは戦ったが、それでも鬼は異常なほどに強く、涙ながらに土を噛む。  勝敗が決した瞬間、鬼の法が世界を覆い尽くさんとしていた。正しき理は塗り替えられ、邪に歪んだ法理だけが気づけばそこに残っていった。  それに対して護国の英雄たちは決意する。我ら防波堤となりて、邪なる法理からこの世界を守り抜こう。  麗しき黄昏を穢させないと──鬼の法をはね除けたのだ。  幸いなるかな、力の強い英雄たちは僅かながらも世界を守った。鬼は歯がみして悔しがり、その鬩ぎ合いは未だ拮抗状態を保っている。  それは聞こえのいい歴史ではなく、現在も続く事実なのだという。  まだこの世界には幻想が生き、人々もそれを受け入れ望んでいる。だからこそ、自分たちが英雄によって守られた優しい世界の住人だという自負があるのだ。  誰しも今の生活があり、立場があり、それを自己の〈常識〉《せかい》として認識しているが……遠い時代にあった行状も、つい先頃の出来事も、みな同じ線上にあるもの。  これは正邪を論ずる次元の問題なのだから。鬼の法理はあってはならぬものなのだから。  湖の暮らしに慣れた鯉が、そこはもともと鰐のものだったのだから海に戻せと言われても困るという。しかしそもそも、鯉に鰐を追いやれるはずがない。  そこにはもっと恐ろしく穢らわしい、異形の怪物がすんでいる……しかし世界を形作る勝者の鬼は、己にとって都合よく自らを錦鯉と吹聴して、真実の鯉を鰐と呼び蔑んだ。  だから、その簒奪者に対して、いずれ英雄たちの世界が逆襲する。  〈化外〉《けがい》と名付けられた者たちを、鬼は己が悪辣さを顧みぬまま滅ぼそうと画策している。  その上、このような文言を押しつける輩の何処に正義があろうか。 『又高尾張邑有土蜘蛛 其為人也 身短而手足長』 『与侏儒相類 皇軍結葛網而掩襲殺之』 『因改号其邑曰葛城』  国産み。新世界の創造――と称した、ただの簒奪。偽りだけがそこに記されている。  勝手に化外、土蜘蛛と呼ばれ、まつろわぬ化外の民とされて排されたところで何になろう。この土地こそ真実の世界。その刹那が破壊されない限り、東の地にこそ理はあるから。  魂を抱く黄昏の、あの優しさを覚えている。  敗北し、もはやこの地、穢土だけしか守りぬくことはできなかった。ああそれでも── 「だけど、英雄たちは諦めていない。今も抵抗を続けている」 「いつの日か、また平和を手にするために」 「優しい光に包まれた、懐かしい黄昏を取り戻したいから」  誰かが誰かを愛することを、信じることを、当たり前の輝きだと思える。そんな理を再誕すべく、ここに在るに違いない。 「きっとその一環が、この間の不和之関の戦いだったんじゃないかなぁ」  と、翡翠は眩しげに、そしてどこか誇らしげにそう語って締めた。 「…………」 「…………」  だからこそ、各々の理由で刑士郎と龍水は唖然とする。東西逆転したような伝承ならば想像できなくもなかったのだが、これはそのさらに上を突いている。  何だそれは、その理屈は? 誰かを慈しむと口にして、魂の価値を口にして、それを大切だと奉じる様。  知っているし、聞いたことがもちろんある。ああそれはまさしく、あの御前試合にて彼らの将が吐いた言葉、そっくりそのまま当てはまる── 「って、あれ? なになに、どうしたの? 皆おかしな顔して黙っちゃってさ」 「くくく……いやいや、実に面白い話であった。どうにも知識に疎くていかんなと、我が身の無知を嘆いておったわ」 「私も然り、この者らもな」  口を噤む二人に対し、夜行はさも面白いと言わんばかりに翡翠と話を広げていく。 「いやはや面白い。政事の勉学でもしていたのかと思うほどの饒舌っぷり。大した物だ」 「そりゃ、瓦版売りの口上もあるからね。これぐらいは舌が回らないとやってられないよ」 「そう、あの人たちはまだ負けていない。この平穏を、温もりを、絶対誰にも奪わせない」 「そして、いつか必ず外の世界を崩してみせる」 「私たちから奪った生き場を、この手に再び取り戻すんだ」  その時、刑士郎の脇にいた龍水が一歩前に出て口を開く。 「では――」  そのただならぬ気配に刑士郎は止めようとした。しかし、龍水はそれを振り払うように言葉を継ぐ。  ようやく己の中で、何某かの合点がいったかのように。 「この鬼無里にも、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》がいる、ということだな」 「そうよ。ここは紅葉様の直轄領。一番優しい英雄の国だからね」 「なるほどな」 「ならば──〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈名〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》?」  途端、空気が一瞬にして変わった。  翡翠が常に放っていた陽気ともいえる雰囲気が凍りつく。氷水を浴びせたかのように、大気が停止するのを感じた。 「おまえ達から見れば西こそ鬼で、自分達こそ先住の民。ああそれはいいだろう。来歴の正しさをここで論じるつもりはない」 「だが、あくまでそれは過去の東征で我々が勝手に付けた名称だ」 「ゆえにまともに考えるなら、こちら側……穢土の単なる一住人がその名を知っているはずはないだろう」 「だから……ああ、そういうことか」 「この町の住人たちが、どういうものかやっと分かった。何たる悪趣味だ、許し難いぞ」  陥穽はそこだった。穢土、夜都賀波岐、そのような呼ばれ方をあれらは東でされるはずがない。なぜなら、彼らは英雄だから。  国を守るため、世界を守るため、身震いするほどおぞましい悪鬼に立ち向かった彼らが、鬼の名付けた蔑称で呼ばれるわけもなく、また知るはずもないだろう。  そして、その名付けられたことそのものを、一介の町娘が知っているのもまたおかしい。  なぜなら、三百年前の東征以降、東の地に入ったものなどいないのだ。敗走して命からがら生き延びた者たちがあれら天魔、あれら夜都賀波岐、悪路なり母禮なりと勝手に名付けただけに過ぎない。  名付けたという事実すら、東の者が知っているのはおかしいのだ。実際に知ったとすれば、それは不和之関での交戦機会一度きり。  そしてその呼び名を知るのは、あの場にいた、東曰く黄昏の英雄たちだけであり── 「ふふ……」  ならば、つまり。 「……まさか」  目の前にいる、何の変哲もない町娘は、すなわち── 「あははははははははははははは!」  その想像を肯定するかのように、けたたましい笑いを残して翡翠の姿はかき消えた。  烈風が吹き荒び、視界が覆われたと同時──  横合いから突き出された槍の穂先が、刑士郎らを取り囲んでいた。 「あの方の、優しくも慈悲深いお心を……」 「傷つけるのか……嘆かせるのか……」 「穢れた、西の細胞が……」  武器を持った町人が、呻き声のように何事かを呟いて彼らの周りに存在していた。 「は、なるほど。そういうことかよ」  罠も罠──要するに、この町そのものがそうであっただけのこと。  ならば何をどうしたか、何を見せたかったのかなどと欠伸の出る論争をするつもり、刑士郎には微塵もない。  陰気の失せた身だとしても闘争の勘だけは鈍っていない。獣の如き本能が、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈大〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と告げていた。  見た目変わらず、大の大人一人分。そっくり兵に換算してもいいほどだ。ならば咲耶を背負っていようと、この面子なら物の数ではないだろう。  加え、夜行と龍水も結界を作ることはできる。どちらかに咲耶を守る壁を張ってもらえれば、後はこちらの仕事となる。実に容易い。  簡潔な状況の展開に対し、いざ抜き身の刃を放とうとしたところで── 「やめておけ、嬲り殺しにされるぞ」  変わらぬ口調で、しかし真摯に夜行が不可解な言葉を吐いた。 「こんな雑魚ども、どれだけいようが関係ねえだろ」 「雑魚ではない。今の我々では彼らの一人たりとも倒せんよ」 「達している者、〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈主〉《 、》の格が違うのでな」 「……なに?」  言外に、自分でも町人一人を滅ぼせないと語っている。  ありえない言葉は口調の柔らかさに紛れて誤魔化されそうになるが、嘘など欠片も混じっていなかった。それだけに、刑士郎の思考が疑問で埋まる。  少なくとも、夜行に戦闘するという意思は見られない。それも純粋に、勝機が見えないからこそ戦わないと言っていた。 「さて、どうするかな、龍水? 今の我らでは、一矢にも届かぬと思うのだが」  自分はやらんぞ、と微笑をたたえて告げる。自然体の構えに嘘はなく、そうなれば当然先の話も信憑性を帯びる。  そして、だからこそ龍水への問いかけは試しだった。面白がっているようだが、同時にどうするか見たがっているようにも見える。この場の決定権はおまえだと、そう伝えていた。  沈黙は数秒、深く目を閉じてから彼女は考えをまとめた。 「──ここは投降しましょう」 「認めたくはありませんが、我々はそれほど非力な存在だと見なされています」 「ですから、その気ならこの町に入った瞬間皆殺しにされていたはず。つまり裏を返せば、即座に殺す気が無いということでしょう」  でなくば、夜行ですら滅ぼせない雑兵とやらが何百も押し寄せてきたはず。先の喧騒が演出ならば、当然そこには意図がある。  ならば── 「……正気か? あちらの側から、西の鬼に用があると?」 「それこそ、蟻に語りかけるようなもんじゃねえのかよ」 「意外と、それも収穫のあるものだぞ?」 「もとより、この状況はすでに詰みよ。ならばいっそのこと、虎穴の奥まで入ってみるのもまた一興……とは思わぬか?」 「思うか。てめえの諧謔に付き合わされる身にもなれ」  蟻に話しかけて悦に浸るなど、そんな変態はおまえだけだと告げはしたが…… 「だが──今はこれしかねえか」  状況が読めないわけではない。刑士郎もまた、今の自分たちがどういう窮状に陥っているかは察している。  背中でしがみ付いている咲耶の存在もある以上、その目的とやらに乗っかって、うまく利を掠め取るしか道はないのだ。  情けない。腹が立つ。ああだからこそ、またもより強く力への渇望が胸の裡を満たすのだ。  力が欲しい。力が欲しい──〈暗闇〉《チカラ》が欲しい。〈血花〉《チカラ》が欲しい。それが己だったはずだから。  血と暴虐と耽美を具現し、このような状況など溢れんばかりの暴力で蹴散らせるほどの存在に成りたい。無敵の益荒男になりたかった。  それは渇望……飽いて、餓えたまさしく鬼の願いが氾濫する。  西において無敵であり、恐れる者なき魔人たりえた力と自負は、初戦で見事に欠片も残らず砕かれたから。  化外の民を、残らず殲滅するほどの新たな力が欲しいのだ。刑士郎はそれを願う。強く、強く、かつてない純度で願い始めていた。  追い求めたものを手に入れる……そのための衝動こそ、自分にとって相応しいと言わんばかりに。 「あぅ、ぅ……ぁぁ……」  背負う咲耶が泣いていたのは悲しみか、それとも歓喜の震えだったのか。  刑士郎には分からない。  そして──  鬼無里の城の天守閣。欄干の上から見目麗しい女性が一人その情景を見守っていた。  彼女の民、彼女の愛を纏う者らが、波旬の細胞を捕えてここまで連れて来ているのを知覚できる。一見すれば穏やかに、悪路や母禮よりもずっと知性のある輝きを見せて眺めていた。  女は美しく、そして母性に満ちた外見をしていた。  遊女の如き艶やかな出で立ちに、豊満な肢体。泣き黒子に彩られた容姿は官能的でありながら、神聖な母のようでもある。  女と母の両立とでも言うべきか。温和さと冷徹さ、愛情と憎悪、柔和さと苛烈さ、相反する二つの属性が女性的な面で融合している。  それゆえか、遠方から彼女が刑士郎らを見据える視線に暖かさは欠片もないが、憎悪もさほど見受けられない。  言ってみればそれは観察者の視線か……  実験動物を確かめるような透明さと、真価を問いかけるような薄い期待。常に二者択一の内、最善を選び取ろうとする精神性は彼女がそういうものであることの証明かもしれなかった。  だからこそ、今もまた彼女は何かを試そうとしている。それは彼ら黄昏の残照中、もっとも穏健的な立ち位置にある自分の役目だと思っていた。  ここまで踏み入った西の存在、それは以前と同じなのか。  変わったのならば何なのか、東の事情を知ったならどのような心持ちで相対するというのだろうか。  ……そう考えたところで、彼女は小さく自嘲した。ああまたも、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈言〉《 、》〈い〉《 、》〈訳〉《 、》〈を〉《 、》〈口〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》、葛藤好きな性を笑う。  何が期待か、そんなもの自分は欠片も持っていない。話を聞きたい理由など、最初からたった一つしか持っていないのだ。  自らの心を動かす原因は、それこそ〈彼〉《 、》〈女〉《 、》の存在のみ。  自分だけはずっと、黄昏から身を引いて西に紛れた彼女の真意を問いたいと思っていた。 「ねえ、あいつらどうするの?」  姿は見えず、声だけを響かせた同胞の声に軽く首を振る。  そこを問うためにもまず、ここで軽々しく命を絶つわけにはいかなかったから。 「それはもう、いつでもできるでしょう? だから少し、話がしてみたいの」 「どうせまた、自分に酔った一人芝居を見せつけられると思うけど」 「特にあの黒い奴。恐らくだけど……きっとそう」 「ええ、そうね」 「似ているわ。それこそ、怖気の立つほどに」  あの場にいた盲目の男──あれはそうだ、そうとしか思えない。  そしてもう一人、これは自分たちにとっても忘れられない白貌の…… 「けれど、用があるのは私だけではないはずよ。あなたもまた、話を聞いてみたい相手がいるんじゃないの?」 「そうなるかな」  言いたいことはあるだろう。なぜならあの兄妹にとって、思うことは自分より彼女の方が多いだろうから。  ゆえに、あれら二組に対し役割は決まった。 「それじゃあ、またあとで」 「お互いにね。まあ、あなたがどうするかは幾らか想像できるけど」  やりすぎないことを心配して、消えた念へと微笑みかける。  声の主……彼女のやろうとしていることは、想像通りならとても簡単なことだろう。水銀の真似事じみた行いをするのは精神衛生上かなり気分が悪いものだし、成功してもそれはそれで手を焼くことになるかもしれない。  思えば、あの白皮病たる彼は自分たちの集まりをそれなりに愛していたが、だからといって気の合う相手でもなかったから。  何より彼を御せる黄金はすでにいない。黄金の継嗣に呼応するか、それとも仇討ちなりに傾倒してくれれば御の字というものだろう。最悪、内部分裂を誘発してくれればそれで十分。  つまるところ、そんなものだ。総ては万事変わらぬまま、大勢に依然として変化はないしその兆しもない。  だから── 「……そう。きっと本当は、話をする必要なんて、ない」 「けれどなぜか、それは大事なことのような気がするの」  これがただの自壊衝動ではないと信じたい。  そう強く感じたからか、懐かしい言葉が彼女の唇から零れ落ちた。 「」 「」  今は袂を分かった親友の名を。  自分だけはあの友人を信じていると言わんばかりに……  渇いた音と共に、軋みを立てて牢が閉じる。  同じ房に入れられた刑士郎と咲耶に対し、どうやら牢番をつけるつもりもないのか。焦点の合わない視線で一瞥すらすることなく、鍵をかけたままその場を後にした。  龍水と夜行の姿はこの場にない。城につれて来られた矢先、さも当然のように彼らは二組に分けられて、こうして別待遇の扱いを受けている。  それぞれどのような仕打ちを受けているのか、今となっては確認する術もなく、また打開する術も見当たらない。 「笑えるぜ。こんなことになっちまってどうすんだよ」  凶月刑士郎は、非力だ。その事実をこの上なく痛感する。  何一つ我を通せた局面がない窮屈さに対し、心中で牙を研いだまま状況へと意識を寄せる。まずはさしずめ、これら建造物の意匠。 「しかし……この牢、俺たちの知っている牢と変わらねぇな」 「あいつらは別の牢屋か? 何かが分かったような感じだったが」  西側を嫌っている割には、作るものはこちらにどれも似通っている。というより差異がない。技術の問題かとも思うが、どうにもしっくりこないのだ。  意識……根の部分で通じているのだろうか、主が住まうものを城と捕え、民が住まうものを町と認識し、こうして罪人を捕えておく部屋を牢とする。どれも同じ概念と形を有しているのは、いっそ不気味ですらあった。  営みが似通っているということは、精神的な面で通じるものがあるということに他ならない。  ならばもしや──化外の者らの内面は、さほど自分達と違ったものではないとでも?  歪みを喪失して弱体化したからか、敵手を読み取ろうとする側に意識が向いているのを刑士郎は感じている。あの町娘が化外の民というならば尚の事、話はできるということを証明していたから。  ゆえに、ここで相手の心象を推し量るという重要性を龍水らが選んだことも分かる。ただ内心ではそれに納得していないだけだ。だから当然、今にもこの牢を破壊したい気分になるが……そこから先が続かない。  武装を取り上げられているが、壊そうと思えばこの程度の柵は破壊できるのだ。その程度の膂力は持ちえているものの、状況が悪化するだけというのはさすがに分かっていることだった。  何より…… 「そうか、それが気に入っているか」 「…………」  咲耶の存在が総ての行動に足を引く。それがまた安堵と苛立ちを生むからこそ、自分の芯が定まらない。  愛らしい笑顔はそのままに、依然あの花を手に黙って頷く姿は心神を失った憐れな白痴のままだった。  白い一輪の花だけが、咲耶の心を繋ぎ止めている。 「しかし、こうして改めて見ると、本当に見たことのない花だな」 「気に入ったのなら持っていればいいが、棘があるようだから危ねえぞ。気をつけろよ」  その時、ふと──本当に何気なく、その花を見て思った。  白い花弁、純白の彩りは無垢であると同時に、何か別の染料で染められるのを待っているようではないかと。  たとえばこの鋭い棘で握った指の皮膚を裂き、滴り落ちる血の雫を吸って咲き誇ることができたなら──  その花こそまさしく、血染めの花で。  この窮屈で脆弱な身体から、生まれ持った業と共に解き放つ。  自分を新生させる引き金になるのではと…… 目の前にある、無垢で美しい純白の〈咲耶〉《はな》に重ねたところで。 「うふふふふ」  響いた声が、知らず伸ばしていた手を止めたのは……果たして幸運であっただろうか。  後一歩、渇望したものを奪い取られた感覚に〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》と感じながら、檻を挟んで立つ娘の姿を睨みつけた。 「てめえは……」 「お久しぶり。〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》〈わ〉《 、》〈ね〉《 、》」  化外の民たる町娘、翡翠と名乗っていた少女はにこやかに刑士郎を見つめていた。  嬲るような輝きと──言葉通り、不可思議な懐古の念を織り交ぜて、敵意の視線を受け流している。  そして、刑士郎たちが翡翠と邂逅を果たしているのと同時刻……  龍水と夜行の二人は彼らと逆に城の上層、大広間へと連れてこられていた。  扱いは驚くほど丁重。龍水はどのような仕打ちを受けるかと気を張っていたものの、そのようなことは無くむしろ客人のような待遇だった。  それは確かに幸運で、同時に厄介な一つの事実を指している。  この城の主、おそらくは天魔八柱の内一柱であろうが……その者はただの狂乱した獣ではないということ。  すなわち、強大で荒れ狂う戦神の中に冷静な思考を巡らせられる存在がいる事実に他ならない。やろうと思えば効果的、効率的にこちらを攻めることができるのだと明かされた。  ならばこの誠実な待遇も殊更不気味に思えてくる。気のせいか龍水には、いま自分の立っている場所が骨肉か内臓である光景を幻視したから…… 「真実、私たちは腹の中というわけでしょうか」 「さてなぁ。そうすぐに死ぬことはまず無かろう」 「刑士郎らと別待遇でこの扱いということは、どうやらこれは、我らと話がしたいということかな」 「まあ、刑士郎では化外と会談など出来まい。的確な人選だ」  血の気が多いのに加え、徐々に刑士郎の中で精神の均衡が崩れてきているのを龍水らは感じている。  ゆえに対話の場を設けるなら、なるほどその間は隔離しておくのが一番だろう。まるでここの主が、遠い昔から彼の扱いに慣れているかのようだった。 「そこから察してみる限り、この城の主には明確な理性があるらしい。先の二柱とは毛色が違うな」  知性ある鬼、すでに正体も聞いている。翡翠が告げ、彼らを捕えた町人らがうわ言のように漏らしていた名は…… 「天魔・紅葉。その名は彼ら〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》の中でもかなり著名で、どういう能力を持っているか、その詳細まで知られている」 「それとこれから会えるとは、光栄だとでも思っておけよ。龍水」  不敵に笑う夜行は変わらず怯えも恐れも見せてはいない。その威風堂々とした姿に、龍水の中で不安が消えていくのを感じた。  ああ、やはりこの方は素晴らしい。きっと自分は大丈夫だ。夜行様が傍にいれば、たとえ天魔が相手であろうと恐れる道理などありはせんのだ。  そう心が決まった時、太鼓の音が広間に響いた。  居住まいを正し緩みかけた気を再び強く張り詰める。然りと前を向いた視線の先に…… 「お待たせしたようね。西の方々」  優雅な所作と共に、美しい女性が入室した。  天魔・紅葉。文献にも詳細に残っている夜都賀波岐が一柱であり、見目麗しい絶世の美女が龍水らの前に腰を下ろす。  それは驚くほどの穏やかさだった。気配がないとか、威圧を感じるなどというものは微塵もなく、純粋に理性的な当たり前の態度で視線が向けられる。  客人と顔を合わせる主の態度そのものであり……その佇まいを前に龍水の息が引きつるように詰まった。  化外、異形の者。大鬼神と伝えられてきた女性の、ああなんと美しいことであろうか。  艶やかでありながら、決して下品なわけでも華美装飾が過ぎるわけでもない。雨に濡れた未亡人のような妖しい色気を纏いながら、なのに母性的な側面を強く感じるのはどういうことか。  その身を紡ぐ陰気の深さは間違いなく神の領域にありながら、それでも非常に女性らしさを強く感じる。悪く言えば俗的ということなのだろうが、これは親しみや憧憬の念を集めるものだ。  それこそ龍水にとって嫉妬してしまいそうになるほど、ひたすらに女性らしい。同性の誰もが理想の女と仰ぐほどに完成した母性像がそこにあった。  だが、なぜか。龍水はその姿を見ていると、誰かの姿を垣間見てしまい──  静かに困惑している少女を置いて、夜行が恭しく拝礼する。興味と好奇心の覗く笑みをたたえて、自らの敵わぬものへ訊ねかけた。 「お招きいただき恐悦至極」 「さて……御身は、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が一柱・紅葉殿とお見受けするが、よろしいか?」 「そちらではそのように呼ばれているようね。ええ、ではそう呼びなさい。あなた達は?」 「これは申し訳ない。私は摩多羅夜行。神州西方、御門一門の陰陽頭にして、東征軍総大将、久雅竜胆公の麾下末席を汚す者。お見知りおきを」 「そして、こちらが」 「神州西方――御門一門が当主、龍明の娘であり、偉大な母の跡を継ぐ者」  御門龍水――と名乗った後で、一旦言葉を切った。  気合いで負けてはならぬと紅葉の顔を見れば見る見るほど、さっきから引っかかっていたものが自分の中に芽生えた感想だと気付いたから。  そうだ、ああ間違いない。この女、〈母〉《 、》〈刀〉《 、》〈自〉《 、》〈殿〉《 、》〈に〉《 、》〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈似〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  それが龍水を困惑させていた原因であり、また自分自身ですら信じられぬ感想だった。恐ろしいはずの穢れた天魔から母の様な慈しみを感じること。その不似合いさが分からない。  それは自分が幼いからか。母を持つ子供だからなのか。それは判別つかぬまま、同時にあってはならない感想だった。  頭を振り漠然と感じたものを振り払う、強い語調で言うべきことを睨みながら言い切った。 「貴様らを覆滅するため、この地に来た」  他の天魔と違い、この紅葉から出ている慈母の如き雰囲気をどうにか断ち切りたいと思ったのだ。  どうだ暴言であろう。さあ正体を現すがいい。そう願う龍水の心すらも見透かしているのか、紅葉は微笑むばかりで怒りはしなかった。  むしろそういう子供らしい反応を、微笑ましく眺めているようにすら見える。 「ふふふふ……」 「元気のいいお嬢さんね。なるほど、あなた達の振る舞いに相応しい人選がされているということかしら?」 「そうやも知れませんな」  柳に風。馬耳東風。まったく堪えていない様を見て、龍水は話題を変える。 「……連れの者、刑士郎と咲耶は無事か」 「我々だけを呼び出したのは話を聞くため。それは分かった。ならば彼らはいったいどうなる? それを答えて欲しいのだが」 「彼らのことなら心配要らない。牢に入れているけど、生きているわ」 「あの二人にはまた少し思うところがあるので、別の対応をしているの。まあ、私自身もよく分からない気持ちなのだけど」 「無事、なのだな」 「ええ。誓って」  返答は優しく、思わずそれに安堵してしまう。  この女の言葉に嘘はない。嘘を吐く理由が無い、などという以前に嘘を吐くということを相手に感じさせない。騙すつもりがないのだと、まるで気負っていないその態度が物語っていた。 「それで、我々にいったい何の用かな?」 「舌の回る者を見繕い、御前に引っ張り出してきたこと。よもや伊達や酔狂とは言いますまい」 「聞きたいことは、そう多くない。あなた達が何を思って、こちら側に攻め込んだか。その動機」 「……まずはそれだけ。話の次第によっては、それ以上のこともあり得るけれど」  最初の問答、としてはこのようなところがお互いに順当というものだろう。  答えを促されて、夜行に代わり龍水が声を上げる。 「理由は単純にして明白。この穢土から流れる陰気を止めるためだ」 「淡海を越え、それは我らの神州を侵している。それを食い止め、民の安寧を守ることが御門の定め。それが一つ」 「それから、我らの神州は今、諸外国により圧力を受けている。開国せよと。しかし東の半分は、我らが国にして我らの物にありはせん。それを正すがもう一つ」 「総じるならば、護国のため。私たちは東へ来たのだ」 「まあ、大儀としてはそうですな」 「そうね……理由としては妥当だわ」 「生き場の崩壊を前にして、座して待つのはただの怠慢。祖国存亡とは、つまるところそういうこと。そこに間違いはない」 「けれど女が戦場に出て、前線を往き、殺される。それが愛国心かと問われれば……冗談じゃないと思うけれど」  そこに何を思うのか、ほんの少し紅葉は口の端を歪め自嘲してから、龍水らへと向き直った。  敵意はない。断じてないが── 「あなた達個人として、それはどうなの?」  その静かな詰問に、初めて龍水は場の空気が引き締まり始めたと感じた。 「なぜ、そのようなことを答えねばならない」 「そちら側では、我意が総てなのではなかったかしら?」 「誰かのため、何かのためとあなた達が口にすることほど、実が無く上滑りしているものはない」 「ああ結局のところ、自分自身のためなのでしょう? 先に述べた大義のために、あなたはどうして死ねるというの?」 「私は、それを聞きたいのよ」 「…………それは」  言葉に詰まるのは当然だろう。なぜならそれらは、確かに我意によってこそ動機が成り立っているのだから。  東征の大義は、確かに先ほど述べたとおり政事に携わるものなのだが、龍水にその手の権謀は関係ない。御門の家は陰陽司る家柄なために、その辺りの内外向けに拵えた施政については繊細な立場にある。  よってあらゆる建前を取り払った際、東征において龍水を参加させた名目は母である龍明に認められたいこと。  そして、この隣にいる偉大な益荒男、許嫁となった男の役に立ちたいこと……言ってしまえばそれだけなのだ。  大義を越えた念の所在、たとえば竜胆のような高潔なる誓いを求めていれば胸を張って答えたろうが、龍水にとってそれは黙りこむしかない質問だった。  紅葉が求めている解答を提示できるとは思えない。だからこそ龍水はそこで返答に窮し、それらを意に介さぬ夜行は悠々と言葉を紡ぐ。 「では、こちらも胸の内を答えるゆえ、代わりそちらもこちらの問いに答えること」 「問答とはそういうものかと。御身も、それでよろしいかな?」 「ええ、結構よ」  一問一答形式、それがもっともこの場で適したものであろうと両者共に納得し。 「では、慈悲に甘えて尋よう。人が己のために生きるのは、それほどまでに悪いことかな?」  言わば真芯──紅葉の語り口から、常に会談の中点に存在していた話題を打ち抜いた。  自分のために生きるな、と。まるで身売りじみた答えを言わせたいのかという訴えに、紅葉は微笑しながら首を振った。 「それ自体は、別に悪いことではないけれど」 「人はまず、己というものを確固として持たなければ、何も成せないし何もしてあげられない。自分を愛していない者に何かの結果が出せるほど、世の中というものは甘くない」 「誰しも、芯の部分は自分の都合で生きている。それは私たちにしても同じこと」 「そう、自分が気持ち良いから誰かを愛したり、助けたりするのは間違いじゃない」 「自分の中に喜びを見出し、それを求めることが悪徳と見なされるようなら、ほら、誰も生きていけないでしょう?」 「だから不本意で、嫌なことばかりあえてするのが尊いなんて、そんな理屈はどこにもない」 「そういう生き方をしているように見える人達も、要するに被虐的な快感が好きなだけ。生き物なら何であろうと、まずは自分が笑うために生きている」 「その本能を否定するのは、きっと誰にも出来ないことだもの」  自分もそうだったという経験があるのだろうか。  柔らかい言葉は郷愁に満ち、体験した者特有の重みがある。そして先ほど西側世界を批判していたかのような言葉とは裏腹に、その言い様は自己愛を肯定するものだった。 「けれど──」  ほんの少しだけ瞳に力を込めて、どこか悲しそうにこちらを見つめながら紅葉は言った。 「〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈達〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》」 「はあ?」  静かな否定の言葉に、思わず龍水は尋ねる。何を言っているのか、皆目、さっぱり分からない。  何だそれは、まったく理屈が通じていない── 「何がどう違うという? 別に私が化外と同じであると言われても、嬉しくないし理解できんが、話の筋が通ってないだろう」 「おまえ達はおまえ達で、復讐のために在るのであろうが。違うなどとは言わせんぞ」 「あの翡翠とやらが言っていた、おまえ達から見た歴史。それと同じだ。貴様たちにとって都合のいいことだけを見いだす、ただの方便ではないか」  つまり、連中が西を否定するのは感情論。  自らの生き場を奪われ、それが辛い、だから憎む。言ってしまえばそれだけで、そうとしか感じ取れない口調に龍水は怒りを覚えた。  それはきっと、見当違いだが裏切られたと感じたから。ああそうだ、そのような八つ当たり──母刀自殿がするはずはない。こんな底の浅い女と重ねたことこそ間違いだったと悟ったのだ。 「なるほど、そちらの怒りも理解できるが、だからといって化外の悲劇に付き合ってやらねばならない謂れはない」 「今現在、自分たちは、おまえ達の存在により圧迫を受けている。それはそちらも同じだろうし、つまり共存はできないのだ」 「ならばこんな、どちらの側が正しいだの、過去に受けた屈辱だのと、言い争う議論に意味はない! これは双方、生存を勝ち取るための純粋な闘争で、そこに負け犬の恨み言など混ぜるでないわっ」 「不愉快だし、共感してやるつもりもない」 「戦火によって己が土地が燃やされたなら、なんだ、つまらぬ。その程度、勝利するまでやればいい」 「敗北を辛い辛いと抱きしめて、いつまでも死んだ誰かに拘るな。虫唾が走る!」 「そもそも私は──」  この、母親面をして子供を諌めるように語る女が── 「おまえのことが、気に入らない」  偽らざる心情と共に、龍水は宣戦布告そのものの言葉を叩き付けた。  失敗したと冷静な部分が感じているものの、心から出た啖呵に嘘偽りは微塵もない。もはや取り返しは付かないことに動悸が乱れ出すも、ならばせめて気概だけは譲ってやるものかと前を向く。  見れば、顔を背けた紅葉の肩が震えている。  当たり前だ。自分の過去をひっくるめて何もかも否定した挙げ句、滅亡まで視野に入れれば許さんこともないと言われ、怒らぬ者が何処にいようか。  このままここで戦いの火蓋を切るか、いやしかしと……  目まぐるしく回転する龍水の思考を嘲笑うように、隣の男もまた紅葉と同じように肩を静かに震わせて── 「ふふっ、ふふふふ……」 「く、くくく……」 「──はははははははははははは!」「──あははははははははははは!」  共に、示し合わせたかのように笑い出した。  面白い。なんて愉快と、溢れ出した感情に敵意や殺意は欠片もなく、ただただ純粋に先の言葉に感じ入っているようだ。  龍水には何が起こっているか分からない、思わず呆然と、喉を鳴らしている二人の姿を交互に見やる。 「……ふふふ、どうかな。紅葉殿」 「私の許婚は、中々面白いものだろう?」 「うふふふ……ええ、ええ本当に」 「なんだか懐かしくて、おかしくて、ついつい笑えてきちゃうじゃない」 「負けた側の言いそうなこと、かぁ」 「ああ、本当に。なんて因果。なるほど、そういうところは似ていなくもない」  勝利するまでやればいい──  もう一度、懐かしむように龍水が吼えた言葉を唇でなぞる。その顔がどこか切なく、やはり似ていると感じてしまった。 「……似ている?」  問い返した言葉を前に、何気なく視線を寄こして…… 「今は龍明と、彼女はそう名乗っているのかしら?」  その言葉は一撃で、完全に龍水から言葉を奪った。  なぜ、なにを、どうして今──よりによってそんな言葉が出てくるのか。おまえはあの人を知っているのか。  敵であり、西のことを知らぬはずの夜都賀波岐。彼女の口から発せられた母の名前に、今度こそあらゆる反論を封じられた。  紅葉は変わらず、静かに、真摯に龍水の瞳を眺めている。  態度の一つ一つ、総てつぶさに観察するかのように……ひたすらじっと。 「てめえ、何者だ?」  檻を挟み、咲耶を庇うように立ち位置を変えながら刑士郎は吐き捨てた。  目の前に立つ町娘……さきほどは翡翠と名乗ってた女を前に、最大級の警戒を殺意と共に浴びせてみせる。  肝の小さい者が凶相を浮かべた自分を見れば発狂するか、それでなくとも恐れて惑うか反応はある。  しかし、翡翠は顔を青ざめることすらない。ああこんなもの、〈と〉《 、》〈っ〉《 、》〈く〉《 、》〈の〉《 、》〈昔〉《 、》〈に〉《 、》〈浴〉《 、》〈び〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》といわんばかりに。  視線もそうだ。鬱陶しい。これはまるで、知己に向けるような輝きを有していたから── 「俺はおまえなんか知らないし、懐かしがられる覚えもねえ。さっき会ったばかりだろうが」 「ああそう。やっぱり忘れちゃったのね。そういう風に取っちゃうわけだ。つまんないなぁ、本当に何も残ってない」 「まあわたしも、寝覚めで頭が冴えないうちは感覚曖昧だったけど。でも今はしっかり分かっている」 「わたしたちは時間が止まった存在だから、全部がつい昨日のようよ」 「ねえ、薔薇の〈ご〉《、》〈姉〉《、》〈弟〉《、》」  何か、ひどく齟齬のある言い方をされたような、気がしたからか。  意識が垣間眩みそうになり、僅かにたたらを踏んでしまう。呼気が怪しくなったのはどういうわけだ。何を言われているのか、それとも何かをされたのか皆目理解が及ばなかった。  しかしそれが不快な指摘であるということと……耳を貸すべきではないこと、そして自分を一切見ていないことだけは分かる。  無いものをさもあるように見立てて話すこの女は、〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  こうして言葉を交わしていながらおかしな物言いと自分で分かっているものの、どうしてもその感覚が拭えない。卵の殻を突き抜けようとしている視線に、凄まじい嫌悪感を覚えてしまう。  諧謔に囚われるかと、そう念じたときに背後の咲耶から声が上がった。 「あ……」  咲耶の声にはどうあっても反応してしまう刑士郎。  彼女が声を上げた理由は一目瞭然だった。 「花が……」  純白だった花。芳しい香りを放つ穢れなき白の花が、ゆっくりと赤く染まっていく……  赤く──否、紅く、紅く紅く血潮のように。  この刹那に血飛沫でも浴びたかのごとく真紅に染まっていく光景に、引き摺られるよう空間もまた変調し始めた。 「何だ、こいつは……」  牢屋が、空間が、溢れ出し滲む陰気の波に浸食されて練り変わる。想像を絶する、咲耶を除きついぞ感じた覚えがないほどの穢れが世界そのものを塗り替えていった。  そして──  その発生源、歪みの源泉は紛れもなく、目の前にいる少女だった。  幻覚か? いや違う、疑うことなくこれは真に翡翠の影が蠢いているのだ。何百本もの触手のように足を伸ばし、牢屋全体を蝕みながら取り囲んでいる。  うねる影。歪む景色。捕食する影を自在に操るその光景に──刑士郎もまた、聞いたことのある〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が一柱の名を思い出す。  八柱が内半数はその〈咒〉《な》と〈理〉《カタチ》もよく知られている。三百年前の東征において彼ら四柱、もっとも己が歪みを撒き散らした祟神と畏れられている事実。  腐食の悪路。炎雷の母禮。死兵の紅葉。そして残りもう一柱。  御伽噺に語り継がれる水性の天魔。海上にてもっとも多く、当時の兵団を蹂躙したという影を操る海魔は、すなわち── 「奴奈比売、か」  影のように揺らめき、西の者を絞め殺す存在。神出鬼没の水邪はつまり、こうして無害を装ってかつても紛れ込んだのか。 「そんな名前で呼ばないで」  声色とは裏腹に苦笑するような口元は、相反する嫌悪と友情に満ちていて…… 「──足を引きたくなるじゃないの」  瞬間、刑士郎の足にまとわりついた影が、咲耶もろとも水底へと引き摺り下ろす。  蠢いていた影が牢全体を覆い尽くした更なる下層。そこはまさに、影で出来た海だった。  揺れる気泡に、深海の如き動き辛さ。浮力が身体を覆っていながら、絶対に浮かび上がらせぬという念が纏わりつく異質な世界。  これが奴奈比売の描きし〈渇望〉《セカイ》だった。 「ぐ……っ、がぁッ」  深い、どこまでも深い海、さらにその底へ沈んでいくような感覚が身体を襲う。  まさしく水中同然の動き難さ。そして、呼吸は出来るのに空気すら水の重さを有しているという息苦しさ。総てが刑士郎から動作の精彩を奪い取っていた。  そして──その様を眺めるのは、もはや翡翠という少女ではない。  〈紅〉《べに》色に染まった髪の下、血色に光る両眼を滾らせながら……天魔・奴奈比売が彼らの前へその本性を現した。 「やめてよ。そんな敵意を向けられたらわたしも怒りを抑えられない。殺したくなるじゃない」 「取り込まれても、磨り潰されても、ねえ、今はまだ懐古の念が強いのに。そういう態度はやめなさい」 「それでも分からないと言うのなら……ああ、なんだ。あんたは本当の本当に、遠い刹那の残滓なわけか」  落胆したような声など聞き入れず、刑士郎は静かに周囲を伺う。  すでにここは奴奈比売の領域。抜け出すとするなら、発生源を討つしかないが現状それは不可能だった。  加えて咲耶も牢ごとこの場に囚われている。呼吸が出来なくなっていることはないようだが、明らかに平静を欠いているのは分かっていた。  先の言葉から分かる、殺す気は無いということ。  それがどこまで本気なのか推し量れない刑士郎に対し、奴奈比売は鼻を鳴らす。ここで初めて、自分はこの天魔から視線を向けられたような気がした。 「言ったでしょう。わたしたちにとって、あなた達の世界は仇なのよ。そして今でも鬩ぎ合いは続いている」 「この黄昏に入ってきた波旬の走狗は、例外なく滅ぼすわ。それがわたし達の存在理由」 「ええ。分からないでしょ、なんて悲しい。弄ばれた水銀も、黄金の敗北さえ、あなたの中には残ってない。確かに勝利は尊いけど、それは不義理が過ぎるってもんじゃない?」 「主人を変えて、飼い慣らされた犬みたいよ」 「だからここで、今すぐに、あなた達を殺したいし殺すべきだと思ってる」  そして実際、それは容易いという証明に、空間を覆う〈陰気〉《すいあつ》が徐々に強まり始めている。  肉と骨が軋み、髪の一本、爪の欠片さえもが全方位から締め上げられているようだ。悲鳴すら上げられない水底の牢獄は、けれどこの者にとっては最大限に加減したものなのだろう。  ほんの少しだけ強く、あくまで優しく、摘み取った花を握っているようなもの。  攻撃などと呼ぶのもおこがましい行いで、完全に生殺与奪を握られていた。 「でも……」  その現状に何を思ったか、勿体ないとでも言うように奴奈比売が刑士郎の前に立つ。  呼気が触れ合うほど近く、息遣いを感じるほど傍に激烈な陰気の塊が接近していた。それだけで刑士郎の皮膚が桁違いの質量に粟立っていく。  視線は刑士郎の奥を覗き込むようにして、次に離れた位置の咲耶を見つめつつ微笑んでいる。  それはまるで、採取した昆虫を子供がどう嬲ろうか思案するかのように……  どうするべきか、どうしてやろうか。出来るならば劇的なものがいいと、呟いた瞬間……舌先が唇から覗き。 「せっかくだから、役に立ってもらいたいわね」  刑士郎の胸ぐらを引き寄せて、そのまま深く唇を重ねた。 「ん──っ!」  刹那──かつてない胸のざわめきと悪寒に、魂が慟哭する。  触れた唇と潜り込んでくる舌先、陰気の具現たる体躯と接触したことで口内が一瞬で焼け爛れる。汚染された皮膚と粘膜が溶かされながら癒着していくようだった。  激痛に身体が麻痺する。そして、そこに付随して流れ込むものは──  血と耽美と暴虐を煮詰めたような、非人野獣が如き衝動を前に──  意識に、亀裂が、走った。  薔薇だ――ああ、不夜の薔薇が流れ込んでくる。  噎せ返るような生臭い血の臭い。紅で出来た薔薇の園。そうだ自分はここにいた。この場で常に足掻き流離い奪いつくして、黄金の爪牙であり続けた。  夜に無敵の魔人になりたい。そのために、そうそのためにまずは喰らった最初の獲物を覚えている。己が姉にして母。近親相姦の果てに生まれた畜生児だから、まずはこれを捧げよう。  これにて始まり、これにて足掻く。水銀の薫陶を跳ね除けるため、黄金の修羅道に導かれ永劫に唯一満たされるときを求めて足掻き続けた、そのはずだから──  ──違う、何だそれは? そんなものは知りなどしない。こんな想いを抱いていない。  己はただの一度だとて、こんな道を歩んでいない。  懐かしいなど感じるはずはないだろう。知らない。知らない。だというのに、なぜだどうして。  ……この女を喰い殺してからの〈幸福〉《さつりく》を、痺れるほどに愛おしいと感じているのか?  導くように脳髄へ直接打ち込まれた誘いの波動。いまこの時、凶月刑士郎に何か決定的な〈陰気〉《かつぼう》を流し込んだ女が、深海の底から囁いている。 「、。、。」 「、・。、?」 「。。、」 「、、」 「。。」 「、。、。」 「、・。、?」 「。。、」 「、、」 「。。」  薔薇──闇の不死鳥──共に再び戦おう。  失われたはずの言葉、渦を巻いて荒れ狂う解析不能な単語の羅列は、なぜかその部分のみ読み取ることができていたから。  そして、それを当然と思える我が身に内在する何かが……  ああ、心地いい。懐かしい。誇らしい。我ら修羅の曼荼羅に魂まで捧げた同志なり。  刹那に与する義理などないが、黄金の忠臣として主の無念を晴らしてみせよう。ようやくこれで目が覚めたぞ──  と、凶月刑士郎の中で再誕の産声をあげていた。 「があああああぁあぁぁぁぁ──ッ!」  絶叫を上げながら、奴奈比売から弾ける様に身体を引き剥がす。  喉が渇く。水が欲しい。水が足らない。この不快な口の中を、今直ぐ紅い紅い〈水〉《チ》で濯ぎたい──  流し込まれた穢れは単なる気付けに過ぎないとでもいうのか、自らの中、息を潜めていた何かがゆっくりと目覚めていくのを感じる。自己を侵食しながら、自らに再び力を取り戻そうと猛っていた。  己を組みかえられていくかのような不快感。激痛と共にのたうちながら……しかしなぜだ、どうして自分はこれを行なった女に対し〈借〉《 、》〈り〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈た〉《 、》と感じているのか。あろうことか、感謝の念さえ覚え始めているというのか。  〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈ぞ〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈摺〉《 、》〈り〉《 、》〈だ〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》と言わんばかりに、感情さえも制御できぬまま水底の異界にて膝を折った。 「あ……あ……あ……」 「あははははははは、はははははッ!」 「怒ってる。怒ってる。この子、嫉妬してるよ。あはははははは」 「ねえ、ねえ教えてよ。取られたのはいったい誰なの? 弟? 息子? わたしの男を奪うなって? 馬っ鹿じゃないのッ!」 「お兄ちゃんを盗られて悔しいのぉ?」  精神が虚ろでも、自分の男を穢されたのは分かるのだろう。大きく反応する咲耶を、猫撫で声で奴奈比売が嬲る。  漂うように浮かぶ水妖に対し、咲耶の視線は険を増していた。赤子が宝物を取り上げられたような稚拙ともいえる怒りだが、そこには確かな知性の光が見えている。  そして、奴奈比売もまたその姿に対して感じるものがあるからか。  敵意の視線が交差する。彼女らは互い明確に、相手の存在を疎ましいと感じていた。 「ねぇねぇ、妹ちゃん? あのお兄ちゃん大好きなのー? 強くてすごくてカッコイイ、いつでもあんたを守ってくれる。とっても素敵なわたしの恋人」 「それが正しいんなら、なんて皮肉。昔のあいつに見せてやりたい」 「勝手に壊れて、もたれかかって、守られたまま幸せごっこ。素敵ね。けどおかしいな、それはちょっと逆なんじゃない?」 「あんたは、〈捧〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》〈側〉《 、》の存在でしょうが」 「生まれた順序が違ってしまうと、それすら逆転してしまうって? ふざけるな。薄っぺらいのよ。透けて見える」 「うぅ──ぁ、ぁっ」  陰気に苦しむ刑士郎を無視し、奴奈比売は咲耶の顔を両手で包み込むようにして、静かながら怒気も顕わに告げた。  おまえのような種類の女──わたしは見ていて腹が立つぞ、と。 「あんたとわたしじゃ怒りの次元が違うのよ。馬鹿じゃないの」 「──調子に乗って、自分の男見せびらかしてんじゃないのよッ! ふざけんなァッ!」  突如、秘めた癇性が爆発して咲耶の顔を包んだ手に力が入る。  今まで薄皮一枚下で蠢いていた憎悪と殺意が、決して壊さぬよう、しかし苦しむようにという嗜虐心と共に発現した。  爛々と輝く瞳は憤怒に満ち、潮が引くように今度は蔑の視線が少女を穿つ。 「羨ましい。恥を知らないのね。だから犯されたことさえ忘れてしまえる」 「奪われるというのがどういうことか、都合よく忘れたまま見当違いの怒りかたしてんじゃないわよ」 「それが愛? お安いことね。病んだ売女が、言ってくれるわ」 「あんたには、あんたにしかできないことがあるでしょう。貪らせて、血を与えて、いきり立たせて、好きな男を堕としなさい」  優しく、甘美にさえ感じる声色はその実悪意しか混じっていない。  顔を押さえ込んでいた手を離し、優しくいたわるように咲耶の頬を撫でている。  憐れな女。愚かな女。だからさあ、この言葉に耳を傾けろ。おまえの真実を与えてやると、侮蔑の笑みが語っていた。 「それがあなたの業でしょう。わたしの切れっ端で半端な幸せ感じてんじゃないわよ」 「それでも、まだ目が覚めないと言うのなら。ええいいわ」 「魔法の呪文を教えてあげる」  歪み──怖気立つほど不吉でありながら、艶やかな冷笑と共に。  咲耶と刑士郎、彼ら兄妹の魂をより強く揺り動かすかのように。 「、」 「──」 「、」 「──」  何か、決定的な呪詛を吐き出した。  刹那その脳裏に、白貌の影がより鮮明に甦り── 「あ、────」  同時、咲耶にもまた何かの変化が巻き起こる。  刑士郎と共鳴する陰の波動。凶災と凶運と非業が、少女の魂を確かに振動させた。  だから、ゆっくりと…… 「──っ、く……咲耶!」 「あ……わ──」 「わた、くしは……」  見失い続けた意識、咲耶の瞳に意思の光が戻ってくる。  そして、変革と再誕を迎えた地の出来事と時を同じく、天にて言葉の剣を交わす龍水らもまた異なる局面を迎えていた。  自分の尊敬している最愛の母、それをどうしてこの天魔が知っているというのか、信じられない。受け入れられない。ただ瞠目するばかりであった。  対して紅葉の表情に変わった変化は存在しない。若さを眺めるように、どこか苦笑しながら驚く少女をあしらった。 「もうそちらの質問には答えたでしょう」 「だから、今度はそちらの番。まだ私の問いに答えていない」  一問一答、にべもなく切り捨てて問いかける。 「この黄昏に攻めてきた、あなた達個人の想いとは何?」 「く……それ、は」  そんなことを言っている暇はない。しかし圧力の増した視線が、これ以上食い下がるなと言っていた。  どうしても龍明と紅葉の関係を知りたいからこそ、頭は平静を欠いていく。そちらの方に意識が裂かれ、この問いそのものに応えられなかった。 「なら、あなたはどう?」 「この子とは違って、明確な目的意識を持っている、と思うのだけど」 「その理由を探すため、とでも言うべきですかな」  もう一人、夜行に対して向けられた問いに、やはりこの男はにべもなく答えた。  常の通り。何も気にせず、何も感じず、他所は知らぬ慇懃無礼……とそのような空気だ。  だが、どこかが違う。ただ問われ応じるだけのつもりではないと、総身から滲む稚気が語っていた。  東征に赴いた理由を探すために、東征に赴いた。その真は、すなわち…… 「我らの同志には、御身らのような強者と戦うためだけに生きている者がいる。私もそれに近いと言えば近いのだろうが、ここは探求と表現するのが正しかろう」 「私は湖に棲んでいるが、己を鯉と思ったことはないのでね」 「……そう」 「大した自信をお持ちのようね」  その一瞬、誰の影を見て──誰と似ていると感じたのか。それは紅葉にしかわからない。  感じたものを否定するつもりもないのだろう。夜行の存在を、誰かに重ね合わせていたようだ。 「そしてなるほど、あなたはそれに見合った力があると認めましょう。察するに、もう大分見えているようだけど」 「私の同胞から学ぶことがあったようね」 「母禮殿には、礼をしたいと思っていますな。いやなかなか、あれは鮮烈な体験だった」 「太極の何たるか……然り、今は大方見えている。ただ、己の色を決めかねてはいますがな」 「それさえ分かれば私たちに勝利できると? 探求とは、そのことかしら?」 「否否、それは物のついで。そもそも御身らを斃す法なら、至極単純なものがあると分かっている」  そう口にした途端、場の空気が凍り付いた。  意志による極寒。指先から背骨まで、凍結したかのような錯覚が龍水を襲う。それほどまでに、決定的に、紛れもなく鬼門の言葉だったのだ。  斃す法なら分かっている――つまり、やろうと思えばいつでも斃せるという発言。  一笑に付されて終わるはずの答えに対し、この反応。つまりそういう強大な必殺性を孕んだ業が実在するという事実に他ならない。  しかし、それでも笑みを崩さぬ夜行と紅葉に、龍水は息が詰まりそうだった。いやむしろ、すでに自分は呼吸が止まっていて、そのことを認識できていないだけかもしれない。  圧し潰されそうになる空間の中で、声だけが朗々と響いた。 「だが、それは私の趣味ではないし、そもそも私に可能なことではないとも思える。まあ、同志に出来る者がいたならやるかもしれんが、ともかく置こう。私個人には関係のないこと」 「興味があるのは、この宇宙で穢土以外を支配している法の真実だ、紅葉殿。どうやらそれに、御身らはいたく憤慨しておられるご様子だが」 「栄枯盛衰。盛者必衰。万物流転。自然淘汰……言葉は何でも結構だが、海は湖となり鰐は鯉に追いやられたと、その無念が穢土のすべてではありますまい。違いますかな?」 「でなければ何と?」 「栄枯盛衰、より強い者が現れたなら、大人しく殺されて消え去るのが道理だとあなたは言うつもりかしら?」 「まさか、それは負け犬の諦観というもの。怠惰と潔さの相違くらい、稚児であろうと知っている。いや、この場合は責任の有無と言ったほうがよろしいか」 「何にせよ、大人しく殺されてやる道理などはありますまい。先ほど我が許婚が言ったように、これは生存闘争なのだから」 「憎悪然り、無念然り、闘争にそれらが纏いつくこともまた必然。恨む権利や資格がどうのこうのと、蚊帳の外から飛んできそうな頭の悪い批判などを御身らに向けるつもりは微塵もないのだ」 「ただ、私は思う」 「かつて太極座に達したであろう御身ら穢土の主柱殿は、我らに見えぬ域のものが見えているはずではないのかと」  彼らを東の地に縫い付けた理由。それを看破しながら彼は小さく喉を鳴らした。 「摩多羅夜行が探求せしものはその真理。教えは請わぬし訊きもせぬ。私が調べ、私が見つけ、私がそれを量り、裁く。ゆえ、言うなればこの東征は、私にとってそれを知るための踏み台にすぎない」 「先ほど御身が言われた我ら西人の危うさとは、そこに因があるのだろう」  自己愛そのものは否定しないし、むしろ人に必要なものだと紅葉は言う。だがおまえたちのは違う。駄目だと断定した真意。  自分はそこをこそ探求したいと。 「ご理解いただけたか、紅葉殿」  饒舌な夜行の言葉に対し、紅葉は黙って聞いていた。言われた内容を噛み締めている。  龍水は夜行の言い分が本当かどうか掴みかねていた。しかし、これまでの態度、これまでの行動、そして今の話を総合すれば、間違いなく本心からのものなのだろう。 「うふふふふ……」 「うふふ。なるほど、つまりあなたの望みは……」 「そう、波旬をこの目で見てみたい」  そう答えた瞬間、夜行の額が光と共に左右へ割れる。  両眼の光を失った代償に得た、新たな〈視覚〉《ひかり》。太極見通す天眼を見せながら、口元に浮かぶ笑みを深めた。 「御身、私を信じられぬか?」 「できないわね」  それを前に、紅葉の視線に初めて冷淡な敵意が混ざる。  そういうことか、ああやはりと、摩多羅夜行のその姿に納得と憐れみを向けたのだ。 「むしろこれでよく分かったわ。やはりあなた達には何の期待もできはしない」 「彼女の子等だと言うものだから、少しは思うところもあったのだけど、何のことはない。茶番だった」 「結構。ならばそういうことで、話は終わりだ。連れの者たちにもなにやら手を出しているようだがお返し願おう」 「龍水、おまえからも言ってやれ」  いきなり話を振られ、一瞬鼻白むも……ともかく言うべきことは決まっていた。  きっと、これから放つ一言が東西における完全な線となる。  あったかもしれぬ和睦という可能性。それが億分の一に過ぎぬものであったとしても、この瞬間、それが完全なる無に帰すのだとわからぬほど愚鈍ではないつもりだった。  そうだとも、それが何だと言う。望むところだ、臆しはしない。  母を愚弄し、愛する男を愚弄した存在などそれは万死に値する。そして同時にもう一つ、この母性で装った天魔が抱えた歪な行いをしっているから、許されないと思うのだ。  ここへ連れて来られる寸前に気づいたこと。鬼無里の里の不自然さと、その理由が見えたから…… 「私の望みは、夜行様に相応しい己であること。そしてそのためにやるべきことも今決まった」 「〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》・紅葉――おまえを斃す。おまえの法は絶対に私たちと相容れない。それをこの鬼無里に来て確信した」 「なぜなら――」  鬼無里で普通に暮らしている人々、あの笑顔に満ちた光景。  その顔を思い出せ。暮らしていた者たちにある共通点。あたかも宿場町のように機能していたこの町が持つ不自然さを。  町娘たる翡翠に出会うまで、誰一人、自分たちは〈女〉《 、》〈子〉《 、》〈供〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈出〉《 、》〈会〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  気前のいい男衆以外、影も形も見当たらなかった理由は一つ。東の地で町を築いたら、男しか調達できなかったということであり……  その理由は、すなわち…… 「あれは過去の東征の死者だろう」 「おまえはその上に君臨している。理解不能だ」  曰く、その化外は〈死〉《 、》〈体〉《 、》〈を〉《 、》〈無〉《 、》〈限〉《 、》〈に〉《 、》〈操〉《 、》〈る〉《 、》〈天〉《 、》〈魔〉《 、》。  三百年前、攻め入った東征の兵を逆に使役したという死操般若。鬼母神として畏れられる怪異こそ、この紅葉に他ならなかった。  死人を動かし、死人の町を造り上げる。終わったはずの生命に無理矢理先をつなぎ合わせるようなその様は、龍水にとって見たことも聞いたこともない歪な概念だった。 「そう、よく言われるわ」 「だけど、あなた達の世界で朽ちるよりは幸せなのよ。分からないでしょうけどね」  静かに喋っている紅葉だったが、身体から沸き立つ憤怒は抑えようがない。  その怒気が龍水の霊視に作用し、何かを捉える。 「……まさか」  天井──否、その先を咄嗟に仰ぎ見、もう一つの違和感にもようやく気づく。  遙か上空、雲を突き抜けるほど天の高みに〈何〉《、》〈か〉《、》〈が〉《、》〈い〉《、》〈る〉《、》。  この鬼無里を見下ろしている、巨大にして凶悪な陰の像。  山をも掴みあげる手から伸ばされた何万本もの繰り糸。あまりに規模が桁外れた劇に興じる、鬼面の神威に震えが走った。 「……鬼」 「鬼の、繰り糸……っ」  天の高みから糸を垂らし、この鬼無里の死体たちを操っていた。  不和之関で見た天魔の実体、随神相が万に届く死者を今も自在に動かしている。  戦慄が全身を駆け抜ける。ただの町人に対し、夜行が勝てぬと言った理由が龍水にも骨の底から理解できた。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈砕〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  神の加護を常時死人が受けている、とでもいうのだろうか。彼ら一人一人、総てに天魔の波動が与えられているならば、〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈主〉《 、》〈の〉《 、》〈咒〉《 、》〈を〉《 、》〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》〈人〉《 、》〈形〉《 、》〈を〉《 、》〈破〉《 、》〈壊〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》だから。  悪路や母禮のように破壊力があるわけでもなければ、一瞬で絶大な効果を発揮する類でもない。だが拠点を構成し、軍勢同士のぶつかり合いというのならまさしくこれは絶対無敵だ。  紅葉が討滅されない限り、永遠に戦い続ける万軍の死人兵。なんたる出鱈目。この天魔がその気になれば、それこそ自分は蟻の波濤に群がられた砂糖の如く喰い尽される── 「今日はこれまで」 「話をしたいと言ったのは私だから、ここはその筋を通しましょう。行きなさい。次に会うそのときまで、命は預けておいてあげるわ」  そう告げた瞬間、足場が城という土台もろとも崩れていく。  派手な音を立てて城が崩落し始め、同時に紅葉の存在感が薄れ始めていた。  この鬼無里を実質単独で維持していた者がいなくなれば、あとはいったいどうなるか……おそらく論じるまでもない。 「っ、ま、待て――」  声は留める力を何も持たない。壊れゆく風景の中、夜行は変わらず平素の声で地を指した。  そこにいる者らを示し、最後に一つ問いかける。 「連れの返還は?」 「もちろん、もって行きなさい。あちらの用もすんだようだし」  そう聞いて、不敵な笑みを浮かべた刹那。 「では、そうさせてもらおう。丁禮、爾子――戻ってこい」  何気なく告げた式の名に、龍水はただただ驚いた。 「おっと――」  紅葉が自らの法を解いたことが、奴奈比売の異界にも波及する。この薄暗い海の底のような場所にどのような衝撃が起これば、このような揺れになるだろうか。  そして同時、その胸元から光る胎児の如きものが飛び出して、宙に浮かび形を成す。 「なっ、こいつは──」  水底の位相を消し飛ばし、現れたその影は巨大な犬と童子の姿。  それは、すなわち── 「参ったなぁ。渡すつもりはなかったんだけど、獲られちゃったか」 「まあいいわ、本命の用はすんだわけだし」  長居は不要と跳躍し、刑士郎たちから距離を取る。身体は静かに透け初め……光の形に顔を些か歪めた後、睥睨しながら薄く笑った。 「じゃあ御機嫌よう、お二人さん。また近いうちに会いましょう」 「うふふ、あははははは、あはははは、あははは!」 「待ちやがれ! てめぇ、俺たちに何をした!」 「この、喉を掻き毟るような──」  熱と、飢えと、乾きは何だと吼えた先に残るのは笑い声の残響のみ。崩壊していく牢の中にて、狂える魂を抱きながら刑士郎は地を殴りつけた。  見れば壁、天井のあちこちに亀裂が走っている。皹の入った箇所から石が、漆喰が崩れ去る。天井を支えている梁がへし折れ、彼らの間に落ちてきた。  身体に宿した陰気が戻ったものの、四肢はその汚染を前に痺れていた。這うように進み、咲耶を抱き寄せて庇うしかできない。 「ちくしょう……何とかして、ここから出ねえと」  生き埋めになる。いや、その前に死ぬだろう。  何があったか知らないが、押し潰されるのもそう遠くない。土砂と瓦礫程度、自分ならば耐えられるが……咲耶はそうはいかないから。  力が欲しい。力が欲しい。力が欲しい。願えば願うほど強く、速く、鼓動が徐々に鳴り響いていく。  それが新たな息吹を上げる寸前で……先の光が明確な形を紡ぎ、刑士郎らの前に現れた。 「なっ――」 「無事か」 「大丈夫そうですの。ええ、それはそれは不本意ながら」  爾子・丁禮──先の暴走で破損していたはずの二体が、〈夜行〉《あるじ》の命を受けて馳せ参じる。 「おまえら、いつのまに…」 「どうでもいいだろう。不本意だが、夜行様の命令だ。振り落とされたくなかったらしがみついていろ」 「だからって、変なところ触ったらぶっ殺すですのよ」 「てめえ、このクソ犬がふざけんな!」  心配される覚えなど無いといった風に鼻を鳴らす丁禮は、以前と変わらず健在だった。同様に可愛らしく剣呑なことを告げる爾子もである。  それはこの状況でも変わらない。それを喜ぶつもりは刑士郎に毛頭ないが、夜行の言ったきっかけだけは気になった。  己にあった胸騒ぎが形を紡いだのと同じく、これら二体の式もまた奴奈比売という存在に何か感じるものがあったのかと── 「うふふ……ふふふふふふふふ」  思ったところで、涼やかな愛らしい声が耳を打つ。  その声はまさしく理性的なものであり、つまり咲耶は…… 「咲耶……おまえ、目が覚めたのか?」 「はい。兄様、ご迷惑をおかけしました」 「ですが、もう大丈夫です」  微笑む姿は明確な精神が戻っていることを示している。赤子のような茫洋とした表情にはない、確かな知性。凶月咲耶は然りと己を取り戻していた。  とても回復が絶望的だったようには見えないほど、健康な姿を見せている。  そう、ともすれば──以前より遥かに■■そうであると、渇いた喉が鳴るほどに。 「感動に水を差すようで悪いのだが、さっさと爾子に乗ってくれ。でなくば、城と共に潰れるぞ」 「早く掴まるですのー!」  衝動的に自身へ入り込んだ感覚を無視し、咲耶を抱き寄せる。  平時ならば絶対に御免だが、爾子の背中に乗りその毛を掴む。咲耶もまた兄の首に手を回し、しっかりと掴まった。 「よし、いいぜ!」 「やれやれ……狭いな。頼んだよ、爾子」 「はいですのー! 脱出、ばりばりどかーんですのー!」  どこまでも陽気に、爾子は一陣の疾風となった。  天井を突き破り、瓦礫を跳ね除け、超高速で駆け抜ける最速の四足獣。  まさに一瞬のこと。無機物の倒壊などでは追いつけず、刑士郎らを乗せたまま疾駆して── 「はいはい、目的地に到着したなら、とっとと降りやがれですのー!」  地に降りると同時、その背から粗雑にふるい落とした。刑士郎が嫌がっていたように、爾子もよほど嫌だったということらしい。  咄嗟に咲耶を庇いながら着地して、爾子を睨むがもういない。そのまま合流した夜行の元へ摺り寄って、ごろごろと喉を鳴らしていた。  丁禮もその後に続き、こちらは恭しく頭を垂れる。 「ただいま帰って参りましたですのー、夜行様ー!」 「己の未熟ゆえ、帰還が遅れました。夜行様」 「よい。私も得るものがあった。さほどの問題ではない」 「じゃあ夜行様! 撫でて撫でて! 撫でてくださいですのー!」 「仕方のない奴め。では、横になるがよい」 「爾子、夜行様もお疲れなのだぞ。そのようなわがままを」 「丁禮、おまえも寄りなさい。撫でてやろう」 「い、いえ。私は――」 「遠慮などするな。私は機嫌がいいのだ。たまにはこういうこともしたくなる」 「わふぅっ! 夜行様ー!」  阿呆らしい、その光景を前に気勢を削がれて舌打ちをこぼす。  あれら二体が役に立ったことは事実であるため、それ以上続ける言葉がない。だがそれ以上に、今は〈爾〉《 、》〈子〉《 、》〈と〉《 、》〈接〉《 、》〈触〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》という事実に自分でも分からぬほど動揺しているのを感じた。  あれに、先程、確かに触れたということ。  今までまったく気にもせず、どうでもいいと思っていたことが、妙に心へひっかかる。まるであり得ないものを見たかのようだ。  だから、爾子と丁禮を眺める視線には自然と疑念が混じる。失望や落胆のような感情も、胸から染み出していると感じた。  おまえら、触れれば砕けろよ……と。  何か辻褄の合わぬ、自分でも持て余す思考に眉根をよせた所へ── 「無事だったか……」  真剣な顔で声を掛けてきた龍水に、疑念は一瞬で霧散した。  遠い昔日の幻みたく、一瞬で。 「ああ……問題はねぇ」 「何が、問題はねぇ、だ。この馬鹿者が」 「鏡を見てみろ。何かあったぐらいはすぐに分かる。〈蝋〉《ろう》のような顔色だぞ」 「──うるせえよ。俺を、白蝋と呼ぶな」  苦虫を噛み潰したかのように、不快な感覚を厭いながら視線を逸らす。  意識が落ち着かない。過敏になっているからこそ、話題を変えた。 「俺のことより、別に気を遣う奴がいるだろうが。心配される筋はねえよ。俺の責任は俺が持つ」 「正直に言えよ。心配だったのは俺じゃなくて咲耶だろう?」 「当然だ」 「ああ、そうかよ」  真顔で即答されては言う事もないので、お望みどおり咲耶の方へ視線を振った。 「兄様、からかうのはおやめ下さい。龍水様は本気で心配されているのですから」 「さ、咲耶! おまえ……まさか、喋れるように」 「はい、ご心配をおかけしました。ご覧の通り、どうにか無事な模様です」 「兄様にも、龍水様にも、夜行様にも……ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」 「別に私は迷惑を掛けられていないぞ。気にするな」 「私も同じだ。それに文句はそこの案山子に言ってある。だからもうよい……もうよいのだ」  そのまま、龍水は心からの笑みを浮かべた。 「よかったな。咲耶」 「はい。ご配慮痛み入ります」 「ちっ──」  それに対し、不明瞭な懸念が渦巻く自分は何なのか。わからないが、形にするのを忌避している。 「まぁ、咲耶が元に戻ったのは、いいんだけどよ……」 「そいつらはどうやって戻ってきたんだ? いや、いつから俺らに寄こしてた」 「夜行、てめえどこまで読めてた」 「躾のなっていない。助けてやった恩人にそういう口の聞き方とは、さすが狂犬は礼儀を知らない」 「そうですの。やっぱりこいつ、あのまま瓦礫でぺちゃんこの方が良かったですの」 「絹のような爾子の毛は無骨な手でぐいぐい掴まれ、そこだけもしゃもしゃになってしまって、凄い気分がどよどよーんなのですの」 「黙ってろよこの駄犬。貧相なその毛並み、残さず丸刈りにされてえか?」 「だいたいてめえら、半壊してたとは聞いていたが……今までどこで、何してやがった?」  あの光が出現したのは、気のせいでなければ奴奈比売の身体から出てきたはずだ。考えが正しければ、当然これらはあれの中に潜まされていたことになるのだが…… 「知らないな」 「分からんですの」 「…………」  にべもない反応を胡散臭いと感じるのは、果たして自分だけだろうか。  二体の式は主人である夜行を見て、その主は代わらず謎めいた笑みを浮かべながら、彼らの頭に手を置いた。 「おい、飼い主。おまえから言うべきことはなんかあるのか?」 「ふふふ。さてなぁ」 「自身に分からんということは、私にも分からん。これ以上は答えようも無い。それでよいのではないかな?」 「それにおまえ達を救い出せたのは、二人のお陰だ。そこは感謝しておくべきであろう?」 「はい。その通りです」 「は、どうだか」  丁禮と爾子により命を救われた事実を素直に認められない、ああそれは常なのだが……言葉にすると、凄まじい皮肉を感じてしまう。  違和感が胸中で膨れ上がっている。〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈よ〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈助〉《 、》〈け〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》と、何かが猛り叫んでいるようだ。  名状しがたい感覚を持て余しながら、仕方なしに鬼無里の風景へ視線を向ける。  そこにあるのは鬼無里にあらず──鬼無里と呼ばれていたものの残骸だった。  風化しつつある瓦礫の世界。それも風が吹く度に、徐々に形を失い、塵芥へと変わっていくほど古い年月を重ねたものだ。  つい先程まで、偽りと言えども人が生活を営んでいた空間は、最初から朽ちた廃墟の如き姿を晒している。  その廃墟すらも、間もなく塵に返るだろう。やがてここには何もなく、ただ荒涼たる空き地が広がるだけになるはずだった。  人を化かすのは狸や狐だけではないかと、苦笑しながら理想郷の跡地を見つめていた。 「夢か、〈現〉《 うつつ》か、幻か……」 「諸行無常。負け犬どもの言い訳だな」 「だとするならば我々は、敗れた者らの理想の中にいたわけだ」 「化外の者がこうあるべきだと願っている、国や街の姿の中に」  ここで見知った情報が真実とは必ずしも限らない。だが彼らが、あのような町並みを理想と捉えていたことだけは恐らく誠だったはず。  そこに何を思うのか、思考はまだ混線している。日を跨がねば考えはまとまりを見せないだろう。  そして、その時間は十分にある。なぜならこれは天魔にとって挨拶のようなものに過ぎない。生存闘争があるのならそれはこの先。ここからさらに東の果てで待っているはずなのだから。 「さて、この地の脅威、取り除くことを成したわけだが。いつまでも口を開け、呆けている暇はなかろう」 「土産話もできたのだ。烏帽子殿の元に合流するべく、先を進もうではないか」  確かに、結果はともあれ脅威の排除は完了した。紅葉と奴奈比売が退いた以上、ここでいつまでも風情を感じているわけにはいかなかった。  皆が再び旅の用意をする。ここから先は、ただ黙って目的地に向かうだけ。分岐したもう一組の側は不明だが、こちらに関してはしばらくの間、比較的安全な旅になるだろう。  そして── 「咲耶……?」  皆が支度を進めている間、咲耶だけがかつて里のあった場所をじっと見つめていた。  切なくも狂おしい胸の疼きを感じているかのように、そのまま静かに懐を開き、優しく何かを取り出す。  それは、あの紅に染まった花だった。  血を吸って血潮に染まりし血染花。それはすでに萎れて枯れ、赤茶けた花の形をしている塵芥である。  微かに吹いた風に花の頭だったものが落ち、地面に着くより早く消えていく。  残っていた部分も指の間からこぼれ落ち、つむじ風に乗って鬼無里の里を舞い散った。 「あぁ──」  塵芥と化した血染花に、幻となり朽ちた死者の里。  咲耶の中に渦巻いている感情は、切なさ以外推し量れない。物悲しそうに指先を伸ばしてから、そっと自らの胸に掻き抱く。 「咲耶、どうかしたのか? まだ身体が弱っているのなら、遠慮せず俺に言え」 「いいえ。何でもありません」 「ただ枯れ落ちる花の姿に、少しばかり思うところがございました」  そう言って、複雑な感情を浮かべつつ咲耶は空を仰ぐ。  その瞳にはいったい何が映っているのか……  心乱される前の咲耶とは、どこか違う様に思う。妹もまた自分と同じく、何か別の情景を見せられたのではないかと。  そう思っていたから、だろうか。 「それより兄様――」  ふと、思い出したというように振り返った咲耶が、刑士郎を見て微笑する。  それは確かに笑みの形をしていたが、あまり見たことの無い種のものであり。  どうにも、なぜか、肌寒いものを感じさせる視線であった。 「あの接吻。まさか嬉しかったなんてことはないのでしょうね」  何を指しているか分かっただけに、思わず身体が強張る。  ここまで狼狽させられたことがあっただろうか。元よりどんな対応をとっていいのか皆目分からず、けれど咲耶は本気でそう発言しているようだ。  いや待て、何だそれは、と何を言っても嘘になるのではないかという、そんな空回りだけが目まぐるしく頭を駆け抜けた。心なしか拗ねているようにも見える仕草に、勢いよく頭を振る。 「ばっ――、おま、ふざけんな!」 「――ふふ。冗談です」 「さぁ、先を急ぎましょう。龍水様と夜行様が歩みを遅くして、お待ちですから」  一転、今度ははにかむような笑みと共に龍水のいる方向へと歩を進める。  鬼無里が失せたとき以上の狐に抓まれたような心境で、その背を眺めるしかなかった。 「咲耶の奴、どっか変わったんじゃねぇのか?」  それは、果たしてどこが、何がなのか。  ほんの少し覗いた嫉妬は愛らしい、厭味にならない子女のいじらしさを宿していたのに対し、刑士郎は別の感想を抱かずにはいられなかった。  人柱や、祭壇に登る贄。そしてとても、美味しそうに実る果実──  甘い蜜それ自体が自らの糖度を告げたかと感じる錯覚に、そこへ手を伸ばさねばならぬような、決して触れてはならぬというような相反する誘惑が微かな葛藤となって胸によぎった。  そして何より、己が内に異なる別のモノを感じること。  衝動的に咲耶の首筋を噛み切りたくなるような、歪な妄想を振り払って彼らの元へ歩み始めた。 「……魔法の呪文、か」  脳裏によぎった奴奈比売の言葉に対し…… 「ふん。知らねえよ、そんなもんは」  どこか捨てられないと自覚していながらも、そう吐き捨てた。  自分と似た白い影が、紅い花を喰らっている──  よぎる不可思議な感覚を今は忘れる。総身駆け巡る陰の感触を確かめながら、刑士郎は自身を呼ぶ声に向かい足を踏み出した。  特別付録・人物等級項目―― 凶月咲耶・中伝開放。  たとえば──  ここに、時を止めるという事象を具現する意志があったとしよう。  停滞という縛鎖に括られた空間。穢土の法において総ては止まり、不変の姿を留めている。  止まれ、という渇望をもって奇跡を成すため、その法を維持している存在は極限とも言える超純度の祈りが要求されるのだ。  時よ止まれ、時よ止まれ、時よ止まれ、時よ止まれ。  限界点の水際で耐え忍ぶように、僅かな意志の乱れもなく絶叫して理を留め続けている。そうしなければ、現世の法に塗り潰されると知っていたから。  身動き取れない。だからこそ、ここに役割の分担が発生する。 「…………」  主柱の代行者。刹那を今も愛し続け、彼の憤激を晴らす者。  天魔・常世──〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》において最右翼たる彼女が静かに、黄金色の瞳で虚空を眺めていた。  夜刀が撒き散らす表層意識、第六天へ向けた絶対の敵意と共に。 「急いてはいけない。情に委ねてはいけない。苦しい。ここ以外は息が詰まる」  この地は唯一残った黄昏の残影。ここでしか生きていけない。僅かでも穢れることは許されないし、認めてはならない。  ゆえに、先の不和之関。東征軍たる名目で攻めてきた者らに対し、彼女は躊躇なく信頼する同胞二柱を送り出した。  アレに通じる汚濁万象、それら悉く滅殺せんとした自分の采配に間違いはなく、また人選としてもこの上なく的確だったと今も変わらず信じている。  だが、だからこそ浮き彫りになるのはこの現状。 「……なぜ、どうして〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》?」  滅尽滅相──だったはずだ。彼らが手を抜いたことなどあり得ないし、見逃す慈悲などそれこそ皆無。力の差とて歴然だった。  しかし、それでも敵は全滅していない。  事実上の戦線崩壊? 馬鹿を言え、零でないのならそれは討ち損じたことの証明だろう。  重要なのは、圧倒的に格上の自分たちが紛れもない全霊で臨みながら、彼らの中になぜか生き残った者がいるということ。  それが運であれ偶然であれ、あってはならないことだろう。異常事態。考えるたび彼女の心胆に恐れが走る。  何より、最大の懸念。本来発生するはずのなかった離反者の存在に、黄金の双眸が細められた。  山よりも高く、海よりも深く、天すら蝕まんとするほど彼女は静かに激昂している。 「  ……」 「  ……」 「なぜ、今になってやってくるの? 何を考え、何を信じて、何を見据えて波旬の法に力を貸す?」 「……黄金への忠誠さえ売り渡した? あり得ない」 「あれらは何も変わってないのに。変わるはずがないというのに」  ならば末法の一端に触れることで、あちらの理に追従して生き延びようとしたとでも? それこそ否──否、否、否。  彼女は愚かではないし、何よりあの〈太極〉《ソラ》が何処へ向かうか知っている以上、そんな選択などありえなかった。  だからこそ、残る理屈は一つだけ。身震いするほど最悪の想像、彼女が〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と思ったのなら―― 「太極が完成しつつある――?」  恐ろしい。言葉にするだけで、絶望と嫌悪が身を切り刻む。  それを砕けるというのなら、如何なる苦難も恐ろしくはない。  そして、崩壊させるだけでは事足りない。そこから先、新たな天を創造する資格が必要である以上── 「それを望んだ? いえそもそも、〈目〉《 、》〈論〉《 、》〈む〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈感〉《 、》〈性〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈思〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  なぜなら彼女は忠に生きて愛に死ぬ者。権謀には向いていないし……ああ、そうか、水銀の薫陶を真似れば、しかし……と、意志が巡って着地点から遠ざかる。  ただ、はっきりと分かることもあった。 「……以前とは、何かが違うということ」  受け入れ難い事実を受け入れるしかないと、意志に強く刻み込む。  不和之関で退けられたという事実から察するに、紛れているのは彼女だけでないかもしれない。 「なら、あの人の他にも西に流れた誰かがいる?」 「大欲の覇道に順応しそうな者……ああ、確か、ううんけれど」  思い当たる顔を思い出そうとするが、しかしぼやけて出てこない。記憶はとうに磨耗して、大切な存在以外は軒並み風化してしまっている。  それを致し方ない、と斬り捨てることはできなかった。ああこれは確かに、自分の不明。彼らに謝らなければならない。 「大丈夫。あなた達に落ち度はない。あるとするなら、私の方」 「侮ってたし、見落としていた。いつまでもあれは変わらないと思い込んで、どこか増長していたみたい」 「変わらないものなんて、何もないのに」  時が止まろうとも、その不変すら自壊させる因子がある。そのことを彼女はよく知っていた。 「変えないように、奪われないようにするためには」 「時が止まればいいのだと、そう思うしかない」 「その想いさえ穢すと言うなら……いいよ、譲るつもりなんてない」 「だから──」  瞼の裏に映る霊峰の姿に息を呑む。 「不二、ああそこには」  そこだけは、絶対に踏み入らせるわけにはいかない。  今この時ばかりは彼を愛する女でなく──黄金の継嗣たる面を覗かせ、進軍する兵列を睨みつけた。  穢らわしいぞ、走狗にすら感じてもらえぬ波旬の塵よ。貴様らのような不能者が我が父の〈威光〉《ぼひょう》に近づくな。 「──痴れ者どもが。貴様らにそれへ触れる資格はない」 「黄金の墓標すら、その手の泥で穢すというのか。まだ飽き足らぬと、不滅の輝きを弄ぶか」  黄金の眼光が、一層強く揺らめいた。  蘇った意志は、残滓のようなものだったのかもしれない。彼女の魂に残る、もう一つの骸。  修羅道の血筋が垣間見せた幻が、彼女の人格に像を結んだ。  それを、あの地に眠るものを手に入れられてはならない。あれらに使いこなすことも、そもそも近寄ることすら不可能だろうが、第六感が警報を鳴らしている。  ゆえに残らずこの地で滅する。至高天の残滓に呑まれ、断崖の先で咽び泣け。  それこそが天狗道からの解放と、悦び勇んで果てるがいい。  行軍を続けて、すでに二十日あまり。  単調で見栄えのない山道。方向感覚を著しく苛む光景を、黙々と進んでいく。  さすがに連続した行軍には規律が必要だ。幾らてめえのために戦やっている連中ばかりでも、個が乱れれば全体が乱れることぐらい分かっている。  特に今の軍に混じる雍州勢力……中院家。当主の性格がそのまま出ている連中だと、今更ながら認識した。  どうにもこうにも冷淡で、竜胆の軍と比べれば覇気が足りない。まあ、そのお陰で全体としては効率的なんだろうが、こちらとは余り反りが合ってなかった。  そんな状態で、総計七万の軍を竜胆が率いているわけなのだから、こっちはどうしても気を張ってしまう。  だから、たとえ身体が休憩を欲していても、夜以外は動くことにしていた。そうしなければ、竜胆の立場を守れない。  昔の俺だったらそんなことを思う以前に、そもそも両軍の差異に気付きもしなかっただろう。そのことが、ふとおかしく感じてしまう。  だが―― 「覇吐、疲れたのではないか。少し休んだ方がいい。不和之関から先、ずっと歩きづめなのだろう」  当の大将がこんな風に、むしろこっちのことを心配してくれるんだから嬉しい反面複雑だ。どうも先の戦いで俺が一度死んだってことを、気にしてくれてるらしい。  まあ確かに、そこらへんの疑問については俺も色々あるんだが、今は悩んでたってしょうがないだろう。 「いや平気さ。気持ちだけありがたく、っつうか、それは男の役目だろ。そっちこそどうなんだよ」 「なんならこれから、俺が負ぶったまま山でも一つ……」 「おい、その手付きは何だ。どこを掴む気だ、この助平が」  軽口に一瞬顔を顰めるものの、竜胆はふっと笑い、俺を優しい視線で見つめてくる。 「……すまないな。よけいな苦労をかけた」 「あいよ」  だからやれやれ。つまるところ、俺はこの姫さんのこういう反応に堪らなく弱いわけだ。ゆえに臣下として、きっちりそれらしい仕事をしたくなる。 「俺は少し先に行く。先頭の様子を見てくるよ」 「待て。勝手な行動は――」  いいからいいからと言って、俺はその場から駆け出した。無性に落ち着かない気持ちと、竜胆のために何かをしたいという気持ち。これら二つを持て余し気味なのは確かで、心配かけてるのも理解してるが…… 「悪いな、竜胆」 「けどまあ、あれだ。女に格好悪いところ見せないのが、男の矜持ということで」  気負うなってんだろ。分かってる。しかし、ここでそれ以上に分かって欲しいのは竜胆、おまえの立場だよ。  第一軍は壊滅。あんたが選んだ益荒男全員が手痛い傷を負った。そして、今じゃあ中院の世話にもなってる。だったら気張らなくちゃいけないのは俺たち、あんたの兵なんだ。  もっともこいつをこの場で言っても、反論されるだけだろう。  さすがにここまで旅をして、竜胆が言いそうなこともより分かるようになってきた。あっちとしても言いたくないことだろうし、ならばそいつを言わせないよう俺が先に動けばいい。  結局のところ、俺たちは名誉挽回を最優先しなければならないんだから。もうあんな無様は絶対に晒せない。 「負け、か」 「常識が通じねえとは思ったが、それ以上だったな」  惚れた女を失いたくないし、再び敗北にまみれる姿も見たくない。あらゆる点で、俺の惚れた女は高いところにいてほしいんだよ。  そうでないと―― 「俺が惚れた意味が無い」 『ほう。休んでいるのか? 随分と暇そうだな』 「うおッ!」 「龍明。嫌味を言いたいのか。これでも真剣に仕事してるんだぜ」 『私には考え込んでいるように見えるのだが、どうかな?』 「うっせ。考えるぐらいいいだろうが」  つーか、そもそもあんた……あの時いったい何してたのかと、そう思ったが── 「ああもういいや、面倒臭ぇ」  どうせはぐらかされるから、聞くのを止めた。  聞いたところで答えるタマじゃなし。それぐらい分かっていたはずなのに、ついつい考えを巡らせちまう。困った癖が付いてるな俺は。 『だから休んでおるのだ、おまえは』 「はぁっ?」  下手の考え休むに似たり、と苦笑気味に言う龍明。 『まあ、厳密に言えば考えるも何もないのだが……』 『おまえ、今まで負けたことが無いのだろう? どういう気分だ、常勝無敗をなくしてみたのは』 「どうって、そりゃいい気分はしねえさ」 『それはそうだ。なぜなら、おまえ達はまず自分の負けを認めない。負けたとしても信じない。これは何かの間違いだ、とな』 『耐えたことなど、ないのだろう?』  何だか言われたい放題だが、不思議と腹が立たねえのは龍明だからか。それもあるが、そこらへんの諸々も段々自覚してるからだろう。  俺は変わってきている。そう思うし、それは不快なものじゃないとも感じる。  とはいえ、いきなりの小言に若干辟易してるのは確かだけど。 『だからそう拗ねるな。男が腐るぞ、尻でも一つはたいてやろうか?』 『おまえが気負えば烏帽子殿も辛い。どれほど敵が強大だろうと、責は常に総大将が被るもの。それは決して変わらぬことだ』 「…………」  つまり何か、俺なりに竜胆のためを思ってあれこれ考えてることも、まだまだ自分本位だと言いたいのか。  言われてみればそうかもしれんが、そういう指摘をしてくるあたりやっぱ龍明は妙な奴だな。どっちに属しているのか分からない。  ともかく説教が長くなっても困るから、ここは素直に頷いとこう。 「へいへい……ご忠告どうも」  さすが、亀の甲より年の功ってな。 『……ほう、随分と人を年寄り扱いしてくれるようだな』 『これでもまだ、女として廃れてはいないつもりだが……試してみるか?』  声の響きに随分と剣呑なものを感じたので、俺はがくがく震えながらご遠慮願った。 『まあいい。私がおまえに声を掛けたのは、理由がある。間もなく山が見えるからな』 「山? 山って、何処にだって山が見えるが――」 『違う。その辺りの山ではない。見れば分かる。まず、山を見ろ。それを伝えてほしい』 「ああ……分かった」  よく分からないが、とりあえず景色を見ればいいんだろう。俺は先頭を抜け、一気に道無き道を駆けていく。 「うっし──どれどれ! どれだけの山か見てやろうじゃねえか!」  そう言いながら、なだらかな坂を登り切ったところで、俺の目の前に異様な光景が広がった。 「絶景……かな、って――」  言葉を失った。  絶景、という言葉で言い表せない光景。俺の大して長くない生涯で初めて見た、たった一つ突き抜けた、厳かなる山。 「これは――」 『どうやら見たようだな』 「あ、ああ……こいつは山、なのか」 『そうだ。山だ』  でかい。単純に、まず思ったのはそれだった。こんな高峰は、今までお目にかかったことがない。  俺の語彙じゃあ上手く説明もできないが、とにかく圧倒的なものを感じる。  山頂付近を直視してるとなんだか吸い込まれそうになったので、麓の方に目を向ければ、そこはまたとんでもないでかさの森となっていた。 『樹海と言う。まさに樹の海だな。霧が出ていればまるで時化直前の海のように見えるだろうよ』 「龍明、あんた、こいつを知っているのか」 『ああ、知識としてはな。実物を見るのは初めてだ』 「こんな山があったとはな……」 『霊峰・不二。そう呼ばれているらしい』  不二……なるほど、つまりこれが俺たちの目的地だということか。  天魔の意識からその名を読み取ったということらしいが、龍明の口調からはそれだけじゃないようにも思える。  こいつ前から、ここのことを知ってたんじゃないのか? だとしたら、いったいどうやって?   と、そこら辺を尋ねてみたら、即答で初代様の記憶ときた。 「へぇ、そうかい。だったらもう少しこの道のりも教えてほしかったぜ」  今の東征軍は道無き道を踏破し、そこを整地しながら本体がゆっくりと進んでいる状態だ。少しでも楽な順路があるなら教えて欲しい、そう思うのが人間だろう。 『突発的に浮かぶ断片的な知識でよければ、今から総て語ってやるぞ』 『そうだな、休みなく三日も語れば済むだろう。しかも乱雑な情報ゆえに、どれが何を指すのか見当つかぬが……それでもよければ聞きたいか?』 「――はい。ごめんなさい」  そして、他の兵たちも追いついてくる。そこには宗次郎や紫織の姿もあり、俺と同様眼前の光景に圧倒されていた。 「なにこれ、マジで山なの? 何か凄くない?」 「ええ。山、ですね。しかし、立派だ。見事です」 「私、こーゆー山見たこと無いわ。あ、でも嵐山の山にはちょっと似てるかな?」 「でも、他の山々から完全に隔絶されたところに、一つだけ大きくあるのはやはり見たことがありませんよ」 「そう言えば、覇吐さん真っ先に来ていましたけど、どなたが教えたんですか?」 「龍明だ」 「なるほど。僕らも龍明さんからの使いが出て、見てこいとのことでした」 「あいつは、謎を謎のままにしやがるから困るんだよな」 「もう少しはっきりと言ってくれた方がこっちも楽になるんだが」 「そうですね。出来るなら、彼らの居場所とか」 『私とて総てを話せる状態では無い。その場その場に来て初めて、話ができる状態なのだよ』 「じゃあ、何か……この山、不二に近づいたから話しているってことなのか?」 『察しがいいな。さすがに考える時間が長かったせいか、人の思考が読めるようになったか?』  すると傍にいた二人が見たことも無いような顔で俺を見る。 「えっ! 覇吐、考えてたの! てっきり飯が不味くて〈顰〉《しかめ》めっ面してるんだと思ってた……」 「僕はてっきり歯が痛いのだと思ってました。でなければあんなに渋い顔をしている理由がありませんから」 「……あのな。何で俺をそんな風に見るんだよ」 「覇吐の本質的な部分だと思ってたんだけど。あと、助平心」 「これまでがこれまでですからね。真摯に別のことを考えていても、他の人からはそう見られるものですよ」 「うわぁ、おまえら見る目ねえの」  とはいえ、これだけ軽口が叩けるなら問題ねえか。  宗次郎たちから遅れて、衛士を付けながら竜胆と中院がやってきた。衛士たちは表情を変えまいとしていたが、さすがに不二の荘厳さみたいなものに驚いている。  そして、それは竜胆たちも同じだったらしい。 「……これが、不二か」 「また見事な山よな。つまらない秋の景色に少し食傷気味であったが、穢土にも見るべき物があって何よりだ」 「見るだけではない。あそこには大事な物がある。そして人としての修行を積める場所でもある」  後ろから龍明がやってくる。どうやら祈祷場から出てきたようだ。竜胆と中院が下がって道を空ける。 「霊場と呼ぶに相応しい場所だな」 「では、ここでいいだろう」  すると一斉に衛士たちが駆け出し、各方面に伝令を飛ばす。にわかに東征軍全体が騒がしくなってきた。 「竜胆、何をするんだよ?」 「ここで野営だ。龍明殿の指示だ」  竜胆の言葉には、どこか畏怖にも似た感情が混ざっていた。それを中院も肯定する。 「陰の何たるか、それを知らぬ身さえ感じているのだ。貴様らにはもっと何か、わだかまる物が感じられるはず」 「ええ、そうですね。僕は痛いほど感じます」 「あそこには、何か──」  刀の唾を撫で、鞘越しに刃を感じながら宗次郎は目を細めていた。 「…………」  軽口を叩き合っている間、何か異様な物は感じていた。それが何であるか俺には分かるはずもなかったけれど。  やがて野営は本格的になり、樹海入り口に前の陣。川辺の傍に本陣と、龍明の祈祷場が作られた。  その間、俺たちはじっと不二を見つめていたように思う。思うというのは、なぜかその行いに実感がなかったから。  後にして思えば、それは怖れと警戒心からきた行動だったのだろう。  強大な獅子に睨まれた鼠のような、逃げ場のない圧迫感。あの霊峰すら噛み砕く巨大な〈顎門〉《あぎと》を、皆が一様に幻視していたのかもしれなかった。  そして──  今からあのでかいお山にいざ出陣、といったところでそうは問屋が卸さない。  軍を動かす以上、軍議は必須──当たり前の常識だが、それだけにそう簡単なもんでもなかった。  御門の頭領があの地に行った方がいい、そう言いました。じゃあ皆で肩を組んでさあ行きましょう、とはいくはずもない。  〈政〉《まつりごと》に占事はつき物と相場は決まっているのだが、常にそれをアテにする場合ばかりとはいかないのだ。  幸い軍議を始める段取りにまでケチが付かなかったのは、せめてもの救いだろう。 「それで……今更聞くが、ここで野営というのは誰の言かな? 烏帽子殿か?」 「私だ」 「説明をしてもらいたい」 「私が受けたのだ。それでよいではないか」 「だが我も自らの軍を出している身分、話を聞かせて貰うのは構ぬな」  妥当、常識的。ついでに言うなら中院の言葉こそ正しい。  当初から不二が目的地であったものの、着いた先にあったのはでかい山だけ。だったら素通りしていいんじゃねえのという意見が出るのも仕方ない。  あの不二にでかい獣の影を垣間見て、衝動的に惹かれている俺らの方が少数なのだ。中院もこの地に何かを感じてはいるようだが、そうでない者が多数なのだと強調することで責任回避をしたいのだろう。  権力者の世界じゃ当たり前のやり取りなのかもしれないが、正直に言ってまどろっこしい。  なぜなら直感が告げるんだよ。ここを無視して進むのはやばすぎるし、かといってただ漫然と陣を敷いたままなのはさらにやばい。 「別に構わないではないか。どうせこれからあの地へ向かう連中もいる」 「もう少し鍛えねば、話にならんようだからな」  そう言って龍明は俺たちの方を見た。 「もしかして?」 「他に誰がいる」 「そもそも天魔共と戦うためにおまえたちを同行させているのだ。通常の兵力で勝てるのであれば、跳ねっ返りなどいらんだろう」 「それは、真に切り札たりえるのか?」 「損にはならんよ。それは私が保障しよう」 「この戦に必要不可欠なものもあるしな」  〈必〉《、》〈要〉《、》〈不〉《、》〈可〉《、》〈欠〉《、》〈な〉《、》〈も〉《、》〈の〉《、》――その言葉に、やはりという感情が渦巻く。 「まあ、緒戦敗退のままでは終われぬな。今が足らぬというのなら、継ぎ足す処置は必要か」 「悪かったわね、足りなくて」 「冷泉殿、嫌味は止めていただこう。文句があるなら私に言ってくれ」 「いや、嫌味を言うつもりはないのだ。だがな、龍明殿の言われるものとやら、その物言いでは曖昧であろう」 「効果の程は? 危険はないのか? 何より、凶月以上に陰気で歪めばそれは本末転倒というものだろう」 「あの山の奥、化外の心臓でも並べておったらよいのだが、そう上手くいくとは思うまい」 「いざ期待して下手を打てば、それだけ危険も大きくなるのだ。総軍一つと、そこの者ら、どれほど釣り合いが取れるという?」 「…………」  意地は悪いが、何より理の通っている指摘だろう。それを前に、竜胆はしばしの間目を閉じた。 「私が総ての責を負う」 「結構。総大将はあなただ、烏帽子殿」  見事と言うか、手際よく中院はその言葉を竜胆から引っ張り出した。凛と前を向いて見返した表情を、心底嬉しそうに眺めている。  もしかしてだが……こいつ、〈竜〉《 、》〈胆〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈姿〉《 、》〈が〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?  眩しい決断を見たいがために、そこがいいと言わんばかりに、わざと煽って追い込んで。しかし旨味はしっかり自分のものって、なんだそりゃ。大概だな、こいつ。  だがどっちにしろ、これで話はまとまった。不二の探索も決定したことだし── 「では冷泉殿のためにも説明せねばならんだろうな」 「皆も聞いてくれ。他人事ではないから」  じゃあ頼むと促され、龍明は頷いた。 「ああ――まず、この情報は三百年前の東征と、初代御門宗家の古文書からの情報であることを伝える」 「この不二は神州最大の霊場である。それを疑う余地がないのは、おまえたちも充分感じているはずだ」 「ああ……分かってるぜ」 「げ、覇吐、分かってるの?」 「紫織さんは分からないのですか?」 「いやぁ、今使ってるのが義手でさ、その術のびりびりなのか、この不二の空気のびりびりなのか、違いがよく分かってないんだよね」  紫織は腕を振り回しながら言葉をつなぐ。式を使った義手にはそういう感覚があるのか、とちょっとだけ驚いた。  しかし、びりびりか。できれば味わいたくねえなあ、あそこから感じるものがもっとやばい気がするのは別として。  俺がそんな感想を言っている間に、龍明は話を深い方に進ませていた。 「まあどちらも陰の気に近いものだからな。分かりにくいのはしかたあるまい」 「だが、陰の異を持つものならば強く感知できると思う。事実何の関係もない冷泉殿でさえ感じるのだからな」 「我の感じたのは雰囲気だがな。本当にそれが霊場の力なのかは分からぬよ」 「雰囲気でも結構。それだけこの不二が強い霊場である証左だ」 「そういうものか。それで、この霊場でこの者たちに修行でもさせると? 随分と呑気な作戦になりそうよな」 「いや、修行と言っても訓練や練習をやらせるわけではない」 「物を探してもらう」  物――つまり大事なのは霊域そのものではなく、あの中にある個の物体。いいね、ますます凄みが増してきた。 「それを探し出す間に、此奴らは勝手に強くなるだろう」 「なるほど、それはつまり――」  その物とやらを探せなければ、俺たちは―― 「死ぬる、ということかな」 「水は低きに流れ、煙は天へ上る。それと同じぐらい自然な話をしているつもりだが?」  だよな、あそこにあるのは、多分そういう類のものだ。  獰猛つうか、凄絶っていうか……究極とも言えるものじゃねえかと思う。勘だけどよ。 「ともかくここにある物を探し出し、それを入手せねばならん。そうでなければ東征の成功はおろか、先の天魔との戦いにも勝てぬよ」 「そうだな。それは私も感じている」  竜胆が意外な言葉を口にした。これは龍明への援護なのかとも思ったが、どうも違うらしい。  単に──確信しているのか。  俺たちの中の誰よりも強く、竜胆こそがあの不二に行かねばならないと感じている? 「何だ、覇吐。その顔は……?」 「い、いや、何でもねえよ……」 「私が変になったとでも思ったか? 陰の異に当てられたとでも?」 「いや、そうじゃねえ。そうじゃねえけど……」 「まあその辺にせよ。烏帽子殿もそのくらいにして」 「しかし、私がおかしくなったと思われては心外だが」 「おやおや総大将殿がおかしなことを言われてるぞ。人のためになろうとしてこの東征を率いているのではないか?」 「それが狂気でなくてなんと言う? 坂上もそれに当てられたとは感じているが……」 「どこか、呑まれてはいないか?」 「俺が?」 「左様。貴様が思ったのは烏帽子殿が陰の異に捕らえられたのではないか、という心配だ。それで露骨に驚き、気後れした顔をしていたのだ。それぐらいは誰でも分かる」 「は、違えよ」 「俺は俺の惚れた女を守りたいんだよ」  これは本当だ。俺は竜胆を守りたい。先の戦いでは竜胆を守れなかった。だから、今度こそは役に立ちたい。それだけだ。 「ほう? まあよかろう。判らぬものでも、使えたならばそれでよい」 「そろそろ話を戻すぞ」 「先も話したとおり、この地に伏せられた何かを手にしなくては、我らに勝利は一片も無い」 「ただ、この地の歪みや、霊力によって私の探知の力も及んでいない。だが、烏帽子殿は違うという」 「その通りだ。よく分からないが、私にはそれが何処にあるか分かるようなのだ」 「ふうん。それって……」  おいおい。それを中院の前で言うか。竜胆が本格的に歪みの餌食になってるとか。いや、俺だって心配ではあるが、ここは黙っておくのが筋だろうが。  だが、俺の心配を龍明はあっさりとひっくり返してくれた。 「それは違うぞ。そこは私が保証しよう」 「それを断言する根拠は?」 「歪みがもし烏帽子殿に出ているならば、私だけではない、おまえたちにもはっきりと感じられるはずだが」 「しかし、私にはそう感じられない。おまえらはどうだ?」 「それは……そうですね。竜胆さんからは何も感じられません」 「うん。これはいつもの竜胆さんだ。幾ら私の腕がからくりになったからって、それが分からないわけじゃない」 「なるほど。まあ、我も烏帽子殿が陰に取り込まれたとは思っていないわけだが、ひとまず尋ねているというのが正直なところだ」 「あんた……いちいち引っかき回すようなことを言うなよ」  俺の文句に、肩を竦めて首を振る中院。まあ様になっていて、こちらの視線をさらりと流した。 「仕方あるまい? 確かに烏帽子殿に従ってはいるが、我にも軍に対して責任がある」 「本国の連中に対しても説明の義務があるのでな」 「冷泉殿の言い分はよく分かる。だからこそ、時間は惜しいが説明をしているのだ。幾らでも尋ねるがよい」 「では続けよう。不二の話、一体どういうことか説明いただきたい」 「我はまじないごとに疎いのでな。それでもあの霊峰の意味は分かるが、しかし行く手を阻むわけではない」 「にも関わらず、その者ら、確かに強者ではあろうが強化させるために軍を停止させるという。意味が分からん」 「兵を前進させ、探索とやらのために烏帽子殿の者らを送り込む。これで問題はないと思うが?」  要するに、重要なのは中にあるお宝だろう、と言いたいわけだ。  俺たちが勝手に強くなる云々、好きにすればいいが、その成功と帰還を本隊がずっと待ち続けなければならない理由はないと。 「なるほど。理に適う話」 「だが、それでは探索の隊を回収できなくなる可能性もある」 「別に構わぬ。そうではないか、烏帽子殿?」 「それは、駄目だ」 「ほぉ? なぜ?」 「私はもうこれ以上、無駄な犠牲も出したくない。確かにこれは無為かも知れんが……」 「だけれど、皆と一緒にこの地を踏破していくことにこそ意味があると考えるのだ」 「……なるほど。烏帽子殿は自らが内にある狂気を皆に伝播したい、そういうのですな」 「そうだ」 「……」  くくくく……思わず笑いが漏れ出そうになる。いやあ、さすが俺の惚れた女。見事に言い切った。こんな風に言い切られてたら、さすがの中院も鼻白むしかねえよな。 「それに、ここに軍を留め置くことには意味がある。なぜなら見えるのは、烏帽子殿だけだからな」 「つまり?」 「見える者には見える。だがそれが何なのか分からないのは変わらない。見える者にしか見えないのだから、その者が動くしかあるまい」 「それでは――」 「御大将自らこの探索に加われ、ということ」 「その通りだ。私もこの探索に参加する」 「なッ……」  その発言には、俺も少しばかり驚いた。本気か、竜胆? いやしかし、龍明が言うように不二の異様な力が見えているというのなら、確かに同行してもらうと助かるが。 「愚考、ではなかろうか? 総大将自ら職を投げるなど聞いたこともない」 「先ほど龍明殿も仰った。私が行かねばならない」 「それは烏帽子殿、あなたの理屈だ」 「だが、あなたには東征軍の総大将、久雅家当主という大事な役目もある。それを外されては困るというのが我からの助言だ」 「助言って……どういう意味だよ」 「いや別に御大将の役目、置き去りでも我は困らん」 「しかれども政はこの最中にも動いているということだ。中院の我が伝えずとも、他の家がこのことを知れば――」 「久雅家の失態として利用する、と」 「おいおい、大人げないにも程があるだろ」 「無論、我もそう思う。だが悲しいかな、腰の引けた者らに限ってこの手の話が非常に上手い」 「ここで一人頷こうとも、あれら、いずれ同じ話をするであろうな」 「だからこそ、こうして己が考えを晒している」 「言ったはずだよ、烏帽子殿。我が言わずともこの東征軍に他の家の間者が紛れるは必定。この探索で軍の歩みを止めるは、怠業そのもの、と」 「奴らがそれを利用せぬはずもあるまい。だから愚かというのだよ」 「……っ」  参ったね。確かに東征そのものが失敗すれば久雅家、中院家共に衰退する。それは実働の兵を失っただけじゃねえ。足の引っ張り合いが激化するってことだ。  しかも残っている三家は、中院が用意した宗次郎に御前試合で面子を潰されている。いま行なわれている東征の構図自体が面白くねえはずだ。  こうやってまごついたり内部が軋んだりしているのは連中にとってまさに利得。そいつを中院は嫌味を交えながら伝えてるわけだ。  それが愛情っていうか、好きな女いじってるようなもののつもりかは知らないが……おまえ、嫌味無しでやれよ。そうすりゃちゃんと話が聞けるっつうのによ。 「政に関しては冷泉殿に理があるな」 「この御仁を説得するにはもう少し理屈を用意する必要がある」  龍明も匙を投げそうだった。いや、こいつが投げることはない。見れば、すでに竜胆が立ち上がって中院の前にいた。 「平行線というわけか……」 「どうなさいますか。これから間者を探し出して片っ端から口封じというのは。それはある意味理に適う話」 「それを私が行なうとでも?」  まさか、間者を狩り出し、ぶっ殺してはい大丈夫なんてならないのが竜胆だ。 「ですなあ。ゆえに、やれやれ困ったものよ」 「なあ、あんた、この面倒な状況を作って楽しんでいるんじゃねえのか?」 「楽しむ? ああ、摩多羅夜行のような楽しみ方と似ているか。そうかもな」  ……何だかな。こいつ、思った以上に話はできるが、面倒な性格をしてそうだ。  しょうがねえ。俺は俺で出来ることを言うしかない。 「俺が守る。だから竜胆を行かせろ」 「少なくとも、俺なら時を稼ぐぐらいはできるだろ。人選としちゃ間違ってねえ」 「我に許しを乞うな。先にも言ったとおり、烏帽子殿が行く行かないの問題ではない」  ……そうだけどよ。こうやって留め置かれてるだけで充分面倒なことになってるっておまえが言ったんじゃねえかよ。ああ糞、埒があかねえ。 「──つまり、逆に確証と決定打があればよいわけだな?」 「しかし、行かぬ限りは分からない。これまた堂々巡りよな」 「ならば、考えを変えてみよう」 「登るのではなく、〈先〉《 、》〈行〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈名〉《 、》〈目〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」 「探索先が不二そのものなら時間がかかる。当然、このような山を登る時間がないとしても……その隣は抜けなければ行軍できん」 「と、なれば」 「不測の事態が起きるやもと? 確かに、前例がないため馬鹿には出来ぬ話であるな」  これだけの樹海、西には存在しない未知のものであるのは確かだ。  ゆえに誰かを先行させ、より詳細な地図を作らねばならない。何より木々が多く視界も利かぬ場所で天魔の襲撃に曝されたら、結果は火を見るより明らかだ。  しかし、生半可な者では生きて帰れぬかもしれない。  尻込みすれば、それこそ志気に関わるだろう。ならばいったい誰を先行させるとするか──という話に持っていけば。 「恐らく不二そのものを探索する前に、樹海をしらみつぶしにするだろうな」 「その間、冷泉殿が言ったとおり結構な日数がかかるだろう。その日数が何日になるか分からない」 「つまり……」  そういう名目で俺たちが出て、さっさと用事を済ませればいいってことか。 「ふふふ……」  先達が後輩の成長を眺めるように、中院の笑みが深くなる。 「自分でも問題を分かっているではないですか、烏帽子殿。ですが、それなら尚更、将は本陣で構えるべきという話になる」 「あと一手、もう一押しが必要であるが?」 「それは」  すると今まで黙っていた龍明が手を挙げる。この女にしては珍しく殊勝な態度で話を切り出した。 「仕方ない。私が手を貸そう」 「ここで軍そのものが崩壊しても困る。あと一手、私がここで紡げばよかろう」 「ふむ……本陣で身の安全を保障されながら、かつ偵察に赴くことを両立させると? どのように?」 「簡単だ。私の領分に引き込む。それが一番手っ取り早い」 「どう、されるのですか?」 「式を使う」 「式、ですか?」 「そうだ。式だ」 「式って、あの式? でもさ、感覚ってばちゃんと分かるように伝わるの?」 「ほぉ、意外に学がある話をするな、紫織」 「まあそれのお陰で腕が動いてるようなもんだしね、これぐらいは話せないとさ」 「それに玖錠の周りにいるまじない師からも、聞いたことはあるし」 「では、話を少し進めよう。夜行の使い魔である丁禮や爾子はわかるな?」 「はい。でも、あの二人は、ちょっと違うのでは?」 「その通り。あの二人は生きている。独立した存在だ。擬似的な存在である私の式とは違う」 「あれはまあ、夜行だけの業だ。真似できるものではないし、そも今この時、役に立つものでもない」 「残念ながら、私はこの世の理の中で術を使う。ゆえに限界がある。そこで使うのが、写し身の式だ」 「写し身とはどのようなものか?」 「大概の式は術者と感覚を共有する。ただそれは強い尺度のみ同調するものだ」 「ふむ。我も間者の中に術者がいる。その者がそのように話したことは聞いている」 「式は匂いや光、音、そして触覚を術者に伝える。だが、写し身の式は対象者、この場合は烏帽子殿と同調させる。しかも確度の高い同調だ」 「そうだな。殴られれば痕が付く。切られればこっちも真っ二つになって死ぬ。それぐらいの同調だ」 「それはまた凄い」  ……そこで笑うから、おまえ趣味悪いって思われるんだよ。 「感覚を極力鈍らせんとなると、こうなるわけだが……」 「いや、それで結構。危殆は承知の上だ、是非やっていただきたい」 「危険すぎる場合、こちらで式を解除しよう」  つまり最低限、竜胆の安全は保障されるっていうわけだ。これで諸々の条件はそろえたことになる。  さすがにここまでのお膳立てに突っ込みを返す輩はいない。それは中院とて同じだ。得心したような顔で頷き、こう告げた。 「それでよいか、各々方?」  当たり前だが、座は静まりかえっていた。結局は中院と竜胆が仕切る場だ。龍明の言葉だって使われこそすれども、決めるのは何処まで行っても竜胆なのだ。 「異論はなさそうだ」 「そうか。我も構わぬ。これもまた一興よ」 「あんたほんとどっちの味方だよ」 「おかしなことを言うな、坂上」 「我は我の味方だろう。そのようなことさえ、忘れたか?」  ああ、そうだったな。しかしもうそういうのは、俺のノリ的に古いんだよ。 「竜胆、俺が絶対に守る。俺が惚れた女だ。絶対だ」 「ああ、期待している。他にこの探索に同行する者は?」  周囲を見回すと、一際元気よく手を挙げたのは紫織だった。 「おいおい、いいのか?」 「異論はないよ。ていうか、私の義手の具合を確かめるには丁度いいと思って」 「本戦で片手落ちとか避けたいでしょ」  それは義手が落ちるってことなのか、それとも真打ちのつもりの自分がいないのはあり得ないってことなのか。いまいち分かりにくい言葉遣いだ。 「まあ、そういう理屈もありですね」  すると紫織の隣に宗次郎が立つ。こいつは天魔の毒で身体を病んでいるはずなのだが。 「んで、おまえは? 病み上がりでこいつの相手、疲れるんじゃねえの?」 「それはそっちの解釈です。まるっきり僕が紫織さんの面倒見役みたいじゃないですか」 「うむ。よきにはからえ」 「紫織さん……」 「まあまあ、あんたが参加するってのは何となく分かってたよ。元気な内に動けるだけ動いた方が後悔は無いものね」 「いやですね。このまま伏せるとでも思いましたか?」 「んにゃ。だけど身体が良くなることってあるの?」 「無さそうです。龍明さん曰く『無いことは無い』って」 「それって無いと同じことじゃないですか。ならいっそ、やれることは色々試したほうがいい」 「んー。そうでも無いかな。でも、腹はくくるよね」 「ええ。ですので、参加します」  まあ、いいや……決めたのは宗次郎だ。心意気は買ってやるさ。  こいつの中にどんな悲壮感が潜んでいるか知らねえが、汲む必要がねえのは確かだ。同情を欲しがるタマでもないしな。 「しかしそうすると本陣の守りが薄いか」 「私が残っている。おまえたちの支援は烏帽子殿の式を通じて行う。だから問題はない」 「だけどよ、少し心配だぜ。天魔共がやってきたら……」  こうなると、鬼無里に行った連中のことが少しだけもったいないと思える。  何とも我ながら現金なものだと思うが、そう感じるのはしょうがない。東征軍の残っている切り札全部を場に晒すことになるんだから。  しかも賭としてはあんまいいとは思えねえしよ。 「心配しても仕方あるまい。だが、この地を治める天魔に意地があるなら、仲間を呼んだりはせんだろう」 「小さなちょっかいをかけてくる可能性はあるが、それは今の兵だけでなんとでもなる」  すると退室しようとしていたはずの中院まで口を挟んできた。 「そこまで心配することはない。おまえたちがいなくとも天魔と戦う覚悟を持った者だけが、この東征軍に参加しているのだ。せいぜい烏帽子殿を守るよう尽力せよ」 「分かった。留守を任せる。そっちに本当の竜胆がいるんだから気張ってくれ」  一度決めた後の対応に関してなら中院は信用できる。間違いなく自分の軍を出し惜しみ無しで使ってくれるだろう。  さて……こうなると本陣での用事は無いってことになるな。 「では、龍明殿、式神の手配を」 「うむ。しばし待たれよ。昼ぐらいには儀式に入れる」 「ありがとう……みんな、手間を掛けるがよろしく頼む」 「結構。だがいずれにせよ、早めに戻ってきて貰わないと困るがな」 「如何に式を使うといえど、将が機能しないのは事実なのだから」 「分かっている。そんなに長くはかかるまい」 「せいぜい七日。私が烏帽子殿の式を通じて辺りを探る。それで進むべき方向が分かるようになるだろう」 「では七日の間に我らは橋頭堡をここに作るとしよう。いずれ第二陣、三陣も来る。幸いここであれば木材の調達は難しくない」 「と、これでよろしいかな」 「ああ。そちらは任せる」 「御意」 「では、烏帽子殿。こちらへ。儀式の前に清めを」 「分かった。では、覇吐、紫織、宗次郎、支度を」 「おう!」 「はーい! よーし、ちょっといっぱい食べ物持っていっちゃおうっと!」 「やれやれ……何だか遊びに行く感じになってきましたね」 「僕も少し肩から力を抜くことにしますよ」  こうしてようやく、堅苦しくて面倒くさいやり取りから解放された。  俺、宗次郎、紫織、竜胆の四名で不二の樹海探索へ赴く。それを決めるだけで、どっと疲れたような気分だ。  竜胆の式が完成するのを待って、俺たちは本陣を出立。樹海へと足を踏み入れる。  出発の時、この穢土で唯一時を刻むのを止めない、太陽の指す刻限はまさに正午だった。  出発して間もなく。  俺は一人ですたすた行く竜胆の後ろを必死になって追いかけ、ぺこぺこしていた。 「……そんなに怒るなよ、竜胆」 「知らん」 「でも、これは覇吐さんが悪いですよ」 「いや、ほら、なんつーの? 式神だから全然違うかなあ、とかなんとか思って」 「その気持ちは分かる。でもさ、あんまり堂々とやっちゃうと殺すしか無くなっちゃうから気を付けてね」 「反省しております……」  竜胆がご機嫌斜めなのは、俺がやらかしたからだ。龍明が用意した式神があまりにそっくりだったものだから。少し観察をさせてもらったわけで…… 「あれは観察とは言わん!」  物凄い剣幕で怒鳴られる。  いや、そこまで怒らなくても……なあ。だって作り物だよ。竜胆を基にしているかも知れないけど。 「僕らは何があったか知りませんが、竜胆さんがお怒りになっているところで何となくお察しします」 「龍明さんが儀式の邪魔をされたのも相当怒ってたしね」 「え、うそ、怒ってた? 俺には全然分からなかったけど」 「そーゆう機微の分からなさ、改めた方がいいよ」 「しょうがないですよ。覇吐さんですし」 「確かに……バカにバカを改めろと言っても分からない可能性は高いな。しかし、実に腹が立つ」  紫織の奴め。自分だってアレな部類の癖に、人の機微をどうこういうか。いや待てよ。女同士だからな。何か通じるところがあるのかも知れねえが……俺には分からない領分だ。  しかし宗次郎も酷いね。何気にさらっと。まあ、分かっていても止められないんだからさ。 「まあまあ、そう怒るなって。俺が悪かった。何もかも悪かった。うん、もう全部悪いのでごめんなさい」 「つうわけで、ほら行こうぜ。あ、手でも繋ぐか?」  手を伸ばすが竜胆は反応しない。それどころか冷ややかな目で俺を見据えつつこう告げる。 「まったく、この式神は龍明殿にもつながっていることを忘れるな」 「げっ、本当か?」 『本当だとも。覇吐、おまえは私に対して失礼なことが多いようだが、それはどういうつもりだ?』 「いやいや、清廉潔白なこの俺を捕まえてその物言いってどうよ?」 『……まあいい。私も烏帽子殿の式を通じて、おまえたちを援護している。あまり気負わず探索を進めてくれ』 「意識は龍明殿と共有状態だ。他にも術者が協力している。この樹海の地図化だ。おまえたちに以前渡っている龍水の髪もまた探査の役に立っているということだ」 「何だ……結局監視状態かよ」 「悪さはできませんね」 「ちぇ。面白いことできないわけか」 「紫織さんも真面目さからは遠いですね」 「いいじゃない。これぐらい楽しみにしないとね」 「とりあえず、紫織、腕はいいのか?」 「ん、何? 心配でもしてくれてるの?」 「おまえそりゃあ……」  ……まだ、戦いで使えるかどうかまでは試していない。仮にこの先でなにかあったら、それがあれから初の実戦。どうしても気になっちまうのは仕方ないだろう。  とは言えども、やっぱ最後まで言い切るのは難しいものだ。結局言葉の終わりを濁しちまう。 「万全かどーかは、これからやってみないと分からないかな」 「だけど、〈義手〉《これ》ちょっと凄いね。本当に何にも違和感がないから、気持ち悪いくらいだけど」 「ですが、それを馴染ませるために相当苦労されたみたいです」 「あ、ちょっと! 言わないでよ!」 「こういうのは影に日向にしてるから、趣あっていいんだから」 「ですが、紫織さんは女性です」 「むぅ……宗次郎にそう言われると腹が立たないんだよねえ。確かに馴染むまではメチャクチャ痛かったよ。でもね、もう乗り越えたんだ」 「そうですか。じゃあ、あの慟哭はちゃんと意味を持てたわけですね」 「だから! そういうことを竜胆さんとか覇吐のいる前で話さないでよ!」 「まあ、いいけどよ……おまえら、付き合ってるの?」 「な、何を言うんですか! 僕はそういうつもりで紫織さんを見たりしてませんよ!」 「ありゃ……本人を目の前にしてその言い方ですか」 「誤解です。僕にそういう相手は要りません」 「確かに力は認めていますが……」 「こんな感じでございます、てね」 「私はあんたのそういうところ、好きだけど」 「からかわないでください」 「本心だよ。剣に一途でいいと思う」 「他は目に入っていなくて、今も追い求めるのは一人のみ。そういう部分を持っているから、私は素直にいいと思う」  ……やっぱ付き合ってるんじゃねえのか。この反応。 「そうですか……」 「というわけで、覇吐が思っているような関係じゃないから」 「はぁ……さいですか」  あーあ、他人の色恋って喰えないねえ。俺と竜胆の色恋は何時になったら先に進むのか、そう考えると空しいわな。 「……へいへい。分かりました。色恋の話はここまでで」 「で、宗次郎、おまえの身体はどうなんだ?」 「今度は僕の心配ですか。いい加減、そこまでいくと気持ち悪いですよ?」 「バカ。勝手に言ってろ。〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈使〉《 、》〈い〉《 、》〈物〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》って聞いてんだよ」 「で、どうなんだ?」 「戦力としては問題ないかと」 「腕が動くし、足も同様。ならば後は気力の問題ですが──」  そう言いながらも東征が始まった頃の足運びとは明らかに違う。やはり天魔によって負った汚染は相当に深い。  下手をすれば、この瞬間に崩れ落ちても不思議じゃないが…… 「まあ、心配なのは分かります。これが進行性である以上、いずれは使い物にならなくなります」 「その場合は、どうぞばっさりやっちゃって下さい。僕も敗北した僕など不要ですから」 「このまま朽ちるつもりもありませんけど」 「面倒臭えから他当たってくれや。そういうのはてめえで選んでおくもんだ」 「んで、竜胆はどうなわけ?」 「何がだ?」 「式と連結しているわけだろ? 身体の方は大丈夫なのか、って思ってさ」 「おまえに心配される覚えはない。大体分かっているのではないか?」 「い、いや、そっちじゃなくてさ……」 「分かっている。問題はない。身体は確かに多少不自由だが」 「この式から伝わってくるものは、確かに私がそこにいるという感覚でしかない。本陣にいるというのにな」 「奇妙だよ。余りにも奇妙で、どっちが現実か分からなくなりそうだ」 『必要に応じて強度を変えることもできる。だが、今は探索の方を優先している。烏帽子殿には苦労を掛けるが、我慢して貰いたい』 「分かっている。私とて気持ちは同じだ」 「二度の敗北は無いぞ、覇吐」 「おう、分かってるとも」  俺だってそのつもりだ。どういう理屈か分からないが、拾った命を無駄にはしない。  二度と負けねえ。俺たちは勝つ。今度こそ竜胆を守るんだと、腹をくくり覚悟を決めていた。 「しっかし……代わり映えのない風景だねえ」 「そうですね。特に目立った目印がない上に、平衡感覚も些か常より頼りない」 「磁鉄……でしょうか」 「方位狂ってさっぱりだな、こりゃ。土地すら俺らを獲りに来てるとか、洒落になってねえぞ」  こいつはまいったね。いや、穢土に足を踏み入れてから何度もまいったと言っているが、危ない橋を渡っている最中にこういうのはちょっと厳しい。本当に気合いを入れる必要があるってことだ。 「そのために龍明殿と龍水に記録を任せているのだ」  龍明が不二を、龍水が鬼無里を。共に平行して探っており、合流して詳細な地図を作る。だがそのためには俺らが危なそうな場所で矢面に立たなきゃならない。  全員納得しちゃいるものの、実際のとこ困ったもんだな。単純に手が足りてないようにも思えるし。 「だったらみんなで手分けした方がいいんじゃねえか?」 『あまり気軽に言うな。烏帽子殿の式を扱いながらおまえらの動きを記録し続けるのは結構な骨だぞ』 『夜行の奴が手伝ってくれれば何の問題も無かろうが』  離れた場所から仲間の助けを察知して、よっしゃ待ってろひとッ飛び。俺たちの元へおまえら怪我はないかと駆けつけて、とか……夜行が? 「うっわぁ、そりゃ天地がひっくり返ったってねえな」 「面白くなれば関わるんじゃないの?」 「だったら私たちと一緒に来ているだろう。来ていないということは、興味がないということだ」 『だからあくまでもまとまってくれ。それに化外相手へ個々人で挑んでも現状勝てんのは分かるだろう?』 『少しでも可能性に賭けるなら、まとまっていた方がよいのだよ』  まったくその通りだな。業腹だが、今の俺たち個々人じゃあいつらに追いつくことは不可能だ。 「しかし……こりゃ歩きにくいな」 「なあ、竜胆」 「どうした、覇吐? 疲れたか?」 「いや。そっちはって言おうと思ったが、式だと疲労感は少ないか」 「ああ。肉体的には、な。精神的にはなかなか堪えるが、香を焚かせたり、水や食べ物を与えられているから心配はいらぬ」 「相当に楽させて貰っているよ。おまえ達に悪いくらいだ」 「身体を使っていいのなら、皆と一緒に向かいたかったが……」 「すまないな」 「いいんだよ。男の株ってのは、こういう時に上がるもんだろ」  少し弱気を見せる竜胆にぐっとしつつも、俺は胸を張る。こういうときに支えるのが男の仕事なのだと自覚しながら。 「どうよ、惚れ直した?」 「感謝している、とだけ言わせてもらうさ……」  笑みが見れただけでも儲けもんだよ。何しろこれまでがきつかったし、笑顔なんて見せられる余裕はそうそうない 「そんで、感覚的にはどうなんだ? 見た感じ、どうにも迷いがねえみてえだが……」  一応周囲の警戒も兼ねて、竜胆に尋ねてみる。 「……そうだな。私にも分からんが、確かにこっちで間違いないと感じているのだ」 「虫の知らせとか?」 「私自身にも、どうにも形容しがたい」 「こいつが何かの罠って可能性は……って、ああそりゃねえか」  そんなものは端から不要だ。先の大敗から考えれば、やる気になったらあちらはいつでもこっちを潰すことができる。  人から見れば蟻は潰すだけのもの。わざわざ女王蟻を見繕って罠にかけるようなこと、あいつらがするはずないだろう。 「万に一つ、とは思うがそれを言われると何とも言えん。おまえたちを無為に危険な目に遭わせることになるからな」 「いや、俺はいい。それにあいつら二人だってそれを承知してやってきてるんだ。気にすんな」 「そう言ってくれると助かる。だが私が感じているのは絶対だ」 「間違いなくこちらの方角で、間違いなくこの戦いに必要不可欠な何かが待っている。そういう気がする。感じるのだ」 「何か、そう──」 「内から外へ、流れ出すような──」  まじないごとはよく分からないが、竜胆が確信を持っているんならいいだろう。 「そうかい」 「任せな。おまえのことを、必ず死んでも守るからよ」 「それではダメだな」 「死ぬな。死なずに私を守りきれ。おまえの身体は、もはやおまえ一人のものではないのだ」 「勝手に死んだら、それこそ一生恨んでやるのだからな」 「…………うわ、何その口説き文句」  そうだった。こいつはいつでもそうだった。面白いな。ほんと、面白い。俺が惚れちまったのは、こういう部分のせいなんだろうな。  いいぜ、俺の姫様。ちゃんと守って死なないさ。そう、あんたの言うとおり、皆のために俺は力を振るうぜ。  そして日が落ち、薄暗い樹海がさらなる闇に包まれていく。  ますます足場が悪くなる。前進の速度も落ちていく。  先の見えなくなっていく視界の中、徐々に俺たちは消耗してきた。  幾ら夜目が利いたとしても、月明かり、星明かりが届かない樹海では、すぐに真の闇が下りてくる。その前に決断しなくてはならない。 「日が暮れてきましたね」 「進み辛いとは分かっちゃいたけど、これは……」 「どうする?」 「冷泉殿が切った期限は七日だ。まだ余裕はある。一日で決着とはいかんだろう」 「夜は……なんだろうな、妙な感覚がする」  竜胆だけに分かる感覚か。やはり何かに誘われているのかも知れない。 「何か出てくるかも知れん」 「はあ? 獣とか? こっちに来てからとんとお目にかかってないけどよ」 「そういうのではなくてだな、何か……」  魂だけが、漂っているかのような──  呟きが聞こえたのは、俺だけだろうか。 「どっちにしろ決断は早くした方がいいよ。夜目が利くのにも限度があるし」  竜胆が決断しようと口を開いた瞬間、俺たちの間を冷たい風がごぅ、と吹き抜けていった。  いつの間にか、目の前にある大きな暗闇からその風は吹き抜けた。  それがただの深淵じゃないと気付けたのは、間違いなく夜の帳がおり始めたからだ。  そうでなければ俺たちは木々と草むらに、その存在を見落としていただろう。昼であればあまりの黒さに見落としていた。視界に入らない闇というのがある。  そして、風が吹いたことで俺たちは、そこに意識を向けた。光蘚がその入り口を指し示したのだ。 「おいおい。なんだよここは……」 「こんなのが僕らの前に口を開けていたなんて、気付きませんでしたよ」 「なんか、嫌な感じだね。ていうか──」  身を打つ波動に、今度ははっきりと黄金で出来た何かを垣間見た。 「虎穴の比じゃねえぞ、こりゃあ……」 「────鉄。いや、刃? それとも」  俺たちが穴の正体を見極めようとしていると、竜胆が先頭に立つ。 「行こう。この先に在る物が、我々を呼んでいる」 「覇道を放つ、何かが」 「風穴ってのは、随分広いものだな」 「龍明殿から聞いているが。火山の溶岩が溶けて出来たものだという」 「巨木が熱で押し流され、そのまま焼け落ち、空洞ができたものが多いというが……これは些か度が過ぎるな」 「そうですね。火の国、阿蘇にも似たようなものがあると人伝に聞いたことがありますけれど」 「ここまで巨大なものではないでしょう」 「東の地特有の場所、かぁ……さて、何が出るやら」  俺たちは慎重を期して先に進む。  あの樹海越えで体力を相当使っているはずだが、緊張からか疲れを感じたりはしていない。むしろ感覚は研ぎ澄まされている状態だ。  周囲を警戒していると、竜胆が足を止めた。 「────死者の、溜まり場」 「待て……少し様子が変わってきたぞ」  竜胆がそう言った途端、風の種類が変わった。さっきよりもずっとずっと冷たい風。しかも、匂いが無い。 「……やっぱりこりゃ、自然のものじゃねえな」 「そうですね。とても嫌なものを感じます」 「毒、とか入ってないよね」 「それは大丈夫みたいだが……」  奇妙な雰囲気はより強くなる。このまま突っ走ってもいいような……そういう危機感を麻痺させる、形容しがたい感覚がどうにもさっきから止まらねえ。  まるで、〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》とでも言うように。 「私が先行する。毒の霧が出てこようとも、式である私には効果が出ない。だが、異常は感知する」 「援護を頼む」  ここで隊列を入れ替え、俺が竜胆の後ろに付く。  殿軍は宗次郎だ。  俺たちはさっき以上に歩みを緩めて、警戒しながら進んでいく。すでに風穴の入り口はずっと遠く。闇の中に消えていた。  意外なことに、慎重に歩みを進めていたが、速度は上がっている。それは風穴の足場が徐々に整えられていったからだ。  そして── 「これは、人の手でも入っているのですか?」 「そう……みたいな感じ」  確かに、こうもなだらかな足場を見れば、そう思うのも当然だ。  まるで人がかつて住んでいたような……そんな雰囲気を感じる。だが、それは同時に心をささくれ立たすには充分なものだった。 「気持ち悪いな、おい。こんな洞穴の奥に、こんなものがあるってのは……」  気持ち悪い――これは俺の正直な感想だ。この場所の総て……多分、ここにいたであろう人間、あるいは存在との反りが合わないゆえの不快感ってことだろう。  でなければ、ここまで嫌悪する理由が分からない。  こんな所で生活するのは、不便でしょうがないだろうに。 「ならば、なぜ?」  宗次郎に突っ込まれたが、俺も言葉は返せない。竜胆も首をかしげて思案していた。 「さぁ、分からん。龍明殿に聞けばいいのだがどうやらここに入ってから伝達が悪くなっているようだ」 「私の意識はこっちにあるから、伝えることもできそうにない」 「そりゃ、困ったな」 「案ずるな。龍明殿は気付いているよ。今頃何か、よい手を思案している頃だろう」 「私たちは目の前の風穴に挑むだけだ」  風穴、と呼んでいたがもうそうじゃないことを俺たちは目の当たりにしていた。道が人の手によって滑らかにされているのだ。  そして、俺の中の不快感、嫌悪が本質的なものだと感じて、やっと理解することができた。この場所は俺たちの世界じゃないんだ、と。  言い換えるなら別の場所――恐らく天魔たちの世界だ。  そこに思い至らなかったら、異質な雰囲気に俺たちの意識が飲まれてもおかしくないだろう。だからどうにか気を張って、耐えているのが現状だ。  しかし、その強がりもどんどん難しくなっていく。 「気色悪い……じゃねえな、こりゃ」 「覇吐さん、それは僕も同じですよ」 「端的に、まず怖い。理解できないということもそうですが、これは……いったい」 「だってさ、この怖いってのなんか別だよ。命に関わるものじゃない」  そうだ。俺たち矢面に立つ面子はさほど命の危険っていうのを気にしない。心構えの問題として、戦いに身を置くってのはそういうものだから。  けど、この風穴は違う。何もかもがやけに違う。  その違いに俺たちは心を震わせている。  正直、天魔を含めた化け物の方がずっと楽な気持ちになるほどだ。奴らは実態を持っている。たとえ遥か格上であろうとも、見て触れる相手ならまだマシと思えるんだ。  なのに今の俺たちを支配している感覚は、この世のものではない。  〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈先〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》……  俺たちにはまったく馴染みのないその雰囲気が、無条件で肌を粟立たせる。  だが、そんな不安と恐怖の心証とは反対に足場はどんどん良くなって、遂に滑らかな床へと変わっていた。 「何だよ。これは……」  さっきまではゴツゴツとした岩肌が水に濡れて光っていたのに、今はツヤツヤとした石を切り出した建物のようになっている。  漆喰塗りとは違う、石に鉋でも掛けたような滑らかさだった。触れるとぞっとするほど冷たい。  俺たちは階段状になっている坂をゆっくりと下りていった。地鳴りのような響きが聞こえてくる。今までに出会ったことのない圧迫感がそこかしこに満ちていた。 「どうにも、いけねえな……」 「ええ。正直逃げ帰りたい気分です」 「〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈を〉《 、》〈失〉《 、》〈う〉《 、》。〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈囚〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》」 「気持ち悪いですよ、ここは。まるで──」  巨大で静謐な墓の下。俺と宗次郎が感じたのは、恐らく同じ想像だった。 「でも、私らの大将は先に進んでいるよ?」 「それこそ、誘い込まれてるみたいにだけどさ……あれ、まずくない?」  周囲の警戒が過ぎたか、それとも竜胆の足が速まったか。あいつは相当先に進んでいる。 「覇吐さん。もしもの時は──」 「分かってるよ。俺が、なんとか面倒見る」  まずいと思えば、気絶させてもここから連れ出す。  憑かれてるかのように進む竜胆の背を見ながら、俺たちは小さく頷いた。  どうにか竜胆に追いつく。慌てて追ってきた俺たちの足音で立ち止まってはくれた。  幸い目に宿る光は普段どおりのそれだったし、他に怪しいところはないのだが。  しかし、竜胆を誘い続ける何かは相当強く彼女に働きかけているのだろう。俺たちが追いつくなり、すぐ先に進んでいったのだ。  今度は置いていかれないよう、隣に立って歩くことにする。警戒の段階を上げて先に進み、階段を下りきった所には巨大な壁が視界を塞いでいた。  まったく未知の意匠だったが、さすがにピンとくるものがある。  これは戸だろう。押して開く。 「……こいつは、城かよ」  今までの作りからすれば砦というのもあったかもしれない。だが、この広間を見て即座に思い至ったのはそちらの表現だ。  しかし、こんなに滑らかな石造りの床は見たことがない。贅沢、というより気持ち悪いと思う。だいたいこれ、どうやって一つの岩から削り出したんだ? あちこちひび割れてはいるものの、基本的に継ぎ目がまったく存在しないぞ。  諸々不明なことだらけだが、ともかくこれが戦の意味を持つ建物だっていうのは分かった。何処の築城家がやったか知らないが、異質極まる造りだろう。  ゆえにこの地こそ、奴らの本拠地であるとするには充分ってわけなのだが…… 「──どう思いますか?」 「たぶん、あんたの考えてるのと同じこと」 「もぬけの殻だよ。あいつらがいたら、こんなもんじゃない」  感じる威圧はまるでない。奇妙なものはあるが、暴力的なあの神威がないのだ。 「つうことは、まさか連中そろって出払ってるとか?」 「もしくは、こいつは古巣で、今は別の場所に別の城を築いているとか?」  となれば、重要な拠点というのも納得はいく。  関係はあるだろうが、存在はしていない。確かに俺たちが連中につけこめるギリギリの線だ。もしくはこれすら乗り越えられないというのなら、もうここで死ねという分水嶺。 「けどまあ、竜胆の感覚も信憑性を帯びてきたな……こいつはマジで何かが有るわ」 「そうだな。この中だ」 「私を、呼んでいるものがあるのは」 「頼むぞみんな」  俺たちの歩みは更に慎重となった。もし城なら、侵入者を撃退するための罠だってあるだろう。  そいつにかかれば、龍明との接点を失っている俺たちは全滅する可能性だってある。 「ちゃんと兵学に基づいて作られているな……」 「戦うための城、ってことか。つうか、あいつらこんなところでやりあっても意味ねえだろうに」  天魔どもの力を使えば、兵学なんざあっという間に吹っ飛ばせるっていうのに、何だって人間の真似事なんかしやがっているのか。自分たちを人間だって勘違いしてるのかもしれねえ。  俺たちは中庭から本丸に近い通路へと入っていた。  さっきとはうってかわって道が狭い。要するにこの本丸へ向かう道は防衛用だということだ。  たとえ中庭を突破しても、大人数であればここで渋滞する。その大混乱の最中に、後方から再度襲撃する。あるいはこの狭い通路の出口で出迎えれば、少人数でも対応できる。  考えられた作りだが、これを作り上げた連中のことを思うと、わざわざこんなのを必要としている理由が分からない。  まあ、人じゃねえ連中の考えだ。分からなくても当然だろう。  竜胆が誘われる方に向かい、俺たちは本丸に向かう。  そして、そのとき── 「歌、いや、音か?」 「ああ……歌みたいに聞こえるが、人の声?」  歌なのか、人の声か分からない。しかも、この石造りの空間では反響して何処から流れているのか分からなくなっている。  ふと気付けば宗次郎も紫織も前に出ている。これでは後方が疎かになるだろうに。  音の出場所を調べるためだろうが、隊列を守って行動しろよと言いたいが…… 「おい、宗次郎、紫織、警戒を怠っ――」  思わず身体が動いた瞬間、俺の髪が数本ぱらりと散る。  俺の頭だった場所を容赦ない刀の一閃が薙いでいた。 「なっ──宗次郎、てめえ!」  宗次郎の一太刀目をかわした次の瞬間、紫織の拳が乱れ飛ぶ。  義手だと言っていたが、おいどうして。この鋭さは生来持っていた拳そのものだ。  しかし、感心している場合じゃねえ。こいつら二人に何が起こったっていうんだよ。  俺の動きに呼応して、紫織は身体を滑らせながら足下をなぎ払う。  足払いは距離を取るための牽制だ。俺はそのまま飛び上がりながら避けて構える。  相手が一人ならこれでも良かったが、二人だとなれば──  俺が得物を構えた所で、宗次郎の鋭い突きが身体ごと飛んでくる。 「──野郎ッ!」  どうにか構えが間に合ったが、遅ければ胴で剣を受け止めるしかなかった。それで生き残れるか、って保証はない。  笑っちまうぐらいに、こいつら本気だ。何があったかまるで知らないが、そこに微塵の躊躇もなく──  こいつらが天魔に操られているとしたら、ああ狙いは決まっている。そして実際、その予想通りになっていた。  思いっきり脚力を使い、竜胆の所に飛び戻る。紫織がそこに迫ってくるが、させるかよ馬鹿。何を勝手に気持ちよくなってやがる。 「てめえの相手は俺だ!」  紫織の首根っこを掴み、追ってくる宗次郎の方に放り投げる。  二つの身体がぶつかってくれたことで、僅かだが時間が稼げた。 「竜胆!」 「分かった!」  竜胆は素早く俺の背後に回り、壁を背にする。これで背後からの奇襲はできない。  守る向きが一方向ならこいつら相手でも何とかなると踏んでいる。だが全力の全力で掛かられたら、腕や足の一本は持っていかれるかもしれない。  やりたくないと、思う気持ちも確かにある。気が乗らない。つうかその様なんだよ。 「何しやがる、とか……聞くだけ野暮ってもんだよな」 「まあなんつうか、色々と仕組みだの陰気だのとかあるんだろうが」 「要するに、ここはそういう場所なんだろ?」  体勢を立て直すのに時間が掛かっている。いつもの二人ではなく、覇気もまるで感じられない。  まるっきり生気の抜けた化け物のようだった。何も感じていないかのように、ゆらりと立ち上がってくる。  そして死人のような顔のまま、殺気だけを滾らせて俺たちに向かってきた。  こいつらの耳が聞こえてるかどうか怪しいものだが……いいぜ、気合いを入れてやるよ。  見捨てやしねえさ、それぐらいはおまえらのこと信じてるから。 「は──よっしゃあ、来い!」 「華麗にド派手にきっちり一発、目ぇ覚ましてやるよ!」  だからそれまで── 「くたばるんじゃ、ねえぞォッ!」  手加減なしで一刀を振る。剣圧だけで普通の奴ならぶっ倒れているだろうし、使う奴ならさらに平静ではいられまい。  なぜなら俺がぶつけた剣圧の総てが殺気だからだ。これを黙って受け流すのは狂人か化け物、そして死にたがりだけだろう。  ゆえに今の宗次郎や紫織からも、何かの反応があってもいいものだが……  黙ったままかよ。  次の瞬間、何の挙動も無しに紫織が飛んでくる。  こちらもまったく手加減なし。全力と分かる拳の一撃が俺を掠める。  刹那の間を開けて、宗次郎も刀と一緒に飛んできやがった。殺気が無ぇのが気に入らない。おまえそんな奴じゃねえだろうが、お陰でこっちの動作が遅れるっつーの! 「ありえねえだろ、そりゃあよ!」  何せ俺も認める達人二人が相手なんだ。あまり格好付けていられる状況でもない。 「覇吐!」 「分かってるが、実際問題こりゃきついんだよ。できるだけで勘弁してくれ」  仲間だ、傷つけるな――ああ分かってるさ。だが大真面目な話、こいつらを前にして正攻法は厳しいんだよ。  武芸者であれば分かること、武人であれば当然のことも今のこいつらには通じていない。  心あらず、何かに操られて勝手に動いている人形状態だ。そしてただの人形と言うなかれ、こいつらの元々持っている能力は遺憾なく発揮されている。  相当厳しい立場に置かれているってのが正直なところだ。 「同士討ち……」  それが狙いかと、竜胆は俺たちの戦いを見て悲痛な表情を浮かべている。 「これであれば、私と覇吐だけで探索するべきだったか」 「それこそ各個撃破じゃねえかよ。よしんば俺らが無事だとしても、外でこいつらがやりあってたら、ああ意味がねえ」  もし、この不二を支配している天魔がいて、そいつが俺たち同士で殺し合いをさせたいなら、俺と竜胆だけだったとしてもやらせることは一緒だ。  単に構図が、俺と竜胆の殺し合いに変わるだけだ。  つまり、どうやっても連中の手の平っていう非常に気に入らない状態になる。  だが陰の気を派手に使われた気分ではない。何だか自然とこういう流れになっている、そんな感じが拭えないのだ。 「……この場所そのものが、そういう場なのかもしれんな」  向こうは俺たちの様子を伺っていた。いいだろう。そっちが値踏みするなら望み通り、ちょいと真面目にやってやるよ。  再び殺気を向けると、今度は二人とも反応した。  一気に間を詰めてくる宗次郎。  俺はそれに牽制の一太刀を浴びせる。  だが、その動きが分かっているのかするりと避けてみせる。ああ、確かにこんな動きをしやがるよな、おまえは! 「だがっ──」  俺はそのまま得物の軌道を変える。  正直これは悪手だが、徹底した殺人剣を操る宗次郎は人体の構造に基づいた予測をするので奇手になる。俺の腕も痛むが、それで充分! 「──しゃっあッ!」  宗次郎の身体をしたたかに薙ぐ。  ぶち当たったが、効果は薄い。どうやら着込んでいる鎖帷子のせいか、刃が止まっているみたいだ。  それでも、俺は渾身の力を込めている。この一撃で胸骨、あるいは肋の何本かが逝っちまえば楽になるのだが。  無言のまま今度は紫織が飛んでくる。  宗次郎の剣は必殺性が高いのだが、そのぶん単発が多い。  だが、紫織の拳は違う。手数と必中の理、可能性の拡大が鉞を思い出させるほどの重い一撃で叩き込まれる。 「無手が、やべぇってのは分かっていても、なかなか対応できねえよなっ!」  武芸者として無手、武器を持たない相手は一際警戒するのが定石だ。  武器を持たずに武芸者ということは、構えも攻撃方法も予想ができない。つまり何処からでも攻撃態勢だし、何処からでも反撃に入れる。  俺たち剣士が一番気を遣う相手であり、その中でも紫織は特上。  だとすれば―― 「距離を取るしかねえ、だろうが!」  相手に一撃出させた後、反撃を入れる。それが無手相手には一番早い。だが――  信じられないことに、こいつは別の場所から俺に迫っていた。さっきまでは目の前にいたというのに、今はすぐ真横にいる。 「う、ぉっ!」  紫織の攻撃は止まらない。五月雨の如く、途切れない驟雨のように浴びせられる拳の雨。  俺は飛び退りながら、反撃の機会を狙う。  しかし繰り出される拳の一撃一撃が繋がっていき、こちら側に剣を振る機会を与えない。  ――変幻自在。  間違って拳や蹴りの勢力圏に入れば、後は巻き込まれて終わる。一方的な乱打、猛攻に、防御の上からでも削られ続けるだろう。  それこそ、紫織の体力が終わるまで。 「いい加減に、しろやッ!」  俺は飛び退りながら刀を打ち下ろした。爆発する剣気が周囲に広がり、地面が爆ぜる。  その衝撃波をぶち当てることで、紫織の動きを止める。  だがこいつは低威力の割に大技で、体力を相当に使う。こんなところで消耗したくはないんだが、紫織との距離を取るためにはどうしたって必要だ。  そして、そんな大技の隙を逃さないのが一流の剣士だろう。  打ち下ろした瞬間に宗次郎が飛び出し、刃が奔る。  俺は柄でどうにかその剣を受け止めた。しかし――  宗次郎は刃をそのまま滑らせて、指を切り落としに掛かろうとする。おい、冗談じゃねえっ!  刃の流れに沿って倒れるようにしながら何とか逸らす。  とりあえず宗次郎を止めるのが先だ。体力が落ちているあいつから潰すのが良策だろうが!  だが、俺が宗次郎に打ち込んだ刀を紫織の奴が受け止めた。  そう素手で。だが、微動だにしていない。  ――ああそうだったよ、こいつの腕は義手だ!  そして、さっき流れた宗次郎の剣が突き進む先は――まずい。 「竜胆!」 「心得てる!」  だが、宗次郎の剣を竜胆は易々と抜け、俺の傍にやってきた。  どういうことだ? 宗次郎の奴、仕留め損なったのか? いや、今の竜胆は式だから、生物と認識しなかったのかもしれない。  だったら好都合だ。それよりも―― 「このぉっ!」  俺は紫織に蹴りを入れ、引きはがす。すげぇ力で刀ごと持ってかれそうだったぜ。  俺の背中に回る竜胆。再び壁を背にして、守りに入る。 「心配ない、覇吐。やはりいつもの宗次郎とは違う」 「ありゃどうにも、ガランドウ臭ぇわ。なんつうかこう、やる気とかそこらへんが特に」 「いや、そもそもだ──」  俺が何度かぶち込んだ殺気。  俺が距離を取るために打ち込んだ大技。  俺の知っている二人であれば、その総てに容赦なく返しを打ってきたはずだ。それを期待して動いていたが、そうならなかった。  つまり、こいつらはこいつらであって、こいつらじゃない。 「あれが、壬生宗次郎と玖錠紫織であるはずがない、と?」 「え、マジ? これもしかして、通じ合う男と女ってやつだとか?」 「私があいつらを信じている、という話だ」  俺の喜びを無視して竜胆はあっさりと自分の考えを述べる。まあ、そうだよな。竜胆だもの。  だがその言い分。俺にもよく分かるぜ。 「操られている? 何を馬鹿な。あの二人を屈服させ、木偶の如くこき使えると?」  それはねえな。あいつらはどんなことがあってもあいつらのままだ。煮ても焼いても食えないのが、壬生宗次郎と玖錠紫織。曲がりなりにも、共にここまで戦ってきた奴らだよ。 「彼ら、違わず益荒男だ」 「信じる理由など、それで構わぬと思わんか?」  俺だってとっくに分かってたさ。ただ、万が一本物だったら……そう思うと、なんだろうな。どうしても腕が鈍るようになったんだよ。  だから、様子を伺いながらここまで来たわけだが、結論は出たってことだ。 「なら──」  俺は剣の構えを解く。  やるんだったらこっちも本気でやらないとな。守るのはもう止め。きっちり片を付けてやるぜ、木偶人形。  それに竜胆の空気が変わっている。すでに守りではなくて、攻めに意識が向いている。やる気だ。 「任せな、何かできるんだろう。竜胆」 「それまであんたには、指一本触れさせねえよ」  竜胆が急に目を瞑った。戦いの中、深い、深い瞑想へと没していくかのように。  一際大きな風切り音が響いた。宗次郎は剣を構え、それを受け流す。派手に鋼のぶつかる音が響き、頭上で火花が散った。 「ああ宗次郎、ちょっと油断気味?」 「違いますよ。加減を間違っただけです」 「……もう少しで首を断てると思ったのですが」  宗次郎は自嘲する。まさか首を落としに行って、頭を潰されそうになるとは思わなかったからだ。  覇吐の技量に舌を巻いた、というのでは断じてない。自らの技量、今どれほど動けるかを再確認しつつ刃を振っている。  宗次郎の頬を矢が掠めていった。それは竜胆が放ったもの。  彼女の弓は相当な腕前だった。多少の者なら今の一射で終わっていただろう。  だが、病んでいても壬生宗次郎である。僅かばかりの殺気が乗れば、その軸をずらして躱す。それだけで飛び道具は決して当たらない。 「紫織さん、覇吐さんは?」 「あれ?」  次の瞬間、岩のような殺気が頭上から振ってきた。  先ほどの反撃など比にならない強烈な攻撃だった。宗次郎と紫織は左右に飛び、覇吐の一撃を辛うじて避ける。  まるで炮烙玉が炸裂したかのような派手な破壊痕は、剣で作ったものと思えない。  だが、注意すべきは覇吐だけではない。飛び退った先では、竜胆の矢が何本も射かけられる。まるで速射できるカラクリでもあるかのような、そんな早さで二人を襲うのだ。 「分散したのは、拙かったですかね」 「でもこれ定石じゃん」 「そうですね。竜胆さんの技量を少し甘く見てたツケでしょうか」  宗次郎は油断していたわけじゃない。ただ、さっきまで一緒にこの場所を探索していた仲間を斬るのに若干、本当に自分でも分からぬ小ささで戦略上の躊躇を感じていた。  しかし、それよりも美学の方が問題だ。余裕がない戦いは好みじゃない。  自己の技量に絶対の自信を持つ宗次郎。間違いなく、覇吐と竜胆をまとめて三枚にすることも可能と確信している。  それに何より、敵の策にまんまと嵌っているというのは、あり得ないと考えていた。 「やっぱり、敵の攻撃ですかね」 「まあ、操られてるなら仕方ないよね。後々厄介なことになりそうだけど」  敵の手の平で踊らされるのを、宗次郎は嫌がっていた。とことん気に入らない。  上から見ている――それが絶対に許せない。 「まあ──」 「斬り捨ててから、考えればいいことでしょう」  とにもかくにも、宗次郎の剣はこの二人が真実の彼らではないと告げていた。ならば丁度よいではないか。  なぜならいずれ、本物の覇吐と竜胆も斬ると決めているのだから。 「ははは……なんだ、こんなの、何の問題もなかったじゃないか」  結論、まったく躊躇する必要などない。  むしろ、このような似非に勝てなければどうにもならない。 「──同感」  宗次郎の構えに、紫織も同意した。  長らく一緒に戦っているせいか、互いに似た者同士だと分かってきた。宗次郎も紫織も上から見下されているというのが嫌いなのだ。  つまりこの状況を作り出している敵に一発くれてやりたいというのは互いに同じ。ならば後は簡単な話だろう。 「自分の尻は、自分で拭ってもらわないとね。本物だったら御免ってことで」 「使い勝手を試すのにも、丁度いいし」  宗次郎は随分と余裕を持って、敵となっている二人を見つめた。斬る時はばっさりいく。たとえ本物だったとしても。そのつもりだから覚悟しろ、と。  紫織が竜胆を無力化できれば、対覇吐は二人掛かり。多少乱暴なやり方をしても、覇吐ならば耐えてみせるはずだ。そういう計算も働いている。  殺意を込めて攻勢に移る宗次郎。相手の受けの技量が如何に高かろうと関係ない。これは射殺す剣だった。  外から聞こえる喧噪に、龍明は儀式場から顔を出す。先ほどまで熱気に満ちた空間にいたせいか、夕闇迫る風は冷たく心地良い。  辺り騒がしく、兵が行き来し、恐慌を来している雰囲気もあった。何か派手なことが起こっていると真に理解したのは、本陣から人がひっきりなしに出ているのを見たからだ。  そこには冷泉が立っていた。わざわざ本陣から出てこなくても構わない人間がいるということは、それだけただならぬことが起こったのだろう。  この男にしては珍しく、眉をひそめ、険しい顔をしている。  だが、龍明が出てきたと分かると、その表情は落ち着いたいつものものに変わっていた。 「龍明殿、あれをなんと見る」  冷泉が指し示す先には不二がある。  夕闇に溶け落ちるが如く、朱に染まっている霊峰。だがその朱は夕闇の赤ではなく、血のような紅だった。この紅は、山そのものが発光しているがゆえのものに違いない。  龍明は冷静に答える。 「不二が、紅に染まっている」 「見ての通りか。なるほど、我の目が壊れたわけでもないらしい」 「あまり良い兆候とは言えぬな」 「そのようだ」  ――拙い。  龍明は、その言葉を飲み込むのに僅かばかりの意識を必要とした。しかし、飲み込んでしまえば後はどうということも無い。  冷泉に勘ぐられたくないのは、龍明が竜胆の側に付いているからであった。現状、ただでさえこの男に頼っている面が大きいのだから、ここで弱みを見せてはいけない考える。  ――どうせ吊るし上げるなら事が総て終わってからにして貰おう。  龍明の偽らざる気持ちだった。  不二の発光現象。それは間違いなくこの地に居を構える天魔の仕業であると確信していたから。  もうすでに竜胆たちは、相手の領域に突入したということだろう。  そして、これは始まりだ。竜胆があの輝きを手に入れれば、さらに劇的なことが起こると龍明は予想していた。 「烏帽子殿を守護せねばなりませんゆえ、これにて」 「結構。せいぜい守ってやってくれ。そうしてくれねば、我も楽しみが減る」  冷泉の軽口に付き合っている暇はない。そろそろ本格的に行動しなくてはいけないと、龍明は思った。  あの四人を無事に戻すため。  儀式場に戻り、すぐに咒を紡ぎ始める。 「殺し合え。食らい合え。ここは修羅道。永遠に戦う世界」 「あの日、波旬によって黄昏諸共砕かれたもの……黄金の遺産」 「父の墓標へ共に沈め」  踊れ、踊れ、死を想い死を抱きしめて幾度も幾度も殺し合え。  嫌悪と憎悪。悪感情総てがない交ぜになったものが、常世の中で輪廻の如く掻き回される。  殺意も究極まで高まっている。だが、ただ殺してはならないと心の奥が叫んでいた。  そう簡単に終わらせてはいけないと感情が欲している。  彼は嫌うだろう力であるし、何より否定した理でもある。だがそれでも、あれらを破壊するには相応しい。  どこにもいないおまえ達は、終わらぬ無限の闘争さえ救済の光に他ならぬから。 「 」 「 」 「不滅の黄金はここにある。どこまでも、どこまでも、私はあなたの傍にい続ける」 「未来永劫、永遠に、あなたの息子でありたいから」  常世の中に存在する、遺産の防人であるもう一人の自分。今は彼女を構成する力としてしか残っていない形骸が、この時ばかりは言葉を紡ぐ。  その発露を前にして、常世は思った。  彼に嫌われても仕方ない、だがそれでも、これを使わずにはいられない衝動があるのだ。 「それに──」 「ここで死ねる方が、よほど幸せだと知ればいい」 「さぁ、死者の踊りに興じなさい」  常世は更に、玉座へ鎮座した物と同調を加速させる。  黄金の墓守として、自分だけに許された力を存分に発揮させる。波旬の走狗らを滅するために。  刹那──それに呼応するかの如く、竜胆は何かを感じた。  理解するにはまだ至っていない。だがそれは、その形はまさしく。 「──おい、竜胆!」  幻視に集中していた竜胆に覇吐が声をかける。どうやら、意識がここになかったようだ。自分の目の前に紫織がいた。  竜胆は地面を転げるようにして、覇吐の元に辿り着く。さすがの紫織もここまで身体を崩して避けられるとは思っていなかったらしく、攻撃は完全にすかすことができた。  みしり、と紫織の拳は壁を砕いていた。 「どうした、竜胆!」 「何か……分かった。いや、掴みつつある!」 「はぁ?」 「もう少し、あと少し精神を集中すれば分かる……それは確かだ」 「この波動が流れる源を、私は確かに感じている!」  真剣な表情に覇吐は頷く。  竜胆の信じてる物を自分も信じているという意志の表れ。それを証明するかのように、得物を構え直し彼女の盾となる体勢にて不敵に笑った。 「何だかよく分かんねえが……」 「よっしゃあ、任せろ!」  覇吐はそう叫ぶや、宗次郎と紫織をまとめて相手にし始める。  竜胆はできるだけ覇吐の邪魔にならないよう、二人が狙いにくい位置に陣取る。そして直立不動のまま、精神を集中させていく。  掴みかけた物を、いま再び自分の前にたぐり寄せるために。それを今度こそ掴み取り、確かな型へと嵌めるために。それが今、竜胆にできる最善の策。  意識を落とし、同調の感覚が深まる。耳に聞こえる音からさえ、意識が隔絶されていく。  二対一。紫織と宗次郎二人を相手している覇吐。だが外の音に耳を傾けてはいけない。竜胆が考えるべきは、この城の住人のこと。そして、さっき見た幻視のこと。  剣圧の風が竜胆の頬を撫でる。  覇吐の剣圧が二人をなぎ倒す。  だが、それで相手が倒れるわけではない。御前試合、それから淡海、不和之関。ここまで生き残ってきた強者二人を簡単にねじ伏せることはできない。  覇吐は焦っているのだろう。それが目を使わなくとも、いや目を使っていないからこそはっきり伝わる。  だが、まだ時間は足りない。もう少し必要だ……竜胆は祈りながら、意識を研ぎ澄ませていく。  次の瞬間激しい鍔迫り合いの音。宗次郎が素早く切り込んできたのだろう。  軽い足音。大きな歩幅。紫織が打ち込んでくる。  音だけだというのに何もかも分かるほど、意識は研ぎ澄まされている。だが、これは目の前の光景だ。そうではない。もっと奥。ずっとずっと奥。見えないはずの物。  それに意識を浸透させる。 「何かが、在る」  見えた。道筋は示された。ゆえに確信している。己に共鳴していたものの正体を。  手を伸ばせ、形を見出せ。その真実を解き明かすのだ。  戦いの情景も入り込む。だが、もはや幻視に影響は無い。  覇吐の闘気が上がる。それに合わせて、二人の闘気も上がってくる。凄まじい熱気が竜胆の肌に突き刺さる。  その途端、竜胆の周り、いや覇吐と竜胆の周りにあるものがぐにゃりと歪む。これは……現実であって現実では無い。  この歪んだ先にこそ、竜胆が欲しているものがある。  そして――竜胆は見た。目的の物を。 「黄金の獣。至高天。修羅の理。墓場の王」 「──私は総てを愛している」 「そうか、これが──」  龍明が言っていた、この不二に在る力。  忘我の境地にて掴み取った光輝放つ覇王の〈咒〉《ことわり》。  それはこの世ならざるものの言霊で、不二の真実を射抜く呼び声であったから── 「形、成せ──」   ――  刹那、黄金の極光が閉じた瞼ごと世界を焼いた。  竜胆は本質を迎え入れた。ある程度の理解はすでにあったが、未熟なままそれを欲すれば確実に牙を剥かれる。偽りの現実が彼女を八つ裂きにしていただろう。  それがここでの理。  しかし今、竜胆はその端へ確かに手をかけた。後はそのまま這い上がり、自分の中に取り込むだけだ。 「……これが、他を狂奔させるもの。将が持つべき覇道の資質」  それはあくまでも片鱗。まだ本当ではない。僅かな欠片でさえ、竜胆は打ちのめされそうになった。  苛烈で、凄烈で、見るもの総てを圧倒し魂すら飲み込まんとする輝きは── 「なんと、雄々しいのだ……」  竜胆は現実へと戻ってきた。今、確かに本質を、その片鱗を手にしたのだ。もう中枢までの道筋は繋がっている。  敵の術は破れたのだ。竜胆と覇吐を襲っていた宗次郎と紫織は形を成せなくなり、ゆっくり溶けて消えていった。  そして、通路も広い物に変わっていく。この城の規模にしては少し狭いと思っていたが、罠のために作り替えられていたのだと得心できた。  次の瞬間、挟み込むように放たれた剣戟と拳閃を紙一重で躱す。 「うおッ! ちょと待て、おまえらッ」 「ふむ。なるほど……」  切り込み、不意打つ。そしてどうにか避けた結果を見て、宗次郎は頷いた。 「で、お二方は本物、ということでいいのでしょうか?」 「まあ、さっきの反応見る限りそれっぽいけど。どうする、もう一回やっとく?」  多少の傷はあれども、身体に消耗は見られない。  本人の目の前で相談している辺り、本気ではないのだろう。共に目の前の相手を本物であると認識していた。 「あー、もういい。分かった。おまえらが俺の偽者にどういう仕打ちしたか。てか、もう一回ってどういうことだよ」 「どうも何も言葉通りですよ。殺しても殺しても蘇る」 「おかげで結構楽しかったんですが、やっぱりあれでは似非ですね。容易いだけに手応えがない」 「だが、どうやら幻覚は解けたようだな」  竜胆は自分の声に含まれる安堵の大きさに驚いた。よほど緊張していたのだろう。東征始まって以来のものだった。  一緒に戦っている仲間を信じるのは容易いが、自分を信じ切るのは本当に難しい。  覇吐を見れば、できるだけ竜胆の命を忠実に守ろうとしていたらしく、あちこち斬られている。傷こそ無いが召し物は相当な痛みっぷりだった。  覇吐は気にしていないし、竜胆が無事なのを見て、嬉しそうに笑っていた。それが彼女にとっては随分と気持ちを楽にしてくれるの要素だったが── 「ありえない」 「なぜ──そこに〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈の〉《 、》〈資〉《 、》〈質〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》?」  次の瞬間、地の底、天の頂、あらゆる所から女性の怨嗟が響き渡った。この世の悪感情、総てが噴出したような慟哭。憤激――  その声は、明らかに竜胆へ向けられたものだった。それが何に対するものかは察しがつく。  覇道の手がかり……さっき手にした何某かに、天魔は怒りと驚愕を露にしている。 「この世界に、存在するはずのないものが……生まれるはずのない願いが」 「なぜ──なぜ、なぜ、■■■■■■を感じられるの!」 「自滅因子は、生まれたりなんかしないのに!」  石畳の隙間から。壁の漆喰から。岩の陰から。  ずるずると、ずるずると、武器を携えた人影が現れる。気付けば包囲されている状態だった。  それを前にして、竜胆は反射的に覇吐ら三人へ叫ぶ。 「──走れ、この先だ!」 「この先に待つ黄金の光こそ、不二そのものを覆う歪み」 「君臨する総ての陰気……その根源だ!」  俺たちは竜胆の言うとおりに進んでいく。先々に現れる影をブチ斃しながらの行進だ。  紫織の一撃で固まっていた影たちが粉砕された。俺も宗次郎も競うように、文字通り敵を霧散させながら駆け抜けていく。  そうして、到達したのはだだっ広い空間だった。  入ってきた場所からぐるりと十尺ほどの高い壁に囲まれた、おおよそ半径で二十間ほどの丸い敷地のような場所だった。  地面はこれまで同様石畳だが、そこにこびりついていると思しき匂いが、何だか―― 「見えた──!」 「ここか、竜胆!」  俺たちは周囲を見回す。  高い壁の向こうには、石であつらえた座がずらりと並んでいる。 「ここは……」 「死が、満ちている」 「同感。ここが一番、屍だらけだ」  感じるのだ、ここに何かが存在していると。  この場所に入った瞬間、俺たち全員が感じ取った激烈なまでの死の気配。今まで欠片も分からなかったのが不思議でならないほどの、鉄と屍の存在感が渦巻いている。  静かだった。それこそ、おぞましいほどに。一切、動的な気はここにない。  静謐な、ともすれば柩にすら感じられるほどの安息……  動き出す死骸だなんて、本来ありえないものを連想させる空気。不滅の闘争がここにある。  俺たちが構え、あるいは怖れながら、見えない驚異に身構えたまさに瞬間―― 「」 「  」 「」 「  」  絶大な破滅を纏わせて、鋼鉄の塊が墜ちてきた。  死んだ――と、その一瞬見えた姿に連想させる死の密度。姿を現しただけで感じる闘争の圧力が、俺たちの魂に叩きつけられる。 「う──っ、……」 「ちょっと、冗談きついんだけど……っ」 「洒落になってねえぞ」  こんな、ここまで精神を打ちのめす恐怖は初めてだった。存在を消滅させられる理。絶対に逃れられないという戦鬼の威圧。  不和之関で相対した二柱の天魔、悪路や母禮よりも俺はこいつが恐ろしい。純粋すぎる歪みの濃度。何かが違う。決定的に違っている。  あの暗い、冥い、死人の血で染め上げたかのような漆黒の存在が。  神威漲らせ、終焉の〈鉄槌〉《こぶし》を振りかざしていた。 「鉄の──虎」  それは、鋼鉄で武装した影の如く揺らめく化外。暗黒宇宙を凝縮したかのような者。  俺より頭三つは巨大な、まさに一目で人と隔絶した超特級の怪物であると伝えてくる姿。獣の兜から漏れる呪いにも似た軋みの音色が、耳にしているだけで死へ誘っているかのようだ。  天魔。紛れもなく、そう呼ぶに相応しいもの。しかしこれは天に住まいし者ではなく、むしろその逆。墓穴や底の見えない断崖へこそ住まう、闇の住人に他ならず── 「……こいつは、ッ」 「てぃーがー? 鋼鉄の、棺桶──」 「影──ですが、それでもこれは」  強すぎる。凄まじすぎる。千分の一、万分の一、あるいは億分の一まで薄められた残滓のようなものだとしても、こいつはそれだけで俺たちを無限に殺戮できるだけの力を有していた。  これの本性は、先の二柱を遥か上回るに違いない。如何に影だけであろうとも、格の違いが明瞭だ。  そして理解させられる──ああ、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈揺〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  圧倒的なまでの自負と信念。絶対に何があろうとも揺るがない、個の異界として完成した姿。闘争に身を置く存在として、こいつはまさに理想形そのものだ。  文献には残っていない。該当する存在がない。なぜならこれは、自ら動かない天魔だから。  しかしそれでも、感じるものは最悪の部類。少なくとも俺たちが出会った中では最上位に位置する怪物だった。 「参ったなこりゃ……順序とちりすぎだろ」 「段階的に弱、中、強と出て来てくれりゃあ楽なんだが」  軽口がつい出ちまうが、口元がひきつっているのがよく分かる。ちゃらけてないと気勢がへし折られてしまいそうだ。  否応なく、今から俺たちはあの拳で粉砕されると理解したから── 「竜胆」  だが、ならばこそ── 「ここは、俺らが死んでも食い止める。だからおまえは先に行け」 「その先にあるもの……あてにしてもいいんだろ?」 「さてな、どうにも自信がなくなった。私が感じた輝きも、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈拳〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈砕〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈気〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「ッ、まただ──幕引き? 天秤?」  幕引き? ああ、確かにそりゃあまさしくぴったりの表現だよ。あれは紛れもなくそういうものだ。  そして、同時にいけるとも思った。ここにある何かは、竜胆の調子から間違いなく深い繋がりを持っているから。 「どちらにしても、使い物にならないのならどうぞお先に」 「喰えるなら喰います。ああ、それはいいですよね?」 「そりゃ私らだって一緒だよ。殺れる時に殺る。それだけ」  ゆえに、策は定まった。俺たちがなんとか撹乱し、竜胆を最奥まで届けてみせること。それが勝利の条件だ。 「行きますよ!」  宗次郎の剣が奔った。速い――今までの中でも最速の攻撃。一撃のように見える中で、繰り返される刃の数は、十、二十、それ以上。  その攻撃で如何に丈夫な鎧であっても、寸刻みにされるのは目に見えている。だが―― 「むっ!」  効かない、効くわけがないのだ。そのようなもの。  刃が正面衝突しようとも鎧には掠り傷さえ刻めない。吹けば飛ぶような影でありながら、それでもなお宗次郎の剣戟を遥か上回る強度を有している。  そして、この朧な影が緩慢な動作で──  見せ付けるかのように、しかし生存本能が悲鳴をあげるほどの存在感を持って、腕を振りかぶり── 「はぁぁぁあああッ──!」  その解放を食い止めるべく、紫織が突貫して俺も続いた。しかしそれを、一瞬で奴は上回り。  ──鉄塊が頭上から墜落した。 「なっ――」  ……正直に言おう。避けれたのは、ただの運と勘だった。  眼前を垂直に通過した鋼鉄の重量が、地へ突き刺さり岩盤を粉砕し、空間すらも軋ませて城そのものに傷を刻む。  見れば腕を振っただけの衝撃波、爆砕した大気のみで向こう側の壁が崩れ去っていた。冗談じゃねえどうなってやがる。単純だが、これは何より最悪な── 「っぅ……あ、ぐ――」  唸る鋼鉄、凄まじい剛拳。直撃すら避けたものの――傍を回避するだけで紫織の胴が極大の衝撃に消滅した。  可能性から紡ぎ出した像によって生存するが、それでさえ肉体に負荷をかけている。  ──そのまま、怯む俺たちの前で鋼鉄の舞踏が顕現した。  振るわれる破壊の鉄拳には、化外の持つ歪みがない。ただ強い。圧倒的に強い。ひたすらにこいつは強く強く強く、まるで闘争そのものであるかの如く神威を放つ。  確信に近い直感だが、それは恐らく全力から程遠い姿だった。こいつが本来形にする力、その最重要たる核の部分がすっぽりそのまま抜け落ちている。  霧のように朧な存在。何を因果にそんな姿を晒してるかは知らないが、こいつは今やこの力しかない。とてもじゃないが、全盛には程遠い姿なのだろう。  そうでなければ、ほんの僅か〈接〉《 、》〈触〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈至〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》。  強すぎて、薄まっているのにそれが分かっちまうとはなんて皮肉だ。人体を紙細工のように消し飛ばす、その程度の破壊力しか残っていない。  そしてそれは、そんな見るも無残な影だけで、俺たちを纏めて鏖殺するには充分なほど── 「――堅牢なッ」  宗次郎の剣に始まり、攻撃は一切通らない。そう、これほどの強度を見せ付けてさえ。 「幻みたいなもんで、これかよ……」  俺は飛び上がり頭上から叩き付ける。防御など不要ってことか、まるで効いちゃいねえのかよくそったれ──!  虎面が旋回し、紅に光る眼孔が俺を射抜く。そして── 「なっ!」  掴まれ、蚊を払うように投げ飛ばされた。  視界が幾度となく回転し、驚異的な速度で、成す術もなく俺は宙を飛ぶ鞠となった。 「ぐあぁっ!」  全身の骨に満遍なく皹が走った。ああそれさえ、こいつにとっては落胆するほど劣化したものなんだろう。 「さすが、天魔。化け物だぜ」  皮肉にも、内臓が潰れかけたこの衝撃と引き換えに距離は取れた。  速度差がさほどなかったことが唯一の救いか。これで速さまで俺らをぶっちぎられていたら、打つ手も糞もあったもんじゃねえ。  それでいて── 「なんなの、こいつ」  油断、慢心、欠片もねえ。  百戦錬磨。何よりも拳の一つ一つ。残心のキレまで総てが見惚れそうなほど完璧だ。  戦い、戦い、戦い戦い、戦って戦って戦って戦って戦い抜いた存在の終着点。夢見て果てる武の極致か。  陽炎の如く可能性を紡いだ紫織さえ、鋼鉄の拳が最大効率で粉砕していく。  逃れ得る可能性? そんなもの、こいつを前には存在しない。悪路や母禮のような広域殲滅の業など持たないくせに、この影はたった二本の腕でそれをいとも容易く成し遂げる。  何をどう足掻こうと破壊されるという現象を、天体にすら対抗しうる戦闘経験によって可能としていた。 「っ……あ、覇吐、生きてる?」 「乳揉ませてくれりゃ生き返るわ」  痛手を受け、吹き飛ばされた紫織を共に壁へめり込みながら受け止めた。  逆にすんなり衝撃を受けた方が、耐えるより幾らかマシだ。せいぜい骨が七本、軽く挽肉になる〈程〉《 、》〈度〉《 、》に抑えられる。  限界寸前で即死だけは避けられるから。 「何あれ。冗談みたいな奴。全然効いてないんだよ」 「ていうかむしろ……」 「──たぶん、触れたら死にますね」 「腕を失くしておいてよかったかもしれませんよ、紫織さん。あれは恐らく、いえ確実に、こちらが触れてはならないものだ」  そうだ、そういう悪寒がする。  あいつもまた、悪路や母禮と同じで本来接触した側が死に至る存在なんだろう。そういう感じがする、この目で大本を見ていないのに強く感じるんだよ。  奴にだけは、何があろうとも触れてはならない──そう感じる。だからこの圧倒的に蹴散らされている今さえ、千載一遇の幸運に他ならなかった。 「僕は、あれが羨ましい」 「なんて、〈堅〉《つよ》さ」  なんとなくだが、そう呟いた宗次郎の感情は俺にも分かる。この影は自負と自尊の塊だ。これだけ希釈されながらも、俺たちを遥か上回る驚異の密度。  己はこうだ、という確信が圧倒的に強すぎる。  そういう面では宗次郎も似たり寄ったりだが、如何せんあちらが今は比較にならない程純度が高い。  言ってしまえば一種の上位互換だ。己に求める道の強固さ。単純な秤に乗せられた場合、俺たちは全員足してもこの影一体にすら届かない。  ゆえに──この、絶対的な力関係が具現する。  攻撃は一切奴の外殻を破壊できず──  卓絶した技量で的確に捉えられ──  何があろうと揺るがない、破壊の拳が身体を砕く。  優と劣。決定的に定義された明暗は、たとえ天地がひっくり返っても覆らない。 「……本当、まったく揺らがない」 「へ、喰らわなきゃどうってことは……ねえ、な」  直撃を避けている……それだけで精一杯ながら、俺は自分を奮い立たせるために軽口を叩いた。  動きが鈍る俺たちを情け容赦なく、鉄虎の影が追撃する。砕け散り砂となるまで崩壊していく岩の破片、それを突き破るように剛拳が唸る。  このまままともに食らえば胴は消し飛び、頭は破裂し、手足は形を残さず微塵となって消えるだろう。  だが、喰らわなければいい。俺も紫織も、この乱打によってこいつに僅かばかりでもいいから揺らぎを与えたいと思った。  それが今ある勝機だからだ。そうして得た瞬間に、宗次郎の殺人剣を喰らわせる。その一撃必殺の機会を待つ。  宗次郎の声が響く。気の練り上げが終わったのだ。  俺と紫織はこの化け物の足を止めるため、一気に足の甲を狙った。  せめて── 「──これで足止めぐらいには!」  足の甲は鍛えようの無い場所の一つだ。ここを刺突で貫かれれば、もう動くこともできない。俺と紫織の一撃は化け物の足の甲を刺し貫くように入った。  初めてこいつが揺らいだ瞬間かも知れない。  宗次郎の刀が一閃した。間違いなく動けない影の首を落としに入った必殺の一撃だ。この一撃、避けようのない状況では、ほぼ決まったも同然と言えるだろう。  しかし、宗次郎の表情が曇った。見れば剣は、怪物に届く寸前で止まっている。  躱されたのでは断じてない。俺と紫織の攻撃も含め、この影が発散する圧力の凄まじさに知らず狙いをずらされたのだ。 「――くっ!」  瞬時に俺たちは飛び退る。  次の瞬間、地面が派手に爆発した。奴の両腕が宗次郎のいた辺りを殴りつけ、その大威力に地面が完全に崩壊している。  まさに怪物と言うに相応しい威力を持った拳だった。今のを喰らったらまさに痕跡残さず消滅させられていただろう。  影の野郎は、微動だにせず突っ立っている。ここまで無反応だとこっちの策も無くなっちまうっての。 「ああ……あまり努力とか頑張るってのは好きじゃねえし、得意じゃねえが、なんとかやり遂げるしかねえよな」 「主役がここで死んだら、興ざめだろ」 「そして、敗北から立ち直るってのも……主役の十八番ってもんだしな」  だからこそこの瞬間、この刹那に俺は掴み取らなくてはならない。  死んでたまるか。死んでたまるか。死んでたまるか。 〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  あの時、かつて死んだときに感じた何か──  俺の身体を、魂を、確かに突き抜けた天魔すら及ばないであろう強烈な波動。おおよそ知る限り並ぶものはない、究極とも言えるものへ手を伸ばせ。  俺が俺である為に、坂上覇吐という確固たる人間であるために。  紡ぎ出せ、編み出すんだよここから先を。敗北して、気合入れなおして、また負けて? 許せるかよそんな自分を。  竜胆が見ている前で、俺は負けない。そう誓ったんだよ。だから、なあ── 「それはそちらの道理でしょう」  おまえらも── 「私の人生は、私が主役。勝手にいいとこ取りはなしってことで」  俺と一緒に、一発見せてみようじゃねえか。  この舐めまくったすかすかの幻によ。俺らの魂、今こそまとめてぶち込んでみようじゃねえか!  互いに高まっていき、呼応していくのが分かる。何かは分からないが、繋がっていることを心の奥で感じ取る。それが少しずつ、そして確かに、俺、宗次郎、紫織の武威を押し上げていくのが理解できた。  その光景を前にして、この影は何を感じたのか。  全身の甲冑が軋むように音を立てて…… 「 」 「 」  奴は初めて、俺たちへと語りかけてきた。  ……何を言ってるんだこいつは? 視線は俺たちから離れ、そのまま竜胆を眺めている。 「 」 「 」 「 」 「 」  深く問いかけるような、識者が些細な疑念を尋ねているような気配。  言葉はまったく聞き取れないが、微かに理解できているのはその一点。こいつはなぜか竜胆に興味を示し、そして同時に訝しんでいること。  無感動な精神。そこに生じた波紋が果たして何を指すのかは分からない。 「  」 「  」  次の瞬間、鉄の虎は初めて大きくその場から動き出した。俺たちの攻撃をほぼ不動で受け止め続けたあいつが、神威漲らせて向かう先は―― 「――竜胆!」  さっき竜胆は龍明との連携が取れていないと言っていた。つまり今、式神の身体から感覚を切り離す術はない。  このまま攻撃を喰らえば、すなわち竜胆自身の死を意味するから。 「させるかァァァァァアアアアッ──!」  俺は頭で考えるよりも早く飛び出して―― 「――っ、覇吐っ!」  俺の目の前には、無事な竜胆の姿があって…… 「よう、大丈夫か……竜胆」  俺の胸には、貫通した鋼鉄の拳が突き刺さっていた。 「は、覇吐……」 「大丈夫だって、このぐらい……俺は平気だ」 「何を、言ってる!」  平気なんだよ、痛いし妙に体が欠けちまったが……それでも俺は満足してる。  竜胆を守れたんだからな。 「なぜだ……どうして、私を助けたッ」 「そりゃ、まあ……」  おいおい、ここでそれを言うのかよ。死にかけているのに、気恥ずかしいって気持ちは充分あるのに。 「言ったろう。俺は、おまえのために死ぬって」  だから、後悔なんて微塵もねえ。いや、本音を言えばちょっとはもったいねえとかやっちまったなとかも思うけどよ。  なんだろうな、これでいいって思えるのはきっとおまえの影響なんだろう。 「ああ……そうか。こいつが人のためにっていうやつなら」 「案外、悪く、ないな――」  そう呟き、ゆっくりと闇の中に意識が落ちていく、刹那。  〈終焉〉《せつな》の間際に── 「まだだ!」 「私はおまえに、死ねなど命じた覚えはない!」  俺の見えないはずの目が、竜胆の中で何かが起こっているのを捉えていた。  暖かい、何もかもを照らすような優しくも凛烈な光。  俺がずっと、一目見たときから憧れ続けた輝きが、倒れるはずだった身体に力を宿す。  何だこりゃあ、分からねえ。だがよう、これは絶対悪いもんじゃないに決まってる! 「宗次郎ッ! 紫織ッ!」  そして、この感覚があいつらにも何かをもたらしたのか。文字通り阿吽の呼吸で呼びかけに応じ、撃が走る。  乾坤一擲、紛れもなく今まで見てきた中で最高の一撃が、初めて奴に効果を与えた。 「──通じた!」 「届く!」  だから、この間隙に──  俺もまた──魂懸けて、更なる〈階層〉《ソラ》へと駆け上る!  俺の中に高まった魂の燐光。それが紡ぎあげ、形を成していく第四の型。  叩き込まれた歪みごと、巨大な〈大砲〉《おおづつ》を瞬時に組み上げることが出来ていた。 「──これで、終いだ!」  高まりきった俺の気合いが砲弾となり、影の存在ごとその身体へ直撃する。  逃げ場などない、至近距離からの接触砲撃。俺自身さえ後方へぶっ飛ばした衝撃と共に、強烈な閃光が奴の体躯を飲み込んだ。  激しい砲撃が、舞台の土を巻き上げる。  土埃が煙幕のように広がり、死者を土葬するかのように降り注いでいた。 「あー……疲れた」  身体がバラバラになりそうだったが、どうにか竜胆の前に降り立つ。  いやもう、よく生きてるな俺。まあ、さらさら死ぬつもりもなかったが、あれやばすぎだろ。 「大丈夫か、覇吐……」  心配そうな竜胆の顔を見ながら俺は笑いかける。大丈夫さ。死んでねえよ。この通りだ。  もっとも、自分でもいまいち信じられない。俺の中にあるものが土壇場で俺を生かし、あの力に結びついたこと。実際に起こしていながら、どうにも現実感がなかった。 「まあ理由だの根拠だの、そういうのは今いいでしょ。生きているなら値千金」 「これで、先に進めるということでさ」 「勝ったんですから、早く先へ行ってください竜胆さん」 「正直、僕らは限界です。盾になるぐらいしか使えませんが、それでもいいならついて行きますけど」 「ま、そういうわけで」  もう立たねえぞとの意志表示をこめて、腰を下ろした。 「行ってこいよ。俺らはここで、あんたの帰りを待ってるさ」 「吉報を待ち望んでるぜ」  竜胆を見送る。なあに、少し休めば元通りさ。元々身体は丈夫だからよ。 「そうか……分かった。すぐに戻る」  俺たちを真剣な眼差しで見つめてから、嬉しそうに微笑んだ。踵を返して歩を進めようとしたが、その寸前で足を止めると振り返り―― 「覇吐、宗次郎、紫織」 「ありがとう。私は、おまえ達のことが誇らしい」  そうして竜胆は駆け出していった。更なる奥へと、この不二にある何かを求め入っていく。 「さあて、と」  そして──休憩は終わりだ。  俺は重い腰を上げて立ち上がり、宗次郎や紫織もまた静かに一角を眺めている。  さっきぶっ放した大砲の一撃。広がった土煙の中、確かに感じる存在感へ向けて。  緩慢な動作で、影が再び俺たちの前に姿を現した。 「……やっぱ、今のじゃ死ぬはずねえよな」  予測はついていたが、こいつ本気で化け物だわ。  しかも、確実に初めて通じた攻撃を前にして、何か恨み言とか、敵の親玉の口上じみたものが出てくる雰囲気もない。ただただ鉄塊のように黙ったままだ。  それがまた、俺たちの焦燥感をひどく煽る。敵意があれば抗えるし、罵倒があればこっちも同じく吼えればいい。  だが、一つの装置、無機質な歯車じみたこいつの存在はまるで車輪だ。黙々と定めた目的に向かって猛進する様は、立っているだけでこちらの精神に圧をかける。 「無口っていうより、むっつりだよね。性格悪いとか、根暗だって仲間に言われてないのかな? こいつ」 「冗談を言う暇があれば、構えてください」  紫織は力なく構えを取る。叱咤した宗次郎も疲労していていつもの剣の高さが無い。俺は俺で膝が震えるし、身体の方は紛れもなく先ほどの一撃で限界だった。  しかし、竜胆が戻ってくるまでの間、俺たちが戦うしかない。  ならしゃあねえわな。腹を括ってやり通そう。でなきゃあいったい何のために、今まで粘ってきたんだって話だしよ── 「――いや、ここまでだ」 「────」  だが瞬間、飛び出しかけた俺たちを静かな声がその場に留めた。  現れたのは俺らの知ってる姿と影。それが悠々と、目の前まで歩いて来る。 「龍明、おまえ!」 「連携が取れなかったんじゃ――」 「こういうこともあるだろうとな、あらかじめ烏帽子殿の式に細工をしていた」  言って、龍明は自分を指し示した。注視してみれば何となく分かる違和感がある。  それはこの先に行った竜胆、正確には竜胆の精神を乗せた式神から感じるものと似通っていた。ならばつまり、そういうことか。 「この自分も式だが、まあ、後は任せておけ。よくやったよ、おまえたちは」 「極限まで薄れているとはいえ、これを相手によく持ちこたえた」 「」 「」  俺たちの前で黒い鉄虎が口を開いた。  その雰囲気は旧知というか、どこか懐かしい友人に向けるような意志を匂わせていて…… 「 」 「 」  龍明もまた、それに対して朗々と応えた。俺たちには分からない言葉で、恐らくはあの影とまったく変わらない挨拶と共に。  覇吐たちは上手くやっただろうか。いや、上手くやったと思わなくては、自分が自分でいられる自信がない。  竜胆は竜胆の想いだけで、ここまでやってきてしまった。  第二次東征軍・二十万。その総ての命を代価にしても、神州三千万の民草をこの異常な怪異から救わねばならない。  この穢土から流れ出る歪みは、歪みの民を生んでいる。それは間違いない。そして、健常者が何時しか歪みになってしまうのも間違いない。  まだ自分の中の狂気が理性として、理屈として機能している内に、この状況を正し、民を救わねばならない。そうした世界が当たり前であるためにも――それが竜胆の偽らざる想いなのだ。  回廊の終着は別の部屋への入り口。その部屋に視線を向けると、眩い光が竜胆の目を刺した。 「……ここか」  辿り着いた先、それは―― 「玉座……」  皇主がいるという宮内の内裏。それとは明らかに違う形、違う雰囲気にもかかわらず、竜胆はここが玉座であると口走った。  明らかに異質、嫌悪しか見いだせないはずの場所に対し、なぜか厳かなる意味合いの言葉が自然と口を突いて出る。  つまり、この内裏には凄まじい畏敬が存在しているということ。竜胆の価値観さえも侵食する、凄烈な輝きを放つ波動が。  すなわち── 「それが……この槍なのか?」  槍、と呼ぶしかない物だった。  それが地面に突き刺さっている。まるで王が握り締め、そのまま地面に突き立てたように存在していた。  荘厳。絢爛。そして、畏敬。それがその槍から伝わる空気。  己の意志に直接訴えてくる覇王の残滓。今を生きているものさえ頭を垂れさせるほどの、強い強い意志の力を感じるのだ。 「だが……違う。これに感銘したわけではない」  共鳴はした。凄まじいとも思う。だがしかし、これの内包する理がなんであるのか自分は誰より深い域で感じていた。  敬意は覚えても恭順してはならないだろう。なぜならこれこそ、かつて龍明より聞かされた覚えのある概念。 「私は屈しない。死者の踊りに恭順するわけにはいかないのだ」 「ああ確かに、その想いは死から開放されたものだろう。喪失の影に怯えることなく、無限に生死を繰り返すなら、それもまた一つの理想かもしれない」 「だが、私が欲しいものは安寧だから」 「たとえそれが御身の遺志から生じていようと、私はそれに賛同することはできない」  静かだったが、強くはっきりとした口調で竜胆は言い放つ。微かにだが、この金色の槍がもたらす波動が弱まった。 「血ではない。幸福をこそ、与えたい」  竜胆は思う。  覇吐も宗次郎も紫織も置いてきた。もし、あの化け物が再び出てきたら、あるいは他の天魔が出てきたら。  口では死ぬなと言った。しかし他の者を、力なき無辜の民を救うためなら、たとえ自分の大切な部下であっても捨てねばならない。  王者とは、将とはそういうものだと弁えている。  それがたまらないほど痛く──しかし同時に、彼らが胸を張って任せろと言ってくれたことが何より誇らしかったのだ。  ゆえに、この渇望を認めてはならない。たとえこれが大切に、誰かの思い出と共にここへ残されたものであったとしても、今を生きる人間としてこれを手にしなければならないのだ。  その行いにより、この黄金が本当に消失してしまったとしても── 「その際は私を本当に恨め。恨まれるのも私の仕事だ」  そう呟いて、槍に手を伸ばす。覇と覇は共存できないと、それは無意識に悟ったから出た言葉なのかもしれなかった。  そして、指先が触れるか触れないかという寸前── 「触らないで」 「あなたもまた、黄金の恩恵を欲しがるの」  竜胆は、背後に別の存在を感じた。  極限まで凝固した歪みの気配、いや源泉たる存在を感じて身体が凍て付くように止まる。 「…………」  それが何者なのか、なぜ自分の背後に現れたのか、ああきっとその理由は語るまでもないだろう。  静かな言葉は、深い怒りの裏返し。激情が毒蛇の如くうねりながら、この声の主を蝕んでいるのだと理解できる。  何より、己と隔絶したこの存在感。  振り向けばそれだけで触れ合えるほどの距離に、己を一息で滅殺しうるものがいる事実。冷や汗が伝うのを止められない。毛穴の総てに氷柱を突き立てられたかのようだ。 「声が出ない? そうだろうね。けれど、訊ねているのは私の方」 「それを手にして、波旬の法から逃れたい? 覇道の残滓を補修すれば、もう一度それを流れ出せる?」 「無理だよ。どこの誰かにそう吹き込まれたかは、なんとなく分かったけれど。それはもう、ただの墓標。破壊の愛を謳った人の欠片に過ぎない」 「断崖の果てに残っているのは、私たち」 「それを新たな〈理〉《ことわり》とするだけの力は、もう砕かれたから」 「水銀と、黄昏もろともに」  陰々と告げられた言葉、そこに篭められた悲哀は分かった。背後に存在する少女らしきもの、まつろわぬ化外の民もまた嘆きや痛みを覚えるのだと伝わってくる。  だが、それだけに内容自体の意味が分からない。突き詰めれば、なぜ自分と言葉を交わすのかという大前提から竜胆は状況に翻弄されていた。 「……何を指しているのか、理解が及ばんな」 「よければだが、無知な私に何か説いてみせてはくれぬだろうか」 「そう、何も聞いてないんだね」  〈誰〉《 、》〈に〉《 、》? 問いかける間もなく、次の言葉が投げかけられる。 「なら、気づいてないんだ。自分がいったいどういうものか。備えるはずのない資質を携えてるか」 「あなた、何者?」  それは深い因果を見晴らそうとする、純粋な疑念だった。  警戒している。明らかに。自らを一瞬で滅ぼせる存在が、久雅竜胆という一個人に得体の知れぬ感情を抱いていた。 「なら、言い方を変えてあげる」 「あなた達は何を求めて、何をしにこの地へ来たの?」 「自分が何をしようとしてるか、その果てに何が至り、どう完成するというのか」 「本当にそれを理解している?」  その問いに、かつてなく戸惑う。つまり背後にいるであろう天魔は、自分と理性的な判断に基づいた意志疎通をしようとしているのだ。  竜胆のしようとしていることを遊びや戯れ、ただの侵略と思っているのだろうか。それとも単に滅ぼす前に弄んでいるだけか。真実は分からないが、これは明らかな事態の変化だった。  精神の支柱が違い、考え方の来歴が違い、ゆえに価値観が違っている。だから分からないことが多く、互いを化生と蔑んでいた。  ゆえにここで言葉を交わし、理解し合うことができれば……争いを避けるとまでは言わないが、何か別の着地点が見えてくるのかもしれない。 「私は──」  仮にこれが宣戦布告に繋がったとしても、自分たちが相対していたものの真実は多少なり掴むことが出来るだろう。  そう思ったから。 「私がこの地に来たのは、皆の幸せを願っているからだ」 「この地から流れ出ている歪みを止めるため、国を救うためにこの穢土へ踏み入った」 「民草が心穏やかに暮らせる世を、願ったために……」 「侵略の正当化を図って、私たちを破壊するんでしょう?」 「ねえ、それほどまでに、あの黄昏は罪深かった?」  やはり分からない、というよりもこれは通じているのだろうか?  何か、決定的な点で互いの支点がずれている。こちらが地の話をしているのに、あちらは天から俯瞰しながら言葉を投げかけているかのようだ。  そして、何より聞こえた言葉。隠せない万感の想いが籠もっていた単語は── 「……黄昏?」 「私たちの生きていた世界」 「人を愛し、慈しみ、信じることが尊いと……誰もが思っていた世界。今も変わらず、これからも変わらず、胸を張って誇れる女神の祈り」 「抱きしめたいと願ってくれたことを、忘れたりはしない」 「──、────」  何だ、それは? 何を言っているのか、総てが分かる。分かってしまうのだ、痛いほどに。  言葉は少なく、意味は茫洋として十全には伝わっていない。だがしかし、その訴えは何だ。なぜ、どうして、今ここで。  自分にとって非常に共感できてしまう思想を、当たり前のように口にするのだろう。  ああそれではまるで、自分は元々── 「けれど、あなた達の祖に蹂躙された」 「今や僅かに生き残った同胞は八人のみで、守れた土地もこの〈黄昏〉《えど》だけ」 「あなた達はそれすらも、私たちから奪うというの?」 「化外? 蜘蛛? 笑わせないで。私たちから見れば、あなた達こそ異形の怪物」 「己を愛することしか知らない、穢らわしい細胞に見える」 「ならば、おまえを動かしているのは……」  仲間への愛であり、自分がずっと求めていた他者との絆なのではないか?  誰かと共に生きることを喜び、支え合い、だからこそ我欲に踊る自分たちが許せない。  そう感じているのかと、知らず縋りつくように漏れた言葉を、背後の女は否定した。 「違うよ。これが、愛や絆であるはずない」 「あっては、いけない……」  まるで自戒するように。ああきっと、背後にいる名さえ知らぬ女は内罰的に目を伏せているのだろう。  かつてこれほどまでに、誰かを理解できたことが久雅竜胆にあったであろうか? そう思ってしまうほど、この声の主が抱える心が伝わってくるのだ。  ゆえに次は、どういう感情が来るのかさえ読める。 「だから、これは怨念。ただの憎悪。許せないだけ」 「認めない。譲らない。彼を苦しめた西のもの、総て消えてしまえばいい」 「敗残者の八つ当たり? そうかもね。でもあなた達が死なずにいるのも、また私たちのおかげでもある」 「そして、あなたもまた波旬の細胞」 「たとえ何の自覚がなくても、あなた達に意志などない。あれの傀儡にすぎないし、だから当然、自分自身なんて持っていない」 「あなたもまた、等しく空虚。そういう者の影響をずっとずっと受けている」 「変わり種ということは認めてあげる」 「なら教えて。その想いは本当にあなた自身のもの?」 「ただの独りよがりじゃないって、どうやって証明することができるの?」  出来もしないことを、言うな。そう言っているのか。  だとすれば自分も言い返すしかない。  確かに、出来もしないことと思われるのは仕方ない。だがしかし、それでも歩みを止めるほど安い意志は持っていなかった。共感して首を差し出すわけになどいかなかった。  きっと、この者とは出会う場や時が違えば分かり合うことができたのだと。  この出会いを惜しいと、心から思うからこそ竜胆は唇を引き締めた。 「おまえ達……」 「いや、あなた達もまた、生きていたのだな」 「己自身が、そして友が、誇りに思えるそんな道を」  だから譲れない。その気持ちはなんて強い。  強いわけだ。強大なわけだ。彼らは共に想いで、誇りで、そして絆で繋がっているという個にして全の集合体。  感銘を受け、羨ましいとすら思ったことは決して嘘ではない。  ほんの一瞬、自分が生まれるべきはそちらの理だったのではないか、とさえ思ってしまった。  そして、だからこそ分かったこともある。自分と彼女は決して相容れないと言うこと。同じであるからこそ、譲れないものもまた対極の構図で被っている。  穢土に残った彼らの世界、曰く黄昏。それが何であるか、自分の真実さえも存在しているのではと思う気持ちは確かにある。  東征軍はつまるところ侵略者で、非は西側の祖先にある。それがよく分かった。痛いほどに、眩しいほどに。  この僅かなやり取りでさえ、化外の少女は自分のことなどよりもずっと、もっと大切なものがあるという心を感じ取れたからこそ── 「……だが!」  身を切るような痛みと共に、告げなくてはならない。  恐らくは、自分と合わせ鏡のようなこの存在に、一片の偽りもない己の気持ちを伝えたかった。 「たとえ東征が侵略でも、そもそもの非がこちらにあったのだとしても、私のすべきことは変わらない!」 「すでに海は湖となって、そこに生きている者たちがいる。自分たちの世界があるから」 「我らもまた、己の世界を守るために、必死なのだ」 「なるほど、我らの空は確かに歪んでいるかもしれない。ならばそのまま、潔く滅び去ってしまえとでも?」  このまま、何もかもを皆総て。おまえら穢れて生まれたのだから、死ぬのが救いだ。さあ滅びろと? 「できない」  出来るはずがない。それを行なうことはすでに、生物の在り方を捨てている。自分たちは紛れもなく、ここに生きているのだから。  そして、それゆえに願うのだ。 「私は、教えてやりたい。明け渡すことではなく、過ぎ去るのでもなく、今生きている確かな己として彼らに道を示したい」  彼女の誇る黄昏に対し、そこに羨望を覚えたからこそ一歩も引いてはならないのだ。  なぜならきっと、善意であれ悪意であれ、自分の内側のみを見つめて喝采せず、まずは他人の意志へ向き合うこと。それこそが── 「ゆえに……おまえたちとは相容れぬこと、得心した」  他者に対する在るべき態度、真摯さの証明だと思うのだ。  この戦いが生存競争である以上、決してそれは避けられない。  自分たちがこの手で生き場を守り、そして誰かを慈しむというその理をきっと── 「そう」  そのとき、一瞬だけ無感情な声に宿った意志は泡の如く消えたが。 「なら死んで。私たちはこの刹那と、あの黄昏こそ唯一無二だと信じているから」  ここに、二人は完全な敵対を果たす。  いや、恐らくこの時初めて、本当の意味で彼女らは対となったのだろう。 「東征軍総大将・久雅竜胆鈴鹿」 「穢土太極代行総指揮者、夜都賀波岐・常世」 「これは、そちらが勝手につけた名にすぎないけど」  それを言う他ない以上、勝手に呼べばいいと言う。 「あなたがその言葉で、他者を染めることができるなら」  やってみろと、言外に告げているよう感じたのは錯覚だったか。  悲憤に染まる女の意志が、背後からその存在感を増大していくのを前に竜胆もまた首を振った。  今より開戦、そして死ね。一瞬で決着がつくであろう未来を前に、臆することも退くこともしない。  だから願う、強く願う。今この時に何をすべきか、その真実が竜胆にも見えている気がしていたから。  ここまで自らを導いていたもの……まるで音叉のように、竜胆自身の未だ形にならない渇望に唯一呼応していた聖なる遺物。  黄金の輝き──否、これは破壊光。  触れた物を取り込み喰らい、自らの宇宙を塗り広げていく力が──  竜胆、そして常世とも呼応したその刹那。 「言葉……これは、何の……」  壊せ──私は総てを愛している。 「……?」  完全同調を果たした末、ついに彼女は旧世界の真実と接触した。  次の瞬間――  無間神無月に刻まれた亀裂と共に──玉座の崩壊が始まった。  突如として、この洞窟全体が振動を始める。  強烈な一撃が空間そのものに叩きつけられたかのように、俺たちの存在するこの地下を中心に巨大な大崩壊が発生し始めていた。 「得たか」 「おおい、一人だけしたり顔じゃなくてだな……何が起こった!」  それに対しこいつはまあ案の定というか、にやつくばかりで何も言わない。  大事になりそうだというのは分かっているんだから、少しぐらい説明があってもいいとは思うのだが。 「見れば分かろう。こういうことだ」  壊れるから、まあそういうもんで納得しろと? これはそういう範疇超えてるだろうが。  得たってことは、ある程度の察しはもちろんつく。それがいったいどういうことかを聞きたいのに、こいつはまたはぐらかして歩を進めた。  この空間そのものに走った致命の衝撃。それと同様、姿を消していく影に向かって、龍明は真っ直ぐな視線を向けている。 「……ここはもう蠱毒ではないぞ。おまえに残る戦があるのなら」 「そこで果たせ。おまえの〈終焉〉《せつな》を守るために」  その言葉に応じたのか、端からそのつもりだったのかは分からないが、あの残影はそれを機に夢か幻のように掻き消えた。  俺たちの苦労が一瞬でぱーになる光景だが、今のところはそれよりも…… 「腑に落ちませんね。これを予見してたというのですか?」 「袖にされた、とも取るべきではないか?」 「どちらにしても、あれはおまえ達に用などなかったようだ。何せ、顔を見せてはおらんのだからな」  顔って、何だろうか。それは。  あの虎を模した兜の下、素顔を出すと本気にでもなるんだろうか? どうにも何か、そこに一物含んだ物言いというか明確な忌避を感じた。  それを見越した上で、まず訊ねることはこれしかないだろう。 「あいつの名は?」  さんざっぱら殴ってくれた奴の呼び名が知りたい。でないと俺たち、愚痴や悪態もつけねえよ。 「大獄。鉄の虎に身を包んだ、天魔の一人さ」  龍明は奴の名を告げる。相変わらず知っていることを、その場にならないと話さない奴だが、そこにつっこむ気力もない。  何より、このままここで寝そべっていても生き埋めだから。 「さあ脱出するぞ。ここはもう長くない」  そう言いつつも、こいつの瞳に一瞬別の感情がよぎったのを俺は気づいてしまった。  崩れ落ちていく石造の城……  その風景に少しだけ、何か形容できない複雑な想いの影を見た気がした。  落ちた岩を断ち割って常世が現れる。やはりあの程度では死なない。それが天魔なのだ。 「あぁぁ、あっ、ぁぁあああああああああ!」  時間停止の理が砕け散り、ここに絶叫が迸る。  腹の底から搾り出し、心の底から放たれた苦痛と絶望と驚愕の叫び。断末魔にも似た千切れんばかりの声が、修羅道の玉座を震撼させた。  その様を、半ば呆然としながら竜胆は見つめている。  ただの、そう本当にただの一言だったのだ。  自分でも何が何だか分からない、それこそ呟きにも似た発声。何を言ったか、どうやって呟いたか、それすら淡雪の如く刹那に消えた咒なだけに彼女は一層理解できない。  思うことは短い感想──ああ、なんと脆いのだ。  ただ何かを告げられた、いわば正確な認識をされただけに等しい行いが、常世の宇宙に崩壊の亀裂を刻んだこと。そこに驚愕の念を禁じえないし、同情がないと言えば嘘になる。  彼らは無敵の怪物などでは断じてない。  むしろ真実はその逆。強靭無比な〈外殻〉《ほうそく》で鎧を纏わねば、それこそ僅か一声で掻き消えてしまうような、切ない存在。  蝋燭の灯火よりも儚い、生き場を追われた幻に過ぎないのだと、思い知った。 「どうして、なぜっ? そんな──ああ、うそ、うそ、うそ!」 「あなたは、まだ……」 「愛しているなら、壊せと言うのッ──!」  最後に魂斬るような叫びを残し、常世の姿はかき消えた。  それと同時、崩れ行く玉座に呼応するかの如く、槍が光を放ちながら崩壊していく。  その光はやがて独立し、一際眩い光を放ちながら……竜胆の中へと消えていった。  その瞬間、槍は見る間に朽ち果て粉々になり、微塵へと変わった。まるで己がすべきことを終えたかのように、姿形を喪失したのだ。 「何が、私に……」  分からない。だが、感じるものは確かにある。  覇者の波動── 「黄金の輝き」  猛き、強き、そして荒ぶる戦の熱が魂へ宿る。  感慨や思索に耽る時間もないというのに、思わず彼女は自分の胸にゆっくりと手を当てた。  そうせずには、いられなかった。 『竜胆、戻れ! もう時間がない。龍明もそう言っている!』 「ならば――」  龍明に言われたとおり、式から自分の意識を手離す。  創られた偽りの身体を捨て去る、その前に。 「ありがとう。短い間だったが、助かった」  仮初の自身であった式神に別れを告げ、竜胆は本陣の儀式場に置かれた自分の身体に戻ってきた。  そして、一瞬の眩みと共に本陣で意識を取り戻す。  地鳴りが遠くから響いている。その轟音に、感覚が冴え渡っていくのを感じた。 「戻ったか。どうだ、身体の調子は」 「得てきたものを、取りこぼしてはおらんだろうな」  無論、言うまでもないだろう。魂に流れ込んだ黄金色の輝きを、自分は今も背負っている。  その時、地鳴りが鳴り響いている最中、外にいた兵士達が絶叫を上げた。東征軍の兵達が恐慌を来している。  儀式場の外に飛び出した先、彼らを覆っていた無間神無月の恩恵が剥がれた光景は── 「っ、何だ――」 「あれを」 「……常世」  赤い不二に、巨大な化け物が巻き付いている。  あの洞窟にあった最奥、城で対峙した姿とはかけ離れた異形でありながら、なぜか今の竜胆はあれが常世の真実だと看破していた。  体躯を構成しているのは数多の魂。彼女の意志と共に、浮き出た幾つもの顔が激痛にのたうちながら哭いている。  ああ、この大馬鹿者が。いつまで死を想い続けている、いつまでおまえは日陰者でい続けている。  そんな姿になってまで、おまえは今も血涙流す無間の愛に甘えているのか――  愛しい子よ、壊してやろう。〈刹〉《 、》〈那〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈望〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  この胸を突く、形容しがたい感情は何なのか。言葉に出来ない悲哀は、叫びたくなる悔しさは何なのか。自分には理解できない。  不二に身体を巻き付ける常世が本陣の竜胆を目で捉えた。その途端、随神相を構成している無数の顔が一斉に声を上げる。この世ならざる慟哭が、魂さえ砕かんと唱和する。  傍にいた衛士が絶命した。他の兵士も何人もが崩れ落ちるように倒れていく。狂気に触れて表情を歪め、白痴の笑いを始める者もいた。  血の涙を流しながら、狂気の波動と憎悪を撒き散らすその姿が竜胆には痛い。  竜胆の隣で冷静に事態を見ていた冷泉も顔をしかめ、後じさっていく。これは人の内在する魂に掛かる圧力だった。  竜胆の心にも、酷く苦しく気持ち悪いものが突き刺さってくる。生理的な嫌悪感と、それとはまったく異なるもう一つの感情。  もういいのだ、もう泣くな。御身が語った黄昏が、今の姿を見ればどう思うか。分からぬはずもないであろうに。  皮肉にもその想い、これから討ち果たさねばならないものをこそ思う感情が、もっとも強く彼女の心を奮い立たせた。 「私は何か、おまえ達にとって途轍もないものを奪ったのかもしれん」  だが、だからこそ臆してはならない。譲るわけにもいかない。  なぜならこれが、自分の選んだ道なのだから。誰に言われたわけでもない。彼らの領分や悲憤を知った上でなお、竜胆は自分の生きる世界を選択したのだ。  過去は戻らない。返らないからこそ意味があり、価値がある。  唯一無二。だからこそ、それがどれほど美しくとも過ぎ去ったというならば── 「だが、この輝きは言っているぞ」 「おまえ達が決めればいい、と」  そして、願わくばその手で、と── 「そうか……」 「ああ。そう思っておられるのだな」  続くはずの言葉は、もう二度と形にならない。もしくは聞いたかもしれないが、すでにその内容すらも遥か旧世界の残照となって消え失せていた。  だが、それでよかったのだろう。それらは自分たちがこれから知り、そして決めねばならないこと。そういうものがあるのだと、存在を知れただけでも黄金との邂逅は無駄ではなかったと思えるのだ。  一際大きい怨嗟の声を上げて、徐々に姿を消していく常世を眺めた。  あれはまだ死んでいない。いずれまた自分の前に現れるだろう。  そのときこそ、本当の決着を付けなければならない。できるならば力ではなく、その心の在り方で。  常世の論じた世界の在りように対した言葉で、答えを掲げてみたいとそう思うのだ。 「さて──」  かつての姿を取り戻した不二から視線を外し、龍明が肩を竦める。  この結果に思うところがあるのか、珍しく表情を緩めて竜胆に微笑みかけた。 「では、あの悪童どもを迎えに行くとしようか。烏帽子殿はどうする? 疲れているなら、このまま休んでいてくれて構わんが」 「決まっていよう」 「礼も、感謝も、私自身の心で告げたい」 「それが将というものではないか?」  違いはあれど、黄金の輝きもまた自らの部下を愛していたから。  今は心から、そうしてみたい気分だった。 「ならば行って来い。なに、後のことは私に任せておけばいい」  その言葉に感謝して、急く心を抑えながらに竜胆は走る。  三人に会ったら何を言おうか、何を伝えればいいか、それとも労うべきなのだろうか。  考えることは多々あるし、ああそれ以前に怪我や疲労も激しいだろう。ならばまずは傍について看病でもと──  迎えに行く者がいるということ、大切だと感じられる仲間がいること。  そこに確かな喜びと拙い絆を感じながら、竜胆は遠くから手を振る覇吐たちに自身もまた手を振りながら駆けていった。  特別付録・人物等級項目―― 久雅竜胆、中伝開放。 「なんと不可解千万――」 「このような怪奇を目にすることになろうとは」  不二、鬼無里と二手に分かれていた東征軍が再び合流したこの地には、形容しがたい光景が広がっていた。  踏みしめる礫は、自然にできたものではない。人によって造られて、人によって破壊されたものである。 「それ。そこの、斥候からの報告はどうなっておる」 「は。四方を三里、探索したところまったく同じような光景が広がっているのみとのことです」 「まったく同じか……我ら以外に、生きている者はいたか?」 「いえ。海辺地帯へ向かった部隊からの報告を控えておりますが、現在までにそのような報告はありません」 「ふむ、分かった。ご苦労。下がってよいぞ」 「は!」  眼前に広がる荒廃した様相。瓦礫の山を見まわしていると、そこには死という言葉すら連想させなかった。  死とは、生の中にある。対極ではなく、死は命に包まれているものだ。ゆえに死と無とは似て非なるものである。  だが、ここには何もない。生者があったのは甚だ遠い過去のことだろう。それか、もしかしたら同じ世界に無かったのかもしれない。ここは化外の地であるのだから。  だからこそ、命が感じられない場所では死という概念すら、見えてこなかった。  廃都、と言葉には出さずに身の内で反芻する。理解できぬものを知っている言葉で言い表したところで、それは理解できぬままだ。むしろ、本質から離れてしまうだろう。  そういった愚鈍極まりない行為は、他の誰かがやり始めるだろうから、その者に任せておけば良いのである。 「やや。これは遠路はるばる駆けつけてきた我らに対して、穢土による洗礼の如き異趣なる光景ですな」 「これは六条殿。兵站の搬入はお済みになられましたか」  と思案しているところへ案の定、話しかけてきた男がいた。 「補給線の確保は部下達に任せて、先に追いついてきたのですよ」 「ほほう。統率する貴君がおらずに兵達だけに任せて大丈夫ですか?」 「御心配は無用。当家が抱える兵に、昼行灯はおりませんからなあ」 「左様ですか。為損じさえしなければ、結構なことかと存じます」 「ははは。いささか堅苦しいですな、中院殿」 「はて。どういうことでしょうかな」 「この東征軍に轡を並べているのは、この六条と中院殿のみ。となれば、この東征後の図式も薄らと描けるというもの」 「それは結構なことですが、しかし中核となる久雅がおりませぬ。もとよりこの東征軍の総大将は、烏帽子殿」 「東征後は、竜胆紋の首席である久雅家によって裁定が下るのが、自然な成り行きでしょう」 「くくくっ。いや、中院殿はまったくお人が悪い。その猫の被り様には、さすがの私も敵いませぬ」 「……ふふふ。そうですか。これは痛み入る」  あえて否定はしない。否定すればするだけ、この男はいやらしくすり寄ってくるだけだろう。 「岩倉も千種も、兵こそ出したものの東の地を恐れて、引き籠もってしまわれた。武家の名門としては、いささか信頼を欠いてしまったと言える」 「しかしながら、今の皇家に統一後の神州を統べる力が無いことは、瞭然たる事実。ましてや、武門の棟梁があのような小娘である時点で、誰かが後見人となる必要があるでしょうな」 「なるほど。それを我が中院と、貴殿の六条でということですか」 「然り、然り。あまり大きな声では言えませんがなあ。はっはっは」 「…………」  なんと不毛な会話だろうか。皮算用とはこのことだ。  確かにこの男の見通しは現実的でもあり、野心的でもある。武門の当主として、これくらいの腹積もりがなければ、どこかで寝首を搔かれるだろう。  だが、この身に広がる落胆はそういうことではない。ただ目の前の男の器に失望し、興が乗らないだけなのだ。 「将達への恩賞も、やがて必要になってくる。そのときは東の地を分配することになるでしょうが、特にこの穢土という地は中々に興味を引かれますな」 「なるほど。六条家は、穢土をお望みか」 「ははは、そうはっきり仰いますな。安心してくだされ。中院殿はあの小娘を差し置いて、武門の棟梁に収まるであろう御方」 「我が六条と致しましては、その助力をさせて頂くだけで身に余る光栄となりましょうぞ」  早々に切り上げたいが、悦に入っている男に水を差しても意味はない。興味が湧かない男には、何も言う気がおきないのである。  恐らくは言外に、自分の協力を拒絶すればただでは済まないと含めたいのだろうが、斟酌するのも馬鹿馬鹿しい。  ここは化外の地なのだ。どうして西の戦と同じ次元で物事が考えられる。  黄金を見つけた次の瞬間に、その黄金によって五体がばらされているのかもしれぬのだ。常識という計りでしか言葉を吐こうとしない男ほど、つまらぬものはないなと改めて感じさせられる。  逆に言えば、この男にもそれだけの価値はあると言えるのかもしれない。愚劣な男というものは、その蒙昧さをこれでもかと見せてくれるのだから。  そうして六条の話し相手を務めていると、斥候部隊をまとめていた兵士から突如、声が上がった。 「見てください、中院様! まだ生きのこっている人間がおりました」 「ほう! それは面白い。いずこにいるのか」 「この陣営を築いた裏にございます浜辺から、漂流中の黒船が発見されました。生き残りは、その黒船の乗員かと思われます!」 「黒船が? それはまことに黒船なのか?」 「は! 船内を調べていた者から、間違いなく異国の軍船であるとの報告を受けております」 「……なるほど。やはりこの神州東征の噂をどこかで嗅ぎつけてきおったか」 「中院殿、ちと考えすぎではありませんか。航行中に、ただ座礁したというだけという可能性も……」 「そうであっても、軍を率いる我らとしては異国による介入を頭に入れておく必要がある」 「はい。龍明殿も同様の危惧をして、ただちに現場においでくださいました」 「いかがするか、六条殿。安寧と静観して、我らはここで四方山話に耽るつもりですかな」 「ぬぅ……ならば、私も向かいましょうぞ」 「黒船は、我らが着いた港か? それとも近くの浜にいるのか?」 「いえ、浜辺ではなく浅瀬の岩礁に打ち上げられております。大きな船でございますので、沙汰を伺いにきた次第です」 「そうか。して、先ほど訴えた生き残りというのは、船の中にいるのか。それとも、外にいたのか」 「発見した唯一人の生き残りは、運良く岩に叩きつけられずに浜辺で倒れておりました。意識はなく、龍明殿が蘇生措置を施しておいでです」 「助かりそうか?」 「はい。ただし衰弱し切っているので、意識を取りもどすのに二、三日はかかるとのことでございます」 「そうか。分かった。では、野営を築いている兵を、船内の探索とで二手に分けよう」 「あいや。待たれよ、中院殿」 「どうかされましたか?」 「船内の調査は、兵站の補給を行っている私の兵達をわけると致しましょう」 「しかし、兵糧の確保と準備に手間取ってもらっては行軍へ影響が出るでしょうが」 「何の何の、御心配なく! 三日三晩寝ないくらいで根を上げるような弱卒ではございませぬ」 「それよりも、まさか中院殿ともあろう御方が、功の独占に走るわけでもありますまいな」 「……左様ですか。では、黒船の調査については六条殿にお任せ致しましょう」 「御意に」  名目上は久雅家の下に対等の立場であろうが、男はあからさまな持ち上げの言葉を見せた。冷泉に対し、まさかこれで竜胆を担いだ後の関係を早くもほのめかしているつもりであろうか。  この六条という男は、矢面へ他人を立たせ、己は恙無く暗躍したい性質なのかもしれない。  そういう卑小な俗物根性へは、いよいよ呆れるでもない。その蒙昧さが、ただただ興味を失わせてくれる。  しかし、兵站線を貧弱にされては実害が出てくるので、後でそれとなく見回っておかねばなるまい。使えぬ人間というのは、自らの兵すら使えぬということか。  ああ、確かにその通りだな六条殿。弱卒であったのなら、かくも凡庸な当主が武門の最高位におられまい。  しかし、そんなことよりも今は生き残っているという人間の方である。  この廃都のような場所で何があったのか。それとも何かが、起きようとしているのか。  手がかりを知っていても知らなくとも構わぬ。後で竜胆にも伝えねばなるまいと冷泉は考えた。  どうやら、面白くなりそうなのだ。  諏訪原というこの地に着いて早々、竜胆が補給線のことで兵士から報告を受けて視察していると、中院が姿を見せた。  俺は竜胆へ同行している身なので、特別に何かを言うつもりもないが、野郎は俺のことを時折、まるで品定めするかのような目つきで眺めていた。  不二であったことについて、形だけの報告をまったく信じていないようにも見える。  しかし、中院はそれを言葉にするでもなく兵站についての確認が終わると、今度は兵たちから離れて別のことを話し始めたのだった。 「異国の軍船から発見された生き残りか……」 「それで、その生き残りの娘というのはどこにいるのだ?」 「兵達の救護所とは別に場所を設け、そこに寝かせておる」 「龍明殿がついているのか?」 「いやいや、今はそうではない。娘の容態が峠を越したところで、龍明殿には休んでもらうことにした」 「なるほど。確かに連日の救護では、御門の当主とて疲労は否めないだろう」 「然り。そして生き残りの娘はというと、未明から意識を取りもどした。身の回りの世話を兵に任せているが、お会いになられるかな」 「もちろんだが……身の回りを兵たちに任せておいて大丈夫なのか。聞くところによると、まだ若い娘であるということではないか」 「御安心を。ですから荒くれ者たちから離し、警護も兼ね、私の腹心の部下に任せておる」 「それに異国人とはいえ、どうやら完全に異風の者ではない様子。精神的に摩耗し、いきり立った兵たちに事をおこされても困りますからな」 「……さすが冷泉殿、敏いことだ。しかし、異国との交渉に使えるなどとの腹積もりであるのなら、貴殿もさほど変わらぬぞ」 「まさか、まさか。神州も統一せぬ内から、異国との交渉などと言い出したら、いい笑いものでありましょう」  確かにこの中院って野郎は、本当にそつのない性質をしてやがる。  何でも出来るくせに出しゃばらないなんぞ、俺としては色々痒くなるが、そういう態度がむしろ映えるからこそ舌を巻く。  関わっても愉快なことは何一つないので、俺は口を閉ざして聞いていた。 「……とにかく起きているのならば、聞かねばならぬことが山ほどある。私が取り調べを行うが、貴君も同席されよ」 「相分かった。それで、そこにいる私兵も同行させるので?」 「無論だ。覇吐は私の近衛だと思ってくれ。尋問するのは、私と冷泉殿だがな」  同じ女子に〈恋〉《こゆ》る者同士。いつかこいつはそう言っていて、まあそこは俺も望むところなんだけど、この手の政っぽい話題になると太刀打ちできないのが少々悔しい。  いやだからって、俺がこの野郎より魅力に欠けるなんて風には思っちゃいないが。 「なるほど。では我は、部下に事情聴取の旨を伝えばならぬので、救護所で待っておいてもらえますかな」 「分かった。覇吐、それではこれから向かうぞ」 「おう」  そうして、中院は俺へわずかに目配せしながら離れていった。 「どうした? 妙に静かだったじゃないか」 「別に。そういうわけでもねえよ」 「冷泉殿が気に喰わぬのか?」 「だから何でもねえって。ただ少しだけ考え事をしていただけだよ」 「おまえが考え事だと?」 「悪いかよ。東についてからこっち、色々あったからな。とくに不二じゃあ、うまくいかねえこともあった」 「気にするなと言っただろう。化外が相手では、敵わぬことの方が常だ。つけられた土の多さを気にしていては、この先どうにも立ち行かぬぞ」 「そういうことじゃねえんだが……」 「でもまあ、やっぱりそういうことなのかね」  俺の物言いに、竜胆が本当に分からなそうに首を捻った。  自分の無力さってよりも、おまえの側につきっきりで居てやれなかったことが、俺としては気にくわないんだよ。  死ぬつもりは無かったが、さすがに身を盾にしておまえを一人のまま先に行かすことしかできなかったのは、次への課題として残しておこう。 「ま、いいさ。結果的には、こうして俺もおまえも元気に歩き回ってるわけだし、何とかなるだろ」 「そうやって、すぐに楽観視するのは褒められたものではないと思うんだが……」 「いいじゃねえかよ。何でもよ。気にするな」 「それは、さっきの私の台詞ではないか……まったくよく分からない奴だ」  おお。悪くない反応だ。焦がれる同士は、思いがけず似てくるなんて、故郷の母ちゃんが言ってたがそうなのかもな。  考え方とか、喋り方に溜め息のつき方。それから、呆れたり感心したり、大事なのは笑ったり。  そういうのが似てきたら、もう竜胆との距離も近いんじゃねえか?  お預けくらってるご褒美も、そろそろ見えてきたような気がする。 「うっし……それで、龍水たちから鬼無里のことは聞いたのか?」 「ああ。大体の経緯は報告を受けている」  三百年前の東征軍……それが鬼無里の住人として存在していたということ。 「なんつーかよ。こっちってほんとに何でもありだよな」 「ああ、よもや死人の町とはな」 「さらには、それを統べる化外の存在。鬼無里の話を聞いた後では、この穢土の状況も察しがつくというものだ」 「おいおい、ここも鬼無里と同じっていうのかよ」 「そこまでは断定できまい。だがしかし、あながち的外れというわけでもないだろう」 「人の気配は存在しないが、これはどう見ても建造物の類だ」 「ふぅん。まあ敵さんがいれば戦うだけだし、いなけりゃ別にそれでもいいんだけどな」 「相変わらず単純な奴だ」 「俺としては、そんなことよりも咲耶が元に戻ったのが良かったと思ったぜ」  刑士郎の野郎を不憫になんて思ったことはないが、咲耶の変わり果てた様子は、正直見るに堪えないもんがあったわけで。 「うむ、そうだな。咲耶は、我らの中で最大の歪みを持つ者だ。制御しにくいとはいえ、正気を戻せたのは大きな収穫と言えよう」 「いや、それだけじゃないだろ。仲間が元に戻ったんだぜ」 「分かっている。だが、私には立場としての見地もある。私情ばかりで動いてはいられん」  自分に厳しいから、当たり前のように他人にも厳しい。他人に甘い奴は、自分にも甘い。  竜胆と俺を比べりゃ、分かりやすい話だな。 「大将ってのは大変なもんだ。けどよ、俺に対してはそう肩肘を張るなよ。つまらねえじゃんか」 「面白いとか、つまらないの問題ではない。私という人間の在り方の問題だ」 「へいへい……」 「そういや夜行や刑士郎の野郎は、まだ全快にはなってないようだけどよ。あいつらなら大丈夫だろうから、余計な心配になると思うぜ」 「ああ。もとよりあの二人の心配はさほどしておらん。というよりも、おまえの方こそ気にしているのではないか?」 「いやいやなんでだよ」  あんな何を考えてるか分からねえ男と、最初から反りが合わずに殺り合った男を、どうして俺が心配せにゃならんのだ。 「どうかな? どうやらおまえは、以前よりも義に篤くなったように見えるのでな」 「阿呆らしい。そういうんじゃねえよ。ただ思ってるまま、感じてるままさ」 「おまえらしいな。ならば、私も思ったままを言葉にしよう」 「咲耶が元に戻れば、刑士郎も冷静さを取りもどすはずだ。夜行はよく分からないが、とにかくおまえたちの様なはみ出し者が、未だに誰も死んでないのは悪運というところだろう」 「おいおい。俺たちゃ、別に死ぬつもりで来てるんじゃねえぜ」  すると、それまで軽口を言い合っていたはずの竜胆が、すっと表情を引き締めて言ったのだった。 「そうか……ならば」 「――死ぬなよ、覇吐」 「お、おう?」  そして、俺たちは中院が言っていた陣幕へと到着した。 「御免。失礼する」 「はい、どうぞ」  中から聞こえる声は、なるほど。確かにこりゃ、娘だ。それも結構上玉っぽい声だったぞ。 「おまえたちは、外で待っておれ」  中院が、中で警護をしていた二人の兵士を外で見張りにつかせた。  部屋ん中にいたのは、それはそれは綺麗なお姉さんじゃねえか。  野郎が言っていた通り、綺麗な兵舎を与えて手厚く持てなしてるようだ。つーか、これって俺たちよりもずっと待遇がいいよな。  なんとなく腑に落ちない感覚を抱えながら、入り口の近くへ立って備えると、竜胆は膝をついた。そして、中院がその隣に立ったまま話が始まった。 「大和語は分かるか? 身体の具合はどうだ」  竜胆が顔を近づけて声をかけると、床に寝ていた娘がゆっくりを身を起こした。どうやら、大きな傷もないようだ。 「はい。私は交渉のための通訳官でしたから。具合は、ここの方達が良くしてくれているので、だいぶ良くなりました」 「何か足りぬものがあれば、外の者へ申してくれ。何から何まで取り揃えることは無理だが、なるべく融通は利かせるように配慮しよう」 「ありがとうございます。神州の貴族様は、大変に礼節を尊ぶ方たちのようですね」 「申し遅れた。我は、神州西方、〈勢州〉《せいしゅう》久雅家が当主、久雅竜胆。この東征軍の総大将を務めている」 「我は〈雍州〉《ようしゅう》大納言、中院冷泉と申す者だ」 「これはご丁寧にありがとうございます」 「私は、亜米利加海軍第十三艦隊・摩洲=経吏提督率いる使節団の交渉役でございます」 「名は何という?」 「それが……」 「言えぬのか?」 「申し訳ありません。極秘の特務を抱えた身でありまして、後々で貴方達へもご迷惑をかけてしまうかもしれないので」 「つまり――異国における神州征伐、もしくは併合の動きに関する調査団といったところかな」 「……冷泉殿」 「これは申し訳ございませんな。ついつい要らぬことまで口にしてしまう性分なので」 「いいえ、いいんです。総てを明かすことはできませんが、見当外れなことではありませんから」 「……ということは、やはり密使か」 「申し訳ありません。その問いに答え得る言葉を、私は持っていないのです」 「ならば質問を変えようか。どうして、あのような鉄の軍船をもつ技術がありながら、無残にも全滅していた」 「いや……全滅という言葉は相応しくないか。船内から見つかった死体の数、帳尻が合わぬと報告を受けている」 「そなたを含めてもあまりに少人数、船の航行は不可能であると」 「……そう、ですか」 「悪いが総てを答えられないというのであれば、こちらも強硬な手段に出なければならなくなる。答えてはくれまいか」 「その方らは、なぜこの穢土の地へあのような姿でたどり着いたのだ?」 「……歌、でございます」 「歌、だと?」 「はい」 「最初は聞こえるか聞こえないか、という程度でした。しかし徐々にその歌は、私たちの耳をとらえて離さなくなったのです」 「それが化外によるものであった。そういうわけか?」 「分かりません。ただ、この世のものではないということだけは、はっきりしています」 「なぜ、そう断言できる?」 「決まっています、船員の一人残らず聞こえる歌であったのですから」 「船底で作業する者も、甲板に出ている者も、同じように聞こえる歌……などというのはまさに人外の仕業でしょう」 「ふむ。それで件の歌は、どの方角から聞こえてきたのだ?」 「この場所です。神州穢土のこの地から、歌は聞こえてまいりました」 「そして、船員の誰もが歌から逃れられなくなると、誰からともなくこの岸へと航路を変更し始めてしまったのです」 「ほほう。何とも不可解なことだ」 「だが、それも化外の仕業というならば納得よ。それだけのことが我らの身にもあったのだからな」 「ありがとうございます。そして、浜が見えるようになると一人、また一人と船から飛び降りていったのです。止める者は誰もおりませんでした」 「では、そなたも同じように……?」 「はい。今となっては思い出せぬ衝動でしたが、居ても立ってもいられずに海へ飛び込んだのです」 「そのままやっとのことで砂浜まで泳ぎ、たどり着いたところで力尽きてしまった……そういう次第です」 「そこを我らが通りかかったと、そういうわけか」 「なるほど。事情は、おおよそ理解できた。礼を言う」 「いえ、ありがとうございます。本来でしたら、捕虜という扱いで投獄されていてもおかしくないのに、このような厚遇を受けたこと。感謝しています」 「そうか。しかし、申し訳ないがあなたを自由に解放するわけにもいかない」 「はい。分かっています」 「せめて、その方の素性と艦隊について総て明らかにすることができるのならば、東征軍の客人扱いという手筈も取れなくはないのだがな」 「それでも、明かすことはできぬのだろう?」 「はい。申し訳ありません……」 「それでは、引き続き養生されよ。冷泉殿、後はそちらの兵に任せてもらえるか。少々、話がある」  そうして、俺たちは竜胆の提案のままに、兵士と入れ替わりで特別救護所から外へ出た。  しかしまあ……歌ねえ。あいつらが唱和する音色とやらは、いったいどんなものなのやら。 「さて、どうするかな……このままにはしてはおけまい」 「どういう意味ですかな」 「娘の言っていた歌についてだ。この穢土も、やはり何かある。このまま陣を置いていては、やがてあの黒船と同じ運命を辿ることにもなりかねん」 「ふむ……」  つまり調べてみる必要があるというのだろう。中院の少し考えるように間を空けてから、首を振った。 「我は反対ですな。今は体勢を整えるべきでしょう」 「さすがに冷静な判断だが、すでに壊滅してしまった軍の末路を知りながら、何もしないというのは怠慢になるはずだろう」 「ふふ。勇断といったところでしょうな。しかし、烏帽子殿。たまには足下を見て貰わねば、思いも寄らぬ鼠に掬われかねませんぞ」 「なに?」 「……とにかく。穢土よりさらに東進し北上してゆけば、このように平地が広がった場所が、果たしてあるか保証がない」 「今は補給線を整えている最中で、同時に黒船の調査もせねばなりません。兵を動員するのには賛成しかねますな」 「……なるほど」 「つまりは、気になるのであればこちらでやれというわけか」 「おや、これは異な事を。軍の最高指揮権を有するは大将である烏帽子殿であり、我ではない。まるで我がそのように下達したかのような物言いは、慎んでくださると有り難い」 「これは失礼した。では、総大将として裁定を下そう」 「久雅と御門の衆、そして益荒男の少数精鋭で、穢土の探索と調査を進める。補給線と軍備には、中院と六条に一任する。また万が一にも備え、龍明殿にもこのままこちらで待機してもらう」 「これで文句はあるまいな」 「は。御意に」 「陣営の整備には、どのくらいかかりそうか」 「数日の内に済むでしょうな」 「と言うことは、その間に済ませろというわけか」 「いえ、それだけではありません。宗次郎もそちらに同行するのですから、悪戯に優秀な者を消耗されては困ります。何より――」 「何より?」 「烏帽子殿にもしものことがあれば、我とて冷静ではいられませんぞ」 「肝に銘じておこう」  そんな鼻につく言葉を残して、野郎は自分の兵舎へ戻って行った。  うむ、やっぱむかつくわアイツ。なんというか、これから先どんなに感動的なことが俺と野郎の間に巻き起こっても、中院のことを好漢だと思うことはないだろうと断言できる。  何も演じていないくせして、いちいち演技っぽく感じさせる振る舞いがまた苛々させるのだ。  それに、なんだろうな。今は加えて、妙な感覚もあいつから感じ始めている。それが気のせいであればいいんだが…… 「どうかしたか。眉間に皺が寄っているぞ」  こいつもこいつで、本気で分かっていないんだから、思わず熱烈に接吻してやりたい。  しかし、俺はその衝動を抑えて竜胆へ言った。 「なんでもねえよ。それより、早くみんなのところへ戻ろうぜ。今のこと伝えるんだろ」 「ああ。そうしよう」  竜胆の兵舎へ戻った俺たちは、みんなに事の経緯とこれからの方針を伝えた。 「……というわけだ。探索する箇所は、今から龍水と夜行に感知してもらい、それを参考にした四箇所とする」 「ゆえに人員は四組までに分ける。二人いればおまえたちなら何があっても、対処できるはずだ」  竜胆がそう伝えると、俺は少しだけ感心した。ここに歩いてくるまで具体的な話はしなかったのに、こいつはしっかり方針とその具体案を決めていたのだ。  大将としての役目に慣れてきたのか、風格もさらに出てきたように思う。 「かしこまりました、竜胆様。して、その組み合わせは如何ようにされるおつもりですか?」 「そりゃ、俺と竜胆。刑士郎と咲耶、それから――――」 「おまえの意見を聞いているのではない。黙っていろ」 「待てよ……後悔するぜ。俺はそれから宗次郎と紫織、夜行と龍水って言おう思ったんだぜ」 「なっ――!」 「へぇ、いいんじゃない。それぞれ慣れた者同士じゃない」 「だろ?」 「わ、私と夜行様が二人きり……」  顔を真っ赤にした龍水が、上目づかいに夜行の顔をうかがうと、野郎は涼しげな顔のままで応えた。 「私は構わぬが、従うのは烏帽子殿の指示であろうよ」 「なんだよ。竜胆も、俺様の案に異論はないだろ」 「待て。どうして、そこで私とおまえになるのだ」 「おいおい、竜胆が言ったんだろ。俺は、おまえの近衛だと」 「それは、そうだが……」 「待ってください」 「僕もその組み合わせに異論があるわけではないのですが、御門の陰陽師が二人とも同じでは探索能力としては偏っていませんか」 「そ、そうだ。だから、私と龍水――」 「いやいや、何を仰いますかな烏帽子殿。ご覧の通り、今の私は両眼がふさがっている状態だ」 「助力できるのは龍水の術だけになるが?」 「うぐっ」  おお、いいぞ夜行。この野郎。おまえ絶対余裕だろうけど面白がって言ってんだろ、もっとやれ。俺が許す。 「そっかぁ。確かに何かあったとき、夜行の術について知ってないと手助けはできないし、そのまた逆も同じだよね」 「なるほど。そういうことでしたら、僕も異論はありません」  紫織も乗った。宗次郎……は、天然かこいつ? まあいいや、とにかくだ。 「ぃよし。それじゃ、このまま明日の朝に報告を兼ねて集合ってことで……」 「だから、馬鹿なことを言うなっ。現場に到着してから、なぜ日を跨いでいるのだ」 「日付が変わらぬ内の報告を欠かさぬようにするのだぞ」 「ふふふ。覇吐様は、いったい一夜を明かしてどうするおつもりだったのでしょうか」 「そりゃあ、俺は紳士だぜ。もち、無理矢理なことはしないから安心してくれ」 「……現場で今より寄ってきたら斬るからな」 「分かってるよ。安心してくれ」  ちゃんと隙を見つけたら口説き倒すから。 「あんた、まったく分かってないでしょ。まあ、私はそういう危険はないし、宗次郎で良かったかな」 「僕も、紫織さんと同じです」 「……ちょっと、どういう意味よ」 「くだらねえ。さっさと場所を割り出せよ」 「あまり急かせてはなりませんよ、兄様。夜行様は、目が不自由でいらっしゃるのですから」 「心配をかけてすまないな。だが、気にしなくていい」 「そうですか。では、夜行様と龍水様。どうぞお願いします」  任せろ、と言わんばかりに拳を握りしめる龍水は俄然気合いが入っていた。その満面の笑みにこっちまで頬が緩む。 「探索なんて面倒だと思っていたが、悪くないこともあるもんだ」 「任務は探索だからな! おまえが言ってるのは、探索じゃないだろ!」  そして俺たちは、龍水と夜行が示した地点へと二人組で向かったのだった。  もうこりゃほんと、否応なしにやる気出てくるぜ。  そうして各々ばらけた後、刑士郎たちがやって来た場所には異様な光景が広がっていた。  どこか庭園のような広場であり、ことによれば遊戯場のようにすら見えてくる。何にしろ西では見ない意匠だったが、二人の目が釘付けとなった原因はそこにない。  そう、ここに群生しているものはまさしく…… 「化外の地にも、このような花が咲く地があったのですね」  鬼無里で見た紅い花。それが一面咲き乱れていた。他に生きているものはない。皆死んでいる。壊れている。  しかし、そこで咲いている花だけが爛々と生の息吹を纏っていた。  それらを見て何とも言えない感覚に刑士郎は陥っている。この光景を知っているような、さりとてまるで関係のないような……魂魄に軋みを覚えるのだ。 「兄様。ここに咲いている紅い花。まるでわたくしたちのことを迎え入れているような気が致しませんか?」 「……ふん。どちらかというと、きな臭ぇ気がするけどよ」  普段は誰かの後ろを行くのが常であるのに、いま咲耶は軽く跳ねるようにして歩いている。  愉快げな様子だが、咲耶には何か違うものが見えているのだろうか。 「ふふふ。そのように、またはぐらかすのですから。兄様は、意地が悪ぅございます」 「紅に散華する〈血染花〉《けっせんか》――ですが、それはわたくしと兄様を繋げている血盟の証でもありましょう」 「俺は、夢ってもんにうんざりしてんだよ」 「だからあの花も好きじゃねえ。血みてえに鮮やかだとは思うがな」 「ふふ。そうでございますか。どうやら、先ほどのわたくしの言葉は勘違いであったようです」 「兄様は、少し素直になられたようですね。一族の当主として、咲耶は嬉しく思います」 「いちいち計るようなことを口にするな」 「申し訳ありません……ですが、兄様は何をそれほどまでに憂慮されているのですか?」 「……どうもな、気に喰わねえんだ。疼いてしかたねえ」 「疼く、でございますか?」 「ああ」  この感覚を言葉にしようとしても仕方がないことだろう。意味はあるかもしれないが、咲耶を過敏にするのは好ましいことじゃない上に、それを暴き立てることを瀬戸際で躊躇している節がある。  己の中で解決できそうなものをわざわざ言葉にしたくなかった。 「兄様……?」 「悪い。何でも、な――――」  その瞬間、耳から脳天へ叩き込まれるような感覚が二人を襲った。  発信源は眼前に咲き誇る紅の園。そこにあるのは幻だろうか、刑士郎らへ見せつけるかのように影が陽炎の如く蠢いていた。  そして── 「──兄様、大丈夫でございますか?」 「くっ……はぁ、ぐ」 「今の、は──」  衝撃から開放され──辺りから漂ってくる甘い匂いが、意識を戻す。気がつくと、花畑の中で刑士郎は膝をついていた。  全身が総毛立っているのは、恐怖や動揺の感情だけではない。感じていた郷愁、見も知らぬ懐かしさにこそ彼は── 「分かりません。ですが、わたくしよりも兄様のお帰りの方が遅かったようです」 「凄い汗をかいていらっしゃいます。すぐにお拭きいたしますから」  咲耶は急ぎ、布を出して汗を拭こうとしたが、刑士郎はそれを遮って立ち上がった。 「いや、いい」 「それより、おまえは何も感じなかったか?」 「何も感じないと申されますと、如何なる趣でという意味でしょうか。わたくしには、ここに残っている幻のようなものに感じられましたが……」 「兄様は、その身に何か感じ入るところがあったのでございますか?」 「……いや。何でもない。ただの幻だろう」  言葉にして理解できたわけじゃない。ただソレに触れることはできた。  そういうことだったのだろう。あのとき注ぎ込まれたもの、目覚めさせられた波動はこの風景に繋がっている。  希求するのは、紅い花。  垣間見えた光景に、呼気を整えて息を呑んだ。 「うふふ。兄様は素直になられましても、嘘が上手でないのは変わらないのですね」 「ならば一つ、この場から離れる前に花を摘んではいきませんか?」 「いらねえよ。そんなもん持ってても、気味わりぃだけだ」 「いいえ。わたくしは摘んで帰ります。ですから、兄様はわたくしが摘んだ花を持っておいてくださいまし」  舌打ちをこれ見よがしに打つと、咲耶は安心したようにかがんで花を摘み始めた。 「兄様。覚えていらっしゃいますか」 「凶月の里でも、こうして兄様に見守られながら、わたくしは花を摘んだことがありましたこと」 「あのときは、まだ龍明様に呪術を施される前であり、わたくしも外を自由に歩けていた時代でした」 「里の辛気くささは、まったく変わっちゃいねえがな」 「それでも、わたくしにとっては宝石のように眩しい日々でございます」 「……おまえ、今はそうじゃねえのか?」 「いいえ。今も、わたくしにとっては目映くて目を閉じてしまいそうになるくらいです」 「なら昔のことなんざ、わざわざ思い出さなくてもいいじゃねえか」 「いいえ、それも違います。過去は過去で、兄様と二人だけの想い出がございます。それは一日たりとも忘れることは叶いませぬ」 「…………」 「わたくしたちの在り方は、まるで花を摘むようだと感じませぬか?」 「俺は、今も昔も変わっちゃいねえ」 「うふふ。そうですね。兄様は、昔から兄様です」 「美しくて、華やかで、幸せなものから目を逸らすように。今もそうやってこの赤い花を見つめようとはしないその仕草は、兄様だけのものです」 「……ふん」 「うふふ。それにしても、近くで見れば見るほど、わたくしたちのようでございます」 「周囲の眺めとは馴染めずに、ですから同じ者だけで寄り添う。そして、その色はまるで他者の血を吸ったかのように、紅く鮮やかに、哀しく咲いていますから」 「兄様も、そう思いませんか?」  咲耶が、その花を一輪だけ渡した。  そして──試すという意味合いと共に手を伸ばせば。 「これは……」  やはり、と刑士郎は核心する。触れた瞬間、花は一気に枯れ落ちてしまったのだ。  これが今、己の中で眠っている単純な陰気とは異なる力。それが花を吸い殺すまで生気を奪い、この現象を生み出した。 「今、歪みは感じられませんでしたが……」 「……兄様は何かをなさったのですか?」  そして、神州最高の歪み者たる女には、何も感じられないという。 「……大丈夫だ。心配するな」  咲耶に語りかけた言葉は、自身へ言い聞かせているかのようでもあった。  そうだ。心配しなくともいい。これは咲耶の力ではなく、あくまで自分の力なのだ。これ以上、この女が背負う必要なんてない。  自分が総て背負えばいいと、自らの手を握り締める。干乾びた花の残骸が手の中で細切れの灰となった。 「兄様……」 「しかし、今の散華していった様子を見るに、花はまるで兄様の身体の中へ吸い込まれていったようです」 「ふん。分かってるんじゃねえか」 「いいえ。しかし、それがどういうことなのかは、わたくしにも分かりませぬ。何せ嘘が下手であられるのにも関わらず、よく嘘をつく兄様でございますから」 「ですが、一つだけ分かったことがございます」 「何のことだ?」 「わたくしは先ほどの花になりたいと、ただそれだけを思いました」 「あの花のように、兄様に吸われてしまえばいいと」 「ああ。それはどんなに安らぎと愛しい行為なのでしょうか」 「いつか兄様に啜られ、焦がれ枯れ落ちていくことを……」 「わたくしは、望んでいるのかもしれません」  相変わらずの口調でそんなことを言う咲耶に、刑士郎は何も答えなかった。なぜなら彼も、妹の言うことが分かったからだ。  確かに自分たちは、この花になりたかったのかもしれないと思うから。  歪みゆえに忌み嫌われ、寄り添い、その禍々しい棘によって血と命を吸い上げながら、そして最期には散るのでなく枯れ果てる。  気がつくと、この穢土の地で今日もまた闇が根を張ろうとしていている。  そこに、何かこの一連の行いさえ仕組まれているような気色の悪さを感じている。自分が黙しているから、周囲の総ても黙って耳を澄ましているようだ。  そして、彼らの耳へも歌声が聞こえてきたのは、それから間もなくのことだった。  そうして各々ばらけた後、夜行たちがやって来た場所には異様な光景が広がっていた。  目が見えぬせいか微かな匂いにも敏感になっているようで、辿り着いた途端に鼻が刺激される。  夜行が感じ取ったのは、この地にこびり付く熱の匂い。  五感中、失われた視覚を補う超強化の効果を、こういう時にふと感じる。何か巨大な塔の如きものが、頂上から鉄槌の如く砕かれたのだろうか。岩盤の遥か下にまで届く勢いで破壊があったのだと確信できる。 「ふむ。この匂いは、もしかして辺り一面は焼け跡か?」  厳密には違うのかもしれないが、一種の戦場跡であることに間違いはない。  そう漏らすと、傍にぴったりとついていた龍水が口を開いた。 「はい。そうです。しかし、現在はすでに火の気はありません。私もとくに匂いは感じないのですが、夜行様には分かるのですね」 「私も、目を閉じれば分かるようになるでしょうか?」  それはつまり歩行だけでなく、周辺を察知することそのものを指しているのだろう。 「どうであろうか。気になるのであればやってみるがよい」 「は、はい」 「…………うわっ」 「どうした。つまづいて転んだか」 「はい。夜行様は、目を閉じているのに私よりも前を歩いておりました」 「耳と鼻、あとは感覚か。なんのことはない、ようは慣れだ」 「それだけなのですか。何か特別な術などを施しているのだとばかり……」 「今は何も使っておらんよ」 「しかし、そうなると話相手としてはつまらぬだろうな。まあ許せ」 「い、いいえ、そんなことはありませぬ! 夜行様と二人で歩いている時間は、龍水にとってかけがえのないものにございますから!」 「そうか」  龍水は頬を紅くして、自分のことを見上げているのだろう。  瞼の裏に浮かぶその姿に感慨はないが、決して悪い気持ちのするものでもない。付属物、あるいは犬猫のようなものか。愛でるにしては申し分ない。 「……よっと。なかなか、難しいですね」  そうして、龍水はまた目を閉じたまま歩こうとしていた。  いったい、どこまで彼女はこうして摩多羅夜行という存在についてこられるのだろうか。当の本人は分からないし興味が無かった。しかし少なくとも、退屈はしないだろうと思っている。  そして、そのとき。  ある光景が彼らの瞼裏へ、心眼をこじ開けられるようにして見せつけられた。 「……今の、は」  瞬時に瞼の裏へ叩きつけられた光景。  狼狽している様子から、どうやら龍水も同じものを見ていたようである。  だが彼女は、夜行が思っていたよりも一歩踏み込んで察していた。 「夜行様、先ほどの光景はもしかして――――」 「ほう。理解したか、龍水。先のあれが何なのか、何時如何なる瞬間の情景か」 「いえ。解する域には至りませぬが、しかし……」  やはり眼はいいようだ。龍明が養子に置いたのも当然というわけか、少女は然りと先の風景を眺めていた。 「先ほどの決戦に思うところがありましたか、夜行様」  あの男は言っていた。  俺とおまえは違う――自らの望みは自らの力によってのみ完遂するのだと。  そして、〈敗北〉《なっとく》させてみろとも……  それは個人的に、何とも小気味良い物言いだった。  納得……確かに、人が生きるうえでそれ以上に重要な求道はあるまい。そこは自分とて例外ではないのだと、この男にしては珍しく殊勝な気持ちで思っている。  そこまで考えてから、あえて夜行は龍水へと言葉を返してみた。 「……ふむ。龍水よ、どうしてそう思うのだ?」 「え、あ、いや。それは、その」 「よい。申してみよ」 「は、はい。説明するに言葉は足りませぬが、夜行様にとってあれは既知であったのではないかと感じたからです」 「既知である、か」  既知……既に知っているという感覚……その言葉を僅かばかり、喉の奥で反芻する。  先の垣間見えた一戦。あれはまさしく、決闘に他ならなかった。  魂と渇望をぶつけ合い、互いの存在をぶつけ合う。今まで見たこともない、まさに誉れ高き益荒男同士の雄々しき戦いは、しかし──  何か、あれは〈呪〉《 、》〈い〉《 、》にでも囚われていたのであろうか。夜行は初見となる闘争を、かつて見たことでもあるかのような気分で眺めていた。  断じてそのようなことはありえないのに。ならばそれは、あの戦いに付随した概念すら読み取ったということ。  既知と感じる覇道の残滓ごと、夜行は読み取ったということの証明であり──  なるほど、ならば龍水の着眼点は正確だ。優れていると言っていいし、紛れもない才であろう。 「確信しているわけではないのですが……私には、確かにそう感じられたのです」 「そうか……前にも、そのようなことを申したことがあったな。ここは、狭いと」 「はぁわああ い、いえ。あ、いや、確かにその通りでございまするが、あれはまだ何も知らない時分の私でございまして、大層偉そうなことを申しあげてしまったと――――」  幼い跡目は、顔を真っ赤にしながら肯定にも否定にもつかぬことをしゃべっている。  正直、彼にとって興が向くものではなかったが、それでも少女の献身は可憐だとそう思う。  だから、かもしれない。  それは本当にふと……今まで尋ねたことのない言葉が、夜行の口をついて出てきた。 「龍水よ」 「は、はい」 「おまえは、龍明殿にとって養子であり、拾い子とも聞いている」 「しかし、おまえは龍明殿のことを非常に敬愛し、そして慕っている」 「それを寂しく感じたことはないのか?」 「寂しい、ですか」 「そうだ。実の母親に会いたくはないのか? 龍明殿も、おまえがそのように申したところで、咎を問うものでもあるまい」 「口添えすれば出自を調べるぐらいはしてもらえよう。それで見つかるかはさて置いてだ、問いかけてみたりはしないのか?」  このようなことを聞いた夜行自身、いったいどのような答えを待っているというのか分からない。  そもそも本当に知りたいことかと己の内をふり返れば、そんな疑問は存在しない。この少女の密やかな思いを剥き出しにしたところで、どんな情も欲も湧いてはこないだろう。 「…………」  しかし、少女は思った通り、今までのどんな会話のときよりも真剣に答えを紡ぎ出そうとしていた。  瞳はまっすぐと未来を向いており、鼻はしっかりと今の匂いを嗅いでいる。そして、口から吐かれた言葉は真実偽らぬ過去を語るものなのだ。 「会いたいと思ったことはありませぬ」 「なぜ?」 「はい。なぜなら、私にとっての母は母刀自殿だけであり……」 「そうであるのにも関わらず、私は、母刀自殿のことを何も知らぬからです」 「私には母刀自殿と出会うより古い記憶がございません。実の母といっても何も分からぬし、特に拘りもないのです」 「ですから、憚りながらも御門の娘として、母刀自殿を最愛の母と思っています」 「なるほど。では、おまえは幸せというわけか」 「それはもちろん! 母刀自殿を母に持ち、夜行様の傍に置いて頂けることを、どうして不幸などと思えましょうか」 「今の幸せは、私にとって最大限望めるもの。そう言っても、過言ではないと信じております」 「なるほど……己が望む幸福、か」  少女は破顔して答え、夜行はその姿を前に己と似ていると感じていた。実際、二人の境遇は類似点が多い。  もちろん細かな箇所で総てが似ているのではないが、ただ一点が同じだった。  自分の由来となる記憶がないこと。  記憶が定かである時点で、夜行は既に太極の呼吸を掴んでいた。それを可能にしている点に、彼が摩多羅夜行であるという以上の理由がない。  ゆえに、彼自身の記憶はここ十年ほど前で途切れている。もっとも古い記憶は、龍水と出会ったときのことだ。  彼の法は彼だけのもの、御門一門の流派には一切掠らない。ゆえに当主たる龍明から手ほどきを受けたこともない。  ならば、逆説的に考えるなら── 「…………」  この少女との――龍水との出会いから、彼は世界にいたということだろう。 「あ、あの。夜行様……いかがなされましたか。考えごとでございますか?」 「そのようなところだ」 「そうですか――、っ!」  そのとき、二人の間に何かの音が流れてきた。 「夜行様!」 「これは、歌か……」  耳に届く微かな歌声、透き通るような音色を前に彼らは同じ地点を見つめる。 「どうやら歌っているのは、あの屋舎の上のようだ。先を急ぐか、龍水」  どうやら、あの建造物の上にこの地の凶事が待っているようだ。  過去探りはそこまでにして途切れ、意識は此の先へと紡がれる。  ──あの、死を煮詰めた如き鋼鉄の戦鬼。  その影を意識の淵に留めながら、夜行は己が足を動かした。  そうして各々ばらけた後、俺たちが向かった先にはこの町でも一際異彩を放つ光景が待っていた。 「おいおい。これってどういう場所だよ。なんか危ないんじゃないか?」 「厳粛な雰囲気だ。まるで荘厳な儀式をするための場所といった風情だな」  竜胆の言う通り、ここが何かの儀式場だということが俺にも分かる。いや、正確にはだったか。  すでに朽ち果ててはいるものの、そういう特殊な気配はまだ残っている。そして何が異彩かと言えば、どうもここだけ建築の文化が違うように思えたんだ。どことなくだが、不二の迷宮と似た感じの意匠に見える。  それに少し薄ら寒いものを感じたんだが、竜胆はそうでもないらしい。だから俺も、ここは普段どおり振舞うことにした。 「こんなにしっちゃかめっちゃかに壊れてちゃ、もう何の儀式もできねえな。もったいねえの」 「まあ、な。浮き足だっていては、せっかくの公事や祭事も堕落したものに成り下がってしまう」  確かにそれはそうだろう。だけど相変わらず糞真面目なその言い様と、公事祭事って単語からふと思ったことがあったので口にした。 「なあ、竜胆」 「おまえ、祝言でも眉間に皺を寄せてたりするんだろ」  なんかこう、びしーっと背筋正して、むしろ戦に向かうときのような態度で臨みそうな気がする。 「う、うるさい。祝言なればこそ、門出を祝うのに軟弱な精神では、先行きが憂慮されてしまうのだ」 「そこまでがちがちに考える必要ないんじゃねえの?」  どうせ式が終わればやることヌキヌキポンなんだし、むしろそっちが本番だし。 「そういう無粋なところが、気に食わん」 「でも、苦々しくしてるのもそりゃ問題だろ」 「せっかくの祝いの席で難しいことばっかり考えてちゃ、それこそ無粋だ。野暮ってもんだぜ」 「わ……分かっている。おまえにわざわざ、そんなことを言われる筋合いはない」 「おい、せっかく心配してやってるんだぜ。少しは、男のそういう気遣いを汲み取って欲しいもんだ」  そこまで言っちまってから、俺は後悔し始めていた。少し言い過ぎたかもしれない。  こいつはこれで、別に女捨ててるわけじゃないもんな。いわゆる分かりやすい娘らしさっていうものが欠け気味なこと、本人も結構気にしてるようだし。  だから謝ろうかと思っていたとき、それを制するようにして竜胆が口を開いた。 「……ならば、試してみるか?」 「…………はっ」 「だから、真似事で試してみるかと言っているのだ」 「私だって、いつも苦い顔をしているのではない。祝言に列席したときの作法くらい心得ている」 「だから、そこでおまえが祝詞を言ってみるがいい――」 「ちょ、ちょ、ちょ、やろうぜ。早くやろう。祝言挙げよう。竜胆が、花嫁なのか? それとも家柄的に俺が花婿になるのか」 「待て待て待て! どうして、私とおまえが祝言を挙げるんだ。私は祝言の作法をだな――」 「だから、俺たちで祝言を挙げるんだろ。任せろ。そういうの緊張するけど、嫌いじゃないんだ! 仲間も呼んでぱぁっとやろうぜ……っ」 「こ、こ、この……」 「そうだ。衣装もこれじゃ味気ないし、何か用意した方がいいんじゃないか?」 「俺のは一張羅だし、おまえのは正装だろうけど、やっぱり祝言だったらそれっぽい純白の――――」 「この馬鹿者がぁ──ッ!」  竜胆の説教が止まったのは、それから半刻も過ぎたあとだった。  せっかく近い場所で探索してるのに、こんなことで時間を食ってたらみんなに悪いと説得をして、ようやく収まった。 「それでも私の臣か、益荒男か」 「いいから黙って奥へ進め、この馬鹿が馬鹿が馬鹿が」  だが、竜胆の機嫌は底辺で燻ったままである。 「……袖を掴みながら言うことかよ。そういうの悪くないけど」 「おい。言いながら、腰に手を回すな!」 「竜胆はいいのかよ。見ようによってはそっちの方が、俺へ寄り添ってるんだけど」 「下郎めが。そういう邪推しかできぬから、礼節足らんのだ」 「へぇへぇ。分かりましたよ」 「ま、安心しな。大将の身だけは、何があっても護り通しますって」  当然、それは本気も本気。それ以上に優先する目的はないとも言える。  しかし、竜胆は俺の本気ってもんをまったく分かろうとしない。邪推しているのはどっちだと言いたい。 「……おい」 「それ以上、尻を撫でるのならば、このまま後ろから首を刎ねるが、いいか?」 「ちょ、おいおい。本当に刃を首に当てるな。せめて、峰か鎬にしてくれって!」 「だったら、少しは真面目にやれ。これは物見遊山ではないのだ。私たちは探索のためにやってきていることを忘れるな」 「はいはい」  大真面目なんだけどな。おまえを護るって以外に、大切なことがあるんなら逆に教えて欲しいくらいだ。  正直この場所が何であろうが、竜胆が側にいるという状況で他に何を気にしろというんだか。しかし愛しの女のご命令なので、俺は何も言わず足を進めることにした。 「……ふむ。何かが待ち構えている気配はないか」 「やばいモンが潜んでたら、さすがに気配とかで気づくんじゃねえの?」 「おまえが、そういうのに敏感なようには思えないのだが」 「ま、否定はしないけどな。でも、そんな俺でも分かるぜ」 「ここにはもう何もいない。正確には総て終わったという感じか」 「何を言っている。もしかして、何か分かったのか?」 「いんや、何も分からねえよ。でも、研ぎ澄まされた戦士の勘ってやつかな」 「……一気に説得力がなくなったんだが」 「冷たいお姫さんだこと。そういう竜胆の方こそ、何か感じたりはしないのか?」 「なんかこっちに来てから、そういうアレに敏感になってたと思うんだけどよ」 「…………」 「おい、そこで黙んないでくれよ。気になるだろ」 「いいから、ついて来い」 「なんだ?」  奥へ進めば進むほど、瓦礫の山は酷くなっている。足の踏み場もないとはまさに言ったもので、大きな木片が板目になって落ちていたり、傍には釘や砕けた石が散らかっている。  俺が言うのも何だが、いったいどんな奴が暴れたんだか。  そうだ。密かに感じている違和感の正体はそれだ。この場所は、地震とか天災でこんな有様になったわけじゃない。  戦人の端くれだから分かる洞察力。こんなことを口に出したら、竜胆は信じないかもしれないが。  そうして、先へスタスタ歩き出した竜胆へついて、建物の奥へと足を踏み入れたとき──  俺の身体の中を何かが駆け抜けていった。 「お、おい。見たか、おい。すっげー可愛くなかったか?」 「──おい」 「そうではないだろ! おまえは何を見てるんだ」 「え、女の他に何を見るんだ」 「もういい。 しかし……ふむ。何か儀式の祝詞のようだったな」 「やっぱりしゅうげ――――」 「何だ?」 「何でもないです」 「それより、これからどうするかだろう」 「今の幻も何かの手がかりかもしれんが、差し当たってあの異国の娘が言っていた歌は聞こえてこない」 「時間とかも関係あるんじゃねえか。ほら、夜じゃないと聞こえないとか」 「分からん。しかし、捨て置ける問題ではない」 「……なあ、どうしてそこまで気にしてるんだ」 「なに?」 「だってよ。中院と話してたときから、気にしてるじゃねえか。あえて何も言わなかったが、俺もあれは奴の言うことの方が理解できたぞ」  俺がそう言うと、竜胆は考え込むように視線を下げた。 「あの娘が本当のことを言ってるかどうかもはっきりしねえし、その歌声で黒船は大変なことになったとしてもだ、俺たちは問題なく穢土にいるじゃねえか」 「俺からしたら、竜胆は少し敏感になり過ぎてると思うけどな」 「どういう意味だ?」 「もっと俺たちを信用しろってことだよ。何が起きても動じないから、益荒男なんだろ。生き延びるために俺たちが選ばれて、そうしてここにいるわけだ」 「だったら、そこまで心配するのは取り越し苦労なんじゃねえかってな」 「おまえの言うことは分かる。しかし、不二で私は思い知らされた」 「何をだよ」 「いかにおまえたちでも、化外の地では死ぬときは死ぬのだ」 「それも珍しいことではない。事実、ここに来るまでに何度も全滅しかけている。これでどうして楽観的にいられようか」 「おまえは歪みを持っているから、死に対して鈍いだけだ」  ああ、まったくその通り。知っていたとはいえ、改めてこいつの魂に触れた気がする。  そうだ。こいつはそういう奴だったよ。俺たちの誰もが自分のことしか頭にねえのに、こいつの頭の中は自分以外のことで埋め尽くされていやがる。  それが俺だけなら、もっと最高なんだが、まあそうそう何もかもがうまくはいかない。  そもそも茶化す場面じゃないし、何よりそれもまた大丈夫だ。俺は特に、死なないということに関しちゃ天下一品の自負がある。 「……大丈夫だ。そんなに簡単に死なねえよ」 「おまえは何を聞いている。そうではないから、私は――――」 「いいか。竜胆」 「覇吐?」 「おまえは勘違いしてるんだよ。俺は、別に俺だけの為に死なないって言ってるんじゃねえんだよ」 「それなら他にいったい誰のためだと言うんだ」  駄目だ、こいつ。鈍すぎる。それともわざと言ってんのか。  そういえば、女は言葉を言わせたがるとか何とか言ってたような記憶があるし……  いいぜ。なら、はっきり言ってやる。 「俺は、竜胆のために死なないんだ。それはおまえと同じだろ」 「わ、私と……」 「そうさ。俺は、おまえのために生き延びるし、おまえは俺のために死なねえんだよ」 「自分のためだけじゃないから、生きる。なんか心強ぇじゃねえか。死ななそうだぞ、いい感じだ」 「だから安心しろよ、竜胆。こうやってる限り、俺たちは死ぬことなんかないんだからな」  決まったな。決まりすぎて、怖いくらいだ。  このまま廃屋で、なんてことになったらどうするか。閨房の作法に自信がないわけじゃないが、雪崩れ込んだ後の言い訳を考えておかないと面倒なことになる。  とくに龍水の辺りはちびっ子のくせして、すげー五月蠅そうだし。  なんて考えていると、竜胆は耐えきれなくなったように笑い出した。 「ぷっ、くくく……は、はははっ」  …………おい。  案外いい度胸してるな、このお姫さん。 「その反応はねーだろ。これでも本気で言ったんだぜ」 「くっくく、す、すまんすまん。本気だから、つい耐えきれなくなってしまってな」  力ずくでいってみるか? 「しかし、おまえの言わんとすることは分かる。正直、なかなか嬉しい言葉だったよ」 「ありがとう、覇吐。礼を言う」 「そ、そうか? なら、いいけどよ」 「ああ。今後ともよろしく頼む」 「おうよ」  そうやって、あらかた調べ終わった頃……  俺たちがこの場所から離れようとしたとき、それは聞こえてきた。  異国の姉ちゃんが言っていたこと──俺らを誘う、異形の歌が。 「……どうやら、さっきの勘は当たってたみたいだぜ」 「これが歌声か」 「確かに聞こえるか聞こえないかという細い声なのに、まるで身体の中へ染み込んで入ってくるようだ」 「覇吐。方角と位置は分かるか?」 「まかせとけ。これでも、耳は悪くねえ方だからよ!」  そうして各々ばらけた後、宗次郎たちがやって来たのは海沿いの一角だった。 「足の向くままに来たつもりだったけど……」 「どうやら、来るべくして来たという感じだね」  この場所に来るまで何も喋らなかったというのに、前触れ無く語りかけてきた紫織の言葉は宗次郎にとって理解しにくいものだった。 「……意味がよく分かりませんが」 「ここって、きっと古戦場だよね。だったら、私たち二人がお似合いじゃない」  やっぱりよく分からない。 「古い戦場というのには同意しますが。なぜ、似合っているなどと思うのですか?」 「だってさ、一組は心配性の兄貴と小言の多い妹」 「一組は鼻っ柱が強いお姫様と下心ありありの三枚目」  確かに異論は無かった。わりと冷静な観察眼を持っている。  しかし…… 「三枚目とは酷いですね」 「で、こっちは無愛想な一途剣士と、文武両道で容姿端麗。それでいて奥床しい美女の私」  他人を見ているくらい自分のことを冷静に見つめるのは、どうやら難しいらしい。 「こういう場所は、それなりの雰囲気ってもんがあるからね。私たちにぴったりだと思ったわけだ」  とはいえ、余計なことを突っ込んで相手の気分を害すれば、それはさらに余計で鬱陶しい事態を引き起こしかねないのをここまで学んできたつもりだった。 「……はぁ。そうですね」  なので、生返事をしながら宗次郎は辺りを見まわす。少なくとも敵の気配や、陰気の痕跡は感じ取れない。時の停止した穢土の中、この諏訪原だけ特に強固な法則で括られているようだ。  周囲に存在する瓦礫。群生する植物に覆われて年月を感じさせるが、その光景は── 「古戦場とはいえ、凄まじい爪痕ですね」 「確かにね。普通の戦いをして、こんなになるものなのかな」  時間停止ゆえの残り香だろうか。この地であった確かな力の激突を、二人は共に感じていた。  現在立っているのが橋の上だというのは分かるが、信じられないことに鉄骨で出来ている。しかもその大半が溶け崩れているだから、ここで常軌を逸した熱が発生したとしか思えない。 「もしかしたら、化外同士が争うこともあるのかもしれませんね」 「それか、覇吐さんや凶月一族並みの歪みを持つ者が戦った跡とか。それなら幾らか納得もできますが……」 「まあ。〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》だったら、これくらいはやるかもね」 「この穢土でも、昔はもっと多くの天魔がいたとか、かな?」 「どっちにしろ、総ては過去のものでしょう。今この場になく、刃の先にいないのならば考えるだけ無駄なことかと……」  思ったままの感想を口にしたことに対し、紫織の反応は少しだけ予想しないものだった。 「ふぅん。宗次郎らしいね」  武の先に掲げる野望。自分のための夢、己だけの目標、自分が自分と成る命題。  それこそが明らかに自分と相違しているのだと、紫織の声には そういう所感が含まれているように感じた。 「紫織さんは、違うのですか」 「私は別にこれといった宿命とか、野望とか、そういうものは持っていないもの」 「玖錠の出が、随分と自由なことを言うんですね」 「前も言ったでしょ。私は家督継げないし、継ぐつもりもないって。弟が一人前になるまでだよ」 「そしたら、その後はどうするつもりなんですか」 「おや。今日は、色々と聞いてくれるんだね」  指摘されて気づく。他人のことであるのに、根掘り葉掘り聞くようなまねをしていること。 「……おかしい、ですか」  自分でもよく分からない感覚だったので、うまく否定もできない。 「そうじゃなくて、何にも興味が無さそうな宗次郎にたずねられるのって、悪くないなって思ったのよ」 「悪くないって、どことなく獣というか珍獣扱いされてる気分になりますね。興味が無いというのは否定しませんけど」 「ちょっと、もしかして機嫌悪くした?」 「そうでもありませんよ」 「でも、普通は逆だと思うけどなあ。女にそういう風に言われたら、男なら嬉しくなったりするもんじゃないのかな」 「そうなのですか」 「……私に聞かれても分からない」  明らかに気分を害したようだった。 「し、失礼しました」 「……ぷっ。なんだか、いつもと違うねえ。どうしたの、穢土に来る途中で変化でもあった?」 「紫織さんも同行していたでしょう」 「でも、他人の気持ちなんて分からないし、何より男の考えてることなん――――」 「ッ―――― こ、これは」  そうして、話が煮詰まりそうになったとき、滾るような幻が彼らの周りを瞬時にして包み込んだ。  奈落の底へ落とされるような感覚には覚えがある。  乱れた意識が集中力を削ぎ、咄嗟に構えたその先に── 「今のは……」  激しい戦いが頭の中を駆け巡る。  ふと紫織の顔を見ると、彼女は思いがけず眉間に皺を寄せて苦い顔をしていた。  ……いや、これは明らかに苛ついている?  さっきの女性──それが何か鼻についたのだろうか。正直彼女らしくないような、敵意めいたものが身体から滲み出ている。  よく分からないが、しかしそれ以上に察知できるものがあるわけでもない。  垣間見た幻へ、見たままの感想を述べた。 「なるほど、〈同〉《 、》〈士〉《 、》〈討〉《 、》〈ち〉《 、》。あながち的外れな推測ではないかもしれない」 「片方は人間みたいだったけど、やっぱりあれも化外なのかな」 「おそらくそうでしょう。あのような技は、人間のものではありません」  炎、炎、炎──視界を埋め尽くす業火。そしてそこに在る、剣を携えた何者か。 「あれ、もしかして剣士の血が反応したりした?」 「さあ、どうでしょうか。あれが剣を使っていたのなら、一考していたかもしれませんが」  あれは、剣や刀の部類じゃない。もっと別の用途、違う目的に特化したもの──槍に近いと宗次郎は類稀な直感から看破していた。  技巧もどこか荒削りで未熟だった。整えすぎた構えは、それだけで切れ味のみを追求した剃刀のように切断力と反比例する脆さをも見出してしまう。  ならば、あれと相対していた者に対しては……と考えても、それほど食指が動かなかった。 「それに、僕の目標は天下最強の剣士ですから。過去の人間には興味がありません」 「単純に戦えない。刃を交えることができなければ、それは僕にとって争う相手ではありません。だから、どうにも興味がわかない」 「なるほど。それじゃ、宗次郎がいう天下最強の剣士っていうのは、最後に生き残るのが大事なんだ」 「少なくとも、僕はそのように考えています。ですから──」 「だから、紫織さん。いつか僕はあなたも殺します」  淡々と、散歩するかのように軽い口調で宗次郎は紫織に告げた。 「うん、やっぱり……」 「分かってるって。簡単に殺される私じゃないけど、宗次郎とは戦うことになると思ってるよ」 「はい。この東征で化外を総て屠った後、僕は覇吐さんとも、刑士郎さんとも、必要があれば夜行さんや龍水さん。竜胆さんさえ斬るつもりです」 「全員斬るのは変わらない。僕にとって、それだけが最強を証明する手段ですから」 「うーん……」 「どうかしましたか?」 「でもさ、それって矛盾してない?」 「矛盾? なぜですか?」 「だって、天下最強の剣士になったんなら、誰かがそれを認めないといけないわけでしょ」  そういう意味か。自分でも、すでに何度も通りかかった疑問点なので、まったく驚かずに彼は答えた。 「そういうことですか。それも心配は無用です」 「天下最強であることを、僕が僕自身で分かっていれば、それでいいので」 「……そっか。でもさ、今度はそうすると先がなくなるんじゃいの?」 「極致に達するのが目標ですから、先があるはずないでしょう」 「いやいや。それは理想じゃん。私だって武芸嗜んでるから分かるけどさ。私たちが力を手に入れたり、技を磨いたり、それから心を強くしたり」 「それは先へ先へと進むため。どっかで終わればいいのなら、もう技を磨く必要がなくなるでしょう? 当然、力はどんどん弱くなる」 「だから、せっかく天下最強の剣士になっても、それは終焉への秒読みだよ。戦う相手がいなかったら、壬生宗次郎が最強でいられるのはわずかの一瞬だけになる」 「後に残るのはかつての頂点。〈最〉《 、》〈強〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》剣士でしかない」  その言葉が──どうしてか、初めて、彼の外殻を引っ掻いたから。 「……だったら、紫織さんはどうなんですか?」 「私はって、どういうこと?」 「紫織さんもそうでしょう。より強く、より高みへ、その基本思想は僕とそう変わらないはず」 「ならば、あなたはどうやって先を見つけていくんですか? 戦う相手がいなくなったら、きっと僕と同じになるはずです」  そうして相手に目を向けると、彼女は不思議なことを口にした。 「だったら──」 「私は、ずっと戦える相手が欲しいなと思う」 「ずっと戦える相手、ですか……?」 「そう。それなら、過去になんか自分は堕ちていかないし。ずっと上を向いていられる」 「…………」 「ねえ、宗次郎もそうすれば?」 「……いえ」 「僕は、目的や手段を変えることが良いとは思えませんので」 「わかりました。それでは、東征後にどちらかが正しいか確かめましょう」 「いいね、それ。もやもやしたままっての、気持ち悪いから賛成だよ」 「ええ。覚悟しておいてくださいね。必ずや、この剣で貴女を斬り伏せてみせますから」 「分かってる。だから、私も手は抜かないよ」 「そうですか」  思わず笑みがこぼれてしまいそうな自分に気づいて、宗次郎は慌てて後ろを向いた。  するとそのとき、竜胆から聞いた歌声らしきものが、彼らの耳にも届いてきた。  とうとう姿を現そうとしている、この場所を預かる存在。それは恐らく宗次郎の怨敵ではないけれど──  いいだろう。ならば斬る。よらば斬ろう、何者をも滅するために。 「宗次郎、行くよ。私についてきて」 「分かりました」  残らず斬り滅ぼしてゆけば、先ほどの約束通り自ずとこの女性にも辿り着くのだから。  心の中で自らに言い聞かせるよう呟きながら、宗次郎は紫織と並走して目的地へと向かっていった。  そうして俺たちが合流したとき、またもやあのわけ分かんねえ幻が飛び込んで来やがった。  これはいったい何なんだ。  途中で合流した夜行と龍水に聞いても詳しくは知らんと突っぱねるし、次々に合流してきた他の奴らも分からないと首を振るだけ。  竜胆にいたっては、表情を見る限り戦う決意を固めているみたいだった。  この面子総出となると、分担をしっかり決めとかなきゃ面倒なことになるかもしれない。  全員で広場のような場所を駆けると、目の前には妙にでかい建物が崩壊せずに残っていた。  歌声に引っ張られるように突入し、俺たちは中の階段を駆け上がってゆく。  そして、歌の発生源である最上階には最後の幻が待っていた。  それが、あまりにも美しく──  あまりに儚く、切ないものだと感じたから。  目を奪われそうになったその輝きを、俺は罠と断じて無理矢理に気勢を上げていた。 「いよいよ、お芝居も盛り上がってきたってか」 「おい、龍水。これはいったい何なのか、分からねえのか?」 「知らん。母刀自殿から、このような術法を伝授されてはおらんのだ」 「何だよ、役に立たねえな。俺や宗次郎と出会ったときなんか、ビビッとすぐに見破りやがったじゃねえか」 「う、うるさい! 分からんものは分からんのだ」 「まあまあ。ここは穢土なんだからさ、そりゃわけ分かんないことだって色々あるよ」 「どうやら、それぞれ別れてから見た幻と、同じモノのようでございますが……」 「竜胆様は、どう思われますか?」 「はっきりしたことは私にもさっぱり分からないが……しかし、ここに来るまで、皆あの影のようなものを見てきたようだな」 「おそらく、ですが。あれは歪みで引き起こされているものではありません」 「咲耶がそう感じるんなら、そうなのかな。実は私と宗次郎は、歪みの一種なのかなとも思ってたんだけど」 「そういや、おまえらだけは濃くない二人組だったな」 「唯一、まともな組み合わせと言って欲しいところですけれど」 「夜行。おまえなら、何か知っているのではないか?」 「ふふふ。さてなあ」 「相変わらずだな。まあ、今さら気にしないが──」 「それより大将。さっきからむっつり顔でだんまりだが、何か気分でも悪いのか?」 「うるせえよ。話しかけるんじゃねえ」  なんだこいつ、らしくねえツラで考え事しやがって。面倒くさい奴だな。 「さて、どうする。はっきりした敵はいなかったけどさ、これで異常なしで戻るわけにはいかないんじゃない? 面子的にも」 「無論だ。せめて、穢土の瘴気によるものなのか、それとも化外によるものなのか見分けがつけば良いのだが……」  はっきり言って、どっちに結論が出てもやるこた変わらん気がするが、口を挟んでもそれはそれで竜胆の邪魔をするだけだろう。  だからまあ、毎度だけど俺が言うことは一つしかない。 「竜胆、安心しな。何がどうなっても、護ってやるからよ」 「おまえは、いつでも格好つけたがりだな。だからこそ、説得力に欠けるんだが……」 「ふん。もしかして、私に可愛い女にでもなれなどという世迷い言を吐くつもりではあるまいな」 「まさか。それ以上、可愛い女になられた日にゃあよう。俺の手にも負えなくなりそうで、そりゃ勘弁だ」 「……ば、馬鹿者めが」 「ふふ。このようなところで、今のような状況で、竜胆様と覇吐様は本当に仲がよろしゅうございます」 「むしろ、恥ずかしい奴とも言う」 「竜胆様。お灸を据えるのなら、今のうちが吉かと思います」 「阿呆どもが。付き合ってられねえな」 「それには同意します」  最後の幻影は儚くて不可解だったけど、それよりも何よりも幸せそうに見えた。  ゆえに分かる。俺らのこの馬鹿やってるノリは、言うなれば餓鬼が対抗しているようなものなんだ。  ともすれば、あの輝きに包まれたいとさえ感じていたから──  俺たちだって、あの幻くらいには楽しそうにやれてると見せ付けたいのだ。有体に言えば、負けたくない。それは全員が朧げながらも感じた気持ちかもしれない。  東には竜胆に乗っかって来ただけだが、それだけでも意味があるんじゃねえかと思ったりする。  竜胆の顔を見ると、こいつも同じように感じてるみたいに見えた。  そして──次の瞬間。一切の前触れなく、計ったように天を光が貫いた。 「なんだ、この光は。あの幻か?」 「まるで空へ還ってゆくようです……」 「これは……夜行様! 結界を――ッ!」  誰もが見上げる、その中で。 「────」  ただ一人。 「〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》、〈何〉《 、》〈だ〉《 、》」  なぜか、刑士郎だけが濃密な殺意を全身から立ち昇らせていた。  街中の幻が集まり登ってゆく。  暗空で渦を巻き始める光の中心から、空ごと叩いて振るわせるような声が鳴り響いた。 「は、男共はつまらねえ奴らばかりじゃねえかよ」 「一丁、オレが洒落ってのを教えてやろうか?」  諧謔と権謀を好むような、悦と嘲笑に満ちた声が── 「ほう。どうやら、そろそろ幕が上がる時間のようだ」  異変があったと報告を受けてたどり着いた場所は、夜であるのに空は怪しく輝いていた。  肌で感じる悪寒や圧迫感。そして、死の予感。  同行させた兵たちの緊張も限界に達しようとしているのを見計らって、冷泉は一人優雅に含み笑っていた。 「余興が余りにも過ぎると、かえって興が削がれるというもの」 「れ、冷泉殿。どういう意味でございますかな。あの空は、いったい……?」 「分からぬか。分からぬよなあ。まだ穢土に来て間もない貴君らでは、大いに慌てふためくことであろう」 「なっ……! それは暴言ですぞ! いくら中院とはいえ……」 「ほうほう。ならば、そこの娘に聞くがいい。暗愚な貴君らにも分かるように説明してくれるだろう」  なあ──と、語りかけた先にいるモノ。  声をかけられた娘は、意外そうに口元を歪ませて笑った。 「──へぇ」 「なんだ。あんた、気づいてたんだ」  と娘は言うが、さて全貌が分からずとも慌てふためくのは美意識にも合わない。  また目の前でうろたえる男への生理的な嫌忌の念は、そういったところから来るのかもしれない。 「さて。何をかな。〈女子〉《おなご》の遊びに付き合うのは、男児の嗜みであると我は心得ているつもりだが」 「ふーん。つまんない男の集まりだとばっかり思ってたけど、中にはあんたみたいなのもいるんだね」  冷泉もそれに関してはまったく同意。この兵どもや暗愚な権力者には、嗜みというものが決定的に欠けているのだ。余裕がなく、個我が弱く、そして醜い。 「もっとも、あんたは私らが望んだ手合いじゃないっぽいけど、さ」  すると予想通り、不敏な男がわめき散らすように叫ぶ。 「ええい! 解せぬことを申すな。我は六条家の当主であるぞ。中院! この娘は、こちらで召し捕らせて頂くぞ」 「そうしたければ、すればいい」  なんと浅薄で及び腰な反応であろう。この男には、慈悲も湧いてこない。 「ほほう。どうやら冷静になられたようでなによりだ。なに、しっかりと詫び入れば、この六条も事を荒立てるつもりなどないから安心したまえ」 「何を勘違いされておるのか、貴君のすることに興味など無いよ」 「娘。これ以上の暇は必要ないであろう」 「幕を開けるのならば、盛大にすればよい。それとも、まだ何か必要なのか? すでに我の興は冷めかけておるのだが」  そうだ。幕を開くのならば、それ相応の御神楽や祝詞、舞姫が必要であろう。  さぁ、我を楽しませてくれよ──化外の娘。 「ああ、そうなの。あんた達を楽しませるつもりはないし、飽きてきたってのはよく分かるよ。あたしも大体同じだし」 「必要なものなんてないけど、そうね。あんたのお言葉に甘えて、一つだけもらっとこうかな」  倦怠を覚えているのならば話は早い。  豪奢な供え物よりも、生臭い贄が欲しいというのならばそれもまた一興というものだと冷泉は考えた。  二人の視線が共に同一の者へ向けて移動する。すなわち── 「おい、そこの異人めが。主の身は、我の部隊に所有権があるのだぞ」 「うん、それで?」 「ふん。そう平静でいられるのも今のうちだ。……そうだな、穢土において東征軍を労う意味でも、女が不足しておる」 「どうせ異国へは帰れぬ身だ。たっぷりと我が部隊へ尽くしてもらお――」 「ガ、ギィ――! かっ、ぁ、ぴぎ、ぃ……っ」  宴の狼煙に対して冷泉の感想は一つ。ああ、散り際さえなんと醜いものだろう。  首を斬り飛ばされてなお、生きた頃よりひたすら醜い。矮小なり、足にかかりかけた血の飛沫を自然に避ける。 「うっわぁ、えんがちょ。汚いおじさんだと、結局こういうのも汚いんだよね」 「ねえ、なんか布持ってない? これでも綺麗好きのつもりなんだけどさ」 「さて、こちらの持ち物を死体の血で汚すのもなあ」 「それで。おまえは我も殺すのか?」 「なんだ、全然びびってないんだ。それにまったく怒りもしないし」 「何も感じぬよ。六条の当主が、どう囀ろうが死のうが、我の興の向くところではない」 「じゃあ、もらうのは一つだけって約束したし、あんたは見逃してあげる」  すると娘は、こともなげにそう言って── 「あんたは結構使えそうだからね。だから、ここで殺すのはもったいないかな」 「きっと、次の覇道を試す試金石になるだろうしね。あれの加護を受けたあんたぐらい、なんとかできなきゃ意味がないもの」 「ふむ。それで、同行してきた兵士達はどうするのだ?」 「ん? ああ、そりゃ当然」 「――皆殺しだよ」  瞬間、娘が軍刀を振るうと周りに帯同していた兵士たちの首が総て弾け飛んだ。  一度振れば五つの首が、二度振ると三十超えて、三度振っては百人殺す。  さほど長い得物ではない。ということは、当然のことながらただの剣撃ではないのだろう。  威力も激烈。飛沫となって散らかる肉が、まるで舞台に咲きこぼれる紅い花吹雪のようだった。 『おいおい。もう少し遊ぶんじゃなかったのかよ』 「そのつもりだったけど、なーんか面倒くさくなったの」 『で、そいつは殺さないのか』  空から響く声には、どことなく道化享楽の趣きが混じっている。 「まあ一人くらいは生かしておこうよ。きっと悪いようにはならないからさ」 「それより、あたしもそろそろそっちへ戻りたいんだけど」  すると彼女自身からも風が吹き── 「 」 「 」 「 」 「 」  そして瞬間――この諏訪原で鬼の祭りが始まった。 「おいこの感じ……奴さん、いきなり全開じゃねえか!」 「……ふむ」  不意に夜行の野郎が、何かを感じ取ったようにつぶやいた。 「まずいな──これは、詰んだか?」  まだ始めてもいねえのに、いきなり何を言ってやがる。  だが夜行は落ち着いた様子で、しかし同時に僅かだが驚いているようでもあった。  閉じた目で見つめているのは己が手の平。それを二度、三度と開閉しているその仕草は、まるで何かを確かめているようであり…… 「はあ? ちょっと待て夜行、おまえ何いきなり不吉な──」  するとそのとき、俺は全身を縛らるような窮屈で息苦しい圧迫を感じた。  自壊の毒を浴びせられたような不快感。己の中で、何かが蝕まれている感覚を幻視して── 「な──ッ」 「これは、いったい……!」 「〈理〉《ことわり》が、歪む? いや、まるで砂上の楼閣が如く、掻き消えているのか──?」  どうやら周りにいる奴らも同じみたいだ。  これまでの化外と同じく、何か呪いみたいなもんを吐いて現れた奴から言いようのない縛りを感じる。  これは……何だ? 何か得体の知れない感覚がする、どうにもこうにも形容できない。奇怪という他ないものだった。  〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈や〉《 、》〈術〉《 、》〈が〉《 、》〈欠〉《 、》〈片〉《 、》〈も〉《 、》〈出〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。いや、出せたとしてもそれが〈途〉《 、》〈端〉《 、》〈に〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  だが、今はそれだけを気にしてる状況じゃないのもまた事実。竜胆と咲耶もいるこの状勢はマジでやべえ。 「……来る!」  竜胆の言葉とともに、俺や宗次郎が同時に構えた。  しかし、俺たちよりもさらに一歩前に出たのは刑士郎だった。 「──おまえら、今すぐそこを退け」 「あれは、俺の獲物だ。ずっと前からそう決まっている」 「……兄様?」  何だ? どういうことだ。こいつだって状況が分からねえはずはないだろう。  この妙な圧迫感は今までとまったく違う。力の多寡以前に、性質がどうにもヤバイ。  それでも刑士郎は、俺たちの反応と違っていた。我が意を得たりと言わんばかりに、両の目をぎらつかせてやがる。 「さっさと来いよ、この〈糞〉《 、》〈餓〉《 、》〈鬼〉《 、》」 「〈今〉《 、》〈度〉《 、》〈は〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈を〉《 、》〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈逃〉《 、》〈が〉《 、》〈さ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》」 「──は。相変わらずだな、そちらもよ」  すると再び、天から落ちてくる男の声。  なんだこいつら――刑士郎の野郎は、何を知ってやがるんだ。 「ほんと懲りない男だよね。でもさ、しつこい男は嫌いだけど、懲りない男は嫌いじゃないよ。可愛いと思わない?」 「ああ、まったく同感だ」 「 」 「 ぃ   」 「 」 「    」 「古巣にお帰りなさいませ、ってな。歓迎でもしてやろうか、なあ?」  鬼が、刑士郎を見下ろして喉を転がしながら嗤ってやがる。  こちとらそれどころじゃねえってのに、なあおい。この圧迫感を説明しやがれ、刑士郎よ。  だが、そんなこちらの疑問を度外視したまま── 「      」  響き渡る鬼の歌が更なる圧迫を強めていく。それに鳥肌どころじゃない怖気が全身を走り抜けた。 「     」 「    」 「   」  やばい、ただやばい――何を言っているのかまったく理解できないが、途轍もなく不吉な音の羅列であることだけは理解できる。 「     」 「  」  これは業病、死の病だ。回避不能にして治癒不能、鬼が操る鬼殺しに他ならない。  今、その〈太極〉《どく》が形を成す。 「」 「  」 「     」  響き渡る鬼の歌が更なる圧迫を強めていく。それに鳥肌どころじゃない怖気が全身を走り抜けた。 「     」 「    」 「   」  やばい、ただやばい――何を言っているのかまったく理解できないが、途轍もなく不吉な音の羅列であることだけは理解できる。 「     」 「   」  これは業病、死の病だ。回避不能にして治癒不能、鬼が操る鬼殺しに他ならない。  今、その〈太極〉《どく》が形を成す。 「」 「  」  ──具現したのは、山すら越える巨大な鬼神。  腰を降ろした姿勢のまま、足の間に俺らの存在する場を置いて見下ろす極大の神威。夜都賀波岐に数えられる天魔が、俺たちの眼前に現れた。  興味、悦情、侮蔑、諧謔──感じる波動は迂遠なそれに満ちていたが、しかし桁が外れている。  歪みの源泉たる存在を前に、呼気からこいつの法が叩き込まれているのがよく分かる。  すなわち、歪み殺しとも呼べるものが…… 「なんという、巨躯……!」 「でけぇ……!」  座ってやがるのに雲をついて空を舐めようかという巨体。さらに先ほど感じていた、自分の歪みが消される感覚が最高潮に達している。  総て、俺らは切り札を封じられた。頼りにしていた法則そのものを踏み躙られ、全員の背に戦慄が走る。  切迫する状況で頭を回しまくっていると、夜行がまた呟いていた。 「なるほど、二面……いや、これは両面。ゆえにその〈咒〉《な》は」 「……宿儺」  いや、今度は夜行の野郎だけじゃない。咲耶までが両面の大鬼を見上げながら、ぽつりと言った。  そう、奴こそ伝承にある天魔・宿儺。その存在を前に、俺たちはたじろぐしかない。  だって、そうだろうが……俺たちは今、まさしく〈丸〉《 、》〈裸〉《 、》の状態だ。歪みも術も用を成さないなど、牙と爪をもがれているに等しい。  最悪、という他ないだろう。嬲り殺しされるのは眼に見えている。何よりこいつ、そういう風に他人で遊ぶのが大好きそうな雰囲気だ。  しかも……あの姉ちゃんまであいつの一部か。見事に嵌められたっていうことかよ。 「よう、〈糞〉《 、》〈餓〉《 、》〈鬼〉《 、》ども。どうだったよ、オレが用意した芝居は楽しめたか」 「そうさ、もうこの〈色〉《まち》は死んでいる。だからこそ、てめえらが足を踏み入れていい場所じゃねえんだよ」  ってことは、つまり…… 「あの訳の分からねえ芝居は、てめえが用意したもんなのかよ」 「ああそうだぜ。せっかくお迎えするのに、何にも用意しませんでしたじゃ、つまんねえからな」 「何の意味があったとか、やってどうするんだとか、そういう萎える質問はもちろん却下だ。そっちで勝手に考えてな」 「おまえらだってそうだろう? 意味だの何だのそういうの、適当にでっち上げてここまで来たのが図星だろうが」 「で、どうだった。面白かった? あたし達も、なるべく面白そうなところを選んで見せたつもりだけど」 「まあ、それぞれ感じ入るものがあったみたいで、何よりだ」 「どうよ、死の後に残ったものを見た気分は」  すると奴の問いに、竜胆が堪えきれぬよう身体を震わせながら、絞り出すように答えた。 「……感動した、とでも言えばよいのか?」 「いいや。むしろ、〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈み〉《 、》〈ろ〉《 、》」 「それぐらいの気概見せてもらわねえと、わざわざ出向いた意味がないだろう」 「超える、だと?」 「そうだとも」 「そのために──おまえは、〈修羅道〉《おうごん》の欠片を手にしたんだろう?」 「なら、一つ何か説いてみろよ。たとえば、どういう形に塗り潰したいか……なんてな」  ……何だ、そりゃ?  何を言ってるかまったくさっぱり分からねえが、どうやら竜胆へ問いただしたいことがあるらしい。 「……夜行様。奴は油断しています。今のうちに遁走の陣を張れないものでしょうか」 「おいおい、そこのちびっ子。無駄なことはやめておけ」 「んなっ、ち、ちび──ッ」 「隣のそいつは分かっているみたいだぜ、オレの〈渇望〉《ねがい》が何なのか」 「なあ、突破できるか?」 「不可能よな」 「そういうことだ。逃げられねえよ」  なんだ? 夜行の奴は、やっぱり何か知ってるってのか?  このわけ分からねえ、歪みをもって歪みを潰すだなんていう背反。相手を嘲笑う裏面を選択したかのような、性根の捻じれている力の源を…… 「しかし、なんとも変わった祈りなことよ。御身、まさか自滅するのが好みかな?」 「さあてな、答え合わせはまた今度だ」 「それから……」  つい、と――鬼神は刑士郎へと目を向けた。 「よう、会いたかったぜ──お兄ちゃん」 「あの女からの贈り物は気にいったか? もう試してみたなら、使い心地を教えてくれよ」 「まさか、まだ掴めてないとは言わねえよな? 元々、おまえの中にあったものだぜ」 「…………」 「はは、相変わらず血の気が抜けてねえか。ま、それも当たり前だな。むしろ、ここからさらに血の気は増していくだろうよ」 「黙れよ」  そうしていると刑士郎は、もう爆発寸前という様子だった。  短く切った言葉は、決してこいつが落ち着いているからじゃない。むしろその逆、頭の中が振り切れすぎておかしくなりかけてやがる。理由は不明だが、刑士郎は今かつてないほどにキレかけていた。 「兄、様……?」  やべえぞ。得体の知れない重圧は解けてもいねえ。だが刑士郎の馬鹿は俄然やる気だ。  咲耶もそれを感じているのか、逸る奴の様子に戸惑いを隠せていない。  このままがちゃがちゃ始めて、あの巨体を退けられるのか。やっぱさっきの瞬間にこっちから仕掛けた方が良かったかもしれねえが……それも後の祭りに過ぎない。  俺が竜胆へ目配せしようとしたとき、けれど奴はまた意外なことを言い出しやがった。 「まあ待ちなよ。ここは一つ遊びでもして、雰囲気変えてみない?」 「なっ、遊戯だと……?」 「おお。そりゃ、いいな。せっかくおまえら八人が揃ってるんだ。数も同じで丁度いい」 「この街には、八つの特別な場所があるんだ。あんた達とぴったり同じ。これはすごい偶然だね」 「というわけでだ。全員オレの遊びに参加してもらう。当然、拒否は許さねえ」  こいつら遊んでやがるのか。真剣味がまったくねえ。他の化外とそこがまったく違う。  程度の差はあれ、あいつらは俺らのことを毛嫌いしてるし、東を奪わせないと必至だった。しかしこいつは何か違う。視線の奥に別の光が覗いていた。  どの程度かと推し量るような……  それはまるで、そう。俺たちを導いてきた、あの謎多い女傑を連想させて── 「乗らないと、今すぐ潰しちまうぞ?」 「こういう感じに」  だが、再び発してきた波動に思索は打ち切られる。 「――――っ、ぐ」 「この、圧力っ……!」  やっぱりこいつら、ふざけてるように見えて並大抵じぇねえ。つうか、マジで気持ち悪い。この感覚はいったい何だ?  外から抑えつけるというよりは、内側に存在する力そのものを直接ぶっ叩かれているような気がする。内臓を手で握られているような気持ち悪さがそこにはあった。  理解する。他の化外よりもこいつは数段厄介だ。単に殴ってくるような相手の方が、これの数倍はやりやすい。 「やることは簡単だ。オレを楽しませればいいんだよ」 「これからオレはおまえら一人一人に質問をする。だから随時、それに気合い入れて答えろや」 「ちなみに、嘘ついてつまんないこと言ったら、殺すから」 「もちろん、逃げようとしても殺す」 「そういうわけで、遊戯開始だ」  そうして、奴は俺たち一人一人を舐め回すように目を寄せてきた。  気色悪いが、どうしても身体が重い。うまく動けねえ上に打つ手もないから、間違いなく俺たちは蟻か薮蚊のように潰されちまう。 「まずは、そこの背の高いおまえだが……」 「なるほどねえ。この中じゃ飛び抜けてるな、自覚あるだろ?」 「若輩ながら、多少の素養はありますので」 「謙遜かよ、似合わねえなあおい。水銀みたいな真似はよせよ」 「まあ、いい線まで来てるぜ。いきなり褒め出してオレも調子狂うんだが、嘘を吐いても意味ねえからな」 「それほどだったら、さぞかし餓鬼の頃から天才だったんだろうな。できないことは無かったろ。どうよ?」 「……お褒めに与り光栄だが、生憎と答える言葉が見つからぬな」 「そうなのかい?」 「私には、十より以前の記憶が無い。だからこそ、御身の問いに答えるものを持たんのだよ」 「ふうん──」 「本当に、何一つ覚えてねえのか? 〈三〉《 、》〈つ〉《 、》〈目〉《 、》の兄ちゃんよ」 「自分の術で記憶を消したとか、そういう系か? 奪われた? 封じた? いいや違うな。おまえはそういう手合いじゃねえ」 「誰かに似てると、オレらにこぞって言われたはずだろ」  その問いが、一層の悪意に満ちていたが──  夜行は首を振って、存ぜぬとばかりに答えた。 「知らぬな。興味の無きこと」 「ならば逆にたずねるが、御身は過去をそこまで気にするのか?そちらこそ、とてもそういう性質にはみえぬが」 「ああそうさ。なぜなら、オレは〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈形〉《 、》〈に〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》」 「自分の由来をそのままにしてるってことは、おまえさんは疑問ってもんを知らないんだな。それじゃあ、いくら優れていてもおまえの真実は空っぽだよ」 「永遠に、下衆野郎の玩具のままだ」 「や、夜行様になんということを!」  そのとき、宿儺に激昂した龍水が叫んでいた。それは単に許婚を侮辱されたからじゃなく、根本的にこいつのことが気に入らないという感じだった。  ああ、分かるぜ龍水。夜行の奴も大概だが、こいつは比べもんにならねえよ。全部分かってますって面のむかつき指数が桁違いだわ。  あの覗き込むような視線。どうにもこう、身体が痒くて仕方ないんだよ。 「……ふむ。ご忠告、痛み入る」 「さて、次は可愛いお嬢ちゃん。さっきからきゃんきゃん五月蠅いみたいだけど、次はあなたの番だから」 「ふん。夜行様に無礼な口をきいておいて、いったい、私に何を聞くというのだ」 「いやね、ほら、お嬢ちゃんって恵まれてるじゃん」 「そんな風に大した彼が隣にいて、優しく強い母さんもいて、将来的には名門家系の次期当主。あんた最高の勝ち組じゃない」 「血縁すら持ってないのに、拾われてからは悠々自適。やるねえ、さすが。なんてめぐり合わせなんだろね?」 「ねえ、自分が信じられないくらい運の良い人間だって気づいてる?」 「わ、私が恵まれているというのは知っている。夜行様と、母刀自殿といるのだから……」 「しかし、それがなんだというのだ。貴様に安々と言われる筋合い、私は欠片も持っていない!」 「おやおや、自覚してたんだ。勿体ないね本当に。お嬢ちゃんみたいな人種は、気づいてない方がよほど幸せになれるのに」 「ねえ、気づいてるならこれは知ってる? お嬢ちゃんに訪れた最初の幸せ。自分がどうして幸福の天秤にいられるのか」 「えっ……」  その一瞬、確かに龍水の意識は凍て付いたのか。 「そこから先をお嬢ちゃんは言えるかな?」 「…………」 「あははは。そうそう、そのまま分かんない方がいいよ。知ったらたぶん、ろくなものじゃない未来が待ってるから」 「私は……」  考え込み始めた龍水は、心当たりがあるのだろうか。  そこを俺に推し量ることは出来ないし、宿儺もこれ以上嬲るつもりがないのだろう。次は宗次郎へと視線を向けた。 「さて。それじゃあ、次はそこの眉目秀麗な剣士くんいってみようか」 「それは僕のことですか?」 「そうそう、おまえ。確か夢は天下最強の剣士だっけ?」 「おお、格好いいねえ、そうだよなあ。男なら頂点目指してなんぼのもんだ。刀一本で天下を取る! そういうノリは嫌いじゃねえが……」 「見慣れてるんだよ、その手の〈求道〉《ねがい》は」 「こっちも一応、長く存在してるんでな。おまえみたいな奴に、オレは結構心当たりがあるんだよ」  既知感だ、と吐き捨てていた。まったくおまえ、ありふれているぞと言わんばかりに。 「……それは、僕と似ているということですか」 「ああもちろん。似たような修羅の求道、前のめりに倒れたがってたろくでなしを何人か知ってるのさ」 「そして、そいつらの結末はどれもほとんど同じだった。なあ、聞きたいか?」 「…………」 「だからおまえさん、最後はいったいどうするつもりだ? 誰もいなくなってから、斬りたくないとか寝惚けたこと言ったところで意味ないぜ」 「まさか」  それこそ最たる愚問だと、宗次郎は首を振った。 「なんでそんなことを言う必要がありますか? 剣士だから斬る。最強の証明のために斬る。最後に一人となるために、僕はただただ斬り続ける」 「後悔も、慚愧の念も残らない。最強の剣士たる僕だけが残るんです。ならばそれでいい話でしょう」  その姿に、宿儺は〈似〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈影〉《 、》を見たのか、面倒くさそうに口端を歪めた。 「……はっ、分かったよ。正直、おまえは苦手な人種だからな。もう聞かねえよ、安心しな」 「斬って斬って斬り捨てて、最後に自分の腹を掻っ捌きながら、まだ斬りたいと〈哭〉《な》けばいい」 「…………」  おいおい。我が道を行く宗次郎まで黙っちまったぞ。ここに来るまでに何かあったのか、こいつ。  しかも、やりとりを聞いていた紫織まで何か考えてるみたいだ。 「じゃあ、次はあたしの番だね」 「正直なこと言っていいんなら、ずっと気にくわなかったのはあんたなんだよね……そこの大人のお姉さん」  宗次郎のことで何か考えてたようだったが、あの女に顎で指されると紫織は不敵に笑って返した。 「へぇ、そうなんだ。私もあんたのこと気にくわなかったから、それは丁度いいんだけど」  へ、ようやく小気味いい返事が出て来やがった。  今まで辛気くせえ雰囲気だったから苛々してたところだったぜ。紫織の男勝りなところは、こういうとき心強いってもんだ。  しかし、女は顔をしかめて吐き捨てた。 「……うっわぁ、なるほど。あんたってかなり屈折してるわよねえ」 「大切なことは何でもぼかして、他人に分からないようにするのが格好いい女ですぅ、とでも思っちゃったりしてるわけだ」 「だから、なによ……」 「はぁ? 紫織は、がさつ――じゃなかった。真っ直ぐな女だろ」 「どうでしょう。女には、見せられる部分と見せられない部分があると聞いたことがございますが」  しかし女は、俺らの反応を笑って見下ろしながら、だからこそだと首を振り── 「そして、〈誰〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。だってあんたは〈蜃〉《しん》だから」 「今はまだ良いけれど、あんたみたいな女は飽きられるのも早いもんだよ。他人と上手く付き合って、他人に上手く溶け込んで、何処にもいるから何処にもいない」 「そのままじゃ、たぶん一人ぼっちのまま。ねえどうするの? それでもまだ、自分はとびきり格好いいとか思えるの?」 「……うるさいわね」 「おいおい。せっかく色っぽいお姉さんなんだから、あんまり苛めるなよ」 「苛めてるんじゃなくて、どっちかというと心配してるんだけどね」  ……なんだよ。紫織まで気が滅入ってるように見えるのは、気のせいか。  どうしまったんだ、おまえら。今までの気合いはどこにいったよ。  それとも、奴が用意したっつう幻でも見て弱腰にでもなっちまったのかよ。 「しかし、どうにも駄目だなおまえら。もうちょっとよく考えて答えろよ。自分ってもんに一つ向き合ってみな」 「なあ、大将。特におまえさんだよ」 「────ああ」 「なんだ、えらく大人しいじゃねえかよ。それでしっかりやれんのかよ。まさかおまえ、まだ薔薇を喰わなきゃ戦えないのか?」 「薔薇、だと?」  両面の大鬼は、刑士郎のことをゆっくり足下から髪の先まで舐め回すように見つめる。  気味悪いと俺が思っていると、野郎はでかい溜め息を吐きながら言った。 「呆れたな……」 「イケイケのくせして、女の支えがなきゃ立てない。危ない体質は変わってねえな。そういうおまえを見ると、オレは無性に哀しくなるぜ。未だにな」 「奪われ続けるとか、今でも思い続けてるのか?」 「勘違いだ、そんな懸念は捨てちまえ。オレを見なよ。〈既〉《 、》〈知〉《 、》〈感〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈ざ〉《 、》〈と〉《 、》〈っ〉《 、》〈く〉《 、》〈に〉《 、》〈砕〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈残〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》」 「いい加減解き放たれろよ。鬱陶しい年寄りどもの置き土産から、おまえはとっくに解き放たれているんだから」 「……黙れよ」 「ははっ、まあせいぜい楽しませてくれ。そうじゃなきゃ、お姉ちゃんが哀しむぜ?」 「あ、間違えた。妹か」 「いいぜ。殺してやるよ、てめえだけは」 「──〈今〉《 、》〈度〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》、この手で」  立ち昇る鬼気は、やはり何か因縁を感じさせる。  やっぱり刑士郎は何か知ってやがる。いやそれとも、何かを思い出しているのか? うわ言のように漏れる言葉は、敵意と共に歓喜さえ含んでいるように見えた。  暴発する寸前みたいなのは変わらねえが、今までと何か違う。そんな刑士郎の変化に胸騒ぎを禁じえない。  だが―― 「おっと、惜しいね時間切れ」 「なんだ、もう一押しだったのによ。仕方ねえなあ、じゃあ次」 「…………っ」  今、もっとも心配なのは刑士郎だけじゃねえ。歪み関連だったら、それはもう一つ──  案の定、次は咲耶の方へ女が視線を落とした。 「妹さん、次はあんたの番だよ」 「単刀直入に聞かせてもらうけど、あんた、お兄さんと繋がってるんでしょう?」 「……やはりあの幻が貴方たちの仕業だったということは、血染花のことをご存知なのですね」 「そりゃあ少しくらいはね。これでもあたし達、お兄さんとは因縁浅くないの」 「ねえ──あんたの家族、これから苛めてあげよっか?」 「兄様は負けません。わたくしは、そう信じております」 「ふうん、泣かせる兄妹愛だね。おかげで虫酸が走ったわ」 「犯されても幸福なら、なるほどね。それは気持ち悪いはずだもの」 「それに、こっちは大将に負けたことはねえけどな」 「それは、どういう――」 「咲耶、余計なことは言うんじゃねえ。聞くこともするな」  刑士郎が咲耶を制止する。これ以上あれに触れるなと、睨みつけた視線が物語っていた。 「お兄ちゃんは心が狭いねえ。まあ、あんたとは追々でいいか」 「それじゃあ、次――と言いたいところなんだが」 「なんだよ。この流れだったら、俺だろ」  もう好き勝手に言わせねえ。こちとらむかっ腹が立ってるんだ。文句の一つや二つ、三つや四つまで言わなきゃおさまらねえ。  しかし、そう気負う俺に対して── 「いや。おまえ誰だよ」 「……はぁ?」  奴の反応は本当に薄いものだった。まるで未知の何かを見るように、俺を眺めて首を傾げている。 「そもそもだ、その微妙にオレと被った兄ちゃん……おまえいったい何者だ?」 「〈似〉《 、》〈た〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈奴〉《 、》〈も〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈し〉《 、》、〈ち〉《 、》〈ょ〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈見〉《 、》〈当〉《 、》〈も〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 「分かるか、これは明らかな異常事態だぜ? オレが知らないってこと、そりゃつまり水銀も黄金も黄昏も、そして〈刹那〉《あいつ》も知らない何かってことだ」 「〈前〉《 、》〈例〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》──未知ってやつさ。この凄まじさ、理解できるかよ」  いや、知るかっての。何だそりゃ?  よく分からねえが……どうやらこの俺にビビッてるのは間違いなさそうな雰囲気だ。 「へっ……どうやらてめえらにも分からねえことはあるみたいだな。少しばかり安心したぜ」 「それなら、いいさ教えてやるよ!」  見てろよ、おまえら。見得の切り方ってのは、こうするんだぜ。 「俺様は無敵の主人公、この東征における大英雄──坂上覇吐だ。覚えとけ!」 「そんな俺からすれば、おまえらの方こそ東征に華を添える道化でしかないんだよ、おい。いつまでそういう上から目線で、よりにもよってこの俺様を見下ろしてんだ!」  決まった啖呵を前に、不自然な形での沈黙が降りる。  嗤いもしない。否定もしない。ただただじっと、その言葉を噛み締めるように瞑目して──  奴は、いやに真剣な顔をして呟いた。 「……オレの人生はオレが主役、か」 「なるほど、そういう手合いなわけだ。しかしこういう類の大馬鹿はいつの時代になってもいるもんだな」 「主人公は負けるはずがない。勝つからこその主人公。そして、主役はこの俺だ、ってな」 「なかなか分かってるじゃねえか」 「おう、よく知ってるさ。だから忠告してやるぜ」 「そう、オレだから分かる。オレにしか分からねえ」 「もう一つ、主役の条件ってやつを教えてやるよ──神の玩具だ」 「だから、もし本当におまえがそんな馬鹿げた存在だったなら、おまえに自由は何一つない」 「玩具だから、役割は決められてる。永遠に終わることのない既知感だ。死なないから、負けるはずがないから、おまえは世界に必要な役割を演じなければならない」 「そういう覚悟、おまえにあるのか?」 「なんだそりゃ? 訳の分からないことを言ってんなよ」  覚悟? 覚悟ならある。竜胆のためにここまで来たんだから、覚悟なんて山ほどあるさ。  分かるんだよ。てめえ今、俺を哀れんでやがるだろ。何と重ねて見ているのか知らねえが、抱いているのは期待だけにしておけや。  けれど後ろにいる女まで、けらけら笑いながら入ってきやがった。 「はは、馬鹿だねこいつ。嫌いな男じゃないけど、絶対馬鹿だ。すっごい馬鹿。男って本当はみんなこうなのかもね」 「ま、たぶんそうだな。オレもそこ同じだしよ」 「……まあね」 「おい、竜胆。このやりとりに意味はあるのかよ。そろそろ仕掛けてもいいんじゃねえか」 「待て。不用意に仕掛けてはいかん。忘れるな、今は絶望的と呼んでいい状況なんだ」 「そうそう。なんかやったら即殺すから、そこんとこよろしく」  隙だらけに見えて、たぶん欠片も稚気がない。この無防備にも見える様こそ、こいつにとって自然な姿ってわけかよ。 「こいつの雰囲気に惑わされるな。私が号令を出すまで、今は息を潜めて堪えてくれ」 「……分かったよ」  そうして、ようやく奴らは竜胆へと視線を向けた。 「それで、八人目は私か。いったい、私には何を聞くつもりだ」 「おう。お姫さんにゃあ、聞きたいことじゃなくて言っておきたいことがあったんだよ」 「なんせ、このお姫様は切り札を握ってるんだものね」 「どういうことだ。さっさと要件を述べろ」 「ふふっ……ねえ、生まれないはずの覇道を持ったお姫さま」 「あんたはさ、自分が異端だと理解してるようだけど、それは癌細胞だってこと。分かってる?」 「がん、さいぼう……?」 「つまりさ、悪い腫瘍なんだよ。不治の病みたいなの」 「この時代の知識じゃ理解できないだろうから、勝手に生まれて、勝手に増えて、身体を蝕んでいくものだって思えばいいよ。細胞の暴走とでも考えて。だから、絶対手が付けられない」 「それは、何に対してと言いたいのだ? 私がただいることで、何かを害すると、おまえはそう言いたいのか?」 「うん。だって、もう害してるじゃん」 「ああ。とっくに伝播している」  どういうことだ。奴らにとってこの東征は、俺たちが思ってるよりも奴らのことを害してるってわけか? 「それはつまり、貴様らにとって穢土は大切な場所だというわけか? 確かに、それは不二で知る機会があった。しかし――」 「違う。全然違うんだよ」  なんだと……? 「一つだけ覚えておきなさい。癌はね、寄生してるだけ。宿主が死ねば、それで終わり」 「つまりね、お姫さまは自分の生き場すら滅ぼす自滅因子なんだよ」 「自らを滅ぼす……だと」 「寄生主に対する、絶対的な力。それを果たしちゃったら、お姫さまも生きていけない」 「必殺性は十分だよ。なんたって、宿主そのものから生まれるんだから。どれほど発生元が強大でも、その分自滅因子も強大になる」 「絶対に、逃れられない」 「必ず、自らを生んだものを殺害する」  そう、それがたとえどんなものであろうとも──  どれだけ矛盾した渇望であっても、叶えるために竜胆は存在すると──  その言い様に、なぜか俺さえも反論することができなかった。 「なぜ……」 「なぜ、そのようなことがはっきりと分かる?」 「分かるぜ。簡単な理由だよ」 「なぜなら、オレも――」「なぜなら、あたしも――」 「――おまえと同じ、癌だからな」「――あんたと同じ、癌だからな」  陰陽合一、両面の鬼が一つになった。  その瞬間、こいつから発せられる歪な圧力が跳ね上がった。今まであった余裕や権謀の気配が鳴りを潜め、逆に戦神としての側面が反比例して顕現する。  こちらの意思を逆撫で、挑発的ですらある念に身体が強張る。暴力と闘争の臭いを放ちながら、悠々と同じ目線へ降り立った。  来い、来てみろ餓鬼と、近づいてくるそのにやけ面が何より雄弁に告げていて── 「……よう。そろそろいいか。殺しても」  それを前に、意識が爆発しかけている刑士郎が前に出た。 「ああ、もういい。ここにいる全員、これから一切口を開くな」 「止めてみろ──その瞬間、誰であろうと皆殺す」  一線すれすれの危うさを感じさせたが、ここより開戦ってのには同意見だ。こいつの意識が変わっていく前に、俺たちは宿儺を討たなければならない。  なぜなら、この鬼は既に。 「やっるう。でもな、それじゃダメだ。期待外れなんだよ」 「分かってなきゃ駄目なことが、何にも分かってねえ」 「だから、おまえら死んじまえよ。実際、救えねえから」  鏖殺、滅相逃がさない。俺たちを殲滅する気満々なのだから。 「――ごちゃ、ごちゃと」 「俺の前で御託こいてんじゃねえぞォォ──!」  瞬間、圧倒的な神威を前に一迅の殺意が牙を鳴らして飛び掛った。  かつてない速度、信じられないことに歪みを喪失する前すら比にならない武威をかざして刑士郎は暴風と化したのだ。  一条の杭が如く、顔面を穿たんと抜き放った得物が空を裂く。 「だよな。やっぱりてめえが来るわけだ。いいねえ、俺は嬉しいぜ」 「吹かしこいてんなよ、さっさと来いって、ほらこっちだ」  だが刑士郎の刃は、残らず宿儺の体躯を捕えられない。受け止めるどころか完全に避けられ、掠ることさえ出来ずにいる。  その回避動作は奇怪で、しかし舞うように流れる体捌き。速度だの見切りだの、ましてや武の技量だのじゃ断じてない。信じられないことに、それは明らかな〈勘〉《 、》だった。  想像を絶するほどの精度を誇る第六感……宿儺は信じられないことに、恐らく一切の修練や理屈を抜きに〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈で〉《 、》〈暴〉《 、》〈力〉《 、》〈の〉《 、》〈挙〉《 、》〈動〉《 、》〈を〉《 、》〈予〉《 、》〈見〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。  才能──ただ圧倒的で、何者も並ぶことが不可能な、生まれ持っていた凡百を遥かに凌駕する超越の感性。  ただの悪童が、素で神威に達したという出鱈目な姿がそこにある。  母禮の雷鳴ほど速い訳じゃない。だが、最適で最高の最短距離を選択しているこいつの反応は、今も速度を上げる刑士郎でさえ捉えることが出来ずにいる。 「それとも、自殺するか、おまえら?」 「惨めで無様な連中には、それが一番お似合いだよな」 「てめえ如きが、いつから上から目線で吹いてやがるッ!」 「くくっ、あははは! 相変わらず我慢のできない奴だな、おい」  その時、ついに大気引き裂く旋風が宿儺の体躯を射線に置いた。  頭蓋から心臓を一直線に粉砕する剛閃は、しかし。 「な──ッ!」  ……指先の一本で、優しく停止させられていた。  ああ、それに関しちゃさほど驚くことはないのだろう。俺たちは天魔がどれだけ出鱈目な連中か、身をもって知っているからこれはある程度予見できる。  だから、驚いたのは別のこと。 「……おいおい。それ、マジでやってんのか。殴ってるつもりかよ」  こいつに近づけば近づくほど、刑士郎自身の攻撃が鈍った事実。  刃と指先が接触した瞬間、あれほど漲っていたはずの一閃が見る影もなく衰えてしまった。  間違いない、これで決定的だ。陰陽、東西、歪みや術、それらの種別や威力関係なく──こいつ自身そのものが異界を殺す異界なんだ。  致死病毒、身洋受苦処――宿儺は超常に対する絶対的業病の世界を体現している。  それは身体能力の向上といった、あくまで内側に向けた力さえ消し飛ばすという、必殺そのものを消し去るご都合主義だ。 「さっさと飛び退け、刑士郎!」  そして実際、俺もまた助太刀の一閃が見る影もなく劣化してく。  なんだよ、この鈍い速度は。風切りの音すら腑抜けたもので力が練れない。歪みの感触が身体の中でさえ纏まらずに拡散していく。 「ああ、おまえさんも生きがいいな」 「だが──それじゃあ駄目だ」  同じく指先で止められる。そこから先はびくともしねえ。  しかも、なんだこいつ……そこから追い討ちをかけるどころか、にやにやしながら見るだけかよ。完全に舐めてやがるな。 「……っち、てめえやる気あんのかよ!」 「あるわけねえだろ。どうして〈蟻螻〉《むしけら》相手にその気になれる」 「なんだおまえ、もしかして変態なのか?」 「うっせえ、勝手に人を変態呼ばわりしてんじゃねえぞッ!」  面被った変態野郎に言われたら立つ瀬がないぜ、この変態が。  だがよ、これは正直打つ手がまるで見当たらねえんだ。こんなにやりにくい奴は初めてで、全力出せないことがもどかしい。 「はぁあああああああァッ―――!」  侮っている間に斃すと決めたのか──紫織と宗次郎の連携が放たれる。  多少精彩を欠いていたがそれが何だ。低下しきる前に断つのだと、技量によって補いながら放ったそれは。 「――ッ、ぐ!」  避けるまでもなく、防ぐ必要すらないはずなのに、奴はわざと指一本で払いのけた。  その稚気にも満たない動作一つで宗次郎の身体が傾ぐ。刃に伝わった衝撃が両腕を痺れさせ、成す術もなく吹き飛ばした。 「突進してくるって、正気の沙汰じゃねえな。逃げようとしないだけ面白いが」  痛みは俺らの芯に疼きながら残っている。一向に回復する気配がないが、これもまた当然だ。  再生能力の向上まで消し飛んでやがるから、マジであらゆる利点が封じられているのかよ。 「すげえ馬鹿だけだが、オレにはまだまだ届かねえよ」  それはまるで、俺たちの力をもっともっと引き出そうとしているように見える。  何のつもりか知らねえが、上等だ。あまり力不足と見縊ってくれるなよ──! 「──宗次郎!」  俺が大剣を構え直すより先に、紫織が再度疾風と化して飛びかかった。  渾身を篭め、無理にでも歪みを引き出すつもりなのが分かる。紫織の陽動の次、俺らもまたそこを狙って身体の中に残った力を掻き集めた。  なんとしてでも一瞬、せめて一発でいいんだよ。  こいつが垂れ流す〈自壊法〉《ほうそく》を超え、歪みを使えるようにならないと話にならねえ! 「チィッ──!」  それでも、俺たちの算段はまるで機能しない。  発動する兆しを見せたものの──悪路の視線と同じく、宿儺の眼光一睨みによって高めた力が掻き消される。  確かに掴みかけていた感覚は、残らず水泡の如く消え失せて── 「そら……歯ぁ食い縛れよ、っと!」  腕に握られていた二門の銃口──馬上筒が轟きながら火を吹いた。  瞬きの間に放たれた火砲は、いったい幾つだったろうか。  轟音が鼓膜をイカレさせ、絶え間なく浴びせられる魔の弾丸は俺たちを満遍なく、抵抗すら許さずぶっ壊していく。  直撃だけはしなかったが、飛び去る弾は停止した穢土の景色さえも破壊していく。空が穿たれ亀裂が走り、山脈が蹂躙されて吹っ飛んだ。  あまりに弾速が凄まじすぎて、掠りもしてないのに手足が千切れ飛びそうになる。だが何よりも、その威力以上に最悪なのが──! 「あっ、ぐぅ――」 「やはり、使えない……!」  ──横殴りに叩きつけてくる魔弾の豪雨すら、奴の理を孕んでいるということだ。  回復? 不可能だ。こいつの射程距離と連射速度は、離れることで何とか内側を修復することさえ封じてくる。  歪み然り、夜行の太極とかいうもの然り、俺たちにとって唯一とも言える切り札からぶっ壊されるなど、冗談じゃないにも程がある。純粋な地力のみしか残らないため、太刀打ちすることができやしない。  絶望的すぎて喜劇のようだ。何だよこいつは……歪み殺しってそんなのアリかよ。 「────がぁああッ!」  痛烈に弾丸の風で破壊される刑士郎の叫びに、何とか途切れかけた意識を噛み締めた。 「こ、のやろぉおおおああ!」 「がッ――――がぁあああッ!」  だが──くそったれ、どういう神経してやがんだ。まるで〈知〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》集中砲火が浴びせられた。  〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈神〉《 、》〈業〉《 、》〈か〉《 、》〈と〉《 、》〈思〉《 、》〈う〉《 、》〈ほ〉《 、》〈ど〉《 、》、〈ギ〉《 、》〈リ〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈致〉《 、》〈命〉《 、》〈傷〉《 、》〈を〉《 、》〈避〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》。  全身の骨に皹が走る。回転しながら吐血を振りまき、俺はそのまま竜胆たちのところまで転がった。 「お、おい。覇吐、大丈夫か」 「なんでもねえよ、ちくしょう……腹立つことだがもう慣れっこだ」 「それより、ちとまずい雲行きだぜ」  正直、俺の自慢たる頑丈さと渋とさが明らかに機能していない。  だからあいつを斃すには持久戦じゃなく、一発勝負の捨て身博打だ。しかしその博打をするために歪みは必須で──ああ、まったく悪循環とはこのことだ。  俺でさえこれなんだ。なんとか限界寸前で食い下がっているあいつらも、いつまで保つか分からねえ── 「龍水! なんとかならないか」 「それが一切の術が使えない私では……」 「夜行様は、何かお見えになられますかっ?」 「何とか探っているが、しかしそれだけでは無為だな。あれに弱点のようなものがあっても、決め手に欠けている今の状況では意味がない」 「やっかいな渇望もあったものよな。まさか、こちらの戦う術を封じてしまうとは」 「……兄様」  咲耶の危惧もよそに、両面の鬼は銃口を向けながらいよいよ喜々としてその圧力を増してゆく。  それは眺めているだけで、目玉に亀裂が走りそうな神威。 「まだ死ぬんじゃねえぞ。これで飛んだら、おまえら揃って羽虫以下だぜ」 「──それとも」 「ここらで一つ、死んだ後でも覗いてみるかよッ! 」  咆哮に、この諏訪原全体が怯え、震えた。  こっちの足場がいかれちまうくらい揺れている大地震じみた大喝破は、まさに悪夢の具現だった。  これに勝てと? 切り札なしで? 雄叫び一つで空間丸ごと揺さぶるような桁外れを、鉄の獲物一本で真正面からぶった切れと? 餓鬼でも分かる、不可能だ。  砲撃の流星群を受けながらも、あらゆる手が封じられていく。逆転が見えない。本当に、手も足も出せないんだ。 「ちょっぴり、やばいよ。こんな戦い方だと何にもできないままだから──ッ」 「受け流す、ことすらッ!」  絶え間ない弾丸の瀑布に吹き飛ばされ嬲られる。骨が砕かれ、血反吐を撒き散らし、玩具にされたまま死ぬまで踊らされるだけだろう。 「ほらほら、くっちゃべってるとおっ死ぬぜ」 「まあ逆に、黙っていてもそりゃ死ぬけどよ!」 「がはっ……!」 「ぐぅ……っ!」  遊んでやがるのを隠そうとしないのが、いっそ清々しくてムカつくこと甚だしい。  もう何度、天と地が回転したのか覚えていない。身体はまさしくボロクソだ。子供が虫の手足をもぐように、無邪気な悪意で破壊されつつある。  だから、せめてとにかく竜胆だけでも何とかしねえと……!  その意志の元、俺は限界を超えて何度も何度も立ち上がる。そのたびに臓物が一つ二つ潰れたが、だとしてもここで死ぬわけにはいかねえんだよ。 「まあ、よく耐えたってことで……よかったな糞餓鬼ども。ほんの若干削れただけで、まだまだおまえら生きてるぜ?」  硝煙の燻る得物を下げ、奴が血達磨の俺たちを見下ろしている。無論のこと宿儺の肌には、一筋の傷も刻まれていない。  隙だらけに見えて、その実違う。未来予知じみた超感覚は恐らく今このときも健在で、俺たちの内面すら見透かしているに違いない。 「特に、おまえ──」  そして、その視線が俺へ向けられた。 「足掻くじゃねえかよ。なあ、〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》?」  当たり前じゃねえか……って、息がうまく吐けねえぞ。しゃべれねえじゃねえか。 「当たり前だって顔してるな。つうか、マジかよ。そんなことをそこまで強く願うかねえ」 「いや……ああ、待てよ。なるほど」  そうしてると、奴は何かを納得したみたいに俺の顔をまじまじと眺めてやがった。  内まで覗き込むかのように、そして口元により深い喜悦が浮かび上がる。 「はは、はははは……そうか、そうか。ちょっとばかし、オレにも裏が見えてきたぜ」 「なあ、自称主役の兄ちゃんよ」  そして──俺をその紅に輝く眼光で見下ろしながら。 「 」 「 」  何かよく分からない、俺が〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈く〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》ことを口にした。 「――どこを、見てやがるッ!」  その瞬間、刑士郎が怒声を上げて突貫する。  理屈の見えない強化に達しているせいか、俺たちの中でもっとも宿儺の波動に抗えている。気炎を迸らせるたび、そして宿儺の攻撃を受けるたびに反骨心がこいつの領域を深めているようだった。 「てめえの相手は、この俺だろうがァッ!」 「いいや、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈前〉《 、》のおまえさんだ」  何か含んだように喋ったと同時、奴の背から〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈二〉《 、》〈本〉《 、》〈の〉《 、》〈腕〉《 、》が更なる銃口と共に具現した。  奇襲じみた後の先が、想定をすり抜けて刑士郎の鳩尾に突き刺さる。銃口の接触。隙間のない超至近距離から引き金を引き絞られ──  致命の砲撃が刑士郎を破壊した。 「が──っ、ぁ」 「──兄様ッ!」  死んだ。間違いなく、何をどうしようとあれで助かるはずがない。  呆気ないほど鮮やかに、一切の躊躇もなく、宿儺は四つの砲口を吹き飛んでいく刑士郎の身体に向けた。 「順序が変わったが、まずはおまえから脱落だな」 「あばよ、吸血鬼。この脆い器に籠もったまま、眠り続けてさよならだ」  飛び出した俺は、しかし圧倒的に遅い。  やらせるかと、刑士郎を完全に破壊しようとする宿儺へ向けて、一拍遅れながらも疾走した瞬間――  鬼の太極──歪み殺しの異界にて、濃密な〈陰〉《 、》〈気〉《 、》が立ち上る。  発生源は砕かれたはずの刑士郎から、天魔と伍するほどの高純度にして凄絶な──  暴虐の化身。闇の波動が脈動した。 「 」 「」 「 」 「」  あいつの口から漏れた言葉の意味が、俺には分からない。  だがしかし、秘めた祈りを感じることぐらいはできる。  暗闇にて咲き誇らんという意志。愛するものを枯れ果てるまで喰らい尽くすという虐殺宣誓。あいつの中に眠っていた魂の最奥から再生された、究極が── 「」 「 」 「」 「 」  ここに形を成して創造される。  総身から立ち上った蒸気の如き暗闇、それが刑士郎自身を覆いつくし存在そのものを新生させた。  傷が癒え、膂力が満ち、天すら喰わんと牙が唸る。  まるで尽きぬ餓えに咆哮する野獣のように、変わり行く自分を歓迎していたように感じたから。 「────へえ」 「やればできるじゃねえかよ。なるほど、それが今のおまえか」  間違いねえ、こいつは紛れもなく禍憑きだ。未だ俺たちの身体を縛り付ける鬼の封印を、この場において刑士郎だけが凌駕しつつ発現を可能としている。  無明の夜を塗り固め、己を闇そのものに転じさせたようなその姿。  接触した大気すら喰い潰し、杭のように黒色の波動が蠕動している。 「覇道ではなく、求道型で顕現すればこうなるわけだ」  俺たちの誰も知らない――おそらくは咲耶でさえ知らなかったような歪みの発動を、宿儺は口元を歪ませながら眺めていた。  懐かしいものを見るかのように、既知のものを見る視線に対し──  次の瞬間、刑士郎は荒れ狂う暴虐の嵐となった。 「く、くく……はははは」 「カハハハハハァァァ──ッ!」  激突する禍津と鬼神──否、今や二体の鬼。  波濤となり具現する暴力、暴力、暴力、暴力。その中で刑士郎の哄笑のみが喝采の歌声を上げていた。  宿儺の砲を受けてなお、欠片も同様を見せず前進する。舞い散る血飛沫や肉の欠片、再生すれば問題ないと己が肉体さえ軽んじている魔の特攻。  腕が砕かれた、足が砕かれた、体躯損壊し穿たれ潰され──  ああ、それがどうしたと、相対する宿儺から精気を略奪して復元する。  常軌を逸した超速の再生。しかも如何なる理屈なのか、受ける手傷はなぜか総てが致命傷には至っていない。  どれほどの破壊を浴びようとも、〈運〉《 、》〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈致〉《 、》〈命〉《 、》〈傷〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ず〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈延〉《 、》〈び〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》。  同時に宿儺の側から見れば、〈運〉《 、》〈悪〉《 、》〈く〉《 、》〈攻〉《 、》〈撃〉《 、》〈が〉《 、》〈致〉《 、》〈命〉《 、》〈傷〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈届〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  その姿はまるで、運気宿業精気喰らい、喰らい喰らい喰らい尽くす略奪者。敵手の血肉を啜る鬼だ。  触れた存在を喰い殺し、己以外の総てを餌に変えて咆哮する、血と暴虐と耽美の魔人──闇を飛翔する鴉。  ならば、今の刑士郎は人ではなく── 「俺は、夜だ──!」 「負け無しだって? 敗れた男が言うことかよッ」  激突する陰気の杭と、四門の火砲。相殺された次の瞬間、粉塵引き裂いて暗闇の影が狂乱する。  あいつ、本気で何か途轍もないものを掴んでやがる。以前正面からやり合ったからこそ分かる、あの純度。桁外れにも程があるどころか、今までとは性質そのものがまるで違った発動だ。  しかも見境がない。ああして暴れているだけで、俺たちの身体までも吸い込まれてゆくようで……  やべえんだよ、こっちも全員餌にされる。少しは抑えやがれ、この馬鹿兄貴が。 「運気、か。はは、そういうこと」 「まあ気持ちは分かるぜ。えらく鬱陶しかったもんなあ……あの腐れ外道の水銀は」  何事を呟いているのか、砲撃の轟音に紛れてほとんど聞こえなかったが、宿儺は刑士郎の変化に見当がついているらしい。  今まであった凶を相手に被せるという原理が、凶を押し付けながら相手から福──つまり生命しかり、運しかりを奪い取るという攻防一体の理屈に変貌している。 「おおおおォォォ──!」  刑士郎の身体から茨のような杭が湧き出て、そのまま剣山の如く解き放たれる。  まるで〈遥〉《 、》〈か〉《 、》〈昔〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈扱〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈な〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》、数多の手数を顕現して宿儺の武威に叩き付ける── 「だがな──」 「未完成の業で吼えんじゃねえよ」  吐き捨てた言葉を証明し、宿儺の砲撃が刑士郎の纏う陰気を貫いた。 「が……ぁ、は──ッ」  暗闇の鎧をいとも容易く貫通し、初めて今のあいつに攻撃が通る。  小手調べは終わりと言わんばかりに歪み潰しは効力を増し、陰気そのものとなった身体さえ宿儺の理が掻き消した。  しかし今、唯一この場で奴を獲れる可能性を持っているのは刑士郎しかいない。  ――ああだったらよ、上手く活かしてやろうじゃねえか! 「──させっかよォォオ!」  威勢よく放たれた砲撃の射線に躍り出る。太刀ごとぶっ壊されそうになったが、それを横合いから放たれた二つの風が抑えてくれた。  俺、紫織、宗次郎の三人が、揃って刑士郎の前に立つ。今はこいつの援護をするのが最良という道を、等しく選んだ結果のことだ。 「っ、おまえら……」 「なんかしっくりこねえけど……しゃあねえ、今回は譲ってやるよ」 「少なくとも、打てる手がこれ以外にはありませんので」 「というわけで、決め手はよろしく!」  満場一致。今回はこいつに任せてみるしかない。  弾除けになり、宿儺への一撃を刑士郎へ繋ぐ。それがこの場における最善であり、竜胆たちを守るたった一つの方法だ。  おまえにだって、守りたいものがあるんだからよ。  気合い入れてぶちかませ。そのための道くらい、俺らが切り拓いてやろうじゃねえか。 「はっ」 「馬鹿が、余計な世話ってもんなんだよ!」  おいこのクソ馬鹿野郎、ちゃんと相手を見据えろっての。外しやがったら、てめえマジで恨むからな──! 「は、あぁ……ぁっ……」  時同じく、咲耶は青褪めた顔で膝をつく。  まるで何者かに魂を吸い尽くされているが如く、突如として死人の色を見せ始めていた。 「咲耶! 大丈夫か」 「これは、よもや返し風と? だが、しかし──」  それはおかしいと、竜胆は口ごもって言葉を繋げられない。  凶月一族が一蓮托生というのは知っているし、刑士郎の使用している闇の波動がこれの原因であることも、朧ながら分かっている。  だがどうしてか、それとはまったく別の部分でこれは何かが違うと思うのだ。  まさにこれこそが使用条件であるとでも言うように、咲耶は兄の真横にいるが如く精気を急速に喪失している。  そして何より、不可解なのは咲耶の表情。  苦しそうに見えて、今にも消えてしまいそうな瀕死の様は……同時にどこか、奇妙な艶やかさを増していて── 「在るべきところへ、在るべきものが。回帰するための条件か……」 「ふむ。すぐに死ぬというわけでもなさそうだな」  とはいえ、今は手当てしようにもできず、できても時間稼ぎにしかならないだろう。  なぜなら、あれこそ使えば使うほど逆凪にしかならぬ諸刃の業。咲耶を蝕んでいる真実に気づいているからこそ、夜行は未だ続く戦いを眺めた。 「さて、遊びに耽るままでよいかな、刑士郎?」 「どのみち、勝負は見えているのだ。気になるのは、この勝負の後のこと。早めに切り上げたほうがよいぞ」  今の自分たちは、宿儺の遊戯に付き合っている場合ではない。  遊びが終わった後にこそ本当の宵がやってくること。それを予見していた者はただ一人、彼らの攻防を喜劇のように観戦していた。  だが戦況は、依然として劣勢のまま。  陽動は意味をなさず、砲撃の雨を抜けられない。やはり宗次郎や紫織と共に、弾除けにすらなれてなかった。  宿儺の意識を瞬きほども逸らせず、封縛の影響下で逃げ惑うだけだ。そして、何より── 「苛立つ、渇く、ああいったい何だ──てめえは誰だ!」  この馬鹿兄貴は、精神のタガが吹き飛んだのか俺たちとまったく息を合わせねえ。  俺たちの存在など視界に入れず、また知っていようがどうでもいいと言わんばかりに、同じく刑士郎しか見えていない宿儺へひたすら突貫していた。 「そっちが勝手に名付けたろうがよ、ならそう呼べや」 「それとも何か思い出したか? オレはどっちでもいいんだぜ」  まるで取り憑かれてしまったかのように、こいつらだけの大盛り上がり。頭の焼けた狂犬どころか、こりゃあまさに鬼の戦だ。 「ちぃッ──!」  法則の強固さが引き上げられたのを境にして、陰気の杭は立て続けに消滅させられていた。  届かず通じず歯が立たない、だが知ったことかと吼える刑士郎の凶相は眩暈がするほど懐かしい。  まるであいつだけ御前試合の最中に戻ったかのようで……ああそれを、俺は何より悲しいと感じているのはどういうことだ。 「いい瞬間に手に入れた力でもよ、そんな使い方でこのオレ様がどうにかなるとか、まさか本気で思ってるのか?」 「これがマジなら……まったく、つまんねえ姿になっちまったな。前の方がもうちっとイカしてたぜ、あんたはよ」  だから見ろよ。こいつにすら嗤われている。  おまえ今、どれだけみっともない姿を晒してるのか、いい加減に分かれよクソが。 「遊ぼうや、遊んでくれよ、なあ餓鬼ども」  野郎の言う通りだってのが、本気で屈辱だろうがよ。なあ!  俺は、今のおまえを見てられねえんだよ。 「おまえなあ、少しは俺たちの陽動をあてにしやがれ。それじゃあ意味ねえだろうが!」 「黙りやがれ! どいつもこいつも、うるせぇ気にくわねえぶっ殺してねえ吸えてねえッ!」 「なんなら、おまえたちから喰ってやってもいいんだぜ」 「……それで、あの鬼に勝てるとでも?」  疑心暗鬼の視線さえ、刑士郎は笑い飛ばす。 「俺が負けるはずがねえ」 「そうだ、もう二度と、〈取〉《 、》〈り〉《 、》〈逃〉《 、》〈が〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈る〉《 、》〈つ〉《 、》〈も〉《 、》〈り〉《 、》〈は〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》」 「ふふ、ははは、はははははははは……そうさそうだとも、いい手なんだよこりゃあよぅ」  そのまま何かを懐古するかのように、より深く刑士郎と陰気の同調が高まっていく。  だからこそ、俺もまた薄っすらとだが気づいたのだ。今のこいつは返し風とか代償とか、そんな負の要因でおかしくなっているんじゃないらしい。  最初から正しい方向に向かっている──つまりこれは、最初からそういうもの。  天魔と対等な存在に、自身を書き換えてしまう力なんだ。 「〈血〉《 、》〈を〉《 、》〈入〉《 、》〈れ〉《 、》〈替〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈足〉《 、》〈ら〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》、〈肉〉《 、》〈も〉《 、》〈骨〉《 、》〈も〉《 、》〈入〉《 、》〈れ〉《 、》〈替〉《 、》〈え〉《 、》〈ち〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈何〉《 》〈も〉《 》〈か〉《 》〈も〉《 》、〈魂〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈は〉《 、》〈丸〉《 、》〈ご〉《 、》〈と〉《 、》〈入〉《 、》〈れ〉《 、》〈替〉《 、》〈え〉《 、》〈ち〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ぜ〉《 、》」 「おい、刑士郎、おまえ……」  駄目だ、言うな、それ以上は口にするな。思い上がりかもしれないが、素面のおまえなら絶対にそれは吐いちゃいけない言葉だろうが。  何が大切で、どうして力を望んだのか。綺麗さっぱり忘れたまま気持ちよくなってんじゃねえよ。そうだろう。  おまえは── 「もはや俺に、畜生の血は流れていねえ」 「だからここであいつを、あの餓鬼を縊り殺すことができたなら」 「はは、なんだおまえら、思ってた以上に駄目だな」 「そんな様じゃ、何も期待できねえよ。まったく本当に使えねえのな」  落第点だと、宿儺は肩を竦めて微笑した。  自然な笑みだったが、そこに篭められた意味はまったく違う。張り詰めた緊張感が剣呑さを帯びた。 「──いいさ、もう死んじまえよ」  奴の随神相さえが、ついにその神威を剥き出しにする。 「懐かしいだろ、喜べよ。今から再び、おまえの身体をぶっ飛ばしてやるよ」 「脅しだとか、狙いが外れるとか、下らねえこと期待すんなよ。こいつを出しちまったからには、おまえら全員消し炭だ」  正真正銘、あれが奴の虎の子に違いない。その巨大さに比例して感じる鬼神の圧力は、力を溜めているだけで五体分解しかねないまでに極まっていた。  この諏訪原そのもの……四度は綺麗さっぱり真っ平らにできるだけの波動が、大筒の一つ一つに集まっていく。 「まったく。結局、魔女婆の言ってた通りだったな。あんたは腑抜けた犬畜生に成り下がっちまった」 「少なからず知ってるオレにとっちゃ、正直、見てらんねえんだわ。だからよ、ここで綺麗に消えてくれ」 「やってみろよ」  それを前にして刑士郎は臆することなく牙を鳴らす。ああ痛快だ、これをこそ待ち望んでいたと言わんばかりに、口角を吊り上げた。  内から、外へ──流れ出さんとするように、闇の杭が蠢いている。  塗り潰してしまいそうなほど猛り狂っていた陰気。更なる段階に塗り換わろうとする意志。そいつがたまらなく不快で、もう俺は限界なんだよ。  だから、決めたぜ。 「刑士郎。耳に入っているか分かんねえけど、一応先に言っておく」 「いいか、俺はもうおまえに欠片も頼らねえ。ここまできて、なんかいい感じにキマってる奴に期待しても意味ねえこと、俺もようやく気がついたぜ」 「……何が言いたい?」  気づけよ、馬鹿。簡単に形にゃできねえ、俺の心と気遣いを。  おまえの背後にいる奴のこと、守りたかったものをどうして思い出さねえんだよ。女のために立ち上がった俺を、ワケ分からないみたいな面すんな。  想いじゃ負けてねえけど、おまえの方がずっと長い間それを感じて来たんだろうが。 「俺は竜胆のことを死なせるわけにはいかねえ。たとえ死んでも、それは認められねえことなんだよ」 「だから、俺は俺の歪みを出す。たとえ出せなくても知ったことか、命に代えても無理矢理出すぜ」 「あいつのアレを、絶対に叩き返してやる」 「できるものなら勝手にやれよ。ああ、好きにやりゃあいい」 「馬鹿言うな、無理なことくらい分かってんだよ」 「けどな、魂に誓ってやると決めたことから逃げちまったら、結局俺には魂なんて無かったことになっちまうだろ」  自分はしょせん空っぽで、なんとなく出来そうなことを前に、格好つけて粋がってるだけ。そんな様は絶対御免だ。男は意地を通してなんぼだろうがよ。  要するに可能不可能、そいつを度外視して譲れない想いがあるということ。  そのために、本気で懸けられるものがあるということ。俺は今ならその感情に頷ける。  これは無茶で、無謀な、馬鹿の所業と気づいちゃいるが、それを思い知りながらも身体を張ってみせる決心が間違っているとは言わせない。  あいつのために勝ちたいんだ。生きたいんだよ。それは俺だけのものじゃないはずだったろう! 「そうだろうが。惚れた女すら守れずに、何が益荒男だ。そんなことくらい、てめえだって思い知ってるはずだろうが!」  だから、大概に目ェ覚ませよこのタコ助。てめえから妹好き除いたら、なんも残らねえだろうがよッ! 「ぐゥゥッ――」  俺は全力で刑士郎の顔面をぶん殴った。宿儺にゃまったく効かねえが、おまえぶっ飛ばす力ならこの通りあるんだぜ。  吹っ飛んだ刑士郎に怒号して、起き上がった奴の背後を指し示す。 「一人で気持ちよくなってんなよ! おまえな、ちょっと後ろを見てみろよ!」 「おまえが守りたかったものを……ちっとは顧みてやれよな」 「―――――ッ」  そうだよ、そこには── 「はぁ、はぁ……っ、うぅ、く──」  蹲っている女の姿を前に、ほんの一瞬だけこいつは瞠目して。 「──」 「──」 「っ、違う!」  ようやく、刑士郎の瞳に理性の光が戻ってきた。  ああどうだ、思い出したかコラ。何おまえさっきから、自分で自分の宝物の首絞めてんだよ。 「どうよ、この馬鹿兄貴。目は覚めたかよ」  俺たちの後ろには竜胆がいる。そしておまえの妹がいる。  七面倒くせえ大義なんて知ったこっちゃねえのはお互い様だ。おまえはおまえの理屈でここまで来て、それを成したいからこそ咲耶を連れて来たんだろうが。 「…………うるせぇ。こっちの都合も知らねえくせに、べらべらと言ってんじゃねえよ!」 「ああ、知らねえよ。おまえが戦う理由なんざ、俺の知ったことじゃねえ。だが、咲耶はおまえの女だろうが。だったら自分でしっかり最後まで護りやがれ」 「――――」  だから、此処まで来たんじゃねえのかよ。なあ、そうだろ刑士郎。一番大切なものだけは、この手でしっかり抱いていようや。  てめえが咲耶捨てんなら、俺が貰っちまうぞ馬鹿野郎が。 いやもちろん、竜胆だってやんねえし。  俺様の愛溢れるヌキヌキポン宇宙の完成を阻みたいなら気合い入れろや。そんな不届き働けそうな奴は、見たとこおまえだけなわけで。 「おまえがやんなきゃ、そいつは誰もやらねえんだよ!」 「ッ──うるせえ! 知った口ばっかり聞いてるんじゃねえぞ、糞がァッ!」  迸った陰気は悪態そのものだったが──はは、やりゃあできるんじゃねえかよ。さっきより数段マシな面してるぜ、お兄ちゃん。  そうだよ、そうさ。俺らは勝つ、女守りたいから見栄張って、勝ってあいつら抱きしめるんだ。  俺たちは、魂を持つ〈益荒男〉《にんげん》なんだからな──! 「はははは! おまえ、面白いな。最初は誰おまえって感じだったけど、見所はあったのかもな」 「――だから、がっかりだぜ。オレに何にも見せられないまま、このまま消し飛んじまうおまえらがよ」 「まあ、それでも何か残ってるなら……」  これが試しだと、銃口に収束した威圧が増した。それを前に、俺らは並び立って歯を食いしばる。 「ほら、来やがるぜ! きばれよ、刑士郎」 「うるせぇよこの阿呆が! 紫織、宗次郎、てめえら俺たちの邪魔すんじゃねえぞ!」  最悪な状況だろうと、全員で見せてやろう。俺とおまえの魂は、この余裕こいてる鬼だって魅了してやるってことを。 「そんなザマじゃ、とてもオレの期待には添えねえな」 「惜しいとこだが落第だ。殺してやるから、泣いて喜べ。慈悲ってやつさ」  そして無慈悲な破壊光がついに放たれる── 「──待て、道化」  一か八かの刹那、響き渡る低い声。  横合いから口を挟んできやがったのは、思いも寄らない奴だった。 「龍明殿」 「龍明! おまえどうして、ここにいるんだ」 「これだけ大騒ぎをしておいて、駆けつけるなという方が無理がある」  龍明の言葉に、竜胆も口を閉じた。なぜなら、今のこの状況を見てそんな風に言えるわけがねえんだ。  大騒ぎとか、あんたどんな胆力してんだよ。まるで餓鬼どもが遊んでるのを注意しに来たみたいに言いやがって、それもまた飄々と。  宿儺の気勢が、指摘どおりに道化へ変わる。戦意は季節風のように過ぎ去り、今は緩やかな凪に変わっていた。 「そうだろう。まったく、変わらず遊びが過ぎるなおまえは」  口調はさながら、故郷に残してきた悪童に語りかけるよう。 「……おう、お久しぶりじゃん。お姉さま」  龍明の言葉に対し、宿儺の反応も似たようなもの。明確な親しみに満ちたものだった。 「相変わらずいい女してんのな。こっちの女傑まとめてくれてやるからさ、ちょいと帰ってきてくれね?」 「あの物置は動かねえしよ、そうなるとオレ一人だときつくてなあ」 「ふん。道化らしい振る舞いに付き合ってやりたいところだが、そういうわけにもいかんのでな」 「はいはい」 「まあ、オレはあんたと揉める気はねえんだよ。あいつらとは違ってな」 「そうか。それは助かるな」 「お互い狙うのは同じだからな」 「……やはりな。つまり、おまえの目的は私と同じというわけか」 「当たり前だろ。オレを何だと思ってる」 「〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。ずっと前から、変わらずそういう仕組みだろ」  龍明はそこまで聞くとひとつ目を閉じてから、きっぱりと問答を嫌がるように結論を告げた。 「さてな。穢土の化外としか、私はおまえのことを知りはせんが」 「目的が同じということであるならば、今ここで殺し合う必要もあるまい」  殺し合う必要がないだと……? 「さすが、理解が早くて助かるねえ。そいつはさしずめ歳の功かい? 昔の師匠に似てきてるぜ」 「その手の皮肉は聞き飽きた。しかし、思ったよりも殊勝だな」 「そりゃあな。本来、それはオレがやることだったんだ」 「これでもあんたの手を煩わせたこと、申し訳なく思ってんだぜ」 「仕方あるまい。おまえは、穢土から出ることができんのだから」 「しかし、派手にやってくれたものだ。申し訳ないと言っていながら、この様か」 「ちぃとばかり小突けば、化けるもんかと思ってよ」 「けど、どうにも使えねえぜこいつら。だったらいっそ、いらねえんじゃねえのってな」 「ふふ……道化らしい選択だがな」 「しかし、そう捨てたものではない。少なくとも今は、私が保証してやろう」 「そうかい、そうかい。いまいち信用がおけねえが、他ならぬあんたが言うことだ。話半分くらいにゃあ聞いといてやるよ」 「実際、使いものにならねえんじゃ、オレにとっちゃどうでもいいわけだし」 「だがな、恐れながら言わせてもらうぜ。オレに勝てねえようじゃ、端から話にならねえんだよ」 「この様で? この程度で? これで波旬とやらせると? おいおいマジかよ、甘すぎねえか」 「ほう」 「彼女を見てもか?」  聞き返しながら龍明が、竜胆のことをちらりとうかがい見る。 「見た上でだよ」  竜胆も龍水も、さっきまで必死こいて戦ってた俺たちも、そして夜行でさえも何もしゃべらなかった。  計り知れない何かを、龍明とこいつらは知ってやがる。しかし、その龍明が敵じゃねえことを俺たちは肌で感じてるんだ。  それなら敵はいったいなんだ?  どいつを討てば終わりになるんだよ。 「こんな〈姿〉《すがた》じゃ、いまいち手加減も効かねえからな。あんたも気をつけてくれよ、マジな話」 「そうか。心遣い痛み入る」  俺が――いや、俺だけでなく誰よりも竜胆が、龍明と宿儺へ何を言うべきか考えているだろう。  はっきりさせとかないといけないことが、分からねえ。俺たちは何を知っておくべきなんだ?  そして、誰かが龍明に向けて口を開こうとしたそのとき―――― 「  」 「  」  この諏訪原の空へ、八つの神威が落ちてきた。 「なッ……!」  この感じは間違いねえ。両面の鬼が縛る感覚すら溶けてゆくような重圧だ。  また奴らが、ここへ来やがったんだ。 「……あちゃぁ、しまった」 「どうやら、怒らせちまったみたいだな」 「白々しい。おまえが呼び寄せたのだろう」  その瞬間──俺らから声を奪い去るほどの激烈な波動が、もう一つ出現した。 「―――――ッ」  天空に映し出された巨大極まる女の顔。黄金に輝く瞳が俺たちを見据えている。  それを前に、なぜか刑士郎が硬直して動けなくなっていた。まるで蝋人形にでもなっちまったかのように、こいつはその場で呆然と立ち尽くしている。  こういう頭おかしくなる重圧もいい加減慣れてきたはずだろうに、あいつの眼が、腕が、身体がどうもおかしい。  あたかも俺たちへ尖った牙を向けるみたいに、行き場をなくして縛り付けられてるようだった。  しかし、そんなこちらのことなど興味ないと言わんばかりに、女は宿儺へ詰問する。 「あなた、まさか私たちを裏切るの?」 「べっつにぃ」 「ただ、おまえらつまんねえとは思ってるぜ」 「そうか」 「それは私たちも同感なのよ」  そして、突如空間をぶち破って現れたのは悪路と母禮── 「クッ……はは! てめえら少しは手加減しろよ。仲間じゃねえの」  それをあくまで宿儺は飄々と、二柱の陰気を丸ごと総て消し飛ばしやがった。  なんだこいつら。理由は知らねえが、今の一撃はどう見ても本気だろう。  空が割れちまうような震動が物語るのは、あいつらの怒りだけだ。 「仲間、仲間ね……」 「君に加減が必要だとは思えないが」 「 」 「 」 「彼らに私たちの記憶を見せるなんて、いったい何を考えているの?」  私たちの記憶だと……?  どういうことだ。散々見せつけられた意味分かんねえ幻は、すべてこいつらの記憶だってのか?  馬鹿な。どう見ても化外の記憶なんかじゃなかったぞ。それとも、まさか――いや、やはりか。  こいつら西で思われているような化け物じゃなく── 「正直、今の君は私の理解を超えている。この状況を、どう捉えていいかわからないわ」 「返答次第によっては……」 「討つってか? おおこわこわ……どいつもこいつも、〈真剣〉《マジ》過ぎて怖いねえ」 「いいさ。嫌われるのは慣れてるし、今さらどうとも思いやしねえよ。けどな――」 「オレを誰だと思ってるんだ、おまえさんたち」 「オレはあいつの〈裏面〉《ダチ》なんだぜ。だから、オレが誰よりもあいつのことを知ってるのさ」 「あんたら程度じゃ見えていない、本当の気持ちってやつをよ」 「よく考えろよ、あいつ馬鹿だろ? だから本当はこんなもの、あいつ守りたいなんて思っちゃいねえ」 「こんなもん、本当は何もいらねえんだよ」  そして、また他の化外が割って入って来やがった。  その姿、忘れもしねえ。不二で見たのはただの影にすぎなかったが、今度は正真正銘本物だ。虎面の天魔がそこにいるというだけで、周囲の空間ごと死んでいきそうな気配さえする。  もはや発狂寸前に陥りそうな精神を、俺は瀬戸際で防いでいた。それだって、今直ぐ舌を噛み切っちまいそうなほど。  まさかあいつら同士のいがみ合いで、ここまで強大な力を思い知るとはふざけてるにも程がある。 「双方、退け。ここでこれ以上の流血に意味はない」 「──よう。遅ぇんだよ、あんたは」 「あなた、いきなり出てきてどういうつもり」 「もういいでしょう。これ以上の押し問答は意味がない」 「皆、ここは私に免じて収めなさい」 「…………」 「あなたも、早く太極を閉じなさい。それが挑発になっていることくらい、分かってやっているでしょう」 「そうよ。それが開いてるだけで、こっちは息苦しくてたまんないんだから」  まさか俺たちだけじゃなく、宿儺の力は奴らにも無差別で効いてるってのか。  だが封じられていて、なおこの圧迫感。やはりこいつら、一人残らず化け物だ。 「そうか? オレは、なかなか快適だぜ」 「あんたみたいな不感症、どこでも何でも一緒でしょ。いいから、早く閉じなさいっての」 「へぇへぇ。姉さん方は優しいんだが、口うるさいのがな」 「  」 「   」 「   」 「  」 「   」 「   」 「……俺に問うよりも、周りを見渡してみろ」 「なに……?」 「来るぞ」  ……なんだ? 「まさか――!」 「はははははっ! 来やがったか、さすがだよ馬鹿野郎。いいところでお出ましじゃねえか」 「ああ――まさか、こんなところにまで……」  なんだ、なんだ、この潰されるような感覚は。  いや感覚なんて生優しいもんじゃない。溢れ出てる瘴気みたいな念が想像を絶する域でひたすらに濃い。猛毒の中にいるようだ。  こいつは――他の七柱とも明らかな別次元。文字通り、総てが隔絶している。  ならばこれこそ。否、こいつこそが── 「もうやめろ。見るに耐えない」  穢土の頭、夜都賀波岐が主柱――天魔・夜刀に違いない。 「  」 「  」 「今のあなたは、こんな所に出てこられる状態じゃないでしょう」 「たとえそれが影だとしても。お願いだから、早く戻って」 「そんなことはどうでもいい」 「俺のことより、おまえたちだ。つまらないだろう、仲間割れなど」 「    」 「    」 「趣味が悪い。寝ていられる気分じゃない」 「そりゃまあ、そうだろうがよ。おいおい、そんな睨むなよ」 「オレはオレで、おまえに出来ねえことをだな……ああ、まあいいや面倒臭ぇ」 「で──どうやら今日は、頭の方もちゃんと冴えてるみたいだが? そこんとこどうなのよ」 「言っただろう。そんなことはいい」 「俺を気遣うなら、あまり他の奴らを煽るな。おまえの悪ふざけに付き合える奴は俺くらいだ」 「あぁ、そうね。そうかもね。だがオレは、こいつらのことも、おまえと同じ連れだと思ってるんだぜ」 「要するにあれだ、愛情表現みたいなもんだ」 「そんくらい、こいつらだって分かってくれてると思うんだがなあ。オレとしても、こんくらいの衝突は折り込み済みなんだよ」 「…………」 「信じろって」 「ああ、それは言われるまでもない」 「そういうことだ。おまえたちも、いいな?」 「もとより、同じく言われるまでもない」 「ええ。それよりあなたも無理しないで」 「おい。おまえらも、つーわけだ。いい加減、これなんとかしれくれよ。手が痛ぇわ」 「  」 「……  」 「  」 「  」 「……  」 「  」 「…………わかった」 「とまあそんなわけで、最後には、仲の良いオレたちでしたっつーわけだ」 「どうよ大将、せっかく来たんだ。こいつらにもなんか言ってやれや」  宿儺に促され、夜刀が俺たちへ視線を落とす。  それだけで、さっきまでの重圧がより激しいものとなっていた。こいつの力は底が見えない。人間が宇宙の広大さを測ることができないように、俺たちの目にはこいつが人の形に似せた別の宇宙にしか見えなかった。 「ああ……」 「もちろん、そのつもりで来たんだよ」 「波旬の細胞、か。皮肉な話だ」 「おまえ達――早々にここから立ち去れ」 「この地は、おまえ達が踏み荒らしていい場所ではないんだよ」  ……は。言うに事欠いて、立ち去れだと。  さんざっぱら痛めつけてくれて、親玉の言うことがそれかよ。  どいつもこいつも、とことんまで俺たちのことを舐めてくれる。 「それでも俺たちと決着をつけたいというのなら、蝦夷へ来い。北の先、海峡を渡った先にある大島だ」 「それまでは、こちらも邪魔をしないと約束しよう」  すると竜胆は、隣にいた俺を制して一歩前へ出て聞き返した。 「信じてよいのか?」 「無論……」 「おまえたちが、ここから逃げおおせることが出来たのならばな」  瞬間、奴が力を行使した。  ねじ曲がり粉々に砕け、そしてひとつの塊として凍り付いてゆくような波動が伝わる。  俺たちだけじゃねえ。辺り一帯に、野郎の歪みが広がってゆくのを感じた。 「龍水、早々にみなへ港まで逃げるように指示を出せ」  普段は見せない夜行の鋭い声が、龍水と俺たちへ駆け巡る。 「で、ですが夜行様。今は遁走も封じられており――」 「その咒はすでに解かれた。しかし、この封印はただの封印ではない。星天の動きすら止める、凍てつく風だ」 「巻き込まれたら永劫、解くことはできん」 「まさか、そのような術が……! 竜胆様、こちらへ覇吐たちを集めてください」 「わかった。龍水は、咲耶を見ていろ! 頼んだぞ、夜行」 「はい!」 「おい! やべぇぞ、みんな! さっさと逃げろ」  俺が叫ぶと、龍明も夜行と共に陰陽術の陣を敷いてた。  逃げられるか。いや、逃げ切る。でないと恐らく、死んじまうよりもまずいことになると直感した。 「ふむ。引き上げるぞ。あれに飲み込まれたら、一巻の終わりだと思え」 「…………ちっ」  だが、転移した先から港の方へ目を向けると、そこに飛び込んできたのはすでに沖へと走り去っている東征の船団だった。 「おいおいおい! あそこに船があるけど、もう出ちまってるぜ」 「ちょ、うそぉ」 「……なるほど。敏いお人だ」  中院が、ここに来て先に逃げ出してやがった。 「おまっ、さすがにそりゃねえだろあの野郎!」 「おまえたち、さっさと逃げるぞ! はやく戻れ!」 「けどよ、船がもう出ちまってるんだぞ。他にあるのかよ」 「大丈夫だ。ここにいる人間が乗れるくらいの船なら、用意してあるから早くしろ」  おお、さすが龍明だ。今だけは頼りになる。  怪しいところは尽きないが、中院の野郎と比べりゃ信じられる女だぜ。いや、うん。俺はもちろん最初から信じてたけど。 「本隊を潰すわけにはいかん。いいから、夜行たちと合流して港まで走るぞ」 「おうよ!」  空間と時間が凍り付いてゆく。  その様を遠くから見つめ、中院冷泉は何かを感じていた。  万象、凍て付き凍え、息絶え果てる。鼓動悉く消え去りて、喪失せんとしていくその光景に── 「そうか。これが我か。我はこのために生まれてきたというわけか」  彼は、何かを感じていた。 「導かれた気もするが、我は我の道を行くのみ」 「……くくくく。この東征、何としても成就させぬとなあ」  時よ止まれ、時よ止まれ──美しき黄昏の残影を抱いて。 「もうこれが最後かもしれない……」 「この街も、これで見納めかもしれないんだ」 「もしも、新世界があるというのなら――――」 「またあの頃みたいに笑いたいから」 「 」 「 」  特別付録・人物等級項目―― 凶月刑士郎、中伝開放。  ――これより少し、幕間の閑話が紡がれる。  それは大筋において特に意味のないもので、だからこそ無視することが出来ないもの。  隙無く構成された物事には遊びがなく、ゆえに始まりから結末までの流れが変わらない。  分岐、寄り道、無駄話……それはすなわち可能性だ。 〈本〉《 、》〈来〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》、〈本〉《 、》〈来〉《 、》〈辿〉《 、》〈り〉《 、》〈着〉《 、》〈く〉《 、》〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈向〉《 、》〈か〉《 、》〈わ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  その完成図が死と嘆きに満ちているなら、無駄なことをしてでも台本を変えなければならないだろう。そしてそれが出来る者は、登場人物という創造主の玩具ではない。  少なくともきっかけは。最終的に道を決めるのは彼ら登場人物であったとしても、彼らに己が玩具であると知らせるきっかけは外側から持ち込まねばならない。  喩えるなら蚊帳の外。大筋において意味を持たず、別に存在しなくても話は変わらないという者だけが、物語の外側へ渦中の者らを引っ張れる。  ソレはそのように思っていたし、そうあってくれと願われていたし、腹は立つがそうある自分を誇っていたから、無駄という役目を発揮したいと感じている。  物語の外側にいるからこそ、見えているものがあるのだから。  この脚本は最悪だ。そもそも書いている奴にやる気がないし愛がない。誰かに読ませるつもりはなく、自分の書庫に並べる気もなく、ただ紙や文字という存在自体が気に入らないから、ありったけ吐き出して焚書するためにやっているのだ。  そうすることで、己は唯一の無量大数だと感じるために。  終わっている。どうしようもない究極無二の自閉症かつ自愛症。  それが現在、天を握っている〈神座〉《かいぶつ》の本性だから。  ソレは願う。強く願う。どうかこの幕間をもって、魔羅の〈射干〉《シャガ》でしかない己を知ってほしい。  無間神無月に愛されて、だからこそ蚊帳の外に留め置かれた自分にしか出来ないことを。  彼のために血を流せる、彼や彼女らには出来ないこと。  それをここに成せたなら、ああそれこそが私たちの勝利だろうと、何より強く信じているから。  どうかお願い、私の好きな馬鹿野郎たちを負け犬になんかさせないで。彼らの戦いに意味があったと証明させて。  総ては、その未来を掴むため。最悪の結末から脱するため。  ソレは今、ここに幕間の閑話を紡ぎ出そうとしているのだった。 「しかしこう、なんつうかいい加減うんざりしてきたな」 「毎日毎日、干し〈飯〉《いい》、干し〈飯〉《いい》。しゃあねえのは分かってるけど、もっと気の利いた食いもんはねえのかよ夜行」  諏訪原を脱出して、陸路を北上すること今日でもう十三日目……その間、夜行が〈畳〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈歩〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》という小屋と糧食のお陰で寝床と食には困らなかったが、それは無論のこと最低限のという意味であって、快適なわけじゃない。  俺も別にお上品な育ちじゃないから平気と言えば平気なんだが、こうも単調な食事が続くと飽きが来るのは仕方のないことだろう。  がりがり干し飯を齧りながら、溜息混じりに愚痴をこぼす。 「ちくしょう。どっかそこらへんに猪か鹿でもいりゃあ、適当に獲ってくるとこなんだが」 「それは叶わぬ望みだろう。この穢土にそんなものはおらぬ」 「そうだぞ覇吐。皆が我慢しているのだから、我が侭を言うでない。だいたい、夜行様の施しに文句をつけるとは何事だ」 「そうそう、あまりぎゃんぎゃん言わないでよね。すきっ腹に響くじゃないの」 「三日前から同じ文句を聞かされ続けているこっちの身にもなってください」 「どこ行っても騒がしい野郎だな、てめえは」 「まあ、それが覇吐様の良い所と言えばそうなのでしょうが」 「少しばかり見苦しいぞ。愚痴しか言わぬのなら黙っていろ」 「へーい」  とまあ、こんな感じでどいつもだいたい機嫌が悪い。それは食事事情がどうこうということよりも、この現状に対する不満がそうさせるのだろう。  色々あったが、諏訪原での攻防を生き残れたのは良しとしても、中院の野郎からほっぽり出されたのは腹に据えかねるところがあった。なんで俺たちがこんな少人数で山ん中歩いてなきゃいけないんだよ。 「顔に出ているぞ、覇吐。言いたいことは分かるが、あれはもうしょうがない」 「あそこで我々が乗船するのを待っていたら、本隊ごと壊滅していたかもしれない。冷泉殿としても、あそこはああするしかなかったろう。私でもきっとそうした」 「ほんとにぃ? なんか竜胆さんなら、全員拾うまでは意地で待ってたような気もするけどな」 「わたくしも、ええ」 「右に同じく」  ついでに俺も同感だ。こいつは絶対そうする気がする。 「なんだおまえたち、私を馬鹿だと言いたいのか」 「馬鹿がどうかはともかくとして」 「まあ冷泉様のアレは、少なくとも苦渋の選択というやつではなかったでしょうね。傍から見てもまったく迷っていなかったのが分かりましたよ」 「逃げ足だけは達者ってな。宗次郎、おまえあいつにムカついてんのかよ?」 「別に。ただあの人らしいと思うだけです」 「まあ、合理的ではあるよなあ。将として、烏帽子殿に足りぬところがあるとするならそういう部分か」 「うるせえよ夜行」  あの馬鹿野郎と比べんなっつうの。どこから何をどう見ても、竜胆の圧勝に決まってんだろうがそんなもん。  むしろあの状況でなんとか逃げ切れたことの方が冷泉の将器云々より数段すげえ偉業だろうよ。 「それで今、この様だけどね」 「とにかく」  またしても愚痴大会になりそうだった空気を、竜胆がぴしゃりと締めた。 「冷泉殿に言いたいことがあるのなら、まずはこの地を越えることだ。いま注力すべきなのはそこだろう」 「蝦夷、だったか。いかにその地までは手出しせぬと言われたところで、気を抜いていいことにはならない。もはや我々は、穢土の奥地まで入り込んでいるのだから」 「いつ、何が起こるか分からんという気構えだけは維持していろよ」  言われるまでもないと頷く俺たちだったが、竜胆の言い様からは〈化外〉《やつら》との約定を信じているのが伝わってくる。  まったく、この大将ときたらおめでたいなと思う反面、なんだかんだで俺もそうなのだから笑えない。  〈天魔〉《あいつら》は、こう、何と言うか中院のような奴じゃないのだ。喩えとして不適切なのは分かっているが、竜胆と似たような気質を感じる。  〈竜胆〉《こいつ》は騙まし討ちなんてしないタチだし、だったら〈天魔〉《あいつら》もしないだろう。  特に根拠もなくそう思えてしまうのが不思議だったが、そこらへんは他の奴らも同じなのかもしれない。勝負は蝦夷という口約束を、皆が当たり前に受け取っているようだった。  で、だからこそ当面の問題はこの状況にあるわけなんだが。 「私が持っていた糧食にも、さすがに限りがありますからな。早々にここを抜けて、本隊と合流せねばなりますまい」 「一人一人抱きかかえて空を飛ぶという手もないではないが、やはり飛行距離にも限界がある。今はどの辺りなのかな、龍水よ」 「あ、はい。おそらくはこの近辺かと」 「蝦夷はこの大島ですから、何にしろ海峡を渡らねばなりません。合流地点はそこになるでしょうから、今のところ稼いだ距離はまだ半々……」 「爾子や夜行様が飛べるといっても、さすがにまだ無理があるかと。最低限、今の我々が捕まっているこの山岳地帯を抜ける必要があるでしょう」 「母刀自殿が仰るに、ここは穢土で最大の〈天嶮〉《てんけん》だとか。奥羽山脈……そのように呼ばれているらしいです」 「龍明、ね……」  あいつも色々と謎の多い奴なんだが、今は犬と坊主を連れて一足先に寝ていやがるから問い詰めることもできやしない。  まあ、毎度のこと適当にはぐらかされるのが落ちだろうと、分かってはいるけれど。  広げた地図を再び仕舞った龍水は、皆を見回してから少々ひきつり気味の笑みを浮かべた。 「まあその、これだけ歩いてまだ半分かと先行き不安になるのも分かるが、要は気の持ちようだ。へこたれないで行こうではないか」 「それにあれだぞ。見方を変えればいいこともある。この奇怪な季節のお陰で、凍死の心配だけはなさそうだ」 「これだけ深い山の中なら、普通は大雪に埋もれていた可能性もあるのだからな」 「てゆーか、いま〈葉月〉《なつ》だし」 「暦も分からなくなるほど疲れているんですか」 「だいたい、一番へこたれそうな奴がよく言うぜ」 「龍水様はこう、ただでさえお小さいのですから」 「ああ。ぶっちゃけやべえのそこだよな」  何せチンチクリンは歩幅が狭い。強行軍に音をあげるとしたら、まず誰よりもこいつだろう。  全員、しみじみとそう言ったら、案の定キレやがった。 「き、き、貴様らあああああ!」 「さー、寝るかー」 「ですね、落ちもついたことですし」 「おやすみー」  そうして三々五々、夜行が用意したそれぞれの庵に帰る俺たち。その間も龍水はなにやらぎゃーぎゃー喚いていたが、もはやお約束のようなものなんで誰一人として聞いちゃいねえ。 「覇吐、あまり龍水をからかうなよ。あれはあれで、私たちを元気付けようとしていたのだから」 「分かってるよ」  そりゃそうだけど、だからってありがとうとか、そういうのクサいだろ。やっぱガラじゃねえんだよ。 「だいたい、竜胆も笑ってんじゃねえか」 「ん、ああ。私のこれは意味が違う。こんな状況だが、正直嬉しくて、楽しくてな」 「はあ?」 「だから……」  笑いを噛み殺すようにしながらも、柔らかな調子で竜胆は言った。 「おまえたちが、なんだかんだと気安い仲間のようになってきた。そのことが、私は単純に嬉しいんだよ」 「…………」  そう言われると、俺自身もなんとなく嬉しくなる。  いや別に、連中と仲間がどうたらとかいう意味じゃなく、竜胆が喜んでるということに対してなんだが。  いや、ほんとだよ? 女陣はともかくとして、夜行や刑士郎とまでってのは、なあ……宗次郎はいくらか面白い奴と思うけれど。  まあともかくそんな感じで、ちょっとムズ痒い気分になった。今日はもう寝ようと思う。  そして…… 「さあ皆、出発するぞ」  無事に夜が明け、朝が来る。再び楽しい行軍が始まったわけなのだが、正午も近くなってきた頃にちょっとした問題が〈出来〉《しゅったい》した。 「ここって、ついさっきも通らなかったか?」  この数日間、周囲は見渡す限りの森、森、森……方向感覚がおかしくなり始めていたとしても不思議はない。不二の樹海も相当だったが、規模においてはこちらのほうが遙かに上と言えるだろう。 「なんかもう、同じところをぐるぐる回っている気がするぜ」 「そうですね……あまり考えたくありませんが、迷ったのでしょうか龍水さん」 「い、や……そんなことはないはずなのだが」  眉間に縦じわを刻みながら、地図を見て唸る龍水。どうもあまり、芳しくない事態になりかけているらしい。 「どうなんだよ、龍明」 「さてな。だが見てきた限り、龍水は誤ってなどいないぞ」 「でもこれ、どう考えても迷ってない?」 「そうだな。だからそれが不可思議だ。理屈に合わん」 「正しく進んできたはずなのに正しく進めん。奇妙としか言えんだろう」 「爾子、丁禮」 「はいですの」 「心得ました夜行様」  夜行に促され、二童子が宙に浮かぶ。一旦空から周囲を俯瞰し、状況を把握するつもりなのだろう。  しかし―― 「あれ?」 「どうした爾子?」 「なんか変ですの。これ以上、浮けないですの」 「ほう」  爾子の身体は地上一尺あたりを滞空するだけで、それから上に行けないと言う。もはや疑いようのない異常事態だ。 「夜行様はどうなのです?」 「ふむ……ああ、これはどうやらこちらも無理だな。咒は編んでいるのに効果が出ない」 「じゃあ、まさか……」  俺たちは今、何かの攻撃を受けている? 〈天魔〉《やつら》が約束を反故にしたのか?  そんな緊張が、一瞬皆の間を流れたが…… 「いや、それはないだろう。やり口が中途半端すぎる」 「私たちを迷わせて干乾しにするなど、〈天魔〉《かれら》がそんな回りくどいことをすると思うか?」 「まあ、そりゃ確かに」  言われてみればそうなんだが、だからといってこの状況を楽観するわけにもいかないだろう。 「とにかく今は、地図通りに進んでみよう。ただし、目印を残しておく。よいな龍水?」 「はい、分かりました竜胆様」  応えて、傍らの木に龍水は線を刻んだ。これで以降、本当にこの場所をぐるぐる回っているのかどうかがはっきりする。 「では、行くぞ」  竜胆に促され、再び歩き始める俺たち。だが、その中で…… 「これは、もしやな……」  ぼそりと独りごちた龍明の呟きが、なんだか妙な調子の抑揚で、どうにも気に掛かっていた。  神妙だが、同時に何かを期待しているかのような。  こいつはまるで、この事態を歓迎しているかのように思えたんだ。  ……………  ……………  …………… 「も、申しわけ、ありません。わたくし、もう……」  そうして、最初に音をあげたのは咲耶だった。 「な、なんだ。だらしないぞ、もうへばったか……」 「てめえもぶっ倒れる寸前じゃねえか」 「ですがさすがにこれは、僕もきつくなってきましたね」 「あれから、いったい何刻経っている?」 「さあ、かなり歩きっぱなしだったのは間違いないけど……」 「にも関わらず、この様か」  龍明が目を向けた傍らの樹肌には、すでに正の字が三つ刻まれている。つまり、最低でも都合十五回、ここに戻ってきたことになるのだ。精神的にも体力的にも、きつくなるのは当たり前だろう。 「それに加えて言うならもう一つ。分かるか夜行」 「ええ、なんとも奇妙なことですな。むしろこれが当たり前と言うべきなのかもしれませぬが」 「丁禮は分かってるですの?」 「当たり前だろう。他の皆は気付いていないのかもしれないが」 「いや、俺は分かってるぜ」 「へえ、意外ですの。覇吐はもっと、可哀想なにぶちんだと思ってたのに」 「うるっせえな、このクソ犬は。俺はこれでも、結構繊細なタチなんだよ」 「なんだ覇吐、何があるのだ?」 「いや、えっと……」  どうしよう。言うべきか言わざるべきか。言った瞬間、こいつらが余計に気負っちまったらそれはそれでまずいわけだし。  かと言って、言わないでいるのも問題だろう。だいたい、放っておいてもそのうち絶対気付くことだ。  なので努めて平静に、軽い調子で俺は言った。 「たぶんもう、時刻的には夜中のはずだぜ」 「なに?」 「え?」 「本当ですか?」 「ああ。どういうわけか真昼間のままだけどな」  〈時〉《 、》〈間〉《 、》〈が〉《 、》〈一〉《 、》〈切〉《 、》〈流〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。それはこの穢土において当たり前のことだったが、ここまであからさまになっている場は初めてお目にかかったものだ。  そこから察してみる限り、おそらくここは特別に夜刀が留めた場所なんだろう。その影響で、方位までが狂っている。  いいやあるいは、別の何かがあるのかもしれないが…… 「なるほど、言われてみれば覇吐さんの言うとおり、それくらいの時間は経った気がする。迂闊でした」 「日が落ちないのと、道行が単調すぎるせいで分かり難くなってたんだね。あんた、どうして気付いたの?」 「あ? そりゃおまえ、あれだよ」  生き物として、やんごとなき当然の事情と言うか。 「おおかた腹が減ったんだろう。そっちの時計は馬鹿みたいに正確だからな、おまえ」 「ほっとけや。生理現象なんだから仕方ねえだろ。おまえらより生き抜く力が強いっつー証だよ」 「それで竜胆、ともかく一旦休憩しないか。咲耶もああだし、ここは少し立ち止まって頭冷やしたほうがいい」  腹も減ったし。 「何か食べたいと言うのだろう。まったく、昨夜はあれだけ文句を言っていたくせに……」 「しかし、おまえの言う通りだな。生き抜く力か、確かにそうだ」 「そういう意味で、生理現象というもの、も……」 「ん、どした?」  言葉途中に、竜胆は押し黙って腹を押さえ、次いで段々と青くなって。 「りゅ、りゅりゅ、龍明殿!」  いきなり立ち上がると、凄い勢いで龍明の腕を引っつかむと走っていった。 「あっ」 「え……」 「ちょっ……」 「あん?」 「嘘ぉぉぉ!」 「――て、うわあっ!」  続くように女三人、宗次郎を突き飛ばして竜胆と龍明の後を追う。 「なん、だよ……こりゃあ」 「あ、どうやら爾子もですの」 「おまえもかよ!」  もう何がなんだかワケが分からねえ。俺たち男連中はぽかんとしたまま、女どもの突然の奇行に呆気となるだけだった。  いったい、何がどうしたって言うんだよ。 「なあ龍明殿、これはまずい。どうしよう……」 「いや、どうすると言われてもな。他の者らもそうなのか?」 「はい、申し訳ありません。わたくしも……」 「同じく、私も」 「そうか、それは困ったな。しかしこれが初めてではあるまいに、今まではどうしていた?」 「というか、自分の周期くらい押さえておけよ。情けなさすぎるぞ」 「そんなことを言われましてもぉ……」  と、なんだか離れた所でぼそぼそと、密談めいたことをしている。 「なあ、なんだあれ?」 「さあ、僕に訊かれましても」 「妙に顔色悪ぃが、どうしたあいつら」 「さあて、分かるか丁禮」 「ええ、まあ、なんとなくは……」 「お、母刀自殿ー。やばい、やばいです。怪しまれてます。身の危険を感じます」 「少なくとも、覇吐にだけは絶対知られたくない」 「面倒くさいことになりそうだしね」 「想像すらしたくありません……」  おい、今なんか、覇吐がどうたらとか言ってなかった? 俺に関係あることなの、ねえねえ。 「こそこそすんなよ。水臭いじゃんか、なあ」 「うるさい!」  うおお怖ぇ。なんだあいつら、揃って猛獣みたいになってやがる。 「で、おまえもなのか爾子」 「あ、実は違うんだけれども、なんか面白そうだから来たですの」 「龍明さんもそうですのよね?」 「まあ、私はな。そんな歳でもないことだし」 「だがおまえたち、仲が良すぎるのもほどほどにしろよ。なぜこうも同じ瞬間にそうなるのだ」 「別に好きでなっているわけではない。ただ忘れていただけだ」 「本来ならわたくしは、まだいくらか余裕があるはずなのですけど」 「つうか私さ、ついこの間やったばかりよ? おかしくない?」 「うぅ、そろそろ来るなとは思っていたけど……」 「えぇ、つまり、ガチで女失格なのは烏帽子殿と龍水ということでよろしいですのか? 紫織と咲耶は、なんか分からんけどそれに引っ張られてしまったと」 「俗説だけども、虫歯の痛みも伝染することがあるって言うし、これはそういうことじゃないですのかね。粗忽な二人は自業自得、巻き込まれた二人はご愁傷様」 「そんな感じで諦めて、一発派手に日の丸作っちまえばいいですの」 「爾子……貴様喧嘩を売っているのか」 「おまえ、少し言い方を工夫しろ。誰が女失格だ」 「それはともかく、どうにかしないといかんでしょ。でないと今このときだって、あぁ、あぁ、あぁ~~」 「ああもう、だから女って面倒くさい」 「わたくし、早急に手を打たないとすごく目立ちそうな気がします」 「着物、白いしな」 「おーい」 「黙れ!」  はい、まったく蚊帳の外。あのつれない女ども、いったいどうしてくれようか。 「また何か、よからぬことを考えているんでしょう。顔に出てます」 「そりゃおまえ、ここまで邪険にされたら逆に燃えるってもんだろうよ」 「お風呂でばったり、夜這いでどっきり、未だに一個も報われてない俺だけど、三度目の正直っていうことで」 「なあ、この場合、何のヌキヌキポンにするべきだと思う?」 「知るかよ」 「つうかてめえ、咲耶にいらんちょっかいかけやがったら殺すぞ」 「善意から忠告しますが、今回ばかりは実行するとかなり下種なことになりそうなので、やめたほうがよいかと」 「そもそも、事態を呑み込めていないのに作戦名も何もあるまい」 「それにおそらく、この騒動も偶然ではないだろう」 「と、言うと?」  意味深な夜行の台詞に、皆が訝ったのと同時だった。 「お、おまえたち、私たちは少しの間この場を離れる。絶対そこを動くなよ!」 「はあ?」 「兄様も、咲耶は平気ですから来ないでください!」 「ちょ、おい――なんだよいきなり」 「宗次郎……は、まあ、いいや。ただ血ぃ見たくなかったら来ないほうがいいよ」 「えぇっと……」 「夜行様ぁ、できればしばし、天眼を閉じておいてくださいませ」 「聞いてやりたいが、正直そういう状況でもないのだがな」  と、それぞれ意味不明な捨て台詞を残しつつ、ばらばらに森の中へと消えていく女ども。  ちょっと待てよ。何があったか知らないが、それは軽率すぎるだろう。今の俺たち、迷ってるという自覚があるのか?  気楽な紫織や、いつも暴走気味の龍水はともかくとして、咲耶と竜胆まで何をトチ狂っているんだろう。さすがにこんなの、放置なんか出来ねえぞ。 「おい、行くぞおまえら」 「あ、と――でもよ」 「アホか、なに躊躇ってんだこの馬鹿」 「しかし、僕らまで動いてさらにばらばらになるのはどうかと」 「それも理屈だな、さあどうする?」  すでに竜胆たちの姿は見えない。追うなら今しかないんだが。 「何を呆けている。行けおまえら」 「へ?」  なぜか、あっち側の陣営だった龍明が、ごく当たり前のようにそう促した。 「これはまた、いったいどういうことですかな」 「なに、行けば分かるさ。心配するな。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「むしろ、おまえたちの味方と言っていいかもしれんぞ」  苦笑しながら、そんなことを言う龍明の意図は分からない。だが何にしろ、これで決まった。 「行くぞ」  あとは四人にばらけた女たちを、それぞれどのように追うかだが、そこはもう確定してる人選ってやつがあるだろう。 「行ったか……」  残された龍明の前で、急激に景色が変わる。そこは先ほどまでいた森の中ではなく、開けた丘の上だった。 「これは……」 「まさか……」 「ふふん、まったく、なかなか乙なことをしてくれるよ」  微笑みながら、しかし恭しく膝をつく龍明。その前には、誰のものかも分からない墓標と、そこに敷き詰められた花の数々。 「やあ、久しぶりだな。おまえとは特に関わりもなかった身だが、また会えて嬉しいよ」 「あの餓鬼ども、まだ少々頼りないので渇を入れてやってほしい。おまえなりのやり方で」 「龍明殿、それは……」 「黄昏……?」 「いいや」 「彼女は違う、太陽だ。ほら、だからこの奥羽は、夜が来ないようになっているのさ」  …………  …………  …………  そうして――  まず気づいたのは――俺ら揃って、罠にはまったんじゃねえかということ。  四方八方、見渡す限り真っ白な空間を走り抜ける。道も何もあったものじゃない世界のくせに、ここは不思議なことが多々あった。  まず声なのだが、意味は通るのに音になっている感じがしない。自分が何喋ってるのかは分かるのだが、まるで餌をねだる鯉みたいに口だけぱくぱく動いちまう。  次にもう一つ、なぜかさっきから竜胆がどっちの方向にいるのかぼんやり分かってしまうのだ。  離れても女の気配を感じられるようになったとは、俺もよくよく進歩したなと感慨に耽りたいところだが、どうもそういう感じじゃない。  それを証明するように、風景が彩りと輪郭を帯びた。  ここは……久雅家の庭か?  変わらず幻に包まれているような曖昧な感覚だが、景色を見間違えるはずはない。東征まで厄介になっていた家は、季節すらあの時に巻き戻った姿をさらしている。  そして、ここに竜胆はいると確信した。  あいつもまた迷い込んで、なんか分からない理由でこの冬景色に帰ってきたのだと── 『そう。彼女はずっと、ここにいた』 『幼い頃から誰一人、自分の言葉に共感してくれないまま、この屋敷で苦痛の時間を過ごしていたのよ』  その瞬間、頭に直接叩き込まれた言葉が俺の意識に語りかけてきた。  景色に重なって感じる念の波動。そこに映る映像が、竜胆のことを告げているのだと示していた。 『あなたも分かっているとは思うけど、彼女は端的に言ってズレている。それは東西や神州とかいう括りじゃなくて、あなた達の住んでいる宇宙そのものから外れているの』 『一点の濁りもない湖は鯉のもので、鰐は生息できないから。領域が違うんだよね。だから当然、鰐に限らず海の魚もまた住めない』 『塩の良さをどれだけ説いても真水の魚は分からない。そんなものは不純物。何か理解できない余分なもので、邪魔で煩わしくて仕方ない』 『ならば自分は鯉じゃなくて、他者とは違う別の何かだということを自覚する。利発さゆえに気づいた真実は幼少時から彼女の中で蓄積し、無遠慮に頑なな心を圧していく』 『魂という言葉を知らないまま、魂を感じていたことは……うん、確かにすごいよ』 『でもね、全員が目隠しされているような暗闇の中で、光の尊さを知っているっていう苦痛。私はとてもよく分かる』 『蚊帳の外でいるってことは、下手をすれば事態の中心にいることより重くて辛い。いつ終わるとも知れない災害を前にひたすら耐えて、自分の無力を噛み締め続けているようなものだから』  語りかけてくる〈意志〉《こえ》は優しく、穏やかで、だけど隠し切れない切なさのようなものを孕んでいて……  こいつは、たぶん悪いようなものじゃないと理解できる。まるで木漏れ日のようなとでも言うべきか、そういう純朴な気配を感じる。 『けど──ううん。だからこそ、彼女はいま生まれて初めて、心が揺らぎ始めている』 『孤立無援。周りは自己愛。誰も自分を理解してくれない環境だからこそ、彼女は自分の〈法則〉《ことわり》を強固に守り続けることができていた』 『良くも悪くも理解者の存在が、彼女のタガを緩めたんだよね。たとえばあなた、たとえば彼ら、彼女らが……今は久雅竜胆の語る言葉にそれぞれ耳を傾けてくれる』 『奪うためにはまず与えろ……ってことなんだろうね。私は嫌いな言葉だし、実際にそれを口にした人は大嫌いだったけど、それは一面として正しいわけ』 『大切な仲間ができたから、彼女はやっと理解者を得て、幸福で』 『大切な仲間ができたから、頑なで在り続けた彼女は、それを無くしてしまうことにかつてない恐怖を感じている』 『渇いた大地に雨が降れば、それだけ土壌は潤うけれど柔らかくなってしまうでしょう。いまの彼女がまさにそれ。渇きを癒す絆の雫が、愛おしくて切なくて、抱きしめたくて手離せない』 『だから今も、彼女は一つ大きな隠し事を抱えている』 『そしてそれを仲間たち、特にあなたへ明かすことを恐れている。失いたくない、初めて手に入れた誇りに思える〈絆〉《たから》だからこそ、たった一人で抱えている』 『何より自分自身を守るため』 『自分の身体を抱きしめている。まさにそれこそ天狗道の掌だと気付かないまま……』 『ねえ、あなたはそんな彼女の問題。本当になんとかすることができるというの?』 『何があっても、どんな姿になっても、抱きしめられた腕から温もりが存在しなくても』 『彼女の抱えた重い荷物を、一緒に解決してあげることができる?』  問いに、俺は心の中で即答した。  ざっけんな、楽勝だ。んなもん余裕に決まってる。  俺はあいつのことだけは、徹頭徹尾ずっとマジだ。失いたくない、手放せないだあ? それはこっちの台詞なんだよ。  久雅竜胆は神州一、いや宇宙一の女じゃねえか。あいつが余計なことで苦しんでるっていうのなら、俺が何とかしてやるさ。男冥利に尽きるじゃねえか。 『うん。なるほど、それなら──』 『彼はそう言っているみたいだけれど、対するあなたはどう思う?』 『嬉しい? 切ない? それとも──嫌になるほど煩わしい?』  矢継ぎ早に問いかけてきた思念を、竜胆は無言で受け止めている。  迷い込み、誘われたとも分かる以上、迂闊には答えられない。そう思っているからこそ、ただ黙って問いかける思念を睨んでいる。  どうしようもない胸騒ぎと、これが邪に属するものとはどうしても思えずに── 『受け入れてもらえた絆の中でも、あなたは取り分けこの男性に惹かれている。というよりも別格だね、他の誰かとは一線を画す域で彼のことが気になってる』 『……よく分かるよ、その気持ち。ああ本当に見ていられない。磁石みたいに引き合っていて離れないそんな関係、何から何まであの二人にそっくりだから』 『実際、自分の想いに最も早く賛同してくれたのは彼。久雅竜胆を一番信じているのも彼。何をするときも、道に戸惑うときも、自分を支え叱責してくれるのは彼、彼、彼──』 『まるで畸形の曼荼羅模様……あなたの存在は、この人ありきで成り立っている』 『〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈人〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》』 『分かるでしょう?』  労わるような、それでいて厳しい言葉に何も言えない。違う、そんなことはないのだと反論することさえできないままだ。  敵意に満ちているならいざ知らず、この声に含まれるものは優しさだった。  竜胆を案じているのだろうか。彼女が目を逸らしている部分に限り、このように形を与えて突きつけているかのようだ。 『自分の魂がこんなに惹かれる初めての益荒男……』 『なら、その芽生えた好意はどこから来たの? どうして彼のことがそんなに目から離せないの?』 『自分を重んじてくれる男がいいなら、もっと別な男に引っかかっていてもいいはずでしょう。ものすごく簡潔に言ってしまうならさ、あなたは彼に一目惚れしてるんだよ』 『それこそ、一緒に抱き合いながらどこまでも二人転がり落ちてしまうぐらい、彼の存在にやられてる。だって、あなたは彼の裏だから』 『本当はしたくてたまらなかったけれど、相反する願望から封じ込めていた自滅の渇望。それを形に変えるからこそ、その寸前で踏みとどまったほうがいい』 『まあそれも、有り体に言えば信じるということなんだけど』 『それでも、自覚がないと最悪の未来が待っている。互いの身体が壊れるまで……ううん、砕け散ってもあなた達は抱き合うことを止められない』 『愛しているから、壊してしまう。ねえ、そんな結末、あなたも望んでいないでしょう』 『そして実際、その想いは行動にも現れてしまっている』  それは── 『この黄昏……あなた達が穢土と呼ぶ、化外の地まで来てしまったこと』 『あなたが掲げた覇道の御旗。それがあったからこそ、あなた達は仲間と共にここまで来れた。途轍もない激戦を何度も経験して、それでも心折れずに一丸となれたのは間違いなくあなたの手腕なのだろうけど──』 『〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》、〈彼〉《 、》〈は〉《 、》〈東〉《 、》〈征〉《 、》〈に〉《 、》〈参〉《 、》〈加〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》』 『そして──〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈抜〉《 、》〈く〉《 、》〈た〉《 、》〈び〉《 、》、〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈苛〉《 、》〈烈〉《 、》〈な〉《 、》〈戦〉《 、》〈場〉《 、》〈へ〉《 、》〈向〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈覇〉《 、》〈を〉《 、》〈唱〉《 、》〈え〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈進〉《 、》〈軍〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》』  つまりそれは、久雅竜胆さえいなければ…… 『あなたは彼らを導いて、自分の渇望を伝染させて、そして破滅へ向かって引き摺っている。微熱を伴い、〈瘧〉《おこり》のように、仲間を死地へと誘っている』 『もうこの世界にはないものだけど、戦乙女という概念があってね。戦場で死んだ勇敢な魂を選ぶ女って意味なんだけど、それはあなたにそっくりじゃない?』 『それは、大事というよりも彼らを壊したいからじゃないのかな』 『大切で、愛おしいから、だからこそ砕ける姿を見てみたい。自分はその亡骸だって抱きしめられると……そういうことじゃないのかな』  ──違う! 断じて、そんなことはないはずだと首を振る。  疎ましいと思う気持ちが多々あること……そうだな、そこは否定できんさ。私は時折、あいつのことを煩わしいと思う気持ちが確かにある。  だからこそ、自分は共に生きたいと願うのだ。決して死に逝くためではない。彼や彼らと朝日の輝きを見たいからこそ、この無間に続く永遠の黄昏を終わらせようと思っている! 『……うん』  吼えた言葉を前に、その念は微笑むように頷いて── 『なら、ちゃんと教えて。あなた達は互いのことを、どれくらい大切に思っているのか──』  形にしろと言うのなら──いいだろうと、〈二〉《 、》〈人〉《 、》は共に胸を張って前を見据える。 「私は――」 「俺は――」 「坂上覇吐を――」 「久雅竜胆を――」  思いっきり叫んでやろうとしたまさにその瞬間、俺のど真ん前に竜胆の顔があった。  お、おう、無事だったか。えっと、なんだ……元気してるか?  み、見ての通りだ。おまえこそ、その、無事で何よりだと思うぞ。  などとまあ……まったく声は出ていないのに、意志は伝わる。なんじゃこりゃ、この場所本当にどうしてんだよ。  しかも狙ったように付き合わせるとか、本当に性質悪いなおい。さっきのあの念、縁結びが趣味なのか?  などとまあ、若干ぎくしゃくした空気を感じつつも……  そんじゃ、出会えたとこで帰りますか。  導くように竜胆の手を掴む。さあ、早く帰ろう。ここから一緒に出て行こうやと格好つけて笑ってみせて── 『そう、きっとあなた達はそれでいい』 『互いの魂を、自分の終わりと捉えるんじゃなくて』 『今みたいに手を繋いで、同じ方向に走ればいいよ。その想いが本物だったら、きっと、必ず……』 『あの子の抱擁に負けないような、新しい輝きを創れるから』 「行ったか……」  残された龍明の前で、急激に景色が変わる。そこは先ほどまでいた森の中ではなく、開けた丘の上だった。 「これは……」 「まさか……」 「ふふん、まったく、なかなか乙なことをしてくれるよ」  微笑みながら、しかし恭しく膝をつく龍明。その前には、誰のものかも分からない墓標と、そこに敷き詰められた花の数々。 「やあ、久しぶりだな。おまえとは特に関わりもなかった身だが、また会えて嬉しいよ」 「あの餓鬼ども、まだ少々頼りないので渇を入れてやってほしい。おまえなりのやり方で」 「龍明殿、それは……」 「黄昏……?」 「いいや」 「彼女は違う、太陽だ。ほら、だからこの奥羽は、夜が来ないようになっているのさ」  …………  …………  …………  そうして――  足を踏み入れた瞬間、景色は漂白されて光に消えた。  ここは午睡を誘う日溜りで、決して悪いものではないと進む彼自身に伝えている。  攻撃の意志がない。排斥しようとしていない。しかも自分の追っている女がどこにいるのか分かるという事実に、単純な罠であるとも思えなかった。  ここは、何だ……?  声が形にならず、思念の波となる事実はこの空間の特性だろうか。  音を発していながら、意味だけが残るという奇怪な違和感。刑士郎は訝しみながら咲耶の後を追って先へと進む。  そして──景色は新たな色彩と輪郭を形作る。  雪の舞い散る凶月の里。懐かしいと思える光景を前に、自然と眉間に皺が寄った。  見覚えがある。帰ってきたと思える。だから実に鬱陶しいのだが、同時に安堵する気持ちが混在して刑士郎の中を掻き乱すのだ。  言ってしまえば、思い出のある景色を再び見たからだろうか? 常に感じていた自分の芯に関わる苛立ちを、この時はより強く感じる。  帰郷すべき場所というものに対して若干和らいだ自分。ふと脳裏によぎった己が感性の柔弱さこそが、尚更自分は気に入らず── 『そう──だから、あの子はそんなあなたが好きなのよ』 『自分を忌んで、遠ざけたがって、けれど離れられずに縛られている。幸福を憎んでいる、そんなあなたが』  脳に直接響く思念。意識に投射された光景を前に、思わず身体が強張った。  しかしそれは、いきなり訪れた不可解な状況に困惑したからではない。この想い、この感情、そこに込められた意志があまりに── 『ほら、今もそう。自分を傷つけず、依存していないものにとても弱い』 『自分を傷つけようとしないものが見ていられなくて、堪らない。どうしようもなく苛立っているという〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》、可及的速やかに遠ざけようとしている』 『そうしないと、また自分の業が見えるから。愛を、情を、想いの総てを遠ざけたい。奪われ続けた非業が今も、あなたの魂を蝕んでいる』 『痛みは消えない、それは生まれ持ったもの。だから当然、魂に鎮痛剤が必要なんだよ。あなたが薔薇を食べているのはその激痛を抑えるため』 『彼女を決定的に遠ざけないのは、そういう理由』 『今のあなたに必要な大輪の薔薇。それを無意識の内に、手元へ置いているに過ぎない』 『そして彼女もまた、それを心から望んでいる。それこそが』  ──敵意の無さ。久雅竜胆と同じく、他者を慮るがゆえの忠告に怖気が走ったからだった。  この存在は本気で、凶月刑士郎を何か光の差す方向へ導かんとしている。語りかけてくる念を前に耳を塞ぐことすら出来ない。睨みつけるかのように、彼は映りこむ咲耶の虚像を眺めている。 『とても大事なことだから結論から言わせてもらうよ──あなたは彼女を食べてはならない。何があっても、絶対に』 『それはきっと、間違いなくとんでもないことになるから』 『これだけは自覚して、あなたと彼女こそ総ての要。それぞれ個々の役割があるけれど、あなた達二人だけはこの先絶対に欠けてはならない。その代役を担える人もまた永遠に誕生しない』 『ある意味、最も要求されているものが重いんだよ。積もりに積もった時間の中で、皆が与えられた〈法則〉《キセキ》に抗えなかった。たとえ手を振り払っても、知らない間に組み込まれている』 『神様はそれほど強引でお節介だから、舞台に上がった誰も皆、自分の〈非業〉《やくわり》に逆らえない。力強い姿形を嫌々ながらも演じてしまう』 『だから、主役はいつも神様のおもちゃ。でもね、それは同時に〈宇宙〉《かみさま》にとって勝手に動く〈配役〉《いぶつ》こそ、何より致命的だっていうことの証なの』 『……遠い昔、旧い神様が自分の筋書きを壊すため、極力主役を放し飼いにしたように』  だから、それが何の関係が── 『関係ある。なぜなら彼女は今も変わらず、あなたと共に、与えられた配役にずっとずっと焦がれている』 『私を食べて、私を食べて、あなたの力に成りたいって──彼女はずっとそう思っているけれど、あなたは本当にそれでいいの?』 『今直ぐにでも食べてみたくて、本来の自分に戻ろうとしている。でもそれは結局、与えられた何かに縋っているだけじゃない。あの時の自分が好きだったから、強かったから、取り戻したい成ってみたい』 『好いた女を吸い殺して咲く血染花……戻ればいいよ、そうすればいい。ほら、今までもずっとできる好機はあったじゃない』 『二人が出会ったその時から、出来る機会なんていくらでもあった。なら、どうして? 何であなたは願い焦がれた自分の役を取り戻さずに、その寸前で苛立ちながら留まるの?』 『〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈役〉《 、》〈割〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》』 『〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈は〉《 、》〈勝〉《 、》〈利〉《 、》〈の〉《 、》〈勲〉《 、》〈章〉《 、》〈で〉《 、》〈愛〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》』 『それなら、その気持ちはいったいどこから芽生えたの? あなたの業に含まれていない想いの在処は、いったい誰の想いなの?』 『早く気づいた方がいい。あなたが手に入れたその力に対し、どんな想いを感じるのか……』 『でないと、この子は死んじゃうよ? あなたが求め続けたように、焦がれ続けたように』 『彼女の願いを叶えて終わり。ねえ、本当にそれでいいの?』  黙れ──おまえが分かったようなことを言うな。  迂遠な問いかけの一切合財を刑士郎は否定する。苛立つし、頭の裏側を覗き込まれているようで腹立たしい。  けれど振り払えないそれを封じるかのように、心当たりの総てを拒絶して彼は見えぬ意思を睨みつけた。 『そうだね。やっぱり難しいな。こういう意地悪いの、私、全然得意じゃないわけだし──』 『──本当に嫌いな相手にしか、本気になれない性分だから』 『ねえ、聞いてる? そこのあなただよ。自分の男に寄りかかって、ずっと甘えっぱなしの酷い女』 『日陰になる度胸のない、奉仕根性を履き違えたようなあなたのこと、私は絶対に認めない』  奇遇ですね、わたくしもそうです。あなたとは何があっても、分かり合えないと思いますので。  静かに叩きつけられた念を前に、咲耶は思う。ああ──要するに、この思念は自分を僻んでいるのだと。  愛する男を捕まえることもできず、ただ置き去りにされて蚊帳の外。思いの端々からそのような事実を感じ取れるがゆえに、憐憫するのはまさしく自分の方だと感じていたが…… 『違う。あなたは獣を愛する檻に過ぎない』 『愛しい人の糧になって、一つになって溶け合いたい。壊してほしいんでしょう、自分のことを。餓えた獣に仕立て上げて、〈檻〉《からだ》を破ってほしがっている』 『そして実際、その夢はもう手の届くほど近くにある。彼は今、かつてない速度であなたの理想に近づいているから』 『あなたを食べて、強く羽ばたける存在に……それが彼の幸せだって、どうしてあなたは思っているの?』 『あの人も自分と同じで、妹が糧となる瞬間を待ち望んで仕方がないって、見縊ってるのはどちらかな。馬鹿にしてるのは、あなたの方じゃない』 『置いていかれる痛みがあっても、あなたは彼の日溜りになるべきだった。こんな東の果てに足を踏み入れたこともそう。常に離れず傍にいて、虎視眈々と自分を捧げる機会を伺っている』 『ねえ、そんなにあなたは彼をより輝かせたい? そのための礎になることが、本当に正しいと思えるの?』 『──彼が、それを喜ぶはずと、本当の本当に思っているの? 彼にしがみ付いているようなその行いと、業の愛で』  はい。そもそも、女の本懐とは元来そういうものでしょう。  撫子のように、花のように。愛しい殿御をより勇ましく立たせるもの、それが女の喜びというものでございます。この魂が兄様の一助になれるのですから、寂しくも、間違っているはずもありません。  わたくしはあなたのように、置いていかれた言い訳を未練がましくいたしませんので。  しかし、一考はしておきましょう。そういうものもあるのだと、記憶に留めておく程度には面白い言葉でしたから。  凛と言い返した咲耶の想いに、隔意はあれども嘘や偽りは微塵もない。真実そう思っているからなのだろう。自己に戸惑いを覚え始めている刑士郎に対し、恋する女は揺るがない。 『ずっと、自分の愛する花園に留まったままか……』  迷いのない言葉に、哀歓するように念は嘆いて── 『置いていかれた苦しみを味わったとき、心が折れないようにね。そうじゃないと、総て、総て滅んでしまうよ』 『〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈達〉《 、》〈が〉《 、》〈今〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈宇〉《 、》〈宙〉《 、》〈は〉《 、》、〈永〉《 、》〈劫〉《 、》〈回〉《 、》〈帰〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈甘〉《 、》〈く〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》』 『脚本通りに動いていたら、最後に草の一本も残らないよ』 『きっとあなたが、今の言葉を恥じてくれるときが来るって……私は信じるしかない。祈るよ、心から』  不要なこと──なぜならこれこそ、自分の道であり女の矜持と思うからこそ咲耶は静かに首を振った。 「わたくしは――」 「俺は――」 「凶月刑士郎を――」 「凶月咲耶を――」  どうしたいのかと、言葉にしかけた刹那……開けた視界に、互いが互いの目の前へと映った。  ほんの少し、それに驚愕して沈黙するものの刑士郎は苦笑いしながら微笑する咲耶の手を掴んだ。  ……帰るか。  はい、兄様。  短くそれだけを交わしたときに、話はこれで終わりだとまばゆい光に風景が解けていく刹那。  その寸前に── 『……最後に。届いてくれるか分からないけど、これだけは伝えさせて』 『今は理解できないだろうし、何のことか見当もつかないだろうけど、絶対の真実はたった一つ』 『〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈達〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈在〉《 、》〈る〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》、〈波〉《 、》〈旬〉《 、》〈は〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈斃〉《 、》〈せ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》』 『今を生きる存在として何かを見出した先にこそ、勝機へ繋がる軌跡ができる。何度も巡り代替わりした法則の中で、初めてのことをしなければならない』 『忘れないで、あなた達二人こそ最大にして最後の要。完全無欠の大宇宙へ、一筋の亀裂を刻める唯一無二の可能性だと──』 「行ったか……」  残された龍明の前で、急激に景色が変わる。そこは先ほどまでいた森の中ではなく、開けた丘の上だった。 「これは……」 「まさか……」 「ふふん、まったく、なかなか乙なことをしてくれるよ」  微笑みながら、しかし恭しく膝をつく龍明。その前には、誰のものかも分からない墓標と、そこに敷き詰められた花の数々。 「やあ、久しぶりだな。おまえとは特に関わりもなかった身だが、また会えて嬉しいよ」 「あの餓鬼ども、まだ少々頼りないので渇を入れてやってほしい。おまえなりのやり方で」 「龍明殿、それは……」 「黄昏……?」 「いいや」 「彼女は違う、太陽だ。ほら、だからこの奥羽は、夜が来ないようになっているのさ」  …………  …………  …………  そうして――  足を踏み入れた瞬間、景色は漂白されて光に消えた。  ここは午睡を誘う日溜りで、決して悪いものではないと進む彼自身に伝えている。  攻撃の意志がない。排斥しようとしていない。しかも自分の追っている女がどこにいるのか分かるという事実に、単純な罠であるとも思えなかった。  どういうことでしょうかね、これは……  声が形にならず、思念の波となる事実はこの空間の特性だろうか。。  音を発していながら、意味だけが残るという奇怪な違和感。宗次郎はこの無とも言える空間に奇妙な落ち着きの無さを感じながら、紫織を探し進んでいく。  そして──色彩と輪郭を得た景色を前に、彼は驚くよりも先に安堵した。  見慣れた玖錠家の道場であることだとか、どうして冬景色なのだろうかとか、思うことは多々あれど心落ち着いたのは別の点。  紫織であれ何であれ、この奇怪な仕掛けから察するに〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈の〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。要するに斬れるものがあるという事実に、彼は我知らず小さくない安心を抱いた。  それがいったい何を意味するのか、彼の中になぜ芽生えた感情なのか気づくこともなく。  気配を探り、周囲を見回す。ここが記憶の通りなら、紫織がよくいた場所へ行こうとして── 『果たして、あなたに彼女を見つけられるかな?』 『私はきっと無理だと思う。あなたが思い描くあの子の像は、あの子自身から外れているもの。彼女は陽炎みたいな人だから』  脳裏に描き出された光景に卒倒しそうになるものの……宗次郎は寸前で耐え、それが自分の記憶から抜き出されたものであると理解した。  同時に、頭の冷静な部分がそういうことなのだろうと悟る。この声なき思念と脳に映された光景から考えて、要するにこれはそういうことだ。 『あなたも知っての通り、彼女の性質は中立中庸。あらゆる問答の中点に位置して、世渡り上手かつ軽やかに人々の意見や立ち位置に紛れている』 『当たり障りがない。いつの間にか混ざっている。何か特筆しておかしな行動に走らない。でも付き合ってみると意外な面がよく見える……人によって彼女の評価はいつもバラバラ。ちっともまとまりを見せていない』 『そう──薄々感づいていたとは思うけど、彼女にはこれといった明確な印象が存在しない。言ってしまえばあなたの逆かな、絶対に揺れない一が誰の目にもよく分かる人間に対し、彼女は姿を自在に変えて何にでもなれる』 『ならつまり、逆に考えたらそういうこと。彼女は自ら意図的に、〈曖〉《 、》〈昧〉《 、》〈な〉《 、》〈印〉《 、》〈象〉《 、》〈を〉《 、》〈与〉《 、》〈え〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》というわけ』  曖昧な印象……? 自分をぼかして見せているなど、それはどうして── 『言ってしまえば、それは意地を張った天邪鬼。彼女は常に、相手が感じる玖錠紫織と逆のことをやり続けたの』 『あなたはがさつね──あら、どこが? 家事全般も万能なのに』 『あなたは意外におしとやか──どこを見てるの。私の拳は生半可な武威じゃないでしょうが、と。そういう風にね』 『あなたはこういう人間だ。こういう人に違いない。そんな言葉を拒否し続けて、嫌がって、そこに当て嵌まらない自分自身を常に模索し続けていたの。実際、彼女は多芸でしょう? できないことはほとんどなくて、大まかなことは難なくできる。そしてズラす』 『たとえば、ほら──意外だ。あなたはそんな強いのに、どうして家を継がないんです、なんていう彼女を定義した質問があったとする』 『さっきまでの話から考えて、それでどういう対応をされるか。勿論あなたも分かるでしょう?』  ……ええ。否定するでしょうね、花嫁修業と口にして。  女らしく繊細な一面を表に見せたときの記憶を、宗次郎は思い出す。そしてそれらの定義を緩やかに否定している紫織の姿が、思い返せば散発的に記憶の中で散らばっている。  おまえはそうだろ、ううん違うよ。そういうやり取り、気づけば何度かあった気がする。 『他人の持ってる物差しで測られると、自分が相手の持ち物に感じてしまう。そういう気持ちは大なり小なり、誰もが有しているはずだけど……彼女はその気が強かった』 『都合よく解釈される事態を避け、指摘されるたびに自分の可能性を拡大していく。それを成長と呼ぶのならそうなんだろうけど、やり過ぎてしまったらどうなると思う?』 『あれもできる、これもできる。こんな自分で、そんな自分。多種多様な受け取り方を可能とした彼女は、既に正体の見えない蜃気楼。だからもう、自分自身さえ自分はこういう人間だって言葉や形に出来ないの』 『私は誰? 私は何? どれも全部が真実に見えて、同時に外装のように感じてしまう。これは、紛れもない自己愛の一種』 『極一部の例外を除いてだけど、人は基本的に他人との関係性を学ぶことで自分の立ち位置を見出すんだよ。最初はまず、誰かから見た自分の印象を感じることで、自分が何かという命題にゆっくりと形を継ぎ足していく』 『だからある意味、これは自然な結果なのかな。最初から確固とした自分を持っているのなんて、生まれながらの神様だけ。彼女は自分を定義していい、強い〈他人〉《おとこ》を求め始めた』 『私の見込んだ益荒男に、最高の自分を焼き付けたい』 『本当、とんでもないへそ曲がり……俗な言い方をするのなら、彼女は〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈組〉《 、》〈み〉《 、》〈伏〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈男〉《 、》〈性〉《 、》〈を〉《 、》〈探〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》』 『おまえはこんな女だって、強く言い切ってくれても構わない。そう思える相手を求めているの。そういうところは乙女だね、花嫁になりたいって公言しているみたいだもの』 『だけど、その本質はこういうこと』 『自分の顔が見たいから、私の〈自己愛〉《こぶし》に耐えられる男よ、鏡になれ』 『おまえに不変の私を刻印したい。それを眺めて玖錠紫織は満たされる』  そう、だから……もし仮に彼女がそういう男を探すのではなく、生み出したいと願うならば。  死線を潜り抜けた先、東征の果てにこそ理想の益荒男は顕現するから。 『だからさ、教えて』 『あなたが思う彼女は、〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈ど〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈人〉《 、》〈に〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》?』  先の問答から、恐らくは答えの出ないであろう言葉に対し、宗次郎は瞑目した。  ……分かりませんよ。僕にはまだ、玖錠紫織の芯が見えない。ただ、斬っても斬ってもなくならないと、そんな気がしています。  ですが、その本質へいつの日か僕の刃が届くときが来たのなら──  それはきっと、嬉しくて、悲しいような……そういう予感がしています。  矛盾。それは宗次郎もまた、こうして抱えている事柄だった。総てを両断したいし断ち切りたいと思うからこそ、斬ってもなくならない存在など本来あってはならないはずだ。  なのに心のどこかで、永遠に斬り果てないものを求めている。終わってくれるな、まだ砕けるな。その荒唐無稽な願いを両立してくれるものに対し、頭ごなしに否定することができなかった。 『なんだか複雑だね。でもきっと、そういう願いを持ってるからこそ──』 『──あなたは、彼に〈強〉《うつくし》くなってほしいんでしょう?』 『自分はこういう女だって、煌く刃に映してほしい。君は紛れもなく世界で一番綺麗だって言ってほしい……乙女だね』 『否定してみる?』  …………  そうだよ。たぶん、間違ってない。  搾り出すように、渋々と言わんばかりに紫織は苛立ちながら呟いた。空間の特性ゆえ音にはならないが、自分が今まで抱いていた本質、その正鵠を射抜かれていることを不承不承だが肯定している。  いや、そもそもこの状況で否定しても意味がない。自分を定義されていると分かっていても、それに対する別の可能性を提示したところで、その心境を暴かれるだけだ。  この思念の主……女らしき存在には自分の根が見えているらしい。  慧眼、という他ないだろう。人を見る目というか、物事の本質を掴み取るのがなんとも上手い。  経験、あるいは勘なのか。広がる霧すらあまねく照らす陽の光に、全体を見渡されては意味のないことだった。 『まあ、そういう想いは私も多少理解できるよ。出来るなら一番格好いい姿を見てほしいし、そんな自分を男の記憶にも刻みたい』 『女はいつまでも好きな男の中では美しくありたい生き物だから。思い出の中なら壊れないし永遠になれる。私の知っている大馬鹿も、ずっと変わらず操を捧げ続けているしね』 『彼を導き、共に在り、いつか必ずその刃で決定的な自分自身を焼き付けてほしい。そう思うのはあなたの勝手。好きにやればいいと思うけど……』 『彼が完成したときに、あなたはいったいどんな姿をさらすつもり?』 『自分の真実を定めてほしい。自分を確固たるものにしてほしい。ならばいったい、あなたはどんな自分が彼の刃に映っていたら満足するの?』  それは── 『取るに足らない自分がいたなら、果たしていったいどうするのかな。あなたは自分が彼の瞳にどんな姿で映っているか……今までの態度を顧みて、予想することができている?』 『玖錠紫織と呼ばれる人間がどういう人か、この世の誰より自信がないあなたに? ほら、これって何だか矛盾してると思うでしょう』 『つまりあなたは、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈ま〉《 、》〈ず〉《 、》〈相〉《 、》〈手〉《 、》〈に〉《 、》〈押〉《 、》〈し〉《 、》〈付〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》』 『この人は、〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈風〉《 、》〈に〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。それが確信できるまで、彼の理想が自分の理想と重なってから、次に自分を刻んでくれって──おかしいね』 『自分を決め付けている相手は、私を装飾品にしている? まさか、鏡を抱きしめているのはあなたのほうよ』 『彼の剣は、都合よく着飾ったあなたを映す、姿見なんかじゃ断じてない』 『逆に彼から袖にされたら、ねえ、そこからどうするつもり?』  ────、──  静かな問いに対し、紫織はそれ以上何も口にすることが出来ない。こうも反論できない言葉というものを、彼女はついぞ体験したことがなかった。  総てにうまく対処してきたからこそ、ここまで矛盾を言い当てられたことはなかった。  精神的な面においてこの思念はまさに紫織の天敵なのだろう。相手を思いやり、真に想いを慈しむ。まして自己愛に満ちたこの世界において、ここまで相手の眼をみて問いかける意志はそれだけで希少だから。 『あなたは僕にとって、どうでもいい女性に過ぎない──』 『そんな形で思い出に刻まれたら、絶望するあなたの顔が彼の剣に反射するだけ。美しくない、強くもない、でもそんな女が玖錠紫織。最高の益荒男を喜ばせることのできない女』 『だって、それは自明の理だから。彼を鏡台か何かのように扱っている自己愛のせいで、あなたは〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》〈が〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》』 『彼の願いはお構いなし。そんなあなたが、いったいどうして――』  ──黙りなよ、私を勝手にあんたの型に当て嵌めるな。  これは、断じてあんたに定義されたからじゃない。自分だけ気持ちよくよがるような安い女に絶対ならない。私の想いに付き合ってくれた男ぐらい、愛おしく感じてみせるし離されない。 『与えることや、導くことで?』  鏡を磨くんじゃなくて、競い合っていられるような。  互いが互いの願うものをその先に見出せれば、と──二人は同時に威勢よく口角を上げた。 「私は――」 「僕は――」 「壬生宗次郎を――」 「玖錠紫織を――」  答えにする寸前、互いに眼前の存在へ殺気を飛ばし構えを取った。  音もなく自己の射程にいつの間にか進入していた相手。立ち上った闘志は、しかし相手の顔を見た途端に霧散する。 「……………」  拍子抜けというか、なんというか。  先の思念はもう感じない。先ほどの問答がどのような意味を持っていたのかは不明だが、長居は無用と相手を見やる。  相手の瞳に、自分の姿を映しながら……  果たして〈彼〉《彼女》の中に、自分はどのような姿であるのかと思った瞬間、二人は再び目映い光に包まれた。 『あなた達は絶対に芯の部分が変わらない。求道者として完成に近づいているから、これから先、大きな変化の訪れる余地は二人の中に残っていないの』 『だから、重要なのは〈双〉《 、》〈方〉《 、》〈向〉《 、》〈の〉《 、》〈願〉《 、》〈い〉《 、》を持つこと』 『利己と利他のつりあう天秤……自分が愛おしいからこそ、相手にもまた何かを与え、意味を求めるという共生関係。円環のようなものかな』 『人はどれだけ高みに到達できても、自分一人では高みに在る意味がないんだから。もしそれに気づけたら、あなた達は今よりきっと』 『互いのことが、もっと大切でたまらなくなるはずだよ』 「行ったか……」  残された龍明の前で、急激に景色が変わる。そこは先ほどまでいた森の中ではなく、開けた丘の上だった。 「これは……」 「まさか……」 「ふふん、まったく、なかなか乙なことをしてくれるよ」  微笑みながら、しかし恭しく膝をつく龍明。その前には、誰のものかも分からない墓標と、そこに敷き詰められた花の数々。 「やあ、久しぶりだな。おまえとは特に関わりもなかった身だが、また会えて嬉しいよ」 「あの餓鬼ども、まだ少々頼りないので渇を入れてやってほしい。おまえなりのやり方で」 「龍明殿、それは……」 「黄昏……?」 「いいや」 「彼女は違う、太陽だ。ほら、だからこの奥羽は、夜が来ないようになっているのさ」  …………  …………  …………  そうして――  足を踏み入れた瞬間、景色は漂白されて光に消えた。  ここは午睡を誘う日溜りで、決して悪いものではないと進む彼自身に伝えている。  攻撃の意志がない。排斥しようとしていない。しかも自分の追っている女がどこにいるのか分かるという事実に、単純な罠であるとも思えなかった。  なるほど、つまり一つ教授をしたいというわけだな。  声は形にならず、音にならない。そしてその事実すらどうでもよく、夜行の意識に乱れはない。自然な足取りで龍水のいる方向へと進んでいく。  そして、無の空間に現れたのは御門家の門前。夜行は当然、垣間もなくこれが如何なるものかを看破する。すなわち、これら自己から読み取られし記憶であると。  ゆえに情景は冬であり、盲目の瞳にすら映りこむ。ここは投射思念の幻影なのだ。これらの色彩を捕えているのは脳であり、眼球という視覚器官では断じてない。  この意志、何かを見せたがっているらしい。  ならば早く見せてもらおうではないかと、微笑みながら一歩を踏み出したところで── 『──だから』 『そんなあなただからこそ、彼女は唯一無二だと感じている』  ほう。して、それがどうかしたのかな?  突如として囁くように響いてきた念の波動を前に、夜行はまったく驚くこともうろたえることもない。ああようやく来たかと思いつつ、即座に訴えかけてきた意志に応じる。 『そう、今もまたあなたは一切揺れていない。そよ風一つない森のように、真水で出来た湖面のように』 『だから彼女はより願う。自分の幸せを、好きな男を、尊敬する母を、呆れるほどの深域にて強く強く強く強く──そしてそれが壊されるなど信じていない。ううん、そもそも想像すらできていない』 『実際、彼女を取り巻く狭い世界は、彼女自身が思い描いた幸福の形そのままに動いている』 『ならば逆説的に考えると、彼女の世界には彼女が好意的な存在ほど恩恵を受けていく法が出来る。友、仲間、親、男、不幸は彼らを避けていく』 『渇望を破壊しうる特大の衝撃が幾度かあったかもしれないけれど、それで砕けていないのならそれは総てないのと同じ。桁の違う災禍さえ、彼女の念に亀裂を刻むことができなかった』 『この子の歴史は常にそう……だから、〈周〉《 、》〈囲〉《 、》〈の〉《 、》〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈が〉《 、》〈付〉《 、》〈属〉《 、》〈物〉《 、》。〈御〉《 、》〈門〉《 、》〈龍〉《 、》〈水〉《 、》〈の〉《 、》〈物〉《 、》〈語〉《 、》〈に〉《 、》〈お〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈登〉《 、》〈場〉《 、》〈人〉《 、》〈物〉《 、》〈に〉《 、》〈過〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》』 『いつだって物語の主役は誰かの玩具。自然発生では生まれる確率が低いから、通常から逸脱した存在になった者は……異なる誰かの玩具である可能性を疑わないといけないんだよ』 『紙に綴った先の決まっている英雄譚を、大きな声で読み進めているようなもの。彼女にはきっと、物書きの気質があるのよ。今は年相応の稚拙さで、思春期の妄想のまま客観性のない筆を走らせ……』 『待っているものは作者にとって気持ちのいい、自分のための物語』 『……ご都合主義だね。いつだって、それに登場人物は気づかない』 『あなたはそんな、彼女の物語における記号である自覚はあるの?』 『彼女と会う前にあなたはいったい何者だったか。彼女の願う自分の姿、そこに疑問は感じてる?』  知っておるとも、気づいておるさ──あれが、私の付属物であることぐらいは。  後を追い、されど離されすぎることなく、凡庸ながら紆余曲折しつつ追従できておる事実。独力で成せるはずもなかろうが。あれは変わらず、誰かの御手を受けながら存在している。  ゆえに龍明殿を母に持ち、烏帽子殿の志に染まりつつ、私が時折摘み上げることで己が物語を描けておるのだ。何とも愛らしいことではないか?  私は一向に構わんことだよ。見ていて飽きぬ、実に愛おしいと感じておるとも。  楽しいことだと含み笑う夜行に対し、思念の主から漏れた心は……哀切だろうか。 『そうだね……確かに、見方を変えればこれはどちらが従か分からない』 『民が求めるのは王になることではなく、民を愛する輝く王が自分を導いてくれること。創造された王者から見れば、卵が先か鶏が先かのような問いかもしれない』 『だからこそ──』 『あなたにとって、彼は至高の男性像』  その通りだと、いずことも知れぬ空間で龍水は頷く。  訴えかけてきた思念に対し、心の底からそれこそ一片の迷いもなく同意する。 『天下に並ぶものはない益荒男で、陰陽頭に選ばれたことすら彼の有する天域の才には分不相応。片手間のようなものに過ぎない』 『独創は天地に轟き、誰一人彼の法を読み解けない。一端すら理解できない高度な式を自在に駆使するその手腕は、総敗北した緒戦においても表れている。単独で〈母禮〉《かのじょ》に〈太極〉《つるぎ》を抜かせ、それすら狙い通りと笑えていたのは彼だけだった』 『あの時点でそれなら、今はまさに後一押しで伍せるはず。敗北すら予定調和の糧として、今や彼に捧げられた翼になった』 『だからこそ、断言できるよ。この宇宙において彼以上に優れた存在は〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》』 『彼こそが最強最良最優の益荒男。よかったね、あなたの伴侶は無敵ということ。私も同意してあげる』  そうであろう、そうであろう! なんだ、おまえは話が分かるではないか。  伝えられた摩多羅夜行を賞賛する思念に対し、龍水は上機嫌で全面的に同意した。杓子定規的な謙遜ではない、この意志は心からそう思っているという正直さを有していた。 『うん。よく分かっているよ……悲しいほどに』 『そして、あなたのことを憐れにも思う。存在しない虚像しか抱きしめていない、その在り方も』 『何もかも自分の理想通りである男性。何もかもあなたの思い通りに動く伴侶。何もかもあなたから肯定されている主役……』 『ねえ、分かる? それが本当に、あなた達の中で一番とんでもない自己愛。鏡を愛しているようなものだって』 『狂った求道……なるほど、波旬に目をつけられても仕方ない』 『あれはきっとこう言うでしょう。〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈の〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》〈塵〉《 、》〈屑〉《 、》〈だ〉《 、》』 『自分が思い描いた物語上に登場する、欠点のないステキな主役。それはまるで、平面に描かれた人物画や、頭の中に潜む妄想へ懸想しているのと一緒じゃない』 『架空の人物に熱を上げるあまり、現実から目を背けているひきこもりみたい』 『あなたが彼を愛する想いは、そっくりそのまま秘めた自己愛へ結びつく。自分の渇望した姿形しか要らないと言い張っていたら、いつか必ず愛しの彼ごと粉砕されて発狂するよ』  そんなことはない! 夜行様が敗北するなどあるものかッ!  そして、私があの方を想う気持ちに一片の偽りもない。御門龍水が夜行様を信ずる想いは、断じて己の付属物に仕立て上げるような心から出てはおらん! 『ならさ──彼の嫌いなところ十個ぐらい言える?』  ──── 『できないでしょう、思いつかない。あなたの奉る理想像には一切の綻びがなく、また揶揄する部分さえ持ってないから』 『少なくとも、彼を至高と仰ぐあなたにとって、超然たる主人公は穢せない。それはつまり信仰の崩壊を意味するもの。あなたの論理が破綻する』 『不平不満を一切想起させない他人なんて、それだけで何か歪と感じるはずなのに。できないなら、まさしくあなたの行なっているのは自画自賛。自分の描いた絵や文章を眺めながら、一人悦に浸っているようなもの』 『元来、好きな男ほど自分の思い通りにならなくて、やきもきしたり、怒ったり、すれ違ったり落ち込んだり……』 『ねえ、それがない恋愛なんて、見かけだけ取り繕った愛情じゃないの?』  静かな、幼子に問いかけるような……あるいは、自分の恋情を自慢するようにだろうか?  そこには真実だけがあって、間違いなくその想いが尊いものであると伝えている。だからこそ、龍水は僅かに戸惑った。もたらされた指摘に何一つ言い返せないまま、頭の中には肯定だけが渦巻いていたから。  そして、こうも思うのだ。この思念はまるで竜胆のようだと。  鮮烈ではないが、道を優しく照らすような日の光。それを感じながら選んだ言葉は──  確かに。私は、夜行様の至らない部分など考え付かない。欠けた部分が思いも寄らん。あの方は天下無敵の御方なのだ。  だからであろうな……私はその分、自分の至らない部分がよく見えるのだ。才能も、背丈も、あの方についていける歩幅すらない。自分の欠点を挙げろというなら、百は軽く列挙できるわ。  ならばきっと、それが私の課題であり心に携えた秤なのだろう。なぜか詳しくは分からぬし、裏付ける理屈も見当たらないが……今は強くそう思う。そう感じている。 『変則的だね』  ああ、そうだ。それでも構わぬと強く思える。御門龍水の抱く真実は、これしかないと信じているから。  そう、だから──二人は揃って想いを囁く。 「私は――」 「私は――」 「摩多羅夜行を――」 「御門龍水を――」  言葉という型を与える寸前、気づけば目の前に互いの顔が存在していた。  頬を染めて飛び上がった龍水に対し案の定というべきか、夜行は跳ねる少女を愛玩するように微笑している。  この空間へ迷い込んだ前後において、視線に些かの変化もない。ああこれだから飽きぬのだと、くつくつと上下する肩が物語っていた。  では、そろそろお暇とゆくか──  離れぬようにな龍水。不安なら私の裾でも掴んでおれよ。  は、はい。  嬉しそうに続く許婚を主導し、夜行は光に満ちた空間へ歩を進めた。帰りに手間はかけぬと言うように、悠々と自らの力でこの日溜りを後にする。  彼らが消えるか消えないか、その背に向かい響いた言葉は── 『どうか、気づいてほしい。無意識ながらも二人の関係は表裏一体。ある種の相互依存みたいな関係だから、最大の試練さえほとんど同時に訪れる』 『だから、必ずあなた達は〈敗〉《 、》〈北〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈も〉《 、》〈共〉《 、》〈有〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》』 『そしてその時、鍵を握っているのは〈彼女〉《あなた》の方。失って、砕かれて、泥にまみれた彼のことを……それでもちゃんと見つめることができるかどうか』 『こんなことがあるはずないと、本当に自分の心を塞ぐ〈架空〉《うちゅう》へ逃げてしまわないように』 『敗残の現実から目を背けず、しっかりと〈理想〉《かれ》の傷を見つめながら、愛する人を信じ続けたそのときに……』 『あなたは初めて、本当に愛の証明ができるんだよ』  ──幻が解けたかのように、一瞬で視界が元の姿を取り戻した。  そろって四組、一塊に、音もなく俺たちは通常の空に帰ってきたらしい。 「ここは……」 「龍明殿……」 「ああ、遅かったな。どいつも、少しはマシな〈面〉《つら》つきになったようで安心したよ」  そしてまた、一人だけ分かっていらっしゃるご様子だ。まあ確かに、さっきのあれはこれっぽっちも悪いもんには感じなかったが…… 「あれはなんだったのですか?」 「なんかこう、自分の内側をめくられちゃったような気がするんだけど」 「不快だったかね?」 「いえ……必ずしもそういうわけでは」 「ただ、どうにも解せねえっていうか」 「あれも化外だったのでしょうか、母刀自殿」 「のわりには、害意は欠片も見えなかったが」 「ああ、そうだろうさ。彼女はそういうものではないし、だからこそ今も一人で蚊帳の外」 「そうあってほしいと願われて、そうあるべき自分を誇っているのさ、仲間のためにな」 「仲間……」 「彼女はただ心配している。それしか出来ぬ身であるから、そのことにかけては筋金入りだ。おまえたちの良い教師になりえただろう」 「俺が俺がと突っ走り、挙句の果てには〈魔性〉《くも》となっても残り続ける。……まあ、彼もそこまで単純ではないものの、そうした男に惚れた女は、さていったいどうするべきか」 「各々、思うところがあったのではないのかね?」  放っていかれて、置いていかれて、なのにそれでも去った連中を待っている。  持ち場に残っていることに胸を張っているってことか。確かにそれも、いい女の強さってやつなんだろう。 「確かに、諸々、自省すべきところはある。それは皆も同じだろう」 「そして、同時に再認した。やはりあなたは底知れなくて、何と言うか、この上もなく……」 「嫌な人だ。そう言うしかない」  同感。 「ええ、本当に」 「いつも一人で、全部分かってるような顔してさ」 「夜行様より、正直タチが悪いです」 「説教好きの年寄りが」 「おいおまえたち、言いすぎだぞ。だけど、その、実際私も……」 「同感なのだろう? 私もまったくそう思う」 「く――――」  それぞれ仏頂面でぼやく俺たちに、龍明は堪らないと言わんばかりに顔を伏せて、それから天を仰いで大笑いした。 「くく、くくくく、ははははははは」 「そうか、そうかまあ許せ。いつも言っているだろう。歳をとってしまったせいで、嫌な師匠に似てきたのだ」 「正味なところ、長く生きて楽しいことなど餓鬼をからかうくらしかないものでな」  それがまあ、何とも楽しげで正直俺らは毒気が抜かれた。  もう慣れっこっていうか、よく考えたらそれも問題だなおい。むしろこれはこれでと考えておくか。  それに何より── 「ともかく、これで奥羽は抜けたか」 「ああ、あれが〈東外流〉《つがる》海峡だ。その果てに蝦夷がある。決戦は近い」 「短い凪はもう終わった。これより先は修羅の道だぞ。各々、覚悟はよいだろうな」 「当たり前だろ」 「では一つ、ここで皆さんに衝撃的事実を伝えたいわけなのですが」  あん?  いきなり割って入った丁禮に、皆が訝りつつ目を向ければ、こいつはさらりと何でもないことのように。 「実を言うと、あれからもう二ヶ月が経っていたりするのです」 「へ?」 「ですから、ここで我らが皆さんの帰りを待っていた時間がおおよそ二ヶ月」 「今は霜月ということですね」  と、肩をすくめて言いやがる。  って──はあ? 「――な」 「嘘――」 「馬鹿な……」 「そんなことが」 「本当に?」 「本当なのかっ?」 「はい、本当です。かなり待ちくたびれました」 「うおおおおおい、ちょい待ったれや何じゃそりゃああああ!」 「くく、くはははは――それはそれは、なんとも愉快。まるで浦の島子ではないか」 「い、いかん――ならば一刻も早く山を降りて、冷泉殿と合流せねば!」 「このままでは勝手に死んだと思われて、置いていかれるぞ早くしろ!」 「あ、それならその前に、爾子からも一つだけ」  ――んだよ? まだ何かあんのかよと再び皆の視線が集中したとき、この犬は犬にあるまじき顔で笑って。 「結局、生理の処理はどうしたんですの?」 「――あ」 「う――」 「やばっ――」 「ていうか……」 「何をばらしておるかこの大戯けがあああああああっ!」  怒号する龍水に、青くなったり赤くなったりしてる女連中。  え? ええーっと、何それ? セーリ、せーり? せいりって整理整頓じゃないよなあ。 「はははははははははははははは」 「もう仕方あるまい、諦めろ。なに、降りればすぐに海がある。そこで洗濯でもすればよいさ」  すげえ剛毅なことを言う龍明に、女四人は等しく頭を抱えて悶絶した。 「ぐああああ、ちょっと何これ終わってるでしょ」 「おのれ、こんな屈辱……初めての経験だ」 「わたくし、もうお嫁にいけません」 「ああ、くそ! なんか気付いたら歩きにくい、最悪だ」 「彼女と関わったのが運のつきだな。あれは月のように生きた太陽だから」 「さあ泣き言はそこまでにして、ほら行くぞ」 「分かってるよ!」  ぶち切れたようにそう言って、凄い勢いで走っていく。俺ら男はその背を見送り、ぽかんとするだけだった。  ああ、うん。なんかまあその、女って大変だよな。男にゃ分からないことが多すぎる。  だけどそういう差異そのものも、決して悪いもんじゃないってことを、俺らはこの奥羽で知ったんだ。  そこは夥しい数の鳥居からなる空間だった。  何千、何万、それ以上か、ひしめき合う鳥居はさながら樹海のように空間全体を埋め尽くし、同時に一定の規則性をもって道を作りながら林立している。  蛇行を繰り返す鳥居の通路は血管、もしくは神経網……赤、青、黄の三色によって構成された道であり、それぞれの色によって通る者へ及ぼす効果が違うのかもしれない。  そして今、その最奥……〈磔〉《はりつけ》のようにこの世界の人柱となった存在が、微かな念を漏らしていた。  憎悪ではなく、悲憤でもない。外装を素通りして彼の〈真実〉《こころ》へ染み入ってくる木漏れ日の光を刹那感じて、懐かしむかのようにそっと一言。 「……」 「……」  ある意味で、もっとも愛しい者の名を呼んでいた。  無間神無月に寂寥とした風が吹く。蝦夷で雌雄を決する日は近い。  だがその前に、〈東外流〉《つがる》において巨大な嵐が巻き起ころうとしていることを、今は彼でさえ知らなかった。  彼を愛する者たちが、彼を大事に思うがゆえに彼の意志を無視すること。  いつの世も、女というものは分からない。それは神域にある彼であっても覆せない、真理の一つなのかもしれなかった。 『蝦夷の地にて此度の戦、雌雄を決する』  それは自分たちの主柱が決めたことであり、全ての同胞が従うべきこと。それが彼らの掟であるから、本来は疑問を挟む余地もない。  憎むべき波旬とその細胞、確実に滅する事を期した彼の方針に、間違いなどはないはずだから。自滅因子たる両面の鬼に惹かれたかと僅かばかりの恐れを抱いたが、問題ない。これは戦の策としては順当で、一番理に即している。  ゆえに、掟と理の両側面から、この決定に不服を申し立てる者なぞいるとは考えられない。主柱あっての無間神無月、そこを違えることは彼らにとって決して譲れぬ一点なのだ。  だが、いいや……だからこそ、そこにもう一つの選択が生じる。  それは、愛するがゆえに全ての穢れを引き受けようとする概念。  それは本来彼らの内で最も仁に厚い男の領分なのだが、此度それを行なったのは彼ではなく── 「…………」  本来、彼女は同胞の中で最も彼に従い、彼を重んじてきた存在だった。それが今、全ての理をかなぐり捨てて東征の船団を討とうとしている。  遠く離れた地平から黄金の眼差しで睨みつけていた。 「この土地は……ここは、あなたがその身体を休める地」  だから、そう、これだけは彼女の中で譲れないのだ。  今も消えた女神に操を立てている彼の愛を知っているから、これ以上傷つけるわけにはいかなくて、同時に自分はより一層の想いを捧げなくてはならないから。  役に立ちたい、立たねばならない。そうでなければ、残った意味がないだろう。  化外の蜘蛛? 天魔・常世? それで侮蔑しているつもりなら、底が浅いと嗤ってしまう。自分は如何ほども揺るがない。  なぜなら今も、この時も、彼女の心を支えるのは真実愛の一色のみ。  愛しているから覚悟を抱き、愛しているから憎むのだ。独りよがりの自己愛と言われても、それは決して健気な自分に酔いたいからでは断じてない。  そのことを強く強く信じている。 「…………ごめんなさい。でも、これだけは譲れないの」 「これ以上、あなたに血を流してほしくないから。あなたが眠る地を、穢させたくないと思うから」 「たとえ、どんな小さな傷でもあなたに負わせたくないから」 「私がここで全部終わらせてみせる」  蝦夷に到達する目前、東外流の海にて終止符を打つ。  その身を突き動かすのは、紛れもなく恋慕と慈愛。この時初めて、彼女は謀反を敢行した。  ……蝦夷と東外流を隔てる海峡が、吼えている。  近くに船あらば木の葉の様に揺さぶられて沈み、人の耳を重く響く音で完全に塞ぐ。  それほどの怒涛、大津波とでもいうべきものが東外流の方向を目指して進む。  ……蝦夷を目前に控えた海峡、東外流の海が、吼えている。  もしこの大津波を観察する事が能えば、観察者は水面ごしに何か黒々としたものが渦巻いている様を見ただろう。  それは有り体に言えば触手、と形容するのが正解だがいかんせん大きさが桁外れて巨大だった。水底に棲むという王、船団さえ締め上げる異形の像が波を掻き分けて直進している。  大の男が数十人がかりで手をつないでも抱えきれるものではない大きさ。そんなものが、高速で海の中を進んでいるのだ。  如何なる膂力を持つのか、触手がうねるたびに、さざ波程度だった海の波が猛り立ち、泡立ちながら津波へと変じていく。そして起きた津波は、如何なる船も逃げ切れぬ程の速度を持って触手の塊を追いかけるのだ。  そう、塊である。それ一本ですら大船を瞬く間に海の藻屑にしてしまうだろうものが、数十もうねりを上げて海を往く。  これほどのモノからもたらされる暴虐を、果たして想像することが出来るだろうか。  海を渡る存在の足を引き、水底へと沈めるそれは──随神相。  陰気の具現たる総身も顕わに、奴奈比売の魔性が姿形となって東外流の海を横断していく。  そして、その上に居座るのは四柱の影。  常世、紅葉、母禮、奴奈比売。  情で絆を結んだ、夜都賀波岐の女達が海面の先を見据えていた。 「……別に、付き合ってくれなくてもよかったのに」 「あなたたちまで、彼の言葉に背く事はなかったと思う」  独断専行──どこから見ようと、どう言い訳しようとこれは謀反だ。  勝手に熱を上げた女が、男を守るために男の約束を破って出た。言ってしまえばただの我侭に過ぎない。  だからこそ、自分だけでよかった。このような暴挙に、彼女らをつき合わせなくともよかったと思っているが…… 「そんなわけにはいかないでしょ? わたしだって、気持ちは同じなんだもの」 「あなた一人で行かせたら、それこそ彼に会わす顔が無いでしょう」  後悔などない、自分は望んで同伴したと母禮に奴奈比売はどちらも語る。  そこに嘘は見受けられない。そして私もそうなのだと、彼女の肩を紅葉が優しく触れて微笑む。 「そんな悲しい意地を張らないで。私たちはずっと一緒だったじゃない?」 「あなたが往くのなら、私も一緒に往きたいわ。理屈じゃないのよ。ここにいる全員が、きっとそう」  紅葉の言葉を聞いて、寄せかけていた眉根が自然と緩む。胸に感じた想いが暖かくて……謝る代わりに、彼女らへと微笑みかけた。 「うん……そうだね」 「みんな、ありがとう」  その言葉にさえ、何を今更という態度だ。彼を心配しているのは、何も彼女自身だけではない。 「あの人は昔から、何でも一人で背負い込もうとしてしまうから」 「一人の女としては、それが見ていられないの」 「ほんとにね。ここまで付き合わせておいて、今さら何を気にしているんだか」 「女性差別ね。いつものことだわ」 「女の方が強いという事を、大半の男は知らないし認めたがらないのよ」  確かにと、彼女らは思い当たる節に苦笑しあう。  特に彼はそうだった。全てを自分で背負い込んで、苦労は何一つ与えないと強がって、女に帰る為の居場所を頑なに守ってもらいたがる。  そういうやせ我慢を見てるこちらはいつも辛いし、何より大きなお世話だろう。見縊ってもらっては困る。痛みに慣れているのは女性だと、古今東西で決まっているから。 「男って言えば……あなた、お兄さんは放っておいていいの?」 「あれも結構いい男だから、今頃は愛しのあの子をすごく心配してると思うんだけど」  そういう男の性が分かっているから、そのからかうような口調を受けて母禮は深刻そうに溜息をついた。 「あの人も、そういう所はとても男性的だから、今回のことは言えなかったわ」 「言えば絶対ついてこようとするはずだから」 「そうなったら悪いでしょ、女だらけのところに連れてくるなんて、居心地が悪いだろうし」 「確かにね……気にしないって言いそうだけどそれは無理だろうし、戦う前から気疲れしそう」 「誠実そうだものね、あの人」  女性の心を射止めるのが得意なくせに、一途で純粋で頓着出来ず、気付かない。そしてまた、その誠実さで誰かの心を惹きつける。  そういうところは主柱の彼とそっくりだ。つれて来たならどうするか、真っ先に盾になろうとするだろう。あれはそういう、いい男だった。 「それに比べて……」 「まあ、残り二人は論外だものね」 「同感」  宿儺と大獄は選択肢に入っていない。あれらは間違いなく度を外れた劇薬であり、究極の鬼札であり、そして徹底的に場をかき乱す存在だ。  取り扱いを誤れば自分たちさえ消滅する上、何よりこの場の誰もあの二柱をうまく扱いこなせる自信がない。  彼を裏切ることこそありえないが、それでも〈灰汁〉《あく》が強すぎる。  加えて、一人の男性として見たとしても……先の言葉通り論外だった。 「それに、あの人までこっちに来たら、守りが手薄になるでしょう? だから配役としては間違っていない」 「さらに言うなら、〈代〉《 、》〈わ〉《 、》〈り〉《 、》を連れて来るのも論外だわ。どちらにしても、本当に、彼らは扱いに困る」 「そうだね」  敵でも、味方でも。どちらにしても手に余る。 「ああもう、なんだってうちの男衆はキワモノ揃いで役に立たないんだろうね」 「役に立たない、というのはさすがに言い過ぎでしょ。今この局面に、相応しい人がいないというだけで」 「それが役に立たない、と言うんじゃない? どうせならもう少し柔軟な所が欲しいと思うんだけど」 「そうすれば私たちの負担も減るんだけどね」 「でもきっと無理だよ。あの二人、彼のことしか頭にないから」 「俺があいつの一番で──」 「女風情がでしゃばるな──」 「ふふ。やだ、本当にそっくりじゃない」  彼女たちから見れば、彼ら男たちは確かに雄雄しく凄まじいが反面、柔軟性に欠けて見える。  もちろん、これは本心からの言葉ではない。ただ男がいない女だけの空間と言う気安さが、蓄積した鬱憤を愚痴や文句という形で晴らしていくだけだった。 「でも、こういうのも悪くはないと思うから」 「今回のこれは女同士、女だけで、たまにはそういうのもいいでしょう」  母禮の言葉に皆が頷いた。皆が仲間や想い人に向けた想いを再確認できたし、何よりこういうのはむず痒くも温かい。  あの黄昏にて感じた想いが消えていないということ。  もはや自分たちだけしか残ってなくとも、確かにここへあるということ。それが彼女らの心を癒し、同時に奮い立たせていた。 「そうだね」 「ええ、絶対に負けられない」 「これで全部終わらせてみせる」  母禮の言葉に奴奈比売と常世が力強く頷く。それを慈しむ眼で見ながらも、紅葉はふと呟く事を止められなかった。  女の会話。女の情。そういう話題が出たことで、連想する名は一つだけ。 「」 「」 「彼女はどういうつもりなのかしらね……」  呟きが耳に入ると、紅葉以外の三人は一様に体を強張らせた。反応の度合いはそれぞれだが、皆表情まで一様だった。  疑念、困惑、そして怒り。  紅葉が呟いた彼女もまた、その行動に意図が見えない。何を考えているのかまったく見えず、しかも宿儺と共感していたような会話が皆の不安を煽っていた。  それは危険だ。なぜなら彼の役割は、変わらず刹那の裏であること。  断崖へ飛翔するような渇望の具現。彼を導き、彼を助け、彼を自壊させる面がある。  その選択に同調しているということは、すなわち── 「……彼女が母親の真似事なんて、なんて因果。奇妙な事ね」  そして、ゆえに心変わりした古い友人を放ってはおけないと、紅葉は思う。 「彼女の相手は私がするから、手出しは無用でお願い」  そこに厳命を下すような強い調子はなかったが、彼女らは反駁することもなく、首肯する。  全幅の信頼の証であるに加え、これは二人の間にある因縁だ。組み合わせを考えるなら、これ以上の人選はないだろう。  そして話題に一区切りがついたその時、奴奈比売が何かを見通すように手を額にかざした。 「……おっと、お喋りの時間はここまでみたい。ほら、あそこ」  奴奈比売が遥か前方を指さす。海面の向こうに群れ成す船団、その影を── 「捉えた」  母禮の言葉を切っ掛けとして、各々の気が張り詰める。  和やかな空気も、憤怒の波動も鳴りを潜め、戦に臨む緊張感が彼女達の周囲を満たしていく。  ――さあ来い、波旬の細胞ども。  そう呟いたのは、誰だったろうか? 全員の総意となった言の葉が、随神相を導くように船団に向けて飛んでいく。  その後を追って、普段の常世からは考えられない強い語調の呟きが飛翔した。 「許さない。行かせない。ここから先は一歩だって、あなたたちを進ませない……!」  絶対に、絶対に。彼は穢させないと誓うが如く、咆哮した。  東外流から蝦夷へ向かう船団の中に、俺たちはようやく合流した。  諏訪原から来るまでに奇妙な寄り道をくいもしたが、そこはそれ。船団の主力は中院がほとんどだから、奴に任せていたのは楽だった。  そしてつい先日、東外流の端で船団と合流することができたのだが、そこから先は慌ただしい。  竜胆と中院、龍明や龍水もその軍議に参加し、てんやわんやの内に翌日昼には東外流を出帆。蝦夷へ向けて進撃することが決まって、今は荒れる船の上だった。  大方の仕事は北上の最中に中院がやっていたらしく、後は竜胆と龍明への引き継ぎがほとんどだった。  かくして俺たちは決戦に向け、蝦夷への進撃を開始したわけだ。  俺たちは竜胆が身を置く旗艦に乗り込み、敵が現れたら真っ先にやり合うことが決まっている。ちなみに殿軍は中院が買って出たが、どうにも奴さん何があったかやる気十分な感じらしい。  そして我らが総大将、竜胆は……  旗艦の先頭、舳先に立っていた。  じっと蝦夷の方角を見ながら難しい顔をしている。  その表情の意味は、恐らくこれから始まるであろう夜都賀波岐との戦いを思ってのことだと予想はできた。またぞろ、何か難しいことを考えているようなら……よし。 「よう、竜胆。何難しい顔してんだよ」 「いよいよ蝦夷が近いってのに、シケた顔はやめようや」 「覇吐か」 「心配すんなって、ここまで来たんだ。連中が待ちかまえているのは間違いないが」 「必ず勝つぜ。前のようにはいかねえさ」 「……ああ」  この感じだ。どうにも最近、ノリが悪いというか覇気が弱い。  勝利を約束したのに、竜胆の緊張は晴れないようだ。  元々真面目に考えすぎるきらいがある。俺程度の人間が用意する言葉では変化も無いだろう。だが、それにしては深刻すぎると思うから。 「で、何か他に考え事でもあるのか?」 「……夜都賀波岐の、彼らの心のことだ」 「彼らは、同胞への愛と友誼のために戦っていると、そう言っていた。事実そのように動いていたし、否定する材料もない」 「ただ、邪悪で穢れたものであると……赴く前の認識は見当違いと悟ったのだ」  それは分かっている。あいつらは、なんていうか聞いた話とはまるで違った。  人のことを考え、人のために動き、人のために力を振るう。  馴染みの薄い形だが、今の俺は竜胆を守りたいから竜胆の考えに従っている。それでいいと思える分多少は共感していいし、結局そこは個々人の矜持に委ねられていると思っていた。  実際俺はそう考えているのだし。 「おいおい。いきなり弱気になったのか?」 「そうではない。ただ、私は知らないことがあった。そしてそれを知ってしまっても、まだ先に進めるかと考えている」 「勿論先には進むつもりだ。私は私の想いを成し遂げるためここまで来た。流れ込む陰気に苦しむ民を救い、神州を一つにまとめ、諸外国に総じて当たる。それは間違いない」 「だが……私が理想とするものを実現している彼らに対し、戦いを強いる理由。そこに揺らぎを感じている」 「果たして我々に、そのような資格があるのだろうかと」 「私たちは本当に、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》と思ってな」 「いや、あるだろ。そりゃ」  竜胆の言い分は分かるが、そりゃちょっと俺らのことを舐めすぎじゃなかろうか。俺は言い返すことができるはずだし、何よりちゃんとした理由もある。  自分自身が空っぽだとしても、そこを埋める何かがあれば案外どうとでもなるはずで。  俺がおまえと出会ったようにと、格好つけて口説いてみてもきっと笑われるだろうから……  だから、俺はこう言うのだ。 「あんたが大将として臨む戦に、間違いなんてあるはずがない」  断言したからってそんなに驚くかね。考えてみれば、これは当然のことだろうによ。  久雅竜胆が間違いなんて起こすものかよ。俺様の惚れた女は、そう安い女じゃねえ。なあそうだろ。 「俺はそれを信じているんだ。だから、おまえも信じてくれよ」 「魂、懸けてんだろ?」 「…………」  竜胆は一瞬、きょとんとした顔をした。こういう顔も実に様になる。してやったぜ。俺が好きになった女はどんな顔でもいいものだ。 「ぷ、くくく……ははははははははっ!」 「……ああ、そうだな。その通りだ。いやすまん、これは一本取られたよ」 「まさかおまえに、そんなことをいわれるとはな」 「それりゃ何よりだ」  俺としては竜胆に笑ってもらえればそれでいい。あんな気難しい顔をされてばかりでも困るからさ。そうそうそれだよ、おまえはそういう太陽みたいな顔がいい。  やっぱり俺の好きな女は笑顔が似合う。凛とした所にこういう優しい表情をしているからいいんだよ。  どうせ蝦夷に上がれば生存闘争。ならその分、ここで笑い合えばいいじゃないか。この海の上でくらい神妙な顔をするのはやめたほうがいい。 「――なあ、覇吐」  そして、ふいに── 「おまえは私を信じると言ったが、それは私がどんなものであっても変わらないか?」  竜胆は急に真顔になり、俺のことをじっと見つめた。  言葉は切れていた。その切れた言葉にどんな意味があるのか、俺にはさっぱりであり、まったく意味が分からない。ただ分かるのは、こいつは真面目な話だということ。  竜胆の表情が少し陰った感じになっていたのを、俺は見逃さなかったということだ。  ああ。いいぜ。なら取り除いてやろうじゃねえかよその不安。愛する女が困ってるなら、笑って癒してやるのが男の務めだ。 「それって例えば、実は竜胆、超絶寄せて上げてるとかで、本当はやばいくらいの貧乳だとか?」 「聞いたことがあるんだよ、秀真の遊郭にはよ、確か乳を背中からぎゅぅっと寄せて上げる代物があるとか」 「久雅家の力を使えば、どんな貧乳でもぼいんになるやつが用意できるんじゃないか、って……」 「馬鹿者」  ほんの少し、予想できたと言わんばかりに肩を竦めて。 「そういうことではない」  失敗、お気に召さなかったようだ。まったくどうにも竜胆の言葉は難しい。 「じゃあどういうことだよ?」 「それは、つまり……」 「私が死んでしまったら、おまえはきっと、私のことをすぐに忘れてしまうだろうということだ」  ……なんだ、それは? 死ぬ? 竜胆が? 俺が忘れるって、何だよそりゃあ。  意図がまるで伝わっていない、そんな感じだが、だから何だっていうんだよ。  竜胆を守るし、竜胆を殺させないし、俺は絶対に竜胆を生かして秀真に連れ帰るんだ。  なのに何だってこんな話――そう笑い飛ばしてやりたいのに、その声色は酷く穏やかで、二の句を挟むことを許さない。 「おまえたちは、例えば化外のように、死を超えてまで誰かを思ったりしないだろう」 「死ぬということは、死ぬということで、消えてなくなると言うことだから」 「おまえの中にある私というものも、この私がいなくなれば雪のように溶けてしまう。そうじゃないのか?」 「なあ、どうだ覇吐。おまえは、死の先へ思いを馳せることができるか?」 「断崖に落ち、過ぎ去ってしまったものを、それでもどうかと思い描くことができるか?」 「……どうなんだ?」  真摯な問いに、俺は思わず答えに詰まる……  先にも考えていた通り、竜胆を失うなんてことは露ほども考えていなかった。それは先の話とつながっていない。どんなものでもいずれは死ぬとか、墓を建てろとか、それなりの対応とか……ああもうなんだよ、わからねえ。  竜胆の言っていることがさっぱりで、何か嫌な気分がする。  先を考えると、嫌なんだ。 「いきなり脈絡も無く縁起の悪い事を言うなよ。竜胆は死なないし、俺が死なせない」 「だから、仮定の話だ。もしもそうなったらという場合を問うている。前提を覆すな」 「私が死んで、いなくなったら、おまえはどうする? なぜそんなことを言うのかなんて、質問返しは絶対にするなよ」 「これは命令だ、答えろ」  つまりそれほどまでに、竜胆は本気だということだ。死後とか何とか、そんなことを考えると居心地悪くしてしかたない。  本当だったら、こんな馬鹿な質問に答えたくなんかねえんだよ。だが命令とまで言われてしまえば俺に逆らいようがなく、黙って受け入れ答えるしかないことだった。  ならば当然、俺は答えるだけである。当たり前すぎる答え、俺は絶対そうしてやるっていう約束を── 「そんなこと、答えは一つしかないだろう」 「おまえがいない世の中になんざ興味はねえよ。だから竜胆がいなくなったら、たとえ何処だろうと追いかけて連れ戻しに行くだけだ」  俺の答えに竜胆はきょとんとした顔をする。  そしてその表情はいぶかしんだものに変わっていく。真意を問うような、ありもしない未来に対してさえ疑っているようで……  参ったな。もしかしなくても信じてないか。 「私が……死んでも?」 「当たり前だろ」 「死後なんてものは何処にもないのに?」  当たり前のことだ。連れ戻すってのはそういうことを言うんだ。 「そのとき私が、今とまったく違う姿になっていてもか?」 「たとえば?」 「たとえば……その、ひどく醜くなっていたり……」 「関係ないね。俺が惚れたのはおまえの魂で、見てくれじゃない。いや、それも好きだけど、とにかくそういうことだよ。どうなろうと竜胆はいなくなったりしないんだから、俺の気持ちがなくなるなんてこともない」 「俺が愛しているのは、竜胆なんだ。どうなろうとも、竜胆はいなくなったりしない。だから俺の気持ちが無くなるなんてことも、これまたありえねえことなんだぜ」  死の先だの断崖の向こうだの……言葉にすれば珍妙極まりない文句だが、その覚悟に関しちゃ本物だ。  そこがどこであろうとしても俺は必ず連れ戻す。この時が止まった穢土の果てでも、もしくは全く異なる地獄でも、俺にとっちゃ関係ない。竜胆さえいればそこは光で照らし出せる、と。  そんな感じのことを本気でいったからか、俺は本格的に照れくさくなった。やっべ、どんだけぞっこんなんだよ俺って奴は…… 「あーもう、変なこと言わせんなよ。何なんだいきなり……」 「あ……いや、すまない。 私も、なんだ、変なことを聞いた」  竜胆も俺から視線を逸らし、恥ずかしそうにしている。  つ、つうか……何だこれ? いい雰囲気じゃねえの? いけるんじゃねえの? さっきから胸、すっげえ高鳴ってるんですけど。  なんか竜胆もメチャクチャ可愛いし、これもういいよな。大丈夫ってことだよなッ。 「竜胆……」  竜胆に声を掛けると、それに合わせて俺を見た。  何故だろう。互いの気持ちが同じ所にある、と確信するに至る。  助平心とは別に、何か胸の奥からぐっとくる。鍛錬の跡が見える小さな手を取り、そのままそっと抱き寄せた。  指が絡みついたまま呼吸を整え、そのままゆっくりと瞼を閉じながら顔を近づけて── 「――ごほん」 「えっ……あっ、り、龍明殿!」 「おうわっ──!」  その時、突然聞こえた第三者の咳払いに俺たちは揃って飛びのく。 「いやはや、お邪魔だったようだ。すまないことをしたな」 「い、いいいや、そんなことはなくて──」 「俺たちは、その、なんだ……蝦夷でどう戦うかって話をしていただけで、なぁ!」 「う、うむ! その通りだ!」  身振り手振りで必要以上にごまかして、俺らは焦る。やばいくらい焦る。ああもう龍明、あんた絶対内心だと爆笑してるだろこら──! 「何だ、覇吐。また竜胆様にご迷惑を掛けているのか?」 「そ、そうじゃなくて、お前の母ちゃんが俺たちをからかっているんだよ! 真面目に蝦夷での対応を話してたのによ!」 「それは信用できません。覇吐殿のこれまでを考えれば」 「そうですの。とてもいやらしい言葉で烏帽子殿を籠絡しようとしていたに違いないですの!」 「まぁ、そっちの方が正解だよな」 「兄様、それは失礼です……と言いたいのですが」 「ええ、同感です」 「信用無いものねぇ、覇吐ってば」  見世物かよ、おまえら。つうか幾ら俺らが騒いでるからって、どんだけ暇してたんだっての。  ていうか……おいおい待てよ、覗かれてたとかいうオチじゃねえだろうな。揃いも揃って野次馬とか、冗談じゃねえよ。 「だがよいではないか。元々、これより軍議という話だったが、これで全員揃ったわけだ。ならばここでやっても構わんだろう、龍明殿」 「そうだな。船の中よりはこっちの方が広い。身体がぶつかる不快さも無かろう」  その言葉に、ふてくされる俺を置いて竜胆はいち早く佇まいを整えた。  いやあ、その凛々しさと横顔に惚れそうになるけれど……俺としてはちょっと複雑なのであった。  視線は俺らではなく、まだ見ぬ海の先を見据えている。そこにあるであろう地、蝦夷へ己が瞳を向けていた。 「……この海を越えたらいよいよ最後の決戦だな」  竜胆の言葉に俺も気を取り直して同意する。  秀真を出て、長旅の末。ようやくここまで、ついに来た。やっと目処が立ったのだ。勝ち名乗りには幾分早いが、これぐらいの感慨はあってもいいものだろう。  各々思うことあれど、後は一戦。それで決する。  そのような空気に対し、意外にも水を差したのは龍明だった。 「さて、どうだろうな。私はこのまますんなり行くとは思ってないよ」 「なんだよ、もう一つ何かあるっていうのか?」 「夜刀が蝦夷で決着をつけようって言ったんだぜ。あいつは化外の大将なんだから、あっちの方針はそういうことだろう」 「いやいや……」  龍明は呆れたように首を振る。 「分かっていないな、おまえたち。理屈と約束を重んじるのは男のみで、女にそんなものは通じない」 「一つ真理を教えてやる」 「どんな世界の、どんな時代でも、女は感情で動くのだよ」  龍明がそう言いきった途端──まさにその瞬間、物見台の兵が大声を上げた。  そして、それは俺たちにもすぐさま目視できる光景となって現れる。  海の壁が、そそり立っていた。  それは、この狭い東外流の海を全て覆い尽くさんばかりの圧倒的な壁。噎せ返らんばかりの水性波動が山の如く立ち上る。 「おい。何だありゃ……」 「津波――」 「それに、あれは!」  ──そして悟る、これは奴らの奇襲だと。  己が神相を滾らせて、本当に龍明の言うとおり天魔がここへ襲来したのだ。  ゆえに今、一瞬で船団は致命の危機に立たされる。挨拶代わり、あるいは到達しただけで発生させたこの巨大な津波。今直ぐどうにかしなければ、全軍飲まれて全滅する──! 「……ほら、見たことか。だから女は嫌いなんだよ」  龍明は苦笑しながら津波を見て、呆れたように呟いた。  もう間もなく先頭を走っている俺たちの船が、この津波に飲み込まれてしまう。時間がない。全て飲まれる。逃げる時間も場所もねえから── 「──龍明殿!」 「慌てるな。これは私の仕事だ」 「そう……遥か昔からそう決まっている」  瞬間、突如として龍明の周囲に印が浮かび上がる。  その一つ一つが莫大な咒力を蓄えているというのは見れば分かるが、この印そのものを俺は一度も見たことが無かった。  まったく読み取れない、理解不能の独創に満ちた異形の梵字。いやそもそも、こいつが印術であるかどうかすら怪しいという、常軌を逸した異端の術理。  龍明が両腕を上げる。更に印が、巨大な紋を空に刻む。  先ほどさえ、咒力としては絶大なものだった。だが、今こうして描かれる法則の形は、完全に俺たちの常識の範囲を超えていた。  そして理解が及ばぬのは、その詠唱にさえも現れて―─ 「」 「 」 「 」 「」 「 」 「 」  呪を紡ぐのが終わった瞬間、龍明の描いていた秘術は海上へ広がり、視界を覆う津波に匹敵するほどの苛烈な炎を編み上げた。  まさにそれは、激痛を生む炎で出来た巨大な〈城壁〉《つるぎ》。  津波を阻み、蒸気になった海水が派手に爆ぜて弾け飛ぶ。  だが、それでも津波は押しとどめられず炎の壁が減退する。  だから、まずい、このままでは―― 「――〈唵〉《おん》」  そう俺たちが危惧することを見越したかのように、鎧袖一触が如く魔炎は更なる激しさを見せ燃え上がった。  雄雄しくそびえ立つ炎の壁、生じる圧倒的な熱量。津波そのものが一瞬で跡形もなく消滅する。  津波は消滅し、大量の蒸気が俺たちの周りに広がっていた。やがてその蒸気も消え、その先に俺たちを迎え撃とうとしていた夜都賀波岐の姿が見える。 「あんたは……」  どうかしている、桁外れとかそういう感覚じゃない。  龍明が凄腕なのは知っていたが、ここまでとんでもないとは思わなかった。というより、今のはどう見ても人間業を超えているじゃねえか。  それにさっきの〈詠唱〉《ことば》に、あの火力。まるであんたは、あいつらみたいな…… 「呆けるな、初陣の兵でもあるまいに」  疑念を斬り捨てるかのように、龍明が指を指す。消し飛ばされた水壁の向こう……そこに襲来した影を睨む。  常世。  母禮。  奴奈比売。  紅葉。  ああつまり、なるほど、そういうことかよ。よく分かった。こいつらつまり、男に代わって俺らとっちめに来たわけだ。  絶対にここで滅ぼす――我らの主柱には会わせない。夜刀の住まう土地である蝦夷になんとしても上陸させるものかという、女の意志がびしびし来るぜ。  そして悔しいが、とどのつまりこの状況は絶体絶命。  海の上という最悪の足場で、情の深い恐い女と戦うのか? この波に揺られた状況で? 冗談きついにも程が在るだろ。 「」  ただ、判然としない言葉が空しく響く。 「 」 「」 「」  ただ、判然としない言葉が空しく響く。 「 」 「」  何を言っているのかはさっぱりだったが、雰囲気からするとこの二人、どうにも見知らぬ者同士ではなく、そして因縁が深い相手だと理解はできる。  どういうことだと聞きたいが……そりゃ後だな、それ以上詮索するような暇はない。 「夜行、おまえは母禮を遠ざけろ。奴に撃たせてしまったら、こんな船団など一撃で消し飛ぶぞ」 「他の者らは、皆で奴奈比売を相手取れ。倒せずともよい、だが絶対に捕まるな」 「そして烏帽子殿は――」  一瞬、交差する視線。それだけで意思は通じたのか、二人は短く頷いて。 「紅葉は私が引き受ける。 かかれェッ!」  ──激が飛ぶと同時、夜行は素早く空へと上がる。  母禮の前に立ち、不和之関で合間見えたときと同じく、傲岸不遜に構えて見せた。  そのまま上空から引きはがされていく母禮に対し、致命の一撃を避けながら空を旋回する夜行。  俺たちも海へと飛び降り、うねる奴奈比売の触手の上を駆け上がっていく。割り当てはこれしかない。ならば後は速攻だ。  あっちが攻めて来たのなら、しょうがねえさ。考えを変えればいい。  ここで天魔の女衆、討ち取ってやれば後が楽だと考えて、俺たちはそれぞれの戦場を駆け抜けた。  そして──  下された指示を不服に思う者として、甲板に佇む龍明の隣に龍水が立ち並ぶ。  奴奈比売の元に向かうのではなく、ここが自分の戦場であると言わんばかりに構えを取った。 「私も共に戦います、母刀自殿」 「御門家次期当主として、母刀自殿の娘として、私も傍で力を振るいたいのです!」 「……そうか」  その幼い啖呵に、一瞬呆気に取られた顔をしていたが……苦笑しながらも彼女は頷く。 「いいだろう。だが足手まといになるようならば切り捨てるぞ。分かっているな?」 「もちろんです!」 「ならば、しかとついて来い」  その親子の会話を聞いているのか、いないのか。  それとも、この光景に何か……名状しがたい感覚を抱いているのか。  紅葉が龍明を指さし語りかける。本当に、これはどういう構図なのかと。 「なんて出来の悪い茶番なの。それは当てつけのつもりかしら」 「皮肉だわ。まるで水銀でも飲み下したかのよう」 「さてな。だが母たる者、子の前では強くなければならんだろう。無様な背中は見せられん」 「わかるのではないか? なあ、そうだろう〈先〉《 、》〈達〉《 、》」  おまえこそ、これは分かるはずの感情だろう、と──  その言葉を聞いた瞬間、紅葉の総身から溢れた激昂がこの東外流の海を震撼させた。 「あなたが――」 「あなたが“母”などという言葉を口にするなァッ!」  絶対の怒り。何たる戯言。よりにもよって、そのような言葉を私に吐くかと憤激する。  この咆哮により、遂に戦いの火蓋は切って落とされた。  荒れる海。吼える空。蝦夷の大地を踏む寸前にて、四柱の天魔を相手に先駆けとなる戦いが幕を開ける。  暗雲を切り裂きながら飛翔する、光の軌跡が二つ。  甲板と完全に切り離された戦場にて、炎雷の天魔は咒王の閻魔と鎬を削る。 「──疾ッ!」 「痴れ者が」  法を紡ぎ、霧散させ、そして再び彼らは二条の流星となる。  夜行の波動は渾身なれど、母禮の喝を前にそれは消し飛ぶ。力関係はかつてと変わらず、母禮の側が圧倒的に優性だ。  互いの手札を以前の邂逅で見せている分、より地力の差が顕著になって現れていた。夜行は母禮に届かない。その結果は以前と変わらず、今も彼は数々の法を浴びせて彼女の足止めに徹するしかない。  一見すれば、それは母禮に太極を出させぬよう必至に留めているに過ぎないが── 「はははは。速い、いや、疾いな。相変わらず御身の剣は素晴らしいが、私を斬れてはおらぬよ母禮殿」 「ならば、これは果たしてどういうことだ? 御身が鈍り錆び付いのたか、いやいやそれとも──」 「少しは私にも、歯応えというものが出たのかと。そう自惚れてよいのかな?」  ──それはつまり、太極の発動をさせぬほどこの男が未だ喰らいついていることの証明だった。  力関係は変わらない。天秤は変わらず母禮の側に傾いている。彼女が優で、彼が劣。それは断じて変わっていない。  だがしかし、彼我の差が距離が埋まっているのもまた事実なのだ。  かつて数値化した言葉を今再び口にするなら、彼らは〈桁〉《 、》〈が〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈離〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  常人ならば想像を絶する差と絶望しようが、夜行に限り話は別だ。その程度の溝ならば、何の事はない、埋められる。耐えられる時間がある限りさらに己は飛翔できると笑みを浮かべた。 「──貴様」  その速過ぎる成長速度。常軌を逸し、道理を無視した存在の変革はまるで脱皮だ。  蛇が古い皮を脱ぎ捨てて、新たな自分に生まれ変わるが如き光景。  母禮はその様に表情を嫌悪に歪める。気持ちが悪い、そういう成長の仕方を見たことがあると言わんばかりに。 「御身の眼に私を映すには、道化になりきって余興をしなければならぬようだ」 「さあ、その炎で、その〈雷〉《いかずち》で、私を見事断ち切れるか。再び試してみようではないか」 「ええ、自惚れね。貴様ごときの余興なぞ私は寸暇で終わらせる」  だからこそ、自分はここでこの男を殺さねばならないと母禮は思った。  間違いなく、紛れもなく、きっとこの男こそがそうなのだと。確信したゆえ、油断はないから── 「戯れを。どうなされた?」 「早く消えろと──」 「──そう言った!」  微笑をかき消すべく、雲海を蒸発させる灼熱の炎球が具現する。  これが隙を突かれることなく、放つことの出来る最大の力。所詮は余技に過ぎないが、それは霊峰不二を軽く四つは蒸発させうる小型の太陽に他ならない。 「さあさあ、私はこちらだ。御身はどこを斬っておられるか? ふむ、童遊びのようなものだが、これも存外楽しめるな」  昂る母禮を連れて、楽しそうに笑う夜行はさらに船団から離れていった。  剣を振るう女武者の様を観察しながら、速度を上げて彗星の舞を見せる。  この女を踏み台に、己はどこまで辿り着けるか──  その限界点を見極めるかのように。  そして……  雲を挟んだ海上にて、こちらは荒れ狂う波と触手に翻弄され防戦一方の様相だった。 「倒せずともよい、とは言われましたが……」 「やはり、どうせならば斬りに行きたい所ですね」 「あんたならそう言うとは思ったけどさ。これ、もう手が足りないなんて問題じゃないけど、どうするの?」  未だ動きがないとはいえ、奴奈比売の随神相を前に手が出せない。海面からそびえ立ち、四方から船団を粉砕して蠢く姿はまるで優雅に踊っているようでもあった。  船の間を跳躍しながら避けることしかできずにいる。攻めにくい、耐えるにしてもこの壁に等しい触手を前にしては── 「おい、覇吐。おまえ片端から切り飛ばせ。そうすりゃあいつも船には手出ししねぇだろ」 「馬鹿野郎。そんな事したって焼け石に油だっての」 「どうせなら、お前が走りながら薙ぎ払ってきたらどうだ? つうか、やれよマジで。俺ら後からついてくから」 「んな事しても、大元に手傷がいかねぇなら無駄もいいとこだろうが」  夜行の様に自由自在に空を駆ける術など彼らは持たない。とにかく遠く、攻めあぐねる  勿論だが、彼らはそれぞれ遠間を攻める技程度は会得している。だがそれらを以てしても、この荒神を粉砕するには届かない。  八方手詰まり。しかも時が過ぎるほどに、残る〈船体〉《あしば》が消えていく。奴奈比売は彼らをわざわざ相手せずとも、全方位に溢れる神威を解き放つだけで事足りるのだ。 「……あまり悠長にもしていられないしね。どうする?」 「まあ、覇吐さんと刑士郎さんがいる時点で、道は一つだとは思うんですけど」  は、とため息をついて見せる宗次郎の背を覇吐が小突く。  その表情はいかにも不満げだ。 「おまっ、俺におっかぶせんじゃねえぞ! お前だってあんだけ斬りたがってるんだからこっちの道だろうがっ」 「僕も船上より、さらに不安定な足場なんて本当は御免ですよ。思うように振るえないじゃないですか」 「何言ってやがる。まだるっこしいのはお前も嫌いだろうが?」 「あーはいはい。もう心は一つみたいだからさっさと行きましょ?」 「でないと、船の方が攻められちゃうじゃない……ほら!」  紫織の言葉を受けるように、四人が動き出す。  この海魔神、その真芯へ届くための唯一の足場──すなわち、奴奈比売自身の末端へと飛び移り、頭部を目指して奔り始めた。  危険度は相乗されて跳ね上がるも、同時にこれしか可能性は存在しない。  足元から上り詰める陰気そのものを足蹴にできたことから、悪路や母禮のように接触した瞬間効果を発揮する類ではない。そのことに針一本分程度の勝機を見出しながら、彼らは船を捨て随神相そのものと相対する。  そして、もう一組──  ここに将と将、統率者同士の最も静かな争いが行なわれている。 「…………」  上空から睥睨した視線を向ける常世に対し、それを見上げる竜胆。  なんの意図があってだろうか、人知れず武威のない戦を彼女ら二人は静かに行なっていた。 「…………」  竜胆もまた、常世をひたと睨んで動かない。  弓矢を持ってはいるが、弓は常世の方を向かず、矢は番えられてはいない。狙いは未だ定められていなかった。  この場の総大将として天魔を一人で相手取っている……というような、単なる言葉として切り捨てていいはずがないだろう。その光景はあまりに異常で、何か通常の戦いとはあまりに隔絶していた光景だった。  ただじっと、常世は竜胆の姿をつぶさに観察している。己の中に渦巻くある種の疑問。つまり──〈久〉《 、》〈雅〉《 、》〈竜〉《 、》〈胆〉《 、》〈鈴〉《 、》〈鹿〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》という疑念を晴らさんとしていた。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈少〉《 、》〈女〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈者〉《 、》〈が〉《 、》〈天〉《 、》〈狗〉《 、》〈道〉《 、》〈に〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  その存在、渇望の裏側とも言える姿に該当するものを知っている。彼女の友人たる悪童じみた男と同じ、彼と同種のものであるというのは分かっている。  だが、それだけではない。生まれる余地のないはずだから、当然目の前にあるのがおかしい。  それはきっと重要な陥穽であり、自分たちにとっても強烈な意味合いを持っているはずだと信じるからこそ……  ここにある種、奇妙な拮抗状態が完成する。  ただ、片方が動こうとすると、相対している方が牽制の動きを見せる。それを察知して動きが止まり、やがて牽制が解かれる。などというやり取りの繰り返し。  竜胆もまた、単なる案山子でいるわけではない。常世が彼女を覗き込んでいるように、彼女もまた常世の真実を覗き込んでいた。  宿る意思と、抱いた誓い。将に謀反を働いてまでその手で討とうとした真意を、澄んだ瞳で見抜かんと見つめ続けているからこそ──  どちらが先に己の狙わんとする所を成し遂げるのか?  そして、その成就を確かなものとする隙を、最初に見せるのはどちらなのか?  相手を読み解こうとする意思を交し合いながら、彼女らはただ互いの眼光を眺めていた。  まるでそうと知らぬまま、相手の瞳に自分の魂を映しあっているかのように……  そして──彼女ら将が睨みあう船上と外れた傍ら、そこには炎の華が大輪となり咲き乱れていた。  力及ばなかった者たちが斃され、死すのは戦場の定め。さらに相手が天魔ともなれば、力が及ぶ者自体が希少なものとなる。  もがれ、切り裂かれ、潰され、捩じられ、中には船を沈められて溺れ死ぬ者もいる。  それらは全て物言わぬ屍となり、その終わりをまだ生きているものに晒す。  死ねば終わる、それが道理。先などあらず、ただ骸と成り果て尽きるのみ。そう知っているからこそ龍水は、目前の光景がおぞましくて仕方なかった。 「神火清明――急々如律令!」 「往け!」  龍水の詠に応え、宙に数十枚の符が浮かぶ。命ずるままに符が飛び乱れ、それぞれが屍兵の頭部に接触し── 「──〈唵〉《おん》!」  荒ぶる神に操られた屍兵からは、されど肉の焼ける音も、ましてや傷一つすらついてはいない。これらは全て紅葉の波動を受けし死想傀儡。彼女を砕くほどの力なくば、その一体すら破壊することは不可能なのだ。  だが、しかし。 「そうだ、それでいい。焼き切れば彼奴らの足は若干止まる」 「通じぬならば、まずは焼き続ける事。それが肝要だ」 「はい、母刀自殿!」  頷きながら再び符を浮かべようと詠唱を始める龍水の横で、龍明もまた詠唱を始める。  目に焼き付けろ。学ぶがよい。炎とは、すなわちこうだと子に教授するかの如く声をあげた。 「神火清明、急々如律令」  刹那──乱れ舞う紙吹雪が如き、炎精の霊符。  龍水と比較にもならない練度と、その圧力。一度に数十枚展開すれば一流なら、数百もの符が舞うその力は何なのだろうか。  自らの母に対する、驚嘆と尊敬の視線を背に感じながら── 「――〈唵〉《おん》」  龍明の命じを受け、炎の華が東外流の海に咲き乱れた。  圧倒的ともいえる火力を前にすれば、当然そこに衝撃は付き纏う。屍は紅葉の歪みに守られて決して朽ちぬが、同時に発生した焔の烈風が雑兵まとめて弾き飛ばした。  ある者は海上へ落下し、ある者は船体の端まで飛ばされる。  束の間、彼女らの視界が開けた。しかしそれは、本当に束の間と呼べる程度の一瞬に過ぎない。 「くっ…………!」  なぜなら、死した兵など〈幾〉《 、》〈ら〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈補〉《 、》〈充〉《 、》〈が〉《 、》〈利〉《 、》〈く〉《 、》。  御門の母子が海へ落したとしても、他の船団は手付かずなのだ。二、三体ほど兵をそれぞれの船へ放り込めば、後は自然と増えて行く。  朽ちぬ兵も、海面に落されようが所詮それは時間稼ぎだ。船体をよじ登って再来し、こちらは永劫消耗戦を強いられる。  天魔たる紅葉の軍門に降った屍たち。紅葉に操られているそれらは、生前より増した力を以て生者を襲う。  正気を失いかけた兵が一人、見事屍を切り捨てるものの、次の瞬間それは逆転。切り捨てた筈の屍が何事もなかったかのように兵に切りかかり、再び屍兵が数を増やす。  そして、何もそれは彼女自身が手を下さなくともよいのだ。奴奈比売の戯れで水没した帆船から、不死の軍隊が群れを成して這い上がる。  今この瞬間、この戦にて死に堕ちるとは、そういうこと。紅葉の傍で死してはならない。余さず残さず全てが鬼母の抱擁を受ける。  不死身の軍船となった船さえ出現し、何者も顧みず龍水や竜胆たちが乗り組んでいた旗艦に突撃をかけた。移乗した屍たちと乗組員による乱戦が始まり、加速度的に屍が戦場を蹂躙し始める。  死体をこそ抱きしめるという業の具現。  このままではいずれ戦線がどう瓦解するか、龍水は予見するからこそ足掻き続ける。 「っ、くぅ──!」  唱え、符を飛ばし、そして燃やす。  一体でも多く、一瞬でも長く、屍兵らを遠ざける。自分は耐えるだけでいい。そうすれば必ず夜行や他の仲間たちが、彼らを討ち取り状況を一変させてくれるはずだと信じているから── 「はあっ、はあっ……まだ、まだだッ」  ――だがそれでも、道のりはあまりにも遠すぎる。  向こうは死人が出れば手勢が増え、これから先も減ずることなどありはしない。全体の半数を奪われてはその瞬間趨勢は決するだろう。  自分たちがどれだけ足掻こうとも蝦夷にて勝ち抜く余力は消える。この瀬戸際たる攻防さえ、まだ終着点の前なのだ。  ゆえに、この一戦はまさに致命だ。術を編むことによる連続使用、徐々に減っていく体力がさらに奪い去られていく。  自然と荒くなっていく息を聞きつけたのか、符を飛ばしながら龍明が小さく笑みを浮かべる。 「どうした龍水、もうへばったか?」 「いいえ、そんなことはありませぬ」  その言葉は心からのものであり、決して意地を張っているだけではない。体力は徐々に減っていたとしても、戦意は篝火となって増すばかりだ。 「ならばよいがな。心が屈しそうになれば、疾く下がり待っておれよ? 諦めた輩を戦場で守りきるのは至難ゆえな」  くく、と笑う母の横で、龍水は屍と紅葉を眦を吊り上げて睨む。  そう、あの巨大な──  ──奈落の如き情を持つ鬼母神になど、負けたくないと思うから。  天魔であろうがなんであろうが、紅葉の死体を操るという技には虫唾が奔り、止まらない。それは龍水の中で認めるわけにはいかない業だった。  人の死は、終わりだ。死ぬ事でただの物体となり、やがて土と交わる。それが龍水の知る理であり、決して崩してはならないと感じている。  いや……正直に言うなら、紅葉と出会ったからこそ、自分は死という事柄をここまで深く考えるようになった。  死の先、死の果て、つまりは死後。それに対して未だ考えはまとまっていない部分が多々あれど、それでもこれは違うと思う。  紅葉の軍門に降ると人は死んでも終わらない。  屍は物体にならず動き続け、灰になる事すら拒絶し、土に交わろうとしないこと。  そのような事、理の外にあるものを許せはしない。  理屈ではない、もはや生理、本能の部分で龍水はその悍ましさに怒りを溢れさせている。何か自分が変わったとしても、これだけは譲るわけにはいかなかった。 「私は絶対、こんなものに屈したりはしない!」  立ち止まらず、増え続ける紅葉の軍勢には怖ろしさもある。だが、紅葉の業への嫌悪と怒りがそれを捻じ伏せる。 「そうか、それは頼もしい。では最後まで諦めるな」  そして何より、己の傍らには龍明がいる。  これほど誇れる母の前で、どうして心を屈し、後ろに隠れる事が出来るだろうか?  目前の天魔、紅葉は何やら母と因縁がある様子だが、それがどうした。何の事があるだろう。  ならば尚の事、そんな奴に対して母の弱みになるような娘の醜態を見せるわけにはいかないのだ。見せ付けねばならないと、かつてないほど強く少女は幼い心に決意を纏う。  だからこそ、龍水は力強く頷いて見せるのだ。 「はい!」  よき娘として、母の名についた格を落とさぬよう、龍水は燃やした。群がる屍をとにかく燃やし続けた。  その向こうで、紅葉が残念そうに首を垂れるまで── 「茶番ね」 「 ?」 「 ?」  酷い。ああなんてひどいのか。悪趣味極まる、そう言わんばかりの表情で。 「とんと分からない。あなたはいったい何がしたいの?」 「背中を見せる? 道を示す? 何を教えるつもりなの? そんな波旬の細胞に」 「期待するだけ馬鹿馬鹿しい。波旬の世界で生まれた者に、波旬の法は崩せない。それは分かっているはずでしょう」 「私はあなた以上にあなたのことを知っている。だから他の者たちが何と言おうと、私だけは信じていたわ。きっとあなたは、今もあの人のために動いていると」 「……だけど、それは私の勘違いだったのかしら?」  今度は憐みの色を浮かべて、紅葉は龍明に手を差し伸べる。  それは、おそらく本人さえ意図せず出てしまった仕草だったのだろうか……  つ、と差し伸べられていた手が胸元に戻り、紅葉は悲しげに頭を振った。  その動き一つ一つが、龍水の心をざわめかせる。腹立たしくて、憎憎しくてたまらない──ああ貴様、何を分かったつもりになっていると。  自分の埒外で彼女ら二人は何かを感じ取り、二人だけの間にある事象を基に期待し、その果てに幻滅している。  龍明にとっては娘となる自分を差し置いて、意味の分からない事を並べ立て、とにかく母を侮辱している。  それがたまらなく不快で不快で心が荒む。術の構成に雑念すら混じるほど、紅葉のことを睨みつけた。  貴様のそれは勘違いだ。自分の愛する母親は、〈き〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈に〉《 、》〈違〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と思うからこそ、彼女は叫ぶ。 「ふざけるな、貴様に母刀自殿の何が分かる!」  その吼えが、あまりに純粋であったからか── 「分かるわよ。この期に及んでまったく本気を出していないということが」 「え……?」  瞬間、龍水は完全に不意を撃たれ、呆けた。  本気を、出していない? 母刀自殿が?  鸚鵡返しになる自らの内心の声を一度は振り払おうとする。ありえないと振り切ろうとするものの……耳にこびり付いて離れない。  だが──ああ、ならば確かに、先の攻撃はどう説明する?  東征軍の全船団を軽々飲み込む津波に対し、それを苦もなく焼滅させたあの術理。あんなものはありえない。  見ない振りをしてきたし、知らない振りをしてきたけれども、そこには当然齟齬がある。龍水自身、彼女がずっと目を逸らしていた何かがそこに眠っている気がしたのだ。  よしんばおかしくないとしても、あれが母の本気、実力と言うならなぜ今は自分と同じ術しか使っていない?  それでは、まるで── 「私たちは蜘蛛に堕ち、あなたは蝙蝠に堕ちたというの?」 「波旬に屈し、波旬に染まり、その薄汚い外装を纏って生き恥をさらしたまま、奴の世界に埋もれていくことが望みなの?」 「   !!」 「   !!」 「黄金はもういない! 彼と共にその〈忠誠〉《あい》すら失ったのか!」  感情のままに声をあげ、糾弾から断罪へと階を登っていく言葉。  それに歩を合わせ、屍たちは龍明と龍水の許へと殺到する。  龍水が慌てて発火符をばら撒くが、先程までと同じ火勢を以てしても、屍は主の後押しを受け今や火が燃え移ってすらいない。  狼狽える龍水を尻目に、紅葉は悲しみを湛えた眼で自らの腕を振り下ろし、号した。  噛み締めるように……軽蔑と侮蔑を見せながらも、痛む心を隠すかのように。 「ならばその皮を被ったまま、奴の細胞らしく己一人を抱いて死になさい」 「さようなら、私の親友。あなたはもう、遥か昔に死んでいたのね」  別れの言葉を波濤となって押し寄せた屍兵の向こうに聞きながら、増大した神気の圧と暴力を前に、龍水は死を覚悟した。  術は効かない。為す術がない。だからこの後、一瞬の間に己はこのまま死ぬだろうから。  恐怖のまま、眼を閉じたその刹那──  そう、輝ける愛おしい刹那の瞬間。 「失くしてなど、いないさ」  己の頭上から、声が、響いた。  刀が、槍が、爪が、拳が、腕が、歯が──肉を裂き骨を砕く。  人肉を解体する屍の攻撃。それらが龍水には一つとして当たらず。  盾となった龍明の体を貫いた。 「な……あ、あぁ……」 「 ……」 「 ……」  驚愕に歪む二人に対して、穏やかに微笑をたたえたまま母は娘の腕へと倒れ伏した。  慈愛すら滲ませて、まったく似合わないことをしたと苦笑するかのように、龍水を慮り声をかける。 「無事か、龍水」 「は、い──」  それは、話しかけられたので頷きはしただけだ。  頭は依然混乱している。表情も驚愕から戻っていない。歯が震えて音を鳴らしているのが分かった。  こんなことはありえない。こんなことは願っていない。そう思う龍水に対し、微笑む龍明のなんと清々しいことだろうか。 「そう意外そうな顔をするな。母が子を守るのは、至極当たり前のことだろう」 「で、ですが……」  聞いていた世の理から考えれば、ああそれは正しい。  だが、それは御門家の母子の在り方ではなかったはずだ。こんなことを、御門龍明はするような人間ではなかった。  だというのに、なぜと問われれば── 「馬鹿めが、これは理屈ではないのだよ」 「ただ反射的に身体が動いた。それで納得してはくれんかな」  そんな……あまりに優しい言葉を吐いたものだから。 「できない――いいえ、できません!」  敬愛した母は、いつも皮肉を顔に出していた。  敬愛した母は、このように幼子をあやすようにはしなかった。  徹底した現実主義者であり、小を生かすために大を犠牲にするような人物ではない。事実として先ほども、足手まといになるなら切り捨てると言っていたはず。  なのに、ああどうして…… 「龍水は、こんな母刀自殿など嫌いです!」 「それはよかった。実は私も、おまえのことがあまり好きではなかったから」 「これでもう、うるさく纏わりつかれずに済むかと思うと、清々する」  その冷たいはずの言葉に、どうしようもないほどの慈愛を感じるのはなぜだろうか。  龍明の顔と声は優しい。だが同時に、もはや絶対助からないと分かってしまった。  肌が罅割れている……なんだこれは、まるで陶器だ。  手に触れた母の身体は驚くほど冷たくなっている。まるで生きた熱など、とうの昔に捨ててしまったかのようで。 「  」 「  」 「匂いが取れない。魂が腐っていく。だからそろそろこの皮も、脱ぎ捨てたくて堪らないと思っていたよ」  首を振りながら、苦笑する。  濁々と流れ、着物を紅に染める自らの血に、龍明は僅かに顔を顰めた。  言葉と歩調を合わせるように、龍明の皮膚に亀裂が走る。  正しく脱ぎ捨てるように、崩れ始める。  崩れた皮膚は外気と混ざり合うと煙のような何かに変じ立ち昇るが、それは外気と接触した瞬間、消滅していくのが龍水には分かった。  総ては自分のためという言葉。しかしなぜか龍水には、この時ばかりはそれが嘘だと感じられた。  西ではごく当たり前の、自分のために生き死ぬという在り方ではない。これは対極のもの、もっと別の何か……温かいものなのだと思えてくる。  語るべき事を終えたからか、龍明は爽やかな顔で常世と睨みあう竜胆がいるはずの方向を見やった。  屍たちの肉壁越しに大音声で呼びかける。 「分かっているな烏帽子殿! すべては御身に掛かっている。後は任せた!」 「私は今より修羅に入る! 何が何でも機を逃すな!」  遠く離れていながら──変わらず常世と睨み合う竜胆の顎が、その時僅かに上下する。  見えざる戦いの中、それでも部下の言葉に頷いた将の心根に、龍明が微笑を漏らした。崩れた皮膚から立ち昇る煙が、異なる現象へ変じていく。 「これは……!」  それは──炎。  やはり外気に触れた瞬間消えてしまうが、それでも苛烈で、なんと美しい輝きだろうか。  吹き荒れた灼熱の壁に、屍兵がいとも容易く燃え尽きていく。それは紛れもなく、この焔が紅葉の神威を上回っていることの証だった。  だというのに、龍水だけは焼け焦がれるような熱さを感じない。そこから感じるのは慈しみだけだ。炎に包まれているように見える母の袖を、龍水の手は握りしめたままだった。 「母刀自殿……」  直感する。この手を放せば、それは今生の別れとなるだろう。  母は二度と自分のもとに帰ってこない。それが理解できてしまうからこそ、龍水の瞳には涙が浮かんでいた。  そんな娘を見て、龍明は皮肉げに笑って見せる。本当に、手がかかると言わんばかりに口元を歪ませた。 「なんだ龍水、お前は私が負けるとでも思っているのか?」 「聞かせてくれよ。おまえの母はどんな女だ?」 「むざむざ首を差し出すような、家畜の如き敗残者か? なあ違うだろう」  勝ちに行かせてくれよ、と。  雄雄しいその姿に、龍水は急いで涙を拭う。眦を決してから胸を張った言葉で母の問いに答えた。 「私の、母刀自殿は……」 「母刀自殿は、誰よりも強く気高い御方です。何も心配などしておりません!」 「そうだ。それでこそ我が娘」  心底、いや、魂からの言葉。そこに嘘偽りは微塵も無く、その証として龍水の手はもう袖を握ってはいない。  龍明はそんな娘の姿に微笑むと居住まいを正し、厳かに、そして毅然と応えた。 「お前がそう信じる限り、私はそのように在り続けよう。忘れるな、それがお前の力なのだ」 「 」 「 」  そう言い放つ龍明の言葉の端々には喜びすら見え、立ち昇る炎はいよいよ勢いを増している。  そしてそれは彼女だけではない。その姿、その威容、真にこの焦がれる熱を歓迎しているのは紛れもなく相対している女の方で──  涙さえ流すほど懐かしかったから。 「ええ、ようやくあなたに会えた気がする」 「嬉しいわ。抱きしめたいほど」 「私もだよ」  互いを見やり、二人は微笑む。  その傍らには全てを焼き尽くさんばかりに猛る炎と、すでに甲板を埋め尽くさんばかりに集結した屍の群れ。  機制を制さんとしたのか、紅葉の手が号令をかけ、屍たちは龍明に向かって殺到する。  まるで散歩を楽しむように、殺到する屍兵へ向かい悠然と彼女は歩を進め始めた。  そして、船の一角から炎が立ち上ったのを見やりながら── 「覇吐さん!」  宗次郎の声を聞いて俺は、真横へ一気に跳躍した。  間一髪、俺が先程立っていた場が触手の一撃で薙ぎ払われる。つくづくこいつの身体を足場にしてよかったぜ。あれが船体の上ならば、今頃足場は木っ端微塵だ。 「──っち、よそ見してる暇はねえか」  別の触手に飛び乗って、奴奈比売の巨体を睨みつける。ワタシを見ろ、余所を向くなか? こいつ、絶対浮気を許さねえ奴だな。  つうか── 「さっきからこの繰り返しだよ。遊んでるね、あの女」 「嬲るのが得意なんだろ。だが、ちっとも優しくなんかねえぞ」 「だろうね。メチャクチャ嫌な奴ッ」  すぐに壊してしまわないように、丁寧に、大切に、苦痛を与えてそれを楽しむ。  嗜虐的にも程があるが、間違いなく奴奈比売はそういう性質を多分に含んでやがるようだ。あちらとしても俺らを引きつけ、紅葉や母禮の仕事を邪魔しないという心算だろうが……それ以外の感情が垣間見える。  憎悪、憤激、侮蔑とまぁ癇癪起こした女の情だ。嫁ぎ遅れる女っぽくて、生憎俺は好みじゃねえよ。 「……仕方ありません。攻め手を失いますが触手を斬りましょう。でないとこのまま船が沈む」 「結局それかよ……仕方ねぇな!」  刑士郎の総身から漲る陰気。あの時とは違いおかしな感じはしていないが、当然あれより威圧は落ちている。  理想としちゃあ、あの沸騰寸前の状態を素面のまま使えることだが……無い物ねだりはできねえさ。  枝分かれして更に総数を増す触手。増殖しているこの腕を、一本ぐらい斬り潰さねば往くも退くもできやしねえ。 「崩れ、落ちろぉっ!」  号砲一閃。紫織の拳を先駆けに、同一の箇所へ宗次郎の剣が振りぬかれ、俺が鋏をブチ当ててから刑士郎の陰気が刺さる。  小山程度なら軽々消せる。全員本気、誰もが渾身で打ち込んだ一撃は──  案の定、無傷で反撃した触手によって足止めすらできないと証明された。  俺たちでは何人集まろうと、薄皮一枚剥げやしない。その足掻きを嘲笑う声が見下ろしながら響き渡る。 「あはははははははは、バカじゃないのッ!」 「何の理屈もわかっていない。その細腕で? 〈借〉《 、》〈り〉《 、》〈物〉《 、》で? 源泉たるこのわたしに、何か一矢報いれるとでも?」 「なんて滑稽──そんなことさえ気づかない。勝利だけしか信じないから」  手近にいた者──宗次郎に向けて触手が一斉に飛びかかる。  咄嗟に放ったのは返しの剣戟。せめてこれで、少しは軌道を変えてくれればと願ったところで── 「蒙昧ね」  無意味なことだと呟く声に、宗次郎の渾身が弾かれる。  宙にまった身体を嬲るように殺到する触手の群れ。それに対し、紫織が咄嗟に宗次郎自身をすれ違い様殴り飛ばす。  二人の間を掠めながらそびえ立つ杭のように、先程まで宗次郎のいた空間が穿たれる。何をしても効かず、腕そのものを増やし、加えて追い詰めるのがうまいそれは、どこか拷問を連想させた。 「まさかとは、思ったけど……」 「傷一つ付かねぇとは」 「かなりイライラさせられますね」 「ふ、ふふふ……」  逃げ惑う俺たちの姿を見て、奴奈比売の嘲笑はどんどんと高まっている。  狂気。そう呼ぶに相応しい笑いだったが──何故だ? どうにも気味が悪くて仕方ねえ。俺にはどうしてもその裏に、制御しきれない別の感情が覗いているように見えるんだ。  こいつは、本当に俺たちのことを見て笑っているのか?  なんて無様、ああ滑稽だと、小馬鹿にして悦に浸っているだけではない。暦とした理由と共に一人一人を睥睨しているようで── 「時よ止まれ。君は誰よりも美しい」  思惟を巡らせたと同時、夢見るような呟きが漏れた。  堪えきれない激情の波が姿を現す。 「わたしは永遠になったのよ。彼の愛に包まれたのよ。誰にも侵されず犯されない、無間の神無月を守る一角に」 「ねえ、だから諦めなさいよ。しょせんあなた達ごときが何億寄り集まってきたところで……」  何か来るのか、と警戒していたが違った。  肩を震わせ、身体を折り、口を開け、涙を流して。爆発するかのように咆哮した。 「この黄昏を! このわたしを! 彼の〈永遠〉《アイ》を奪おうだなんて思い上がるんじゃないわよぉぉぉォォッ!」  瞬間、俺たちが足場にしていた触手の塊が一気に爆ぜた。  何十、何百という触手が俺たちの身体にからみつく。見る間に身体全体が覆われて……ちくしょう、まずい。身動きそのものが奪われた。  逃れえたのは紫織だけ、だがそれさえも罠に追い立てられる兎のように、無数の触手が追いすがる。  逃げるな、逃げるな。逃がさない。おまえも足を引いてやると──身体を縛る触手からこいつの意思が脳を焼いた。 「波旬、波旬! その匂い、その気配反吐が出る! おまえに犯された連中が、恥も知らずにその走狗となっている」 「自分を愛する? 笑わせるなよ不能者がッ! おまえの宇宙に意志など微塵もないくせに――」 「魂だなんて、わたしたちを侮辱するのもいい加減にしろォォッ!」  紫織の周りに展開していた触手が網の如く展開した。  凄まじい速度で広がる縛鎖の花、鋭く尖った触手の先端が紫織を襲う。 「ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ――」  だが、それまで逃げ回っていた紫織だったが、その間に精神を練り込んでいたようだ。一気に紫織の中の気が高まる。  何度も奴奈比売と触手を確認しながら、何かを理解しようとしていた。類推するしかないのだが……今からやろうとしていることが、俺は朧げながら理解した。  紫織の周りが急速に歪む。そこまでは同じだが──先が違う。規模が突如として跳ね上がった。  視線は変わらず奴奈比売を見ていることから、俺も分かった。つまりこいつは、天魔そのものを秘伝書代わりに認識している。  何度も何度も身体で味わってきたあいつらの技、あいつらの業。そこから歪みの練り上げ方と術理を理解し、放たれた一撃は―― 「ワケの分からないこと言ってんじゃないわよォ!」  かつてとは異なる、別次元の力だった。  数体、数十、いや数百。それだけの数たる紫織が空間に現れた。  これまでとは明らかに次元が違う可能性の拡大。信じられねえ、本当にやりやがったな。  触手の波濤を押し返し、そればかりか後方の俺たちの戒めをもはじき飛ばした。それは僅かに拘束を緩める程度だが、その隙さえあれば俺らにとっちゃ逃げることなど造作もない。  ちくしょう、いいね。なんだか旗向きよくなってきたじゃねえかよ。 「あんたの事情は知らないし、別に知りたいとも思わない。だけどこれだけは言わせてもらうよ」 「いったい誰と戦ってるつもりなのよ。相手を間違えたまま調子に乗るな!」 「同感ですね、ひどく不快だ」  秘伝書──そう、見るべきはそれだ。〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈を〉《 、》〈参〉《 、》〈考〉《 、》〈に〉《 、》〈す〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈次〉《 、》〈の〉《 、》〈位〉《 、》〈階〉《 、》〈へ〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》。  構える宗次郎もそれに気づき、実践する。湧き上がる力の奔流、自己の中でより深い法則を組み上げていた。 「僕らは僕らだ。世迷い言など聞く耳持たない」 「首飛ばしの〈颶風〉《かぜ》――甲の第二・〈蝿声〉《さばえ》」  そして俺の予見どおり、放たれたかつての技は以前と桁外れの武威をもって顕現する。  基本的な斬撃という水準を遥か超越した一閃。単純な威力や規模という意味ではなく、切断するという面においてより高次元の概念を帯びているかのようだった。  感じる波動は、純粋にただ斬るという一念のみ。  あれは効く、絶対に断つ。詳しく説明はできそうもないが、この剣戟はそういうものだと確信した。相手が天魔であろうと関係なく、両断する未来を幻視して── 「そう、それが総ての勘違い」 「〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈達〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》、〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  そう言った途端、宗次郎の斬撃は奴奈比売の手前で幻の如くかき消えた。  何だこれは、おいおい嘘だろ? あれはおかしい、通るはずだ。それがどうしてあの道化鬼みたく消えるんだよ。  おまえはそういうものじゃないはずだろうが。  見れば紫織が粉砕したはずの触手も、一つとして傷ついていない。衝撃を与えただけとでも言うのかよ。  愕然とする俺らを眺める奴奈比売に、さっきまでの激昂はない。むしろ憐れみすら織り交ぜて、侮蔑と共に笑いながら玩弄している。 「何も知らない坊やたち。偉そうに自分が自分がと言うけれど、何を根拠に自分があると思っているの?」 「その腕で? その心で? 彼の永遠に守られているこのわたしに、傷一つ負わせられない貧相な魂とやらで?」 「みんな借り物なのよ。何もかも。それを今から教えてあげる」  その時、奴奈比売の気配が爆発的に膨れ上がった。  口ずさみ始めるのは祈りだろうか? 凄まじく耳障りな、異形の言葉が紡がれる。 「  」 「   」 「0 」 「  」 「   」 「0 」  その歌と同時に、奴奈比売の触手の中でも一際でかいのが俺たちをなぎ払った。  この一撃が奴奈比売の必殺なのかと――全速で躱した、次の瞬間。  俺たちの身体が、別方向から〈同〉《 、》〈一〉《 、》〈の〉《 、》〈触〉《 、》〈手〉《 、》によって弾かれる。  総身の骨をイカレさせるだけの衝撃。口の中で血が荒れ狂い、激痛が駆け抜けるものの、それより先に…… 「何だ……今のは……」  知るかよ、俺も分からねえ。そしてやっぱり、何か妙だ。何かおかしい。 「……気配は、無かった」  だが、俺たちの身体をなぎ払った  二本の触手に連携を食らったとかそんなチャチい仕掛けじゃなく、二撃目は間違いなく直前まで〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈の〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  糞、どういうことだ? こいつはまるで── 「 」 「   」 「」 「 」 「   」 「」  祈りを終えた瞬間、さっきとはまた異なる別の現象が発生した。  俺たちの頭上を凄まじい突風が走り抜け、見当違いの方向へと想像を絶する速度で飛翔する。  俺たちをすっぽ抜けた烈風の鎌鼬。それはそのまま海面を走り、後方に控えていた船団の一部をまとめてばっさり切断していく。  横薙ぎに真っ二つ……およそ数十隻の船が、一瞬で海の藻屑と消えやがった。 「あれ、今のは失敗だったわね。まったく、面倒くさい改変をしてくれるじゃない、坊や」  弄ぶように笑う奴奈比売は宗次郎を見やる。あてつけじみた言いは、要するにさっきの一撃に関係していた。  ここに来て俺らも悟る。あれは最初のやつが紫織、そしてあのデカイ斬撃は── 「やっぱり──!」 「今のは、僕の技……ですか」  数段強化されているが、自分の技であることは使っている本人であれば、理解するだろう。  だが……そもそもどっちが本家なんだ?  俺の技、私の技とそれはいいが、東から流れた陰気と考えれば視点は逆。紫織と宗次郎が後進ということに他ならない。 「ご名答。わたしの力の一端が、あなた達に流れているのよ」  歪みとは、本来穢土の力である。ならば自分たちの能力も、元を辿ればこちら側に発生源があるのが道理だ。それが奴奈比売だというのだろうか。 「三百年かけて、そちらのノリに改変されているようだから完璧な再現はできないけれど」 「この通り、猿真似でよければいくらでもやってあげるわ」  そう告げたと同時に襲い掛かる触手が、可能性の像を乱立させて俺たちを襲う。  巻き起こる、可能性の無限拡大──絶対に躱せず、絶対に命中する悪夢が展開した。  前から迫る触手を避ければ、背後から突き倒される。下へ落ちていく途中で、何もないところから横に薙がれる。そして、再び体勢を戻せば、正面からの攻撃をもろに喰らう。  容赦ない奴奈比売の乱打に俺たちはなす術がない。血反吐を撒き散らして翻弄される身体は、まだ挽肉になっていないのが不思議なほどだ。  畜生──おまえ、極めたらこんな厄介なのかよ。なあ紫織。  現状を打破しようにも、歪みは駄目だ。奴奈比売の神威に従っちまう。  宿儺が波動の消滅に特化しているのに対し、こいつは歪みそのものの主だ。手が打てねえ。  元の持ち主に逆らう道理が無い。何をやっても、奴奈比売の力の前では、無意味になってしまうから── 「若作りした、糞婆がッ」  その乱撃に、瀕死の身体でも刑士郎が立ち上がる。  迸る暗闇の陰気で必中を避け、凶兆を味方に牙を鳴らした。 「溜めに溜めた雑多な〈拷問具〉《がんぐ》を、これ見よがしに見せ付けて──」 「てめえ、いつから〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈俺〉《 、》に、舐めた口きけるようになりやがったァッ」  怒号と共に、かつて諏訪原で感じた波動が刑士郎から噴出した。  憤激に呼応して溢れ出した深淵の闇。薔薇か何かを連想させる紅と黒を撒き散らし、牙をかき鳴らして超疾する。  己が身体に直撃しようとも、運気と精気の略奪により死にはしない。むしろ接触した触手から歪みを喰らい、貪りながら強化して── 「控えなさい」  その剛撃すらも。 「 」 「 」  僅か一声、金の眼光漲らせた常世の呪言に止められる。  刑士郎の目が見開かれ、あの無敵じみた陰気の鎧が霧散した。身体は突如として急制動し、わけも分からず戦場のど真ん中で停止する。 「おい、刑士郎ッ!」  立ちつくしたまま愕然とするな。馬鹿、動けよ。このまま攻撃を喰らったら間違いなく、おまえ死んじまうじゃねえか。 「そうね、私が言えた義理じゃない。ああ、そこは認めてあげてもいいけれど」 「何もかも、白痴のように忘れたあんたが、それを言っていい道理もない」 「悔しかったら、早く目を覚まして御覧なさいよ」  吐き捨てるように言い切って、再び放たれるのは斬刃の気質。  動けずにいる刑士郎に向かって射出された、前にあるもの総てを断ち切る飛翔剣を前にして── 「うぉおおおおおぉぉおおおおおぉッ!」  やらせるかよと、俺は無我夢中で飛びだした。  ああまったく、宗次郎。おまえもおまえで、こんなものに至るってのかよ。厄介すぎんぞマジ痛ぇッ。  決死の覚悟を固めて受け止めた斬性の圧力が、余波だけで身体のあちこちをぶった切っていく。骨肉まとめて万の刃で撫で斬られているようだが。 「バカでも、何でも、止められるかってんだッ!」  俺の歪みなら耐えられる。いや、耐えたい。違う、耐えてくれるはずだと固く信じた。  地力の差を埋めるべく、限界以上の力が必要だ。そうでなければまず先に、俺の魂が砕けちまう。これは何もかもぶった切るという概念だから、それこそ全部押し返さないといけないんだ。  ここで、死ぬわけには、いかねえから──  消えゆく意識を繋ぎ止め、なんとか俺が今の俺である部分を越えようと願い続けて──  その瀬戸際、強大な何かに触れた気がした。 「──ノしつけて、返すぜぇえええッ!」  瞬間、俺の頭から股下まで一気に突き抜ける気力と共に、この飛翔剣を叩き返す。  本来、天魔と同等の域に達さなければ返すことなど出来ない歪み。それをこの時俺は可能にして、ありったけの力を乗せて返杯した。  大轟音と共に、方向を真逆に変えた斬気の塊が奴奈比売の身体にぶち当たった。 「はぁ……はぁ……はぁ……」  ざまあみやがれと、俺は息を整えながら格好よく笑ってみせる。まったく、冷静に考えてみりゃ男庇うとか何やってんだと思ってみるも、結果よければ万事よしだ。  何より、俺もコツは掴んだぜ。確信したよ。何とかやれる。俺らは全員紛れもなく、信じられないほどの速度で強くなってきているらしいからよ。  まだ勝ち誇るのは速いだろうが、やってやれねえことはない。それを証明することが出来たんだ。  ゆっくりと爆散した煙が晴れる。  そこから現れた奴奈比売は、やはり傷一つ付いていない。  そう、俺の全力返しを受けながら消耗一つ、傷一つ、受けた覚えはないのだが── 「なによ、あんた……」  信じられないと──俺だけを見つめて、呆然としながら呟いた。 「なによそれ、なんなのよ。そんな渇望、わたしは知らない……」 「いいえ、〈願〉《 、》〈う〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。だって、そんな、〈あ〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈単〉《 、》〈調〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》〈願〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》」 「誰よ、誰よ、あんた誰よ、何者なのよぉぉぉォォッ!」  奴奈比売の絶叫は俺たち全員を凍り付かせるほどだった。鼓膜が破けそうなほど痛い声に、俺たちは耐えながらも体勢を立て直す。  見てはいけないものを見た少女のような、驚きと恐怖の顔。そこに籠もる憎悪に総身を悪寒が駆け抜けた。  俺が、何者かだと?  次の瞬間、こいつは今まで見たことのない殺意の視線で睨み付ける。それは圧倒的な凶を孕んだ負の殺意。俺の存在そのものを絶対に許さないという宣誓だった。 「そうか、そうかそうかそうかそうか――おまえがそうか!」 「許さない……ついに自らやって来たのね。二度もおまえなんかに負けたりしない。おまえを彼に会わせはしない」  そのために、自分はここにいるのだと狂乱しながら誇りを胸に。 「二度も成す術もなくおまえなんかに、彼を壊されて堪るものかぁぁァァッ!」  迸る絶叫と共に──この俺を、坂上覇吐を粉砕すると口にした。 「……ああ、いけません」  海上の戦から離れた、船の甲板。  彼女の禍憑き──太極を発動されれば皆死んでしまう。そう咲耶は直感した。  己が陰の源泉たる女の性。水底に足を引くという習性。そして何より、自分自身すら定かではない、魂の奥底から感じる幻じみた記憶の残滓が、何が起こるかを知っていたのだ。  防がなければならない。だが、その手段が存在しない。  そうしなければ皆が死に絶えると分かっていながら、自分はここで祈るしか出来ないこと。唇を血が出るほどに噛み締めながら眺める咲耶へ──傍らにいた二体の式が声をかける。 「あなたも使いなさい、咲耶殿」 「もう一度、爾子たちの封印を解くですの」 「ですが、それは……」  静かに、これしか手はないと淡々とした口調で二体は告げる。  今使わなかったら多くの命が失われる。そんなのは分かっているのに、使わない咲耶を理解できない、そう言っているようだった。  彼らだとてその結果は分かっている──恐らく、いや間違いなくあの時の二の舞になるのだと。  自分が心を失い、また苦しむだけなら構わない。だが皆が苦しみ、皆を痛めつけたあの惨劇をもう一度繰り返せと言うのなら……  咲耶は目を瞑り、うつむき、小さく頭を振る。  信じたくない。だが事実。そして、使わなければ皆が死ぬのもまた嘘偽りない真実だった。  しかし、悔やむ彼女に爾子と丁禮は毅然とした態度で告げる。 「あの女は、私たちが倒さなければいけないと思うのです」 「きっとそれが、爾子たちが夜行様に拾われた理由ですの」  しかし返し風がどうなるのか。そう躊躇する咲耶を嘲笑うかのように、戦況は逐次動き出す。奴奈比売の詠唱が朗々と響いた。 「  」 「   」 「 」 「 」 「  」 「   」 「 」 「 」  刹那、あらんばかりの海鳴りが響き出す。それは凶兆の具現、凶月一族の持つ歪みが神威の領域となって発動する。  白波が刃となり、山脈を覆うほどの壁となって凶災の津波が東征軍の船団を取り囲むように発生した。  この東外流の海を全て覆い尽くすほどの、大津波。それが東西南北同時に発生し、間違いなくこの直撃を喰らえば東征軍全ての船が消滅すると確信させた。  いま、奴奈比売と戦っている刑士郎たちも間違いなく死ぬだろう。  戦慄する咲耶を前に、爾子と丁禮がなおも進言する。今こそ、咲耶の禍憑きを使って欲しい。皆を救い、自分たちの宿命を果たそうと。 「さあ」 「さあ」 「悔やまなくていい。どうせ誰かが犠牲になるんだ」 「だいたい咲耶、爾子たちのこと嫌ってるって知ってるですのよ」 「だから無用な遠慮はするな馬鹿!」  丁禮が咲耶の胸ぐらを掴んで怒鳴るが── 「──いいえ」 「わたくしは、二度と、禍憑きを使いはしません」  それでも、咲耶はゆっくりとかぶりを振った。  宿る禍憑きは解き放たないと、この土壇場であっても明確な意思と共に口にしたのだ。 「なぜか胸がざわめくこと……ええ確かに、わたくしはあなた達が苦手でございます。今も変わらず、疎ましく、忌避する感情に嘘偽りはありません」 「ならばっ」 「だからこそ、あなた達を犠牲にして、生き残りたくないのです」 「だって、そんな真似をしたら最後、わたくしは皆の仲間である資格を失ってしまいます」 「なぜならこの東征軍は、初めて凶月以外で手に入れた、わたくしの家族のようなものなのですから」 「家族を犠牲にして……それでも生き残らなくてはいけない。そういうことを、もうわたくしはできないのです」  そう、だから。 「あなた達もまた」  ──捨て去りたくない存在なのだと、真摯な瞳が物語っていた。  そう言い切った咲耶に対し、彼らもまた呆気に取られてしまう。  何だそれは? 何だそれは? つまり凶月咲耶は、この仮初に過ぎぬ式神にすらも、家族の情を抱いているということか?  遥か遠い永劫回帰の彼方において、おまえの男を蝕んだ水銀の呪い。その一端さえ担っている自分たちを?  だというのなら、それはなんて傲慢で、そして── 「馬鹿か、この女は」  本当に、なんと愚かだと苦笑しながら爾子と丁禮は空を見上げた。  その表情は何とも晴れやかで、どこか照れたようなそぶりを見せながら、噛み締めるように声を上げた。 「お許しください、夜行様。私はこの愚かな女を、救ってやりたいと思います」 「いえ、むしろそうすることで、私が救われたいと思うのです」 「だから、許可を。咒を解いてくださいですの!」  一世一代の決意に対し、応える声が天から響く。 『相分かった』  その時、黒き暗雲立ちこめる嵐の空に、三つ目の眼光が映し出された。 『思うところあるなら好きに踊れ。たとえこれが永の別れになろうとも、私は止めん。顧みん』 『おまえたちの主である摩多羅夜行は、そんな男であるということ、重々承知しているだろう?』  そして、夜行の声と共に、爾子と丁禮は変貌していく。  旧世界より紡がれた、彼らのためにのみ存在する祝詞。  雌雄陰陽より紡がれし、最速の魔狼を生み出す詠唱がいま再び形を成した。 「   」 「  」 「  」 「」 「  」 「 」 「   」 「  」 「  」 「」 「  」 「 」  全てを飲み込む巨大な波濤が迫る中、それはここに再臨した。  地を踏み砕く四本の足。  眼孔より噴出する愛憎の流血。  天にすら喰らいつく巨大な〈顎門〉《あぎと》。  僕に触れるな、私に触れるな──けれどお願い、抱きしめて。  相反する二元要素の融合体。もはや砕け散った修羅道の残影、最速の魔狼がその姿を現したのだ。  以前よりも遙かに強く、禍々しい力を纏って。 「さらばだ、咲耶。愚かな娘よ」 「お前を好きにはなれないが、それでも我らは我らの役目を果たす」  突き放すような言葉に混じっていたのは、決して嫌悪に類する感情だけではなかった。  封を解かれた巨大狼は討つべき存在の元へと飛翔する。後に残された咲耶はただ、その後ろ姿を見送りながら涙を流すだけだった。  切なく悲しい、別離の痛みを抱きしめて。  主命を受け、封を解いた爾子と丁禮が奴奈比売へ喰いかかっていく。その光景を目にし何より激昂したのは彼女だった。 「 ……!」 「 ……!」  節操無しが。恥知らずめ。おまえに矜持はないというのか──  ゆえに今直ぐ討たんと旋回する母禮に対し、夜行は牽制の術を放ちながらため息をついた。  変わらない不遜な笑みと、視線だけで焼却する魔の眼光が交差する。 「相も変わらずつれないな。いったい誰と戦っている?」 「御身の相手は、この私だぞ母禮殿」 「どけいッ!」  大喝と共に、雷と炎の剣が眼前にある物すべてを薙ぎ払っていく。  宙にある大気、僅かな塵芥、更には空間そのものさえも消滅してのけるほどの業火。以前夜行が相対した時に勝負を決した攻撃に、勝るとも劣らないその連撃は――  されど、もはや届かない。  空間すら焼き消すというのなら、彼はその空間そのものに次元の断層を生み出した。位相を三つは焼き尽くすも、展開された相は七。総てを滅却することは出来ず寸前にて停止する。 「――──」  驚愕は止められたことではなかった。これらの背を押すアレの存在、それをいま確信したから…… 「一度見せながら殺し損ねたのは失敗だったな。御身らの法、すでに私には読めている」  高らかな言葉と共に膨れ上がる咒力の波動。その性質、その独創、覚えがありすぎて母禮の中で嫌悪感が急激に跳ね上がる。  穢らわしい邪悪な記憶、汚濁そのものの神威を彼女は思い出していた。 「そうか、やはり貴様だったか。会えて嬉しいとは言わないぞ波旬」 「だから、誰の事を言っている」 「オン・アロマヤテング・スマンキ・ソワカ。オン・ヒラヒラケン・ヒラケンノウソワカ」  吐き捨てる呟きと同時、限界知らずに増大していく焦熱地獄。  最早いつ消滅させられてもおかしくない母禮の全霊と相対しながら、夜行はほんの半瞬──眼下で荒れ狂う船上へその視線を垣間よこした。 「思うところあるなら好きに踊れ。たとえこれが永の別れになろうとも、私は止めん。顧みん」 「おまえたちの主である摩多羅夜行は、そんな男であるということ、重々承知しているだろう?」  届くとも思えない言葉が、対決の合図となったのだろうか。 「行くぞォッ!」 「応とも。存分に参られよ」  空中での激突は、より熾烈さを伴って再開された。  そして――  それぞれ行なわれている激闘と戦音を背景に、竜胆と常世は未だ静謐の中で闘争を続けていた。  背景の激しさと対称を成す、凍りついたような膠着のまま互いの瞳を見詰め合っている。身体は欠片も動かない。  龍明が声をかけた時に僅か頷いて以来、牽制の掛け合いで動いていた細かな筋肉の動きすら無くなっている。  視殺戦――そう名付けてもいい程の睨み合いだった。  そして、竜胆は常世とだけでなく己とも戦っている。すなわち、これで本当によいのかという疑念。自分は佇むだけで、何の役にも立っていないのではという焦燥に駆られている。  龍明は修羅に入ると宣言をしてきた。最早命すら惜しまず戦っているのだろう。  覇吐たちもまた極限状態にいるようである。  視線を飛ばす事はできないが、渾然とした騒音の中から拾い上げた声などから、その熾烈さが判断はできる。  空にいる夜行とて、楽な戦いはしていない筈だ。  何しろ船団への攻撃を最小限にするべく、常に母禮を挑発し続けているのだから。たとえそれが本人が意図していない動きであろうと、孤立無援の神楽に興じている。  ともすれば、皆に手を差し伸べたくてこの均衡を崩したくなる。だがそれは許されない。絶対にそれが悪手であると……常世の目に宿った黄金の輝きから読み取った。  皆を勝利に導く切り札。それが現在竜胆に任じられた役割だ。  不二にて成し遂げた天魔への大打撃。それを成し遂げた、あの謎の言霊を魂から拾い上げること。  自分ですらどう発音したのか分からない奇怪な言葉。されどあれこそ絶対の法であり、彼らを滅ぼす決定打足りうると己が魂が叫んでいるから。  あれがなんだったのかは分からない。自分で口にした言葉だが、その発音もその意味も、喋った瞬間に忘れてしまった。  ならば、きっとそういうものなのだろう。世界から消えた言霊は、意識して紡ぎだせるものではない。  だから無心に、ひたすら無心に、常世を凝視することでその真実へと潜行する。  この少女の姿形をした異界の理が何であるか──誰であるのかを、読み解いていかねばならない。  おまえは誰だ? 〈咒〉《な》は、人生は? ここまで歩んできた生涯、その真実はどこにある?  そんな竜胆の心胆を理解しているのか、常世は心を硬くし、拒絶の視線と威圧を放って竜胆の心を折ろうと、睨む。  むしろ、真に相手を読み取ろうとしているのは彼女の方かもしれない。覗き込み、縛り付けるような視線。黄金の瞳の奥、そこに堅牢な城壁の影さえ見るようだった。  完全な静の状態だが、これもまた戦いで、その苛烈さは他の戦局に勝るとも劣らない。竜胆は倒れそうになる己を無視して、ただひたすらに凝視を続ける。  負けるわけにはいかない。そして── 「私を信じると言ってくれた馬鹿がいるから……」  だから、負けるわけにはいかない。  竜胆は思う。自分は部下らに、許されざる裏切りをしているという自覚があった。  怖くて、そして否定したくて、彼らに言っていないことがあるのだ。  こんな様で、何が大将か。何が魂を懸けているだ。どうか臆病な私を許してほしい。そんな念が付きまとっていた。 「だからおまえが言ってくれたこと、万軍を得たに等しい頼もしさを覚えたよ」 「見てくれ、私も負けぬから」  お前たちも負けるんじゃない。  そう強く思った矢先のこと、竜胆は常世の意識が何処かに逸れ始めているのを感じ取った。  それは紅葉と龍明の戦いで――  群がる屍に襲われながら、その悉くを内から漏れる炎で焼き払いつつ龍明は前に進む。一歩一歩、紅葉に向かって。  如何に理を歪める動死者とて、世の理の始まりと終わりのものに触れれば、それは究極的な終わりを迎える。  世の誕生にも火があれば、終わりにも火がある。ああ当然だ、所詮これらはただの死想傀儡。激痛の焔を前にすれば、灰に帰すのが道理というもの。  始まりと終わりを歩む者。それが今の御門龍明であった。  かつての友、あるいは同志、そしてある意味好敵手――今は紅葉と身勝手に畏れられる夜都賀波岐が一柱。その元へ崩れる身体を繋ぎ止めながら歩んでいく。  自分がもういくらも保たないことは自覚していた。遠からず、この身は消えてしまうだろう。それはかつて、自ら穢土を捨てたときに覚悟していた必然だった。 「だが、その最後がこれとはな……まったく、本当に度し難い」  一歩一歩進む度、身体が灼け、崩れていく。  なのに妙な苦笑だけが漏れてくる。  それは自分が生きた時間が、余りにも長かったからだろうか。  元々龍明は神州の人間ではない。穢土から渡来した化外の者。いや、人間と言うどころか、まさしく東征軍が討たんとするものと同族同種たる存在だった。  総ては三百年前のこと。仲間を裏切り、西へ渡り、秀真の人間たちを扇動して──最初の東征を行った。  その結果として多くの人間を死なせ、西に陰気が流れ込み、凶月を始めとする歪みが生じるようになったこと。そしてこの今があること。  半ば目論み通り最初の東征は失敗し、穢土の陰気が神州に流れ込むようになる。  刑士郎たちにとってみれば、真の元凶はまさしく自分だ。それを知っていながらあれら会話の数々……まったく本当に、歳は取りたくないものだ。似たくない〈師〉《おとこ》の影をなぞってしまう。  神州の今の混沌とした状況は己が画策したこと。何の言い訳や釈明など許されず、御門龍明こそ西を翻弄し続けた災厄だった。  この自分の最期の戦いはただの贖罪ではない。これは龍明自身の因果である。それを最後まで受け取るのが責任と言うもの。そうだとも、ここらで精算せねばなるまい。  謝りたい相手は勿論いる。烏帽子殿や、龍水。共に旅をした手のかかるあの者たちに今一度心から感謝と侘びを伝えてやりたい。明かしてやりたかったのだ。  だが、それは決して叶わないことだと、今の身体が教えている。これは自分に残された片道切符の燃料。辿り着く先は断崖であり、そして今や飛翔する理も、回帰や輪廻すらこの天狗道は認めない。  それでもよかろう。罰としては丁度いいさ。  おまえ達から見れば私は紛うことなき悪であり、それはかつての同胞たちからしても同じだろう。もはやこの世界の東西どこにも、私の居場所は存在しないと分かっている。  今まさに、消えようとしているこの身体こそがその証。  敗者である穢土の者は、黄昏に深い繋がりを持てば持つほどその外側では存在できない。波旬が支配する西側に、化外が侵入すればその瞬間に消滅するだけ。  だから同胞たちは、〈東〉《ここ》を守ることしか出来なくなった。  しかし、それでは駄目だろう。先がないし、詰んでいる。私たちが残留したのは、いずれ消し去られるそのときまで、引きこもり続けるためではない。  勝つために。我らの誇りを見せるために。波旬を倒すために残ったのだ。だから私がここにいる。  潔さをはき違えた敗残者になどなった覚えは一度もない。私は変わらぬ、今もこの時も目指し続ける、勝利を求めて足掻くのだ。  幸か不幸か、私は黄昏との縁が薄い。  在りし日、彼の仲間でも、彼の魂に触れたわけでもなかったから、他の者より自由が利いた。ならばやることは一つだろう。  皮を被り、偽装して、仇の世界に潜り込んだ。呼吸は出来ず、水も飲めず、毒にまみれながらも耐えてきたのだ。  すべてはあの天狗を倒すために。その可能性を生むために。  そして今、長年の外装は崩れ落ち、ここに晒された私の身体はもはや穢土にも対応できなくなっている。  それは至極道理だろう。まったく、蝙蝠とはよく言ったものだと感心するよ。  獣ではなく、鳥でもなく。鯉ではなく、鰐でもない。  どちらでもないものになった私は、どちらの世界からも潰されるだけなのだから。  しかし後悔はない。迷いもない。これは必要なことであると、私は信じているのだとも。  なあ龍水、なあ烏帽子殿、おまえたちは未来を思っているだろう?  なあ■■■■■、なあ■■■■■■■、おまえたちは光を忘れていないだろう?  ならば否応もなし、考えるまでもない。こうするより他にないと胸の魂が言っている。  なぜなら真実これこそが、我が永遠の主に捧げる唯一無二の報恩だから。  私は今でも、焦がれるほどにあの黄金の君を想っている。  たとえそれが、この黄昏を滅ぼすことになろうとも──  先はあるのだ。波旬は倒せる。 「なあ、新しい世は新しい世の若者たちに託して逝こう」 「私たちの残留は、彼らを誕生させる意味を作った」 「ならば負けではない。そうだろう?」 「――黙りなさいッ!」  腐れ縁の咆哮は、即座に屍兵の群れへ反映される。  屍の群れは、焼け落ちそうな身体を粉砕せんと猛りを見せた。  だが、そんな冷たい死肉の群れにこの〈魂〉《ほのお》はやれないな。まったくつまらん。知っているだろう、■■■■■。  黄金に永劫焼かれることこそ、我が〈炎〉《たましい》の誇りなのだから。  それを、ああなんだおまえは…… 「言ったはずよ。私は奴の世界の者たちに、何の期待もしていない」 「この黄昏が消えたが最後、すべてが終わるわ。完成したあれを前に、そんな子供たちが何の役に立つというのよ!」 「私に信じろと言うのなら、力を示して見せなさい!」 「無論、言われるまでもなく……」  噴き上がる炎がさらに勢いを増していく。この世にいられる時間を更にすり減らしながら、されど堪えきれぬ情動と共に── 「どの道、どうなろうと貴様とは、こうなることくらい分かっていたよ」 「」 「」  そして、実を言うと少し楽しみにもしていたのだ。またこうやって、貴様とくだらない意地の張り合いをやれるのではと、思っていたから。 「  」 「  」  正直やってみるとうんざりだし、そこは貴様も同感だろうが、なぜだろうな。頬が緩む。 「 」 「」 「 」 「」  おそらくそれは、少し珍しい議題のもとに争っていると気付いたから。  昔の私では、到底考えられぬ動機で立っているのが分かるから。  まったく、なあおい、傑作だろう。どうやらこの御門龍明――母としての己に自負というものがあるらしいぞ。  だからこそ、見てみろ先達。  今にも崩れそうなこの身体を、支えるものが何であるか── 「――母刀自殿!」  幼くも背を押すこの声こそ、その答えと知るがいい。  ああそうだ。我が子の前で無様な背中は見せられない。 「」 「」  瞬間、かつてない極大の炎がすべての屍兵群を焼き払い── 「どうだ。大したものだろう。私の娘を舐めるなよ」 「…………」  龍明の放った平手打ちが、紅葉の頬を弾いていた。 「そしてこれも言わせてもらおう。貴様、いつまで死体を抱いている」 「失くしたものは戻らない。彼はそれを誰よりも知っているからこそ、刹那を愛したのではなかったか」 「その煌きを、燃焼を、疾走したからこそ光と仰いだ。それはすなわち、未来を信じていたからに他ならん」 「邪神の理、おぞましい。自らそう弾劾し、器ではないと封じていたこの太極を、彼が憎悪の泥を纏ってまで展開したのは何のためだ」 「その先を願い、前を見ていたからだろう! この〈泥濘〉《ぞうお》の果てにも花は咲くと、信じていたからではないというのか!」 「それを貴様ら、そろいもそろって彼の〈憎悪〉《あい》に甘えよって! それが貴様らの報恩か! これが貴様らの絆なのか!」 「笑わせるなよ甘ったれども! 真に愛するなら壊せ!」 「彼もそれを望んでいる。そしてこれは、我が君の遺命である!」  灼け落ちんとしていながらも、何より力強い龍明の大喝破が戦場の時を止めた。  この刹那を刻み付けろ、憎悪に寄りかかって酔い痴れるな。貴様らこそ、そんな様では自己愛だと──  やがてぽつりと紅葉は呟く。泣くような声で。 「分かってる。分かってるの。そんなことあなたなんかに言われなくても、私だって分かってるわよ……」 「だけど仕方がないじゃない。やっと私も、ようやくのことで、あの子に母親らしいことがしてあげられるって、思ったんだもの……」 「あの子が彼を守りたいって、思ってるんだもの。それを壊すなんて、私にはできない」  ならば今こそ、夢の続きに他ならないから。  たとえこれが残骸でも、壊れゆく幻に過ぎずとも、今なら彼女はようやく母親になれた。娘に愛を注いでやることができたのだ。  だから叶えてやりたい、傍にいて抱いてやりたい。真贋成否などという、これは理屈ではない感情なのだ。  母と娘の愛情こそ、彼女を黄昏に繋ぐ未練だったから。  ――瞬間。 「――!」 「――!」  〈常世〉《むすめ》は叫んでしまった。  竜胆との戦いで、最もしてはならないこと──精神の外殻をほんの一瞬崩してしまった。  それこそ、彼女が待ち望んでいた唯一の勝機。  ほぼ無意識の動きで矢を番えて弓を引き、完全な無防備を晒している常世に狙いを定める。  同時に、自然と内から溢れ出てくる失われた言霊。その叫んだ名前を前に、彼女の内に眠る黄金色の残照が力ある〈咒〉《な》を紡ぐ。 「――」 「   !   !」 「――」 「   !   !」  その瞬間、空間に亀裂が走ったような衝撃が走った。  常世は凍りついたように動きを止め、それに連動して母禮も紅葉も奴奈比売も、彼女らを守っていた穢土太極の鎧が崩れ去る。  時よ止まれ、時よ止まれ── いいや否、愛するからこそ壊してみせろ。  それは幻だろうか、脳裏をよぎった言葉に賛同する。恨みや憎悪があるからではない。彼らを然りと認めるからこそ、このような姿で憤怒の泥を纏わせてはならないと思うから── 「! !」 「! !」  竜胆の番えた矢が、黄金の軌跡とともに放たれる。  一直線に命を奪う破魔の一矢。空を切り裂き、常世を貫くその寸前に―― 「――!」 「――!」  ……母が娘を庇うが如く。  我が身を盾にした、紅葉の胸に突き立っていた。  絶叫する奴奈比売に対し、巨大な白狼が超高速で空を駆ける。  空の頂点に辿り着いて、狼は咲耶を見た。右の目は赤く血に染まり、止めどなく血が溢れ出ている。  それが痛むのか、天空に絶叫のような雄叫びを上げて、狼は走り始めた。己が宿命を果たさんと突き進む。風を切りながら飛翔する姿は、さながら一本の白矢のようだと彼女の目には映った。  そして、その白い軌跡こそ、爾子と丁禮の生きた最後の証であると理解していたから。 「ああ……丁禮、爾子」  これが宿命だとするならば、自らの目で徹底的に見ておくしかない。余すことなく、あのの勇姿を、宿命の果てを見ておくしかないのだ。 「くぅ、ああああああぁぁぁ──!」  触手が波打ち、覇吐らを海に放り出してもなお絶叫して荒れ狂う。  力を失いつつある。存在が維持できなくなっているのが、誰の目にも明らかだ。だがしかし荒れる海面を前に、足場を失った覇吐は崩れゆく奴奈比売を見上げるしかない。 「ちっ──好機だってのによ!」  その声に応えるが如く──最速の流星が飛翔する。  無数の触手による無数の乱舞すら、それを上回る超速へと転じることで、冗談のような機動で躱し抜け── 「──!」 「──!」  憎悪と絶叫を潜り抜け、海神の喉笛を白き魔狼がついに捕えた。  存在の構成が喰らいつかれた箇所から破綻していく。紛うことなき瀕死の姿を曝しながら、だがしかし、いやこの程度で──終わるようなら天魔などとは呼ばれていない。  地を這う女は諦めない。 「まだよ、まだ……っ」 「終われない。止まれないのよ、この程度で。こんなもので」 「大切だって、言ってくれたの! 全部忘れていたわたしさえ、彼は〈光〉《せつな》と呼んでくれたのよッ」 「……抱きしめて、くれたの」 「だから、〈二〉《 、》〈度〉《 、》も──」 「あんたみたいな、痩せさらばえた、野良犬なんかに──」 「奪われたりなんて、しないんだからァァッ!」  喉を喰らいつかれながら、なおも触手で締め上げて── 「── 」 「  !」 「── 」 「  !」  絶叫と共に、憎悪に染め上げた両眼を漲らせて、真の力を紡ぎだした。 「」 「」 「 」 「  」 「」 「」 「」 「 」 「  」 「」  全ての触手が帯のように薄く広がり、影の陰気となって滲み出る。東外流の海、その全域すら覆うべく彼女の真を顕わにした。  止めてあげる。行かせない。どうかお願い、ここにいて。  手を伸ばして引き摺り下ろす女の情。さあ今から皆横並び、手を繋いで影のように広がりましょう。  だから、いざ──奔る凶と女の念が、病んだ癇性と共に海面全域に解放される。 「──太・極──」 「随神相――神咒神威・無間黒縄」  それは事実、影だった。  海域全体を埋め尽くす足引きの渇望。如何なる隙間、僅かな間にも入り込み、獲物を捕らえて緊縛し……残らずその手で絞め殺す。  それは一瞬で東征軍総員を残らず捕縛し、散華する己が魂さえ注ぎ込んだ断末魔の一撃として発現していた。 「が、ァ────」 「止ま、って──い──」  行かせない。行かせない。行かせない。私の傍にいて頂戴。  影に圧されながらも、接触すれば脳裏に響く禍々しき女の声。  狂えるほど愛しい男に手を伸ばすような、過ぎ去った刹那を悔やむかのような呼び声は、物理的な圧力よりも先に対象の精神を破壊していく。 「足を引く──人喰いの、影ッ──」  本来なら一瞬で総軍鏖殺されていたことだろうが、先の言霊と爾子・丁禮による攻撃で、限界寸前の状態で放たれていた。  しかしそれでも脱出はできない、神威の力は甘くないのだ。徐々に絞め殺されようとしている中、どちらの命が先に尽きるかという瀬戸際の拮抗状態に陥っていた。  魔狼の牙を食い込ませながら、自らを代償にしても敗北は許さないという鉄の意志を見せている。 「絶対、負けない。負けて堪るか……たとえここでわたしが死んでも、あなた達を、必ず道連れにしてみせる……!」  切れ切れの声で、搾り出すように吐いた声に宿るのは……殺意だけではなかった。怨念ではなかった。  足を引く、行かないで。そんな渇望を現した自分からこそ、目を逸らすように叫んでいた。 「だって、でないと、わたしなんかが、彼の永遠になった意味がない……」 「こんなことしか出来ないから、他の何も知らないから……譲れない。譲れない。これだけは、譲れないのよぉぉぉ!」  絶叫と共に東征軍総ての者の身体が、首が、魂が締め上げられる。  耐えきれなくなって窒息するもの。  海に引きずり込まれるもの。  ねじ切れる寸前で事切れるもの。  総ての者が足を引かれ、冥府の底に沈む刹那―― 「あなたは、愛する殿御の足までも引きたいのですか」  凜とした声が響いた。  彼女もまた緊縛を受けている虚弱な女。他の者より辛いだろうに、そんな素振りは欠片も見せず、絶叫する奴奈比売を見つめている。  呆然としている女に対し、淡々と、だが何より力強く言葉を紡ぐ。 「想い人の力になりたい。そのお気持ちはよく分かります。ですがあなたは手を伸ばすだけで、両の足を動かさない」 「愛しい殿御に、後ろを振り返らせてしまうこと。ええ、同属嫌悪なのでしょうね。わたくしもそうだから分かるのです」 「なぜなら、あなたが禍憑きの元なのだから。皆、横並び一蓮托生……己の業で、愛する人を引き摺り下ろす」 「なんて悲しい。わたくしは、それを変えたくてこの穢土に来たのです。二度とあなたやわたくしのような、愚かな女が生まれぬように」 「その業をもって成した先など……」  血の花園か。それとも深い水底か。  どちらにしても、外界に関わることなく、愛する者と溺れ続ける世界など── 「――きっと想い人を責め苛む、檻のようなものでしかないはずだから」 「同感だ」  爾子と丁禮もまた、その言葉に同意する。ようやくその感情に答えが出たというような、切なくも苦笑する響きが漏れる。 「我々があなたを嫌っていた理由、なんとなく分かったような気がいたします、咲耶殿」 「咲耶殿。きっとあなたは、我らの母君に似ているのだ」 「 」 「 」 「……?」 「……?」  これまで一度もそんなそぶりを見せなかったが、彼らもまた鬼無里の里で自らの真実を取り戻していた。縁深き女と出会った折に、その名前から。  それでも、今の今まで、夜行の使い魔として。東征軍の仲間として、丁禮と爾子はあり続けた。それが彼らなりの、夜行と仲間への忠節だったのかも知れない。  それゆえか、咲耶には狼が笑っているように見えた。際限なく溢れ出ていた右目の血が、徐々に勢いを減じていく。 「だから、後はあなたに託そう」 「あなたが変わることが出来たなら、我らも救われるような気がする」 「 」 「 」  緊縛されている状態で、魔狼の首から上が動き出す。  拘束は解けないまま、自らそれを引き千切るようにして蠢き──  生首となってでも、奴奈比売の随神相へ喰らいついた。  喉を噛み砕き、遂にその延髄を切断する。共に逝くべく、詫びるような感情さえ見せて彼らもまた己が像を消しつつあった。  消えゆく随神相と魔狼の首。  幻のように崩れ落ちる中、爾子と丁禮の声が響いた。 「あなたの下にいた間、中々楽しくありました」 「勝利を祈ります、夜行様」  そして、巨大な狼が姿を消すと同時……奴奈比売の随神相もまた消滅した。 「……丁禮、爾子」  束縛が解かれて自由を取り戻した中、咲耶は顔を伏せた。  いつも、いつもこうだ。自分が大切に思うものほど、自分を置き去りに行ってしまう。  大切な存在であるほど、自分を連れて行ってはくれない。ずっと、一時も離れず傍にいたいと思うのに、その願いを遠ざけられてしまう。  そして何より嫌なのが、そんな自分が彼らのために出来ることが何もないという事実。  あなたの役に立ちたい……  それこそ永劫離れぬ愛であること、咲耶が彼女自身を誰かの糧にしたいと思える根源であり── 「そう……かしら?」  その想いを看破したかの如く、背後から嘲りの声が吐かれた。  振り向けば、甲板の上にて消滅寸前の奴奈比売が倒れている。  なんたる愚考だ、病んだ女め。  そんな考えだから──おまえは〈わ〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》〈と〉《 、》〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ょ〉《 、》〈う〉《 、》と、そう言わんばかりに咲耶のことを蔑んでいた。  思わず駆け寄ろうとした仕草を彼女は制する。今にも消えそうな身体で立ち上がり、皮肉気な笑みを浮かべた。  互いが鏡を覗き込んでいるような、何ともいえない錯覚と共に視線を交わして…… 「誰が何と言ったって、わたしはあなた達を認めていない。だから勝負は終わってないのよ」 「本当に変われるか、あなたがその業から逃れられるか……いいわよ、見せてもらいましょう」  言い捨てると同時、奴奈比売の身体が光の粒子に変わっていく。  末期の言葉、憎まれ口だと思ったが、その言葉は素直に咲耶の胸に届いた。  どことなく安らいだような雰囲気と共に── 「 ……」 「  」 「 ……」 「  」 「わたしが守り通した、つまらない意地を──」 「永遠にしてくれて、ありがとう」  自分のもとまで来てほしくて。  けれど、そんなことで愛した刹那を穢したくなくて。  少し遅れてしまったけれど、おめでとう。あなたの女神はあなたに似合う、とても素敵な女の子だったわ、と。  葛藤と安寧を最期に捧げて……奴奈比売はその姿を消した。  その光景がなぜか切なく、そして自分自身の未来を暗示しているかのような感覚を生んだからか、悲しみの涙が咲耶の目から溢れ出てきた。  爾子・丁禮──そして、奴奈比売。  その場に座り込みながら、彼女は消えた者らを思って涙を流す。  自分は今、何か途轍もなく大きな期待を託されたという……名状しがたい確信と共に。  そして、消え逝く者は彼女だけではない。 「あ、あぁ……駄目、嫌だ。そんなのってない」  ここにもまた、もう一人。  大切な宝石を守り抜いて、自らの魂を散らす女がいた。 「守ってほしいだなんて、私言ったことない。いつもそう、大事なところで、頼んでもいないのにこんなことしてばかりっ」 「こんなときだけ……母親みたいな、顔して……」 「 ──!」 「 ──!」  悲痛に染まった叫びを受け、死に瀕した姿で紅葉は常世の抱擁を受ける。  倒れ伏す己を見下ろしているその頬を、出来うる限り優しく撫でた。 「…… 」 「…… 」 「──嫌!」 「聞き分けのないこと言わないの……あなた、すごい消耗してるじゃない」 「あなたが死んでしまったら、誰が彼を助けるの? だから、ここで絶対死んではいけない」 「もう、泣かないの……女の涙はおいそれと見せたら駄目じゃない」 「あなたは優しくて、強い子なんだから」  優しくなかった自分にさえ、涙を流してくれる娘。  愛おしい、大切だ。失いたくないと、やっと素直に思えるからこそ──意地悪な問いをかける。 「私と彼、どっちが大事?」  そこを違えてはいけない。命を天秤にかけなさいと、厳しくも優しく口にする。 「……いつもそう、こういうときに限ってひどいことを聞いてくる」 「そうね。私はひどい女だわ。母親としてもそう」 「だからお願い、こういう時ぐらい格好つけさせてほしいのよ……負けっぱなしは悔しいから」  漏れた苦笑を噛み締めて、紅葉は微笑む。頬に触れた指先から像を解けさせながら、流れ落ちる相手の涙を優しく拭う。  逡巡したのはどれほどか。僅かな時間のあと、頷きが返される。 「……分かった」 「いい子ね」  だから、最後にその頭をゆっくりと撫でた。  魂に刻むように……ようやく大切なものを得られたとでもいうように、自分に残った宝物を労わる。  そして、ゆっくりと身体が消えていく。ただ無に落ちるのみ。  敗者は常にそうなるということを知っていて、なのにどうしてか、心は口惜しくも澄んでいた。 「 」 「 」 「私もあなたに負けないぐらい、自慢の娘を信じているわ」 「それに、今ならきっと……」  私の娘がかわいいだとか、いやいやこちらの方が利発だとか。  そんな他愛無い争いを、まるで我が事のように言い合って。  自分の〈宝物〉《むすめ》を引き合いに、母親として自慢ができたなら──  そんな勝負ができたなら──ああ、それは。  きっと何よりも── 「ふふ、ふふふふ……」 「知らなかった。私たち、揃いも揃って立派な親馬鹿だったなんて──」 「もっと早く……気づけば、よかったかな」  そうすればきっと、あの日のように、いつかのように。  自分たちは最高に、素敵な勝負ができただろうと……  夢見るように思い描いて、夜都賀波岐が天魔・紅葉はその存在を消失した。  もはや、鬼母神など何処にもいない。  最期に浮かべたその笑みは、まさしく母が子を想う慈愛に満ちた微笑だったから。 「どうやら趨勢は決したようだな」  上空での激突を生き延び、夜行は戦いの行方を語る。  彼ら二人の力は既に水平。穢土の理が崩壊しつつある母禮と今の夜行は数値化してさほど変わらず、むしろこのまま無為に時を過ごせばやがて力関係は逆転しよう。 「……それを決めるのはおまえではない」 「しかし、今の御身は実力の半分も発揮できまい。退くならば追いはせんよ」  母禮が剣を振るうも、もはや先のような威力は失せていた。  真の名を口にされた今の状態では、こうなるのが道理だ。無敵でありながら何と脆い。強大でありながら、何と儚い。彼ら天魔は、存在しない砂上の楼閣に等しいのだ。 「御身も分かっているはず。先ほどまでの力は失われている」 「ここは大人しく矛を収めることを望むが──」  その前に、どうしても彼には聞かねばならないことがあった。 「なぜ御身は私と波旬を同一視する?」  それが皆目分からないと、この男にしては至極珍しい問いを口にする。 「根拠を聞きたい。そちらにとっての仇敵であり、我らの始祖であるという〈咒〉《な》。それはよかろう、ならばどうして私と重ねる?」 「天地開闢を起こした記憶、皆目持ってはおらんのだが。ああ、そもそも──」  私の筋書きにとって、私こそが天である――そう断ずることにいやはなく、だからこそ波旬と同一視される覚えが彼にはなかった。  なぜなら、自分は〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈逆〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》と思うのだ。  かつて垣間見えた鋼の残影。己と同じく、あぶれ者たる死相の極致を見たときにそれをふと感じた。  暗闇を塗り固めたような黒の鉄虎。あの姿になぜか、強く強く感じるものがあったからこそ。  いま己が、もはや目の前の女から得られるものなど当にない。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈蝉〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》と気づき始めていて── 「まだ気付かんのか、つくづく哀れな男だな」 「壊すことばかりが巧い……」  垣間見えた感情は、嫌悪と──憐憫であったろうか。  いま彼女は、誰かと夜行を重ね合わせている。その関係性に激烈な忌避感を総身より滾らせていた。  目を逸らしたくて仕方ないと、言わんばかりに一瞥し。 「おまえとこれ以上話すつもりはない」  母禮はそのまま彗星の如く、地に向かって飛翔した。  その背を見て夜行は追わない。追い打ちもしなかった。ただ去りゆく敵手を天眼にて観察して一つの結論を下す。  アレに、もはや教えてもらうことはないだろう。 「所詮は女か」  ゆえに、つまらん。もはや不要。あてが外れたと呟いて、赤子が玩具を捨てるように母禮への興味を失った。  何かが違う、かみ合わない。己を完成させるもの──あの〈渇望〉《たましい》ではなかったらしい。  そう心中で思惟をまとめ、竜胆がいる旗艦へと帰還した。  母禮ではなかった。紅葉にも興は乗らなかった。ならば誰だ? 自分を真に完成しうる至上の蝉はどこにある?  自然と浮かび上がった鋼鉄の棺桶。その輪郭を思い返しながら、夜行は静かに含み笑った。  海から近くの船に引き上げられた俺たちは、常世の元に母禮がやってくるのを見た。  どうやらかなり薄れている感じだが……夜行の奴、なんだってこいつを放置しやがったんだ? 大方飽きたということだろうが、まあ奴らしいありがちな話ではある。  母禮が常世の直衛に入ったことで、あいつを討つ好機は失われているだろう。見れば旗艦の舳先に立っている竜胆は既に弓を仕舞っている。  またぞろ特攻されたら今度こそ終わりだ。俺らの目前にでかい花火が撃ち上がる。  だが、それよりも様子がおかしい。というより、あれは……  あれは、〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈天〉《 、》〈魔〉《 、》〈か〉《 、》? 消耗した常世の姿、ありゃまるで、親が消えて途方にくれる、どこにでもいる少女のような── 「……ねえ、私たちは間違っているの?」  常世はそう母禮に尋ねていた。その態度を前に毅然と叱咤する。 「弱気なことを言わないで。彼を愛しているんでしょう?」 「だったらそれを貫くのが女じゃない。彼は今でもこの黄昏を想っている。その心を守ることに間違いなんかあるはずがない」 「彼の維持に一番貢献してきたのは、あなた」 「胸を張りなさい。その献身を、誰にも馬鹿になんてさせないから」  愛しているから守るのだ。傍にいたことを誇りに思え。  そのようなことを口にした瞬間── 「──はあ? 何それ」  傷だらけの俺らの中から、思わぬ奴が沸点に達していた。  おまえ馬鹿か、何を酔っ払っている。自分が男の装飾品などというふざけた戯言、なぜ胸を張ってぬかすのかと── 「女がどうとか、一括りにして纏めるな」 「気持ち悪い。安い愛情見せびらかして、傷の舐めあいしてんじゃないのよ!」 「……紫織さん?」  キレている、激している。信じられないことに、紫織が船の舳先の先頭に立ち、連中に啖呵を切っていた。  それを俺は信じられない心持ちで眺めていた。だってそうだろ、こいつがマジなの始めてみた。一番感情的にならなさそうな女が、心の底から母禮のことを睨みつけているんだから。 「あんた、好きな男が煙草吸ってたら自分も煙草吸うって言うの? 馬鹿じゃない? 一緒にするな!」 「なんでも素直に頷いて、優しくされたら舞い上がるんでしょう? 気まぐれだろうと構わない、愛して愛して優しくしてって」 「悲劇ぶった女が、言いそうなことばかり」  その言葉に……母禮の目もまた細められる。  何が琴線に触れたのかはさっぱりだが、どうにもお互いこの話題は鬼門だったらしい。 「あんた、腹立つね。野放しにしてたら女の株が下がりそうだよ」 「結構、私もおまえたちに好かれようとは思わない」 「気に入らないなら追ってきなさい。そこで相手をしてあげるから」 「行きましょう」 「ええ……」  それきり、紫織に興味を示すことなく母禮と常世は撤退した。  流星のように天を裂き、火の粉を撒き散らして消えた後姿を……紫織はじっと睨みつけている。  握り拳の音が、殊更大きく響いた気がした。 「…………」 「おい、紫織……おまえ」 「うん、ごめん。なんでもないから気にしないで」 「…………」 「それより龍明さんは――」  ああ──そういやそうだよ。そっちの方が遙かに深刻なはずだった。  話題が逸れたと分かっちゃいるが、それよりも確かに、あいつらの安否が気になっている。  死ぬはずねえよと……笑い飛ばすことができねえ。  今まで感じたことのない、気味の悪い胸騒ぎがするんだ。  そして── 「あ、あぁ……母刀自殿!」  その直感は的中した。  御門龍明……摩訶不思議でなんか胡散臭くて、けれどやたら頼りになる俺らの導き手みたいだったこの女傑は、今や消えうせる寸前の姿で龍水の腕に抱かれていた。  そう、〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》だ。死んでいくって感じじゃねえ。  全身は皿か陶器のように罅割れて、その中身みたいなものが外気に触れるたび煙になって消えている。  まるで、最初から御門龍明なんてどこにも居なかったかのように。  どうしてあんたは、あいつらみたいに消えていくんだよ…… 「……騒ぐな、龍水。これでよいのだ」 「私は、私のやるべき意地を完遂した。だから……そろそろ眠らせろ」 「おまえの声は、いつも煩くてかなわん」 「──嫌です! 私の声で眠らないというのなら、龍水は喉が張り裂けようと母刀自殿をお呼びします!」 「ああああ、あぁ。いや、嫌です、行かないでくださいっ。どうか、どうか生きてください──!」 「ふ、ふふ……まだ、私が必要か?」 「やれやれ。どうやら、私の話をしなくてはいけないな。私自身が何者で、何処から来たのか――」  それさえ告げれば、諦めもつくだろうという言葉を── 「いや、いいのだ。そのようなことは」 「死に際に説法なんていらねえよ。あんたが誰でどうだのなんて、俺らは心底どうでもいい」  俺と竜胆は遮った。ああ、だってそうだろうが。 「あんたは、〈御〉《 、》〈門〉《 、》〈龍〉《 、》〈明〉《 、》だ」  俺たちには、それだけで十分なんだよ。実は隠された正体がどうだとか、実は裏でこんなことしてたぜとか、知ったことか。それがどうした。  そんな程度で今更毛嫌いするはずねえだろうが。  ほら、見ろよ。わかるだろ? どいつもこいつも、揃って情けねえ悲痛な顔とかしてるじゃん。  龍水だけじゃねえよ。咲耶、竜胆、それに俺や刑士郎。夜行や宗次郎、紫織だって皆そうだ。  だからさ、いつものように言っていいんだぜ、おまえらにそんな顔は似合わないって。  これでもう会えなくなるのが悲しいとか──殊勝にも、真面目に思ったりしてるんだから。 「ちくしょう、人が死ぬってこんなに嫌な気分なのかよ……」  痛ぇ……ただただ、そんな想いしか浮かばない。  これでもう会えなくなるとか、二度と馬鹿やってやれないなとか、色んな気分悪い考えがぐるぐると頭を駆け回っている。  このままお別れなんて御免だが、どうしても止められない。それがこんなにも痛くて、辛くて、胸をしめつけて堪らないんだ──  魂が、涙流して止まらないんだよ。 「ふふ、ふふふ……」 「そうか……そう言ってくれるのだな」  俺らが揃って情けない面していることに、龍明は薄く笑った。皆が顔を俯いているこの光景こそ──自分の生きた証だと言わんばかりに。 「ああ、やはり私は間違ってなどいなかった。きっとおまえ達なら大丈夫だ」  救われたように、自らを覗きこむ瞳へ向けて微笑する。  首を動かし、他の者たちにも声を掛けた。 「宗次郎。おまえの身体、これを逃せば程なく芯まで腐るだろう」 「勝ってみせろ、学んで来い」 「……ご心配に及ぶことはありません」 「そうだな。死にゆく者に心配される謂われは無いか」 「紫織、女として喧嘩を売ったな。いいぞ、好きなだけあれを殴り飛ばしてやるがいい」 「私が教え損ねた分もある、存分に一つ女を教授してやれ」 「……うん。男に甘えてべったりなんて」 「この嗜好品どもめ、とな」 「刑士郎。おまえは、おまえ自身を見つけるといい」 「己の〈本質〉《すがた》を捨てる者、まったく碌なものではないぞ」 「…………」 「妹を大切にな」 「咲耶。花を育てるのも結構だが、肥やしと水を与えすぎては、枯れ落ちるぞ」 「肥沃な土地も過ぎれば毒だ。程よく渇き、餓えている土壌の方が……強く美しく咲くだろう」 「……龍明様」 「おまえもまた、兄に負けず劣らず過保護だよ」 「龍水。おまえはもう少し、受けた痛みにも強くなれ」 「女は痛みにも強くなければならない。男よりもだ、そうだろう?」 「……だから、いい加減泣き止め。許婚に笑われるぞ。見せ掛けだろうと意地を張れ」 「母刀自、殿……っ」 「予期せぬ不幸や喪失になど、おまえの涙をくれてやるな」 「夜行。爾子と丁禮は?」 「逝きましたな」 「誇りに思うか?」 「記憶に留めておくほどには」  その答えに笑みをこぼして。 「そうか。ならば、おまえと波旬は別のものさ」 「期待しておけ、〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》。おまえに相応しい蝉が、蝦夷でおまえを待っている」  そして── 「烏帽子殿」 「御身は──いや」  何かを口にしようとして、苦笑しながらそれをやめた。 「年寄りどもの昔自慢、どう思おうと聞き流せ。昔日の残照に敬意を払おうと、決して、譲ってはならないものがある」 「なぜなら、今の世を決める者はそこに生きる者達だからだ」  たとえそれが、発生するのにどれほど極少の可能性であろうとも。  何か捻じれ曲がった奇怪な姿形をしていようと。 「御身が座を獲り、覇を唱えよ」 「……わかるってくれるな?」 「しかと、この胸に……っ」  あふれ出しそうな涙を堪えた竜胆に、満足そうな笑みをこぼす。  そうして一人一人に訓示を残した。そいつはあくまで自身にしかわからないことも多く、俺の話じゃないからきっと考える必要はないのだろう。  そいつの荷物は、そいつが継がないといけないんだ  今の俺ならそれが分かる。だからこそ…… 「覇吐」 「おう」  この遺言を、俺は俺の矜持にかけて胸に刻んでおくだけだ。 「烏帽子殿を頼む。彼女には、おまえのことが必要だ」 「男の矜持を見せろ。守り抜け、俺の女は最高なのだと、声高らかに謳うがいい」 「……それが主役の条件というものだ」 「ああ」  当たり前のことが、突き刺さるように俺の胸へ浸透する。  好きな女を守るってこと。いいぜ、誓おう。見事守ってやろうじゃねえか。  俺だけのためじゃなくて、竜胆のためだけじゃなくて。  今この時から、御門龍明のためにも──  あんたの魂にも、俺は誓おう。  そうして、ゆっくりと目を瞑った。  その表情は嬉しげで、目を奪われそうなほど穏やかなもの。笑みがとてつもなく綺麗だから、こんな顔ができるってことを俺は初めて知ったんだ。 「ああ……これでようやく眠れる」 「本当に長い間、旅をしてきた。だからしばし休ませてくれ」 「死は無に非ず。おまえたちが創る新しい世で──」 「──きっといつかまた会おう」  そう言って龍明は光の粒になって消えていく。  俺たちの確かな絆に包まれて、何とも言えない幻想的な光景が流れる刹那── 「 …………」 「 …………」  きっと、旧い言葉で俺たちの勝利を願うと口にして……  御門龍明っていうとびきりいい女は――ここにその生涯を終えた。 「……いいんだぞ。悲しいんなら泣けよ。誰も咎めたりはしねえよ」  龍水の隣に立ち、小さな声で言葉をかける。  涙をこらえている龍水は浮かんだ涙を裾で振り払い、毅然とした表情を俺に見せつけた。 「──バカを、言えっ」 「私は、泣かない。今の刻限を持って私が御門家当主だ。泣いてなどいられるか」 「母刀自殿はこう言ったのだ。また会えると言ったから、私はその言葉を信じている」 「だから、私は、泣かない。前を見て歩くのだ!」 「そう、か。ああそうだな……」  龍水の言うとおりだ。  俺も龍明の言葉を信じている。  きっとまたどこかで会える。そう確信する何かがあるのだ。 「その通りだ、龍水。お前の母が、偉大なる先人、御門龍明が言った言葉、私も信じている」 「竜胆様……ありがとうございます」  やるべきこと、成すべきことは刻まれた。大丈夫さ龍明、俺らはこうしてあんたの魂を抱けているから。  船の舳先が急に騒がしくなった。目的地の方角──そこを指して生き残りの兵がにわかに湧き立っている。  海の先にぽつんと見えた地の姿。まさしくそれは…… 「蝦夷が見えてきたな……」  ついに夜都賀波岐どもの拠点に辿り着いたってことだ。長かったような、短かったような、そんな気分が心を満たす。  俺たちから離れ、竜胆は大きな声を張り上げた。 「皆の者、聞け! 我らはついに彼らの拠点である蝦夷に辿り着こうとしている!」 「先の戦いで勝利した今、我らの上陸を阻む者はいない」 「我らも、多くの仲間を失った。昨日まで隣で談笑していた者。互いに兵糧を分け与えた者。借りある者、貸しある者、分け隔て無くだ」 「だが、ついに我々はここまで来たのだ! 三百年前の東征では成し得なかったこと、快挙を成し遂げている!」 「託してくれた者たちのためにも──」 「必ずこれを成し遂げ、皆で秀真に凱旋するぞ!」  竜胆の啖呵にすべての船が湧きあがる。  東征軍全体でここまで一つにまとまったことがあっただろうか。たぶん俺は、これから先ずっと語り継がれる場面に出くわしていると、実感した。  竜胆の号令と共に、すべての船から歓声が挙がる。  それから半時ほど後、船団はついに蝦夷の大地に上陸した。  代償を払い、死の痛みを抱えながらも……東征は最後の段階を迎えることになったのだ。 「いっちまったか……」  それを──散華した同胞の魂を、宿儺は鳥居に腰掛けながら異界の空にて感じていた。  奴奈比売と紅葉が逝ったこと、それに関して感じ入るものがあったとしても、いずれはこうなると思っていた。あれらは情の深い女だから、その情ゆえにこの結末へ辿り着くと予見していたから。  既に、いや遥か以前よりこの時が来ると感じていた。だからこそ、そこに今更感慨は持ち得ない。  ただ思うのは、無駄な終焉ではないということ。ああそれだけは間違いない。必ず何かを残したと、そう信じているから今は別の〈仲〉《 、》〈間〉《 、》を想う。 「あんたには、申し訳ないことをした。本来なら俺がやるべきことだったはずなのにな」  悼んでいる相手は彼女のことだ。  ある種の面で彼と彼女は共犯者、元より狙いは穢土そのものの崩壊と、その先に焦点を見据えている。  彼は主柱の裏面であり、自分自身それを誇りに思っている節がある。だからこそ、身動きが取れずにこの役割を託してしまったこと。代行してもらう形になったことに対し、並々ならぬ恩を感じていたのだった。  報いなければならない。あれはまさしくいい女だ。  やるべきことをやり遂げ、永きに渡って波旬の理に焼かれ続けた輝ける意地、その価値を分かっている僅かな者の一人として、ここで立たねば男が廃る。  黄金へ捧げた忠、確かに魅させてもらったさ。ゆえに今度は── 「俺が、あいつへの意地を通す番だ」  憎悪に紛れた真逆の本音──主柱の対極であるからこそ、その真なる祈りを形にしよう。 「愛するなら壊せか……まったくその通りだよ。同感だ」  自滅の業を宿した鬼、癌細胞たるその男は自嘲しながら呟いた。  空間に木霊するは、夜都賀波岐が主柱の慟哭。  山は揺れ、風が吹き荒び、地面が割れる。嘆きに揺れる永遠の刹那を感じながら、宿儺は噛み締めるように苦笑した。 「終わりが近いな」  だからこそ、絶対に違えてはならない。取り逃がしてはならない。  天狗道に必ず己が亀裂を刻むのだと、刹那の輝きを愛するがゆえに、彼は破壊するという役目に胸を張る。  もう何度も、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈繰〉《 、》〈り〉《 、》〈返〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》。  神の玩具は、静謐な瞳で無明の闇を見つめていた。  特別付録・人物等級項目―― 御門龍明、爾子、丁禮奥伝開放。 紅葉、奴奈比売奥伝開放。  ……東外流の海を越え、早一週間。  東征軍の大半がこの蝦夷に上陸し、それぞれが各々の役割に追われている。  これまでの激戦で潰えた兵は、約半数。  負傷したり、精神に異常を来してしまった者は、東外流以南で予備兵力として留め置いていた。  そのような温情に意味ないだろうと大半の者はそう思っていたが、心を病み、身体を壊しても、命があったのだからそれでよしとすべきだ、との言葉に全ては決まった。それが誰の言葉かは、今さら語るまでもないだろう。  まあ中院の奴は、蝦夷上陸後の本格的な橋頭堡のための労働力にすべきだと言っていたが……  その言葉を、俺は一概に否定できない。 「これで負けたら、それこそ顔向けできねえしな」  そういう戦の機微を感じ取ったからこそ、あいつはそう進言したのだろう。ああ、俺にもそこだけは分かる。  確かに、この一週間で俺たちは蝦夷に巨大な砦を作るほどになっていたが、これがいったい何の役に立つ? 鉄や板で防げるほど、生っちょろい相手じゃない。所詮あいつらには藁の小屋だ。散々思い知らされてきたはずだろう。  だからこそ負傷者引っ張り出してでも全力尽くす、ってのは戦略的に正しいけれど……違うさ、中院。もうそんな見栄が通る次元じゃねえんだよ。  龍明。 丁禮。 爾子。  そんな見掛け倒しでこれ以上、仲間失うワケにはいかねえんだ。 「まさか、あんたが逝っちまうとはな……」  感慨にふける時間が無いのは、勿論知ってる。皆、自分たちが生き残り、勝利し、この東征を成功させることだけに集中しているのもよく分かる。  だが── 「なんだろうかね、心の中に色んなものが引っかかってやがる」 「……これが、相手のことを考えるってことなのか? ならおい、結構酷なもんじゃねえかよ」  大切だから、無くしたら痛い。  こりゃなんだ。痛いんだよ。身体を万回切り刻まれた方がよっぽどマシだ。胸の奥が軋んでいるのに、手で押さえてもまるで鈍痛が止まらない。鉛を呑んだという例えそのものだ。  死ぬな、死ぬなよ、死んではならん……と俺らが死地へ赴くたびに、真剣な顔で告げていた竜胆の心が今は分かる。  自分の中に他人の欠片を住ませる代わり、他人の中に自分の欠片を住ませるんだ。軽いはずがなかった。共に生きたいということは、何が何でも失いたくないということ。  痛みと同時に、あいつの見る視点が分かって嬉しいという気持ちも確かにある。だからこそ── 「だが……もう負けねぇ。負けるわけがねぇ」  淡海を越えたときや、不和之関で苦渋を舐める前の時と、この宣言はまったく違う。  たとえ字面が同じでも、篭めた想いが、背負う荷物が、比べるのもおこがましいほどに重いんだ。  ちくしょう、未練だぜ。もっと早く、もっとはっきり悟るべきだったんだ。俺たちは仲間に、互いの力に生かされているっていうことに。  誰も皆たった一人じゃ生きれないって……そんな当たり前のことに、気づくべきだったんだ。 「そいつを最初から分かっている奴から、死んじまったと見るべきか……」  自分がこの東征で死ぬのを知っていたんだな、あんたは。  俺たちと出会う前から、もしかしたら龍水を引き取るずっと前から、あの瞬間を覚悟してきたわけだ。  尊敬するよ。今は心から、そう思う。  そして、おまえ達は抱きしめてもらえればいいって言ったな。  実際、気持ちいいもんな。憧れるのもよく分かるさ。触れてほしいし、抱きしめてほしいという気持ち、竜胆に率いられているからより強く感じるさ。  大したもんだよ、なあ先人。酔っ払いの俺たちに手を焼きながら、それぞれよくも手本であってくれた。  だから、よう。 「お前らが死んだのは、無駄じゃないって分からせなくちゃな」 「まあ、それが俺らなりの弔いってことで。勘弁してくれや」  ことさらおどけて呟く。そうでもしないと寂しい気持ちになってしまうから、無理にでも笑顔を作って空を仰いだ。 「寂しい、か……俺にこんな感情が芽生えているのも、あいつと一緒にいる時間が長いからだろうな」  思えば、この東征が始まってから早幾月ってか。  景色の変わらぬこの土地で、俺たちが過ごしてきた時間の重み。概念。得てきたもの、失ったもの。それはあいつらだけじゃなくて……  少しずつ、真っ暗闇だった俺の心に、光が差し込んでいるようで…… 「他の奴らもそうなんだろうか……」  そう考えていると、後ろに軽い稚気を感じた。  程度と言えば、試すというか苛立ちの念か。それでまあ、そういうささくれ立った感情持て余すのは当たりがついているわけで。 「んで、おまえ何してるわけよ。刑士郎」 「おまえの方こそ、ここで突っ立って何してんだ」 「どうだかな」  感傷、ってやつなんだろうな。お互いに。 「なあ、死人に報いるってどうすりゃいいんだ?」 「思えばよ、なんつうか……ほれ、前にあっただろ墓の話」 「そんでまあ、あの時は結局ここに埋まってる目印だとか、掘り返したら面倒だとか、そういう感じで流れはしたが……」 「それで、終わりか? なんかこう、ほら、あれだよ」 「〈残〉《 、》〈る〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》ってのは本当に何もねえのか? 骨とか、持ち物とか、そういうもんじゃなくて」  心が、誓いが、魂が。  そのままではなくとも、証のようなものさえ残っていてくれたらと、思ったから。 「返せない借りを、どうすればいいかわからねえと。そう言いたいのか?」 「死んだらマジで『終わり』なんだな」  そうだろ、押し付けられた荷物に文句いうことすらできやしない。  笑って愚痴ることさえ、やってやれないんだぜ? 「……どうだかな」 「逆にだ。死んでも残り続けるものがあれば……おまえどうする?」 「それこそ、俺に聞かれても困るわ」 「そういや、咲耶は大丈夫なのかよ? つうか、おまえがあいつの傍にいないなんて珍しいな」 「問題ねえからここにいるんだよ。おまえこそどうなんだ?」 「さっきの問いに関しては、俺より適任がいると知ってたろうが。問答はあっちにしろ。俺には俺の問題があるんだよ」  それは──死んでも残り続けるものか?  と、そう訊ねかけた寸前でやめる。それこそ俺には答えられないし、たぶん俺と刑士郎の間では、死んだ後の存在に対して感じるものが違っている。  龍明たちの死を悼んでいるのとは別にして、何か別のものを持て余しているというか……  それについても、俺にとってたぶん相談できそうなのは一人だけで。 「で、どうなんだよ」 「いや、まあ……なあ? 近寄りづらいというか、分かるだろ?」  龍明が死んだことで竜胆は公的な支えを失っている。けれど同時に、あいつは指導者なんだよ。  我慢して、一歩引きながら見守ることにしてる俺の葛藤、おまえ分かれよ。ここであいつの胸に甘えるとかさ。  それは流石に、男としてダサすぎだろうが。 「はあ? 馬鹿か、てめえは」 「ガラにもなく殊勝なこと考えるな、鬱陶しい。おまえはいつも通りに馬鹿のまま馬鹿なことやってろよ」 「この状況でも変わらないものがあるってこと、それはあの姫さんにとっても悪いものじゃないだろう」 「どっちにしろ、勝とうが負けようが俺らは変わる。そいつは武功で? 地位で? それとも歪みか? わからねえよ」 「変えたいとか口にしている奴に限って、変わらねえものに固執してやがるのさ」  それは、誰に向けた言葉だろうか?  分からないが、まあともかく── 「うわ、なんでおまえの方が俺より男前っぽいんだよ。マジ泣けるんですけど」 「阿呆。いつからその、戯けた勘違いしてやがる」 「はあ? おまえちょっと思い返してみろよな。自分と咲耶の関係を」 「妹の尻に、敷かれまくりの兄貴が言うなよ」 「女の手綱も、握れねえような男が言うな」  そう言いきると、さっさと砦の方へと戻ってしまった。  あいつから見れば、気まぐれ代わりに発破かけにきた程度の感覚なんだろうが…… 「なんだよ。なんだかんだで、あいつも心配してるんじゃねぇか……」  悪かったな、だからおまえもおまえで頑張れよ。  なんか自分だけの胸に抱えているってこと、見抜けないわけねえだろ。もう立派な仲間なんだぜ、俺たちは。  踏ん切りがつくよう祈ってるさ。だからこそ── 「よっしゃ、竜胆に会おう。そして、話そうじゃねえか」  俺は、俺の問題に向き合おう。  あいつを守りたいって言ったのは、最初は俺のためだったこと。それが今はまるで違うということ。変わった自分を、ちゃんと確認するために。  仲間の死にいつまでも一人打ちひしがれてないで、これがただの自己愛じゃないってことを示したいし、確かめたい。  俺は、海に一瞥をくれて砦に戻る。  明日が正真正銘、最大最後の決戦だ。だからそれぞれ、今夜は自分に正直でいよう。  きっと他の連中も、そこは同感なはずだから。 「……しかし、妙な感じというか。夜這いをこんな気分でやるようになるとはなぁ」  俺はずっと竜胆の臣なわけで、当然あいつのやっていること、その日課もよく知っている。  だから、今も時間帯はばっちりだ。夜這いをするには丁度いい。  それが何をしている時の時間帯かは、さておいてだが…… 「こいつは……難儀だな。やっぱ練習してみるか」  まさか、自分が以前からやってる行動を再開するために、練習が必要だとは思わなかった。  切っ掛けが不足しているというか、何か今一ついつものノリを出しづらいというか。そもそも、どうやって今抱えているものを上手く伝えれるかと考えてしまう。 「さて、どうするか」  まず、話したいことを話そう。俺が竜胆を大切に思っていることとか、凄く愛していることとか、今の竜胆は凄く素敵だとか…… 「……何だ、俺。全然駄目じゃん」  いつも言っている内容ばかりで、全然ここ一番の魅力がない。 「好きだ。愛してる。ぞっこん抱きしめヌキヌキポン!」 「っていうのは簡単なんだけどなぁ」  それに今夜は特別だ。  だからちゃんと真面目に……そう、真面目に伝えたいわけだよ、俺の気持ちを。 「普段から好きだ、愛してる、俺の女だ、なんて言わなきゃ良かったか?」  龍明にも言われてたなぁ、俺は考えるのは得手じゃないって。いや、他の奴にも言われてたな。はいはい、俺は考えるのが苦手ですよー。 「っとぉ、死者に悪態吐いてもしょうがねぇ。ちゃんと考えられるところは考えていこうじゃねぇか」  さてどうしたものかな。こういう時は古式ゆかしいのが正解だって話しもあるよな。  ならいっそ、和歌を送るってのはどうか…… 「あかよろし……隣は何をする人ぞ、だったけ?」  ……考えるのが得手じゃねぇのに、つうかそもそも和歌って何考えてるんだ? 「待て待て! 和歌には返歌ってのがあるんだ。俺の歌が下手だからって、竜胆が何もしないとは限らない!」  ……いや、都合の良いこと考えてるんじゃねえよ俺。竜胆が返歌で優れた歌を返したところで、それが今やるべきこととは思えないだろ。 「はぁ……だんだん空しくなってきたぞ。他に何かあるか?」  贈り物でも持って行ければきっかけにもなるだろう。町で女と遊ぶ前には、簪やら花やらで軽く挨拶しながら、酒や肴を楽しむ……ってのがあったと聞くし。  人を呼んで芸事をさせて座を盛り上げるってのもやっていた、はずだしさ。  中院の奴は宴会でも嗜んだりするんだろうが、俺にそいつらを貸し出す義理は無い。ついでに細工屋も花売りもここにはいねえ。  となると、手段は全滅。八方塞、ここに極まれりってか。 「やっぱ、俺は考えるのが苦手だな」  ならば、さっさと前に進むしかないということで。  けれどどうしたって、そこで心が変に萎縮してしまうから。 「だからか。俺がこんなに気を遣いながら、竜胆と真面目に話そうとしているのは……」  奪うためにまずは与えろ……だっけか? まったくだ。俺は、臆病になっている。  大切だから、譲れないから、失ったり拒絶されたり見放されたりするのが恐い。情けない自分を暴露して、竜胆からちょっとでも呆れられるのを忌避している。  火の温もりを知った獣は火から離れられない、か。今の俺は、まさにそれそのものじゃねえかよ。  うわ──だっせ。 「だああああああああああ……ダメダメダメダメだ!」 「何だって最近の俺は考えるのが多くなって、全然ダメになってるじゃねぇか! あーもーなんだよー!」 「もう、面倒だ。ずとんと行って、ずどんとやろう! それしかねぇ! 考えるのが面倒なんだからよ!」  腹が決まった。つうか、無理に決めた。決めたことにしておこう!  そうでなきゃ一歩も踏み出せなくなる。さすがにそこまで、俺はふぬけた男でいたくない。  自分のためにも、あいつのためにも。 「さて、竜胆の住まいは……と」  竜胆は総大将だから相当に立派な場所をあてがわれている。  まぁ、俺たちは兵士の住んでいる場所でも比較的いい場所をあてがわれているので、文句も出ないが。 「よし、もう小細工はすっぱり止めたってさっき決めたんだ。サクサク行こうじゃねぇか」  扉を叩こうと構えた、ところで──  その時、はたと気付いた。  この扉の向こうで、衣擦れの音がすることに。俺の超絶に感度のいい耳が微かな音をしっかりと聞いたのだ。  思わず生唾が飲み込まれる。  そして静かに、燃えて溢れ出す我が助平心よ。 「ま、参ったなぁ、竜胆の奴、着替え中かー。はっはっはっはっは……」 「不用心だよなー。幾ら砦の中だって、敵陣だぜーここはー。こりゃ俺が見張ってやらなくちゃいけないなー」  全然大声じゃない囁くような声で俺は言い訳をでっち上げる。  いやいや。これは我らが御大将のためであり、その安全を守るのは部下である俺の役目として当然だと思わないか?  思う、思う。さすが、覇吐! 男の中の男だねー!  俺の中でやんややんやの喝采が起こり、行動は全面的に支持された。当然だ。女を守るのは、男の仕事なのだから!  そして竜胆自身、この手で守るべき存在! よってこの監視は大切なことである。 「さて、どっから見るかなー」  小さく扉を押し込むとあっさり薄く開いた。これは好都合、とばかりに中を覗く。 「賊が入ってきたりしたら大変だからな。こうやって入り口から監視しないとねー」  そうして中を覗くと、丁度良い瞬間だったようだ。  肌着を脱ぎ始めている。肌着を脱ぎ始めている。肌着を脱ぎ始めていますよ、奥さんっ。 「まさに好機! このような場面に出くわすとは!」  と……いやいや、待て待て。  こういうことをするために俺は張り切って竜胆の所に来たんじゃないだろ。何だって俺の助平心はいつでも全開になるんだよ。 「決戦が近いからな」  そう、これ。しんみり言って扉から離れて、ふっといい笑み浮かべながらってのが正しい行動。  互いの思いをしっかり受け止め合う時間が来たのだから、だからこそこういうのは慎むべきなんだよ!  だが……ああちくしょう、しかし、しかしようッ。 「いや、待て。着替えが終わってからの方がいいだろう。今扉を叩いちまったら、竜胆も慌てるし、そういう気の利かない男にはなりたくないものだ!」  ということで、覗きを再開。  いや、だから、別に裸が見たい訳じゃないぞ。  竜胆の奴が着替えを終えるまでの間の監視なんだからさ。これこそ家来が主君を大切に思う気持ちの現れなわけですよ。  さてさて、召し物替えが終わるまでの間、じっくりと観察させてもらいましょう。身体の具合が悪いのがでているかも知れないわけだし。 「しかし、何だね。なんだかもどかしいね、こうやって見ているのは、ホント」  楽しみではあるのだが、これはこれでなかなかもどかしく、一気に思いを遂げられないというのもアレではある。 「だがじらされてるってのも悪くないんだよね、俺にとっては。俺、我慢も得意なんだよね」  そうとも。あの竜胆の下にいて随分経つ。それまでおあずけがいったいどれほどあったことか……  巌の頂に咲く花のように気高く、その場所に相応しい強さを持っている。恥らう乙女よ、ああほんといい女だねおまえさんは。 「それなのに人に優しくしたいってんだから、不思議な奴だよ、ホント」  おっと、感慨に耽ってたら随分と脱ぎ脱ぎが進んでるじゃねぇですかい。うんうん、こういうのがいいのである―― 「ん? おい……」  そこで──  俺は、なぜか── 「何だ……あれは?」  肌着を脱ぎ、肌そのものを視界に晒していた。だがそこに、猛烈な違和感を感じるのはどういうことだ?  竜胆がとびっきり極上の女だって分かる。他の女と比べるまでもなく分かる。けれど、これは──  その肌に猛烈な違和感を感じるのだ。  透き通るように美しい肌なのに、何か怪しげな、そして、恐怖のようなものを感じる。  あの肌を、竜胆の裸を見てはいけない、見れば何かが狂うぞという、強い違和感を感じて逸れてしまう。  だが同時に、愛している女の裸が見たいと必死になっているのも事実で。 「……なんだ? 何かが」  美しいのに、おぞましい。  そんなことをひとりごちてしまう。  竜胆に似合うのは美しい、だけだ。なのに視線は逸れ、緊張から口は乾き、戦慄く心が確かにある。  まるであれが、そう……  この東征において見慣れた、青褪めた死者の肌を連想させて……  その瞬間、ここが壁じゃなく扉であることを忘れていたから、身体を強く押しつけてしまったせいで。  扉が開き、まずいと思ったときには既に遅く。身体を前倒しにした俺はそのまま── 「わっ、とっ、ほっ、おおおおお……」  竜胆の前に転げ出し、ぶっ倒れたのだった。 「……何をしている、覇吐」  無間地獄もかくや、と言わんばかりの冷たい声が俺の上から浴びせられた。 「……それで?」  冷たさは何一つ変わらないまま、俺に詰問する。まさに針のむしろ。座ったことはねぇけれど、その言葉の意味を実感するには十分な感触を味わっている。相当に怖い。  これまでもふざけて殺されかけたことはあった。周囲の目もあったから殺されずに済んだことも多いと思う。  つまり……今回は死んだかも。 「覇吐」 「はい、見ました。 じゃねえ、違う。見てません」 「いやその、扉が開いてて、お前が着替えの準備をしていたからさ、ほら、不届きものが入ると危ないなあと思った俺は遠慮して見張りつつ待っていたんだよ、うん」 「それで、あんまり長いなーと思って、覗いたら足を滑らせてな――」  そう言ったところで、なぜか―― 「……そうか。見たのか」  なんだか恐れているような、悲しんでいるような。  まるで罪を暴かれて、糾弾されることに怯えているような表情をされた。 「それで、どう思った?」 「はい?」  ……どう思ったって、何をだよ? 「それって、どういう意味――」  そこまで言い切って、俺は竜胆の様子が変だと気付いた。  何だか、怖がっているような、恐れているような、悲しんでいるような、そんな雰囲気を感じ取ったのだ。  ひた隠しにした罪を暴かれるような、そんな雰囲気。  その後の糾弾を恐れるような、そんな態度。  それを感じて俺は言葉を止めてしまった。いいや違うね、だからこそ。 「……そうだなぁ、感想を聞かれているんだよな?」 「そうだ」 「うん。そうだな。すげー綺麗だった!」 「昔どっかの露店で見た白磁でできた渡来の置物があるんだが、アレに負けねえぐらい……いや、それを遙かに上回る美しさだったね! ほんと」 「それに、色っぽい髪。ぞくぞくするわ! なんつーの、おとぎ話に出てきた天女の髪っていうのは、こういうのを言うのかって感じ」 「それから身体の締まり! 驚いたね、俺は多くの女の裸を覗いてきたけど、ここまでの身体は見たこと無い!」 「いやぁ、生きていて良かったよ、俺は。この世にここまでの美があるとはなぁ!」 「俺は美とか芸術とかには疎いけどよ、美しい物を美しいっていうぐらいの感性はあるんだよ! その疎い俺から見ても、竜胆はたまらない! つうかエロい!」 「見ていて、凄まじく湧き上がるんだよ、欲情が。美しさ以外の凄まじい色気がお前にはあるんだ。それを見て思ったね、たまらないって」 「ぶっちゃけ勃つ。あと、それからさ――」 「覇吐――」 「はい?」  次の瞬間、俺の顔面を思いっきり手のひらが殴打した。  しかも、すげー威力。ぼんやりしていた俺は部屋の壁にぶつかるほどはり倒されてしまった。 「い、痛ってえっ! ひでぇな、何するんだよぅ!」 「……ぷっ」 「くくくく……はははははははははっ!」  しかもいきなり笑い出すし、何だよ? 何かおかしいこと言ってるか、俺。 「あー、あの、えーと……竜胆さん?」 「ああ、いやぁ、すまんすまん……あまりにもあまりだから、その笑いが……くくくく……ははははははははははっ!」 「まったく……もういい。 おまえが相変わらず馬鹿で、私は嬉しいよ」  まぁ、俺が馬鹿なのは異論が無いし、竜胆がそれだけ笑っているからには、それなりに良かったのかなとは思うが。  感じた怯えは綺麗さっぱり消えている。 「なあ、覇吐。今言ったことに嘘はないか?」 「私の身体は綺麗だと言ったこと。信じて、よいのだな?」 「ねぇよ」 「それは絶対だ。竜胆の裸は、天下一だよ」 「どうせ他の女子にも同じこと言うのだろう?」  おいおい、さっきまでの和気藹々とした空気は何処行ったんだよ。睨むなっての。  今更ここでこんなことを言わなくちゃいけないのは、どういうことなんだろうか。 「いや、言わねえって」 「どうして?」 「どうしてって……俺はおまえに惚れているから。何度も言ったろ」 「──本当に?」  その圧倒されるような雰囲気に俺は押し黙るしかなかった。とても寂しい、そして悲しそうな目が刺していたから。  何だろう。どうしたんだろう。やっぱり裸に原因があったのかと思うが、今はそれを確かめる時じゃないし。 「ああ」 「では……」  真剣な眼差しで互いを見つめて──  そして、立ち上がる。  そのまま僅かに沈黙し、やがて腰帯に手を添えた。  驚いている俺の前で竜胆は着物を脱ぎ捨てながら。 「それを証明して見せろ」  何かを確かめるように、ほんの少しだけ……縋るように。  確かな合意の声を、聞いたんだ。 「おおおおぉぉ……」  衣擦れの音に、はだけられた肌。  眼前の光景に、思わず感嘆の声が漏れていた。おあずけされることもない、野暮な邪魔も入らない。  おう、涙が出てくる。さらば、雌伏のときよ。覇吐はこれから男になります。  違和感? ないね、ナニそれ。間近で眺めて吹っ飛んださ。そういうことで間違いないとも。 「よし──」  そして竜胆は深呼吸を一度、我は〈武家〉《もののふ》であるとばかりに堂々と── 「〈男子〉《おのこ》の本懐、遂げさせてやる。不埒な劣情、恐るるに足らん」 「抱いてやるとも。さあ──来い、覇吐!」 「覚悟は済んださ、二言はない。如何な恥辱であろうと構わぬ。いざ存分に私の肢体を貪るがいい」  烈風のような気迫と共に、ばっちこいやと告げてくれた。 「…………はあ」 「ああ、うん。いただきます」 「いやいやいやいや、待て待て待て待て」  正直、引く。さすがは我らが御大将、益荒男ぶりが実に様になっていらっしゃるご様子で。  あらやだ、そんなに堂々とおっぴろげられたら、わたくし股間がしとどに濡れそぼってしまいますわ── 「──って、ちっげぇよ!」  違うよ、違う。絶対違う。あいや待たれい、お姫様。どう贔屓目に見てもヌキヌキポンって雰囲気じゃねえ。つうかそもそもこっちが食われる側ってどういうことだよ。 「はあああああ、何その反応ありえないじゃん!」 「何がだ、よもや怖気づいたか? 遠慮はいらん、するなら早くするがいい」 「一丁前の漢ならば、女子に恥をかかせるなよ」 「それともなんだ。日頃あれだけ偉そうに振舞いながら、まさか〈未通娘〉《おぼこ》の啖呵に怯えているのか? ……存外、意気地が無いのだな」 「えー、これが一般的な〈未通娘〉《おぼこ》の対応ってんなら、俺、女性不信に陥いるんだけど……」 「注文が多い奴だな。いちいち肝が細いことを言う」 「むしろあんたが豪胆すぎるというか、その、なんだ」  うん、〈萎〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。  視覚的には眼福なれど、愚息はしぼんだ朝顔の如し。つうか男らしすぎてときめく女心まで芽生えそうってどういうことよ?  駄目だ、いかんぞ、頑張れ俺。流されるなよ、奮い立て。  ようやく訪れた千載一遇の機会、この柔肌を気兼ねなくむしゃぶりつくすためにも、女の立場ってやつを思い知らせてやらんといかん。 「いいか竜胆、よーく、よーく聞いてくれ。これは崇高かつ高貴な大人の遊戯で、そこには厳然とした理念と規則と、そして駆け引きが存在すんのよ」 「型ってやつは重要なんだぞ。こう、雰囲気を盛り上げる雅んなやり取りってのが必須なわけで、たとえば歌を詠むように……」 「長い。世迷い事はもう少し短くしろ」 「今宵、あなたを抱くために、我は千の山を越えて参りまし──」 「聞いておらん、無理矢理決め台詞に入るな」 「じゃあどうしろってんだよ! 俺の純情弄んでどうしたいわけ、おまえはさァ!」 「誰が弄ぶか、まだるっこしい。いったい何が不服というのだ」 「だから……ああ、もうっ」  噛み合わないにも程がある。頭を掻いた俺はきっと悪くないだろう。  何でわかんないかな、わかるもんだろ普通は。惚れた相手と気持ちよく乳繰り合いたいだけ。すっげえまともなこと言ってるはずだよ、俺は。 「ええい、女々しい。閨を求めていながら、脱がさせたあげくに尻込みするな」 「わ、私に興味をなくしたのなら……そう言えばいいだろう。妙な気遣いなど、不要だ 」 「誰もそんなことは言ってねえっての」 「……ならば、その、もしや……不能にでも 」 「んにゃ、性欲むらむら。種馬上等」 「ならつべこべ言わずにさっさと抱け。組み伏せ捻じ込み吐き出せば、それで済む話だろうが!」 「ちがいますー、そんな〈雄蕊〉《おしべ》と〈雌蕊〉《めしべ》をくっつけて、はい受粉……みたいな味気ないまぐわい認めませんー」  〈鮪〉《まぐろ》抱いて腰振る趣味などないのである。  駄目だ、いかんよ、愛が足りない。万事結合で解決するなら、螺子こそ天下最強の雄だっての。  何でも捻じ込み一発貫通、しかしそいつは無粋だろう。 「睦事ってのはこう、揉んだり吸ったり舐めたりしたあげく、接吻したり耳元で囁いたりしちゃって……そういうもんだろ?」 「……知らんな。何せ私は箱入りだ」 「いやいや、そっちの作法とか教わるはずだろ。てか、そんな難しいことは言ってねえぞ」 「汗ばんだ肌合わせつつ、いちゃこらせっせのあふんあふんするからいいんだよ。そういうの、俺よりそっちが好きだろうが」 「抱かせてくれるなら全部くれ。見える身体とそれ以外、よくわからんものごっそりまとめて」 「おまえ風に言うと、そのタマシイごと抱きたいんだって」 「……なんつうか面倒くさいけど」  ややこしいことこの上ない。ああけれど、そんな女に惚れた俺が負けなのだ。ぶっ飛んでる思想は未だちんぷんかんぷんでも、何故かぐっと来るのは変わらない。  要するに、一目でぞっこん。その頓珍漢なズレっぷり、全部含めて、全部抱きたい、全部欲しい。  突っ込んで吐き出して、それでいいなら木の股にでも求愛してるさ。けれどあんたが求めているのは、たぶんそういうもんじゃないんだろ?  だからまあ、いざその時になると強がったり何だりで面倒極まりないのだが、それでもシたいんだから仕方ないというか。  鬱陶しくて、目が離せなくて、まったくそれでもいい女だ。タマシイとやらがあるのなら、きっとそいつが引きつけられているに違いない。  だから相性だって最高に違いない。異論なんざ認めてたまるか。  それだけで俺ら通じ合えてる、なんてどうかしてる言葉さえ……こうして嘯いたりできるんだから。 「…………」 「つうわけで、もっとぐっとくる感じでよろしく」 「できれば精一杯男を誘ってるんだけど、不慣れで頬を染めながらもう我慢できないの純情──抱いて、覇吐ぃ」 「みたいな趣だと、すっげぇクるんだけど」 「あー、ご返答は?」 「……おまえは、本当にどうしようもないやつだな」 「ひでぇ」  しみじみと搾り出した声は本気で、いっそ清々しいほどに一世一代のお願いをぶった切った。  けれど、声色とは正反対に雰囲気が柔らかくなる。頬が微かに赤みを帯びて、ぎこちないながらも竜胆は微笑した。 「だが、心の内を明かしてくれたことは…… その、破廉恥なりにも 嬉しい」 「思えば私の我侭に対し、 いの一番に賛同してくれたのはおまえだったわけで、以後も …… その、なんだ」 「だ、だからだな、感謝しているのだ。なのでその分は、要望を聞き入れることも吝かではない、 というか……」 「じゃあっ」 「がっつくな! ──ああ、そうだとも。おまえがおまえなりに私を理解してくれようとすることが、嬉しいとも」 「してやれることならしてやるさ。それに、そもそも」 「このような身体では、到底足りんだろうしな……」  いや、卑下することはないよ。そういうもじもじとした態度されると、今にも胸に顔埋めたくなるし。 「一晩だけだ……その間だけ、おまえの好む可憐な子女になってやる。覇吐」 「しおらしいのが……いい、のか? なら──」 「──い、いいぞ。好きに、味わって、くれ」 「──────っ!」  ……感動だ。股間が一気にいきり立つ、そうそうこれだよこうだよな!  長い道のりだった。覗きに夜這いに健康的なスケベを求め、敗れに敗れてこき使われる日々。  犬のように躾を施され、それでも粘りに粘った結果が、ついに。  喉が大きく鳴った。 「お、おう。そんじゃ、触ります、よ?」 「ああ……できるだけ、優しく頼む」  微妙に呂律が回らない。柄にも無く緊張する。  伸ばした手は震えていた。ちくしょう、どんだけ初心だよ俺。骨抜きじゃねえか、笑っちまう。 「ん……は、ぁぅ……くっ……」 「っく、いいぞ……もう少し、好きにしても……」 「……文句はっ、言わない………」  柔らかくも自己主張する弾力に指先が埋める。それだけで俺の動悸も跳ね上がった。  なんというか、妙な気分だ。このまま食いちぎるほど荒々しく押し伏せたいという欲望もあれば、踵を返して遠ざかりたくもあるような── 「ねんねかよ、俺は」  イラッときたから熱い接吻をかました。 「……っ、……んむぅっ」 「ちゅぷ、ぁ……は、む………あふ、ふぁ……」 「む、ちゅ、んぅ───っ、ぷはっ……はぁ、はぁ」 「……あー、やっちまった」  衝動に流された。初の接吻、もっとこう、いい具合に盛り上がってからしたかったのだが。 「ま、いっか」 「はぁ、ふぅ……っの、いいわけがあるか── んっ、んんっ!」 「むうっ、んんんぅ、ぅ──」  二度も三度も同じだろうと、気兼ねなく口を口で塞ぐ。  甘露甘露。湿り気滑り気いい感じ、舌を動かすだけで高まっていくお手軽前戯だ。まず接吻をねだるのは、つまりこういうことだったわけか。 「んく……はむ、ひゃ……ちゅ、ぁ」  そしてまあ、気持ちよくなって昂ぶる身体。そこですかさず、秘められた華の園へと手を伸ばす。 「──あふぅっっ! かは、っ、ぅ……」  愛液よし、ほぐれているね、もうトロトロ。摩り下ろした山芋のような、あるいは熟した柿のような。遠慮なくいじる。 「あぁぁ、お、おい……覇吐っ、しばし待て……っ」 「ひぃ、ぃっ……つっぁ、こら……だから……んぁっ」  水音がいい、最高だ。耐える表情もそそらせる。  いいねいいね、愛し合ってるこの感じ? 清く正しく美しく、明るいスケベの見本。暇な誰かが筆とるべきだ、絶対流行る。 「おい……」  おお、指が締めつけられた。  つまりあれか、竜胆も気持ちがいいと。身体は正直って本当だな。  調子を取り戻してきて、心持ちはすこぶる快適。性感も最高潮、となれば後は限界突破というわけで。 「さて、ようやくお待ちかねの本番だ。いくぜ竜胆」 「この閨という一つの宇宙で、あなたという海に溺れてみたい……なんてな、どうよ惚れたろ? 惚れたよな、な?」 「────」  顔を赤らめ、震える竜胆が見える。押し倒した体勢のまま、その瞳が〈爛〉《らん》と輝いて。 「──この、阿呆がっ!」 「おごふっ」  その瞬間、腹に一発キツイ衝撃が浸透した。  臓腑から背骨まで。そりゃもう胃液吐いちまうほどのいい拳が、本気で怒っているのを伝えてきた。 「お、う、ぁぁ……こ……な……」  いや、何考えてんのこの女。俺が吐いたらそりゃもう悲惨だろ、甘い雰囲気もへったくれもないだろうが。  つうか痛ぇ、マジ痛ぇ。  まあ逆鱗触れたってのはわかったけども、あんた手加減なしに鳩尾打つかね── 「なぜ、なぜおまえはいつもそうなのだ……! しおらしさを要求してそれか、心を汲んだと見せてそれか」 「げほ、ごほっ……おまえ、なァ!」 「……ああ、はいはいっ。俺が悪う御座いましたー、今度は何が御気に召さなかったので御座りますでしょうかーっ!」 「都合のいい女にされたことがだ。戦利に与えた身体かもしれんが、戦利品扱いにしてどうするっ」 「はああああああ?」 「あんた、えー、うっわ何そのこだわり。大目に見ようぜ」 「些細な点じゃん、終わった後で指摘しようや。せっかくいい按配だってのに、竜胆ちょっと生真面目すぎんじゃねえのー?」 「っ──ああもう、付き合い切れん」 「私が、やる」  あ、まず。  やっちまった、〈鶏冠〉《とさか》に来てる。腰に回された両足が、万力のように俺の身体を引き寄せ始めた。  手が逸物に添えられて……おおう、気持ちいい。じゃなくて。 「えっと……竜胆、さん?」 「知らん、聞かん、承らん」 「いいから突っ込め、やれ捻じ込め、動いて出して終わらせろ!」 「腹が立ったぞ、かつてないほど苛々した……こうまで上げておきながら、何だそれは」 「意味不明の概念持ち出して、ここでも落とすか。なあ、どうしてくれる」 「いやそれ、そっくりそのまま俺の台詞」 「黙れ」 「はい」  駄目だ、目が座ってる。肌は密着していくけども、空気はどんどん冷えていく。  恥じているのか、拗ねているのか、頬は変わらず赤らんでいた。 「おまえなど、動く張形で十分だ。覆いかぶさって腰でも振ってろ、一人で欲に浸ればいい」 「だから私も、好きにやらせてもらう……」 「へ? ──って、ちょ」 「っ──くぁ、ぁ」  そうして──呆気なく、俺の息子が埋まりましたとさ。  情緒、風情、趣、雅、何それ知らない。釘を打ち付けたかのような、それは強引極まりない交合で── 「おい、なにやってんだこのバカっ」 「こちらの台詞だド阿呆。私を使って自慰に耽ったそっちが悪い」 「いいから……っく、さっさと溺れるがいい!」 「おいおい、どこが自慰だよ繋がってんじゃん」 「ふん、どうだかな」 「おまえは、どうせまたぞろ、くだらん独りよがりに耽って……」 「勝手に喘がせて、勝手に満足するな。私の都合など遠慮なし、にっ」 「うぉ、ぉ……おおう……」  何だこれ? 声が漏れる。  抜き差しの往復運動が、頭白熱するほどに気持ちいい。  極上を通り越して、もはや禁忌だ。粘膜は快楽の鑢で、愛液は強酸に等しい。竜胆の腰が動くたび、俺の中の何かが破壊されていくようにさえ感じるのはどういうことか。  交わる心地は暴力的だ。砕けろとばかりに、情交の悦楽を流し込んで来やがる。  雌の媚肉は魔性を孕む、ぶっ壊れるまで心地がいいなら……なるほど道理だ。嵌まる雄が後を絶たないのも、それはそれで頷ける。  だが、それとも──  運命的というか、俺にとって〈竜〉《 、》〈胆〉《 、》〈が〉《 、》〈特〉《 、》〈別〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》こそこんなにも脳の中身を痺れさせるというのなら、それは。 「はっ、っ、どうだ覇吐……女子の尻に敷かれた感想は」 「傾奇者が、聞いて呆れるものだ……な、んっ、搾り取って、くれるわ」  あ、いかんね。これは流石の俺もカチンと来たわ。 「は、ぜーんぜん。気持ちよくなんてねーし?」 「我慢は身体に毒だぞ、この……早漏っ」 「このやろ、吼えたな箱入り」 「古今東西、女組み敷くのは男の役目なんだよ。西も東もそいつは同じ、変わんねえことだ──ろっ」 「──んくぅ、っぁ、ぁああ」  ちくしょう、竜胆名器すぎ。艶の出てきた声もいい、しかし負けるか、んなもん矜持が許さねえ。  にやりと笑って、腰の動きを速める。理性を削るために、正気をなくしていくのか。俺とおまえの勝負といこうや。 「ど、うよ……じれったいのは、こっちもだって、の」 「いくぜ、反撃開始だ」 「嫁にしてやる、女にしてやる、あんたはもう……俺のもんだ」 「んなっ──く、寝ぼけたことを、抜かすな」 「私は、誰のものでもない。おまえの方こそ、が……っ、あぁ」 「その捻じれた性根を……必ず」 「あ、はぅ……矯正、してくれる……」  一際大きく突きこむ。互いに相手へのめり込みながら、なおも凛々しく竜胆は告げた。 「──魂を、懸けて」 「は──はは」  ああ、たまんねえなァおい。  渡さない──応とも、渡してなるものか。  この女だけは、この例えようもなく俺を惹きつける女だけは。 「は、は、は──ぁ、っひ、ぅ……や、く」 「ひゅぃ、んっ……あっ、ああっ、あっ……んぁぁ」 「っく……は、ぁ、覇吐、っ……そろそろ、限界ではない、のか?」 「ナマ言え……そっち、こそ……っ」 「んなうわずった声でっ、いいからとっとと──正直に、なれって」 「だから、正直に……おまえが阿呆と、 ぁあ」 「お、おわ──それ、やば」  つまり、そういうことだ。最高の相性とはこういうことで、要するに相手を負かせない。  打てば響く鐘のように、与えた快楽が返ってくる。  なんせ寸分違わず快楽を共有できるもんだから。そりゃあどちらか一方を屈服させるなど、夢のまた夢なわけであって── 「んぁ、ぁ────っぁぁぁぁあああああああ!」 「む、無念……不覚──んんん、ぅっ」  ……結局、こうなるわけなのであった。  快楽浸けとか溺れさせるとかできるはずもなく、射精と絶頂はやはりまったく同時に訪れた。 「ぅお、い──もっと、ぜぇ、なんつか、ぜぇ……色気の、ある、ぜぇ……」 「あーーーーー……なんか、もういいや」  火照る肌へと倒れこむ。口を開くのさえ、マジ億劫。  つうか、疲れた。ありえねえよ、〈段平〉《だんぴら》振り回してるほうがよっぽど楽じゃなかろうか。  背骨に酒を流し込まれたかのようだ。こっちの口も誑しが過ぎんぞ、てのは下世話な話か。 「やみつきになるな、こいつは……」 「こ、このスケベは……やはり握り潰してやろうか」 「だってこれ、なぁ?」  ちょいとまずいぐらいだ。人生観に響くぜ、これは。頻繁にやれるようなもんじゃない。  年に一度の大行事、祭囃子の中であっても十分通じる。それだけに。 「……こりゃあ、次にスるのは祝いの席だな」  めでたい時にこそ、再びめでたくまぐわろう。それが何を意味するか、こいつはわからぬ大将ではない。 「馬鹿者、ふしだらな願掛けなど許さんぞ……だが」 「しかし、そうだな。負けられん」 「お家のためにか? 都のためにか? それとも、やっぱ俺らを死なせたくないから?」 「いや、もう少し違うと思う」  首を振り、ふいに竜胆は唇を噛んだ。 「ここだけの話になるが……私は、奴らに眩しさのようなものを感じていた」 「あれらは残らず影である。そう知っているし、実感もしてきた」 「……だが何故だろうな。奴らはふいに、時折絆に似たものを覗かせていた気がする」 「個ではなく、群としてそれぞれが持つ概念。互いを慮り、寄り添い合うという理……」 「あいつらのそれと、あんたの理想が重なったって?」  そいつはなんともおかしな話だ。俺や凶月ならいざ知らず、歪みを持たぬ竜胆が共感を覚えるなどと。 「だからかもしれん。私は、奴らが〈悲〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》」 「憎いわけでもないが、認めてもいない。ただ、そう……」  毒を飲むような、痛惜の表情で。 「あの想いは、きっと破滅に向かっている」 「遂げた先に光が無いのだ。なぜなら、もう、あれらは終わってしまった者たちだから」 「今の世は、今を生きる私たちが責を負うべきものだろう」  秘めに秘め、溜めに溜め続けてきた忸怩たる心情を吐き出した。 「だから、あんたは常世を獲るのか」 「ああ……もはや泣かずともよいように」  かつて海に生きる鰐たちがいた。しかし世は湖となり、そこに生きているのは〈鯉〉《おれ》たちだ。  この時代をどう受け取って、どう生きるか、その道を決定するのは旧世代の法理じゃない。でなくば、自分たちが存在する意味などないではないか。  魂を持つ人として、何の信義も持たず踊っている白雉の群れではないのだから。  〈化外〉《やつら》の無念も悲しみも抱きしめて、これから先の未来を見据えながら前に歩く。それが自分たちの責であり矜持だろう。  ……とまあ、竜胆は言いたいのか。  ならば、当然その信条にもう一体引っかかるのは──  この穢土を留め続けるあの蛇に他ならないから。 「それなら、俺は夜刀を獲るぜ」 「なんせ化外の大将だ。将のそっ首引き下げりゃ、武勲としちゃあ一等だろう。無茶も道理も残らず通る」 「何より、久雅の姫が手に入るし? おお、そいつはいいな。東征終わった暁には、俺ら晴れて〈夫婦〉《めおと》だぜ!」  ただ、その本心を口にするのは野暮ってもんだろう。  なんせ俺様いい男、こういう細かな気配りがモテる秘訣なのである。なんてな。 「…………はは」 「そうだな、一考しておくとしよう。生き残ることができたのならば」 「え? は、へ……マジ?」 「さあな。全ては、結果を出してからだ。言っただろう、生き残ることができたのならばと」  ふいに、伏せた瞳に儚さがよぎる。  感傷的な様は日差しに溶ける淡雪のようで。決意とは言い表せない、どこか不可思議な、複雑に絡み合った思慮。  竜胆自身もわからない感情は、ならば俺に推し量れるはずもない。  わかるのは、そう、只一つ。  これからこいつが口にする、背筋を震わす鬨の声だけ。 「──魅せるぞ、覇吐」 「任せな、釘付けてやる」 「──っ、げふっ、げふっ!」  咳が漏れ、同時に喉が灼ける。  嫌な音が耳の中に響き、耳朶から……いや、鼓膜ごと溶かされていくような錯覚に陥る。  熱いものが口から止め処なく溢れた。 「ぐふぅっ……っ、はぁ!」  血だ。  指の隙間から漏れ出し、肺の腑から塊となって噴き出している。  それだけでは留まらない。  胃の腑がひっくり返り、食道から飛び出さんばかりの反応に耐えきれず、宗次郎はしゃがみ込んだ。  腹に入れたはずの、水同然とも言える粥を赤に染めながら吐き出していた。  止まらない。止まらない。止まらない──胃の腑が跳ね上がるのが止まらない。まるで別の生き物、いや飛び跳ねる蟇でも入っているかのように、胸中の内部からせり上がってくる。  ああ、ここ最近はずっとそうだ。  自分の身体を破壊せしめた夜都賀波岐が一柱・悪路。それがもたらした腐毒が身体を蝕み、そしてそれは限界に達しつつあった。  宗次郎の身体は徐々に生きながら腐っている。身体の表面には大きく出ていなかったものの、夜都賀波岐の本拠地である蝦夷に着いてから、加速度的に症状が酷くなっていた。  もうすぐだ、もうすぐあれを斬り殺せる。  だからそれまでもってくれ。それさえ叶えば── 「──何も、いらない」  奴のことを思い浮かべると、身体中に怒気がみなぎっていく。その怒気だけが宗次郎の身体を動かす原動力となっていた。  命が削られていくことを実感する一方で削られていけばいくほど、自分の剣が究極の形になっていくのを実感しているからか。 「やだなぁ、つい笑みが漏れてしまう」 「壊れかけているというのに……」  何もかも斬る。それだけを望んでここまで来た。  特に自分の身体をここまで汚染した怨敵に対し、恋慕とも言える強い執着が剣を更なる高みへと上らせている。  斬れる。真に何もかもを切り捨てられるほどに高まっている。絶世に駆け上らんとしている自覚、見る者が見れば今の宗次郎は羽化寸前の蛹に見えるかもしれない。 「もうすぐ……あれを斬ることができる」 「いいですよ、僕にあれを斬らせて下さい。殺させて下さい。他には何もいりはしない」 「それが叶えばこの命、この身体、全て捨てても構わない」 「僕の剣は──」 「木偶の剣などではないのだから」  何処にいるとも分からない何かに、そう告げた。  それが誰に宛てた言葉なのか、宗次郎は意味を見いだしていない。ただ気づけば自然と、望むことを口にしていただけだった。 「なんでしょうね……やっぱりこれは恋、ですかね。ええ、いいでしょうとも。僕には実際の色恋は似合いません」 「焦がれるのなら、やはり、こういうのがいい」  徐々にその顔には、狂気の笑みが貼り付いていく。狂乱していく思想は、求道者として自己の内海しか見ていない。  それゆえか。繰り替えし、演舞をし直そうと剣を構えるそのときまで──背後に誰かが立っているのに気付かなかったのは。 「――っ」  抜き放ち──刹那、宗次郎は驚愕する。  指に力が入らず、すり抜けていく柄に、流れていく刃の無様さ。  嘔吐を繰り返した挙げ句の抜刀は、咄嗟のこともあり握り込みが甘かった。鞘から抜けこそすれ、背後の相手を斬ることなど出来るはずもないから──  剣は、相手の手で易々と受け止められていた。  その小さな反動でさえ、剣は手からこぼれ落ちる。音を立てた刀は地に伏し、相手の目の前へ転がった。  玖錠紫織の足元へと。 「紫織さん、驚かさないで下さいよ」  情けない、そう言いきるのが精一杯だった。  この様は何なのか。もし彼女がその気なら、宗次郎の顔面は今頃果実の如く粉砕されて頭蓋と脳漿を飛び散らせている。  取り繕うこともできないほど、みっともない失態。渇いた笑いが自然に口から漏れ出てしまう。  ああ、何が高まっているだ。何が斬れるだ。これほど最低で無様な剣があるだろうか。 「失礼しました。笑っている場合ではありませんでしたね」 「いや、いいよ」  拾い差し出された刀を受け取り、鞘に収めた。 「少し気合いを入れすぎたのかも知れませんね。さっきまでずっと気を高めながら形の練習をしていたのです」 「うん。そうだってのはすぐに分かったよ」 「やはり身体が着いてこないのでしょうね、今のような無様な姿を見せてしまって」 「ああ、紫織さんも気を高めにやってきたのでしょう。ここはなかなかいい場所ですよ。彼らの拠点が近い割には、静かで、落ち着く」  紫織は何も言わなかった。それは、恐らく同情なのかもしれない。  だとすれば、これ以上話すのは己の恥だ。自分の剣で雄弁に語っていること、その全てが偽りや思い上がりに過ぎないと先ほど自身が証明してしまっただけに。 「僕は場所を移しますので、後はどうぞご自由に」 「使わないなら使わないでもいいですが、僕はもう少し鍛錬していたいので――」  高まりきったのに剣は滑り落ちた、そんな無様なことがあっていいはずがない。  だから、紫織に背を向けて歩き出す。  誰に見られたくもないこと、という言葉に変わりはないが、それでも誰に衰えた己を見られたくないかというと──それはまさしく、この女性に他ならなかったはずだから。 「さっきの剣、凄かったね」  だから── 「今、何と言いましたか?」  その在り得ざる感想が、宗次郎の足を止めた。  何でもないよ、行ってくれ――そう紫織が言うことに賭けて。  そうすればの戯言を聞き流すことができると、そう思っていたのに。 「あんたの剣は凄かった。そう言ったんだよ」  なぜこの人は、自分に恥を掻かせようというのだろうか? 「凄かった? 笑えない冗談です。あんな無様な剣の、いったいどこが? どのように?」 「馬鹿にしないでほしいのですが」 「冗談じゃないし、馬鹿にもしてない」 「……まずは、ちゃんと私の目を見てくれるといいんだけど」  振り向けば、紫織の目は真剣だった。全然笑っていないどころか、むしろそれは本気で── 「……驚きましたよ。そんな目をするのは、久しぶりですよね」 「僕は少し、あなたのことを勘違いしていたかも知れない」 「まぁ、ね。私だって、こんな目をするのは相手を認めた時だけだよ」 「無駄がなかった。寒気がした。さっきのあれは本当に、斬るためだけの剣だった」 「余分なものの一切ない……」 「…………」 「納得してないね」 「そうですか。では、いったい何処が凄かったのです?」  嘘を言っていないこと、ああ確かにそれは理解できた。  であれば先の一振りが何を以って、彼女を感心たらしめたのか。その理由が宗次郎は知りたかった。 「……おかしなことを言わないでください。そうは言っても、しかし実際、何も斬れてはいないでしょう」 「うん。でも、そうじゃないでしょ、あんたの剣は」 「そういう上っ面を問うためのものなの?」 「確かに、今は斬られてない。でも、あんたは斬ったんだよ」 「そういう言葉で僕を煙に巻こうというのでしたら行ってください。僕はまだ鍛錬が必要なんです」 「ごめんごめん。煙に巻きたいんじゃないよ」 「私は私なりに、あんたの剣をやっと理解できたということを言いたいんだ」 「僕の、剣……?」  未だ煙に巻かれたような言葉に困惑するが、紫織はそれさえ含めて納得しながら話を続ける。 「あんた、私の家に居候してた時のこと、覚えている?」  もう随分前のことになる。御前試合の後のこと。  本格的に東征が始まる準備期間に、寝床を提供してくれた時間。  宗次郎は水垢離をしている紫織に出くわした。  それ以上は思い出したくないし、今の身体に障り過ぎる。女性に免疫が無いというのを本当に思い知ったから。 「……あまり思い出したくないですね」 「あはは……そっちの方じゃなくて。あんたが言っていた奴」 「壬生総次郎の歪みって奴よ」 「ああ、そっちですか」  自分の本質が分からない。どういう効力を発揮しているのか、静謐過ぎて判然つかない。  などと告白した、あのやり取りか。 「あんたは言っていたわよね、自分と剣を交えた奴は必ず死ぬ」 「ええ。でもその神通力も、この東征に来てから全然みたいです」 「いえ、あの御前試合からですかね。事実、未だ誰も死んでいない」 「うん。でも、私、その理屈が分かったような気がする」 「え……?」  それは、つまり── 「死んだんでしょ、みんな」 「はい」 「間違いなく」 「ええ。間違いなく」 「剣で死んだんじゃないのも含めて」 「そうですよ。確かめるまでもなく、死にました」 「色々な死に方ですが、僕が真剣を振るってからは斬られて死ぬ人の方が多かったですね」  ゆえに剣鬼と恐れられた。ゆえに冷泉の配下として御前試合に参加した。ゆえに東征で力を使い、そして今は死に至りつつある。  なんだそれは、まさか彼女は──  壬生宗次郎と剣を交えたからこそ、明日全滅するとでも言いたいのだろうか……? 「……うん。何となくだけど、やっぱり私の考え通りだね」  ならばなぜ、そのような答えに至りながら彼女は笑いかけているのだろうか。仮にこの想像が違うのなら、いったい何を感じ取ったか。分からない。 「あまりにも謎めいた問答のような言葉ばかりで、正直僕は困惑しています。紫織さんが僕をたばかっているような気がしてなりません」 「そうだろうね。喋っている私だって、詐術みたいなことをしてるって思ってるんだからさ」 「面白いですね、紫織さん。自分でも分かってないことを話すなんて……」 「うん。でも、ここに来て、そして、あんたをずっと見てたから分かったのかも知れないんだよね」 「たぶんね。いいや、きっとそう──私はあんたに斬られてる。神楽のときからずっとそう」 「だからね、きっと私は死んでしまう。今、それを確信したの」  屈託のない笑顔で、紫織は宗次郎を見ていた。  こんな剣呑なことを笑顔で言う人がいるのか、と驚かされるが。同時に宗次郎は、その言い分を否定しようとしていた。  その否定が自分の剣の否定になると分かっているにも関わらず、それはあり得ないと首を振る。  だってそうだ。それではやはり、明日になれば……  この女が必ず■■と、認めてしまうことになるから。 「待って下さい。僕があの場で振るった剣は、あの場にいた全員に向けられていた剣です。狙ったのは紫織さんばかりじゃない」 「刑士郎さんも、覇吐さんも、龍水さんも、等しく僕の剣は狙っていた」 「それをどう考えるのですか。もし、紫織さんが死ぬなら、あの人たちも死ぬはずだ」  どうしたことだろう。熱まで込めて、この愚かな考えを捨てて欲しいと思っているのは。  単に彼女の推測が間違いだから? いいや違う、それだけではないはずなのに自分はそれを認めたくない。認めることを死より何より恐れている。このやり取りに全てが瓦解する危険性を感じていた。  紫織が、彼女が特別なのでは断じてないのだ。自身にとって特殊な意味合いを持つということなどありはしない。ただ、明日負けられると困るだけ。  約束は果たさねばならないだろうと、そう言いたいだけなのだ。 「それは、あんたがまず自分の剣を振ったから」 「んー、なんて言ったらいいのかな……じゃあもしさ、宗次郎があの時に剣を振ったりしなかったら?」 「あの場で何もせずじっとしてたら。そしたら、もともと神楽ではどうなっていたのか、分かる?」  言われ思い出す。あの時、互いに自己愛をぶつけ合った日のことを。互いに切り結び、その技量に驚かされ、本気になった時間のことを。  結局は邪魔され、最後まで果たすことはなかったけれど。あくまで自然な流れで考えたら── 「──僕と紫織さんが、まず真っ先に戦うはずだったと?」  そして実際、剣を抜いていの一番に刃を本格的に交えたのは、間違いなく。 「そういうこと。私の言ってることは、たぶん間違ってない」 「玖錠紫織はあんたの剣で死ぬんだよ。だって、一番深く狙われてるんだから」 「それがもしかして、さっきから拘っている理由ですか?」 「そうだよ」 「他に、何か、あるんじゃないですか」 「ある、って言えば宗次郎も納得する? しないよね? それに私、多分、覇吐の次ぐらいに考えるのが苦手だと思わない?」 「……はぁ」  ──なぜかその瞬間、宗次郎の中で張り詰めていたものが凪いだ。  無様な剣を運命のように見つめていた女性が、単に自分の中の思い込みを話していた。これは単にそれだけのことだと感じた途端、彼は小さく安堵したのだ。  その感情が何なのか、何に起因したものかは分からない。  ただ一つだけ言えるだろう。宗次郎はますます、女性というのが分からなくなってしまったということ。 「もう、いいです。分かりました。真面目に取りあった僕が愚かでしたね」 「いやいや。そういうことじゃないけどね」 「でも、良かったよ。あんた、やっと先を見てくれるようになったみたい」 「え……僕が、ですか?」 「刀を鏡に顔色ぐらい見てみなって。蝦夷に着いてからの宗次郎ってば、何かすっごい尖っててさ、ヤバそうな感じはしてたんだけど」 「そうだね、切れ味はいいけれど、極薄の剃刀って感じ」 「確かに地力は上がったみたいなんだけど、何だか良くなかったんだよね」 「はぁ。それは、どういう意味ですか?」  困惑するその顔を見て、笑っていた紫織が不機嫌になってくる。 「天魔を斃して終わりとか、そんなふうに思っているところ」 「そんなの、あんたらしくないじゃない」  確かに、それはそうだが。 「要するに、順序で言えば私のほうが遥かに先約なんだから」 「その決着を残したままここで燃え尽きてもいいなんて、そんな中途半端は許さない、ってこと」 「そんなに僕と戦いたいんですか? だって、紫織さんが思っている通りなら何もなくとも死にますよ?」 「あー、そうだねぇ。一年なっちゃうかもねー。だけど、そうしないと締りが悪いんだもの」 「何か気持ち悪いでしょ。後ろにべとぉって残っちゃってる感じ」 「そんなに殺されたいんですか?」 「それはあんた次第ってことでしょう」  口に出して斬られるとか、死ぬとか言っているのに、何故か完全な上から目線で紫織は宗次郎に全責任をおっ被せてしまう。  余りの言葉に鼻白みながら宗次郎は肩をすくめる。 「相変わらず、言ってることがよく分かりませんね」  ますます、女性に対してどう接していいのか分からなくなってしまう。 「まあ、私なりの拘りって言うか、夢なんだけど……」 「はぁ……夢、ですか?」 「まぁ、ね……うーん」  要領を得ない会話が続きすぎていたが、その極めつけが夢、という言葉なら、ますます困惑するしかないだろう。  夢、夢──確かそれに該当した言葉を、どこかで聞かされたような気がしたが。  真の自分を映らせたいと、そう告げたのは誰だったか? 「ねえ、ものは相談なんだけど――」  剣士としての、そして男として、全ての第六感が危険であることを伝えた。 「嫌な……予感がしますね」  口にさえ出してしまう。  そうすれば、黙って引き下がるかと思ったのだが。  しかし、紫織はにこやかにそれを受け流して話を続けた。  滲み出る艶っぽさ、背筋に走る悪寒に逃げられないと一瞬にして悟った。  最悪だろう。逃げれば良かった。逃げた方が恥を掻かずに済むし、これ以上よく分からない話にも付き合わなくていいし、自分の都合だけ考えたらきっとそうするべきだったと心底思ったのに。 「今から一勝負してみない?」 「勝負?」  その言い様に何か途方もない不吉を覚えて後退さる宗次郎に、紫織は猫のようなしなやかさでにじり寄ってくる。 「そう、勝負」  何の、と言うのは愚問だった。いくら宗次郎でも、今この場を満たしている空気の特異さくらいは感じ取れる。  背に木が当たって後退を封じられた宗次郎に、紫織は艶然と苦笑しながら。 「さっきあんたが血ぃ吐いてて良かったかも。また鼻血噴かれても困っちゃうし」 「流石に今は、もう出ないでしょ」  つまり、鼻血が出るようなことをする気なのか。間違いなく顔面を殴るという意味ではないだろう。 「ああ、でも別のもんは出るよね?」 「紫織さん……!」 「ふざけているならそこまでにしましょう。笑えないし、不愉快です」 「迷惑かな?」 「迷惑ですね」  具体的には口にしない。言いたくないし、言えるような状況でもなかった。 「別に女を知ったら剣が鈍るなんて法はないと思うんだけど」 「知れば強くなるという法もないでしょう」 「つまり、無駄なことって言いたいの?」 「そうですね」  この期に及んで、意味が無いことをやる道理がない。もとよりそういう無駄を削ぎ落としてきた身なのだから、議論の余地は端からなかった。  紫織は無駄を好むのかもしれないし、あるいは彼女にとって無駄ではないのかもしれないが。 「僕があなたの都合を斟酌する理由は、ない」 「私の都合ねえ……」 「いや単に、いつ死んじゃうかも分かんないから男は知っておきたいなあ、とか」 「あれ、これってなんか覇吐みたい?」 「適当なことばかり言うあたりは、そうですね」 「適当でもないんだけど、まあいいや」 「じゃあ、あんたの理屈で言っちゃうと、私もあんたの都合を斟酌してやる理由はないよ」 「………っ!」  瞬間、一瞬の隙をついて紫織に両腕を押さえられた。 「にっひっひ、捕まえたぁ」 「……あのですね」  いくら体調が怪しかったからといって、こうも易々押さえ込まれたのは不覚だった。もぎ離してやりたいが、女のように取り乱して抗うのも抵抗があった。そもそも、業腹なことに腕力は紫織のほうが強いのだし。 「分かりました。好きにすればいいでしょう。別にあなたと通じたから弱くなるというわけでもなし」 「ここで抵抗を続けて体力を消耗するのも馬鹿らしい。不本意ですが、不覚をとった自分の不明だと割り切ります」  と、なげやりにため息をついた宗次郎に。 「うわー、ほんと可愛くないな、キミは」  呆れ果てたと言わんばかりに、紫織は宙を仰いでいた。 「じゃあ、やめてください。そのほうが助かります」 「いや、やめないけどね。なんか私、腹立ってきたし」 「まあ、なんていうか、私は今、あんたのことを犯しときたい。そうしたい理由が私なりにあるんだよね。分かんなくてもいいけども」 「だけど、そんな態度じゃ萎えちゃうな。だからちょっと意地悪するよ」  何を、と訝しむ宗次郎に、紫織はすっと真顔に戻って、短く言った。 「あんたはそんなんだから、木偶の剣だなんて言われるんだよ」 「―――――」  それは、忘れることの出来ない台詞。宗次郎にとって、もっとも屈辱を覚えた瞬間の記憶だった。 「芯がない。軽い。だから未だに自分のことすら分からない」 「自覚が無いほうが純度が高いって見方もあるけど、あんたはきっと逆だと思うよ。自分を知ったほうがいい」 「それと、これと、いったい何の関係が……」 「さあ? ないかもしれないけど、いま私に主導権握られてるのはそういうことなんじゃないの?」 「僕に、この場を制せないのは、あなたのほうが今を強く思っているからと?」 「そういうこと。そんなんで大丈夫?」 「明日、勝てる?」 「そんなこと……」  まったく次元の違う話だろうと言いたかったが、それで現状が覆るわけでもない。事実として今、宗次郎は、紫織に圧倒されている。  それが腹立たしくないと言えば嘘であり…… 「だからね、勝負。験かつぎ」 「そんなやる気のない顔してないで、もちょっと必死になってみようよ」 「戦を前に、生意気な女一人くらいひーひー言わしてやるぜ、みたいな」 「あなたは、意味が分からない……」  挑発なら憎らしく続ければいいものを、なぜそんなこちらを立てるようなことを言う。女性は昔から分からないが、この相手は輪をかけて分からない。  要は叱咤激励で、追々戦いたいから死ぬんじゃないぞ、気合を入れろということだろうし、言ってしまえば紫織の都合のお仕着せだ。一から十までそうしたノリなら、一顧だにせず跳ね除けただろう。  しかし同時に、確かにこのままでは駄目かもしれないという気にもさせられる。そのことが、なんとも言えず不快なような、笑えるような……  結局のところ、これも勝負かという結論に落ち着くしかなく。  ふと宗次郎は、自分が他人に対してある感情を持っているということを、生まれて初めて自覚した。 「どうも紫織さん、僕はあなたが目障りなようです」 「あなたが僕の前で笑っていると、腹が立つ」  自分は●●●なのだから、それに触れて余裕を見せるこの女は許しがたい。思い知らせたい。  でなくば自分は●●●足りえぬ。 「うん、じゃあそれでいいよ。ぶっちゃけこっちも同感だし」 「是非私をひーひー言わせて。私も……」  言いながら、紫織は宗次郎の前にしゃがみこんで…… 「あんたのこと、いじめるから」  袴を脱がすと、曰く勝負とやらを開始した。 「よいしょ、っと」 「おお、すご。我ながらちゃんと挟めるもんだ」 「てゆうか、ぱんぱんだねこれ……顔なんて映りこみそうだし、漆でも塗ってんじゃないのかな。どうなの?」 「いえ、どうと言われましても」  しばらく前から自分がそのようになっていたのは分かっていたが、改めて指摘されると堪らないものがある。宗次郎は疼く鼻を押さえて目線を逸らした。  扇情的と言うより、今の紫織は淫らに過ぎる。胸で男の逸物を挟むなど、もはや痴女の所業ではないだろうか。 「あれー? おっかしいなぁ、男はこういうの大好物なんじゃなかったっけ? やれ挟め、それ咥えろ、さあしゃぶれー、的な」 「違います。かなり偏ってますよ、それ」 「うりうり、ぱふぱふ」 「いや……聞きましょうよ」  つきたての餅にこねくり回されるような快楽が、宗次郎の股間から背骨を駆け抜ける。 「こっちと違って、まだなんか態度冷やいね。やる気出すんじゃなかったの?」 「それともやっぱり、宗次郎的に私っておいしそうじゃないとか? 稚児や熟女が好みだったり?」 「それともまさか、その、衆道に傾倒していたりとか──」 「どれも全部違いますっ!」 「だったらまだ緊張してるの? あー、そいつはちょいと情けないかも」 「この〈初心〉《うぶ》、童貞、短小──ではないか、ごめんね。親父に似ず中々のものでございます」 「覇吐さんですか、あなたは。ていうか拝まないでください。そっちに語り掛けないで下さい」 「だいたい、比較できるほど他を見てきたんですか?」 「あれ、気になる? 気になるぅ?」 「別に、単に素朴な疑問です。こういうのは、男同士こそ分からない」 「あー、まあ、大きくなったのを見せ合ったりはしないはずだもんねえ。そんなんしてたら変態としか」 「で?」 「あ、私? そりゃ、弟のなら毎日一緒にお風呂に入って見てたけども」 「うん、あれよりは大きいと思うよ」  そんなの当たり前だろうと言いたかったが、比較対象がそこなのかと脱力したい気分だった。 「まあ、いいじゃん。そんなわけで、息子の意見も聞いてみようよ。ねえ?」  胸の谷間に挟みながら何とも愉快気に紫織は笑う。  男を手玉に取る感覚が楽しいのか、実に生き生きと緩い愛撫を続けている。 「むー。ねえ、まさか私だけが乗り気とか、これってそういうオチじゃないはずだよね」 「覇吐を見習えとは言わないけどさ。この女、さては俺に惚れてるな……ってぐらいには勘違いしてもいいはずだけど」 「……それ、結局は勘違いなんじゃないですか」 「男と女なんてそんなもんじゃないのかな。見合って語ってはい交合、白無垢纏って、お世継ぎ生んで。味気ないっていったらありゃしないでしょ?」 「私は一目惚れを否定はしない。けど相性や愛情ってのは、定規や桶で測れないもの。質から量まで〈疎〉《まば》らだしね」 「だから結局、男女の仲に理屈をつけるとするのなら──」 「これが私の〈番〉《つがい》だと、勘違いせねば始まらないと?」  身も蓋もない結論に答える声は多分に呆れを含んでいた。 「そうそ。だから出来た女ってのは、一発で男を勘違いさせられる女だと思うの」 「さあ御覧在れ、かように愚鈍な夫さえ、稀代の愛妻家へ早変わり。なんてね」 「……なるほどねえ、そっかそっか。ああ、なるほどそれもありかぁ」 「あの、不吉な予感がするのですけれど……何がでしょう」 「ん──さっき私が言った話で、ちょっとね。理想の相手がいなければ、見込みありそうなのを染めればいいってやつ」 「自分で言ってなんだけど、言葉にして気づくってあるじゃん? 今そんな感じ、私自身のやりたいことがようやくはっきりしたかも」 「え……」  ふいに宗次郎の背筋へ悪寒が走る。  まずいと認識するも腰を引くには一拍遅く。 「ま、そういうわけで──いっただっきまぁ~す! あーーーんむ」  ──躊躇なく口に含まれたと同時、股から快感が駆け上がった。  胸が規則的に圧迫を強める。その谷間を割り開く亀頭を、紫織の舌先がねぶっていた。 「んちゅ、はむ……れる……ぇろ……ちゅぅ」 「あむ……んく、ぷはっ。ふはぁ、んー、潮の味がするんだ……んふふふふ」  にまりと笑う表情がこの時ばかりは憎たらしくて。 「あは、なんかこれ、可愛いね」 「どうしたら、もっといい声で鳴くのかな」 「……っ、ぁ」  爪先から頭頂部まで浸透した性の刺激に翻弄される。引き剥がせない。  痛みとはまったく違う感覚、糖の沼に引きずり込まれていくようだった。 「ちゅぷっ……んぅ、んっ……はっ、すご、これ」 「骨か何か、入ってるんじゃないのかな? んしょ、んっ、はぁ……ちゅ」 「あは、だんだん匂い取れてきた。代わりに私の唾でべったべた……っ、れろぅ」 「ん、ちゅ、ちゅ、ちゅ……ちゅぅぅぅ、っはぁ!」 「びくびく震えてる……気持ちよくなると、痙攣もこんなに早くなるんだね」 「ほらほら見てよ宗次郎、下の息子はすっごい正直」  わざとらしい下品な揶揄に対し、返す言葉もありはしない。宗次郎に出来ることは只ひたすらに耐えることだけだった。  言ってしまえばそれは男の意地なのだろう。汗を滲ませながら、肌を紅潮させて絶頂の一歩手前に踏みとどまり続ける姿は、何とも言えぬ倒錯的な情景を醸し出していた。  少女にさえ見える端正な顔立ちが歪み、中性的な混濁した色気に紫織の方が引きこまれていくかのようで。 「ん、くぅ……はぁっ、はぁ……」 「…………」 「ぁっ……く、ふぅ……」 「──やだ。宗次郎、超萌える」  本心から頓珍漢な衝動を吐露し始めた。 「……ねえ、今度私と服装とっかえてみない? なんか悔しいんだけど、新しい何かが目覚めそうっていうか……何なら咲耶にも頼むけど」 「うん。美の追求ってことでお一つ、どうかな?」 「……断固、拒否させてもらいます」  垂涎しながら迫る紫織に精一杯叫ぶ。頷いてはならない。男として何かが死ぬと宗次郎は直感していた。 「むう、それは残念。ならここは一つ、私のお願いを聞いてくれなかったということで…… かぷ」 「────っっっ!」  不意打ちの衝撃で喉を突き上げんばかりに腰が跳ねる。  双乳の柔らかさが残る余裕を消し飛ばした。今まで半ば遊戯感覚であったために、吐き出させるための動きに限界がどんどん近くなる。 「んちゅぷ……ほら、んっ……あむ、んぅ」 「そろそろ、ちゅぅ……分かってたんだよ……手を握り締めて、我慢してたの……」 「だから、ほら。我慢しないで──」  鈴口へ舌先を押し付けて。 「──〈射精〉《だ》しちゃえ」  一際強い抉る刺激に、溜め込んだ劣情が迸った。 「は──く、ぁ────」 「って、ふひゃぁっ! わぷ、ちょっとこれ……んぅっ」 「うわぁ、うわぁ……ま、まだ出てるんだけど、ひくひくしてるし……えぇー?」 「はぁっ、はぁっ、はぁっ──」 「……はあ、すっごー、予想以上かも。噴水? いやいや、この勢いは間欠泉にも匹敵するというか」 「ねばねばして、糸引いて……くんくん。へえ、やっぱり生臭いんだ。てことは味もまずいのかな、どうなんだろう」 「ん──ふむ、海藻風味のおくらか、もずく味の納豆? 珍味だけれど美味というには程遠い、ような」 「あ、あなたと、いう人は……いい加減、こっちの、ことも……」 「うん? ──あ」  そこでようやく、息も絶え絶えに弛緩する宗次郎に気づいた。 「え、あ、あっれぇー? ちょっと宗次郎すごい汗だくで……こんなに消耗するもんなの、射精って?」  そんなことがあるものかと言おうにも、抗議することさえ億劫だった。搾精されて殺されかかるという初の体験に対し、宗次郎が半眼で睨みつける。 「あなたが、雑に扱うから、でしょう……」 「粗忽に、勝手に、乱雑に、それも女の身で押し倒してどうしようというんですか」 「あー、あはははははは……」 「わ、私ったらすっごーい。胸や口まで全身凶器ー……なの、かな?」 「ええ、存分に理解させられましたよ……」  乳房で雄を殺せるなら、それはまた物騒な女もいたものだ。蟷螂にでも囚われたかと彼は自分の不運を嘆いた。  ならばこそ、いつまでも倒れているわけにはいかないと身体を起こす。見縊られたままではなく、この女に男の怖さを思い知らせてやらねばと思ったから。 「今度は、僕の番ですよ」  圧し掛かっていた紫織の身体を押し返し、宗次郎は倒れこむように目の前の尻を見下ろした。 「……んふふ。もしかして、火つけちゃった?」 「もう少しあなたが淑女であったなら、それはもう丁重にもてなす心算でしたけどね」  今も期待した目で尻を振る姿に、貞操も何もあったものではない。 「……発情した犬ですか。野性的な方がそれほどお好みでした?」 「う~、わんわんっ。なんちゃって」 「ほらほら、わんこの躾はしっかりね。飼い主を自称したいのなら、ちゃんと屈服させて上下関係教え込まないと、さ」 「はあ……わかりました。覚悟してください」  急かされる様にふっくらとした尻肉を掴む。その感触に気後れする仕草を見せたが、意を決して腰を押し付けた。  だが……そこまではよかったのが。 「…………」  滑る、そして〈入〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  突き出した陰茎は濡れた女陰をなぞるばかりで、それ以上中に入り込む手ごたえをまったく感じないものだった。 「はは、意趣返し? ひどいね、寸前で焦らしてくるなんてさ」 「え、ええ。床の席にも、駆け引きは大事と教わりましたので……」  そう言いながらも、逸物は納まるべき鞘に入らない。  焦燥に駆られて動きは荒く雑になる。愛液を秘唇の周りに塗りたくるばかりで上手くいかない、宗次郎から段々と余裕がなくなっていたその時。 「──ふ、はぎゃぁああ」  ──ついに先端が入った。それも後ろにあった方の穴へと。  しかし必死な宗次郎は気づかない。それどころかようやく達成できた挿入に安堵の息さえこぼしている。たまったものでないのは思いもかけぬ場所に無理矢理捻じ込まれた紫織だった。 「あああの、宗次郎さん? 気のせいかなぁ、何やら私が気構えていた場所よりも、指二本分ほどずれた所がもぞもぞするのですが」 「いえいえそちらの作法も知っていますよ。けどいきなりそれはちょーっと難易度高すぎます、待て待て待てと言いますかむしろ待て。うん、本気で待てよこの童貞」 「さすがの私も女的に、膜残したまま菊ほじられるなんて、勘弁願いたいんだけど──」 「く……お待たせしました。いきますよ、紫織さん」 「い、いいわけあるかぁ、ッ──」 「あぐ、ぅうううううううっ!」  挿れる、ではなくめり込む。  内臓に刃先を差し入れるような独特の弾力を突き進む。強烈な締め付けが生まれ、紫織の口から呻き声が漏れた。 「これが……っ、女性とのまぐわい、ですか。気を抜けば引き千切られてしまいそうです」 「んなわけ、あるかぁ──あ、んぐぅ、ひ……ぃ、動くな……!」 「早く抜けぇ。このままだと、後ろ、緩くなる……」 「って──こら、駄目、止まれ。そこじゃないのよ腰を掴むな、そっちは下、下、下ぁぁーーっ」 「すみません。こちらとしても手一杯なもので、僕もこれ以上我慢をするのは止めます──!」 「だぁーっ! どうして今になってそんな男らしく…… んにゃあっ」  腰を拙く前後へと動かす。奥へ、手前へ、ゆっくりと。  未踏の地を開拓していく作業に速度はない。その代わりじっくりと、粘膜から互いへ刺激を生み出していく。  苦悶と快楽の入り混じった声が紫織の喉から生まれ始めた。汗が顎を伝い、その背で跳ね水滴となる。 「や、ば……痛いし、裂ける……ん、だけど、ぁ……あぁ」 「痛気持ちいい、ていうのかな。ひゅぅ……内臓丸ごと、引っこ抜かれているような」 「これもしかして、開発されてるわけ? 私、宗次郎に……拡張されてっ、うぁあぅぅぅ」 「こんな太いので、掘り返されてたら……く、ぅ」 「……明日からお通じとか……ひゅぅ、ん、どうなっちゃうんだろ? くぅ、ああ違う違う、重要なのはそんなんじゃな──ぁああ!」 「も、もうこんな、わけ……わかんなっ、く、ひぃ……ふぁ」 「悦んでるんですよね、紫織さん」 「聞くなっ、どう答えろっていうのよ……っ!」  前へ押し潰すように動きを激しくする。  粘膜を擦り合えばあうほど、紫織のみならず宗次郎の中でも性の快楽が競り上がってくるのを感じた。尾骶骨に沸騰するかのような熱が生まれる。 「出しますよ、そろそろ僕も……限界です」 「んな──だ、ダメダメダメダメダメ絶対駄目ッ! お腹に出すならともかく、浣腸までは許せませ、んぅっ」 「あああぅ、嘘でしょ? すごい震えて、そんな息まで荒げて────ひっ」 「あっ、あっ、あぁぁ……く、るぅ」  唇を噛み締めた紫織の横顔。それを見た瞬間、宗次郎の中で引き伸ばしていた快感が炸裂した。 「宗次郎、の──けだものぉぉおおおおおおっ!」  名誉毀損にも程がある喘ぎ声と共に、二人は絶頂の快感に声をあげた。  二度、三度と身体が痙攣する。腰を密着させたまま脈打つ動きを共有していた。  そして── 「……うぅ、出すなって言ったのに」  涙目で、恨みがましそうに紫織が睨む。  遊女の如き雰囲気は失せ、捨てられた猫のようにふてくされていた。理由がわからぬと宗次郎は小首を傾げるしかない。 「お腹の中がごろごろして、お尻はひりひりするし、滅茶苦茶にも程があるわよ……」 「で、いつまで挿れてるわけ? 早く抜いてほしいんだけど」 「あのですね、誘ったのはそっちからで──」  と、そこで彼も気づく。  未だに自身の分身が潜り込んでいた〈箇所〉《あな》、それがどうにも目算より若干後ろ過ぎていたということに。  刹那、宗次郎は全身から血の気が引く音を聞いた。  視線の理由がわかったけれども予想外にも程がある。視線が左右にせわしなく泳ぎ、やがて観念したらしく申し訳なさそうに項垂れた。 「すみません」 「よーし、そこへ直れこの野郎。今度こそお婿にいけない身体にしてやる」 「お婿って、まあどうでもいいですけど……」  素直に謝ってみれば、にこやかに凄まれる。ぐうの音も出ないために宗次郎はそれ以上の反論が出来ない。  後ろで果てては言うまでもなく格好つかずだろう。  おまけに興も削がれてしまった。仕切り直しをする空気でもないために、どちらからともなくため息がこぼれ出る。 「……ま、仕方がないか。お互い耳年増でさえなかったわけだし、なんかトチっちゃうのは自明の理っていうかさ」 「今度はもう少し余裕のあるときにするとしようよ。名誉挽回は次の機会にお預け、ということでいい? 決着は、ちゃんとつけないとさ」 「ああ──」  是非もないと、黙考してから彼は快諾した。 「わかりました。〈も〉《 、》〈と〉《 、》〈よ〉《 、》〈り〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈話〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈し〉《 、》」  そしてそのためには、成さねば成らぬことがあるのだ。 「悪路を斬ったその暁に、必ずあなたの相手をしましょう」  明日へ意識を飛ばせば、宗次郎の中で暗い影が像を紡ぐ。  取り付けた約束を叶えるためにも、倒さねばならぬ壁が彼にはあった。 「〈悪路〉《あれ》は必ず斬らなければならない。僕に穢れを浴びせたそのときから、この手で断つと決めていました」 「他の手合いは他の誰かが他の理由でやればいい。けれど、あれだけは渡さない。その機会を奪うというなら、誰であろうとその報いは受けてもらいます」 「必ず」  己の剣は木偶ではない。それを証明してやろう。  禍根はこの手で断ってみせる。腐蝕の天魔を切り伏さねば、己の生は腐ったままだ。出会い挑んで敗れたならば、傷を濯ぐには勝利以外に道はない。 「……一途だね。いいよそういうの、ぐっとくる」 「茶化さないでください。そういうあなたはどうなんですか?」 「私?  そうだねえ……」  紫織は特に、天魔の誰を標的にしているという空気を宗次郎は感じてなかった。  しかし、それは彼に他者を推し量る意がなかっただけで、実際に紫織が何も思っていなかったというわけではない。彼女は彼女なりに、自分の標的を定めている。 「母禮だね。夜行のお古みたいな感じで癪だけど、あいつにはやらない」 「勝機は?」 「関係ない。ただ獲るよ」  間髪入れず。根拠も言わぬまま、氷点下に等しい敵意を秘めて。 「私はね、ああいう女──大嫌いなの」  彼女は怜悧な美貌に微笑を浮かべた。  戦術論などではない、それはただの感情論。子供の駄々より純粋で、阿修羅の如く鮮烈に、玖錠紫織は吐き捨てた。 「そうですか。ならば僕から言うことはない」  勝つと言っているのだから、そうすればいいだけの話だろう。 「えー、それ素っ気なさすぎ。抱いた女の決意だよ? もっと追求とかしてくんないの~」 「語りたかったのですか? それとも、僕に食い下がってほしかったと?」 「ん、半々ぐらいかな。なんかほら、そういうの憧れるでしょ? どっちも」 「いいえ。第一、意味がありません」 「他の方々は知りませんが、僕と紫織さんにとっては、これ以上何もない」  屁理屈を捏ねた因縁などありはしない。答えが既に出ているならば、それ以上は皆悉く蛇足の域だ。少なくとも自分はそうだと宗次郎は思っている。  気に入らぬから斬り捨てる──戦場の道理など古今東西みなそれだろう。  死合うというなら後も先も要りはしない。この二人はその点、他の何よりも徹底している。ご大層な理念理屈が存在しない以上、言葉はただの確認作業となっていた。 「まあね……理由なんて各々違うし」 「せいぜい、獲物が被らなかったことを感謝するってぐらいかな。手間が省けたということでさ」 「そうですね」  無駄な消耗は避けたい。他の面々を斬るのは少々手間だと、宗次郎も紫織も認めている。だからこそ無駄な激突の起こらないという点だけは、彼らにとって珍しく幸運だったのかもしれない。  障害の入る余地は消え失せたのだ。ならば、もはや問答無用。 「願い求めた必勝を」 「譲らず逃さず必ず、この手に」  揺るがぬ己が求道と共に、戦意の刃を研ぎ澄ましていた。  覇吐と別れた刑士郎は、そのまま砦には戻らず、砦の向こう、つながれている船に向かった。  そこは咲耶が休んでいる場所だった。  東征軍最大の歪みである咲耶を砦の中に置くことをよしとしない者たちが多かった。  勿論、竜胆は必死にその者たちを説得しようとしたが、その前に凶月の兄妹たちが砦から辞することで、この場を収めたという経緯がある。  食べ物や薬、水などは、定期的に船に運び込まれているので、何一つ不自由はない。  ただ、港につながれた船はがらんとして寂しさを強調しているのだった。  その船を見上げながら、刑士郎は呟く。 「歪みは……抜けねえか」  夜都賀波岐が一柱・奴奈比売は討ち取られた。神州に陰気を流し込んでいた源泉の消滅。そのことに対し、未だ僅かも翳りを見せない己が陰気に眉を顰める。  この歪み──名状しがたき暗闇の血染花が、自らに誂えた唯一無二の武装であること。そこに異論は挟まないが、だがしかし、これが諸刃である事実は先の東外流で浮き彫りとなった。  何を言い当てられたのか分からないが……明確に感じた動揺は、やはり宿儺との邂逅、そして覚醒に起因しているのは間違いない。  ──自分が有しているものは、紛れもなく〈通〉《 、》〈常〉《 、》〈の〉《 、》〈歪〉《 、》〈み〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  量が桁外れて多いとか、純度が並外れて優れているとか、そういう類のものではないのだ。もっと異なる別の要因、正確に言えば何者かによる確かな意識を感じている。  その思念が混在している限り、刑士郎は自らの陰気は決して無くならないとも確信していた。たとえ西に流れた歪みの源泉を絶とうとも、これだけは出自が違う。別のものから流れているから。 「咲耶もまた、何を感じていた?」  奴奈比売に投げかけた咲耶の言葉──爾子・丁禮の働きによるものが多々あれど、それが事態を好転させた行いであること、間違いない。  そして、その事実に感じるのは二つの葛藤。よくぞ役に立ったという思いと──何をやっていると苛立つ心だ。  前者は語るまでもなく、また後者に関しては持て余す。  感じている精神の動きを明確な形にできない。〈精〉《 、》〈神〉《 、》〈の〉《 、》〈支〉《 、》〈柱〉《 、》〈が〉《 、》〈二〉《 、》〈つ〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》。いつからか、まるで己の中にもう一つ自分自身を感じるような。  何よりそれこそが、自身の描く理想形。  彼ら化外の民を凌駕する、唯一絶対の理ではないかと強く強く感じるゆえに── 「──回帰」  自分は今、何を口走ったのか。  わからずに舌打ちし、苛立ちを噛み締めながら咲耶の部屋へ足を運んだ。  刑士郎が粥を用意し、咲耶の元に行くと、まだ妹は寝ていた。  額に乗せていた手ぬぐいは温くなり、枕元に落ちている。  潮風に揉まれたこと然り、何より奴奈比売と対峙したこと然り、あらゆる外的要因が彼女の体調を崩していた。 「……おい、咲耶」  反応はない。規則的に胸が上下している以上、呼吸は続いており、生きているのは確かだが死んだように眠っている。  刑士郎は脇に置かれていた食卓を引き寄せ、粥を乗せ、もう一度咲耶に声を掛ける。 「起きろ。飯だ。食ってから休め」 「無理にでも身体に何かを入れておけ。そうしなければ、余計に長引く」  どんなに深い眠りでも、声を掛けられれば、飯時になれば、身体を起こして刑士郎の世話になるというのに、今日は反応がまったくないのだ。  こうなると話すまでに時間がかかることを覚悟するしかない。  少し苦い顔で咲耶を見つめるが、すぐにその表情は訝しむように沈む。 「……愛する者を引き摺り下ろす、か」  その言葉が、恐らく何よりも咲耶の精神に討ちつけた返し風となっていたのだろう。  この因果を、運命と感じるのは容易い。そして、あのやり取りが自分たちの未来につながっていることも、刑士郎は何故か薄々感じていた。  咲耶自身の行い、境遇。それによって自分を縛り付けながら、それでもそこに悦を感じて安堵するという、根を張った植物の如き性。  そこから逃れたい。その業を払拭したいと言いながら、けれど自分からは手放せない。ならばああ、どうすればいいのだろうかと。  女は願う、傍にいたい。  何があろうとも、まず何より傍にいたいと願っている。  男の傍で一歩下がって、滅私奉公を望むのはそういう理屈だ。己の我を通すことで好んだ相手に手間をかけるぐらいなら、自分が男の糧となることで永劫離れぬ花になりたい。  そう感じているのは恐らく当たっている。  ゆえに、ならば。らが抱く非業……鎖を求める心と、それで相手を止めたくないと感じる想い。願う心はどちらも真で、その二律背反が生む先は── 「捧げる……」  刹那、描いた想像を刑士郎は不吉に感じた。  捧げる。与えたい。それは何処まで、いったい何時まで? 上限は如何ほどか? 心に定めた限界など、他者に読めるはずがない。  身投げじみた奉仕、両立している思想なだけに、恐らくその考えには歯止めがない。ひとたびこれが答えと思ったならば、いったいどこまで捧げれば咲耶は満足するだろうか。  それこそ──考え付く限りの全てを懸けねば。妹の心は満たされないのではないかと、確信じみた想いが湧き上がってきたところで。 「ぁ──兄様……」  目が覚めた咲耶の姿に、危惧は霞のように霧散した。 「寝ていろ。粥が冷めるまでもう少しかかる」 「あぁ……ありがとうございます。わざわざお作りいただいて」 「勘違いするな。俺が作ったんじゃねぇ。砦の飯番に作らせたんだ」 「ですが、温め直したのでしょう。わざわざありがとうございます」 「いらないところで勘が利くな」 「勘ではありません。兄様から火をおこした匂いがするのです」 「そして、お粥は熱い。温めすぎたのですね。だから冷めるまで待てと」  端々に気が回る咲耶のことを時に疎ましいと思うこともあった。だが、この東征ではこの気配りのような対応が彼らの一助となったことも、また間違いはない。 「よろしければ、兄様に食べさせていただきたいのですが、ダメでしょうか?」 「自分の手があるだろ」 「はい。ですが、痺れが強くて、匙を持つのが大変辛いのです」 「このままでは、せっかく作ってもらった粥を台無しにしそうで――」 「分かった分かった。いいから黙ってろ」  そう言って粥を掬い、一口渡す。  咲耶は嬉しそうにそれを口に入れる。  ゆっくりと噛み、それから飲み込んでいく。  一連の動作を繰り返していく刑士郎と咲耶。  その動作に奇妙なものを感じていく。 「こうやって食べさせたのが昔あったような気がするな」  心神喪失していたときのことではない。正確には東征の以前、そこで確か── 「覚えておいでですか」 「いや。ただ、何となくそう思うだけだ」 「わたくしは覚えておりますよ」 「まだ幼い時分でした。兄様が、倒れたわたくしを看病したのです。その際、やはりお粥をこうやって食べさせてくれたのです」 「そうだったか? 俺は傍にいただけで他の者が――」 「いえ。あれは兄様です」  咲耶にそう言い切られては刑士郎も反論できない。黙って咲耶の言い分を受け入れるしかなかった。 「まぁいい。早く食え」 「はい。ありがとうございます」  何度も感謝の言葉を述べる姿を少し疎ましげな表情で見てしまい、その表情を隠す。  どういうわけか苛立ちが募る。  その顔を、この東征の間、何度も見ているからだろうか。  それともまた、里で過ごした時間を思い返したからだろうか? 想いの出自が分からない。 「ふぅ……大変美味しゅうございました」 「もういいのか」 「はい。大分お腹がくちました」  鍋に半分以上残った粥を、刑士郎は見つめる。確かに作らせすぎたかも知れないが、普段の半分以下しか食べていない咲耶にも困惑を感じずにはいられない。  しかし、歪みによる体調の変化は、他の者では何も治すことができないというのをよく知っている。いるにはいたのだが、その人物は先刻命を落として既にいない。  そうなれば、残るのは夜行か龍水あたりしかいないのだが…… 「大丈夫ですよ、兄様」 「わたくしの身体はわたくしが一番よく知っております。ですから大丈夫です」 「龍水様も、夜行様も、ご自分の時間があります。それに、龍水様は龍明様を亡くされたばかりです。わたくしにかまけさせるようなことは――」 「お前を心配している俺のためにも、奴らの力が必要なんだよ」 「兄様のお気持ちは分かっております。ですが、心配されなくても大丈夫です」 「それに、ようやくここまで来れたのです」 「わたくしの夢まで、もはや後一歩ですから」  ──その夢は、いったい何を指している?  そう問いかけた言葉が、咄嗟に喉の奥で詰まる。問いかければ、恐らくは普段どおり。東外流で吐露した内情など欠片も見せぬ、模範的な女の答えが返ってくるだろう。  押し黙ったその姿に何を思うのか、咲耶は薄く口元に笑みを浮かべた。 「覚えていらっしゃいますか、兄様。まだ咲耶が幼かった頃のこと」 「ずっと腫れ物であったわたくしに、兄様だけは変わらず接してくださいましたね」 「ただの餓鬼だっただけだ。強いて言うなら、区別をつけるのが面倒だったんだよ」  常に周囲へ存在する者を疎ましく思っていた。どれだけ抑えようとも滲み出る無差別な敵意は、それこそ咲耶と出会うまで沈静化する瞬間がなかった気がする。  何より、刑士郎には咲耶の兄としてなすべきことが課せられていた。里の者に、咲耶の持つ歪みがこれ以上伝播しないようにすること。  ゆえに接する機会が多かったため、態度を分けることを面倒臭がったような気もする、のだが。  そもそも、それでどうして咲耶のことを慮る行動をし始めたのか。彼にはきっかけが判らない。  なぜ、どうして? 彼女に対してのみ自分は態度が特別なものになるのか、妥当な理屈がわからないのだ。  自分を彩り、押し上げるための供物? だから誰にも奪われぬよう取っておいた? そうである気もするし、それだけだとも思えない。  そして、たとえそれが根拠不明であったとしても、感じ取る側にとって刑士郎は唯一だったから。 「それがどれほどの救いとなったか。おわかりになりますか?」 「常に咲耶を守り、強くなり、そして今も変わらず……兄様はわたくしの傍に居てくれています」 「それに深い感謝をしていますが、同時にとても悲しゅうございます。わたくしは兄様に守られているばかりで、何一つしてあげられることはないのかと」 「与えられるものは、ないのかと……」 「馬鹿が」  短く、しかし切れ味よく切って捨てる。 「俺は、おまえにそんなことは求めてねえ」 「俺はあくまで、俺のためにやっているだけた。おまえが気にすることじゃない」  言葉には少しづつ棘が含まれるようになっていった。自分の抱く感情が今一つ定かにならない。それゆえに刑士郎は恐れている。  このまま咲耶と一緒に幸せになることを。咲耶との距離を詰めることを。それは結果的に、自分達を一度に不幸へ叩き落とすことになると予感していた。  そうだ。ずっと子供の時分から、そうした恐怖を漠然と感じている。  幸福とは忌まねばならない。それは自分にとって、きっと間違いなく最大の災いを招くから。ならばこそ、凶月咲耶という女こそ本来最も自身から遠ざけておくべきなのだ。  何故ならその道筋こそが、やがて■■■■■・■■という魔人に至った軌跡であり。  ■■■■■■・■■■■■■■が産声を上げた唯一不変の理だから── 「兄様は、臆病です」  その想いを知っていながら、咲耶は踏み込む。いまこの時に、自分の心を知ってほしいと涙ながらに訴えていた。  さざなみのように、小さな怒りを見せながら。 「もう嫌なのです。いつまでも、ああ次こそはと……その場限りの優しさで、咲耶を遠ざけないで下さい!」 「わたくしが欲しいのなら、どうぞ奪ってみせてください。それが咲耶にとって唯一の望み」 「わたくしは、兄様の血染花になりとうございます」  それはもはや結論が出ている話ではあったが――  何故だ、どうしてか苛立つ気持ちを抑えられない。  なあ、もういいだろう? 〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈喰〉《 、》〈ら〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  囁いてくる衝動は、暴力的で、刹那的だ。今まで人生において幾度か感じた、胸に渦巻いている危惧。それが今や明瞭な言葉をもって耳朶から脳へ入り込む。  そうしなければ己が斃すべきものを討てないという直感と、何よりこれこそ長年待ち望んでいたものであるという確信が、自分の意識を攻め立てる。  その齟齬と二つの道理がぶつかる激痛に、思わず顔を顰めて抱き寄せるものの──  恋■■、枯■■ち■  ──■骸■■せ 「……やめだ」  咲耶から手を離し、立ち上がる。  脳裏によぎった白貌の哄笑……そこに真実を垣間見ながら、魂の奥へ潜ることなく踵を返した。 「女の戯言にかかずらってる暇は無い」 「明日、俺は死地に向かう。くだらん涙で門出を汚すな」 「嫌な女め」  辛辣にそう言い切ったのはこれが初めてであったが、しかし遠ざけたことで、少しは乱れた心が落ち着くのを感じる。  未だ混濁している頭を軽く振りつつ、今度こそ退室しようとした、その背に―― 「兄様」  後ろから抱きすくめられた。鎮火しかけていた癇性が、再び彼の中でぶり返す。  振り解き、今度こそ黙らせよう。そう決めた瞬間、するりと体を入れ替えられて。 「だからこそ――」  暖かく、甘い物が唇に触れていた。  それがいったい誰のものであり、そして何をされたというのか。  理解が及ばぬほど愚鈍ではないつもりであったし、それを相手が望んでいたということもわかっていたから。  しばしの後、よろけるように半歩下がる。 「今、わたくしを貪ってくださいませ」  接吻と覚悟を決めた女。  自分にとって戦う理由であった妹。  そして、長い長い年月押さえ込んでいた激情。  それらが混濁して混ざり合い、幸せへの渇望に──相反する破壊衝動が奔った。 「はっ」 「──知るか。ままよ」  噴出した複雑な感情を抱えながら、刑士郎は意を決した。  今度は自ら唇を重ね、乱暴に、貪るように。  まるで、大輪の花を踏み荒らすように。  乱暴に咲耶を押し倒し、そのまま褥を一つとする。衣擦れの音が、波の音に被さって聞こえてきた。 「ぷはっ──あ、兄様……」 「黙ってろ」  小煩い口を塞ぎ、装飾だらけの豪奢な着物──いや拘束具を脱がしていく。  鬱陶しいほどに施された呪的拘束は手間の一言、これに尽きる。特定の手順でようやく解き、ようやく華奢な肢体が現れた。  陽の光を浴びたことのない、新雪の如き素肌。圧迫から解放され、控えめな胸が呼吸に揺れる様は── 「…………」  何故か、不思議と〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈も〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》。  明晰夢にも似た感覚が刑士郎の手を緩やかに止めた。 「どう、したのですか? もしや咲耶の身体にどこか、御気に召さないところが……」 「それとも、やはりわたくしなどとは……」 「馬鹿ぬかせ。この期に及んで怖気づくか」  訝しまれて思索を切る。知らず入り込んだ感傷を笑い飛ばした。  二度も三度もありはしない。これが刑士郎と咲耶にとって初の交わり、それは疑問の余地を挟むまでもない真実だった。 「おまえは黙って俺に抱かれていればいい。力抜いて、楽にしてろ」 「はい……あ、むぅ──ふぁ」 「ちゅっ、ちゅ……んぃ、ひゃぁ……む、はふぅ……」  起伏の少ないなだらかな胸へ、その頂きへ。  手触りは病的なまでに滑らかだった。少女の触れた召物など封の混じった衣だけだ。外気さえも遮断していた肢体は、いっそ完全を通り越して造花じみている。  被虐をそそる──ゆえに壊れぬよう、繊細に、刑士郎は咲耶へ指を伸ばす。 「くひぃ、っひゅ……っ、はっ、んんんぃ、ひ!」 「はぁ、はぁ、はぁっ……は、ふふ、ふふふ」 「……どうした。荒かったか?」 「いいえ……少し、おかしな話と思いまして……ひゅぅ、ぁ」 「こうして兄様の〈腕〉《かいな》に包まれて……ああ、何という夢心地でしょう」 「憚ることなく、契りを交わせる……」 「……ん、逢瀬であるはず、ですのに……あぁっ」  遠い那由他の果てを眺めるように、摺り寄りながら囁いた。 「この喜びを、わたくしは知っている気がして──」 「覚えているからこそ、もう一度と〈希〉《こいねが》っていたような──」 「そんな気が、致します」 「……生憎、そんな記憶はねえな」  首を傾げるべき夢幻の偶像だった。少なくとも刑士郎にとってはそうだ。  記憶は〈頸〉《くび》から上へと溜まっていく。そこに覚えがないのなら、別の部分にこびり付いているだけの話。  ならばそいつを認めろと? 馬鹿馬鹿しいと彼は一笑する。何処から来たのかわからぬ妄執、抱え惑って何になると切り捨てた。  だが、咲耶においては違う。熱に浮かされながら、訥々と唇が不可解な言葉を刻む。 「もう一度……今度こそは……」 「兄様をわたくしの中から……いいえわたくしこそが、兄様の中に──っ」  戯言と取られかねない言葉が響いた。  喘ぎながら、肌に赤みを増しながら。支離滅裂に訴える姿は悪夢に魘される童のようであり、子を誘う慈母のようでもあった。 「つまり──」  意味を成さぬ乱れた声に耳を傾ければ、それは自身の居場所を伝えていると気づいたために刑士郎は繋げて紡ぐ。 「俺たちは、〈互〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈腹〉《 、》〈ん〉《 、》〈中〉《 、》〈に〉《 、》〈還〉《 、》〈る〉《 、》〈べ〉《 、》〈き〉《 、》だとでも?」  だから、だろうか。それは驚くほど凶月刑士郎の中へ馴染む答えだった。  予め決められた定位置。午睡にまどろむ揺り籠。そこにいろ、否そこがいいのだと本能的な部分が強く訴えている。  俺たちが真に安息を得るには、相手の内側へ潜行するしかない。これこそ真にして唯一の解であると、そう錯覚させるだけの力があった。 「ふふ……あ、ん」 「まことに、おかしな話で御座います、ね……やぁっ……ひん、っ」 「ああまったくだな。おまえは最近特にだよ」 「妙なことをよく口走る。俺らの中じゃ一等見聞浅い癖して、切れ味は鉈か剃刀ときやがった」 「どこまで、毒されたんだろうかな……」  落ち着かない、不安になる。奴奈比売と邂逅した瞬間から、明確に咲耶は何かを掴みつつあった。  これが偏に〈等級〉《ゆがみ》の差からくるものだろうか。感性の格が深度の違いを生んでいる。刑士郎にとっては薮蚊に等しき〈掻痒〉《そうよう》だが、咲耶にとっては歪みの本質を悟らせるまでのものかも知れない。  共に同じ物を見て、同じ感想を抱けなくなる。彼の中に生まれた焦りが爪を立てられたかのように疼きを増すが── 「は、ぁ……大丈夫ですから、兄様」 「気遣いなど要りません。わたくしの身体など、壊してくれてよいのです」 「お腹の中で暖めて、愛情を注いで、そしてまた咲耶を愛して……還ってきてくれるのですから」 「それは、とてもとても素敵なことだと思いませんか? 血が縛りとなるのなら、離れぬ比翼の証となるなら」  『他人』に過ぎぬ二人の間を縫いとめるというのなら、それは。 「──ええ、〈凶月〉《かぞく》にとって、これ以上ない〈鎖〉《あい》でしょう?」  咲き誇る血染花のように、妖艶な微笑をこぼした。 「は……おいおい、そりゃまた強烈な恋歌だな」 「まず最初に〈つ〉《 、》〈く〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》と来るとはなあ。つくづくおまえは、浮世から半歩踏み外れてやがる」  何を? どうやって? わざわざ聞くまでもない。 「そう言われましても……咲耶に心残りがあるのなら、それだけで御座いますから」 「そう──きっとそれだけが、真実わたくしに残された未練」 「敗れ、流れ、千切れて、薄れ……それでも消えずに残り続けた、無尽の恋情」 「狂い悶える〈渇望〉《うえ》なのでしょう」 「は──は、カ、カカカ」  それが無念と言うならば、まったく何とも業の深い話だろう。  愛か、情か。我が身よりも大切なものがあるからこそ、我が身と等しくなりたいと願う血盟の契り。  産んで増やせば〈胎〉《なかみ》は広がる。咲耶が真に血染華であるならば、なるほど彼女は種子を蒔きたいと言っていた。  千里見渡す地平の全て、彼の花壇を敷き詰めたい。紅の華で埋めたいと。  世を塗り潰してそれを成す〈鎖〉《あい》の証としたい。なんとも歪んだ〈他愛〉《じあい》の花園に、刑士郎の口端が上がった。 「クク、なんだそりゃあ。皆目検討つかねえなあ」 「内臓晒して塗り広げたい、まともなようでちょいと違う。我が身一つ在れではなく、我が身一つを覇と成したいとはよく言った」 「そいつは確か……ああ、なんだったかな。龍明あたりがほざいてたような気もしたが、どうにも思い出すことが出来やしねえ」  だがそれも関係ないとかぶりを振った。何故か今、彼はとてもいい気分だったから。  昂ぶり猛り興が乗る。貪りたいと、素直に思った。 「要するにだ、容赦はするなってことだろ?」 「はい。壊れようとも、激しく」  承諾の言葉を聞いた瞬間、限界までその身体を引き寄せた。 「ん、っく……はぁ、ぅ……」 「はああぁぁぁ、ひぃぅ、うぁ、ぁ……!」  ──秘部と秘部が絡み合う。  宛がった陰茎の先端が自重によって沈み込んだ。ほんの少し存在した抵抗と弾力を突き破り、ゆっくりと根元まで飲み込まれていく。 「痛むか?」 「いいえっ……」 「幸福で……融けそうです」  たおやかに微笑する咲耶は、恍惚を伝えてより強くしがみ付いてきた。  解いた長髪は広がり、花弁のようにさえ思える。白に染まる華はしかし、どこか血の臭いを連想させた。  貫く刑士郎は元々我慢をする性分でもない。小さく始まった律動と共に、痛みの混じった喘ぎ声が楽器となって鳴り響く。 「っ、ふ……あぁ、ぁ、ひゅっ………んくぅ」 「わたくしは、なんと、果報者で御座いましょう……っ」 「兄様に抱かれ、交わり、この一時でも添い遂げられることが、どれだけっ」 「はぁっ……いざ、咲き誇らせてくださいまし。わたくしが兄様を彩る華であると」 「硬い蕾をこじ開けて、〈雌蕊〉《めしべ》に種をお恵み下さい……とく結ばれた暁には、宿し育み芽吹かせましょう」 「〈十月十日〉《とつきとうか》のその後に、萌ゆる新芽を産みたいのですっ……」  この身はあなたの〈一部〉《はな》と成り、無限に花園を広げたい。  恋慕と母性の両立。恋する乙女でありながら、子という鎹を有する。狂おしい恋歌に対し複雑な感情を以って刑士郎はそれを受け止めた。 「知ったことか、そいつは俺の領分じゃねえことだろうが」  矛盾した思考を振り払う。ともすれば惑わされそうな懐古の念を捨て、目の前にある肉を喰らう作業へ没頭した。  〈今〉《 、》〈生〉《 、》〈は〉《 、》〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈き〉《 、》〈り〉《 、》。  ゆえにこの逢瀬こそが、彼らにとって初の契りだ。失せたものは返らない、喪失を思い出すなどありはしないのだ。  その理屈には嫌悪共感入り乱れている。だが少なくとも、刑士郎にとって次の言葉は決まっていた。 「……だから、構わねえよ。餓鬼でもなんでも拵えたいならすりゃあいい」 「んぁ……え?」  投げやりな体を装って、細身の尻肉を掴み密着しながら囁く。 「養うならば勝手にやれ。時折抱いて、それで離れねえっていうのなら……飽いて果てるまで繋がってやる」 「赤子の世話なんざ知りはしねえよ、知る気もねえしな。愛だの情だの絆だの、そういうのはあの奇天烈姫が吹いてりゃいい」 「ただそれが、俺を広げると言うのなら……」  無明の夜に咲き誇る血の繋がりだというのなら、今抱きとめている女と終生共に在れるというのなら、刑士郎にとって答えは一つだ。 「男の見栄だ──好きにしな」 「見縊んなよ、背負ってやるさ。柔い女の〈妄想〉《ゆめ》一つ、苦にもならねえ軽い荷物だ」  そんな言葉を吐く自分に彼の中で満足感と不快感が湧き上がる。しかしこれが己だ、凶月刑士郎なのだと、魂へ向かい言い聞かせる。  瞼にチラつく白蝋と穿杭の魔人へ決別するように、熱に呆けた〈身内〉《いもうと》から目線を逸らして呟いた。 「ふ、ふふふ……」 「いけません、兄様。亭主関白にも程があります。脆い新芽の扱い、私一人では手に余ります」 「は、知るか。雑に触れて壊れるよりは億倍マシだ」 「ならば、これから二人で学びましょう。わたくしと兄様、共に未熟というのなら、ぜひ─── ひゃぁ、っん……ん、む!」  突き上げ、口を塞ぐ。  水飴の如く甘ったるい提案など聞くに耐えない。抜き身の精神が触れ合う感覚を忌避し、欲望を叩き付ける動きは加速した。 「あ、あぁ、んぁ……ちゅ、んぅ」 「あむ、んむぅ……はぁ、はぁっ、ひゃぁ……っ」 「ふぅ、っ、はぁぅ……兄様、兄様、兄様ぁ──」 「もっと、好きなだけ……ずっと、いつまでも……」 「お情けを……ちゅぅ、ん──くだ、さい……わたくしを、兄様の一部にして、ください……」  汗が舞い、肌が紅潮し、未熟な乳房が跳ねる。  かすれた喘ぎは笛の音か。鼓膜をすり抜けた嬌声は、脳の皺へと浸透した。 「あぁぁ、抱きしめて、潰してくれれば──繋がったまま、なら」 「このまま、一つにも……んぅっ、なれそう、でっ」 「い、やぁ……もっと、もっと同じに、溶けたい、ぃ……のに」  膣がひくひくと痙攣を始めている。快楽の誘いは、断続的に大きくなり始めていた。 「ぁ、ぁ、ぁああああ、来る、来ます……兄様のお情けが、わたくしの、中にっ」  離さない──否、〈子宮〉《そこ》以外は許さない。  絡まる両脚が強く腰を引きつける。互いの隙間が無くなった瞬間、欲望は激しさのままに決壊した。 「ふああああぁあぁぁぁぁぁ──!」 「あつ、ぃ……あっ、あっ、ぁっ……はく、ぅ………」 「……んはぁ、あぁぁ……あ、ふれます……おなか、子宮……」  吐精をする。中身を全て搾り取られる錯覚に、彼は歯を噛み締めた。  性器から混ざり合う感覚に陶酔し、強烈な快楽が互いの境目を薄くした。  生れ落ちる前まで還元されていくような、新たに作り上げているような形容しがたい酩酊感が走る。生まれ故郷に辿りついたと胸の奥で何かが伝えていた。 「はふ、ん……ぁ、ぁ……兄様ぁ」 「何だよ?」 「ややこ、〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》と……よろしいですね」 「……そうかよ」  経験のないことだ。初回で必中とはいくまいと刑士郎は曖昧な返事をするに留める。  余韻に浸る咲耶の背を撫でながら、冷めていく頭は先の発言にまで波及していた。  嘘を言った覚えは無いが、作るにしても時が要るのだ。今のままでは絵に描いた餅に過ぎず睦言に混じった妄想の一つとなるだろう。  そう、十月十日を迎えるためには超えねばならぬものがある。東征を成し遂げるための絶対条件、そこから目を逸らすことは許されなかった。 「────宿儺」  芸者じみた両面の鬼神。痛烈に神経へ障るあの傾奇者。あれをこの手で屠らねば西の土地など踏めはしない。  刑士郎だけではなく咲耶もまた気づいている。彼とあれとの間に何がしかの因縁があることを、そしてそれを勝利によって清算しない限り、兄妹揃って穢土の大地に満ちた屍へと成り果てるとも知っていた。 「兄様は、あれを討つおつもりですか?」 「ああ、奴を見ていると無性に苛々してきやがる。いや、そうでもないのか? あるいは……」 「……駄目だな、どうにも今一わかんねえ」  それは本心だ。何故にどうして相対したいと感じているのか、刑士郎の中でブレがあった。  疎ましい、憎い、殺してやりたいという負の情動。殺意も敵意も確かにあるが、同時にそれらとはまったく違う見当違いな情もまた、胸の内に存在していたのだ。  期待と飽きを両立させた形容しがたい感覚に眉を顰める。 「化外の中で奴が最も歪だ──というか、どうにも毛色が違う」 「俺らも含めて歪みってのは『己はこうだ』と世に知らしめる勝鬨だろう。返しを無視して振り絞れば万事容易く罷り通る、そういう絵巻の中のご都合主義だ」 「……そうですね、吼えて使えば勝つのですから」  必殺とは、必ず殺すと書くから必殺なのだ。出せば終わる──これが自らを構成する最強だと、それらの自負が個々によって形は違えど滲み出る。  だが、宿儺だけはそこから外れていた。  異能が凱旋の咆哮だというのなら、それを強制的にかき消した平素な世界は何を指す? 生存すべき地平さえ白紙へ戻す矛盾の所業、それが何を指すかと言えばつまるところ答えは平和だ。 「歪みまとめて消し去ることで、〈之〉《これ》即ち泰平也……とでも嘯くってか。は、おいおい何だそりゃあ、笑えねえな」 「〈化〉《 、》〈外〉《 、》〈の〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈世〉《 、》〈を〉《 、》〈で〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈上〉《 、》〈げ〉《 、》〈る〉《 、》〈異〉《 、》〈能〉《 、》だと? どうなってんだかさっぱりだ、身内殺しが持ち味ってかよ」  東に穢されるはずのなかった本来の西を創り上げる。それを成すが悪逆無道の大天魔、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が一柱──宿儺とは何とも皮肉が利いている。  だから刑士郎は攻略法が見い出せずにいる。己が斃すと決めているのに、異能は初手から封じられていた。  ならば肉弾特攻か? ──愚考の極みだ、地力が違う。  化外を化外たらしめているのはそこなのだ。人種との隔絶した膂力の差、至極単純な破壊力の差こそが、彼らを究極たらしめている。刑士郎にとって業腹なことこの上ないが、敵の土俵に上った瞬間容易く殴殺されるのは目に見えている未来だった。  だが、それでもなお── 「……負けられねえな、ふざけんな」  理性から出た声ではない。源泉不明の激情、本能から滲む憤怒が発声を促した。  虚仮にするなよ喰い殺す。他の誰にも譲らない、あれだけはこの手で討つと決めたのだと、凶月の雄は犬歯を剥き出しに唸り声をこぼした。 「怖い顔……ですが兄様、咲耶は信じているのです」 「わたくしが傍にいる限り、兄様の心に咲く一輪の華であるかぎり、その身が焼かれることなどありません。いいえ、月光の導きを頼りに幾度となく新生なさるでしょう」 「凶月の白が陽光にその場を奪われた証というのなら、それこそ不死を宿した鳥のように──」  永遠に明けぬ夜が我らの加護となるはずだと、咲耶は愛しい〈番〉《つがい》に頬を摺り寄せながら口ずさむ。 「……ですから、どうか歪みをお使いください。返し風など忌避せずに、本懐成し遂げるまで魂を振り絞ってほしいのです」 「おい、咲耶それは────」 「ええ、存じております。返しが誰の下へ降りかかるのか、判らぬわけが御座いません」 「我々は災禍の血盟を持つ凶月。血の繋がりが深い者にこそ、対価は飛礫となって返るでしょう。契りを交わしたわたくし目掛けその代償が求められます」 「そして、それこそが最も兄様の御力を際立たせると、咲耶は確信しているのです」  咲耶が抱かれた意味は何も愛情のみの話ではない。愛する男を死なせぬために己も異能の一助となる不退転の決意、その証でもあった。  逢瀬によって二人の存在は心と身体のみならず、魂魄さえも繋がっていた。もはや遠く離れた他の凶月へ向け、刑士郎の返し風は九割九分届かないだろう。  二人は既に真の意味で血族だ。身近な存在が凶を被る特性は対象をただ一人に絞り込んで生まれ変わる。  ……いや、今こそ、完全に在りしままの形へ戻る。  何より先に吸い上げるべき生贄は、この逢瀬にて定まった。 「……一応訊いておくけどよ、俺が喜々としながら乱発するとでも思ってんのか?」 「判りかねますが、少なくともわたくしの愛しい殿方は、女の意地を汲んでくれるよい〈男子〉《おのこ》でありますから」 「共に戦いたいと祈る女の献身さえも、きっと抱えてくれると信じております」  詩の如き朗々とした言葉に、刹那息を奪われるも。 「──はン、まったくどこのどいつに感化されたのやら」 「女にこうまで啖呵切られて奮い立たにゃあ男が廃るか……やってくれるぜ」  寄り添ってきた温もりへ自信に満ちた笑みを返した。  そして──  気づけば、龍水は霧の中にいた。  場所は何処だろうか。霧が濃くて何も見えない。視界は白で覆われて、地面の感触さえあやふやだった。 「確か、砦の傍にいたはずなのだが……」  砦に戻ろうと歩き出す。  近くだったのは確かだ。気持ちを紛らわそうと外に出て、それからこの霧に巻かれたのは覚えているが。 「早く戻らないと……」  夜の帳が下りつつあった。そんな時間に砦の外に出たのが間違いだった。  しかし、ここまで何も分からなくなるほど霧が深いと、歩くのもままならない。  慎重に歩いていくが、森の中で足場が悪く、何度も躓きそうになる。  そのとき、ふいに── 「あれは……母刀自殿!」  死んだはずの龍明が霧の中をするすると歩いていく。  見間違い? いや、それは無い。絶対に無い。畏敬を抱いてこれまで母親を見てきたのだ。如何なる状況でも見間違えることは無い。  信じられない。信じられない。信じられない──だが。  心の何処かでは龍明は生きているのでは、と妄想していた。その想いが現実のものとなって、龍水は狼狽した。  あの戦いの結末を受け入れていない自分がいたことを知っている。  龍明に言われて、前を見ろと言われていたのに。あれから幾日過ぎたか分からないが、それを受け入れられず、母の言葉を守れない自分がいたことを知っている。  そして、これまで一緒にいた時間を考えれば考えるほど、死んだはずは無い――偉大なる御門家総帥にして神州の術者を束ねる龍明が、あの程度で死ぬなんて考えられないと。  そう思えてならないのだ。  そんな妄執にとりつかれて、龍明の後ろ姿を追いかけていく自分に警告を発し続ける心もあった。  既に一人で立っているではないか。一人で何でもできるようになるのではないか。偉大なる母はもういない、まだ泣くか、御門の名を汚してはならんと必死に止めている。  それでも駆け足は止まらない。何故なら―― 「私は、母刀自殿の娘、なのだから」  御門家の養女となり、龍明の娘となったあの日から。  龍水にとって、龍明は母でありながら、人生最大の目標となった。  常に先を歩く者。その背を追い、道を違えることなく踏み進めるのが自分の生き方だったから。  時間が全てを解決する――それは他人であれば言えること。  龍明の娘として全ての時間を費やしている龍水にとって、この結末はまだ早すぎた。まだ教えて貰わねばならないことはたくさんある。 「待って……」  自分が未熟だと悟っているからこそ、龍明はまだ無くてはならない術師としての師匠であり、人生の先達であり、優しさを与えてくれる母なのであった。  だが、霧の向こうへと歩んでいく龍明に追いつけない。  足は何度も木の根に捉えられたり、低木に遮られたり、石に躓いたりしている。  先に進む感覚さえ朧。走っているのに、むしろ距離はどんどん空いていく一方だった。 「待って……っ! 待って下さい!」  我慢できず声を上げるが、影は止まろうとしない。  懸命に走っているのに、追いつけない。龍明を見失うことはないのに、手を伸ばしたまま駆け続けるしかないのだった。 「どうして……どうしてですか! 何故私を置いていくのですか! 母刀自殿!」  遂に、足を取られ地面に投げ出された。  大して痛くはないとしても、その目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。  追いつけない母、省みてくれないことへの悲しみ。これからどうすればいいのか分からないという想い。  それらが混じり合って、幼い心を苛んでいる。溜め込んだ弱音がついに決壊寸前の域まで追い込まれた。  だから、だから、だから── 「まだ……まだなのです。私にはまだ、あなたが必要なのです」  だって、自分には御門龍明のような母親が必要だから。  それが無くなるなんて有り得ないし、有ってはならない。  日々の生活に穴が開き、何をするにしても空しい。誰もが心配していたと分かっていても、それに応えることがなぜできよう。  未練、残念、無念だけが龍水の中にわだかまっている。死を腕の中で看取ったさ、ああそれがどうした。  そんなことで納得できるような別離ではないだろう、それほどまでに大切だったのだから。 「私だけではありません! 母刀自殿を必要としている人は大勢いるのです! 竜胆様だって、あの者たちも、また――」 「ああ……やっと、やっと追いついた」 「皆が待っています。どうか、お戻り下さい……!」  徐々に距離が縮まり、服の裾を掴むものの──  しかしその瞬間、手の中にある感触は消え去り、代わりに霧が色を濃くして広がっているのみだった。  その霧の向こうに龍明は進んでいる。 「……あ」  総てはただ、己を誘うだけの夢幻と思い知り……龍水は彼女が真に死滅した残り香に過ぎないと理解した。  今の後ろ姿はこの世からの旅立ちの姿。自分が思い描いただけの、単なる願望でしかないと── 「だめ……だめです。母刀自殿がいなくて、何故、龍水が残っているのですか!」 「どうして、どうして、母刀自殿が死なねばならないのですか!」 「そうだ、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈間〉《 、》〈違〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》! これが天命というのであるならば、それこそ大いに破綻しているのだ!」  この世とは即ち、己が願う未来を訪れさせるものであるから。  ならばどうする? どうすればいい? 自分は何を行なえば、偉大な母を取り戻すことができるのか。  決まっていよう。御門龍明がいないのならば── 「──創る」  答えは一つ。御門龍明を創り上げてしまえたならば、きっと自分のもとへ帰ってくると。  強く強く強く強く、己が自意識すら霞むほど念じた刹那―― 「やめろ、この馬鹿者」 「私の役目はもう終わった。ここから先は、おまえたちが切り拓かねばならぬ道」 「おまえ達の未来であろうよ」  声が聞こえた。  自分が何よりも求めていた、〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》母の声が。 「あ、あぁ……」 「まったく、おまえは本当に危ういな。ある意味、咲耶以上の爆弾だよ」 「……うあぁぁ、ぁぁぁぁっ!」  声を聞いた瞬間、泣きながら龍明にすがりついた。  確かに実体を持っている。これは間違いなく本物の龍明。  自分が思い込みで作り上げた幻ではないし、世の中の理がひっくり返って出てきた偶像でもない。  死んでなどいなかった。死んでなどいなかった。そう、死んでいるはずなどなかったから── 「戻ってきて、下さったのですねっ。そうなのですよね!」 「私たちの前に、もう一度……!」 「いや、そうではない」 「言ったろう、私の役目はもう終わった」 「それにそもそも──」  ほんの少しだけ、含みを持たせて。 「おまえ達のことは、私は最初から好きになれなかったのだよ」 「この三百年、まるで肥溜めに浸かり続けているような気分だった。ようやくそれから解放されたのだから、引き留めてくれるな」 「そんな……では、どうして」  ならば、つまり。 「……つまり、母刀自殿は、わ、私のことを」 「疎ましいと、思っていたのですか?」  その問いに、彼女は何も言わなかった。  ただ、起きあがり、苦悶に震える娘の頭を撫でながら言葉をつなぐ。  その表情はとても優しく、自分で否定したはずの母親そのものの表情だった。 「私は言ったはずだ。おまえ達が世界を変えろと」 「それができると信じているさ。たとえ私がいなくとも、おまえにはまだ信じるものがあるだろう」 「もっとも、あまりに歩みが遅ければ、尻を叩きに出るかもしれんが……」 「そのような機会が来ないことを、願っているよ」 「……母刀自、殿」  優しく抱き起こし、立たせる。  そのまますっと背を伸ばし、向こう側へと歩み始めた。 「ま、待って──待って下さい、母刀自殿! まだ私は、何も!」  ありがとう、と感謝さえ伝えきれていないのに。  ごめんなさい、と戒められた思いを悔いることも出来てないのに。 「……ああ、それから」  胸に詰まる想いを伝えたくて、走り出そうとした自分に振り返って…… 「実に不快な三百年の日々だったが、少しだけ面白いことも確かにあった」 「母親の真似事も、存外悪くなかったよ――」  そうして、暖かい微笑を残しながら龍明は霧の向こうへと消えていった。  そこに追いつこうとして──寸前で足を止め、真っ直ぐ前を見た。  涙はこぼれていた。悲しくないわけがない。ああ今もこの胸には、刳り貫かれたような凄まじい痛みが息づいている。  けれど、けれども……分かってしまったから、ここから先に行くことができない。  母は、やめろと言った。  母は、託すと言った。  痛くて、痛くて、痛くて、どうしようもないほど自分を苛んでいるこの激痛を癒すには、あの人を取り戻すしかないけれど。  たとえこれが幻であろうとも、憧れて誇りに思う人が信じてくれたのだ。あんなにも優しく笑って、自分に後を譲ってくれたのだ。  ならば、できない。  その想いを、認めてくれたという心を、こんな至らない御門龍水を娘に持ちながら誇りに思うという母の言葉を穢すことだけは、絶対にしてはならないと気づいたから。  こぼれ落ちる最後の涙を振り払い、悲しみも痛みもしっかりと噛みしめる。  自分がこれからやらなければならないこと、告げられた言葉の数々を思い返していく。 「私の、信じる、もの……」  それは何なのか、などと論じるまでもないだろう。 「わかりました……」  そう、御門龍水にとって最後に信じるものなどたった一つ。  摩陀羅夜行――あの方こそ、龍水が全てを委ねていい相手なのだ、と確信していた。  だから、さあ── 「行かなくては……夜行様の元に」  そう思い、一歩踏み出した途端に世界が一変した。  複雑に編まれた曼荼羅模様。圧倒的な、到達したもの以外の理解を拒む幾何学空間。  曰く太極。それは御前試合を終えた折、この視点に摘み上げられた記憶そのままの姿だった。  いや、正確にはより完成度を増しているのだろう。  なぜなら龍水も感じている。この絵図、この曼荼羅、ここに必要なものは後一つしかないと、半ば呆然としながら直感し── 「ん?」 「夜行様……」  この理の主と、対面した。 「龍水。いったい、どうやってここに来た?」 「あ、う、えっと……申し訳ございません」 「とにもかくにも、まず話せ。おまえに何があったのか――」  夜行は龍水に話すよう促したが、果たしてどう話したらいいものかと思う。  だが、こちらとしても伝えたいことではあるのだ。だから、せめて最初から順番にありのままを言うしかない。 「はい……では」  言われるままに言葉をつないだ。  霧の中を歩いていたこと。龍明を見かけ追いかけたこと。追いつけなかったこと。彼女のいないこの世が間違っていると思ったこと。  そして、龍明が現れたことと。最後に自分で決めろと言われたことを。 「それで……夜行様の傍にいかなければ、と」 「ふふ、ふふふふ……」 「ははははははは。なるほど、なるほど。実に愉快」  しばらく考え込む。だが、その口は考えの端々を漏らしてみせる。 「面白い……だが、これはどうなのだ?」 「紛れ込んだか? 掴んだか? 至ったわけではないならば、さて……ああこれはどうしたものか」  何か一つの結論に達したのだろうか。ふっと顔を緩め、破顔する。  しばらく夜行は含み笑いをしていたが、やがてそのまま黙り込んでしまった。  何処となく、纏っていた楽の雰囲気が変わった気がする。  それを龍水はただ畏まって黙るしかない。  再び、口を閉じ、じっと考えている。結論が出ることなのか、出ないことなのか、それは夜行だけが決めること。  その思惟思索によって、直ちに自分はこの場所から退出させられるだろう。  何も無い空間だというのに、重苦しく、じっとしているのが耐えられない。不機嫌、とも違う息苦しさが彼にはあった。 「龍水」 「は、はい……」  夜行が口を開くまでの時間は、さほどでもなかった。だが、まるで一刻でも経ったかのような気持ちになっていたのは恐らく…… 「そう畏まるな、と言いたいところだが」 「決戦を控え、私なりに気を練っていたいところへとんだ闖入者が現れたものだ。お陰で瞑想どころではなくなったとも」 「も、申し訳、ありません!」 「私が、その、何故かとてつもなく迷い込んでしまったせいで、夜行様にご迷惑を――」 「それで、釣り合いを取るためにもおまえに話を聞きたいのだよ、私は」  そのまま身を乗り出し、平身低頭している龍水をのぞき見るように構える。  開いていない目を向けて、少女の真実を覗き込むかのように。 「は、はい。何なりと……お聞き下さい」 「結構。では、単刀直入に訊ねるが──何故、御門龍水は摩多羅夜行にそこまで追従するというのだ?」 「平服して従うことに、もはや意味はないではないか? 私とおまえの関係もそうだ。婚姻にて有益なることなど、もはや半減しておるはずだが」 「御門の家を継いだとて、龍明殿ならいざしらずおまえに私が御せるとでも?」  言葉遣いは実に愉快そうだが、その内容は辛辣だった。  確かに龍水を娶れば、御門家の頭となれるだろうが、それは夜行にとっては端から興味の対象外。  龍水もまたこのように政治的にも、術者的にも縛れない者に輿入れしてもいいことがあるとは思えない。互いを繋いでいた公的な益はもはや龍明の死により半ば白紙となっていた。  もし安寧と安定を求めるのであるならば、このまま嫁ぐ必要などいないのだが…… 「そのようなこと、自問するまでもありません」 「私にとって、夜行様こそ至高の殿御だからです」  そんな未来は考えられない。そう絶対、決して、それだけは考えられるはずがないから。 「これは、異なことを」 「至高と言うが、他に比べるべき男をおまえは知るまい。違うか?」 「比べるまでもありません。天下に自明の法則です」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈中〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》?」 「私の中では、です」 「……だから、夜行様の仰ることなら私はなんでも従います。それが御門龍水の理なのです」  そう口にした瞬間、この何もない空間に風が駆け抜けたような感じがした。  そして同時に、夜行の空気も一変する。  ただ、いつものように何を考えているか分からないのは一緒だった。それでも明らかに彼の中で、何かがかちりと切り替えられたような雰囲気ではあった。 「ほう、ならば……」  気配が怪しく揺らめく。何を考えているのか分からない、曖昧な微笑を湛えながら。  しかし明らかに、いつもと違う嗜虐的な雰囲気を滲ませて。 「無礼の罰を与えようではないか」  楽しげに、そう言った。 「──は、ぁむ。んく……ふぁぁ……」 「はぁ……夜行様、んっ……」 「従順だな。それほどまでに美味か? これはこれは、私の指は塗り固めた砂糖菓子であったらしい」 「ああ、歯を立ててはならんぞ。爪の間まで、その舌先で磨くといい。垢と穢れも甘露であろう? 頬の肉も使ってみよ」 「んぅっ……は、はい……ちゅぅ、ぁ」  舐め、しゃぶり、ついばむ。  男性器に奉仕するかの如く、命じられるがままに龍水は差し出された指先を咥えていた。  蕩けた表情は夢見心地のそれだった。肉体的な快楽ではなく、精神的な充足が麻薬となって少女を融かす。 「ひぅ、は……ん……んぅ、んんぅ……」 「ちゅむ、ちゅぅ……ちゅぱ……はふ」 「くく、浅ましいな龍水。これはおかしい。我が許婚は、〈木天蓼〉《またたび》を好む猫であったようだ」 「──ふひゃぁ!」  舌先を爪で掻く──鋭角な刺激に龍水は震えた。 「ふやぁ……そんな、夜行様……」 「聞かぬよ、知らぬ。おまえの顔など見えぬのだ」 「茹った肌も、震える舌も、下がった眉も、知りはせぬさ。この通り、私は〈盲〉《めし》いておるのだから」 「景色に雅を感じられぬ、四季の色は遠のいた。残るは小鳥の囀りのみだ、せめて喜悦の笛を聞かせてくれ」 「ひぁ、あむっ……んむ、むぅ、んあぅっ」  的確に、快楽で歪む少女の表情を言い当てながら。無明の視界を嘯いて、夜行はさぞ楽しげに哂う。  手前勝手に小さな咥内を掻き回し、喘ぎ声を絞り出す。 「はっ、はっ、はっ………」 「──はぷ。ちゅう、ちゅ……わかり、ましたっ……いいえ、お願いします」 「私の口は、夜行様のもの。お好きにしていただいて、んむ……構いま、せん」  戯れでいい。これがただの気まぐれでも心は火照る。  龍水にとって、夜行に求められただけで十分だった。猫を手懐ける様と同じでも、それだけで龍水は至福の時を味わっている。 「そうだな、知っているとも」  健気な少女の想いに対して、男に愛はない。情はない。  未熟な小鳥を愛でる。片手間と言わんばかりに、所有者として指先で歯茎をなぞった。 「健気なものだ。皮膚がふやけてきたぞ、これほど唾液を溢れさせるとは……陶酔するにも程があるな」 「まったく、それほど飼い慣らされたいか。首輪と鎖が恋しいらしい。私の元に摺り寄る者は、皆例外なくそういう気質だ」 「偉大と傅き、尻尾を振るのが〈何故〉《なにゆえ》それほど愉しいやら。理解できぬよ。捧げることが幸福とはな」 「ん、ちゅ……はい」 「信じておりますから、私は……夜行様のことを」  何を? 疑いなく総てを。  神州史上、最上にして最高にして最良な男であると。龍水は信じて疑わない、疑問を挟む余地すらない。  栄枯盛衰の理を、夜行だけは外れていると盲信している。  自らの理想を具現したかのような男なのだ。契りさえも交わせる間柄、となれば少女の献身に限界などありはしない。 「そうか。では龍水、おまえはどこまで私に貢ぐ?」 「私が持つものならば、総て」 「言い切ったものだ、ならば是非ともしてほしいことがあるのだが」 「…………っ」  似つかわしくない言葉に、龍水の喉が鳴る。  不安か、それとも期待か。今までの行為が前戯ならば、ついに〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈先〉《 、》が来たのかと想像したのだろう。  だが、悲しいかな……彼女は忘れていた。 「──今ここで、自ら慰めてはくれぬかな?」  この男がどれほど歪んだ性根の者か。理解の及ばぬ感性を有しているかを。 「ふえ? ──っ、そ、それは、しゅ、手淫、ですかっ?」  悦を覗かせ微笑む夜行は、本心から一人遊びを欲していた。  結合よりも少女の痴態を傍観しつつ肴にする。摩多羅夜行とは、どこまでいってもそのような男だった。 「ああ、そうだ。ここで私に秘所を向け、慰める様を見せてくれ」 「恥辱と羞恥に悶えながらも乱れて果てる。そんなおまえを見てみたいのだ。女子がどう昂ぶり、どう達するか、興味があるのだ耽ってみろ」 「よもや初めてというわけでもあるまい。私を想い、幾度となく股を濡らしてきたはずだ。そうであろう?」 「は、はわ、はわわわああああううう」  それは図星だっただけに、龍水から正気を奪う。林檎の如く紅潮しながら、意味のない言葉の羅列を呟いていた。  不用意に言葉を吐いた代償か。どうすべきかと混乱するその鼻先に、端麗な顔立ちを寄せて。 「なあ、龍水──」 「できるだけ淫らに没頭しておくれ」  頬を撫でながら、夜行はかつてないほど優しげに囁いた。  ──開脚し、その付け根を晒す。  指先を奉仕していた間から、倒錯した行いに女陰は濡れそぼっていた。 「うう、ううう……は、ぁぅ」 「く……ふ、やぁ……んぁ、ぁぁ」  おずおずと添えられた手が動く。手馴れているわけではないが、拙いわけでもない手つきはそれなりの経験を示している。  淫蕩に嵌まっていく龍水。少女が水音を立てる姿を、夜行は胡坐をかいて眺めていた。今にも杯でも傾けそうなほど、優雅に観賞の姿勢を維持している。 「や、夜行様……そうまじまじと見られると、んくっ」 「それがよいのだろう? みなまで言うな、分かっておる」  厳密には、盲目の夜行に〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。だが龍水は感じるのだ。視覚という枠を超えて自分を覗く超常の瞳を。 「私のことは案山子か木石だとでも思うがいい。そら、そのような間誤付かぬ手付きでは夜が明けるぞ」 「ひだをいじるだけでは物足りなかろう」 「ですがっ、ひゃぅ……んあぁ、あ、ふくぅ」 「はしたない? 粗相? 何を言う、私がそういう様が見たいのだ」 「命じたはずだぞ、淫らに耽ろと」 「昼夜問わず貞操などと、それこそつまらぬ。いずれ抱きまぐわうならば、不感であっては困るだろう」 「ああぅ、いずれ、まぐわ……ぅ、 あんっ」  つまり、これは予行演習だと。  見世物の体でありながら、言葉の内容に龍水はときめく。 「ほう、溢れ出たぞ。尻の穴まで垂れてきたな……」 「心地良いか、龍水。汗がここまで薫っておるわ、一度も触れておらぬというのにな」 「はぁ、はぁ、っく……は、い……んはぁ、ひぃぅ……!」 「見られて、いますのにっ……こんな、こんな姿を──くぅん」 「たまらぬと?」 「……はい、っ」 「何時もより?」 「ん、っ……ぅ……」 「答えよ」  ほんの僅か、声色すら変えず訊ねるだけで。 「…………は、い」 「いつもより、動悸が倍は跳ねているのを……感じておりますっ」  龍水は口を割った。夜行の口端がさらに深く弧を描く。 「なるほど、なるほど。──ならば普段はどのようにしているのだ?」 「実演してみせてくれ。我らはいずれ〈夫婦〉《めおと》と契る間柄。性感帯の一つぐらい、知っておいて損はなかろう」 「鳴かせてやろう。痴呆となるまで狂わせてやる。だから、なあ、何処がよいのだ。教えてくれ」 「初夜を迎えたその暁には、必ずそこを責めてやろう」 「あぁ……ああ、あぁぁ……」 「は、む……ちゅ──」  言いつけに従い、唾液を指へまぶし始める。  伊達に惚れているわけではない。自分がこれから何をするのか、己の口で解説しながらやってみろと……彼女は望まれているのを理解した。 「……ま、まず……いつもは、濡れていませんから。まずは指を舐めて、湿り気を帯びさせます……」 「それから私の……ほ、〈女陰〉《ほと》に、伸ばして」 「ん、はぁ……外側から凝りを解きほぐすように、んくっ……」 「手淫、をっ……始めて、おります……ひぅ、ぁ……」 「無心でか?」 「っ……い、いいえ……ん」 「ほう、では想像する肴は何なのかな? 女心は摩訶不思議。皆目、見当がつかぬのだが」 「くふぅ……あ、あ……それは、それ……は」  ちらと視線を寄こせば、返答を心待ちにしている男がいる。  舌を犬のようにつき出しながら、涙を浮かべて告白した。 「──夜行様っ、です。夜行様のことを……想い、ながらぁ……っ!」 「私は、布団の中で、何度も……くひ、ぃっ」 「していたわけか。今のように」 「はい、していました……ぁ!」  答えながら龍水の指使いが激しさを増していく。  雰囲気に感化されてきたのか、吐息に熱がこもった。瞳の焦点が合わなくなり、快楽の波に流され始める 「いずれ結ばれる、未来を……くぅん、夢想しながら、っ」 「ひ、んっ……夜行様に相応しい、御門の世継ぎとなれる……よう、あ、ぁ、くひぃ」 「……まぐわいを、想い焦がれてっ。んんんぅっ、ひゅぅ──!」 「秘核をこねておったか、そのように」  敏感な肉の芽を摘む。喉の奥から、大きな音色が奏でられた。 「器用なものだ。膜も破らず丁寧に、よくぞそこまで捏ね繰り回せる」 「奥まで掻き毟りたかろうに、その小さき孔……目一杯まで広げてみたりはしなかったのか?」 「〈胎〉《はら》が疼いてたまらぬだろう。何故そうせぬのか」 「それは、んぃ……できません、まだっ」 「決めております。何より先に、ここへ受け止めるのは……っ、ぁ」 「真に……〈夫婦〉《めおと》として、逢瀬を重ねたときなのだと」 「ああぁ、く……ひ、ぅ……それまでに、失うわけにはいきません……」 「別段、欲しいと言った覚えはないぞ。それとも私はよほど初物を好む雄に見えたのかな?」 「そ、そんなことは……んっ、ですが、私は……」  痕跡をつけてほしいのだろう。新雪に足跡を刻むかのように、愛おしい者に初めて手垢をつけられたいと龍水は口ごもっていた。  婦女の妄想に拘りなどは感じない。夜行は薄く微笑するのみだった。 「冗談だ。私はどちらでも構わぬ以上、おまえの好きにするがいい」 「そこを破ってほしいのだな、あい分かった。来たる時にはそうしよう。醜悪な刺青を刻むように、未踏の媚肉を蹂躙してくれるわ」 「どうだ……嬉しいか、龍水」 「はい、嬉しく……思います、ぁっ!」  悪趣味な所有物宣言、烙印を押すという宣言にさえ龍水は昂ぶる。  もはや脚は見せ付けるように開いていた。足の指がぴんと伸び、痙攣する感覚が短くなり── 「ふああぁぁ……夜行様っ、やこう……さまぁ、ぁ」 「きます……こんな、大きっ……ばらばらになる、ような……」 「ああ、ならばしばし待て──」  何気なく空の杯を置いた。それも、龍水の秘所の前へと。 「ぁ……そ、それは……?」 「ん? なに、ただの好奇心だ。私の許婚は、いったいどれほど〈粗〉《 、》〈相〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》とな」 「────っ、な、え」  やはり常識を外れた感性で、変態的な行動を平然と語った。 「何でも好きなものを出すがいい。先に言っておくが、幻滅などせんよ。安心して気をやるがいい」 「深い意味もありはせぬ。単に、なんとなく、見てみたくなっただけなのだからな」 「そんな、見てみたくだなんてっ……っん、ぁあああ」 「や……駄目、です……止まって、ぅ、はぐ……ぅ」  驚くも湧き上がる快感は止められない。いや、むしろ驚愕がきっかけとなり最後の一線を突破する。  朦朧とした視界の中で龍水は上り詰めた。そして── 「──ん、ぃ、ぃぃふゃぁあああああああ!」 「ああっ、あぁ、ぁ、ぁ……あ、ぁぅ……は……」 「はぁ、はぁ、ぁ……んっ、ふぁ……はぁ──」  雫が飛び、杯に落ちる。  僅かな刺激臭と共に飛び散った愛液。龍水の身体が糸が切れたかのように弛緩した。 「ふむ、なるほど……」 「龍水、おまえは達するとそうなるのだな」 「ふにゃ……は、はぅ……はひ……」 「では後始末だ。さあ、自ら汚したものを舐め取るがいい」  言いながら、指で掬った液体を龍水の口腔に流し込む。 「あ、はぁ……ふ、ん……」 「旨いか? 旨いだろうなあ。私を思い、漏らしたものなら、すなわちこれも私の一部」 「おまえと私が混じりあった甘露だろう」 「わたしと、夜行様が……」 「そうだ。旨かろう」 「はい……この上なく、美味に、ございます……」 「あ、ん……ちゅ、んん……」 「あぅ、はふぅ……夜行様……」  息も絶え絶えに、しかし天上の至福をもって少女は甘露を嚥下する。それは性の遊戯が終わりを告げたことを意味していた。  逢瀬は結局、終始一方的なもの。  これは夜行の人形遊びに等しい。気まぐれに嗜んでみた少女の開発、男女の契りなどでは断じてない。  そもそも、夜行の興味はそこにない。それが何処にあるというならば── 「楽しみよな……あと数刻が待ち遠しい」  待ちきれぬ闘争までの暇つぶし。つまりはそういうわけだった。 「……数、刻? 化外との決戦がですか?」 「そうとも。──さて、私は誰を討ち取るべきかな」 「誰であろうと……」  彼に斃せぬ者などいるはずがない。龍水はそう信じていたし、それは疑う余地のない決定事項に等しいものだ。  しかし、強いて言うのなら、彼が誰に興味を持っているのかは気になることで…… 「母禮、ですか?」 「いいや、あれも捨て難いが、それよりも大獄よ」 「大獄……?」  その答えに、龍水は訝しむ。これまで特に、自分たちとは接点のない相手だったはずではないかと。  そう思うのは、しょせん夜行の視点でものを見れぬ自分の卑小さゆえだろうか。 「勘だがな、あれは試金石として申し分ない」 「試金石……」 「然り。あれが最も〈私〉《 、》〈に〉《 、》〈近〉《 、》〈い〉《 、》」 「なぜいるのかよく分からんあぶれ者だよ。そして私も、そこは同じ」 「共に理由などないのかもしれん。この東征に、さして期するものがない浮いた者同士。だからこそ、期待がある」 「あれはもしかして、〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈用〉《 、》〈意〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈ぬ〉《 、》……と」 「予感がある。興味深いと思わぬか」  問いに、龍水は答えられない。だが、夜行が言うならそうなのだろう。そこは疑いもなくそう思った。 「宿儺と大獄、この二体は紛れもなく異端だ。化外にあって化外の理に反している、共に穢土へ馴染めぬ身空。捩れておる」 「化外の者らが生き場を追われた鰐ならば、あれらは鯱か、鯨かな? どちらにしても……」  無様なことだと男は呟く。喉の奥で嘲笑を転がしながら、愛さえこめて頬を歪めた。 「くははは、哀れなものだよ同情しよう。絶望ばかりで芸の無い」 「私にそれを教えてくれると言うのなら……」  その果てに磨耗せよと、心底から楽しげに寿いでいた。 「…………」  夜行の言葉が示したものは何なのか、龍水には分からない。  蜘蛛に存在する真理の指摘であるはずだが、それだけではない。このとき龍水には、なぜか自然とそう思えた。 「ゆえに、前座としては申し分ない。徒花と散れ、露と失せよ。私は誰も差別せんよ──これ平等に摘んでやるとも」 「それに──」  刹那、夜行の眼光から嘲りが消える。  この太極を、否その先を、何処とも知れぬ果てまでを。 「これ以上敗者に構う暇などないのだ」 「征かせてもらうぞ。私を見下ろす断崖までな」  見据えながら無表情に宣誓した。  宣誓を聞き届け、ソレは憎悪の焔を滾らせた。  おぞましい。穢らわしいぞ。よくも、よくぞ、斯様な言葉を吐いてくれたな。  とぐろを巻いた蛇神が唸りをあげて身震いする。眼下で繰り広げられた逢瀬の真似事を前にして、ソレは憤怒の波動を顕わにした。  安らぎに満ちたあの黄昏を覚えている。  総てを包んでやりたいと、無垢に微笑んだ女の顔を覚えている。  覚えている。自らの存在など比べ物にならぬほど、その女を愛していたことを。  ゆえにそれ以外の総てをなくした。『奴』に対する敵意以外、他には何も分からない。  数多の想いは激情の坩堝へと消えている。太極に澱み溜まる無限の怒りは、世界を喰われてなお尽きぬ極大の怨嗟に染まっている。  その奥の奥、吹けば飛ぶような何かが残っているが分からない。ただそれだけを守るために、狂える憎悪を身に纏う。  女の愛したかつての己をかなぐり捨てて、変わり果てたことさえ気づかぬままに神魔の貌で猛るのだ。  哀れ、夜刀は思い出せぬ。女の名も、繋いだ指の感触も、交わした逢瀬も、抱きとめた幸福も、何を語り何を託してくれたのか……一切合財みな総て踏み躙られて喪失している。  血涙を流し牙を噛み鳴らして悲痛に歪む絶叫をあげた。  〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》〈奴〉《 、》〈の〉《 、》〈法〉《 、》〈を〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  我らを滅ぼしたいと思う気持ちこそ■■■■■■■■■■■■――  その果てはおまえたちにとってこその■■■■■■■■■■■――  だからだからだからだからだから――― 「だから散れよ。灰燼と化せ」  砕けた意識は等しくそこへ帰結する。敵は滅ぼす、容赦はしない。かつての面影を悲しいほどに覗かせて、もはや存在しない面影を思いながら、迸る気炎を吐き出した。  大蛇の〈顎門〉《あぎと》が左右に裂け、純粋な憤激が伝播していく。憎悪の絆に対し、何より早く同調したのは荒ぶる二柱の〈戦神〉《いくさがみ》。  誇りと誓いを侮辱された、英雄の骸が立ち上がる。 「そう、思い知らせなければならない」 「踏みしめてきた花の一輪、その痛みまで」  土足で楽園に踏み入ったか。足の裏さえ穢れが移る、ならば膝から下を磨り潰してやろう。  彼らは一途で純粋だった。怒りを共有することに不満も苦痛もありはしない。必要とあらば先陣を切り、そこに異論を挟まない。  せめてここだけは守りきる──奪われ、守り抜けずに朽ちた男と女だ。その未練は今も魂の芯へと刻まれている。 「正直、予想外だったよ。ここまで攻め入られるとは夢にも思わなかった」 「ましてや僕らの内から欠員まで出るとはね。素直に認めるしかないだろう、以前とは違う」 「だとしても、あれらの本質は変わらないわ。見ているだけで気持ちが悪くて、この目を抉りたくなってくる」  〈あ〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈異〉《 、》〈分〉《 、》〈子〉《 、》〈は〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈し〉《 、》、〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そう確信できる思いこそが、穢土太極の根底を成している。  そして、彼らの主柱がいかに狂っていようとも、そうした部分を見誤るはずがないという信頼も。  だからこそ、この状況に原因があるとすればただ一つだ。 「こうなったのは全部、あの人のせいよ。奴らに契機を与えたのも、それがここまでになったのも」 「許せない……出て行くのなら勝手にすればいいものを、そんなにも道連れが欲しかったの?」 「彼はもういないのに。それでもまだ、外の何処かに欠片が残っているとでも思ったのか……」 「   」 「   」  愛憎、支離滅裂な感情が覗く。  穢土を捨てた恨みを吐いていたはずが、いつの間にか母禮の言葉は哀悼の嘆きへと変わっていた。  それを労わるように悪路がしなやかな金髪を撫でた。慈愛をこめて、何も言わぬまま寄り添って。 「どうだかねえ。状況が見えてないのはどっちなんだろうかな」  揶揄する声が響く。場違いに享楽的な隈取の鬼が、そのやり取りを笑っていた。 「まったくあれだ、馬鹿は永久に治らなかったもんだから、優等生面もまたこれくらいじゃ変わんねえか」 「助っ人の一人や二人じゃ趨勢は変わらねえよ。こいつはもう少し根が深い、もっと根本的な問題だろうが」  肩を竦める仕草は胡散臭いほどに似合っていた。飄々としながら母禮の態度を眺めている様は、怒りを〈縁〉《よすが》にしていることを疑うほどに白々しい。 「どういうこと? 少なくとも間違ったことを口にした覚えはない」 「連中が私たちの本質に気づいたのは、あの人がきっかけでしょう。それがなければ、緒戦で片がついていた」 「あぁ、そう? まあ、おまえさんはそう思いたいわなぁ。でねえと実力で奴らを討てなかったことになる」 「お姉さまに名前呼ばれちまったから、それが全部の原因だと」 「でもよ」 「本来ただの細胞ごときに、その意味が分かるはずはねえんだよ」  実際、それは的を射ていた。  彼らの〈咒〉《な》はすでに抹消されているもので、ゆえに西の者に呼ばれてしまえば敗者という世界法則の型に嵌る。だからそれによって著しい力の減衰や甚だしい場合は消滅にまで至るのは道理だろう。  しかし同時に、消えた咒だからこそ西の者にそれを理解できるはずはないのである。まして発音するなどと、本来なら有り得ないことだ。  離反者――穢土と根を同じくする龍明ならまだしも、他の者がこれを解読するなど出来るわけがない。 「だけどしている。ふん、こりゃ由々しい問題だぜ。実は誰かの血縁だとか、魂の一部があっちに流れてどうたらこうたらとか、そんな話じゃねえよ、甘くねえ」 「秒読みが近づいてるってことさ。それを認めたくなかったんだろ、違うかい?」 「この箱庭でよ、古い馴染み同士傷舐めあって、たまにやってくるジャリ餓鬼どもを叩き潰してりゃ万々歳ってか? おいそりゃ違うだろ。情けねえじゃねえか」 「オレらは当の昔に詰んでいる。だったらその意味を考えようや。何のために今いるか」 「それは……彼と彼女の夢を守るため……」 「あいつがそう望んでいると?」 「違うと言うのッ?」  存在意義の大前提を覆すような宿儺の台詞に、母禮の語調も強くなる。それ以上世迷い言を吐くのなら、切り捨てると言わんばかりに。 「違わねえが、正解でもねえさ」 「あなたになぜそんなことが」 「分かるさ。そりゃオレだからな」  有無を言わせぬ返答は、何の説明にもなっていないようで、しかし絶対的な重さを持っていた。 「オレだから分かる。オレが何なのか、知らねえわけじゃねえだろう」 「〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈は〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈だ〉《 、》。そういうわけで、オレはお姉さまの離反とやらを賞賛するぜ。実にありゃあ、良い女だ」 「もっと自由に動けてりゃあ、とっくにオレがやってたことだ」 「──っ、あなたは」 「否定するかよ、この〈穢土〉《オレ》を」  揺らめく怒気に呼応して空間へ熱波が混じる。喉が爛れんばかりの高熱は、しかし柳に風と受け流されていた。  余裕綽々。ただ眺めている。真意の見えぬ視線を向け、澱んだ瞳を覗き込んでいた。  遠い昔に壊れてしまった光景を、睨み合うことで焼き直しているかのように。 「そこまでだ。これ以上、彼女を追い詰めるのはよしてくれないか」  柔和な、それでいて二の句を許さないという声が響く。 「君の指摘はいちいちもっともだと思うが、それでも少々棘が多い。もう少しだけ、どうか優しく接してほしいな」 「まして僕らは残り少ない同胞だ。つまらない諍いでいがみ合うのは、とても悲しいことじゃないか」 「兄さん……」 「過保護だねえ、さすがお兄ちゃん。おまえもちっとは見習っとけよ、この溢れんばかりの器のデカさ」 「あなたは……誰のせいだと思っているのよ」  緊張は霧散した。あれほど張り詰めていた空気は払拭され、軽口は一気に親しみを宿して繰り広げられた。  その馴れ合いはかつて失った姿のままに繰り返される。  滑稽なほど何一つ変わることなく、昔日のままに。 「それより……一つ聞かせてくれないかな?」 「これから僕らは出るつもりだが、君が言った〈君〉《かれ》の意志とは、何処に着地を求めている」 「君が今いる理由とは?」 「決まってらあな」  問いに、宿儺は即答で返す。 「最後に勝ってやるためだ」 「ぶっちゃけあんたら、あいつがあの調子でいつまで保つと思ってんだよ」 「…………」  その質問に、悪路は無言を貫いた。今まで呆れるほど時を共有しながらも忌避し続けていた話題を前に、見解一つ口にしない。  ここが楽園であるという見解。そこには宿儺も異論はない。この地は天上楽土であり、唯一残る彼らの地平だ。留められている身である以上、これが永遠であるのだと信奉する他ないのである。  だが、彼らは知っている。限界の示唆、複数の世界はいつまでも同時に存在できないことを。鬩ぎ合いは永遠でなく、負けたほうが食い潰される。  それは何時? もしや明日か? 考えるだけで身震いする。悪路や母禮にとっては想像すらしたくない。  この〈世界〉《らくえん》が消えてしまうなど。決して認めるわけにはいかなかったから── 「させやしないさ、この身に代えても守りきる」  宣誓し、宿儺の隣をすり抜けた。 「君のことは信頼している。何がどうだろうと彼のために動いているし、それはきっと僕たちにとっても良い結末になるんだろう」 「だからこそ、こちらのことも信じてほしいな。僕らが貫きたいと思うことも、きっと君の望みに繋がっているんだと」 「おお、当たり前だろ。信じてるぜ」 「これ以上、二度と失ったりなどするものか」 「ええ、もう何一つ奪わせないわ」  確かな決意を内に秘め、母禮も続いた。 「あなたは降参したいと言ってるんじゃない。最後に勝ってやるためって、それは素敵な衝動ね」 「だってこれは遊びじゃないもの。一度負けたら全部諦めて消えようだなんて、それこそ負け犬というものでしょう」 「ああ、潔いのと無責任なのは違うわなぁ」 「まあ、脳の足りん餓鬼どもにゃあ分かんねえ高尚さだろうが」 「あるいは、それを教えるためかい?」 「その気持ちこそを守るために」  残骸が信念を口にする。かつての面影は飾りであり、彼らに残るのはそれだけだ。そして、それで満足もしている。 「だって私は──」 「〈兄さん〉《あなた》が傍にいてくれれば、いつだって幸せだもの」  妹として──女として。  思い出は根こそぎなくしたけれど、それだけは心にしかと刻まれている。炎と稲妻の祈りとなって、彼女の裡を照らしていた。  だから守る。守り抜きたいのだ。今度こそ。  もう取り戻せないと知っているから、ならばせめてこの泡沫だけでも、皆を照らす光になりたい。 「……僕もだよ」 「君が傍にいてくれるから、何よりこの地を守りたい。君がいてくれるから、僕は小さな誇りを抱いていられる気がするから」 「守りたいと、そう思えるんだ」  兄として──男として。  思い出は根こそぎなくしたけれど、それだけは心にしかと刻まれている。穢れた身となってでも背負いたい輝きが残っていた。  だから守る。守り抜きたいのだ。今度こそ。  もはや過ちは犯さない。この絆を必ず背負おう、互いに朽ち果てた今であろうと、手を伸ばしてあらゆる苦痛を引き受ける。  だから彼らは戦うのだ。本当に単純なたった一つの理由のために。 「共にいよう。二人で」 「うん。ずっと一緒よ……いつまでも」  それだけで彼らは未来永劫幸せだから。  雄雄しく共に並び立つ姿は戦友であり、切り離せない比翼の誓いでもあった。  その背を見送りながら宿儺は笑う。〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》といった先ほどのやり取りを懐かしげに、目を細めて頬を歪めた。 「一途だねえ、変わらず幸せそうで何よりだ」  それでこそ、この無間の底にも光が消えていないと思える。 「あんたもそう思うだろう? つまらなさそうにだんまり決め込んでないで、なんか言ったらどうだよ。なあ」  背後──いつから居たのか、幽鬼の如く佇んでいた影に宿儺は変わらぬ態度で語りかけた。  直立している鎧姿に気配はない。置物であるかのごとくそこに在り、物言わぬ彫像よりも静かに無言のままを保っている。  その名は大獄。〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が一柱にして、最も非活動的な化外が虚ろな眼孔を晒している。 「それともそういうスカした態度、まだかっこいいとか思ってるわけ? うわぉ痺れるぅ。さっすが英雄様は違うねえ、斜に構えていないと胸張って生きていけないわけか」 「ああ悪ぃ、もうずっと前に終わってたんだなオレら。こいつは失言だったよ、許してくれや」 「……ったく、だんまりかよ。よくそんなんで兵隊稼業やれてたもんだ」  大獄は何も語らない。真実それは亡霊であり、骸であり、抜け殻であった。臓腑を失くした空虚なものが言葉を返すはずもない。  宿儺を動とするのなら、大獄は徹底した静の具現。  それは沈殿した現象の末路だ。強烈な純度を保っているだけに、同種からの接触さえ界を揺らしはしない。語る声を意に介さず、緩慢な動作で己も出陣せんと歩みを進めた。 「おいおい、待てよ。ここまで来て知らぬ存ぜぬはないだろう」 「人が珍しく話しかけてやってんだから、ちょっとは態度を改めな。戦争奴隷にはそういう風情も欠けてんのかよ」 「何の用件だ……」  奇跡と言い換えてもいいだろう。  大獄の足が止まる。根負けしたわけでもなければ、何がしかの機微が働いたわけでもない。だが確かに、宿儺の呼びかけに応じて小指の先ほどの思惟を向けた。  それは間違いなく彼らが存在してから初の事態であり、下手をすれば今の世界が構築される以前、幾億にも及ぶ時の流れにおいても初めての出来事であったかもしれない。  視線が混ざり弾けあう。親愛など欠片もない。究極的にすれ違い続けた両者は、絶望的に遠い心的距離を顕わに顔を突き合わせていた。 「べっつにぃ。ただあれだ、喧嘩におもむく前に一つ聞いておきたいことがあってな」 「こっちもあんたと会話するのは辛気臭くて御免だが、他に適役がいなくてよ。いい機会だと思ったからこうして声をかけてみりゃ……案の定、気分が悪くて仕方ねえ」 「こういう部分は変わんねえか。損な役回りだとつくづく思うぜ」  噛み締めるように、あるいは誇るかのように呟く。  その態度の何が癇に障ったのか。大獄から僅かな気が生じる。戯言を終わらせ本題に進めと訴えていた。 「睨むなよ。わかった、了解、端的に言わせてもらうさ」 「一息で済む質問だ。何も難しいことじゃない。でなけりゃ不干渉破ったりするもんかよ」 「つまりあれだ。これから一つ、久方ぶりに喧嘩の華を咲かせるわけだが──」 「おまえ、本当にやる気あんの?」  その一瞬、驚くほど空間が静まり返る。  殺気。鬼気。死の臭いさえ消え去った。あまりに歪な静謐が天魔を中心に発生し、無間地獄においてなお異彩な空気を生み出している。  恐らく、彼らはこれを避けていたのかもしれない。  一度でも論を交わせば必ずこうなる。そう知っていたがために、ずっとこの瞬間を遠ざけて。 「……愚問だ」 「〈一度〉《ひとたび》戦場へ赴くというのなら、手を抜く理由など存在しない。老若男女の別もなく、等しく終焉をくれてやる」 「は、胡散臭えな。ずっと前から死んでただけの男がよ、何吼えてやがる」 「真面目に生きてなかった奴の矜持なんざ、まともに掛け合ってくれるかよ。玩具でいるのはもう御免だろ。ならいい加減、とっととおっ死にたいんじゃねえのかい?」 「丁度いいぜ、粋のいいのがやって来てんだ。戦士の誉れだの、英雄の条件だの、適当ほざいて突っ込めよ。どいつもこいつも脳の浮かれた戦狂い……おお良かったな、選り取り見取りってやつじゃねえか」  様式美を保って死に果てる。大獄がそれを望むというのなら、これほど都合のいい機会はない。  生き残りを賭けた決戦場。敗者が命を賭けるには十分すぎる祭りなだけに。 「死ねるぜ? 今度こそ」 「逆らえんのかよ、その誘惑に。すげえ魅力的に感じるんじゃねーの? お宅みたいな奴には特によ」 「その杓子定規な典型的なお題目で、心の底からマジになれんのかって聞いてんだよ、オレはさ」 「なあ……どうなんだよ」 「嗤わせる」  かつての矜持を刺す詰問を一笑に付して。 「死にたがっているのはおまえの方だろう」  最高に痛烈な返しの刃を叩きつけた。 「…………」  宿儺の笑みが消え失せる。空間はさらに静けさを増し、無間の太極が耐えられぬと軋みを上げた。  夜刀の世界がこの二柱により亀裂を走らせているかのように。  無間地獄に有り得ぬはずの負荷がかかる。 「狂言回しに扮している男が何を言う。誰よりも、この俺よりも、無間の地獄に適応できぬ輩が粋がるな」 「自滅の因果を紡ぐのならば、好きにしろ。ある一点においてのみ、俺とおまえには共通しているものがある」 「〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈意〉《 、》〈志〉《 、》〈だ〉《 、》」  親愛、悲憤、悔恨、そして羨望か……短い台詞に、形容できぬほど万感の思いがこもっていた。 「俺が嫌々動いているとでも、思いたいのか貴様」 「ああ確かに、今のあれは変わり果てたが……」 「黙れよ」  そして、それをこの男は許せない。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈を〉《 、》〈語〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》と、牙を剥き出して激怒した。 「だからこそ、ただ終わり逝くだけにはいかねえだろうが。いつまでもこんな汚濁に浸かったまま、仲良しこよしでいられるか」 「このまま薮蚊の如く潰れはしねえ。そうだ、そんな程度であっていいはずないだろが」 「あの馬鹿が甲斐もなく、救いようのない馬鹿のまま、〈虫螻〉《むしけら》として消えてくなんてな……」  煩わしくも好ましかったあの渇望を、敗北した塵と呼ばせない。ゆえに。 「オレは、絶対に認めねえ」 「笑っちまうぐらい青臭かったあの〈勝利〉《せつな》を、くだらない有象無象へ変えてたまるか」  それが宿儺に残った憎悪のカタチ。  余人に断てぬ呪いの絆、旧世界の祈りだった。 「そうだ──俺も敗北など求めていない」 「誤解すんなってか? 願いはあくまでも勝利だと」 「要は納得の問題だ。おまえとは違う形になるだろうが」 「どちらもあいつの裏ってわけかい」  彼らは地獄に馴染めない。だが〈地獄〉《これ》がなければ、その祈りすらも消え去っていたという矛盾の具現としてここに在る。  留めたい。だが在ってはいけない。では禁忌を展開している動機はいったい?  憎悪、執念。それがもっとも強いものだが、同時にただの外装だ。彼らの主柱は言語を絶する鬩ぎ合いを今この時も続けているため、最大の質量を持つその思いに全精力を注いでおり、芯の部分を見失っている。  つまり、手段のために目的を喪失している状態だ。穢土を維持し続けるため、他のことが出来なくなっているのだから是非も無い。そうでなければ、とうに諸共、消えてしまっていただろう。  だからこそこの二柱がいる。穢土の真なる目的を引き継いで、完全な勝利をもって終わらせるために。  骨の髄まで反りの合わない彼らだが、共に主柱の裏面なのだ。宿儺はそうした己の業を知っているし、だからこそ似て非なる大獄が気に入らない。  〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈想〉《 、》〈い〉《 、》〈を〉《 、》〈完〉《 、》〈遂〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。そうした矜持が何よりもある。 「てめえの在り方は水銀中毒が基にある。正当じゃねえ」 「だから不本意にも巻き込まれている、哀れな奴隷であってほしかったか? 淡い期待をしたものだ」 「抜かせよ、だがまあいい」 「とりあえず、やる気があるって分かっただけでも収穫だ」  何にせよ、分かり合えぬところは変わらないが。  そう鼻を鳴らす宿儺を見やり、大獄は薄く笑ったようだった。 「最後だ、おまえが聞きたかったことを言ってやろう」 「加減はない、全霊だ。俺の〈終焉〉《せつな》を波旬の法に譲りはしない」  かつて、最高の形で彼の聖戦は終わったのだ。あれを真の結末と定めただけに、大獄はその物語を汚す存在を許さない。  それは宿儺と同じであり、『彼』との関係にも収束していた。 「おお、やっぱオレ、おまえのことメチャクチャ嫌いだわ」 「お互い様だ」  こいつは己の敵である。不毛な確認作業はそれで終わった。  停止の破壊を運命付けられた男たちは、前だけを見て同じ歩幅で去っていく。  この楽園を終わらせるために、有象無象に奪わせるかと、魂を奮わせながら出陣した。  鬼神はみな決意を秘めて旅立った。揺らめく闘気が太極の場から一掃される。そして、ゆえに── 「大丈夫だよ。みんな、君のために戦うから」  そこへ残る献身的な想いが浮き彫りとなった。  金の瞳が悲哀に沈む。狂える夜刀を鎮めるために、寄り添う常世が慈愛の祈りを捧げていた。 「だから、お願い。もうそんなに悲しまないで」 「私じゃ代わりになれないけれど。君にとって大切なのは、彼女だって分かっているけど。それでも……ずっと傍にいるから」 「辛くなんてないよ。みんな一緒だから」  切なげに伸ばした指先は……しかし、夜刀に触れられない。  常世は微かに覚えている。慰めることが出来たとしても、彼が愛したものは黄昏だと。  この男は己を選んでなどいない。彼の隣にいるのはもっと相応しい女神がいて、哀絶の涙を流しているのはそのためなのだと分かっているから。  選ばれなかった自分には抱きしめる資格がないのだ。それだけは、何故か壊れ果てた記憶でもはっきりと覚えていた。 「痛いよね? 苦しいよね? だけどやめる気なんてないんだよね」 「戦おう。そして勝とう。もう一度、私がその場に立たせてあげる。それはもしかして、最悪の結末に向かうのかもしれないけれど」  今や自分たちは、その総てが彼の一部。だから皆の選択が、彼の意志と言って構わないはず。  だけど、不安が少しあるのだ。これは邪念なのかもしれない。 「私は、君を……」  その想いゆえに、震える指は空を切る。  絶対に失くしたくない気持ちが胸にあって、それをずっと持ち続けたけど、もしもそれが、彼にとって邪魔な異物だったらどうしよう。  自分の邪念が、彼を歪めてしまうかもしれないから。  消えた黄昏を忘れて自分が抱きしめてやるだなんて、そんな恥知らずなこと言えやしない。  だからせめて、せめてこれだけはと、かつて届かなかった愛を復唱するのだ。 「ねえ、聞こえる? 私ね、今とても幸せだよ。君のおかげで消えていない。こうやって小さな陽だまりを守ることができているから」 「みんな君に感謝してる。塗りつぶされて、なかったことになんてされたくない。あんなものに壊されたなんて思っていない」 「そんな心を守ってくれたのは、他ならない君だから……」 「誰がなんと言ったって、私は今を誇っている」 「そして、みんなも──」  続く独白を飲み込んで、代わりに優しい微笑をこぼす。  うまく笑えたかはわからない。だが僅かでも、かつての残影に癒されてくれたら嬉しいと思った。 「少しでも役に立てているのなら、それだけですごく幸せ」 「安心して。これから先、誰にも君を傷つけたりさせない。そんなことは絶対に許さない」 「許さないんだから」  もう目を閉じたりなどしない。  耳を塞がない、口を噤むことも、呼吸を止めたりもしないと決めていた。心は怒りで紅く染まっている。愛したものを汚された屈辱に、暗い篝火が轟々と燃えていた。 「私が君を、消えさせたりだなんて、しない」  この無間に続く神無月で、それが自分の役割だと信じているのだ。  そして──  嵐の前に訪れた、僅かな凪が過ぎ去った。  夜が明け、陽の光が登る。黄昏から続いた無明の闇を照らすが如く、今これから曙が訪れると信じて。  いや、自らの手で朝焼けの輝きを生み出さんと欲するために。  ここに、東征の宴が幕を開けるのだ。 「──聞こえるか、憂国の志士たちよ」 「これより我らが赴くは最後の戦場。残る化外を討ち果たし、神州の地を取り戻せるか、総てはこの一戦に懸かっている」  高らかに凛と透き通る声が響き渡る。  垣根の如く列を成した兵へ向け、久雅竜胆は将の威風を靡かせていた。  眼下に整列する鎧の数は嘗ての半分以下しかない。されど質が違う、業が違う。この者共こそ紛うことなき古強者。  天魔の猛威を生き延びてきたのは伊達ではなかった。補修しようとも補修しきれぬ装備の傷が、一糸乱れぬ佇まいが、その事実を何より如実に物語っている。  迸る気概の波は剛のもの。ゆえに竜胆の気が一点の華となる。  この男共を率いる将の器。覇道が内より滲み出ていた。 「此度の東征は軽挙妄動であったと、そう痛感した者も多いだろう。ここで勝機を謳うなど、物狂いにも劣る妄想であると感じている者さえいるだろう。今からでも逃げ出す算段を講じている者らさえ、必ず幾人かはいるはずだ」 「己が保身に駆られるその思いを、責めるつもりは微塵もない。かく言うこの身も多分に漏れず、化外の力に心折られかけた一人なのだから」 「大敗の数々は傷となり、記憶の底で化膿している。弁解は恥の上塗りに他ならぬから、本音を晒そう。私は今も彼らが恐ろしくて仕方がない」 「被った犠牲を思い返すたび、次は何を奪われるのかと腕に震えが走るのだ」  龍明、丁禮、爾子。竜胆にとって親しかった知己の顔が脳裏をよぎる。  分かっている。彼らには彼らの理由があり、それが譲れない強固な誓いであったことも。清算や身投げにも似た意地が必然的に死へ導いたと見当もつく。  避けては通れぬ道であった。だから足を止める理由になどしてはならない。それこそ侮辱と知っていたから。  第一、死亡したのは僅か三名などではない。有象無象の兵士達、数で単位を量られて、減っては継ぎ足し補充される者達はいったい何万人が死んだだろう。  背骨が軋む──これが背負うということだと、海より深く思い知った。  重みで潰れそうになる精神を幾度叱責してここまで来たか、竜胆はもはや覚えていない。 「穢土を超え、この地へ至るまで数々の者が猛る命を散らしてきた。未踏の地を切り開くため、必要な犠牲だと割り切りながら屍の上を踏みしめて。それも一切振り返ることなどないままにだ」 「墓の一つさえ作る暇や余裕もなかった。無駄に流れた血潮など、ただの一滴もないというのに。我々は前へ前へと征かねばならず、進軍すればするほどに大恩ある者達の骸を置き去りにしていく」  死人に礼は届かない。ゆえに。 「ならばこそ、我々は報いなければならない」 「志半ばに果てようとも後に続くものがある。想いを酌むという行い、継承される絆こそが幸福であると信じられる」 「仁は死なぬ、忠は滅びぬ。受け継がれていくのだ。魂と共に私たちの身体さえ飛び越えて。だからこそ此処まで辿り着けたのだと信じている」  我を貫き、散った他者など知らぬ存ぜぬ。否、捨て置いたことさえ忘却し、手前勝手に酔い痴れ進む。  我欲のために。褒美のために。賞賛のために。武のために。  ああ違う、そんなものではないだろう。穢土を越えて最北端まで化外の蜘蛛を追い詰められた。それを成せた理由とは、決して、独力の群れだったからではない。 「独りではなかった……繋がっているのだ、私たちは」  ゆえにかつてとは違う。竜胆はそう信じている──信じたいのだ。今までも、これからも。 「国を愛し、家族を愛し、友や女を守るため、命を懸けて戦おう。たとえこの身が潰えても、想いを語り継ぐ者がいる。そう思ってくれる限りおまえたちの生は不滅だ。なぜならすでに、皆が互いの魂を抱いているから」 「ならば勝てる、必ず勝つ。負ける道理が何処にあろうか!」 「この蝦夷を征した暁には──」 「共に雄雄しく、肩を並べて凱旋しよう。胸を張って〈秀真〉《ほつま》へ錦を飾るのだ!」  覇気は大気を震わせて、将の器は示された。  向上していく志気が大波となり末端の一兵卒まで伝播していく。  白熱した猛りが気運さえも引き寄せんと荒れ狂う。古来より、将の役割とは戦術の前に武力の前に、突き詰めればこれ一つきり。  この方の許ならば勝てぬ戦など在りはしない──配下の臣に道を示し、一片の曇りなく狂信させること。  それを成すが大器の証。錬鉄を重ねた鋼のごとく、長きに渡る旅路は竜胆に破格の気骨を与えていた。  瞬間――  それを許せぬ者達もまた奮い立つ。  蝦夷の大気が鳴動した。吼えるな塵めと憤然し、野垂れ死ねと天へ血走る瞳が開く。  空を割って具現する満月。瞳孔から流血のように垂れ流されるは、極大を超える憎悪の波動。  かつてのように。いつかのように。殲滅しよう、全潰してやる。  悲憤に塗れた慟哭。見覚えのある紅の雨。溢れ、飛び散り、大地へ目掛けて殺意の雫は落涙し──  ここに再び、阿鼻叫喚の人外魔境が顕現する。  大地を無尽に埋め尽くし、蠢き犇く蜘蛛の平原。そして化外の軍勢を率いるは、更なる波濤を漲らせた巨大な二柱の戦神。  猛る腐蝕が毒を滾らせ、轟き荒ぶる炎雷が魂砕かんと咆哮した。  予告予兆なき一斉進軍以上にその雄叫びが気勢を削ぐ。  見上げる様は山の如く、奮う腕は巨岩のようだ。僅か一振り、それだけで戦線は決壊して死に至ると仰ぐ誰もが連想した。  ゆえに、決断は今この時、この瞬間に託される。あれが一足踏み出すその前に動きを止めねば全滅しよう。ならば── 「……冷泉殿」 「分かっておるよ。兵のことは我に任せていただこう」  傍らに控えていた美丈夫が名を呼ばれたことで竜胆の隣に並び立つ。共に名将、阿吽の呼吸で意は通じた。彼女の後を託せるは才気溢れるこの男しか存在しない。  そして、その逆もまた然り。雲さえ届く天魔の将を討ち取れるのは、自分ではなく竜胆らにのみ可能であると知っていた。 「好きになさるといい。頭獲りは戦の定石、いやこの場合ではそれしかないな。万に一つであろうとも掴み取らねばみな死に果てる」 「消耗戦など愚の骨頂かな。〈大本〉《もと》を絶たねば、いずれ総ては木阿弥よ。程なくあれらに潰されよう」 「よって、湧き出た蜘蛛は総て我らが引き受ける。ならば御身は──」 「〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》が残る六柱、精鋭の益荒男率いて火急速やかに征討する」 「まずはあれら悪路と母禮。ここで獲らねば我らは終わる、分かっているさ」 「上出来だ、烏帽子殿」  親が子を褒めるように冷泉は薄く笑った。  半ば確定した死を目前にしながら共に微塵の畏れも抱いていない。生まれた時より戦の作法を叩きこまれている。武門の血を引く彼らは強固だ、烏合の衆とは胆力が違う。  茶でも嗜むかのような気軽さで、冷泉は動揺する兵へと踵を返した。  その間際。 「しくじるなよ、坂上。花形を譲ってやったのだ。役目を果たせ、応えて魅せろ」 「応、役者が違うと教えてやるよ」  すれ違い様、男二人が笑みを浮かべた。 「手筈は覚えているな、覇吐。これから我らが成すべきことを」 「当たり前だ、忘れるわけがねえだろう」  ──矢を番え、共に弦を引き絞る。  見据える先は二柱の天魔。いざ射抜かんと、軋みをあげるこの一矢に破魔の気勢を注ぎ込む。 「真芯へ続く一本道をぶち空ける。あのでかい〈外殻〉《よろい》を突き抜けりゃいい。後のことは後のことだ」 「孔が出来ればそれでいい。人一人、拳大、いや針の先で十分すぎる。続く二の矢は凶悪だ。抉じ開けられぬはずがない」 「なあ、そうだろう? そこから先はおまえたちの〈本願〉《やくわり》だ」 「斬り進め、砕き割れ。悪路と母禮を討ち果たし、道を示せよ二人とも。奴らがいかに強大だろうと、私はおまえたちを信じている!」  無論、言われるまでもない──返答代わりに、鉄の音色が小さく響いた。  鞘と鍔が、握り拳が音を鳴らす。先陣を切る一番槍はこの二人。己を貫き、脇目も振らず、前のめり倒れるかのごとく疾走し続けた彼らこそ、初戦を飾るに相応しい。  背から伝わる部下の気性に苦笑を浮かべ、指揮官は戦の道を創り上げんと眦を決した。 「急くな。こちらもこちらで手間が掛かる。まさかここでしくじる訳にもいかんだろう」 「何せ、正しく紡げているかどうかは自分自身でもよく分からん」  鳴弦が咒言を編む。天魔と対するのに絶対必須な、彼らの型を浮き彫りにさせる勝利の祝詞を紡ぎだす。  これによって無間神無月の理を崩さなければ、敵は不滅だ。毛ほどの傷も与えられない。  だが、成せば――その神威は砂上の楼閣。朝日に溶ける影のように、雲散霧消するだろう。 「今よりあの随神相へと道を開く」  勝利を。何よりもただ勝利を。  竜胆の内、不二の底で得た理が鳴動している。全身より噴出している朝焼けにも似た煌きは鏃の先端へ収束し、矢それ自体から組み替えていく。  もはや放つは一矢にあらず。貫通力を最大限に求めたその姿、それはさながら『槍』の意匠だ。  総てを貫く流星は膨大極まる神気を奮い、己が編んだ力ながらも感嘆せずにはいられない。 「必ず、届く。外しはしない。おまえたちへとこの一撃から繋げてみせよう──さあ征くぞ者ども、準備はいいかッ!」 「とうの昔に」 「何を今更」 「勝つのは俺らだ」 「失わせなどもうしません」 「永き余興を終わらせるか」 「凱旋の宴をいたしましょう」  この瞬間、確かに彼らは一つだった。浮遊していた魂は共に、同じ頂を目指していた。  だからこそ──いざ。いざ。いざ。 「征くぜ、竜胆。将の〈魂〉《ひかり》で照らしてくれよ」 「おまえの語るその輝きで、どいつもこいつも魅せてやれやァァッ──!」  応えて、竜胆は咒に入った。ここでもっとも相応しいと思えるものを、言葉に変えて形を与える。 「  」 「  」  遥か彼方より受け継いだ、誰かの祈り。その本質。  道を照らす光になりたい。如何な苦境にあろうとも、愛する仲間が道を見失わないですむように。  凛冽で、ひたむきで、清流のようなその想い……今の竜胆にもっとも近しく、共感できる願いの形を拾い上げて紡いでいく。 「 」 「」 「 」 「」  なぜかそのとき、龍明の影が脳裏をよぎった。これはあなたに関係あるのか? 分からない。分からないがそう信じよう。もとより咒の細部までは理解できない。  これは異界の言霊だから、自分は彼らの想いを拾うだけ。その輝きを、魂を、美しいと讃えたいだけ。  〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈達〉《 、》〈は〉《 、》〈悲〉《 、》〈し〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》。だからどうか、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》──古き世界の英雄たちよ。 「 」 「 」  憤怒も嘆きもその愛も、我らに引き継がせてはくれまいか。  舐めないでほしい。私たちとてただの無能な木石ではない。  今の世は、今を生きる私たちが責を追うから。  それを証明するためにも、ここで御身らを打倒する。どうして捨てたものではないのだと、認めてほしい。信じてほしい。  私たちは魂を懸け立っている。 「   」 「 」 「   」 「 」  瞬間、大気が震え、穢土が震えた。本質を抉る咒の誰何に、天魔二柱が動きを止める。  それが消滅に至るほどの大打撃なのは間違いなく、しかし彼らは消えていない。驚異的な結束で、今なおその身を保っている。  見事、凄まじいと言うしかない。その克己、その信念、いったいどれほどの死線を越えて験得したのか。 「だが、我らが越えてきた死線も軽くはない」 「なあ、そうだろう、おまえたち」 「ああ、俺たちの東征だって温くはないぜ」  他ならぬ、彼ら夜都賀波岐と対してきた聖戦だから。  質の面で劣っているなど有り得ない。 「いくぞォッ! これが開戦の号砲だ!」  ゆえに今、轟き唸れよ神殺の槍。穢土太極を相殺する覇道の理が炸裂する。  〈星火燎原〉《せいかりょうげん》。解き放たれし黄金の閃華が空を裂く。  極大の破壊と呼ぶべき浄化の光。天魔の世界を流星となって覆滅し、蜘蛛の魔軍を照らして焦がし、叫ぶ巨躯へと突き刺さった。同時に距離という概念さえ諸共彼方へ消し飛ばしていく。  空間は捻じれて繋がり、〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》は即ち〈其〉《 、》〈処〉《 、》となり、一歩踏み入れた先が閃光の着弾点へと塗り換わる。極少規模だが世界の上書きが生じたのだ。  開かれたその活路へ、闘気を纏った男女の影が疾風と化し飛び込んだ。  それは共に悦の笑みを浮かべた抜き身の刃。  二の足躊躇は一切なく、これぞ我が王道なりと、勇み奮え突貫する剣鬼と拳鬼の晴れ姿であり── 「石上神道流、壬生宗次郎」 「玖錠荒神流、玖錠紫織」  共に必殺必勝を胸に期し。 「推して、参る──!」  火花を散らした二重の撃が、戦火の火蓋を切って落とした。  威烈繚乱、求道の振起。 ──剣と拳の絢爛舞踏、ここに開幕。  初手の剣閃、最速で繰り出した最高の奇襲は防がれて終わる。  巨大な荒神の内部に突入を果たすものの、核たる悪路へ宗次郎の渾身は届かない。ここが彼の腹の中だと言うのなら、入り込んだ異物の挙動など手に取るように分かるのだろう。  歪みの源泉たる異界において、この天魔はまさに唯一神。隔絶された王に他ならなかった。  誰一人この空間では悪路に勝ち得ることはない。その絶望的な事実に宗次郎の口元が自然と吊り上がる。 「ふふふ、はははははは」 「やはり──いえ、当然ですね。そうでなくては始まらない。これほどに高みでいなければ甲斐がない」  愉しげに。満足げに。世界の主たる悪路の強さこそ救いであると、それを誰より斬りたい男は童子のように笑っている。 「安心しましたよ、〈こ〉《 、》〈こ〉《 、》〈で〉《 、》〈斬〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈ず〉《 、》〈に〉《 、》〈済〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》。それではあなたを追って焦がれて求めて目指して、腕を磨いた意味がない」 「恥ずかしながら僕って飽きやすいんですよ。まずは斬って試しますし、斬れなかったものなんて早々ないし、放っておけばいつの間にか死んでいますし……どうにも長続きしてくれない」 「だから、容易にいかないあなたが愛しい」  抑えが効かない──そう呟き、武者震いが喜悦に染まる。 「斬らせて、もらいます」  熱で湿った吐息をこぼしながら、無邪気に爽快な微笑を浮かべていた。  刀身が神を斬れと囁いていて、斬らせておくれと哭いていて、ああ斬ってみせると鋼に誓う。  戦力差など見えない知らない聞こえやしない。かつての敗北さえ溶け始め、宗次郎の純度を上げていく。皮肉にも高まる剣気がそれを証明していたから、今度こそ斬ってやろうと身をかがめ── 「黙れ」  飛び掛る寸前、僅か一声にて全身の皮膚が爛れて溶けた。 「────ッ」 「喋らないでくれ。お願いだから」  続く一撃、悪路の太刀を躱せたことは奇跡に近い。  蠱を潰すような嫌悪感に起因した無造作な振りだったことも幸運だった。持てる技能を使い、十全の力で打ち込まれていればそれだけで宗次郎の命は尽きている。  そして恐ろしいことに回避という行動さえも、彼の身体を腐らせている。  戦場にて嗅ぎ慣れた死臭……野晒しにされた死体の如き臭気が、容赦なく鼻腔を刺す。それが己の肌から漂っているのだ。現実に自らの皮膚と肉が腐蝕されて。 「ぐァ──か、はッ───!」  見られた? 否、悪路は一度たりとて宗次郎を見てなどいない。以前の戦いを教訓に十分注意を払っていたのだ、見間違うはずがない。  事実、視線を向けるだけで腐らせるという怪物は、目が腐ると言わんばかりに顔を歪めて背けている。  陰気を解放したそぶりもない。だというのに、何故、どうして、腐蝕の瘴気はこれほど強く、かつてないほど大規模に── 「会話などしたくもないんだ。僕におまえを、欠片も記憶させるんじゃない」 「っ、ちィィ──!」  放たれる追撃を紙一重で避け、巻き起こされた剣風からも逃れる。  アレは腐毒の塊だ。分かっていたことではあるが、斬り捨てるためには接近せねばならず、接近を許さないという歪みの時点で決定的に宗次郎は不利だった。  斬気の鎌鼬を飛ばそうにも、溜めなど見せれば瞬殺される。未だ初撃以外は切り込めてすらいないまま、原因不明の腐蝕により苦しめられ続けている。  加えて、何より最悪なのが。 「小細工などさせはしない。ただ〈疾〉《と》く、速やかに崩れて落ちろ」  彼は決して宗次郎を見縊ってはいないということ。  遊びというものが一切ない。純然な殺意のみで稼動するゆえに怜悧冷徹、機械のごとく隙がないのだ。  その手練、百戦錬磨の技のキレは宗次郎をして目を奪われる。いったい幾万の戦場を駆け抜ければ、こういう芸当に至るのか。眼球が腐っていくと知りながら、一剣士としてその動きから目が離せない。 「──いいなぁ、なんてずるい」  生命の欠け落ちた美丈夫は戦の華と呼ぶに相応しく、また死を経験しながらも戦い続けられると証明する姿は、歯噛みするほど羨ましい。  いつまでも斬り続けられる。未来永劫、果てることなく。  自らの理想像に近い悪路だからこそ、宗次郎は討つと定め、僅かもブレずここまで来たのだ。 「だから──」 「──あなたを斬らねば始まらない。僕はこのような、無様な自分を認めるわけにはいかないんですよ!」  咆哮と共に激痛を堪えながら切り結んだ。  一瞬距離が狭まっただけで指先から二の腕の皮膚が崩れ去った。異臭が毒となって漂い、さらに身体の形を損なっていく。  だが、それがどうした。見えない腐食の攻撃などもはや気にしないことにして宗次郎は切っ先を構える。  出だしが判らず、さらに全身満遍なく腐り果てるというのなら、いつまでもそれに拘っているなど馬鹿らしい。重要なのは即死しないというその一点。  無論それは、竜胆の初撃が効いているためだろう。本来ならば刹那も保たずに腐り落ちていたはずだろうが、その効力は減衰している。  ――いや、あるいは自分の強度に何かの補正が掛かっているのか、そのような気がしないでもないが、事ここに至ってはどうでもいい。  要は戦、食うか食われるか。自陣の援護であれ、敵の不調であれ、あらゆる状況を踏まえたうえで、最後に立っていた者が勝者である。その絶対法則を宗次郎は弁えているし、そこは悪路も同じだろう。  この今を構成する総てを含めて二人の勝負。ならばそこに専心するのみ。要らぬ思索は死を招く。  ならば――太刀の動きにのみ己は全霊を賭せばいい。 「もとより無傷の勝利など捨てています。うまく切っ先をめり込ませれば、岩も豆腐も同じでしょう」 「腐り落ちるより早くこの刃で断ち切る……と、僕にやれないはずがない。まあそういうわけで」  行かせてもらうと言った矢先に、空間そのものが脈打った。逃れえない絶大の悪寒を伴って。 「……愚かだ。そして、やはりか」  血が凍るとはこのことか。宗次郎の脳裏から攻撃の意思が消し飛んだ。崩れそうになる脚に力をこめて退こうとしたその間際── 「言ったはずだぞ、崩れて落ちろと。それを撤回した覚えはないし、身勝手な陶酔に溺れていいと許可した覚えもありはしない」 「何を逃れたつもりになっている──〈此〉《 、》〈処〉《 、》〈が〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈忘〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》?」  一睨みするまでもなく、腐蝕の波動が膨張した。 「────ァァアッ!」  腐蝕されていく。手足から胴に胸、毛穴から血管に至るまで、総てが生理的な嫌悪感を伴って粟立ちながら腐っていく。  見られてなどいない──断じて、宗次郎は悪路の視界に入っていなかった。  離脱は成功し、確かに視線の軸を逸らしたはずだ。しかし今、やはり腐毒は彼を捉えて、その見当違いに致死の対価を要求している。 「理解しただろう。ここは僕という世界の中だ。そもそも逃れられるはずがない」 「踏み入った悉くを腐らせる……そういう理。そういうカタチだ」 「自ら虎穴に入った以上、喰われるのが道理だろう」  苦笑し、次の瞬間再び骸の冷徹さを覗かせて。 「おまえのような男を野放しには出来ない。……ああ、そうだな。毒を引き受けるのも僕の役目だ、消化してやろう」  自重を支える足の裏に感覚がない。皮膚が溶け磨り減っていく様に身震いしながら、宗次郎はひた避ける。  全身は末端から水飴へと生まれ変わっていくようだった。悪路は徐々に殺意の純度を上げ始めている。毒素の濃度は際限なく天井知らずに上昇していき、攻勢に移らなければ死滅すると思い知る。 「────くぅ」  腐食と限界の境界を見極め、刃を返しに放つ。  遠当ての斬風はかつてのように長い暗示を要とせず、空を裂いて悪路の袈裟を撫で切るものの── 「無駄だぞ、言ったはずだ。木偶の剣は効かない」  悪路の体皮へ接触した途端、斬撃そのものが腐り落ちた。足止めにすらならぬまま、〈轟〉《ごう》と音を立てて死風が荒ぶ。 「ぎ、っ、ぃ──」  避けきることに成功し──剣戟の風に毒される。通常の防御とは逆に、胴は幾らか欠けてもいいと判断した宗次郎は、咄嗟に手足と刀を庇った。  結果として腹の肉は一気に爛れた。蛆が繁殖する果実のように、脇から鳩尾が壊死していく。さらに体勢は崩れ足がもつれる。  そこへ狙い済ました追の太刀――必滅を告げるその一撃を、しかし宗次郎は渾身の力で後ろに飛び退き躱していた。 「ガ──っ、づ……」  もはや数寸も保たず崩れ落ちようとしている宗次郎だが、彼をこのとき立たせているのはただ一つの激情だった。 「木偶、木偶だと……?」  また言ったな、許さない。憤怒が宗次郎を支えている。 「誰が、僕のいったい何処が……!」 「木偶だと言うんだ貴様ァァァッ!」 「その総てが」  全霊の一撃を事も無げに受け止めて、悪路は真正面から宗次郎を見る。紅の双眸に哀れみめいたものすら滲ませて。 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈せ〉《 、》〈い〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》、ああ分かっている。突き詰めて言えばおまえ個人に恨みはないし用もない」 「だが、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈自〉《 、》〈身〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。分からないだろう、分からなくていい」 「もとより、少なくともこの僕は、おまえたちに何の期待もしていないから」 「ごッ――ふ、ぁ……」  至近で直視され、さらに鍔迫り合うという状況が、宗次郎の崩壊を破滅的に加速させた。  半ば茫然と、自らの吐き出したものに染まっていく。それは血と内臓に骨髄の汁さえ入り混じった、異臭溢れる肉の骸……  ここにきて、ついに宗次郎も死を悟った。いま彼を犯す毒の嵐は、かつてその身にねじ込まれた内部の毒素と結合し、もはやそこでは臓物の粥がこし上がっているのだから。  死ぬ。斃れる。しかし、ならば…… 「その、最期のときまでに斬ってやる……」  肺から血液へ溶けた腐蝕の瘴気。これが全身を溶かし落とす前に悪路を斬る。  自己の死を度外視し、狂気的に己が道を目指す思考に迷いはない。死ぬのならば勝った後に死ねばいいのだ。さすれば己は至高の剣に違いないと、握る柄へ力をこめて── 「──そうだ。ゆえに、おまえは死なねばならない」 「日向の香りを思い出せない。星の光を覚えていない。握った指の温かささえ忘れてしまった。けれど……それが悲しいことであるのだと、そう思える心は残っている」 「   」 「   」  誇るように、しかしこの上もない哀切を込めて悪路は告げる。 「終わりだ。引導を渡してやろう」  腐毒の法が、そのとき激烈な波動となって膨れ上がった。 「        」 「  」 「        」 「  」  漏れ出る声音の咒は読めない。すでに消え去った世界の言語、だがそこに揺るぎない想いが篭っているのは理解できる。 「」 「 」 「」 「 」  それは、ある凶威祓いの逆回しだった。万象、森羅の病毒を弾くのではなく、我が身に吸い込むことで己の外界を浄化させるという自罰の救世。  我一人が穢れるからこそ、我以外は麗しくあれ。  すなわち、他がため、己を地獄と化すことに他ならない。 「    」 「    」  その法理が今、目の前の〈異物〉《どく》を喰らう。 「――太・極――」 「〈随神相〉《カムナガラ》――〈神咒神威〉《カジリカムイ》・無間叫喚」  具現する猛毒と侵食と腐蝕の宇宙。 「さらばだ、波旬の一欠片」  完成し、発動する太極の中、なぜかこの時だけは悼むような声と共に…… 「分からんだろうが、あれの法が起きる前に逝けるおまえは幸せだよ」  天下無双──壬生宗次郎の夢が潰える。  そして、時間はこれより僅かに前後する。  先陣を切ったもう一人、玖錠紫織もまた時を同じくして母禮と交戦を始めていた。  彼女はここが──天魔を核に纏うこの世界が、すなわち敵の体内に等しいのだと理解した。数多の攻撃と被弾を経て死線ぎりぎりの域ながら、未だに勝負を続行している。  だが、これは決して宗次郎が愚鈍であり、紫織が優れているということではない。  というよりも、比較対象が悪すぎる。それは本人の力量ではなく、戦っている相手の違いで如実に現れた結果だった。  腐蝕とは、即ち単独では気づけない現象だ。万物平等に腐り落ちる異界でも、宗次郎という異物が入り込まなければ〈腐〉《 、》〈り〉《 、》〈ゆ〉《 、》〈く〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈気〉《 、》〈づ〉《 、》〈き〉《 、》〈に〉《 、》〈く〉《 、》〈い〉《 、》。  あの場で悪路と対峙する場合、それに気づかずまず喰らう。そして崩れる己の姿を見て、初めて真理へ辿り着くのだ。  しかし、炎雷においては話が違う。地獄の炎は何が無くとも燃え盛り、雷は渦となって轟くのみ。  それゆえに── 「──っ、ぁあああああ」  足を踏み入れた瞬間、全方位から吹き荒れた豪の熱波に、紫織は一撃で理解を施された。  ここは焦熱に彩られた無間の地獄。熾烈に外敵を排除する、業火に彩られた檻なのだと。 「ぁぐ、っ──は」  即座に別の可能性へ乗り換えるも、総身の三割以上が焔の渦に焦がされていた。  もっとも損傷の少ない姿でこれなのだ。歪みの使用を渋った瞬間、断末魔一つ残さず紫織は消し炭となるだろう。  だが、その程度ですんでいるだけまだマシだ。本来なら、たとえ一時的といえども凌げるような力量差ではないのだから。  夜刀に連なる神格である母禮の技は、紫織の遙か上位にある。その攻撃を躱せるかもしれない可能性など、普通は何億通り試したところで生じるはずがないのである。  太極とは法であり、その世界を決定する理を意味するのだから、それを曲げるなら己もまた太極へと至ること。前提として同じ土俵に上がらなければ、何をしようと通じない――はずだったが。 「調子悪い……みたいだね」  己の力が曲がりなりにも通じている事実を指摘し、肺まで焦がされながらも紫織は笑う。まだ立って、口が利ける可能性を手繰り寄せられたこと自体、勝負が成立している証だった。 「なんて脆い……直接見たのは二度目だけど、未だに信じられないよ」  東外流においてもそうだった。彼ら天魔は圧倒的な存在だが、同時に砂上の楼閣のごときもの。たった一言二言の口舌だけで、存在強度が崩れ始める。  現状、竜胆だけが実行できるその理を、紫織は理解していないしするつもりも特に無い。ただ、これらはそういうものなのだと、ただ単純に感じていた。  諸行無常……敗者の型を持つということ……それはこれほど儚いものなのかと。 「まあ、もっとも……」  現状は、ようやく敵の足元に達する〈階段〉《きざばし》が見つかったという程度なのだが。 「  」 「    」 「  」 「    」  瞬間、先ほどまでいた空間が焦熱の海へと変わり、火柱をあげて炎上する。 「ッ――、うおわァッ」  逃げない場合は総ての像が死んでいた。それに戦慄しながらも、やはり躱せた以上は母禮の技が落ちていることに間違いはない。  冷や汗など瞬時に蒸発する世界の中で、にも関わらず好奇心が勝ったのは紫織の性格なのだろう。この状況に、敵は果たしてどれだけ憤激しているだろうと、目で追えば―― 「どうしたの、そんなものなの?」  沸騰する熱泥を踏みしめながら現れたのは、思いのほか平静に見える母禮の姿。揺らめく金髪は稲妻を孕んで帯電し、目は業火のごとく燃えているが、その佇まいは異様なほど冷めている。紫織は思わず、舌打ちをこぼしかけた。  どうやら、今の母禮は激昂など振り切れた境地にいるらしい。  怒れば大味になる人種と、怒れば精密になる人種。紫織の見立てで母禮は前者と踏んでいたが、どうも後者の質があったようだ。それは二択を誤ったと言うよりも、第三の答えを見落としていた感がある。  すなわち、彼女は二重属性。揮う二刀が示すように、異なるものを両立させられる存在なのだと。  激情は力を増し、さらにその扱いが巧みになる。言ってしまえば良いとこ取りで、反則のような性質だ。  いかに強度が減じているといったところで、未だ母禮は遙か格上。よって精神的な揺れにつけこむのが常道だろうと思っていたが、この様では期待できない。 「まずったな。こりゃやっぱり、夜行にやらせといたほうがよかったかも……」 「ていうかあいつ、よくもまあこんなの相手に二回もタイマン張ったっていうか」  とぼけた声とは裏腹に、鬼をも〈拉〉《ひし》ぐ苛烈な踏み込みで間合いに入る。下からかち上げた拳の一発は、しかし母禮の胴鎧に触れた瞬間、芯まで炭化して燃え尽きた。  やはり、悪路とまったく同じ。母禮自身が異界そのものであるために、触れれば彼女の法に喰らわれる。腐滅と焼滅の違いはあれど、現象としてはまったく同じだ。  腕から一気に火達磨と化した己を捨てて、別の可能性を具現する。今度の紫織は母禮の背後、完全に死角を取ったかのように見えたものの、やはりそれにも意味はない。  一瞥すらせず、そのままの姿勢で背後を薙ぎ払った雷刃の一閃が、紫織の胴を両断した。その挙動は滑らかすぎて、背にも目があるかのようだったが、事実はもっと性質が悪い。  言ったように、ここは母禮という神格の宇宙。彼女の体内に等しい場所だ。よって死角など存在せず、どんな不意打ちも通らない。  それがここまで何十回と繰り返された、両者の攻防の総てである。まだ殺されきっていないというだけで、まったく相手になっていない。母禮にとっては紫織など、数だけ多い羽虫のようなものなのだろう。  誰がどう見ても勝機なし。そう言うしかない状況なのだが…… 「ふふ、あはは……」  紫織は笑う。虚勢ではなく、面白がっているのが分かる。それを前にした母禮はというと、完全な鉄面皮を貫いていた。  ただ、声にだけ微かな呆れの念を覗かせつつ、短く言う。 「夜行……と言ったかしら。あの男」 「今ならまだ間に合うから、あれと代わりなさい。あなたじゃ私の相手にならない」  驚天動地、と言っていいだろう。穢土の外界を憎み抜いている夜都賀波岐の、それも最右翼に位置する母禮の言葉とは思えなかった。いかに彼女から見て紫織が物足りないからといって、ここで見逃してやる道理はどこにもないのだ。  母禮自身も己の言葉に軽く当惑しているようで、自問するかのように付け加える。 「予感があるのだ。あれは私が相手をしたほうがいい。そうしないと、面倒なことになるような……」 「いや、あるいは……違うな。そんなことではなく……」 「どうしてあの男が、今ここにいないのか分からない」 「どうして私が、あなたなんかの相手をしているのか分からない」 「そんなこと言われてもねえ……」  死線の上で、ややもすると弛緩したようなやり取りに苦笑しつつ、紫織は答えた。 「しょうがないじゃん。だってあんた、夜行に振られたんだもの」 「なに?」  紫織の俗すぎる比喩表現に、より一層表情を曇らせる母禮。それはそうだろう。そんな次元の話をしているのではない。 「まあ、そりゃなんつーか、最初にコナかけたのはあいつの方からだと思うよ。詳しいとこは知んないけどさ」 「あいつはあんたに、なんか知らんけど興味持って、ちょっかいかけて、二度ほど〈戦闘〉《あいびき》してみたわけだ。そんで思ったんでしょ、この女つまんねーわと」 「やー、分かる。分かるよ言いたいことは。勝手に寄ってきて、勝手に期待して、勝手に幻滅してなんだそりゃって話じゃんね。おまえはあれか、変質者かよと」 「でも仕方ないじゃん。あいつ変態なんだもん。ああいうのはまともに相手しちゃいけないよ」 「だから――」  再び腰を落とし、構えを取り、手招きしながら紫織は言う。 「私が相手してあげる。夜行のことは犬に咬まれたとでも思っときなよ」 「……………」 「ん、どした? 続きしようぜ」  ここまで人を食った態度というのも珍しい。圧倒的な劣勢側で、勝機など微塵も見えない紫織のほうが早く戦おうと誘っている。それも、自分が生き残れるかもしれない提案を一笑にふした上でだ。 「だいたいあんた、そんなモテそうな女にも見えないし」 「どうせよく擦れ違ってたんでしょ。男関係は――さッ」  吼えて、散開――陽炎の如く四身に増えた紫織の体躯が母禮に迫る。 「だから私が、あんたに教育してあげる」 「何を――」  戯言を抜かしていると、薙ぎ払った炎刃が四人の紫織を燃やし尽くす。だがその影からさらに八人。  無論、何の意味も無い。交差して振り上げられた雷刃がその悉くを断ち割って、迸る轟雷が残骸さえも気化させる。  だというのに、次の瞬間、母禮を囲んだ紫織は十六人。 「だから、何だと」  再び薙ぎ払うのも馬鹿らしい。躱す必要さえありはしない。もはやまともに相手をするのも億劫だと言わんばかりに、母禮は何の対処もしなかった。そしてそれで事足りた。  十六方向からの連撃も、等しく母禮に触れた瞬間に火柱となって粉砕される。彼女はただ立っているだけで、紫織が生存できる可能性を片っ端から摘み取れるのだ。  こんなものは特攻ですらない。燃える篝火に突っ込んで自滅を続けている虫と同じだ。愚者と表現すれば愚者に悪いとさえ言えるような無駄打ちの嵐。  だが―― 「はあああぁぁ──!」  紫織の攻めは止まらない。三十二、六十四、百二十八と怒涛のように攻め続け、返り討たれ、さらにさらに、さらにさらに―― 「ああ、なるほど」  己が世界を埋め尽くすように増え続ける紫織の像を見据えたまま、母禮は無感動に呟いた。 「つまり、陣取りがしたいわけね」  現状、この空間は母禮が支配している〈太極〉《せかい》だから、何をしても通じない。それなら領土を奪い取り、自己のものへと変えてしまう。  乱暴だがそれは正しく、的を射た選択だろう。太極の戦いは確かに陣取りと似通っている。  自らの理で屈服させ、敵手の空を奪い取る。生き場の略奪がそのまま勝敗に直結する道理こそは、まさに東征の縮図と言って構わない。  ゆえに紫織は攻め続ける。生存の可能性を手繰れるうちは、化ける可能性も残っていると信じているのだ。  それはすなわち、太極という同じ土俵に上がれる可能性。  千に一つか、万に一つか、億に一つの確率で、〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈己〉《 、》〈を〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》。  他の総てが砕け散っても構わない。たった一つの当たりを引くまで、九千万回殺されようと耐えてみせるつもりなのか。  無謀だが、英断かもしれない。紫織がそれに賭けるしかないのは事実だし、現状の母禮は竜胆の咒によって弱化している。まさしく億に一つ程度だろうが、可能性はないでもない。  その兆候はすでに出ている。 「づッ、らあああァッ!」  何度斬った? 何度燃やした? 何度殺した? 数えていない。  紫織の歪みは決して都合のいい身代わりを置くだけのものではなく、分かれた彼女も彼女自身だ。ゆえにそれを破壊されれば、芯に甚大な損傷を被る。  殺されるという生物にとっての究極負荷に、心と魂は耐えられない。常人ならば一死で精神が崩壊し、鍛えた者でも連続では二・三が限度。十まで耐えれば超人とさえ言えるだろう。  事実、当初の紫織はその辺りが限界だった。なのにこれは、この怒涛は――  人間が許容できる破壊の規模を逸脱している。東征の修羅場を潜り抜け、その天井を徐々に上げ、ついには今、母禮が瞠目するほどまでに―― 「危険ね」  〈や〉《 、》〈は〉《 、》〈り〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈者〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈奴〉《 、》〈ら〉《 、》〈だ〉《 、》――母禮の瞳に確信と、高濃度の殺意が灯った。 「私を見てよ。私を見てよ。私を見てよ。ほら、こんなに私は凄いのよ。……口を開けば私、私とそればかり」 「信じているのね。この宇宙で自分だけは、何か途轍もない存在なのだと」 「当たり前でしょ!」  轟然――身体ごと突っ込んだ肩の当身を母禮の鳩尾に叩き込み、火達磨になりながら紫織は吼える。 「あんた知らないの? 主人公ってのは無敵なのよ」  そう言い放った、その時に―― 「くッ―――」  半顔を覆った面鎧の下、震えるような音が漏れた。 「く、くく、くくくくくく……」  それは笑い、だったのだろうか。紫織は咄嗟に判断することができなかった。 「くく、くくくく、くくくくくく……」  これほど禍々しく、そして切なく、激昂しながら慟哭しているような声の調子は聴いたことがなかったから。  一生涯、耳にへばりついて離れないと確信してしまった哀絶の哄笑が、爆炎と共に噴き上がった。 「あはははははははははははははは――――!」  その瞬間、三百を超えていた総ての可能性が根こそぎ焼滅させられた。間一髪、一つだけ、紫織が手繰り寄せられた己はそれのみで、それすら両膝から下が消し炭と化している。  早く次へ、次の可能性へ飛ばなければと思っているが、出来ない。いや、見つけられない。  今、このときの母禮を前に、〈生存確率〉《そんなもの》は絶無なのだと理解した。 「ああ、凄い。本当にまだ生きている」  天を仰いで笑い猛り狂いながら、紫織を指差して母禮は言う。  壊れたように、子供が笑い泣くように。 「自分にだけは都合のいい展開が舞い降りると、あなた達は疑うことなく信じてる。何度斃しても、何度殺しても、絶望しない。勝てるから――素敵」 「奇跡が起こるのは確定事項で、願った事象が訪れると妄信している。そしてそうなる。なぜって? あなた達が主役だから」 「神様に愛されている自覚があるのね。そして何も分かっていない」 「アレから見れば、あなた達は塵にもなっていないということを」  無造作に突き出された雷刃の剣先を、紫織は白刃取りで受け止めた。当然のように全身を超電圧が蹂躙するが、機動力を失った以上こうするより他にない。  絶叫する紫織を覗き込むように、母禮は淡々と話し続ける。 「可哀想」  そんな、場違いとしか言いようのない一言を皮切りにして。 「自分を信じ、勝利を信じ、栄光を信じてひた走る。立派よ、何も悪くない。戦うというのはそういうこと」 「それで勝てたら、ええ幸せね。私もかつてはそうだった」 「がッ、ぐ……」  紫織の体液が沸騰する。服は弾け、肉は炭化し、眼球はばらばらと崩れ落ち始めている。  もうこれ以上、数寸たりとも耐えられない。それが分かっていながら紫織は吼えた。意識を失わないためにもそうせねばならない。 「それで、あんたは負けたから……そんなんなっちゃったんでしょ、いじけんなッ!」 「違うわよ」  対して、母禮は憫笑しながら、ぞっとするような静けさで応じる。 「そんな次元の話じゃない。そういう問題のことじゃないのよ」 「私は確かに敗者だけれど、信じて戦った日々がある。そのときの自分たちに嘘はないと、今でも変わらず信じている」 「だけど可哀想なのはあなた達。あなた達には何もない」 「自分があると思っているだけ、そういう風に感じているだけ。何もかも勘違いだと知らないまま」 「だからあなた達は負けたほうがいい。下手に勝ってしまったら、〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈勝〉《 、》〈た〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈を〉《 、》〈知〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》」 「ほら、今だって、おかしいでしょう? どうしてあなた、死なないの?」 「そもそもどうして、私たちとの最初の戦いに生き残れたの?」 「こちらは本気で殺すつもりだったのに」  答えられない。答えられない。そんな余裕がないということ以前、それ以上に、ここで紡ぐべき言葉が出ない。 「自分は凄いから。主人公だから。何か分からないけど、まあ生きている。大した問題じゃない」 「それがあなた達、全員の思考。分かっているのかしら、狂気だということを」 「ねえ、そんなあなたが、私に何を教育するの?」 「なぜ私にいきなり突っかかってきたのか、正直欠片も分からない」 「〈他人〉《おとこ》がどうとか、口に出来る身分ではないでしょうに」 「――――――」  その台詞で、思考が飛んだ。くだらないと言えばくだらないし、大事だと言えば大事なこと。  ただ、無性に腹は立った。母禮の言っていることは半分も分からないが、聞き捨てならないことは一つ。  おまえたちには何もない。ゆえにどんな説諭も出来はしない。  おまえにそんな資格はないだろうと言われたこと、それが絶体絶命の状況を忘れ去らせてしまうほど、紫織の激情を刺激した。 「あんたのそういう――」  舌が割れ、砕けて落ちる。それでも叫ぶ。睨み返す。 「自分の基準で他人決め付けてるとこが、馬鹿女丸出しで腹立つのよ――!」  怒号――まさしくそれだった。雷鳴にも劣らない大音声に、どこからそんな声が出たのかと、母禮が一瞬でも驚いたほど。  無理もない。紫織は口を利けるどころか、まだ生きていることからして信じられない状況なのだ。  しかし叫ぶ。なおも吼える。ふざけるなと激発する。 「あんた何か大層なもん知ってるの? それで何か悟ってるの? ああそう、そりゃよかったね。気取って空かして馬鹿みたい!」 「自分のことは誰にも分からないみたいな顔しておいて、他人のことは分かってるみたいなことを言う。アホか! 見てて苛々するわ」 「だから教えてあげるのよ、他人なんてワケ分かんないものだってことを――さァッ」  上体を反り、ばね仕掛けのようにそこから戻し、身体ごと激突する形で紫織は頭突きを叩き込んだ。胴を打たれた母禮はその衝撃で一・二歩だけ後退し、先ほどから続いていた白刃取りの形も崩れる。  そこだけを取って見るのなら、紫織は窮地を凌いだと言えなくもないのだが…… 「どうよ、予想外だったでしょ。あんたは私のことなんか分かってないの」  出鱈目、ここはそう言うしかない。事もあろうに頭から母禮にぶつかるなどという暴挙は、ただの自殺と変わらないのだ。  それが証拠に、紫織の顔面は焼け爛れて目鼻の位置さえ分からない。座り込んだ人間のような形をした炭の塊が喋っているとしか傍目に思えず、その状態で悪態を吐いている様は滑稽ですらあった。  だというのに、紫織は勝ち誇るような気配さえ見せ、しゃがれているが明瞭な声音で話し続ける。 「まあ、ね……いま私が言ったことも、逆説的に突っ込まれると困るんだけどさ」 「あんただって、私のこと分かってるみたいに言ってるじゃんとか、そういう反論は無しにしよう。キリ無いし」 「ただこれで、少しは見る目、変わったでしょ。あんま舐めないでくれるかな」 「私の、どこに自分がないって?」 「こんな馬鹿なこと出来る奴、私以外いないでしょ」  馬鹿だという自覚はあるのか、しかしまったく恥じずに紫織は言う。それに対し、母禮はもはや相手にする気さえ起きないのか。 「…………」  無言のまま、後退していた一歩を再び踏み出して、草を刈るように剣を軽く振り上げた。  そのまま払い、首を落とす。それで終わりだと言わんばかりに。  この茶番めいたやり取りも、これで幕にしてやろうと。 「あんたは何て言うか……常にがっちがちだよね」 「聞く耳持たないって、いつも全身で言ってる感じ。これだから女はって、龍明さんあたりがぼやきそう」  その台詞に、母禮の挙動が一瞬止まったのは偶然なのか。紫織はそれを意に介さず、苦笑を混ぜながら話し続ける。 「私はさあ、嫌なんだよ。ああいう女子供扱いってやつ。なんで一括りにされてんのって」 「言いたいけど、まあ、実際そういう風に見える奴も多いもんで。困るんだよね、あんたとか、あんたとか」 「もっとこう、男にゃできないカッコイイ女の魅せかたっていうやつを、目指そうとか思わないもん?」 「あんたんとこの大将に、乗っかるだけじゃなくってさ」 「たとえば?」  問いに、答えは一拍の間もなく返された。 「女が男を育てるように」 「一緒に煙草吸うんじゃなくて、料理を教えてあげるような」 「それでそいつがさらにいかした奴になったら、ねえ、大勝利だと思わない?」 「…………」  それに、母禮は一拍だけ間を空けて。 「そうかもね」  低く、静かに肯定すると、そのまま剣を振り下ろした。 「まあこれが、私があんたに言いたかったことで」  迫る雷刃――その一閃が首に届き、断ち切るまで、猶予はもう刹那もない。  だがその間に、奇妙なことだがまだ会話は成立していた。 「要は、私のほうがいい女だっていうことよ」 「だったら証明してみなさい」  まるでこの時、ここでだけ、時の流れが狂ったような。  名状し難い状況の中で、母禮は言う。 「〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈彼〉《 、》〈の〉《 、》〈真〉《 、》〈意〉《 、》〈が〉《 、》〈何〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》……あなたの結末を見て確かめる」 「まだ勝てると思ってるんでしょう」 「もちろん、だって主人公だから」 「前は私たちもそうだったのよ」  そして瞬間、振り払われた一閃が、紫織の首を切り飛ばしていた。  その放物線を目で追いながら、囁くように母禮が言う。 「座の支配を超越する。主役を気取るというのは、そういうことよ」 「出来ると言うなら、やってみなさい」  それはまったく同時に、膨れ上がる凶の波動となって伝播する。解放された真の神威は二柱の内界のみならず、血風吹き荒ぶ戦場にまでその圧力をもたらした。  漏れた歪みの量は内に轟くそれと比べれば、雫の一滴がこぼれ落ちた程度だろう。しかしそれでも純度が違う。常軌を逸した異界の理に、兵の四割が為す術もなく死滅、急速に戦線が瓦解していく。  そして、宗次郎と紫織が魂ごと押し潰される。  彼らの死がそのまま戦の趨勢となり、幕を下ろそうとしていた、その中で── 「まだだ──!」  否。まだ決着ではないと。 「私は信じている。おまえたちなら必ず勝てる、必ずそこから立ち上がれると!」 「遠く眺めているこの身では、阿呆のように同じ言葉しか送れない。だが厚顔無恥だと思われようと、せめてこの激だけは届かせたい!」 「安い奇跡などと誰にも言わせん。壬生宗次郎と玖錠紫織がこれから起こす勝利への道筋を、私は起こるべくして起こった武勲であると確信する……!」  彼らの将は諦めていない。己が認めた益荒男ならば、これで終わるはずがないと誇り続ける。  そうだ。ここに、敗北を信ずる者など一人もいない。その全員が叫び続ける。  ただ一言──勝てと。 「おいコラおまえら、根性出せよ! いつまで余裕ぶっこいてやがる」 「大将にこうまで発破かけられたんだ。手抜きなんか許されねえぞ。おまえらの武は見てる連中に余計な野次飛ばされるもんなのか!」 「違うだろう、違うはずだ! 絶対違うぜ。なあ──そうだろがよォ!」 「こっちは尻拭いしてやるつもりなんてねえんだよ。自分の獲物は自分で獲れや。……それがおまえらの〈王道〉《みち》だろうが」 「邪魔なんざ、しねえしさせねえ。晴れの舞台で何してんだ、さっさと一発ブチかませェッ──!」 「届かぬはずがありません。わたくしもまた、信じております」 「楽しくもあり辛くもあった東征の旅路。それはここで潰えるような、軽い想いではないはずですから」 「そうだとも。だから今ばかりは、私もおまえたちへと祈ってやる!」 「たった一つしか持たぬ者らがそれを貫けずなんとする! 二度の敗北など武の名折れだ。悔しいならば奮い立て! 必ず勝つと、誰にも負けぬと……私に信じさせてくれっ!」 「然り。これはあくまでも前座なのだ」 「後がつかえているのだよ。戯れたいのは分かるのだが、そろそろ己を掴んでみろ。躊躇うことなどありはせん、すでに兆しは見えているはず」 「耳を澄ませ。自己へと潜れ。腹の奥から魂魄の胎動が聞こえてくるはず」 「──なあ、そうであろうが」  想い迸らせる激励の中、この場ではない……そして二人の居る戦場でもない、何処ともしれぬ何かへ向けて夜行は訥々と語りかけた。  その時に。  ──■■■■■■■──  声に呼応するかの如く、何某かの念が鼓動となって鳴り響き―― 「誰にも邪魔はさせねえから!」  それに重なる二人の激が混ざり合い、重なり合って―― 「てめえら自身の魂を見せろ!」  瞬間、弾け炸裂した。 「──何だとっ!」 「やはり、いや、だけどこれは……」  何よりも早くそれを感知した二柱は、凝然と目を見開く。  荒れ狂う力の波濤を発露しながら、自らが宗次郎らを滅殺したことさえ忘れて虚空を睨む。  なぜなら彼らは覚えているから。先ほど確かに感じた波動。ため息一つ、いやまばたきよりも小量な、ともすれば見逃してしまいそうな微量の猛毒を覚えている。  しかし、真の異常はそこにない。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈予〉《 、》〈想〉《 、》〈が〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  何か別の、もう一つ、あの猛毒と似通っているが確かに異なる何かがあった。その正体が分からない。 「自滅因子……? いいや違う、そうじゃない」 「いったい、どういう……」  彼らの理解を超える何か、知らない何かがこの戦いに絡んでいる。  その事実に驚愕し、見極めようと意識を切った間隙に── 「 」 「 」  同種の波動が、腐蝕と焔に潰えながら天の息吹をあげ始めた。 「 」 「    」 「  」 「 」 「    」 「  」  全身の肉が腐り落ち、髑髏の威容と成り果てながら呪が紡がれる。  宗次郎は声帯などとうの昔に失っていた。筋肉のない、骨だけで構成された剥き出しの喉。もはや骸というべき姿ながら、導かれるように詠唱を捧げる。 「  」 「  」 「  」 「  」  消える激痛に漲る導力。〈唯々〉《ただただ》溢れ出るは、澄み渡る革新への開放感。 「    」 「    」  これぞ我が道。これぞ我が天。壬生宗次郎の抱く深淵なり。  腐蝕の魔界に抱かれながら、今こそ己が本質に目覚めていく。 「  」 「 」 「 」 「  」 「 」 「 」  業火の渦に抱かれ、焼却されながら己自身に埋没していく。  深く。深く。可能性ごと焼き切られ灰となる。炎で消えたはずの唇を動かして、自らの本質を謳い上げていた。 「  」 「  」 「  」 「  」  増大する存在感。乱立していく確率の像。大火さえ覆い尽くす無尽の濃霧が、その脳内で描かれる。 「   」 「   」  これが祈祷。これが矜持。玖錠紫織の抱く深奥なれば。  地獄の恒星に燃え尽きながら、今こそ己が可能性を識っていく。 「    」 「    」 「 」 「 」  そしてようやく、今ついに。求め焦がれ追い続けた、武の頂へと手をかけて── 「――太・極――」 「神咒神威――〈経津主〉《ふつぬし》・〈布都御魂剣〉《ふつのみたまのけん》」 「神咒神威――〈紅楼蜃夢〉《こうろうしんむ》・〈摩利支天〉《まりしてん》」  天魔の波動その悉くを殲滅し、ここに至高の武威が顕現した。  剣閃の嵐が世界を引き裂く。  都合七十八──覚醒と同時、奔る刃は疾風となり叫喚地獄を微塵と化すまで断絶した。あれほど猛威を奮っていた腐蝕の波動が、夢幻の如く斬殺される。  骨肉総て腐り落ち、息絶え果てる一瞬の差。己を廃絶する世界そのものを鋼の刃は断ったのだ。 「そうだ──僕はそういうものだった」  その中から、宗次郎は立ち上がる。それはさながら幽鬼の如く、恐れを感じさせる喜悦を纏って。 「ひとたび抜けば総てを切る。老若男女の別もなく、抜いた刃で首を飛ばして道を作る」 「持っているのはそれだけなんだ。切りたいのだから切るだけで、そこに何か特別な意味や、動機の出自さえ不要だったはずじゃないか」 「ただ、斬り裂くだけのモノになりたい。ならば僕は、壬生宗次郎はいったい何だ?」  悪鬼か? 修羅か? それともただの物狂い? 「僕は──刃だ」 「この一振りで総てを切り裂く、天下無双の刀剣だった」  これが宗次郎の至った太極。森羅万象、世に混在する総てを分かつ究極の切断現象。  彼が所有し続けた歪みの極致にして剣戟の到達点。射程距離、対象硬度すら関係なく──抜けば切り裂く神魔の刃だ。 「いつだって、刀を振るたび僕は何かを切っていた。それが誰の目にも見えなかっただけで、必ず何かを断ち切っている」 「寿命か、運気か、世界さえ……剣先が触れなくても同じこと」  〈壬〉《 、》〈生〉《 、》〈宗〉《 、》〈次〉《 、》〈郎〉《 、》〈と〉《 、》〈遊〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈者〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。  過去も現在もこれからも、それは永劫覆せない不文律。彼が抜き身の刃というならば、本人にその気がなくとも道を交えただけで切断される。  そして、そのことで罪悪感も僅かな憂鬱さえも抱きはしない。なぜなら。 「なんて、清々しいんだろうか」  なぜならこれぞ刃の本懐。斬る──真にそれのみを体現した己に、剣鬼の口元へ清爽な笑みが浮かび上がった。 「〈成〉《 、》〈り〉《 、》〈立〉《 、》〈て〉《 、》の割には理解が早い」  それを悪路は、腐滅の魔眼で睨みつける。だがその魔性は決定的効果を発揮できない。  視線を斬る。念波を斬る。壬生宗次郎に触れる諸々、今は例外なく切り裂かれるのだ。僅かにぽつぽつと錆を浮かすことは出来るものの、それから先が続かない。  同じ土俵、太極同士――理の奪い合いが拮抗している証だった。  曰く成り立ての宗次郎と、練達だが弱化している悪路の状況……天秤としては水平に近いのだろう。 「興味深い。だがやはり、その悦に入った顔は腹立たしいな」 「物の本質を何も捉えず──今、〈己〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈に〉《 、》〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈起〉《 、》〈こ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》も知りもせず、ただ誇らしげに、満足げに」 「気に入らないぞ、奴の〈貌〉《かお》を思い出す」 「怒りましたか? いいなぁ、うん、是非もない。どうぞ、そのまま全力で立ち向かって来てください」 「あなたを倒すために、僕はこうまで至ったのだから。容易い手応えなんて、最初からまったく求めてないんですよ」 「あははは、燃えさせてくださいよ、ねえ……ねえ」  悪路の本気の殺意さえ、剣の化身には届かない。感情に乗り放たれた腐蝕の波は、宗次郎の外皮に触れた途端、裂けるようにその暴威が斬り捨てられた。  触れれば腐る悪路に対し、触れれば切れる異界の理。  それは水を垂らされた障子紙の如く、徐々に、しかし確実に地獄を塗り替えながら滲み出ている。 「では、始めましょうか」 「ああそれと、本質だの何だのと萎える説法はやめてください。賢くなれば今より巧く斬れるなら、筆と墨でも手に取りますけど。違うというならどうでもいい」 「思慮深いあなたは世の理だの正誤だの善悪だの……まあ、適当に僕を嫌っててくれて結構ですんで、口に出すのは止めてください。つまらないので」 「世の成り立ちやその真理なんて、僕は知らない。興味がない。白痴で無学で結構ですので」  願いと共に、凶の面を覗かせて。 「この世界ごと、あなたを斬れれば、それでいい!」 「そうか。ならばもう何も言うまい」 「その力が、どれほどのものか見てやろう」  そして今――剣と腐蝕、二つの太極が真っ向から激突した。 「はあああああぁぁァッ!」  それは同じく、焦熱地獄においても展開している。  万象焼き尽くす業火に滾る魔界において、その侵攻と拮抗している影がある。  数はもはや数え切れない。周囲を嘗め尽くす炎雷の嵐と競うように、無限の陽炎が出現していた。 「はは、はははは……あはははは!」  ──数万の拳が焔を砕く。  覚醒の開放感による笑い声はもはや絶叫に近かった。総身を駆け抜ける革新、芽生える力の息吹に紫織の中で悦の乱流が止まらない。  迎撃に生じた爆炎が空間を圧し、迫る紫織の実像中、九割九分以上を消し飛ばす。振るった拳は灰と化し、紙吹雪のように舞い散った。  が──いったいそれが何だという? 確かに多くが殺されただろう、だがしかし。 「まだまだァ──!」  残る数十の像、全体の一厘に相当する数がまだ残っているのだ。  哄笑と共に乱撃を穿ち、再び無数の像が紡がれる。母禮が恒星と化していようと関係ない。特攻の代償に焼滅したとしてもまだまだ数多の己が控えていた。  今の紫織はまるで〈蜃〉《しん》だ。夢のように薄く広がり、楼閣のごとく視界総てを埋め尽くす。  彼女は可能性という名の濃霧そのもの。たとえ稲妻で焼かれようと、炎で蒸発させられようと、可能性は絶対になくならない。  〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》、生き延びていられる自分がいる限り。  〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》、この雷火を掻き分けて母禮を砕けている自分がいる限り。  玖錠紫織に負けはない。逃れられない炎にじりじりと焦がされながらも、死に続ける自らを踏み台に必ず敵手を追い詰める。 「そうだ──私はそういうものだ」  空間を奪い、さらに自らの領域を拡張しながら紫織は言った。 「これじゃないし、あれも違う。高望みや夢見がちと言われても、つまらない女じゃ嫌だから」 「出来ないから、やれないからって、そんな理由で誰かの装飾品になんてなりたくない。私は私――玖錠紫織」 「だから、そう──私は最高の私でいたい」  増える。さらに増加する。数え切れない可能性の実像が、焦熱地獄を満たしていく。 「あんたなんかに負けないし、どんなか細い確率だろうと手繰り寄せて勝利する。そんな私でいたいから、そういう自分でいないといけない」 「だったらそこに至る道を、いつも追い続けられるように――」 「この瞬間に、私は最善の私を求め続ける!」  放射状に広がった稲妻を〈奇〉《 、》〈跡〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》躱して潜り込む。そこを狙った炎の熱波を、またも〈奇〉《 、》〈跡〉《 、》〈的〉《 、》〈に〉《 、》耐えた紫織の群れが母禮へ拳を叩き付けた。  燃え尽きながら繰り出された一撃は、鎧に傷さえつけられず蒸発して消え失せる。  それだけならば今まで通り、母禮の優性は覆らない。  だが── 「奇跡を起こす〈自分〉《わたし》がいいの」  瞬間、〈燃〉《 、》〈え〉《 、》〈尽〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈紫〉《 、》〈織〉《 、》が母禮の胴鎧に亀裂を生じさせる一撃を放った。  理の奪い合い、拮抗状態が完全に実現している。無限の可能性、などという稚児の絵空事が叶っているのだ。  攻撃が届く可能性がある限り、死を逃れた可能性がある限り、紫織に敗北は存在しない。半永久的に損失を消し飛ばしながら戦闘を可能にしている。  ならば、勝負は削り合い。どちらの底が先に尽きるか。それを競う形になっていく。  すなわち―― 「私の、〈十八番〉《おはこ》だ――!」  持久戦こそ玖錠紫織の真骨頂。今、主導権は自分こそが握っている。  ――と、彼女はそう信じているが。 「…………」  母禮は一切何も言わない。口を噤み、無駄を消し、ただじっと紫織を見ている。  見る。見る――見続けている。  無間神無月の鎧を失い、己が太極による守りすらも突破され、どれだけ殺そうと殺しきれない増殖する敵を前に。  何かを見ている。狙っている。冴え凍るような眼差しで、敵手の深奥を透視せんとしているのが分かる。 「結局……」  狂奔する熱波と陽炎の嵐の中で、母禮は密やかに呟いた。 「 」 「 」  彼女が何を見、何を感じ、そしてどう結論したのか。それは誰にも分からない。  少なくとも、今このときの紫織には理解できないことだった。  それは宗次郎にしても同じこと。悪路が考えていることなど分からないし、分かろうとも思っていない。  ただ速く、ただ巧く、剣たる己を駆動させる術理にのみ全存在を没頭させる。  刃乱れて狂い咲く。その様、まるで花火のごとし。剣閃はすでに輝く軌跡のみが舞っているようにしか見えやしない。 「──シィィィイ!」  加えて宗次郎の斬撃は外れない。『抜けば斬る』という、常識を度外視した魔剣の冴え。渇望の具現を極めた末に、外れるという事象は消し飛んでいた。相手の太刀に弾かれようと、必ず〈何〉《 、》〈か〉《 、》を断っている。  ゆえに削られるのは悪路の魂魄。一撃積み重なっていくたびに、身体の何処かへ裂傷が走り、苦痛と血風を撒き散らす。  今の宗次郎は正しく剣神に他ならない、そう形容するしかないほどに、凄絶極まりなく無謬だった。  刃の煌きは加速する。  仮に千里離れた地点で素振りをしようと、斬撃の波動は狙ったものを両断できよう。  しかし、それを受けきる悪路もまた並ではない。足は一歩も引かぬまま――否、益々雄雄しく猛りながら、刃の嵐に相対する。  たとえ在りし日の輝きを失って、敗亡の泥に堕ちた身の上であろうとも、偽りなく彼もまた戦神なのだ。腐毒を太刀に凝縮したまま、粉砕せんと剛の乱舞を巻き起こす。  先ほど己で言ったように、一切何も言わぬまま。  〈恋人〉《いもうと》である母禮とまったく同じ調子で、迫り来る乱流にただ真っ向から対峙している。  それを前にし、魅せられて、ただ宗次郎は絶叫した。 「くはははは、あははははは──ッ」  流石だ。実に素晴らしい。まだ速くなるのかと──敵手の技量を褒め称え、乱れ散る刃の流れを眺めている。愛すら感じているかのように。  その眼差しは潤みを帯び、もはや完全に己の世界へ入っていた。仮に悪路が何かを吼えていようとも、耳の穴に入った音はそのままするりと反対側へと抜けていたに違いない。  無言の悪路。泰然自若。にも関わらずなお激しくなるその戦ぶり。 「いいですよ、きっとあなたはそれでいいんだ! 是非ともそのままでいてください。ほら、さっきよりずっと剣のキレが冴えている!」 「魅入られそうだ、たまらない。ああ僕は、こういう瞬間が欲しかったんですよ……!」  剣神の脳が歓喜に染まる。剣の舞に興じる己が、そしてそこについてこられる悪路の強さが、嬉しくて楽しくて仕方がない。 「だから僕も──」  そして、呼応する剣気が増大する。覚醒はまだ始まったばかりであり、宗次郎の存在感がさらなる鋭利さを発揮して── 「もっと鋭く、もっと速く、もっと巧く振るうことができるから!」 「僕は刃だ、刀剣だ! 斬ることのみを追い求めたから、誰にもそれだけは譲らない!」  ──揺らめく世界を、剣の波動が侵食した。  歪みの源泉、この異界に対する陣取りが巻き起こる。腐蝕によって満ちた理を斬殺し、剣気によって捻じ曲げられて、世界は無数の刃で満ちていく。  無尽の斬撃が巻き起こり、悪路の理を切り開いていくその様は、まるで空間自体が剣に喰われていくようだった。  剣戟を受けるたび、生気か空間のどちらかを断ち切られていくのである。対抗手段など一切ない、斬るという動作そのものは決して腐り落ちなどしないから、打ち漏らしなく悪路の存在を削っていた。  壊れていく。彼ら化外を維持していた聖域が。  旧世界より留まり続けた想いごと踏み躙られ、奪い去られて壊されゆく。……かつて愛を守れなかった儚い男の想いごと。  ……いや、本当にそうなのか。 「―――――」  魔剣の波動に駆逐されようとしている中で、未だに悪路の様子は変わらない。  狂喜している宗次郎には気付けないが、ここに第三者がいれば戦慄するだろう静謐さを保っている。  これが窮地にある男の態度か?  これが殺し殺されようとしている者の顔か?  否、断じて違うだろう。悪路は魔戦を演じながら、透き通るような純粋さで何かを思い続けている。  それは塗り潰されていく刹那の夢か。彼であった在りし日の残影なのか……腐蝕の太極が主の思いを汲むかのように、彼を彩る背景として、その〈咒〉《おもい》を形にしていく。  深く、硬く、強靭に、何者をも貫く一矢を組み立てていく。  それに宗次郎は気付けない。  いや、そもそもこれは宗次郎を狙っていないのかもしれない。  なぜなら彼は、もとより他者を撃滅することを願った存在ではなかったから。  勝敗や優劣などを、競う魂ではなかったから。  彼が望んだことは、ただ守ることと救済のみ。  愛する君に、重い荷物など背負わせない。  その笑顔が好きだったから――  愛する君を、あらゆる呪いから守り抜こう。  この世の罪穢れを一身に受け止めて、己が腐泥に沈もうとも――  守らねばならない輝きがある。消してはならない光がある。  ゆえにそう、今このときも。彼は原点に立ち返って、救わねばならない者を見ている。  〈眼〉《 、》〈前〉《 、》〈で〉《 、》〈狂〉《 、》〈喜〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈が〉《 、》〈ら〉《 、》〈舞〉《 、》〈い〉《 、》〈踊〉《 、》〈る〉《 、》〈少〉《 、》〈年〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》。  それは幼く、拙く、酔いしれて……渇望に溺れている無様な姿だ。西の者には何の期待もしていないと、先に悪路が言った通り、ただ力に振り回されている木偶としか思えない。  〈そ〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈真〉《 、》〈実〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》、〈即〉《 、》〈座〉《 、》〈に〉《 、》〈滅〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》。  だが、そのあといったい何が残る? ここで彼らを粉砕し、この無間神無月を守り続け、何かが解決するというのか?  いつまで? どこまで? 永遠など存在しないと、誰より知っている自分たちが?  そんな疑念、ついぞ抱いていなかった。いや、抱かぬようにしていたのだ。  そのことを自覚してしまった瞬間に、崩壊は始まっていたのかもしれない。  だが、同時に、これが終わりではないとも断言できる。  なぜなら―― 「最後に勝ってやるため、か」  剣戟の中、悪路は独りごちるように呟いた。端正な顔は微かに崩れ、仄かな苦笑を覗かせている。  最後に勝つ――その言葉で自分の中に楔を打ち込んだ同胞へ、揶揄と親愛の情をこめながら。 「これは自滅因子の増殖か? ……だとしたら、まったく君は性質が悪いな」 「しかし、ああ、確かに君が言うなら正しいんだろう。だから一考だけはしておくよ」 「先の違和感さえなければ、聞く耳持たなかったことだがね」 「何を一人でぶつぶつと――」  瞬間、腐界を切り裂いて過去最大に宗次郎が間合いを詰める。 「言ってるんですかァッ!」  その一撃を不動の姿勢で弾き返し、たたらを踏んだ宗次郎に返す刀で攻め込む寸前、悪路は問うた。  静謐、かつ厳格に、魂を懸けて答えろと全霊の圧力を込めながら。 「おまえの求める先はなんだ?」  放たれる超級の剛剣一閃――それを前にして宗次郎は。 「知りませんよ──ただ僕には敵手が必要だから」  その最大の剣撃を、彼は真っ向から弾き返した。  世界が破断される響きと共に、砕け散る宗次郎の剣。しかしもはや、彼の斬撃に武器の有無は関係ない。  壬生宗次郎こそが剣だから、杖であろうと箸であろうと、徒手であろうと同じこと。  腰溜めに構えなおした握りの先で、凄愴に輝く神気の刃が朧に揺らめく。 「僕には強い相手が要るんです。あなたのように頑丈で、長く付き合える良き手合いが」 「ですから一つだけ、僕が至った真理とやらを言葉にするというのなら──」 「〈人〉《 、》〈は〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈ぼ〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈つ〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「誰かと切り結べない世界など、もはや僕には考えられもしませんから」  その言葉、その答えに悪路は奮える。無論のこと恐れでも、ましてや怒りの類でもない。  有り得ぬものを見た衝撃。出てくるはずのない言葉の羅列を耳にして…… 「だから、感謝します。あなたに会えて、本当によかった」  次の刹那、数多の剣士が夢に見る、天地史上最高の剣が放たれた。 「石上神道流、奥伝の一」 「〈早馳風〉《はやち》――〈御言〉《みこと》の伊吹」  それは速度、理合、技巧では測れない総てを逸脱した何かであり、彼我の間に存在するあらゆる要素を突き抜けて炸裂した、剣撃の究極と言えるものだった。  完全に斬割される悪路の世界。彼の身体も、それが及ぼす切断現象からは逃げられない。  夜都賀波岐・悪路――壬生宗次郎の前に討滅される。  だが、その中で…… 「そうか、よく分かったよ」  悪路の背後で何かが揺らめく。それはこの剣戟が始まってから溜めに溜め抜いていた彼の〈咒〉《おもい》で、宗次郎はその発生に気付いていない。  奥義をつくした直後の硬直。そこを狙い撃つかのように。 「次は〈素面〉《しらふ》で、その境地に至ってみせろ」  剣神――宗次郎の太極は、あたかも夢であったかのように掻き消されていた。 「ねえ、あなた。求めるものは?」  そして母禮も問うている。最後に勝つため、魂を懸けて答えろと全霊の圧力を込めながら。  それに紫織は即答する。 「言ったでしょ、常に最善の私であるため」 「そんな私に勝てるような、最高の男へ嫁ぐため──」  この無数に存在する自分さえも敵わないような、素晴らしい場所へと至るために。  相手の心へ、絶対に忘れられない理想の自分を刻み込むために。 「〈た〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》、〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》」 「私は誰かの胸に残り続ける〈陽炎〉《ふめつ》になりたい!」  その言葉、その答えに母禮は奮える。無論のこと恐れでも、ましてや怒りの類でもない。  有り得ぬものを見た衝撃。出てくるはずのない言葉の羅列を耳にして……  雪崩となって突貫する紫織の背後、そこから先まで無限に埋まった数え切れない敵手の影に目を細めた。  自身の世界が駆逐され、代わりに数百億を超える玖錠紫織の可能性が像を紡いでいる光景は、まるで―― 「玖錠降神流、奥伝――」 「〈大〉《だい》―〈宝〉《ほう》―〈楼〉《ろう》―〈閣〉《かく》―〈善住陀羅尼〉《ぜんじゅうだらに》!」  その様、さながら流星の瀑布。一の打撃が降り積もり、恒星をも超える天魔の総体を削っていく。  夜都賀波岐・母禮――玖錠紫織の前に討滅される。  だが、その中で…… 「そう、よく分かったわ」  母禮の背後で何かが揺らめく。それはこの戦いが始まってから溜めに溜め抜いていた彼女の〈咒〉《おもい》で、紫織はその発生に気付いていない。  奥義をつくした直後の硬直。そこを狙い撃つかのように。 「ただ、あまり酔いがすぎると、大半の男には引かれるわよ」  陽炎――紫織の太極は、あたかも夢であったかのように掻き消されていた。  そして…… 「あ―――」 「これは……」  我に返ったそのときに、彼らは神格ではない生身の〈己〉《ヒト》へと戻っていた。  それがどれだけ有り得ないことか、紫織と宗次郎には分かっていない。原則、〈一〉《 、》〈度〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈者〉《 、》は二度と戻れず、そのまま永劫に在り続けるだけ。同種に殺されぬ限り不変不滅となるのである。  すなわち、あのままいけば宗次郎は剣として、紫織は陽炎の具現として、帰ることが出来なくなるところだった。  それを、どうしてか強制的に戻された。あのままで在り続けても宗次郎らに不満は無いのかもしれないが、現状において無視できない事実が一つだけある。 「目が覚めたか。どうだ、今すぐ再び至れるか?」 「出来ないでしょう。先のは後押しがあった結果だから」  この場で再度、太極には達せない。その方法も分からない。  そもそも二人は、先ほどまで自分が何を言って何をやったか、それすら正確には覚えてなかった。  後押しされた――その言葉が意味するところは、つまるところ実力ではないということ。  何かが彼らを、無理矢理そこまで押し上げたということ。  悪路と母禮は、ソレとの繋がりを断ったのである。宗次郎らは擬似的な、言わば紛い物の神格であったればこそ、こうして人に戻れたのだ。  無論、今の二人にそこまでの理解はないものの、自分たちが手心を加えられたということは分かる。 「なぜ……!」 「どうして……!」  今、目の前で消えようとしている悪路と母禮。彼らにもしその気があれば、自分たちは殺されていたはずなのだと……そこに思い至った宗次郎らは、軋る声を絞り上げる。 「馬鹿な、信じられないことをする。いったいどういうつもりか知りませんが」 「こんな侮辱、初めてだよ。あんた、舐めるのもいい加減にしてよ」  彼らの怒りは、彼らの主観ではこの上なく正当だろう。武に身命を賭す者として、勝負に加減や情けは一切要らない。たとえ殺される結果に終わろうとも、力劣ったのなら死ぬが摂理と弁えている。 「なぜこんな……あなた方にはあなた方で、負けられぬ思いがあったのでしょう」 「冗談じゃない。この期に及んで、生き恥晒せって言うつもり?」  だがそれは、あくまで宗次郎らの主観であり、相手にも同じ物差しが通用するとは限らない。  事実、悪路と母禮は彼らなりの理屈をもってこの結末を選択し、望む場所へと辿り着いた。その観点で見るならば。 「誤解するな。勝ったのは僕らだ」 「私はもう負けないと誓ったのよ。だからそれを貫いただけのこと」 「これ以上、波旬の跳梁は許さない」 「だからあなた達、ただの〈木偶〉《やくしゃ》じゃないというのなら」 「今度は自力で、己の意志で、自ら太極に届いてみせろ」 「そして、その先を自分の目で確かめたなら」  消え去る寸前、二人は微かに笑みを浮かべて。 「どうか波旬を、君らの手で討ってほしい」 「それが主役というものでしょう」 「待っ――」  思わず手を伸ばすがもはや届かず―― 「  」 「 」 「 」 「  」 「  」 「 」 「 」 「  」  愛していると呟いて、悪路と母禮は寂滅為楽の境地へと旅立った。  手の平の温もりを、懐かしいあの日への道標に変えながら。  遥かな昔。もはや誰も思い出せないほど遠い遠い歴史の彼方……かつて光の道を望んだ女と、その輝きを守ろうとした男がいた。  名も無き英雄であった彼らの運命を知る者は、もはや何処にも存在しない。痕跡さえも風化して、市井の記憶に留まることなく、語り継がれる逸話さえ闇の中に葬られている。目に見える形では、それこそ何一つ残ってなどいないだろう。  だが、それでも確かにあったのだ。何よりも愛おしい他者のために、仁に満ちて愛のために駆け抜けた雄雄しい歴史があったのだ。  その輝きだけは決して消えない。  憎悪から解脱した消滅の刹那、溢れ出した美しい光こそが……彼らに宿った心の輝きを示していた。 「逝って……しまいましたか」 「だけど、ついに……」  異界の討滅という驚異の偉業。全身全霊を賭した勝負を終え、宗次郎と紫織は共に現世の地へと倒れこんだ。  疑問も蟠りも今はいい。総てはこの東征が終わったあと、そこから先にあることだ。  精根互いに尽き果てて、空を仰ぐ二人の顔は、血と泥に塗れていても美々しかった。以前よりも間違いなく、彼らは前へと進んでいる。  だから―― 「あとは、どうか……」 「任せたから、続いてよね」  仲間に託し、そして信じる。先に行ったから早く追いついてこいとばかりに、雄々しく笑んで鼓舞をする。  その様が、腹立たしくなるほど羨ましく見えたから。 「よくやったぜ、おまえら。あとは寝てな」  それを受け取る者にも迷いはない。  見事なり。誉れなり。大義と呼んで差し支えないだろう、ああならばこそ。 「迫撃──それしかないな」 「ああ。土俵際の守勢は終わりだ」  今度はこちらが攻める番と、前に出るは二人の益荒男。  凶月刑士郎に摩多羅夜行──東征軍において個々、陰陽に突き抜けた象徴ともいうべき男らが覇気を纏って馳せ参じた。 「兄様、御武運を。そして……楽しんできてください」 「任せろよ。吉報と共にきちりと首を獲って来る」 「私も夜行様の勝利を信じおります。ですからっ」 「死ぬつもりはないさ。今のところはな」  女の声援を背に受けながら、男は雄雄しく舞台へ上がる。  神と人の演じる宴。神楽舞へ興じる気概に翳りはない。 「往けるのか刑士郎? 私と違い、おまえはちと事情が複雑そうだが」 「それこそ余計な世話ってやつだ。ほっとけ」 「むしろそっちこそ勝算あんのかよ? あの鎧武者、明らかに化外の中でも際物だぜ」 「さてなぁ……それこそ、やってみなくば判然つかぬよ」 「ただ──」  宗次郎らの勝利した方角を眺めながら、薄く笑い。 「あまりに脆弱な手応えすぎて、軽く潰してしまわぬことを願うのみかな」 「はっ、そいつは重畳。俺もそんな具合だ」  負けるはず無し──と。  昂ぶる野獣であるかの如く総身から活力を漲らせていた。 「ほう……吼えたな、おまえら。いい胆力だ」 「どうやら未だ絶望が足らぬと見える」  その、余りに現状を舐めた挑発に応じる波動は負の二柱。  驕り昂ぶる、結構だ。しかし──戦いを前に敵を見くびる所業は三流と知れ。そして見よ。  常に憤怒を放っている悪路や母禮と違い、この者達は憤激の使いどころを弁えている。滅多に解き放たず〈裡〉《うち》へ溜め込み続けた戦意の釜が、今開く。  空に紡がれ具現する荒神の像。  宿儺に大獄、二柱がついに渾身をもって出陣した。 「さあ、始めようぜ喧嘩と祭りだ。囃してみろよ。やってみな」 「こちらは弔い合戦だ。腑抜けきった根性見せたら……生首残して消えると思え」 「戦士ならば挑んでみせろ。それが黄泉路へ続く坂だとしても」  両面の鬼が大地を揺るがし、三つ首の虎が死の息を吐く。  収束する波動に天地鳴動が引き起こされた。攻撃の予備動作に生じる圧力、それのみで兵が次々と身体を潰され、ひしゃげて散る。  血の花が咲き乱れる中、随神相が見下ろす先は豆粒の如き二人の男。  宿儺は四つの銃口でそれを狙い──  大獄は口蓋から暗い破滅の光を凝縮し── 「耐えてみろよ小手調べだ」 「どれほど研ぎ澄ませたか、今一度見せるがいい」  蝦夷から不二霊峰まで、総軍悉く蒸発せよと滅亡の歪みを吐き出した。 「消し飛べ」 「息絶えろ」  山脈すら滅する神の掃射──この程度、〈防〉《 、》〈げ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈ば〉《 、》〈用〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  遥か上空から見下ろした試験は傲慢の極みだろうか。否、これこそ鬼神。人の都合を欠片の解さず路傍の蟻よと踏み砕く、天空の頂きに腰掛ける者の特権なのだ。  巻き添えに弱卒の屍を撒き散らしながら迫る破壊光。小国ならば滅亡必至の烈しき負の閃光を前に── 「笑止千万──侮りすぎだ」  躱す必要一切無しと、応えたのは摩多羅夜行。  雅にかざした掌にて具現したのは時空の〈暇〉《いとま》による障壁。  随神相の一撃さえ、そよ風の如しと防ぎきった。特筆すべきはその手練より、それが当たり前だと常に揺るがぬ彼の自負そのものだろう。  かつては手に負えなかったモノを前に、伍するようになったからといって何の達成感も覚えていない。彼にとっては至極当然、これが世の道理だと確信している。 「両の目玉刳り貫いてそのまま浄化されてえか」  そして試しを受けるのは貴様らだと、牙を鳴らすのは凶月刑士郎。  返礼に放つのは陰気の杭。闇の血脈が形を成す。  巨大な魔槍の如く飛ぶそれは、二柱の天魔を穿ち抉らんと突き進む。もちろん、これで終わるなどとは誰一人として思っていない。  容易く消し返されたその結果も、初撃の応酬という約束事においては華の一つだ。王道ならば斯くあるべしと、夜行と刑士郎はそろって口元を吊り上げる。見上げる瞳に恐れはなく、挑発的に天魔へ向けて指をくいと折り曲げた。  舐めてくれるな、見損なわないでもらいたい。とうに座興は過ぎたのだと決闘の誘いを不遜にかざして―― 「ご覧の通り、我らは共に健在よ。御身ら、埃を巻き上げるのが趣味であったか?」 「易々〈貫〉《ぬ》けると思ってくれるな……空砲鳴らしていきがんじゃねえぞ」 「ゆえに」 「来いよ」  おまえは己の餌となれ──太極諸共喰らってやろう。  宣言した瞬間に、随神相がそれぞれの獲物めがけてその巨腕を叩き付けた。  圧死しか連想させない鉄槌は、しかし彼らの地獄へ導く招待状に他ならない。勝負をその手で決するべく、己が敵手を呼び寄せる。  血を纏い、血を絆とし、血を盟約とする血染花。  才に愛され、現世に対し最も適する咒皇の閻魔。  因果の鎖に導かれ、これより彼らは己が業へと向き合うのだ。  まず第一に──其処を一言で表すならば、万華鏡という言葉が適切だろう。  見渡す限り広大な果ての無い空間に対し、空には常に複雑な幾何学模様が規則性と共に描かれている。斑で不揃いな色彩は目に厳しく、見ているだけで自然不快な気分を催してくる。  規則性のある混沌、とでもいうのだろうか。複数の絵を鋏で切り刻み、満遍なく継ぎ接ぎ模様を構築すればこうなるのかもしれない。  捻じれている。歪んでいる。それでいて揺れない芯が奇怪な法則を示している。相反する二律背反、矛盾を形としたような風景こそ── 「そう、此処がオレの〈地獄〉《せかい》だ」  まさにこの鬼神の内界に他ならぬと、刑士郎は一目で理解した。  魂の深奥で、何かが疼く。 「……よう。お望みどおり来てやったぜ」 「馬鹿抜かせ、望んでいるのはそっちだろうが」 「目ン玉爛々と輝かせてよ。若いってのはいいねえ、血気盛んで向こう見ずで。適当に偉ぶってる奴に噛み付けばそれで幸せなんだからな」 「死相が見えるぜ、ガキ。そうなって生き延びた奴はいねえ」 「黙れ」  その言葉に対し、刑士郎は脊髄反射から陰気の杭を射出していた。  放たれた初撃は鋭角にして高速。無性に癇へ障る宿儺目掛け、比類なき暴力と共に狙い違わず直進し── 「おいおい、風情がねえな」  空間に蝕まれたあげく──至極あっさりと指先で弾かれ消えた。 「少しは学習しろ。前も効かなかったものが、まして此処で効くはずねえだろうが」 「言ったろ。此処はオレの〈地獄〉《セカイ》だ。おまえらが自慢げに使ってる歪みの数々、それがどんなものであろうとオレには例外なく当たらない」  それは見れば見るほど奇異に過ぎる異端の理。東の者すら毒と扱う鬼面の神は、あくまで飄々と言い放つ。  無理もない、杭は現出したその時から地獄に嬲られ飛翔していた。己以外総ての歪みを消滅させる宿儺の源泉、そこで発した異能は例外なく掻き消されていくのみなのだ。  一度の発動でもそれは目に焼きついている。ならばこそ、先の攻撃は無駄な消耗でしかなかった。 「──キバれよ。そんなちゃちな威力が渾身なら、何の役にも立ちゃしねえ。使いどころはよく考えな」 「無駄撃ちかませば程なくあっさり弾切れだ。そういうふぬけた決着じゃ、ちょいと間抜けに過ぎるだろ?」 「せっかくの〈再〉《 、》〈戦〉《 、》なんだからよ。オレも結構、おまえに思うところがあるわけだ」 「…………」  舌打ちし、心中で同意しながらも刑士郎の表情が歪む。それは雪辱を晴らすという反骨心以上に、もっと異なる根の深いものだった。  ああ苛立つ──湧き上がる憎悪の滾りを抑えられない。頭がかち割れんばかりに荒れ狂い、素手で脳味噌を掻き出したいほど蠢いている。  先の攻撃が悪手であるなど、言われるまでもなく放つ前から知っていたのだ。それでも刑士郎が咄嗟に攻撃へ踏み切ったのは理性でなく、制御できないもっと根源的な怒りからだった。 「最悪だ。てめえ、俺に何しやがった」 「どうにもあれから調子が違う。余計なものが瞼の裏に映るしよ。こいつはいったいどういうことだ」 「阿呆こくな、そりゃ再戦の意気込みだろうが。負け戦ぐらい覚えてやがれ」 「ぬかせ──俺はてめえになんか負けてねえ」  まただ。気分が悪い。  自然に戦闘体勢へ移行しながら、刑士郎は己への不信を抱く。先の啖呵がどうにも自分の言葉ながら違和感があった。喋っているという実感が妙に薄い。  あまりにするりと気炎を吐けるから、どうにも何かズレがあるのだ。 「負けてねえか……ま、そうだな。掻っ攫われてお流れじゃあ、こっちも勝ちとか言い辛いし」 「いいぜ──名乗ってみろよ聞いてやる。おまえそういうの好きだろ。戦の作法ってやつだっけ?」 「作法ぅ?」  その問いかけが、何より切れ味のいい皮肉に思えて。 「はっ、知るかよ。そいつは誰の言葉だ」 「さあ? 誰だっけかな。忘れちまった」  続く挑発は鼻で笑うほど稚拙だが、ほんの僅かでも虚仮にされているのが我慢ならなくなるのはどういうことか。表面上は穏やかに、しかし内面は荒波の如く激情がうねりを増している。  刑士郎の内で何かが叫び狂っていた。穿て、引き裂け、蹂躙しろ──〈借〉《 、》〈り〉《 、》〈を〉《 、》〈返〉《 、》〈せ〉《 、》と命じている。  だが、その猛りに身を任せるわけにはいかない。己に宿った闇の薔薇、これを使えばどうなるか刑士郎はよく知っている。知っているがために、使いどころは見極めねばならないのだ。 「全力ならば……三、いや二か」  凡そ二撃、それが限界だろう。  必殺の一撃は外すわけにはいかない。もしそれで決めなければ、代償に一人の女が命を散らす。  それを容認するわけにはいかないゆえに。腕を下ろしたままの宿儺とは対象的に、刑士郎は音も無く、一秒の間に自己の変革全工程を完了させた。  願いは一つ。総てはこの鬼を討伐し、陰の鎖から己と彼女を解き放つため。 「何だ、気が早えな。やる気満々かよ、もう少しこのくだらない語らいを楽しんでみようとか思わねえわけ?」 「意外と見えてくるものがあるはずだぜ。……自分のことぐらい知っとけよ。案外、面白いものが見えてくるかもしれない」 「御託を吐くつもりはねえ。喧しいんだよ知ったことか」  返答を吐き捨てながら噛み締める。尖る犬歯は牙にも似て、不吉を宿す闇の陰気が刑士郎の体躯を覆った。 「てめえのそういう物言いが、化外の中でも一等耳に障りやがる」 「わけわからねえこと口走るな。おまけにどういうことか、わけわからねえまま的確に苛立たせてくれやがるしよ」 「なあオイ、俺らが腐って見えんだろう?」 「だな。すっげえ気持ち悪い」 「そうかよ。だから俺も、てめえが最も気持ち悪い」 「この手でぶっ壊さなきゃ気がすまねえんだよ」 「〈本〉《 、》〈当〉《 、》〈に〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈か〉《 、》?」  ふいに、能面のような無表情に覗き込まれ息が詰まった。  宿儺と相対すると表面化する感情の小波。その存在さえも看破された気がしたのだ。 「ふうん……なるほど、なるほどな。じゃあいっちょ一つ真芯を突いてみるけどよ」  感情の見えない視線を向け、気だるげに再び嘲笑の面を被り、そして。 「おまえの大切なものって、何だ?」  ──吐いた質問に、刑士郎の全精神が爆発した。  四足の野獣と化し颶風の如く突撃した痩身から、陰気の波動が迸る。夜と華を連想させる赤黒い歪みの奔流──闇の薔薇が具現した。  放たれた豪の剣戟に稚気の漏れさえ一切ない。肉体から切り離された歪みは、容易く消されて意味を成さぬ。初撃でそれを認識したがために滾る力は全霊余さず、自己の強化へ向けられていた。  誇張なく山脈さえ穿孔するこの一撃。己自身を杭と貸し、貫殺を成就させるその突進は。 「おっかねえなあ……まあ落ち着けよ、〈お〉《 、》〈兄〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ん〉《 、》」  しかし、両面の鬼は穿てない。  揺るがぬ威容、変わらぬ揶揄もそのままに──指先で先端を摘み止めていた。得物の先は岩盤にでも刺さったかのように動かない。 「別段オレが奪うだなんて言ってないだろうが。おまえが勝手に失って、袖にされ続けるだけだ。こっちのせいにしてんなよ」 「願ったものから取り逃がして、欲しいものから失くしていく。そんで見当ついていたくせに見ない振り、か……ダサすぎるぜ」 「認めろよ、まずはそこからだ」  至近距離から追撃──放たれた刑士郎の片腕を、なお余裕の体で見下ろしながら宿儺は口端を吊り上げた。 「漠然とした不安があるんだろ? 手に入れても零れてしまいそうなんだろう? おあずけされるのが常だから、どう見ても手に入る女さえ躊躇してきたんじゃねえか?」 「おまえは、そういう星の下に生まれてる。永遠に奪われ続けて終わるのさ」 「やかましいんだよ、寝言ほざいてんなァ──ッ!」  大木の如く巨大な陰の杭を叩き付け、さらに怒涛の乱舞をお見舞いする。舐めてる間に滅殺せんと、即座に宿す歪みを全開した。  穿、貫、刺、烈。秒間において数十を超え発生する武威の波濤。  その一撃一撃が雲を割り、海を裂き、山を断つだけの力を有しているのはもはや疑いようもない。  刑士郎の宿す剛毅を反映し、破壊の瀑布は直撃する。  総て、間違いなく、減退も最小限に。都を全壊させる台風以上の、自然現象さえ上回る暴虐が宿儺の身体を蹂躙して。 「例えば……今使ってるコイツもそうだ」  だというのに、鬼は不変の〈貌〉《かお》を晒す。黒の波動を身に受けながら、僅かの痛苦なく会話の続きを始めている。 「運否天賦を捻じ曲げて邪魔な相手へ凶兆を〈擦〉《なす》り付ける。代償に身内が同等の不幸を被るが……そういう連帯責任って部分込みで、秘めた意図は明白だ」 「〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈不〉《 、》〈幸〉《 、》〈要〉《 、》〈ら〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》──要するに、自分に纏わりつく諸々の呪いや、成就できない展開に辟易してるんだよおまえさんは」 「悲運や非業と仲良しなのは、とどのつまりそういうわけさ。憤慨して、鬱陶しくて、かなぐり捨てたい超えてみたい。そうほざいていたくせしやがって……」 「そんなにあれか、黄金の獣さんが恋しいってか? ……く、はは」  ほんの少し、宿儺は自嘲に肩を竦めて。 「……そいつはオレも言えた義理じゃねえな」 「ちっ──ぅおらァッ!」  顔を伏せた隙を縫い、歪みを纏った踵で延髄を刈り取る。  直径百尺の大木さえ悠に倒壊させる衝撃。たとえ相手が天魔であろうと、直撃すれば確実に存在を削り取る蹴撃を前に── 「はっ、どいつもこいつも阿呆ばかり。まったく……馬鹿馬鹿しい話だぜ。昔が恋しいからっていつまでも口にすんじゃねえ」 「そんなもの、もう〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈の〉《 、》〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》のによ」  宿儺は不動で耐えた。波動をほんの少し強めただけで、刑士郎の全力を容易く消し去り受け止めている。  大天魔、八柱の中においてこれほど厄介な手合いはないだろう。夜刀は別格に数えるとしても、他の者らはまだ〈通〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》。  歪みを当てれば削れるし、そもそも使用することで恩恵を得ることが可能だ。しかし宿儺は其処から潰す。  勝利への大前提である唯一の切り札から禁じてくるのだ。  ゆえに誰も、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》の面々さえ、宿儺に勝つのは不可能だ。この悪鬼に打ち勝つとは即ち、歪みという必殺なく打倒せねばならないという矛盾に阻まれる。 「最高に歪んでやがんな、てめえは……」  その在り方も、性根も。総てが根から捻じれ狂い、複雑怪奇な幾何学模様を描いている。  この地獄を彩る風景と同じように。まるで〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈拵〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》、芸術的な完成度で破綻していた。 「やる気あんのか。効いてねえのはムカつくが、案山子を殴ってるつもりもねえんだよ」 「てめえさっきから何を一人で納得してる。ここまで来てだらだらと……尻に火がついてるんじゃねえのか」 「納得できないと? まだ思い出さねえって? おいおい、そりゃまた愉快だな。つーか──」  仕方ないと言わんばかりに、宿儺は頭を掻いて。 「 」 「 」 「が……ぁ、は──ッ」  刹那、あらゆる諧謔を消し飛ばし己が鬼相を剥き出した。  無造作に振るわれた拳は異様な質量を伴い、直撃した刑士郎は血反吐を撒き散らしながら宙を舞う。  陰気の外殻による防御? 無駄だ、紙屑に等しい。気運精気の略奪により損傷は三割以下に抑えたとしても──それだけで内臓と骨が半壊した。  両面を宿した異端の鬼。宿儺の神威がついに動き出す。 「ここまでお膳立てしてやって、これっぽっちも目覚めねえとは……なんだそりゃ? 拍子抜けにも程があるぜ」 「おーい、もしもーし。聞こえてんだろ、寝たふりすんなよ。何いい子ちゃんぶって大人しくしてんだぁ? えらく丸くなってくれたじゃねえかよ──なァ!」 「ご、ふッ──!」  肋骨が全損し、そのまま内臓を貫通する。無数の槍となった骨は、そのまま背から飛び出しかけて臓腑を抉る。 「分かるか? いねえんだよ。おまえの大好きな黄金様も、腐れ外道のボロ外套も、もうとっくの昔になくなっちまってんの。なあそうだろ」 「だからよ、いつまで凶月だの何だのってくだらないお遊びしてやがんだ。生まれ変わったオレ様は、愛を覚えて今はあの子にぞっこんなのって?」 「はは、やっべ嗤える。見え透いた嘘ついてんなよ……本音で来いや」 「が──て、めぇ……なにを」 「続きがしたいんだろう?」  その問いに、刑士郎は歓喜の産声を確かに聞いた。  自らの内に眠る何か。凶月刑士郎を構成する最も純粋で苛烈な衝動が、魂から滲み出ていた気がしたのだ。  断続的に振るわれる剛拳は容赦なく骨をへし折り、内臓を挽き潰す。復元が追いつかない。大気すら爆砕して突き進む両の拳は、単に引いて出すだけの動作で防御を貫き滅多打ちにする。  その中で、声だけが響く。 「いいぜ、やろうや。乗ってやるって言ってんだよ。あれには俺も消化不良だ。横槍入れられて決着なんざお互い不満が残ろうさ」 「糞うざい詐欺師はいねえ。解き放たれているってわけだしよ。熱は奪われねえし、萎える既知も残っちゃいねえ」 「な、今度こそ最後まで付き合うことができるぜ? 気合入ってこねえかよ、とッ」 「ぎ、っ……ぐ!」  朗々と喋りながら、絶死の衝撃が刑士郎を嬲り続けている。  接触の瞬間に起きる略奪や減退など、この暴力を前には焼け石に水だ。超強化された耐久性と他者から補填する生命力、その二重蘇生さえ宿儺にとっては張子の虎に等しかった。  埋まらない絶対の力量差。反撃のために取っておいたはずの余力さえ、いつの間にか消えていた。そうしなければ生き残れなかったから。  それに何故か、こうして加えられる破壊の乱流以上に、語りかける言葉こそ思惟に満ちているような── 「ったく、丁寧に痛めつけるのも疲れるんだぞ。さっさと起きろよ。張り合いねえな」 「でないと──」  刑士郎の首を掴み、無遠慮に持ち上げて。 「──この容れ物、ぶっ壊しちまうぞ?」  情け容赦のない拳が潰れた臓腑を打ち上げた。 「────がぁああッ!」  手も足も出ずに血反吐を撒き散らす己に、あまりの屈辱で視界は激昂の色へと染まった。  ──ふざけろ、おまえ風情が粋がるな。  湧き上がるそれはなんと場違いな思考だろう。しかし何故かこれこそ真だと思うのだ。  己が上で、奴が下。これほど格の違いを見せ付けられながら、さも自分こそ宿儺より格上であると刑士郎は確信し始めている。  気概ではない。そんな精神論などではなく、純然たる事実として凶月刑士郎は……死森の薔薇は勝利を得んと猛っていた。  そうだ、勝利するにはそれしかない。不可思議極まる感覚だが、それでもこれを得ることこそが凶月刑士郎にとって唯一の勝機であると掴み始めていく。  鬼に勝つには鬼しかいない。 「痛ぇか? 痛ぇだろ――嬉し涙流せやオラ」  この天魔と同格の鬼、吸精の荒神へと上り詰めるしか手はないのだ。 『そうです、兄様……元よりそれしか道は御座いません』 『お使いください、この御魂ごと。咲耶はとうにその覚悟は出来ておりますから』  総身を粉砕される刑士郎の耳を、麗しい声色が打つ。  特級の返し風──魂の吸収に晒されながら、合戦上にて咲耶は祈りを捧げていた。  見かけには傷一つない、しかし既に女の精気は尽きかけていた。枯渇寸前の命は肌を真白く染めており白蝋と見紛う姿に流れる血は、彼岸花を連想させる。  死人の肌だ。死者の皮膚だ。それでも微動だにせず、ひた手を合わせて祈祷するのは。 『わたくしは、兄様の血染花になりとう御座います』  禍津によって繋がる絆、血盟の花を咲き誇らせるは今しかない。殴殺されかれない愛おしい男へ咲耶は静かに進言する。  否、このときのために己は今まで生きてきたのだと、凶月咲耶は理解していた。 『悲しむことではありません。これは訪れるべくして訪れた自然の道理、在るべき場所へ還るだけ。言葉にすればただそれだけのことでしょう』 『身体という器は、確かに失せてしまうのでしょう。ですが、それは別離ではなく連理なのです』 『わたくしと兄様が織り成す比翼の翼と成るために。この魂は、ずっと、御力として不死の礎とありますから』 『どうして、わたくしは兄様のモノではないのでしょう? もはやそう思うこともなくなりますよう』  触れ合おうと足りず、労わりさえ足りず、抱いてもらおうとも──甘美で狂わんばかりに幸福だったがまだ足りない。まだ〈遠〉《 、》〈い〉《 、》と咲耶は語る。  交わっても寂寥感が募るのならば、もはや目指すべき場所など一つしかないのだと。刑士郎が壊れきる前に彼の耳朶を、乙女の願いが揺らしていく。 『永遠に、兄様の咲耶で在りたいのです』 『苛めさせなどさせません。手を上げるなんて許しはしない。触れ合うことが出来ずともこれで二度と離れぬならば』  ゆえに、女は命を捧げるのだ。  愛を宿した滅私奉公の完成形は、穏やかながらも熾烈に過ぎた。母性と恋慕の融合が戦う男の胸を打つ。 『さあ、どうぞ。怖い兄様……愛しい兄様』 『どうかわたくしを、咲き誇らせて──』  魂を脈動させる声は、血化粧を撒き散らした刑士郎の下へと確かに届いた。 「か、ぁ──っ、くく。そうだな、是非もねえ」  ならば、そうだ。もはやそれしか道はない。  否、ここから道を始めよう。骨肉を粉砕され、肉塊寸前の姿で立ち上がった刑士郎は口端の血を荒々しく拭った。  犬歯に垂れた血の雫を鬼のように覗かせて── 「敗北などいらねえし、おまえの覚悟を無為にもしねえ」 「応えてやるよ、よく言ってくれたぜ咲耶。その夢を……今から俺が叶えてやる」  腹は決まった。女に祈りを飛ばされて、魅せなければ男じゃない。 「そうそう。ようやく気づいたか」  立ち上がった刑士郎をいと嬉しげに宿儺は睥睨している。  発破をかけた展開に闘争の血が両雄ざわめく。真の始まりを目前に、溢れ出す陰気の波動へ目を細めた。 「ご名答。おまえが勝つにはそれしかねえよ、白髪野郎」 「夜に羽ばたく不死鳥だっけか? 命を啜る吸血の鬼、覚めない夜、ははは……今となっちゃそんなものまで懐かしいな」  ──耳障りな懐古の台詞が真実へ至る鍵と成る。  遡れ、逆走しろ。生れ落ちる遥か以前、今の世界には在りもしない──生前と呼ばれる己を掴み取れ。  刑士郎の纏っていた陰気が揺らめき、その肉体のみならず空間へと侵食を始めていく。血で出来た個別の生命が如く闇の胚芽が脈打った。  少しずつ、少しずつ。愛しい女を代償に、夜という領域を塗り広げ始めていき── 「────く、くく」 「カッ──カハ、ハハハハ。いいぞ、そうだ」  夜が永遠に明けなければいい。  眩暈がするほどの解放感、哄笑が自然と漏れるのはどういうことか。  合致していく。回帰していく。転生していく存在総て。己が未だ己である以前、何よりも純粋で暗闇を愛していた感性が胎動を始めていた。  刹那、ついに。 「恋人よ、枯れ落ちろ」  魔法の呪文を思い出す。 「──死骸を晒せ」  刑士郎にとってこれ以上相応しいものがない、最大の呪詛が甦った。  かつてと現在。触れ合わぬはずの御魂が重なり、総身から不浄の杭が形成される。  心地よい祝福の音が聞こえる。血の噴水に紅で彩られた薔薇の園、脳裏に蘇る渇望の原風景が快感と共に突き抜けていく。  紅の楽園に女が一人佇んでいた。  擦り切れた布切れに身を包み、我が身は幸福だと微笑む、幼くも艶やかな女の姿が。  妄執に情欲を注ぎ続けた──憐れで壊れた儚い風体を晒している。  それが何故か、例えようもなく苛立って。  〈回帰〉《変革》は進む。刑士郎の内から、もう一人の己による息遣いが聞こえ始める。覚醒の鼓動が早まった。  ゆえに今こそ自己を破却し、黄泉路を踏襲することで、いざや再び返り咲こう。  そう──咲き誇るのだ。あの妖しくも見目麗しい、闇にて花咲く血染花に。 『さあ、兄様』  ──対価はたった此れ一つ。  凶月咲耶を捧げることで、薔薇の魔神は蘇るから。 『今、お傍に参ります』 『これからも、ずっと……離れることはありません』 「──太・極──」  魂を引き鉄に刑士郎は己の起源へ回帰した── 「────ッ」  その、寸前で。 「────ッ、ぁ、けて」  脳裏によぎった、紅に染まる光景に。 「────ふっ、ざけてんじゃねえぞクソがァァァァァアアアッ」  浮かび上がった〈ど〉《 、》〈こ〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈誰〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈幻〉《 、》〈影〉《 、》を、男は全霊こめて踏み躙った。  身に纏った闇の陰気を振り払う。再誕の波動総てを消し飛ばし、迷い無しだと咆哮する。 「────」 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ!」 「──ふざ、けんな」 「ふざけんなッ。去ねよてめえら、邪魔なんだ」  荒い息をつき、肩を震わせながら刑士郎はこみ上げた疲労を吐き捨てる。  魂魄の深淵、白貌の幻が驚愕している。血染めの女と共に信じられぬと自失していた。  離れて祈る咲耶に、立ちはだかる宿儺もそうだ。歯を噛み締めながら、己の総てを差し出しながら、この局面で歪みを放棄した刑士郎を未知の怪物であるかの如く眺めていた。  彼の中で裏切りに激昂する意思がある。骨の髄から血と殺戮と闘争を望み、そのために愛しい女を吸えと怒号を放つ享楽への呼び声。  その訴えに、勝利と蹂躙を等しく授けてくれる、内なる叫びに── 「煩えぞ、〈誰〉《 、》〈だ〉《 、》〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》!」  ──刑士郎は屹然と言い返した。 「闇の不死鳥? 吸血鬼? 知るか失せろよどうでもいいんだッ!」 「そうだ……初耳なんだよそんなもんは。俺の名は、そんな聞いたこともない訛った音の羅列じゃねえ」 「クソ長い異国の横文字で呼ばれた覚えなど、生まれて此の方、誓って一度もあるものか……!」  貴様と己は違うのだから。断じて否と宣誓する。 「俺は──」  例えそれが、彼を支え続けた〈異能〉《チカラ》との決別であったとしても。 「俺、は───」  今まで築いた己を永劫捨て去る選択であろうとも。 「俺の、名は────ッ」  今の自分にとって大切な、唯一無二を失わずに済むのなら。 「刑士郎──凶月刑士郎! それが、俺を示すたった一つの真実だ!」  構わないと、誇りさえ胸にこの名乗りを噛み締めた。  後悔はない。貯めこみ、鍛え、振りかざしてきた一切合財を対価に。  刑士郎は愛する女の命を取ったのだから。 「そうだ……俺は、違うっ」 「てめえとは違う。絶対違う。自分の女吸い殺して気分がいいと嗤うような、杭生やして吸い漁るだけの鬼じゃねえ」 「ぶっ壊せるかどうかしか秤を持たない、純白で空っぽの下種野郎なんかじゃ断じてねえ……ッ」 「消え失せやがれ幻がッ! 俺の、俺たちの魂は、てめえらの搾りカスなんかじゃねえんだからよォォオオ──ッ!」  怒気の念波が過去の遺産をかき消していく。  断末魔さえ存在しない。最初からそんなものなどなかったかのように、刑士郎の中で暴力であり矜持であったものが喪失した。  歪みも、身体を駆け巡っていた〈強力〉《ごうりき》さえ失せた。胸にはぽっかりと空洞が空き、埋めていた地力や妄念という支えが壊れたのだと伝えてくる。  それは正しく修羅道の否定であり──天狗道からの解脱だった。  何処にも属さない精神は、いまや踏みしめた地しか居場所がない。それは脆弱で、孤独で、あらゆる神の加護などないただの人間に成ってしまったということ。  自分しか持たぬから、自分以外を守らねば生きていけない。しがらみと飢えに喘ぎ、身を寄せ合うだけの唾棄すべき弱者の性を得てしまったこと。  それは刑士郎にとって何より耐え難い苦痛だったはず、なのに。 「あいつはあいつで、俺は俺だ。何の関係もないし、それでいい」 「なぁ……そうだろ咲耶」  不思議と心は穏やかだった。理由は、もはや言うまでもない。 「…………く、くく」 「──外れた、か。なるほど、なるほど、くはは。まさかおまえがなぁ……はははは、ははははは」 「ああ、ようやく出会えた気がしたぜ。腕が鳴る。いい度胸だ」 「褒めてやるよ──おまえ、最高に大した馬鹿だってな」  その様を前に、宿儺は含み笑いながらゆっくりと前進し始めていた。  総身から放たれる威圧はより猛りを見せ、かざした鉄拳が音を鳴らす。そこに篭められた威力の程を刑士郎は激痛と共によく思い知らされていた。  陰気の鎧をなくした自分など、それこそ朽縄のように引き裂くことも知っている。 「──退くかよ」  そして──それが如何に恐ろしくとも、負けてはならぬと思うのだ。  初めて、真に生まれて初めて、刑士郎は心の底から勝利を願った。生存を希った。  己の勝ちを当然だと妄信するのではなく、勝つことで生き抜き、守り抜きたい。今までのように自愛からではなく、咲耶を悲しませぬために決意したいと思っていた。  足は知らず震え、呼気も乱れている。気概で押し込められてはならぬと、守るべき者の姿を反芻して眼前の敵を睨みつけるだけで精一杯。  無様で、異能一つ持たない自分の姿。口元に浮かんだ苦笑はひ弱な自分への嘲笑かもしれない。  享楽に耽る鬼に俺の女はやらせない。 それだけを意思の支えとして── 「オオオァァァァアア──ッ!」  砕けていた得物を投げ捨てながら、刑士郎は素手で殴りかかった。  特攻にも劣る身投げじみたその行いに、宿儺はやはり容赦なく加速をつけて接近し── 「じゃあな、あばよ」  同時、放たれた拳が中空で交差した。  ──そして同刻。こちらにもまた、異なる地獄が蠕動する。 「ほう、これは……」  夜行が其処へ到達した瞬間、まず漏れたのは感嘆の声だった。世界の区切り、そこが硝子で閉じられていたことにまず目を奪われる。  次に一面へ敷き詰められた砂の海だ。上空から降り注いでいる砂の滝を例外に、この空間は硝子の壁と砂の大地で出来ている。  ここは精神の鼓動さえない、殺風景な無の〈静寂〉《しじま》。 「なるほど。これは合戦場……いや、さしずめ闘技場かな」  硝子の壁は〈閾〉《しきい》であり、足元には死の大地。ならばこの世界は純粋に死と闘争のためにのみ存在している。 「そして、〈砂〉《これ》は死か」  眼下を埋め尽くす暗闇の砂漠は、等しく死の属性を帯びていた。  実際にこうして直立しているだけでも、夜行は生命力を失っていく。まだ太極に至っている彼だからこそ、その程度で済んでいるのだ。  仮にここへ弱卒が紛れたならば、踵が接地した瞬間に物言わぬ屍となっただろう。  この〈地獄〉《セカイ》には死しか存在していない……耳を澄ませばそれだけで、死にたい、死にたいと硝子に覆われた空が啼いているようにさえ思えたために。 「よく来た。波旬の〈赤子〉《せきし》」  死に紛れた存在感、あまりに虚ろ過ぎた死滅の塊を見逃した。 「──おまえもまた、この死想に感じ入るものがあるようだな」  声は朴訥、静謐そのもの。しかし剛の唸りを上げた鋼鉄が爆音と共に炸裂する。  それは何の変哲もない拳撃で、だというのに総毛立って―― 「〈吐菩加身依美多女〉《トホカミエミタメ》――祓い給え清め給え――〈寒言神尊利根陀見〉《かんごんしんりそんだけん》!」  横殴りに訪れた一撃を阻むのは、二十四にも及ぶ次元断層。衝撃を相転移する絶対障壁。それが大獄と夜行の間に顕現する。  過剰と言うしかない対処だった。つい先ほど、随神相の一撃を防いだときさえこの十分の一も練っていない。  悲鳴にも似た高速真言。最硬度の防咒を施しながら、なおも瞬間移動まで使いながら後退するその挙動。摩多羅夜行ともあろう者が、臆病風に吹かれたのかと嘲笑されても仕方がない。事実、彼もどうしてそこまでしたのか分からない。  だが、それはこの上もなく正当な対処であり、同時にどうしようもなく意味のない行動だった。 「無駄だ」  その程度、薄紙ほどの用も成さぬと。山脈を消し飛ばすほどの熱量にも耐えるだろう壁の一枚一枚が、鋼の拳に触れるたび、いとも容易く粉砕される。  貫通する黒い鉄槌、有象無象の区別なく、ただ在るならば死に絶えさせると直進し、防ぐだけの暇はない。  ゆえに、そして、成す術もなく── 「教育してやろう。〈死〉《 、》〈後〉《 、》〈を〉《 、》〈識〉《 、》〈れ〉《 、》」  無慈悲な響きと共に、致死の一撃が夜行の心臓へ落下した。 「おお……」  刹那、生命を砕かれ砂と成る。  肉片ではなく世界に敷き詰められた砂塵へと。死人の末路へ成り果てて、ここを満たす死の一つへと堕ちていく。  両腕両脚が乾き砕かれ砂と散った。胸部は衝撃ですでに消失。そこを起点に頭部まで深いひびが走っている。  後は自然に落下して、そのまま砂となっていくだけ。  見下ろす大獄は終始一貫、何の揺らぎも認められない。その在り方は堅牢でありながら形を持った虚無のようで、だからこそ遊びがなかった。夜行に与えた致命傷に、一切の容赦もしていない。 「──ああ」  よって、逃れることは不可能だ。  終焉こそ唯一絶対の理であり、その幕引きを受けた以上は死すべしと、遍く万象に命じている。  そして、だからこそと言うべきだろうか。 「ふふ、ふふふふ……」 「──〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》。〈気〉《 、》〈に〉《 、》〈入〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ぞ〉《 、》」  我が目をつけるに値すると、夜行は薄い微笑を浮かべていた。 「喝采せよ、あらゆる存在の救世主。今こそこの地に降りたまえ」 「汝ら我の〈蓮座〉《れんざ》にひれ伏すべし。我はすべての苦悩から、汝らを衆生を解き放つ者」 「我はあまねく万象の、現在過去未来を裁く者」  死の間際、名状しがたきものが動き出す。  摩多羅夜行の太極に落とされた、死という色が広がり始める。 「〈中臣〉《なかとみ》の、〈太〉《ふと》〈祝詞〉《のりとごと》言い祓え、〈購〉《あが》う命も〈誰〉《た》が〈為〉《ため》になれ」 「〈東嶽〉《とうがく》〈大帝〉《たいてい》・〈天曹地府〉《てんちゅうちふ》〈祭〉《さい》――〈急々如律令〉《きゅうきゅうにょりつりょう》〈奉〉《ほう》〈導〉《どう》〈誓願〉《せいがん》〈何〉《か》〈不成就乎〉《ふじょうじゅや》」  そう、夜行には未だ太極の色が存在しない。彼の空は未だ白紙のままだったのだ。  悪路が腐蝕、母禮が燃焼を願ったような個我の紡ぎし絵図がなかった。術理を極めし天才は、しかしその万能性から目指す異界の理を持たなかった。 「オン・ヤマラジャ・ウグラビリャ・アガッシャ・ソワカ」  しかし、ここにおいて彼は出会ったのだ。ようやく、ついに、〈出〉《 、》〈会〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  いや、この場合は識ったのか? 「ナウマク・サマンダ・ボダナン・エンマヤ・ソワカ」  己の存在理由。己が成すべく定められた魂の形。  宿星、神号、かつてこの東征は踏み台であると言い切った彼だからこそ、こうなる瞬間をその超感覚で予見していたのかもしれない。  きっといる。いるはずだ。我を完成させるために欠くべからざる踏み台が。  紅葉ではなかった。母禮でもなかった。常世? 悪路? 宿儺? 奴奈比売? それとも夜刀か? いやいや違う――  見出したり。御身こそ、私のために存在している。  だからこそ―― 「〈貪〉《とん》・〈瞋〉《じ》・〈癡〉《ち》――我、〈三毒障礙〉《さんどくしょうげ》せし者、断罪せしめん!」  生まれて初めて、焦がれるほどに胸を満たす〈渇望〉《おもい》の属性は、殺意というただ一色。  我は閻魔、断罪者――死後を裁く夜摩の王。  ならば眼前の存在を生かしておく道理はなく、触れ合ったなら裁き、落とす。虚無の淵へと。  与えられた致命の運命を払拭し、かつ己に最も相応しい地獄の姿に共感した。夜刀とは違うもう一つの停止、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》における最悪の天魔に呼応したために。 「──太・極──」 「〈神咒神威〉《かじりかむい》――〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》」  御門龍明の慧眼に誉れあれ──亡師より授けられたその咒を声高らかに謳いながら、ここに今、摩多羅夜行の太極が産声を上げた。  瞬間、纏わりついた砂は悉く消失する。  夜行の肉体がかつての姿形を取り戻した。五体総て、衣服の綻びすらもなく、さも当然と言わんばかりに立ち上がる。 「くははははは、はははははははははは──」  代わりに吹き荒れるのは殺戮の波動。死滅の嵐。  彼らは共に死の神格。〈死〉《 、》〈を〉《 、》〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈死〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈せ〉《 、》〈ば〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈結〉《 、》〈果〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。  骸の砂漠に負けず劣らぬ虚無への誘い、断崖の果てへ突き落とす……生に仇名す息吹だった。 「…………やはりか」  予見していたのか、哄笑する夜行に対し大獄は無感情に呟く。 「かつて、終焉から免れるために時を止めた男がいた」 「奴は言ったよ。『俺はおまえと違う』のだと。同じ蠱毒から生まれながら、そう吼えることで留め続けることを選択した」 「実際、それで勝ちを得たゆえにあれもまた強き選択だったのだろう。だが……」  頭頂から踵まで。見透かすべく視線を寄こし、重苦しく言葉を吐いた。 「おまえは俺と同じものを選んだようだ」 「然り。実に魅力的に思えたものでな」  彼らは死を願うという一点において、等しく同属だったのだろう。だからこそ、ここに至るまでの因縁の軽重に関係なく、最終局面においてのみ磁石のように引き合った。  まるで、これまで彼と夜行の接触が成されなかったこと自体、何かのカラクリであるかのように。  一度母禮に破れ、紅葉と語り、他の天魔らと邂逅するたび期待は高まり、焦れて、焦れて、まだかまだかと――  外れを引き続ける中で洗練され研ぎ澄まされて、完成に近づいていく夜行の太極のお膳立てであるかのように…… 「選んだ甲斐があったぞ。我らは正しく引き合ったのだ、巡り合わせとはつまりこういうことらしい」 「痛快だ……ああ気分がいい」  共に接触不可能の死の塊。地獄に住まう鉄虎と閻魔、破滅を振りまく技能において異状なほどに長けている。  己から漲る威圧を確かめるべく、夜行は己が手をゆるりと数度開閉した。空に梵字を書くように、指先を優雅に踊らせる。 「……こうか? 違うな、こうか?」  乾──坤──印を刻み、陰陽織り交ぜ、今まで幾度も使ってきた術法を開拓していく。  新たに手にした太極が特性、すなわち。 「それとも──」  滅死の理──大獄を上回る死を掴むために。 「こうか?」  開いた五指で空を握り潰した。  次の瞬間、大獄の上半身が圧縮されて砂と散る。  存在する力を一つに絞り上げ、命を揉み消す圧死の業。肘から先の両腕と腰から下を残し、大天魔・大獄はこの一撃で死へ落とされた。  眼下の蟻へ審判を下すかのように。夜行は己が辿りついた領域を僅か一合で自覚したのだ。 「得たり、よな」  術式の複雑性、発動効率、天の果てまで透かし見れるほど冴え渡っている。〈太極〉《そら》に適した色を定めたことにより、夜行自身の領域が神格へ急速に理解を深めていた。  他者の殺傷を目指す限り、その手に起こせぬ事象などもはや彼には存在しない。 「……さて、まどろむ午睡もそこまでだ。冥府に繋がれし虎の身柄で、狸の真似など似合わぬよ」 「返礼は済んだぞ。さあ、起き上がってくるがいい」  ──砂が動く。  骸へよこした気軽な呼びかけに応じるかのよう、滅したはずの鎧が虚空から像を編み上げつつあった。  そして再び、傷一つなく大獄は無傷の姿で立ち上がる。 「ふむ」  そう、これもまた道理。〈死〉《 、》〈を〉《 、》〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈死〉《 、》〈を〉《 、》〈殺〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈必〉《 、》〈然〉《 、》〈の〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈事〉《 、》。  夜行が破滅を体得することでこの地獄に適応したように。大獄もまた、死界においてその形を失わない。  終わりに終わりを浴びせようと、止まったままに動き出すだけなのだ。 「当然、終わらぬよな。今の私に出来たことが、先達に出来ぬわけがない。ここが虚ろな空隙ならば、天中殺にて活動するとはそういうことだ」 「ゆえに理解もまた容易い。鋼の深奥、捨てきれずに澱み渦巻く起源の想い。ああ、今の私にはよく見えるとも」 「察するに、御身は死にたがっているのだな?」  先の一撃、夜行の業が直撃すれば即死すると知っていたはず。  それでも大獄は、防御の所作へ欠片も転じはしなかった。ならばこの化外にとって死滅は常であり、特筆すべきものではないということ。 「磁石同士、引き合うならばその在り方は対極にあるのが当然なのだと弁えてはいるものの……まあ端的に、理解できんよ」 「御身は下りた幕をこそ尊び、終焉にこそ居場所を感じる」 「私が語るのも無粋だが、難儀な業を背負ったものだな。生物として破綻していないか、それは」 「委細、違わん」  己は死ぬことだけを見つめている。そう大獄は肯定した。  平坦な声は感情が見えぬだけに恐ろしい。天魔においてもっとも受動的であるだけに、それが動く様はえもいわれぬ不気味さを見る者に与えている。  髑髏が音を立てて動いているような、鋼鉄が淡々と活動する姿はあまりにカラクリじみていて、歯車の音さえ聞こえてきそうだ。 「そして、──おまえは殺したいのだな」  同時に、やはり虚ろな存在感と共に鋼の拳が落ちてきた。 「否定はせんよ」  肯定し返した瞬間、無拍子の一撃が再び夜行を滅殺する。砂の嵐が吹き荒び、瞬きの間に〈貌〉《かたち》を取り戻して咒を紡ぐ。  死滅に感想すら抱くことなく、即死の応酬が連鎖する。  黄泉返り、無数の死を積み重ねて、ただ一度勝利するまで戦い続けるその闘争は、まさしく修羅の宴だった。 「どうだ──滑稽なものだろう。まるで出来の悪い芝居のようだ」  死と死がぶつかり、死が無くなる。負の掛け合わせは正に変わるという数式通りの結果だが、それが大獄には度し難いものであるらしい。  無謬の死を希求する者同士の激突は、死の絶対性を殺してしまう。これが天上より定められた配役だと言うのなら、間抜けの所業としか思えぬと――  その指摘に、夜行は笑う。中々面白いことを言うものだと、風穴を空けられた胸を震わし言い返す。 「ならば御身、己がつまらん芝居を彩るための花であるとは思っておらぬか?」 「それで何かがマシにでもなると?」 「いいや、思わん。御身と同じく」 「役者が良ければ芝居は至高――などというもの」 「なるほど負け犬の戯言だ」  弾け、甦り、戦い、吼える。 「だからこそ、俺は誰の傀儡でもない!」  頭部を同時に消し飛ばし、またも同時に黄泉から返って殺し合う。  夜行の波動は極まっていた。太極を定め、初の術式を編んでから僅か数合。その時間において脳内に描く滅殺の理は数千を超え、なお増加して止まらない。  宇宙に存在する殺害方法を片端から列挙し、編み上げ、試し、裁く――その業は、唯一にして絶対の拳と手数において追いつきつつある。  骸の砂塵が溢れ返る戦場にて、無事に役目を果たすのは互いの言葉だけだった。 「相分かった。私の誘いに応じたのはそういうことか。しかしそれで死を望むとは、稀有な考え方をするものだ」 「芝居に踊らされたくないのなら、自ら脚本を書けばいい。何事もなく続きはできよう。私はいつもそうしているし――」 「私の〈太極〉《すじがき》に退屈させぬ自信はあるぞ」 「ならばおまえはそうしていろ。出来るつもりでいるのなら」 「その驕慢は波旬の〈赤子〉《せきし》に相応しすぎて、愚かしくも従順すぎる」 「断言してやる。おまえこそ、あれらの中でもっとも〈優〉《 、》〈等〉《 、》な細胞だと」  死界の砂を殴りつけ浴びせる。壁となった砂は夜行の右脚にかかり、彼から一時的に動きを奪った。 「今を築く世の理に誰より強く適している。ならばこそ、通常なら勘付くべき当然の疑問に気づきもしない」 「己を愛するがゆえ、己の〈虚〉《うろ》を知らぬ。自愛の妨げとなるからな」  止まった夜行を押し倒し大獄は拳打の雨を連続させる。  砂と化し、砂と消える。そして十八度の死が夜行を捉えたとき、大獄の前で細い指が印を結んだ。 「面白い。御身の目に、私は痴れ者と映るのか」  今度は大獄の胸部が消し飛ぶ。本来は延命を施す泰山府君咒の逆回しを瞬時に唱え、疾く死ねと命令する。  もはや咒法の常識など遙か彼方に置き去った業であり、夜行の独創以外、何ものでもない。殺すという一点において、彼の思考は今も光を超えて稼動している。  単調にして効果絶大の衝撃が、押さえつけていた敵手を粉微塵に吹き飛ばした。  しかし当然、砂を零し終えれば両者共に元の威容。  悠々と立ち上がった夜行に大獄。死を具現した二柱の身体は、この程度で消えたりしない。 「それ以外に見えん。そも──」  そしてまた、再び。 「──〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈太〉《 、》〈極〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈だ〉《 、》?」  会話だけを〈縁〉《よすが》に、閻魔と鉄虎が激突する。  連続する即死。生じる光景の異常さに対して、そこに住まう者は何処までも平素の体を貫いていた。 「答えは一つ、私に適した私の色。摩多羅夜行が太極なり」 「あの場でこれを選ぶ以外なかったとは思うがな、誓ってそこに悔いはない。むしろこれこそ正しい道であったのだ」  そこに迷いを抱かない。それが証拠に今このときを楽しくある。  天地にその真理を謳いあげる夜行に対し、だが大獄は―― 「哀れだな」  ぼそりと、これまで夜行が対してきた総ての天魔がそうしたように、そして過去最大の深さをもって彼の在り方を否定した。 「疑念を挟むことすらなく、手にした力を己がものだと信じる道化……何も分かっていない」 「その己以外へ振り撒く死は――」  陰鬱な声と共に破滅の拳が墜落する。 「何処の、誰を、嗤わせているのか」  反論を消すためか、鼻先から喉仏を抉って大獄は夜行を削り取った。 「己は至高。己は無二。そして実際、己は他を圧倒している」 「……ああ、もしかしたらあの水銀も、若輩の頃はおまえのようだったのだろう」 「そして──いや、ならばこそ」  虎面に空いた底無しの眼光が、秘められた奥にて赤く揺らめき。 「このまま行けばおまえは必ず、奴など及びもつかない屑になる」  疲弊しきった老兵から痛ましげな声が響く。敗残兵からさえ見下げられる現状がおかしくて、夜行は編み終えた喉で含み笑った。 「ほう、興味深い。どういうことかな?」 「じきに分かる」  仄かに確信を抱いた声が響く、刹那。 「俺の手で、このまま死を迎えたならば」 「ぬかせよ。羨望した声で告げることか」  死と死が激突する。  かつて用いた次元断層による防御は、同種の波動により大獄の破滅を相殺した。 「それほど死滅を願うなら、今から私が与えてやろう。ああ、そもそもそのために我らはここまで来たのだからな」 「そら、近いぞ? 飽和の刻はすぐそこだ」  ──〈骸〉《すな》が満ちる。  合計して二百十七。殺し殺され殺し尽くした殺戮の結果、大獄の地獄に死が満ちつつあった。生命の抜殻で満ちていく。  砂漠は徐々に上昇し始め、想定以上の圧力に異界それ自体が軋みつつあった。  大獄の鎧にひびが入る──外界を区切る硝子に亀裂が走った。 「どれほど強大であろうと御身の太極、無限ではあるまい」 「原則、色は一つのみ。両立するなど出来ぬのだ。通常ならば優性が劣性を塗り潰すのだが……我らは同色。ゆえ成り立たぬ」 「ならばどのような事態が起こるか。答えはこれだ」  異端にも似通った二つの太極。一つの地獄に対して発生源は複数という異常事態に、染料が地獄を満たし荒れ狂う。  死滅と遺骸の過剰供給が生じ始めていた。  現世との境界。そこを圧迫されれば、行く先は。 「では、硝子の〈閾〉《しきい》ごと消し飛ばしてくれようか──!」  大獄の世界に死の氾濫が発生する。  抹殺の術理と幕引きの鉄拳。共に必殺は直撃し、同じく死滅し、砂が増える。  圧力を増す地獄に現世との柵がまたも砕けた。連動してひび割れつつある大獄の鎧がそれを証明している。 「──まだだ」  轟、と死相戦奴が武威を放つ。 「言ったはずだ、ここで死ねと。おまえは勝利すべき者にあらぬから」 「否応なく深淵の彼方へ沈め。でなければ……おぞましい未来が待っているぞ」  憎悪と憐れみが大獄の中で渦巻いている。  自らが過去受けた無情の所業、それを思い起こしているのか。 「俺が味わった絶望より、遥かに邪悪で穢らわしいものが」  ゆえに、救済してやろうと天地絶壊の突きが唸る。  結界を引き千切り、術を粉砕し、巨躯を崩壊に向かわせながら愚直に夜行を殺し続ける。 「くくく、未来……未来だと? それはまた微笑ましい忠告だ」  左半身を砂と化し、殴殺された衝撃に中空を旋回しながら夜行は嗤う。 「よかろう。ならばここは一つ、我らが将の訓示を真似て私も言わせてもらおうか」  体躯を再構築しつつ、平行して残る右手が印を結ぶ。 「未来は決まっているものに非ず」  陰陽五行相克の、森羅万象の理を、描きあげた後、握り潰した。それは既存宇宙を塗り替える所業であり、新法則へと移行するものに他ならない。  そう、〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 「運命に甘えるなど、軟弱者が見くびるな」  殺せと鳴動する太極が至高死滅の陣を敷く。 「いざ耳を澄まして聞くがいい。我らの切り開く〈未来〉《あした》には──」 「無限の可能性が待っているのだ!」  彼らの将が好みそうな謳い文句を口にして、負の極点を顕現させた。  そこに浮かび上がる新たな曼荼羅。今まで誰も見たことがなく、今このときに発生したと信じて疑わない渇望の具象。  これこそ、己が望み到達した真理の型だと誇りつつ――  閻魔の審判が下される。そのときに―― 「 」 「 」 「―――――――」  割って入った……否、被さるように塗り潰したその〈渇望〉《こえ》に慄然とする。  己が何を言ったのか覚えていない。己が何を言わされたのか分からない。  描きあげた曼荼羅が、その咒に呼応して爆光を放つ刹那の間に。 「待て、私は――」  あれほどまでに誇っていた自負も自信も残らず総て、背後に燃える〈誰〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》意志の炎によって焼き尽くされた。  その衝撃に大獄が弾け飛び、砂が目まぐるしく堆積していく。  強固な地獄の外殻が圧力に揺らぎ、鎧に深い亀裂が次々と刻まれる。飽和と破裂は目の前だ。  この現状だけを見るのなら、勝利への軌跡は成ったのだろう。夜行の世界がついに天魔の空を喰らい潰す。  そして── 「可能性の提唱か……なるほど、餓鬼の妄想だ」  ──虎面の兜に亀裂が走る。 「希望など、ない」  鉄の面が悲鳴の如き軋みを上げて。 「そう、〈有〉《 、》〈る〉《 、》〈わ〉《 、》〈け〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈は〉《 、》」  防性甲冑──否、拘束は滅びと引き換えに開放された。 「総ては、あってなきが如し」  陰々と、滅々と歌が聞こえる。  崩れる鎧が擦れ合う響きは、大獄の咒を完成させる詠唱の役割を果たしているのだ。もはや言語の体を成していないが、それがある意味正しいのだろう。  そもそも彼は喋れないはず。彼には口など残ってないはず。その真実の姿を晒すために、咒は言霊を組んでいない。  周到、かつ容赦なく、この結末へと誘導されたのだと夜行は今更ながら感じ取る。先ほど生じた極大の違和感を呼び起こすため、自失したこの一瞬を狙い打つため。  駄目だ。駄目だ。目を逸らせ。あの仮面の奥にあるものを見てはいけないと理解しながら、もはや第三の目は閉じられない。  これぞ己の法だと誇った直後に、意味が分からぬと驚愕し、ゆえに奥義は揺らぎ必殺を逃す。見開かれたまま固まった目はただの的でしかなくなってしまい…… 「さあ──空しく〈亡〉《ほろ》び去るがいい」  回避不能な滅びの波に、夜行の全身は呑み込まれた。  それは、名を無と号する。  あってなきが如しもの。死の終着にある極点が、その顔を覗かせる。 「────」  〈何〉《 、》〈一〉《 、》〈つ〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》貌に、魂が凍り、砕けた。  無い。無い無い無い──血肉、大気、森羅万象、何一つ無い。  死の後には骸が残る。だがこれは、形容すら出来ぬ虚無の深さは。 「知れ。我が身と同じく、片割れと同じく、──座に〈嘲弄〉《しゅくふく》されし〈傀儡〉《かいらい》よ」 「これが、俺だ」  かつて魂の蠱毒を経て、男は唯一の終焉を求めた。永き雌伏の時の果て、聖戦にて男は昇華されたはずだった。  ……断頭台に己が頭部を刎ねられた。即死の刃による斬首を受けている、つまり。 「貌などない。首から上は、奴へくれてやったままなのだ」  そのままの姿で今も在る。誰より強く死を見続けている。 「そしてそれだけに認められん。おまえたち波旬の細胞が犇き蠢く、この世界を」 「その行き着く先を──許しはしない」  地獄においてなお圧倒的な憎悪が覗く。  極限まで達した死の希求はあまりに強く、鎧に封じなければ穢土の者さえ死滅の虚に蝕むまで、彼は滅びを願い続けていた。 「ここで総ては死に絶える」 「一片の光もなく、一縷の紛いもなく、二度と黄泉の果てから戻りはしない……奈落の底へ飲まれるだけだ」 「くぉ……おお、おおお」  感嘆し、震えながら、究極の死想に飲まれていく。  太極の強弱を凌駕した絶無の波動に次などない。  骸から蘇る抵抗や死を体得した事実さえ等しく蝕み消し去り消滅させ、ついには── 「死ね」  無情な一声と共に無貌の虚無が心の臓を塗り潰す。  死の領域さえ喪失し──摩多羅夜行は死滅した。  欠片の希望もなくその生を終えたのだ。  拳が空を進む。男達の腕は中央で交差し渾身の膂力を乗せて直進した。  かたや既に唯の人種。かたや〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》に名を轟かせし大天魔。結果の見えている拳闘は始まり、また順当に初撃で終わるだろう。  あのまま至れていれば、あるいは拮抗できていたかもしれない衝突。遠くで悲鳴を噛み殺した女の念を感じ取りながら、刑士郎は最後の足掻きにと全体重を拳へ乗せた。  そして── 「──ごふっ、は……ぁ!」 「…………は、あ?」  ──誰もが想像しうる絵図とは逆の光景が具現する。  呆然と刑士郎は振りぬいた己の手を眺めた。そこに残留している頬骨を弾き飛ばした感触を、瞠目したまま見下ろしている。 「これは……」  明らかに痛手を受け、大きくよろめいている宿儺が信じられない。  口端を拭いながら立ち上がる様から神の威風は感じ取れず、何処にでもいる荒くれ者にしか刑士郎には見えなかった。  ……そう、霧散している。宿儺が有していた、魂散るばかりの圧力が。  ともすれば視線だけで粉砕されかねない超常の武威が、まるで露か霞の如く消えうせていたから。 「おい……おい、待て。何だおまえ、舐めてんのか!」 「この期に及んであっさり手抜きしてんじゃねえ。余裕ぶっこいて手心だと? 誰が頼んだ、何処まで虚仮にしてくれやがる……!」 「は、っ──バーカ、ふざけてなんかいねえよ」 「正真正銘、これがオレの全力だ。……はは、いい拳してんじゃねえかよ、マジ効いたぜ」 「……なんだと」  理解が追いつかない。弱体化した現状も、それでありながら嬉しそうな宿儺の様子も。  刑士郎にはまるで納得のできない現象だった。だが── 「オラオラ、ぼさっとしてんじゃ──ねえぞォ!」 「ガ、ぁ! ……ち、てめえッ」  気付けにと顎を打ち抜いた一撃に、刑士郎の負けん気へ火がともる。  本来の威力なら首から上が〈柘榴〉《ざくろ》と潰されていることさえ忘れ、宿儺の脇腹に膝の皿をめり込ませた。 「──ぐっ。は、やるなァ」  当然のように効く。外皮はかつて金剛石より丈夫だったはずが、今では肉体と同じ強度だった。 「そら……歯ぁ食い縛れよ、っと!」 「ぎ──か、はぁ」  攻撃も同様、側頭部に入った裏拳はあくまで人の威力しか刑士郎に痛みを与えない。  そのことに疑念を感じながらも、昂ぶった意思は停止を選ばない。止め時を失った子供の喧嘩が如く、罵詈雑言と共に拳を、脚を、肘を、膝を、額をぶつけて壊しあう。  ……そこから先は唯の乱闘だ。  全力で殴りつけ、よろめき、よくもやったな壊れてしまえと響き渡る悪態の応酬。  戦略や技巧もない単なる意地のぶつけ合い。一撃に気力を宿して、ひたすら相手へ掴みかかる。  殴るたびに皮膚が裂けて血が滲むものの、それは先の一戦に比べれば圧倒的に小さな損傷だ。ならばもはや、これは鬼の戦いなどでは断じてない。ありふれた人間同士による、ありふれた喧嘩の一幕なのだ。 「っ、んだよこりゃあ……いったいどうなったんだ、ああッ」  だからこそ、刑士郎にはわからない。見る影もなく弱体化した宿儺のことが、理解できずに混乱し── 「っは──わかんねえか? けどなあ、これはオレから言わせりゃ当然のことなんだよッ」  歪んだ表情に喧嘩相手は喜々と笑う。嘲りのない、いっそ清々しいともいえる笑顔で殴り合いながら疑問に応えた。 「当然だぁ? 舐めくさって、相手の土俵に合わせることが──かよ!」 「まさか違ぇよ、オレの〈歪〉《のぞ》みは端からこういうもんだったのさ。胸に秘めた渇望ってやつ。なあに、言葉にすればすげえ簡単な種明かしだぜ!」 「〈真〉《 、》〈面〉《 、》〈目〉《 、》〈に〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈奴〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》、〈オ〉《 、》〈レ〉《 、》〈は〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈認〉《 、》〈め〉《 、》〈ね〉《 、》〈ぇ〉《 、》」 「〈現〉《 、》〈実〉《 、》〈に〉《 、》〈嫌〉《 、》〈気〉《 、》〈差〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》、〈神〉《 、》〈様〉《 、》〈に〉《 、》〈甘〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》」 「そいつが、今まで持ち続けていた矜持って奴さ。ああつまり、面倒くせえな要するにだ──」 「──このガチンコは単に、オレ様の趣味ってわけだよ。このタコがッ!」  肺腑に叩き込まれた蹴撃に、呻く。だが今はその苦痛よりも告げた内容に意識を裂いた。  神──つまり己よりも圧倒的な力有る絶対者。そこへ連なるものを抹殺するという排斥宣言。ならば、それは。 「──っ、ぐ。そうか、てめえは」 「おうとも。神格の否定……願い顕れた効果は〈荒魂〉《あらみたま》の鎮静とでも言うべきかね」 「歪みという手前勝手な〈祟〉《たた》りになんざ、屈してたまるか! 我が心象は華々しいだぁ? ハ、ふざけろボケが、酔っ払ってんじゃねえぞォ──!」  明かされた真実は、なんという皮肉だろう。  化外へ勝つには歪みに頼るしかないというのに、こと宿儺においては歪みを有していては決して勝てない。どれほど強力無比なものであろうと、等しく総て消し飛ばされる。それどころか存在そのものに不等号が敷かれるのだ。  そして──いや、だからこそ。 「……オレを殺せるのは『人間』だけだ」  如何な絶対者にも縋りつかない、己の足で立つ〈人〉《 、》のみが宿儺を刺す。  餓えているからこそ渇望は生まれる。よって提示した条件を満たした場合、鬼神の願いは欠片も用を成さぬのか。 「降って湧いたご都合主義や、神様の操り人形、玩具……くだらねえ、どいつもこぞって端役だ。自分で物語を作れねえのさ」 「だからアレの細胞にもオレは絶対殺せねえ。そうさ、人間ってのはああじゃない。ままならなくて鬱陶しい現実にも、ちゃんと自分の足で立ってみせ、胸を張れる連中だろう?」 「オレはそういう奴に昔から弱くてなあ……どうにもこう、微笑ましくて、眩しくて、たまらなくなる」  だから、と。今まで一度も受けたことのない、眩しいものを見るように瞳を細めて。 「格好いいじゃねえかよ。なあ、〈凶〉《 、》〈月〉《 、》〈刑〉《 、》〈士〉《 、》〈郎〉《 、》」 「今オレには〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈姿〉《 、》〈が〉《 、》〈は〉《 、》〈っ〉《 、》〈き〉《 、》〈り〉《 、》〈見〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。いいツラしてるぜ……男の顔だ」 「ま、オレほどじゃねえけどな」 「…………」  その揶揄に刑士郎は言葉を奪われた。  これが恐らく、いや間違いなく。化外の者が西の者を然りと認めその名を呼んだ瞬間だから── 「───はっ」  持て余しそうな気分を噛み締めて。 「呆れたぜ……ふざけてやがる。頭沸いてるんじゃねえのか、糞が」 「〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈ま〉《 、》〈さ〉《 、》〈し〉《 、》〈く〉《 、》〈ソ〉《 、》〈レ〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》。さっきから何矛盾した美意識、自慢げにくっちゃべってやがんだよ」 「否定はしねえよ。好みってのはそういうもんだろ」  ああ確かに。持っていないから憧れてしまう。  一寸、弛緩した空気。顔を突き合わせた瞬間には再び張り詰めた。 「さあ、続きやろうぜ。ここからが本番だ」 「歪みだの刃物だのじゃねえ。おまえも立派な男なら、決着は自慢の〈拳〉《こいつ》でつけようや──!」 「かはっ──抜かせよ戯けが。見惚れたままに死にくされッ!」  鬼のいない地獄に咆哮が奔る。二体の悪童は、意気揚々と男の武器を振りかぶった。 「そうさ、飽いていればいい……餓えていりゃ、いいんだ!」  殴りながら、殴られながら、宿儺は声を張り上げる。  何かを伝えるように。これだけはと、大切なものを託すかのように。腹の底から溜めた想いを吐き出し続ける。 「生きる場所の何を飲み、何を喰らっても足りねえ。けどなぁ、それで上等だろうが! 甘えんなッ」 「神様に頭下げて、摩訶不思議な神通力でも恵んでもらって、そんな自分は強くてすごいだぁ──ふざけんなこの根性なしどもが! 玉ついてんのか切り落とすぞォ!」  幻想に成らない刹那が愛おしい。  そういうものこそ格好がいいと、宿儺は高らかに謳いあげた。 「なあ、分かるか? オレの言っていること。分かるよなぁ、今のおまえなら──きっとよ」 「うっせえ、分かるわけねえだろ! んなくだらねえ拘りは行灯にでも説いてやがれ」 「俺の背負っていく荷物に、ぶっ壊すだけの糞鬼なんざ入れる隙間もありゃしねえんだッ」 「ああ、そうだ。手一杯なんだよ、俺は……!」  自分しか自分のことは背負えない。それに気づいた刑士郎にとって、他人であるという事実はそれだけで重過ぎる。  それでも支えたいし、支えなければならない女がいたゆえに。 「ははは。いいねえ、女か? 喜べよ。そういう手合いはマジで強ぇ。あの大馬鹿とそっくりだ」 「だからてめえ、どこかの誰かと一緒にすんなッ」 「言ったろう。俺は俺だ! 見ず知らずの腑抜けに似てるなど、よくも──」 「ごは──ぁ、が……」  続くはずの悪態を強制的に宿儺の剛拳が断ち切った。 「──悪いな、そいつは禁句だぜ。お兄ちゃん」 「腑抜けだと? ちょいと口が軽すぎたな。それ以上あいつのこと苛めてやるなよ。これでも結構、痛ましいとは思ってんだから」 「は──どうした。お仲間を馬鹿にされて〈鶏冠〉《とさか》にきたかよ」 「おう盛大にな。ったく、せっかくの真人間第一号だってのに、おまえほんとやさぐれてんな……」 「こうまでひねてると本気で心配だぜ。オレ相手はともかく、惚れた奴にはもうちょい素直になっとけよ。そっちにもちゃんと、おまえが人徳示してやらにゃいかんのだから」 「だから……そういう納得した自慰口調が」  ぎり、と骨が軋まんばかりに握り締め。 「鬱陶しいって言ってんだよ、俺はァ──!」  鉄槌以上の衝撃をその横顔にお見舞いした。  それからどれほど殴りあったか、刑士郎には判然しない。  数分か、それとも数時間か。永遠に続くとさえ思えた拳闘は、決め手を消失したままひたすらに継続している。  骨は次々に砕け、皮膚は見るも無残な痣だらけ。それでも負けてなるものかと、互いに動けなくなるまで続行していく。 「はは、ははははは……」 「もっとだ……キバれや糞餓鬼。男児の矜持が泣いてんぞォッ」  ……その中で、宿儺は終始笑っていた。  打撃を受けようと、劣勢に追い込まれようとも浮かべた笑みは崩れない。今起こっている現状に満足しているからだろうか。この泥臭くも原始的で不恰好な決闘を楽しんでいた。  魂の決闘が彼の抱く古傷を癒していくかのようで── 「はぁっ、ぐぎ………っ、おらぁあああッ!」  ゆえに、天秤は勝利を追い求めている者へと傾き始める。  十発の間に十一発。二十発の間に二十三発。守るべきものの有無、絶対に敗北できないという決心、それがほんの僅かながら刑士郎を鼓舞する力となっていた。  家族を作りたい──そう口にしたささやかな夢語りを楔に踏みとどまる。  崩れそうな両脚は何度も地を蹴っていた。倒れなどしない。失いなどしない。  生まれて初めて純粋に、誰かのためにと凶月刑士郎は立ち向かう。 「はぁ、はぁ、はぁ──ッ、ぐ」 「…………」  撒き散らした血反吐に汚れ、拳すら形作れず腕をかざす姿は──ああ、確かに滑稽だろう。  みすぼらしくて、見っともなくて、余人が思い描く益荒男とは似ても似つかぬ無様な姿。  秀麗だとも剛健だとも謳われぬ、まさしくそれは悪あがき。 しかし── 「はっ、はは──」  恐れを知り。他者を知り。己が分を思い知りながら。  それでも譲れぬもののために、理不尽な鬼へ立ち向かうその姿は。 「やられたぜ、ちくしょう……」  砕けた心さえも打つ。誰にも聞こえぬよう宿儺は小さく呟いた。 「やっぱいいな……人間はよ」  〈真〉《 、》〈っ〉《 、》〈当〉《 、》〈な〉《 、》〈人〉《 、》に焦がれ、その理想とかけ離れている鬼から自然と力が抜けた。  満ち足りた笑みが浮かぶ。振りかぶった拳と、相手の瞳を眺めて。 「──ォォオオオオオオッ」  そして、何の変哲もない一撃が宿儺の顔面を打ち抜いた。  呆れるほどに泥臭く。潔くも爽快に。至高の敗北を受け止めて、享楽の鬼は然りと両膝をついたのだ。 「かっ、ぐぅ………ちぃ」 「は、はは。男前じゃねえかよ、伊達男が……」 「おお、そいつは重畳……だ」  乱闘じみたやり取りで衣装も顔も傷だらけ。それでも刑士郎は勝者の悪態を吐き、宿儺は敗者でありながら柳に風と受け流す。  その様があまりに平素のものだったから、眉根を寄せたのは仕方がない。 「胡散臭え……本当に死ぬんだろうな。つうか悔しがれ。勝った気がしねえんだよ」 「最期に勝ちを狙って何が悪い、ってな……ま、こっちも意地があるのさ」 「そんな疑うなら周り見ろ。ちゃんと崩れ始めてるだろ」  言葉通り宿儺の生み出した地獄が希薄になっていく。水滴が蒸発するかのように界の位相が消え始めていた。 「つーわけだ。引き際ぐらいは心得てる」 「総て野垂れ死ぬ……だからオレも、まあ、このまま野垂れ死ねばいい」 「……お利巧様に鞍替えか?」 「違うね、オレが狙うのはいつだって勝ちだ。だから〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈に〉《 、》〈勝〉《 、》〈ち〉《 、》〈取〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈ら〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ぜ〉《 、》」 「勝利と死はまったく別のことだろう? って、ああ、無駄話する暇もねえな……もったいねえの」  幻が如く消えていく身体を見下ろしてから、視線がゆるりと刑士郎へ向き直る。  表情からは嘲弄の気配が抜けていた。瞳に真剣さを宿し、そして。 「いいか、よく聞け──おまえが総ての〈要〉《 、》だ」  やはり最後まで、刑士郎にとってよくわからぬ言葉を口にした。 「あの馬鹿とオレが相克しているように、この世界も必ずそうなる。必ずそこへ帰結する。……兆候に関しても、どうやら幾分出ているらしい」 「だが……それだけじゃ不完全なのさ。壊すというなら〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈先〉《 、》がいる。間違って共倒れした暁には、色のない白紙が漂うだけなんだ」  そこで一度息を止め、邪気のない笑みを湛えながら── 「だから、おまえが作れ。そして見せつけてやれ」 「人間様の底力って奴をな」 「……最期まで酔っ払いだな。てめえは」 「だから素面の奴がいいんだよ」  とても化外のものとは思えない、透き通った良い微笑が零れる。  それは決して敗者が残すものではない。無様でも足掻き続けた勝鬨にこそ、浮かべて然るべき表情だった。  穏やかに瞑目し、哀悼の意と共に壊れゆく空を見上げる。 「   」 「      」 「   」 「      」 「涙が止むまで好きにやりな。そしていつか、嘆きに飽いたその時は──」  あの日、あの場所で。共に勝ち取った懐かしい〈黄昏〉《せつな》に抱かれ。 「いつかの面子でまた騒ごうや」  自分だけに届く呟きを残響に、天魔が一柱・宿儺は淡い光へ溶けていった。  自らの得た一戦こそ勝利の鍵と信じながら、夢幻の彼方へ消え去ったのだ。 「…………斃した、か。それとも」  勝敗さえ煙に巻かれたようで釈然としない。  打ち伏せ勝てば痛快だと、今までは常に湧き上がった単純明快な高揚もなかった。  何かが変貌した自分自身にたまらぬ不信を覚えている。充足に仄かな痛みが混じっているも、それを飲み下しながら声をあげ── 「──聞こえるか、夜行ッ! 俺は獲ったぞ、本懐遂げた!」 「ならばおまえも勝ってみせろよ! 一勝一敗、片手落ちじゃあ格好がつかねえ……なあそうだろう!」  時同じく死の天空に擁かれた男へと、崩れる異界の中にてあらんばかりの激を飛ばした。 「──、────」  何も無い。死の暗闇に埋没する。  喉の形は失った。手足、骨肉、内臓、悉く失われ総ては無の中。記憶さえ浸透した虚無に蝕まれている。  ならば、これが死なのだろう。  人生の終点、二度と戻れぬ断崖の果てへと夜行は落ちて――墜ちて逝く。 「────?」  そこでふと思う。──はて、墜ちるとは何なのか?  夜行は確実に死んだのだ。  それこそ問答無用なほどに。誰もが異論を挟めぬほどに。絶対的に、決定的に、摩多羅夜行という人物は敗れて散った。  ならばその思考はどういうことか。彼は今、はっきりと己が死後を認識しているというのに。  矛盾だ……消え果てたのに、存在している。  五感喪失し六感にさえ捉えるものはない。無感の地獄は永続し、これこそ大獄の太極であるかと思い始めたとき。  〈ソ〉《 、》〈レ〉《 、》が己を眺めていることに気づいて── 「」 「」  その時、夜行は喉を失っていることに心の底から感謝した。身体を亡くしたことで動けぬことを恐慌の中で喜んだ。  三つの光──いやあれは〈眼〉《まなこ》か。  遥か天空の頂きから、墜ちた死の彼方ごと自らを覗く者がいる。  彼我の間に横たわる格の違いを看破し、見えた結果に自失する。  大獄? 夜刀? 馬鹿な、比較対象にもおこがましい。  総体が巨大すぎて気がふれそうになる。邪の神気が深すぎるのだ。  どうか動いてくれるなと、それだけを望み──刹那。 「──ガァァァァアアアアアアアアアアア」  摩多羅夜行の魂を、反吐の如き情報が駆け抜けた。  瀑布にのたうつ小魚の如く、浴びせられる真理真相に狂乱する。  理解不能な文字、声、情報の羅列は質量さえ伴い夜行の芯から末端までを、蹂躙し強姦し補強しつくしていく。  こちらの事情や状態など一切の考慮すらせずに。 「ぎ、ぃィ、ァァぁああ──!」  塵だ──塵がいる。  如何なる魔性も及ばない史上最悪の邪性。聞けば耳を引き裂いて、見れば目玉を抉り出したくなる負の圧力。  頭蓋をかち割ることで脳を洗い換えられたら、嗚呼、それはどれほど幸福なことだろう。この世には掃き溜めにさえ劣る、恐るべき汚濁が在ると今知った。  畜生の垂れ流す糞尿よりも下衆な念。それが毛穴の隙間から流れ込み夜行を死から掬い上げる力となる。  やめろ。ふざけろ。私はそのようなことなど望んでいない──!  そう叫びかけた喉から漏れるのは、やはり阿鼻の絶叫で。  腐肉で再び編まれていく感覚に気が狂う。狂った端から反転し、正気の側へと強制的に巻き戻るこの激痛。  殺意が膨れ上がり暴走する──かつてこれ以上に殺したいと思った存在がいただろうか。  死を望み、死に傾倒していく。精神が食い潰されるも反比例して増殖していく殺害への意思に。 「貴様、は──ッ」  貴様か? 貴様がそうなのか?  かつて紅葉に宣言した。私は■■を見てみたい。  かつて母禮に問い質した。なぜ私を■■と重ねる。  愚か者、哀れな男と両者に等しく蔑まれ、その意味するところが理解できず、女のくだらぬ迷妄であろうと歯牙にもかけなかった真実は……  同種であると、共に認めた〈大獄〉《おとこ》によって答えを暴力的に叩き込まれた。  これが真相。これが真理。我が望みはその探求だと嘯きながら、願った先が閻魔の断罪という〈太極〉《いろ》と化したのも、至極当然の帰結なのだ。  おまえたちに意志などない。おまえたちは浮遊している。■■の赤子、■■の細胞――〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈一〉《 、》〈番〉《 、》〈優〉《 、》〈等〉《 、》〈だ〉《 、》。  繰り返し繰り返し、穢土に来てより浴びせられ続けた言葉の数々、諸々すべて的を射ている。  これが、■■――我ら欲界にひしめく者の父にして、今現在の太極座を統べるモノ。  こんなモノを識りたいと、なぜに己は思ったのか。  その渇望、思考すらも繰り糸で引かれていたのだ。あれの宇宙に彼と我の線引きなどない。  総ては、我――これまでごく当たり前に捉えていたその法則が、真実どんな結末をもたらすものかを理解して…… 「貴様が、波旬……!」  漂う三つの眼光へと、夜行は盲いた両目を見開いて。 「──おおおおぉぉぉぉおおッ!」  額に叩き込まれる邪神の烙印……三つ目というソレと同じ属性を己が有している事実に対し、魂切る絶叫をあげていた。  そして、再び其処へと舞い戻る。 「っ、は……は」  命を絶つ砂の感触を踏みしめ、夜行は荒い息を抑えながら立ち上がった。  まず何より先に、自らの居る場所が〈地〉《 、》〈獄〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈謝〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》。あの汚泥に触れていないことに感激する。  呼気を満たすのは死の香りしかない。ああ、だがその空虚ささえ──先の念に比べれば兆倍ましだ。  大獄のもたらした虚無の死界へ帰って来たことに、心から感謝したのだ。 「これは……なんだと」  そして、変化はそれに留まらない。  己が有する太極から生まれ出でる波動、それは正常に存続しかつてと同じく夜行をこの地獄へと馴染ませていたのだが。 「至ったのか? 私が……先ほど具象された終焉、その域まで」  半ば呆然とその事実を受け入れ、信じられぬと自らの肉体を見下ろす。  大獄の放つあの深淵は未だ健在。しかし己の身はもはや小揺らぎさえしておらず、完全に絶無の消失へ順応していた。  なぜ生きているのか理解できないどころか、そも強固になっている事実に心中で戦慄する。  今の自分が何に築かれ、何を糧とし在るというのか。  自身の現状と原因に皆目見当がつかぬのだ。天魔と同じく妖異と成り果てるならまだしも、正統な進展を経たと感じ取れる進化は、まるで── 「待て。〈正〉《 、》〈統〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》」  己が吐いた言葉に、彼の中で何かが嵌まった。  唇が震える。まさか、つまり、いやならば──疾走する自問自答の乱流は、おぞましい解答を目指して錯綜しているだけに恐ろしい。  唾棄すべき、何をもってしても避けるべき真実。茫洋とした影が輪郭を帯び始め── 「やはりな……」  佇む様を前に大獄が声を零す。首の無い死塊が、納得したぞと告げていた。 「これで理解したか。……おまえは死ぬべきだったのだ」 「生き延び続ける宿命がために、この時以外そのからくりには到達できん。俺と相対することでようやく生は脅かされた」 「…………」  示す言葉は恣意的であり、そしてもう一つの意味がある。 「死ねなかったろう? どうだ。在るべきもの、訪れるべき果てを剥奪された感覚は」  それは、逆説的に解すれば大獄と戦わねば夜行に死は訪れなかったことの指摘である。  大獄はその事実を誰より深く確信し、実感している。何故ならかつて、〈己〉《 、》〈が〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》。 「これから先、例外なくそういう事態が継続する」 「順当な勝利を。忌避すべき敗北を。溢れ目覚める才気にて踏破しながら、輝かしい戦果を積み重ねてゆくだろう」 「それはもはや生ではない。始点と終点は結合し、同一の事象のみが日付をまたいで永続するのみ」 「……巡り続ける円環の如く。形骸のまま、走り続けながらに止まってゆくのだ」 「疾走する停滞。俺の片割れと同じくな」  懐かしむような物言いに、夜行の脳裏がそれと合致する存在を描き出す。  東側の理──生き場を追われた敗残の徒。  そして、それを繋ぎ止める無間地獄。総てが一本の線へと繋がる。 「皮肉なものだ。おまえは俺の側へ近しいというのに、言葉にすればあちらの側にも近しく見える……いや、それも当然の帰結か」 「『終焉』と『停滞』は同一の願いより別れた対の太極。俺に似るということは、即ちそういうことでもあるに過ぎん」 「もっとも、本質は互いに相容れぬだろう。好んだ地平に留まるための疾走と、好まんがために疾駆し滅ぼすというのでは、築き上げる理想が違う」 「……幸福の維持に対して、幸福のための破壊。それが私の本性であると?」 「ならば他に何がある。殺し尽くしたいのだろう?」 「互いに極めれば静寂だ。しかし、真に〈唯一〉《おのれ》を求めるならば、より邪悪な思想はどちらであるか……語るに及ばん」 「俺と片割れの渇望も、アレと比較すれば紛うことなく神聖だ。終焉と停滞。よかろう、誇らしささえ感じる」 「〈美〉《 、》〈し〉《 、》〈き〉《 、》〈姿〉《 、》〈に〉《 、》〈留〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈お〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》」  大獄と夜刀が願う渇望の原点はそれだ。素晴らしいと感じるがために、綺麗なまま終わらせるか、輝きを不変にしたいと願うかの違いだけ。  対して夜行の祈りはその真逆へと位置している。ひたすら〈鏖殺〉《おうさつ》に耽りたい──破壊の美学などではなく、抱きしめるがゆえに壊すという愛もない。  ただ、己以外を塵とすらも思っていない唯我の塊。地上に在る生の数々、その営みたる建造物や、山岳さえも身に張り付いた麻疹のごとく掻き毟って平らにする滅侭滅相。  この宇宙に我以外要らぬという渇望の触覚として―― 「く……」  ──握り締めた掌へ爪が食い込む。  あまりの怒りに脳髄が沸騰しかけているとさえ錯覚した。彼らの間のみで成立しているやり取り、渇望の根源へ向けた指摘。  そうして明かされる真実は、夜行にとって耐え難い屈辱であったがために。 「ならば……」  対峙する男へと、知らず縋るような問いを投げた。 「ならば、御身も不自然ではなかろうか? その姿、矜持を曲げていると指摘されれば、否定は出来まい」 「肯定しよう。確かに、今の俺は歪んでいる」  崩壊し始めている鎧の軋みに紛れるかたちで、大獄の声は初めて感情らしきものが混じっていた。  死を願うという彼の渇望……それは今も正しく機能している。そうだ、彼は死にたかったはずなのに。  敗れ、斃され、砕かれて、なぜこのときまで戦い続けた? 安息の墓穴を拒絶して、この男を戦奴たらしめていた想いの正体が分からない。  夜刀に無理矢理繋がれた。彼と深すぎる縁を持つゆえ、その渇望に問答無用で巻き込まれた――という、ある種被害者めいた事情ではないだろう。そんないじけた存在に、摩多羅夜行は興味を持たない。  ではなぜ? その真実を知りたく思う。己の矜持に反してまで、まつろわぬ化外と成り果ててまで残留し続けた理由があるのなら──  今、己を苛む、足場が喪失したような感覚も、何処かに着地できるのではと思ったから…… 「──それでも、捨て置けなかったというだけのこと」 「戦友がまだ戦っている。ならば俺だけ眠るわけにはいかんだろう。この身もまた、奴にとって〈輝き〉《せつな》と言ってくれるならなおさらに」 「奴の意志は、俺の意志」 「ああつまり、もはや理屈ではないのだよ。おまえたちには狂気と映るのだろうがな」  友のため、己を曲げて、戦場に居残ること。それは歪んでいても正しいことで、人たらんとするなら自然なことだと大獄は断言した。 「たとえそれが、途方もない負け戦であろうともな」 「…………」  笑った、のだろうか。  夢か、それとも幻か。ほんの僅か、大獄から滲んだものは確かな苦笑の念だった。 「なるほど……それが御身の友情であるわけか」 「友のため」 「そして己のため」  余人の目にどう映ろうと、彼の中では釣り合いが取れている。利他と利己、どちらも必須のものであり、どちらにも傾かない無謬の天秤――ともすれば不整合なその在り方こそ、人の真なり。  思えば鬼無里で、紅葉が言っていたこともそれを指していたのだろうか。 「あれは夢見がちな男だったよ」  言いつつも、己自身も夢見るものであるかのように、大獄は友のことをそう語る。 「そして、俺はそんな男の矜持だからこそ、心安らかに〈敗北〉《なっとく》したのだ」 「そんな奴が、認めぬと言う。ならば俺も認めんよ。我らの聖戦を穢す結末など許さない」 「これがただの駄々ではないこと、おまえは見て、識っただろう。あれの法の真実を」 「波旬は万象、総ての敵だ」  だから、穢土の残存はそのために。〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈こ〉《 、》〈そ〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈で〉《 、》〈す〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈が〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈と〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈と〉《 、》〈理〉《 、》〈解〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》…… 「ああ、そうか……そういうことか」  真実、この宇宙の恩人である英雄たちの一角に、心よりの謝意を示した。 「なるほど、だからこそ私なのだな。摩多羅夜行を選択したのは、つまり亀裂へ向けた確かな一石」 「御身に似た私。私と似る夜刀の境遇。黄昏が生まれる以前において、永劫の色を砕いたその行いを参考せよと?」 「そうだ。思うが侭、誅戮するがいい。俺が出来なかったこと、片割れが己の女に託したことを……おまえが遂げろ」 「触覚に手を噛まれる苦痛でも、一つ教えてやるがいい」 「くはっ―――」  顔を手で覆い、身体をくの字に曲げて堪えきれぬと快笑する。 「ははは、あはははははは、ははははははははははは──」  大気すら死んでいる地獄の内を、場違いな歓喜の声が満たしていた。 「いや参った。これほど愉快なのは初めてだな。腹がよじれて仕方がないわ。くくくははははは」 「ああ認めよう、これは私の完敗だ。まんまと振り回されたあげくがこれとは、我ながら無様な振る舞いだったものよ」 「感服したとも──この一戦、御身こそ真の勝者なり」  天晴れなり。上機嫌に夜行は死者を褒め称えた。  彼を知る者ならば目を剥くだろう賞賛にも、大獄は不動だった。それは決して賛辞を蔑ろにしているというわけではない。 「では、敗者はそれ相応の責務をこれより請け負わねばな」  共に同属、腹の内さえ同一なのだ。次の言葉も相判るがため── 「滅び行き、なお立ち上がり、至高の終わりを守り続けた死骸の天魔よ。今際において、御身は私へ何を命じ、下達するのか?」 「愚問──己が望みを己が力で完遂しろ」  互いを行き交う会話は、どこか儀式じみていた。 「知らしめなければならないだろう。痛感させる必要がある。唯我に満ちた天狗道……貴様が終わりをくれてやれ」 「命ずるは一つ。勝ってみせろ」 「く、委細承知」  言われるまでもなく自分の願いもそれなのだと、夜行は喜々としながら返答した。  そして、先の言葉が限界だったのか。大獄の身体が急速に形を失っていく。  伝えるべきことを伝えきり、未練が無くなったためだろう。鎧は末端から砕け始め、粒子となって消滅していく。  存在しない無の頭部に喰われるが如く、拘束の解けた死の天魔は己が渇望を遂げつつあった。  そして── 「ではな。今度こそ、最期の別れだ……兄弟」  滅びを迎える間際、宛てた言葉は己が片割れへと向けられる。 「このまま灰も残さず消え去ろう。おまえもまた、納得したなら来るがいい」 「俺が、この首をくれてやったときのように……今度はおまえが、後へと託す番なのだから」  この世界のことは、そこに生きる者たちが決めねばならない。  託すに足ると信じられれば、それでよし。どだい自分たちに勝てぬようでは、あれと対峙するなど不可能だから。  全力で行け。殺す気で行け。我らの刹那を刻み付けろ。  そうすることで、無敵の第六天に亀裂を与えることがおまえの真実だったのだろう、と呟いて…… 「さらばだ」  言葉短く、しかし万感の思いをこめて、大獄は自らの死滅を受け入れ、消失した。  永き放浪に終止符を打った、あの誇らしい斬首の〈終焉〉《せつな》へと帰るべく……  悔恨総てを昇華して、ようやく彼の戦いは終わったのだ。 「さて──此度の舞はここまでか」  神楽は終わり、喪失していく空間に夜行のみが残される。  口元に浮かぶ苦笑から内面は伺えない。正か負か、どちらとも取れる表情で虚空の先を見つめていた。 「ああ、そう叫ばずとも聞こえておるさ刑士郎。かような顛末を迎えるとは、お互いどうにも格好がつかぬなぁ」 「我らが引き当てたあの者らは、まこと破格の気性を有しておったわ」 「ほう……おまえもまた、中々に面白い姿へと至ったようで、結構だとも。興味深いな」  同時に決着のついた同輩へ向け、夜行の天眼が視線を向けた。彼が戦いの果てにどう変化したのか正しく認識して、それを揶揄する。 「斬った張ったで調子がつかぬ。気づけばするりと乗せられて、あれよという間にこれ逸らされたか。まったく見事よ」 「間抜けにも二人揃って勝ち逃げをされるとは。ふふ、これはいい。酒の肴にはもってこいかな。ははははは……」  笑い声を響かせながら、〈反閇〉《へんぱい》を踏むことで自らの立つ場を清める。  生死通じる土気の陣。崩壊に引き摺られぬよう拵えたところで。 「理より生まれた存在が、理を生んだ者へと一矢を放つ……」 「逆襲──実に甘美な所業と思わぬか?」  誰にも聞こえぬよう独りごち、口端で弧月を描いた。 「」 「」  そして──血涙と絶叫が喪失の嘆きと共に吹き荒れる。  まただ、また剥がれ落ちてしまったと。東の地を覆う〈大蛇〉《おろち》は、鱗を毟られた痛みに慟哭する。 「  」 「  」  狂おしく悶えながら、消えた同胞の名を呼ぶもそこに返ってくるものはない。  だから怒りよりも悲しみが勝った。喉が壊れんばかりの叫びは惜別の歌であり、目尻を伝う血の雫は彼らへ捧げる感謝の雨だ。  あいつの意志は俺の意志――そう言ってくれた二人を何より誇りに思っている。  いや、彼らだけではない。今まで共にいてくれた全員の想いが伝わっていた。〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》は八柱にして一つのもの。総ての心を共有している。  ゆえに―― 「大丈夫だよ。絶対にこのまま終わらせはしないもの」  今、唯一残った常世が何を考えているのかも、夜刀は深く理解していた。  喪失の激痛が垣間だけ、彼を正気に戻しているのだ。 「やらせない。奪わせない。相手が誰なんて、もう何の関係もない」 「ごめんね。君は望んでいないだろうけど、それでも私は耐えられないよ」 「このまま消えていくことが、みんな踏み躙られることが、許せない」 「……ううん。違う」  本心はそんなものではない。彼女の胸を焼く真実は。 「君を負けたままにだなんて──させない」  愛する男がただの狂神と認識されたまま終わるということ。想像するだに穢らわしい予想図こそを、常世は全霊で拒絶している。  ああ、認められない。受け入れるなど何故できよう。  それが現世の理であるというのなら、彼女はその無慈悲な運命に反逆する。  同胞を消滅させられ、さらにこれ以上、彼を貶めるというならば―― 「君が座を獲ったほうが、何倍もいい」  誰もが逝ってしまったけれど、それでもまだ出来ることが残っている。  穢土誕生――否、正確にはその外界が誕生してより今これまで、余人には理解の及ばぬ激烈な鬩ぎ合いを続けてきた夜刀には余裕がなく、その彼に代わって常世が指揮を執ってきた理由はそこにあった。  彼女は切り札を有している。  それは零か百かの選択であり、行ったが最後、後戻りはできない。  〈八〉《 、》〈天〉《 、》〈魔〉《 、》〈全〉《 、》〈員〉《 、》〈の〉《 、》〈魂〉《 、》〈を〉《 、》〈用〉《 、》〈い〉《 、》、〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈主〉《 、》〈柱〉《 、》〈を〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。  より大きく、より強く、総てを塗り潰せる座の領域まで彼女が彼を押し上げること。  それはすなわち、最終決戦の号令に他ならない。  この宇宙は、遙かな昔から太極座という頂点を握った者が世界の在り様を決定するという、言わば神の交代劇が繰り返されてきた。  夜刀を始めとする化外勢は、その概念における旧神の眷属で、現神の覇道に追われた者。  全宇宙で穢土のみという、規模で言えば芥子粒以下の領地を守ることしかできなかったが、いかに極小の版図であろうと、〈化外〉《いぶつ》が残っている限り支配はまだ完成していない。  それだけは防がなければならなかったから。  それだけは許すわけにいかなかったから。  彼らが残ってきたのはそのためで、方針としては専守防衛。現実的な力関係としてそれが限界であったし、また夜刀自身も己が太極座を握ることを望んでいない。  彼はそういう男だった。自分の器を弁えて、座を握るという責任を理解して、無間地獄という己の法で万象を支配することを拒んでいた。  そんな彼が、自分たちを守るため、愛する女神の遺志を汲み、穢土を発生させ戦い続けた苦しみ、決断、その慈愛……外野に分かられて堪るものか。  生存競争? 今や邪魔だと? 何も知らぬ分際でよくも言った。  おまえたちなど、彼がいなければとうに奴からすり潰されていたくせに。  しょせん彼のお陰で在れた命。ならば彼の名誉のために食い尽くされても受け入れろ。文句などは言わせない。  ゆえにこれより、自分は彼を新生させると常世は誓った。その果てに訪れるのは、完全な天狗道か完全な無間地獄という二つに一つ。どちらも人には無明の世となるだろうが、知ったことではない。  今まで太平楽にすごせたツケを、彼を邪神のごとく罵ったツケを、清算してもらうだけなのだ。  勝つ――自分の愛する男は必ず勝つ。  彼は責任を知り、愛を知り、他者を思う心を持っているから……波旬の宇宙などと一緒にするな。彼の無間に呑まれることこそ救いと知れ。  だから―― 「どうかお願い。私を許して……」 「君が望んでないのは分かってる。君が愛する人のことも分かってる。だけど、いいや、だからこそ――」 「私は、君たちのことを誇りたい」 「その決断は尊かったと、知らしめたい」 「 」 「 」  夢見るように呟いて、常世は自らの〈機〉《 、》〈能〉《 、》を解放した。  刹那―― 「」  その一言、まさかあるとは思わなかった返答に胸が痺れる。彼は総てを聞いていたのか。今の彼は正気なのかと火の出るような羞恥に駆られ、同時に歓喜し―― 「ああ、あぁ……」  滂沱と溢れる涙と共に、偽らざる赤心を告げた。 「──私、今、誰よりも幸せ」  その喜びを糧に、全身全霊を注ぎ込む。  羽化という生まれ変わり、神威の子宮として愛する男を産み落とすために。 「出てきたようだぜ、竜胆」 「なんと、巨大な……」  戦場を覆い雲を掻き分けて現れたのは、巨大と形容するのもおこがましい醜悪な芋虫の随神相。  〈三柱〉《みはしら》鳥居を背に蠢くその様は、どこか神聖なものへの畏怖の念を呼び起こす。母の腹から出でる赤子を連想したのは、きっとそういうことだろう。  あれが常世の本性ならば……なるほど、確かに奴は穢土の要であったのだ。何を成そうとしているのか、男の俺でも理解できる。  まして、竜胆ならなおさらに。 「……私も女か。だけど、いやだからこそ」  哀切の念は一瞬。目を伏せて、唇を噛み、そして〈眦〉《まなじり》を決し力を篭めて。 「早馬を」 「──よし来た!」  意気揚々と馬の背へ飛び乗って、俺は竜胆へ手を伸ばした。  一つの鞍に二人分の体重を乗せ、戦場を駆けていく。気分は間違いなく最高だ。 「どけよ邪魔だぜ。戦の花がお通りだろうがッ」  邪魔な〈蜘蛛〉《ぞうひょう》を景気付けに蹴散らして、臆せず進む俺達は勝利の風に違いない。  何より、こう、背中に頭こつんと寄せられているのがいい。この熱がある限り俺は無敵だ。負けやしないと信じれられる。 「覇吐……感謝する」 「ん? 何にだよ」 「ここまでに至る総てにだ」  密着してからのいい笑みに、思わず胸が熱くなる。助平心とはまったく別の……何とも言えない心境が俺を捉えて離さない。 「私は今、掛け値なしに誇らしい。おまえ達が道を切り開いてくれたことが、そこへ続いている今が、胸へ温かい熱を灯してくれるのだ」 「不憫であったはずだ。きっと耳障りだっただろう。何をぬかしているのかと、生涯通して私の言葉は袖にされ続けたから……分かるとも」 「それでも、訴え続けた甲斐があったと思えるのだ。今その総てが、形になったのだと信じられる」 「我々は、同じ地平を目指す仲間であると思えるから」 「竜胆……」 「本当に……よく今までついてきてくれた」  俺だけじゃねえよとか、あいつらにも言ってやれとか、色々頭の中でぐるぐる渦巻いていたものが一気に別のものへ変わっていた。  知らず込み上げた笑いは、我ながら呆れるほどに一途な心からのものであり―― 「言ったろ。あんたのために俺は死ぬって」  要するに、俺はそこからブレていない。今後もブレることはない。 「あいつらだって、色々飾っちゃいるが同じだよ。アクの強い聞かん坊どもを引っ張ってきたのは他の誰でもない、あんたに魅せてもらったからだ」 「東征軍総大将、久雅竜胆鈴鹿はとびきりいかしたいい女でよ。そんな将に俺たち全員、まとめて抱かれて骨抜きなのさ」 「愛してるぜ」 「な――」  その一言に、目をむく竜胆。生涯最高の殺し文句が見事に決まった。 「なっ……お、おまえは、本当に意味をわかって――」 「使ってるさ」  仁義、友情、愛──絆。そりゃまあ、全部馴染みのない言葉だったが。 「おまえが、俺たちに教えてくれたことじゃねえのかよ」  そうさ、竜胆。今は悪くないって思えるんだ。  我ながらおかしなことだが、惚れた女に感化されて変わった自分が心地いい。面倒くさかったのも過去の話、俺もあいつらも、ちゃんとその心意気を感じている。 「ふふ、ふふふふ……そうか。そうだったな」 「ならば──教えに行こう。彼らにも!」 「世の行く末を我らに託してもらうため……彼らもまた、この手で抱きに行こうじゃないか!」  そうさ。そこでそう言えるあんただからこそ、勝利を強く信じられる。  魂総て、預けられるんだ。 「行くぜェッ―――!」 「   」 「   」  その気炎、弾ける敵手の気概を前に、常世は溶岩のごとく燃えながらも氷河より冷めていた。  馬鹿め、やはりおまえたちは分かっていない。その信頼、愛のように思っている心がいったい何を源泉としているのかを。 「   」 「   」 「   」 「   」 「   」 「   」  波旬の宇宙は甘くない。かつて自分たちが総出で挑み、敗亡したのだ。その強さもその恐怖も、細胞の欠片に至るまで刻み込まれている。  よって断言できるのだ。〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈内〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈崩〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。おそらくは、歴代の座において最悪かつ最強の〈凶神〉《まがつがみ》――おまえたちでは勝てないのだ。 「    」 「 」 「    」 「 」  だから自分は信じない。おまえたちの描く未来など信じられない。  自分が信じるものはただ一つ。彼の愛と尊さだけ。 「 」 「  」 「 」 「  」  ゆえに、常世はひたすら願う。強い身体を、強い渇望を――愛しい彼に取り戻させたい。それが男の想いに反していても、狂乱しながら成し遂げる。  何一つ欠けていない、在りし日の〈刹那〉《さいきょう》へ。 「 」 「   」 「 」 「   」  さあ、もう一度──時よ止まって。産まれておいで。 「──太・極──」 「随神相――神咒神威・無間衆合」  総身駆け巡る陣痛さえ甘美な祝福と味わいながら、古びた黄金の子宮が地響きを鳴らして蠕動した。 「──させっかよォォオ!」  その間隙──切り札の発動をむざむざ逃しはしないだろうが!  馬上から跳躍し、勢い付けて叩き付けた刃が羽化の亀裂を僅かに広げる。馬鹿デカい巨躯から見れば砂一粒の傷としても、そいつで結構。充分だった。 「はああああァッ!」  裂帛の気合いと共に馬を駆って跳躍し、その亀裂に飛び込む竜胆。  産まれ〈出〉《い》ずるものを俺が斃し、産み落とすものをあいつが斃す。  互いが互いの戦場へ。赴く寸前、視線が絡み── 「覇吐、武運を!」 「任せとけ!」  交差した激励を背に、三色の柱を駆け上った。  頑張れよ、竜胆。俺も必ずおまえが勝つと、誰にも負けないくらい信じているから。  そして、傷一つなく竜胆は常世の内部へ到達した。  まず感じたのは極大の違和感。つい先ほど多種多様な異界法則を知っていた彼女は、それだけに置かれている現状を訝しむ。 「〈何〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》、だと?」  決定的に不可思議な点……自らを一切害さない地獄に顔を顰めた。  目に見える情景は変わらない。かつて不二の底で見たものとまったく同じ、城郭の殿堂めいた雰囲気を保っている。  だが、間違いなく以前と違う。その相違点は色の密度だ。今のここは、まるで抜け殻。 「そうか……」  とここで思い至る。先の所業――おそらくは出産――によって常世はもう…… 「御身はすでに、生きる気などないのだな」  将として、敵将の一人に対しあるまじき態度……惜しむような呟きを漏らしていた。  いや、あるいは、それこそが将たる者の資質なのかもしれない。  奉じる〈理想〉《ユメ》は違っても、彼と我は同じもの。その意気を称え、敬えぬようでは、そもそも刃など交えるべきではないだろうと、久雅竜胆は思っている。  魂を持たず、信念もなく、ただ唯我に満ちた人獣のぶつかり合いではあまりに空虚がすぎるというもの。穢土の外では狂気と断じられ続けた竜胆の在り方に、初めて芯から共感したのは皮肉なことに鬼と呼ばれる穢土の天魔たちだった。  斃すべき不倶戴天と双方認識しながらも、そうした部分を彼らと共有してきたことは否定できない。それが竜胆には切なくて、同時に奇妙だが誇らしかった。だから今、常世を惜しむ。  彼女もまた、〈同志〉《とも》であったはずなのに、と。 「違う」 「一緒にしないで。私たちは断じて違う」 「――――」  ──かくして、いつかと同じように、彼女は音もなく竜胆の背後に現れていた。  しかし、それでありながら、以前との相違点はやはり密度。今の常世には何の圧迫感も感じない。  その存在感は細すぎて、まるで影絵のようだった。やはり彼女は、もはや死を待つのみなのだろうか。  言葉に詰まる竜胆を意に介さず、常世は淡々と話し続ける。 「確かに私は、将として劣等だったのかもしれない。ここまで攻め込まれたことも、仲間たちを失ったことも、言い訳はできない。愚鈍だった」 「仲間たちの何人かも、最後には私の方針と食い違っていたことだって……否定できないと分かってる」 「だけどそれは、私たちが理解し合わず、ばらばらだったなんて答えにはならない。むしろ一つだったから……」 「互いに最後まで、芯から想い合っていたからこそ、右へ倣えにならなかっただけ。そしてその選択こそが、勝利という結果に繋がると信じていたから」 「今も変わらず信じているから、あなた達とは違う」 「自分が何者かも知らないあなた達とは……」 「…………」  それはこれまで、何度言われてきたことだろう。  おまえたちは何も知らない。おまえたちは分かっていない。おまえたちが奉じる魂など、何処にもない。 「確かに御身の言う通り、私たちは無知なのかもしれない。だが……」  具体的にいったい何がだ? この身が何も知らぬと言うなら、なぜそれを語らない。 「私たちを信ずるに足りぬ者と、勝手に思っているのはそちらだろう。賢しらぶって、年寄りぶって、思わせぶりなことばかり……」 「胸に秘めるものがあるなら、なぜ打ち明けてくれぬのだ。それほど私たちは頼りないのか?」 「聞いてどうにかなることじゃないから」 「聞いたが最後、意味が無くなる。あなた達は、その答えに自分の力で至らなければならない」 「そして私は、あなた達にそれが出来るだなんて欠片も期待していない」  本当にそうなのだろうか。期待はしないと言いながらも、常世は竜胆の言葉に応じている。芯をはぐらかした言い様は相変わらずだが、何も伝える気がないと言うなら最初から問答無用を貫けばいい。  ただ恨み言を語るだけ。曰く波旬の細胞とやらいう怨敵に、己の憎しみをぶつけたい。自分はこんなにも可哀想だから、おまえたちを恨むのだ。  などという、ある種泣き言を振りかざす小人の理屈ではないだろう。彼ら天魔は、そんな程度の低い者たちではないと竜胆は確信している。  そうだ、どの者たちもそうだった。怒りと憎悪を具現させた大妖鬼にして、儚く切ない夢の残影のごとき彼ら……皆例外なく、素直な印象として美しかった。誤解を恐れず、そう言い切れる。  彼らの在り様、彼らの言葉、最初は分かりにくかったが、今の竜胆にはこう思えるのだ。  彼らは常に、全身で救いを求めていたのではないのかと。それを自分たちに、託そうとしていたのではないのかと。  そう感じるのは、傲慢な思い上がりなのだろうか。 「何にしろ、もうこれまでだよ」  そんな竜胆の心情を知ってか知らずか、溜息をつくように常世は呟く。 「とりあえずは安心していい。これから私は消えるから」 「この場の生死で分かつなら、よかったね。あなたは私に勝利した」 「馬鹿な……」  味も素っ気もない敗北宣言。こんな決着があるものかと、竜胆は柳眉を逆立てる。 「それでは矛盾している。つい先ほど、御身は自軍の勝利を信じていると言ったではないか」 「だから、この場の生死で分かつならと言ったでしょう。あなたは私と対峙して、とりあえず生き残った。それを誇っていればいい」 「〈泡沫〉《うたかた》の、一瞬の、目の前にある小さな結果だけを見て、狂喜しなさい。あなた達はそういうのが好きでしょう」 「私はもう少し先を見ている。それだけのこと」 「つまり……」  その意味するところは、一つだけだ。 「最終的には自分が勝つと言いたいのだな」  返答はない。だがそれは、何より雄弁に肯定を意味するものだと、竜胆は理解した。 「察するに御身、自分を生贄に変えたようだが」 「いいえ、産むのよ。どうせなら、そう言ってほしいところ」 「私の世界はそういう〈子宮〉《カタチ》。愛する魂を呑み込んで、より強力な唯一無二を産み落とす。〈黄金蟲〉《おうごんちゅう》と言うのだけれど」 「彼は長年の戦いで疲弊しきった。この黄昏を維持するために、憎悪で自らを武装した。それがあなた達には、狂気に堕ちた敗残者の悪足掻きにでも見えるんでしょう」 「でも本当は違う。彼の真実はとても尊い。狂わなければ守れないから、あえてそうしただけなのよ。その魂がどれだけ強く、無謬の輝きを持っていたかを知りなさい」 「私はそれが、彼の真実が晦まされたまま、あなた達が勝ち誇ることを許さない」 「彼は強い。彼は強い。彼は強い。彼は強いの――本当の太極が、座に挑めるほどの力というのがどういうものか教えてあげる」 「かつての彼が、在りし日のまま新生したなら、きっと私たちの勝利を掴んでくれると信じているから――」  祈るようにそう言って、常世は微かに笑ったようだ。  背中合わせで顔は見えない。だがそこから伝わるのは確かな信頼。そして僅かに見える悔恨……あるいは、自分自身への嘲罵だろうか。  分からないが、次の瞬間にそうした揺らぎは消え去って、変わらず平板な口調で常世は告げる。 「さあこれで、分かったでしょう。あなたが出来ることなんて、ここにはもう何一つ残っていない」 「分かったのなら指を咥えて見ていなさい。あなたが立派に首級を上げて、私が私自身の勝利を得る。行き着く結果はそれしかない」  ただ眺めているだけしか出来ないと、常世は無情に言い放った。  ゆえにおまえは勝手にしていろ。そう突き放すように見下して、存在総てを捧げた夜刀の出産を見守ろうとしている。  なるほど、確かにそれはもう止められないことだろう。しかし竜胆は首を振った。 「違うだろう。まだ言葉を交わすことは出来る」  毅然と、強く胸を張り、まだ自分たちの勝負は決着していないと反駁する。 「これはよい機会だ。正直、願ったり叶ったりというものだよ」 「夜都賀波岐が一柱――常世殿。私は御身と一度、腹を割って話をしてみたかったのだ」 「私の描く理想の一端と、その果てに行き着く悲痛……そこから逃げてはならないのだと、変わらず切に思っている」  おそらくは、初めてその姿を目に収めたときから、竜胆は彼女と言葉を交わさねばならないと感じていた。  この少女の在り方こそ、もっとも己の矜持を掻き毟る。他の誰より共感できてしまうのだ。秘められた思いからふと自信を失いかける葛藤まで、無意識の内に理解ができてしまうから。  ああ、ゆえに何よりも── 「知ってる……羨ましいと感じるのでしょう?」  言い当てられた冷たい声。確信に満ちた言葉が竜胆の喉を縫い止めた。 「歪みを持ってなどいないのに、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》私たちの物言いに共感する。自分勝手な理屈に酔う者たちが、〈な〉《 、》〈ぜ〉《 、》〈か〉《 、》気持ち悪くて仕方ない」 「彼らは至極〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈心〉《 、》で満ちているのに、どうして私はその環の中へ入れないの?」 「狂人なのかと懊悩して、理解者のなさに絶望し、浮遊した在り方に哀感しながら……けれど譲れなくて捨てられない」 「私と話してみたいのは、つまりそういうことでしょう」 「…………」  言葉が出ないとはこのことか。反論の余地なく言い当てられただけに、竜胆は苦笑を浮かべるしかできない。 「これは……参ったな。概ねその通りなだけにぐうの音もでない」 「どうして自分が、そういう畸形になっているのか、知りたいのはそういうこと?」 「だけど駄目だよ。教えない。言ったように……」 「ああ、自分で考えろというのだろう? もとよりこれは、物心ついた頃から私に付きまとってきた命題だ。御身の手間は取らせないさ」  常世の睥睨した物言いに、竜胆は肩をすくめて首を振った。正直、知っているなら教えてほしい気持ちもあるが、これ以上舐められたくもない。 「それに先の指摘、今となっては少し違うよ。私は良縁に恵まれたと思っている」 「この想いの元さえ、彼らと共になら見つけられると信じている。いや、捜し求めてみたいのだ。それこそ我々が変われた証だと思えるから」  この想いが是なのか非なのか。決められるのは竜胆や常世ではない。将として、一個の人間として、関わり続けて来た仲間たちだけなのだ。  彼らは果たして変わったのか、そして変われたというのなら……それが良きものとなっているのか。  他者と絆を結べるような──人道となっているだろうか。 「きっとその時、初めて私は答えを得られる。こんな自分が在る意味を、在ってよいと言ってくれる仲間によって……肩を組んで笑い合い、生きていける光景こそを、私は勝利の果てに求めているのだ」  一分の迷いもなく、澄んだ笑みで告げた言葉。しかし、それは。 「有り得ない。〈あ〉《 、》〈な〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈風〉《 、》〈に〉《 、》〈出〉《 、》〈来〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」  総て一瞬にして否定する、断定によって砕かれた。 「昔、こう言った男がいた。外れた者がなぜ外れているかなんて、その手のことに理由は無い。だからそれを求めてはいけない」 「ええ、確かにそういった場合もあるにはあるし、むしろ大半はそういうものなんだろうと私も思う。だけど――」 「あなたに限っては有り得ない」 「そしてそれは、あなたが考えているような甘い理屈なんかじゃない」 「それは、どういう……」 「仲間と生きていきたいと言ったよね」  嘲笑、だったのだろうか。まるで鼠をいたぶるような、酷薄極まりない口調に悪寒を覚え―― 「嘘吐き──本当は殺したいと思っているくせに」  その言葉に、竜胆は自分の中で何かがひび割れる音を聴いた。 「うん、分かるよ。愛しているって言いたいんだよね? それが本心だと認められるけど──そういう綺麗な想いだけのはずがない」 「疎ましくて排除したいという想いにも、嘘偽りはないでしょう。覇道は概してそういう面を持っているけど、あなたのそれは、中でも相当に性質が悪い類のもの」 「傍にいてほしいはずなのに、視界に入るたび忌まわしいと感じてしまう……」 「そんなあなたが何者なのか、ちゃんと議論したことはないけれど、私たちは全員が少なからず気にしていた」 「〈波〉《 、》〈旬〉《 、》〈の〉《 、》〈宇〉《 、》〈宙〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈壊〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。〈あ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈願〉《 、》〈望〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。〈か〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈自〉《 、》〈然〉《 、》〈発〉《 、》〈生〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》、〈さ〉《 、》〈ら〉《 、》〈に〉《 、》〈輪〉《 、》〈を〉《 、》〈か〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈有〉《 、》〈り〉《 、》〈得〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「では何か、私は一つ仮説を立てた。〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈波〉《 、》〈旬〉《 、》〈は〉《 、》〈畸〉《 、》〈形〉《 、》〈ら〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》。〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈畸〉《 、》〈形〉《 、》〈が〉《 、》〈誕〉《 、》〈生〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》」 「ねえ。矛盾を抱えた愛情は、果たしてどこから来ると思うの?」 「ねえ。それは本当に、あなた自身から生まれた絆?」 「ねえ。今まで、ただの一度だって──」 「あの男を殺したいと思ったことは、なかったの?」 「…………」  ……知らず、息を呑んでいた。  反論を許さぬ矢継ぎ早な問いに気圧されたわけではない。だが竜胆は、それらを一笑にふすことが出来なかった。  腹を割かれて、自分も知らない内臓の色を暴かれているような、奇怪な感覚に陥っている。 「そもそも一度、あなたは掛け値なしに死んでいるはず。いいえ〈今〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》。なのになぜ動いているのか、不明で不安で堪らないんでしょう」 「  」 「  」 「不愉快でしょう。気持ち悪いでしょう。そして同時に、魅力的でしょう」 「だから、予言してあげる。必ずあなた達は殺し合うと。〈外〉《 、》〈に〉《 、》〈出〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈て〉《 、》〈堪〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、〈出〉《 、》〈た〉《 、》〈ら〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》〈止〉《 、》〈め〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「あなたが掲げる〈覇道〉《きずな》なんて、結局のところそんなもの」 「アレを嗤わせているだけの、壊れた畸形の自滅因子」 「その渇望に酔ったまま、愛を叫んで壊し合う」 「──忘れるな。絶対に、その未来は覆らない」  呪うように、そして気のせいかもしれないが悼むように……神によって施された咒は、今確かに打ち立てられた。  竜胆は声もない。怒るべきか、笑い飛ばすべきか、どちらもまったく出来ないのは、無意識のうちに常世の言葉を肯定しているという証かもしれない。  そしてそれが嫌だったから、克己心を総動員して口を開く。  真偽はどうあれ、今のは否定しなければいけないと強迫観念が襲ってくるのだ。 「……世迷い事はそこまでにしてもらいたい。が、忠告だというのなら、真摯に受け取っておくとしよう」 「そう。なら足掻けばいいよ。出来るものなら、好きにすればいい」  柳に風と受け流す常世は、竜胆の抵抗が無為に終わると確信しているかのようだった。先など見えないはずなのに、一片の疑いも持っていない。  まるで、前例を知っているかのように。 「先も言った通り、私はあなた達に期待なんかしていない。どうせ碌なことにならないのは分かっているから」 「彼をもう一度、私やみんなの亡骸を託して……新生させるの」  誓いのようなそれを証明するかのごとく、地獄そのものが低く脈打つ。  その願いがいったいどういう想いから生まれているのか、竜胆には痛いほどよく分かる。  愛を──絆を信じているのだ。  自分以外の大切な誰かがいるからこそ生じる想いは、目も眩むほどに羨ましいし、共感できる。  しかし、常世はこうも言った。彼の真実はとても尊い。  ならば、と半ば直感で竜胆は思う。 「……そんなことをして、御身の想い人は喜ぶとでも?」  返答は沈黙。顔を見なくても、常世の浮かべている表情が、どれほど悲痛に染まっているのか分かる。  だからこそ、言葉にしなければならないと竜胆は思った。 「御身の事情がどういうものか、正確なところは分からない。どれほどの辱めを受け、大切な誓いを踏み躙られてきたのか……理解できるなどと軽々しく言えるわけがない」 「そんなことを容易くのたまえる輩は、真に誰かを理解しようとしていないのだ。なぜなら我らは他人だから。秘めた苦しみが相手の持ち物である以上、どうしても受け止めてやれない部分があるのは当然のことだろう」 「だが……それでも、どういうことか予想はできているつもりだ」 「大切、だったのだな? 自分自身よりも、ずっと、もっと」  そう思わなければ、常世が自らを捧げたりするはずがない。  そしてこれが最善手なら、常世は最初からそうしていたはずなのだ。 「今の今まで、この手を使わなかったということが、総ての証明になっている。思うに、禁じ手なのだろう。切り札ですらない」 「では、なぜ禁じていたのか。考えるまでもない。それが想い人への背信だからだ」  自分が死ぬから使いたくない――などという理屈は、常世という女を留まらせる枷にはならないはずだ。それは他の六柱にも言えることで、彼らも躊躇わなかったに違いない。  これが真実、穢土の正道であると信じているなら。すなわち、彼らの将が望んだ道なら。 「天魔・夜刀――いや、その呼び名は御身らにとって蔑称なのだろうから、使うまい。強く輝く者であったという彼は、こんなことなど望んでいないはずではないのか」 「御身ら同志を糧に羽ばたく……それを厭うているのだろうし、もっと別の、今の私には想像も出来ない深い事情もあるのだろう」 「その上で、彼はこの所業を禁じていると、そうではないのか? そして、それを破ろうという御身の心は……」  共に女、だからこそ分かる。道理を度外視した意地。ああ……理屈ではないのだ。この愚かという名の美々しさは、男に分かるものではないだろう。  ただ、思うのだ。そこまで純に、苛烈に、頑なに――貫きたい気持ちの方向は、決して自分のそれと相容れないものではないはずだと。  もしかしたら、別の落としどころを見つけられたのではないのかと……将として軟弱なことを思っている。  だけど、それを恥ずべきことだとは思いたくない自分もいる。 「波旬、と言ったな。御身らが絶対の敵と認識しているその存在……我らは共に、それと戦うことは出来ないのか?」  その、縋るような提案を。 「できない」  短く、そして軋るような声をもって、常世は悲痛に撥ね退けた。 「覇道という言葉の意味、よく考えて見ればいい。他を制覇して道を作る。それはつまり、覇と覇は共存できないということ」 「それを実現できたのは、後にも先にも彼の女神ただ一人。そして彼女はもういない。波旬に魂まで引き裂かれて消えてしまった」 「だからもう、覇道太極は喰い合うしかない。波旬か彼か、その激突に勝ったほうが座を掌握する。その決戦に、あなた達が紛れ込んで何をするの?」 「仮に手を組んだとしましょうか。そして勝ったとしましょうか。そしてそれから? その後、いったいどうなるの?」 「残れる〈覇道〉《いろ》は一つしかない。どう転ぼうと私たちは、争わずにいられない」 「ほらね、もう詰んでるでしょう。これしかないのよ。だからやる」 「たとえ彼の意志とは反していても……」  そう言って、不退転の決意を吐露しながらも、常世の声音は徐々にだが掠れていく。  それはやがて泣くような、切れ切れのものへと変わっていき。 「ありがとうって、言ってくれたんだもの……」 「だから、彼に全部託すの。きっとみんなを救ってくれるって、信じてるから……」 「私、私は……だけどほんとは、ずっとこの黄昏の残影に篭り続けたいと思っていた」 「壊れていたって、ずっと彼と居続けたいと思っていた」 「あなた達が、来るから……あなた達が、いじめるから……もうこうするしか、なくなって……」 「嫌い、嫌い。大嫌いよ、あなた達……絶対負けない。負けられない」 「譲れないの。これはもう、譲れないのよ……!」  そこにはもう、大天魔と呼ばれた異形の鬼など存在しない。ただの少女がいるのみだった。  脆く儚い……悲恋の詰まった肩が震える。それがたまらなく悲しくて、抱きしめたくなるほど切なかったから── 「──分かった。つまりはこういうことだな。波旬と戦いたかったら、御身の想い人を斃してみろと」  泣きそうになる自分を叱咤し、毅然と竜胆はそう言った。  ここで同情めいたことを口にするのは、この少女を最大級に侮辱する行いだと分かっていたから。 「ただ、これだけは言っておく。私は御身らそのものを憎んだことなど一度もないし、無様だと思ったこともありはしない。むしろ、敬意を表している」  掛け値なく恐ろしい敵として、苦痛と嘆きにまみれながらも想い一つで残り続けた異界の誇る英雄達。それを敗者と呼び誹るなど、竜胆に出来るわけがないのだ。  彼らの口にする黄昏とは、きっとそれだけ素晴らしいものだったのだろう。  優しく温かな幸福で満ちていて、理不尽な不幸ごと抱きしめてくれるような、天上の楽園だったのかもしれない。  それに比べて自分たちの生きる現世はどうなのか。どうもまだ完成していない状態らしいが、それでも〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈様〉《 、》なのだ。  ならばその末路が薄汚くておぞましく、下衆の庭としか思えぬものになるだろうこと、業腹だが容易に想像できてしまう。  だが、それでも──そう、それでもだ。 「──この空は、もう別の色なのだ」 「黄昏ではない、私たちの生まれた空だ」  どれだけ劣悪でも、おぞましい妄執が敷き詰められた土壌でも、そこに生きる自分たちが一つずつ変えていくしかない。  それが天狗道に〈生〉《こぼ》れ落ちた者の定め。苦界と思い知りながら、それでもより良い明日を作らねばならないのだ。 「何から何まで、御身らの世話になるようでは情けなさすぎるだろう」 「だから、私も譲らんよ。我らの世界が真に邪悪で、それを正す覇道は一つだけだと言うのなら……」  言葉を切って、前を見て、強く竜胆は断言した。 「私たちが、座とやらを獲る! ご老体には退場願おう」 「────」  竜胆の宣言に、僅かな沈黙の帳が下りた。  その間は何を意味するのか。まるで常世は、竜胆を通して別の誰かを見ているようで……  それは郷愁と、ほんの僅かな嫉妬の念。何も竜胆だけが羨んでいるわけではなかったのだ。裏を返せば、それはつまり常世もまた…… 「別に私は、折れてくれと頼んでいたわけじゃない」 「最初から、言っているでしょう。蹴散らしてやると」 「結構。私もそのつもりだ」  覇吐と夜刀、その戦いをもって勝負を決する。とどのつまり、そういうことだ。  彼らの嘆きを無為にはさせぬ。過去とは受け継いで、未来をよりよくするためにあると信じているから。 「我が益荒男は、あれで中々大した奴だぞ。負けはしない」 「私たちの過去も未来も、見えざる超常の手に支配などはされていないし、そうだとしても打ち破る」  あの〈御前試合〉《であい》がそうだったように。 「いつもは馬鹿で、阿呆だが、ここぞというときは期待を裏切らない自慢の〈臣〉《おとこ》だ」  東征軍の将として──かつ、一人の女として。  久雅竜胆は、威風堂々と坂上覇吐を誇っていた。  見ていて気持ちがいいほど快活な笑みを浮かべ、地獄に爽快な風を吹かす。  胸のすくようなその啖呵を、常世はどのように思ったのか。  嘲笑? 憐憫? それとも羨望? おそらくどれでもあって、どれでもない。  ただ、静かに両の目を閉じた後、失われた言語で呟いた。  竜胆には分からぬように、あるいは、竜胆なら分かるだろうという意図を込めて。 「」 「 」 「」 「 」  愛した男の、黄昏の少女へ向けた笑顔を思い浮かべながら。  彼に一縷の救いをと──閉じたまぶたに涙を湛え、常世は己が渇望を発動した。 「  」 「  」  最期まで報われなかった愛を大切に抱きしめて……異界そのものに溶けるかのごとく、常世と名付けられた少女は金の燐粉となって霧散した。  ──刹那、鳴動する随神相。  捧げられた女の御魂が、荒ぶる旧神に目覚めを促す。  血涙が止んだ。穢土を覆い尽くす神域の蛇が、薄く離散していた停滞の力が、再び個の存在へと収束し始めていく。  夜都賀波岐の将――ただ一人残った黄昏の守護者が復活する。 「 」 「 」  現出した三柱鳥居の頂上で、真実の神威が渦を巻く。  彼以外、夜都賀波岐の七柱は、その恩恵を得ていたからこその神格なのだ。穢土において、本当の意味で神と形容できる力の者は、いま朗々と咒を謳いあげている存在ただ一人。  その咒はこの場にいる誰もが知っていたし、聞いていた。なぜなら今まで休むことなく、百億回も百京回も、那由多に渡り彼が紡ぎ続けてきた祈りゆえに。  木々の揺らぎ、風の囁き、水の流れ、悉く――穢土に展開していた総ての事象は、例外なくこの祈りの欠片だった。これまで耳に届かず目に見えなくても、穢土とは彼そのものに他ならない。  そう──彼は常に、東征軍という名の者たちを見つめていたのだ。 「 」 「」 「 」 「」  時には夜空に浮かぶ太陰として。見上げた天空そのものとして。何気なく踏みしめた大地として……風景の其処かしこに偏在していたのである。 「 」 「」 「 」 「」  東に足を踏み入れた瞬間から、彼の視線を逃れた者など一人もいない。  東征の進軍は、彼の胴をよじ登っているようなものだった。何気ない一挙一動残らず筒抜け、総てを透徹した天眼で見ていたのだろう。  その果てに、彼は今何を思うか―― 「」 「」  膨れ上がる神気の奔流は荘重にして厳麗。およそ邪気と評せる要素を微塵たりとも有していない。  ならば彼は善なる者か? ――いいや違う。 「」 「」  〈神〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。ただ圧倒的に、容赦なく、己が法を流れ出させるだけの存在。  彼の法とは―― 「   」 「   」  この刹那よ永遠なれ――時を止めるという渇望に他ならなかった。  神気が走る。神威が流れる。その一瞬にして蝦夷が止まった。東外流が止まった。奥羽、諏訪原、不二、鬼無里、不和之関へと覆い尽くし、穢土全域の時が止まった。そしてそれだけでは終わらない。  徐々に、だが確実に、無間神無月がその領土を拡大していく。西は淡海を越えて秀真へと、東と南は大海を、そして北は大陸へ、じりじりと穢土の法が塗り替えていく。  これが覇道太極という名の神咒神威。完成した暁には宇宙を覆う、正真正銘の神業だ。その規模、威力、総てにおいて、異界の具現という奇跡に懸ける想いの重量が桁外れている。  ゆえに、東征の烈士らも夜刀の法にはまったく抗うことが出来なかった。咲耶が、龍水が、宗次郎が、紫織が、夜行が、刑士郎が――竜胆でさえ何も認識できないまま彫像と化し、万を超える軍団も軒並み同じ運命を辿っている。  死の世界、そう表現していいだろう。時間停止という氷河に覆われた彼らは呼吸さえ忘れて凍り続け、そのまま永劫に解放されない。  夜刀が動いてよいと許可した者たち、彼の盟友である天魔たちはもういないから。彼ら以外に夜刀が認め、共にすごしたいと願う者など今の世にはいないから。  このまま無間の停止がひたすら続く。そうした宇宙が完成する。  現在、太極座を統べている者との戦いに彼が勝利すればだが…… 「   」 「  」 「   」 「  」  静かに、自身へ刻み付けているかのように、麗々とした声が虚空を流れた。それは名前、なのかもしれない。 「」 「」  出現した随神相、神州東半にとぐろを巻いた超巨大蛇の中心部、三柱鳥居の頂上に夜刀の本体が降臨していた。 「すまない。そして礼を言う。おまえたちを誇らしてくれ。ああ分かっているさ。負けはしない」  漆黒の肌に白銀の鎧を纏った姿は、神々しくも禍々しい。真紅の頭髪は大気も停止した世界において、蛇神の舌を意味するかのごとくおどろに乱れ、揺れている。  その容姿は、秀麗にして艶美。かつて血涙に濡れていた鬼相は嘘のように掻き消えて、今は厳粛な静謐さのみを湛えている。  背に翼のごとく展開した刃は都合八枚。彼の背丈ほどもあるその一つ一つが、星すら斬断する神気を横溢させながらゆっくりと回転している。  在りし日の〈刹那〉《さいきょう》――無謬の輝きと常世が言った、これが夜刀の真の姿だ。夜都賀波岐の七柱すら彼の一部にすぎなかったということが、その凄まじさを証明している。  視線一つ、吐息一つ、どれほど些細なものであろうと、彼の挙動は神の業。万象あらゆるものを停止させる、時の地獄に他ならない。  ここに彼は新生した。流れ出すその理をもって、最後の戦を開始するため。 「波旬……」  怨敵の名を彼は呼ぶ。それは宣戦の布告だろうか。  神対神の戦いとは、まず挑戦者側――ここでは夜刀――がその太極を流出させ、それを王者側である現神が迎え撃つという形で始まる。  とはいえ戦場となるのは現世に非ず。だいたいにおいて〈挑〉《 、》〈む〉《 、》〈側〉《 、》〈が〉《 、》〈受〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈側〉《 、》〈の〉《 、》〈待〉《 、》〈つ〉《 、》〈場〉《 、》〈所〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈行〉《 、》〈か〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  その場所とは、すなわち太極座。既存の法を流れ出させている事象の中心、宇宙の核だ。  それは無論、単純な徒歩や飛翔で辿り付ける場所ではない。一種の超次元空間であり、言語で説明できない極点だ。  そこへ至るにはただ一つ――〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈に〉《 、》〈穴〉《 、》〈を〉《 、》〈空〉《 、》〈け〉《 、》〈る〉《 、》〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  と言うよりも、当人たちの意志に関係なくそうならざるを得ないのだ。  覇道の太極とは、喩えるなら絵を描く行為に酷似している。みずからの理という色をもって、世界という画布に望む情景を描きあげること。  ゆえに当然、絵という概念に付随する諸々が適用される。例えば、同じ箇所で何度も重ね塗りをしていると、筆圧によって画布に穴が空くような……  そうした場所を、特異点と言う。覇道太極のぶつかり合い、異なる法と法の鬩ぎ合いが起こった場所では、世界がその圧に耐え切れず、穴を生じさせてしまうのだ。  するとどうなるか、言うまでもなく当事者は落下する。世界の壁を飛び越えて、どこでもない場所を落ち続ける。  その果てにあるもの、穴の底こそが太極座に他ならない。  ただし、底に達するまでの距離はまちまち。より強力な神格ほど、深い場所に座を設けているものだから、ものによっては何年経っても辿り着けないこともある。  夜刀にとって、波旬はまさにそれだった。怨敵が座を握り、それに対抗するため穢土を起こし、今に至るも鬩ぎ合いを続けてきて、〈穴〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈と〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈空〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》。  まだ届かない。まだ辿り着けない。激突の場所となった神州は、〈遙〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈昔〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈落〉《 、》〈下〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈拘〉《 、》〈ら〉《 、》〈ず〉《 、》。  これは異常極まる深さだろう。なぜなら夜刀の先代、すなわち彼らが乗り越えた旧神の座は、せいぜい常人が呼吸を止めていられる時間で到達することが出来たのだから。  その神にしろ言語を絶する力を有していた事実を鑑みれば、波旬の度外れた強大さは押して知るべしというものだ。  何百年、何千年、いやもしかしたら、それ以上かけても辿り着けない超深奥に〈坐〉《ま》するモノ。曲がりなりにも神格に対して不適切だが、怪物と言うしかないかもしれない。  だが夜刀は、それに微塵も臆していない。むしろ勝ちを確信しているかのように、昂ぶることなく言葉を紡ぐ。 「感じるぞ、座は近い。もうすぐ底に到達する」 「俺を滅し損なったのが、貴様の敗因だと教えてやろう」  同時、さらに神威を増す夜刀の太極。長年に渡る鬩ぎ合いで疲弊しきり、存続を維持するために憎悪という暴力的な念で外殻を覆わざるを得なかった彼はもういない。  常世の法により、新生した今の夜刀に消耗は皆無。思考は澄み、冴え渡っている。  そこに至らせてくれた友らの想いと選択を抱きしめて、怒りも悲しみも超越した彼に迷いはない。己が穢土を展開し、このときを迎えた真実も、在りし日の形で胸にある。  ゆえに今、過去最大の規模で鬩ぎ合いが起こっているのだ。それは無論のこと落下を加速し、夜刀を決戦場まで導くはずだが…… 「なあ、そういうことで、おまえも早く目を覚ませよ」  微かに苦笑するような響きを乗せて、彼はよく分からないことを口にした。 「俺の仲間は、おまえがいたからこそ退いたんだぞ。奴らを道化にさせないでくれ」  その目が見据える先にあるもの、それは夜刀の法によって時を止められ、彫像と化している男の姿で…… 「  」 「  」  瞬間―― 「がッ、……ぐ」  有り得ないこと、無間停止の世界においてそれに逆らう者がいる。 「ぎ、がッ……ぐォ……」  最初は小さく、声だけで、しかしその呻きが亀裂となって、やがて広がり―― 「そうだ、このくらい撥ね返せないようで、いったい何を成せるという」 「奴なら指の一本で、砕ける程度の圧にすぎん」  こちらも徐々に激しくなる夜刀の語気に、あたかも呼応しているかのごとく―― 「魅せろ新鋭――主役を気取りたいんだろうが!」 「その何たるか、〈先人〉《おれ》が教えてやるから掛かって来い!」 「がああああああああぁぁぁァァッ!」  弾ける裂帛の気合いと共に、坂上覇吐が夜刀の縛鎖を引き千切っていた。 「ぐッ――が、はァ……」  目覚めと共に、全身を蹂躙したのは猛烈な痛みと痒み。止まっていた血流が一気に加速を始めたことで、その場を転げ回りたいほどの衝撃に襲われる。  そう、俺は確かに止まっていたのだ。意識はないも同然だったが、なぜかそれだけは理解できる。  総ては、目の前に浮かぶあの男…… 「てめえが……」  夜都賀波岐の将、夜刀の力。こいつは時間を止めやがった。俺はそれに呑み込まれ、今の今まで木偶同然に停止していた。  洒落にならねえ。そりゃ反則だろうと言いたくなるような出鱈目さだが、しかし残念。俺はこうして動いている。 「てめえが、ちっとくらい気合い入れた程度のことで、簡単に万歳しちまうこの俺様じゃねえんだよ……!」  息も絶え絶えの口上は痩せ我慢全開だったが、だからといって根拠のない強がりじゃない。  どういう理屈の結果だろうと、俺が奴の力を破れたことには必ずでかい意味がある。偶然だとか油断とか、チャチなもんが入り込める次元じゃないんだ。  〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈資〉《 、》〈格〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈天〉《 、》〈地〉《 、》〈が〉《 、》〈引〉《 、》〈っ〉《 、》〈く〉《 、》〈り〉《 、》〈返〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈不〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈な〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》。曰く太極……と言うんだったか。細かいことは分からんが、要は同じ土俵に上がらないと何も通用しないはずなのだ。  だから、こちらの土俵に引っ張りこめる竜胆か、奴らの土俵に上がっている夜行の術か、この二つが俺たちには必須だった。事実今まで、それによって乗り切れた局面は数知れない。  しかし――今のはそのどちらでもねえ。 「俺が、てめえの術を破ったんだ」  この蝦夷で、いや穢土全域で、俺と夜刀以外の総ては未だに止まっている。夜行や竜胆が何かをしてくれたわけじゃない。  だったら答えは一つだけで、俺が何かを持っているのだ。その正体が自分自身で掴めなくても、今ある事実をありのままに受け止めよう。  俺は夜刀と相対できる。いいや、俺にしか相対できねえ。  たとえ思い上がりと言われようが、気持ちで負けてちゃ勝負にならない。そうだよ、俺はいつだって、この矜持と負けん気で戦ってきたのだから。 「神州東征軍総大将、久雅竜胆が臣、坂上覇吐――!」  武器を抜いて名乗りをあげ、粋に傾きながら見得を切る。  俺らしく、無頼を貫きつつも華々しく――  無間停止した世界の中で、観客がまったくいないのは不満と言えば不満だったが。 「穢土・夜都賀波岐の将――天魔・夜刀に相違ねえなら」  総ての命運と決着は、いま俺の肩に掛かっている。だったら漢に生まれた身で、こんなに燃える展開はねえだろう。 「いざ尋常に、勝負しようかァッ!」  大音声で切った啖呵が、蝦夷の空を震わせた。黄昏と奴らが呼ぶこの世界を、吹き払う神風のように。  それを受けて―― 「覇吐とな……おまえはそういうのか」  音も大気の揺らぎもなく、鳥居の上に降り立った夜刀は確かに停止という概念の塊だった。奴を源泉にして今このときも、無尽蔵に流れ出ている念と波動が感じられる。  時よ止まれ、時よ止まれ、この刹那を永遠に――その麗しき輝きこそを守りたい。  他人の主義や思想にごちゃごちゃ批評を並べる趣味はない。こいつの願いが正しいだの間違ってるだの、綺麗だの汚いだの、そんなことはどうでもいいんだ。  分かるのは、その祈りが人の持ちえる願望の枠や重量というものを、遙かにぶっ千切った域であること。狂気などと生易しいものではなく、まさに超越した存在なのだ。  ゆえにこいつと戦うなら、それに負けない規模の想いが要る。そして俺には、それがあるのだと強く信じる。疑問なんぞはほんの欠片だって持っちゃいけねえ。  もし僅かでも弱気や惑いに囚われたなら、その瞬間に俺は再び止められて、そのまま二度と戻れなくなるだろう。 「覇を吐く……なるほど、象徴的だな」 「おまえの渇望、察するに内と外の背反にあるようだが……」 「自覚は、おそらくないんだろうな」  赤い瞳が揺らめいて、そのまま静かに俺を見据える。  瞬間―― 「ぎッ――――」  特に力を込めたとも思えない、ほんの気軽なただの一瞥。しかしそれで俺の身体は、何万貫もの〈錘〉《おもり》を背負わされたかのように自由を剥奪されかかった。  種類としては悪路の視線にも通じるものだが、その強制力は桁が違うと直感的に理解できる。  しかし―― 「効くか? いいや、さほどでもないだろう。どうだ?」 「あッ……たりめえだろォッ!」  この技ならばさっき破った。何度も同じ手は通じない。  咆哮と共に停止の縛鎖を粉砕し、こんなもんは何でもないと宣言する。夜刀が常態で垂れ流している念ごときにいちいち捕まっているようじゃあ、この先どう足掻こうと話にならねえ。 「そうだ、それが鬩ぎ合いだ」 「おまえを塗り潰そうとする俺の意志。それに抗おうとするおまえの意志。その激突で互いの領域を奪い合う」 「念と念。祈りと祈り。渇望と渇望のぶつかり合い。お互い相手に触れもせず、睨み合うだけでも成立する。あるいはこうした作法こそが、正統派の神座闘争なのだろうが……」  そのとき、夜刀の目が亀裂のように細まった。同時に横溢する超高密度の殺意と凶念。  禍々しいと、思えば俺はこのとき初めて、化外の首魁であるこの男に魔的なものを感じたのかもしれない。 「俺はそれが嫌いでな。男の戦いではないと思っているんだよ」 「将棋よりも、殴り合いが好きな性でな」  奴の背後、翼のように展開していた刃の束が、鎌首をもたげた〈大蛇〉《おろち》のごとく起き上がって切っ先を向ける。  その一つ一つが、共鳴するように哭いているのを感じ取った。そしてそこに込められた、途方もない破壊力をも。  あの一振りは天地を分かち、宇宙を破断する処刑刀に他ならない。 「臆すなよ。臆せばその瞬間に総てが終わるぞ」 「さあ魅せてくれ、吼えてくれ。俺の宝石たちを潰してまでも、成したい〈理想〉《ユメ》があるというなら証明しろ」 「それすら、第六天の支配を越えられないなら……」  その一瞬だけ、夜刀は奇妙な間を持たせ……しかし次には、猛る憤怒相へと変貌し―― 「波旬――俺が総てを地獄に変えても貴様を斃す!」 「だからてめえら、いつもいつも……」  噴き上がる激情が波濤となって迫り来る。その圧力に俺は負けじと、腹の底から全霊を込めて吼え返した。 「相手間違ってんじゃねえんだよォッ!」  その瞬間、迸ったのは閃光――だったのかもしれない。  視認など絶対不可能な速度で振り払われた一閃が、俺のすぐ頭上を掠めて空の彼方へ飛び去っていく。そして数瞬後に耳を聾する、雷鳴など及びもつかない大轟音。  引き裂かれた天が真っ二つに割れていた。そしてそこから、ばりばりと音を立てて亀裂が放射状に広がっていく。  その現象もその威力も、しかし驚くには値しない。こいつはこれくらいやるだろう。俺の度肝を抜いたのは、むしろその速さにある。 「こいつ……!」  間違いねえ。〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈操〉《 、》〈り〉《 、》〈や〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。鬩ぎ合いとやらは好みじゃないと言った通り、俺を止める念を強めるのじゃなく、己の時を加速させる戦法へと変わっている。  結果、具現するのは圧倒的な速度差だ。奴から見て、俺が蝸牛以下の速度になれば、それは結果として止められているのと変わらない。  しかも、かといって時間停止をやめたというわけでもないのだ。あれはおそらく、夜刀が存在する限り永続して広がって、さらに強まっていく現象だろう。それが証拠に、依然として俺以外の奴らは止められたまま動かない。俺も気を抜けばすぐにそうなる。  ただでさえ予断を許さない状況に、さらなる凶手が追加されたようなものだった。戦慄したその刹那さえ、奴から見ればどれだけ隙を晒したことになるのか分からない。  刹那、刹那、刹那を愛する――時は夜刀の伴侶であり、俺の大敵となっているのだ。  断たれた天の亀裂から、光を凌駕する速度で無尽の刃が降り注いでくる。 「──っ、おおおッ」  拡散した斬撃の数は千、万、あるいは億か。  何者であれ避けえぬ裁断の煌きは、俺の内臓と肉の三割を切り飛ばした。  抉られた肉片が舞い──血飛沫もろとも中空で静止する。俺から離れた俺の一部は、無間地獄に塗り潰されて凍結していた。 「冗談じゃねえぞ、こいつは──」 「そうだ、紅蓮に〈凍結〉《こお》って逝くがいい」  声が耳朶を打つのと同時、今度は真正面から〈顎〉《あぎと》のように襲来する刃の群れ。  受けるか? いいや、無理だ──ならば! 「づ、らあああァッ──!」  選択したのは弐の型――蛇腹。振り回したその一閃で止まっている大気を切り裂き、旋風を巻き起こして刃の嵐を散らしきる。  それで数百の斬撃を逸らしたものの、残り数千のうち数十近くが俺を削り取っていた。  背後から響いた切断音は、蝦夷が割られた音かもしれない。  死に風へ振り向けば、即座に首が飛ぶだろう。時を切り刻みながら走る斬首翼。全方位に展開した断頭の羽は、近づくことすら許してくれない。  そして、奴の攻撃手段はそれだけじゃなかった。 「    」 「    」 「   」 「   」  理解不能な言語で紡がれる異界の歌。それに呼応するかのように、夜刀の分身たる随神相が動き出す。 「」 「」  鎌首だけで大気圏を突破している大蛇神の像が、口蓋を開いて破滅という名の轟哮を発した。  その波動は総てを無慈悲に停止させつつ、破壊の光と化して地表の俺へと叩き込まれる。  ついに天が崩落する音を聞いた。攻撃の重さに空が耐えられなくなったのだ。  激痛が身体中を駆け抜けているものの……ところどころが止められていて、どう損傷しているかまばらにしか感じ取れないことがおぞましい。 「だが死んでいない」  そして、そんなことよりも最悪なのが。 「つまり、俺が容赦する必要などまったくないということだ」  こいつが俺を、欠片も舐めていないということ。これだけの力を見せ付けながらも、驕っている様子がまったくない。  それに舌打ちすることも、まして感心する余裕など俺にはなかった。飛来した刃に腹を貫かれ、丸太のように吊り上げられる。  ──流し込まれる猛毒は不変の理か。音が消える。視界が止まる。しかし〈咒〉《ことば》だけが俺の中を蹂躙していく。 「黄泉返れ、黄泉返れ、黄泉返れ、黄泉返れ――どれほど欠けようと黄泉返れ。なるほど面白い渇望だ。こんな様でもまだ生きている」 「単純だが、それゆえ強いな。誰もが持っているものだから、誰もおまえほど切実には願わない」 「死にたくない――生きたいという当たり前の祈り」 「畸形だからこその境地なのか。俺も随分多様な人の業に触れてきたが、おまえのような奴はいなかったよ」 「奇を衒ったものばかりが希少ではないという一例だな」  全身を駆け巡る〈咒〉《ことば》の奔流。夜刀の言っていることはよく分からないが、確かに俺はまだ生きている。そういう歪みを持っているんだ。  常人なら、いいやたとえ誰であろうと、ここまで夜刀に攻撃されれば数万回は粉微塵になっている。俺も多分に漏れずボロクソだが、それでも死なないのが俺の特性。  こいつの超速度に対応することは出来ないまでも、何をやっているかをギリギリ感じ取れるのは、叩き込まれた歪みを僅かながらも返杯しようとしているからだ。  つまり、まったく太刀打ち出来ていないわけじゃねえ。  しかもなんだ、この野郎――こんないい男捕まえて失礼なこと抜かしやがって。 「畸形、だと……?」 「そうだ、畸形だ。おまえは中途半端に生まれている」 「おまえが掲げる忠も、愛も、絆とやらも、人並みに生まれなかったことへの呪詛にすぎない。人間の真似事がしたいだけだ」 「いや、これは、おまえの女に言えることかな」 「てめえ……!」  ふざけろ、違う、そんなわけがねえ。  俺のことだけならまだしも、竜胆を侮辱するとはいったいどういう了見だ。 「あい、つを……」 「語るなと? それで他者を想っているつもりかおまえら」 「〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈女〉《 、》〈と〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈は〉《 、》〈赤〉《 、》〈の〉《 、》〈他〉《 、》〈人〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》、〈何〉《 、》〈を〉《 、》〈根〉《 、》〈拠〉《 、》〈に〉《 、》〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》」 「ぐッ──がぁ──」  そのまま、激烈な勢いで鳥居の上へと叩きつけられた。  二度、三度、四度、五度――連続する衝撃に意識が遠のき、息が詰まって呼吸が出来ない。  鈍器となった俺は天と地の間を往復した。腕がへし折れ、脚が砕かれ、骨が体内で棘となる。  このまま繰り返されたら正気が保たない。だから、ちくしょう――動けよ身体。壊されるわけにはいかねえんだ。 「竜胆は――」  あいつが示してくれるもの。あいつが切り開いた先にあるもの。  それを見たいと俺は願って、きっと見れると信じていて。  だからここまでやってきた、俺らの想いを嗤うんじゃねえ! 「理想の将だ! 舐めてんじゃねえぞォ!」  叫んで、右手の自由を取り戻すと、夜刀の頭蓋へ一撃を放つ。  至近距離、およそ反射的に放った殺意すらない一撃は── 「〈外〉《 、》〈へ〉《 、》〈連〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈行〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、〈刃〉《 、》〈物〉《 、》〈に〉《 、》〈触〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈で〉《 、》〈惚〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》」  朗々とした呟きと共に、固まった刃翼によって阻まれていた。  そして再び、俺の視界が旋転する。  神威の速度で繰り出された投擲に、俺は全身切り刻まれながら、血反吐を撒き散らして彼方へと吹っ飛ばされた。  宙へ浮遊したために、足場がない。そこに追撃してくる殺意を感じ、全身の毛穴が抉じ開けられて。  遥か上空――壁としか形容できない巨神の〈怒槌〉《こぶし》が墜ちてきた。 「うぉ、ガ──ぎぃぃいッ」  受け止めたと同時、総身の血管が破裂する音を聞いた。  ──血塊が喉を焼く。  再び鳥居の上へと弾き落とされ、見上げれば……そこに立ちはだかる大敵は何の消耗も見せていない。 「高所に立てば墜落を。刃物を持てば自身の傷を。成功を得ればその破滅を。人は忌避し、そして求める」 「総て、自滅の渇望だ。正反対のものに焦がれ、わけも分からず惹きつけられる」 「それ自体、必ずしも悪くはない。だが自覚がなければただの片道燃料だ」 「断崖に向け走っていると知らないまま、狂喜して回転率を上げ続けている道化にすぎない。都合がいい」 「〈奴〉《 、》〈が〉《 、》〈腹〉《 、》〈を〉《 、》〈抱〉《 、》〈え〉《 、》〈て〉《 、》〈嗤〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈確〉《 、》〈信〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》」  再度、高まっていく夜刀の神威。駄目だ、逃げろ――何かとんでもないものが来る……! 「   」 「 」 「   」 「 」  そのとき、恒星が爆発したかのような光と共に、燃える無数の流星が降り注いできた。  そいつは随神相の体躯から剥がれ落ちた鱗なのか。まさしく異界の欠片が質量を持って迫り来る。  ただの吐息でさえ穢土全域を震撼させる大蛇がそれを行なえば、破壊の津波へ変貌するのは自明の理だ。  超越の速度を誇るため、音による判断が一切利かない。怒涛の流星群は天の八割を覆い尽くし、俺を含んだ総軍目掛けて墜落した。  地表を巻き上げ、岩盤を貫通して穿たれた戦場の孔は地獄への入り口に相応しい。その先は残留した夜刀の理で汚染され、底を計ることさえ許さない。  絶望的とはこういことか。月に向かって吼える野良犬。天体の巨大さは揺るがない。 「づぅぅ、らぁ……!」  だが、それがどうした! 血肉磨り減り、逃げ惑っちゃいるものの、俺はまだ生きている。鱗の一枚や二枚程度、漲る力で押し返す。  受けた腕が四度砕け、骨が軋み、血流が狂う……身体中〈襤褸〉《ぼろ》切れで、正直、発狂寸前に滅茶苦茶痛えよ。 「けどなぁ──」  どれだけ無様でも食い下がれるなら負けじゃねえ。その舐めた口舌ごと、必ず俺がぶちのめすッ! 「大きなお世話なんだよ、関係ねえだろ。人の恋路にごちゃごちゃ文句垂れんじゃねえ!」 「自覚だと――んなもんしてるに決まってんだろ。俺の姫さんは最高だって」 「竜胆のこと知りもしねえで、ワケの分からん下げマンみたいに言ってんじゃねえぞォッ!」  確かにあいつは俺たちと違っているし、正反対と言えばそうなんだろう。  だけどそんなあいつに惹かれたのは、ただの珍種が奇妙だったから目についたのでも、ましておまえが言うような、身の破滅を求めて近寄ったというわけでもない。  生きていく。生きていく。俺たちは生きていくんだ!  穢土の〈理想〉《ユメ》が黄昏ならば、久雅竜胆は曙光になれる女だから。  総てを照らし、切り開き、生の伊吹を目覚めさせる朝日のようだと感じたから。 「ほら、見ろよ……」  俺はまだ戦える。これから咲いて、光を見るんだ。散らされるつもりは微塵もねえ。  おまえは凄ぇし、滅茶苦茶強ぇし――本音を言えば俺だって、ちびっちまうぐらいに恐ろしいよ。  けどなぁ──それでも。 「季節外れの、舞台違いの、徒花なのはてめえだろうがッ!」 「そんなおまえが、のうのうと、講釈たれつつ俺らの話にしゃしゃり出んなァッ!」  爺ィはお呼びじゃねえんだよ。俺らは若く、無知だろうが、そのぶん先を夢見ている。そこを目指せる怖いもの知らずの熱がある。  なんでも悲観的なこと言って、賢ぶってる年寄りどもにゃあ出来ないこと―― 「俺らの〈未来〉《さき》は、俺らが選んで決めるんだよ!」 「く――――」  瞬間、凄愴な夜刀の貌に走ったのは、もしや微笑――だったのだろうか。  憤怒は当然、憎悪も無限。宇宙規模で発散されるそれらの念に紛れるかたちで、爽快に笑っているような気配が微かに。  まるであまりに愉快だから、うっかり零してしまったと言わんばかりに…… 「その手の台詞は聞き飽きた」 「ああ、おまえのような物知らずは、いつも同じことを言ってくれるな。既知感だ」 「あまり好きではないよ、それは」 「ちィ……!」  再び充溢する凶の気配は殺意一色。やはりさっき感じたのは、ただの錯覚だったのか。  こいつの吐く〈咒〉《ことば》はまるで水だ。耳を貸せば流れ込み、意味を考えりゃ頭が止まる。捉えられるのが、どうにも気持ち悪いんだよ。  徹底的に俺を殲滅しようとする一方で、いったい何を考えている?  その違和感で判断を鈍らせるつもりなら、なるほど、まさしく百戦錬磨だ。眠たくなるほど膨大な時を従えた旧き神威……やってくれるものじゃねえか。 「既知も修羅も、黄昏も、そして〈無間〉《おれ》も敵わなかった。それでは届かないんだよ、自分の言葉を吐いてみせろ」 「名が泣くぞ、坂上覇吐――おまえの熱とやらは借り物か」 「――違う!」  またも桁が跳ね上がるのか、眼前の空間へ圧縮される力の渦は既存の色を消滅せしめ、塗り潰しうる密度と強度を備えている。これを前に逃げ場は何処にも存在しねえ……!  だがそれよりも、俺は奴の言葉にこそ反駁したくて。  それが最優先すべきことに思えてしまって。 「俺は死なねえ、俺は生きる。俺らは誰かの備品じゃねえんだ!」  その、論も糞もへったくれもない稚拙な主張。  わざわざ口にするまでもない当たり前のことで、振り返ってみればここまで強く言ったのは初めてだったかもしれない叫びを前に。 「そうだ――私たちは波旬じゃない」  俺の姫が、俺らの夢が、無間停止から解き放たれ―― 「いざ知らしめよう。私たちの生きる意志を、魂を」 「天照らす光のように――!」  輝き轟く大咆哮。  〈宇宙〉《そら》の暗黒さえ吹き払わんと、その祈りをもって仲間たちの縛鎖を掻き消していた。  放った一撃は同時に噴き上がった光輝の柱によって相殺され、己の理が一部断たれたのを夜刀は感じた。  破壊の余波が過ぎ去った先、そこには瀕死の態で蹲っている男の姿が目に映る。  覇吐、覇吐と何人もが、その名を叫び、呼んでいる。  総身傷まみれの姿は生きているのが冗談としか思えぬほどで、しかし声に応じかるのように笑っていて。  それがあまりに、そうあまりにも■■■かったから。 「……立て。その無様さは癪に障る」  気に入らぬ、戦えと。死の烈風を見舞って切り裂いた。  とうに憎悪の霧は晴れている。しかしそれを隠すために激情を見せつけながら、怒りを顕わに斬翼を使って切り刻む。  内と外とを、この上もなく偽って。 「どうした、それで終わりではないだろう」 「憐れな振りを装えば、手を抜くなどと思うなよ」  そうだ。敗北するはずがない。ここで死ぬなど有り得ないのだ。  かつての自分がそうだったように、彼もまた既知がなくとも感じているはず。  俺はここで死ぬ〈宿命〉《さだめ》にない。勝利と闘争が待っていると。  そのような、名伏しがたい感覚に憑かれているはず。ならば立て。 「苦しいか。ああ、だが運がいい」 「直撃すれば原子の域まで分解されていたものを。喜劇のような生き汚さだ」  ゆえに、〈直〉《 、》〈撃〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈あ〉《 、》〈り〉《 、》〈は〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  神に連なる玩具の未来は、その役を終えるまで敗北の二文字が存在せぬのだ。  致死は十分に放ったぞ。さあ、このからくりに気づいてみろ。疑念を感じて亀裂と化せ。  天体を打ち砕くほどの破壊光。それを一身に受けながら、生き延びる人間などが当然ありえるはずはない。己の背を押すモノがあると、そろそろ分かってきているはずだ。  ああ、気づけば遊ばれているのが馬鹿らしくなってくるから。  そうでなければ困る。そうでなければ報われない。おまえ、俺が神などという器に見えるか?  奴よりマシとは自負しているが、俺が座を握るようなことは許されないのだ。遙かな昔、仲間たちと、そして彼女にそう誓ったから。 「まだ耐えるか。存外、頑丈に繋がっているらしい」 「神の加護は絶大だとも、甘えていれば楽だろう。疎ましくも懐かしくて反吐が出る」 「それで生き、勝利しても、塵の分際でよく出来たと嗤われた末に廃棄される。飼い犬以下だ。ならばこそ――」 「己の真実を知った上で、己の在り方を決めねばならない」  あるいは、奴すらおまえの存在に気付いていないのかもしれない。その可能性は多分に有り得る。  奴の渇望。奴の法。未だ完成していないアレの宇宙が発生した原因を深慮すれば、〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈を〉《 、》〈引〉《 、》〈き〉《 、》〈剥〉《 、》〈が〉《 、》〈す〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》と思えるから。  そしておまえは、奴と離れては生きられない己を知っていた。奴がそうしようとしているのを理解していた。  ゆえに生きたい。生きたい。死にたくない殺さないで――畸形の身であればこそ、健常なまま生まれた者には理解を絶する域で祈り続けた。それがおまえなのだろう。  そしてだからこそ、奴の外にも出たかった。出れば死ぬと分かっていても、その矛盾した憧れを捨てられずに追い続けた。  健やかに、人らしく、日の当たる所に出て行ける手足と身体。それを成すための輝く魂。  そう、おまえが愛するあの少女のような。  理想を知って、認めれば、おまえたちは万に一つだが波旬を斃せるかもしれない。 「今のまま突き進めば、おまえは女と共倒れだ。自滅因子に殺されて、癌も宿主がなければ存在できない」 「奴は嗤うな。俺も嗤う。なんて都合のいい塵屑だと」 「おまえが求める誉れとは、そういう嘲弄の祝福だ。飼い主に遊び倒されるのが嬉しいんだろう」 「久雅の臣? いいや違うな、奴の畸形だ。他人にへばりつくことが、なるほど板に付いている」 「か、はっ――ざけんなァッ!」  嘲罵に、返ってきたのは激烈な剛剣の一閃。苦もなくそれを受け止めるが、実際は苦もないように見せているだけだ。  底が近い。波旬はもう間近にいる。  たとえ不本意でも無自覚でも、おまえたちは共鳴を始めているんだ。奴の力が流れ込んでくる以上、武威だけは加速度的に上がっていくはず。  業腹だが、こちらもそれを利用させてもらうとしよう。奴から分離する際に、ありったけの力だけをもぎ取って来い。 「俺は、誰にも、頭撫でてほしいなんて思っちゃいねえ……! そんな次元の気持ちじゃねえんだ」 「べらべらと、漢の喧嘩にやかましい! だから爺ィはうぜえんだよ。説教なんざ頼んじゃいねえ!」  攻めかかって来る剣の悉くを弾きながら、思わず苦笑を漏らしそうになってしまった。  まあ、言いたいことはよく分かる。俺もしたり顔で思わせぶりなことを言う年寄りどもを、嫌悪した時期があったから。  しかし、おまえは知っておかねばならないことで、俺もやっておかなければならないことだ。  それが望んだものであろうとなかろうと、覇道の太極に至った者には責任というものがある。  己の意志で、人を世界を、宇宙ごと塗り潰せる力の意味とその重さ、軽いはずがないだろう。  だから俺は座を握らないし、波旬にも握らせない。頂点に立ってはいけない者というのがいるんだよ。  過去も今もそして未来も、総ての魂を抱きしめて、慈しみながら育むように。彼らを導いていけるように。  さぞや傲慢に思えるかもしれないが、万象を左右できる力を持てばそうした目線を持たねばならない。  理想はそういう者にしか至れないという形だろうが、面倒なことに神域の念を発することさえ出来てしまえば、それがどれだけ狂った渇望だろうと流れ出してしまう決まりなんだ。  ゆえに俺のような存在は、相応しい者を見極める義務がある。別に人類の恒久的世界平和などという、出鱈目なことまで言いはしない。  ただ、生まれては消えていく命の連続性を絶やさぬこと。  次があるという最低限の、希望と可能性を残すこと。  俺の太極はそれが甚だしく極小で、波旬に至っては完全皆無だ。総ての魂とその歴史が、そこで断絶してしまう。  だからなあ、分かるか餓鬼。 「真実はたった一つ。亡くしてはならない〈光〉《せつな》があるから」  俺は次代を選ばないといけなくて。  それが生まれる余地を維持しないといけなくて。  波旬の座を完成させるわけにはどうしてもいかなかったから―― 「ここに生き恥、晒してんだよ。もう誰もいなくなってしまったこの宇宙でな!」  それこそが―― 「俺の女神に捧ぐ愛だ」 「他は何も見えない。聞こえない。ただ忘れないだけだ。俺は彼女を愛している!」 「来るがいい、第六天――貴様の宇宙に俺が亀裂を刻んでやる!」  俺は負けた。失った。確かに一度、地を這わされた。  しかしそれがどうしたと言う。負けたら総てを放棄して、さっさと消えろとでも? ――ふざけるな!  俺は負けたが負け犬じゃない。無責任な不感症でも餓鬼でもない。  太極座の意味を知っている者として、潔さなんていう理屈を履き違えた戯言などは、単なる怠惰な逃げ口上だ。  石に齧りついてでも生き残り、堕ちた蜘蛛と蔑まれても胸を張り、次代へ託す責を全うする。それが俺たちの勝利だろう。  ゆえにおまえ、失望させるな。終焉好きの〈仲間〉《あいつ》を気取るわけじゃないが、そろそろ俺も消えないと危険なんだよ。  俺を信じ、黄昏を想い、さぞ腹立たしかったろうがおまえたちを認めた〈夜都賀波岐〉《みんな》……特に俺を新生させた彼女の選択に至っては、後戻りが効かない大博打と化している。  ああ、あれで気の激しい性分だから、おまえたちがこの期に及んで役立たずなら、本気で俺に座を握れと言うかもしれない。  それがたとえ出来たとしても、そうなったら困るだろう? 立つ瀬が無いよな、今の主役はおまえだから。  曰く爺ィに見せ場を取られたくなかったら、気合いを入れろよ。魅せてみろ。  俺たちの黄昏に負けないほどの、輝く可能性というやつを。 「仲間の魂に懸け、俺は負けない」 「はッ──それなら俺も負けてねえよ!」  男は烈しく言い返す。時空の裁断すら押し返し、臓腑を削られながらも咆哮した。 「いいか。耳かっぽじってよーく聞け」  致命傷を無限に負いながらも死にはしない。それどころか大刀を振りかざして猛る様は、こいつという存在をよく表している。  生きると誓っているんだな。万象滅ぼす波旬の宇宙と繋がりながら――いや、繋がっているからこそ凄烈に。  ああ、くそ……演技は昔から得意じゃないんだ。あまり眩しいものを見せるなよ。 「まずはむっつり剣士の壬生宗次郎! こいつはとことん自分勝手で、とりあえず斬っときゃ万事解決すると思ってやがる!」 「次に、ひたすらおっぱいデカい玖錠紫織! もうとにかく乳、胸、あいつの価値は八割おっぱいで出来ている!」 「妹大好き刑士郎は、ちょいとじゃ効かない過保護兄貴だ! からかい過ぎると面倒くせえが、結局こいつもなんだかんだでいいノリしてんぜ」 「超級箱入りの咲耶ももちろん、俺様的には全然あり! あの真っ白な肌とかいつか絶対、風呂覗いて拝んでやる!」 「変態が服来て歩いてるような摩多羅夜行! おまえもうどっかそこらで、ずっと酒飲んでろよ!」 「龍水はちんちくりんすぎ! 母ちゃんぐらいでっかくなって、まな板卒業したらおいでませ、ってなあ!」 「そして──」  これがもっとも大事なことだと言わんばかりに一拍置いて、本人は格好いいと思っているんだろう顔をしながら見得を切る。 「我らが総大将、久雅竜胆に――ぶっちぎりで格好いいこの俺様、覇吐様!」 「てめえらを討つという目的の元、一つに集まった益荒男どもで」 「俺の仲間だ――全員いなきゃあつまんねえ!」 「――――――」  そのとき生じた感情を、俺は巧く説明することが出来そうになく。 「くだらない」  言葉の代わりに、天から巨像の腕を打ち下ろした。  押し潰して視界を覆ってしまわねば、きっとこの男に俺の表情が見えてしまうと思ったから。 「自慰の一種だな。一方通行の感情だとも」 「……がァ、ぐ――んなわけ、あるか!」  大質量の一撃に総身の骨を砕かれながら、それでも流血の中で俺の拳を押し返す。  馬鹿にするなと、純粋な怒りがその隙間から覗いていた。 「俺が、こうしてここにいんのは……あいつら全員のお陰でもある。そういう諸々の恩っていうやつ、忘れるなんざ恥だろうが」 「嫉妬してんじゃ、ねえぞてめえェ──!」  ああ、羨ましいさ……心から素直にそう思うよ。  出来ることならもう一度やってみたい。俺も昔から、そういうノリが大好きなんだ。 「ならば、それらから見たおまえはどうだ?」 「信の在処は互いの〈裡〉《うち》だ。示すための言動さえ、人は容易く偽れる」 「与えられた〈言祝〉《ことほ》ぎの数々、その真贋をどうやって見極める」 「思い上がりではないのだと、証明することができるのか」 「ふざけんじゃねえ。なら、てめえはそれが分かるのかよッ」  さあ……どうだったろうか。  すれ違いばかりだった気がするし、分かり合えたことも星の数ほどあったと思う。  ただ大切だったことだけは間違いない。あの瞬間に感じていた俺たちの想いは、確かに一つで、本物だった。  輝いていた。 「じゃあよ、ここらでおまえも答えてみろや。教えてくれよ」 「物や形に残るなら、そいつは逆に本物なのか?」 「目に見えて、手で触れられて、臭いと味がついていりゃあ満足できるものなのか?」 「抱きしめれたら、笑えるのか?」 「語るまでもない」  それこそ永久不変、至高の記憶。  俺たちを照らしてくれた勝利の軌跡だったと信じている。  たとえこれから幾億もの改変が起ころうと、その事実だけは心の奥で揺るがないのだ。 「ぐ、そうかい……俺は、もっとたくさんあると思うぜ!」 「たぶん、なんかこう……ああ、糞!」 「〈胸〉《ここ》にズシンと響くやつ……そういうもんが、本物だろう」 「──魂が喜ぶような、よォ!」  ……ならば、それこそがおまえにとっての道なのだろう。  切り刻まれ、翻弄されながら叫んだ信念は、確かに奴では持ち得ないもの。  生まれ持った非業だけではないのだと、少しは信じさせるだけの力を持っていたから。 「それがおまえの答えか、塵」  よく言ってくれたよ。それでいい。  あいつらの戦いが無駄ではなかったと信じられる。 「そうだ。俺らは負けねえ、朽ちねえ、砕けねえ」 「──それを今から、見せてやるぜェッ!」  声高らかに叫びながら、男は刀身を砲へと変えた。  狙いも朧に乱射する気を弾きながら、俺は役目を終えたと思う。やるべきことをやれたのだと、確かに胸へ感じたのだ。 「      」 「      」  もう一度、俺に付き合ってくれたおまえたちに、心よりの礼を言わせてほしい。  苦しかったな。辛かったな。涙ばかりを流させて、本当にすまなかったと思っている。  けれど、きっともう大丈夫だ。  まだまだこんなに鈍感で、初心者みたいな連中だが、彼らの中には俺たちの足跡を感じるよ。  無駄ではなかった──意味があった。  こんな様で残り続けた甲斐の成果。それがついに、ここへ結実したと信じられる。 「──苦しいか。やはりその感情は要らないらしい」 「絶叫をあげて惑うだけなら、痛覚ごと俺が凍結してやろう」  翼を広げ、中空へ浮かび上がる。  渇望に轟く随神相へ渾身の力を集結し、照射を仄めかしながら微かな笑みを口に浮かべた。  俺の抱いた感動は、悪魔の嘲笑に見えただろう。 「なっ、やべえ……」  力の息吹に感づくが、しかし遅い。  心意気は見せてもらった。変化のほども然と知れた。  だから後は、おまえの真価を見せてみろ。奴の付属物としてではなく、おまえ自身に芽生えた想いを── 「我は夜都賀波岐が首将、天魔・夜刀。旧世界において黄昏を守護せし者の残骸なり」  あの悪辣な蛇のように、芝居がかった大仰さで相手を〈謀〉《いつわ》る。  敗者の矜持、それに勝てないようでは話にならない。  想いを持っていたとしても、純粋な力量で奴に勝つなど不可能だ。だからこそ、〈覚醒〉《めざめ》を目指して振り絞れ。 「永劫たる星の輝きを見せてやる。傀儡のおまえを粉砕し、それを大欲界天狗道への亀裂としよう」 「許さない。認めない。消えてなるものか、時よ止まれ──」  いや、もういい。無間神無月は必要ない。  時よ流れろ──永久不変たる水底の輝きと共に。  準備はいいか。さあ駆け抜けろ。今度は俺が、おまえを高みへ導いてやる──! 「息絶えろ。薄汚い波旬の細胞──この地は絶対に渡さない!」  ──今こそ、俺たちの屍を超えていけ。  第六天の支配を超え、黄昏にも劣らない新世界への展望を……今こそこの目で見たいんだ!  なあ……そうだろう。 「 」 「 」 「圧倒的、ですね……」 「あれが夜刀の本気か……」  鼓膜の破れかねない轟音が蝦夷の大地を揺るがしているのを、二人の男女が顔を顰めながら眺めていた。  石像が如く停止した兵の中、無音の戦場にて宗次郎と紫織は三柱鳥居の決戦から目を離さない。停滞の枷から解き放たれた彼らがまずしたことは、その場からの観戦だった。  己の時間を取り戻したとしても、それは回復したわけではない。体力、気力、共に疲弊しきっている。  ならばこそ、彼らが血肉を削った東征の行く末を案じるしかないのだが…… 「……妙な本気ですね、あれ」  ぽつりと宗次郎が呟く。  並外れた勘の良さゆえか、彼は夜刀の暴威に奇妙なひっかかりを覚えていた。 「え、そうかな? 手を抜いてるって感じはしないけど」 「本気なのは間違いないと思いますよ。ですが──」  そこで言いかけた続きを飲み込む。  説明し辛いというか、形容できる言葉が宗次郎の中では浮かばなかった。  ただ何となく、程度のものであったがため、疑念はすぐに霧散する。 「──まあいいでしょう。それで、どうします紫織さん?」 「んー……加勢、ってのも粋じゃないよね。それに今の私ら空っぽだし、下手に足引っ張るのもよくないっしょ」  けれど、遠目から眺めるだけでは落ち着かない。  血の気が多く戦いを好む彼らにとって、あれはまさしく最高の饗宴だった。今から混ざることはできないが、出来ることならなるべく近くで見ていたいのも当然だろう。  あとはほんの少し、共に戦ってきた覇吐への義理があるため。 「そんじゃ、野次馬をしに行きますか」 「素直に激をかけに行く、でいいと思いますよ」  負傷を帯びた身体で、宗次郎と紫織は鳥居を目指して歩を進めた。 「──動けるか、咲耶?」 「兄様……」  座り込んでいた咲耶へ向け、刑士郎は手を伸ばして立ち上がらせる。  宿儺との殴りあいで傷だらけの身体が軋んだが、それを顔に一切出さず、二人で同じ場所へと目を向けた。 「戦っているな。覇吐は……」 「はい。長きに渡り劣勢を強いられながら、それでも譲らず耐えております」 「そうだな……」  時という逃れられぬ神威を前に、覇吐はよく耐え抜いている。  即死して然るべき局面を紙一重に避け、今もあの大蛇神へ大刀を振りかざしていた。  その必死さに刑士郎は思わず笑ってしまう。 「まったく、風前の灯そのものじゃねえか。いつもの薄笑いはどうしたよ」 「……負けんじゃねえぞ。俺らの意地をおまえが通す役なんだからな」  そして同時に、もし覇吐が敗れたならば己が夜刀を斃さねばならぬと、密かに心を決めていた。  その感情は、刑士郎に夜刀の理がさほど厄介なものと思えなかったことに起因する。東征軍に絶大な効果を発揮した停止の波は、しかし彼にとって停滞の危機感をさほど感じ取れないものだった。  まるで〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈対〉《 、》〈象〉《 、》〈外〉《 、》〈だ〉《 、》と認識されているような。  天魔が憎んでいる〈存在〉《モノ》に属していない。真実を知らぬまま、夜刀の認識をすり抜けられるかもしれない事実を確信していたから。 「…………」  遠い、と──そんな兄の横顔を、咲耶は傍で見つめている。  宿儺との戦いにおいて、はっきりと兄の口から出た宣誓。その言葉が彼女の心に小さな棘を指し、そしてやはり以前の兄とは何かが変わって見えるのだ。  それが嫌な変化ではないだけに、咲耶は面と向かって指摘することができない。  顔つきは清爽な力強さに満ちていて、震えるほどに澄んでいる。変革を果たした男の姿を、女は些か寂しげに自らの視線で愛でていた。 「行くぞ」 「はい」  言葉少なに、凶月の兄妹もまた決戦の場へと赴く。  二組の男女が止まった戦場を進む中── 「なるほど。停滞と終焉は近しい、か。これを見るにあたり、誠、頷ける現象よな」  一足早く夜行は龍水を傍らに置き、鳥居の上空から彼らの神楽を眺めていた。  全身から漲る生気は大獄の一戦を経て、なおその力強さを増している。自らの勝負を終えた余裕からか、空の淵に腰掛けながら悠々と覇吐と夜刀を見つめていた。 「夜行様は……覇吐に加勢なさらないのでしょうか?」 「無粋だな。それでは意味がなかろうよ」  風雅の問題と一言に、夜行はばっさりと龍水の進言を切り捨てた。  この戦場で死滅したものにとって憤慨極まる台詞だろうが、彼は本気でそう思っている。  伏せた瞳からその真意は伺えない。袖を掴む龍水に向けた微笑は、やはり何か隠した思いを含んでいた。 「理由としては単純だ。夜刀には好きなだけ叫喚させたほうがよいのだよ。覇吐にとって、この先必ず益となろう」 「この先の益、ですか?」 「然り。せっかくの置き土産なのだから」  事も無げに告げた言葉は、龍水にとって非常に奇妙なことだった。  先も何も、夜刀を斃せばそれで終わりだ。東征は勝利によって決着し、長きに渡る旅路にも終止符が打たれるはずなのだが…… 「やはり夜行様は、私どもには掴めぬものを見ておられるのですね」 「不快なものも多いがな」  彼を敬愛する龍水の心に、一片の疑いもない。  触れえざる真実を知る者と、余人に受け入れられぬそれを信じる者。この極限状況においても両者のそこに乱れはなかった。 「では、少し近寄りて眺めてみるか。しかと捕まっておれよ、龍水。振り落とされても拾わぬぞ」 「は、はいっ、失礼いたします!」  咒を紡ぎ、彼らはより見晴らしのいい場へと空を滑る。  この戦を共にしたよしみとして、彼らは縁を辿るように一つの場へと集っていく。  そして── 「…………覇吐」  鳥居の麓にて、最も純な祈りを捧げる女がいる。  覇吐が夜刀の猛攻を受けるたび、生き延びるたびに一喜一憂する彼女は、手を固く握り締めて彼らの闘争を見上げていた。  自らの臣に命を託した行いは、竜胆にとっての勝負でもある。 「信じているぞ」  世の在り方、そして行く末を問うこの一戦。彼の手でこそ自分達の想いを形にしてもらいたい。  最初に魂を預けてくれた益荒男である覇吐にこそ、その輝きを魅せてほしかったのだ。  自らの声が届いたのか。変えることができたのか。この旅路の真価を見出してみたいと思うから──  確かな繋がりと共に彼らは叫ぶ。 「──覇吐!」 「覇吐さん!」 「覇吐!」 「覇吐!」 「覇吐様!」 「覇吐」 「覇吐っ!」 「  」 「  」 「任せろォォオオオオ──!」  ──聞こえたならば、応えぬわけにはいかねえだろうが!  あいつらの声が確かに届いた。その瞬間、俺に漲った万の力で夜刀の刃閃を弾き飛ばした。  ああ、最高だ。負ける気がしねえ。声援を受けた背が熱い、無限に力が湧き上がって来るようだ。  そうか竜胆、これなんだな。おまえが言っていたこと……あの御前試合で俺らに切った啖呵のわけは、こいつを知っていたからか。 「これこそが、絆の力なんだろう……!」  抱きしめられたことで得られたもの、あんたが俺に与えてくれた最大の褒美だ。  夜刀の波動がどれだけ凄まじいものであろうと、この繋がりは止められねえ。 「どうだ、大将。俺の〈仲間〉《きずな》は……俺の女はすげえだろうが!」 「違っているなんざ言わせるかよ。今一度、目ん玉開いてようく見ろ」 「これが決意だ!」 「これが矜持だ!」 「これが愛だ!」 「これが絆だ!」 「てめえらに有って、俺たちに無いものなんざ……もう何一つだって有りやしねえ」 「だから――」  もういい加減、その下手糞な芝居をやめろ。おれも大概頭は悪いが、いくらなんでもお粗末すぎて、いつまでも引っかかってるほど馬鹿じゃない。  何かを託したいんだろう? そのために俺を見極めたいんだろう?  だったら任せろ、心配無用だ。坂上覇吐はこの通り、おまえを越えて先を見るから―― 「もう俺らが作る〈物語〉《はなし》において、おまえの役目は何もねえ」  何百年、何千年、それよりさらに過去からなのか、背負い続けてきた荷物を降ろせよ。  今よりそれは、この俺たちが担ぐから。 「安心して、逝っとけやァッ──!」  裂帛の気合と共に、乱れ舞う首刈りの風を叩き伏せる。刹那の間もなく放たれた巨神の咆哮さえ、俺を飲み込むにはもう足りない。  あれほど翻弄された攻撃が、今は微塵も怖くねえ……時の間隙に踏み込める。  徐々に甲高くなっていく剣戟は、初めて夜刀が防御に意識を割き始めたことの証だった。  ついに兆しを見せた逆転現象。俺らの想いが、こいつを上回り始めたのだ。 「──ほざいたな、塵風情が!」 「第六天に接近すれば途端に強気か。増上慢も甚だしいッ」 「負け惜しみを言ってんなよォッ!」  ああ、分かってる。おまえ笑っているだろう。あんまり芝居がなっちゃねえから、手本を見せたくなってしまい、気付けば乗ってしまったわけで……  天を貫く閃光を唐竹割にて両断する。二つに割れた光線が、空に穴を穿って飛散した。  こんなとんでもない事象を起こせる奇跡の業が、何かのよく分からんものであるはずないぜ。俺らの中に生まれた結束――そいつがついにてめえを超える。  往生しな。ここが潮時っていうやつだ。 「ォォォォオオオオオオオ──!」 「──ァァァァアアアアアアア!」  百万、千万……重ねた刃と攻防は、ついに億の大台へ。  時間という理を留めながら戦う夜刀に、それを返杯することで俺も速度を上げ相対する。  神速の領域で行なわれている剣戟は、まさしく無双の神楽舞。余人ではその軌跡さえ知覚できず、煌星が踊っているようにしか見えないだろう。  互いの刃は腕を斬り、足を砕き、幾重もの手傷を刻みあう。  血肉は舞い散る紅葉の如く、幻想的で艶やかに死の景色を彩り、燃えて、弾け合う。 「ぐっ──ち、ィ!」  ──それでも、〈頚骨〉《くび》には決して届かない。  おそらくは、そこが夜刀にとって総ての因果が収束した一点だ。こいつが何より誇るそこだけは、絶対を極めた神業によって今も防がれ続けている。  決め手が足らない。手数が足らない。純粋な力では追いつけない。  技量と積み重ねた経験の差が、どうしても越えられない壁となって俺の行く手を阻んでいる。  届け──届けよ、あと一歩なんだ。  代償に手足ぐらいはくれてやる。だからこの一時でいい、こいつを超える力を搾り出せ。  俺らの絆が本物だと、誰の目にも明らかにしたいから── 「覇吐っ……!」  そこで聞こえたその声に、俺の身体が一瞬だけ硬直した。 「―――、竜胆」  まずい、と思ったときにはもう遅い。  致命的な手遅れ。剣戟の間に生まれた決定的な隙。夜刀に斬首されるには充分な間隙が生まれてしまい── 「────」  ……なぜか、こいつもまた一切の行動を止めていた。  そうか、なるほど……それでいいと言いたいんだな?  見極めようとしているからこそ手抜きは一切無い勝負の中で、必殺の瞬間をあえてこいつが外したのは、今の俺たちが正解を引いたからに他ならない。  それはまるで待ち焦がれたものを眺めるような、歓喜と悲哀の混交めいた表情で…… 「ああ……なるほど」 「面白いな、面白い」 「この目で見て、さらによく分かったよ──」  深く、重く、噛み締めるように俯いたのは一瞬のこと。 「くくくく……ハハハハハハハハハハハハハッ!」  次の瞬間には、溢れんばかりの哄笑を轟かせた。 「滑稽だなぁ、第六天!」 「──貴様は負ける。俺たちの勝ちだ!」  巨大神が歓喜の咆哮を謳いあげる。  そこから生まれ出たものは、唸りをあげる究極最大の神威だった。  発動により、再び万物が動きを止める。秀真の都どころか、諸外国さえ巻き込む停滞の嵐が狂奔しながら津波と化して。 「な、んと──」 「ついに出しやがったか……」  紛うことなき全力の発露。  おそらくは──いや、間違いなく自分自身さえつぎ込んでいた、それこそが最後の一撃。 「覇道、太極……流れ出す、理」 「そうだ。これこそ俺の全身全霊。至大至高の一閃だ」 「総てこの刹那に焼き付けろ。覇道の本質を理解しろ」 「これがどういうものなのか、忘れることは許さない。おまえたちが後の創世を望むなら──胸裏に刻みこんでおけ」  俺と竜胆を見つめながら、厳粛な声を夜刀は落とした。  その時、俺の目には一瞬こいつが別の姿に映りこむ。  それはかつて、龍明がよく見せていた視線と同じ。瞳の裏側に感じたその想いを、俺は確かに受け取ったような気がして── 「行くぞ、坂上覇吐。久雅竜胆」 「魂の輝きを謳った言葉、今こそここに証明しろッ!」  ──総て消滅させんする爆光が、天空と共に墜落した。  時が裁断されていく。  到達まで一瞬に過ぎない時間が引き延ばされ、その中を墜ちてくる覇道の一閃。  喰らえば終わる。触れれば断たれる。  生き延びるにはこれを避け、その隙に叩き込むのが最も効果的で有効だろう。  代償は己以外。総て消し飛ばされる代わりに、俺は易々と勝利を掴み取ることができるはず。  けれど──  ここには──  譲れないものが残っていたから──  〈一〉《 、》〈片〉《 、》〈の〉《 、》〈迷〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈く〉《 、》──俺は竜胆を庇い、破壊の光を受け止めていた。 「ぎ、ぃ、ぁぁ……がァァァア───」  瞬間、受けた大刀から身体が分解されていくのが分かる。  だが……どうだちくしょう。やってやったぜ。  俺は俺だけを愛しているわけじゃねえ。それがてめえにも分かったろうが。  躱して一人助かった後、弱ったこいつをぶっちめる?  抱きしめることを放棄して、屍の上でお山の大将?  ふざけろ! そんな考えが、ちらとよぎったなんて屈辱だぜ。  俺一人が生き延び勝って何になる。そんなものは欲しくねえ……! 「やらせ、ねぇぞ……ッ」  守るべきものが、俺にはあるんだ。  なに頭のおかしいこと言ってるんだとしてもだな、それでも絶対に曲げられねえもんが出来たんだ。  そいつに比べりゃ、これは何だ。  宇宙すら覆う覇道の念? よくよくチャチな全力じゃねえか。 「軽すぎるぜ……ぜんっぜん、大したこと、ねぇ!」  そうだ。全然怖くねえ。  死ぬことよりも、負けることよりも、坂上覇吐の総てよりも、掛け値なしにぶっちぎりで大切なものが── 「大丈夫だ。覇吐……」  俺の背中を、支えてくれているのだから。 「私はおまえを信じているし、おまえも私を信じてくれる」 「ならば、さあ」 「ああ、ならば」  ここでおまえを守れぬ未来も、斃れる未来も、敗北する未来も有りはしない。  だから、行こうぜ。俺たち二人で、いいやみんなで。  どうにも心配性がすぎる年寄りどもに── 「──黄昏の先を魅せてやろう!」  輝きを増す世界の中で、俺は喜びと共に〈咒〉《しゅ》を唱えた。 「伊邪那美命言 愛我那勢命 爲如此者 汝國之人草 一日絞殺千頭」  それは、俺が俺自身のために謳う凱歌であり宣誓。  斯く在れという、自己に対する絶対命令。不可能だとか有り得ないとか、無粋な常識は残らず捻じ伏せる自負の発露。  たとえ千の凶災、万の絶望、億の不条理が襲い掛かろうと関係ない。俺は必ず、それら総てを上回るから。 「爾伊邪那岐命詔 愛我那迩妹命 汝爲然者 吾一日立千五百産屋」  ──その驕りと自愛に、今こそ俺は決別しよう。  なぜなら、それじゃあもう満たされない。もっと気持ちよくて誇らしい、最高の道を手に入れたんだ。  背中に寄りかかる温もりが、最強最高に愛おしい。 「是以一日必千人死 一日必千五百人生也」  真価を見せろと言ったな夜刀。ならばいいさ、とくと見ろ。  きっとおまえにとって相応しい──第五の型を受けてみろ。 「〈禊祓〉《みそぎはらえ》――」  それは棍のような柄を持ち、両端にそれぞれ逆へ向いた刃を有する武器の型。  すなわち──首刈りの鎌に他ならない。  頚を削ぐことのみに特化した無慈悲で無骨な処刑器具。武装としては際物だが、奴を獲るにはこれしかない──  ゆえにいざ――手向けだ先人。黄昏の残影に抱かれて逝け。 「──〈黄泉返〉《よもつがえ》りッ!」  そしてここに、絶対不可避の因果応報が成立した。  断頭の刃が雷鳴の如く轟き走る。  大気荒れ狂い、地を断つ衝撃が反射して向かいの天を断ち割った。  全霊の一撃による渾身の倍返し。完全に決まった極大の返杯は、そのまま夜刀へと吸い込まれ…… 「────そうだ。それでいい」 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》の、勝ちだよ」  満足げな声を残し飲み込まれた。  首から鮮血が飛び、勝敗が決する。  長きに渡る東征の戦いは── 「ああ、そうさ」 「俺たちの、勝ちだ」  今こそ、ついに完全な形での決着を迎えたのだ。 「っ、~~かぁぁっ」  気が抜けた身体に従い、俺は倒れるように腰を下ろす。  限界、もう無理、ダメ絶対。一歩も動けやしないっての。  だいたい今気づいたのだが、身体中見るも無残な傷だらけだ。よく勝てたな、俺。これも偏に愛の力か。やるな愛、すげえぞ愛。  ああもうこのまま竜胆の膝枕で眠りてえ──とか思ったときに、上からかかる影が目に留まる。 「終わったか。いや中々の見世物だったよ」 「竜胆様っ……よくぞ御無事で!」 「龍水……夜行……」  鳥居より遥か上空から降り立った夜行と、すぐさま竜胆へ抱きつく龍水。  どうやらこいつら、高みの見物を決め込んでいたらしい。変態の方は妙にご満悦の様子で、なにやら俺のことを熱い視線で見てやがる。実際に目が開いているわけじゃないものの、かなり不吉だ。  というか……こら待て。 「おまえな、夜行。見てたならこう、ちょっと……」 「ああ、もういいわ。めんどい」 「それがよかろう」  疲労を匂わすよう肩を竦めているが、めちゃくちゃ嘘くせえ。  俺の目には、どう見てもギンギンに漲っているようにしか思えない。もう一戦二戦ばっちこいって感じじゃねえかよ……何こいつ絶倫かよ。 「そもそもだな、俺には労いの言葉すら無しってか?」 「首級獲ったんだぞ、首級。大将首だぞー、すごいんだぞー、護国の英雄様になったんだぞー?」 「では、おめでとうございます覇吐さん」 「はいはいご苦労様~」 「よくやった」 「軽いなおいっ!」  もうちょっとなんか篭めろよ。犬をあしらうみたいに流すんじゃねえよ。 「阿呆、俺らに殊勝な返事なんぞ求めるな。ガラじゃねえよ」 「ご安心ください。兄様はこのように申しておりますが、心中では我が事のように覇吐様の勝利を喜んでおいでです」 「へいへい」  しかも、いつの間にか増えてるし。ったく、一足遅いんだよおまえらは。  それに知ってるさ。おまえらの声、確かにあのとき届いてたぜ。信じてくれてたんだろうとかは、無粋だから聞かねえさ。  感謝してやってもいいくらいだ。 「ま、諸々ひっくるめて今回の大金星は俺様ってことで」 「俺がいなきゃあ、おまえらそろって死んでたわ」 「斬られたいんですか?」 「ぶっ飛ばされたい?」 「いちいちつっかかんなよ。言わせとけ」 「各々思うところがあったってことでいいだろうが。どいつが欠けても無理だったのは、おまえらも承知の上だったじゃねえか」 「…………」 「…………」 「…………」 「ほう」 「……おい、なんだその奇異なものに遭遇したかのような、鬱陶しくも絡みつく視線は」 「えっと……ほら、なぁ? うん」  えっ、うそ、ええー誰これ? なにこの大人っぽい感じ。ぼくのしっている刑士郎くんじゃないよ?  ならばまさか──そうか、そういうことかよちくしょうめ! 「てめえさては偽者だな。本物の刑士郎を何処にやりやがった!」 「返せ、返せよう俺らのチンピラ兄貴を! あいつにはこれから、妹をくんくんしながら飯を食う毎日が待ってるんだからよう!」 「うわ、羨ましいな何だそれ。おまえちょっと俺と代われよ」 「ようしよく分かった──いいから死ね。つーか殺す」 「……なんだ、いつもの刑士郎さんじゃないですか」 「あー、よかった。殴られすぎて頭やられちゃったのかと思ったよ」 「咲耶呼んでこようか? くんくんする?」 「もうおまえら纏めてくたばれよ。いや、死ぬ前に俺をどう思っているか説明してから死んじまえよ」 「くく、変わらぬ者らは気楽よな。手を貸そうか、刑士郎?」 「まったく、何をやっているのだこやつらは……」 「まあ、竜胆様」 「皆様のじゃれあいも、こうして見れば可愛らしいことではございませんか」 「馬鹿が馬鹿をやっているだけだ。夜行様を除いて」  そこもおい、これみよがしに溜息つくな。  気心知れた仲だからこそ、こういう愉快なやり取りしてんだよ。 「いいことだろうぜ、祭りの後は騒ぐもんだ」 「不謹慎だ。限度がある。勝って兜の緒を締めよと言うだろう」 「だが、まあ、そうだな」 「……許そう。今この時ばかりは」 「だろ?」  文句の付けようもない大勝利だ。胸を張って都へ帰れる。  中でも一番感慨深いのは竜胆だろう。バラバラだった俺たちを纏め上げ、ここまで導いてきただけに喜びはひとしおのはずだ。  東の地も、これより神州の一部となる。そうだ、勝ったのだ、俺たち全員が。  互いの無事な顔を見たからか。ようやくそれぞれの胸に実感が込み上げてきたところで── 「──それは違う。これより、ついにおまえ達は始まるんだ」  掠れているが明晰な声が、小さく響いた。 「……夜刀」  振り向いた先、そこには奴が浮かんでいた。  その姿に、先ほどまでの威圧はない。身体はとうに消え去って、魂までもそれに続こうとしているのが一目で分かる。  背景が透けて見えそうな薄い密度で、しかしその目と態度は未だに不敵で……  こいつはまだ、俺たちに何か言うべきことがあるというのか……? 「じきに天狗道が完成する。滅侭滅相の時が始まる。奴はこの世の誰一人、欠片も残しはしないだろう」 「分かるな、触覚。その理が意味する真実を」 「――無論」  夜刀の問いかけに応えたのは夜行。そこに皆の視線が集中する。 「いったい、なんです?」 「ねえ、ちょっと……」  だが、そんな疑問の声すらも、夜行は一顧だにしていない。その横顔はいつも通りの薄笑いだが、心情はまったく違うというのがなぜか俺には分かってしまった。 「おまえ……」  この常に飄々とした、掴み所のない男が激怒している。夜刀から呼ばれた名称に。それが意味する真実とやらに。 「分かっているとも。ああ、言われるまでもなく許しはせんよ」 「ただ御身、私としてはそちらが奴の座まで導いてくれるのかと思ったのだが、違うのかな?」 「どうも未だ、底まで達してはいないようだが」 「それほど奴の座は深い。そういうことだ」  意味の分からない会話の応酬。だがそれが、喩えようもなく不吉なものに感じてしまう。  何か、俺たちをせせら嗤っている奴がすぐ近くにいるかのようで… 「あと薄皮一枚。その程度だろう。俺としてはそれが唯一の無念だが、あるいはこれで良かったかもしれない。おまえたちが真に切り開くと言うのなら、お膳立てはここまでだ」 「俺が消えても、しばらく特異点は残り続ける。最後の穴は、そちらで空けろ」 「その後は――」 「勝てと?」 「勝つのだろう?」 「勝たねばなるまい」  言って、夜行は驚くべきことに拝礼した。基本的には慇懃なこの男、丁寧な物腰は珍しくないのだが、ここまで真摯に敬いの念を見せたのは間違いなく初めてだったと断言できる。 「こんな時も蔑称で呼ばねばならぬのが心苦しい限りだが、御身に敬意を表そう、夜刀殿よ」 「誠、座に関わる者とは斯く在りたい。なあ烏帽子殿、そう思われぬか?」 「私は……」  話を振られた竜胆は、数瞬だけ沈黙して、しかし次には眦を決すると、頷いた。 「そうだな。私もそう思う。御身は常世殿が言った通り、無謬の光であったのだ」 「その〈輝き〉《せつな》こそを守りたい。ああ、受け継がせてもらうよ。先人の宝を穢してはならぬと思うから」 「ありがとう。御身らと出会い、戦えたこと、久雅竜胆鈴鹿は誇りに思う」  こいつらしい、いかにも凛とした哀悼の言葉。それを受け、夜刀は笑ったようだった。 「世辞はいい。ただの意地だ」 「それにな……」  しかし、そのとき――俺を見る夜刀の気配がいきなり氷点下のものへと変わっていた。 「〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈に〉《 、》〈言〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈よ〉《 、》、直接な」  深い、深い……奈落のような憎悪と敵意。消え去る寸前でありながら、あまりに激烈な念の重量に俺たち全員が凍りつく。  ……いや、これは本当にそれだけが原因か? 夜刀は俺を見ているのか?  むしろその視線は俺の背後、ここであってここではない、何処か別の位相へと向いているようで…… 「よぉ、久しぶりだな下種野郎。おまえの嫌いな他人がほら、ここにいるぞ」 「何か、言って、みるがいい」 「――――――――」  居る。ソレは確かにそこに居る。  極限を超えた無関心と、極限を超えた排他心。これまで誰も到達できなかった超深奥に一人座し、唯我という渇望を掻き毟りながら撒き散らしている存在が。  怖い―― ソレが発する念が怖い。ソレを意味する〈咒〉《かたち》が怖い。なんだこいつは。なんだコレは。どうしてこんなモノが存在するんだ。  〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈今〉《 、》〈も〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈変〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈ず〉《 、》、〈■〉《 、》〈■〉《 、》〈■〉《 、》〈■〉《 、》〈を〉《 、》〈探〉《 、》〈し〉《 、》〈続〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》。  要らない要らない要らない要らないやめろ来るな触るな俺を見るなよ見つけるな―――  許して―― お願いやめて殺さないで生きてるんだよこいつに見つかれば俺は俺はおおおおおおおおオオオおオオれれれれレレレレレレレレれれれれれれれレれれレレレれれれれオオオオオおおおおおおおおおオオオオオれれれれれれれレれれれれれレレれれれれれ――  俺は――! 「 」 「 」  びしりと、そのとき俺は何かが割れる音を聞いた。  今、喋ったのはいったい誰だ? 「じきに分かるさ。第六天──」 「〈貴〉《 、》〈様〉《 、》の、負けだ」  瞬間──夜刀は薄れていき、〈冬〉《 、》〈に〉《 、》〈喰〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈去〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。 「ぁ………」  気を取り戻した俺の前で、世界が白に染まっていく。  先の……夜刀が消えた場所から放射状に冬の景色が広がり続け、瞬く間に神無月が終わりを迎えた。  頬に白い綿毛のようなものが触れ、雫になる。というか…… 「これは……」 「冷たっ、て……雪?」  見渡せば、あたり一面の雪景色だった。  山から空まで白銀の世界。こいつはまるで白無垢のようだ。 「夜刀が消え、穢土がなくなったから正常な時が戻ったのか……」 「未開の土地であるだけに、冬となればこのような光景になるのですね。夜行様」 「……ああ。そういえば、もうそのような季節だったか」 「はい。不謹慎ではありますが、なんと幻想的な景色でしょう」 「それに……気づいておられますか兄様」 「ああ、歪みが消えた。この地にもう陰気は存在しねえ」 「そっちはどうだ?」 「ん、おお……」  確かに、それはそうなんだが、しかしなんだ? さっきのあれを、誰も感じていないのか?  夜刀……おまえいったい、俺に何を遺したんだ? 「ん、どうしたの竜胆さん。俯いちゃって」 「あ、いや別に……なんでもない」  見れば、竜胆もどこか神妙な顔をしたまま、歯切れ悪く呟いている。 「どうも顔色が悪いですね。まあ皆、疲れているどころじゃないですし、こうもいきなり寒くなられては調子も狂う」 「大事無いと言うなら、いいのですが」 「……う、うむ。私は平気だよ」  言いながらも、竜胆の様子にはやはりいつもの覇気がない。そんな状態で思わず目が合ってしまい、なんだかお互い、探るような逃げるような……  駄目だ、ちくしょう。意味が分からんし埒も明かん。こんなの俺たちらしくねえし、悄然としたこいつの顔など見たくないから無理矢理明るくその背を叩いた。 「それならよぉ、しゃきっとしろって!」 「なっ……い、いきなり押すな。この馬鹿者」  どういう了見だと、睨み付けてくる竜胆を無視して顎をしゃくる。  正確には、鳥居の下に広がる地表を指して、俺は告げた。 「見ろよ」 「あ……」  そこには、勝利に沸きあがる鬨の声が鳴り響いているのだから。 「ほら、胸張ってくれよ総大将」 「あんたがこいつらを率いてきたんだ。誉れじゃねえかよ、なあ」  どいつもこいつも狂喜乱舞。生き延びたこと、勝ったこと、あるいは故郷に帰れることを馬鹿みたいに喜んでいる。  先頭に立ってこちらを見上げているのは……中院か。流石、しぶといもんだよ恋敵。  けどまあ、今回の主役はおまえじゃねえさ。そして当然、この俺でもない。 「憂いは晴れたかよ」 「…………ああ、ああ」 「救われるようだとも」  目尻にほんのり雫を浮かべて、竜胆は眼下の喝采を受け止めていた。  抱きしめたいのをぐっと堪える。感動に水を差すよりは、こいつがこれから口にする最高の〈感謝〉《あい》ってやつを聞いてみたい。  背筋を伸ばして立つ姿は、堂々とした気品と威厳に満ちている。  俺たち一人一人をそれぞれ誇らしげに見つめてから、静かに竜胆は笑みを浮かべた。 「覇吐、紫織、宗次郎、刑士郎、咲耶、夜行、龍水」 「そして……この地に至るため、身命を賭して道を拓いてくれた龍明殿に、爾子・丁禮」 「この東征は、我々全員が揃うことで初めて成し遂げられたものに他ならない。皆が誉れ高い益荒男であり、誰か一人でも欠けていたなら不可能だったことだろう」 「皆、こんな私によくぞここまで応えてくれた。生涯最大の幸福を感じているよ」 「おまえたちこそ、これからの世を担う英雄の器だと、そう信じることに疑いはない」 「だから、今、もう、一度──」  ふ、とそのとき、凛々しい笑みに影がさす。 「ありがと、う──」  そして── 「──────、────」  笑顔が消えていくのと同時、竜胆はその場に崩れ落ちていた。  まるで糸の切れた人形のように……あっけなく。 「…………え」 「竜胆、様?」  返事はない。いや、返事がなくて当然だ。  だって、俺は見てしまった…… 「……嘘、だろ?」  その倒れ方を知っていた。だからこそ、闘争に長けた連中は息を呑むに留まったのだ。  自然に地へと引かれて落ちる、虚ろな瞳をした姿。  気絶とは違う。それは戦場で何度も見てきた、取り返しの付かない致命的な意識の離脱。  総身から生気を根こそぎ喪失した様は、まさしく…… 「──竜胆ッ!」  咄嗟に抱き起こした身体は、石の如く冷たい。  〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈ず〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈前〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》、〈こ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈言〉《 、》〈わ〉《 、》〈ん〉《 、》〈ば〉《 、》〈か〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》。  息も、脈も、止まっていた。心臓に動く気配はない。あの温もりさえ消えているのは、まさしく…… 「ふざけんな……おい、なんだよこりゃあようっ!」  竜胆は、とうに死んでいることを示していた。 「なんでこんな、竜胆……目え覚ませよ。驚かすなって、もう充分度肝抜かれたからさ、ここらで種明かしでもしてくれよ」 「巧妙すぎて、俺にはさっぱり分からねえんだ……おまえが、死んだようにしか見えなくて」 「やめてくれ! なあ、冗談だろ。冗談って言ってくれよ竜胆……竜胆!」  何故だ、何だ、何が起こったどうなっている!  周囲で何か叫んでいる仲間たちの言葉さえ、一切耳に入らない。  震えが止まらなくて、耳鳴りが五月蝿くて、頭の中がおかしくなりそうな気分だった。  いや、もうとっくの昔に、おかしくなっていたのかもしれない。  喪失感が重すぎて耐えられないんだ。目の奥が燃え滾るほどに熱く、痛くて。 「嘘だろ……こんな結末が、あるかよ……」  何一つ事態が飲み込めないまま、本当に理由なく逝ってしまったというのか?  東を手に入れた代償に、何処かの誰かがこいつを持っていったとでもいうつもりか? 誰か俺に教えてくれ。 「これが終わったら、一緒に桜を見るって言ったじゃねえか。勝った俺たちの中に、おまえがいなくてどうするんだ……!」 「起きろ竜胆。駄目だ、こんなところで死んじゃいけねえ。おまえこそ、俺らの中で一番幸せになるべき人間だろうが……」 「これからずっと、俺が傍で幸せにしてやるから……呆れるぐらいに、毎日笑わせてやるから……」 「──抱きしめてやるから、よぅ」  愛しい声は返ってこない。  潰れるほどに抱きしめながら、わななく唇から絶叫が迸った。 「竜胆……竜胆……竜胆……」 「────、ッ」 「竜胆ぉぉぉぉおおおおオオオオオオオ────!」  喉も張り裂けんばかりに慟哭する哀絶の中、しかし同時に…… 「  」 「  」  何処か、奈落を突き破った深い深い深い〈座〉《ばしょ》で、腹を抱えながら邪悪に笑い転げている〈俺〉《 、》〈の〉《 、》〈声〉《 、》を聞いていたんだ。  特別付録・人物等級項目―― 凶月刑士郎、奥伝開放。 夜刀、宿儺、大獄、悪路、母禮、常世、奥伝開放。 「よって、右の者らに以上の褒賞を給わそう。天晴れ、救国の益荒男たちよ。誠に目出度い、大儀であった」 「その方らの勇気と武功、それに見合った道を約束する。ここに艱難辛苦は報われたのだ。嬉しかろう。謹んで現世の栄華を味わうがよい」 「――お断りだ」  吐き捨てて、立ち上がる。そうだ、俺はそんなものなんか望んじゃいねえ。  このけったくそ悪い場にわざわざ顔を出したのは、その意志を伝えるためだ。 「目出度いだと? ふざけるなよ中院。てめえはやっぱりその程度か」 「俺が欲しかったのは地位でも権力でも名声でもねえ。まして国の平和でも……」  それを心底から望んでいた奴はもういない。あいつと分かち合うべき喜びがない。  だったらそこには、俺の勝利なんか存在しない。笑って受け取るような誉れはないんだ。 「竜胆がいない今を目出度いと思わなきゃいけないってんなら、そんな褒美は要らねえよ。てめえらの感覚には付き合いきれねえ」 「戦が終われば、もう全部何もかも忘れてやがる。そういう顔だぜ中院。てめえの言葉には弔意の欠片も見えてこねえ」  死んだ奴らをただの数字とすら見ていない。それは終わったものとして、悼むことも讃えることもまったくせず、これからの自分というものにしか興味がないその思考。  そして、〈他者〉《おれたち》も当然そうであろうと言わんばかりの論功行賞。餌をくれてやるから尻尾を振って跳ねるがいいだと? ふざけるな。  ああ竜胆、今になってよく分かったよ。どれだけおまえが気持ち悪い思いをしていたのか。 「俺はそんなおまえらが粋がるこの国で、おこぼれに預かろうなんて思わない。死者の踊りなら勝手にやってろ」 「俺は生きてる。竜胆から教えてもらった、魂があるんだ」  そう告げた俺に続くかのように、左右からも声が上がった。 「私も覇吐と同感だ。こんな褒賞はいただけない」 「それが私の、御門家当主として最初で最後の意志表明だ。本日をもって、我が一門はあらゆる公職から退かせていただく」 「強いて言うなら、それを認めるということを褒美にしてもらいたい」 「もとより、今さら我らなど無用の長物であろう、冷泉殿」 「御身の治世に、術者の居場所などなかろうしな」 「そして無論、僕の居場所も」 「位階など、宗次郎には何の意味もありません。ご用向きがそういうことなら、再び野に下らせてもらうまでです」 「そちらのほうが、僕にとっては有意義だろうと思うので」 「私も、そういうことでもういいかな?」 「もともと、玖錠のことは弟に全部譲るつもりだったから、私個人に褒美なんて要らないよ」 「〈凶月〉《おれら》は放っといてくれりゃあいい。てめえらなんぞに興味はねえし、趣味の悪い冠なんざもらったところで邪魔なだけだ」 「全部、そのしたり顔で忘れてくれよ。俺らは俺らで生きていく」 「はい。もはやこの世と交わろうとは思いません」 「わたくしどもが仰ぐ将は、竜胆様だけなのですから」  皆がそれぞれ、同一に、現世の栄華とやらを蹴り返した。俺はもちろんこいつらも、それを惜しいだなんて一片だって思っちゃいない。  将は竜胆だったのだから。あいつに率いられた勝利というのが誇りだった。何もしてないおまえから渡されるものなんて要らないし、そんな現世に興味なんかないんだよ。 「そういうことだ、中院。もう二度と会うこともねえだろう」 「ただ、これだけは言っとくぞ」 「いつだったかおまえが言った、恋敵がどうこうというあれ……どちらがより、久雅竜胆という女の魂に触れたかという意味でなら……それは無論言うまでもない」 「勝ったのは俺だ。あいつを守れなかった俺だけど、それでも胸に抱いてるし抱かれてる」 「おまえの中には、竜胆の欠片だって残ってないんだ」  それが悲しい。そしてその悲しみを理解できないおまえになど、久雅竜胆鈴鹿は微笑まない。  そのことだけは、痛いほど確信できる。もうこの秀真に、俺たちの居場所はないんだということと同様に。 「じゃあな」  騒然とする百官を黙殺したまま、踵を返し広間を出て行く。しかしそんな俺たちの背に、神経を逆撫でするような笑いが届いた。 「本当にそうかな」  嘲り、見下し、小馬鹿にしている顔と声。ああこいつは、やはり何も感じていない。  中院冷泉という男は、〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈嫌〉《 、》〈な〉《 、》〈顔〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》? 穢土で何度も戦った、天魔たちのほうが数等キレイだったじゃないかと思うほど、それは邪悪を煮詰めた糞溜めのような気配を発していた。 「逃げるのか、臆病者よ。女子供のごとき泣き言を盾にして」 「烏帽子殿のタマシイだと? ああ、そのようなものを奉じたいなら、よかろう、それらしく繕ってやる」 「いつかおまえに、墓の話をしたよなあ。それの一種だ」 「彼女の死を、我も悼んでやろうではないか。勢州公、久雅竜胆鈴鹿は国葬をもって送らせよう。喜べ、前代未聞のことだ」 「たかが肉の塊に、それだけの労力を費やしてやるというのだ。我の愛が、よく分かるというものであろうがよ」 「―――――ッ」 「やめとけ。相手にするだけアホらしい」  激昂しかけた俺を引き止めたのは刑士郎。だがこいつも、腹の中ではキレかけているのがよく分かる。  竜胆、竜胆、おまえなんでいなくなった。おまえがいないこの世なんか、塵屑どもの庭じゃねえか。  そして、そんな世にのうのうと残ってる俺はなんだ? ちくしょう――夜刀よ、おまえは俺に何を託そうとしていたんだ。 「くふ、ふふふ、ははははははははは」 「愉快愉快。ああ、褒美が要らぬというならそれでよいわ。何処へなり失せるがいい」 「〈兵〉《つわもの》どもが夢の跡……儚きものよなあ、哀れでならぬ」 「主君の滅びを悼むなら、それに殉じながら朽ちて倒れて塵芥へと果てていくがよかろうよ」 「天晴れ、真なる益荒男よ。忠臣とは斯く在るべし、か? なるほど混じり者どもは負け犬の様がよく似合う」 「ふふふ、はははは、ふはははははははははははははは―――」  際限なく続く不快な高笑いを背にしながら、俺たちは御所を出た。怒りのままあいつを殺して、何がどうなるというものでもない。  担ぐべき神輿を失った俺たちに、今さらどんな世直しが出来るというんだ。 「……ちくしょう、嫌味なほど晴れやがって」  見上げた空に悪態を吐く。本当にただ一色の、それは気持ち悪いくらい混じりものがない色だった。  統一された世っていうのはこんなものかと、おぞましさすら覚えるほどの青。青。青。  まるで、総ての血を流しつくした死体を連想させるような……  この水には、一匹たりとも魚は棲めない。そう思わせる何かがあるように見えたんだ。  ……………  ……………  ……………  そうして、俺は夢を見る。  いや、これは記憶なのかもしれない。  俺という存在の根源に刻み込まれた、恐怖と悲憤に満ちた記憶。  魂の色彩。渇望という原初の想いを……  まず、最初にあるのは嘆きだった。自分がどうしようもなく不完全なのだと理解して、その事実に哀哭した。  自分が、こいつにへばり付くしか出来ないモノである現実。  そいつは自分にとって絶対の保護者であり、同時に最大の脅威だった。なぜなら彼は、己以外の何者をも認めていないと分かっていたから。  極限を超えた無関心と、極限を超えた排他心。一時たりとも休まずに、唯我という渇望を掻き毟りながら撒き散らしている存在なのだ。  俺は、俺で、俺だから、俺だけ抱いた俺が愛しい。  究極無二の自愛症にして自閉症。魂魄すら霞んで歪む邪念の波濤は、俺がそいつにへばり付いているという事実によって無限大に高まり続ける。  生まれながらにして、他者が己の体内に潜り込んでいるという不快感……決して健常者には分からないだろう。そいつは誰よりも〈他者〉《おれ》を身近に感じていたため、〈他者〉《ソレ》を許すことが出来なかったのだ。  俺のカラダは俺だけのもの。なのに俺の中には俺以外がいる。  許せない。認められない。ゆえに自己愛が爆発する。  理屈としてはそんなところ。そうした流れでそいつの思念は増大し、ついには神域にまで到達していた。その場を守っていた前任者たちを跡形も残さず消し飛ばし、真に独りになれる時を求めて超深奥の座を握る。  俺はそれを、震えながらただ見ていた。  こいつは俺と前任者を錯誤している。抱きしめようと伸ばされた女神の手を、俺だと思って狂喜しながら引き裂いたのだ。  おまえか、おまえか、ようやく見つけた殺してやる。さあ、平らかな安息をよこせ―――  しかし無論、それでそいつが満たされることはない。まず原因である俺が残ったままだったし、女神を殺戮したことで彼女の〈総体〉《なかみ》も受け継いでしまったから。  座の交代機構……現在過去未来における全宇宙の魂を統括するという役目など、こいつはまったく分かっていない。ただ、小賢しく自分に関わるから滅ぼした。単にそれだけ。  ゆえに神座を掌握し、当然の理として持つに至った無限数の魂たちを、こいつは不快な塵としか思っていない。  俺は独りになりたかったから他者というものを滅殺したのに、どうしてその結果〈魂〉《ゴミ》が増える?  あぁ痒い。あぁ汚らわしい。俺の〈宇宙〉《カラダ》は俺だけのものだろうがよ。  どうして貴様ら、俺を〈唯一〉《ひとり》にしないのだ――  とうに発狂していた精神は、その現実を前にして神域すら超える境地に至った。  無限に爆発を繰り返し、肥大していく自己愛。自己愛。誰もこいつを止められない。  こいつに他者と認識されてしまったが最後、それが誰であろうと必ず滅尽滅相の憂き目にあう。  死後などない。再生など論外。己が真に〈完全〉《ひとり》となるまで、この汚らわしい〈魂〉《ゴミ》どもを一毛残らず消し去ってくれよう――  荒れ狂うその覇道を、もっとも間近で見続けていたのは他ならぬ俺だったから……  ああ、怖い。ああ、嫌だ。こいつは俺を絶対に逃がさない。  離れたい、来るな来ないで放ってくれよ。どうか、どうか頼むから、〈ぼ〉《 、》〈く〉《 、》〈の〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈つ〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈で〉《 、》。  それだけで、自分の命は終わってしまう。見られただけで死は免れない。殺される。殺される。殺される。殺される──あああああ、やめてごめんなさいお願い許して。  ぼくは生きたい。〈た〉《 、》〈だ〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。  他には何も望んでいない。大それた願望や、余計な夢を抱いているつもりもない。  ぼくは──〈人〉《 、》〈並〉《 、》〈み〉《 、》になってみたい。  普通の身体なんてない。自分は最初から圧倒的に欠けているのだと知っていたから。  そう、自分だけで生きていくことが出来ないんだ。この彼が、巨大な猛毒の塊みたいなこの彼は、ぼくを殺したくて引き剥がしたくて磨り潰したくて堪らないと思っているのに。  存在を見咎められたら、その時点で消滅させられると分かっているのに。  彼にへばり付いていなければ、自分はその瞬間に死んでしまうような存在なんだ。  だから、ずっとずっと求めていた……当たり前になりたいと。  光が欲しい。手足が欲しい。瞳が欲しい。身体が欲しい。  誰に憚ることなく生きていける、人のカタチが欲しかった。けれど、そうなるためにはここから外に出ないといけない。そしてそうすれば、当然の如くそのまま死ぬ。  生きたいから外に出たくて──外に出ると死んでしまう。  二つの願いは相剋したまま両立している。身を裂く刃物に恋焦がれるように、破滅の瞬間を悟りながらその先を願い続けた。  ぼくの──俺の総てを虜にして、照らしてくれる太陽をくれ。魂を魅了してほしいんだよ。  だから、誰かお願いだ。この歪な身体を抱いてくれ。  ここから出して、外の世界を見せてくれ。輝かしい日の光を浴びながら、あんたと共に生きたいから──  こいつに付属しないと生きていけない、俺のカタチを〈愛〉《コワ》してくれ。  そしてどうか、一刻も早く──  ──この途轍もない怪物から、俺を救い出してくれ。  だって、もう駄目なんだ。こいつはすぐに俺の存在に気づいてしまう。数多の魂に紛れていたから見つけられずにいたけれど、ずっと捜していた違和感にもう少しで感づいてしまう。  総てが平らに磨り潰される。何一つ生き残るものは存在しない。だからもう、絶対に誤魔化せなくなる。  生きたいという渇望を抱いた俺は、必ず〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈に〉《 、》〈残〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》になるはずだから。  見つかる。見つかってしまう。喜々としながらあの手を伸ばし、俺は握り潰され、引き千切られ、粉砕されて魂の欠片も残らない。  この宇宙を生き延びる者は一人もおらず、奴こそが万象唯一へ収束するから。 「なんだ──」  いや、そもそも。 「何か──」  どうして、俺は。 「そこに、居るのか?」  まだ見つかっていないなどと、愚かにも妄信している?  こいつの目を逃れるなんて、誰にも出来るはずがないというのに。  怖い。怖い。怖い。怖くて――  俺は―――! 「あああああああああぁぁぁぁ────ッ!」  総身を貫く恐怖を前に、再び原初の記憶は霞んでいった。  知りたくない。思い出したくないと逃げるように…… 「────っ、はぁッ!」 「おうわぁっ……!」  魂切る絶叫と共に、俺は布団を跳ね除け飛び起きた。  背筋の芯に叩き込まれた強烈な怖気と悪寒と恐怖によって、反吐が出そうなほど怯えながら周囲を見回す。  ここには、〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈眺〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈者〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。その事実を確認し、何より深く安堵して── 「こ、この戯けが! 何だおまえは、〈達磨〉《だるま》のように起き上がって、驚かすでないわっ」  ……不覚にも、その悪態にほんの少し救われた。 「悪い……夢見が悪かったんだよ」 「怒鳴ったりしたなら、なんだ、謝る。起こそうとしてたのか?」 「う、む……いや、こちらもモノのついでというか、単にうなされてるのがうるさかったからというか、だな」 「んじゃ、これでお相子ってことで」 「何やら釈然としないのだが……まあ、よかろう」 「それで、起きたのならおまえは何をするつもりだ、覇吐」 「……ああ、そうだなぁ」  正直、何もやる気がしない。田舎に帰るっていうのも億劫で、あれ以降だらだらとこの様だ。 「まったく覇気のない奴め……今のおまえは置物以下だ。飯、寝る、呆ける。それしかせんのか、嘆かわしい」 「いつまで御門に居候している気だ、この穀潰しめ。さっさと荷物をまとめて久雅の家に帰るがいい。無碍にされないだけの働きを、おまえはしているはずだから」 「そちらが本来、おまえの属している場所だ」 「ねえよ、俺の居場所なんて」 「久雅の家だぁ? 馬鹿言え、龍水。俺はそんなもんに仕えた覚え、まったく一度もねえんだよ」  名家の威風に取り入ろうとしたわけじゃないし、栄華栄達を求めたわけでもない。  そういうものに意味を感じられるとしたならば、それはあいつがいたからで…… 「おまえだって、本当のところはそうなんだろ。俺らは〈誰〉《 、》に、自分の魂預けてたよ」 「いったい誰の、何のために……」 「魂、懸けてたって話だろうが」 「…………」  それは共有という気持ち。ほんの一年前まではよく分かってなかった概念だが、今は嫌になるほど理解できる。ああ、要するには俺は随分と欲張りになったんだ。  もう自分一人の人生なんかじゃ物足りない。嬉しいことも悲しいことも、共に感じてくれるあいつがいないと現実味がないんだよ。  俺の魂は、久雅竜胆鈴鹿と共にあった。それが欠けてしまった今、何処を目指していけというんだ。  そんな俺の主張を前に、龍水は少しだけ悼むように目を伏せたが、しかし首を振って顔を上げて。 「……私は〈御〉《 、》〈門〉《 、》だ。いつまでも立ち止まっているわけにはいかない」 「母刀自殿のいない今、私が御門を背負って立たねばならん。泣き言は許されんのだ」  自分は止まらない。そうきっぱりと言い放った。  無理をしてるのは俺から見てもバレバレだったが、それでも前を見ようとしている。 「ここで御しやすいと目論まれ、他家に隙を見せることこそ不義理であろう。お二人が見たら、叱責するに違いない」  死人は何も語らないから。ゆえに知ったことじゃないなんて言う気は俺にもない。確かに今、竜胆がここにいたら、張り手の三・四発でもかまされてるところだろう。  それは分かる。分かるんだが、やっぱり俺は、直にあいつからしばかれてえよ。  そうされないと、どうにも気合いが入んねえよ。俺はそういう男になっちまった。  死んだ者は戻ってこないと、悟ったようなことを言ってあいつを過去に変えたくない。  逢いたいし、話したいし、触れたいし抱かれたい。  あいつの温もりを忘れたくない。  だからこそ―― 「尚更、動かねばならんだろう。妄想などではない。お二人は必ず、今のおまえを見たならば不甲斐ないと言うはずだ」 「…………」 「……分かるとも、大切だったのだから」 「はは、渋いねぇ御門家当主。かっこいいじゃん」  と、茶化してはみたものの、我ながらノリが空回ってるのを自覚する。からかえばいつもはすぐに怒りだす龍水が、なにも反応しないところからも一目瞭然。客観的に、今の俺が叩く軽口なんぞは寒いってことだろう。  ああ、情けないねえ。このチンチクリンに気を遣われてるとはなんて様だ。いつまでもこうしてはいられないことくらい、無論言われるまでもないほど理解はしてるが…… 「身体の半分、もってかれたみたいでよ」  単純に、燃料が足りねえんだよ。  とこぼす俺に、とうとう業を煮やしたのか龍水が爆発した。 「ああもう、鬱陶しい! さっきからぐちぐち愚痴愚痴と、少しは身体を動かしてみろ」 「日がな一日阿呆のように佇むから、おまえは阿呆のままなのだ! さっさと動いて、いつもの馬鹿に戻るがいい」 「……なんつう脳筋理論だよ、それ」 「私の経験則だ。動けば、多少は楽になる」 「何かが出来ているという実感があれば、少しはマシになるはずだ」  鼻を鳴らし、胸を張り、ついでに俺を足蹴にしながら、さっさと出て行けという龍水。それはたぶん、何でもいいから我武者羅にやって痛みを紛らわせと言っているんじゃないんだろう。  むしろそうすることでより感じろと。繋がりを実感するために竜胆を思い続けろということだ。  あいつを愛するに足るような、益荒男で在り続けろと……  それを続けている限り、おまえは竜胆様とずっと繋がっていられると……  まあ、それは確かにそうだろうな。 「へいへい、っと──」  俺は蹴り出されるまま立ち上がって、部屋を出て行く。だいぶ役者不足ではあったものの、竜胆の代わりにしばいてくれる女がいてくれたことは嬉しかった。  その、龍水よ。おまえも色々あるだろうが頑張れよ。夜行に捨てられたら、俺が貰ってやらんでもないから。  と、思いつつも、やっぱねえなと苦笑する。俺は竜胆一筋で、もはや他の女のことなど考えられない。  おまえも結構いい女ではあるけどよ。 「ふん。手間のかかる奴め」  背に掛かった声に手を振り、俺はとりあえず動いてみることにした。具体的に何をするかは、まだ全然分からないが。  久雅竜胆の臣として、恥ずかしくない自分でいたいと思う。  そうすることであいつの魂を感じたいし。  俺にはまだ、正直なところ竜胆が本当にいなくなったとは思えないんだ。  それは泣き言でも、希望的な妄想でもなく、まだ俺たちの物語に幕を引くのは早すぎると……漠然とだが、そんな風になぜか思っているんだよ。  それから――  御門の屋敷を出る前に、もう一人会っておきたい奴がいたから俺は邸内を巡り歩いた。  無論、馬鹿広い屋敷のこと、当てもなく捜したところで早々見つけられるはずもないんだが、そこは先方がどうにかしてくれるはずだろう。あいつは目が見えないが、代わりに色々と別なものが見えている。  四半刻ほど歩き回って、屋敷の裏庭へと俺は回って…… 「……桜、か」  小振りだが、〈瀟洒〉《しょうしゃ》な造りの〈四阿〉《あずまや》が建てられている池のほとりで、俺は目当ての人物と再会した。 「どうした。まだ気が抜けておるのか、覇吐」 「夜行」  優雅に、一人手酌で酒を飲みつつ、いかにも俺を待っていたと言わんばかりな態度のこいつ。その様は、鷹揚ながらも嫌味なほどに隙がない。  それをいつも通りと言えばそうなのだろうが、俺にはどうも違って見えた。基本的に真意が分からない奴ではあるんだが、しかしいい加減に付き合いも短くない。  今のこいつは、何か張り詰めているような空気がある。その程度のことくらいなら感じられる。 「そういうおまえは、見た感じやたら漲ってるみたいじゃねえか。今からどこか殴りこみにでも行くのかよ」  と、軽い調子で言ってみたら。 「鋭いではないか。ああそうだとも、これから一つおまえの言った殴りこみをしようと思う」 「……って、マジ?」  至極当然のようにあっさりとそう返され、思わず呆気に取られてしまった。  殴りこむって、何処にだよ? ていうか誰にだよ?  そんな俺の反応を前に、夜行は嘆息しながら肩をすくめて、なぜか窘めるような調子で言う。 「まだ何も終わってはおらんのだ。ならばこそ、おまえがそのような様では少々困る」 「言っておっただろう? これより総てが始まるのだと」 「…………」  それはあのとき、蝦夷で東征が終わったときに聞いた言葉。俺にとって、忘れられないことが起こった直前のものだ。  まだ終わっていない。これから始まる。そう言い遺して消えていったあいつは…… 「夜刀、か……」  あの男は、何を考えてあんなことを言ったんだろう。 「そういやおまえ、あいつと何か通じ合ってたっぽいけどよ。あれって結局どういうことだ?」 「滅尽滅相がどうとか……波旬、だっけ? あいつらがよく口にしてた言葉だが、そいつと何か関係あんのかよ?」 「そうさなぁ……」  問いに、夜行は少し考え込むような仕草で間を空ける。それはこいつも分かっていないという意味じゃなくて、俺にも分かるように言葉を選んでいるんだろう。  まあ、知っての通り頭はあんまり良くないからよ。出来るだけ簡潔に頼むぜ。そう思っていたら…… 「覇吐、おまえは宇宙の成り立ちを知っているか?」 「──はあ?」  そんな突拍子もない問いをいきなり投げられ、文字通り面食らった。宇宙の成り立ちって、なんじゃそりゃあ? 「そう難しい話ではない……というよりも、我らは既に彼らを通じてその概念に接触している」 「出来る限り端的に言うとだな、この世は上座の奪い合いなのだ。より強大な存在が覇を唱え、自らの〈太極〉《いのり》で塗り潰す。それが太古から連綿と続いてきた〈理〉《ことわり》でもある」 「陣取り、と言い換えると分かりやすかろう。界そのものを奪い合い、鬩ぎ合うことで覇道流出の資格を賭ける」 「無論、取った領域の多寡ではなく、唯一至高の一点のみを狙い争うのは異なるが……この概念、覚えがあるのではないか?」  弄うようにそう言われ、数多の記憶が頭を巡る。  いや、覚えがあるとかじゃねえだろう。その構図も、その理屈も、そいつはずっと俺らが戦ってきたものだろうが。  宇宙の成り立ちを奪い合う? それを握った祈りをもって世を塗り潰す? だったら、つまり…… 「天魔や、歪みがそうだとでも? だとしたら、あいつらは──」 「そういうことだ。曰く〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》、曰く天魔、曰く戦鬼と蔑まれ、恐れられた彼らの真とは旧世界の残影なのだよ」 「その〈咒〉《な》を、黄昏と呼ぶ」  黄昏……思えば奴らは、一度も穢土という言葉を使わなかった。俺たち西の人間がつけた名だからというよりも、あいつらにはあいつらの世界を現す〈咒〉《な》があったということ。  それが黄昏。ああ覚えている。奴らは常にその概念を奉じていた。 「己が世界の輝きを愛し、それを守り抜こうとした旧き英雄──強者であって当然よな。有象無象であるが如く、容易く潰えるわけがない」 「だが、敗れた」 「そして、その黄昏が消えることで俺たちの空に変わった、か」  この今、俺たちを覆う〈摂理〉《ソラ》に。 「信じられぬか?」 「信じられねえよ」  吐き捨てながらも、だが本当のところでは分かっていた。丸一年近く命懸けで戦ってきた相手のことだし、俺も奴らのことをなんかよく分からない〈妖〉《あやかし》だと思っていたわけじゃない。  始めのうちはともかくとして、あの不和之関以降だろうか……俺だって俺なりに、思うところがなかったわけじゃない。  そもそも建国伝説にある化外討伐の話からしてそのまんまだ。かつてこの世は海であり、鰐たちの楽園だったが湖に変わったことで一掃された。つまりそういうことなんだろう?  基にあったのは俺たちの祖による侵略戦争。それが当たり前のものじゃなく、曰く宇宙の成り立ちやらいう出鱈目な規模だったということだ。真実は俺の認識よりでかい話だったというだけで、事の本質は変わっていない。  だが、だからこそ今の俺は認めたくない。 「──あいつらは、ただの負け犬なんかじゃねえ」  と言うよりも、今の世を認めたくねえんだよ。あの反吐が出るような論功行賞、竜胆が死んだことに一片の痛みも感じない浮遊した諸々……  自己愛、自己愛、俺はこの〈法理〉《セカイ》が大嫌いだ。そういう規模の戦いで、そういう〈摂理〉《タマシイ》のぶつかり合いで、あいつらがこの宇宙に負けた存在なんだと認めたら……  今ここにいるこの俺も、負けてしまうような気がする。俺は竜胆の側であって、今の法則からすれば〈異端〉《けがい》だから。  断じて、俺はこんな世を肯定するために戦ったんじゃない。  あいつらに波旬の細胞とこき下ろされて、ちゃんと怒れる人間なんだ。ワケの分からない宇宙になんか、操られちゃいない。  ソレの走狗となって、〈穢土〉《たそがれ》と戦ったわけじゃないんだ。 「塵とか屑とかああ確かに、頭に来たのは本当だし、実際ふざけんなって感じだったさ。こんないい男捕まえて、まあぼろ糞にこき下ろしてくれやがって」 「正直、あいつらまとめて目ぇ腐ってんのかと思ったが──」 「思ったが?」  今は、はっきりと言える。 「……いいノリしてたぜ、あいつらは」 「輝いてたよ。俺らの感じとは違うけど、あいつらにはあいつらなりの意地や矜持が確かにあった」 「だから、俺はあいつらを負け犬だとは思わねえ。自分の生き場を奪われたから、こっちを嬲ってやり返す? んなワケあるか」 「負けたから、憎いからってやり返してるような連中が……眩しいわけねえ。そう思う」  夜刀はそんな次元の漢じゃなかった。あいつは何か先を見ていた。  すげえ下手糞な演技だったが、もともと偽悪的な奴だったんだろう。要は照れ屋で、そう振舞わねばならない意味があったんだって思ってる。  あいつは勝ちを確信したからこそ笑って逝った。それは俺らにじゃなく、もっと別の…… 「その通りだ。いやむしろ、彼らは我々にとっても英雄である」 「先に論じた上座の話、覚えておるな」 「あ、ああ……奪い合いってやつだよな?」 「そうだ。より強大な存在が覇を唱えると説いたのだが、ここに一つの〈陥穽〉《かんせい》がある。それは『性質を一切問わぬ』という点だ」 「この仕組みこそ総ての〈因〉《いん》だ」 「要するにな、座とは正邪に頓着せんのだよ。総体として大きなものを迎え入れ、それがどのような渇望であるか、願いの是非を問いはせん。強固であれば構わんらしい」 「突き詰めれば、個々の願いに善悪の区別はない。究極的には感性の問題ゆえにな。高潔か卑俗を論じること、所詮は弱者の論に過ぎん」 「だが──それでもなお、天を獲ってはならぬ祈りがある」 「夜刀殿がそれだ。己が真実を知った上で、身を引かねばならぬ者もいること。分かるであろう?」  無間神無月がずっと続き続ける世界……確かに、それは最悪だ。総てが凍て付き活動しないまま止まり続ける世界など、何も育たないし生まれない。  夜行の言葉が正しければ、あいつは身を引いたのだろう。黄昏に道を譲ったこと、それは英断だったのだろうし。  そこから察してみる限り…… 「つまりあれか。いい太極の条件ってのは、代替わりする可能性がある願いってことで。そこから逆に考えりゃあ──」  危険な思いが脳裏を過ぎる。じゃあ今の世の真実は…… 「……俺らの空は、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈次〉《 、》〈が〉《 、》〈さ〉《 、》〈っ〉《 、》〈ぱ〉《 、》〈り〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》?」 「然り。時の極寒をも下回る、最低最悪の渇望だ」  断言する夜行の口調に迷いはない。こいつは真実、心からそう言っている。  別に俺も、今の世の中を擁護するつもりはまったくないが、それでも疑問点はあるだろう。 「そいつは、ちょっとおかしくねえか? 俺もおまえも健康体だぜ。何もかも止まっちまうより、酷い感じはしねえんだが」 「陣取りと言ったであろう、覇吐。中心たる座を奪われてはおるが、総てを塗り潰せるかというと……夜刀殿に限り、否だった」 「間違いなくこれは稀有な例であろうな。本来ならば座の意思により、すぐさま渇望が宇宙を覆うはずであった。だが、ここに異常事態が発生する」 「時よ止まれ──停止の渇望。数多の願いあれど、留めることに長けた祈りが、僅かな黄昏を守り抜いたのだ」 「結果、太極座は未だ完成しておらんかった」 「見事よな。彼らこそ、後世に語られぬ真の英雄と呼ぶべきものよ」  つまり、本当にやばい状況はこれから始まる? 「おまえ、やたらあいつらのこと持ち上げるのな」 「私なりの敬意だ。これでも感謝しているのだよ」 「彼らが存在していたからこそ、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈程〉《 、》〈度〉《 、》〈で〉《 、》〈済〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。最後の一押しがついに成された。波旬の宇宙は完成する」 「────」  穢土が消えた今、それは必定。最後の堤防がなくなったことで、世は一色に塗り潰される。  その果ては、最悪のものだと言う夜行。今までなんか生温いと、じゃあいったい…… 「……どうなるんだよ」 「さてな」 「だが、もはや見当はついたであろう。分かるはずだ、この宇宙を覆う邪の想念を」 「黄昏を破壊した、強大なりし〈存在〉《モノ》の〈咒〉《な》を」  今、頂点に在る存在。宇宙を自分の思うように変えられる者。 「そいつが、波旬と呼ばれている奴だな」 「ああそうだ。私が、この手で討つと定めたものだよ」  不敵に笑って、締め括る夜行。なら何か? おまえがどうも気合い入った感じなのはそのせいで、殴りこむと言っていたのは波旬のところか? 「おい夜行。おまえまさかとは思うが、次の頂点に立ちたいからとか、そういう理由で言ってんのか?」 「それは違うな。なに、単に個人的な理由だとも」 「ただその時、烏帽子殿はどうするであろうな? 恐らく彼女はあれの存在を許せはしまい。知れば必ず激突しよう」 「波旬の宇宙が完成すること……間違いなく、あってはならぬと感じるはずだ」 「なんで、そこで竜胆が出るんだよ。あいつは……」  あいつはもう、なんだ……ちくしょう。 「……後は、国葬されるだけだろうが」  夜刀は俺らなら勝てると思って、後を託してくれたんだろう。  至高の頂点を奪い合うのが覇道の性質というのなら、敵の敵は味方なんて甘い理屈など通じないから。  覇道は喰い合う。互いの意志に関係なく、存在するだけで相手を塗り潰そうとしてしまう。ゆえに俺らとあいつらが、手を組んだところで足を引っ張り合うだけだ。  そういう事実を踏まえた上で、自分の法は器じゃないと夜刀は引いた。ならばその意志は継がねばならぬと、竜胆ならそう言うはずだと夜行は言うし、俺もその通りだと思う。思うがしかし……  総ては俺らの覇道、俺らの将、その理が前提としてあったればこそだろうが。俺らだけで何をどうする? 何が出来るっていうんだよ。  知らず睨みつけるようになった俺を、夜行は柳に風と受け流しつつ薄く笑って。 「くく、国葬か」 「国を挙げて死を悼む……なあ、覇吐。おまえはこれをどう思う」  また唐突に、いきなり話を変えやがった。その様があまりにとぼけた調子だから、俺も鼻白んで毒気を抜かれる。 「どうって、馴染みねえ行事だよなぁ、とか?」 「そう、聞いたことがない行いだ。国を挙げ、多大な貢献を残した者の死を弔う──それはそれは、まるで彼らのようではあるまいか?」 「墓を作るという文化さえ、元はこの世に存在しておらんかった。東より持ち込まれた弔事概念。疫病を防ぐという利得がなければ、穴を掘ることさえしないだろう」 「つまり我々は、潜在的に『死』という出来事に対し無頓着なのだ」 「好きに生き、好きに死ね。そこで終わり──なんと軽い」 「と、彼らならば口を揃えて吐き捨てよう。そして実際、恐らくそれは的を射ている」  ああ、その話なら不和之関で中院とも一度したよ。だからあいつはそれを皮肉る意味も込めて、茶番をやらかそうとしてるんだろう。  〈竜胆〉《けがい》は死んだ。ゆえにおまえたち流の作法で送ってやると。 「死者を動かし、死の先を創造し、死なぬように時を止める。美しく死ぬために終焉を望む、という渇望さえあったのだ。程度の差はあれ、彼らは等しく死を意識しながら在っている」 「ゆえに──」 「なあ、覇吐。〈死〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈後〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》?」  どうなるって、そんなもの。問われたところで俺は困る。 「たぶん、消えるだけだろ。なんかあったとか聞いたわけもねえし」 「では……そうだな、目覚めなくなっただけで痛覚が残っている、というのはどうだ?」 「心臓は肉体を動かす権利であり、骨となっても腐る身体に、痛みを感じるとしたら?」 「ほんの少しでいい、さあ死後に思惟を巡らせてみよ」 「死んだ後、ねえ……」  再度言われ、俺はしばし考える。 「…………」  なんだ、〈恐〉《 、》〈ぇ〉《 、》。  もし死んだら、俺はいったいどうなるんだ? 東征の記憶や、そこで感じていた想いは、そして今の自分自身は……いったいどうなってしまうんだろうか。  知らず身体が小刻みに震え始める。  死後の行方がどうこうということよりも、〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈未〉《 、》〈だ〉《 、》〈に〉《 、》〈こ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈無〉《 、》〈頓〉《 、》〈着〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈事〉《 、》〈実〉《 、》〈が〉《 、》〈怖〉《 、》〈い〉《 、》。  いつからだ? 最初からか? いいや少なくとも竜胆が傍にいるとき、俺は死にたくない死にたくない生きていたいって何より強く思っていて――  だからこそあのとんでもねえ夜刀とも対峙できて。  それはひとえに、死ねばなくなるという恐怖を何より身近に感じていたからではなかったか。  その恐怖が麻痺していた。〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈喰〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈始〉《 、》〈め〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。 「──恐ろしいであろう?」 「だからっ──」  現実に引き戻す夜行の言葉に首を振って、俺は虚勢を張るように吐き捨てた。 「ち、何が言いたいんだよおまえさんは。これ以上妙な与太話するってんなら、俺はもう帰るぞ」 「ほう、烏帽子殿の国葬には出ないのか? 国を挙げての葬儀とは、彼女の〈覇道〉《いのり》、その残滓かもしれぬのに?」 「死を想い、ゆえに輝かしく生きるという概念。そんなものをこの世の誰も持ちはしない。ならばこそ、これは持ち込まれた思想では?」 「生と死は表裏一体、恐らく不可分の領域なのだろう。素晴らしき生を歩むことと、己が死を見つめること。これらは本来、切り離せないものかもしれんな」 「命を尊ぶその一念が、此度の国葬となったならば……」  たとえ中院の座興みたいなものであっても、それが起こったこと自体は、竜胆の魂が示したものではないのかと。 「烏帽子殿に誰より焦がれていた坂上覇吐は、彼女の亡骸をしかと見つめるべきではないか?」  おまえはそこから逃げてはならない。静かな口調だったものの、夜行はそう痛罵している。俺はそのように感じ取った。 「…………」  正直、胸にくる言葉ではある。だが、だがしかしそれでもだ。 「どこへ行くのだ?」  踵を返した俺の気配を感じたのか、夜行が行き先を問うてくる。 「久雅の家に行ってくるわ」  何にしろ、今はもう少しだけ考えさせてくれ。  国葬に出るか出ないか、いいやそもそも、竜胆の死を認めるのか認めないのか。  何を温い懊悩に耽っているのだと言われても、これは俺にとって大事なことだ。  事実、蝦夷のあの日以来、俺は竜胆の顔を見ていない。秀真に連れ帰るとは決めていたから、防腐やら何やらの処置をやっていたのは夜行だし、そういう面からこいつも思うところがあるんだろうけど、だからこそよ。  まだ終わってないと言うならなおさら、俺らの大将をあっさり葬送するわけにはいかないだろうが。  そのためにも、決断はよりあいつの匂いを感じられる場所で。 「俺の原点がどこにあるか……ちょいと見つめ直してくる」  出兵の前、あの御前試合の後にあいつと主従の誓いを交わしたあそこで。  久雅竜胆の忠臣は、真に何をするべきなのか見極めたいから。 「そうか。まあ、それもよかろう」  心なしか激励するような声に送られ、俺は御門の屋敷を後にした。  そして── 「では──さらば、坂上。おまえの舞台はこれにて終わりだ」  〈秀真〉《みやこ》の中枢にて、杯を傾けながら中院冷泉は含み笑う。  彼は上座に胡坐をかき、下座に千種と岩倉が腰を下ろしている。それはまさしく勝者と敗者の構図であり、東征という政争の結末でもあった。  しかし、千種と岩倉の表情に陰はない。内心では何を思っているか不明だが、彼らは彼らで六条の空いた穴を歓迎しているのだろう。  ただ保身のみを考えて、勝ち馬にごまをする。なんらおかしなことはない。 「東征の益荒男、見事なり。大将首をよくあげたぞ」 「烏帽子殿への忠義と愛、確かにこの目で見させてもらった。しかし、悲しいな。事が終わればもはや生かしておく理由が見当たらぬ」 「そもおまえたち、〈喰〉《 、》〈い〉《 、》〈合〉《 、》〈う〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈定〉《 、》〈め〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈を〉《 、》〈演〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》」 「ゆえに、さらば、さらばよ恋敵。己が役目を終えたなら、退場するがよかろうよ」 「左様で。まことその通り。さすがは冷泉殿、動きが早いわ」 「不穏分子の分際で、我らに逆らうなど片腹痛い」  喜悦の笑みをこぼしながら、冷泉らは杯をあおる。  酷薄な冷笑に狂気は欠片も混じっていない。正気のまま己が利を優先し、もっともらしい理屈を口にしていた。  討伐軍への下達はすでに済んでいる。東征の現場を体験していない岩倉たちなら、なるほど都合七人の男女ごとき、都の権力を前に風前の灯火とほくそ笑むのは自然だろう。  だが冷泉は違う。彼は穢土の天魔らをその目で見ており、それを斃した戦士たちの力量を知っている。  その上で、容易く縊れると正気のまま確信していた。そこに最大の異常がある。  いや、さらに言うならもう一つ。 「あれらは何をするやら分からぬからな。可及的速やかに消去する」  戦が終われば英雄は要らぬ。逆賊の汚名を被せた後、武功と真実を抱きながら土の中へ眠ってもらうというその理屈は、世の習いとして別段おかしなものではない。  狡兎死して良狗煮られる――つまるところそういう摂理にすぎないのだが、問題は〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈神〉《 、》〈州〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈に〉《 、》〈留〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》。  そう、今このときに、全世界で同時に嵐が起こっていた。  乱あり、変あり、諸々総て……国家間から家族間、果ては虫魚禽獣に至るまで、ありとあらゆる社会において空前絶後の殺し合いが起こっている。  そうした意味では、神州のみがまだぬるい。〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈国〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈嵐〉《 、》〈の〉《 、》〈侵〉《 、》〈攻〉《 、》〈が〉《 、》〈遅〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》。  その理由は不明だが、遠からず差異は消えてしまうだろう。無論のこと、冷泉がそれらの情勢を知るはずもないのだが、あたかも委細承知であるかのような底知れぬ笑みを湛えている。 「ふふ、ふふふふふ……」  共鳴するかのように増幅していく嵐の中、破滅の刻が侵攻していく。彼は〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  〈邪〉《 、》〈魔〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈失〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》、〈あ〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「そうだ、遍く全て焼き払え」  〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈調〉《 、》〈子〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「一人も残してはならんぞ」  〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈軽〉《 、》〈い〉《 、》。〈蛆〉《 、》〈が〉《 、》〈取〉《 、》〈れ〉《 、》〈心〉《 、》〈晴〉《 、》〈れ〉《 、》〈や〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「ああ。ああ──」  〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈心〉《 、》〈安〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈在〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》。  そう願う心に、ああ、いやはない。  なあ、なあ、そうであろう? ──我の身体に住まう■■■よ。  おまえもまた、静寂の世が愛しかろう? 「──斯様であるか。相承った」  その声に、微笑をたたえながら中院冷泉は立ち上がった。  怪訝な顔の千種と岩倉へ、微笑ましいものを見るかのように視線を向ける。やはり愚鈍、まだ気づかぬかと。 「……冷泉殿?」 「いったい、何を──」 「いや、少しな。〈我〉《 、》は掃除を所望しておるらしい」  ゆえに。 「──おまえら、要らぬわ」  この者ども、不要であると断じた瞬間、横一文字の斬風が二つの首を断ち切った。  彼らは驚愕する暇もなく、肉の断面から鮮血を迸らせると痙攣しながら倒れ伏す。遺体を横目に、冷泉は確かな快感を覚えていた。  これはよい。数が減るのは喜ばしいと、端正な笑みがより深いものへとなっていく。  己の所業はもちろんのこと、その手際にも疑問を持たない。今の一閃が、人間の規格を遙かに超えた魔技であったことなど意中にないのだ。  本来、中院冷泉という男は人並みの武威しか持たなかったはずなのに……  これくらいのこと、出来るに決まっていると呼吸も同然の認識だった。何をおかしく思うことがある。でなくば我は我であるまいが。  その自負、密度はもはや人に非ず。天魔を超える怪物の領域に、彼は今触れているのだ。 「喰らい、犯し、奪い、誇れ」 「善き哉。これぞ我らが本懐なり。誰も要らぬさ、収束せよ」 「これより先は、〈我〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈在〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  邪神の波動が立ち昇り、遍く天狗が蠢いた。飢える暴食の蝗が如く、異物を消さんと猛り狂える。  喝采せよ、礼賛せよ。これすなわち〈正道〉《てん》の意志。  騒ぎ轟き己をかざせ、我こそ至高と刻みつけよ。  あな素晴らしきかな鏖殺の宴。どいつもこいつも死ぬがよい──! 「ふふふふ……はははははははははははははははは!」  我先にと、我こそはと、我欲のままに進軍する。  天の加護を受けし、数多のさばる自愛の継嗣。己がために行軍し、己が未来を目指して進む。  彼らは一様に醜穢で、悦の相を張り付かせている天狗の群れだ。 「喰らえ!」 「犯せ!」 「奪え!」 「誇れ!」 「おまえら総て、俺の礎と成るがいい──!」  一片の疑いなく、一切の呵責なく、彼らは敵を求めて前進する。  先陣切って首を獲れば、己は誉れの一番槍なり。  逃げる兵を逃さず討てば、俺は紛れもなく強者なり。  目に映る獲物を討滅すれば、我は紛れもなく益荒男なり。  己を崇めるのは当然であり、違える者など一人も要らぬ。逸る心に揺るぎはなく、兵の一人一人が我が身を真と信じている。  だが駄目だ、まだ届かぬ、まだまだ全然足らぬのだ。賞賛が足らぬ、武勲が足らぬ、金が足らぬ、位が足らぬ。  この程度では満足できぬぞ。ゆえに殺し、いざ奪おう──!  誇らしい、素晴らしい。やれ討て、さあ討て。〈他人〉《おまえら》総て俺を輝かせる〈土台〉《いしくれ》だろう? 疾く死ねよ、骸がよいのだ呼吸をするな。生きていてはならぬだろうが。  彼らは等しく浮遊しながら狂騒している。我執に酔い痴れる酔漢の群れは、これほど列を成しながらも何一つ纏まりを見せていない。  隣に存在する同胞の名すら知らず、また最初から知ろうとさえしないだろう。綻びのない自愛に喝采を謳うその姿は、まさしく邪悪と呼ぶに相応しい。  己が道こそ至高と尊ぶ理由さえ、大したものを持っていない。  〈我〉《 、》〈が〉《 、》〈我〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈奪〉《 、》〈う〉《 、》という、根拠理屈のない妄信こそが兵を突き動かす衝動だった。  つまり、彼らは全員が『神』なのだ。  外界を関知せず、個で満ち足り、我に溺れている極少単位の邪神ども。彼らに仁義や礼智はない。武勲を求め、誉れを目指し、前へ前へと突き進むのみ。  下された討伐の任。滞りなく完遂すべしとはや猛り──  草の一本たりとも残さず〈鏖〉《みなごろし》にすべし。狂喜しながら血塗れの轍を〈地〉《みち》に刻む。  殺せ、殺せ、最後に残るは〈波旬〉《おれ》だけでいい。  さあ、平らかな安息をよこせ。 「  」 「  」  超深奥の座で一人笑い転げる狂天狗の〈覇道〉《かつぼう》が、全宇宙を覆いつくす。  大欲界天狗道、ここに完成。歴代の座における最悪最強の理が、ついに真の姿を見せた瞬間だった。  今こそ太極より流れ出し、万象を制覇した邪性、邪性……獰悪極まるその念に紛れる形で、ここに一つの真実が明らかになる。  知らぬほうがよかったことで、知れば後戻りが出来なくなること。  ゆえに、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》〈は〉《 、》知りたくないと拒否したこと。  だが抵抗は無意味にして、襲い来る波濤は容赦なく壁を破った。  つまびらかになる。流し込まれてくる。今現在の法則が、何を因にして始まったのか。  その渇望は言っている。貴様、俺を〈唯一〉《ひとり》にしろ。  何処にいる。何処にいる。見つからないぞ、ゆえに残らず総てを滅相してやる。  彼がなぜそのような狂気を持つに至ったか……それがこれより、流れ込む意志によって明かされるのだ。  知らぬほうがよかったことで、〈彼〉《 、》〈女〉《 、》の全存在を否定する一つの事実を……  〈畸形嚢腫〉《きけいのうしゅ》というものがある。  胎内における細胞分裂の失敗。つまるところ〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈双〉《 、》〈生〉《 、》〈児〉《 、》を指し、彼ら――あるいは彼女ら――は、肉体が融合した状態で産まれるのだ。  これは単なる結合双生児という意味ではない。そうしたものは腰部が繋がっている類が代表的で、まだ彼ら――あるいは彼女ら――はどちらもヒトだ。不自由だろうし不幸でもあろうが、互いに同格と認め合いながら生きていくこともできるだろう。  だが、〈畸形嚢腫〉《このばあい》は違うのだ。双子であっても圧倒的な優劣があり、劣ったほうは生物の態すら成していない。  兄、弟、姉、妹……優性側は見た目健常な五体を有すが、その体内に埋没するかたちで、劣性側が腫瘍のように存在している。  それは言うなれば、肉団子と形容したほうが早いだろう。腫瘍の内部には、ヒトになれなかったモノの歯が、髪が……指が、目玉が、混沌とした泥沼のように詰まっているのだ。  ゆえに当然、優性側は畸形嚢腫を兄弟などと認識しない。己にまとわりつく汚らわしい異物であり、早々に切除すべき病根……極論的には、塵としか思わないのだ。そこに情や愛着は一切無い。  少なくとも、〈彼〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈間〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。  そう、彼ら。優性たる者は嚢腫の存在を漠然と感知して、劣性たる者はその憎悪に怯えていた。  やめて、お願い見つけないで。ぼくは生きてる。殺さないで……  悲劇は――脳細胞すらあったかも怪しい嚢腫の側に、意志が宿っていたことだろう。  彼は願った。狂おしく願った。健常に生まれた者には理解を絶する域の深度で、生きたいというごく当たり前の祈りを想い続けた。  そして、自らを切り離さんとする兄弟からの解放を切に望んだ。  それは相反する渇望。誰よりも何よりも生きたいと願うため、外界の光に憧れる。  兄弟と繋がっていなければ生きていけない身でありながら、死を意味する輝きに焦がれたのだ。  だから―― 「―――――」  そのとき、久雅竜胆は目を覚ました。彼を〈光〉《シ》へと導くため、棺の中で覚醒したのだ。 「わた、しは……」  総て、総て理解した。己が何者であり、何を成すために誕生したのか。  私は彼の自滅因子。彼の願いを叶えるため、彼を殺すために存在している。  ゆえに、〈彼〉《 、》〈が〉《 、》〈生〉《 、》〈き〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈限〉《 、》〈り〉《 、》〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈絶〉《 、》〈対〉《 、》〈死〉《 、》〈な〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  なぜなら、彼は波旬の〈畸形嚢腫〉《きょうだい》で、直接神の座に繋がっている身なのだから。  神とは宇宙。そして宇宙とは生物だ。あまりに巨大であるため人が知覚することなど出来ないが、紛れもなく一個の生命体に他ならない。  よって、他の生物が持つような、数多の機能を有している。  その一つが自滅因子。潜在的に滅びを求めるという自壊の願望。  高所に立てば墜落を、刃物を持てば自身に傷を、成功を得ればその破滅を。等しく同時に心の奥底で望む想い。  神という超越の存在が起こすそれは、無論のこと人の常識など逸脱した現象を引き起こす。俺を殺せ、殺してくれ。そのためにおまえは何があっても生き続けろ――  不和之関で、自分は一度死んでいた。なのに心臓が止まったまま動き続けた。  血は流れず、体温もなく、なのに身体は腐らない。今もそれは変わらない。  奇妙であり、不気味だった。怖くて怖くて、仲間たちにも黙ったまま事実を隠して戦い続けた。  臆病者と自身を叱り、卑怯者と己を蔑み、だけどそれでも私は光を願っている。私に付いて来てくれる益荒男たちを愛しているし、彼らと絆を育みたい。  魂の輝きを信じているから――  だけど、ああだけどその想いは、結局のところ彼を殺すためのものだったのだ。蝦夷で常世に言われたことが、強く深く胸を抉る。 『殺したいと思っているくせに――』 『あなたの掲げる〈覇道〉《きずな》なんて、結局のところそんなもの――』  その通りだった。的を射ていた。あのときは意味が分からぬと思いながらも、なぜか反駁できない理由はそれだったのだ。  自滅因子は増殖する。さながら癌であるかのように他の細胞を侵しながら、殺すべき者を追い詰めていく。 「私が、私がいい気になって、私の理解者を増やしていくのは……」  この宇宙の〈法〉《かみ》である波旬に対して弓を引くこと。  すなわち、彼を波旬の前に引きずり出してしまうこと。  あれほど波旬を恐れていた彼。あれほど生きたいと願っていた彼。畸形嚢腫、畸形嚢腫――彼は波旬に見つかったが最後、必ず死ぬ。  外界の光という麗しげな餌をちらつかせ、彼を処刑台へと導く死の案内人――  それが久雅竜胆。自分には誰恥じることのない志があるのだと、滑稽な勘違いをしていた道化の真実に他ならなかった。  一度目の死を体験したとき、他の者らが死を免れたのは彼をより確実に殺すため。  失われた旧世界の言語を自分だけ理解することが出来たのは、この身が波旬と彼に連なるため。  そして二度目の死を体験したのは、おそらく潜在的に総てを悟っていたためだ。  穢土が消える。座が完成する。波旬が万象を掌握する。  そのとき自分が残っていたら、彼が見つかってしまうから。  私の愛する益荒男が、波旬に殺されてしまうから。  ただ、その未来を防ぎたかった。黄昏の英雄たちに託された想いを放棄しても、何と言われようが彼を守りたかったのだ。  なのに、ああ、なのに…… 「私を、どうしても死なせてはくれないのか……」  心が千切れるような声で言う。 「覇吐……」  あのとき、おまえは泣いていたな。朧げだが覚えているよ。  そして…… 「波旬……」  あのとき、貴様は嗤っていたな。そんな逃げが通るものかと、我らを嘲っていただろう。  さあやれ。ほらやれ。そいつを俺の前に引っ立ててこいと、指をさして腹を抱えて、下種な念を撒き散らしながら―― 「うっ、く……ぅう、く……」  棺の中、噛み殺すように嗚咽を漏らす。それは生涯通じて他者から異端と言われながらも、なお折れずに在り続けた久雅竜胆の矜持を砕く、絶望と敗北の涙だった。  このまま土に埋められようが火で燃やされようが、きっと自分は無くならない。存在する限り自滅因子として機能し続け、役目を果たしてしまうのだ。  対存在であるがゆえ、彼らは磁石のように引かれ合う。同性であれば友情を、異性であれば愛情を、まさしく身を切るように抱いてしまう関係なのだ。  手を取り合って破滅に向かう、ただそれだけのために在るもの。 「助けて……」  どうかお願い。私に立ち上がる力をください。  私が何より誇るあなた達、益荒男の魂に認められた、強い将で在りたいから。  私は最悪の裏切り者で、臆病者で、弱く情けない女だけど、それでもあなた達を守りたい。  そのためにやるべきことをやれるように。  決行する、勇気をください。  誰もいない静寂の中で嗚咽しながら、竜胆はただそれだけを祈り続けた。  まるで肉の檻から外に焦がれる、畸形嚢腫であるかのように。 「……ああ、そういやもう春なんだな」  やってきた久雅家の庭園……そこに一人で立ちながら、俺はあの日のことを回想する。 『坂上覇吐。久雅家第十五代当主、竜胆鈴鹿はおまえの忠を嬉しく思う。よく我が下に参じてくれた。これは私にとっても誉れである』 『ゆえにおまえの主として、臣に恥かしくない将でありたい。おまえがおまえである限り、私が私である限り、この日の契りを永遠にしたいと思っている』  そう言われて、それを受けて、俺はあいつの臣になった。そしていつしか、そのことが俺にとって何よりの誇りになった。  最初からいい女だと思っていたし、惚れていたし、いつかものにしてやると決めていた。そのぶん最初は、かなり下心先行だったことも否定は出来ない。  だけど今は違うんだよ。別に俺のものになんかならなくていいし、嫌われてもいいから、おまえに存在していてほしいんだ。  だって言ったろ。俺はおまえのために死ぬ。そんなおまえが、俺より早くいなくなってどうすんだよ。  なあ、竜胆。あのときおまえはこう言ったじゃないか。 『だが覇吐、誤解するなよ。私はおまえに死んでほしいわけではない』 『誰のためでも、喜んで死にに行くようなことは絶対に許さん。それも違えぬとここに誓え』  誓ったよ。守ったよ。俺は生きてる。今も死のうなんて思っちゃいない。  だというのに、どうしてだ。不和之関でも、勝って帰った後のことを約束しただろ。  なのに…… 「結局、祝勝の宴はお流れになったまま」 「とっておきのネタもあったのによ。超英雄、ここに爆誕ってな」  最高の女を傍らに、馬鹿らしく馬鹿やって馬鹿な奴と言われながら……まあ、なんか罷り間違ったら酌でもしてくれるかなとか。  別に俺がずっと酌する係でもいいけどよ。祝いたかったんだよ、久雅竜胆の覇道ってやつを。 「見たかったぜ、おまえと。あいつらと」  もうその未来は有り得ないのか? 全部終わっちまった幻なのか?  頭じゃそうだろうとは思っていても、分別臭いことを言って割り切ったような気持ちにはまったくなれない。 「どうして、俺はこんなにも」  おまえのことが愛しいのだろうか。他と比較するなどおこがましいと言わんばかりに、ただただ心が竜胆を求めている。 「そういや確か、そんな問答もしたことあったな」  私が死んで、いなくなったら、おまえはどうすると聞かれたこと。  かつて東外流で告げられた言葉が、今になって俺へはね返って来やがる。ああその時、俺は先を創ると答えたけれど、カタチがさっぱり分からないんだ。  死んだ後って、何だ? 知らない見えない、創れない。だって俺は道を切り拓く人間で、そこから先を創るのはいつだって竜胆の力だったから。  もし、俺が新しい法とやらを願うなら、きっとありきたりの願いしか出てこない。 「竜胆や、俺ら全員が笑っていられるような……」 「黄昏にも負けねえ、あったかくて、朝一番に照らしてくれる太陽みたいな……」 「ああ、そうだ──俺は、日の出がいい」 「明けない夜がないように。だからこそ、あいつみたいな輝く朝日が欲しかった」  ここは暗い。何も見えない。だから前にも後ろにも進めずにいる。  まるで俺には、〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈そ〉《 、》〈も〉《 、》〈目〉《 、》〈も〉《 、》〈手〉《 、》〈足〉《 、》〈も〉《 、》〈つ〉《 、》〈い〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》。  おまえと出会う前の俺が、どんなだったかなんてもう分からねえよ。  分かっているのはただ一つで、至極単純なことだけだ。  おまえさえいてくれるなら、たとえどんな姿になっていようと…… 「───ッ、なんだ」  思惟を断ち切る轟音が、俺の鼻先を掠める銃弾となって傍らの木にめり込んでいた。  見れば―― 「おいおい、随分物々しいじゃねえかよ。この伊達男に惹かれて来た……って感じじゃねえな」  二十、三十、それ以上。全部で百数十人はいやがるか。完全武装した軍兵が、いつの間にやら俺の周りを取り囲んでいる。どう見ても穏やかな気配じゃない。  いくら物思いに耽っていたからと言っても、今の今までまったく気付かなかったのが不思議なくらいの剣呑さだ。どいつも一人残らず殺気にぎらつき、ご用向きのほどは伺うまでもないだろう。 「我らは雍州大納言、中院冷泉公が命を受けし者である!」 「その方、坂上覇吐に相違ないなら……」 「中院公より、逆賊として討伐せよと命じられた! さあ――いざ神妙にその首こちらへ差し出すがいい!」  型どおりの挨拶もそこそこに、全員が一斉にまったく同じ事を唱和する。 「首級を上げよ!」 「首級を上げよ!」 「首級を上げよ!」  殺せ、殺せ、殺せと、ひたすら――  版で押したように何の疑いも躊躇も見せず、ただ殺戮の欲求にのみ狂奔して…… 「────、は、はは」 「ああ……ああ、ああ、なるほど。そういうことかよ中院」  これがおまえの覇道だとでも? 「邪魔になった、だから消す。そりゃそうだ、おまえはずっとそうして来たんだから」  参ったね、一本取られた。これは当たり前なことにすぎない世の習い。戦が終われば戦馬鹿には用などないし……  久雅竜胆に心服する者、てめえの天下には要らんってことかよ。 「ふっざけんじゃねえぞォォォッ!」  襲い掛かってくる雑兵を、纏めて三人、一振りで切り伏せた。こんな奴らの百や千で、俺をどうこう出来るとでも思ってんのか! 「これではっきりしたぜ、中院」 「てめえは、ただの屑野郎だ」  〈至〉《 、》〈極〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈う〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈て〉《 、》反吐が出るぜ。腐った教科書、馬鹿みてえになぞるだけのご立派な優等生が! 「国葬? 愛? 寝ぼけたことぬかしてんじゃねえ。綺麗さっぱり忘れてやがる。これがその証拠じゃねえかッ」  お陰で、ああ、感謝するぜ。俺の方針も決まったよ。 「……渡すかよ」  生きていようが死んでいようが、もう関係ない構わない。 「てめえの下に、竜胆の亡骸だって渡さねえ」  ――今から、奪いに行ってやる。  あいつがたとえどんな姿になっていようが、俺の気持ちは変わらないと言ったから。  俺ら久雅竜胆の益荒男を誅すと言うなら、それはすなわちあいつの〈覇道〉《ユメ》を潰すってことだ。  させねえ、許さねえ、認めねえ――誰が何と言おうとも。 「これ以上、あいつの魂を──」 「穢させたりはさせねえぞォッ!」  怒号と共に、群がる兵の中へ踊りこむ。あの夜刀とさえ渡り合ったこの俺に、ただの兵卒を差し向けるなど舐め腐るにもほどがある。  まるで〈夜都賀波岐〉《やつら》のことをも馬鹿にされてるような気になって、怒りは一気に跳ね上がった。瞬く間に鎧袖一触してやるからよ―― 「女、兄弟、家族のいる奴ぁ今すぐ下がれ。逃げる奴は追わねえからよ」 「俺の行く道、阻むんじゃねえ!」  切り倒し、殴り倒し、蹴り飛ばして大喝する。手加減なんかする気にゃまったくなれねえから、死にたくねえ奴はさっさと消えろ。  目に付く奴、向かってくる奴、手当たり次第に薙ぎ倒して、半分はいったと思ったときだった。 「あああぁぁあああぁぁあアアアアアアアアッ!」  戦意喪失するどころか、さらに蛮声を張り上げて向かってくる兵どもに驚愕する。 「──っ、なんだこいつら」  普通、ここまで一方的にやられりゃびびるだろ。頭がイカレてるとしか思えない。そんなに中院が怖いのか?  ……いや、違う。こいつらの目、楽しんでやがる。〈し〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈数〉《 、》〈が〉《 、》〈減〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》。 「どうなってやがる」  斬ったはず。斃したはず。間違いなく致命傷を与えた奴まで、次から次へと復活してくる。  それは紅葉の兵団を想起させたが、しかし瞬時に違うと分かった。  こいつら、実際死ぬまで自分が死ぬと思ってないんだ。ハラワタぶち撒けられようと、げらげら笑いながら吶喊してくるのがその証。  そしてそれに気付くと同時に、俺はもう一つの異常を感じた。 「何が……いや、〈誰〉《 、》だ?」 「そこにいるのは──」  何かがいる。兵の一人一人にではない。もっと巨大な何某か……容易に触れえざるものの影響をこいつらが浴びている。  それは全体から見れば極々微量で、せいぜいが揮発した水滴にも満たない質量しか有していない。  だが──だがそれだけで、たったそれだけの量で、これはなんつう猛毒なんだよ。  こいつらの脳を焼き切って狂奔させる絶対の波動。逆らうことなど不可能だ。そんなことができるはずない、この悪意は極まっている。  ひたすら強大で、絶大で、唯一無二の強制力。その凄絶さを、なぜか誰より深く知ってる気が俺にはして…… 「だから、なんだッ」  こみ上げる嘔吐感と、名状し難い恐怖を払拭するべく吼えていた。  違う――違う違う! 俺は人間なんだ生きている。〈見〉《 、》〈つ〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈す〉《 、》〈り〉《 、》〈潰〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈な〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈じ〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈ね〉《 、》〈え〉《 、》! 「俺の魂は安くねえんだよ。あっさりくれてやるほど軽くねえ」 「てめえらみたいに、軽々しく──」  ちくしょう。誰一人逃げない、誰一人……自分が死ぬとか考えちゃいねえ。  そいつを悲しいと、確かに強く感じながら。 「自分だけ見て踊る、酔っ払いと一緒にすんなッ!」  ……叫んだ声は、我ながら悲鳴を押し殺したようなもので。  どれだけ斬って、どれだけ戦ったのか覚えていない。無我と呼ぶにはあまりに不恰好な暗転の中、しかしそれでもこの場で強い方は俺だった。  そういう法則、そういう摂理。弱い奴は強い奴に何が起ころうと敵わない。だから必ず、この法下では最強の一人が最後に残る。  どこかで俺は、漠然とそんな理解を持ちながら…… 「はぁ、はぁ……くそっ」  築きあげた屍山血河の上で、一人荒い息を吐いていた。  ああ、くそが。気分悪い。こんな戦いは反吐が出る。しかしいつまでもここでうだうだしてられねえ。  俺を討ち漏らしたと知ったなら、すぐに第二、第三波がくるだろう。いちいちそれの相手をしてたら切りがねえから、俺は俺の目的を果たさないといけない。  すなわち、そう、我らが大将を取り戻して、こんな汚濁から連れ出すために。 「竜胆。待ってろ──」 「約束果たすぜ。今からおまえを、この手で抱きしめに行くからな」  誓いを口にし、俺は血に染まった久雅の庭を後にした。  思い出の場所はもはや変わり果ててしまったけれど、まだ終わってないと信じたいから。  俺は今でも、おまえの誇る益荒男で在りたいと思うから。  そして街に出た俺は、そこで起こっている事態を目にして、再び瞠目させられた。  殺しあっている。誰も彼もが、喜悦に顔を歪めながら、我こそ至高と叫びあげつつ目の前の他者を殺戮している。  赤子を地面に叩きつけて、ぐしゃぐしゃに踏みにじりながら陶然と酔い痴れている母親がいた。  両手足を切断されて、背に剣山のごとく無数の包丁を刺されながら、女の喉笛に食いついて噛み切ろうとしている男がいた。  自分自身、火達磨になって走りながら、呵々と大笑して放火を繰り返している男か女かも分からないモノがいた。  それらは一様に殺す者で、また殺される者でもあった。死と死と死と死が回り回って暴れ狂う。ここに正気な者など一人もいない。  にも拘らず、彼らの思考は寒気がするほど統一されてる。誰もが等しく例外なく、まったく同じ波に呑まれている。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈に〉《 、》〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈要〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈に〉《 、》〈残〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  極限まで膨張し、暴走した自己愛の法。こんな様が続いたら、数日も保たずにこの国から命が消える。  いいや、夜行の言に倣うなら、宇宙総てがそうなるのか? これと同じ状況が、あらゆる場所で起こっているのか?  だとしたら、なんだこれはふざけるな。最悪どころの話じゃない。ここは生物が存在できるような世界じゃない。  どいつもこいつも、我こそ至高。狂った自愛に突き動かされ、おぞましいほど醜悪に天へ鼻を伸ばしている。  天狗道――滅尽滅相、〈鏖殺〉《みなごろし》の〈宇宙〉《ソラ》。  その戦慄を堪えながらも、俺は狂乱の巷を駆け抜けた。今はこいつらの相手をしている場合じゃない。  取りすがってくる老若男女を蹴散らして、都の大道を一気に走る。遙か遠くに、葬列の最後尾が見えていた。  あの先は、御所なのか。ならば俺の目的地もそこになる。  心なしか、葬列が前を通り過ぎた刹那だけ、その場所での殺戮が沈静化しているようにも見えるんだ。きっとそれは、そこに竜胆がいるからで、あいつの存在がこの腐れ法則を緩和している。  そうだろう? そうだよな? だから俺は、おまえをこの手に取り戻す。  駆けて、駆けて、駆け抜けて、ついに俺は御所に達して―― 「──中院ッ!」  列を掻き分けたと同時、叫び声を壇上の影へと叩き付けた。  怒号に応えてこちらへ視線を寄こすのは──ああそのすかした表情、また見ることになるとは思わなかったぜ。 「久しいな、坂上。どうした、臆病風は抜けたのか?」 「息災なようで結構だとも。善き哉、おかげで手間も省けたというもの。わざわざ首を差し出しに来てくれたこと、誠に大義だ。その忠に感謝しよう」 「まずは一人。益荒男改め、我に仇名す逆賊は数を減らした」  中院、冷泉――  最後に見たあのときより、こいつはまた一層変わっている。それは風体がどうこうではなく、根源的な芯に関わる何某か。  魂……そう、今のこいつには、魂と呼ぶべきものが何もない。  会話は出来るというだけで、こいつの本質は街で暴れてる奴らと同じだ。  いいや、さらに輪をかけて凶悪なものになっているというのが分かる。 「そうかい、それでおまえはご満悦か?」  内の動揺を悟られないよう、努めて平静を装いつつそう言った。それに奴は含み笑って。 「当然であろう、問うおまえこそどうかしておる。役目を遂げるとは、端からそういうことであろうが」  中院が歩を踏み出すたび、人垣が二つに割れる。睥睨する視線が、吐き気を催すほど憎たらしい。  こいつの狙いは、無論俺一人なんかじゃない。つまりあれだ、己に属さない者は纏めて死ねと言っていやがる。  自分以外は消え失せろ……要はそういうことだろう。  今、そこら中でその思念が暴発している。わざわざ確認するまでもない。 「取り立てておかしなことは言っておらんし、やっておらん。史上必ず行なわれてきた〈政〉《まつりごと》。騒ぐこともなかろうよ」 「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。あな悲しきことよ栄枯盛衰。天下定まれば我もまた煮られるのかと……つまるところ、そういうことだ」 「如何なる国、如何なる時代、どの世界であろうとそれは変わらぬ。節目に禊は必要なこと。ただの通過儀礼に何を思う」 「御門、凶月、玖錠、そしておまえら、総て要らぬわ。手向け代わりに褒賞ぐらいはやったはずだぞ? 受け取らなかったのはそちらの勝手だ」 「勝鬨に乗り損ねたおまえらこそが愚鈍だろう。我がおまえであったなら、もう少し上手く立ち回れたものをなぁ」 「己が痴愚を恥じるがいい。他我に寄生し、個我を然りと持てぬ者など、まあその程度が関の山だが──」 「坂上、おまえそれでよいのだろう? そういう目だ」 「当たり前だ、糞野郎」  自分のことだけ考えて、余計な奴は蹴落として、己一人が上に立つ……そうすりゃ確かに立派な自分にゃなれるだろうさ。天下を握って冠かぶって、屍の山で笑い転げる──それが今の世の中だろう。  それで良しと思えるような気狂いは、何があっても上に立っちゃいけねえんだよ。  自分と同じくらい、自分について来てくれた臣が大切とか。名も顔も知らない百姓のため、マジになってみたりとか。そんな呆れるほど格好いいことができる奴こそ、頂点に在るべき器なんだ。  だからこそ── 「くだらねえ、こっちから願い下げだぜ。ああ一つだけ感謝してやるよ、中院。やっぱり俺は何も間違っちゃいなかった。それがはっきり分かったよ」 「恥じるようなことなんて、これっぽっちもあるものか。誇らしいぜ、確信したとも。俺は今もあいつの魂を抱いている」 「逆賊、いいね上等だ。あいつは絶対、おまえの言い分を認めやしねえ」 「見縊んなよ、俺の惚れた竜胆はそういう女だ」  ゆえにおまえなんかに討たれる気は微塵もないし、おまえのもとに主君を置いておくつもりもまったくない。  そう決意のほどを口にしたら、中院は腹を抱えて笑いだした。 「くは、ははははは、ああそれで?」 「彼女は恐らくこうだった。そう思っていたはずだ。だから今もこれからも、自分は彼女の影をなぞってやると……それはそれは、女かおまえ」 「女々しいものだ、なあ、益荒男よ。名乗りを〈未通娘〉《おぼこ》に改めるがいい」 「戯言を口にするのが、よくよく板についておるわ。要は自分の中にある死者の影を穢すなと、なるほど悦に入っておるわけだな?」 「ならばよいとも認めてやろう。坂上覇吐──貴公の物言い、まさに臣の鏡と呼ぶべきものよ。見事なり、おお天晴れだ。主が死そうと己が忠を貫く姿、我は誠に感動した」 「と、終生語り継いでやる。史書にも名を残してやろう。どうだ、嬉しかろうが。心満たされたのではないかな?」 「……阿呆臭ぇ。おまえ、やっぱ救えねえよ」  今のが、俺を舐めたうえでの皮肉であるならまだよかった。最悪なのは、本気でこっちが喜ぶと思っていることだろう。  俺の想いなど、しょせんその程度に違いないと極々自然に考えているのだ。 「そんな言葉で、おまえみたいな連中がのさばる国を認めろと?」 「こんな掃き溜めを守るために、魂懸けてたと思えって? そいつを誇ってくたばれと? ありがたがれって言うのかよ」 「出来ぬのか?」 「出来ねえな。言ったろうが、願い下げだぜ。自分で自分の魂に泥塗る趣味はねえんだよ」 「分からぬ男だ。おまえの言葉が我にはとんと理解できぬよ」  そうかい、いいね。そいつはなんとも嬉しい言葉だ。思わず口角が釣りあがり、自然と笑みを作ってしまう。  俺はおまえと違うってこと──認めてくれてありがとよ。 「我がおまえを要らぬと思うように、おまえはこの国を要らぬと言う。相分かった。ならばこれからどうするのだ」 「坂上覇吐は今や化外となんら変わらぬ。神州、世界、いやさ宇宙に居場所がない。……ああもとより、我以外の者をここに住ませた覚えなどないのだが」 「おまえは穢土の天魔らのごとく、この〈宇宙〉《ソラ》を滅ぼしたいと思うのか?」 「ああ、そうだ。壊してやるよ、こんな腐りきった下種の〈法〉《ソラ》」 「そして、竜胆の髪の毛一本、おまえにくれてやるものか」 「左様か」  中院は苦笑して、俺の目から一度視線を横に逸らすと── 「こやつはこう言っておるが、さてどうかな──〈烏〉《 、》〈帽〉《 、》〈子〉《 、》〈殿〉《 、》」  本当に、何気なく、こいつはありえない名前を口にした。 「…………」 「え……ぁ──」  じゃり、じゃりと。  砂を踏みしめる足音と共に。  確かな存在感を纏いながら。 「───竜、胆」  ……俺の求めた最愛が、再び目の前に姿を現した。 「捕えよ」  その瞬間、四方から覆い被さってきた連中に組み敷かれるが、そんなのまったくどうでもいい。気にならないし、目に入らねえ。  今、俺の視界に映っているのはただ一人。俺の思考を占めているのもただ一人だ。  あまりに衝撃的すぎて、他の何かなど知ったことか。 「竜胆……竜胆、竜胆……」 「は、はは……生きていたんだな? 驚かせて、くれるじゃねえか」  どうして、なぜ、おまえはこうして生きている? 俺はちゃんと心臓の鼓動も確認した。死んでしまう場面もこの目で見たはずなのに。  困惑する気持ちを湧き上がる喜びが掻き混ぜて、頭がさっぱり回らない。ああ、けれど──俺がしなければならないことは分かっていた。 「ご覧の通り迎えに来たぜ。さあ、俺と一緒に行こう」  おまえがいてくれるなら、それだけで何でも出来る。何も怖いものはねえ。 「こんな奴らに付き合うな。おまえが教えてくれたこと、全部残らず分かったんだ」 「ここはひでえ、最悪だ。どいつもこいつも狂ってやがる」 「魂なんて、誰一人、何一つ持っちゃいねえ。こいつら自分しか見えてねえんだ」  だから、ここから連れ出さないといけない。掃き溜めにも劣る屑の営みから、こいつを引っ張りあげなきゃいけないから。 「行こうぜ、竜胆……あいつらの所へ」  いいや、帰ろう。  紫織、宗次郎、咲耶、刑士郎、夜行、龍水――もはやこの世界に、まともな奴は俺たち八人しかいないけど。  化外と言われようが天魔と詰られようが、俺たちだけでもここを出よう。  きっと夜都賀波岐の連中もそうだったのだ。そして奴らは正しかったのだと共感する。  ここはおかしい。まともじゃない。この天狗道は誰の生存も許していない。  だからこそ――おまえが築く新世界で。 「またあいつらと共に、皆で生きていこうじゃねえか」  竜胆だけに向けて、気風のいい声を放つ。  おまえの心を知ったから、こいつらのいる場所から連れ出したいって思うんだ。それは〈役〉《 、》〈割〉《 、》〈が〉《 、》〈逆〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》けれど、そうしたいって思うんだよ。  今だけは、俺がおまえを連れ出したい。痛んだ心を癒してやりたい。抱いてやるさと、手を伸ばしているのに…… 「…………」  そこで、初めて竜胆は俯いていた視線を俺へよこした。  その眼光──覗きこんでくる目は氷点下の冷たさで、熱というものを喪失したかのような無表情と共に。 「誰だ、貴様」  そんな、なにかよく、わからないことを竜胆は告げた。  俺を支えていたもの、今まで前に歩ませていた一念に亀裂が走る。 「───え、なっ」 「貴様のような下賎は知らん。失せるがいい」 「何を勘違いしているのか見当つかぬが、見知らぬ者に気安く名を呼ばれるような覚えはないぞ。不敬である」  ちょ――、ま……ふざけろ。今こいつは、いったい何て…… 「はぁぁぁ? おい、何言ってんだよ竜胆。こんなときにくだらねえ冗談してんじゃねえ!」 「冗談? 貴様耳まで遠いか。私は知らんと言ったのだ」 「不逞の輩が、口を噤め。貴様の声は癇に障る」  そう言って、本当に俺のことなど知りもしないと切り捨てて。 「嘘、だろ……?」  頭から血の気が引いていくのを感じる。  心臓の音が異様にうるさい。  すぐさま暴れて、周りの奴らを吹っ飛ばして、強引にでも竜胆を攫ってやりたいと思っているのに……  駄目だ、出来ない。俺を押さえている奴らの力は信じられないほど強いもので、身体がぴくりとも動かせない。 「ふふふふ、ははははは、くははははははははは!」 「よい見世物よなぁ! ああそういうことだよ、すまぬな坂上。やはり今のおまえは女子供にも劣る痴愚の極み、袖にされるのが似合いというもの」 「滑稽。哀れ。救えぬわ……ふふ、なにかなその目は。怖い怖い」  竜胆はおかしい。何かがある。あいつがあんな態度を取る理由、心当たりがあるとすれば、それは目の前にいるこの野郎くらいしか思いつかないから。 「中院……てめえが、竜胆になにかしやがったのかッ」 「そして次は嫉妬か、ああ見苦しい」 「我は何もしておらんよ。おまえが単に用済みと見なされた、ただそれだけの話であろう。簡潔に言うと弄ばれておったのだよ」 「その証拠に……烏帽子殿は我と共に行きたいと言っておる。なあ、そうであろう?」 「…………」 「竜胆ッ!」  ふざけたことを言うんじゃねえ。何がどうなって竜胆が、おまえと一緒に行くって言うんだ。  それだけは、何があろうとそれだけは絶対に有り得ないと思っていたのに。 「そうだ。私は、冷泉殿と共に行く」  その言葉で、再び俺の中の亀裂は大きくなった。 「それは〈婚姻〉《ちぎり》を交わす、そういう意味でよろしいのよな?」 「ああ、そうだ」 「もとよりそう定められていただけのこと。不思議なことはなかろう。違うかな?」 「ち、ちょっと待て……マジかよふざけろ、何だそりゃあッ」  声は届かない。そして俺の言葉にも力がない。  矢継ぎ早の超展開に、まったく対応できないままやばい状況だけが進んでいく。 「ふはははははは──ということだ、理解したかな坂上よ。惨めであるのはどちらなのか」 「見当違いであったのは」  おまえのほうだっただろうと、勝ち誇ったかのように笑う中院。ぶっ飛ばしてやりたいと思うその横には、しかし竜胆が立っていて…… 「それとも、まだ地を這ってでも縋りつくか? ならばそら、先の啖呵を切ってみよ。己が将はそんなことなど思っていないと、愚かしく道化のように吐いてみるがいい」 「まったくもって馬鹿馬鹿しい。黙して平伏し、従属してこそ忠臣であろう。それがおまえの大好きな他者を想うということよ」 「だがしかし……くく、それもまた結局は自己愛の一種よな」 「そうあってほしい。そうに違いない。己の惚れた女だからと、あらぬ妄想を押し付けているのは果たしていったいどちらのことか。ははははは!」  嘲笑が俺の全身を打ちのめす。だが駄目だ。負けちゃいけねえ。ここで折れたら取り返しの付かないことになってしまうと、それだけは確信できる。 「違う――」 「俺は、そんなんじゃあ……」 「何がだ? どこがだ? 聞き飽きたとも、斯様なくだらぬ説法は」 「ああ──そうだ、そもそも内容が気に入らぬと言ってはおらん。何か分からぬことを、我以外が吐いておるから要らぬのだ」 「我が我を何より尊び、優先し、我という世界を統べる王であること。その他の論は真贋を問う意味すらない。なぜなら、〈他人〉《なにか》の声など聞き入れぬから」 「総て滅びろ――起伏は要らぬ平らになれ。それこそ〈波旬〉《われ》の求めし天下泰平の理なり」 「我の天狗道には〈波旬〉《われ》だけでいい! 邪魔だ。消えよ。平穏の世が乱れようが」 「最後に〈畸形〉《おまえ》が残る瞬間を、震えながら待ち望むがよい」 「──────」  大笑する奴の背後が歪んで見える。久雅家の庭で俺を襲ってきた奴ら同様、その奥で蠢いているのは極大の猛毒で。 「中院……いや、おまえは──」  もはやその顔も、言い様も、俺にはヒトのものとは思えない。  波旬の〈赤子〉《せきし》、波旬の細胞。穢土で何度も聞いた言葉が脳裏を過ぎった。  これが、それか? 滅びを加速させる天狗道の末端そのもの。 「なあ、坂上。これで分かったろう。世を統治するに相応しいのはどちらであるか。偽りなく、我は心から世を正すために動いておるのだ」 「そもそもなあ、気持ち悪かろうよ。何なのだ、この鬱陶しくも猥雑な世の中は」 「烏帽子殿もそれに賛同したからこそ、おまえを捨て、我を選んだ。賢きことよな、どこぞの愚図とは出来が違うわ」 「…………」  竜胆は応えない。それは肯定の意思表示じゃ断じてないと俺には分かる。  分かるから、ワケの分からねえ意地張ってないで俺を見ろよ。目を逸らすなよ。 「俺を信じろ。俺はこんな奴に負けやしない」 「素直になれよ一言でいい、助けてくれと言ってくれ」 「俺は――」  あのとき、おまえの臣となって、誓ったじゃねえか。忘れんな! 「俺はあんたのために、死ぬって言ったろ!」 「―――――」  そのとき、空気が凍結するような静寂が御所の庭に訪れた。 「貴様……」  次いで、ぎりぎりと、ぎちぎちと、岩盤を引き抜くような軋みと共に、竜胆が首を回して俺を見る。 「──軽々しく、死を口にするか」  激怒――それは今まで見たこともないくらい、憤怒に染まった竜胆だった。  許し難いと目を吊り上げて、仇を見るように見下ろして。  その怒りは何処から来る? 〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈に〉《 、》〈怒〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》? 「ほう、これはこれは。誠、猛々しい我が伴侶よ。だが痴れ者の処分なら、我に任せておけばよいと思うが?」 「よい。私がやる……いや、せねばならぬ」 「今は無性にそうしたい気分だ。こんな不愉快なことを言う輩は、私がこの手で処断する」  一歩一歩踏みしめるように、俺に近づいてくる竜胆。  そのままゆっくりと剣を抜き、俺の首元に突きつけて……  断罪するために紡ぐ言葉は、しかし切れ切れの嗚咽めいたものだった。 「私はおまえなど知らないし、名を聞いた覚えもない。口を開けば竜胆、竜胆、竜胆と……馴れ馴れしいぞ不届き者が。軽々しく私を呼ぶな」  演技をしている。下手糞すぎる。克己心を総動員して尊大に振舞おうとしているが、言葉の端からそれがばらばらと崩れている。 「危機に陥れば女に縋りつくような男になど、語る口は持っていない。次から次へと、何をわけの分からぬことを、言っているのか。私に、何を期待している」 「頼んでいない、求めていないぞ。ああそうだとも、願った覚えなどあるものか。私のもとへ来なくていい。放っておけば、よかったろうに……」 「捨ててしまえば、よかったのだ」 「そうすれば……」  そうすれば、なんだと言う? おまえは俺を突き放して、何をどうしようと思っているんだ。  そこに何の益があるというんだ?  それが分からず、想像もできず、そんな自分の不甲斐なさが、俺は何よりも許せなくて…… 「竜胆……」  やはり俺は、天地がどうなろうとこの女を忘れられない。  そんな顔で、そんな声で、震えている久雅竜胆を救いたいから。  愛しているから。  ここに誓いをまた立てる。絶対おまえを離さない。  〈俺〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈は〉《 、》〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈で〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈な〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》――と、電流のような啓示が全身に走った刹那。 「さらばだ――」 「私が愛した、神州一の益荒男よ」  振り下ろされた一閃が、いつかのように俺の耐久力を容易く無視して、意識を断った。  ……ああ、そうか。そうだよな。これは至極簡単なことだった。  おまえは俺を容易く討てる。なぜなら、おまえが俺の光だから。  俺を外へと連れ出してくれる。致命の輝きなのだから……  ……………  ……………  ……………  そうして、俺は夢を見る。  ずっと目を背けていたこと。  ずっと思い出さないようにしていたこと。  俺が何で、何者で、何を因として発生したのか。  もはや誤魔化しなど効かない事実がそろいすぎて、誤魔化していいような状況もとっくに終わって。  向き合わねばならない。認めねばならない。でないと最悪の結末が待っていると分かっていたから。  俺は今から、自己の真実と対峙しなければならないんだ。  まず第一に、そもそも俺には名前などないということ。  坂上覇吐というものは、言わば俺の意識が生み出した偶像だ。本当の俺には名前もなければ手足もないし、目もついてなければ口も鼻も耳もない。  少なくとも、正常な役割を果たしている状態でそれらを持ってはいなかった。  この様をヒトであるとか、まして生き物であるだなんて認識する者はおそらく何処にもいないだろう。  事実として、俺の存在を正しく捉えていた者はこの世界に一人もいない。  誰からも知られておらず、誰からも必要とされていない者。  それが俺。名もない不完全な肉の塊。畸形嚢腫の真実だった。  そう、俺は不完全で、醜くて、始まりから圧倒的に欠けている。  俺の正体を直視して、目を背けない者などいないだろうと断言できるほど汚らわしく矮小だ。  自虐ではなく、単にこれは客観的な現実で、有り体に塵である。  何が出来るということもなく、人に不快感しか催させない。そういう存在。  だけどそんな俺にだって、譲れないものはあるんだよ。  俺は生きてる。ここにいる。だから消えたくないし、死にたくない。たとえ滑稽だと言われようと、その程度思うくらいの権利はあっていいだろう。  死にたくない。死にたくない。生きたいんだよ。生きてるんだよ。  だから俺は自分の危機というものに、他の健常な奴らとは比べ物にならないくらい敏感だ。  それに対処するための想念も、並外れて強く深い。  伊達に兄弟が怪物なわけでもなかったし、奴が怖いからこそ奴にへばりついている俺には神座の力が流れ込む。  己の偶像。分身、触覚、代行者……そういうものを創りだすことくらい、なんということもないんだ。  俺は危機を感じていたから。それに対処しなければならなくて、俺の代わりに動いてくれる奴が必要だった。  遠からず、天狗道が完成する。滅尽滅相の時が始まる。すなわち俺が殺されるから、穢土と呼ばれる異物が消去されるだろうことを予知にも似た危機察知力で捉えた瞬間、ソレを創造するに至っていた。  坂上覇吐。 俺の偶像。 手足があって、目鼻があって、好きに動けるように見えるが、その実は俺とまったく同じものだ。 こいつは〈天狗道〉《きょうだい》の〈宇宙〉《カラダ》から外に出れない。  だからこいつに東征戦争などというふざけたことはやめさせて、現状維持をしてほしかった。最初の目論見はそういうこと。  だったけど、二つ誤算があったんだ。  まず一つ、それはこいつが、俺と同じくらい臆病者であったということ。まったく当たり前のことなんだが、我ながら失望してしまうしかない。  自分が何者で、自分の兄弟がどういう奴で、この宇宙におけるどうしようもない仕組み、諸々、綺麗さっぱり忘れていた。知れば恐怖と絶望しか感じないから、その現実から目を背けた。  気持ちは、腹立たしいがよく分かる。俺も忘れられるものならば、忘れてしまいたいと常々思うよ。俺がそういう奴だから、坂上覇吐がそうなることは自然の成り行き。我が身の情けなさを呪うしかない。  そして誤算の二つ目は、俺にもう一つの願望があったこと。  気が狂うほど恐ろしい兄弟から解放されたい。一個の真っ当な生命として、日の光を浴びながら外の世界を歩きたい。  それは自滅の渇望で、外に出ることは死を意味する。だけど俺はどうしても、俺を救ってほしかった。  だから……一度〈覇吐〉《ぶんしん》が死んだときも、思わず創り直してしまっていた。不和之関で、俺の畸形〈曼荼羅〉《うちゅう》に接触したことが後の総てを歪め始めると分かっていたのに。  畸形の属性が濃くなれば、それだけ奴に見つかりやすくなるというのは自明の理なのに。  君が眩しく、一緒にいたくて、外界に憧れる俺は畸形の伝染源となってしまった。  竜胆――だから自分を責めないでくれ。悪いのは君じゃない。  ああ、竜胆。ああ、俺の光よ。俺は君に恋焦がれる。  君を愛して、君と歩いて、輝く世界へ行ってみたい。  俺がそう思うものだから、覇吐も当然そう思う。断崖の先へ一直線、死へと向かって走り続ける。その結果が、この様だ。  許されるとは思っていないが、君に詫びずにはいられない。  苦しめたね。辛かったね。泣かせてしまった。本当に本当に申し訳ない。  強く、凛々しく、健やかな竜胆。俺にとって永遠の憧れで、だからこそ触れるべきではなかった君よ。  高嶺の花どころではない。俺は君を崇拝すらしているから。  〈覇吐〉《おれ》は誓おう。もう逃げない。  おまえが自己を忌み嫌い、偽悪的な芝居をしてまで俺を守ろうとする必要なんか何処にもないんだ。  総てにおいて欠けまくっている俺だけど、断言できることが一つだけあるんだよ。  俺は、そう、坂上覇吐という畸形嚢腫は――  誰よりも何よりも生を尊び、生きることに総てを注げる存在だから死んだりしない。  おまえは俺を光に導く存在で、俺を殺す存在なんかじゃないってことを証明しよう。  俺は生きたい。生きていきたい。  おまえと一緒に。みんなと一緒に。  死にたいだなんて思ったことは一度もないんだ。  俺は〈波旬〉《きょうだい》と戦って勝つ。そのために〈光〉《おまえ》を求めたのだと理解してくれ。  言っただろう。おまえが何処に行っても連れ戻すと。  おまえに俺は殺せないよ。現にほら今だって、何だかんだと死なないようにしてくれたじゃないか。  意識だけ断つように加減して、絶妙に斬ってくれたことくらい分かってるんだよ。腕、あげたんだな。益々惚れる。  ああ、竜胆。竜胆。竜胆。竜胆――  待っていろよ、すぐに助けてやるからな! 「……なんだ、覇吐さんですか」 「……なんだ、宗次郎かよ」  目覚めて、真っ先に視界へ入ってきたのはよく知っている顔だった。  ああ、まあ、そりゃいきなり目当てのお姫様がいるだろうなんて甘いことは考えちゃいなかったが、それでも少なからず落胆した。そこはこいつも同じなようで、盛大に溜息なんか吐いている。 「で、覇吐さんはそこで何をしてるんです? 新手の一人遊びか何かなら、まあ納得できなくもないんですが……」 「んなことするかよ。そっちこそ、なんでこんな所まで来てんだよ……って、ああもういいや」  気付けば、俺はどうも縛られてるようで、またその縛り方がなんつうか、容赦なくて…… 「とにかく、面倒臭えからまずはここから出してくれよ。なんかこう、絶妙に力が入らない縛り方されてて、情けねえ話だが動けねえ」  こんな器用なことまで、竜胆には出来まい。そしてここに宗次郎がやってきたという事実を鑑みれば、誰が犯人かはすぐに分かった。  絶対紫織だ。あの野郎……俺がぶっ倒れた後、竜胆との間に何か契約でもしたのだろうか。よく分からんが、たぶん治療してくれたのあいつだろうし、ともかくまたそろって色々やれる空気が生まれだしてるっていうことだ。  それはそれで嬉しいし、実際のところ頼もしいし。 「そっちもそっちで、どうせ妙なことになってんだろ?」 「お互い、余計な時間はないはずだ」 「そうですね。それにこれは……」  俺の拘束を一瞥して、再度宗次郎は溜息をつく。どうやらこいつも、これが誰の手によるものか気付いたらしい。 「僕にしか解けないようにしているわけですか……やれやれ」 「おい?」 「いえ、何でもありません。少し手荒になりますので、目を閉じていてください。動かれては困る」  瞬間、俺が目を閉じるよりも早く銀光一閃。ちょっとおまえ、せっかちすぎだろ。危うく飛び上がるところだったわ。  と、ぼやきたいのは山々だったが、とにもかくにも拘束は解けた。俺は立ち上がって伸びをする。 「あ、つぅ……やっとこれで動けるぜ。ありがとよ、宗次郎」 「そんで、どうした? 女に逃げられでもしたかよ」 「……さあ、どうですかね。正直、僕にもよく分かりません」 「去ったのか、それとも──」  こいつと紫織の間に何があったか……想像つくようなつかんような感じだが、まあ訊くだけ野暮でもあるだろう。 「……そうかよ。ま、俺もそんなところだ。そう気を落すなよ、生きてるんだから」 「生きてる限りは負けじゃねえし、次がある。死んでないってことは、いつか必ず別の何かが訪れる。間違いねえよ」 「それはまた、ありふれた謳い文句ですね」 「含蓄あるぜ? ──なんせ俺が〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》だから」  俺ほど生き汚い奴はいない。出生ゆえの、必然ってやつだ。  意味が分からないのか、訝しむような顔をする宗次郎。それに俺は、手を振って応える。 「忘れるな……どっちにしろ、俺もおまえも切羽詰ってるのは同じらしいな」 「宗次郎、おまえ竜胆や中院がどこに行ったか知ってるか?」 「竜胆さん? 彼女は──」  何を言ってるんだと一瞬眉を曇らせたが、そこは切り替えの早いこいつのこと、すぐに肩をすくめて言葉を継いだ。 「──まあいいでしょう。冷泉様は僕も探していますが、詳しい行き先は何一つ」 「覇吐さん、紫織さんの行き先は?」 「知らね。つうか、おまえ自分の女に逃げられたのかよ。うわ、だっせーの」  などという軽口は、無論俺にも撥ね返ってくることで。 「はっ、それもまた、お互い様か……」 「…………」  俺ら二人が、そろって宙を仰いだそのときだった。 「こりゃあ……」  格子の向こう側から、空を飛んで何かひらひらしたものが舞い降りてくる。それが俺たちの手元に落ちた。 「式神……夜行さんの?」  これは矢文みたいなもんか。用途は手紙なのだと即座に理解した俺たちは、折鶴になっている式を開いた。  そこには…… 「────」 「────」  こりゃまた、おいおいあの野郎。天眼だかなんだか知らんが、ずいぶん便利なもんを持ってんだな。なんでもお見通しっていうわけかよ。  そこに記されていたのは竜胆の行き場所で、そこに何があって俺たちが何をすべきか、そういうことで…… 「は──なるほどな」 「だから、僕はずっと──」  宗次郎の式に何が書かれていたのかは知らないが、どうせ俺と似たようなもんだろう。  そのまま、俺たちは顔を見合わす。 「どうします? などと、聞くまでもないでしょうが」 「決まってんだろ」  俺は竜胆を救うと誓った。もう離さないと決めたんだよ。  自分が何者かを思い出したから、あいつをこれ以上泣かせたくないから。 「〈淤能碁呂島〉《おのごろじま》だ。そこに竜胆が待っている」 「そして──」  俺たちは、波旬を斃さないといけないんだよ。  〈淤能碁呂島〉《おのごろじま》……そう名付けられた一つの孤島が、秀真から程近い場所、瀬戸内の海に浮いている。  別段、交通の便が悪いという立地でもなく、上陸に適す場所がないというわけでもない。  加えて、島の内部が峻険な様相を呈していることもないというのに、ここは遙かな過去から無人だった。誰もこの地に近寄ろうとはしなかった。  一般に、禁足地と呼ばれる類。何らかの――例えば祟りを恐れてといったような理由をもって、人の進入を禁じている場所。  それが淤能碁呂島。ゆえに、ここは異常である。  なぜなら、この世において祟りなどという概念は存在しない。そういった目に見えない不確かなもの……死後、霊魂、神といった諸々は、抹消されている世界なのだ。  しかし、にも拘らずここには祟りが根付いている。近寄ってはいけないという強迫観念を、人の間に流している。だから誰も踏み入らない。  その原因が何にあるのか、正確に知っている者は一人たりともいないだろう。なぜなら、それを調べることすら暗黙の禁忌と化しているのだから。  ただ、一つだけ。この島を語るうえで言えることは一つだけだ。  ここは国産みの地。かつて世界はここより誕生した。  その伝承のみが世に残り、真偽はともかくそういうことになっている。  初めに言い出したのは誰なのか、まったく一人として知らないまま。  〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈記〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈文〉《 、》〈献〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》。  近づくなというたった一つ、ゆえに何よりも重い絶対法。  宗教というものが存在しないこの世において、そのことが唯一、それめいた戒律だった。  これまで破った者はいないから、破ればどうなるのかも分からない闇の決まりとでも言うべきもの。  その禁忌を、今ここに犯している者らがいるのだ。 「祝言の場には些かうら寂しい所だが、まあ許されよ烏帽子殿」 「何せ今は、世の至る場所で殺し合いが起こっておるでなあ。数が減るのは喜ばしいことなれど、騒がしいのは好かぬのだ」  竜胆を伴って、この地へやって来た中院冷泉に、気負った風はまるでない。むしろ安らいでさえいるかのように、悠々とした態度をとっている。 「我の領内で、無人の地と言えばここしか思い浮かばなかったゆえ、お連れしたが、御身はこの島のことを知っておられるか?」 「ああ、実際に足を踏み入れたのは初めてだが」 「〈淤能碁呂島〉《おのごろじま》……ここが御身の領内にあったことを、今さらながら皮肉に思うよ」 「我もだ。そして確信しておるよ、ゆえにこの身は天下を取れると」 「さあこの中だ。入られい」  言って、島の最奥にある廟堂の扉を開ける冷泉。無論それは彼が建てたものではなく、中に何があるかも分からないはずなのだが、だからといって警戒している感はやはりない。  まるで自室に戻ってきたかのような……そういう気楽さすら見せているのだ。異常と言うしかないだろう。  ゆえに当然竜胆も、まずはそこが気になった。 「冷泉殿、ここは何だ?」 「遺跡の類だというのは分かる。だがそれにしては傷みがまったく見当たらないし、かといって修復作業が成された形跡もない」  いいやそもそも、ここには変化というものが一切ない。穢土のように時間が止まっているわけではなく、単に何であれここに入ったことがないという気配。  人一人、虫一匹、埃の一つたりとも浸入を許さぬ病的なまでの排他性……それがここには渦巻いている。 「御身もここに入ったのは初めてだろう。なのになぜ、そのように泰然としている?」 「勝手知ったるとでも言わんばかりに……本来、ここに入ることが出来る者など……」  ここの主以外、いないはずではないのかと……言いかけて、竜胆は口を噤んだ。  冷泉の目が弄うように、白々しいことを言うなと言っている。おまえも分かっているはずだろうと。 「御身は懐かしくないのか、烏帽子殿」 「帰ってきたと、そのようには感じぬか?」 「つまり、ここは……」  そうだ、竜胆にも分かっていた。分かっていたからこそついてきた。ここは国産みの地。〈淤能碁呂島〉《おのごろじま》……今の世にとって〈根源〉《はじまり》の地に他ならないと。  その意味するところは、一つしかない。 「ここで〈波旬〉《われ》は生誕した」 「生まれたときから、ここで一人になりたかった。そのまま、無謬の平穏に焦がれていた」 「しかし──なぜかな。ある日、気が付いたときから不快だった」 「何かが我に触っている。常に離れることなくへばりついてなくならない」 「なんだこれは。身体が重い。動きにくいぞ消えてなくなれ」 「我はただ、一人になりたい。我は我で満ちているから、この〈太極〉《ソラ》以外は要らぬのに」 「くははははは──ゆえに今、再びここより流れ出さん」  天を見上げて自らを抱きながら、冷泉は喉を震わせ大笑する。  我が愛しい。我しか要らぬ。そう迸る渇望を乗せて。 「森羅万象、滅尽滅相ッ! 要らぬ要らぬ──麻疹の如く掻き毟り、総ての起伏を磨り潰そうぞ。貴様ら滓も残さぬわッ」 「〈波旬〉《われ》の法に〈他人〉《いぶつ》の潜む場所はない。色を違えし痴れ者ども、疾く速やかに消え失せるがよい!」 「〈波旬〉《われ》以外、滅び去るのが正しいだろう」  狂態……紛れもない暴走でしかないそれを見て、竜胆は傷ましげに目を伏せた。 「……哀れだよ、冷泉殿。御身はとうに波旬へ己を明け渡したか」 「己は天下にただ一人、中院冷泉であるという自負自尊。私は苦手だったのだが、それでも意志の強さやその手腕を、少なからず評価していた面もあったというのに」 「御身は波旬ではないだろう。己は己、あれとは違うと……そう貫き通したときにこそ、御身は真に自分自身を得ることが出来たのではないか?」  何より自己を愛した男が、自分を見失っている姿ほど痛々しいものはないだろう。人としての好悪を度外視しても、今の冷泉は見るに耐えないものがあった。 「だというのにその様は何だ。波旬の駒に成り果てたのが嬉しいのか。それではあまりに空しいだろう」 「また世迷言を。我は変わらず〈波旬〉《われ》のまま、何一つ狂うた覚えなどありはせぬ」 「〈外〉《こわ》れておるのは御身であろう。その証拠に、今もまた、何やらおかしなことを考えている御様子だが?」 「実に物騒で、愚かな思い付きを実践するおつもりかと……ふふ、くくくくく」 「…………」  射竦められる。そう表現するしかないだろう。冷泉の眼光はもはや冷泉のものではなく、そこを通して別の存在が自分を見ている。  その気配を強く感じ、竜胆は胸が潰されるほどの悪寒を覚えて言葉が出ない。動けない。 「差し詰め御身、〈波旬〉《われ》と刺し違えるつもりであろう? 随伴したのはそういう意図かと」 「坂上を〈波旬〉《われ》の前に引き摺り出し、首を刎ねるが御身の真実。その未来を厭うならば、なるほど、遠ざけておくしかないものなぁ」 「己が宿主を食い殺す前に隔離しておき、その間隙に宿主と癒着した〈波旬〉《われ》を討つ。稚拙な理屈よ、しかしこれ以外に打つ手はない」 「穴だらけ、陥穽まみれ、総て承知。それでも自分はやらねばらならぬと、健気な想いは結構だが──」 「出来るつもりか、今の我に。天空覆う〈太極〉《ソラ》を前に」  胸のうちをごく当たり前に看破され、よりいっそう竜胆は押し黙る。確かに彼の言う通り穴だらけの方針で、無謀と言ってもまだ足りない。  しかし、だからといって退くことは出来ないのだ。他に手がない以上、竜胆は守るべき者を守るために立ち向かうと決めている。  それを成し遂げる意志の強さを願ったから。自分は彼らの将で在りたいから。  折れてはならない。気力を振り絞って目の前の存在を睨みつける。 「それでも、私はやらねばならん。貴様を討たねばならんのだ波旬」 「きっとそれが、それこそが、私の生まれた意味なのだろう。久雅竜胆鈴鹿はただの処刑人で終わりはせん」 「邪神風情が舐めてくれるな。私の魂はそれほど安くないと知れ」  自分は彼の片割れだから。自分の敗北は彼の敗北にもなってしまう。そんなことはさせない。 「第六天を破壊する。そして後は、他の者に世界を託して逝ければいいのだ」 「あの誇り高き英雄達のように……」  夜刀、常世、夜都賀波岐の面々よ……自分に御身らの真似は出来ないかもしれないが、どうか見守っていてほしいと祈りながら、竜胆は言い切った。 「私の墓標は私が決める。あやつを殺すことが私の真実というのなら、何としてでもそれに反逆してやるまでだ」 「自滅の法など紡ぎはせん。滅する相手の矛先ぐらい、選んでみせようではいか」  凛と、捨て鉢と言うにはあまりに清い覚悟の言葉は凄烈だった。  それで並の者なら怯みもしよう。膝をつく者もあるいは少なくないかもしれない。  しかし今、彼女と対峙しているのは中院冷泉。狂天狗の継嗣たる、魂なき〈射干〉《シャガ》である。姫将軍の威勢を前に、微塵も心は揺れていない。  むしろその気概を嗤うように、竜胆の心を砕く〈咒〉《ことば》を紡いでいった。 「ほう……」 「だがしかし、御身は何も分かっておらん」 「なぜならあの者、ここにのこのこと来ておるぞ。御身の香りに惹かれたのかな?」 「────ッ」  その言葉が意味する事実。それに竜胆は一瞬のうちに崩されて。 「な、それは……」 「誠よ。嘘を言って何とする。〈波旬〉《われ》にそのような機能はないぞ。なぜなら虚偽とは、他者に向けるものであろうが」 「〈波旬〉《われ》のみ愛する我が何ゆえ、〈波旬〉《われ》に嘘など吐かねばならぬ。それでは意味が通らぬだろう」 「なあ烏帽子殿、御身、〈我〉《 、》〈を〉《 、》〈信〉《 、》〈じ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈く〉《 、》〈れ〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?」 「信じる……御身の大好きな、良い言葉であろうになあ」  覗きこんでくる大欲界の眼光に、竜胆は知らずの内に目を伏せて。 「あの、馬鹿は──」  搾り出すように漏らした瞬間、冷泉は腹の底から弾け笑った。 「くくくく、はははははははは──」 「なんと滑稽。実に、実に嗤わせてくれるなぁ塵どもは! 哀れで愉快でたまらぬわッ」 「それが絆か、忠義とやらか? 〈自己愛〉《われ》といったいどこが違う、何が変わっていると言うのかなぁ……ははははは!」 「〈癌〉《おんみ》の侵した細胞が、甘美な破滅を忘れられぬと、ただそれだけのことであろうがよ。〈名分〉《ガワ》を剥げばそのようなもの、自分のために死にに来ておる」 「それを御身ら、忠だの仁だの捻った名前で弄ぶのが好きなだけよ。生のままでは目に痛いから、柔弱な言い訳を持ち出して包装しておる。一手間かけておるだけであろうが」 「結果を見よ。御身は実に手際よく、あれをここまで引き摺りだした」  指差して笑う冷泉に、竜胆は反駁できない。事実はそのようになっている。 「大義よ、見事よ、天晴れなり! いざ共倒れよ、喝采せしめん。おおなんと都合のいい塵屑どもだ!」 「第六天は完全無欠。誰にも破れぬ、誰にも絶てぬ! 朽ちぬ砕けぬ負けなどせぬわッ」 「どこぞの塵が、不遜にも勝ちを謳っておったようだが──」  〈波旬〉《きさま》の負けだ。かつてそう言い遺し消えていった穢土の主柱に、満腔の嘲罵を叩きつけながら。 「戯言を、思い上がりも甚だしい。趨勢、もはや決しておろう」 「──〈波旬〉《われ》の勝ちよ。さあ、喰らい合え。喉がひび割れ枯れるまで、この大欲界天狗道を讃えるがいい!」  爆笑。爆笑。爆笑する。ひとしきり笑い転げたその後で、不意に素へと戻った冷泉は、竜胆を見て言った。 「と、いうことでだな」 「もう御身の役目は終わったのだよ」 「―――――」  何の情感も篭らない、畜生の声でそう告げて。 「さらばだ」  閃いた銀光の一閃が、一刀のもとに竜胆を斬り捨てた。どうと倒れるその身を見下ろし、血さえろくに流れない遺骸の傷口を、足で弄び転がしながら、愛撫するように愉悦と嗚咽の混合を漏らし始める。 「くく、くくくく、くくくくく……」 「ああ、悲しい。悲しいなあ。焦がれた女を殺してしまった。我はなんと罪深い男であるのか。――素晴らしい!」 「こんなに〈悲しい〉《かがやく》男は他におるまい。我は〈唯一〉《ひとり》、〈無二〉《ひとり》なのだ!」 「ゆえに――」  瞬間、ぎんと視線に魔気を込めて、冷泉は柱の影を睨み据えた。 「おまえも我を讃えて舞うがよいわ。出て来い、玖錠――気付いておらぬとでも思ったか」 「…………」  もはや隠れられぬと悟ったのだろう。いや、隠れる気がなくなったのかもしれない。ともかく紫織は姿を現し、冷泉に敵意の眼光を向けている。  だがその反応も、彼にとっては茶番でしかなかったらしい。 「何かな、その目は? 我が許せぬか、斃したいか?」 「ああ、相手をしてやってもよいのだがな。その怒りは的外れだぞ。〈竜胆〉《これ》はまだ、何をしようと死になどせん」 「あの男がおる限り、何度殺そうが蛆のように死の淵から湧いてきおるわ。これまでもそうだったであろう」  自滅因子は、宿主が存在する限り何があろうと絶対死なない。たとえ心臓が止まっていようと、その身に体温がなかろうと、必ず動く。黄泉返る。 「だが、此度はどうかな。〈黄泉返り〉《めざめ》の前に我があの男を討ち滅ぼせば、無論のこと戻ってこれん。ああ、素晴らしい愛であろう。我は彼女を解放するのだ」 「下賎の畸形から、その定めから、いと高きところへ解き放つ。誠、恋ゆる女子へ贈るに相応しい行為であろうが」 「なあ、祝福せよ、万雷の拍手を送れ! おまえら塵は塵らしく、喰らい合う業を全うしながら我を寿いでおればよい」 「これも祝言。そちらも祝言。〈陰陽〉《だんじょ》の交わりに口を出すような野暮はするな。平たく言えば、犬も食わんのだよ。おまえはおまえの男を恋ゆれ」 「もとより、それを最優先して来たのであろうが。私も益荒男に恋している――などと言っておったものなあ。死合の続きがしたいのであろう」  紫織はそれに応えない。しかし否定もしていない。  彼女には彼女の理由があって、成すべきことがあったから。  ここでこの男を打ち倒すのは、自分の役目じゃないと悟っている。  それを察したからこそ冷泉は、なお一層のこと喜悦を深めて。 「善き哉。〈淤能碁呂島〉《ここ》以上の御前は無い。神の御座にて神楽を舞えよ。玖錠紫織に壬生宗次郎、誠に役立つ塵であったと、第六天が褒めて遣わす」 「憂いなく、迷いなく、己が愛を貫き通せ。燃え果てるまで抱き合うがよいわ」 「ふふはは、ははははは、ははははははははははァ──!」  割れんばかりの哄笑が、神座を模した廟堂内に轟いていた。  そんな、何やら不吉な波を感じながらも、俺たちはついに目的の地へとやって来ていた。 「着いたな」  質素な木船から降り立って、同乗していた宗次郎もそれに続く。  淤能碁呂島の浜辺は夕日に染まる紅で、血を連想させていたが、いちいちそんなことなど口にしない。  ただお互い、今は先のことに注力するのみだろう。 「俺はこれから竜胆の所へ行く。だから、おまえはおまえでなんとかしろや」 「自分の女の問題は各々自分で決めようぜ。助太刀なしの一騎打ち。そうじゃないと、俺らいい加減ダサすぎるだろ」 「他はとりあえず後回しだ。一番大切なものだけは、絶対譲らずにいく方針でよ」 「僕は別に……」  と、ここに来てまだ歯切れの良くない宗次郎。なんか見てて腹立ったんで、いっちょ発破をかけてみた。 「うわぁ、この期に及んでまだ何か言っちゃってるよこいつ。素直になれよー、本音で来いよー、紫織さんは僕の大切な肉奴隷だっ、とかさぁ」 「────」 「おわッ! ちょ、おま、マジでかすった……!」 「ありえねえって、ここは分かれよ俺の優しさ。冗談で緊張ほぐしてくれたのか、さすがカッコいいぜ覇吐さんってな感涙場面のはずだろうが」 「そういう対応が好みなら、もう少し空気を読んでいただければよいのですが」  だからって、いきなり喉狙うかねこの野郎。危うく生きた笛になるところだったじゃねえか。大事の前に命取られてちゃ堪んねえぞ。  冷や汗だらだら流しながらぼやく俺に、宗次郎は呆れたような溜息をつく。 「まったく……あなたは本当に変わらない」 「うるせえよ。その台詞、そっくりそのままおまえに返すぜ」  こんな顔して血の気が多いし手が早い。ほんと、出会った頃からこういうところは変わんない奴だよ。 「けどまあ、どうしてこうなるかね。奇縁だな。つくづくよ」 「そうですね、何をどうしてこうなったのやら。これもお互い、最初に顔を合わせた縁でしょうか。だというのなら、少々後腐れが過ぎますけど」  あいつらの中で最初に顔を合わせたのは、俺にとって宗次郎だった。そこから縁が続いているというのなら、この構図も中々に面白えじゃねえかと思える。  あの頃は、お互いどうにも駄目だったな。纏まりなんて欠片もなく、手の付けられねえ聞かん坊。まったく竜胆の苦労が偲ばれるぜ。  役目を終えればずんばらりん。そういうものだと理解してたし、異論もありはしなかった。記憶が痛いとはこういうことか、情けなくて仕方ない。  だが今は、少しはマシになったということで、どうか勘弁してほしい。  変わっていないと言われたが、俺もこいつも別の何かを感じられるくらいにはなってるよ。そいつを必ず証明してやるからさ。 「もう感づいていると思うので打ち明けますけど……東征が終わった際、僕は覇吐さんとも切り結んでみたかった」 「実際そのつもりだったし、そのやる気もあったんですけど。何の因果か機を逃し、こうまで見事に先延ばしで……」 「惰性というものは恐ろしい。一度ふんぎりがつかなくなると、どうにも興が乗らなくなる。焦がれたものさえ気づけばどうにも面倒で」 「ここまで、後回しにしてしまった」 「知ってるっての。おまえ、モロバレすぎて分かりやすいし」  全部斬りたいという想い。そこは不変のままだろうし、よく理解しているところだった。  その衝動に対し、巧く説いてやる口を生憎俺は持っちゃいない。けどまあ、代わりにはっきり答えられる女を知ってたから── 「ま、それでいいんじゃねえの? 事が終われば後で幾らでも相手してやるよ」 「全部終わった後になっても、まだ何か足らないと言うならな」 「そうはならない、とでも言いたそうですね」 「分かってないねぇ、女相手に出すもの出しゃあ男はすっきりするもんなのだよ。宗次郎くん」 「溜めたもん、残さず丸ごと出してきな。あれはおまえの女だろう。おまえの膿を受け止めてやる度量くらい、あいつしっかり持ってるはずさ」  そして身も心も軽くなったら、分かってるよな?  本当に戦わなきゃいけない相手が何なのか……全部終わらせた後っていうのは、それを片付けた後なんだぜ。  すっきりするのはいいとしても、それで燃えつきたりはするんじゃねえぞ。 「しかし、まさかおまえと一緒に女のことで頭悩ますようになるとはなぁ……」 「さっきから自分の問題は棚に挙げている様子ですが、そうですね……約束したなら仕方がない」 「ああ、まったく仕方がねえ」  宗次郎はその場に残って、俺はそこから島の奥へと。 「遂げろよ」 「そちらも」  別れる寸前、互いの未来と再会を祈って、俺たちは含み笑った。  そして俺はただ一人、淤能碁呂島の奥へと向かう。  途中、紫織と行き合って、多少話もしたんだがそれはいい。あいつらにはあいつらの優先すべき事情があるのだから、俺が口を挟むことじゃないだろう。犬も食わないというやつだ。  それは勝手にやれというわけじゃなく、あいつらのことを信じているから。俺は俺のやるべきことに集中し、手が足りない部分は仲間たちに任せればいい。  なんでもかんでも自分一人じゃ出来ないってこと。それで通そうという世の中が、どんなものになるのかっていうのはこの目で見た。だから今ここにいる。  なあ竜胆、おまえが教えてくれたことなんだぜ。そのおまえが、俺たちから離れて抱え込もうなんてするんじゃねえよ。  今の世の中、この天狗道で、そういう選択はきっと最悪の方向にしか転がらない。  俺はそれを、誰よりも知っているから。  たとえなんと言われようと、おまえと共にいたいんだよ。 「―――――」  辿り着いたその場所で、俺は奇妙な感覚に囚われた。こちらを待ち構えるように存在している廟堂を見て、全身の肌があわ立っていく。 「なるほど……」  懐かしい、という気にはなれないな。できれば永劫に関わりたくなかったもの。何としてでも逃げたいと思っていたものが今、目の前にあるのだ。  しかしもはや、退く気は微塵も存在しない。恐怖はまったく消えていないが、それで足を止めることは出来ないんだ。  俺は朝日が見たいから。輝く曙光を求めているから。夜を突っ切らなければその場所には至れないと知っている。 「だから、なあ、気合い入れろよ俺」  意志に反して拒絶反応を起こす身体が、びりびりと振動しながら俺を弾き飛ばそうとする。それはここにいるだけで、頬や手の肉が裂けるほどのものだったが、一切無視して前へ出た。  舐めるなよ、糞野郎。俺は死にに来たんじゃない。  そう奮い立ちながら堂内へ入ると、そこには地下へ続く階段のみが存在していた。まるで奈落の底へと〈誘〉《いざな》う雰囲気……ああ、俺はこの狂気に満ちた閉塞感を知っている。  地下一階に降り立ったとき、そこでは目が痛くなるような色彩が俺を迎えた。 「これは……」  一言でいえば真っ二つ。そう表現するしかない空間だった。堂内は紅白の二色によって完全に分けられて、そのあまりに徹底された状況に遊びは一切存在しない。  そこにいるだけで、平衡感覚が狂ってくるような部屋だった。まともな神経で長居できる場所じゃないし、この模様を生んだ奴もまともじゃない。  目を眇めながら歩いていくと、部屋の中心部にある祭壇に、何かの像が据えられているのを見咎めた。  いったいなんだと、訝りながら注視すれば…… 「この像、女か……?」  戦装束に身を包み、口を引き結んで座っている女の像。勇ましく凛々しい女丈夫とでも言うべきだろうが、俺にはそいつが、どこか病んでいるように感じられた。  女の武将という点では竜胆と同じだが、こいつに包容力や慈愛はない。端的に言って、余裕がないのだ。張り詰めたその表情は仮面のようで、全身を武装しないと壊れてしまいそうな危うさがある。  ただの女が祭り上げられ、そこから逃げられない己に絶望しながら心の奥で泣き叫んでいる。そしてそんな己を騙すことに全身全霊を集中している。  そう感じるのは、気のせいだろうか? 「いや、待て……」  ふと見れば、像の台座になにやら碑文が刻まれている。それは見たこともない文字で、当然のように解読できるはずもないのだが…… 「分かる……」  読めるぞ。俺にはこの文字が理解できる。呆然としたまま憑かれたように、俺は碑文を読みあげていった。 「その者、善を行う魂なれば、悪なくして生きられぬ。己を善なる者と信じねば、築きあげた屍山血河に圧殺されると恐怖するゆえ」 「我が討ったのは悪しき者。滅ぼされてしかるべき邪な者。ならば我は正当なり。罪の意識など持っておらぬし持ってはならぬ」 「世には正義と悪がある。我が滅ぼしてよい邪悪が要る。人は二種のみ。でなくばこの戦乱を許容できるはずもない」 「…………」  これは、なんだ? 言わんとすることは理解できるが、こんなことがここに書かれている理屈が分からない。  この碑文は、何を示しているものなんだ?  頭の奥で何かが嵌りかけているのを感じながら、俺は続きを読んでいった。 「ゆえにその者、天を二つに分断した。善なる者と悪しき者、光と闇が喰らい合いながら共生する空を流れ出させた」 「人が神座という巨大な力を生み出した時代、その争奪によって疲弊しきった世に生まれた身であればこそ、二元論に逃げ込まねば生きていけなかった哀れな女」 「これぞ始まりの理、始まりの座、初代の神が背負った真実の総てである」 「…………」  読み終えて、俺は思わず宙を仰いだ。  なるほど、これはそういうことか。この廟堂は、歴代の座を一つ一つ祀っているのだ。  その理が何だったか。その魂はどうだったか。言わば宇宙の記憶を模した縦穴。下に行くほど、当代の座に近づいていく。  つまり、ここの最下層には…… 「行くか……」  踵を返し、さらなる地下へと続く階段を求めようとしたそのときに、ふと目に入ったものがあった。  台座の側面、殴り書きのような乱雑さで別の碑文が刻まれている。  そこに書いてあったものは…… 「以降、神座が奪い合いを常とするようになったのも、あるいはこの神の呪いやもしれぬ。戦乱は無限に続く。始まりの座がそうした理を生んだのだから、この宇宙に真なる平和は有り得ない」 「その結末を見届けるため、女と共にあった男は永劫の流離いを自身に課する。あらゆる宇宙、あらゆる座、あらゆる戦乱期の中枢に関わり続け、さりとて主演には断じてならず、女に操を捧げたまま、不能者として物語を流れていく者」 「どのような座の理からも、ある意味で外れている特異な存在。我らはこの男を、観測者と呼んでいる。そしてこの男が現れたときこそ、すなわち当代の座が亡滅する兆しである」 「ゆえに、この〈文〉《ふみ》を読んだ者に強く願う。どうか御身よ、観測者と出会っていてくれ。アレは滅びるのだと言ってくれ」 「我らが生み出したあの者は、存在してはならぬ者だったのだ」 「…………」  筆跡の荒れ具合からも感じ取れる、血を吐くような祈りの声。ああ、これは遺言なのかと思いながらも、俺は正直なところ唾を吐きかけたい気分だった。 「何を言ってやがる」  観測者だと? 存在してはならない者だと? 俺はこんな奴らのケツを拭きに来たわけじゃない。 「俺は、俺たちが生きるために戦うんだ。おまえらは、ただの自業自得だろう」  吐き捨てて、俺は今度こそ踵を返した。  まだ、たったの地下一階。これよりさらに、俺は奴のところまで降りていかなければならないのだから。  ……………  ……………  ……………  そして辿り着いた地下二階。そこは真紅の部屋だった。前より統一感は取れてるものの、だからといって目に優しいということはない。  これはこれで、非常に面倒な天だろう。鮮血そのままを思わせる世界の色は、剥き出しの人間性というえげつないものに満ちている。  いったいこの座は、どういった理なのか。部屋の中央に据えられていたのは、威風と威厳に満ちた初老の男の像だった。  軍神……第一印象として、そんな言葉が浮かんでくる。しかし同時に漂う気品は、この男が高い知性を有する統治者だった証だろう。  台座の碑文には、こんなことが刻まれていた。 「その者、二元論における善側の王の一人として生まれるものの、完全なるその善性から、悪を滅ぼし尽くせぬ己に悲憤を抱く」 「我と我が民たちは善ゆえに、縛る枷が無数にある。犯せぬ非道が山ほどある。それは戦において致命的な遅れを生むと分かっていても、善である以上は決行できない」 「事実、善の側は開闢以来、常に劣勢へと立たされていた。〈善〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈で〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》という理のもと、世界の覇権を狙うのは常に悪。敗亡の淵で足掻き続ける光こそが善なれば、男は常勝の王たり得ない」 「民を守れぬ。兵を生かせぬ。善たる己が悪を一掃できずにいる」 「その不条理にかける憤りが有した重量は、悪がなければ存在できぬという始まりの理を凌駕した」 「我が民たちよ、悪を喰らう悪となれ。一つでよい、その魂に獣を飼うのだ」 「聖者の堕天――新たな理は、天下万民に刻み込まれた原罪として具現する。男の法はある意味で、二元論以前の状態に世を戻したとも言えるだろう」 「人は誰しも、心の中に一塊の闇を持つ。そうした自然さを取り戻したという意味でなら、男は偉大な存在だった。彼こそもっとも人に近しい神座であろう」 「罪を抱いて堕天せよ。禁断の果実を食さねば、人は人たり得ない」 「これぞ二代目の理、二代目の座、二代目の神が背負った真実の総てである」 「…………」  なるほど。まあ分からんでもない流れだろう。要するにこの男は、女子供の夢物語めいた理想に付き合いきれなかったということだ。  善と悪。その定型みたいなものに分割され続けるくらいなら、みんな灰色になってしまえと。  結果的にこの座を象徴する色は赤だが、だからといって悪の楽園では断じてない。  当たり前の、自然な形の、自由ゆえに本能を重んじる畜生の混沌。  堕天した世界。罪を皆が持つ世界。人らしいという意味では、この上なくその通りだ。そのぶん悲劇も多かったろうが、それが理ということか。  力があれば、それなりに楽しくやれる世の中かもな。弱肉強食ってやつだろう。  男が求めた悪の一掃とは掛け離れてしまったが、戦って排除するという前提ゆえにこうなった。皆に牙を持たせれば、無謬の善性なんて生まれ得ない。  この理、個人的には嫌いじゃないという感想を胸に、俺は第二天を後にした。  ……………  ……………  ……………  地下三階は白の部屋。一点の曇りもなく磨き上げられた、穢れ一つない世界だった。  一般に、新雪を敷き詰めたようなという比喩がある。無垢で清らかなものを意味するが、同じ白でもここを雪のようとは評せない。  これは、何と言うか塩の海だ。純白であることだけは同じだが、強烈に殺菌されており、非常に厳しい。汚れたものがここに落ちたら、骨まで溶かされそうな気配がある。  いったいこの座は、どういった理なのか。部屋の中央に据えられていたのは、哲学者めいた若い男の像だった。  ……こいつもまた、第一天と同じく遊びがない。とはいえ張り詰めているという感じはなく、素でこういう奴なんだろう。  超絶難解な計算を、永遠に一人でやりながら苦にも思っていないような印象を受ける。  台座の碑文には、こんなことが刻まれていた。 「その者、ただどこまでも潔癖だった。他者はもとより、己に宿る罪それ自体が許せなかった」 「原罪という獣を魂に持つ人の世は、文明の爛熟と共に腐り始める。それは当然のことであり、破壊と再生の円環こそが二代目の理なのだが、男はそれを許容できない」 「一度目の過渡期において中心に立った男は、既存文明を破壊するという所業を前に極限を超えて悲嘆した」 「我は何と罪深い悪なのか。我のような者を生んだ存在は、何と底知れぬ痴愚なのか」 「罪を拭わんとするその祈り、救済の嘆きをもって男は座を塗り替える。あらゆる罪業の駆逐された、穢れ無き純白の天上楽土」 「歴代の座において、人の悪性を完全に駆逐したのは彼一人。その清さ、その聖性。彼こそ神という概念に対する、もっとも普遍的な印象を具現させた者と言えるだろう」 「清らかであれ。罪を犯すな。我欲を捨てろ」 「だがその徹底した潔さゆえ、この治世に人間性は存在しない。完璧な管理社会であり、数理的な整然さのみが満ちている」 「合理的、かつ論理的。人の愚かさを理解しないし認めない」 「それは男の性質そのままであり、ならばこそ亀裂が走れば退陣することを迷わない。我の法に過ちがあったなら我は要らぬと、責任感という我執が欠如した在り方」 「万象、まるで電子の機械のごとく」 「これぞ三代目の理、三代目の座、三代目の神が背負った真実の総てである」 「…………」  読み終えて、頭をひねる。これはつまり、要はあれか。二代目の理想を完成させたっていうことか。  人から悪性を完全に駆逐する。善なる者しか存在しないし、存在させない。  確かに罪や欲望というものを人の魂から抜き出せば、そういう世の中になるだろう。だがその結果に関しては、完全に好みが分かれるに違いない。  まるで機械のごとく。そう締め括られている通り、この座に人らしさは存在しない。数式の具現めいた男だから、全部が論理的なのだ。一足す一は四とか五とか、そういう答えを認めない。  不条理、不合理、その手のものがないんだろう。ただあれをやればこうなると、一から十まで定められている管理社会か。  実際に住んでみれば天上楽土かもしれないが、正直俺には苦手な感じだ。あまり関わり合いたいとは思わない。  そんな感想を胸に抱き、俺は第三天を後にした。  ……………  ……………  ……………  地下四階。そこは一面の青だった。いや、〈藍〉《あお》と言ったほうがいいだろうか。清浄さよりも深く沈殿したような、海の底を思わせる停滞した雰囲気。  なんだか、妙に息苦しい。ここは一言でいうと単に狭い。ある種の閉塞感に満ちていて、何処にも出口がないように思う。  誰も何処にも進ませない。世界自体がそう言っているかのようで。  いったいこの座は、どういった理なのか。部屋の中央に据えられていたのは、枯れ木のように痩せ細った、しかし異様な妄執を感じさせる男の像だった。  どこかで見たような顔だったが、思い出せない。しかし一つだけ断言できる。こいつはちょっとした奇人だろう。  座に達する者なら皆まともじゃないと言えるのだろうが、その中でも飛び抜けた情念を感じる。  台座の碑文には、こんなことが刻まれていた。 「その者、特異な存在なり。これまでの座は、総て前任者の理に対する〈歪〉《ひずみ》として発生し、善悪の交代でしかなかった状態に終止符を打つ」 「男が有する特殊性の中でも最たるものは、彼の渇望が時間軸を無視していたこと。何某かの経験によって強烈な想いを抱き、そこから神域の念を発生させるという原因と結果が入れ替わっている」 「すなわち、すでに神座にある己を知覚したからこそ、そこに至った。それまで単一時間、単一宇宙のみで構成されていた座の機構を、破壊し書き換えたのが彼である」 「現在過去未来の内包、多元的並行宇宙の同時掌握。それを成したこの男は、過去三代を上回る最大の支配領域を獲得した中興の祖と断言できる」 「簡潔に述べるならば、三代目の座にとってこの男は、別の時間軸と宇宙から飛来してきた怪物に他ならない」 「原因と結果を入れ替えたことによって発生した彼の宇宙は、歴代で類を見ないほど摩訶不思議なものと化す」 「神座となった彼が、原因不明の既知感に苛まれながら放浪すること幾星霜……その果てに出会った女へ抱いた激烈なまでの恋情」 「我はこの女の手によって生を終えたい。その刹那に、至上至高の未知をくれ」 「男の渇望はその一点。しかもそれが発動したのは、神座にあって己が自滅因子に討滅された瞬間である」 「意味が分からない。理屈が通らない。神となった彼が、死の間際に神となって流れ出すなど、誰が見ても筋道として破綻している」 「しかし、彼はそれを可能にする者なのだ。多元時間、多元宇宙、あらゆる領域に手を伸ばしてその不条理を成立させる」 「彼の数多ある持論の一つに、以下のようなものがある。特異な者がなぜ特異であるかなどと疑問を持つな。そこに意味は何も無い」 「それはひとえに、たいした理由もなく己に付与していた超越性……それに対する自嘲と自噴なのだろう」 「我を殺してよいのは彼女のみ。ゆえに嫌だ。ゆえに認めぬ。我はこんな死に方などしたくない」 「爆発する恋情と悔恨によって流れ出したのは、万象あらゆる者が無限に同じ生を繰り返す回帰の理。男は理想の死に辿り着くまで、何度も同じ生を反復する」 「愛する宝石よ、我を討て。どうかその手で、喜劇に幕を引いてくれ」 「その結末を得るためならば、森羅万象あらゆるものは、彼女を主演として機能する舞台装置。我が脚本に踊る演者なり」 「さあ、今宵の劇を始めよう」 「これぞ四代目の理、四代目の座、四代目の神が背負った真実の総てである」 「…………」  ちょっとよく分からない。つまりなんだ、こいつの法は総てを永遠に繰り返すこと?  たとえば俺が死んだ瞬間、また俺として誕生し、まったく同じ生を送るということなのだろうか。魂が過去に引き戻されてしまうと?  時間軸を無視する法則。そう言われている通り、確かにこの座は非常に奇妙だ。明らかに前三代とは一線を画している。  諸々抜きの直球で言えば、神座として出鱈目に優秀な奴なんだろう。こいつの代で既存概念をいくつもぶち破って、新たな形態を誕生させたことは間違いない。  だがそれでありながら、渇望の根源が未知というのだから皮肉な話だ。それを好いた女に求めて、だけど悉く失敗して、何度でもその女に巡り合いたいから一切の運命分岐を封殺した。結果無限に振られ続ける。  なんなんだ、この男は。まるでタチの悪い変質者だが、とんでもなく純粋だったのも確かだろう。  自らが描く喜劇に踊る道化の神。万象、女のための舞台装置。  こいつの宇宙に端役として登場する羽目になった奴は、堪ったものじゃないはずだ。俺も絶対ご免被る。  そんな感想を胸に抱き、俺は第四天を後にした。  ……………  ……………  ……………  降り立った地下五階。そこは優しい黄色に満ちた部屋だった。  激しくなく、暖かく、総てを包んでくれるような労りの世界。いるだけで、心がある種の安らぎに満たされる。  いったいこの座は、どういった理なのか。部屋の中央に据えられていたのは、ふっくらと可愛らしい微笑を湛えた、女の子の像だった。  これはまさか、いや間違いない。第五天に祀られている以上、確実と言っていいだろう。  台座の碑文には、こんなことが刻まれていた。 「その者、神によって改良された神座なり。本来、求道の神格であったものの、先代の座によって見出され、彼の後継者となるべく喜劇の主演に引き立てられた」 「ある意味で、もっとも先代に玩弄された存在だが、彼女に憤りや嘆きはない。なぜならその生涯で、他者と関わることが一切できなかった身であるゆえに」 「強固な呪いを宿して生まれ、触れれば首を刎ねてしまう。ならばこそ、誰も近寄れぬ永遠の宝石として在り続けたが、その本心では他者との触れ合いを切に切に望んでいた」 「先代が演出した喜劇、その主演として立ち回る日々が彼女を溶かし、変えていく。愛する者を見出して、守りたく思う輝きの尊さを知り、真に完全なる覇道の神へと、劇的な変貌を遂げていく」 「抱きしめたい。包みたい。愛しい万象、我は〈永遠〉《とこしえ》に見守ろう」 「完成した彼女は慈愛の女神。過去、例を見ないほど柔らかなその治世は、すべての生命が生まれ変わるという転生の理を具現する」 「世に悲劇や争いはなくならない。しかし、かといって異なるものを排斥すれば、過去の座がそうであったように必ず〈歪〉《ひずみ》が生じてしまう」 「ゆえに女神は抱きしめた。善も悪も何もかも、悲劇そのものはなくせないが、転生の果てに必ず救いが訪れると、あまねく総てを慈しんで」 「その愛、子を見守り成長を望む母性の具現と言えるだろう。優しき母を嫌う者など存在するはずがなく、それを証明するかのように、彼女は彼女だけの驚異的な特性を有していた」 「本来、絶対に共存できぬ覇道神を、同時に存在させ得ること。抱きしめるという渇望通り、彼女の腕に抱かれた者は、たとえ荒ぶる戦神であろうと安らかに微笑んで矛を収める」 「黄金、水銀、刹那という、いずれ劣らぬ強大な覇道神が、彼女を守護すると誓うほどに女神の治世は揺るぎない」 「これぞ五代目の理、五代目の座、五代目の神が背負った真実の総てであり――」 「…………」  読み終えて、絶句する。ああやっぱり、これか、この子か。 「つまりこれが、夜刀の女神だったっていうわけかよ……」  確かに、あいつらが俺たちを憎悪していたのも頷ける。読む限り、この女神は完全だ。その治世は命を賭しても守り抜く価値がある。  まして、それが今のような、あんなものに取って代わられたというのなら……誰であろうと断じて認められないだろう。 「夜刀、おまえよ、なんてもんと比べるんだよ」 「〈黄昏〉《これ》に負けないものを創れって? 無茶振りもいいところだぜ」  だが、託された以上はやらねばならない。俺たちが求める曙光を信じて、前に、前に、進まなければと……  そう思いながらも…… 「くそ……」  刻まれた碑文にある最後の一行、それを目にしたまま固まって、口にも出来なかったのは、すると〈腸〉《はらわた》が腐りそうだったからだ。  地下一階の台座に走り書きされていた泣き言が思い出される。  こいつら、この狂った奴らは、結びにこんなことを言っていやがる。 『当代、〈い〉《 、》〈ま〉《 、》〈我〉《 、》〈々〉《 、》〈を〉《 、》〈包〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈黄〉《 、》〈昏〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈名〉《 、》〈の〉《 、》、〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈と〉《 、》〈も〉《 、》〈つ〉《 、》〈ま〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈宇〉《 、》〈宙〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》』 「ふざけやがって……!」  搾り出すような憤激の声に、喉の奥が切れそうだった。 「女神さんよ、あんた甘すぎんだよ」  こんな奴ら、抱きしめる価値もない。見守って、成長を期待するような意味なんかない屑なんだよ。  神座といえども、人間一人一人の性格や人生を設定しているわけじゃない。初代、三代、四代にはその傾向があったものの、二代目と五代目の彼女は人の自由意志を重んじていた。その弊害がこれなのか。  おそらく、自由型は短命になりやすい。  幸せになって、幸せになって。大丈夫だよ、私が抱きしめているからきっとあなたは立っていける。未来を、光から目をそらさないで。  ああ、女神の祈りが直に聞こえてくるようだ。その温もりを感じるようだ。  いや実際、俺はそれを聞いていたし感じていたんだろう。  だから生きたい思った。たとえどんな様に生まれても、希望を捨てずにいられたのはきっとそれだ。そのお陰だ。  俺は彼女に包まれていた。この穴の底であいつにへばりつきながら、女神に守られていたというのに…… 「あんたの手を、自分に触れる何か鬱陶しいものという程度にしか、あいつは感じていなかったんだな」 「そして、あいつがそうなった原因である俺や、ここの糞どもと誤解されたまま、身代わりになって……」  ちくしょう、救えない。救えなさすぎる。どうしてこう女ってのは、どいつも自己犠牲の気があるんだ。  竜胆も、あいつもそうだよ。ふざけるな――ふざけんじゃねえ!  俺のせいで二度までも、そんな悲しい女を生んでたまるか! 「見ててくれ。仇はとるし、ケジメ絶対つけるから」  強くそう断言して、俺は最後の階段を下りていった。  六番目の座。六番目の天。第六天波旬が誕生した空間へと――  もう恐怖はない。そんなものなど関係ないほど、胸の魂が猛っているのを感じるから。  俺はこの国産みの地で、何よりも自分の人生に決着をつけないといけないんだ。  そして――  辿り着いた最下層、そこは一部の隙もない黒に覆われた空間だった。  墨のようなという比喩があるが、これはそんなものじゃない。血と糞尿を際限なく塗りたくったような狂気の漆黒。居るだけで脳が液化しそうな激烈極まる悪臭が押し寄せてくる。  部屋の中央、上階では祭壇と神像が据えられていたその場所には何もない。そして、ここに置かれるべきであったモノがなんだったのか、俺には分かる。  そいつが今、何処に座っているのかも…… 「その者、三つ目の畸形なり。常とは異なる容貌から忌み嫌われ、口減らしとして二束三文で売られた者なり」 「────」  柱の影から含み笑うように流れてくるその声が、碑文の代わりにこの第六天を語っていた。 「当時、即身仏という行ありき。瞑想のまま絶命した聖者の木乃伊をもって神体と成すこの行に、その者は捧げられる」 「無論、そこに彼の意志などありはせぬ。未だ幼き〈童〉《わらべ》であり、抵抗など不可能なれば、だからこそ彼を買った者たちにとっては都合がよい」 「異形の容姿も、見方を変えれば荘厳なりと寿ぐばかり。その裏に隠れた真実に、誰一人として気付かない」 「彼は穴の底に落とされた。その上に五重の廟堂が建てられた。接触する者は誰もなく、脱出不可能にして光は届かず、彼はその闇に埋もれていく」 「幾日、幾月、幾年も……彼を買った者たちが、どのような〈法〉《かみ》を望んでいたかは分からない。しかし、この所業が意図するところは察せられる」 「外界への渇望。狂おしく悲嘆する呪いの喚起。蠱毒、犬神に相通ずる外法をもって覇道を成し、黄昏の万象を塗り替えること」 「浅はかなり、と言わざるを得まい。なぜなら彼らは、彼の本性をついぞ見誤っていたのだから……」  含み笑いが大きくなる。それはやがて、堂内を震撼させる哄笑へと変わっていき―― 「〈波旬〉《われ》はこの〈無明〉《せいじゃく》こそを愛していた。〈波旬〉《われ》のみをもって完成する宇宙!」 「ああ、だからこそ、〈波旬〉《われ》を〈唯一〉《ひとり》にせぬ貴様が憎い! ゆえに見つけ出してやるぞ、万象滅相しようとも!」 「これぞ六代目の理、六代目の座――第六天波旬が背負った真実の総てである!」  天を仰いで呵々大笑するその姿に、もはや俺が知るこいつの面影は微塵もない。  血走る双眸が俺を捉える。〈他〉《 、》〈者〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》〈認〉《 、》〈識〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》事実に悪寒が全身を蹂躙するが、そんなものは力ずくで抑え込んだ。  今さらこんなことくらいで、ぶるっちまうような覚悟で立っちゃいねえんだよ。 「くく、くくくく……あぁ、そう、貴様だ。貴様を待っていた」 「よく来た、我が恋敵。歓迎しよう、嬉しいぞ」  中院冷泉――まずはこの男を越えないことには始まらないし、そのためにも確認しておくべきことがある。 「竜胆はどうした」  こいつが纏う雰囲気の異常。そしてこの場に立ち込めるあいつの気配。それら諸々どうでもよく、まず俺が気になっているのはそのことだ。 「ああ、〈去〉《い》んでもらった。この下で寝ておるよ。漢の勝負に、女子の嬌声など不要であろう?」 「負けないで。勝ってくれ。気張れ頑張れ、私がついてる――とまあそのような、黄色い騒音が爆発すること必至と言えるだろうからな。興が削げよう、我は騒がしいのが嫌いなのだ」 「おまえもそうだろう、坂上覇吐。この地、この場で、在りし日に、無限の静寂を甘受していた〈同胞〉《はらから》ならば」 「我と同意見と思うのだがなあ、どうなのだ?」 「無事なんだな?」  中院の問いには一切答えず、こちらの言いたいことだけを端的にねじり込む。まず最優先すべきは竜胆だということと、こいつの話に付き合っているのは気持ち悪すぎるという二つの理由。  見るな喋るな動くんじゃねえ。てめえ芯からあいつに喰われてやがるんだよ。まさしく細胞というやつだ。  この第六天より地下階にいるとは謎めいた言葉だったが、そんなことは後回しだ。全部こいつを片付けた後で確かめればいい。  そんな俺の気勢を笑うように、中院は小馬鹿にした顔で嘆息する。 「無事か、と言われれば無事だろうよ。おまえが今、ほれこのように生きているのだから彼女が消えるわけなどない」 「ああそれとも、あれなのか。女子を攫われた男が抱きがちな、貞操に関わる不安かな?」 「ならばそれも安心せい。いくらなんでもこの我には、屍を犯す趣味などない」 「――――――」  それは、俺の〈竜胆〉《おんな》を最大級に侮辱する言葉。激発する瞬間の凍りついた時を縫うように、中院はさらなる暴言を口にした。 「なあ、一度訊いてみたかったのだが」 「死体の具合はどんなものだ? 陰門に挿入したとき、破瓜と愛液の代わりに蛆と腐汁でも湧くのかなあ」 「どうなのだ? どうなのだ? それでおまえは達するのか?あな恐ろしや汚らわしや! おおなんと背徳的な塵の交情―――臭すぎて生かしておけんなあ、わはははははははははは―――!」 「てめえぇぇェッ―――!」  激怒が俺の身体を駆動させた。それはこっちの台詞だこの野郎――  てめえ、もはや何があっても、絶対に生かしちゃおけねえ! 「――参れ! いと不快なる畸形嚢腫よ! 貴様がおるから我は〈唯一無二〉《ひとり》になれぬのだ」 「この天狗道に、〈波旬〉《われ》以外誰も要らんッ!」 「おおおおおおおぉぉぉォォッ!」  短期決殺、乾坤一擲――長引かせるつもりはないし加減をしてやる理由もない。  全力で真っ向唐竹割りを見舞った俺に、中院もやはり真っ向から対抗してきた。  轟音が第六天の間を震撼させる。こいつら波旬の走狗どもが異様に強化されるというのは経験済みだ。今さらちょっとやそっとのことじゃ驚かねえ。  一合目は五分。力も早さも、ほぼ差がないものだった。中院の剣腕がどの程度かは知らないが、まさか技術面で宗次郎に迫るというほどでもないだろう。ただ馬鹿力になっただけなら、隙なんてものはいくらでもある。  二撃目、横殴りに放った剣を、やはり力任せに迎撃される。その反射速度は人のものを遙かに超えた域だったが、動き自体は型通りの優等生だ。実戦の経験が薄い奴ほど習った教本に従うもので、ゆえに読みやすいし崩しやすい。  生の殺し合いっていうものは綺麗事じゃねえって事実、今からてめえに叩き込んでやる。  衝撃で俺たちは共に弾かれ、後方に仰け反ったことで間合いが開く。そして身体は開いており、正中線を晒しているなら次の一手は自明というもの。  やはり、狙い通りの基本通り。こちらの首元へ刺突の一閃を放つ中院。俺も基本に従うならそのまま後方へ下がって躱すか、身を捻って横へ逸らすかというとこだろうが――  ここはどちらも選ばねえ。俺は前に踏み込んで、首と肩の間を削られながらも一気に懐へ侵入した。  この間合いで何をする。剣を振れる距離じゃないぞと思うだろう。ああその通り。  誰も最初から、剣術勝負をするだなんて一言たりとも言っちゃいねえよ。 「おらあああァァッ―――!」  突進の勢いそのままに、俺は全力で中院の顔面に頭突きを放った。  密着しているから回避は不可能。決まればそれで、常人なら首から上を吹っ飛ばすほどの打撃技だ。どう転ぼうが決定的な効果は見込めるはずだろう。  俺はそう確信してたが――  あにはからんや、中院は一切動じず同じ頭突きで返してきた。瞬間、目の前で世界が爆発したかのような火花が散る。 「ちィィ―――」  あまりの衝撃に刹那意識が飛びかけた。くそが、ちくしょう――だが痛手を被ったのは向こうも同じだ。予想を外したのは確かだが、ここで先に立て直せばいい。  一息の間も置かず、俺は剣を蛇腹に組み替えた。変則的なその軌跡が、弧を描いて中院の首へ迫る。  しかし、あろうことか、それを奴は素手で掴み止めていた。  のみならず、力任せに引き寄せて一刀を放ってくる。 「ふははははははは―――温いわァッ!」 「ぐッ、おおおッ」  反応がもう僅かでも遅れていたら、胴を両断されていたに違いない。間一髪で決定的な損傷だけは防いだが、それでも深手を負ったことに変わりはなかった。  一転して追い詰められた俺に向け、一気呵成に攻め込んでくる中院。その斬撃は一撃ごと、回を重ねる毎に速さと強さが増していく。  まるでそれが、自然の摂理だとでも言うように。〈畸形〉《おまえ》は〈波旬〉《おれ》に勝てないのだと、天の法則を刻み付けてくるように。  俺が力を絞ればそのぶん、奴はそれを上回る規模で無限の強化を繰り返していく。  ああ、そうだった。こいつはこういう性質なんだ。唯一無二である自分を愛し、ゆえに他から侵犯されることなど気が狂っても認めない。  たかが細胞の一欠片でさえ、これほどの自負を帯びるというのか。  総体はあらゆる次元の宇宙規模――〈無限〉《卍》の曼荼羅をたった一人で埋め尽くしている。無量大数の個我そのもの。  それに憑かれている中院は、言うまでもなく自負ある限り天井知らずだ。 「どうした、何を驚いておる。我に力で劣るのが信じられぬか、意味が分からんなあ!」 「我が弱いと誰が言った? 我に勝てると何を根拠に思ったのだ?」 「のぼせ上がるなよ、半端者が! 貴様、手足がそろっておることすら異常な身で――」 「〈波旬〉《われ》にへばりつくだけの塵屑が、牙を剥こうなど片腹痛いわァッ!」 「ぐうううゥゥッ……」  今や完全に、奴の力は俺の上位へいっていた。もはや反撃する暇すらなく、削られながらも防御に専念するしかない。  しかし、その状況さえ奴に言わせれば不遜なのか。塵め何を足掻いていると、さらなる力を叩きつけてくる。 「さあ黄泉返れ黄泉返れ黄泉返れ黄泉返れ――生きる意志とやらを見せてみい、踏み潰してやる!」 「穢土が消えれば歪みも同時に消失したか? ならばやはり、貴様は消え去るべき定めなのだよ」 「ほうれ、我はこんなことも出来るというのに」  邪念――背筋が粟立ち蒸発するほど、凄まじい密度の念が中院に集中する。  この世に草の一本たりとも残さないと、超深奥の座で転げ回りながら笑っている魔羅の覇道が迸った。 「南無大天狗、小天狗、有摩那天狗、数万騎天狗来臨影向、悪魔退散諸願成就、悉地円満随念擁護、怨敵降伏一切成就の加ァァ持」 「唵 有摩那天狗 数万騎 娑婆訶・唵 毘羅毘羅欠 毘羅欠曩 娑婆訶」 「下劣畜生――〈邪見即正〉《じゃけんそくしょう》の道ォォ理」 「―――――ッ」  力が、その存在強度が、一気に三桁は跳ね上がった。  奴の背後に三つ目が見える。ぎょろぎょろと宇宙をねじ切るように界を軋ませ、〈畸形〉《おれ》を探している波旬の瞳。  それに射竦められて堪るものかと――克己心を奮い立たせて耐えた気合いが、ここでは皮肉にも無様な硬直を意味してしまう。  結論、波旬の視線に気勢を消滅させられるのは防いだ代わりに、俺は中院の対して完全な無防備を晒していた。  その隙を、こいつが見逃すはずなどない。 「〈獅子像〉《ししぞう》ォォ〈狐狼〉《ころう》ォォッ!」 「があああァァッ」  袈裟懸けに切り伏せられ、血飛沫を撒き散らしながら吹き飛ばされた。咄嗟に後ろへ飛んではいたものの、受けた負傷は甚大すぎる。このままでは立ち上がれない。  それにそもそも、奴から負わされた傷は自然に治るようなものじゃなかった。波旬が死ねと言っているのだから、疾く死ぬのが定めであろうと、その事実をもって法則としている。  立たせぬ、癒さぬ、生かさせぬ。誰がそんなことを許したと、ただ一方的な倣岸さで押し通るのみ。  理屈にも何もなっていないが、それで万象を制圧するのが天狗道。  稚拙で単純すぎるがゆえに、弱みがまったく存在しない。 「そうだ、分かっておるだろう。これが我だ。〈波旬〉《われ》に特殊な能力など必要ない」  そんな俺の意を肯定し、誇らしげに謳う中院。今限りない〈赤子〉《せきし》として、波旬に連なる天狗として、こいつは至福の境地にある。  その口が、自らを覆う〈鏖殺〉《みなごろし》の空を讃えていた。  己の運命すら頓着せぬまま、自分が死ぬことなど思考の片隅にも掠らせないまま。 「時を止める? 修羅を率いる? 万象、宇宙の星を操り、永劫の回帰を繰り返す?」 「なんだそれは? なんなのだ? なぜそんなに小賢しい」 「弱いから、つまらぬから、物珍しげな設定をひねり出して、頭が良いとでも思わせたいのか?」 「せせこましい、狡すからい。理屈臭く概念概念、意味や現象がどうだのと、呆れて我は物も言えぬわ。それで貴様ら、卵を立てたような気にでもなっておるのか」 「能力の相性? 馬鹿臭い。力を使う際の危険要素? 阿呆か貴様ら。そんなものに囚われるから、超深奥に――座に届かない」 「質量の桁が違えば相性などに意味はなく、使用に危険を伴う力なぞは単なる使えぬ欠陥品だ。少し考えれば稚児であろうと分かることを、己の矮小さを正当化するためにみっともなく誤魔化しておる」 「やりよう次第で、弱者であっても強者を斃せるとでも言うように。そのほうが、さも高尚な戦であるかのように演出して悦に入る」 「嘆かわしい。くだらない。なんと女々しい。男の王道とは程遠い」 「絶望が足りぬ。怒りが足りぬ。強さにかける想いが純粋に雑魚なのよ。貴様らのごとき、小理屈をこねる輩が〈横溢〉《おういつ》するようになって以来、圧倒的というものがとんと見当たらなくなってしまった」 「ゆえに〈波旬〉《われ》が生まれ、〈太極〉《てん》を握った。徹頭徹尾最強無敵。誰であろうと滅尽滅相――」 「力、ただ力! この不愉快な塵めらを跡形残らず消し飛ばす力が欲しい。〈波旬〉《われ》の〈宇宙〉《カラダ》は〈波旬〉《われ》だけのものであろうがよ!」 「ゆえに特殊な理など何も要らん。必要ないのだ白けるわ!」 「これをつまらんと思うなら、それはそやつがつまらんのだ。能無しどもが、熊を素手で撲殺する程度の膂力もない分際で、際物めいた一芸さえあれば山をも崩せると迷妄に耽りおる」 「救い難い無知蒙昧。恥を知らぬ滓の群れども。要らぬ要らぬ、実に目障り! 汚らわしいのだ我に触れるな」 「なあ、分かるだろう〈畸形嚢腫〉《きょうだい》よ」  この宇宙は、純粋な力の強弱で成り立っている。ゆえにその縦社会は崩せないと、崩せる気でいる者は阿呆だし、単なる滓の迷妄にすぎないのだと断言している。  それはそれは、なんとも素晴らしい大演説でもぶった気になってるのかもしれないけどよ。 「――ふん」  俺に同意を求めるんじゃねえ。てめえの論は裏を返せば、誰も必要としてねえってことなんだ。  誰の手も借りられねえから、たった一人で完成するための理屈にすぎない。  女々しいだと? 俺に言わせりゃそっちがそうだ。ひたすらてめえを守ってるだけの自愛症。傷つけることはなんとも思っていないくせに、傷つけられることには耐えられない。  おまえはたとえ、どんな僅かなものであっても、自分の痛みに我慢が出来なくなるようなヘタレなんだよ。万象滅相しようなんてな、そういうことだ。  舐めるなよ、この俺はそんな程度のくそったれから使われている奴になど…… 「てめえに兄弟呼ばわりされる謂れはねえよ」  吐き捨てて、力を振り絞り立ち上がる。俺のほうが強いというこの自負は、決して俺個人の中から湧いてくるものじゃない。  先を見ている。絆を知ってる。俺が目指すその先には、きっと仲間がいると信じてる。  一人の〈波旬〉《おまえ》と一緒にするな。引き篭り野郎が、妙な毒飛ばして何を悦に入ってやがる。俺はおまえと対峙するって決めてるし、後で殴りに行ってやるからまずはそこの馬鹿野郎だよ。  中院冷泉――その名を持つ個人に対して、今は照準を合わせたい。  なぜなら、俺に言わせればてめえは前座だ。本物の波旬と決着をつける前に、小天狗をシメて竜胆の目を覚ます。  俺は負けない。大丈夫だと、あいつに証明してやるために。  この程度乗り切れないで、何を言おうっていうんだよ。 「我が我がと、馬鹿の一つ覚えみたいにごちゃごちゃと……」 「今のてめえに、自分なんか欠片もないだろ」  自己愛――俺も竜胆も、それを全否定しているわけじゃない。地に足を着けて立つために、それはそれで重要なものだ。  自分を信じ、愛さなければ、そもそも何一つ成せやしない。まず確固とした己を持ってこそ他者というものを認識し、そこからそれとの関わりかたってやつを問われ出す。  自分を輝かせる装飾品……穢土が残存していたついこの前まではそうだった。俺も紫織も宗次郎も、竜胆以外の奴らは皆そうだった。  あるいはその程度ですんでいたら、おまえにとって幸せだったんだろうな、中院。  竜胆はその程度でも駄目だと言い、俺も今ではそう思うが、もしあのままですんでいたら、おまえは多少ムカつく奴というくらいで終われたのに。  今の様は、何事だよ。あれだけ嫌味ったらしく誇っていた中院冷泉が何処にもいねえよ。  波旬の細胞。波旬の〈赤子〉《せきし》。奴の自己愛に振り回されてる意志のない使いっ走り。  曰く、塵――おまえ本当に分かっているのか? 「我以外、消えろなんて言ってるがよ。おまえも消されるんだぜ、他と一緒に」 「滅尽滅相……あいつは誰一人として残さない」 「だってなぜなら、おまえは波旬じゃねえんだから」  そのことに気付かないまま、自分の死すら忘れて浮遊しているこの男が――  いつか竜胆が言ったように、今の俺にはどうしようもなく哀れに思えて――  こいつのことは大嫌いだが、その嫌悪感すら本質的には空振りしてるって事実がひたすら―― 「悲しいぜ、恋敵。結局俺は一度だって、おまえと喧嘩することも酒飲むこともできなかった」 「同じ女に参っちまった者同士、ちょっとした親近感を持ちながらよ……好敵手ってな関係も、お互い嫌いじゃなかったはずなんだがなあ」  剣を構え直し、真っ向から睨みすえ、もう手遅れで届かないと分かっていながら、ここで言わずにはいられない。  いいや、これこそを成さなければ、俺が波旬に勝利することなど出来ないんだ。 「冷泉――おまえとなら喧嘩はしてえが、波旬の〈細胞〉《パシリ》に言うことはねえ」 「まず本当に自分を愛せよ。でないと何者にもなれねえし」 「俺はおまえを、救ってやることさえ出来やしねえ」 「――――――」  それに、奴が一瞬だけ硬直したように見えたのは気のせいだろうか。 「意味が分からぬ――!」  激昂。爆発するその奔流と共に。 「貴様、戯言を弄して我の純性を穢そうてかァッ!」  放たれた一閃を、しかし今度は弾かれずに、俺は真正面から受け止めていた。  そしてそのとき、超深奥に坐すモノは喩えようもない不快感に襲われていた。  あぁ痒い。あぁ汚らわしい。俺の宇宙は俺だけのものだろうがよ。  蠢くな、這い回るな。主張をするな息をするな――  俺の中が塵で満ちる。塵が塵どもと喰らいあって消えるだけなら笑ってやるが、今感じているこの鬱陶しさは何事だ。  身の程を知らない異物がいる。そいつが俺の中を掻き回している。ああ知っているぞ、これはこいつは――  俺の原初に関わった、あの塵に相違ない。  ゆえに許せぬ。そう猛って、腐汁が煮立ったかのような極大の念を飛ばす。  その容赦ない濃度の自己愛に、彼が塵と呼ぶ端末は強度的に耐えられないであろうことすら無視したままで。 「諸共消えよ。壊れ果てて塵芥となれ――」  押し寄せる邪の覇道を被りながら、それでも塗り潰されない一人の益荒男を彼女は見る。  根源的に彼と繋がっている身であるから、死の淵で漂いながらも無明の中でそれを感じる。  あぁ馬鹿者。あぁなぜ来た。おまえはいつもいつも私に腹を立たせてばかりで、毎度ろくなことをしてくれない。  どうしてそんなに頭が悪い。どうしてそんなに迂闊なのだ。常に勢いだけで行動して、上手くいく根拠なんて何も持っていないくせに。  論理的とか、そういう思考を、少しはその軽い頭に詰め込んでくれよ、頼むから。  馬鹿馬鹿、阿呆め、冗談じゃないぞ不愉快だと思いながらも、高鳴る胸を止められない。  自分は死人で、鼓動はなくて、身体は冷え切っていると分かっているのに。  自分のやっている行動も、いわゆる論理的という観念が欠如した暴走だと分かっていたから。  結局、よく似た二人なのだ。それは互いの関係を考慮すれば当たり前で、だからこそそれが辛くて、同時に抵抗できないほど嬉しくて。  きっとこれは夢なんだと思っていたから、その気持ちに蓋をすることは出来なかった。  ゆえに、呟く。 「覇吐……」 「お願いだ、冷泉殿を救ってくれ」  それをもって、幸せな結末を。  何より彼女が願う夢の形を、どうか実現させてほしいのだと祈ったから。 「その願い、聞き届けたぜェェッ!」  おまえの〈益荒男〉《おとこ》が、絶対それを叶えてやる。  見てろよ――そして魅せてやるさ。  俺らの仲は、誰にも裂けねえっていうことを。 「聞こえるか、冷泉! 俺らの惚れた女がよォ、魂見せろって言ってんだよォ!」 「抱かれてえと思わねえのか! タマついんてのかよ、この不能野郎ォォ!」  怒号と共に斬りかかる。姫の声援を受けた俺は勇気百倍。劣勢なんて瞬く間に覆した。  これもいわゆる、天下の法則ってやつだろう。惚れた女にお願いされたら、男は神の領域にだって容易く手を届かせる。  なあ、分かるかよ。俺はいま愛されてるから強いんだ。趨勢、決してるぜ冷泉よ――! 「―――ッ、ほざくな!」 「聞こえん、見えん! 騒がしいぞ黙らんかァッ!」 「我は〈唯一〉《ひとり》! ただ〈無二〉《ひとり》の天に〈坐〉《ま》する絶対なり!」 「信じておるさ、疑いなどない! 我は、我は――」  切り返し、弾き返し、攻めて攻めて攻めて攻めて――  際限なく強化されていく力の波に、こいつの器が耐えられなくなりかけているのが俺には分かった。 「がッ、ガガ、ががががががが、ガアアアアァァァアッ!」  ひび割れた、壊れかけの奇声と共に過去最高の斬撃が俺を襲う。  その凄まじさは神威に届き、何者であれ両断してみせるという絶対自負を纏っていたが――  それを揮っているのは冷泉だ。攻撃の負荷に身体の性能がついてこず、威力は大幅に減少していた。  ゆえに俺は容易く受け止め、そのまま怒涛のように押し返し―― 「てめえは誰だ! 答えろよォ!」  今こそ、こいつを取り戻すべきだと確信する。波旬の念に耐えられず、分解しようとしているこいつになら、俺の声だって届くはず。 「てめえはどうして――」 「久雅竜胆鈴鹿に、執着したんだ。えェッ」  おまえは竜胆に惚れていた。それがどういう気持ちから来たものだろうと、見る目があると認めてんだぜ。  東征の前から、まだ穢土が存在して波旬の宇宙が完成していない時分から、おまえはこの世界における唯一の輝きを見出していた。  それは相当なもんじゃねえか。誇っていい中院冷泉の真実だろう。  そして俺もおまえも寿いだ。惚れた女がモテるってのは、中々いいもんだと思ったから。  なあ、恋敵よ――! 「我は――」 「我はただ、麗しきと思い、恋ゆる心を抱いたから……」 「誰よりも、この宇宙の何よりも、自己を強く持っておるように見えた女子だから……」 「眩しかったよなァ!」  だから今、無明に落ちた天狗道でもあいつに執心したんだろう。  〈畸形嚢腫〉《おれ》を釣るだの何だのと、そんなの諸々建前で――  おまえは今でも、久雅竜胆に惚れている。  それが冷泉――波旬の細胞じゃないおまえの姿だ。  そうだろうがよ! 「まぶ、しい……?」 「まぶしい、眩しい……そうだ眩しい。この世は闇が深すぎる」 「誰もが己を見ておるようで、その実、何も見てはおらぬのだ。まるで何か、途轍もなく巨大なものに、視界を塞がれておるかのようで……」 「皆、甚だしく〈盲〉《めし》いておるのだ。なぜならこの天、誰にも光を与えぬから……」 「穴の底で、ただ一人……塵を削ぎ取り続けるだけ。我らを塵と、ただの屑と……」 「違う、我は塵ではない……!」 「朝日のような、光を見たから――」 「そうだ――」  その真実を剣として、俺たちは波旬を斃す。  だからおまえも、根性振り絞って漢見せろやァッ! 「我は―――!」 「塵が。使えん」  内から爆発して飛び去っていく力の奔流とまったく同時に、俺の一刀が勝負にケリを着けていた。 「我は、中院冷泉だ……」  まるで憑き物が落ちたように、晴れ晴れとそう言うこいつにもはや波旬は宿っていない。真実、中院冷泉として、人の魂を抱いたまま末期の時を迎えている。 「どれだけ矮小でも、貧弱でも、ここにある我こそ、ただ一人の我」 「我はこの我を抱いて初めて、天と地と人に向き合えるのだ」 「それこそ、真に人たる者。闇夜を抜けることが出来る者」 「やっと、そのことに気付いたよ……」  翳りなく、憂いなく、納得と静かな満足をもって冷泉は逝こうとしていた。  ならば俺に出来ることは見送ることで、こいつが遺すものを受け取るだけ。  冷泉は、苦笑しながら言葉を継いだ。 「くく、くくくく、なんとも愉快。愉快よなあ……」 「おまえの勝ちだ、恋敵。敗者は大人しく、勝者を讃えながら退くとしよう」 「だが、その前に、言っておくべきことがある……」 「……?」  それは何だ? これから先に重要な意味を持つことなのか?  無言のまま促すと、冷泉はややもったいぶるように間を置いてから続けていった。 「我は、穢土の諏訪原で、奇妙な天魔に出会ったよ。思えばあれから、あれ以降から、我の中で何かが崩れ始めたのやもしれん」 「あな憎しや、腹立たしきことよなあ。我を当て馬に使いおったか」 「許し難き、忍び難きことなれど、ふふふ……我は思うのだよ」 「あれをこそ、なあ、観測者と言うのでは、ないか?」 「――――――」  観測者……その言葉の意味は分かっている。あれは第一天の碑文に刻まれていた者のことで…… 「当代の座が亡滅する戦乱期に、必ず現れるという道化者。おまえたちの中にもあるいは、あれの薫陶を受けた者が、おるのではないか?」 「であれば……」  波旬は滅ぶ。その可能性を示唆しつつ。 「勝てよ、坂上。我が光の君が愛する、益荒男よ……」  冷泉は、溶けるように消えていった。 「…………」  消滅、させられたのだろうか。一度でも波旬に染まった存在として、死ねば天狗道の理による無しかないというのだろうか。  こいつの魂は、もうどのような形でも再生できないのかもしれない。  そうだとしたら、なおさらに…… 「俺たちが、こんな座は終わらせてやるよ」  誓いを呟き、俺は竜胆を探すべく第六天の間を後にした。  ……夢を見た。  自分のために命を懸けてくれる男がいて、それが切なく、腹立たしかったけど嬉しくて、許されざる夢を見た。  黄泉返りはまだ遠い。三度目ともなれば慣れたもので、この無明に浸る己を持て余したから、つい少女めいた幻想を抱いたのだ。  明るい未来、希望という光。こんな風になったなら、なんと幸せなことだろうと馬鹿なことを……  しょせん夢。叶いはしない。〈蘇生〉《めざめ》と共に儚く消えると分かっていても、甘い願望に縋りつきたい。  だから、思った。 「冷泉殿を、救ってくれ」  そうお願いし、彼がそれに応えてくれて、自分たちは波旬に負けないと確信を持ち胸を張る。  そして、その通りに手を取り合って波旬を斃す。  なんと柔弱な妄想か。そんなことが出来るつもりでいるというのか。誰よりも竜胆自身が信じていない結末だから、絵面すら浮かんでこない。  こんなときに、こんな所で、こんなことを考えている自分の弱さに失望した。  一人でやると誓っただろう。  彼を守ってみせると決めただろう。  私に立ち上がる力をください。  私が何より誇るあなた達、益荒男の魂に認められた強い将で在りたいから。  そのためにやるべきことをやれるように。  決行する、勇気をください。  強く、強く、強くそう念じて黄泉返ったはず。自分の身体は穢れ果てた屍だけど、意志の鎧で武装して一歩も退かぬと決めたのに。  もういきなり、崩れ始めている始末。  この脆さは、度し難いほど罪深い。こんな様では何も成せない。  怒れ、怒れ――女のように泣いていれば、何かが解決するというような局面じゃない。  波旬に怒れ。世界に怒れ。そして自分自身に激昂するのだ。  その想いをもって事を成せ――!  黄泉返りを迎える刹那、しかし竜胆の胸にあるのは、それらの怒りよりもなお強い別の気持ちで…… 「覇吐……」  おまえに逢いたい。  それが果たして、どういう層からくる感情なのか、竜胆はまったく自信を持てなかった。  逢ってどうする。彼をどうしたいというのだ、この〈自滅因子〉《わたし》は。  と、何より恐怖に震えていたから…… 「――竜胆」  第六天の下、淤能碁呂島の最深部に広がっていた不可思議な花畑でこいつを見つけ、俺はその身を揺り起こそうとしたのだが…… 「――――――」 「ぁ、っ……」  不意に飛び起きた竜胆は、驚愕に目を見開いてまじまじと俺を見つめ、青ざめた顔をますます白くし―― 「―――ッ、来るな!」  叫ぶと、踵を返して一気にその場から駆け去って行った。 「――おい!」 「やめろ! 寄るな、触れるな――私の傍に来るんじゃない!」 「貴様、誰だ! 貴様など知らんと言った! 私は知らんと、言っただろうがァッ!」 「―――――ッ」  切羽詰った声と血相。まったく余裕のないその様に、俺はどうしようもなく苛付いて…… 「そうかよ……」 「だったら、もう一回教えてやるよ」  俺が誰で、何者で、どれほどおまえにやられちまってるかっていうことを。  おまえまで、夜刀みたいな下手糞芝居してんじゃねえよ! 「俺は覇吐――」 「おまえの〈益荒男〉《おとこ》だろうが、逃げてんじゃねえ!」  怒号に近い声で叫び上げると、俺は竜胆の背を全力で追いかけていた。 「は、―――ぁっ……っ――」  駆ける。ただ当てもなく全力で走って逃げる。そうしないとあいつが来るから、覇吐を死なせてしまうから。  私たちは共にいてはいけないんだ。手を取り合うことも抱き合うことも、やってはならない。絶対出来ない。  頼むから来ないでくれ。おまえ、そんなに死にたいのか虚け者。私がなんだか知っているのか? 「わた、しは―――」  私はおまえの処刑人だ。おまえを殺すために存在するんだ。おまえが望んだからそうなったんだぞ。ならば弁えて責任を取って私を嫌えよ――犬のように纏わり付くな、鬱陶しい! 「おまえなど、知らない……!」  だからやめてくれ。触れないでくれ。ここは危ない。危険なんだ。  なぜなら此処こそ、特異点の最下層。蝦夷で最後の鬩ぎ合いが発生したとき、波旬生誕の地である第六天の間の下に、この空隙が生じたのだ。  私にはそれが分かる。おまえも何となくなら分かるだろう。  いいや、私より遙かに感じているんじゃないのか。  このすぐ近くに波旬がいる。薄皮一枚隔てた程度の次元距離で、波旬の座は存在するんだ。  見つかるぞ、殺されるぞ。奴は何よりもおまえのことを、真に滅ぼそうとしているんだから。  こんなときくらい言うことを聞け。聞けよ馬鹿者――どうしてそんなに私の心を乱すんだ。  頭が悪いのも、頼むから大概にして――  私のために死ぬなんて、どうかお願い、言わないで―― 「くッ――ぁ、―――っぉ……」  速ぇ、ちくしょう、この野郎。簡単に追いつけると思ってたのに、結構な俊足じゃねえかよ驚いたぜ。  そんなにまでして逃げたいか。そんなにまでして俺が信用できないのか。  俺を守ってるつもりなんだろう? 俺のためを思ってのことだって言いたいんだろう? ああ、その気持ち自体は嬉しいし、にやけたくなるような気持ちもあるにはあるけど―― 「それ、以上に――」 「腹立つんだよ、舐めんなコラァ!」  吼えて走り、手を伸ばす。もうすぐ竜胆の背に届く。  波旬がすぐ近くにいるから何だってんだ。波旬が桁外れの化け物だからってどうしたんだ。  俺はおまえに逢えたから、もうあんな奴のことは怖くねえ。あいつにへばり付いてないと生きていけない俺じゃないんだ。  自滅因子? 知るか馬鹿! 俺がおまえに魅せられて、惚れたことに、どんな意味や理屈があったとしてもこれだけは断言できる。  俺は今まで一度だって、死にたいと思ったことなんかないんだよ。  生きたいから、生きたいから。手足があって、身体があって、立って歩いて前を見て―― 「俺は、外の世界を感じたいから」  光に焦がれた。それを望んだ。 「俺は、断じて、絶対に……!」 「死ぬことを望んだんじゃねえッ!」  勝手に悲劇的な役割演じてんな! おまえはそういう役じゃないんだよ。  だってそうだろ? でないとよ――おかしいじゃねえか。 「〈穢土〉《たそがれ》の奴らは、馬鹿じゃねえから」  俺たちよりずっと長生きしてて、色々知ってて、龍明だって、そうだろう。 「そんな奴らが、夜刀がよォ――」 「勝ち目もねえのに、後は任したなんて言うわけねえだろォ!」  あいつはそんな適当じゃない。女殺られて、仲間殺られて、好きな世界をぶっ壊されて。  それでも折れず、挫けずに、化外だ天魔だ言われながらも不撓不屈の不退転。  気の遠くなるほど長い間。波旬と戦って世界を守ってきた漢だぜ。 「あいつの気概を、俺の覚悟を――」  誇りを、責任を、魂を―― 「舐めんな、信じろっつってんだよォ!」  ついに捕まえた竜胆の肩を引き、そのまま一気に押し倒した。 「おまえは――」  だけど瞬間、〈柔〉《やわら》の要領で身体を捻られ、つんのめった俺を竜胆は蹴り飛ばす。 「おまえの言っていることは、詭弁ばかりだ。信じて勝てるなら、そもそも〈黄昏〉《かれら》だって負けていない!」 「だから――」 「――触るなッ!」  立ち上がって俺を見下ろす竜胆に手を伸ばそうとしたら、首元に抜刀した白刃を突きつけられた。 「――――」  反射的に言葉が詰まって、思考も止まった。なぜならこの構図は、最後に逢ったあのときとまったく同じだったから。  震える声で、泣きそうな顔で、俺を拒絶したあのときと同じ。 「触らないでくれ。頼むから……」 「いいや、見ないでくれ。後生だから……」  自分は汚い。まるでそう主張するかのように。 「私はあれだぞ。死体だぞ。気持ち悪いだろう……醜いだろう」 「もう体温がまったくないんだ。きっとばらばらにされても、血の一滴だって出てこない」 「黄泉返って、黄泉返って、おまえが何度も黄泉返らせるから、こんなことになったんだ。おまえなんか嫌いだ」 「光、だって? 馬鹿を言うな。こんな冷たい光があるか」 「私は死なんだ。おまえを千回だって殺してしまう」 「じゃあ俺は、千五百回だって生き返るさ」  俺の中に、死の一文字は存在しねえ。竜胆に付き合うことで何度やばい橋を渡ろうが、その全部を乗り切ってみせる。 「おまえが醜い? 馬鹿言ってんな。出逢った頃から、これっぽっちも変わっちゃいねえし」 「むしろ、ずっとキレイに見えるし」  そもそも俺は、いつだったかも言っただろう。 「おまえがどんなもんになっても、俺の気持ちは変わらない」 「おまえが何処に行っても、捕まえて連れ戻す。逃げたって、無駄なんだよ……!」  結局、俺に言えるのはそれしかない。もはやどうなろうと、俺には竜胆がいない世の中なんて考えられないということを伝えるだけ。 「おまえがいないとよ、俺、なんか駄目なんだよ」 「結構すぐ、ショボいことになっちゃうんだよ」  それはたぶん俺だけじゃなく、男全般に言えることなのかもしれない。  基本的に、野郎ってのは弱いんだ。だから粋がって、見栄張って、格好つけてなくちゃ生きられない。  そして、それを見てくれる女がいなくちゃ、気合いがまったく入らない。 「面倒くせえんだよ、男ってのは。これで結構、繊細なんだよ」 「邪険にされると、胃に穴が空きそうになる。血の気引いて、変な汗出る」 「だから俺のためを思ってとか言うんなら、それ逆効果だよ。そっちのほうが、死んじまうわ」 「俺を殺せる奴がいるとしたら……そりゃおまえだけだってこと、分かれよ」 「だから、私に寄るなと言っているだろう」 「そうじゃない。そういうこっちゃねえんだよ」 「波旬がどうとか、状況がなんだとか、そんな回りくどい話じゃなくてよ」 「おまえ、この剣、俺に刺せんのか?」 「………ッ」  こいつから切り捨てられるっていうことが、俺にとっては唯一絶対的にやばいことで。  一緒にいることで俺が死にそうな展開に持って行ってしまうとか、なんだそりゃあ意味分かんねえよ。  何を勝手に、人のことを、女一人も抱えられないようなか弱い生物みたいに思ってんだよ。 「俺はそんなに雑魚っぽいか?」 「俺はそんなに頼りないか?」  俺はそんなに、おまえと並ぶことが出来ねえほどに。 「チンケな奴だって、思うのかよ」 「…………」 「さっき、自分は繊細だって言った」 「だからぁ……」  盛大に頭を掻き毟りたくなる。ちくしょう、女に口で勝つのは本当に難しい。 「だいたいおまえ、俺をほっぽって何したいんだよ。みんな置き去って、一人で波旬とやって、どうすんだよ」 「そっちこそ、勝てるつもりかよ」 「……分からない」 「分からないが、私は死人だ。おまえが生きている限り、絶対死なない」 「だったら、何度だって戦える。誰も巻き添えにしなくていいし」 「私が痛いだけなら、別にいい」 「耐えられる。怖くない。私が何より誇るおまえたちを守れるなら、おまえたちの将で在れるなら」 「久雅竜胆鈴鹿は、たった一人でも貫いてみせる」 「―――馬鹿野郎!」  ったまキた。本気で腹立ってきたぞこの野郎。  ガタガタ震えて言ってることや、冷泉に殺られちまうような腕だろうとか、その他諸々突っ込みどころがありすぎて呆れちまうぞ。  頭はいいくせに馬鹿なのかおまえ。一つ一つ列挙してやろうか。 「まず前提からしておかしいだろ。俺が波旬に勝てないとして、腹立つけどおまえがそう思ってんだからそういうことにして話すとだな」 「おまえが当てにしてる黄泉返りは俺がやらかすことなんだから、そんなもんが波旬に効くわけねえだろう」  文字通り瞬殺。上位の理に対しては何をしても通じないってのは、東征で嫌ってほど味わったことだ。  敗者の〈咒〉《かた》に嵌められていた夜都賀波岐と違って、波旬は名前呼んだくらいでどうにかなるもんじゃねえぞ。 「それが一つ。そして次!」 「将で在りたいってんなら、率いろよ。おまえがやってることは匹夫のなんとかってやつじゃねえか。大将の選択じゃねえ!」  おまえは俺たちを魅せる光で、道を示す指針なんだ。振りかざすのは個人の武なんかじゃ断じてない。  夜刀のように、鬩ぎ合いでも展開するつもりなら話にならん。あいつは仲間を抱いていたからそれが出来た。  仲間を捨てようとしてるおまえの先に、どんな覇道があるという。久雅竜胆の力は皆を導き、鼓舞するもので―― 「その覇道に従う俺たちこそが、おまえの矢であり剣だろう。それを切り離して使わないって、ただの丸腰特攻じゃねえか」 「だが……!」 「うるさい、聞け馬鹿。これが一番大事なことだ」 「その三、いいか」  たった一人でもなんて、そんなこと。  それはどうしようもなく致命的な考えで。 「おまえは波旬か 誰も要らねえって言うのかよ!」 「―――――」  息を呑む気配。その言葉は、竜胆の深いところに届いたらしい。ああ、届いてくれなきゃ俺も困る。 「波旬は一人だ。あいつは誰も欲してねえ」  生まれたときからずっと今まで、一瞬たりとも休むことなく唯我唯我と狂ってる。  誰のせいかって言えば俺のせいで、あいつを生んだ糞どものせい。そして何より、あいつ自身が端からそういう奴なんだ。  生い立ちがどうこうとか、悲劇がなんだとか、そういう諸々ぶっちぎってあいつは波旬だ。ああ、なんだったか、おかしな奴がなんでおかしいかなんて訊くなってか。その通りだよ。 「波旬は個体の極限だ。一対一であいつに勝てる奴なんか何処にもいねえ」 「あいつはもともと、覇道の質なんかじゃなかったんだから」  そういう意味じゃあ、一番の原因は間違いなく俺だろう。だから清算をしたいんだよ。  何にしろ、完全に引きこもることなんか許されない世の中だった。そしてそれは当たり前だ。人は一人じゃ生きていけない。  生まれてきてはいけない者……そう断ずるのは女神の意向に反すのだろうが、結果的にそう言うしかないだろうよ。  あれは救えない。  他者がこの世にいる限り、どうにもならない魂なんだよ。 「だから、歴代の座で一番奇妙だし、一番強ぇ。求道から覇道の転身は女神も一緒らしいけど、彼女はそれを祝福だって喜んだ」 「けどあいつは……」  〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈の〉《 、》〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈を〉《 、》〈呪〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。己に触れる者、関わる者、皆々残らず滅尽滅相。 「宇宙を……収束させようとしているんだろう。自分一人を核にして、万象を第六天という求道に変えようとしている」 「ああ、そしてそうなったあいつが一番強ぇ」  何せ、覇道神が四人がかりで返り討ちにされたくらいだ。〈俺〉《 、》〈は〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈現〉《 、》〈場〉《 、》〈を〉《 、》〈見〉《 、》〈た〉《 、》からどれだけやばいか知っている。  力、ただ力――想いの重量が桁外れている。深度、次元、何もかもが違うんだ。あいつの自己愛はそれほどまでに極まっている。  己以外を消し去ろうと思うほどに。 「一人でやって勝てるわけがない。あいつの土俵じゃ勝負になんかならねえよ」 「信じて勝てるなら、黄昏だって負けてないとおまえは言ったな」  確かに、夢のない話だがそういう現実はあるだろう。総軍勢で迎撃しても蹴散らされた黄昏の、絆や信念がチャチだったというわけじゃない。  単に、それでも敵わないくらい波旬が強かっただけの話。 「俺たちの気持ちってのが、先代より圧倒的に上だとか、そんな驕ったことは言わねえよ。負けてるとも思わないが、まあ、優劣じゃなくて差異として」  俺が今から言うことを、こいつは実のある意見として認識してくれるだろうか。  怖いが、しかし言わなきゃならない。  この女を失わず、救うためにも、俺は絶対の恐怖と対峙するって決めたのだし、その先にしか勝利はないと分かっていたから。 「俺がいる。俺はあいつの〈畸形嚢腫〉《きょうだい》だ」 「俺だけは、あいつの法に対抗できるはずなんだよ」 「――――――」 「もちろん、俺一人じゃ当然駄目だぜ」  状況が要る。きっかけが要る。ああ、そして、観測者とやらにも期待しようか。結構伏線はそろってんだよ。 「冷泉のことも、ちゃんとおまえの命令通りに取り戻しただろ?」  第六天に亀裂は走る。もう何もかもあいつの思い通りというわけじゃないんだ。 「ずっと逃げ回ってた俺が、こうして腹決めたってだけでも凄ぇことだぜ。おまえは自滅がどうのと言うんだろうが、そんなんじゃない」 「俺は波旬から見た特別なんだ。誰も見てねえし、どいつも塵だと思ってるあいつがよ。俺のことだけは気が狂うほど許せないんだとさ、笑えるじゃねえか」 「なあ竜胆、もう一回言うぜ」  そんな俺が、この天狗道で絶対的にただ一人、あいつの〈唯我〉《かつぼう》を狂わせるこの俺が。 「坂上覇吐が、おまえの益荒男が、あいつにまったく歯が立たないと、思うのか?」 「おまえの覇道に惹かれた奴らは、おまえの役にも立たねえ塵なのかよ!」  声は掠れていたかもしれない。もしかしたら、涙だって流しているかも。  竜胆が俺の自滅因子で、俺を死に導く存在だと言うのなら、それはたぶんこの今こそがそうなんだ。  こいつが俺を大事に思って、その結果として俺を捨てて、一人で波旬に特攻すること。  ああ、それこそが、俺を絶対的な死に落とす引き金。光を失った俺はただの畸形嚢腫に戻っちまう。  あいつにへばり付いてないと生きられず、あいつに見つかれば塵のように殺されてしまう、か弱く不完全な存在に。  だから分かれ、気付いてくれ。俺と離れようとするその選択こそが、全部を破滅に向かわせるんだ。  言っただろ、おまえがいないと俺はどうにもショボいって。  自滅の因果を、乗り越えるとしたら今なんだ! 「わた、しは……」 「私、私だって……!」  青ざめていた頬に朱が灯る。俺を見つめる瞳から、滂沱と涙が溢れ出す。  屍だったその身体に、再び魂の鼓動が響き始める―― 「おまえが死ぬだなんて、思いたくない!」 「死ぬな、死なないで……生きててほしい、愛してるから!」  瞬間、俺は何か神々しいものを仰ぎ見たような気になった。  強く、凛々しく、そして優しく……それはまさに、久雅竜胆を象徴するような〈覇道〉《いのり》の形で。 「共に生きて、共に笑い、共に泣いて、共に勝とう」 「私はおまえを信じてる。おまえが勝てると言うのなら、ああ……分かったよ、否はない。共に行こう、ついて来てくれ!」 「私たち皆で、波旬を斃そう!」  竜胆の背後、いいやその全身から溢れ出している、暖かくて眩しい光……  こいつは今、俺の自滅因子じゃなく、新しい命として生まれ変わったのだと確信した。  第六天の闇を吹き払う曙光の輝き。新世界の座になれる器として。  竜胆は、心なしか照れたように声を落とす。 「おまえがいないと、私も駄目だ……」 「おまえがいないと、すぐ弱くなる」 「怖かった。怖かったんだ。自分に何が起こっているのか分からなくて、なぜ身体は動いているのかずっと不安で」 「心臓は止まっているのに、どう見ても異常なのに、誰にも言わず、殻にこもって……」 「自己愛、だな。単におまえたちから、化け物のように見られるかもしれない自分が哀れで、守っていたんだ」 「情けない。私は弱い。やはりいつか言ったように、おまえのほうがずっと強いよ」  あまり記憶力には自信がないので、そんなことをいつ言われたのかは分からない。だけどそれは、きっと竜胆にとって大事な記憶なんだろう。涙声だが、どこかはにかむような口調がそう告げている。 「おまえは私を光と言うけど、私に言わせればおまえがそうだ」 「私を真っ直ぐ立たせてくれる」 「私に上を見させてくれる」 「私に正面から向き合ってくれた、最初の一人……」 「そんなおまえから逃げたところで、何が出来るわけでもないと気付いたよ」  言って、竜胆は剣を引く。俺はそれを見届けてから立ち上がり、目の前の本当に大事な女と向き合った。 「ついこの前、凄いおまえ怒ってたじゃん?」 「ああ、おまえが私のために死ぬなんて言うものだから」 「あのやり取りに、続きがあったの覚えてる?」  いつだって、そのことだけは強く肝に銘じていたんだ。誤解されたままじゃ堪らない。 「分かってる。……いや、思い出したよ。本当にすまない」 「私はあのとき、おまえの言葉に対してこう言ったんだ」 「私はおまえに死んでほしいわけではない」 「誰のためでも、喜んで死にに行くようなことは絶対に許さん」 「だろ?」  おどけるように首を傾げて笑った俺に、竜胆も柔らか調子で微笑んでくれた。 「そうだな。本当に、そうだったな……」 「坂上覇吐……久雅家第十五代当主、竜胆鈴鹿はおまえの忠を嬉しく思う。よく我が下に参じてくれた。これは私にとって誉れである」 「ゆえにおまえの主として、臣に恥かしくない将でありたい。私自身の魂にもしかと刻もう。誰のためでも、死にに行くようなことは絶対にしないと」  いつかの台詞になぞらえて決意を語る竜胆は、本当にキレイで愛しくて…… 「鼓動を感じる。今の私は、生きている」 「おまえが私を、本当に黄泉返らせてくれたんだ。ありがとう。ありがとう……覇吐」  そのまま、俺は強く抱きしめていた。 「ぁ……」 「竜胆……」  身体はまだ冷たい。まだ硬い。だから俺に、どうか解きほぐさせてくれ。 「おまえの鼓動を感じたい」 「ああ、私も……」  小さくそう頷いて、竜胆はゆっくり膝をつくと横になる。 「おまえの熱さを、感じたい」  国産みの地、淤能碁呂島の最深部で、花びらが瞬くように舞い上がっていた。 「んんっ…ぁ、あぁ……っ」  解いた帯から着物の前を割り開き、むき出しになった胸から首へと舐め上げる。  それだけで、竜胆は驚くほどの敏感な反応を示した。 「はっ…はぁはぁ、は、覇吐……おまえのことが、愛おしい」 「……竜胆。おまえ、いつからそんなに可愛くなったんだ?」 「せ、世辞はよせっ」 「口説いてる最中なら世辞も言うがな。もう雪崩れ込んだ後で、俺がんなこと言うと思うか?」 「……思わない、けれど……私だって不安なのだ」  竜胆が不安な顔をして零した言葉は、まるで羽織の組み紐のように細かった。そして、羽織る俺の胸を締めつける。  こんな気持ちにさせてくれるのは、はっきり言ってありがた迷惑と言えなくもない気がしたが、俺は帯紐を締め直すように気持ちを元に戻して、竜胆へ訊いてみた。 「何がだよ。何をお前は不安がっているんだ?」 「それは、その……」 「女の器量が欠けているのは、私自身分かっているのだ……」 「だから、私は、もうおまえしか見えなくて……それでおまえがいなくなったら、どうしようって……」 「俺は死なないと言ったぜ?」 「そういう、意味ではなくて……」  なんだかもじもじとしながらも、目線を逸らして竜胆は言った。 「おまえが、私に飽きてしまったらどうすればいい? 私はつまらない女だ。繋ぎとめられる自信がない」 「おいおい……」  なんちゅーことを言ってくれるんだ、この姫様は。  あやうく野獣化しそうになったが、なんとか堪えて伊達に決める。 「俺はこう見えても面食いで、外見も中身もこだわる性質なんだ」 「こう見えてもって、最初からそう思っていたぞ」 「というか、むしろ女なら手当たり次第のような……」 「紫織も、咲耶も、龍水も、皆いい女だ。目移りするだろうが」 「ん、む、いや、そりゃ……」  どうもそこらへんにはまったく信用がないようで、そういう風な行動していた俺のせいなんだろうけど。  いま思っていることは正直に言おう。 「俺が断言してやる。おまえは、最高の女だ。竜胆以上の女なんて、後にも先にもいるもんかよ」 「おまえ以外の女は、もう生涯必要ない」 「―――――」  ボンっと火が出たかと思うくらい、その言葉で竜胆の顔が紅潮した。 「ここには何にもねぇ。誰もいねぇし、うまい酒も食いもんも、ホントに何にもない場所だ」 「でも、不満も俺にはねぇんだよ。二人しかいねぇけど、おまえがいてくれるんなら、それでいい」 「どうだ? これで気懸かりはなくなったかよ」 「……ばかものめっ」  すると竜胆は言葉短く言い切って、俺の背中へ手をまわした。  何も着ていないから、密に温度が伝わってくる。徐々に、徐々にだがそれは人肌のものへとなっていき、やがてはそれより熱くなって。 「あ、あたっているな」 「さっきも言ったが、今さら取り乱すもんでもないだろ」 「そういう問題ではない。閨を共にしたことがあっても、今抱えている羞恥とは別のものだ」 「お姫さんらしいねぇ。何とも燃えてくる口振りだ」  背中を撫でると、ピクンと微かに竜胆が反応する。 「くぅっ……指が、いやらし……っ」  どちらからともなく、というよりも竜胆から身を乗せるようにして唇を重ね合わせる。 「はぁ……、はむ、んっ…はぁ……あっ」  ここには天照らす陽光も、差し込む月光も無い。  ただ相照らすように、二人の声と影がお互いを映し出している。  上気しているのは、竜胆の頬と俺の内懐だったが、見透かされまいと隠していた。 「ちゅっ……ちゅ、ちゅぅうう、はむっ」  口づけをしながら竜胆の身体をまさぐり、羞恥に染めていく傍らで、自らの余裕の無さを知られては汗顔の至りだろう。  まあ要するに、男のつまんない見栄ってやつだ。 「あ、や……はぁああっ」  主の言葉も無視して、責め続ける。  乳首に指先が触れると、竜胆はわずかに背をのけぞらせた。 「はぁあ、…ぁん……んんっ」 「良い反応だ。敏感なところにまた惚れた」 「逐一言わんでよろし――――はぁあ」 「……んくぅ…ああっ……あっ、あっ、あっ」  手で胸元をさすり撫で、耳からうなじにかけて舌を這わした。  すると竜胆は身をよじって身体を離そうとしたが、俺の腕はそれを許さない。 「くぁああっ、はんっ……あっ、ああっ」 「あんま、り……んんっ、同時に、責められる、と……はむっ」 「ちゅ……ちゅぷっ、ぷはぁ、んんんっ、くぅっ」  彼女が離れないように抱いていた腕を、竜胆の内股へもってゆく。  すると竜胆は、固定されていた身体をより俺へ寄せて足を閉じた。 「はぁ、はぁ。す、すこしは、遠慮というものをっ」 「言いながら、こっちに体をあずけてきてるが」 「だ、だって……。お前の手が、声が、体温が、私にそうさせる……っ」  その言葉に気をよくして、俺は指先で竜胆の深いところを愛撫し始める。  ひと撫で、ふた撫で、指を往復させると身体全体から力が抜けてゆくように、竜胆が足を開いていった。 「んん、はああぁ、や…ん……っ」  竜胆の反応に、俺の胸が高まってゆく。  品位を保とうとする竜胆の優艶さは、そこいらの町娘で得られるものではないし、また公家の子女のように擦れた女が見せてくれるものでもない。  と思うんだよ。分かんねえけど。 「……ああっ……んっ……はぁ……ぁん……」 「はむ…ぅ、んぁ……あっ、あっ、あっ、……は……む…」  内ももを上ってゆく俺の指に、竜胆は総身をあわ立たせるほど臆しながらも、しかし内では焦がれているのが分かる。  そういった彼女の背反性を、俺は非常に愛しく思った。 「はあ……ぁ…ああ……、覇吐、触れない、のか?」  すでに締めつけることをやめて、完全に開いた脚を俺はまだ撫でている。 「はむっ……ちゅっ、んちゅううっ、ぷはぁっ」 「も、もう充分濡れてるから、あのっ」 「分かってるよ。まぁ任せておいてくれ」  すると竜胆は少し不満げに、頷いたのか首を振ったのか、よく分からない反応を見せた。  上位にいる俺が焦らしてることに対する不満だろう。  だからか、竜胆はすっと手を伸ばして俺の芯に触れたのだった。 「お、おい……?」 「任せはするが、手を出さないわけではない」 「いや……まぁ、いいけどよ」  言葉とは裏腹に、俺は凄ぇ困惑している。  竜胆は、堅物だ。足の指から頭のてっぺんまでの堅蔵だ。  いや、堅蔵なんて言っちゃうと、心の中とはいえ烈火の如く怒られそうではあるんだが。 「……くっ、お前。ちょっと変わった、な」  俺の肉棒を撫でながら、鈴口の先へ指を這わせるその動きは倒錯的で、普段のこいつなら顔をしかめる行為だろうに。  しかし今、この二人以外に誰もいない場所で、竜胆のたがが外れかかっているのかもしれない。 「はぁ、はぁ……覇吐。お前のことが、愛おしてくてたまらない」 「女にそこまで言わせられるとは、俺の男も廃れてないな。いや、もともと俺様は大層な男だったわけだが」 「……ばかもの。廃れている男に、私はここまで懸想しておらん」 「それじゃあ、最高の女に、最高の男で、それでいいな」 「……ふふふ。お前は単純だな。そういうところも嫌いではない」 「素直になったと思えば、またそっちに戻るのか」 「ならば、私の骨を抜いてみろ。それがお前の閨房の作法だろう」 「言われるまでもねぇ」  そして俺は、竜胆の陰核を上から撫でて愛撫した。  温かなこの場所で、そこは熱く濡れて弛緩している。 「…んんっ! ……あはぁっ……そこ……」  竜胆の脚が、さらに広がってゆく。  指だけでなく、早く脚を割って挿いってきて欲しいと懇願しているようだった。  秘裂の奥から、滴るほどに愛液が溢れ出してくる。 「んくぅ……あふわぁ、くうぅぅぅ……!」  膣内に指が飲み込まれると、わずかに折り曲げて緩い鉤状にした指の先で、壁をこすった。 「ひぃあっ! ああっ、んっくっ! あああっ!」  竜胆の反応は非常に敏感なものだった。  目を閉じて仰け反り、顎を上げて、上を仰ぎながら、俺の全身を抱きしめた。 「はあっ、ああぅ、くうっ……! あふ……ふわぁ……」 「あっ、あっ、あっ、あああ……! ひぃああ、んくぅ、あっあっあっあっ」  ゆるやかな速さで中指を出し入れをすると、竜胆は貪るように俺の唇を求めた。 「ふあ……はむぅ……、ちゅ……ちゅる……ちゅっちゅっ……ぺろっ」  膣の壁に指先が触れるか触れないかで往復するたび、竜胆の声は甘く切なげに漏れてゆく。  まるで川の堰が少しずつ決壊しているかのように、女の壁から蜜がとろとろと零れてゆくのだ。 「いっ、いい……あむぅ……んちゅ、ちゅるっ……ちゅううう」 「ひあっ……んくぅ……深く……もっと……こすっ……んんくぅ!」  俺の首に腕を回し、縋りながら、竜胆の腰が上下に動き始めていた。 「あ、あぁ、あっ、あっ、あ、あぁん、ひぃあっ、あぅ……」  指は徐々に早くなる。  竜胆の身体は俺の指に強く反応して、正直言うと、手は驚くほどびしょびしょに濡れていた。 「ああっ、は、はばきっ。もっと、私を、もっとかきまわして……っ」 「んあああっ! くぅう……あっ、あっ、あっ、ああ!」  今の俺にとって、この愛撫は特別だ。  なぜか、身体より心が疲労してくる。  しかし、それは心地好く、竜胆風に言うなればタマシイが磨かれてゆくようだった。 「――んくっ! ……んんっ……はんっ……ああ、ぁううっ」 「あ、ああっ、も、もう……そろそろ……っ」  その一言に、思わずよっしゃと心の中で拳を握る。  先ほどまでも、竜胆は愛らしい反応を見せ、何度も俺に対して求める言葉をかけてくれてはいたんだが、色々と理想的な段取りっていうのがあってだな。  平たく言うと、愛してるからこそ、愛撫して挿れてくれと言わせたかったのだ。 「なに、が、おかし……い?」  笑みをこぼした俺へ、竜胆が息も絶え絶えに尋ねてくる。 「いや、何でもない。そんなことよりも、そろそろ挿れさせてくれ」  そして、これだ。こんな風に欲しいと言わせるまで持ってゆき、そこで俺から挿れさせてくれと頼むのだ。  これこそ、俺様が伊達と思う漢のあり方。きっと多くの奴が賛同してくれることだろう。 「……ああ。私の内は、もう焦がれている。覇吐、お前のを私に……」  語尾を濁らせてしまう竜胆の様子が、俺にとっては最上の褒美だった。 「……ぐっ。おまえの膣内は、やっぱりきつい」 「ああ……くぅう! は、覇吐!」  鈴口を秘所へあてがい、そして押し挿れてゆくと、竜胆はそれまで以上に弓なりになって喘いだ。 「んっ、はぁあ! ああっ、くぅ…ひぃああ! あぁ、あっ、くぅうう!」 「はいって…くるっ……あああぅ! くぅううう、あああっ」  俺の背へ腕を回し、きつく抱き締める。  まるで圧死するかのような声を上げながら、圧死させるかのように抱いてくるのだ。  タマシイごと抱き締められているような感覚を、強く覚える。 「ん、はぁっ! ちゅっ、ちゅうぅぅっ」  向き合い抱き締め、互いの唇を貪り喰らう。  まだ最深部まで挿れていないが、竜胆の腰はすでに動き始めている。 「んっ、んっ、あっ、あはぁ……っ! んくぅっ! はむっ…ちゅ、ちゅる……れろっ」  浅い挿入を補わんとするように、竜胆は身体を前へ後ろへとゆすり、腰を上下へと動かした。 「あ、ぅんんんぁ、あああっ! はぅんっ、ひぃいいあああ、ああっ……」  そして、俺は竜胆の動きへ合わせて突き上げた。  浅かった挿入が、そこで一気に奥まで届き、落雷を受けたかのように竜胆の身体が強張る。 「ああっ! はぁあああ……! はばきぃっ、すごい、おまえのがっ、私の中でっ」  激しく身体を仰け反らせて、竜胆が叫んだ。  面と向かい合った座位で、両手で俺の頭を押さえつけ、竜胆が腰を激しく動かしている。  俺は、それを耐えるようにしてまだ抽送を始めていない。 「あ……んんくぅっ! ん……っふ! あっ、んんっ! あっ、あっ、あっ……!」 「はぁうう……っ! あぁ……っ、うん、くぅ、はっ、ひぃああ、ああっ!」  俺は動いていないものの、竜胆は自ら動き、そして痺れるように身体をびくびくと震わせた。 「あ、あっ……は、ばき……うごいて、お願い……っ」  俺はすかさず、弓なりに後ろへ反り返っていた竜胆を引き寄せて、唇を奪った。 「あ、はむぅ、んんっ、ちゅっ……ちゅ、ちゅっ、ちゅうぅううう……」  気分としては、喘ぎ声すら漏らさないようにしてやりたい。  吸い付いて、吐息も、声も、唾液も、すべて吸い取ってゆく。 「はぁむぅう……くっ、ぅんんんっ………れろっ、ちゅう、ちゅっ」 「れろっ、んんっ…ちゅ、ちゅっ、ちゅっ、はあぁ……あぁっ」  ひとしきり吸った後で解放してやると、竜胆は大きく息を吐いてから、しかしまたすぐに抱きついてきた。 「はぁ、はぁ……覇吐。愛しい、好きだ、おまえの顔が目の前にあると狂おしくなる……っ」 「俺もだ、竜胆。お前のことを愛してる」 「ああっ、はぁん………くぅう……!」  そして抽送を開始する。  座って挿れているせいか、肉棒が竜胆の奥深くまで埋没してゆくと、彼女はとりわけ塊のような息を吐いた。 「無理はするなよ。痛くないか?」 「平気、だ……私の心配よりも、お前のしたいように、しろ……っ」 「……愛してるぜ」 「あはぁっ、はぁ、はぁっ、あっ、そこっ、くぅううう!」 「く、かはぁっ、はぅうう…あああっ……はぁ、はぁ、あはぁん!」  抽送に合わせて、竜胆が先ほどよりも激しく腰を動かし尻を揺らした。  さすがにその刺激は相当強く、俺も天を仰いでしまう。 「ああっ……! ひゃああ、んんんっ、ぁあん」 「ふかいぃい――っ、あああっ! 覇吐のが、お腹の奥まで、んくぅう、はぁはぁ」  結合部は、二人の愛液で溺れるくらいに濡れている。  竜胆は、すでに軽く絶頂を迎えていたが、まだ俺の求めるところまでたどり着いていない。 「あああっ――」  俺がいくだけじゃつまらない。竜胆が絶頂の果てまで到達しなければ、まったく全然本意じゃないのだ。 「あっ、あっ、あっ、またはげしっ…はぁあああ……っ!」 「まだだ竜胆。もう少しだ」 「あぅっ! いっ、ああ! だめっ! くぅうう……そんな、これ以上……はぁああん!」  あと少し、あと少しだと分かる。  今、竜胆が上り詰めようとしている坂に、終わりは近い。 「ああっ! くふぅう! あはぁ……はぁっ、はぁっ、くぅうっ」 「……いっ! ……すご……奥の、奥に、あたって……あああっ!」  わずかに残っていた余裕が息づかいにもなくなり、竜胆の呼吸が短く速くなってゆく。  普通に喋ることができるのは、もう総ての行為の後だろう。 「……すきだ……はああっ! くぅうっ! はぁっ、はぁっ、ああっ」 「いい……っ……覇吐……もっと、深く、突い、て……ひぃあああ……!」 「くうっ! ふぅ、あはぁ、はぁぁ、ぁぅ……っ」 「がまん、しなくて……いい、から、ああっ……あっ、あっ、あっ」  俺の抽送も、いよいよ打ち付けるように激しくなっていた。  直に竜胆へ、俺の魂を刻みつけるように。  願わくば、また生を彼女が紡げたらいいと思って。 「ひゃああっ、ひぃあぁ――、んくぅううう、ああああぁっ」  限界まで絞りだした快感が、俺の芯を駆け上がってゆくようだった。  一滴も残さないように、俺は自分の総てを込めて、竜胆を向こう側へ連れてゆこうと考えている。 「あ、ああぁ、やぁあんっ、くぅ、だ、だめっ!」 「い、いく……、いっちゃう……! あああっ、はばき、はあぁ、わたし、もう……!」 「いいぜ。竜胆。いっしょにいこう。俺は、いつでも、どこでも、お前の側から離れない」 「んんっ、あああぁぁぁっ――」 「ああぁあああ、ああああぁあ……くぅ、はあぁ……覇吐!」 「ああぁあぁあああああああ……! ひゃああああああああんっ……」  駆け上がる波が頂点に達したとき、俺と竜胆が一つに溶け合うような感覚を覚えたんだ。  そして…… 「もうすぐ……」 「ああ、もうすぐだ」  俺たちは今、最後の戦いを目前に控えている。  この特異点に止めとなる穴を空け、波旬の座まで乗り込むために。  それぞれの役割、それぞれの戦い……総てが果たされ、重なったそのときにこそ道は開く。  分かるんだ、波旬は強い。俺一人でも、竜胆一人でも、まして二人でも駄目なんだ。あいつと向かい合うというなら、俺たち全員がそろわなければ意味がない。  久雅竜胆の益荒男が、新世界を担う俺たちが、一丸となって向かわなければ勝機はないんだ。  ああ波旬。ああ兄弟よ。俺はおまえが羨ましいと思っていたぜ。  手足があり、身体があり、瞳があって口がある。何処へでも行くことが出来たはずのおまえが、俺にはなかったものを持っていたおまえが、心の底から羨ましかった。  だというのにおまえは、そんな所で唯我唯我と呪うことしかできないのか。  ふざけるんじゃねえ。てめえには、俺たちが紡ぎあげた曙光の剣をくれてやる。  見ていてくれよ、龍明。爾子・丁禮。夜都賀波岐――そして黄昏の女神様。  俺にも責任の一端があることだ。ケジメはつけなきゃいけないよな。 「覇吐、おまえに一つ頼みがある」 「全部終わったら、そのときは……」 「私を、鈴鹿と呼んでほしい」 「ああ、そして勝利の宴会だ」  応えて、俺は竜胆を抱き寄せると唇を重ねた。 「ん―――」  最大最強、最後になる嵐の前に訪れた、この一瞬の凪――  その刹那に、俺は愛しい女を抱きしめ、思う。  この温もりだけは、絶対に手放さないと。 「ああ、うるさい。うるさい。うるさい。うるさい」 「目障りだ。〈塵芥〉《ちりあくた》が何か分からないことを〈囀〉《さえず》っている」 「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」 「滅・尽・滅・相」 「唵 有摩那天狗 数万騎 娑婆訶・唵 毘羅毘羅欠 毘羅欠曩 娑婆訶」 「下劣畜生。〈邪見即正〉《じゃけんそくしょう》の道ォォ理」  目と鼻の先にいるだろう、外道狂天狗の呪いが響く。宇宙を覆い尽くすその凶念に、だが俺たちは、微塵たりとも臆しちゃいねえ。  自分を、仲間を、そして未来を、ただ信じて―― 「――太・極――」  紡ぎあげた理の先に、最高の結末を掴み取ると誓っているんだ。  特別付録・人物等級項目―― 中院冷泉、奥伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 中院冷泉、奥伝開放。  ……………  ……………  ……………  そうして、それは唐突に。  あるいは、当たり前のこととして発現した。  はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――――。  冥府という地獄の庁。番犬のように繋がれている獣が、悍馬のように暴れ狂っていた。  それもよく見ていると、人間の面影を残していることに、傍らで死にゆく人間は気づくだろう。  その男と刃を交えたものは、例外なく死に落ちてゆくのだ。  阿ぁあ阿あああ阿阿阿阿阿阿阿阿――――  獣は、幾多の屍を喰らい、それでも満たされぬ想いに毛を逆立てて叫んでいる。  地獄の叫喚もかくやという哭声だった。  そうだ。泣いているのだ。獣と化したときから、男は絶えず泣いていた。  けれど、もう遅いのだ。冥府に繋がれてしまった獣は、ただ死を噛み砕くことしかできない。  無闇に力を込めた腕が、その反動で折れるたびに歪な形で治癒を繰り返し、本当にヒトだった者の成れの果てかという風貌だった。  なるほど。化けの皮は、やはり人間の形では身に纏うことはできないものなのである。  …………  ………………  東征に際して、刃を交えた化外。  しかし、戦った者もまた人外の域にある者だ。  人間の皮膚。されど、そこから漏れ出す毒気は、まぎれもなく人を捨てている瘴気である。 「――――ッ!」  檻を食い破る感覚だった。  はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――――  尊厳や自由、侮蔑と中傷、自由と不自由。人の姿を限界まで保ったままで、それら総てを投げ捨てる。  しかし、人にしては伸び過ぎた爪をして、人間の手を握ることはできない。智慧の果実は、発達した犬歯が邪魔で食べることができない。牙は、あくまでも肉欲を満たすものなのだ。  肉が欲しい。肉が喰いたい。渇くのが苦しくて血を求めている。 「――――、我――――」 「――、阿―――、――」  顎から滴っている涎が、饐えたような匂いを放っていた。  下肢大腿、上腕部、頬筋までもが蠕動する。喰うという欲求が、肉体に要求しているのだ。  早く、喰わせろ。誰でもいい。俺に肉をくれ。女の肌を、乳房を、下っ腹を、壺の中に手を入れて蜜を掻き出したい。そして、思う存分にそれを浴びて渇きを癒したいだけなのだ。  ねぐらから這い出ると、外は薄暗いままだった。男の眼は、その中で薄明を感知する。  陽光か、それとも火を焚いているのか。注意していると芳醇な匂いに、男の鼻がひくついた。  間違いない。向こうには肉がある。それが完全なる人のものなのかは分からないが、男にとっては餓えを満たす肉でしかない。 「――、――――ッ!」  襖を突き破ると、奥襖がさらに邪魔をする。どうやら奥へ奥へと繋がっているらしい。  ――はぁはぁはぁ、はぁはぁ……!  男が空気を蹂躙する。彼が通った後は、まるで瘴気による毒が充満しているかのようだった。  敷居られた部屋の中で、犬畜生のように舌を垂らしたまま呼吸困難に喘ぎ、けれどその実、恍惚としているようである。  苦しければ苦しいほど愉快だった。肉欲が高まるだけで、男の快楽は増していってしまうのだ。  そうして、蠕動する腿の筋肉が弾けるように男を後押しすると、いつのまにか目的の部屋へとたどり着いていた。 「…………」  案の定、部屋の中には女が寝ていた。それも、特上の肉だった。  嘗めまわすように寝ている女を視姦する。散々に犯し尽くした後では、この綺麗な顔を見ることができない。  だから、壊す前に眺めるのだ。視線でねぶった後で、実際に女の頬を舐めてみる。 「……んっ…………」  良い味だった。まだ腐ってない、新鮮な匂いがする。  かといって、淡白で薄味でもない。しっかり熟れ始めた女の味なのだ。これから十年は、いつ食べても旨いだろう。  だから今すぐに喰う。さんざっぱら犯して、殴って引き裂いて、殺してから食べるのだ。  男はそれらを本能的に悟り、殺したい衝動を収めていった。まだ早いからだ。ただちに壊してしまったら、もう楽しめない。晩餐だからこそ、ゆっくりと貫いて血の一滴まで味わなければ。  男が着物へ指をかけると、女は寝返りをうった。  それによって、邪魔な布が引き千切られる。まるで皮膚を剥がすように、一瞬にして脱がしたのだ。  すると、目に見えるような香気が立ち上った。甘い花は、紅い。女の肌にうっすらと差している赤みは、とくに甘ったるく誘っているようにも見える。  男は、静かに眠る女の声を聞きたいと思った。  それも快楽に委ねる揺蕩った声などではなく、怯え震えながら絶叫する悲鳴を、だ。  それがきっと、いちばん、おいしい。 「はぁ、ぁっ……んん」  何とも色気のある息を吐いてくれるものだ。男は、この女が自らとは違うと強く感じ入った。  だからこそ、男の中にある嗜虐性が萎えずにすむ。このように獲物は、捕食者と別の種でなければならない。  男と女。それだけで最高に残虐になれる。共喰いなどは食料が絶えたとき、仕方なくするものだ。  すっかり服を脱がしてしまうと、女は身をよじった。舌が触れるくらいにまで、口を開けて女の身体へ近づけると、涎が一滴だけ垂れた。 「…………えっ」  当然のことながら、女は目を覚ました。  事態が把握できるできないといった風ではなく、単純に寝起きなのだろう。まだ脳へ熱がいく前で、起きたことすら認識していない様子である。  この瞬間に胸へ刃を突き立てたのならば、獲物は鳴き声一つ上げなかったのかもしれない。  だが、もちろんそれではダメだ。哭声がない姦淫など血の通わない人形との性交に過ぎない。命乞いのない者を殺すことに、どんな幸福があるのだろうか。  それは殺す方も、殺される方も、同じ理屈である。殺される女は、死の直前まで恨めしがり、怨念を残して逝きたいと思うだろう。それは獣と化した男にとっても、喜ばしい傾向である。  だからこそ、そうであったからこそ、男は女の反応に驚いた。 「あんたっ、宗次郎……?」  宗次郎、とは誰だ?  それは、もしかして人間の男の名であろうか。  しかし、どうして今、そのような名前をこの女は、口にしたのだ。獣は訝しがりながら、それでも女の鎖骨へと舌を這わせた。 「んんっ、はぁああっ……そっか、あんた……」 「……いいよ、あんたになら――――」 「私は、殺させてあげても、いい」  女の言葉の意味が分からない。もしかしたら、人間の言葉だから、自分には理解できないのかもしれない。  目を覚ましたばかりの朦朧とした意識の中で、夢でも見ているつもりだろうか。  人間とは、よく夢を見るものだから。  獣が寝るのは身体を癒すためだ。しかし、人間が寝るとき、それは心を癒すためのものでもあるらしい。 「あっ、んん、あああっ――」 「痛ぅっ――あ、や、んん……っ」  首筋から舌を這わせ、鎖骨を舐め、乳房をねぶる。  そして、乳房を舐めまわした後で、獣が乳首を噛むと、女はわずかに悲鳴を上げた。  同時に身体を仰け反らせ、目の前の二つの双丘がたおやかに揺れた。まるで熟れた桃が、樹々のざわめきで揺れるように、獣の視線を掴んで離さなかった。  一度抑えたはずの欲情が、これみよがしの果実の前に、刺激されて仕方ない。 「はぁああ、んっんっ、あ、んくぅう……」 「ふぅ、ん、んんっ、はああぁ! ひゃああぁん、ああっ、あ、あああ……」  舌は人であった頃よりも、長くなっているようだった。  下から乳房を持ち上げるようにして舐めると、ぷるんと元の位置へ戻る。  それが玩具のように獣を夢中にさせてゆく。片や、もう一つの乳房を力の限り揉みしだき、そして伸びた爪で乳頭を弾いたりした。 「はぁはぁ……、痛っ――――そう、じろう……っ」 「もっと、いいわよ、んくぅうう……つよ、く……」  紫織が、男の頭を抱こうとすると獣は頭を振って、それを払った。  欲しいのは女の肉だけだ。男は、この女が欲しかったのではない。  渇きを癒して欲しい。こんなにも喘ぎ苦しむ快楽を、誰にも奪われまい。奪うのは、自分だけなのだ。 「そう、……つよく……んんっ、あ……ああっ、くふぅん……はぁああ」 「んんっ……はぁっ! はぁ、はぁ、や……あっ、あっあっあっあっ」 「いい……いいのっ。あぁああああ――あくぅう! かはぁ、はぁはぁ……っ」 「んくふぅうう……はぁっ、はぁっ、ああぁああ、すご……痛ぅううう」  男にとって、それは女を凌辱するに過ぎない行為であったが、それは紫織にとっても同様だった。  獣に求められるのは、彼女という人格ではなく、一人の女としての肉欲でしかない。  それが紫織にとって、たまらない愛欲に溺れる夢幻のようであった。この男になら、いい。このような獣になってしまった男に、自分は壊されたいと思っていたのだと願っていた気さえする。 「はぁあああ……! 千切れ、ちゃう……」  乳房を押し潰し、こね回す爪の伸びた指と、歯形さえ残ってしまうほどの口を使った愛撫――いや、それは愛撫と呼べるものではない。  閨房において、一切の作法を逸している。心ですら置いてけぼりだ。ゆえに男から引っ張り上げられるようにして、紫織の中にも獣性めいた劣情が浮かび上がってくるようだった。 「はぁはぁ、もっと……あぁ……いい、の……ひぃああああ!」  爪が深く乳房へ食い込むと、乳首は固く反応し、男へ女の情欲を伝えていた。  紫織は、まるで俎上の魚のように、びくんっと身体を弓なりに仰け反らせている。 「あぅっ! んっ、ふぁっ、ひっ……ぁああっ、くぅっ……くぅっ、ぁ…ん! ぁあっ、んんっ……!」 「―――――んんッ」 「はぁ―――ん、くっ、ああ」 「っ、っ、っ、っ――ぁ、ん、あぁ――」  千切れるほどに乳房をこね回す指の動きに、愛撫という言葉は正しくない。獣欲に支配された男に愛撫などあり得ない。  その卑しさを、紫織は受け止めたいと本能的に思ったのだ。 「あぁはあっ、そう……くぅう、も、もっと……もっとっ」 「はぁああっ、あんっ、やっ……んんっ、あっ、ぃ、いぃ……いいの、ああっ、んくぅぅ!」 「はぁむ……ちゅ……くっ、んんっ、あふわぁっ、あああ!」  上から押しつけるように抱いてくる男の唇を、女の方からねぶるように求める。  獣の口内へ舌を入れると、男はさらに激しく紫織の胸へ爪を立てた。 「んんっ…ちゅる……れろっ……んちゅ」 「はぁあ……はむんっ、ちゅっ……ちゅう……れろっ」 「はぁ、あはぁっ……ちゅ、ちゅる、れろれろっ……ちゅる」 「ちゅうちゅぅ…ちゅる…れろっ……ぷは、はぁむ」  貪り合って口づけをする。しかし、それは接吻と呼ぶには正しくない行為だった。  なぜなら、男も女も、まるで餌を喰うように群がっているだけなのだ。  舌を執拗に絡ませていると、紫織の股が自然と開いてゆき、男が身体を倒すようにして近づける。  すると、両者の破裂しそうなほどに荒くなった鼓動が、より近くなった。 「――んぶっ! んんっ、んむっ……ちゅる」 「ちゅぶっ、はぁむっ……んぐぅ、んぐっ」  男が、女の下顎へ指を沿えて圧迫すると、歯と共に咽の奥まで開くようだった。    開かせた女の口内へ、どろどろになった唾液を注ぎ込む。呼気が詰まり、女が咽ぼうとも構わない。  苦しんでいる相手の顔が、何よりも男の胸を満たした。 「んぐうぅううっ、けほっ、げほっ……うげぇえええ……っ」 「はぁはぁ……こほっ、はぁっ……あ、い、いれる……の」 「いい、よっ……。きて、いい、よ……」  それでも、女は恐れるといった様子を見せなかった。違う。聞きたいのはそうではない。悲鳴でないと意味がない。  熱く爛れた嗜虐性が波立ち、獣の爪を鋭く尖らせてゆく。  長く伸びた舌から、乳房へと涎が垂れた。  そうだ。これ以上の我慢は必要ないだろう。  刃のように反り返る剛直をもって、男は紫織を一気に貫いたのだった。 「はぎぃ、かはぁ、ああああ、あああぁ……っ」  息も絶え絶えになるほどの、圧迫感であった。  紫織の鼓動が、ぐいぐいと押してくる圧をはねのけるように、一気に早くなってゆく。 「あっ……あはぁっ、んんっ、かはぁっ……!」 「……う、うごいてっ―――― ひぎぃいっ! んくぅう!」  言われるまでもない。〈閨〉《ねや》で女に指図されるなど、男にとって最も恥じるべきものである。  しかし、この女の具合は良しと男は思った。これほどよく熟れている女は、男に挿れられてこそであろう。 「ああ、ああっ、はぁっ、はぁっ、んんっ……!」 「はぁああああっ! んん、ああ! はぁはぁ……あっ、あっ、あっ」  豊満な肢体がぶるぶると震え、長い髪がまるでさざめくように揺れている。  女が感じている圧迫感は、つまり充足感とも呼べるのかもしれない。 「んんっ――――はあっ! ひぃああああぁ……んくぅ……あ、ん」 「あっあっあっ い、いい……くぅっ、あっ、あっ、はぁああ」 「ひゃああぁあ、は、くぅううっ、あぁ……っ、はぁはぁ」 「んくぅ……ぁ……んんんっ、はぁ、はぁ、ああ……っ」  男の律動は、早いだけではなかった。猛々しいと呼ぶのが相応しく、彼の獣性が表れたものだ。  犯したい、狂いたい、殺したい、壊したい、引き千切りたくて、下から真っ二つに裂いてしまいたい。  充分に濡れていた秘所も、抽送をするどす黒い肉棒によって赤く腫れあがっている。  それはまるで、子宮の奥からさらに突っ込まれ、女の内臓を愛撫しているようですらあった。 「んぎっ…はぁ、んんっ……はぁはぁ」  頬に垂れてくる涎を、紫織は指ですくって嚥下した。 「かはぁ……くっ うぐ、あぁあああ……はぁはぁ、そうじ、ろう――――」  夢うつつといった様子だが、紫織はときおりその名前で男を呼んだ。  もちろん獣は、ヒトの呼び声になど反応を示さなかったが、その代わりに力強く突き入れた。  さながら、女には何もしゃべらせまいといった様子で…… 「ああっ、ああぁああああぁ! あぁっ、くぅうううう、……ひぃいああああっ」  女の総身に愉悦が行きわたる。鳥肌で絶叫するような悲鳴だった。  すると、そのとき――――。  ようやく男は、顔を歪めるように微笑んだようだった。 「あ、かはぁ――くふぅ、あぁ、あぁ、あぅっ! んんっ、ふぁっ、ひぃっ……はぁあぁああああっ、はぁっ、はぁっ、……んくぅっ、ぁ…ん!」 「あぁああああああああっ、んんっ……!」  気がつけば女の両足は、男の身体へまとわりつくように、腰の後ろで固く挟んでいた。  逃すまいとするのは、男であったはずなのに、いつから女にも伝播していたのだろうか。  紫織は男の抽送に合わせて身体をよじらせ、腰を上下させていた。 「ああっ……! はああっ…あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……あああ!」  突き刺さった男の槍には、彼女の愛液が伝わって、下に溜まりを作っている。  内蔵ごと中身を削り取ろうとするような挿入は、逆に男がありとあらゆるものを投げ出して、女へ溺れようとしているからかもしれない。  それは非常に愛おしいという感覚を、紫織へともたらしてた。 「んくぅうっ――――はぁあ!」  愛を知ろうしない男は、いつの間にか獣となって、地獄へと真っ逆さまに下り始めていた。  ヒトであったとき、彼が信じたもの。焦がれたもの。絶えず振るい続けて血を吸った刃は、果たして本当に自分のためだけであったのだろうか。  そして男は思いきり、紫織の膣内を突いた。同時に、弓なりに仰け反った女が声をあげる。 「あはぁああああっ、はぁはぁ、ああぁああああぁっ……!」 「そう、じろう。あた……し、も、いっしょだよ……っ」 「だから、いっしょにいって……このまま、んんくぅっ……二人で」  喘ぐ中で振り絞るように紡いだ紫織の言葉に、獣の鳴き声が混じる。 「我ぁ阿――、――阿阿ぁ、我ぁ阿阿――――」  律動が、鼓動よりも速く激しくなってゆく 「はぁああわっ、んくぅうううう、ぁっ……!」  ばらばらに砕けていた欠片が合わさってゆく。男の獣は、それが苦しくて慟哭していた。  愛とは、こんなにも切なくて暴れるようなものなのか。それに比べたら、獣でいることのなんと穏やかなことだろう。  ヒトの愛は、おそらく総ての中で最も傷つけるものだったのだ。 「はん…くふぅ、んんっ……はあぁ……はぅ、はぁはぁ……あはぁっ! あんっ……くぅ、はあ……ぅぅん」 「いい……いい、よ、もっと強く……壊れるくらい……じゃない、と、私たちには……とどかない、から……っ!」  その言葉を理解するに至ったとき、男の中で弾けるものがあった。 「あぁ、はぁあああ! んくぅううううっ……あはぁ……っ!」  宗次郎は、紫織の膣内へ注ぎ込みたいと願ったのだ。 「ああぁっ、あぁああああああああぁぁん――! んっ、んん、はあぁあああ……!」 「はあぁああああっ、ひゃああああああん!」  絶頂に達するのと同時に、紫織が宗次郎を抱き締める。  すると彼女の頬には、自分のものではない涙の温かさが垂れていた。 「んんっ……、はぁはぁ……ぁっ、ん……おやすみ、宗次郎」  まだ甘く麻痺している彼の身体を、紫織がゆっくりとほぐすように抱きとめている。  宗次郎は、いつまでも夢の中にいるようで、彼女の胸の中で眠っていった。 「―――――」  気付けば、障子の隙間から刺す日の光が朝をとっくに過ぎていることを教えていた。もう昼に差し掛かっていることだろう。  まず、自分がここまで眠ってしまったことに驚いた。どうにもタガが緩んでいると言わざるを得ないから。  剣の道に生き、それだけを押し通してきた。結果、人斬りになってしまったが、ゆえに日常的な行動総ては鋼の如く揺るがない。  朝は日が昇ると共に起き、夜は日が沈む頃には書を嗜み、早速と寝る。それが通例であったのだが…… 「……僕に、他に何があるというんですか」  あれは夢か、それとも現か。  どちらであっても、自分の中にこのようなことを求めている心があったとは、驚きであり、同時に唾棄すべきことだと考える他ない。  自分にとって剣が総てであり、それ以外の悉くを文字通り〈切〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈捨〉《、》〈て〉《、》〈た〉《、》。これまでを鑑みれば、そうやってきたはずなだけのこと。  しかし、ならば……ああどうして。 「本当に、何をやっているんでしょうね」  己に内在するかしないか分からない欲望に振り回され、昼近くになって目を覚ますなど、壬生宗次郎としての生き方としてあってはならないことだから。  禁欲的なつもりはない。そもそも、その手の欲も〈切〉《、》〈っ〉《、》〈て〉《、》〈捨〉《、》〈て〉《、》〈た〉《、》のだから、享楽的であること自体が己の中に存在しない。  なのに、このざま。激しい自己嫌悪が込みあがってくるのも道理だろう。 「違う。僕は、そんな男ではない。そんな男ではない」  無意識に二度繰り返し、枕元の刀を抱き寄せる。  あのようなことをしたのか。しなかったのか。想像し、思っただけで、夢が現れたら、それは己が未熟の現れではないのか?  剣以外の何か、剣で斬る以外の何か。それ以外が内在することに、驚きとやや大きめの失望を持って迎えている。  一刻も早く、このくだらない夢の残滓を斬り捨てて剣を振るわねば。そう思うのだがと……  なぜか渦巻く葛藤に大きく溜息を吐き、今日はもう寝てしまおうかと思った瞬間、襖がいい音を立てて開かれた。 「おっはよ、宗次郎! この寝ぼすけめ」 「え、あ──」 「お、おはよう……ございます……」  紫織のすっとんだ目覚めの挨拶に、何をどう言っていいのか分からないまま挨拶だけしていた。  ……何を驚く。あれは夢だ。ただの幻。  何を信じていいのか分からないまま言い聞かせる自分を前に、彼女はまったく気にすることなく、隣に膝をついてくる。  その余りにも近い距離が、煩わしくも、気に障る。どうしていいか分からない相手と、このように距離を詰められると困惑するしかないのだ。  だから何か言おうとして、しかし巧い言葉が見つからず、墓穴を掘るようなことを言った。 「あの、昨夜は――」 「ん? どうかした?」 「……いえ、何でもないです」  彼女が何を考えているのか分からない。瞳を直視することができずにいる。  ならば、ああと苦笑いしながら頭を振るしかなかった。 「変な宗次郎」  まったくもってその通りなので何も言えない。これ以上考えてもしょうがないことなので、ひとまずこの件については終止符を打つことにした。  どうでもいい。どうでもいい。 自分はあんなことなど求めていない──  そもそも今、どういう感情でうろたえているのかも分からなくなっている。彼女もなんのことやらといった様子だし、だったらもういいではないか。  総ては、うやむやのままでいい。 「すみません。寝過ぎたようですね」 「そうだよ。ということで、あんたの飯は昼飯ね」 「いただけることは感謝しますが、いいんですか? そうまで気を遣ってもらうのも」 「今さらでしょ。だからこうして呼びに来たの」 「ですが……いえ、すみません。お世話になります」 「よしよし、じゃあ顔洗って来てね。私は先に行ってるよ」  部屋を出ていく背を見送り、宗次郎は大きな溜息を吐いた。  一度芽生えた疑念はなかなか吹っ切れるものではないが、これ以上拘ってもしょうがない。  心の奥に仕舞うと決めたのだから、後はその気持ちがどうにか機能してくれるよう願うだけだ。 「ごちそうさまでした」 「はい、お粗末様」 「すみません。余計な手間をかけさせて」 「もっと早く起きれば、朝餉もあったんだけど。まあそれは仕方ないか」 「朝餉、いただいてから出立すれば良かったですね」 「あー、いいのいいの。気にしないで。なんだったら明日までいてもいいんだよ」 「あんた一人ぐらいなら、特に負担ってわけでもないんだし」 「いえ。ここまでお世話になったのですから、もう十分です。今日、日が傾く前には出立します」  吹っ切れた自分が決めたのは、予定通り郷里に帰ることだった。これ以上秀真にいてもすることはなく、また意味もないから。  それに何より、この状態で紫織の傍にいてはいけないような気がしているから。田舎へ帰り、それからのことは、それから考えよう。あまり彼女の世話になるのも何かと失礼だろうと理由付ける。  自分はあくまでも一介の居候。 それに対して、紫織は玖錠家の長女。  家督は弟が継ぐとは言え、それ相応な立ち位置にいる。如何にあの東征の戦友とはいえど甘えている場合ではない。  離れなくてはならない。できれば、そう、一刻も早くと……理由を心の中で探し求めながら切り出した。 「ですので、そろそろ用意をしたいのですが――」  そうして立ち上がろうとした宗次郎に、彼女は短く尋ねてくる。 「ねえ」 「天下最強の夢はかなったの?」 「…………」  問いかけが鋭く胸に刺さった。それは東征が終わってから、ずっと蟠っていたことそのものなだけに、返答することができない。  こんな問いかけをしてくる紫織を斬りたい、と思う一方、それに対して判然しない感情を抱いた自分がいる。  悪路を斃したことで身を苛んでいた腐毒が消えたのはいいのだが、ついでに何か別のものも落としてしまったように感じる。  いや正確に言うならば、それは久雅竜胆鈴鹿が死んだ瞬間のこと。  その時から、殺意が、斬意が、消沈していったのを覚えているのだ。  そしてそれは今でもそのままだ。  東征の終了をもって真に完成し、爆発するはずだった己の中の殺意、斬意。鏖殺してやる絶命しろ。おまえ達、この刃にて散るがいい──  などという思い、東征で共に戦った面子を斬り捨て最強の剣士となる、という宿願がどうにも胸の中で嵌まらない。  端的に言うならば、竜胆が死に、萎えた。  覇吐も、刑士郎も、夜行も、そして紫織も健在なのに、斬りたいという意志が消えた。いや、消えてはいない。いないが、それが手に届く所にないということ。  もやがかかったようなそんな微妙な空気。どうにももどかしい、だがそのもどかしさを超えて、斬りたいとさえ思わない気持ち。  何なのか、宗次郎には分からなかった。  何かがつかえている? ならばそれは、何だと言うんだ?  東征の前も、最中も、万象斬り伏せて進んでいく……それが壬生宗次郎だと定めていたはずなのに。  今は紫織の問いにさえ答えられる気がしない。  そう。紫織も斬ると約束したのに。それに応えられないから。 「さぁ……どうなんでしょうね」 「うわ、気の抜けた答え。らしくないよ、宗次郎」 「そうですね、まったく僕らしくない」 「たぶん、東征の疲れが出ているんでしょうか。益体のないことばかり、この頃よく考えるものでして」 「とりあえず、まずは田舎に帰ってみると。自分の原点を見つめ直すことで、見えてくるものもあるのではと……まあ、そういうことですかね」 「ふーん……」  表情は穏やかだったが、それだけに己の不甲斐なさ、不可解さをより一層感じてしまう。  そしてだからこそ、自分の剣気が萎えたかもしれない――つまり弱くなったのではという危惧を彼女に悟られるよりは、いい加減なことを言っていると思われた方がましだった。  実際には衰えているわけじゃなく、妙に考えることが増えているからこその躊躇ではないか、とも思うのだが。  その懊悩のせいで、些か情緒不安定になり、結果としてあのような妄想に結びついた、ということかもしれない。  何にしろ、どうにもつまらない状況なわけだ。ゆえにここは生家へ戻り、初心に返る所から始めなければ駄目だろうと考えた。早く紫織の家を辞し、帰路に付くべきだと定めている。 「さて、お世話になりました。お礼はいずれ改めて」 「ん。ちょっと待ちなよ」  と、立ち上がったとき、紫織は微笑みながら宗次郎の手を取った。  思わず心臓の鼓動が大きく跳ねる。昨夜のことはやはり――いいや違うという、何やら妙に情けない気分が湧き上がる。 「な、なんですか……」  声が上擦らないように押さえるのが大変だった。  そんなこっちの焦りを知ってか知らずか、再び座らせ、こう言うのだった。 「決めた。私、あんたの田舎についていくわ」 「……は?」  一瞬、何を言われたか分からなくなる。 「あの、もう一回言っていただけますか?」 「あんたの田舎についていく。ねえ、いいでしょ?」 「いいも悪いも、紫織さん。あなたは──」 「──とにかく駄目です」 「いいじゃない。私もさ、暇なのよ。玖錠の家にこのままいてもさ、何か政に引っ張り出されそうな感じだしぃ」  明るく剣呑なことを言い放つ。その方向性なら話を合わせることはできるだろうかと考えたから。 「だっても、しょうがないも、ないでしょう。そもそもそういう家柄ですし、政をないがしろにするわけにも――」 「けど、私は女だよ? 女を政に利用するって言ったら、そりゃ後はもう、政略結婚しか無いでしょ」 「…………」 「受けるつもりがないから、断る理由が欲しいとでも?」 「その通り! でも、周囲から見たらそうはいかない。政を主だってやっている奴らは、それこそ幾らでもいる」 「そんな連中に関わりたくはないんだけど、私もあんたも、ちょっと名が売れちゃったじゃん?」  だから──なぜついて来るという結論にいたるのか。  それでは、まるで── 「なら、適当な理由をつけて旅に出ればいいでしょう。何も僕の田舎に行かなくてもいいはずです」 「だから、これが一番適当な理由ってわけ。あんたを田舎に送るついでに、諸国漫遊っていう感じにすれば、話も通りやすいのよね」 「ああ、東征を駆け抜けた益荒男二人は、さらなる武の〈頂〉《いただき》を目指して旅立ったのであった! ちゃんちゃん、ってさ」 「それこそ馬鹿馬鹿しい。紫織さんに敵う人など、もはやそういないでしょう」 「えー、屁理屈こねないでほしいなぁ」 「どっちがですか」 「なら、私が行きたいんだから行く。これでいいでしょ」  そう言う彼女はなにやら強行だった。何かこだわりがあるのか――あることはあるだろうが、今の自分では…… 「僕にも色々と都合があります」 「都合? 何よ、どっか寄るの?」 「ええ。一緒に行くのは面倒なので」 「……うっわぁ、言い切りやがったよこの男」  道中一人で考えをまとめようと思っていた宗次郎だったが、紫織の強引な誘いにどうやら上手くいかなくなりそうだと思い始めていた。  ――己としてはまだ一人で考えたいのに。  呆れながらも、これは覚悟を決めるしかないだろう。意外に気持ちが固まっている様子から、どうにも意思の支柱を見失っている自分では分が悪い。  しかもだ、その決意以上に驚かされることを、彼女はさらりと言ってのけた。 「よし、決めた。宗次郎、私のことあんたの親御さんに紹介してよ」 「──はぁっ?」  ああ、まったくこの人は。どういう思考回路をすれば、そのような考えに行き着くのか。 「嬉しくないの?」 「それは、もちろん……」  嬉しくも糞もそういう問題ではない。 「というより、それ以前にどうしてそのような奇特極まる思考が出るのか、僕にはまったく理解できません」  まさか、お宅の息子さんを私にください――などど、ああ、冗談で言いそうだ。  まあ、そんなことは絶対に不可能なのだけど。  結局、ここで自分が何を言っても暖簾に腕押しというものだろう。出会ったときから、彼女はいつもひらひらとして掴めない。 「──はぁ、もういいです。分かりました。どうぞ紫織さんのご自由にしてください」 「その言葉を待ってたよ」  にこりと笑う紫織を前に、やれやれとかぶりを振る。なにやら苦笑してしまうのだ。  そのいい加減で面白い態度に、少しだけ楽な気持ちになったような気がしたから。  まったく、さっきまで自分のことばかり考えて懊悩としていたのに、他者から掻き回されて気が楽になるとは不思議な話だと思う。 「それじゃあ、ちょっと待ってて。握り飯でも用意するから。それが出来たら行こうじゃない」 「あ、宗次郎は何の具がいい? やっぱり無難に梅干?」 「適当に任せます」  そうして紫織は部屋を出て行き、再び一人になった宗次郎は刀を握って考える。  やはり、自分の何処かで、何かが引っかかっている。  上手く先に進めない、足元にあった落とし穴に知らず己は嵌まっている。そんな感じを受けずにはいられない。 「結局……総ては僕が決めること。何をどうしようとも、後悔だけはしないようにしなくては」  短い鉄の音と共に、鯉口を切り。  そして刀を抜き放ち、人を斬ることを想像する。  相手が倒れ、見事に絶命。  残心。納刀。一連の流れに無駄はない。 「やれやれ。少し騒がしい帰郷になりそうですね」  それから半刻。二人は玖錠の屋敷を後にした。  宗次郎の故郷に向かい、共に歩幅を並べて出立したのである。 「さすがに玖錠家。随分といい手配をしていただきました。ありがとうございます」 「いやいや、これぐらいで感謝されてもね」  街道を二人で並んで歩きながら、彼らはそんなことを話している。 「でも、本当に良かったのかい? 旅籠の予約も無しでさ」  宗次郎としては、さすがにそこまで世話になれない。路銀の問題もあると言って首を振る。 「身銭に関しては、もう少し強請ってもよかったんじゃないの?」 「それで借りができるのも何でしょう。政争に関わるのは、僕としても本意ではないので」 「へたに手を出してしまえば、剣にかける時間もなくなりますし」 「なるほど」  あんたはつくづく他に興味がないんだねと、笑う紫織。そのまま、今度は別の問いを投げてくる。 「そういやさ、宗次郎って何処の生まれだっけ?」 「山陰の外れですよ。まあ、言ってしまえば田舎です」 「山に川、あとは田畑に寺小屋と……そういう場所です。特産品もありませんでしたから、話題にはとんとのぼりません」 「ただ──」 「ただ?」 「剣術、という事柄に対してだけは非常に熱心な風土でしたね」 「物部氏の傍流、その末裔……などという苔の生えた昔話がありまして。おそらくはそれの名残が今も残っていたのでしょう」  と、自分の家の話をしてみれば、紫織はそれを聞いて目を丸くする。 「物部、壬生、物部、壬生……ああ、それってもしかして、兵装番やってた壬生家なの?」 「昔日の栄光というやつですよ。何分、大昔のことですから僕らには実感がありませんし」  偽りない本心でそう言った宗次郎だが、なにやら感銘を受けているようだった。彼女の立場からしたら、仕方ないのかもしれない。  玖錠家の仕事には、神州の武芸諸流派の系譜をまとめる編纂という役所がある。それは皇室の権勢を守るために、早い話が潜在的な危険分子の動向を押さえておくという類のもの。  何か通りのいい流派があれば、諸将はそれを抱きこんで勢力拡大の一助としていく。ゆえに乱を起こさせず、起きても事前に察知できるようにするためにも、この編纂という仕事は大切なものだった。  自分が知る壬生家の絶頂は、今を去ること千年ほど前だろう。  朝廷で、物部氏がまだ隆盛を誇っていた頃、壬生家は兵装番の一翼を任されていた。特にまだ剣術という概念が確定する以前に、彼らは剣の達人として活躍したのだ。  しかし、物部氏が蘇我氏との対立を経て、朝廷を追われるようになると、壬生家もその立場を失い、主家を頼って流れることとなったのだ。  紫織は禁裏の、宗次郎は実家の古文書でそれを読み、そうした歴史を理解していた。 「ああ、だから石上神道流……」 「なんだ、実は名門なんじゃない」  真剣な顔で、うんうんと頷かれる。その態度に思わず苦笑してしまった。 「玖錠家のお嬢様にそう言われると、皮肉にしか聞こえないんですけどね」 「うわ、そこで皮肉に捉えないでよ。むしろ結構感心してるんだから」 「そういう古い流派ってのは、どうしたって廃れたり、他の流派と合一したりするもんだからね。型は残っているけれど、その内容までは残ってないって状態ばかり」 「細分化せずに残り続けているってことは、つまり希少ってこと。この目で見ていたのがそういうものだったのは、考えてみると幸運だったのかなってさ」 「しかし、本格的な名門だよね。うちの家より全然古いよ、源流に近い剣術とは思わなかったなぁ」 「なるほどねぇ、そりゃ天下最強を目指したいのも分かるかな」 「どうでしょうね。僕の剣は今や僕だけの剣術ですし、それに郷里で残っているあれはすっかり田舎剣術ですよ。廃れているし寂れてます」 「だから、紫織さんが知っていたのは意外ですね。家督、弟さんに譲ったんじゃないですか?」 「知らいでか。弟に家督譲ろうと、玖錠家は禁裏勤務なの。まぁ、もっとも勉強とか知識は他の役人に任せていたんだけど、剣術、拳法に関しては知識を入れてたんだ」 「けどさ、それなら尚さら帰っていいの? せっかく一旗上げたんだし、あんたが新しく流派開いてみるとかさ」 「まさか」  紫織の目は真面目だっただけに、馬鹿らしい。  苦笑しながらも、何とか答えようとする。まず第一に、というか総ての大前提として── 「僕が誰かに何かを教えられると、紫織さんは思いますか?」 「うん、無理だね」  その通り。他者を教え導くなど不可能だ。  壬生宗次郎の剣は壬生宗次郎だけが至り、放てる剣戟の極致である。余人に説いてみたところで、その欠片すら理解できまい。 「分かっちゃいたけど……ほんとあんたって栄達に興味無いよね」 「無いわけじゃないですよ。要するに僕の望む栄達は、剣によって結果が出るものです。それ以外では必要ない」 「子供の頃から剣のことしか知らなかったし、それでいいと思っています」 「今もそうなの?」 「さあ、どうでしょうね」  ますます苦笑しながら答えた。彼女に自分の生家の状態まで心配されるのは、かなり不思議な気持ちになってしまう。  故郷の情景を思い出すと、つい微笑んでしまう自分がいた。  自分が剣を振るえば、誰もが死ぬ。当たり前だが、そんな宗次郎の周りからは徐々に人が減っていった。  そしてそれゆえに、宗次郎は自分の田舎が好きだった。もはやあそこは、〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈場〉《 、》〈所〉《 、》〈と〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。  ずっと一人で剣を振ることが出来たから。  それが秀真に出てきたのは冷泉に呼ばれたということもあるけれど、そんなものは口実で、実際のところは欲求不満だったんだろう。  〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈地〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈斬〉《 、》〈る〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。ゆえに退屈。矛盾するようではあるが、これらは両立すると彼は思っている。  斬り続けて一人になるのが剣の理。ゆえに唯一の座を希求するが、同時に相手がいなくては剣の本分を果たせない。  斬る。斬りたい。斬り合うということ。剣に生きる者、その魅力に効し難いのは自然だろう。  だからそのことを考えると、紫織が言っているような栄達が酷く面倒で邪魔なものに感じるのだ。  栄達すれば、人の付き合いが増える。人の付き合いが増えれば、剣を振る機会が減る。斬り合うという行為以外で人と交わることのほうが、明らかに多くなる。  だったら、そんな鬱陶しいものは要らない。それが宗次郎の解答だった。  あくまでも欲しいのは、神州最強剣士の称号。  この地上で壬生宗次郎だけが残るまで、斬って斬って斬りまくる。  無論、そんなことは物理的に不可能だと分かっていた。仮にその腕があったとしても、単純に寿命が保ちなどしないだろう。  だから、斬るに足る相手を、強者を求めて選んでいる。  実現不可能な夢を胸に抱えて。  誰もいなくなった故郷で一人、ひたすら剣を振っていたあの頃のことを思いながら、最強の剣という座を求めている。  里帰りをしようなどと思ったのも、そうした自分の原風景に触れたかったからであり、早い話が斬欲の喚起を促したかった。  しかし今は、結局のところこの様で、どうにか紫織に話を合わせるのが精一杯という始末。  しかもそれを、さほど迷惑だとも思っていない現実。  宗次郎は微笑みながら応対しつつも、彼女を、仲間たちを、斬らないのはどうしてなのかと自問し続けていた。  そんな心情を知らないまま、紫織は故郷のことをもっと教えてと促してくる。  それに応えるため思い出す故郷……まだ人がいた頃のそこは、端的に殺伐としていた。  総ては勝手に生きて勝手に死ぬだけ。うっかり種籾を腐らせてしまった農家は、結局口減らしをした。力を持たない子供や女は、家長である亭主に殺された。  飢饉でもあれば人から奪うのは当然だし、持てる者は武装して守る。それが当たり前のことだった。  宗次郎の家が剣術家として機能していたのも、その辺りの守護、警護で食っていたからに他ならない。痩せた村から奪いつくして一時満腹になるよりも、そうしたほうが効率が良いというだけの理由でやっていた。  それは、やはり力に寄るもの。弱いから悪い。そんな世界なのだ。  そうやって考えると、東征で竜胆を総大将に頂いていたあの時間は特別だった。  戦である以上、殺伐とした面は確かにあったが、それでも笑い合い、協力し合い、単に自分が生きるためだけではない何かを共有したような。  そのうち、こういったものも悪くはないと少しは思うようになっていた矢先に戦は終わり、竜胆は死に……  自分の中に芽生えかけていた何かは、そのことで霧散したように感じている。それが定着しなかったのが、少しだけ寂しいとも思ったりした。  しかし、どうせすぐに殺伐とした神州の理が当たり前の世界になるとも確信していた。  秀真のような巨大な街と、宗次郎の故郷。人の想い、当たり方、生き方は何も変わっていないのだと改めて思う。  そして自分は、その中でどう生きるのか……そこまで紫織には言わなかったが、ともかく故郷はそういうところ、だったわけだ。 「剣しか特筆することのない田舎、かぁ……」 「田舎剣法と思ったら由緒正しい剣術だった、ってことだもん。それなりに流行るだろうね」 「あまりその辺りは表立たせて無いんですが、街からも修行しにやってくる人はいましたよ。でも、僕が殺してしまうんで、居着いたりしないんですけどね」 「僕を相手にするのは、僕のことを知らない人です。つまり、村の人間じゃない。しかも、僕が強いなんて分かった日には必ず試合を申し込まれます」 「本人は試合のつもりでしょう。でも、僕は知らず死合っています。そうなると、木刀で負けて、しばらくすれば死んでしまう。死んだって分かるのは、道場に来なくなるからです」 「何人か死ぬと、もう父の道場には来なくなります。絶対倒せず、必ず殺される、そんな奴がいる所に挑戦なんかするはずない」  お陰で相手がいなくなって、満足すると同時に退屈になった。  そして後はまあ、そういうことだ。 「ふうん……なるほどね。結構大変だったね、あんたも」 「元服する頃には、近隣では誰も相手しませんでしたね。結果として、剣はより純粋な自分自身だけのものへ変わっていく」 「興味が出るね、そういうの。でも私がその話聞いたら、確実に試合を申し込んじゃうんだけどな」 「僕は受けるだけですよ。結果はともあれ」  こう答えるのは、何とも言えない気分になる。  何となくだが、紫織が自分についてきた理由が宗次郎には分かっていたから。  その一方で、それに応えられない自分がいるのも理解していて。  どうしたものかなと、思っていると…… 「――そういや私の生い立ちとか話したことあったっけ?」  紫織の方から会話を振ってくれたことに、内心で安堵した。  このまま、〈い〉《、》〈つ〉《、》〈殺〉《、》〈る〉《、》〈の〉《、》〈か〉《、》と言われたら答えに窮していたかもしれない。 「ある程度は聞いてますよ。家督は弟さんに譲ったのとか。それは自分の技に陰が入っていたからだ、とか」 「そうそう。ウチの両親は上手く子宝に恵まれなくてね。私と弟は少し歳が離れちゃったわけ。待望の〈男児〉《あとつぎ》誕生でございます、ってさ」 「ま、そういう継承問題がきっちり決まっていることもあるんだけどさ。玖錠の技は私の中にあるけれど、私は精神までは玖錠になりきれないって思っているんだよ」 「なりきれない、ですか?」 「まぁ、ね。あまり言いたくないけど、やはり私の技にはあっちの業が入っている」 「いつぐらいだったかな、自分が〈強〉《、》〈い〉《、》〈な〉《、》って理解したのは」 「そうなるとさ、理不尽かもしれないけどこう思うわけよ。あんたら男なんだから、もうちょっと梃子摺らせんかいっ……とか」 「せっかく男に生まれたんだから、私相手に負けんなよ……とか。もちろん、手を抜くつもりも一切ないし、全力でぶん殴らせてもらうけど」 「なんかこう、ほら、あるじゃん。こいつはちょっと譲れないぜ的な感覚っていうか、ねえ?」 「……何ですか、その矛盾した理屈は」 「そうだね、だからなんだよ」 「家のこともあるし、さっきの拘りもあるしで、どうにも私は身動きし辛い。がっちり自分はこうだと言える形がどうにも見つからなくてね」 「揺らいでる……ううん、たゆたってると言うのかな」  淡々と語るその横顔を宗次郎は眉を顰めながら見つめている。  相変わらず、紫織の中が見えない。  この人はどうして強くなろうとしたのか。どうして、東征にわざわざ参加したというのか。  今の会話からも掴めないのだ。今更ながら、蜃気楼を相手にしている気分になる。  そしてそれは宗次郎自身も、自分をよく分かっていないからだろう。  紫織と一緒に歩いていても、自分の剣のことを忘れたわけではない。いつか彼女とも雌雄を決しなくてはいけないと思っている。  ただ、やはり気抜けしている理由に辿り着かない内は、早々殺り合おうという気持ちに至らないのだ。どう思っているか、分からないとしてもである。  だから今のところ突っ込まず、互いの生い立ちや環境を話しているのはある意味僥倖でありながら、間違っている流れだとも感じていた。  しかし同時に、今これくらいの距離だからこそ、紫織の中を見ることができるのではないかとも思うのだ。  彼女はいつも自分の本質を語っていない。表に出そうとしていない。総てをただ、広げた自分自身の霧に隠しているから。 「本当に、あなたは捉えどころがありませんね。紫織さん」  どうしても知りたい――そう思い、訊きたいことを口にした。 「あなたは玖錠の家を継ぐつもりだったが、自分の技が邪道なので止めたと言った。そこの理屈は分かります」 「幸い弟さんもいて、女性だと言うこともあり家督相続は容易に譲れた。これも、理屈は分かります」 「その上で、僕と同じ立ち位置にあり、田舎へついて来ると言う――ああ、ここがどうにも分からない」 「あなたの本質が武術者として、人として、その核がどうにもさっぱり掴めない。だから僕は、いつまでもわだかまっているのかもしれません」 「覇吐さんも刑士郎さんも分かりやすい。夜行さんは一見超然としているけれども、根っこは非常に純粋です。それはたぶん、僕も同じ」 「けれど、紫織さんは違う。内面を吐き出したことなど、それこそ彼女相手にしかなかったから」  母禮に対して向けた激情こそ、紫織の芯が唯一垣間見えた瞬間だった。それ以外は覗き込んだ視線の先に、一度も真実は映らない。  だからこそ── 「僕はあの頃から、今も変わらず、あなたのことが解らない」  そう言い切って、紫織を見やる。  彼女は相変わらずのにやっとした笑みを浮かべて、黙ったまま立っている。別に茶化しているわけでもないだろう。  待っているのだ。私に踏み込みたいのなら、それに相応しい態度があるだろうと。  それを見せるのが先だろうと。  ゆえにここはもう、言うべきことを言わねばならないのだと理解した。これを言えば確実に自分自身も困るだろうが、それでも言わねばならないと判断する。 「ただ――」  言えば跳ね返る。まるで返しの風を食らったように、言葉も言霊という咒だと言ったのは、龍明だったか――そう思いながら。 「こうして僕についてくるのは、僕と戦うためなのでしょう」  ……  …………  ………………  言った。言ってしまった。  これを言ってしまった以上、踏み込むしかない。分かっているのだ。知っている。  もちろん、返ってくる答えは一つしかなく。 「――そうだよ」  静かに微笑するように、頷きながら紫織は答えた。 「だって約束したでしょう。あんたと戦うって」 「それは分かっていますが……」  宗次郎は自分の中にわだかまるものを吐露する時間が来たのだと実感した。  それでいいのか。本当にそれでいいのかと、悩むところではあるけれど。 「だけどあなたは、僕と違って戦に総てを懸けているわけではない」 「家を継ぐ気もないのに技を修め、最強を求めているわけでもないのに強くなり、あの東征を何度も死にかけながら最後まで戦った」 「何ですか、それ? 意味が解らない。あなただけ、戦いの動機というものを僕は感じた事が無い」 「どうして、何を〈縁〉《よすが》に壬生宗次郎に拘るのか。あなたの中の何がそうさせるのか。僕は、まったく分からないんです」  そこまで言って、自分が本当に言いたいことに気付いてしまう。  一瞬、気付かなければ良かったと思った。なぜここまで、東征の前から今日までの紫織の話を引き合いに出して、自分と比較し、そこまでしても分からないことを声高に言う。  その理由が、紫織と戦わないで済む理由を探しているからではないのかと。  もちろん、違う部分もある。剣術者として、武芸者として、玖錠家の達人の本質を知りたいというのもあった。しかし、考えれば考えるほど、話せば話すほど分からなくなってくる。  その分からない理由を突き詰めていけば、自分は紫織と戦わなくていいところに辿り着くのではないかと思ってしまった。いや、そういう道筋もあると分かってしまったから。  ここで紫織を言い負かせば、彼女には自分と戦う理由が無い。僕が相手をする意味は無い、と〈終〉《 、》〈わ〉《 、》〈ら〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈で〉《 、》〈き〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》──  馬鹿な──何を言っている、壬生宗次郎。  紫織を言い負かして勝ったなど、馬鹿も休み休み言え。言い訳など舌が腐るぞ。相手が何者でどうだろうと、強者ならば斬るのが道であったはず。  そう思う心にいやはなく……同時に、こんなことで斬らずに済むならそれでもいい、戦わずに済むならそれでもいいと、そんな愚かな発想に至った自分が酷く酷く許せない。  許せない、から── 「あんた、本当に面倒くさい男だね」  そう言われたことに、意識が凍る。  自分の葛藤が知られたのか。いや、このような愚かな発想を葛藤と言っていいのだろうか。  しかし揶揄するような言葉なのに、紫織の口調はとても優しい。だから宗次郎は気後れも焦りもせず、彼女の次の言葉を待つことが出来た。 「私と戦うのに私の理由を聞かなきゃいけないって言うんなら、答えるよ――」  少し視線を外して、遠くを見つめる。  その顔はどことなく楽しく、寂しく、羨ましく……様々なものを意味する憂いのある表情だった。  だからだろうか、その顔に見入ってしまう。万華鏡のような彼女からどうしてか目を逸らせない。  やがて紫織は視線を戻すと、その黒い瞳でこちらの双眸をしっかりと見据えてから、言葉を放った。  そこには呆れも、諦めも、悪意もない。ただ強く、可憐に、紫織らしい軽妙さだけが宿っていて…… 「私が今まで見てきた中で、あんたほどキレイな男はいなかったから」  ――きれい、だと。ただそれだけ。  その言葉自体、幾度となく言われたことがあるもので。  けれど彼女の言葉には、まったく別の意味があるのだと分かって……  なのにやはり、その真意は未だ掴めない。それを理解できたなら、彼女の持つ本当の強さ、本当の戦う意味が分かるかもしれないのに。  強い意志を宿していた瞳がすっと細まり、優しい笑みに変わったとき、宗次郎は息を呑んだ。  それは年頃の少女の笑みで、何の毒気もないものだっただけに。 「何ですか、それは……」  苦々しく呟くと、思わずその視線から顔を逸らすのだ。  その優しく愛らしい笑みを前にして、それ以上何も言えず、黙ってしまうだけだったから。  そして── 「済まぬな、壬生宗次郎──もはやおまえは要らんのだ」  〈秀真〉《みやこ》の中枢にて、杯を傾けながら中院冷泉は含み笑う。  彼は上座に胡坐をかき、下座に千草と岩倉が腰を下ろしている。それはまさしく勝者と敗者の構図であり、東征という政争の結末でもあった。  しかし、千草と岩倉の表情に陰はない。内心では何を思っているか不明だが、彼らは彼らで六条の空いた穴を歓迎しているのだろう。  ただ保身のみを考えて、勝ち馬にごまをする。なんらおかしなことはない。 「互いが互いの邪魔となり、道を塞げば切って捨てる。誓ったな、ああそう誓った。我はそれを覚えておるし、おまえもそれを呑んだはず。よって後は話が早い」 「天下一の刀剣と、確かに聞こえはいいのだが、斬るべきものは斬ったであろう? 喜ぶがいい益荒男よ。その切れ味を認めようぞ、ゆえにいざ散れ。眠るがよい」 「寂しくないよう、玖錠の娘も送ってやろう。おまえら共に、武門の誉れと語ってやるさ」 「これぞ我が与える最後の手向け、最後の褒美と知るのだな」 「左様で。まことその通り。さすがは冷泉殿、動きが早いわ」 「不穏分子の分際で、我らに逆らうなど片腹痛い」  喜悦の笑みをこぼしながら、冷泉らは杯をあおる。  酷薄な冷笑に狂気は欠片も混じっていない。正気のまま己が利を優先し、もっともらしい理屈を口にしていた。  討伐軍への下達はすでに済んでいる。東征の現場を体験していない岩倉たちなら、なるほど都合七人の男女ごとき、都の権力を前に風前の灯火とほくそ笑むのは自然だろう。  だが冷泉は違う。彼は穢土の天魔らをその目で見ており、それを斃した戦士たちの力量を知っている。  その上で、容易く縊れると正気のまま確信していた。そこに最大の異常がある。  いや、さらに言うならもう一つ。  戦が終われば英雄は要らぬ。逆賊の汚名を被せた後、武功と真実を抱きながら土の中へ眠ってもらうというその理屈は、世の習いとして別段おかしなものではない。  狡兎死して良狗煮られる――つまるところそういう摂理にすぎないのだが、問題は〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈神〉《 、》〈州〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈に〉《 、》〈留〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》。  そう、今このときに、全世界で同時に嵐が起こっていた。  乱あり、変あり、諸々総て……国家間から家族間、果ては虫魚禽獣に至るまで、ありとあらゆる社会において空前絶後の殺し合いが起こっている。  そうした意味では、神州のみがまだぬるい。〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈国〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈嵐〉《 、》〈の〉《 、》〈侵〉《 、》〈攻〉《 、》〈が〉《 、》〈遅〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》。  その理由は不明だが、遠からず差異は消えてしまうだろう。無論のこと、冷泉がそれらの情勢を知るはずもないのだが、あたかも委細承知であるかのような底知れぬ笑みを湛えている  共鳴するかのように増幅していく嵐の中、破滅の刻が侵攻していく。彼は〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  〈邪〉《 、》〈魔〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈失〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》、〈あ〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「そうだ、遍く総て焼き払え」  〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈調〉《 、》〈子〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「一人も残してはならんぞ」  〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈軽〉《 、》〈い〉《 、》。〈蛆〉《 、》〈が〉《 、》〈取〉《 、》〈れ〉《 、》〈心〉《 、》〈晴〉《 、》〈れ〉《 、》〈や〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「ああ。ああ──」  〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈心〉《 、》〈安〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈在〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》。  そう願う心に、ああ、いやはない。  なあ、なあ、そうであろう? ──俺の身体に住まう■■■よ。  おまえもまた、静寂の世が愛しかろう? 「──斯様であるか。相承った」  その声に、微笑をたたえながら中院冷泉は立ち上がった。  怪訝な顔の千草と岩倉へ、ほほえましいものを見るかのように視線をよこす。やはり愚鈍、まだ気づかぬかと。 「……冷泉殿?」 「いったい、何を──」 「いや、少しな。〈我〉《 、》は掃除を所望しておるらしい」  ゆえに。 「──おまえら、要らぬわ」  この者ども、不要であると断じた瞬間、横一文字の斬風が二つの首を断ち切った。  彼らは驚愕する暇もなく、肉の断面から鮮血を迸らせると痙攣しながら倒れ伏す。遺体を横目に、冷泉は確かな快感を覚えていた。  これはよい。数が減るのは喜ばしいと、端正な笑みがより深いものへとなっていく。  己の所業はもちろんのこと、その手際にも疑問を持たない。今の一閃が、人間の規格を遙かに超えた魔技であったことなど意中にないのだ。  本来、中院冷泉という男は人並みの武威しか持たなかったはずなのに……  これくらいのこと、出来るに決まっていると呼吸も同然の認識だった。何をおかしく思うことがある。でなくば我は我であるまいが。  その自負、密度はもはや人に非ず。天魔を超える怪物の領域に、彼は今触れているのだ。 「喰らい、犯し、奪い、誇れ」 「善き哉。これぞ我らが本懐なり。誰も要らぬさ、収束せよ」 「これより先は、〈我〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈在〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  邪神の波動が立ち上る。遍く天狗が蠢いた。飢える暴食の蝗が如く、異物を消さんと猛り狂える。  喝采せよ、礼賛せよ。これ即ち〈正道〉《てん》の意志。  騒ぎ轟き己をかざせ、我こそ至高と刻みつけよ。  あな素晴らしきかな鏖殺の宴。どいつもこいつも死ぬがよい──! 「ふふふふ……はははははははははははははははは!」  ──総て、滅びろ。  その意志を受け、列を成して兵が征く。  我先にと、我こそはと、我欲のままに進軍する。  天の加護を受けし、数多のさばる自愛の継嗣。己がために行軍し、己が未来を目指して進む。  彼らは一様に醜穢で、悦の相を張り付かせている天狗の群れだ。 「喰らえ!」 「犯せ!」 「奪え!」 「誇れ!」 「おまえら総て、俺の礎と成るがいい──!」  一片の疑いなく、一切の呵責なく、彼らは敵を求めて前進する。  先陣切って首を獲れば、己は誉れの一番槍なり。  逃げる兵を逃さず討てば、俺は紛れもなく強者なり。  目に映る獲物を討滅すれば、我は紛れもなく益荒男なり。  己を崇めるのは当然であり、違える者など一人も要らぬ。逸る心に揺るぎはなく、兵の一人一人が我が身を真と信じている。  だが駄目だ、まだ届かぬ、まだまだ全然足らぬのだ。賞賛が足らぬ、武勲が足らぬ、金が足らぬ、位が足らぬ。  この程度では満足できぬぞ。ゆえに殺し、いざ奪おう──!  誇らしい、素晴らしい。やれ討て、さあ討て。〈他人〉《おまえら》総て俺を輝かせる〈土台〉《いしくれ》だろう? 疾く死ねよ、骸がよいのだ呼吸をするな。生きていてはならぬだろうが。  彼らは等しく浮遊しながら狂騒している。我執に酔い痴れる酔漢の群れは、これほど列を成しながらも何一つ纏まりを見せていない。  隣に存在する同胞の名すら知らず、また最初から知ろうとさえしないだろう。綻びのない自愛に喝采を謳うその姿は、まさしく邪悪と呼ぶに相応しい。  己が道こそ至高と尊ぶ理由さえ、大したものを持っていない。  〈我〉《 、》〈が〉《 、》〈我〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈奪〉《 、》〈う〉《 、》という、根拠理屈のない妄信こそが兵を突き動かす衝動だった。  つまり、彼らは全員が『神』なのだ。  外界を関知せず、個で満ち足り、我に溺れている極少単位の邪神ども。彼らに仁義や礼智はない。武勲を求め、誉れを目指し、前へ前へと突き進むのみ。  下された討伐の任。滞りなく完遂すべしとはや猛り──  草の一本たりとも残さず〈鏖〉《みなごろし》にすべし。狂喜しながら血塗れの轍を〈地〉《みち》に刻む。  殺せ、殺せ、最後に残るは〈波旬〉《おれ》だけでいい。  さあ、平らかな安息をよこせ。 「  」 「  」  超深奥の座で一人笑い転げる狂天狗の〈覇道〉《かつぼう》が、全宇宙を覆いつくす。  大欲界天狗道、ここに完成。歴代の座における最悪最強の理が、ついに真の姿を見せた瞬間だった。  関所で手間取っていたのが、どうにか抜けられたのは昼をかなり回ってからだった。  あの会話以降、二人の関係がぎくしゃくしているということはない。  一つは紫織がざっくばらんな対応を崩さなかったこと。  もう一つは、宗次郎が紫織にあれ以上訊かなかったこと。  この二つで、険悪な状態を避けることはできていた。何より自分が追求しなかったのは、訊けば訊くほど馬鹿になってしまうのではと思ったからだ。  彼女の言っていた言葉の魔力に、すっかり黙らされてしまっている。  ただ、よく分からない紫織の言い分に乗るというだけでは戦えない。それはあくまで相手の理由で、自分のものではないからだ。  実際、悠長なことだと思う。かつての刑士郎なら、喧嘩に開始の合図も双方の合意も必要ないと言うだろうし、覇吐ならそういう型を粋と捉えて重んじたりもするだろう。  そしてそのどちらにも共通するのは、戦い自体は躊躇わないということだ。今の自分とはまるで違う。  もしここで、こんなことを考えている間に問答無用で紫織に殴り掛かられたらどうするのだ? そのとき剣を抜けなかったら?  宗次郎はそれを恐れた。一方的に殴り殺される。いや、そのことよりも、何も悟れないまま終わるというのが恐ろしかった。  ゆえにそれを避けるため、諸々の答えを探して思案し続けている。  まだ、その解答には至っていない。かつてその手の中にあった答えはいつのまにか抜け落ち、見失ったままで…… 「いい眺めだね……」 「確かに、風情はありますが」  やがて街道は終わり、州道に入る。  徐々に自然の風景が広がり始め、山々の連なりが雄大な眺めを作り上げていた。  それに、紫織のみならず、宗次郎も感嘆の吐息を漏らしてまう。単に景色がいいからという意味ではなく、脳裏に去来するものがあったからだ。 「そういえば、ここは穢土の不和之関と雰囲気が似ていますね」  同じことを思っていたのだろう。紫織も静かに頷いている。  そうだとも、忘れることなど出来るわけがない。自分たちにとって、運命の転換期ともなった場所のこと。  淡海を越えてやっと辿り着いた化外の地、穢土。その玄関口であった不和之関を。 「確かに、なんかいい雰囲気だね。でもあの頃とは季節が違う」 「そうですね。あの時はずっと秋でしたから」  常に季節が変化しない土地に一年近く。お陰でその手の感覚を取り戻すのに結構時間がかかったのだ。 「……そんなに経ってないんだよね、あの東征から」 「私の生涯でも一番濃密な時間だったからさ。なんか、魂はまだ穢土で戦い続けてるような気がするよ」  死の緊張がずっと続く極めつきの戦場。圧倒的な力を持つ夜都賀波岐たち。文字通りの化外と言うしかなかった彼らの強さ。  その総てがあったという証拠は、もうこの世の何処にも無いのだ。  何もかも無くなってしまった。今では穢土に怪物が跋扈していたという話も、誇張した風説だったと言う輩まで現れている。  そういうのを聞くと、些か寂しい気持ちになってしまうのは……なぜだろうか。  神州、特に秀真の人間たちにとって、東征の話は俄かに信じがたいものばかりだろうし、針小棒大だと断じられても仕方がない。それはたとえ、位の高い人間がそう言ったとしても同じことだ。  しかしそれでも、あの日々は在ったのだ。彼らは確かにあの地に居て、自分たちは戦っていた。  面白いこと、興味深いこと、楽しいことは、あそこに確と在ったのだ。  一人の女が声高らかに謳いあげた魂と共に── 「悪路と母禮にぼっこぼこにされたよね。あたしは両腕ぶっ飛ばされたし、宗次郎は瀕死になるまで陰気を浴びたし」 「いやぁ、ほんっと懐かしいなぁ、うん」 「……僕としては、どうしてそれを笑顔で語れるのか非常に理解に苦しむのですが」 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる、っていうじゃん」 「過ぎた熱さが、その両腕にも残っているでしょうに」  思い出は美化される……という言葉にも限度があるだろう。確かに敗北の鈍痛は払拭されたが、笑い飛ばせる記憶でもないはずである。 「それよりもさ、覚えてる? 私らが不和之関でぶっ飛ばされる前の宴会。竜胆さんがおっかなくてさー、まだあの頃はもうがっちがちで」 「言ってることは分かんないわ、目指してることはトンでもないわ。おまけに真面目で、いやもうどうしようかとね」 「もっとも──」  なぜか、その言葉を口にすることに一瞬だけ喉が固まるものの。 「あの人は、死んでしまいましたから」 「そうだね……」  覇道を掲げた将のもとで、戦い続けた東征。  それは竜胆の駒になって、思考を放棄したという意味では断じてない。むしろ彼女はそういうものを嫌っていたし、曰く魂を持てだったか。ある種の自主性を重んじよと言う半面で、自分のことばかり考えるなと……ああ確かによく分からない人だった。  面白い人だった。  そんな竜胆の死に、衝撃を受けたという事実は紛れもなくある。 物語として良い結末、勝利を迎えたのに、死んでしまうとは。 「…………」  剣の柄を強く握る。どうしてか、胸の奥で形のない器官が痛んでいりような気がした。 「紫織さんは、竜胆さんに何か思ったりしましたか?」 「いやぁ、怖い人だねって思う以外はなかったわ。黙っていれば素敵なお姫様なんだけどさ」 「今でも、死んだのが信じられない部分がある。なんか今一つ、現実感がないんだよ」 「それぞれ、東征に懸ける意気込みを訊ねられたりもしましたね」  変わらず己は剣の求道者であると、宗次郎は語った気がする。 対して…… 「確か紫織さん、花嫁修業をしていると言いませんでした?」 「え、そうだっけ?」 「ええ、言いましたよ。あれはどういうことなんです」  私は花嫁修業をしているの。全部、みんな、それの一環。分からないだろうし、分からなくていいけど、玖錠紫織には大事なのよ。それが私の魂ってことで──だったろうか。  紫織はそう言った。ゆえに、今はそれが少しひっかかる。  度を越えた天邪鬼。相手の言葉に反する有様。彼女は正体なき蜃気楼……  などと囁かれた、奇怪な奥羽での出来事をふいに思い出す。もしや、ここにこそ紫織の真実があるのではなかろうかと予感がしたから。 「うーん……どうしたものかなぁ。できれば忘れていてくれると楽だったんだけどなー」 「言わないで誤魔化す、ってのはダメかな?」 「別に構いませんが……そこまで言い辛いことなのですか?」 「あー、でも宗次郎相手だったら言ってもいいのかなー。うわぁ、困ったなぁこれ」  言いながら、彼女は歩みを止めてしまった。その態度だけで、相当悩んでいるのが伝わってくる。 「そうだね……まあ、言葉にすると格好つかないかもしれないけど」 「私が言いたかったのは、つまり──」  そして、紫織が何事か言おうとしたその時──  向かい合っていた二人の間を、派手な轟音が引き裂いていた。 「────」  今のは銃弾――理解よりも早く身体が反応した彼らは飛び退いて、射撃された方向に視線を向ける。 「そこな二人、玖錠紫織と壬生宗次郎に相違ないか!」  前にずいと出てくるのは、完全武装した軍兵の群れ。その数は十人二十人どころでなく、纏う殺気も捕り物に来た役人というようなものではない。  合戦――まさにそのままの様相で。 「……あなた達は?」 「我らは雍州大納言、中院冷泉公が命を受けし者である!」 「中院公は貴様ら二名、逆賊として討伐せよと命じられた!さあ――いざ神妙にその首こちらへ差し出すがいい!」  それに対し、無言のまま紫織が動いた。疾く、速く――こういうところは東征のときと同じ。いつも真っ先に切り込むのは自分か彼女で、変わらない。  隊の前列、火縄銃を構えていた足軽たちが蹴散らされる。同時に、群がる兵どもは狂熱の度合いを一気に増して叫び上げた。 「首級を上げよ!」 「首級を上げよ!」 「首級を上げよ!」  耳を聾する蛮声の唱和と共に、寄せ手が二人に殺到してくる。  火縄隊を蹴散らした紫織に並び、宗次郎は背中合わせの位置に立っていた。  これを阿吽の呼吸とでも言うのだろうか。寄り集まってくる中から手近な十数人を、二人は瞬く間に叩きのめす。  実際、紫織がどうだかは知らないが、宗次郎はここにきてようやく事態を呑み込めていた。その前に取っていた行動は、完全に無意識のものにすぎない。  ゆえに、いま呟く。呆れと若干の自嘲を込めて。 「ああ──なるほど、いかにもあの人らしい」 「つまり、もう私たちはとうに用済みということか」  次なる寄せ手も、二人の速い攻撃にまったく対応できていない。片端から血祭りにあげられていく。  そうだ、血の匂い。死の創造。これは紫織と宗次郎にとって、久しぶりの戦場だった。 「いやぁ、これは不覚だ。忘れてましたよ」 「同じく私も。すっかりすっぱり忘れてた」  彼らの足下には、たった今二人の剣と拳で無惨な骸に変わった者たちがいる。  だが際限なく攻め寄せる兵たちは、地に伏す同胞らを一切意に介していない。路傍の石くれのごとく踏みつけ、邪魔だと蹴り飛ばし、二人を殲滅せんと吼えている。  その光景に思わず苦笑してしまう。ああまったく、懐かしいなと思っているのだ。 「これが〈西側〉《ぼくら》の当たり前で」 「こういうノリが、ずっと身近にあったこと」  二人はさらに厚みを増した寄せ手を瞬時に粉砕していく。まるで泥人形を相手にしているような、愚鈍で愚劣な戦いだった。  しかし、これこそが神州の、宗次郎もよく知る常識の光景。誰も彼もが大して何も考えていないし、他人のことなど気にもかけない。  そして死ねば、ただ終わり。ゆえに昨日まで同じ釜の飯を食っていた者の屍も、容易く嗤って足蹴にできる。  皮肉にも、東征の際には化外という強大な抑止力によって留められていた光景で……  それが潰えたからこそ、今相手にしている冷泉の兵たちは、単なる雲霞の群れにすぎない。  言ったように、この状況こそが自分たちの常識で、むしろ東征での日々こそがおかしかったのだと分かっているのに―― 「ですが、どうしてでしょうか」  攻める寄せ手を立て続けに三人斬り伏せる。 「なんていうか、味気ない」  足技で目の前二人の頭を砕く。  そんな技前を、しかし二人は特に誇らず――  逝ってしまった彼らの将。その面影を思い浮かべて。 「本当に、まったく何てことをしてくれるのか」 「気づけば私ら、ちゃんと毒してくれちゃってさ」  剣が煌めき、二人、三人と立て続けに斬首しながら。  拳が三人まとめて吹き飛ばし、四人目の顎を砕きながら彼らは哀感して笑う。  冷泉が派遣している兵の数はまだ減らないどころかむしろ増える。押し寄せてくる。  次から次へ、次から次へと――どれだけ殺してもまったくひるまず、むしろ笑い声さえ響かせながら狂騒して、浮遊して。  一人残らず、自分が死ぬと思っていない。これだけの屍を前にしながら、死とはなんだ、意味があるのかと言わんばかりに―― 「苛立ちますね──あなた方は〈軽〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》」 「薄っぺらいよ。〈魂〉《むね》に欠片も響かない」  徐々に宗次郎らも気付き始めた。〈こ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈違〉《 、》〈う〉《 、》。  単に冷泉流の天下取り――その過程としてある構図ではない。  戦が終われば戦の役にしか立たない者は不要どころかむしろ危険で、その野心ゆえに冷泉は竜胆の大功を掠め取ろうとするだろう。  だから彼女の影響を僅かでも受けている者は排除すべきという、殺伐としているが真っ当な理屈を飛び越えた域で起こっていることなのだ。  ああ、なぜならほら、離れた所で勝手に殺し合っている兵までがいる始末。  なんだこれは? どういうことだ? 彼らは冷泉の命を受けながらも、本質的には従っていない。ただ同調しているだけなのだ。  殺したい。殺させろ。殺意、殺意、〈鏖殺〉《みなごろし》にしろ――  〈最〉《 、》〈後〉《 、》〈に〉《 、》〈残〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈俺〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。 「────」  その理があまりにおぞましく、知らず宗次郎は身震いした。それは自分も望んだことで、不可能だから胸に秘めつつ奉じた究極ではなかったか。  なのにそれを、この兵たちは一片の疑問もなく狂信している。出来るしやるのだと猛っている。  その一点において、彼らの純度は宗次郎より遙かに高い。つまりこれはこういうことだ。  この現状は、自分たちが知っていた常識の進化形。むしろ完成した姿なのだと。  天狗道――滅尽滅相の時が始まる。そう言ったのは、穢土の主柱である夜刀だった。彼はいずれこうなることを知っていたのか。だからそれを防ごうとしていたのか?  それぞれの天魔が、それぞれ言っていた言葉が頭の中で氾濫する。  悪路――自分が討滅した男であり、自分に勝ちを譲った男。  いいや違う。勝ったのはこちらのほうだと彼は言い、どうか君らの手で■■を斃せと託すように逝ったから……  では、ならば、壬生宗次郎はどう思う? 曰く勝ち逃げをした相手に対し、出来ることは何がある?  そして今、目の前に溢れ返るこの者どもをどう感じる?  自分の理想、自分の究極、それを体現する世界の法を――  なんておぞましいと、思う理由はただ一つで…… 「相手がいないと斬れないのに」 「どこにいるかも分からないのに」  自己を満たす妄執は、他人なくして叶わない。あの東征の果てに、己の魂はそう知ったから。  再び、紫織は飛び出した。飛び出して陽炎と化し敵を討つ。  まさに鎧袖一触。一気に三十人は吹き飛ばしたが、しかしそれでも終わらない。狂騒の熱は下がらないし上がっていく。  そうだ。誰も、誰もが残らず、己以外を不必要な塵と見ている。もはや戦況は二対他のものではなく、完全な手当たり次第の乱戦と化していた。それをもって楽になったと言えるような神経を、今の宗次郎は持っていない。  事実、圧力は増していく。敵兵個々の自負が高まっていくにつれ、確実に彼らは強くなっているのだ。  最後の一人として残るため。ただ一人。そう、ただ一人だけいればいい世界。  宗次郎も紫織も、その様を見て吐き気を催している。胃の腑から怒りに満ちた何かが吐き出されそうな程だった。 「あなた方は浮遊してる」 「あんた達はどこにもいない」  迫る兵を殺し続けても、二人の気持ちは晴れていかない。  それは分かり切っていることだった。  やはり、あの人がいたからこそ自分たちは誇りを持てたと、今さらながら確信に至ったからこそ── 「だからッ」 「やっぱりッ」  強く思う。ああ、あなたは正しかった。  自分たちは確かに変わり、それをここに嬉しく思う。あなたに貰った〈魂〉《ひかり》の意味を、今も胸に抱いているからこそ―― 「大将は、竜胆さんのほうがいい!」  二人は同じ言葉を謳いあげて、共に武威を漲らせた。  このだらしない戦いに与したくない。そう思っているからこそ、可及的速やかに終わらせる必要がある。そもそもこんなものは……ああ、戦いですらないだろう。  竜胆と共に駆けた日々がとても綺麗で、勇敢で、素晴らしかったと感じるからこそ、この茶番に反吐が出る。  穢土の夜都賀波岐には、きっと自分たちがこんな風に見えていたのだろう。それは確かに、あれだけ怒って嫌悪するのも頷ける。  そして、そんな彼らが自分たちを認めてくれたというのなら、それに相応しくあらねばならない。  先人に、かつての敵に、この掃き溜めと戦い続けてきた英雄たちに敬意を――  自分たちはこんな者どもと違うということを証明する。  だが――冷泉が差し向けた兵の数も半端ではない。すでに一人一人が人外と言える膂力と耐久性を持つようになっているうえ、次から次へと増えていくのだ。  すでに宗次郎だけで百数十は斬っただろう。紫織も合わせれば当然その倍。さらに奴らが勝手に殺し合っているのも含めれば、死者の数は五百に届こうという域のはず。  なのに減らない。冗談ではない。冷泉が自分たちを一騎当千と認めたうえでのことだとしても、当然礼など言う気にはなれなかった。  急がねば――有り体に言って、時間は自分たちの味方ではない。  このまま戦闘が長引けば、いつまでも応援がやってきそうな気がする。それは確信を抱ける直感だった。  兵の一人一人が自分以外を邪魔だと思っているように、冷泉も間違いなくそう思っている。  ゆえに逆賊征伐という名目のもと、己の兵を全投入させかねない。それで冷泉一人だけが残ろうと、何も困りはしないだろう。なぜならそのこと自体が目的だから。  どこかで残存兵を一掃して区切りをつけねば、この泥沼から這い上がれない。  そして、何より── 「この感覚……」  いずこかより発せられる、強大にして邪悪な念。 「〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》の──ッ」  それに後押しされ、太極へと駆け上がった瞬間を連想させるから。  宗次郎の剣が、幾度も必殺の軌跡を描いていく。  その銀光が走っ先は、輪切りにされた人体が転がるのみだ。  結果を見ずに、走り、兵を切り倒す。  このまま疲れ切って、殺されるか。いや、それは無い。あってはならない。  疲労と、しぶとくなっていく兵たちに、溺れそうになりながらも切り倒していく。……押し殺しても隠しきれない吐き気と嫌悪を噛み締めながら。  まだだ。まだ終わらない。この剣を止めてはならない。  まだ向こうでも乱戦が続いている。紫織の姿は何処だ、見えない。  だから宗次郎は吼えた。冷泉に、いいやその遙か天から総てを見下ろし、笑い転げている極大の邪悪に。  三つ目が――万象滅相を願う狂天狗がそこにいる……!  貴様、許さない!  その一念を頼りに、宗次郎は力の限り刀を振るう。  腕は鉛のように重くなり、足も引きずるほどに疲れている。  そんな中、徐々に兵の数はまばらとなり、自分の相手をする者が減っていることを理解した。  もう僅かだ。あと少しで、冷泉の送り出した兵士は全滅する。おそらく一人残らず、宗次郎と紫織で平らげることになるだろう。  自分と剣を交えた者は、やはり死ぬことになったわけで……  今はそのことが、言葉に出来ないほどおぞましく思えて…… 「あなた方には……」 「あなた方には、自分自身がどこにもないのか」  時を越えて、かつての敵から浴びせられた言葉を吐いていた──それが今は誇らしく、ゆえに悲しく胸に迫る。  宗次郎は最後の気力を振り絞って刀を振るい、相手は頭から叩き割られて地面へと崩れ落ちる。  これで動いている者は、ついに宗次郎一人となった。  総ては剣の――第六天の理通り、一番強い者が残ったという必然にすぎない。 「…………」  辺りを見回し、苦い表情のまま笑う。こんなに嫌な戦いは初めてだった。  ふと見れば、刀を持つ手も暗く、形もはっきりしなくなる時間帯となっている。  日はとうに落ち、山々の陰は何か巨大な怪物のよう。星の光さえも今はない。  黄昏を過ぎた無明の中に広がるのは、無数の屍。ここに立っている者は、自分以外に誰もいない。  誰も。  そう、誰も。 「紫織、さん……?」  彼女がここに立っていない。  疲れすぎて腰を抜かしているのだろうか。自分も刀を杖のようにして身体を支えるのが精一杯の状況だから、きっとそうなのだろうと思ってみたが…… 「紫織さん、どうしたんですか?」  何処にいるんですかと言いながら、屍の間を歩いていく。  近くに小川がせせらいでいた。ああ、そこで休んでいるのか。それは当然だろう。これだけ斬った張ったを潜り抜ければ、水くらい飲みたくなる。  辿り着いた川べりには、案の定横になっている人影が見えて…… 「紫織さん……?」  抱き起こしてみる。だが、それは兵士の死体だった。死因は紫織の打撃だろうか、顔が半分崩れている。それでも、何とか水を飲もうとここまで来て絶命したのだろう。  つまり、ここにも彼女の姿はなかった。いない、いない、いない、いない。 「どこにいるんですか。隠れてないで、出てきてくださいよ」  紫織を探す。死体の山を踏み分けながら。  しかし、やはり彼女は見当たらなくて。 「紫織……さん――」  宗次郎はさらに骸を踏み分け、紫織を探す。いない。  ここに転がるのは総て冷泉の兵で、自分たちが殺した人間。そして、ただ朽ちていくだけの芥である。  宗次郎はこの情景を俯瞰する。  言い逃れの効かない大殺戮の現場であることに間違いはあるまい。  落ち着きを取り戻すつもりだったが、ここに転がる屍の数々が、自分の振るった剣でなされたのだと思った途端、足が動いた。  喜べ、喜べ、よくやってくれたよ褒めてやる──塵掃除が上手いなおまえ。役に立つから、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈少〉《 、》〈し〉《 、》〈後〉《 、》〈で〉《 、》〈死〉《 、》〈ね〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》。  目視不可能な次元層の遥か深奥。そこで嗤い転げる狂天狗の嘲笑と賛美を、この時自分は反吐が出るほど感じていて── 「は、ははは……ははははは……」  知らず悲鳴のような笑いをあげて、道を戻る。  幸い、狂気の光景は闇が覆い隠していった。  こんな状態で故郷には戻れない。もともと誰も残っていない場所なのだし、誰もいないのがいいなら今や何処にいようと同じことだ。  この世界は、誰一人たりとも残さない。この丘で具現している状況も、そうしたうねりの一欠片。  ゆえに紫織だ。自分は彼女と一緒に故郷へ行くはずだったのに、一人で〈殺戮跡〉《こきょう》に佇んで何をしている。それは不義理だし合流せねばならないだろう。  だから戻らねば。秀真に戻らねば。おそらく紫織は秀真にいる。  冷泉の配下に捕まったにせよ、自らの意志で戻ったにせよ、彼女は秀真にいるだろう。自分の家だって心配だ。  そう思ったから、宗次郎は駆け出していた。  ここから一刻も早く先に向かわなくてはいけないと。  あれだけ人を斬った後のこと、体力はとうに限界を迎えているはずだった。しかし心に秘めた情念が、失われた活力の代わりとなって肉体を駆動させる。  そして、ついにその気持ちは、宗次郎の口から言葉となって溢れ出した。 「紫織さん――」  己の口から出た言葉の、そこに込められた意思を感じて自分自身、驚愕する。  己はもしや、あの人を心配しているのか。まさか――  と一笑に付しながら、駆ける。駆ける。駆け抜ける。  口は戦慄き、何かを恐れる。何を恐れる。恐れてなどいない。だから必死に自分を叱咤しながら足を動かす。  ああ、紫織だ。紫織がいないのだ。だからなんだ。どうしろという。  自分は、彼女を、紫織を心配などしていない。  彼女がこの程度でどうこうなったりするはずはないだろう。絶対に生きている。自分との約束を果たさず勝手に散るような女じゃないし、あれで懐の深い人だから絶対に生きている。  しかし、それでも嫌なものは嫌なのだ。  特に彼女を、玖錠紫織を誰かに奪われるのだけは我慢ならない。  どういう形でも、姿を消されてしまうの嫌なんだ。 「あれは、僕のだ――」  口に出して腑に落ちる。  そうだった。自分のものだ。あれは、彼女は、玖錠紫織は── 「僕のモノだ。僕が斬るんだ。だから誰にも渡さない」  図に乗るなよ天狗道。僕は求めるべき相手を知っているし、おそらくそこは彼女もそう。  滅尽滅相だと、よくも言った。僕が真に求めるのは彼女だけだ。ゆえに誰にも、そう絶対誰にも渡さない。  口の端が吊り上った。目だけは驚愕のまま見開かれている。まるで何かに狂っているよう。そんな表情のまま秀真へ向けて、疾風のように駆け続ける。  口からは、自分の今の想いが溢れ出ていた。 「最初に言ったでしょう、冷泉様。お互い、邪魔になれば斬り捨てると」 「あなたは僕が邪魔になった。ええ結構。僕もあなたが邪魔ですよ」  ゆえに―― 「その関係を執行しましょう」  秀真へ戻る。一刻も早く。 「──玖錠紫織は渡さない」  彼女を自分のものだと、理解するために。  そして願わくば、この苦界そのものを覆っている天空の中枢。それを断ち切る瞬間を、心から希って──  宗次郎は最後に抜けた関を破った。  いや、その表現は正しくない。すでにそこは、関所として機能してなどいなかったから。  番の者らは、勝手に殺し合って死んでいる。まだ幾人かは不毛な戦いを続けていたが、それら残らず宗次郎が引導を渡した。  これでもう、この場にはただの骸が転がっているだけ。誰もいない領域が広がっていく。  反吐が出るが、どうしても関所番を皆殺しにする理由があった。  欲していたのは早馬で、これさえあればどうにか今夜には秀真へ戻れるはずだから。  そう思ったが、流石に馬までもが殺し合っているのには驚いた。厩舎に入ったとたん飛び掛ってこられたので、何匹か殺してしまう。しかしどうにか一頭だけ、無理矢理捕まえて御すことに成功した。  他の関は二つ。だが、どうせ何処も機能していないだろう。ならばこのまま、馬を使い潰すつもりで走れば問題ない。道を塞ぐ者がいれば斬り殺す。  宗次郎の心の中で、何かがかっちりと嵌っていた。  しかしそれでも、紫織との戦いにはまだ答えが出ていない。  斬りたい。斬る。そう思っているが、実際に対面してやれるかどうかは分からなかった。それが出来るなら、とうに彼女を斬っている。  自分の中で答えを出しているのは、紫織を誰かに殺されたくないということ。  彼女は自分のものであって、他人の物ではない。  約束をしているから。それをまだ果たしてないから。  翻して、自分もまた彼女のものだ。決着をつけるまで、誰にも殺されてはやれない。そのような一念が確固としてある。  だから紫織の姿が見えなくなった時、あんなに焦ったのだと強く感じた。  剣は斬るものだから相手を欲し、誰も居なくなってしまえば無用の長物と化してしまう。  ゆえに今の世、天狗道と自分は相容れないと結論している。  邪魔をするなと、自分が欲する他者を奪うなと怒っている。  壬生宗次郎には玖錠紫織が必要で、それは双方向の気持ちであると思うから。  しかし、だがここで葛藤するのだ。紫織の求めに応じるなら斬らねばならず、自分にとっての本分も彼女を斬れと言っている。  だが、本当に斬っていいのか? そうすれば、二度と紫織に逢えなくなるのに?  斬りたいのに、斬りたくない。その矛盾こそが今の自分を表す真実で――弱い。弱い。なんたる惰弱か。  だけどその人がましさこそ、己が天狗道の法から外れている証でもある。魂を持っている証明に他ならない。  この葛藤に答えを出し、乗り越えた先にこそ本当に求めた境地があるはずだから。  よって、総ては最初の気持ちに戻るわけだ。――紫織を奪うな。  まだ何も決められていないのに、横から総てを壊すなど認められるわけがないだろう。  そうして――  馬が潰れた頃、二つの関を越えた宗次郎は秀真の都へと着いていた。  そこは予想通りの有様で、誰も彼もが当たり前に殺し合っている。  極限まで膨張し、暴走した自己愛の法。〈鏖殺〉《みなごろし》の〈宇宙〉《ソラ》。  こんな状態が続いたら、数日と保たずにあらゆる命が消えてしまうに違いない。  狂騒を縫うようにして走る宗次郎は、まず玖錠の屋敷に向かったが、そこはすでに燃え落ちており、無人と化している。  だが、収穫はあった。冷泉が差し向けたと思しき兵の遺体がいくつも転がっており、その死に様から紫織がここに来たのだと確信する。  となればどうだ? 彼女としては家族の仇討ち、冷泉のところへ向かうだろう。自分としてもここは恩義のある家だったから、この惨状は見るに耐えない。  冷泉を斬らねばならない理由がもう一つできた。紫織ともそこでおそらく逢えるだろうと思いながら――  宗次郎は、秀真における中院家の屋敷へ向かっていた。  が、ここで再び肩透かしを食う。冷泉の屋敷もまた無人であり、燃えてはいなかったものの誰かが殴り込んだという痕跡もない。 「…………」  当座の行動方針を、これでほぼ完全に見失う。しかし諦めきれない宗次郎は、何か手がかりとなるものはないかと家捜しを始め、この邸内に獄舎があることを突き止めた。  まさか、とは思いながらも、そこを調べてみることにする。  獄舎は暗く、幻灯が必要なほどだった。その明かりで、一つ一つ牢屋の中を確かめていく。  奥の方は完全に闇で、まるっきり見えない。こんなところに人がいるのだろうか。  気配も感じられず、やはり無駄足だったかと思い始めたとき。  最奥の牢に囚われていた、見知った顔を発見し── 「……なんだ、覇吐さんですか」 「……なんだ、宗次郎かよ」  お互い、まさに残念。期待が外れたということを隠しもしない声。  どうやら覇吐は気絶でもしていたようで、宗次郎が彼を見つけると同時に目を覚ましたらしい。  何か夢でも見ていたのか、目の前にいるのが目当ての人物と違ったという感じだが、それはこちらも同じである。  とはいえ、覇吐ほどの男が捕らえられるとはどういうことか。そもそも彼を制圧することが出来たなら、生かしておく理由が見当たらないし、今の世はそういうノリで動いていない。  ゆえに牢屋探索自体、半ば以上無駄と思っていたのだが、あにはからんや意外な相手と意外な再会である。  諸々、分からなくなってきたものだから、ともかく当事者から聞くことにした。 「で、覇吐さんはそこで何をしてるんです? 新手の一人遊びか何かなら、まあ納得できなくもないんですが……」 「んなことするかよ。そっちこそ、なんでこんな所まで来てんだよ……って、ああもういいや」 「とにかく、面倒臭えからまずはここから出してくれよ。なんかこう、絶妙に力が入らない縛り方されてて、情けねえ話だが動けねえ」  言われ、今さらながらそれに気付いた。 「そっちもそっちで、どうせ妙なことになってんだろ?」 「お互い、余計な時間はないはずだ」  確かに、そこは覇吐の言う通り。 「そうですね。それにこれは……」  確認してみると、彼を縛っている拘束は少し特殊だ。こんなものは相当人体に詳しい者――すなわち医者か武術家で、かつ覇吐を縛るほどの達人域になければ施せまい。  しかも、鋼線で縄を編み上げているという徹底ぶり。これでは解放できる者も相当に限られてくるわけだから…… 「僕にしか解けないようにしているわけですか……やれやれ」  紫織……何を考えているのか分からないが、これは彼女流の伝言代わりか。訝る覇吐に首を振って応えつつ、溜息をついて鯉口を切る。 「おい?」 「いえ、何でもありません。少し手荒になりますので、目を閉じていてください。動かれては困る」  言うが速いか一閃して、覇吐の拘束を解いていた。 「あ、つぅ……やっとこれで動けるぜ。ありがとよ、宗次郎」 「そんで、どうした? 女に逃げられでもしたかよ」  いつもの軽口だが、今回はしっかり的を射ている指摘に苦笑で応える。 「……さあ、どうですかね。正直、僕にもよく分かりません」 「去ったのか、それとも──」  これは、誘われているのだろうか。まるで追って来いと言われているような気がする。 「……そうかよ。ま、俺もそんなところだ。そう気を落すなよ、生きてるんだから」 「生きてる限りは負けじゃねえし、次がある。死んでないってことは、いつか必ず何か別の何かが訪れる。間違いねえよ」 「それはまた、ありふれた謳い文句ですね」 「含蓄あるぜ? ──なんせ俺が〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》だから」  ………?  この彼は、少し見ない間に何かしら変わったか? 表面上は何の変化も見られないが、芯の部分で厚みが増したような気がする。  端的に言うと、強くなっている感じがするのだ。捕らえられて成長するとは、相変わらずよく分からない人だけど。  疑問が顔に出てしまったらしい。覇吐は笑って、なんでもないと手を振った。 「忘れるな……どっちにしろ、俺もおまえも切羽詰ってるのは同じらしいな」 「宗次郎、おまえ竜胆や中院がどこに行ったか知ってるか?」 「竜胆さん? 彼女は──」  何を言っている? 分からない。  だが同時に、覇吐があの人のことで冗談を言うとも思えないし、正気を失っているようにも思えない。  であれば、つまりこういうことか。久雅竜胆は生きている?  その推論に至った宗次郎は、何か胸が温かくなってきた自分に気付き、ささやかな驚きを覚えていた。そして同時に、そんな自分の心境を嬉しく思う。  ああ、そうか。あの姫君は生きているのか。だったらそれは良いことだ。  今の世に彼女が存在しているというだけで、闇に光が差し込んでくるような錯覚さえ覚えるから。 「──まあいいでしょう。冷泉様は僕も探していますが、詳しい行き先は何一つ」 「覇吐さん、紫織さんの行き先は?」 「知らね。つうか、おまえ自分の女に逃げられたのかよ。うわ、だっせーの」  それはさっきも言った台詞だろう。二度も指摘されなくたって今の自分が情けないことは分かっているし、そこはそっちも似たようなものじゃないのか。  と、そこについてもさっき彼は言っていたな。お互い、なんだかんだと切羽詰ってる者同士か。  それなりの収穫はあったものの、これより先の行動は閉ざされたままで、途方に暮れてしまう。  そのときだった。不意に格子の向こう側から、空を飛んで何かひらひらしたものが舞い降りてくる。 「こりゃあ……」 「式神……夜行さんの?」  手にとってみたそれは、矢文のようなものなのだろうか。ならば用途は手紙であろうと理解して、折鶴になっている式を開いてから目を通す。  そこには…… 「────」 「────」  驚愕し、次いで苦笑が漏れそうになる。確か夜行の目は、天眼だったか。随分と便利なものを持っているんだなと思いながら、何でもお見通しにされていた事実が結構不愉快で、少し楽しい。  そこに記されていたのは紫織の行き場所で、そこに何があって自分たちが何をすべきか、そういうことで…… 「は──なるほどな」 「だから、僕はずっと──」  無謬の剣になりたいという渇望も、あるいはこのためだったのではと思いたい。何よりも斬り捨てるべきモノは天にいて、そこに神威の刃を届かせるために越えねばならないのがこの葛藤なのだろう。  斬りたいのに斬りたくないと、何よりそう感じてしまう人への接し方、愛し方を……  見出した先にこそ、壬生宗次郎の真実がある。ゆえに―― 「どうします? などと、聞くまでもないでしょうが」 「決まってんだろ」  覇吐の式に何が書かれていたかは分からないが、知らなくていい。  彼には彼のやるべきことがきっとあって、向き合うべき人がいる。  だからその成功と、総ての勝利をここに祈ろう。皆が皆、互いのことを信じた果てに辿り着く未来にこそ、第六天の支配を超えた真の結末が待っているんだ。  どうやら冷泉に関しては覇吐に任せることになりそうだけど、別にいい。竜胆もよく言っていたことではないか。  己の勝利も敗北も、仲間であればそれは己だけのものじゃない。  共に同じ先を見て戦うなら、覇吐の剣は自分の剣だ。彼が代わりにやってくれる。  そう、宴会の約束だってまだ果たしてはいないのだから。  そのためにも―― 「〈淤能碁呂島〉《おのごろじま》だ。そこに竜胆が待っている」 「そして──」  玖錠紫織も、またそこにいる。  〈淤能碁呂島〉《おのごろじま》……そう名付けられた一つの孤島が、秀真から程近い場所、瀬戸内の海に浮いている。  別段、交通の便が悪いという立地でもなく、上陸に適す場所がないというわけでもない。  加えて、島の内部が峻険な様相を呈していることもないというのに、ここは遙かな過去から無人だった。誰もこの地に近寄ろうとはしなかった。  一般に、禁足地と呼ばれる類。何らかの――例えば祟りを恐れてといったような理由をもって、人の進入を禁じている場所。  それが淤能碁呂島。ゆえに、ここは異常である。  なぜなら、この世において祟りなどという概念は存在しない。そういった目に見えない不確かなもの……死後、霊魂、神といった諸々は、抹消されている世界なのだ。  しかし、にも拘らずここには祟りが根付いている。近寄ってはいけないという強迫観念を、人の間に流している。だから誰も踏み入らない。  その原因が何にあるのか、正確に知っている者は一人たりともいないだろう。なぜなら、それを調べることすら暗黙の禁忌と化しているのだから。  ただ、一つだけ。この島を語るうえで言えることは一つだけだ。  ここは国産みの地。かつて世界はここより誕生した。  その伝承のみが世に残り、真偽はともかくそういうことになっている。  初めに言い出したのは誰なのか、まったく一人として知らないまま。  〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈記〉《 、》〈さ〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈文〉《 、》〈献〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈何〉《 、》〈処〉《 、》〈に〉《 、》〈も〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈に〉《 、》。  近づくなというたった一つ、ゆえに何よりも重い絶対法。  宗教というものが存在しないこの世において、そのことが唯一、それめいた戒律だった。  これまで破った者はいないから、破ればどうなるのかも分からない闇の決まりとでも言うべきもの。  その禁忌を、今ここに犯している者らがいるのだ。 「おまえも来たのか、紫織……」  秀真で、竜胆さんと再会したときのことを回想する。  中院の兵に襲われたとき、乱戦の中で自分だけ先に逃げたのは、何もこの展開を予想していたからじゃない。もっとひたすら個人的な事情で、単に今の宗次郎からは一旦距離を置いたほうがいいように思ったからだ。  無論、修羅場に彼を残していく後ろめたさはあったけど、壬生宗次郎があの程度で死ぬわけがないと信じていたから迷わなかった。  実際、弟のことも心配だったし。秀真に戻ったらあの様で、怒った私は中院を斃しに行った。そしてそこで、彼女と出会った。  諸々、吹っ飛ぶほどの衝撃を受けたよ。だって竜胆さん、死んだものだと思っていたから。  正直なところ、状況忘れて嬉しかったし、あの時はさぞや間の抜けた顔をしていただろう。  そんな私を見て、だけど彼女は悲しい顔で微笑みながら言ったんだ。 「なあ、頼まれてはくれないか。覇吐を見張っていてほしい。間違っても、私を追おうなどとはしないように」 「おまえにはおまえの事情があること、分かっている。だが、曲げてお願いしたいのだ」 「誠意の証として、私の真実を話すから」 「なあ紫織、私は――」  この人が背負っているもの、やろうとしていること、それに対する気持ちとか、色々……  聞いちゃったらもう、断るなんてこと出来なくて。  同じ女だし。共感できるところもあったし。そして何より、私はこの人のことが好きなんだなって、今さらながらはっきり分かってしまったから。  うん、言うこと聞いたよ。半分くらいは。  だってさ…… 「すまぬな。宴会の約束は果たせそうにない。おまえの料理はまた食べたかったし……」 「おまえに、ちゃんと料理を教わってみたかったよ」  そんなこと言われたら、ほっとくなんて出来ないじゃない。あんたのやろうとしてること、正直かなり滅茶苦茶だし。  無謀すぎると思ったから、真ん中取って全員巻き込むことにした。夜行から届いた式神も、そうして正解だったと告げている。  つまり皆が持ってる事情それぞれ、やりたいことや気持ちとか、半分ずつくらい尊重して、なんか巧いこと落ちるように。  きっと竜胆さんはすっごい怒るだろうけれど、でも駄目だよ。たぶん今のあんたは間違ってる。  私にとっては覇吐だって、竜胆さんと同じくらい大事な仲間だし好きだから。  あいつ、あんたが死んだ時のへこみようったらとんでもなくて、こっちも辛くなっちゃったから、もうあんなの見たくないのよ。  だからこうする。文句があるなら後で聞くし、聞けるような未来を目指そうよ。そうしないと、誰もいなくなっちゃう空にしたい奴の一人勝ちだと思うんだ。  波旬……このイカレた法を滅ぼすために、絆っていうの大事にしようよ。  ままならくて、不合理で、あっちを立てたらこっちが立たない。そんな風に大変だけど、もともと竜胆さんが持ち込んできたものじゃないの。  だったら観念するべし。それも大将の責任ってやつ。  私はそっちや、他のあっちや、どれも巧くいくことを祈りつつ。  こっちはこっちで、ちゃんと全うしようと思うのよ。  そう思うからこそ──だから今、私は〈淤能碁呂島〉《ここ》で待っている。  あいつは来るんだろうか。いや、来ないわけ無い。あいつは必ず来るんだ、なんてまったく乙女みたいなことを考えながら。  遅刻はするかもしれないけど、絶対約束は破らない。そんな奴だと信じてるから。  ずっと見ていたから、私はそう確信してるし知っている。他のこともよく分かるよ。たとえば──  あんた、相当苦しんでること。  傍で見てたから、よく分かるよ。  帰郷についてくるのは、僕と戦うためでしょうって言ったとき、あんたは相当に辛そうだった。ああ、どうしよう言っちゃったぁって、もろ顔に書いてあったもん。丸分かりだよ。  あんたは、私を斬りたくなくなっちゃたんだね。  そんな風になった原因は、たぶん二つほどあって、その一つはもう自分でも分かってるかな。流石に分かるよね。そこら中とんでもないことになっちゃったし。  原因の一つは、あんたの戦いがまだ終わってないってこと。  なのに、私を斬ろうとするから、心が足踏みするんだよ。  全部終わってからって約束だったのに、まだ終わってないからっていうだけ。本当に斬らなくちゃいけない相手。そいつがのうのうとしているのに、あんたは私を斬って、終止符を打とうとしていた。  そりゃ意識として萎えるよね。だから色々、精彩を欠いていた。  あんな剣じゃ、私は斬れない。斬られたくない。あんただって斬りたくなかったでしょう? ほんと、あんたは分かりやすい。森羅万象を斬るために用意された剣なんだもの。  蝦夷で悪路との戦いを前にしてたあんたの剣だってそう。無様すぎる剣だって嫌がったけど、あの瞬間私は死んだって本当に思った。  何も無駄がない。ただ命を奪うためだけに描かれる軌跡。あれが私に向けられていたら、きっとあんたの望み通り、斬られることなく死んでいたよ。  思い出すとそれだけで寒気を感じる。ああ……あれは凄い剣だった。確かに、あんたからすれば無様なすっぽ抜けだったかもしれないけれど。  本当に人を斬る力を示す剣は、あんな風に脱力し、無駄の無い軌跡を描くんだな、って思ったの。  あのときは剣を取り落としたから、あんたはそれをもって無様だと言ったのかな? でもそれは違うよ。  目の前にある人を斬る。その役目を終えた後なら、別に剣を持っておく必要ないでしょ? 残心してもしょうがないし、究極的にはそのまま寝ちゃったって構わない。  いやあこれ、色んな武道関係者に聞かれたらあれこれ反論されそうだけど、私はそう思うわけ。そしてあのときの剣はそうだったわけ。  だから指から滑り落ちた。それで問題がなかったから。つまり完璧な殺人剣だったってこと。  でも。  最近のあんたが振るおうとしていた剣じゃ駄目。あれじゃあ私は死なないよ。私は剣ごとあんたを叩き潰しちゃう。  だから、ちゃんとしたあんたの剣と対峙したい。それであんたの剣が、何かをもたらす。  夜行が教えてくれたんだよね。あんたと私は殺し合わなくちゃいけない。そうしないと、本当の戦いにならないって。  因果なものだねぇ。あんたが正真正銘最後の敵を斬るために、私を斬り殺さなくちゃいけなくなるなんて。  順番狂って打倒神様、なのに断つのはまず私……って、そりゃ座りが悪いのも分かるけど。  あんたはそれをやるべきだし、そうしてきたからこそのあんたでしょ?  それにね、私の中では答えが出ていた話でもあるんだよ。夜行の手紙で、完全に腑に落ちただけ。ああ、やっぱりね、ってのが本当のところ。  だから私は、あんたを待ってる。  あんたはどうだろう。まだ剣に悩んでいるのだろうか。まぁ、その方が宗次郎らしいといえばらしいと思う。  ずっと剣を磨き、本当の剣になろうとしてここまできたこと。重んじるから、そのためにも全力で私と戦ってほしい。  今度ばかりは退かないし、覚悟させるし、逃がさない。絶対戦うようにしてあげることが、私の決意なわけだから。  ……まぁ、来ないなんて間抜けなことは無いと信じるよ。なんてったって、この私が待ってるんだし。  何よりさ、あんたの変わってきた剣を見て思うのは、竜胆さんのことだもの。  東征の中であんたの剣が変わってきたのを、私は知ってる。もしかすると、あんた自身はまったくこれっぽっちも知らないかもしれないけれど。  それはね、あんたは色々学んで成長してるみたいってこと。私は、そのことが少しだけ羨ましいと思っている。  どう変わってきたか。それはあんたの剣に、人のためってのが見え隠れするようになったこと。でも、たぶん自覚は無いよね。  出会った頃のあんただったら、誰の指図も受けず、ただ好きに相手を求めていただろう。私を斬るのも躊躇がなかった。  だけど、今のあんたは違う。  私を斬るのも、他の人を斬るのも、色々考えている。ある意味凄いことだと思う。  たぶん、あの太極がきっかけ。あのとき飛べたのは、確かに嫌な横車が入ったからだけど、それだけじゃない。さらにもう一つ、羽が生えた理由があったはずだと知ってるじゃない。  でも……だからこそ竜胆さんが死んだことで、それを見失った。  だからあんたは竜胆さんや彼ら黄昏のこと、深く考えるようになったんだよ。そしてそれは、私も同じ。  人のためにどうとか、っていうこと。たとえば見ず知らずの連中さえ抱きしめるような愛の深さは、生憎まだ私も分からないんだよね。そこは今でも変わらない。  けれど、さ──  まあ、自分を射止めた男ぐらいには、なんか返してやりたいと思うじゃない。単なる装飾品なんかには、あいつも私も断じてならない。  どっちかが相手を無理矢理、自分の飾りに仕立て上げるんじゃなくて……  互いが互いに付き合って、相手を押し上げられるような……  それがまあ、まだ今一つノリの悪いあいつを炊き付けてみたい理由なわけで。波旬を斃して約束を果たすためには、最後に斬りあうための〈待望〉《わたし》と先に激突しなければならないという酷い皮肉。  その間違った順番を、ここで正してやりたい。あいつが玖錠紫織に対して、本当に躊躇している理由と共に。  だから──ねぇ、竜胆さん。こんな考えでも、悪くないよね。  私はどうしようもなく〈求道〉《みがって》で、〈覇道〉《あなた》のように総てを慈しむとか、皆愛してやりたいとかはきっと逆立ちしたって出来ないけれど――  その代わり、剣呑でどうしようもないあの馬鹿だけは、しっかり抱きしめてみせるからさ。 「──よ。相変わらずでかい乳してんよな、おまえって」  ──だから、ほら。あなたの男もやって来たよ。  坂上覇吐。ついに淤能碁呂島にご登場ってね。 「やほ、覇吐。竜胆さんに会いに来たんでしょ。それならあっち、早く急いだ方がいいよ」 「なんか、捨て鉢と決心の中間みたいな感じだったからさ」  そんなに驚くようなことかな。すべての物事はここに集約されているんだから。  参ったという顔をしながら、竜胆さんがいる方へと視線を向ける覇吐。でもすぐ私に向き直って、不敵な笑みを浮かべつつ話しかける。 「で、おまえはここで男日照りかましてると」 「……つまり、宗次郎とやる気だな」 「まさかとは思うけど、邪魔したりなんかしないでね」 「するかよ。犬も食わねえ」 「へえ、それは嬉しいな。そういう風に、ちょっとは見えているというわけで」 「でもまだ、少しばかり早いかもしれないけどさ」  互いに軽口を叩き合う。  もうすぐ宗次郎が来るというのに、とても気持ちがいい関係だ。東征に参加した連中はみんなが仲間で、そう言えることを誇らしいと思える。  この最悪な空に負けやしない、悠久の輝きに思えるから── 「ねえ、覇吐」 「あんたは、いま、ちゃんと幸せ?」  驚き、そして次にはいつもの笑い。 「ああ。幸せだね」 「竜胆と一緒にいられりゃ、世界が滅びようと俺はずっと幸せだ」 「そのための障害があるなら、どこの何者だろうとぶっ倒してやる」 「それが、坂上覇吐って男なんだよ。どうだ、格好いいだろうが」 「はは。あんた、相変わらず馬鹿で羨ましいよ」  本当に、この時ばかりは羨ましいほど。馬鹿で馬鹿で馬鹿と言われながら、絶対に大切な部分だけはマジになってさ。  これから本気で他人に向かい合うこと……初めてだから、ちょっと不安な私の方が馬鹿みたいじゃない。 「じゃあ、おまえも同じ馬鹿になれよ」 「えー、馬鹿かぁ。うーん、上手くできるかな」 「できるさ。おまえ、明るいからな。あいつは面倒で難しそうだが、おまえが馬鹿になったらきっと付いてくるはずだぜ」 「馬鹿になれ。幸せになれよ。笑うんだ。これから一世一代の〈告白〉《しょうぶ》だろう。そんな暗い顔じゃあ振られるぜ」 「あの野郎、女に優しくねえんだから」 「そうなんだよねぇ。なんだってあんなに鈍いんだか」 「神州最強の剣士様、なんてそればっかり考えてたら、あんな風になるもんさ。だがこれからはお前がいる。分かってるな」 「そっち方面、てんで全然ダメだよあいつは。となると、女の方が強引な立ち振る舞いで引っ張った方がいいってことになる。そういうの、おまえ十八番だろ?」  いいや違うと、ここでまた玖錠紫織の可能性を提示することで覇吐の言葉をつっぱねるのは簡単だった。けれど── 「そうだね……ありがとう」  分かるよ。〈あ〉《 、》〈ん〉《 、》〈た〉《 、》〈は〉《 、》〈私〉《 、》〈を〉《 、》〈装〉《 、》〈飾〉《 、》〈品〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈て〉《 、》〈捉〉《 、》〈え〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。玖錠紫織を仲間だと思うからこそ、おまえは格好いいって言ってくれたこと。  つまりはこういうことだったんだろう。おまえはこうだ、あんたはどうだ。そういう私が嫌い続けたやり取りも……仲間の間なら、相手の背を押す風になる。  自分は他人を信じているという思い──受け取ったよ。あんたの飾りじゃないからこそ、出来る女だって言ったこと。今なら強く、強く信じられる。  覇吐は拳を突き出し、それに私も拳を合わせた。 「あんたの、武運、祈るよ」 「ああ……お前の武運もな」  互いの拳がこつんとぶつかって互いの気が行き来し合う。  そうして、二人は互いの想い人へ向かうべく、気持ちよく別れる寸前―― 「おっと……俺の方はもう一つ、験担ぎをさせてもらおうかなっと!」  覇吐の手が大きく広がり、私の胸に伸ばされたが。  ああ、惜しいね。もうとっくに時間切れだよと、にこやかに鼻っ柱へ拳を叩き込んでやった。 「ちょ、おま、何それ前は揉ませてくれたじゃん」 「何言ってんの、もう駄目だよ」 「私に触っていい男は一人だけになったんだからさ」 「はぁっ? えー、減らないのに触らせないのって独占じゃね?」 「はいはい、あんたのお乳はあっちでしょ。さっさと行って、花嫁掻っ攫ってきなさいな。伊達男」 「ちぇっ、分かってるよ」  そうして今度こそ、格好よくシメるために再び拳をぶつけ合う。覇吐は私の横を通り抜け、もう前だけを見据えている。  そして過ぎ去る際、私に告げた。 「覚えてるよな。全部終わったら宴会だって約束したこと」 「うん、ちゃんと覚えてる」 「おまえも宗次郎も、どっちも勝て。どっちも負けるな。死ぬんじゃねえぞ」 「あんた言ってること滅茶苦茶だし」 「いいんだよ、どんなときでも馬鹿言うのが俺の役だ」  誇らしくもそう語る言葉に、今は感謝した。よかったね、竜胆さん──あんたの益荒男、やっぱり大したものだったよ。 「じゃあ――」  だからこそ、私も一歩足を踏み出して。 「それが叶うように、魂懸けるよ」 「ああ……それじゃあ、〈ま〉《 、》〈た〉《 、》〈な〉《 、》」  歩き出し、もう振り返らない。私たちはお互いの目指した先へと進む。  またな、またな。そう、また必ず──みんなで宴をしてみよう。今度は咲き誇る、満開の桜を見ながら。  邂逅の場所は淤能碁呂島の海岸。  一歩一歩踏みしめながら、あいつの待つ場所へと向かう。  夕暮れなずむ黄昏──幻でも、感傷でも、彼らが守りたかったものの残滓をそこに見出しながら。  彼らの守りたかったものは、こういう暖かさだったのだろう。  母禮と呼ばれていた彼女……本当はもっと美しい名前を持っていたであろう女を、確かな敬意と共に思い出す。  ああ、分かっている。あんたの嘆き、あんたの怒り、伝えたかった想いの数々。全部、全部──この魂に刻んでいるよ。  だから安心していい。私たちが、これからちゃんとあんたに恥じない主役になるから。  下種な哄笑に色づく空に負けやしない。血を吐く想いだったんでしょう? その手で勝ってみたかったんでしょう? だから任せて、黄昏の先に待つのが暗闇だけじゃないこと。今から証明してみせる。  覚めない夜がないということ。それを見せるために、今から私が行なう一世一代の晴れ舞台。もし僅かでも魂が残っていたのなら、どうかお願い。見守っていて。  刃に映った自分が見たい。ねえあなた、私を映す鏡になってよ──  自己愛。自己愛。自己愛。自己愛。あいつに自分を刻んでやりたい。確かにその思いは消えないけれど、それでも利己の想いだけじゃないと思える。  競い合うということ、高め合うということ。自分に付き合ってくれる〈伴侶〉《たにん》がいる現実に感謝して、そんな相手のために自分を磨くことができたなら。  それは相手ありきの自分であり、自分があるからこそ相手が輝くという理屈。分かち合いたいと願う想い、大切なのはそこでしょう?  だから、今からやるのはその一環。あいつを高めて、その願いを叶えてあげたい……幸せにしてあげたいんだよ。それは確かな利他にして、同時に私を潤す利己の祈り。  双方向の関係を築けたなら、それに勝る勝利はないと考えるし……  あとは、まあ。荒々しく処女奪ってくれながら、そ知らぬ顔して夢と思い込んでいることの意趣返しの意味も込めまして。 「さあ宗次郎、私達の祝言を始めようよ」  私の益荒男──愛しい人。  この歪な〈天狗道〉《ソラ》をぶっ飛ばすため、二人で一緒に天へ亀裂を刻んでみよう。  淤能碁呂島の海岸で、宗次郎は紫織が来るのを待っていた。  日は間もなく水平線の向こうに消えるだろう。血のように赤い海が、宗次郎の目に眩しく映る。  それはまるで、これより先の運命を語っているかのようだった。夜行の式神によって知らされた真実が、流血を不可避のものだと告げている。  きっと紫織も、まったく同じ文面の式を与えられているだろう。なぜなら彼と彼女の役目は同様であり、二人で成すものなのだから。  そして共に、それを放棄する気はないと分かっていたから。  まず大前提として、宗次郎に天狗道――すなわち波旬を認める気はない。あれの法はかつて己が抱いた究極だが、それだけに今の自分とはかけ離れている。  森羅万象滅尽滅相。この宇宙に波旬という個を残して、あらゆる生命を滅ぼす理。すなわち真実たった〈唯一〉《ひとり》になる法だ。  曰く、木偶の剣。悪路に言われた通り、過去の宗次郎は波旬の渇望に倣っているだけの傀儡だった。  もはやそうした己ではなく、一個の人であり剣であると証明するためにも天狗道は討たねばならない。  自分一人だけ残った世界で、〈剣〉《おのれ》の存在理由などありはしないと分かっている。ゆえにやってはならぬことなのだ。  剣の真実とは相手ありき、他者あってこそ。魂を持ち、仲間を知り、絆を知った宗次郎は単純な意味でも天狗道を許せない。そこは紫織も同じだろうし、だからこその大前提。覆せない絶対方針として厳然と存在する。  その上で、夜行が自分たちに求めてきたのは以下の一つだ。 『おまえたちの太極による激突をもって、最後の壁に穴を空けろ』  波旬の座まで通じる道、夜刀が寸前まで抉った特異点に最後の一押しを加えること。それによって自分たちは、第六天と初めて対峙することが可能になる。  つまり切り込み、一番槍。東征の時とまったく同じで、それが役割であるらしい。  本来、特異点を抉る作業は覇道太極にしか成し得ないが、覇吐と竜胆を微塵も消耗させてはならぬと言われている。波旬との戦いには、彼らを万全の形で臨ませなければ勝機はないということだ。  ゆえに代わりとして、自分たちがその任を負う。言ったように、本来特異点を抉れるわけではない求道の太極……それをもって、どのように穴を空けるか。そこは二人の特性が関わってくる。  かつて宗次郎は、夜行を指して穴のような男だと言い、それに彼はこう返した。おまえは切創のような男だと。  宗次郎が具現させる斬の神威は、万象あらゆるものを切断する。すなわち特異点であろうがなんだろうが、切り裂けるということに他ならない。  しかし無論、相当な離れ業には違いなく、夜行も理屈は通るが無理であろうと言っている。  そう、あくまでも一人でなら。  そこに彼女が関わることで、話は変わってくるというのだ。  紫織が具現させる蜃の神威は、可能性を無限倍に拡大する。よって億分の一、京分の一、さらにさらに、もっと上へと至れたら……  二人の激突によって道は開く。神威繚乱と舞い威烈と化す。仲間それぞれの役割において、もっとも高い難度と危険、かつ悲壮な決意を求められることだろう。  なぜなら、殺し合えというのだから。そして成功した暁には、その消耗を負ったうえで波旬と戦えというのだから。  何にしろ、双方死ねと言っているようなものだろう。夜行の要望に容赦はなく、ゆえに本気なのだなと宗次郎は感じていた。  そもそも、再度太極に至れる保証はなく、それを成すなら確固とした己の真理を見出さなければならないだろうに。  と、そう思っているからこそ――  ついにやって来た紫織を前にして思うのだ。やはり自分は彼女のことを斬りたくない。 「さあ宗次郎、私たちの祝言を始めよう」  祝言――  優しく、そして誇らしげに、そう言い切る彼女に迷いはない。  ああ、やる気だ。本気だ。ついにとうとう始まってしまう。  なぜこの人は、そんな晴れ晴れとした顔をするのだろう。自分の運命を分かっているなら、気楽でなんかいられないはずなのに。 「ねえ、まだ乗り気じゃないの?」  紫織はとっくに間合いの中だ。その無防備さが、より一層彼女のことを分からなくする。  なぜなら、あなたにも魂はあるのだろう? あなたは波旬の〈赤子〉《せきし》じゃないのだろう?  あなたもヒトで、僕の仲間で、どれだけ掴み所がなかろうとも浮遊した存在じゃないはずなのに…… 「どうなの、宗次郎?」 「僕は……」  玖錠紫織を断ち切りたい──断ち切りたくない。  玖錠紫織だからこそ、斬り捨てたい──斬り捨てたくない。  そう葛藤する根源は、つまるところどうしても彼女のことが分からないから。  切に願う、教えてほしい。 「あなたは……」  〈ど〉《 、》〈う〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈そ〉《 、》〈ん〉《 、》〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈僕〉《 、》〈は〉《 、》〈不〉《 、》〈思〉《 、》〈議〉《 、》〈で〉《 、》…… 「……まったく」 「だから、あのさあ――」  紫織の声が大きく聞こえる。  そして、瞬間―― 「あんたいつまでも、私のこと舐めてんじゃないのよッ!」  不意に思いきり殴られて、そのまま宗次郎は吹っ飛ばされた。 「…………」  身体ごと海岸に投げ出され、頭と肩を波が濡らし洗っていく。  流石にこれは宗次郎も驚かされた。紫織の拳は必殺でも何でもない喧嘩用のものであり、痛いことは痛いが単にそれだけ。効いていない。  しかし、今のが手加減だったというわけでもないのだ。彼女は本気で、身に染み付いた術理を瞬間的に忘れてしまうほど激昂して自分を殴った。  なぜ? 疑問に紫織が答えていく。 「ああ、ああ、なるほどそういうこと」 「あんたは結局、私に勝てるって思ってるんでしょう?」 「だから私を斬ったらどうしようとか、それで終わってしまうとか、下らないこと考えている」 「それが舐めてるっていうのよ! 誰があんたなんかに斬られるか」 「ねえ、言ってみてよ宗次郎。玖錠紫織は、そんな案山子みたいな女なの? あんたの目にはそう見える?」 「ちょっと刀を振りさえすればそれであっさり斬られるような、安くて軽い女なわけ?」 「調子付くのもいい加減にしろ、この馬鹿野郎──!」 「─────」  矢継ぎ早に捲くし立てられた宗次郎は、まだ起きあがれなかった。  しかしそれは、呆然としていたからではない。はっきりと自分の心が開いていくのを感じたからだ。  紫織が言った言葉の数々……総てが直接心に響いてくる。  ――紫織さんに勝つ。いや、それは当たり前だ。なぜなら僕の剣は必ず殺す剣なのだから、彼女がどんなに足掻こうと無視して殺せる。  だから、紫織を斬りたくなかった。やれば絶対死なせてしまうし、他の結末など一切頭に浮かばない。  ――誰があんたに斬られるっていうのよ。え? 何を言っているんだ、紫織さんは。もしかして勝つつもりなのか。この僕に。そんな馬鹿な。有り得ないだろ。  そう。これは必然だ。紫織は死ぬしかない。だから何を死にたがっているのだと不思議で不思議で。分からなくて。  ――調子に乗るな? いや、調子に乗っているのは紫織さん、あなたですよ。僕の剣があなたの命を奪うのは必然だし、あなたに僕を殺すことはできない。それも必然。  ――なぜか? それは僕が壬生宗次郎だからですよ。  思いながら、宗次郎はまだ起き上がらなかった。  しかし、楽しげな笑い声が漏れ始める。楽しいのだ。  これはあの時、御前試合の時と同じ。  ――そうです。僕はあなたを舐めていた。女如きが武芸を修める? その程度の拳で、蹴りで、僕の剣を凌駕することなんかできるわけないだろうに。  それは刑士郎であれ、覇吐であれ、夜行であれ、まったく関係ないことだった。我が剣こそ至高。最強。無謬の理。  万象、触れれば斬滅される神威の刃に他ならない。  だから、ようやく宗次郎は理解した。今、紫織に殴られて気付いたのだ。 「――女を舐めるな、か」  確かにその通りだ。紫織は弱いだけ、守られるだけの、つまらない存在ではない。  勝手に容易く斬れるものだと思い込んで、それは彼女が女性で、意識し――好きになるほど――何か脆いものであるかのように、ああ申し訳ない。あなたは強い!  そもそもが、そうだからこそ好意を持ったはずなのに、気持ちが強まれば強まるほどに斬りたくて、反比例し、度し難い男の悪癖――甘く見ること。  剣とは―― 斬れるとか斬れないとかで相手を選ばないし計らない。  原初、刃というものは、〈斬〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈分〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈モ〉《 、》〈ノ〉《 、》〈が〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》! 「ああ……そうですね」 「まだ、あの時の決着はついていない。僕は何一つ、約束と呼ばれるものを果たしていない」  紫織を斬りたくて、斬りたくて、斬りたくて、たまらないほど、愛おしくて、斬りたくても、斬りかかっても、斬れるかどうか分からない存在だと認識している。  だからこそ素晴らしい。〈斬る〉《ためす》というのが刃の本懐。剣の意味。そこに至った以上、迷いはない。  立ち上がった宗次郎は、強く思う。  自らが、愛する女の価値を貶めて何とする。 「……どう、やる気になった?」 「ええ、火付きが遅くて申し訳ありません」  紫織を斬りたい。必ず斬る。だが斬られてくれるな。いいや斬られないだろう、彼女なら。  だからこそ斬る。 「まったくもう、どれだけ待たせれば気が済むのよ」 「本当ですね。申し訳ない」  頭を下げ、感謝の意を表明する宗次郎。  今、彼の中では無限の堂々巡りが起こっている。紫織の価値を何より認めているからこそ、矛盾した想いが両立したまま天井知らずで上がって行くのだ。  それこそが〈試す〉《きる》ということ。刃は根源まで行けばそこになり、〈斬り〉《ためし》続けることで限界も消える。  文字通り、宗次郎はなんでも斬り裂くモノへと変わるだろう。たとえば天魔、たとえば特異点、たとえば波旬。 「まぁ、いいわ。やれるんでしょう?」  そして、いま目の前にいる紫織。  無言で頷いた宗次郎は、この場において彼女にのみ集中すると決めていた。  よって、他はまったく目に入らない。言えることも多くない。 「壬生宗次郎の行く道は、天地に誓ってただ一つ」  出逢ったあの日も言ったように。 「ひとたび抜けば、誰であろうと斬ることです」 「そう、僕は、一振りの刃なのだから」  宗次郎は言い切ると、ゆっくり剣を抜いていく。夕日に映えるその煌きを前にして、紫織は夢見るように目を細めてから呟いた。 「素敵」 「そうだよ、今のあんたはとてもキレイだ。まるで一本の剣みたい」 「だから、さあ──」 「それで私を斬れるかどうか……あんたが真に、総てを断てるというのなら」  空間が歪む、ぶれる、斬れる、ずれる――  国産みの地より新たな世界を紡ぐため。 「試してみなさい。あんたの魂、全部、全部受け止めてあげるからッ!」 「言われなくとも!」  今、高まり合う二人の愛が、ここに再び神威となる。  繚乱と舞う蜃と劍――それは抱きしめ合うかのような祝詞だった。  紡ぎあげる色も形も、今このときに不純なものなど存在しない。  かつて蝦夷における戦の際に発現した二人の神威は、言わば無理矢理押し上げられた借り物にすぎず、彼らの本来の〈太極〉《ソラ》ではなかった。 「曰く、この一児をもって我が麗しき妹に替えつるかな」 「ここに天の数歌、登々呂加志宇多比あげて、浮かれゆかまくする魂結の、聞こえしめして幸給う」  〈咒〉《かた》は同じゆえに特性上の差異はなく、〈威〉《ちから》に関しては借り物のほうが上だったろう。なぜならアレには、第六天及びその■■――すなわち神座の力が流れ込んでいたのだから。  掛け巻くも〈畏〉《かしこ》き、〈神殿〉《かんどの》に〈坐〉《ま》す〈神魂〉《かみむすび》に願い給う……あの際、祝詞の序文はこれであり、その内容は座への平伏に他ならない。よって悪路と母禮に強制的な解咒を施されていなかったら、二人はとうに波旬の赤子となっていたろう。  自負に酔い、自愛に狂い、己以外は滅尽滅相という法に服従する走狗として、この戦いをやはり行っていたかもしれない。そしてその末に諸共滅んでいた確率は、決して少なくなかっただろう。 「すなわち頭辺に腹這い、脚辺に腹這いて泣きいさち悲しびたまう。その涙落ちて神となる。これすなわち、畝丘の樹下にます神なり」 「ついに佩かせる十握劍を抜き放ち、軻遇突智を斬りて三段に成すや、これ各々神と成る」  ゆえに宗次郎は思うのだ。今の状況が生まれたことこそ勝利の証。  悪路に救われ、波旬を厭悪し、己に惑って紫織を愛してこその天。  それを誇れるのは一人の力で辿り着けたわけではないから。 「我が身に阿都加倍奈夜米流、夜佐加美阿倍久病をば、いと速やかに伊夜志たまいて堅盤に常盤に守りたまえ聞こえしたまえと――」 「〈天〉《あめ》の〈八平手〉《やひらて》打ち上げて、畏み畏みもォォす」  同じく紫織も寿いでいる。これより凄惨極まる激突が起こると理解しながらも、高鳴る鼓動を止められない。  母禮に救われ、波旬を厭悪し、己は彼の一助になれたと信じられるからこその天。  与えることが出来た喜び。双方向の関係ゆえに得られる境地を奉じている。 「劍の刃より滴る血、これ天安河辺にある五百個磐石、我が祖なり」 「謡え、詠え、斬神の神楽。他に願うものなど何もない」 「未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」  だからこそ、この劍すなわち己一人のものではない。 「〈唵〉《おん》・〈摩利支曳〉《まりしえい》〈娑婆訶〉《そわか》」 「〈唵〉《おん》・〈阿毘哆耶摩利支〉《あびてやまりし》〈娑婆訶〉《そわか》」 「鬼縛――隠身・三味耶形・大金剛輪!」  この蜃同じく唯我に非ず。  光の曼荼羅に集った星だと自負しているから、かつて押し付けられた無様な〈太極〉《いろ》とは完成度において比較にならない。 「八重垣・佐士神・蛇之麁正――神代三剣、もって統べる石上の颶風。諸余怨敵皆悉摧滅」 「此処に帰依したてまつる、成就あれ!」  いざ知るがいい第六天。黄昏の後に無明が来ても、それは曙光にかき消されるということを。  今こそ我らの神楽をもって、おまえを座から引き摺り下ろす。 「――太・極――」  そして大儀はこれで終わり。ここより二人は二人だけの、桃源郷へ入ると決めていた。 「神咒神威――〈経津主〉《ふつぬし》・〈布都御魂剣〉《ふつのみたまのけん》」 「神咒神威――〈紅楼蜃夢〉《こうろうしんむ》・〈摩利支天〉《まりしてん》」  それは雄々しく、綺羅綺羅しく――朝日を思わせる光を纏って顕現した。  共に唱えられた神号が、それぞれ型に嵌って彼らの太極を決定する。今や二人は天であり、人間大の宇宙そのもの。求道の神格となった以上は、もはや二度と人に戻れない。  劍として、蜃として、ただ一つの法則を自己に展開し続けるだけのモノと化した。彼らは歩く特異点とも形容され、万象におけるもっとも自立した生命体に他ならない。  同じ神域の者でなければ傷一つ付けられず、単細胞生物的な構成をしているため自滅因子も持ち得ない。純粋な強度という面でならば覇導神を平均して上回る、まさに個の究極とも言える者たちだ。  そしてこの二人に限って言えば、それは孤立無縁を意味しない。 「ああ、本当に」 「やっぱり、あんたは」  綺麗だ、綺麗だ──何より誰より美しい。  互いの神威に魅せられて、感嘆し合う劍と蜃。共に眼前の相手があったればこそ至った求道の極地だ。何の不安も後悔も抱いていない。 「ふふふ」 「ははは」 「……思えば、ずっとこの時を待ち望んでいた気がします」 「本当に、振り返ってみれば、長い回り道だったっていうか」  静かに、慈しむように言葉を交わす。だが口調の穏やかさとは裏腹に、二人の――いいや二柱の神気は爆発的に高まっていく。  共に武の神。武の宇宙。その激突がどれだけ凄まじいものとなるか、もはや人知の及ぶものではない。 「それでも、今あなたは僕の前にいる」 「素直に言います。嬉しいですよ。ああきっと、幸福とはこういうことだ」  神気が斬気に、万象総てを切断する刀剣の理として彼の手元に凝縮していく。 「ねえ、惚れた?」 「それはこれから」  そして可能性は無限大に。あらゆるものを分かつ剣なら、その切っ先すら届かない域まで自己を伸ばそうと神気楼が揺らめき始める。  彼は彼女の芯を捕まえたくて、彼女は彼の煌きに映りたくて。 「この一刀が決めてくれることでしょう」 「やっぱり、いい男だよ。あんたは」  求め続けた道の果てに、今こそ至高の逢瀬を交わす。 「石上神道流──壬生、宗次郎」 「玖錠降神流──玖錠、紫織」  まだ人であった日の〈咒〉《な》を宝物のように謳いあげて。 「いざ、尋常に……」 「焦がれた雌雄、決するべく……」 「全身全霊───推して、参るッッ!」  新たな二柱の戦神が、ついに互いの刃を振り下ろした。 「首飛ばしの〈颶風〉《かぜ》――〈蝿声〉《さばえ》ェェッ!」 「陀羅尼―――孔雀王ォッ!」  初撃は共に、自己の代名詞とも形容できるもっとも好む技をぶつけ合った。  同時に爆轟する大音響。単体宇宙という超高密度の肉体同士が接触し、その瞬間に拳と剣で相手の理を無効化して、本来殴れないものと斬れないものが叫喚しながら削り取られた。  吹き飛ぶ肉片はどれだけ僅かな質量だろうと神の欠片で、宇宙の欠片だ。血の一滴でも天体に匹敵するものであり、ゆえにそれを破壊した攻撃の深さは計り知れない。  個で完成し、触れない限り外界を侵食しない求道の神格だからこそ周囲に流れ弾を与えないが、ぶつかり合っている両者の間では熾烈な界の獲り合いが起こっている。  宗次郎は剣ゆえに、触れようものなら問答無用で切り裂かれる。  そして紫織は蜃ゆえに、触れようとしても幻と化して躱される。  互いが有するその常識を、己が世界の常識で破るのだ。言うまでもなく太極戦闘の基本であり、以降もその繰り返しとなる。  それが今の彼らには、この上ない愛の行為に思えていて…… 「はははは、あははははははは!」 「ふふふふ、はははははははは!」 「はははははははははははははは──ッ!」  さあ、私を捕まえてごらんなさい――そう言わんばかりに分裂を始めた紫織の像を逃がさじと、剣神が無尽の刃を迸らせた。  巻き起こった斬気の奔流が嵐のごとく蜃気楼を引き裂くが、振った回数は一度だけだ。にも拘らず数千を超える可能性を纏めて一気に両断している。  ひとたび抜けば何であろうと斬り捨てるという切断宇宙は、究極無比にして剣戟の到達点に他ならない。彼と交わったというだけで、必ず何かを裂かれている。  だがここで、相手の業を賞賛したのはむしろ宗次郎のほうだった。 「ああやはり、あなたの芯には届かない──!」  どれだけ斬っても、斬っても、紫織の像がなくならない。自分と交わり、彼女が斬られずにいるという可能性を無にすることができないのだ。  それはどのような確率なのだろう。分からないし知りえない。だが具現している以上はそんな未来があるということ。紫織はそれを紡げるということ。  つまり彼女と向き合う限り、自分もまた無限になれる。永遠に斬り続け、永劫に試せるのだ。剣は何処までも鋭くなって、求道は果てなく続いていく。  それはすなわち、己が紫織に育てられているということに他ならない。彼女と交われば交わるほど、布都御魂は研ぎあげられる。壬生宗次郎は極まっていく。  ああ、なんて面映く痺れる感覚。もはや二度と手放せない。 「すごい、素晴らしい、こんな、こんな──素敵な女性がいたなんてッ」  あなたのような女性は他に存在しない。真実、宇宙に一人きり。  僕にはあなたが必要だから―― 「幾ら斬っても斬り果てない、僕は一度だって手を抜いた覚えは無いのに────」  斬りたくて、斬りたくて、斬りたくて堪らないのに強く願う。愛しいあなたよ――どうか永遠に斬られてくれるな。  そしてそう思うからこそ、等しく同規模で希うのだ。  あなたを根本に至るまで斬滅したい。常に見えず、躱し、逸らし、いなして、ずらす。触れさせてくれないその本質に、手を届かせたいと強く望む。  誰より深く、あなたのことを〈斬りたい〉《知りたい》のだ。 「──シィィィイ!」  連続する剣風は激しさを増し、なおも数多の可能性を斬断する。しかし結果は変わらない。  宗次郎の神威に空振りという概念は存在しないため総て命中しているが、致命にまでは至っていない紫織が必ず何処かにいるのだ。  もっとも軽傷で凌いだ〈可能性〉《おのれ》を重ねて繋ぎ続けている。ゆえに見た目の負傷は増えているが、それを戦果と思えるほど宗次郎は目出度くない。 「どうして、死なないんですか?」 「本気で斬っているんですよ?」 「腕を、足を、胴を、首を──完璧に狙っているのに、何度も何度も断っているのに」  言葉通り、そのままの行いを重ねていく宗次郎。だが依然として。 「断ち切れない……あなたは、壊れずにいてくれる」 「僕の〈剣戟〉《おもい》を、全力を、残らず総て受け止め続けてくれるだなんて!」 「〈強靭〉《キレイ》だ」 「愛おしい、こんなにも! 目を奪われる、あなたに!」  だから、さらにさらに研ぎあげられる! 「玖錠──紫織ィィィッッ!」  振り抜いた剣の勢いもそのままに、一回転した宗次郎は腰溜めの構えを取った。斬割の神格としてさらに磨き上げられた殺し合いの嗅覚は、ここでもっとも効果的な技を掴みあげる。  そもそもが、紫織を相手にして何回・何人斬っただのと言うこと自体が間違っている。要は質の問題なのだ。  百の剣を百発振るうのではなく、一つの億を叩き込め。  すなわち――求められるのは、真実絶対に躱せない一の太刀。 「五障深重の消除なれ。執着絶ち、怨念無く、怨念無きがゆえに妄念無し。妄念無きがゆえに我を知る。心中所願、決定成就の加ァァ持」  我は斬る者。ゆえに断つ。他の情念を完全滅殺した明鏡止水を――いざ受けるがいい。 「級長戸辺颶風ェェ!」  神域の無拍子で放たれた〈颶風〉《つむじかぜ》が、そのとき初めて紫織の〈太極〉《カラダ》に避け得ない切創を刻み込んだ。 「───が、ぁあああああッ!」  その、あまりに極まった無駄のない一閃に思わず見惚れた。躱すことが出来ないどころか、その発想すら浮かばなかった。  ゆえに、間一髪で致命を免れたのは単に神格としての耐久力。肩から腹にかけて開きにされても、死なない存在だから助かったというだけにすぎない。  双方、人であったときにこの状況が生まれていたら、負けていたのは間違いなく自分の方。 「っ──は、ははっ」  だから嬉しい。なんて鋭利、なんて刃、その煌きに心から惚れる。  この男は凄い、強い、宇宙一キレイ――!  先の一太刀が煌いたとき、その剣光に間違いなく本物の玖錠紫織が映っていたのを自分は見たのだ。  もっと魅せて。もっと見させて。どこまでも私があんたを高めてあげる。  心配しないで、死なないから。 「──当たり前だッ、あまり女を舐めんじゃないのよ!」  喜ばせるから喜ばして。あんたが笑うと私も嬉しい。 「死ぬわけないでしょう。こんなもので、まだまだあんたの剣は冴えるから」 「そして私も付き合える……どこまでも、いつまでも、果てることなくあんたの〈剣戟〉《おもい》とその丈に!」  絶対のあんたが見たい。究極の私が見たい。  出逢いは――壬生宗次郎という剣に逢えて本当に良かった! 「だって、そうでしょう? あたしはとびきりいい女だもの」  負傷など一切無視する。練り上げた神気を下肢から腰へ、胴を昇って肩から拳へと走らせながら――渾身の突きを宗次郎に叩き込んだ。  のみならず、吹き飛ぶその姿を追うかのように踏み込んで、猛然と打って出る。  あまねく可能性を引き連れて攻める姿は、まるで流星の大瀑布。  総て迎撃するなど絶対不可能―― 「男の背中に乗っかって全部預けてしまうような、〈簪〉《かんざし》じみた〈道具〉《モノ》じゃない!」 「最高の男を、この手で導いてやれたり」 「そいつの感じる想いの中で、永遠に輝き続けるような」 「私は最善で在り続ける。何一つ、無様な〈未来〉《あした》に、譲ってやったりするもんか──ッ!」  応じるように、再度煌く布都御魂剣。今度はそこに映った自分を見つめたうえで、さらに相打ちとなる一撃を返した。  共に吹き飛ぶ。血に塗れている。ぞくぞくしてくる堪らない――  なんて艶美な光景だろうか。  分けても、とりわけ彼自身が。 「〈鋭利〉《キレイ》だよ」 「うん、やっぱりあんたが一番輝いてる。惚れるよ、心から」 「私の魂、あんたの刃に惹かれてる」  胸の内から湧き上がってくる衝動を、紫織は無意識に気へと練成し始めた。  その術理自体は玖錠のもので、修めた技だが今まで使ったことがなかった類。 「だからこそ──」 「私は、あんたを彩るだけの飾りじゃない!」  好いたとか惚れたとか、抱いてほしいとか抱きたいとか。  そういう風に思える相手、ずっといなかったからこの降神は本当に未体験。  だけど今はそんなこともないみたいだし、ちょっと試させてほしいと思う。結果次第でなんだかさらに一皮剥けそうな気がするから。 「並び立てる! 共に在れる! 何でも切り裂くあんたの剣に、ずっと付き合ってやれるんだ!」  そして、自分にこんな気持ちを持たせる男も彼一人。  どうかお願い、この至福よ。永久に終わらない可能性をください。 「壬生──宗次郎ォォォッッ!」  練り上げたのは愛しいという情念。あなたが欲しいという欲望。 「此処に帰命したてまつる――大愛染尊よ 金剛仏頂尊よ 金剛薩たよ衆生を四種に摂取したまえ!」 「陀羅尼愛染明王ォォッ!」  噴きあがる愛欲をもって気の爆轟を成す一撃が、紫織にとっても過去最高の大威力を紡いだ技となって宗次郎に叩き込まれた。 「───ぐ、ぅ、ぁあ、あああッ!」  それによって受けた被害は甚大すぎる。人間なら心臓の経絡系を完全に破壊されたに等しいもので、まさしく心を奪われたまま死を迎えていただろう。  いま自分が生きているのは、単に神格としての耐久力。胸に穴が空いても死なない存在だから助かったというだけにすぎない。  双方、人であったときにこの状況が生まれていたら、負けていたのは間違いなく自分の方。 「はっ、はは……は」  だから嬉しい。彼女は弱いだけのつまらない存在ではない。  斬りたくて、斬りたくて、斬りたくて、たまらないほど、愛おしくて、斬りたくても、斬りかかっても、斬れるかどうか分からない蜃にして神なのだ。 「それでこそッ」  斬る価値がある。斬られてくれるな――  雄叫びをあげて斬滅へと走る宗次郎を紫織は無数の〈可能性〉《おのれ》と共に迎え撃つ。  二柱の神威は初手から常に拮抗しており、今や完全に同格のまま削り合いと化していた。 「まだだ、まだ──まだまだまだまだまだまだァッ」 「僕はもっと先へ行ける──あなたはもっと輝ける!」  壁を破る。進化する。一方が上を行けばもう一方がすぐさま追いつき、また追い越す。 「そういう、あんたもッ」 「足らない、足らない、足らない鈍いッ」 「こんなもんじゃないでしょう──心配しないで、絶対離されたりしないからさ!」  両者の鬩ぎ合い――否、高め合いに限界はない。求道神でありながら、共に稀有な特性を持つ彼らの拮抗に世界が軋む。  徐々にだが、現宇宙の臍とも言えるこの淤能碁呂島に穴が生じ始めている。 「僕が──」 「この世の果てすら、断ったとしても?」 「勿論。この世の総てが耐えられなくても」 「私だけは、つきあったげる」  しかし当人らにとって、もはやそんなことはどうでもよかった。目に映っているのは相手のことのみ。他は意中に入らない。 「どこまでも?」 「当然」 「追い越そうか?」 「させませんよ」  交わす拳と剣の応酬。それによって育まれる愛の形は、利己的であると同時に利他的でもあったから。 「格好いいでしょ」 「はい。誰よりも」  今はただ、この逢瀬のみを感じたい。誰にも邪魔は入れさせない。 「僕の剣は?」 「木偶だなんて、誰にも何にも言わせない」 「嬉しいですよ」 「うん。私も」  瞬間、地を這うように踏み込んだ紫織は宗次郎の脚を刈り飛ばし、宙に浮いた彼の襟を掴みあげると、そのまま神威の腕力で地面に頭から叩きつける。  のみならず、落下と同時に喉へ膝を叩き込む――地味だが、紛れもない殺神技として一切容赦していない。  そしてそれは、宗次郎も同じことだ。  地に叩き伏せられた姿勢のまま、下から放った刺突の一閃が紫織の喉を貫いている。 「ああ──」  降り注ぐ鮮血を顔面で受け止めた宗次郎は、しかし瞬きもせず紫織の顔を見上げて言った。 「あなたより美しい〈蜃〉《ヒト》を、僕は今まで見たことない」  自らの首を貫く刃の冷たさに陶然としながら、紫織も応える。 「あんたより純粋な〈劍〉《ヒト》、私も今まで見たことないな」  そして投げる。華奢な宗次郎は苦もなく吹き飛び、距離を置いて立ち上がった両者は見詰め合って微笑んだ。 「ふっ、ふふ、ふふふ」 「はは、はっ、ははは」  一瞬、自分たちは何をやっているのかなといった表情。  そんなお互いの顔が面白くて、素直に思う。 「照れくさい」 「でも幸せ」  同意し、構え、頷き合って。 「青臭いね」 「初めてですから、こんな気持ち」  再び両者は地を蹴ると、全力でぶつかり合った。 「愛してる」 「愛してる」  殺したいほど―― 「あんたのことを愛してる!」「あなたのことを愛してる!」 「玖錠紫織──僕は、あなたに似合う〈益荒男〉《おとこ》になりたい」 「だからこそ、必ずあなたを僕の〈益荒男〉《おんな》にしてみせる」 「逃がさない。いざこの手で、強く、強く〈両断し〉《抱きしめ》ますから──!」  おそらくこれが最後の一撃。もう体力は残り少なく出来ることは多くない。そこで宗次郎は一つあることを思いついた。  かつて自分の剣を受け、まだ生きている者が紫織以外に三人いる。  すなわち覇吐、龍水、刑士郎だが、自分は彼らを斬ったという事実を持っているはずだ。  ゆえに今その気になれば、ここで指一本触れないまま彼らを斬殺できるだろうが、同時にそうした事実を取り上げることも出来るはず。  三体分の何かを斬ったという事実だけは消せないが、何を斬ったことにするかは変更可能。なぜなら今、一番斬りたい相手が目の前にいるのだから。  そうだ、それがいい。そうしよう。これはきっと、凄い技となるに違いない。  そう思うから紫織さん、あなたに捧げますと決意して―― 「やってみなさい、壬生宗次郎! 私を焦がす〈益荒男〉《おとこ》なら」  何か思いついたなと察した紫織は、それを迎え撃つべく天井知らずに気を高める。 「育て続けた〈益荒男〉《おんな》の想い、遠慮はしない。さあ受け止めてみなさいよ!」 「逃げない。退かない。だから……ねえ」 「私の総てを、全部残らず、あんたに〈放つ〉《あげる》──!」  彼が最高の劍となるなら、自分も最高の蜃となる。いま考えているのはそれだけで、宗次郎の放つ技に見合う〈可能性〉《おのれ》を願うこと。  だから―― 「神の御息は我が息、我が息は神の御息なり。御息をもって吹けば穢れは在らじ、残らじ、阿那清々し――」  ここに絶対の劍を編む。まさしく万象の座すら切断するため。  ここに究極の蜃を編む。まさしく無量大数の壁すら超えるため。 「石上神道流、奥伝の一」 「玖錠降神流、奥伝」  二つの激突は間違いなく、現宇宙の天地開闢以来、最大の衝撃を発生させ得るだろう。 「早馳風――」 「────御言の伊吹ィィッ!」 「大―宝―楼―閣―─」 「────善住陀羅尼ッ!」  そして―― 「おおおおおおおおおぉぉぉォォッ!」  何千年、何万年、世界の亀裂を落下し続けていた神州は、ついにこのとき最後の壁を斬断されて穴の底と繋がった。  そう、もはや第六天の座はすぐそこにある。  すぐそこに、すぐそこに……  他者の存在を一切許さぬ、唯我の根源が座っているのだ。 「もう駄目、動けない……」 「ああ、僕もですよ……」  だが今はそんなことより、互いのことが気になった。彼らは決着の瞬間のまま、精も根も尽き果てて動けない。 「ねえ……支えてよ」 「そうしてもらうの、ちょっと……憧れてたり、するんだからさ」 「なら、あなたも支えてください」 「生憎……僕もちょっと、腕が重く感じるので」  二人は寄り添い、もたれ合って抱きしめ合って膝をつく。 「──楽しかったね」 「ええ、本当に」  悔いも蟠りも一切なかった。どこまでも純粋に相手を求めて己の威を高めた彼らだ。そこには清々しい達成感と、武神らしい潔さのみがある。 「でも、まだ物足りない……」 「この瞬間を、もっともっと続けたいし。あんたとは、永久に愛し合いたいと思うから……」 「だから──」 「全部がなくなるなんて、許せない」  そろって同時にそう呟く。それは彼らなりの宣戦布告でもあったのだろう。  自分たちは役目を果たし、本懐も果たした。それを何より誇っているから、また何度でも続きがしたいと思っている。  ゆえに邪魔だ。邪魔だぞ波旬――我らの愛を砕く者など、たとえ神座であろうと許さない。 「そのためにも、もう一戦……いけますか?」 「当たり前じゃない……さっきの勝負は最高だったけど、だからこそこれで終わりになんて、したくない」 「それに……ほら」  目を閉じて、耳を澄まして、魂で感じようとすればよく分かる。 「きっとあいつらも、そこは同じ気持ちのはずだから、さ」  必ず、そう絶対にと誓いを立てて、彼らは言った。 「この手で、波旬を斃しましょう」 「きっと、そこで皆が待ってるよ」  仲間と一緒に、魂を懸けて。  あの輝かしい将がまた率いてくれるなら、この些か以上にきつい身体も少しは動くようになるだろう。  ああ、大丈夫だ心配ない。勝つのは絶対自分たちだと、彼らは確信しているのだから。  特別付録・人物等級項目―― 壬生宗次郎、玖錠紫織、奥伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 壬生宗次郎、玖錠紫織、奥伝開放。  ……………  ……………  ……………  そして、ようやく訪れる。  ──待ち侘びた渇望の刻。ついに異物の総てが肉から取れた。  これで、やっと磨り潰せると。ソレは天空、あるいは奈落の底にて小さな安堵を抱いていた。  いや、安堵と呼ぶのは語弊だろうか。あくまで人間の感情に当てはめ、仮定した上ならばもっと近いということ。心は斑に錯綜している。読み取ることをソレ自身さえ放棄していた。  喜怒哀楽? 仁義礼智? 知らぬ、解らぬ、ゆえ持たぬ。  〈最〉《 、》〈初〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈入〉《 、》〈る〉《 、》〈隙〉《 、》〈間〉《 、》〈を〉《 、》〈持〉《 、》〈た〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。常人の精神構造とかけ離れた唯我の宇宙、成長すべき余地さえもそれの裡には存在しない。  ソレは他我を自覚するしない以前の問題。まず何より『人間』というモノが判らぬのだから。  ああ──あれらは、何だ? 気持ちが悪い。  何より数が異常だった。必ず一つに群れて生き、いつのまにか増殖している。  此処バラバラに動き回り、蟻の如く這いまわり、蛆の如く共食いしている。それも己が身体の上で。  変わった〈音〉《こえ》を鳴らしながら、皮膚の上にて蠢くのだ。  だから、ああやめろ、やめろ、やめろ、やめろ。  消えてなくなれ、身体が痒い。俺は、俺だけがいいというのに。  広がる世界など不要。拡散も膨張も求めていない、収束がいいのだ。総て消え果て、後に俺が俺として俺のみここに在ればいいから。  壊れて穢れて崩れた形の蛆など要らん。残るな残るな、腐って見えるぞ。  ──抱きしめたい? 触れるな屑が、余計なお世話だ。  ──留めておきたい? やめろよ塵め、とっとと消えろ。  俺は俺だからこそ幸福であり、俺にあらぬものなど端から要らぬ。いやそもそも、何故そのようなものがあるのか皆目見当つかぬのだ。  だからようやく、俺の一部が壊してみせたと── 安らぎ呟く負の波動に、堪えきれぬ邪性を感じた。 「醜穢な」  吐き捨てる声は質量さえ伴った汚泥だった。  世界等しく留め続けた旧概念、無間地獄は消滅した。東征戦争はこれにて終幕。ならば、ようやく、天の意志に抗した蓋が弾けたのだと理解する。  世界とは宇宙であり、宇宙とは一つの生命である。  本来なら発生した瞬間に成長するはずのそれは、しかしこの世界においては別なのだ。  広がらず、反転し、他を削ぎ落として、〈孤独〉《ひとり》へ至る。  己のみを愛し、己のみを肯定する自愛の性。その究極ともいえる姿は。  ──己を残し、総て死ね。  それがこの世を満たす天の意志。彼ら黄昏の信奉者たちが、魂懸けて防ぎ続けた〈理〉《ことわり》だった。  死はただ、暗黒。無明であり、ゆえに信心というものが生まれない。畏れというものが何処にもない。  人たるものが本来持ちえる、潜在的な敬虔さ。高みの何者かに見られているかもしれないから、行動に制限をかけるという枷が無いのだ。  自分を律するものは自分でしかない──それは、なんと恐ろしいことだろうか。  そう、だからこそ〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》は在り続けた。九分九厘染まった世界を完成させない、ああそれだけは、決して譲らぬ。踏み止まった。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈を〉《 、》〈完〉《 、》〈成〉《 、》〈さ〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈と〉《 、》。  一念のもと、激痛堪えて居残ったのだ。  彼らの首領、夜刀の抱く真なる望みはそれだった。宿儺や大獄が代行していた破滅衝動、自滅衝動の数々は総てがここへ帰結する。  天地に疑問を持ち、それを砕ける剛の輩。そして新世界を生むに足る、次代の器を待っていたのだ。  誰一人残らない。誰もが死ぬ。誰もが滅ぶ。そんなものを認められるか。  残るのは唯一人、天に座った〈狗〉《くず》だけだろう?  それが許せぬ、ゆえに戦い、そして敗れた。後に託した芽はまだ出ない。ならばこそついに雌伏の時を経て、邪悪な〈渇望〉《うえ》が世を満たす。  世界を我が物とした〈畜生〉《けもの》。それを天狗と呼ぶのなら、我欲、地にのさばりし邪悪なこの世を統べる〈咒〉《な》は── 「大欲界天狗道、か……」  夢の〈暇〉《いとま》へ流れ込んだ負の光景。  総身駆け巡る嫌悪感を噛み締めながら、夜行はゆっくり意識を起こした。 「……なるほどな」  水のせせらぎ、湿った風に包まれながら摩多羅夜行は目を覚ます。  湖に建てられたこの東屋は、夜行自身にとって快適な環境に整えられている。湿度から温度まで、とことん過ごしやすいように呪まで編んでいる徹底ぶりだ。  寝苦しさなどありはしない。だが、ならば何故、彼の手はきつく握り締められていたのか。  不吉な予感を感じ取り、その手に汗をかいていたのか。 「ああ判っておるよ、忘れておらぬさ。身命とした御身の指摘、しかと胸裏に刻まれている」 「ただの夢とは言うまいとも」  先ほどまで見ていた光景。それを未来の啓示と受け取って、酷薄な笑みをこぼす。  〈私〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈判〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》と、思うわけにはいかんのだ。死の太極がそれを暴いた。落とし穴はそこにある。陥穽にはもう囚われない。  戦いの最中にて、教授してくれた感謝があり、敬意がある。  ならばこそ思うのだ。東征を終えてよりこの時、いったい何ゆえ自分は予兆を感じたのかと。  話せる者と、語り明かせればよいのだが。 「そうだったな……おまえらは、もうおらぬのか」  懐いていた二体の式は、もはやいない。  戦の日々を終えれば殊更に、日常にて静寂を感じる。常に騒がしい者たちであったが、あれはあれで悪くないと思っていたのか。 「聞きたいことが出来たときには、既に昇天した後か」  是非とも訊ねてみたいが、いないのならば仕方がない。旧世界の有様と、そこに生きた者について裏づけを問うてみたかった。  黄昏の徒、敗北した彼らの末路は大別すればこの三つ。消滅したか、留まったか、取り込まれたかだ。  消滅したものの詳細は、与り知らぬが、恐らく夜刀とも異なる神格だろう。  竜胆が手にした黄金の欠片、あれがそれを証明している。無間地獄とは発祥を異とする同位の太極。それもまたそれで興味があったが、消えているなら仕様がない。  そして、留まったものらが〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》。天魔と呼ばれ、敗残の蜘蛛と相成った英雄達の残骸だ。  これについても、もはや語ることはないだろう。東征を経て、夜行は誰よりそれらの事実を看破している。当然、龍明がどういう存在であったのかもだ。  ならば、最後に取り込まれたものたちは── 「凶月。そして……丁禮らか」  前者、特に刑士郎は中々に面白い姿となっているが……いま考えるべきは彼ではない。  爾子と丁禮、この二体、いや〈二〉《 、》〈柱〉《 、》。理同士の衝突に敗れ、あげく旧世界から零れ落ちた敗残者。彼らを拾った経緯を思う。  それは本当に、何の変哲もない出会いだった。  早くから太極へと至り、そこで千切れ漂う魔性の獣を拾った。言葉にすればそれだけで、力を持っていたから式にした。話はそれで終わってしまう。  当時の自分としては、さらに単純な思考をしていたと思う。面白い、拾い物だ。これ幸いに、式の形へ括ったのだが── 「疑問を覚えよ。〈私〉《 、》〈を〉《 、》〈疑〉《 、》〈え〉《 、》」  だが、今ならば思えるのだ。〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈は〉《 、》〈都〉《 、》〈合〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》〈だ〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》と。  拾った? あのいと凄まじき〈魔狼〉《さいそく》を? 何の対価も支払わず、ただただ運がよかったからと……真実たったそれだけで? 「否──これら運否天賦の領域よ。定められ、与えられている」  そう思わざるをえない、研ぎ澄まされた感性がそう訴えていた。  何より、〈漂〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》というのもおかしい。旧来の英雄、消滅を逃れたならば後は取り込まれるか、留まるかだ。そのどちらかへと傾く以上、ありのままには残らないはず。  壊されたまま存続し、夜行の太極へと流れ着き、消滅しかけた寸前にそのまま彼の式となりあの瞬間まで生き続けた。 「くっくっく……滑稽よな」  業腹極まりないがため、一周巡って笑いが漏れる。  ひとたび俯瞰の視線で眺めてみれば、まったくなんと、腹のよじれる構図であろうか。 「くれてやった、とでもいうつもりか? 笑止。侮ってくれる」  天の意志──掃除に適した殲滅〈機械〉《からくり》。  より殺せ、総て潰えろというために、摩多羅夜行のもとへやって来たのだ。旧世界において最も死を振りまいたその功績、ゆえに彼らはあれに利用されたのだろう。滅相を願う波旬の意志に。  新しい主と同じくこの世界に住まう総ての生命、皆悉く〈鏖〉《みなごろ》すべく寄こされたのだ。  理由としては、概ねそんなところだろうが…… 「それがどうした、見縊るな」 「あれらどちらも私の従者、私の〈臣〉《もの》だ。御下がりなどには断じてあらず」 「存外、気に入っていたようでな。無価値などとは思うておらん」  閻魔は天を笑い、己に笑う。これはなんとも、久雅竜胆が好みそうな啖呵だと。 「そして、おまえはあれら違わず、ただの〈道具〉《もの》と扱うのだろう?」 「ならば、我ら異なる別の魂。摩多羅夜行は波旬にあらず」 「私はおまえなどではない」  整った相貌に微笑をたたえて囁く様は、激昂よりも恐ろしい。静かな声には熱など皆無。絶対零度の冷たさでありながら、しかし確かな激情と共に天へ唾を吐きかけていた。  繰り糸の存在など夜行は認めたりしない。いざその座から引き摺り下ろし、序列をこの手で塗り替えん。  そう猛る心に是非はなく── 「ゆえに、それを証明せねばならん」  波旬という座を墜とし、己が生を証明する。  己が知らぬ己の本質……それを知り、凌駕せんと滾る手のひらを握り締めた。 「さて……そうなれば、如何にしたものかな。現状、迂闊に手が出せぬ」  ならばこそ、それが第一の関門。  会えないならば討てはしない。戦う、話す、もっての他だ。実体のないものを破壊することができないように、せめて同じ空間に辿り着かねば打つ手も何もないのだから。  波旬──そう呼ばれる今代の神が、いったい何処に存在するのか。  少なくとも西や東、神州には隠れていない。ならば諸外国かと考察すれば、それもまた恐らく違うだろう。  天元突破を果たしたものが、人の領域に易々住まうはずがない。あの夜刀よりも巨大な質量を有しているというのなら、この世界では耐えられぬ。空間もろともただ在るだけで〈破〉《 、》〈け〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》。  薄い和紙で山を支えるようなものだ。地には住めぬ、脆すぎる。ゆえに当然、その身が在るのは── 「この世に在らず、この世を統べる……そういう場所か」  つまり、一種の空白地帯だ。  波旬の色に染まった天は、神の重みに耐えられない。超越者が腰掛けるべく存在する『座』と呼ぶべきものが必要である。  理の悉くを洗い流し、無色透明な空へと至れば必ずその底まで辿り着けよう。 「太極の激突、相容れぬ〈理〉《ことわり》同士の鬩ぎあいが必要だな」 「世界に生じた穴の〈深奥〉《おく》──奴は必ず、其処にいる」  ならばこそ、夜刀は激昂しながらも己が法則を流出し続けていたのだろう。  覇道同士の激突によって特異点を発生させ、波旬の存在する超深奥の太極座まで全力で次元の孔を掘り進めていた。穢土が存続するということは、すなわち神州を基点にした空間の掘削。その行いは想像を絶するほどの長い時間、人知れず決戦を目指して行なわれていた。  ゆえに、後一押し。散り際に指摘された言葉を反芻しつつ、行くべき確かな道筋を夜行は然りと導き出していた。  あの時こうしていればと、願う機会が積もっていた。  思えば御門龍水の生において、東征とは不自由さの連続だった。今まで特に不自由なく、慎ましやかな幸福に満たされていた日々。それはあの戦を境に波濤の如く変化を見せたと思う。  理不尽が多すぎた。思い通りにいかぬ場面がありすぎた。絶え間なく襲い掛かる天魔に、暴かれていく真相。自らの処理能力を突破して、事態はそれこそ渦のように苛烈な変転を見せていく。  だからだろうか──〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈け〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》、と。生じた疑問の大きさに、彼女の心は痛んでいる。  おまえは、都合のいい未来しか考えていない。  おまえは、自分の思い通りにいかない事態にひどく脆い。  おまえは、幸福に好かれすぎている。  ある時は敵手から、ある時は敬愛する母から、夜行が蔑み指摘されたことと同様に龍水はそういう類の言葉を投げかけられ続けていた。  当然、それは認められるはずのない言葉だったが、確かに自分は恵まれている。失った記憶は存在せず、夜行の両眼が潰えるまで龍水の世界は幸福の一色で染まっていたから。  しかし悲しいかな、彼女はそのような自らの生に対し、大した疑問を抱かなかった。不幸などとうの昔に忘却しており、記憶の底で風化している。喪失を思い描けないために不幸は寄り付かず、これからも自分の未来は明るいだろうと根拠なく妄信し続けてきた。  それが、今や見る影もなく崩れているのがよく分かる。  許婚は傷を刻み、優しい母は消滅した。だからそんな現実を認めないと声を上げれば、消えたはずの母そのものに窘められるという始末。  順風満帆という幻想は砕け散り──そしてまた、彼女は〈久雅竜胆〉《たからもの》を一つ失った。  心が砕けそうになるものの、それでも彼女らは胸を張れと言うだろう。強がりでもいい、過去に囚われるな。新たな明日に踏み出せよと、美しい笑みをこぼして告げるだろう。  ああ、それはなんと強く、なんて恐ろしい言葉だろうか……  おまえはおまえの〈個我〉《あし》で立って歩け。きっとこの世の誰もが言われずに実践していることであり……同時に誰も、誰一人、そこに篭められた意味や強さを知ろうとしない言葉だから。  揺れ動く〈天〉《ことわり》の中で……  然りと己が〈地〉《みち》を踏みしめて……  そこに生きる確かな〈人〉《じぶん》を抱いて生きる。簡単なようで、それはなんと難しく……  眩しくも、誇らしい未来なのだろうか。 「おい。起きろ」 「──ふぎゃっ!」  瞬間、頭に落ちてきた〈拳骨〉《げんこつ》に龍水は一気に目を覚ました。  布団にくるまりながら、ひりひりと痛む頭を抱えて左右に転がる。  これはいったい何事かと眦に涙を溜めて殴った相手を睨みつければ── 「え……ぁ……」  その時の感情を、御門龍水はうまく表現できなかった。  ただ、震えている自分の喉の存在だけは……強く感じ取っていたと思う。 「母刀自、殿?」 「それ以外の何に見える。いつまで寝惚けているのだ、日が昇ったらとっとと起きんか」 「それと、さっさと目元を拭け。どんな夢を見たかは知らんが、寝ながら泣くとは器用なものだな」 「夢……? いえ、それなら」  ──咄嗟に出かけた言葉が、喉で詰まる。  泡のように弾けてほしくなかった。そう思ったがために、先に続く言葉を龍水は飲み込む。  そして、同時に涙を流したことを強く悔やむ。この胸が張り裂けんばかりの感情を、自分は耐えると決めていたはずだった。  鼻を鳴らしながらもどこか嬉しそうに苦笑する、母の姿に胸が喜びと痛みでたまらなくなるけれど…… 「……やれやれ、また何やら黙り込んだか。口を開けて呆けるなよ。はしたないぞ、鯉かおまえは」 「このまま私を待たせておいて、いったいどうするつもりだ?」 「ぁ、は、はいっ。すみません、ではすぐに朝餉の用意をしますので──」 「いや、丁度いい。気まぐれ代わりに、今日は私が作ってやろう」 「どうやら頭も覚めていないようだしな。包丁など持たせては、膳に指でも入っていそうだ」 「え? えぇぇっ、お、母刀自殿が……ですか?」  思わず出た驚きの声に、どこか上機嫌であった龍明の顔が顰められる。失言だったと悟ったときにはもう遅い。 「おい龍水、おまえそれはどういう意味だ?」 「あああ、いえ、その……あの、えっとっ」 「ふん、なるほどな。やはり私をそう見るクチか。いいだろう」 「まあ見ていろ。こんなものは所詮、児戯だと教えてやろう」  そう言い残し、去っていく背中を呆然と龍水は見ていた。  常ならばいつも自分が朝餉を作り、共に食すというのが日課だった。ゆえにこれは生涯において初の事態。本心の総てを偽ることなく吐き出すのなら──正直、何が出てくるかわからないのだ。  これ以上もなく、不安である。  思わず自分の頬を抓ってみるも、鈍い痛みに幻ではないと悟りつつ急いで布団を畳んでから龍明の後を追った。  それに龍水自身……不安に思っているのと同時、ほんの少し期待している想いがあるから。  身なりを整え、顔を洗い、後はそわそわと龍明が膳を持ってくるのを待っている。そして期待通り、あるいは期待を裏切ってか…… 「ほ、本当に出来たのですね……」 「だから言ったろう。さあ、食ってみろ」  いただきます、と半ば驚愕しながら箸を動かす。  焼き魚の身をほぐし、骨からうまく口に運べば── 「どうだ、美味いか?」 「げ、玄妙な味がします……」 「美味いのか不味いのか、どっちだ馬鹿者。……まぁいい」 「食材がもったいないから、残しはするなよ。しっかり噛んで咀嚼しろ」  はい、と頷きながら汁物に口をつける。不揃いな野菜が入っているのを見つめながらも、言われたとおりによく噛んだ。  噛み締める……何度も、何度も。しっかりと記憶に刻み付けるように。  龍水はこの朝餉を自分の中に留めていく。初めてこの人が作ってくれた手料理を、おふくろの味というものを堪能していた。  黙々と、不思議な沈黙の中で二人は膳に箸を運ぶ。  交わす言葉は少なかったが、それは決して何を話せばいいか分からないからではない。無理に話題を捻り出す必要などないほどに、彼女らは穏やかな心持ちだったからだろう。  そして、程なく朝餉を乗せた膳が空になる。  箸を置き、渇いた音が響いた。それを機に、龍明と龍水の視線が絡み合う。  この幸福な幻……その終わりを告げていた。 「さて──もはや問いは不要と思うのだが、この状況は分かっているな?」 「はい。存じております」 「これが私の望んだ夢であり……同時に、ただの夢ではないのだと」 「死んだはずの母刀自殿が、何かの意志を私へ伝えに来たのだと、そう推察しています」  あの時のように、これは蝦夷の地で再会した瞬間の続き。いや、もしくは残り香だろうか?  夜刀の消滅に伴い、夜都賀波岐という存在はこの世を去った。その際に出来た僅かな熱量。蝋燭の燃え尽きる刹那の輝きが、今一度自らの元に現れたのではないかと龍水は思っている。  恐らく、その想像は正しい。 「だから──」  そう、だからこそ。 「……これが最後、なのですね?」  きっと、そういうことなのだ。苦笑した龍明の表情が龍水の問いを肯定していた。 「今更、その手の未練がましい言葉はよせ。おまえの論じた言葉通り、あの日あの時私は死んだ」 「いや、敗れたというのなら、それこそとうの昔に終わっていたのだ。この邂逅こそ望外であり、期せず生じた奇跡と思え」 「ふ、奇跡か。我ながら安い言葉を口にした……私も歳ということだな」  ますます師に似てきたよと、肩を竦めた。  常と変わらぬ仕草は消え逝く者にはとても見えず、余裕さえ感じるものだけに切なさが龍水の心に募る。 「あれからずっと、聞きたいことがあったのです」  そして、ならばこそ聞いておかねばならない。  これが最後というからこそ、自分の前に出てきたことを無駄にはできない。かつて泣き付いた記憶を反芻しながら、微笑む龍明を然りと見つめる。 「母刀自殿は、化外の民であったのですね?」 「ああ」 「東を捨て、西に流れて初代の御門を名乗ったと?」 「そうだ」 「三百年……いえ、それ以上の時を生きたのですか?」 「気の遠くなるほど」 「ならば何故、どうして西へ? こちらの世界は、その、母刀自殿には許せぬ姿に映っているのに……」 「そもそも、どうやってそれだけの時間──」 「東を離れて消えぬのか、と?」  頷く。勘付いていた部分も多いが、同時に謎もまた多く残されていた。  思えば、この女性はどうにも原則から外れている部分がある。穢土を離れられぬ理を置き去り、長年西に紛れていたことが最たるそれだ。  宿儺や大獄と同じく、彼女もまた一種の例外。そして例外であるのなら、当然それに通じる原因があるはずだから──  その疑念に対し龍明は笑んで答える。これで終わりになる講義をどこか楽しんでいるかのように。 「答えは明快。東西まとめたこの神州、丸ごと総てが『穴』だからだ」 「覇道同士がぶつかり合えば、既存の色は押し流される。そう、神は唯一無二なのだよ。極点、絶対、ゆえに並び立つことができん」 「覇を唱えるのはただ一人。衆愚はいつも平伏して、天の道理に従うだろう? 世界も同じだ。強い力に膝を屈し、自らの座を明け渡す」 「ならば、おい、想像してみろ。覇道の資格を有した神格、二柱出会えば……なあどうなる?」 「この世そのものに、穴が開く?」 「ああ、それが特異点と呼ばれるものだ」 「どの〈理〉《ことわり》にも属さない無色の世界。座の影響から脱している。ゆえにそこでは〈神〉《 、》〈の〉《 、》〈法〉《 、》〈理〉《 、》〈を〉《 、》〈受〉《 、》〈け〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》」 「鬩ぎあう二つの太極。これが何を指しているのか……もはや説くまでもないだろう」  夜刀と波旬──つまり旧神と現神。  西と東という構図。ならば目に見えず、余人には感じ取れてすらいなかったが、この神州は常に太極同士の争いに巻き込まれていたということだ。  それだけの巨大な二柱が鬩ぎあえばどうなるか、分からぬほど龍水は愚鈍ではない。空白地帯の発生だ。ならば── 「後は容易い。息を潜め、鼓動を留め、皮を被って偽装した。そのままそ知らぬ顔をして、市井に紛れ名を偽れば……そら『御門龍明』の出来上がりだ」 「そう、なのですか。私はてっきり、東を出れば死ぬものかと……」 「死ぬさ。〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》。だが幸か不幸か、私は夜刀と縁が浅い」 「彼らの愛した旧世界、黄昏の恩恵をさほど受けてはおらんのだよ。寄る辺がないため自由を得た。西に喰われず、されど東に縛られなかったのはそういう道理だ」 「ゆえに蝙蝠などと揶揄されたが……構わないさ」 「……他の〈太極〉《せかい》をこそ、私は信奉していたのでな」  何か、遠い昔日を仰ぎ見るように龍明は呟いた。  それは悔恨か。それとも敬愛か? 読み取れない感情は数多の想いに揺れていて、けれどそこに負の性質は感じない。  だが、龍水はその表情にどこか既知感を覚えた。なぜなら、その顔は自分が鏡を見て見繕いするたびに映りこんだような── 「話を戻すぞ。この神州が特異点という話だが、その実、完全な穴にはまだ至っていない」 「これは〈偏〉《ひとえ》に強度の問題だ。夜刀では釣り合わない。そのために、波旬のもとまで到達するのは不可能なのだ」  アレが存在している〈座〉《ばしょ》はそれほど深く、過去存在したあらゆる旧世界を遥か凌駕すると龍明は言う。 「さらに我らは一度敗北している。勝者と敗者の構図はそう易々と覆せんのだ。ぶつかれば、ただ野垂れ死ぬ。それがもはや化外の大前提となっているのは……判るだろう?」  〈咒〉《な》を呼ぶ、即ち存在を認識されれば消されるのはそういうことだと、龍明は言っている。そして。 「……それでも、彼らは勝とうとしたのですね。譲れないもののために、魂を懸けて」  その感情が、今の自分にもよく分かる。仮に竜胆を殺し辱めた存在がいたのなら、恐らく自分も夜刀らと同じことをしただろうから。  大切なものを奪われるという最悪の未来に、そこへ付き纏う喪失感。痛みと重みを知ったからこそ、龍水は彼ら夜都賀波岐に同情した。  さぞや悔しかったろう、屈辱的だったろうと思う。今になって、己が相対していた者の真実が、これほどまでに重い。 「私から言わせてもらえば、とことん愚かな選択だがな。まったく……同調するのは構わんが、引き摺られてどうするのだ」 「もっとも、冷静な馬鹿も残っていたのは助かったよ。あいつら二人は男としては最悪だが、中々どうして味な真似をしてくれる」  誰を指しているのか、きっと語るに及ばないだろう。  かつて龍明自身が言ったこと、感情で動く女に対し理屈を重んじた男に、感謝とは言い切れない複雑な笑みをこぼしていた。 「簡潔に打ち明けると、私が本来やろうとしたことは大別して僅か二つだ」  まず一つが、先に挙げたものなのだろう。東西の衝突を激化させ、神州という特異点の拡大と落下をより加速させること。  そして、もう一つが── 「自滅因子の誕生を促し、新たな覇道を見出すこと」 「自滅、因子──?」  それは……なんだろう。何か、とてつもなく不吉な言葉であり、かつて一度だけ聞いたことのある言葉だった。  かつて宿儺が、あの両面の鬼神が吐いた単語であり、とんと分からぬ病名じみたものだったが……  鸚鵡返しにした自分の舌が冷たい。龍明の表情からも笑みが僅かに抜けていたのが、きっとその恐さを証明している。  そして、何より── 自滅、自滅、ああ、そのおぞましいはずの言葉に。  なぜ自分は、あの朝焼けが如き将を連想するのか? 「刃物を持てば自傷を、高所では墜落を……などという、自ら破滅へ向かう概念だ」 「人間、叶わぬ願いに焦がれるものの、順風満帆すぎてもそれはそれでつまらぬだろう? 満たされすぎると飽きが生まれ、いずれは必ず壊したがる」 「煩わしい。疎ましい。忌避しなければならんというのに、ああ何故か惹かれる──新しい、とな」 「世界の仕組みは人体によく似ている。それは生命の持つ機能だよ。東より持ち込んだ歪みの概念、それらによって自死の衝動を早めようとした」 「だから元々、私の理想としては自滅因子を発生させ、引き連れ赴き東西激突。それから生じた穴を辿り、総力戦にもつれ込もうとしていたのだが……」 「やれやれ。やはり、あの性悪には及ばんらしい。謀り事は見事に頓挫だ。肝心な時にこの様だとも」  嘆くように、そして納得するように龍明は自らの胸元を指した。 「まだ、少しよく飲み込めぬのですが……」 「此度の東征に踏み切ったという事は、その因子、ですか? それに該当する方は当然生まれているわけなんですよね?」 「そうなるな」 「〈自滅因子〉《そいつ》の見分け方は簡単だよ。蔓延している自愛の価値観、普遍的なこの概念から最もかけ離れている者だよ」 「仁義を愛し、礼智を重んじ。愛を、忠を、絆を信じるはぐれ者」 「この世の道に反する思想に、世界を粉砕しうる意志力。将の才気。覇者の器。太極を携えし対の極み──これら総てを有した者だ」 「分かるよな、龍水? こうまで噛み砕いて論じれば、それがいった何者なのか」 「私がさっきから、いったい誰を指しているのか……気づくだろう?」  ああ、気づいて当然。その言葉に該当する存在など、御門龍水はたった一人しか知らないし思いつかない。 「……はい。竜胆様こそ、この世の道に反するもの」 「今の理を破壊し、真逆の道を世に示す……自滅の因子であるのですね」 「と、私も最初は〈思〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》」 「へっ──は、はい?」  してやったり、と言わんばかりに龍明は含み笑う。  格好を崩す龍水に対し、そのまま緩やかに首を振った。 「ところが違う。〈久〉《 、》〈雅〉《 、》〈竜〉《 、》〈胆〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈滅〉《 、》〈因〉《 、》〈子〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈に〉《 、》〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈は〉《 、》〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。そういう〈渇望〉《しくみ》になっているのだ、奴の願いは」 「波旬の夢見た理想郷はな、骨の髄まで度し難い」  そこで区切り、語ることを良しとしない。  あくまで口調は軽いものだが、その端々に隠しきれぬ嫌悪と赫怒と憎悪が滲み出ていた。  だから、龍水には分からない。化外の民──いや、旧世界の英雄達、真実を知る者らがこぞって屑と呼ぶその存在が。 「その……『波旬』とは、いったい何なのですか?」  その〈咒〉《な》で呼ばれた今代の神に対し、やはり返ってきたのは押し殺せぬ負の想念。 「第六天波旬──極大最悪の下衆だ」 「あとはおまえ自身の目で確かめるがいい。私にあれを語らせるな」  詳しいことは他の者に聞け……そう言わんばかりに、龍明は眉間に大きな皺を刻んだ。 「あれは究極の自閉者だ。完結している。変化がない。己に終始している以上、絶対的に揺らがないのだ」 「その腐った性根はこの世の者にも現れている」 「だからこそ、ここは〈求道〉《ぐどう》に満ちた世界なのだよ。他を導き道を示す覇道の素質は生まれない。気づいたときには遅かったがな」 「だから……まあ、なんだ。これほど見識ぶって格好つかぬが、私もまた、烏帽子殿がよく分からんのだ」 「明らかに対極の道でありながら、どう考えても理屈が合わん。生まれぬはずの覇道が、なにゆえ今となって形を成したか……真相は未だ掴めぬままさ」 「〈烏〉《 、》〈帽〉《 、》〈子〉《 、》〈殿〉《 、》〈は〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈矛〉《 、》〈盾〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》。分かったことは、結局そんなところだよ」  あるいは、と呟いて龍明は口を閉じる。  夜刀や常世の様子、そこから何か彼女も本質が掴めているのか。それとも本当は総てを分かった上で、龍水に与えるべき情報を取捨しているのか。それは誰にも分からなかった。  そして龍水も、それでよいと思うのだ。龍明のことを誰より信じているからこそ、その行いに間違いはないと信じている。  真実を語ってもらったこの今さえ、いや、知れば知るほどこの人の娘であることを誇らしく感じていた。 「ですが、竜胆様はここで確かに生きていました。私たちを先導し、同じ地平を目指して、共に時を過ごしたはずです」 「あの日々は幻などではないのだと、私は強くそう信じます」 「そうだな。だからこそ、やはりよく分からん」 「だが、たとえ理屈が見えぬままでも、そう悪いものにはならんだろう。なんとも青臭い説法だったが、あれの気質はまさしく善さ」 「懐かしくもあり、甘くも感じる日の輝き。それなりに悪くないと思えたよ」 「あれが次代を担う、新たな〈世界〉《そら》となるのなら──」 「なるほど、どうして悪くない」  この世の先、自らは住めぬとしても新たな世を思い浮かべているのか、龍明の言葉は優しかった。  だからこそ、その優しさの分彼女の本心もまた感じる。つまり、そう思えるほど今の世に絶望しているということだから。 「母刀自殿は、やはり我々のことが──」 「ああ、大嫌いさ。正直、吐き気を催すさ」 「どいつもこいつも口を開けば、我、俺、私。他人の主張を馬耳東風と受け流し、己は至高と陶酔しながら酔い痴れる」 「鬱陶しい、軽々しいにもほどがあるぞ」 「自分語りという名の汚濁。それしか聞こえてこないとあれば、まったく、何度耳を捨てたくなったことか」 「西の総ては掃き溜めだ。そう思う気持ちに虚偽はなく、また心変わりも一切ない」 「それだけは私が譲れぬ最後の線。今は遠い〈黄金〉《そら》へ捧げた、我が忠誠の鎮魂歌さ」 「ならばっ」  その笑みが、あまりに誇らしかったからこそ── 「私のことも……等しく、嫌いなのでしょうか?」  龍水は、それを問わずにいられなかった。  御門龍明はこういう人だから、きっと自分を好いている。そうだ、そうに違いない……などと稚児のように思うことがもうできない。  何があっても自分を愛し、導いてくれるものは己が妄想の操り人形と何が違う。紅葉を毛嫌いしていたのは、龍明との因縁以上にそこに生じた同属嫌悪だ。  思い通りにならぬ他者に対して、自分の是非を問うということ。それが恐ろしく感じながらも……これだけは、はっきりしなくてはならないと感じていた。  そして、伝えなければならない。御門龍水がどれだけ幸福であったのか。  龍明の子となれたことで、どれだけ多くの想いをもらったか。どんなに誇らしいことなのか、この瞬間に教えたかったのだ。 「私はずっと、とても楽しかったです。母刀自殿の重荷であったとしても、あの時間は……」  素晴らしかったと、拙い子の訴えに対し── 「まあ、悪くはなかったよ」  仮初ではなかったと、御門龍明は微笑んだ。 「育て、導くということ。それなりに楽しめたものだったさ」 「なぜか昔から、おまえのような者によく懐かれてな……本当に、見る目のないことだとも。振り払っても尻尾を振ってやってくる」 「本当に、手のかかる馬鹿どもだ」  突き放すような言葉に対し、正反対とも言うべき万感の想いをこめながら、龍明は小さく頷いた。  それに伴い、彼女の身体が少しずつ薄れ、解けていく。  ああ、もう終わってしまうのか。奇跡のように訪れた母子の邂逅は、それこそ日差しに溶ける淡雪のように閉じるのだろう。  泣きだしはしない、それだけはしない、そう決めていたとしても龍水は歯を食いしばるのに必至だった。抱きついて、行かないでと叫びたくなる自分を抑え続けていた。  最後の最後でこの人に、無様な娘は見せられないのだ。  そのために、毅然と己を律し続ける自分を龍明は見守っていた。それでこそ、おまえは私の娘であると。 「龍水、よく聞け。これが最後の忠言だ」 「おまえ達の戦はまだ終わってはいない。それぞれ個々に役目があり、成さねばならんことが残っている」 「おまえは夜行と共に行き、己が役目を果たすといい。それはきっと誰にも代われぬ、御門龍水にしかできんことだ」 「夜行は、一人ではあれに勝てん」 「勝利するためには、間違いなくおまえの力が必要なのだよ」 「ですが、私の力は何か役に立つのでしょうか? 夜行様の太極を前に、お力添えできることが残っているとは、とても」 「そう悲観するな。むしろ逆だ」 「あれら八人の中において、私はおまえこそ最も大したものだと信じているのだ」  言葉に嘘はないのだろう。到底信じられないような言葉を口にしながら、龍明は未だ笑みを崩さない。 「互いに道を違えながら、同じ着地点を求めて進め。他の者らも今頃は、各々そうしておるはずさ」 「願い交わらず、されど離れず。烏合の衆であった者どもが、新たな地平を目指して駆ける」 「どうだ? 烏帽子殿の部下らしくていいじゃないか」  だから、さあ── 「胸を張れ。自信を持て。おまえは──私の自慢の娘だ」 「……はいっ」  これにて、母親の役目は終わり。  頷きあった二人の間に、絆は確かに紡がれた。 「夜行と仲良くやれよ。あの手の男は彗星だ。走り続け、追い続け、その手に然りと捕まえるのだぞ」 「いずれ尻にしいてやる、ぐらいの気概でいけ。それぐらいが丁度いい」  もうそれ以外に言うことはないのか。伝えたい言葉を出し終えて、満足げに龍明は──いや、旧世界の英雄は消えていく。  届かぬ輝きを追い続け、永遠にその想いを焦がし続けた熱情は、今こそ嘗ての主と同じ場所へ還ろうとしていた。  安らぎに満ちたその表情は母性に満ち、同時に女性としても美しいものだったから──龍水もまた笑んだ。 「ああ、やっとわかりました。母刀自殿にもそういう方がいたのですね」 「まさか。ただの忠だよ」 「これほど歳を重ねておいて、夢見る〈処女〉《おんな》ではあるまいさ」  ああ、この人は何を言っているのだろう。その感情をどう呼ぶかなど、たった一つしかないはずだ。  だって、それは── 「それをこそ、私は愛と呼ぶのだと思います」  自分が夜行に向けるものと変わらない、ならばそれが愛であらぬはずがないと感じる。  強く断定した言葉に一瞬、龍明は驚いたように瞠目して── 「そうか……」 「そうだな……それも、よいのかもしれん」  哀悼するように、瞳を閉じた。  輝きに包まれて溶けゆく世界の煌きと共に、龍明は今度こそ手のかかる娘に託して去っていった。 「…………」  ……瞼を開き、目尻に溜まっていた涙を拭いながら龍水は起き上がった。  先ほど感じていた夢と現の境、そこで出会った刹那を忘れない。  忘れることなど許さないと、自分自身に固く誓う。 「ありがとうございます。母刀自殿」 「龍水は、行きます。今度こそあなたの娘として、夜行様の連れ合いとして」  受け継いだ想いを胸に、自らの意志にて明日へと踏み出すことを選択する。御門の自分としてではない、自分を妄信しているからでもない、確かな己を抱きとめて龍水は歩き出した。  双眸から流れる雫は既にない。  親から託されたものを、子が受け取って続けていく。この世界では廃れた世代交代の輝きと共に、彼女は自らの道を見出したのだ。  そして── 「御門家一門──あれら、もはや要らぬな」  秀真の都にて、杯を傾けながら中院冷泉は含み笑う。  上座に胡坐をかき、下座に千種と岩倉が腰を下ろしている。それはまさしく勝者と敗者の構図であり、東征という政争の結末でもあった。  しかし、千種と岩倉の表情に陰はない。内心では何を思っているか不明だが、彼らは彼らで六条の空いた穴を歓迎していることだけは明白だろう。  勝ち馬にごまをする政争相手。なんらおかしなことはない。 「御門龍明は名誉の戦死。残るは無垢な稚児なれば……これは好機よ、逃さぬとも」 「〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》? 恐ろしきことだ、身震いするとも。斯様なものと通じられては、高枕で寝られはしまい」 「よって、総意だ。堕ち果てよ。化外を討ったその瞬間に、御門の役目は潰えておるのだ」 「何より、あれらの開祖は化外の者というではないか。国の安寧を思えばこそ、先祖返りなど起こさせぬとも」 「左様で。まことその通り。さすがは冷泉殿、動きが早いわ」 「不穏分子の分際で、我らに逆らうなど片腹痛い」  喜悦の笑みをこぼしながら、冷泉らは杯をあおる。  酷薄な冷笑に狂気は欠片も混じっていない。正気のまま己が利を優先し、もっともらしい理屈を口にしていた。  討伐軍への下達はすでに済んでいる。東征の現場を体験していない岩倉たちなら、なるほど都合七人の男女ごとき、都の権力を前に風前の灯火とほくそ笑むのは自然だろう。  だが冷泉は違う。彼は穢土の天魔らをその目で見ており、それを斃した戦士たちの力量を知っている。  その上で、容易く縊れると正気のまま確信していた。そこに最大の異常がある。  いや、さらに言うならもう一つ。  戦が終われば英雄は要らぬ。逆賊の汚名を被せた後、武功と真実を抱きながら土の中へ眠ってもらうというその理屈は、世の習いとして別段おかしなものではない。  狡兎死して良狗煮られる――つまるところそういう摂理にすぎないのだが、問題は〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈神〉《 、》〈州〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈に〉《 、》〈留〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》。  そう、今このときに、全世界で同時に嵐が起こっていた。  乱あり、変あり、諸々総て……国家間から家族間、果ては虫魚禽獣に至るまで、ありとあらゆる社会において空前絶後の殺し合いが起こっている。  そうした意味では、神州のみがまだぬるい。〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈国〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈嵐〉《 、》〈の〉《 、》〈侵〉《 、》〈攻〉《 、》〈が〉《 、》〈遅〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》。  その理由は不明だが、遠からず差異は消えてしまうだろう。無論のこと、冷泉がそれらの情勢を知るはずもないのだが、あたかも委細承知であるかのような底知れぬ笑みを湛えている。  共鳴するかのように増幅していく狂喜の果て、破滅の刻が侵攻していく。冷泉は〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  〈邪〉《 、》〈魔〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》、〈あ〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「そうだ、遍く総て焼き払え」  そう、〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈調〉《 、》〈子〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「一人も残してはならんぞ」  〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈軽〉《 、》〈い〉《 、》。〈蛆〉《 、》〈が〉《 、》〈取〉《 、》〈れ〉《 、》〈心〉《 、》〈晴〉《 、》〈れ〉《 、》〈や〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「ああ。ああ──」  〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈心〉《 、》〈安〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈在〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》。  そう願う心に、ああ、いやはない。  なあ、なあ、そうであろう? ──俺の身体に住まう■■■よ。  おまえもまた、静寂の世が愛しかろう? 「──斯様であるか。相承った」  その声に、微笑をたたえながら中院冷泉は立ち上がった。  怪訝な顔の千種と岩倉へ、ほほえましいものを見るかのように視線をよこす。やはり愚鈍、まだ気づかぬかと。 「……冷泉殿?」 「いったい、何を──」 「いや、少しな。〈我〉《 、》は掃除を所望しておるらしい」  ゆえに。 「──おまえら、要らぬわ」  この者ども、不要であると断じた瞬間、横一文字の斬風が二つの首を断ち切った。  驚愕する暇すらなく、肉の断面から流血が噴出す。痙攣しながら倒れ伏す遺体を横目に、部屋を汚すことすら気にせず冷泉は確かな快感を覚えていた。  これはよい。数が減るのは喜ばしいと、端正な笑みがより深くなる。 「喰らい、犯し、奪い、誇れ」 「善き哉。これぞ我らが本懐なり。誰も要らぬさ、収束せよ」 「これより先は、〈我〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈在〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  邪神の波動が立ち上る。遍く天狗が蠢いた。飢える暴食の蝗が如く、異物を消さんと猛り狂える。  喝采せよ、礼賛せよ。これ即ち〈正道〉《てん》の意志。  騒ぎ轟き己をかざせ、我こそ至高と刻みつけよ。  あな素晴らしきかな鏖殺の宴。どいつもこいつも死ぬがよい──! 「ふふふふ……はははははははははははははははは!」  ──総て、滅びろ。  その意志を受け、列を成して兵が往く。  我先にと、我こそはと、我欲のままに進軍する。  天の加護を受けし、数多のさばる自愛の継嗣。己がために行軍し、己が未来を目指して進む。  彼らは一様に醜穢で、悦の相を張り付かせている天狗の群れだ。 「喰らえ!」 「犯せ!」 「奪え!」 「誇れ!」 「おまえら総て、俺の礎と成るがいい──!」  一片の疑いなく、一切の呵責なく、彼らは敵を求めて前進する。  先陣切って首を獲れば、己は誉れの一番槍なり。  逃げる兵を逃さず討てば、俺は紛れもなく強者なり。  目に映る獲物を討滅すれば、我は紛れもなく益荒男なり。  己を崇めるのは当然であり、違える者など一人も要らぬ。逸る心に揺るぎはなく、兵の一人一人が我が身を真と信じている。  だが駄目だ、まだ届かぬ、まだまだ全然足らぬのだ。賞賛が足らぬ、武勲が足らぬ、金が足らぬ、位が足らぬ。  この程度では満足できぬぞ。ゆえに殺し、いざ奪おう──!  誇らしい、素晴らしい。やれ討て、さあ討て。〈他人〉《おまえら》総て俺を輝かせる〈土台〉《いしくれ》だろう? 疾く死ねよ、骸がよいのだ呼吸をするな。生きていてはならぬだろうが。  彼らは等しく浮遊しながら狂騒している。我執に酔い痴れる酔漢の群れは、これほど列を成しながらも何一つ纏まりを見せていない。  隣に存在する同胞の名すら知らず、また最初から知ろうとさえしないだろう。綻びのない自愛に喝采を謳うその姿は、まさしく邪悪と呼ぶに相応しい。  己が道こそ至高と尊ぶ理由さえ、大したものを持っていない。  〈我〉《 、》〈が〉《 、》〈我〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈奪〉《 、》〈う〉《 、》という、根拠理屈のない妄信こそが兵を突き動かす衝動だった。  つまり、彼らは全員が『神』なのだ。  外界を関知せず、個で満ち足り、我に溺れている極少単位の邪神ども。彼らに仁義や礼智はない。武勲を求め、誉れを目指し、前へ前へと突き進むのみ。  下された討伐の任。滞りなく完遂すべしとはや猛り──  草の一本たりとも残さず〈鏖〉《みなごろし》にすべし。狂喜しながら血塗れの轍を〈地〉《みち》に刻む。  殺せ、殺せ、最後に残るは〈波旬〉《おれ》だけでいい。  さあ、平らかな安息をよこせ。 「  」  超深奥の座で一人笑い転げる狂天狗の〈覇道〉《かつぼう》が、全宇宙を覆いつくす。  大欲界天狗道、ここに完成。歴代の座における最悪最強の理が、ついに真の姿を見せた瞬間だった。 「────っ、は」  ……その我欲渦巻く光景を、御門龍水の霊視は捉えていた。  今の冷泉に見つからなかったことは、おそらく彼女にとって奇跡に近い。息を潜め、逸る心臓を押さえたのが功を奏した。もしくは見つかっていながら取るに足らぬと見逃されたか、どちらにしても生きている。  紛れもない幸運だが、それを喜ぶだけの余裕はない。なぜなら龍水は、いま激烈に化外や母や竜胆が抱いた危惧を叩きつけられたから。  ああ断言できる──ここは塵だ、掃き溜めだ。あれらはもはやどうしようもなく、最低の性根しか持っていない。  まともじゃないし、狂っている……久雅竜胆が悲痛な顔で生き続けていた半生、その理由はこれなのだ。  詳しいことは変わらず何一つ分からないとしても、その行き着く果て、どのような世界が訪れるかは垣間見えた。  これから先、〈誰〉《 、》〈も〉《 、》〈が〉《 、》〈中〉《 、》〈院〉《 、》〈冷〉《 、》〈泉〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》のだろう。我欲に溢れ、邪の加護を受け、そして誰一人残さず総てが消されて平らになると……気づいたならば、行動は早かった。 「早く夜行様に伝えなくては……っ」  阻止しなければならない未来がある。その事実を前に、震える足を叱咤して、男の下へ駆けていく。  どこにいるかも分からないし、そもそも龍水は隠れた夜行を探し当てたことなど一度もない。それでも今回ばかりはと決意を胸に足を動かす。  いつも、常にそうだった。見つけられず、探し当てられず、ただ当てずっぽうに駆け回るだけの自分。思えば彼が本気で身を隠すつもりならば間違いなく己は永劫辿り着けはしないだろう。  だが──それでも、摩多羅夜行に会いたいと龍水は思うのだ。  この世が地獄と分かった今になって、何より強くそう感じる。あの人に会いたい。傍にありたい。かつてないほど純粋にその存在を求めている。  身を苛む寂しさに心へ浸透する恐怖、そして微かに灯る決意さえ総てを含んだ真実が、一人の人物へと集約していた。  夜行様と共に在る……その誓いある限り、出来ぬことなど何もない。  少女は強く信じていた。それこそが絶対崩れぬ真の理、御門龍水の真実であると。 「龍水か?」  そして、己を呼ぶ女一人の呼び声を夜行が見逃すはずもない。空間的に隔離された東屋にいながら、難なくその行動を天眼にて察知する。  切迫した表情で走る姿は彼にとって非常に見慣れた光景だった。  自分のことを必死で探す龍水に、それを上座から眺めつつ微笑して杯をあおる自分自身。愛玩動物を愛でるかのように、思えばいつも夜行は少女に対してそういう扱いを施していた。  屋根、太極座、あるいは裏をかいて素直に龍水の一室か。どちらにしてもからかうことは変わらない……まさしく片手の遊び道具だったはずだ。  そして、それは今も── 「…………」  小さな身体で、息を切らして、龍水は変わらず夜行を求めて見当違いの場所を駆けずっている。  ただただ一途に、一片も疑いもなく。 「夜行様、私は」  会って、何を話したらいいのだろうか?  そうすべきとは分かっていても、恐れて逃げてきたと取られかねない自分の未熟さを龍水は痛いほど感じていた。  みっともない、情けない、男に縋りつくしかできないそんな自分を恥ながらも── 「間違っているはずがないっ。疑いなどない、偽りなどない、私はあの方を愛しているから──信じているから」  摩多羅夜行ならば、この暗雲覆う空の下でも正しい道を選べるだろう。  奉じる心に、言葉通り些かの不安や逡巡もなかった。むしろどうして疑えるのか、その理由をこそ知りたかった。  だから、魂懸けて辿り着こうと進むのだ。夜行に会うということは、それすなわちその瞬間で勝利を得たと同義である。  そう思えば……何の事はない。こうやって走ることも、ああそれはそれで楽しいものではないか。  男のために身を捧げる自分は素晴らしい、などと今更思わぬが、こうまで信じられるものがあるということを素晴らしいと感じられる。噛み締めるほど大きな幸せが自分の中を満たしていくのを感じるから。  ゆえに、龍水は止まらない。きっと夜行は自分に気づいていると経験測から分かっていたけど、出てこないということはきっと自分が不甲斐ないからに違いないと思ったのだ。  相変わらず、何処にいるのかさっぱり皆目分からない。もたついて、下手をすれば兵たちと鉢合わせる。そう気づい真実を知り、己が卑小と卑俗さを知りていても、龍水はそっと小さな笑みを口元に浮かべていた。  必ず会える。必ずこんな自分にも手を差し伸べてくれるはず。  妄信でもなく、自己愛からきた見解でもない。だって、自分が愛するあの殿方は── 「手間のかかることだ。まだまだ鈍いな」 「かつて見た太極の波動ぐらいは、感じてみせればよいというのに」  位相のずれた空間越しにその様を知り、夜行は小さく苦笑する。  諧謔して、愛玩し。伊達や酔狂で振り回し、疲れ果てたところへ含み笑いながらようよう姿を現して……  それが彼らの間にあった、ある種行事のようなやり取りだったが。 「……何故であろうな」  まだ疲れ果てていない龍水へ向けた夜行の笑みは、何かが以前とは違っていた。  ああまったく、早く気づけよ私はここだ。我が太極を知った者が、次元一つ介したところで感じ取れずどうするという。そちらではない。手間がかかる。それでもおまえは御門の頭か──?  などと、湧き上がるこの気分はなんなのか。ちょこまかと健気な姿は結構だが、ほんの少し──そうほんの少しだけ手を差し伸べてみたくなるのは、どういう心境の変化だろうか。  ……夜行は変わらず蟻の視点は分からない。拘る理由も、その道理も、何を苦労しておるのかと睥睨することしか出来はしない。  依然、常人の世界からは遠いままだ。されど──  されど──  まったく……なぜか見ていられずに、走る少女を己が位階へ招き入れた。  柄にもないことをしたものだと、自嘲しながら目を丸くする龍水に視線を移す。 「──夜行様!」 「龍水」  ……本当に、柄にもなければ、似合いもしない。  胸によぎる〈小波〉《さざなみ》に似た情など知らぬ。摩多羅夜行は持ち得ない。  だからその働きを至極あっさりと胸の中で鎮火して、目の前で息を切らせる連れ合いから必至の訴えを聞くことにした。 「はぁ、はぁ……夜行様、御門が!」 「知っておるよ、あれが動き出すことはな」 「むしろ、これは遅かったと言うべきだろう。化外が消えた暁に、この世は完成したのだから」  総ては読めていたことだった、中院冷泉が波旬に近づくこと。太極の完成が何を意味するのかを。  あれもまた、別の意味合いにおいて代行者だ。この世を表すに相応しい人物は、いずれ違わず〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》。  時の権力者に、辣腕の知恵者──才気溢れ天狗道を象徴せし小天狗。それに該当した人物が芦原中津国においては冷泉であったというだけのことなのだから。  神州の外、諸外国においては既に更なる地獄だろう。夜刀が消えてより約三・四月、おそらく各地で指導者による全面戦争に発展しているのはまず間違いない。むしろ冷泉の変化こそ、あまりに遅すぎるというものだ。  夜刀が潰えても神州そのものが一種の空白地帯化、覇道同士の衝突により穴として残留している影響だったのだろう。  そして──自分が至った真実同様に、この少女もまた何かを知った様子だった。 「何を見た、龍水? おまえもまた、感じ取ったがゆえに来たのだろう?」  静かな問いかけに、龍水は神妙に頷いて息を整えた。表情や眼光に翳りはない。然りと夜行を見つめながら、己の知ったことを伝える。 「……母刀自殿にお会いしました。夢と現の狭間にて、伝えることがあるのだと」 「私と夜行様、それに此処へいないあやつらにも、役目があるとおっしゃりました」 「そうか。ならば話せ、時が惜しい」 「これから先、転がる如くこの世は破滅を現すぞ。独り生まれ、独り死に、独り来て、独り去る。その究極が具現しよう」 「砕いてやるには今しかない。民の安寧など知りはせんが、私は私の感じる理由であの汚濁が気に入らん」 「夜行様もまた、名状し難き何かをご覧になったのでございますか?」 「さて、な……」  それは夜行に珍しく、言葉を濁した仕草だった。見たくないものを見すぎたと、そう言わんばかりに緩く首を振る。 「まずはそちらから語るがいい。龍明殿の申す策、それが斯様なものであるか」 「わかりました。では──」  訥々と、龍水は夢での邂逅を夜行に語る。微に入り細に入り、一言も漏らすことなく夜行に聞いたままのことを告げた。  龍明の真実。神州という特異点。新たな覇道に自滅因子。そして、先に見えた冷泉の狂騒を伝えた。  夜行は終始無言で語る言葉を聞いていく。己が至った真実と与えられた情報を照らし合わせ、時に添削しながら自らの中で考えとすべきことをまとめていた。  聞き終えたときに訪れた微かな沈黙の後──一度だけ、短く息を吐きながら。 「なるほど……自滅因子、そして特異点と呼ぶのか、これは」  穴という本質は当然掴んでいたが、正式な名称を知ったことで急速に理解を深めていく。  世界に空いた穴、ゆえに示す呼び名は特異点。  つまり奈落の奥の奥へ太極座は存在し、そこへ腰掛けるものこそを神であると呼ぶのなら── 「空を染め上げたものが蠢く座とは、逆に地獄の果てに在ったとは。ははは、これは皮肉が利いておるな」 「やはり読みは当たっておった。そして、個々の役目というならば──」 「覇道流出」 「極点拡大」 「非業解脱」 「そして、我らはさしずめ天地掘削、というところかな? 謁見せよと、そう申すか」 「見縊ってもらっては困るな、龍明殿。それだけで済むとは思っていまい。よもや道を開いたのみで、私が退くと御思いか?」  そこに秘められた意図、微笑の裏で煮え滾る情の暴流を感じ取れない龍水ではない。  激している──叫喚している。想像を絶する域にてかつてないほど凄惨に夜行の心は荒れ狂っていた。 「ならば、挑むのですね。夜行様は」 「我々の空を覆っている存在に、臆することも」 「我が身代わりて天に立つ、とは面倒なので吼えぬとも。新しき世を創る、それはそれで必須だろうが……やりたい者がやればいい。私は知らぬ、どうでもいい」 「だがしかし、見下ろされるのは業腹だろう」  何より、既に大獄へ宣誓をしたのだ。夜行にとってあの邂逅は必然だった、ならばこの選択もまた必然。  奇妙な友誼であると思うし、数奇な縁だと思うものの、彼らには感謝も義理も借りもある。さらに己が心まで波旬を要らぬと感じていたなら、これで猛らぬはずがない。  ゆえに戦い、ゆえに勝つ。知らぬ間に自分を嬲って悦に浸った邪神など、夜行は到底許せるはずがないというもの。  そして同時に、それは紛れもなく彼にとってだけの因縁でもあった。  御門龍水にとってはさほど因も業もない。放っておこうが、特に構わぬものなだけに──  ふと、どうしてか夜行はそれを聞いてみたくなった。心のどこかで、答えなどとうに知っているはずなのに。 「龍水、おまえはどうする。ここに残って私の凱旋を待つつもりか? それとも御門を守ると立つ心算か?」 「いいえ、私は夜行様について行きます!」  ……やはり、返ってきた言葉は夜行の想像通りのものだった。  釈然としない、とは勿論言わない。だがしかし、賢い行動だとそれは思えるはずもないものだろう。  確かに、もはやこの世は御門龍水にとって決して馴染めるものではなくなった。彼女のみならず、覇吐、宗次郎、紫織、刑士郎、咲耶、己にとってもまたそうだ。〈波旬〉《ほうそく》に弓を引くとはそういうこと。  状況が見えておらぬほど愚かではないが、しかしついて行く理由がない。まあ色々と、言いたいことは多々あるが── 「正気か? 力量の差、判らぬわけではあるまい」  突き詰めれば、行き着くのはそういう結論だ。  夜行ならばいざ知らず、蟻が一匹反旗を翻したとして天体が揺らぐはずがないであろうに。  言外に告げた真実は絶対だろう。そもそれすら分からぬというのなら、少女の愛とはよくよく愚かな独りよがりと断じたろうが。  意を決した瞳に、逃避も狂気もない。思いのほか澄んだ目で夜行の顔を見上げていた。 「存じております……太極に歯向かうことも、波旬とやらの巨大さも、それに抗することのできぬ私自身も総て等しく承知の上で、私も行くと言ってるのです」 「恐らく、いえ十中八九、私自身の肉体はその激突に耐えられぬでしょう。世界と世界の鬩ぎあい、蟻が一匹潰れたところで大勢に如何なる影響もございません」 「消し飛ばされ、知らず失せているのが関の山。太極の隅にでもひっかかれば、それさえ幸運だと呼ばれるものではないのかと」 「で、あろうな。ならば何故? 地を這う蟻に過ぎぬおまえが、どうしてわざわざ共に来る。舞台が違う、階層が違う、おまえの戦は終わっているのだ」 「まさか、その選択もまた、私を愛するゆえとでも?」 「はい」  だから、一切の躊躇もなく肯定したその事実に……夜行は僅かながらも感心した。  なるほど、なるほど。愛とはよくよく厄介で、存外大した感情だと。  真実を知り、己が卑小と卑俗さを知り、されど不退転を選ばせるなら、ああ確かにこれはそういう感情なのだと理解するには十分だった。 「御門龍水は夜行様のことを愛しており、許婚であることをこの上ない幸福であると感じています」 「これは母刀自殿の命ゆえではなく、私自身の意志なのです。死ねと命じられれば死にますし、使い捨てられても本望ですし、如何な扱いを受けようと恨むことなど致しません」 「ですから、共に行くことだけは譲れないのです」 「これを違えた瞬間に、私は御門龍水では在れませんから」  硬く握り締めた手は震えているし、自らの非力さに唇を噛み締めて耐えている。  そこにあるのは生きたいという感情ではなく──何としてでも、あなたの役に立ちたいという強烈な渇望だった。  天下最高の〈益荒男〉《おとこ》が、神に挑む一助足らん。その願いが届かぬならば、せめてその戦いを見届けてでも傍にいよう。  信じている。信じている。信じている──あなたは波旬に負けなどしない。  普段においてとりわけ目立つもののない龍水の感情は、このような状態において異常な領域において純度を発していた。  鍛え上げられた、ということなのだろう。目立つものはなかったとしても、御門龍水とてあの東征を最前線で生き延びた剛の者。成長や覚醒に至る条件は十分であり、何か天啓を得たとしても不思議ではない。  ──蓋が開きかけていると、夜行は総身で感じた。  足手まといにはならない域まで、あとほんの一押しで到達する。それほどまでに、龍水が達しかけていることを確信した。  その事実に思わず笑い、喉の奥で聞こえぬように転がした。 「相分かった。それだけの覚悟とは、どうやらこちらが思いの多寡を測り損ねておったようだ」 「来るななどと無粋な言葉はもう使わんよ。おまえの好きにするがいい」 「──はいっ、好きにさせていただきます!」 「ああ」  役に立つ可能性がある。ひょっとすれば決戦の最中に化けるかもしれない。そう、だからこそ── 「だがな──私はおまえは要らんのだ」  こつん、と軽い音と共に指先を龍水の額に当てた。 「あ────」  瞬間、小さな身体が意識を失い傾いでいく。地に落ちる前に抱きとめられ、そのまま成す術なく龍水は瞳を閉じた。  眠らせた夜行に罪悪感も愛情もない。ただ単に、思ったのは簡潔極まる勝手な信条。  おまえは要らぬ、ここで寝ていろ。 「私は、私のみを携えて、この手でアレに〈見〉《まみ》えてみせる。思慕、献身、女の情も結構なのだがもはやそれら総じて不要なのだよ」 「おまえ一人増えたところで、どうともならぬわ。易々吹き消されるのが落ちというもの。それでも来るというのなら、好きにせよ、私もそうさせてもらったからな」 「そんな余分を抱えることなど、そも摩多羅夜行には似合わぬだろう」 「──なあ、大獄。戦場に立つ女ほど場違いなものはあるまいなぁ」  くぐもった笑いを噛み殺しながら、取り出した数枚の紙片を指でなぞり、字を綴る。  それはこの場にいない者達、それぞれにあつらえた式の手紙。龍水の言葉と、自らの天眼から練り出した指摘と忠告を記していく。  それぞれの真実と役割を確かに文へ綴り終え、鳥の形に変化させそのまま次元を隔てた空へと放った。 「──行け」  これで義理は果たしたろうと、眠る龍水に呟きを漏らす。  夜行なりに許婚へ示した感謝はこれにて終わり。ここから先は、一人の男が座へと挑む挑戦の時だ。  胡坐をかき、手に印を結んだまま、開眼。  呼気ゆるやかに意志を整え、自らが静かに大地の鼓動を感じていく……特異点より常に感じる、闇そのものの下劣な波動に。  地の獄の獄──岩盤地層貫いた先、超深奥の座に住まう存在へと己が位相を合わせていく。 「他力になど頼らぬ。己が道を完遂するのは、己が矜持に他ならんのだ。それ以外の一切合財、認めぬ、許せぬ、受け取れぬ」  ゆえにいざ、〈穴〉《てん》の〈底〉《はて》まで辿り着こう。  天地の閾を掘削し、波旬へ至る道筋を〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》が解き明かそう。 「特異点に住まうもの……見せてもらおうではないか」 「今こそ、我が太極にて凌駕せん」  覆滅すべき邪性の根源照らさんと、額の眼光が真核へ墜ちる過程を看破した。  そして、特異点へと夜行の身体が潜っていく。  魂を同調させ、より深く、より強大な存在へと自らの存在を誘導し、奥へ奥へと自らを運ぶ。  肌から感じる感覚は、ここがまさに無色透明の空白地帯であるということ。踏み入った夜行に対して何一つ、僅かとして影響を及ぼさない無窮の闇。  これはまさに、極限まで透き通った水のようなものだろう。もしくは徹底的に清潔さを保った無菌の箱か。人間の考え付く『無』を体現しながら、同時に如何なる様にも発展する多様性すら有している。  これは、果たして底があるのか? 正気の者ならそう思わずにいられぬ光景。大海原に投げ出された人間が海の広大さに恐怖を覚えるかのように、ここもまた、存在するだけで生半可な意志なら拡散する。  どこまでも続く変哲のない空間。薬にも毒にもならず、ただ在り続ける無色の太極。ひたすら巨大でありながら自己主張を行なわないものは、見る者の恐れを掻き立てるかのようだ。  だからこそ、夜行は思う。ここは神格にのみ許された世界なのだと。  常人の精神構造であればこの透明さに耐え切れない。大陸を沈没させるほどの真水に向かい、砂糖を一粒落としてみるようなものだ。当然、砂糖は溶かされ、水に甘味もつかぬだろう。  だが、それはあくまで凡夫の都合。ある一線を越えた場合、この場はまさに新世界の芽へ転身する。  即ち──太極の保有。現世界、丸ごと塗り潰すほどの波動を得た者に限り、この空にて活動を許され、また新たな〈理〉《ことわり》を生み出すことができるのだ。  されど色は一色のみ。神は両雄並び立てぬ。求道者ならばいざ知らず、覇道を持つなら、先住者を滅殺せねば存在できない。  夜行がここへ到達できたのも、太極有する求道であり、同時に覇道にあらぬからという理屈だった。  自らの外殻をかつてないほど強固に編み上げ、さらに深みへ沈み行く。自己の理を保ち続け、やがて、行き着いた先に──  ──瞬間、旧世界の〈残照〉《ほうそく》が摩多羅夜行を歓迎した。 「これは──」  心安らぎ穏やかなりし── 否、〈己〉《 、》〈が〉《 、》〈己〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈確〉《 、》〈か〉《 、》〈な〉《 、》〈自〉《 、》〈負〉《 、》〈が〉《 、》〈抜〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》。  欲などない。夢などない。ただ生き、ただ満ち、ただ死ねばいい。  よくぞ来た、これが救いだと唸りを上げる一つの渇望。それは旧き神々の祈りであり、かつて世界を席巻した太極の姿だった。 「そういう仕組みか、理解したぞ。これが座に居た者の達した〈深度〉《たかみ》」 「いまや擦り切れ潰された、太極の残滓というわけだな」  あるいは標本、または勲章のようなものだろうか。  覇道の流出により代替わりし続ける在り方は、それ即ち〈次〉《 、》〈代〉《 、》〈の〉《 、》〈世〉《 、》〈界〉《 、》〈が〉《 、》〈強〉《 、》〈大〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》という構図でもある。  敗者が勝者に従属するのは古今東西、一貫して常に不変。よってかつての法則はそういう形として残り、新たな神の扱う力、その一端へと墜ちるのだ。 「面白い」  ゆえに、この法則を凌駕せねば今代の座には太刀打ちできない。  身を打ち据え、取り込もうとする太古の覇道。それを前に夜行は自らの純度を高め、口元に愉悦の笑みを浮かべた。  この場を満たす〈理〉《ことわり》の在処……それら如何なる渇望によって編まれたものか、己を保ちながら解析していく。  旧き神の正体を暴き立てていくのだ。 「まず、強く感じた想いは『悲嘆』」 「退廃の世に産まれ、生まれ持った罪業を疎ましく思った。あるがまま悪徳を振るうというなら、よかろう、私が人を救済する。それがこの者の起源である」 「何故奪い、何故殺し、何故憎む。ああ、なんと清廉なりし潔癖極まる感性よ。世の在り方に異を唱える己自身、それすらもまた罪深いと感じていたとは」 「理想郷を築きたかった」 「罪に溢れた〈地獄〉《せかい》を厭い、罪無き〈天国〉《せかい》を欲したのだな。人の原罪を消しさることで」  果てに創造した太極を一言で表すなら、それはまさに理想世界だ。  感情、発生、過程、未来までもが完全に管理、掌握された社会構造。誰もが抱くはずの〈原罪〉《よくぼう》を抜き取られ、日々を完全完璧に悩みもなく、苦しみもなく、永劫穏やかに続けていく。  飼い慣らされた家畜の群れであるかの如く…… 「罪深き世を救済したい」  その渇望による結果が、夜行に吹き付けている波動の正体だ。  清らかであれ。罪を犯すな。我欲を捨てろ、正答に己が総てを委ねるがいいと。訴えてくる強制的な干渉は、摩多羅夜行の原罪を消し飛ばそうと目論んでいた。  野心や欲望のない人間で構成された、理想的な管理形態。  総ての民に神の思惑が行き届き、悪を犯さず、定められた善行を延々続けて生きていく純白の箱庭。  罪業の駆逐された、穢れ無き世界。 「なるほど、清浄にして神聖。確かに在り方として見栄えがよく、高度な域で整っていると言えるだろう」 「共同体という形としては最上だな。群生を念頭においたならば、個ではなく和を徹底して尊重した姿は理想形に違いない」 「民草の管理を保つためには、どれも均等にしておくべきだ。合理的よな。競争を駆逐し、平等に権利を与えれば、なるほどこうなる」 「だが、しかし」  反面、欠点もまた存在するのは自明の理だ。  夜行にも、次第に見えてきた。この太極が有する裏面、完璧十全であるがゆえの脆弱性が。 「この神格は〈潔〉《 、》〈す〉《 、》〈ぎ〉《 、》〈る〉《 、》」  考え方があまりに論理的であり、その傾向が強すぎる。人が持つ誠実さを具現したような存在のため、醜く足掻くということや、譲りはしないと猛る想いがまるでなかった。  己が否定されたなら──そうか、私は間違っていた。ならば消えよう、後は任せた。  思考としてはそんなところか。正しいゆえに納得し、敗北さえもあっさり認め潰されようが良しとする。引き際を弁え過ぎているのだ。  まるで万象、電子で出来た機械の理。 「己が新世界に討滅され、その座を手放すことにさえ欠片も拘泥していない。聖者の如き振る舞いだが……それは同時に、無責任と呼ぶべきものだ」 「何が何でも神格たる責を負い、導こうとする気概が見えん。何故なら、その行いは罪深い。美しくない。一筋の傷も許さんがために、傷一つなく舞台を降りたか」 「それに何より、我欲なくば俗世に変化は訪れんよ。悪逆非道、混沌、破壊、結構なことではないか」 「迎合できぬ我執こそ、自他を分かつ境界ゆえに」  罪を犯さず、罪を想起しない世界は、自己と他者を区別しうる〈閾〉《しきい》がない。  判を押したように同一の存在しか住めないなら、それは既に人間ではなく、ただの箱庭に過ぎないから。 「人が罪を犯すという自然な姿を認めなかった……それこそがこの者の特徴であり、また欠点でもある」  静かな呟きには理解が溢れ、原罪を奪われながらも夜行は微笑む。彼にはもはや、この太極に抗する法が見えていた。  要は、何事も分かりやすくしてやるということ。誰も見たことも聞いたこともない独創というものがあるとして、それは何も分からぬということに他ならない。  なぜなら誰も知らないのだから。ゆえに、たとえ無理矢理だろうと、既存の型に嵌めてしまえば〈属性〉《かたち》を帯びる。理解できるものに変質するのだ。  陰陽道の基本にして、森羅万象に通じる真理。この法理を克服したいと願うなら──何か別の〈咒〉《な》で呼べばいい。  ゆえに── 「この〈座〉《かみ》、この〈太極〉《ことわり》に〈咒〉《な》を付けるなら」 「明けの明星──天道悲想天」 「〈真〉《まこと》の姿、ここに得たり」  〈咒〉《な》に縛られたその瞬間、無形であった法則が型を帯びて安定を見せる。  それは変わらず強大であり、今の夜行を遥か凌駕している波動なれども、恐れはしない。恐れる理由が消え去ったから。  不鮮明、不透明であるがゆえに物事は驚異を放つのだ。呼び名を定め、姿を象ってしまえば……何の事はない、〈眺〉《 、》〈め〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》。  神の領域を観賞しながら、原罪の消去を脱した事実に確かな高揚を感じる。行ける、これが特異点の潜行方法なのだと、この時夜行は静かに確信した。  確かな手応えと共に、再び底へ向けて落ちて行く。第一の旧神を超え、ようやくその領域を後にした。  そう感じた、刹那──  ──何故か、〈以〉《 、》〈前〉《 、》〈同〉《 、》〈じ〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈を〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈感〉《 、》〈覚〉《 、》〈に〉《 、》〈襲〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈た〉《 、》。 「これは……〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》?」  そうだ、確か同じ台詞を吐いた。かつて、いつか、同じくこの場へ到達し、同じくこの感覚に襲われて、同じ感想を抱き、同じ呟きを漏らしたまったく同じ記憶を何度も何度も何度も何度も思い出す。  まるで、己はこれを既に知っていることであるかのように。  思考を蝕む水銀の色をした波動。〈今〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈時〉《 、》〈を〉《 、》〈思〉《 、》〈い〉《 、》〈出〉《 、》〈す〉《 、》という感動感激に属する感性を駆逐していく、この現象は── 「既知感、とでも呼ぶべきよな」  ああ、その呟きさえも何万何億何兆回と繰り返したか。  目新しさのない、生を飽き果てるほど網羅したかのような不快感。いや、老衰した者特有の億劫な諦観が、夜行の脳を蛇の如く毒していく。 「まず、強く感じた想いは『諦観』」 「飽いている。諦めている。疎ましい、煩わしいと感じながら悠久の時をひた流離う古びた影。ゆえに己が安らかな死を願う。それがこの者の起源である」 「積層した再会と別離の山は、未知の悉くを喰らい潰した。もうよい。十分だ。己は生を謳歌した。だから、なあ、女神の腕で逝かせておくれ。知らぬものなど唯一それしか残っておらん」 「まだ終われぬ、美しき〈終焉〉《せつな》をよこせ」 「く、くく……はははは。なるほど、なるほど、そういうことか。理解したぞ。得心した」 「この者こそが、〈御〉《 、》〈身〉《 、》〈ら〉《 、》〈の〉《 、》〈親〉《 、》というわけか」  終わらず疾走し続ける生涯と、ゆえにこそ至高の幕引きを望むという二律背反。  背中合わせの矛盾にして、まったく根源を同じにする対の渇望。かつて自らが相対していた者の影を確認し、その構図を知ったことに夜行は何ともいえぬ懐かしみにも似た感情を覚えた。  よって、それは。 「裏を返せば〈納〉《 、》〈得〉《 、》〈せ〉《 、》〈ず〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈死〉《 、》〈ね〉《 、》〈ぬ〉《 、》ということ」  ならばこそ繰り返す。願い求めた終わり以外を許容せず、その他の終焉を妥協をせぬまま拒絶したのか。  結果、幾度も世界はやり直される。勝者は再び擦り切れた勝利を繰り返し、敗者は惨めに無限の苦痛を味わうのだ。  そして、世の仕組みに到達してもまた地獄だ。今現在、夜行を襲っているこの既知感に苛まされる。  何をやっても満たされず、永遠にこの感覚に翻弄されて、満足することなく定められた死に沈む。  完成された世界。 「嘆かんばかりの愚かさと、稚児の如き願いよな。だが私としてはこの太極、それほど嫌いなものではないぞ」 「何より、これは素晴らしき完成度だ。役割の振り分けと、適度に衆愚へ与えられた多様性に結末、そして行き詰った際の回帰。世を存続させることのみ考えるならば、これは究極と呼べるものではなかろうか」 「座に寿命を仮定するならば、これが頂点。最も長寿な渇望であろう」  実際、夜行の推察は正しい。かつてこの深さで君臨していた神格は、それこそ星の数ほどの回帰を繰り返し、長きに渡り己が〈理〉《ことわり》を流出してきたのだ。  それは一種の自浄化であり、蛇の脱皮にも似ている。限界まで来たならば皮を脱ぎ、また新しく始めればいい。  仮に天敵が発生したとしても、気に入らねば討たれる前にやり直してしまえばよいのだ。まさに完全。それこそ、拘りがなければ永劫続いていたはずの願いだろうが── 「しかし……いや勿体無いがな。この神格は死にたがっている」 「新たな太極との邂逅、別の神格に心奪われたというわけか。ああ、それでは仕舞いよな。永劫に続く己が世界に、自ら終止符を定めたのだから」  まるで茶番だ。望ましい代替わりを行なうべく、今度は無限の試みが始まる。 「唯一の既知が愛おしいために、幾度となく既知の苦痛に蝕まれる。されど唯一の既知と出会うがために、道筋は定まり、結末が変えづらいものとなっていく」 「これもまた、まさしく二律背反か」  安定と崩壊。生への失望と死滅の意義。両立する矛盾に彩られていた太極だが、だからこそ、この渇望は最も長く続いたのかもしれない。  人の意志は割り切れない。単色に染まりきることのできない曖昧さこそ、この神が人であり神でもあったことの証明だから。  そこに敬意と憐憫を宿し──凛と自らの声に力を篭めた。言霊にて銘を刻む。 「この〈座〉《かみ》、この〈太極〉《ことわり》に〈咒〉《な》を付けるなら」 「水銀の蛇──永劫回帰」 「〈真〉《まこと》の姿、ここに得たり」  波動克服し、既知感を踏破する。  有らぬことを思い出したりはしない。確かな未知の感触と共に、永劫の〈理〉《ことわり》に別れを告げた。  瞬間、地続きであるかのように次の太極が訪れる。 「なんと、これほど近いとは……」  永劫回帰を抜け、夜行が潜った深さはほんの僅かしかない。それこそ一歩踏み出した途端、この法則に捕らえられた。  感じる波動の強さも、ほとんど同位だ。性質こそ違えど絶対値でみればほぼ同数。自然発生したとは思えぬほど、先の太極と釣り合う神威だ。  目映い黄金の色をした力の波を浴びるたび、〈死〉《 、》〈が〉《 、》〈喪〉《 、》〈失〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈く〉《 、》のを実感する。  不老不死、不死身という名の幻想。終焉を否定するかのような、真逆の性質を誇るそれは── 「ふふ、そういうことか。これが即ち龍明殿の語った概念。対の極みと称されるもの」 「宿主を食い殺す増殖細胞──自滅因子」  水銀の蛇を破壊するためにのみ存在する、不滅の黄金が猛りを増す。  その荒々しさに攻撃性、共に先の二柱を超越している。憎むのでも排斥するでもなく、まるで愛するがゆえに壊さんと喝采しているかのようだった。 「まず、強く感じた想いは『礼賛』」 「祝福したいと願い焦がれ、愛してやりたいと切に思う。己に届かぬ諸々の生、等しく見事と褒め称えたかった。それがこの者の起源である」 「だがしかし──ああなぜだ、なぜ耐えられぬ。抱擁どころか、柔肌を撫でただけでなぜ砕ける。なんたる無情だ、森羅万象、この世は総じて繊細にすぎる。この者、あまりに強すぎたから」 「死を想い、死を忘れるな」 「ならばこそ、愛でるためにまずは壊そう。そして壊れようとも、存在してくれ、まだ続いてくれと希った。断崖の果てを創造したか」  戦い、殺し合い、しかし甦り、また戦っては殺し合う。  死を排除された世界に戦争英雄を詰め込んで、飽きることなく、果てもなく、終わりなき無限の争いを続ける様はまさに地獄。死者の国に相応しい。 「壊せ、我は総てを愛している」 「雄々しいな、なんと眩しい……呑まれそうだぞ」  苛烈にして鮮烈。さあ頭を垂れよと、王の威厳に波動が唸る。  流動する力の波は、まるで獅子の爪牙か〈鬣〉《たてがみ》だ。荒れ狂う暴力的なまでの洗礼は、しかしこれで壊れるなという試しの刃に感じさせる。 「死は別離ではなく、終焉にならず、ただの通過点に過ぎない。いや、そうであってほしい。だからこその渇望か」 「歪だが、これもまた愛と呼ばれる感情よな。個人間の情愛ではなく、遥か高みに腰掛けながら所有物を愛玩している、支配者の愛」 「ゆえに、部下への恩恵という点においてその効果が絶大だ。これらは主従併せて一つの宇宙。主は部下を礼賛し、破壊の愛が彼らの波動を強くする」 「悪鬼羅刹の極楽浄土。認めよう、これぞ覇王の法則なり」  先の神格とは違い、双方向の面が非常に大きい。従属した配下の格がそのまま主の強さとなり、また肥大した主の強さが従者の格を引き上げる。  共に死を愛して抱き、同じ地平を駆け抜けようぞ。滾る王者は総ての部下を愛している。  先の二柱が個人主義者の性質が強かった分、相互関係をより大きく感じるのだろう。『覇者』の才覚が頭三つは飛びぬけているのだ。この法則に同調した者達にとっては、これ以上頼もしく、また誇らしい世界はないだろう。  まさに魔軍の将。久雅竜胆も統率者として優秀だが、これを前には見劣りすると言わざるを得ない。  彼女が黄金の欠片と同調したのは、恐らくそういうことではなかろうか? 「……懐かしい顔ぶれも、またちらほらと」  垣間見えた者達の影に、夜行は小さく苦笑を漏らす。  ああなるほど、やはりそうか。見知った顔がよぎったことに複雑な情を覚えつつ、別の視点で太極に視線を戻す。 「しかしまた、同時に陥穽も存在する。確かに将としての非の打ち所なき傑物だが……」 「この神格、死を愛ですぎたな」  愛と破壊が切り離せず、それでも愛でたいと思ったために、破綻する。  死を想え、かつてこの太極は口にした。それを座右の銘として、出会う者らに説いてみせたが──やはりと言うか、仇となるのもその矜持。 「部下の死に様を愛し、己が死を待ち望み、死と向き合って意識しすぎた。ならばこそ、生の価値が抜け落ちておる」 「私に説かれるまでもなく、誰かに言われたはずであろうなぁ。生きておるものを穢すなと。生の意義を、命の重みを、おまえは軽く見ておるはずと啖呵を切られておったわけか」 「〈死に様〉《おわり》よければ総てよし。ああ、それで万事するりと罷り通れば、この世は幾らか単純なのだが……そうはいかんよ」  未来とは、最期の瞬間だけではない。明日を生きるということは、死装束に思いを馳せることではないのだ。  精神面な能動性なら最も優れた者ながら、あまりに生産性が欠けている。光が不滅で途切れぬがため、新たな息吹が生まれても既存の光に喰われてしまう。それがこの太極の有する欠点だろう。  荒れた荒野に花は咲かない……争い続ける地平の先に、命の鼓動は鳴らぬのだから。 「それに、これはあくまで太極ではなく〈対〉《 、》〈極〉《 、》だ。座から水銀を駆逐する、それが役目で、それこそ己が存在理由。悲しいかな、座を奪うことは決して出来ぬ」 「なぜなら、宿主を殺す宿命を帯びながら、宿主もろとも死滅するのが自滅の因子。何度やろうと結果は変わらず、相討ち討たれて共倒れよ」 「どれほど増殖しようとも、新世界の法にはなれん」  そう考えてみれば、この神格はまさに戦争という現象の具現なのかもしれない。  人の営みから生まれながら、決してそれのみでは存在できない〈闘争〉《いくさ》の象徴。鮮烈な輝きで人々を惹きつけながら、もし手を出せば破滅の炎で残らず焼かれる黄金光。  人類が存続する限り在り続ける争いの歴史。断崖の果てで戦い続ける、阿修羅神の如きものだった。 「この〈座〉《かみ》、この〈太極〉《ことわり》に〈咒〉《な》を付けるなら」 「黄金の獣──修羅道至高天」 「〈真〉《まこと》の姿、ここに得たり」  未だ我が死、御身へ譲るわけにはいかず──  己が魂、見縊るなとの一念こめて、太極の影響を克服する。  これで通過した太極の残滓は三つ。  残りは幾つか、どれほどあるのか。そのことに恐れと興味を感じながら、夜行は再び深みへ向かい下りて行く。  より深淵へ。遥かな底へ。奈落に落ちた罪人の如く、次はどのような波動が待ち受けているかと身構えた。 「──これは」  だからこそ、自分を迎えた〈祝〉《 、》〈福〉《 、》に夜行は思わず感嘆した。  まったく己を害さない安らぎの波動。暖かく、優しさに溢れた太極に放心しながら心奪われたのだ。 「美しい……」  あまりに陳腐な一言しか漏れず、そして……その言葉こそ本心から出た真の感情だった。  見惚れる、などというものではないだろう。黄金のような強き光ではなく、抱きしめ、包み込むかのような淡く労わりに満ちた輝き。  感動など数えるほどしかしたことのない夜行だが、それでもこの太極には心揺さぶられるものがあった。  ただただ、胸に迫るほど美しく──尊い。どの太極も進入した瞬間、我に従えという攻撃的な傲慢を感じたものだが、これにはその手の暴力性が一切ない。  修羅道が闘争の極致なら、これは安寧の極致だろう。夜行はいま、この太極に歓迎されている。自分を変えようとしないまま、世界は一つの恩恵を与えようとした。  それは、輪廻と呼べる概念。生を全うし、死を迎えた暁に、そこから再び新たな生を歩むための──  祝福を与えるそれは── 「く、くくく……まったく、酷なことを言ってくれるものだ。なあ天魔よ、なあ〈夜都賀波岐〉《 やつかはぎ》よ英雄どもよ。なんというものと比べてくれる?」 「至上の輝きを引っ張り出して、他の〈理〉《ことわり》と並べるな。ひどいものだ、敵うなどと口が裂けても吹聴できぬわ」 「──総て、塵か石くれにしか見えぬだろうが」  くぐもった笑いを喉奥で転がす。圧倒的だ、比べるべくもない。いや、そのような行いをされてはどの神格もこぞって邪神だ。それほどまでに、この太極は優しすぎるから。  夜行はようやく、彼ら化外の民があれほど憤激していたのかを理解した。言葉でも理屈でもない、心の底から、心情として受け止められたのだ。  口々に叫び、よくも奪ったと嘆き、守りたかったと悔いていた誇らしい黄昏。それがいま、己が前に広がっているのだと信じる心にいやはない。  己に自尊と自負のある夜行もまた、素直にこの太極へ敬意を持った。  それほどまでに、この渇望はただ優しくも、美しかった。 「まず、強く感じた想いは『接触』」 「触れれば首を断つ身であり、ゆえに白痴のまま罰当たりとして生を終えた。その生涯より転じた渇望。それがこの者の起源である」 「触れてあげたい。撫でてあげたい。ただそれだけで自分は永劫幸福だから。誰も、彼も、遍く者ら」 「総てを抱きしめてやりたい」 「感服した。ああ、これが私たちに足らぬというのか……」  自己愛にのみ傾倒するな、隣人を愛し慈しめ。竜胆や化外の主張した言葉を最初は誰もが切って捨てたが、確かにこれを見せれば意見も変わろう。  夜行にとっても、この覇道は非常に衝撃的なものだった。  他の神格は言ってしまえば、今の世に生きる者とそうそう変わらぬと思っていたのだ。それぞれ異なる願いを抱いていても、彼らがやっていることは根の部分だと一貫して変わらない。  我の考える最高に、〈他人〉《おまえら》平伏し従うがいい──と、つまりはそういうことだった。  要するに、神格とは自愛の気を多分に含んでいるのが常なのだ。己を愛し、自他の関係を確立することで、そこに対し折り合いなり譲れぬ渇望を生じるのが人というもの。  そして、渇望が肥大した存在が太極座を握る資格を得るのなら……神とは神と呼ばれる時点で、己が〈自己愛〉《ほうそく》で他を統べるという確固たる意志が必要だ。  それは特異点をものとし、流出まで達したものなら有して然るべき傲慢さ。頂点に達するほどの狂的な執念なくば、そも世界を個我で染め上げるなど不可能なのだ。  それでこそ神格。それでこそ座の器。  しかし、この渇望はまったく違う。本質的に支配や掌握という行動からかけ離れている。 「総ての触れ合いよ、祝福あれ……」 「慈愛に満ちた救いの抱擁。抱きとめるだけで、また己自身も救われる。美しくもなんと清らかな感性よ」  自らの願い求めた世界を形にしたところで、それらは当然、自らに還元される部分を持つ。生み出した神格にとって都合のいい世界に染まるのだから、まず〈自身〉《かみ》に最も適したカタチへ変わるのは最初から決まっていよう。  それは悲想天も、回帰も、修羅道ですら変わらない。太極の所有者、彼らの餓えや渇きを潤すべく覇道は常に流れていた。  だというのに、これは何だ? 抱きしめることで幸福を感じるという願い、他を幸せにすることで自分もまた救いを感じるのなら──それはつまり、非の打ち所がないということ。  この神格……いや、女か。彼女は今を生きる人々のために、そして共に幸せを追い求めるべく、新たな〈法則〉《ひかり》となったのだ。  感服するしかない。この摩多羅夜行にさえ純粋に敬意を覚えさせた。 「この輝きを見つけたために、水銀は死にたがったというわけか。ああ確かに、これなら次の座を譲り渡して本望だろう。熱を上げるのも無理はない」 「これ以上、愛情に満ちた太極は存在せんな」 「その分、争うことなど出来そうもないが……守護者を名乗る者もまた多かったろう。彼らのように」 「この世界では、いつか必ず幸福になれる。慈愛の願いが途絶えぬ限り、力を貸そうと立つ存在は後を絶たなかったはずだった」  幸せになって、幸せになって。大丈夫だよ、私が抱きしめているからきっとあなたは立っていける。未来を、光から目をそらさないで。  今の人生がどれだけ理不尽で辛くても、いつかは必ず幸せな明日が待っているから──  その想いは座を奪われ、塗り潰されても変わらなかった。天魔と呼ばれる存在になってまで生き残った原動力は、まさしくこの神に向ける愛情から生じていたのか。  まさに女神だ。死してなお信奉者の安らぎで在る様は、そうと呼ぶに相応しい。  美しい。素晴らしい。ああ、だからこそ── 「だが、やはりその愛が首を絞めた」 「抱きしめるのも結構だが、他の神格を排斥せず、三柱も抱えておったとは……それはあまりに無謀というものだろう。どれほど至高の器であろうと、やがて己が限界に触れてしまう」 「この太極には、放逐という考えが存在せぬのだな」  誰一人見捨てず抱きしめたがるため、危険な因子さえ攻撃しない。  水銀の蛇に黄金の獣、あと一柱をも抱え続けたのがいい例だ。あれもこれもどれもそれも……膨大な質量を誇る神々、消すこともなく組み込めばやがて器が飽和してしまう。  座そのものが少しずつ同位の太極に圧迫されていたのだろう。軋む音、決壊の秒読みが耳に届いてくるようだ。  それはどれだけ黄昏が覇道共存の特性を持っていたとしても変わらない。単純にして残酷な、容量の話。  さらに──徹底した非暴力主義と言えば聞こえはよいが、笑顔で手を差し伸べれば万人総てが感謝するとも限らない。中には当然、手を振り払う恩知らずや、こちらの善意を否定する狂人もまた存在しよう。  それこそ、我欲に溢れたがため、女神の抹消さえ厭わぬ下衆もまた生まれることになる。  生まれてこなくともいい命などない、と──この慈愛に満ちた女神は笑顔で口にするだろうが。  夜行はそこに異を唱える。今の世こそその結果、〈生〉《 、》〈ま〉《 、》〈れ〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈ら〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈最〉《 、》〈悪〉《 、》〈の〉《 、》〈屑〉《 、》もまた、確かにこの世へ生まれてしまうのだ。  彼女にとって唯一最大の誤算は、そのような屑が己を超える質量の魂と想念を有していたこと。それに尽きる。 「愛に生き、幸福を与え、否定を出来ぬがために──救いのない真の邪悪に討たれたか」 「なるほど、〈聖女〉《おんな》よな。誰よりも愛深いがゆえ、尊くも、儚い」  ──黙祷を捧げて、心から最大の弔意をここに示す。  知らぬ理を見せてもらったこと。過去の楽園を一時でも感じさせてもらったことに感謝をこめて、名残惜しくも言霊を発した。 「この〈座〉《かみ》、この〈太極〉《ことわり》に〈咒〉《な》を付けるなら」 「黄昏の女神──輪廻転生」 「〈真〉《まこと》の姿、ここに得たり」  その瞬間、夜行を覆い続けていた黄昏の温もりが霧散した。  女神の愛は遥か過去の残滓と薄れ、再び物言わぬ太古の標本と化したのだ。 「……あれを壊そうと思ったか」  その事実を前に夜行は思わず表情を顰める。正直、自分は先の覇道がこの世を統べるものであろうと構わないと……半ば本気で感じたゆえに。  自らに害をもたらさず、また薬になれども毒にはならない抱擁。いずれ飽和が目に見えてはいるものの、特に切迫していないならあれは出来る限り続けていい太極だ。  自由を制限されるわけでもなく、好きに生きることができ、しかも来世まで保障してくれる。ああ、まったくもって不満はない。あの法則に在った生者としてみれば、それこそ欠点を探すほうが難しいだろう。  だというのに、世は塗り代わり今の姿だ。能動的に黄昏をわざわざ砕いた者がいるということ。そのような思想に平然と至った者がいた事実に、言い知れぬ悪寒と嫌悪を感じている。  波旬。出会った者らが口を揃えて下種と、屑だと罵る今代の〈神格〉《そら》。  それが存在する彼方を見据えて、緩んだ気概を引き締める。毛ほども油断してはならない。この果てにいる者はそういう存在だと、天眼と記憶が警告していた。  かつて感じた汚濁。あのおぞましさを思い返しながら、夜行は極楽を通過して下層の地獄へ踏み入った。 「ああ……」  そして、身を縛り続けようとする時間停滞の縛鎖に── 「……今となっては理解できるぞ。御身の吼えた、その憤激が」  無念──激痛──悲哀──咆哮。  そこに理解と哀悼の意を示すことへ、何の憂いがあるものか。  憤怒に支配されても守り抜こうとした行いさえ、今や納得するしかない。敗残の蜘蛛と落ち延びた事実を、夜行はかつてとは違う複雑な感情と共に眺めている。  多くを語ることはないだろう。彼の──否、彼らの叫びは残らず益荒男たちの胸に刻まれているから。 「まず、強く感じた想いは『悲憤』」 「愛すべき一瞬を永遠に味わいたい。刹那に過ぎ去る美麗な景色よ、どうか美しいまま止まっておくれ。それがこの者の起源である」 「されど、想いは穢され砕かれた。踏み躙られて、討ち捨てられて抹消された。許せぬ、認めぬ、ゆえ黄昏の守護者は堕天する。天地焼き尽くさんばかりの憎悪を抱いて」 「我らの黄昏は奪わせぬ」 「掻き集めたそれが残照と知りながら、守り抜こうとしたのだな……かつての友誼と手を合わせて」 「──夜刀殿よ」  悲劇だ。それ以外に形容する言葉がない。  この神格……いや、夜刀は己が世界の行き着く姿を知っていた。願い叶った光景が無間の地獄と悟ったために、誇りを持って座を譲り黄昏の礎となったのだ。  信奉した女神を守り抜くべく、天の資格を放棄したまま処刑の刃と在り続けた。  なんと悲しく──なんと強い。 「時よ止まれ──おまえは美しい」  この言葉は、まさしく愛の証明だった。  永遠に女神へ捧げた一人の男の鎮魂歌。胸を打つ、ああ輝かしい。それだけに、彼らは雄々しく強かった。 「今なら分かるぞ。この渇望は〈防〉《 、》〈衛〉《 、》〈向〉《 、》〈き〉《 、》〈だ〉《 、》」 「人の視点で見れば外敵を停止させ、排除するという地獄だが……夜刀自身、あるいは世界という視点で見ればその真逆よ」 「美麗な刹那をこれ以上失わぬためにある願い。堰き止め、留めることで、〈守〉《 、》〈り〉《 、》〈抜〉《 、》〈く〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》〈在〉《 、》〈る〉《 、》〈太〉《 、》〈極〉《 、》」 「新世界へ捧げた超越の物語か……」  日常を、友を、陽だまりを、愛を……壊れぬよう守り抜くべく奮起した輝かしい戦いの記憶。それこそがこの太極を生み出した原風景。  世の理を超越し、女神の新世界へ捧げた英雄譚だった。  誇り高く美しい、男と女の物語。  だが、その想いも遥か昔日の夢であり── 「もとより、御身は我らのことなど端から眼中になかったわけだな。黄昏の消失と共に、天魔となる覚悟を決めたのだから」 「同調した者らを咄嗟に抱え、東の果てに陣取った。波旬の法を留めるため、悠久の時を耐えてきたこと……知っておるとも。忘れはせん」 「遺志を継ぐ、とは口が裂けても私は言わんが」 「無駄な足掻きではなかったこと、それだけは間違いなかろう」  それは他ならぬ夜行自身が、そしてこの場にいない知己の者らが証明している。  だから、これ以上の言葉は不要だった。今の世に生み出した確かな波紋の数々。そこに秘められた教訓を確かな一石と噛み締めて、言霊によりいざや型へと嵌めていく。  胸裏に刻もう。穢させない。 ──御身はまさしく無謬の光であったのだ。 「この〈座〉《かみ》、この〈太極〉《ことわり》に〈咒〉《な》を付けるなら」 「永遠の刹那──無間大紅蓮地獄」 「〈真〉《まこと》の姿、ここに得たり」  魂ごと縛り付けていた停滞の血涙より抜け出して、太極の影響を脱する。  今まで出会ってきたあらゆる神格と、そこに秘められた渇望の数々。純なる願いに彩られた世界の姿へ、夜行は小さくない畏敬の念を抱いた。 「見事。御身ら、違わず座に住まいし者」 「〈理〉《ことわり》を掌握するに相応しい、神格の覇道なり」  純粋な力量という点において、彼らは変わらず夜行の高みに存在している。  座を統べていた存在に対して思うのは、尊敬の一念だけだ。  異界に呑まれずくぐり抜けることができたものの、それは法則によって克服しただけに過ぎない。単純な力押しや、判りやすい質量で検分すればまだまだ夜行は神格に届かぬ部分を有していた。  それぞれに長所があり、短所がある願いの数々。神の築き上げた物語に微笑して、さらに下層へと潜っていく。  その先に在る者へ、あまりにおぞましい泥のような不快感を感じているが── 「──やはり行けぬか」  まるで弁を閉じたかのように、行くべき先が塞がっている。呼応する感覚は途切れず下にあるのだが、進入を拒むかのように奈落の闇が立ちはだかっていた。  感じる念はただ一つ──〈来〉《 、》〈る〉《 、》〈な〉《 、》。  どのような相手であろうと、知らぬ失せよと拒み遠ざける鎧の一念。自らの外殻のみに閉じこもり、それのみに安息を覚え、他を嫌悪する感情が滲み出ているかのようだ。  穢らわしい。反吐が出る。だがしかし、その波動さえ未だ木漏れ日のようなもの。かつて間近で感じたものに比べればまだ弱い。まだ清らかだ。  ここでついに行き詰まり、潜行できぬまま夜行はその場にて佇む。 「であろうな。〈私〉《 、》〈で〉《 、》〈は〉《 、》〈超〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈ぬ〉《 、》」  汚濁の波動を浴び続けながら、ただじっと、自分では道を開けぬ事実を悟り、息を潜めて時を待つ。  そう、古来より道とは抉じ開けるものではなく、〈切〉《 、》〈り〉《 、》〈拓〉《 、》〈く〉《 、》ものなのだ。  ゆえに摩多羅夜行では道なき闇に、行く先を作り出すことはできない。彼は壊し、殺す者。無形の世界を切断して神さえ断たんと吼えるのは……最初から彼の役目ではないから。  だからこそ──いま、この瞬間。 「いざ、断て!」  極点拡大の役目を負う者──次元空間ものみな総て、天嶮の刃で両断せんと無明の闇を切り裂いた。  それは蜃気楼に覆われて密度を落した間隙、万象切り裂く剣によって断ち切られた現象の結果である。  極点拡大、達成──薄く笑ったその刹那、一瞬の間に夜行の笑みが凍りつく。  眼下に広がる超深奥より噴出したのは、邪神から零れた汚泥の波濤。  急速に浮上してくる何者か。卵の殻が割れたかの如く、溜め込んだ〈邪性〉《なかみ》を垂れ流しに迫り来る濁流そのものを前に──強く歯を食いしばる。  いまこの瞬間、既に塗りつぶされそうになる〈黒〉《くろ》、〈暗〉《くろ》、〈闇〉《くろ》。  全身の毛穴が怖気立つ魔の到来に抉じ開けられた。 「来るか……」 「来るか、来るか来るか──来い!」  ──泥を撒き散らして上昇。  ──腐臭を充満させて強襲。  不快嫌悪忌避後悔に錯綜する思考回路へ叩き付ける邪の奔流、喉を焼く胃酸を堪えて、特異点を満たす波動に魂震わせて対抗する。  映りこむのは──蹲った〈木乃伊〉《みいら》か、醜悪な即身仏。  脳裏に走った映像に、かつて垣間見た三つの眼光が一際強く瞬いた。  この穢れた最悪の〈座〉《かみ》に。  躊躇なく、屑と断じられるこの〈太極〉《ことわり》に。  相応しき〈咒〉《な》を付けるなら──  その〈咒〉《な》は、その〈咒〉《な》は、正しくこれしか存在しない! 「第六天波旬── 大欲界天狗道! 」  型へ嵌めるべき〈咆哮〉《しゅ》が邪性に染まる座に轟き、そして── 「何だ。おまえ?」  紛うことなき愚劣な神と、ついに邂逅を果たした。  ある日、気が付いたときから不快だった。  何かが自分に触っている。常に離れることなくへばりついてなくならない。己以外は誰一人存在しないはずの空間にて、確かにそいつは自分以外の息吹を感じた。  鼓動などない──だが、脈打っている。  音などしない──だが、確実に触れられている。  気持ちが悪い。気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い。  そいつはただ、一人になりたかった。真実願いなどそれだけで、だからこそ想像を絶する域でそいつはそれだけを願い続けた。  外界から衝撃を加えなければ発動しない、猛毒の爆発物。誕生した瞬間から、かつてない桁外れの〈渇望〉《しつりょう》を有していたそれは、意志が生じた瞬間から常に接触の不快感に苛まされていた。  俺の〈孤独〉《へいおん》を穢すな、と言葉にすればそのようなものか。  身勝手で、稚児にさえ劣り、他の一切を顧みない渇望はその苛立ちによってゆっくりと鎌首を〈擡〉《もた》げ始める。  触れている。何が? どいつが? 潰さないといけない、おまえら決して俺に関わろうとするんじゃない。  本来なら直立することさえしなかったはずの存在は、不快感を消し去るために活動を始める。接触している何か──塵を消し去るために立ち上がった。  己に触れている、他人にかかずらう〈狂った〉《優しい》何者か。 「こいつだ──」  自分を〈抱きしめている〉《取り囲んでいる》巨大で〈神聖〉《邪魔》な何者かを。 「こいつが、俺に触れている──」  そいつは、ついに見つけたのだ。 「こいつさえ、居なければ」  己が蹲る大地の下に在る深奥、しかし決して辿り着けないものではない空間へとその存在は即座に潜行した。  鬱陶しくも絡みつく〈黄昏〉《薄幕》を破り捨てながら突き進み、一瞬で当代の座まで到達する。  そして、そこに住まう存在──目にきついほどの輝きを放つ〈女神〉《塵屑》と邂逅した。  この時初めて、この者は自分以外の他者を認識する。超重量を有していた彼の魂と世界に対し、多少劣るなれど初めて比較対象になりうる存在を眼にしたのだ。  抱きしめたい。だからどうか、あなたも幸せになってほしい。  何があろうとも傍にいるという慈愛の証。微笑みながら手を伸ばしてきた女神の愛による抱擁を── 「──滅尽滅相」  下劣畜生の戯言と断じ、彼女の慈悲を粉砕した。  破壊されたのは、彼女のみに成しえたという覇道神の共存機能。自分以外の何かを好んで住ませようとする感性を前に、ソレは感じた。  〈塵〉《たにん》を抱くのが好きなこいつは、奇怪で穢れて気持ちが悪い。  こんなものがいる限り、俺は永遠に一人になれない。  だから──だからと願った瞬間、その者を満たしていた自己愛はさらに激しく爆発する。  体躯から流れ出した自己愛、自己愛、自己愛の汚濁。瞬きの間に女神の座る〈太〉《 、》〈極〉《 、》〈座〉《 、》〈の〉《 、》〈み〉《 、》を残して特異点を漆黒の闇に染め上げた。  驚愕にたじろぐ黄昏が黒の渇望に引き裂かれるその寸前、三柱の神格が割って入る。いずれも黄昏に座を譲り、その治世を認め共存していた太極が怒りも顕わに立ちはだかった。  〈既知を司る蛇〉《知らない誰か》。  〈黄金に輝く獣〉《どうでもいいぞ》。  〈永遠を操る刹那〉《おまえら邪魔だ》。  塵が、塵が、塵が──塵が。 「ああ……消え失せろよ、塵屑ども。〈宇宙〉《ここ》には俺だけ在ればいい」  ──神域の闘争が始まった。  三対一の構図は、しかし通常の戦いとは違い、終始一が三を凌駕するという常軌を逸した結果にて続行されている。それは力量の差という要因もあれど、同時に最も忌避すべき行動を彼が先ほど行なったからに他ならない。  そう、黄昏の女神のみ覇道太極を抱きしめて、共に世界へ存在させることが可能なのだ。  それを潰されてしまった以上、彼ら三柱は皮肉にも共に喰い合いながら侵略者と戦うしかない。  既知と、修羅道と、刹那が足を引き合い犇きながらも、共に唯一の敵を目指して共闘する。  満足に全力を出せていないが……しかしそれでも、三柱の持つ特殊にして強力な渇望を受けながら、毛ほども功を奏している気配がないのは、この神格が持つ圧倒的な桁の違いゆえだった。  それはこの邪悪な一柱が、特に変わった異能や特性を有していたからではない。  極々単純で、呆れ返るほど簡単な算数の話──そいつが歴代の座を遥か超越するほどただひたすらに強大で、絶対的な純粋さを有していただけだった。  回帰に押し流されることもなく、獣の魔軍に蹂躙されず、時の停止をいとも容易く引き千切る。  力、ただ力。性質に関わらず見るだけで吐き気を催すほどの力、力、力。不愉快だという念の重さが、想像を絶するほどに凄まじすぎる。  渇望の種別による特性差など、これの前では総じて意味を為しはしない。全力を出せないとはいえ、決して三柱が脆弱というわけではないのだ。彼らはそれぞれ、その気になれば宇宙を消滅させるだけの〈熱量〉《たましい》をその身に然と有している。  だが──この一柱は文字通りそれさえも、桁が違うと言わざるをえない。視認するだけで眼球に皹が走る絶対強度。  億、兆、京、垓……それが何だ? 無量大数たる卍曼荼羅の神威を前に、仮に全力であったとしても黄昏の守護者は相打てるかすら、定かではない力量差だった。  それでも、精彩を欠く三柱がここまで喰らいついたのは、偏に侵略者には持ちえない矜持を有していたからだろう。  互いを励まし、叱責し、背を預けながら女神を守るべく足掻いたそれは、まさしく奮戦と呼ぶに相応しかったし、英雄と呼ぶに相違ない姿であったのだが── 「こいつらは……」 「〈自〉《 、》〈分〉《 、》〈以〉《 、》〈外〉《 、》〈が〉《 、》〈壊〉《 、》〈れ〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈泣〉《 、》〈き〉《 、》〈始〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》」  塵だ、屑だ、滓に違いない──他者を己と同じく扱うなど、こいつらまとめて狂っているし気持ちが悪い。邪神は心からそう感じた。なぜなら彼は、何も知らない。  何一つ知らないし、どうでもいいと感じている。真実も、太極の意味も、もしくは自分が行なっている闘争さえ、大したものと見ていない。だからこそこの太極には下劣畜生にして、強烈強大な理が渦巻いているのだ。  黄昏を穢すな、彼女を守り抜く、貴様にそんな資格はない……などと誇り、誓い、座の重さがどうのこうのと、何やら訳のわからぬことを渾身こめて囀っている。  それが何だ? こいつら白痴か、自分を愛しているだけなのに別の言葉で飾っているのが、まったくさっぱりこれっぽっちも理解できない。  今もそう、互いに自分の垂れ流した法則で足を引っ張り合いながら、鬩ぎあいつつも見せかけの団結をしているのが分からない。それは自己愛。自己愛だろう。俺の願いと何が違う?  壊れているし、狂った趣味を見せ付けるなら……いいだろう。おまえらの存在総て、皆目さっぱり分からんが── 「先に、〈周〉《 、》〈り〉《 、》〈の〉《 、》〈奴〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈壊〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈や〉《 、》〈る〉《 、》〈よ〉《 、》」  他人が壊れると泣くのなら、まずは余分なものから砕いていこう。  勝手に泣いて、勝手に動きが雑になって、綺麗に削れて踏み躙れる。欠片も残さず掻き毟って潰してやれば、欠片も残さず消えるだろう。  そう、自己愛の太極は思ったから。  最速の願いを知らぬと踏破し、当たれば砕くというものを押し潰し、焦がす炎を無視しながら、他にも多種多様な手を打った総てを〈た〉《》〈だ〉《》〈の〉《》〈塵〉《》だと内心唾さえ吐き捨てながら。  ──まず、〈黄金に輝く獣〉《ただの塵》を八つ裂きにした。  五体粉砕し、破片となっても光となったそれを足の裏で踏み潰す。ようやく一つ消えたことで、その一柱はほんの少しだけ喜んだ。  その瞬間、慟哭した蛇が横殴りから〈雑音〉《ぜっきょう》を迸らせ、創造した暗黒天体を激突させるも……しかし自己愛は揺らがない。  悲しいかな、毛ほどの傷さえ付けられない。無量大数を前にすれば、一も兆も等しく屑だ。  〈雑音〉《下種が》、〈雑音雑音雑音雑音雑音雑音〉《貴様は誰を踏みしめている》。  何やら煩かったので──そのまま潰した。  総身の半分が消し飛び、もう半分を滓の如く払いのける。  形骸となった魂は己が消滅さえ気づかぬまま、まさに鎧袖一触で特異点の彼方に散ったのだ。  仮に、もし仮にこの神格が最後まで残り続けていたのなら……  彼の対存在たる〈自滅因子〉《おのれ》を穢された屈辱、友が受けた仕打ちに対し、血を吐く想いで耐え忍んでいたのなら……  黄昏が砕けようとも、座の譲渡における間隙を狙い〈再〉《 、》〈び〉《 、》〈回〉《 、》〈帰〉《 、》〈す〉《 、》〈る〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈が〉《 、》〈可〉《 、》〈能〉《 、》〈だ〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈の〉《 、》〈か〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。第六の天を握らせず、簒奪者が座の本質を掴む前に、先代として返り咲き一瞬だけ流出に至ることができたかもしれない。  彼だけが唯一、可能性宇宙の閾を越え時間軸干渉を行なえる渇望だったから。過程と結果の鎖を超えた、特異な流出をし得る器だったというのに。  そしてもし、やり直せたその暁には──女神の持てぬ冷酷さで、この最低最悪の神格が生まれる因果、根こそぎ綺麗に取り除くことも、あるいは可能だったかもしれない。  しかし、結果はこれだ。友誼により我を忘れた一瞬を突かれ、彼の存在はいとも容易く磨り潰された。  なんたる皮肉か。かつて太極座を占めていたときは到底見せなかった情によって、永劫回帰の蛇は無念の内に消滅したのだ。  これにて、時の巻き戻しは消滅する。黄金の獣は蘇らず、また回帰の選択も尽き果てた。二柱は二度と復元せず状況も劇的に悪化する。  残る一柱、無間を冠した刹那の彼はよく耐えたと賞賛されるべきだろう。事実、最も簒奪者が邪魔だと思ったのはこの男だった。  これもまた皮肉にも、二柱の退場により覇道の鬩ぎ合いは低下する。より純然たる渇望を発揮できた彼は、魂をかつてない領域で輝かせたのだ。  停止による防衛は黄昏を守り抜かんと、過去最高の純度で発せられていたのだが──  それゆえに、その邪神は考えた。こいつは後に回しておいて、先に容易い側を砕けばいいと。  先にあの、反吐の出る〈黄昏〉《塵屑》を壊せばいい。そうすれば、こいつは勝手に泣くだろうと知ったがために──  頑張って負けないで信じているから私がついてる、あなたは絶対勝つんだものと、穢れた塵の穢れた鳴き声へ、天地染め上げる自己愛の波動が狙いを定めた。  抱きしめる? 何だそれは。ああつまり、こんなもの、自分には要らないということだから。 「臭いぞ、塵が」  常軌を逸した渇望が増幅しながら圧を増す。空に見つめるだけで穴を穿つような神威を前に、中点たる太極座が外からの攻撃で軋み始めた。  座から流れ出す黄昏よりも、特異点の外界を染め上げる天狗道の方が強力すぎたのだ。通常あり得ない逆転現象を前に、女神が少しずつ邪の波動でひしゃげていく。  その様に、絶叫と憤激を爆発させて流星となった無間の刹那を── 「はははははははァァッ──邪魔だ」  路傍の小石をどかすように、腕で払う。  その稚気にも満たない衝撃で、無間大紅蓮地獄という太極は特異点から弾き出された。身体に多大な損傷を刻まれながら、発狂死しかねないほどの悲憤と共に座の争奪劇より退場する。  それについて考えることなど、消えた、死んだ。まあそれでいいし、どうでもいいというところ。  なので、そのまま自己愛の渇望に圧迫された黄昏の女神を──  踏んだ。  踏んだ。  踏んだ。踏んだ。踏んだ。  顔を、腕を、足を、腹を、胸を、潰れろ潰れろ潰れろ潰れろ。臭いんだよ穢らわしいぞ気持ち悪いなこの塵屑が──自分に触れるな放っておけ。絶対、決して、触れてくるんじゃねえよ死ね。  鳴き声が止まるまで、この鬱陶しい渇望が消えてなくなるまで。  僅かな残滓も許さぬよう徹底的に絶対的に、存在そのもの踵で砕き踏み躙り……  乗って、消した。  些細な安堵と歓喜が簒奪者……いや、第六番目の天を満たす。ようやく静かになったものだと、太極座の上で他者の喪失を喜んだ。  だが…… 「まだ何か、俺にへばりついているのか?」  違和感が消えてなくならない。第六天の座についた彼の存在の非常に近く、それこそ皮膚が密着した距離に他人を感じる。爽快感には程遠い。  だから、自分に触れていたのはあの抱きしめたがっていた女神ではなく、〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈異〉《 、》〈な〉《 、》〈る〉《 、》〈存〉《 、》〈在〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》と第六天が気づきかけた瞬間。  ──彼の〈宇宙〉《からだ》に、〈塵〉《たましい》の氾濫が発生した。  それは座の交代により発生した、世界と魂魄の譲渡現象だ。他者を掻き毟って平らにしたはずの新たな神は、その意図とは逆に女神の擁していた営みを受け継いでしまう。  そして当然、そんなことを知りもしないこの邪神が感じること、病的なほど希うのはただ一つ。  邪魔だ。邪魔だ。自分の中で塵が溢れる──こんなものは必要ない。  座の機構は第六天の波動を受け、魂同士に我欲の業を植え付けた。己のみをただ愛し、他者を礎に喰らいあう世界。やがてこの神格以外は誰も残らぬ滅尽滅相の法則が誕生する。  死ねば消え去り壊れるだけ。塵は第六天の波動を受信し殺し合うだけの細胞となり、自愛によって盲目にされた者達は自己を欠片も持ち得ない。  外界に弾かれた永遠の刹那──夜刀が無間神無月の展開により食い留めなければ、即座に生命は絶滅するまで共食いに狂奔していたことだろう。  万象、総てはただの塵屑。  この宇宙には救いも慈愛も次代もない。  歴代を通して最も最悪にして邪悪な〈天空〉《ソラ》。  それが大欲界天狗道。そして── 「ああ、何だろうか。何処かで見たような塵だが」  ──この存在が、それを発生させた下種の極み。第六天波旬と呼ばれる、真性下劣な邪神だった。 「いつから紛れたのかは分からんが、紛れるとはいったいなんだ? まさかわざわざ辿ってきたのか? 塵の中のあの塵が、塵に満ちた塵の山から塵の領分を忘れ果てて……」 「ああ、確か、そういえば俺の糞を恵んでやった奴がいたような」 「く、くくくく」 「ははははははははははは! なんだそりゃァ、糞にまみれて尻の穴を目指してきたとは嗤えるぞォ」 「くははははははははァアアアア──ッ!」 「痛快だ。なあ、おい。塵掃除は済んだのか? 元よりおまえ、それしか意味のないものだろう。排泄物が主食だろうが」 「いやそもそも、おまえ何だ? 知らないぞ。よく分からないな、ならば今から潰されたいのか?」 「面倒だ……ああ知らん」 「…………」  ……何だ、コレは?  夜行の思想を疑念と嫌悪が怒涛の如く埋め尽くす。発言として支離滅裂であり、意志疎通という概念が一滴たりとも存在していない様に顔筋が自然と歪んだ。  この世の反吐を掻き集めた地獄の釜に、臓物と糞尿を混ぜて煮詰めればこういうものが出来上がるのかもしれない。人型を取っていることさえ、人間に対する冒涜だ。  だが、その愚劣さと反比例するかのように──感じる波動のなんと強大なことだろうか。  天眼にて覗き見ると、それだけで気が狂いそうになるほどの総体総量神威の強さ。先ほど夜行の見てきた神格ら、総て併せたとしてもこの邪神が腕を一振りしただけで粉砕される。  巨大な存在を間近で仰ぎ見るだけで、意識が叩き折られそうだった。  撒き散らされる闇の圧に耐えながら、隠せぬ悪感情を滲ませて夜行は相対した神を見上げる。 「御身……」 「──いや、貴様が波旬か。総てここで答えてもらうぞ」  誘発された敵意と共に、第六天へ不遜に告げる。話しかけるだけで舌が腐りそうになる錯覚に苛まされながら、挑発混じりの問いを告げた。  だがしかし──いや、ここはやはりと言うべきか。 「なんだ、これは雑音か? どこかで聞いた鳴き声のようだ」 「掃除はまだ済んでいないというのに、ここまで這い上がってきた理由があるのか? 俺以外、ここには入り込む余地などないのに」 「他の塵を消す前に、どうしてここに俺の糞を返しに来たか、やはりとんと分からない」  浪々淡々と呟く姿から知性や神聖さは感じられない。  答えるつもりどころか、返答するという機構そのものが存在しているか怪しい。波旬の思惟には波旬だけの〈自己愛〉《ほうそく》が悠然と居座っている。  外界を感知せず一切傷つきもしない、これは自愛と自閉の究極だ。己だけで生きていくという精神が到達した、一種の完成形でもあるのだろう。  告げられた言葉が意味を成さぬなら、そこから読み取っていくしかない。 「貴様の抱いた渇望の具現……その終極が今、この世に形を成そうとしているわけだが」 「なにゆえ、我らを殺さんと願う。いやそもそも、一掃するなら何故生んだ。細胞さえも貴様の道には不要だろう」 「座を手にしている限り、業腹なれでも貴様が天だ」  出来ぬことなどない、太極座の持つ万能性を語る。  もしや貴様、座や渇望のなんたるかすら知らぬのかと投げかけた瞬間──特異点に汚泥の如き渇望がうねりをあげた。 「塵がァァァア、塵が塵が塵が塵が塵がァアアアア俺の身体に登って来るな、這い回るな増えるな鳴くな臭い臭い臭い臭い臭い臭いッ!」 「夕暮れなずむ塵の山が俺に向かって、やめろやめろ、俺俺俺俺俺だけがいいのに!」 「穢らわしいぞ。消えてなくなれ。俺が俺だけで満ちている俺の〈天狗道〉《カラダ》に、よじ登ってくるなよ屑どもが」 「塵は塵同士喰らい合って、きれいさっぱり無くなれよォ。そこにある汚物まみれのおまえ、何を怠けているというんだ」 「触れた部分さえ臭うから、わざわざ恵んでやったんだろうが」 「私のような……?」  なんだろうか……そこに、例え様もない不吉な揶揄を感じる。  邪神の玩弄。神の加護を受けし者。穢土で叩きつけられた数多の事実を鑑みれば、愉快な想像ができるはずない。  そして紛れもなく、それは事実であるだろうから。 「七七八四五二三一、這いずれ塵ども。潰せ、潰せ、潰せ、潰せ。動き回って勝手に消えろ」 「なぜかはまったく分からんが、ようやく早くなったのだな。これで腐臭が、俺についた汚い塵が、総て根こそぎ消えてなくなる」 「そうだな、それがいいしそれでいい。俺は俺で俺だから、広がることなど元々したくもなかったことだ」 「神? どうでもいい、知らん言葉だ。他人のカタチを決めるなどその時点で億劫だろう。そんなものは気持ちが悪い」 「この平穏を妨げるなよ。どうして放っておけないのだ、触れてくれるなよ塵屑が」 「俺の宇宙に、俺と他者の境はない」 「だというのに、何やら減りが早くなったのはこれが役に立ったこととは関係ないと?使えんなぁ、塵どもの言葉ではそういうものを──」  一瞬──天眼を電流の如き衝撃が駆け抜けて。 「無用の長物、というのではないか? なあ、なあ」 「なあ──」 「そういうことか……」  己が知識を覗かれた屈辱を噛み締めながら、一人語りじみた波旬の言葉から真相に辿り着く。  触覚に手を噛まれる苦痛でも──触覚だから分かるだろう。おまえは波旬にとても似ている。あれの写し身じみていると、吐き捨てられたこれが真実。  中院冷泉と同じく、波旬の意志によって天狗道を終点まで加速させるだけの存在。少なくとも波旬自身は、夜行をそのようにしか見ていない。  いや、それすら怪しいと言う他ないだろう。この座は終始、〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈見〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。壁に向かって話しかけているようなものであり、自分で自分と会話しているようなもの。  黄昏の英雄達が抱いていた憎悪を、言葉ではなく心から痛感した。気づけば奥歯が罅割れんほど、自分は歯を噛み締めているではないか。 「こやつは塵よ。〈救〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈ん〉《 、》」  そして、何よりも認められないのは別の一点。この己が理屈だけを体現し他を顧みない自愛の姿は、まるでかつての自身を見ているようで── 「見るに耐えぬわ。蛇蝎の如き扱いさえ、これを表すには生温い」 「これでは夜刀ら、黄昏、龍明殿も、惨めに過ぎるというものだろう」 「余りに浮かばれぬというものよ」 「ああ……ああ、そうだな。このような者を認めてはならん」 「化外の者らに報いるためにも、斯様な空を子孫に残してなんとする」 「っ、──その声は」  吐き出した声は聞き馴染んだ爽快な啖呵。  涼やかな風のようでもあり、太陽にも似た輝きを放つ言葉の羅列は、忘れもしない彼らの将のものだった。 「益荒男ならば〈率いて〉《愛して》やる。私は確信しているのだ。信じているとも、誇りに思う」 「目先の勝ち負けにしか思いが行かず、ただ気分よく好きなようにやりたいだけか? 浅いぞおまえら、底が知れるわ!」 「この想いを知ってくれ。感じてくれよ、真なるものを。心は自己への狂信のみなど……それではあまりに悲しいだろう?」 「そうさ、益荒男ならば〈率いて〉《愛して》やる」 「我ら、真に目指すべき地平のために──魂懸けて誓うのだ!」  言い放った瞬間── 「────はあ?」 「塵だろ、これは」  久雅竜胆の信じた輝きは踏み躙られた。 「〈塵屑〉《タマシイ》? 何だ、つまりおまえらは──」  指先が無の空間を突き破り、光る力の塊を摘んでいる。  およそ数万。外界に存在しているそれだけの魂を掴み取り、まるで蟲を掴んでいるように顔を竦めながら、ゆっくりと手の中に包み込んだ。  そして、汚らしいと言わんばかりに潰す。  磨り潰し、捨て去り、滓も残さず捨て去りながら焦点の合わぬ瞳で首を傾げた。 「……こんな塵が大切と?」  つまらぬように息を吹きかけ、天狗道から消滅させる。  悪辣な神の暴威を前に、数多の命は成す術どころか、何が起こったのかも知らずに消え去っていく。 「はははははははははははッ! やはり、塵は塵だな。腐ってみえる。掃除が要るぞ」 「こんなものを後生大事に好むなど──俺を取り囲んでいた、〈あ〉《 、》〈の〉《 、》〈掃〉《 、》〈き〉《 、》〈溜〉《 、》〈め〉《 、》〈ど〉《 、》〈も〉《 、》にそっくりだ」 「無謬の平穏には程遠いなァ」  ──黄昏など、塵だ。痴れ者の屑はそう嗤いながら口にした。  俺を囲むな、気分が悪い。つまり〈抱〉《 、》〈き〉《 、》〈し〉《 、》〈め〉《 、》〈る〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈行〉《 、》〈為〉《 、》〈さ〉《 、》〈え〉《 、》〈知〉《 、》〈り〉《 、》〈も〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  独りよがりで、身勝手で、己が内しか知りもしないし知る気もないから判らない。ああなぜどうして、このような屑が勝ったのだろう。  こんな想いを前に、黄昏の女神は破壊されたのか。  こんな想いを前に、黄金の獣は、水銀の蛇は無念のまま粉砕されたのか。  こんな下種極まる想いを前に、永遠の刹那は苦渋を舐め──絶叫しながら無間の地獄を展開したのか。 「──黙るがいい。腐っているのは、貴様の方だ」  そうだ、あまりに救われない。こんなものが神であるなど、夜行は到底許容できるものではなかった。  ああ黄昏よ、御身は尊く慈愛が過ぎた。この世にはこのような、何をどう取り繕うとも救いきれぬ下種がある。  抱きしめる価値など欠片もない、最悪という言葉の具現が存在するのだ。 「臭いぞ……鼻が曲がる。よくもまあこれほど壊れた下種の極みが、あれらを否定したものだ」 「私の声すら、その実何も理解しておらんだろうが、言わせてもらおう。貴様は屑だ」  生まれるべきではなかったと、断じる心に迷いはない。あろうはずがないのだから。 「ゆえに、我が太極にて散るがいい」 「魂抱かぬ肉体ごと、欠片も残さず祓ってくれよう」  このような者と同一視された記憶ごと、今こそ浄滅してくれる。  立ち上る閻魔の波動。嫌悪感を剥き出しにした夜行の意を受け、自愛の空を破壊するべく死の太極が駆動する。  完全に顕わとなった敵意の発露を前に── 「………ん?」 「なんだ、どうしたおまえ……ああ、ヤマ、エンラテン? うははは、うわははははははははは!」 「笑わせてくれるじゃねえかッ、くは、はははははは──おいおい、おまえ」 「わざわざ俺の垂れた糞便に自分の名前を書いてんのかァッ」  ──天を揺るがす哄笑に、〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》と号する太極はいとも容易く消失した。  まるで、最初からそのようなものなど無かったかのように……夜行の会得した空の〈渇望〉《いろ》が、幻となって薄れていく。 「なっ──これは、なんと……!」 「私の太極が、潰えていくとでも──ッ」 「違うな。俺の〈太極〉《きれはし》だ」 「うむ。〈天眼〉《しるし》がついているから、間違いないな。この塵で合っている」  夜行の額──波旬と同一の三眼を指して、くぐもった笑みをこぼす。  滴る毒が見えるような、侮蔑と無関心と嘲笑に唇が歪む。 「俺に、おまえのような塵など要らない」 「へばり付くなよ、薄汚い。数だけ増えてどれだけ取ってもなくならず、掻き毟って平らにしたいが、ああそれも面倒臭い」 「掃除が必要なのだが、いかんせん減りが遅いぞ。さっさと無くなれ。それでも嫌なら減らすために、おまえ、早く他の〈同属〉《くず》を消して来いよ」 「俺の〈天狗道〉《カラダ》を構成するほんの〈太極〉《きれはし》。恵んでやろう、どれがいい?」 「だが……ああ、どこにも住むな。俺が穢れる。だから、そうだ糞がいい」 「垂れ流した糞便を恵んでやるから、喜んで糞を喰って掃除に励めや。塵の山の、塵の中で、塵にしては一番マシな塵屑。よかったな。〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈が〉《 、》〈一〉《 、》〈番〉《 、》〈優〉《 、》〈等〉《 、》〈だ〉《 、》」 「糞の山で笑っていたぐらいだからなァ、ははははは」 「貴様は、まさか……」  震える唇、夜行の思考を駆け巡る言葉が徹底的に彼の矜持へ泥を浴びせた。得た情報から何手もの先を読むという優れた眼力ゆえに、彼にとって最悪の事実まで辿り着かせる。  摩多羅夜行が、波旬の理においてどういう役割を持っていたか。  単なる写し身などではなく、天狗道完成のためにある道具として、何を担っているのか。  触覚……この世に触れる神の一部として、彼が波旬より与えられた身体とは── 「確か、あれらの言葉で促進剤だったか? まあ大仰な名などいらんだろう。塵、屑、滓……ああ糞の塊で結構だな。そうだろ、糞」 「ヤマエンラテン……〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》か。糞に名付けてはしゃぐわけだな、あははははは!」 「天才? 最強? おかしなことを言うものだ。総てがおこぼれと知らぬまま、塵同士比べ合って何やら蠢くのが好きらしい」 「我が太極にて散るがいい──と、何だそれは。そう言う啖呵が流行っているのか? それで何かを感じるとか、痴呆かおまえら」 「そもそも、まず第一に──」 「おまえ、〈元〉《 、》〈々〉《 、》〈は〉《 、》〈別〉《 、》〈の〉《 、》〈塵〉《 、》〈が〉《 、》〈流〉《 、》〈し〉《 、》〈た〉《 、》〈糞〉《 、》〈を〉《 、》〈嬉〉《 、》〈し〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈に〉《 、》〈喰〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈た〉《 、》〈ろ〉《 、》〈う〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》」 「なに?」  その瞬間、喪失していく太極の力と共に、夜行の自負へ皹が走った。  波旬より以前に、自身に加護を与え続けていた者の示唆。真実誰より早く、摩多羅夜行という個人を創り上げた存在を告げられたのだ。 「おまえの身体は、全部誰かの排泄物で出来ている。まあもっとも、そいつは自分の糞を食わせてご満悦だったようだがな」 「そして、おまえ自身もそれで腹を満たしながら、自分のカタチを整える。逆に言えば、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈己〉《 、》〈愛〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈持〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「糞で出来た糞まみれの塵が、何か考える頭など持っているはずあるものかよ」  ならば、その自己愛を創り上げたのは誰か?  決まっている。自分を形作っていた誰かとは──誰よりも何よりも、摩多羅夜行とはこうであってほしいと想い続けていた人物。  ……摩多羅夜行こそ、神州一の益荒男なり。  ……摩多羅夜行こそ、自分にとって最高の男である。  幾度突き放さようとも、玩具にされようとも、逸れることなく奉じ続けたその一念。有していたのはいったい誰だ?  己をこの世で最も有能な存在であると、渇望し続けたのは── 「……私が、龍水の玩具だと?」  思い当たる人物など、それこそ一人しかいなかった。  だが、それはなぜ? いやそれ以前に、いったいどうやって夜行は龍水により歪められたのか……  その答えも、おそらく一つしかない。葛藤を看破したかのように、波旬は鼻を鳴らして特異点の彼方を嗅いだ。 「臭いな、ああ臭い臭い。何処からか、いつか、消えた何かの異臭がしている。これは何だ? こんな〈渇望〉《ほう》を俺に住ませた覚えはないのに」 「浴びた塵は何やら一層臭いものを放つのだが──穢れたなりに、変わった減り方をしてくれるな」 「刀剣? 蜃気楼? 凶兆? 〈願〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈未〉《 、》〈来〉《 、》〈を〉《 、》〈手〉《 、》〈繰〉《 、》〈り〉《 、》〈寄〉《 、》〈せ〉《 、》〈る〉《 、》と、なんだそれは」 「他の好んだ塵を好んだカタチに整えるべく、糞を浴びせる塵がいたな。丁度いい。この痒みと不快な汚泥もまとめて、平らにしてくれるかもしれんから」 「滅尽滅相──なるほど、こいつ、掃除をさせるにはうってつけだろう」 「──と、思わんか? おまえのことだぞ肥溜め」  つまり、それは── 「〈渇望〉《ゆがみ》──龍水の有した陰気が、私とあれを引き合わせた」 「いや。摩多羅夜行そのものを……」  形作ったと、唇がわななきながら声無き声にて搾り出した。  恐らくそれは、渇望と呼ばれるものの根源にして、最も純粋な姿だろう。思い願った未来が訪れるという、非常に分かりやすい、想い遂げるという力。  己が思い描いた道筋こそが訪れるという、因果の補正。特殊な形態を持たない、稚児の妄想そのものといえる歪みだった。  運命や不幸すら無意識の内に幸福な姿へ捻じ曲げる。水面下で密かに行なわれていた改変作業。それが御門龍水の有していた陰気の本質だったのか。  〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈に〉《 、》〈御〉《 、》〈門〉《 、》〈龍〉《 、》〈水〉《 、》〈と〉《 、》〈出〉《 、》〈会〉《 、》〈う〉《 、》〈以〉《 、》〈前〉《 、》〈の〉《 、》〈記〉《 、》〈憶〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  〈摩〉《 、》〈多〉《 、》〈羅〉《 、》〈夜〉《 、》〈行〉《 、》〈は〉《 、》〈自〉《 、》〈己〉《 、》〈愛〉《 、》〈す〉《 、》〈ら〉《 、》〈所〉《 、》〈有〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  その事実から導き出される結果は、目を覆うばかりの滑稽さだ。天に届かんと猛っていた才気は、総てが他者からもたらされた舞台装置だったから。 「私は、子女の妄想から生まれたとでもいうのか?」 「だから、〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈摘〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈や〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》」 「俺の身体から起伏を潰し、俺の世界に俺だけの安らぎに満ちた俺の永遠を築くために。塵を消す塵を糞の山に落としたわけだ」 「ああこういうのを、おまえらいったい何と言う?」  再度、夜行の頭を切開するほどの激痛と共に覗き見て。 「──井の中の蛙、か。喜べよ、ここがおまえの求めた〈天空〉《うみ》の底だ」 「くふ、ひ、ひひひひははははははははァ──」  骨の髄まで他我に翻弄されし玩具に対し、波旬は天を轟かせて蔑笑した。  その笑いを夜行は否定することが出来ない。指摘の通り、彼は他者の事象においてはいち早く看破しておきながら、己自身の事柄にだけはあまりに頓着しなかったのだ。  これが我、これが自分。自負と呼べば聞こえはいいが、それは最初から仕組まれている精神構造と言っていい。  疑問を抱かぬよう、常に何者かの干渉下にあっただけのこと。  天狗道において最もめざましく優れていた益荒男は……その実どこまでも、自分というものを持たなかった。 「──、…………」 「だが、もはやおまえも特に要らんな。塵が勝手に減り始めたから、既に何の意味もない」 「はっ、はははは、はははははは! そうだそうだよ気分がいいッ。つかえが取れた、これでようやく俺にへばりつくものも総て総て消えてくれる」 「なら結局……この塵は役に立たない塵屑だったか。あれほど〈糞尿〉《ちから》を恵んでやってこの様なら、さっさと消えてなくなるがいい」 「早くどけ、臭いんだよこの糞が。俺の〈総体〉《からだ》になぜ触れる」  悲鳴を上げる間もなく、太極の感触がさらに剥奪される。  あれほど夜行の総身から漲っていた波動は、もはや見る影もなく衰えていた。邪神の加護を引き剥がされ、波旬曰く糞の山を奪われていく。  この特異点に存在するだけで掻き消えてしまうほど、その魂は限界寸前まで力を返還されつつあった。  その中で── 「そうだ。捨てる前に、一つ聞きたかったんだが」  思い立ったように、第六天は口角を歪に吊り上げながら。 「───なあ、俺の糞は旨かったか?」  最低の侮蔑をなすりつけた。  瞬間──瀕死の身体から湧き上がったのは、鮮烈な弩の波動。 「────この、屑がァァァァァアアアアアアアッ」  邪神の嘲りと嬲りを前に、ついに夜行の精神が爆発した。  かつてないほどの憤激のまま、美貌を野獣の姿に歪め犬歯剥き出しに咆哮する。 「許さぬ認めぬ受け入れぬッ! 貴様の如き汚濁で編まれし下種風情が、摩多羅夜行を語るでないわァァ──ッ」 「貴様に、貴様などに、その座へ住まう資格はない! 詫びよ、崩れよ、朽ち果てよ、己が愚劣さを思い知れッ!」 「──新たな覇道など知ったことか。いま、この手でッ」 「魂魄総身、那由他の果てへ消し去ってくれる……ッ」  座を震撼させん魂切る怒号を前にしても、波旬は嗤って揺るがない。他者の発する〈波長〉《おんせい》など端から受け入れる余地など無いのだ。  焦点の合わぬ瞳で何処かを眺め、首を傾げながらただ一言。 「〈除〉《の》けよ」  僅かな呟き──それのみで、夜行の太極が完全に消え去った。  触覚からただの細胞へ。激痛と共に、骨や血肉ごと鍛え至った極みを取り除く。 「がぁぁ、ぁああ……ぁ、ぐうぅ、はっ!」 「波、旬……ッ」 「──臭い。ああ、こんなに穢れてしまった」  取り戻した〈太極〉《きれはし》を眺めながら、無感動に波旬は呟く。 「所詮は塵か。ただひたすらに卑小で、臭い」 「ははははは。汚いな、穢らわしいぞォ──ここから去ねよ。俺の〈太極〉《ソラ》に塵の住まう隙間はないんだからな」 「ならば、おまえはいったい誰なんだ? 摩多羅夜行、〈夜摩閻羅天〉《やまえんらてん》と呼ばれた滓など、知らんし要らんしどうでもいい」 「あぁぁ、なんだおまえ、最初から何処にもいないか……」 「ふくくくあははははッ、憐れに惨めに潰れろよォッ」 「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ────ッ!」  浴びせられた稚気の波動は、大陸を削り一掃するだけの圧力となって夜行の身体を弾き飛ばす。  特異点に巻き起こった空間振動の波濤により、総身を粉砕されながら辿ってきた次元の穴を逆戻る。上に存在する地へ向かい、砕け散る天と共に崩落した。  己が感銘を受けた五つの波動。またたく間に位階を突き抜け、潜行を始めた地点まで押し流された。  通常の空間まで排斥され、波旬の神威からようやく解放される。しかし、それが何の慰めになるだろう? 「がぁ……ぐ、ぅ…………」  玩具が如く弄ばれ、利用されるだけ利用されて容易く廃棄。そして寿ぐつもりなど欠片もない。まさに塵屑の仕打ちに他ならない。  己が色をつけた太極まで貸していたと奪い取られた。衝撃はただ払いのけた程度であろうが、それだけで魂には致命的な亀裂が走っている。  修復など不可能であり、咒力さえ波旬に嬲られ、掻き消されたから……  もはや命は長くはないだろう。  そう。完全かつ完璧に……誰が見てもおよそ一目瞭然の姿で。  死を裁く夜摩閻羅天、摩多羅夜行は絶対の〈烙印〉《はいぼく》を叩きつけられたのだ。 「私は、敗れた……のか? あのような、下種に……」 「総ての矜持を、粉砕され……」 「ただの、傀儡がまま──」  声を出すだけで、喉仏に亀裂が走る。呼吸するための肺さえ保つことができない。  これが、在るべきものが在るべき場所に還った結果ということか。  あれほど漲っていた太極は過去へ消え去り、あとは死ぬだけ。自己の存在意義をも奪われて、涙を呑んで消えていく── 「まだ、だ」  そのような結果を、認められるはずがなかった。 「必ず……私の、手でっ」 「私自身の、力にて……己が生を証明するのだ──!」  足掻く……四肢に力が宿らずとも、己が全霊を懸けて立ち上がることを欲し続ける。  心はまだ消えていない、どれほど傷を刻まれようと魂は依然この胸にある。その意義と意味を奴は知らない。だから、ここで証明せねばならないのだ。  己が、波旬の触覚になど納まらないということを。  一方的に捨てたのは貴様ではない、自分こそが貴様の糞を捨てたのだとこれから証明しなければならないから── 「──夜行様っ!」  だからだろうか……この時、夜行は初めて〈帰〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》のだと感じた。  波旬の住まう太極座に到達した際はついぞなかった感情。母の胎内に帰還したかのような温もりを、あろうことかこの少女に感じたのだ。  大粒の涙を流して覗き込むこの少女を前に、壊れたはずの身体で息を呑む。  身に浴びせられた汚泥が、洗い流されていくようで。 「あ、あああああ……そんな、どうして、このような」 「身体がまるで石のように、冷たく……眠ってはなりません! 起き上がってください。でないと、そのまま、これでは──ッ」  死んでしまう、と繋げることができない。それほどまでに少女は、御門龍水は夜行を大切に想っていた。  塵などと決して見なしてはいない。  穢れなど僅かも与えてはいない。  何よりあなたが大切だと赤子のような泣き顔で、夜行のことを包んでいる。愛おしげに抱きしめていた。 「お願いします、行かないでくださいっ!」 「龍水を置いて……夜行様まで、どうか……」  離れぬようにそっと小さな指先が頬を撫でる。温もりが少しでも伝わるように、こぼれ出しそうな愛を篭めて…… 「……く、くくく」  その光景に──なんと滑稽だと、自分を笑った。  まったく、何を泣くことがあるだろうか。己を最初に作ったものは、波旬ではなくおまえだろうに。作品が壊れたくらいで涙を流すな。わざわざ構って何とする。  何より誰より愛おしいと、涙を流すな。  所詮は私の持ち物だろうと、捨ててしまえばいいだろうに。  抱きしめてあげるから、ずっと傍にいてあげるから、愛する君よ立ち上がれなど……それではまるで、黄昏の女神のようではないか。  世界に溢れた数多の魂を抱きしめるのではなく、摩多羅夜行という一人の男を抱きしめるために在る。  その、小さくも未熟な女神を前に── 「ああ。無念よ、なぁ──」  ……どうしてか、夜行は静かに足掻くのをやめた。  これでもよいなどと、彼には到底似合わない感情を胸に、身体から力が抜ける。  大獄との一戦とは違い、此度は波旬の加護など持ってはいない。死は一方通行。断崖から引き上げられるなど不可能であるから。  口元に複雑な微笑をたたえ、女に看取られながら、夜行は帰らない死の淵へと墜ちていった。  そして── 「……嘘、です」  一人残された女は、冷たい亡骸を抱いて呟く。 「夜行様……ご冗談は止して下さい」 「夜行様が死ぬなどということは、私にとっては戯言でしか――」  揺すってすがっても、もはや何の反応も見せてくれない。  龍水の揺さぶる手はせわしいものだったが、彼女とは比べられもしないほど大きな身の丈である夜行の体は、まるで大きな盤石の大石であるようにびくともしない。  もう二度と黄泉返りはしないのだと、それを如実に伝えていた。 「夜行様、夜行様、夜行様――――っ」  まるでそれは〈碑〉《いしぶみ》のようである。  太極を理解し、そして遙か超大な理の上に立っていた陰陽師が、今度こそその波動喪失して死に至る。  何が起こったかは、知らない。だが愛おしい男を愚弄されたことだけは分かる。それだけは他の何者でもなく、自分だけが分かること。  口惜しや、そう歪んだ顔など初めて見たから。 「夜行様。これでは……、これではあまりにもな最期ではありませんか」 「私はまだ、夜行様の傍らへ、たどり着いてはおりませぬ」 「どんなにや〈艱難辛苦〉《かんなんしんく》が待ち受け、〈苦心惨憺〉《くしんさんたん》にまみれようとも、私は必ずや御許へ至る覚悟でございました」 「ゆえに、このような最期など私にとっては認められるものでは、ございませぬ……!」  ──刹那、御門龍水の中に火が灯る。  それは自らが崇め、奉り、恋に焦がれた幸福と、そして譲れぬ確かな矜持。  龍水は気づかない。何故、己が思い描く最高の〈龍明〉《はは》に出会えたのか。  龍水は気づかない。何故、摩多羅夜行などという理想を固めたような男性が己の傍に存在したのか。  喪失に偏る想像それら総てを破却する。よくもやったな、許しはしない。真実一切知らぬまま本能的に理解したのは一つの屈辱。  己が男を略奪されていた事実──ふざけろ、屑め。それだけは絶対認めない。 「──譲れるものか。〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈御〉《 、》〈方〉《 、》〈は〉《 、》〈私〉《 、》〈の〉《 、》〈男〉《 、》〈だ〉《 、》」  龍明への弔いではない。夜行について行きたいからでもない。この瞬間、龍水は波旬を完全な敵と見なした。  ゆえに、今から取り戻そう。 「……夜行様。これより、私の不逞をお許し下さい」 「母刀自殿。今なら母刀自殿が仰ったこと、分かる気がしております」  ふっ、と吐き捨ててから拾ったような微笑が、龍水の顔に浮かぶ。  ──さっさと化粧でもして、夜行のところに行ってこい。なんなら、白無垢も用意しようか?  ──惚れた男に誘われているのだ、一も二もなく乗らんでどうする。  ──ああいう手強い男を追いかけるのも有りであろうよ。周りは色々と言うだろうが、なに心配するな。そう悪いものでもない。 「このような場所で、夜行様が眠ったままだというのに、私はどんなに淫奔なのでしょう」 「しかし、今の私にはこうすることでしか、夜行様への想いを告げることができないのです」  抜け殻と化してしまった夜行の腰元へ、ゆっくりと頭を落とした。 「はぁむ……んんっ……むむぅ……」  その時、如何なる芸当か龍水と夜行の骸を支点に、喪失したはずの太極が展開する。  波旬に奪われ、蹂躙されたはずの切れ端。既に色すら抜け落ちて破壊された残骸じみたものだったが、確かにそれは太極の姿形を有していた。  されど、龍水はそのようなことに気づかない。ただ想うのは、恋焦がれる女の一念のみ。  まさぐって手にしたモノからは、当然のことながら生気の欠片すら感じない。  だらりと垂れ下がり、手で支えないと口へ含むこともできないだろう。 「れろ……っ、夜行様、いかがですか」 「この龍水。誠心誠意、献身をもって夜行様へ尽くさせていただきます……っ」  細い指で刺激を与えても、肉は何の反応も見せようとはしない。  これは抜け殻であり、死人であり、遺物なのだ。  だが、それを認めることはできないし、何よりこれをすべきであると思っている。屍姦? 自慰? 否、違う。神格に付けられた穢れの数々、清めんとばかりに舌を這わす。 「んっ…れろ……れろっ……ちゅっ、んちゅ」 「はぁあ……ちゅうっ……はぁむ……れろっ、ちゅちゅ」 「んむっ……れろっ、ちゅる、れろれろっ……ちゅっ」  内から固くなる気配がない。知っていたが、まったく虚ろなものである。  だから龍水は気を込めてから、指で撫で、舌で舐め、唇で主の肉棒を啜った。  咽を潤すのは、自分の唾液でしかないが、それでも懸命に行為を紡いでいるのだ。 「はむんっ…ちゅる…れろっ……ちゅう、ちゅう」 「ちゅっ、ちゅ……ぁむ……んっんっ……ぺろっ、あぁああむ」 「んくっ……くぅくぅ、ぷはっ、はぁはぁっ……んちゅっ」  自分の唾液を飲み干すと、そのまま性器へ両手の指を這わせ始めた。  愛撫と印とを一緒くたにするようなか細い十指は、それでも確実に水気を帯びて自らの精気を注ぎ込もうとしている。  抜け殻ならば、皮膚へ口づけをすればいい。死ならば、死を抱いてやればいい。自分を残された者だと識る生者は、つまり諦めていないということになるのだ。 「はぁ、はぁ……夜行さま……んちゅ……ちゅぶっ」 「お目を覚まし下さい、はぁあむ……れろれろっ、ちゅ、んくっ、んんっ」 「私には、夜行様が、必要なのです……っ」  さきほどから、龍水の意識には何度も過去の記憶が、寄せては打ち上げられていた。  空覚えで歩く湖畔には、恋河から引き寄せられたような貝が落ちている。 「どうか、……あぁむ…んっんっ、私を、見てください」 「龍水は、あなたにとって、……はぁむ……んはぁっ、相応しい女に――――」  一目見たその時から、祈り、誓った恋心。 「あなたこそが……、ちゅちゅ……ちゅる……んくぅ……ちゅぶっ」  彼こそが、天下最高の男であると。  それが龍水にとって、陰陽道よりも、禍津よりも、そして化外の理よりも絶対的な法則なのだ。  これが通らぬ世と言うのなら、それは世界の方が狂っている。そう信じる心に偽りはない。彼の蘇る姿を想像する。  摩多羅夜行の復活のみを信じ願い続けていく。 「んくっ、はむっ、んむっ……ちゅる」 「んぶっ、ちゅぶっ、あむっ……ぐっ、んぐぅっ……」 「はぁんむっ……! ちゅる、ちゅぶ、ちゅるるるうぅ」  吐息まで蕩けそうになってくる衝動を抑えながら、ひたすら舐め上げていた。  口に含むだけの高ぶりで、自分の体から蜜が零れてゆくのを自覚している。  けれど、もう少しの我慢が必要だった。うっすらと男の体が強張っていくのを、口の中に含む肉棒を通じて、龍水は感じていた。 「はぶっ……んんっ、ちゅぶっ、れろ……ちゅ」  これはどういった類の術理なのかも分からない。龍水自身の自覚している領域で、理解できる現象ではない。  それでも少女の肉体は受け入れ悟っていた。御寝なる男は、確実に龍水へと反応を示し始めているのだ。 「ちゅる……じゅるるるる、ぷはぁ……はぁはぁ」 「やこう、さま……はぁむ……わたしの忠愛はとどいて、おりますか……?」 「龍水は、こんなにも淫蕩にふけって、夜行様を想っておりまする……っ」  どういうことか。女の唾だけではない。先端から滲み出ているのは、男の体液だった。  龍水は、それを愉悦に覚えながら、指で掬うように舐め取って嚥下した。 「はぁぁあ……んく、んく…ん…く。夜行様の、蜜は他に代え難いもので、ございます」 「まるで、天上天下に湧く甘露の雫でございまする……んくぅ」  指を舐め尽くした後で、再び男の先端を口に含んだ。  そして、音を立てて強く吸い始める。甘く募る興奮が下腹部を熱し、脳髄は喜び打ち震えているようだ。  少女の肉は芯から、男のそそり立った逸物を欲しがっていた。 「夜行様、私は切のうございます――」 「焦がれて悶えるこの身に、あたかも錠を掛けられたようなのです」 「夜行様は何も仰ってくれません。それなのに、体は凛々しくそそり立っておいででございます」 「……はぁむ、ちゅちゅ……やふぉうさま、どうか、わたしに――――」  破裂しそうなくらいにまで勃っており、咽につくかというくらいにまで咥え込んで頭を上下させている。  舌と指先を使い、技巧的に尽くしていたのも一時のことであり、今や稚拙ながらも熱烈に男へと奉仕していた。  けれど、龍水は気がついている。このままでも、まだ足りない。生気の奔流は、まだ湧いてこないままなのだ。 「んっ、んっ、んっ……ちゅぶっ、はぁむ、ちゅる……ぷは」 「……はぁはぁ。夜行様、すぐに私が貴方様を起こして差し上げます」 「この龍水の血の一滴までをも、夜行様へ捧げとうございます……っ」  べとべとに濡れた唇と頬を手で拭い、自らの性器へと手を伸ばした。  そこはすでに濡れており、少女の体のどこよりも温かく最愛の男を待ち構えている。  繋がり、取り戻すのだ。 「はぁ……んんっ!」  ゆっくりと男の体に龍水がまたがり性器が触れた瞬間、びくんと弓なりに逆立った。 「くはぁ……くうぅっ……やこう、さま……っ」  存分に濡れているから、痛みは殆ど無い。だが反面、息苦しさは感じていた。  体格が合わない、まだ夜行の滾るものは窮屈過ぎるのであろう。  だが、その身の苦しさは龍水にとって、恋慕する胸の締めつけに感じられて仕方ないのだ。心が充足感で埋まっていく。恍惚に歪む表情を止められない。 「はぁう……あんっ、んくぅっ……いい、です」 「夜行様の、すごく、いいです……はぁああ」  恋が、これほどまでに切なくて胸苦しいものであるならば、それは龍水の望む幸福に他ならないのである。 「あん……あっ、あっ……まだ、ふかく、挿いって……ああああっ」 「ぐっ……くうっ……んんんっ……はぅ!」  そして、ついにようやく、自分の膣内がすべて埋まったようだった。 「……っんく、はぁ……はぁはぁ、こ、これで全部入りました……っ」 「それではっ……んっ、んんっ……この龍水が、あはぁ……うごき、ますっ」  夜行の胸に両手を置いて、仰け反っていた体を前へ浅く倒す。  角度がついただけで、龍水の膣内の奥が擦れ、その背を電気が奔ったような刺激が駆け巡った。  跨りながら夜行の頬に手をやり、疼く下腹部に堪えながら言葉を紡いだ。 「ひゃあああ、はぁあああ……う、ん……っ」 「このような……立派なものを持っておいでで、んはぁ」 「……夜行様は本当に天下最高の、はぁはぁ……男でございます」  結合し、触れ合う秘所からは、とめどめなく愛液が零れている。  腰を前後左右へと、わずかに揺らす龍水を甘く痺れる快感が、股から全身へと行き渡っているようであった。  まるで毒。恋に蝕まれることは、己を壊していくことだと思ったから。 「ああっ……はぁう……んんんっ」  意識が失われてもなお、他に何も考えることができないくらい想いが募る。  動かぬ体に跨り、愛を貪ろうとする劣情こそ、もはや施しようのない程に蝕まれていることなのかもしれない。 「はぁ、はぁ、はぁ、んん……っ…くぅううう」  小刻みに揺れて動く臀部は、意識を置き去りにしているかのようだった。  下腹部の内で擦れる快感が、繰り返されるごとに彼女のたがが外されてゆく。  そうして、体を揺らすだけの行為から、それは徐々に抽送へと変わっていった。 「あぁああ、はぁう……んっんっ、くぅうう!」 「はぁっ、はぁっ、んんっ……あはぁ」 「腰が、かってに……んああっ、止まらないです、やこうさま……っ」 「あっ、あっ、あっ、あっ、はぁああん……やぁ、んんっ」  自分の耳へ水音が届き、ああ、何とはしたないことなのだろうと羞恥の念を覚えるものの。  しかし、身体が止まらないのだ。身体が、心が、本能を受け取って加速を続け、男を喰らい尽くそうとしている。  自分の幸福のためには夜行が必要不可欠である、一貫してその想いは不滅不変。されど同時に──それだけの想いでは断じてない。  自分を甘やかすなと、絆を知れと語った竜胆の言葉。龍明の残したもの。それらの意味が、今なら少しは分かると思った。  己よりも大切で、慈しもうと思えるものがあることを。 「あはっ、くぅ……んんっ……はぁはぁ……」 「……やこうさま、感じますか? 私はあなたを、もっと、もっと欲しておりまする……っ」 「あっ……ああっ! はぁっ……んくぅ、んんっ……あっ、あっ、あっ、あぁっ……!」 「もっともっと、夜行様を感じさせて……はぁああん、ください、ませ……」  体に見合う鳴き声は小さく、喘ぎながら欲している。  抽送は敏捷に繰り返されており、龍水が幾度も仰け反っては、前へ体を倒して快感を貪っていた。 「……くはぁっ……んっ……あん、あぁっ……あふっ……ん、くうぅっ……はあぁあああ……っ」  と、そのとき。夜行の体にも異変が起き始めていた。  怒張していた肉棒ならず、体全体が熱を帯びているのだ。  だが、それでも男が目を覚ますことはない。よがり狂い始めている龍水をよそに、ただ眠ったままである。 「ん、んはぁっ、あ、あつい……あついです、夜行様ぁっ……」 「はむぅっ……ちゅっ……ちゅちゅ……ああっ! あぁっ……あっあっ、す、すご……いです、奥に……ずしんと響いて……はぁあああっ……!」  体を前へ倒したまま男にくちづけて、少女は腰を律動させてゆく。  やはり体は熱を帯びている。舌を入れると、口の中が熱いのだ。 「ちゅっちゅ……はぁんむ……ちゅっ、んっ……あっ……んくうっ……」 「はぁぁ……ん、あっ、あっ、あっ、……いい、あぁっ……あぁあああ……はぁぁん……っ!」 「んく……ちゅう、ちゅっ……ぷは。口の中へ、舌を入れると、甘く切のう……ございます……っ」  腰の動きが緩やかになることはなく、唇の隙間から漏れる吐息も冷めることがない。  愛する男に跨って、一方的に蹂躙しているような感覚。  龍水の中に、様々な恋着が打ち寄せては情愛を置いてゆく。  きつく締め上げるような腰使いに、とうとう肉棒が反応し始めていた。 「はくぅう……あぁあああ……夜行さまのが、震えておいで、です……っ」 「いいですよ。私の準備は、とうにできております……んんっ……くふぅ……」 「存分に膣内へ、お出しになってください……はぁはぁ」  少女の懸命な腰使いに、夜行の芯は滾り、鈴口からは液が漏れだしていた。  もうすぐそこに見える果ての情欲へ、龍水は忍耐の限界である。  ひた従順に尽くし、そして与えられた快感は、まさに至高の感覚だった。  ──消えかけた魂にまで、感覚の手が届く。  ──かつてそう願ったように。傷だらけのそれを、己が総てを懸けて、補っていく。  ──生まれ変わらせていきながら。 「ああぅ……、もう、いきそうに、あぁあああ! がまん……できっ――――」  あふれ出る飛沫によって、結合部だけでなく、その周りもびっしょりと濡れてしまう。  龍水が、とうとう絶頂へとたどり着ついてゆき―― 「はあっ……、はぁはぁ、わたしっ、とうとう……やこうさまの、うえに乗ったまま……っ」 「んくうぅっ……はぁっ……はああっ……いやぁ、ああんっ……はぁぁっ……やこう、さまっ……!」 「ひゃああ……はあぁ、あっ、あっ、あっ……も、もうっ……ああっ、いくっ……!」 「はぁああぁあああああっ、やこうさまぁっ」 「んん――――っ」  同時に放たれた夜行の迸りを、少女は歓喜をもって受け入れる。  衝動がはじけると、龍水は体を大きく仰け反らせて、その身を落としたのだった。 「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」  まだ男の性器は挿いったままであるが、龍水は抜こうとしない。  快楽に飲み込まれたまま、意識が解放されてしまったままである。 「あぁぁ……やこう、さま……」  そして、忘我の刹那──  個我が散逸し、自らさえ知らぬまさに刹那── 「――太・極――」  ■■■■■  ──ふいに口ずさんだ〈咒〉《ねいろ》を、この世の誰も聞き取れない。御門龍水すら認識しない。  ただ、これこそ至福の時であった。寄りかかりながら、逞しい体に身を横たえる。 「さあ、どうか──」 「私の届かぬ黄泉の彼方から、再び、その姿をお見せください」 「今度は傍で勝利を見届けます。ええ、夜行様は何も悪くございません。ついて行けずに気を失った私が悪いのでございますから」 「これより見事、〈怨〉《 、》〈敵〉《 、》〈討〉《 、》〈ち〉《 、》〈果〉《 、》〈た〉《 、》〈す〉《 、》〈未〉《 、》〈来〉《 、》〈を〉《 、》」  真実、たったそれだけを。 「龍水は、思い描いています」  いざや、閻魔を現世に呼び戻そうとする声に。  ──鼓動が、走る。  見果てぬ断崖。暗黒に覆われた奈落の底。魂魄喪失し、為す術なく墜落していく消滅の刹那。  聞こえるのは、何か? 己を呼び覚ますものは、何だ?  覚えがあるような気がすることを、不覚と断言してよいものか。分からない。考え付かない。いやそもそも、思考などとうに砕けて失ったのだ。残骸は立たず動かず黙するのみ。  今の太極に、死滅したものを救済する法則など有りはしないのだから。  だが、それなら──  この耳に届く声は、己にこの上なく同調する懐かしい〈咒〉《しゅ》の波長は、いったい。 「ああ。そうだったな」  そうだ。思い出す。自分は、この渇望から生まれたのだ。  己が信念を他者に乗せ、遥かな天まで押し上げんとする女の情念。我が連れ合いは最強なり。なるほど、それが譲れぬわけか。  ゆえに、この結果など許せない。  あなたは私の〈男〉《もの》なのだと。横取りされたという過去に、猛り荒ぶる情念へ毅然と答える。 「黙れよ貴様ら、あまり私を見縊るな」  自らを生んだ原風景。己を押し上げた側への回帰に、夜行は然りと異を唱えた。  消滅寸前の魂魄が、再び繋ぎ止められる。暗闇からの解放が、いま、この時、ついに── 「まず言っておこう龍水。私は、〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈の〉《 、》〈手〉《 、》〈な〉《 、》〈ど〉《 、》〈必〉《 、》〈要〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》」 「これは私の〈太極〉《せかい》であり、私自身の得た渇望。他人のおまえに入る余地など微塵もなく、また踏み入っていいものでもない」 「子女の力など当てにせぬ。己が力、己が道にて奴を討つのだ。その一点を違えぬからこそ──」 「私は、私自身で在れるのだろう」  摩多羅夜行は、御門龍水の渇望により再臨する。  神格と小娘による夜行の所有権を賭けた一幕。魂を知った認識と一念こそが、太極の影響さえ超えた。  その波動。その威容。威風堂々、恐れるもの無し。そう語る姿こそ、ああ格の違いを見せ付ける桁が外れた存在こそ── 「──はい」 「はい! それでこそ、私の愛する夜行様です!」  御門龍水が追い求める、至大至高の益荒男だった。 「この御門龍水。夜行様以上の男はないと信ずるところに、一点の曇りもありませぬ!」 「夜行様の後を追い、此の先も献身することをお許し頂ければ、私は幸せにございます」 「知っておるさ」  これが彼らの自然な在り方なのだろう。  歩幅も速度も違い、寄り添うことも、寄り合うこともよしとはせず、勝手な男の勝手な道にひた全力でついて行く。  だが、それが絆の弱さではない。この繋がりは決して断てぬ。強固な共生関係は神の判決すら捻じ曲げるのだから。 「今度は遅れるなよ、龍水。我ら以外にも役者が揃う」  遠方より感じるそれは──新たな覇道流出の息吹。  夜行の開いた特異点の道筋を辿り、異なる法則が座へと唸りをあげて流れ込む。二つの太極が邂逅し、世の覇権をかけた一戦が始まるのだ。  〈神咒神威〉《カジリカムイ》に彩られし、天地を懸けた神楽舞が──  今これより、幕を上げる。  特別付録・人物等級項目―― 摩多羅夜行、御門龍水、奥伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 摩多羅夜行、御門龍水、奥伝開放。  ……………  ……………  ……………  ──時折、身体が軽く感じるようになったと刑士郎は思う。  物心ついたときには既に自分の中で巣くっていた衝動。常に胸の奥から囁いてくるような声は、露か幻の如く喪失していた。  身を焦がすほどの狂おしい熱を求めていた。常に由来の判らぬ焦燥感に駆られていた。  目に付くものを片っ端から粉砕したい。腹を割いて血を啜りたい。内臓を噛み千切り、うず高く詰まれた死骸こそ我が武威武功武勲なり。根拠もなくひた暴虐へ埋没したいという本音があった。  それが今は、何をせずとも満たされている。頬を撫でる冷たい風に、雲の浮いた空。凶月の里へ帰るまでの間、木々で覆われた山道にさえ風情を感じていた気がする。心変わりは明白だった。  東征での戦いに満足したからか? だが、人は一度満たされれば当然次が欲しくなる。それが道理だ。絶頂を体験した覚えのある者が、再びその瞬間を追い求めるというのはよくある話ではないか。  それはこの世の常道。より強く、より雄々しく、より高みへ。我が身を以って君臨せよ。  目指す天は遥か上だ。化外の蜘蛛を倒したならば、次を求めて駆け上がるべきではないだろうか。  飽くなき踏破と、墜落にも似た疾走の生。それこそ正しき道であり、世を満たす最大数の思想であるが── 「飽いていればいい……か」  そう思うとき、ふと、刑士郎の瞼には決まって宿儺の姿が浮かびあがる。  あの天魔が叫んでいた言葉が、地獄を震わす咆哮が、幾度となく彼の心へ疑問の波紋を訴えるのだ。  ……本当にこれでよいのか? 自分は何か過ちを犯していないか?  己だけを天に乗せ、踏みしめた地を捨て去り、他者を俯瞰し続ける様でよいのかと。客観的に冷めた理性がそう語るのを感じている。  都で別れる間際、夜行は刑士郎の状態を指して『解脱』と称した。  生まれ持った業を断ち切り、迷いを捨て去ったものが至る悟りの境地……とのことだが。 「──刑士郎。これより先、おまえは覚悟しておくべきだ」 「様々な他我の影響を脱したということは、自立と引き換えに寄る辺を無くしたということでもある。よって、おまえを後押していた様々な加護は、とうに雲散霧消しておるのだよ」 「陰のみが潰えたのではなく、陽からも背を向けたと知るべきだ。まさに真なる孤立無援」 「雄々しく地を這うおまえの道が、いざどのような姿を見せるか……ああ興味深いな、愉快でたまらぬ」 「そして、然りと誇れよ──その道を。幾星霜にも積み重なった時の果て、おまえはついに初の快挙を成し遂げたのだ」 「神の御手より脱したこと、ゆめゆめ忘れず進むがよい」  愉悦噛み締めた物言いだったが、正直、彼は眉唾な話だと思っている。迂遠な忠言は相変わらず胡散臭く、いつもの戯言と受け流したからだ。  それもそうだろう。業と言われても、およそ刑士郎には自覚がない。大逸れた言葉を吐いた覚えもなければ、とりたてて歪な行動を取った記憶もなかった。  あくまで自分は意思を貫いただけ。ただ単に、土壇場で咲耶の命を選択したに過ぎないのだ。逡巡もしたし葛藤もしたが、せいぜいそれぐらいしか心当たりを描けずにいる。  極大の歪みに堕ちて得る栄光と、守護を誓った女との両天秤。命すら賭けて後者を取った事実がどれほど重大な決断であったか、未だ自身は気づかずにいる。  良識的な判断基準の芽生え、現世において本来あり得ざる選択をした意味を、何一つ自覚していないままだった。  鬼は告げた──オレを殺せるのは『人間』だけだと。 「なら、それまで俺はなんだった……?」  血を喰らう鬼か? 足の生えた血染花か? 闇夜に舞う不死鳥か? そしてそこを脱したというのなら── 「いったい何になったのだと、てめえは俺に言いたかった?」  疑念に答えられたであろう存在は自らの手で斃れ、答えたがったであろう人物は突如この世から零れ落ちた。  守るということに幸福があると、酒を浴びずともそう語っていた痴れ者の姿を思い出す。  最初から最期まで見ていて気持ちの悪い女ではあったが……思い返してみると何故か、以前ほど彼の中で激しい嫌悪感は生まれていなかった。  むしろ、朧気ながらに理解できないこともない。要するに惚れた相手が大切ならば、その分だけ大切にしてやれということだろう。  当時は妙に裏を勘ぐり困惑していたが、いま思えばそのままの意味を受け取ればいいだけの単純な物言いだったと感じている。  かつて理解できずに突っぱねた宣誓を、いまもう一度聞いたなら。  あの日行なわれた御前試合に、時を越えて再び立てるとしたならば。  果たして、己は何を感じたろうかとそう思うのだ。  もはや日課となった自問自答は、依然として答えが出ずにいる。進退どころか、進むべき道さえ掴めていない。やるべきことを終えた虚脱感と、何かを見落としているかのような掻痒を感じていた。  えもいわれぬ感情を持て余しながら、彼は咲耶と共に凶月の里へと帰郷する。  ──そして、舞い散る桜花を眺めながらいつも考えるのだ。  東征を終えた今、これから己は咲耶に何をしてやれるのか。  一族の悲願たる穢れを祓ったことで、手に入れた彼女の〈未来〉《じゆう》に何を示してやれるのか。  凶月刑士郎は未だ見えぬ未来を思い、考えている。 「お勤め、ご苦労様です。兄様」 「まったくだ……騒ぐ理由に引っ張り出される身にもなれ」  寝所にて膝を枕にし、上から降ってきた連れ合いの声にため息を漏らす。喉から鼻へ抜けた呼吸は仄かな酒気を帯びており、同時に微かな気疲れも宿していた。 「連日連夜、どこもこぞって馬鹿騒ぎだ。歓喜で螺子が飛んでやがる」 「凶災の恐れ、失せた消えたと騒ぐはいいが……加減がな。潰れるために飲むのも阿呆らしい」 「あの調子でいけば、そのうち残った備蓄も尽きるぞ。穢れを祓えた代償に、刈り入れ前で餓死するつもりか?」 「辛辣なことを。少々、大目に見てもよろしいのでは?」 「今や兄様は〈凶月〉《われわれ》の誉れでございましょうに。神楽を演じ、悲願を遂げた英雄の凱旋、湧き立つ皆の心境もどうかご理解くださいまし」 「天魔を討ち取った益荒男ですもの。我が事であるかの如く、誇りたい気持ちもわかりましょう」 「英雄か。どうだかな」 「いざ終わってみれば、今一つぱっとしねえのによ……」  空しい響きだ。人伝に聞かされれば尚の事、一層その言葉が空虚に感じているのはどういうことか。  他の武功を群で括り、そこに己を投影して悦んでいるだけなのではと、無情な想像が脳裏をかすめる。悲願という言葉もそうなれば怪しい。どれもこれもが自らのためという目的に、別の表現を被せているようにさえ思えていた。  その度に、以前とは異なる奇怪な癇性が彼の胸裏を満たすのだ。  思えばそれは〈秀真〉《ほつま》の都に帰った時から感じていたのだろう。邸の地を踏んだ瞬間、四方から突き刺さった賞賛と嫉妬と無関心の視線を覚えている。  口々に彼らを褒め称えながら、その実彼らのことなどまるで気にしていない者の数々。笑わせてもらった。ただ東征の武功と分配のみを、虎視眈々と狙った目なのだから。  この者ら、我に利するか利さぬのか? 基準はただそれのみ。労いに隠された薄皮の下、誰もが我執を秘めて英雄という偶像を迎え入れていた。  里の連中が騒ぐ様も程度は低いがそれに似ている。朧な感覚だが、それは刑士郎が顔を顰めるには十分な理由だった。 「数少ない娯楽には丁度いい、ただの御輿だ。豊穣を祭る以外、山奥には騒ぐ名目がありゃしねえし」 「第一、それを言うならおまえもだろうが。知らぬ存ぜぬとは言わせねえぞ」 「先陣を切った女衆。そこに名を連ねている以上、もはや内外において名を知らぬ者はいないだろう」 「まさか。それこそ、わたくしには過大評価と呼ぶものでしょうに」 「元より、この身は使い捨ての発破。火薬の塊には過ぎた称号でございます。実際、東征においてどれほどの助力になったものかと」 「仮にわたくしが、真に〈禍津瀬織津比売〉《まがつせおりのひめ》の〈咒〉《な》に恥じぬ、果敢な働きを見せていたならば……」 「犠牲は減ったと? 済んだことだ」 「結末を見てしまった以上、そいつはどれだけ上手く語り継ごうと……手に戻らない、詮無きものなんだよ」 「なくしたものは返らねえんだ」  悔やみ、祈り、膝を折れば帰ってくるほど黄泉の隔たりは容易くない。死が如何に強固な線引きであるか、それは化外の者らも語っていたことだった。  咲耶と刑士郎が思い描いている人物は、死んだ。原因がわからずともその事実だけは変わらない。  ならば過ぎ去った事実を思い返そうとも、囚われてはならないと刑士郎は考える。 「他人の名付けた心象に、おまえが引き摺られてどうするよ。万能を謳う奴こそうつけだ。天嶮の才あれば、何でも出来ると勘違いしてやがる」 「どれだけ優れた〈存在〉《モノ》であろうと、個は所詮、ただの個だ。耳障りのいい謳い文句に傾倒し、元の自分を売り渡すな」 「俺は凶月刑士郎で、おまえは凶月咲耶だろうが」 「他は知らねえ。それでいい。そこで満足しておかないと──」 「……俺らは永劫、飽いて餓えた獣のままだ」  鬼の影を思い返しながら彼は目を伏せた。 「ふふふ……」 「やはりわたくしの目に狂いはありませんでした。本当に、兄様はお優しくなりましたね」 「はあ?」 「違うなどとは言わせません。咲耶の目はごまかせません」 「里の者も口を揃えております。口調から以前より棘が減った。里のことを慮ってくれるようになったと……」 「前より良き〈男〉《おのこ》になったとも。ええ、ええ、それはもう妬けてしまいますほどに」 「おい、抓るな……」 「女心はこんなに疎いままですのにね」  じゃれるように咲耶は頬をつまみ、撫でる。羽毛に触れるかのごとく優しい手付きで、輪郭をなぞった。 「当主の自覚が出てきたのでは、とも噂されている御様子。兄様はわたくしの兄様ですのに」 「老若男女の区別なく、手当たり次第に魅了して……」 「一朝一夕でそう変わるかよ。馬鹿馬鹿しいから、気にかけるな」 「嘘ばっかり。こんなにも心穏やかでありますのに」 「その証拠に、いまもこうして成すがまま。これでもまだ、何か反論なさるおつもりで? 口論で勝算がおありとでも?」 「ちっ……」  優しく男の髪を撫でる仕草は柔らかく、包み込むような慈愛の温もりに満ちている。無条件で与えられる安らぎはかつてよりも深いのに、かつて感じた苦痛がない。  幸福こそが苦痛であり、繋がりや絆を蛇蝎の如く忌み嫌っていた。生まれたならば人はみなその瞬間から孤独。天地に己が轍を刻み、それでいいと達観していた。ああ、そう感じた過去に嘘はない。  けど今は、自然な振る舞いで咲耶の慕情を受け止めている。拗ねるように身動ぎした仕草が彼の内心を語っていた。 「……旅の疲れが抜け切っていないだけだ」 「それも嘘。あれから幾月経ったと御思いですか?」 「勝手が前と違うんだよ。まったく不便で仕方ねえ、〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈は〉《 、》」  汚染の消滅を機に、歪みの抜けた自身を指して刑士郎は不機嫌そうに鼻を鳴らす。  東征により陰気の〈源泉〉《もと》を断った影響か。あれからゆうに〈三月〉《みつき》も経てば、既に影響は里の者にも見え始めていた。髪の色が正常な黒へと戻り始めている。  凶月の里においても汚染が軽度だった者は既に歪みが抜け切っている。髪の色を除けば、特に刑士郎もそうだ。一度の喪失を機に、再び獲得したあの極限とも言える陰気が、身体の奥から微塵も感じとれずにいるゆえに。  宿儺との一戦において何が起こったか、正確には彼もわからない。だが病み捻じれた渇望と決別したことと、恐らくそれは無関係ではないと思っている。  誰かに凶兆の因果が舞い込む負の血盟は、完全に消失の兆しを見せ始めていた。 「……〈御髪〉《おぐし》の根も少し黒くなり始めておりますね」  生え際を優しく掻き分けて、咲耶がどこか寂しげに語る。いとおしむ様にそのまま美しい指先で毛繕いをして。 「案ずるな、おまえもじきにそうなる。元々、これが自然なんだろう」 「遅いか早いかの違いだけだ。ほんの少し、おまえは他の奴らより濃いだけだ。最後の一人になるだろうが、いずれは必ず──」 「本当に」 「そうでございましょうか?」  ふいに、刑士郎は知らず息を呑んだ。 「竜胆様や龍明様のような濡れ羽色の髪もまた、いと美しいとは存じております」 「けれどわたくしは、一面の景色を覆う新雪も中々のものと思うのですが」 「禍福は〈糾〉《あざな》える縄の如し。いざ手放すとなると、少々物悲しく感じてしまう次第でして」 「物悲しいのでございます……心繋がった、自分の色を失うのは」 「兄様は、どちらが似合いとお思いですか?」 「そいつは……」  不思議と喉の粘膜が乾いているのを刑士郎は感じていた。言葉に詰まったのは気の迷いでも無意識でもない。明瞭に感じ取った不吉による直感だ。  溢れんばかりの愛を含んだ吐息は艶かしく、背筋が震えるほど劣情を掻き立てるものだった。  まるで、甘い蜜で獲物を誘う食虫花のような── 「…………」  そこで思い浮かんだのは天啓にも似た予測。もしや、と心の中で燻っていた疑問が……確実性を帯びて刑士郎の中で形となる。  未だ、咲耶の〈禍憑〉《まがつ》きは目減りしていないのでは?  白無垢に身を包んだ花嫁の如く、咲耶は未だ純白の姿を保っている。髪が黒に染まる兆候もない。今までは桁違いの陰気ゆえに変化が遅いと思っていたが、仮に、そうあくまで仮に、それが真実であったなら。  凶月咲耶が〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》を自ら抱き続けているのなら── 「……実際に色の変わったおまえを見ねえと、なんともな」  浮かんだ想像を刑士郎は強引に断ち切る。虚空を睨みつけ、ゆっくりと懐の奥で握り拳を形作った。 「どっちにしろ、こういうのは慣れだ。〈肉置〉《ししお》きが変わるけでもなかろうに。抱き心地がそのままなら、それでいい」 「まあ。女子の容姿をどちらでもよろしいだなんて。無粋な兄様」 「わたくしも女の端くれ。好いた殿方の楔として、美しく着飾りたいと思うのですよ? 釣った魚に餌はやらぬと、仰られては悲しい限りでございましょう」 「目移りなんて許しません。情の深さ、見縊ってもらっては困ります。暮れの〈簪〉《かんざし》一つにも万の思慕をこめていますのに」 「あのなぁ、それこそ無粋な問いじゃねえか」 「俺にとって『女』とはおまえのことだ。他は知らんし、背負いきれん」 「あいつら見てると、癖が強すぎて特にな……」  共に戦地を駆け抜けた女傑、その奔放加減をよく知っている。脳裏に浮かぶ〈錚々〉《そうそう》たる面々に眉間へ皺を刻みつけた。 「物騒なじゃじゃ馬、好き好んで乗りこなすつもりはねえよ。だいたい矢面に立つのは男の役目だ。柔いおまえは母屋を守って待ってりゃいい」 「女の影に隠れたまま荒事を観賞している男など、死んでいいだろ」  だからこそ。 「帰った際に、膝を貸してくれりゃ十分だ」 「面倒だから、諸々気負うな。余計なことは俺がする。だからおまえは、おまえでいろ」  あくまで横へ寝転がったまま、視線を合わせることなく呟いた。 「ああ、兄様……」  口下手ながらも一途な情で囁かれては、いとたまらぬのは女の方だ。  表情が花開く蕾の如くほころび、頬が桜色に紅潮して淡い色気が滲み出る。とくりと早鐘を打つ心臓。咲耶の全身を満たす至福は溢れんばかりに渦を巻いた。 「────あ、はむ」  突然、耳に触れた愛情と湿り気に刑士郎は身じろぐ。 「……なぜ耳をかむ」 「兄様があまりに愛らしいのが悪いのです。どうしてくれますか? 咲耶を悶死させてしまうおつもりで?」 「なんてずるい。愛しく、恋しい。女を喜ばせる術がこれほど上手くなっておいでで。わたくしのためと、自惚れてよろしいのでしょう?」 「ひとたび思えば、いてもたってもいられません。ついつい、食べてしまいたくなるほどに」 「ん、っ……ふふ、ふふふ」 「そこまでにしろ……むず痒いからよせよ」 「ならば、もっと肌を合わせましょう。このまま淡雪のように、兄様の熱で咲耶を溶かしてくださいまし」 「とろとろになるまで……」  わたしは、そうやって一つになりたい。  顔を覗かせるのは究極とも言える奉公の愛。捧げたい。喰らいついて。ああ食べてほしい、齧り付いて。  奈落へ続く穴のように咲耶の想いは濃く、深い。兎にも角にも彼女はひた尽くしたいのだ。己が持つものならばそれこそ根こそぎ、遍く総てを与えたくなる。  その恋情ごと男の血肉にしてほしいから。 「ああ、どこかに、わたくしと兄様を縫い付ける丈夫な糸があればよいのに」 「これではとても足らないでありませんか。身に余る幸福に対し、わたくしから兄様に捧げるものが、あまりに不釣合いです」 「んなことねえだろ、三食同衾で丁度いい。おまえの飯はうまいからそれで文句はねえよ」 「それでも、ああもっと、より多くと……兄様の女でありたいと願うのは、わたくしの我侭でございましょうか?」 「咲耶の総てを奉られればよいのにと、尽きぬ想いがあるのです」  乙女のたおやかな微笑に、安らぎと不安が刑士郎の胸中で入り混じる。  意識に絡みつく情念は怖気の経つほど優しくて、その心地よさが何より甘く焦りを煽る。首筋からうなじを這い登り、耳朶から脳へと浸透する温もり。多幸感が彼の心身に願わずとも流し込まれていくようだった。  かつて煩わしいと疎いながらもどこかで享受していたその愛情。花弁の奥へたたえられた蜜の如く、甘露となって身体の芯まで入り込む。  いい女なのだろう。女の領分を弁え、良人を立てる姿は器量よしと呼ぶに違いはない。  ……はずだと、思うのだが。 「そういうことは軽々しく言うな」  何をそれほどまでに恐れているのか。自分でも判然つかぬまま、静かに諌める言葉を吐いた。  咲耶の手を掴み、そのまま上体を起こして抱き寄せる。里に帰ってきてから幾度も繰り返した行いに、彼女はそっと胸板へ寄りかかった。 「お気に障りましたか? ならば兄様、このような不遜な口は塞いでおかねばなりませんね」 「ですから……んっ、どうか、今宵も……」 「組み伏せて──お情けをくださいませ」  妖艶な誘いを〈食〉《は》むように、唇を落とした。  かつてと異なる癇性を止めるため。刑士郎は今日も、その日の終わりに咲耶の身体へ溺れるのだ……  手放した〈禍津〉《まがつ》に魅せられるかのように。 「はむっ……ちゅる、ちゅっ」 「……れろ、れろっ。ちゅむ」 「ちゅる。ちゅう、ちゅっ、ちゅっ、ちゅうぅ……」  夜半の月が見上げる暗天の空を、虫も鳴かずに黙って見上げている。  忍ぶように静まり返る里の中で、秘め事は激情のままに行われていた。 「んっ、んっ、んっ……ちゅぶ」  見上げる妹は頬を紅色に染め、目の光は儚い月のように朧気だった。 「ちゅる……はむん…ちゅう、ちゅる……っ」 「……ぷは、はぁはぁ……あむんっ、れろ、ちゅううぅ」 「ちゅっちゅっ、ちゅぶ……れろっ、ちゅるるっ」  舌を這わしながら上目づかいに反応を窺う。蠱惑的な視線は蜜の如く甘い。  この行いをとても嬉しく、幸せに想っているのか。 「はむん……ちゅる……れろっ、ちゅっちゅっ」 「んぷ、んんんっ、れろ……んちゅっ」 「はぷっ……ちゅぶ…ちゅるるるっ……ぷは」 「くすくす……れろっ」  慈愛に溢れた舌が、ベタベタになっている口の端をぺろりと舐め上げた。 「はぁ、はむっ……ちゅ」  そして、再び貪るように口に含まれる。 「兄様、わたくしの唇の具合はいかがでしょうか……?」  憮然としたまま答えない。  答えぬまま咲耶の顔を見下ろして、その蕩けた眼を見つめるだけだった。 「くすくす……。兄様は、このようなときでも強情なのですから」 「それでは何も言わずに、わたくしの奉仕する姿を見つめておいてくださいまし」  それだけを言うと、また膝元へ頭を沈ませる。 「あむ……ん、んんっ……んむ……」  唾液を垂らし、肉棒から口の中へ分泌してくる液とを、舌を使って混ぜ合わせる。  咲耶は、それだけで倒錯的な快感を得ているのだろう。  刑士郎とあらゆる意味で交わりたいと渇いている。 「はぁむ……あに、さま……っ」 「んむ……ちゅ……れろっ……ちゅるっ、んっんっ、んちゅっ……」 「はぁっ、ん、んんっ……んっ……はぁむっ、ん、ちゅう、ちゅるっ」  薄い唇の奥で、舌が亀頭を這い回る。  固く怒張してゆく刑士郎の熱を、敏感に感じとっているらしい。刑士郎は声を漏らさず、乱れるその様を見続けていたままだった。 「ちゅ、ちゅる…れろっ……んっ、んっ、んっ……」 「んむっ……じゅる、ちゅぅ、んんっ……じゅるるっ」 「ちゅううう、んんっ、はむっ……」  肉棒は、驚くことに1度も外気に触れることがない。  ひたすら口の中で弄び、ときには歯を軽く立てて、咲耶は奉仕し続けているからだ。  まったく〈暇〉《いとま》のない愛撫。執拗ともいえる口淫に刑士郎の中で先の疑念が渦巻いている。  こんなときさえ、危惧を感じているために…… 「んぶっ、んっ、あむっ、ぐっ、んぐぅっ……」  薄明の部屋の中で、たちこめる臭いは淫靡である。  刑士郎にとっては、それが夜ごとに垣間見る血染花の香りであるようにも思えてしまう。  凶月という深く閉ざされた〈山間〉《やまあい》の底で、ひっそりと咲いている紅い花。  それらが咲き乱れていればいるほど、愛は深くなっているように感じるのだ。 「ちゅる……むぷっ……んんっ……んぅ……」 「ちゅ、ちゅ、ちゅ……ちゅるるうっ……はむんっ……ちゅっ……」 「んちゅ……んぷ、ちゅぶ……ちゅううう」  舌で鈴口を締め上げるようにして、分泌液を吸い出そうとする。 「んっ……んっ……んむっ……」  一心不乱に愛撫を続ける姿に思わず腰を引くと、咲耶は夜のように深い笑顔を浮かべた。 「兄様。咲耶は、このように反応してくれる兄様を愛おしく感じております」 「兄様は、わたくしのことをどのように感じていらっしゃいますか」 「……咲耶。こんな状態のまま置いておくんじゃねぇよ」  ただ一言。そう答えると、咲耶は予想通りの答えを得たりと破顔した。 「はぁっ……わたくしのこの慕情は、兄様を差し置いて、他の誰へも見向きするものではございません」 「兄様を誰よりも慕い、兄様を誰よりも識っております」 「はぁ……んっ……はむっ……」 「本当に……、兄様のことを食べてしまいたいくらい」  爛々と虹彩を輝かせて、再び舐め始めた。  幸せに慣れないままの姿、以前と変わらぬ部分を見つけるのが、愛おしくてたまらないかのように。  今のまま、何も変わらないでいることを望んでいるのか。より深く刑士郎のものを咥えこむ。 「んんっ、ぁ――んっ、ちゅぶっ……はぁむっ」 「お、おい……っ」 「ちゅるっ……はむ……れろっ、ちゅぶ……っ」 「んんん……んふっ……ちゅううぅ……ちゅるうううっ!」  腰が自然と浮いてしまうほど、咲耶の愛撫は激しさを増してゆく。 「ちゅぶっ……ちゅっ、んちゅっ……んちゅっ、ちゅる」  わずかに困惑している刑士郎を気にも留めない。ひたすら奉仕し続けていた。 「ちゅっ……ちゅるっ、れろっ、……はむ…んちゅっ……んちゅっ」 「ちゅぶっ……あぁぁ……んんっ……ん、ん、ん」  一心不乱に口淫する姿は官能的ではあれど、やはり一抹の気掛かりを覚えさせる。  だが、押し寄せる波に抗う暇もなく、円転滑脱と動く舌に肉棒を愛撫され続けていた。 「ちゅっ、ちゅるぅ、はむ…んんっ……んぷっ」 「じゅるるるぅ……んふっ……んはっ」  白髪が揺れるたびに、その唇についた愛液が、うっすらと糸を伸ばして光っている。  薄暗い部屋の中で、妹の口元にへばり付く蜜が光ると、刑士郎の興奮は静かに高まってゆくようだった。 「はぁはぁ、むぷっ……んっ、んっ……ちゅぶっ……」 「ちゅううぅ……れろっ……ちゅっ…ちゅっ……」 「んぷ、んちゅ……んくっ、んく……れろっ」  鼓動と同じくらい早く、ひたすら吸い付いて頭を上下へ揺すっている。 「んっ……ちゅるっ……はむっ……ちゅるうううっ!」 「んっ、ん! ちゅぶっ! はぁっ、ちゅるるっ……!」  駆け抜けてゆく衝動に、意識が白く塗りつぶされてゆく。  もはや少しの猶予もない。  咲耶の頭をその手で掴み、たぎる情念を吐き出した。 「んん……んおっ……おぷっ!」 「――くッ」 「ん、ちゅぶっ……んんっ、はぁっ、はぁはぁ」  一滴すら零すまいといった様子で、咲耶は喉を鳴らす。  精液を飲み干そうとしているが、口の端が狭いせいで白濁は零れだす。  普段よりも多分に吐き出された精虫たちは、その頬まで白く汚していった。 「ふぅ……。兄様、たくさんお出しになられて……くすくす」  顔だけでなく髪にもかかり、畳も精液で汚されている。  腰に甘い疲労感を感じながら、膝をつき息を吐いてからつぶやくように言った。 「そうやって見下すように笑うんじゃねぇよ」 「ですが、こんなにも汚されては。後で掃除をするのは、わたくしなのですよ」 「掃除すりゃあ、いいじゃねぇか」 「兄様は、すぐに捨て吐くように仰りますが、照れて隠したときと反応が同じにございます」 「……うるせぇよ」  目を逸らしながら言い捨てようと暖簾に腕押しか。 「それほど妹の口の中で、ご満足いただけたのでしょうか」  刑士郎は、咲耶のこのようなところに弱い。  さきほどまで安娼婦のように淫奔な奉仕を見せていた女とは思えない、鈴が鳴るように可憐な声でささやくのだ。  灼け枯れた咽から焚かれた声であれば、情欲も興醒めして収まってしまうだろう。  しかし、挑発的で愛々しい声が耳に届いたとき、芯はまた熱を帯びていった。 「うふふ。どうやら、まだ兄様にはご満足とまでいかれてないですね」  目敏く見つけた咲耶が、体をすり寄せる。  これで終わりだなどと、咲耶も、そもそも刑士郎も考えていないのだ。 「くるしゅうございましょう。咲耶が、その憂さを晴らして差し上げます」 「気を回しすぎるんじゃねぇ」  五月蠅いところは変わらない。苦言を呈して止まないところは相変わらずだ。  しかし――と、刑士郎は思ってしまう。 「いいえ。兄様が、そのようにお答えになる度に、わたくしはこの身を捧げたくなるのでございます」 「兄様と繋がることで、わたくしはようやく安寧と幸を手にすることができるのですから」 「咲耶……」 「兄様。どうか、妹であるわたくしを思いきり貫いてくださいまし……」  さらに引き寄せて抱くと、力を抜いて身を預けた。 「あん……っ。〈童蒙〉《どうもう》のように、言葉が足りない兄様でございます」  最初は、あんなにも懊悩していた交わりが、今では何ということなく自然に抱けてしまう。  だからかもしれない。  咲耶が今の関係より、さらにその先を求め始めていることを、気づきながら目を背けていた。  自らに溺れさせたいと思っているのだと、薄々感じていながらも。 「兄様。こう、でございますか」 「ああ。その体勢で待っていろ」 「うふふ。しかし、妹としては、このような不浄を兄様へ向けているのは、小恥ずかしく思います」 「俺が気にしていないのだから、お前も気にするな」  秘所に触れると、体の準備は出来ていた。 「んんっ……、わたくしがうら恥ずかしく思ったのは、すでに兄様のを舐めていたときから、濡れていたからでございます」 「いやらしいわたくしを見て、兄様は何と思うのだろうと……はぁっ」 「あ、兄様が、そうやって妹に触れながら、何と言葉にするか……んくぅうう」 「わたくしは、恥ずかしかったのでございます」  だが、滾々と語る咲耶に対して、何も述べることがない。  ただ黙って秘所を指で触れ、愛撫を続け、そして空いた手で怒張した芯を妹のそこへと導いてゆく。  肉棒を秘所へあてがうと、挿入はせずに幾度か往復させた。 「ふわぁ……あん、兄様のが、こすれて……ひぅ」 「あっ、あっ、あっ……そんなにも、撫で付けられると、はぁああっ」 「まる、で……はぁはぁ、挿いっているよう……くぅ、ああっ、錯覚してしまいます……っ」  腰をうねらせて、兄の肉棒を、何とか自分の膣内へ挿入させようという按配である。  それでも、まだ挿いることがないように避けながら、擦りつけて律動させるだけに済ませる。  妹の声は甘く切なく、そして尻は物欲しげにゆらゆらと揺れるばかり。 「あああ。兄様、咲耶は切のうございます」 「はやく、兄様をこの腹の奥深くで、感じとうございます……っ」  そうして、はっきりと咲耶の口から言葉にさせた後で、一気に膣内へ突き入れた。 「――――んくぅっ! んっ、はぁんっ!」 「あ、あにさま……っ。いきなり、あああっ、くぅうううう!」  瞬時に、身体が大きく震えた。  壺の中は、すでに蜜が溢れるくらい濡れている。  まるで飲み込むように、その秘裂は一気に奥へと導いた。 「んくっ……あはぁっ……ん、はぁっ……!」  立ったまま壁に手をついている。  寡黙のまま後ろからその尻を掴み、突き入れながらようやく口を開いた。 「動くぞ」 「は、はい。兄様。思いきり、お願いします」 「思いのまま、ただ犯すように、わたくしを貪ってくださいまし」  秘裂を赤々とすぼめた咲耶が、腰をくねらせた。  もう待つことはできないと言外に伝えているかのようである。  だが実際、性器は愛撫をまったく必要としないほどに濡れていたのだ。 「……わかった」  水音が、静かにゆっくりと響いてゆく。  息を潜めて暮らしているような里で、この行為はことさら夜へ潜るようなものである。 「……っ あはぁっ! くぅう!」 「あ――、ああっ、はぁん、んんっ……やあぁあん」  突く動きよりも、突きだされた臀部の圧迫が、男よりも優っているかのような貪り合い。  抽送をしている動きと連動しながら腰をくねらせていた。  まるで蛇がしゃなり立ち、丸呑みにしようかという有様である。 「ああっ! んくふぅう! はぁ……あっ、あっ、あっ」 「んっ、はっ、あああぁ……はくぅ……あっ、んんっ」 「あっ、あっ、あっ んくぅうう……あっ、あっ、あっ、はぁああ」  膝をがくがく震わせて受け止めている。  それでもいっさい緩めることなく、律動を速めていった。 「あっあっあっあっ、くぅう、はあああぁ……やっ、んんっ」 「ひゃあぁ…ああぁ……あはぁ……はぁ、はぁ、はくぅっ」 「……よい、です……っ、兄様の…が……膣の、奥で暴れて――――」 「んんっ――……あはぁ」 「――咲耶」  名前を短い声で呼んだ。  ただそれだけで咲耶は、さらに背中を歪ませて仰け反った。 「ああぁ、あ、兄様。兄様の、んはぁっ……モノを、咲耶のココは、離したくないと叫んで、おります……っ」 「んくぅ…ぁ、ん……はぁはぁ、このまま――――」 「兄様のことを、食べることが、できてしまえばいいのに……」  さきほどと同じ言葉を口にする。  おそらく本気でそう考えて、願い、祈っているのだろう。 「んはあ……くっ はぁはぁ……はぁああん」  そして、それを自分はどう思っているのだろうか。  想像は刑士郎を激しく波立たせ、妹の体をさらに引き寄せると、抽送をより激しくさせた。 「あああぁ! はぁっ、はぁっ、んんっ。……くぅ、あに……さま?」 「兄様……、わたくしには、打ち明けてください……っ」 「今が幸せすぎて、くっ、はぁ……苦しいのですか?」 「それとも、東征前から、ただひたすら……はぁはぁ、苦しいのでしょうか」 「余計なことを言うな。気にするな」  そうだ。気にしてはならない、そうすれば今が砕ける予感がする。  代わりにただ抽送を繰り返すだけ。肉の快楽で、不安も逡巡も総てをごまかす。 「……ぁああ! んくぅうう……あっ、あっ、あっ、はぁああ」  突き上げが増してゆくと、咲耶はその口を閉じて、喘ぎ声だけ漏らした。  痛いほど心境が分かっているのだろう。だからこそ、歪んだ願いが膨れあがってしまうのだ。 「ぁ……んくぅ、ふわぁ…ああっ……はぁ、はぁん……んっ、んっ、んっ」 「んっ……ふぅう……は、はっ……あに、さま……あぁああっ」 「このまま、わたくしも、兄様も……はぁああ…はぁはぁ……、二人だけで――――」  決して、快楽の波に溺れることを可能にしているわけではない。  河の底は浅くて足がついてしまう。だから、もっともっと、すべて飲み込んでしまう流水が必要だ。  そして、抱えたものごと溺れてしまえばいい。 「んはぁ……! も、もっと……ついて……兄様……はぁああっ!」 「兄様の……すきに……、めちゃ、くちゃに……はああっ! んっ! 」 「ひゃああ……あっ、あっ、はぁあああっ、あぁん、くぅうう!」  温かい泥の中で交わっている感覚が、刑士郎を痺れさせた。  艶かしい鈴の声が耳から侵入し、脳髄を震わせ、そして下腹部へ降りてくる。 「ああっ……んっ、んっ、くうぅ……っは!」 「っひぃあ! くふぅ、はぁ……はあっ、はぁっ」 「ひ、ぐっ……くうっ……んっ、んっ、ぁあ……」  咲耶は、夢見心地で腰を振っていた。  妹にとっては、ここがつまり望郷であり、桃源に遊んでいることに他ならないのだ。 「……くっ…はぁはぁ、……あはぁっ! ……ひゃあぁ、んんっ」 「……兄様、どんどん……固く、大きくなって、ゆきます…ねっ!」 「あっ、あっ、あああぁ………ひゃあぁん、っん……んんっ……くぅっ」  刑士郎はもう何も考えずに股ぐらを打ち付けていた。  今、考えて……一人で憂いていても意味がない。しようがない。  咲耶から感じる畏れは、彼だけのものでしかないからだ。妹は何も畏れていない。 「兄様ぁ……。もっと…もっと……」 「……兄様と、わたくしは……ずっと、離れられない…運命に……」  そうして、尻をなでつけて目の前で臀部を揺らすのだ。  その真っ白な尻へ指を食い込ませて強く押さえた。 「ああっ……はぁぁああぁっ! ……いい、い、いっ……んくぅうう」 「……んっ、ひぃっぁ……ああぁっ……かはぁっ、ん、んんっ、ぁっ、あぁっ……あぁ……っ──!」  喜び打ち震え、体を大きく弓なりに仰け反らせた。 「ふっ、く……んん……ん、ふぁ……ぁああっ、奥、に────っ!」 「うぅっぁ、あああっ、ぁ、ぁ、っ!」 「っ、ク……ぁ…ああ」 「もう少しだ。あと少し待て、咲耶」 「は、はい……っ。兄様の望むように、あっあっあっ」 「くぅううう! ひぃあああっ……はぁはぁ……あんっ」 「はぁっ、はぁっ、す、すごい……はげし――――あはぁっ」  そして、刑士郎が体ごと貫くように深く突き入れたとき、咲耶は確かな情動を感じた。  苛立ちを愛々しくてたまらないと感じているのか。  だからこそ兄には変わって欲しくないと、そう思っているのだろう。 「はあんっ……あうっ、くうううぅ……やぁああん!」 「くふうっ、はぁくっ……んくぅ! はぁはぁ、あぁあああぁあああ」 「ひぎぃっ……くうっ、あんっ、ひゃああっ、はぁあ……くっ」  刑士郎もまた感じている、咲耶に残留した衝動を。  水面は静寂なれど薄い化けの皮を隔て禍々しさを感じる。日増しにその波動は、力を増しているような気がしてならないのだ。  その時ふいに──  刑士郎は確かに、〈も〉《 、》〈う〉《 、》〈ひ〉《 、》〈と〉《 、》〈つ〉《 、》〈の〉《 、》〈何〉《 、》〈か〉《 、》を確かに感じた。  この〈子宮〉《なか》に、自分とも咲耶自身とも違う何かが蕾のように眠っているのを感知したから。  一瞬、その事実に瞠目して。 「っ――――イクぞ、咲耶」 「は、はい! 兄様、どうぞ、はやくわたくしの膣内へ注いでくださいまし」 「ひゃああああ……、イ……クッ、あ、あああああっ、はぁはあぁ、あにさま……!」 「ひぃああぁあああ……んくぅうううううう!」 「ああぁあぁああああああああ――――」  より深く繋がるように、快感の極みに達した。  先ほど感じたものをこの時ばかりは忘れておく。告げはしない。ただ飲み込む。  悩みが晴れたときにこそ、伝えるべきだと胸へしまった。 「……はぁはぁ。兄様、これで満ち足りていただけましたでしょうか」 「ああ。心配するな」 「兄様の、お言葉で聞きとうございます」  咄嗟に黙ろうとすると、続けて問いかけた。 「兄様が、どのように感じたのかを教えてくださいな」 「……良かったぜ。だから、もう聞くな」 「うふふふ。はい、分かりました」 「でも、わたくしにとっては、些か熱烈過ぎて、この体が持つか不安だったかもしれません」 「ぬかせ。お前の方が楽しんでたろうがよ」 「くすくす……。ええ、そうでしょうが、しかし、おなごの体はもっと労るべきではないでしょうか」 「仮にわたくしの方から、激を望んだとしてもです」 「それが男の度量というものだと、妹の心思にございます」 「分かった、分かった。次から、そうするよう努めるから、もう言うな」  あれほどの被虐性を覗かせた咲耶に対して、参ったと言わんばかりに頭を振る。  おそらく次の交わりでも同じように、妹は粗暴さを兄へ求めるだろう。  これら一連のやりとりは、決まりきった常套句のようなものだった。 「約束でございますよ。兄様」  そうして、最後を締めるように咲耶は、約束と言ったのだった。  その約束という言葉を僅かに重く感じたが、何も答えようとはしなかった。  窓の格子から天を見上げると、夜はこの世界を飲み込もうとして、しかし思いとどまっているかのようでもある。  ああ何ともいえない気分だと、気怠い体を起こしたまま自虐的に苦笑する。  もはや自分たちの間には、何ひとつ憚るものなどないというのに……  心のどこかで足踏みしている己を嗤う。快楽と充足に挟まれて、女を抱きしめながら刑士郎は眠りについた。  ──いつの日か必ず。このツケを払わねばならぬと、密かに予見しながら。  ……かように時は流れゆく。  自らの領分を互いに尊重し、一つの生を分かち合う。そして時には譲り合い、という馴れ合いのもと……何事もなく続いていた。  荒波のように訪れた戦の日々はもはや遠い過去の話だ。穏やかな営みを送るのは彼ら兄妹のみではない。凶月の里そのものが、かつてよりも確かな活気に満ちていた。  土を耕し、作物を育て、移り行く季節を肌で感じる。  その光景を見るたびに刑士郎は思うのだ──こんなものか、と。  忌むべき穢れと隔離され、世俗から切り離された流刑者の庭。それがひとたび歪みをなくせば……なんのことはない。ただの農村と変わりない姿ではないか。  道行くものは刑士郎や咲耶を見れば会釈をし、それが過ぎればまた代わり映えのないその日の作業を再開する。  だから彼は思うのだ。何が違う、どう違うと。  血潮から〈禍〉《わざわい》が抜ければこの有様。僅かな特異に曝されただけの徒人を恐れていたと知れば……ああ後年〈秀真〉《ほつま》の重鎮共は、後世においていい嘲笑の的かもしれないなどと。  ただただ、訥々とそう思えてならない。 「舞い散る桜花の美しさ……もう新春の季節なのですね」  少なくとも、桜を嗜むような存在を陰の化生とは呼ばぬだろう。  まして感傷に浸っている存在が、理を違えうる怪物でなどあるはずがない。 「花見、か……そういや、そんなことも言ってたな」 「そうですね。あの日の記憶は未だ色褪せてなどおりませぬのに、なんと懐かしいことでしょう」 「時は無情。わかってはいましたが、いつかはこの想いごと忘れてしまうのではないかと思うと……」 「忘れそうにない奴が覚えていればいい話だ。叶わぬものを記憶し続けているのは無益だが、それが必要なら致し方ない」 「明日を見るのは結構だが、なら捨てるべきってのもそれはそれで違うんだろう」 「ふふ、それは誰のお言葉ですか?」 「桜を見上げ、宴を望んだやつの言葉だよ」  本物であったならば、気負わなくとも残るはず。 そして少なくとも、忘れぬ者は一人いると刑士郎は確信していた。  誰より享楽的でありながら意外と義理堅かった男を思い返す。彼は今頃、どうしているのか。案外一人でもあの約束を果たそうとしているのかもしれない。  片割れを失っていない自分にはそれを止める権利も、嗤う権利もないだろう。守り抜いた刑士郎にできることは、それを手放さぬようにすることだと思っていた。  花吹雪が空を待う。  舞い上がり、木々を越え、高く高く飛んでいく。 「……風が出てきたな」  呟いた声に寂静感を滲ませて、空を見上げたまま瞑目した。  里から僅かばかり逸れた森の中を咲耶と共に進む。  人の往来がなくとも、彼らは今まで何度かそこを通ったことがある。木々の間に薄っすらと見える畦道を伝い、数分ほど緑を掻き分けていけば── 「着いたぞ」  そこには花畑があった。  楽園の一部を切り取ったかのような花の絨毯。敷き詰められた色が瑞々しく咲き誇っていた。 「今年も皆、美しく咲いておりますね」 「例年通りだな。ある意味、変わっていないのはここだけか」  何故か、何時からか、この花畑は里の近くへ出現していた。  特にここへ種を蒔いたわけでもない。そして、これらの花が群生するという話も刑士郎は聞いた事はなかった。あまりに不自然な花の園は、しかし天上から零れ落ちたかのような美麗さを魅せつけている。  当然、最初は陰気の影響かとも危惧されたが、穢れはこの場より一切感じられていない。それどころか逆に、此処は異常なほど清浄な空気で満ちている。  天上に形作られた愛の揺りかご。特級の禍憑きであり、自由に外を歩けなかった咲耶にとって、かつてこの花壇は唯一と言うべき憩いの場だった。 「これだけあれば、愛でるだけでは勿体無いかと。兄様に花の冠でも編んで上げられそうです。ああ、それは素敵ですね。お揃いのものなど特に」 「マジで作ったら、おまえの分も一緒に後で〈幼子〉《おさなご》にでもくれてやる」 「あらあら、そんな心にもないこと。優しい兄様は、妹の遊戯にもきっと応えてくれると存じております」 「少しの間お待ちくださいまし。誰よりも美しく飾ってあげますから」 「よくもまぁぬけぬけと。この頃あれだ、おまえ慎みが足りねえぞ」 「まあ、ひどい。こんなにも良妻足らんとしておりますのに。兄様の愛を浴びてすくすく育っているのですが」 「それとも……もう日が沈むのが心待ちと?」 「……阿呆。そこまで餓えてねえよ」  昼は淑女、夜は娼婦とはよく言ったものだ。どこか期待をこめた眼差しは艶を帯び、ねっとりとした雄を誘う火照りに濡れている。  平素の体からのこの早変わり。〈未通女〉《おぼこ》の時分とは妖しさがまったく違う。情の厚い女なだけに抱かれることに至福を感じるのだろう。常に心のどこかで刑士郎を誘惑している節がある。  正直、たまったものではない。呪的な縛りから解放されたはずが、今度は色事に溺れてあの母屋から出ないつもりだろうか。  それこそ、融けに蕩けて一つとなるまで。 「もう、意気地のありませんこと」 「どこぞの馬鹿みたく色情魔じゃねえだけだ。はしたねえぞ。少しは身体を自愛しろ」 「それでは過保護が過ぎましょう。いつまでも脆弱な身空ではございません」 「兄様はもっとわたくしを粗雑に扱うべきです。いつでも貪ってくれて、構いませんのに」 「だからそういうことじゃなくてだな」 「第一、おまえの身体には──」  ──声を切り視線を逸らして。 「ああ、ったく……面倒な」 「では、繋ぎ止めてみせますか?」  たおやかに微笑み、敷き詰められた花の上で咲耶はゆっくりと離れていった。逃げているわけではなく、それは追いかけてほしいから。刑士郎を求めるがために、甘い香りを残して逃げている。  仕方なしにと苦笑して、その背を追った。徒歩で歩みながら近寄れば、その分彼女は少し速度を上げる。  自分の後を辿ってきてくれているのがよほど愉しいのか。無垢な笑みを浮かべ、蝶のように舞う中で── 「────ッ」  刹那、刑士郎の背を〈懐〉《 、》〈か〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》悪寒が突き抜けた。  馬鹿な。嘘だ。そうだ、あり得ない。否定の羅列が思考を覆い、伸ばした手がその体勢のまま固まって空を掻く。それでも総身巡る感覚はより鋭敏に神経を振動させた。  この先にあるものが、信じられず──  半ば呆然と視線を前に寄こして── 「兄様」  そして、見た。 「見てください、こんなに立派な血染花が」  紅の庭園で咲き誇るいと麗しき一輪の薔薇を、いま、再び此処に幻視する。  仄かな血臭が鼻をつく。あの日確かに決別したはずの光景が、妖しくも優雅に誘っていたのだ。 「死森の、薔薇……」  刑士郎は理解する。己が縁を断ったのは白貌の影であったことを。  刑士郎は痛感する。己が縁を断ったのは〈白〉《 、》〈貌〉《 、》〈の〉《 、》〈影〉《 、》〈の〉《 、》〈み〉《 、》だということを。  そうだ。確かに彼は知っていた。知っていながら、忘れていた。  彼ら兄妹の見た影はそれぞれ互いに一つずつ。吸精の月光を破却しようとも……あと一つ、残っている旧世界からの業がある。  白痴の女が残っている。  闇の賜物が残っている。 「兄様。兄様。ねえ、ほら、ご覧になって」 「なんて瑞々しく咲くのでしょう。芳醇な香りも清爽で、ああ、胸が透き通るよう」 「わたくしたちの血染花は変わらずここに。楽土となりて、大輪の絆をつけるのですね」 「絆は消えず、形と成し、楔となって〈地〉《みち》を埋める。ここで〈縁〉《よすが》と広がれば──」 「兄様の〈花園〉《はなぞの》はどこでも続いてゆく。覚めない夜のように。わたくしの魂も乗せて」 「ここで、ついに──いえ、ここでなら、ようやく共に」 「楽土の花に包まれることができましょう」  どこまでも無邪気に、美麗な笑みをたたえて咲耶は兄へと振り向いた。  その足元──染み出しているものは何か。咲耶を中心に広がる紅の色彩は、極性重度の汚染現象。一人の女を中心に世界が穢れ、別の理が色となって無垢な花を塗り潰す。  愛しているから、私を食べて。  風に擦れる葉の音色が、立ち上る薔薇の芳香が、刑士郎に捕食の欲望を訴えている。それこそ至上愛の証明だと妖しく愛しく囁いていた。 「ああ、そういうことかよ……」  もはや疑うべくもない。この上なく理解した。  凶月咲耶の歪みは減少などしていない。否、それどころかより猛々しく不吉の鼓動を鳴らしている様は、〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》と対峙した記憶を反芻させた。  つまり、これこそが最後の源泉。  まつろわず響き続ける断末魔、その残滓なのだ。 「どうしたのですか? どうかもっと、傍におよりくださいまし。身体が羽のように軽いのです」 「気分がようございます。心が躍ってたまりませぬ。晴れやかな心持ちは、ついぞ感じたことがないほどに」 「……そうか。そうなんだな、おまえには」 「紅の園か。よくよく縁は切れねえものだ……粘つき、付き纏う」 「懐かしいんだろう、咲耶」 「ええ。それはもう」 「ようやく故郷に帰って来たと、強い郷愁を感じております。おかしな話でございましょう。それでも、わたくしは安らぐのです」 「〈わ〉《 、》〈た〉《 、》〈く〉《 、》〈し〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈楽〉《 、》〈園〉《 、》〈を〉《 、》〈目〉《 、》〈指〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈き〉《 、》〈た〉《 、》〈と〉《 、》。そう思う心に偽りはございません」  そう、安らぎは消えないのだ。その感覚が、刑士郎にはよくわかる。  暴虐への誘惑と、自らが抱えているものとの間に生まれる情の軋轢。葛藤に苛まれていた記憶が、どちらかに傾けば後は一瞬であるとも見当がつく。  ゆえに、心から危惧する他ない。咲耶の中に在る歪み……女の幻と今の彼女が重複しつつあることに危機感を抱いていた。  あれらがもたらす未来とは、それすなわち極上の快楽と、逃れえぬ破滅に他ならぬから── 「───は、ははは。ふざけろ」 「極楽浄土? 何だそりゃ? またぞろけったいな概念持ち出してきやがって……〈て〉《 、》〈め〉《 、》〈え〉《 、》〈ら〉《 、》〈は〉《 、》〈よ〉《 、》」 「そっちの色ぐらい、そっちで責任持ちやがれ。何が見せつけてやれだ。言ったろうが、俺はとっくに手一杯だと」 「〈祟神〉《たたりがみ》でありながら、人間に尻拭いさせてどうすんだよ。これだから鬼を名乗る奴は信用ならねえ」 「本当に……あれやこれや押し付けやがって」  許せるか、奪われるなど認めない。  ならばこそ── 「兄様?」  薔薇を無造作に踏みしめながら、咲耶の傍へと歩み寄る。  静かに、熱く、刑士郎はかつてないほどに憤激していた。腹の底から気炎を吐く。鎮火していたはずの戦意が再び炎となって燃え始める。  そして、理解した。これが彼自身にとって最後の因果。あの日と同じく魂賭けて断ち切るべき血潮滴る鎖なのだと。  自分が真に相対すべき非業だと。 「いいぜ、上等だ」  人徳を示すと、彼のやることは決まっていた。腹などとうに括っており、それを成すためなら手段を選ぶつもりはない。  咲耶に手を伸ばし、抱き合うほど近く瞳を覗き込む。  一瞬、輝く赤色の眼に心が揺れるものの。そのままゆっくりと指先を頬へ沿えた。  刹那── 「──なに?」  符で造られた紙の小鳥が、伸ばした手に止まった。  感じるのは独特とも言える咒のなごり。穴の空くほど眺めようと、まるで紐解けない複雑怪奇な法で編まれた、それは。 「この式は、もしや……」 「夜行か?」  呟くと同時、式の鳥が折り紙のように開く。またたく間に文へと姿を変えたそれへ、訝しげに目を走らせた  そこに書かれていたのはあまりに簡潔な一文。  ──逃げろ。冷泉が動いた──  刑士郎の瞳に、再び破滅の予兆が映しこまれた。 「用済み、ってことかよ……」  咲耶に聞こえぬよう、苦々しく口中で囁きを噛み砕く。  鑑みてみればこれは当然の帰結だろう。冷泉にとって今こそ好機、野心の赴くがまま行動すれば邪魔者の討伐は必須事項だ。  今は亡き東征軍総大将、久雅竜胆に近しくありて、天魔という首級を討ち取った武勲持ち。彼から見ればもはや無用の長物であり、さらに許婚の死を美談と持ち上げることもできる。  ひとたび気づけば、笑ってしまうほど条件は整っていた。蜜月は終わり、刑士郎と咲耶には神州から生き場を追われる未来が待っている。  ならば──逃げるか? このまま、咲耶を連れて。  遠く離れた何処かまで、二人のことを誰も知らぬ場所まで逃れ── 「いや」  共に生きる光景を描いた瞬間、踏みしめた薔薇に気づいた。  これが楔であるならば、恐らく結果は見えている。それを断ち切らぬ限り彼ら兄妹に明日はない。  真の朝日はやってこないから。 「だから、おまえが作れ。そして見せつけてやれ」 「人間様の底力って奴をな」 「言われるまでもねえさ」  視線を切る。一瞬だけ口ごもり、咲耶の目を然りと見つめながら。 「咲耶──」 「おまえにとって、〈家〉《 、》〈族〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈だ〉《 、》?」  兄にして男である者は、そう問いかけた。  問いに、女は妖艶な〈血臭〉《みつ》をたたえて。 「決まっております。わたくしにとって血の繋がりとは、兄様のこと」 「血染花たる御魂が行き着く、安住の楽土にございます」  ……凶月刑士郎の裡へ在りたいと、躊躇なく笑みを浮かべたのだ。 「はっ──そうか」  腹は決まった。彼は自らが何をすべきか、このときに然りと心へ決めたのだろう。  愛しい女に与えられるたった一つの未来を見出して。  自然な所作で式を破り、そのまま紙を空へ撒いた。細かな紙片は宙を舞い……風に乗って何処かへ飛ばされていく。 「どうしたのでございますか? 突然破り捨てるなど、夜行様はいったい何と……」 「──なんでもねえよ。いつもと変わらぬ諧謔だ。暇つぶしに薮突いただけらしい」  忌々しげに、気だるげに、ため息さえこぼして肩を竦める。癇癪のままに行なったのだと、そう思わせるがために。 「相変わらず放蕩してるらしくてな。療養の旅先で珍しいものを見たと、わざわざ吹聴してきやがった。ガキと一緒にな」 「要するにただの自慢だ。付き合いきれねえよ、馬鹿馬鹿しい」 「まあ、それはそれは。なんとも楽しそうではございませんか。それを兄様ったら、どうして破ることがありましょう」 「夜行様にも、龍水様にも、咲耶はよくしていただきました。せめて一目だけでも拝見させてくれればよかったでしょうに」 「よその旅語りなんぞ鬱陶しいだけだろうが。毎度のこと長ったらしく、迂遠に書き連ねてやがったから……まあ許せ」  嘘がうまくなったと刑士郎は思った。でまかせは滑らかに舌の上を踊り、次々と言葉を紡ぐ。 「またこらえ性がないことを……せっかく数少ないお友達なのですよ? 友誼の証に取っておいてもよろしいでしょうに」 「はぁっ? おともだちぃ? 誰がだよ」 「違うのですか? 他の皆様方も同様、わたくしと同じく掛け替えのない友人であるものかと。てっきり」 「断じて違ぇ……」  脳裏に浮かんだ面々に墨で線を引いていく。そこで素直に頷けるほど、まだ丸くなってはいなかったから。  何より人選がまずありえない。よりにもよってという奴だろう。 「他はともかく夜行はよせ。ありえねえ、なんで一等のキワモノ真っ先に挙げんだよ」 「そうやって嫌がる割には、東征の終わりにかけてお二人とも特に息が合っていた御様子でしたから……」 「龍水様と二人で愚痴を少々。除け者は悲しいでしょう。別れ際まで親しげにされては、女の沽券に関わりました」 「ねえよ、阿呆か、冗談やめろ。あっちが絡んでくるだけで、変態に気に入られて嬉しいわけあるか」 「しかもなんだ……よりにもよってお友達だと? いったいどういう考えすりゃそういう心配できんだよ」 「おまえは俺の母親か?」 「まあ、それはなんと素敵なことでございましょう」 「妹であり、夫婦であり、これでもう一つ母親でもあるというわけですか」 「嬉しい……これで兄様をひとり占めしてしまいました」  紅に包まれて頬を染める咲耶は、見惚れるほどに美しい。  思わずそのまま、赤に染まって滴り落ちそうだと思うほど。 「そいつはさすがに御免だな。母子でまぐわうは不貞に過ぎる」 「それは残念なこと。もっと強い〈血盟〉《きずな》が増えたはずですのに」 「趣味じゃねえよ」  感性はそれを不道徳だと訴えて、倫理に反していると語っている。刑士郎自身もそう思っていた。 「忘れないで下さいまし。咲耶の血肉は、いつだとて糧になり得るということを」 「兄様のためならば惜しむものなどありません。この麗しき血染花の花壇にて……」 「わたくしが──総てを奉納いたしますから」  発露した、高純度高密度の愛に。 「ああ」  臆することも陶酔することもなく、然りと見据えて頷いた。  胸に秘めた決意を頼りに、手を引く咲耶へ追従する。寄り添う姿を見るたびに確かな感情が湧きあがっていた。  ──時を遡れるというのなら、これが最も大きな分岐点。  刑士郎が胸を張れる、最初にして最後の決断だったのだろう。  そして── 「凶月──あれら、もはや要らぬな」 〈秀真〉《みやこ》の中枢にて、杯を傾けながら中院冷泉は含み笑う。  彼は上座に胡坐をかき、下座に千種と岩倉が腰を下ろしている。それはまさしく勝者と敗者の構図であり、東征という政争の結末でもあった。  しかし、千種と岩倉の表情に陰はない。内心では何を思っているか不明だが、彼らは彼らで六条の空いた穴を歓迎しているのだろう。  ただ保身のみを考えて、勝ち馬にごまをする。なんらおかしなことはない。 「穢れに触れた東と西の〈混血児〉《あいのこ》ども。親は死んだぞ。おまえらもまた後を追え」 「民草が怯えてるわ、異なる血筋が恐ろしいとな。心安らかに暮らせるものか。歪んだものがなぜ居残る」 「翳りの時がやってきたと知るがいい。闇に抱かれていたものが、いまさら出てこられても……なあ、あれだ、困るのだよ」 「汚点は、きちりと消さねばならぬ。消えよ消えよ、蜘蛛の継嗣。我が世を潤す花となれ」 「左様で。まことその通り。さすがは冷泉殿、動きが早いわ」 「不穏分子の分際で、我らに逆らうなど片腹痛い」  喜悦の笑みをこぼしながら、冷泉らは杯をあおる。  酷薄な冷笑に狂気は欠片も混じっていない。正気のまま己が利を優先し、もっともらしい理屈を口にしていた。  討伐軍への下達はすでに済んでいる。東征の現場を体験していない岩倉たちなら、なるほど都合七人の男女ごとき、都の権力を前に風前の灯火とほくそ笑むのは自然だろう。  だが冷泉は違う。彼は穢土の天魔らをその目で見ており、それを斃した戦士たちの力量を知っている。  その上で、容易く縊れると正気のまま確信していた。そこに最大の異常がある。  いや、さらに言うならもう一つ。 「あれらは何をするやら分からぬからな。可及的速やかに消去する」  戦が終われば英雄は要らぬ。逆賊の汚名を被せた後、武功と真実を抱きながら土の中へ眠ってもらうというその理屈は、世の習いとして別段おかしなものではない。  狡兎死して良狗煮られる――つまるところそういう摂理にすぎないのだが、問題は〈そ〉《 、》〈れ〉《 、》〈が〉《 、》〈神〉《 、》〈州〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈に〉《 、》〈留〉《 、》〈ま〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈だ〉《 、》。  そう、今このときに、全世界で同時に嵐が起こっていた。  乱あり、変あり、諸々総て……国家間から家族間、果ては虫魚禽獣に至るまで、ありとあらゆる社会において空前絶後の殺し合いが起こっている。  そうした意味では、神州のみがまだぬるい。〈ま〉《 、》〈る〉《 、》〈で〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈国〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈嵐〉《 、》〈の〉《 、》〈侵〉《 、》〈攻〉《 、》〈が〉《 、》〈遅〉《 、》〈く〉《 、》〈な〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈の〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈だ〉《 、》。  その理由は不明だが、遠からず差異は消えてしまうだろう。無論のこと、冷泉がそれらの情勢を知るはずもないのだが、あたかも委細承知であるかのような底知れぬ笑みを湛えている。 「ふふ、ふふふふふ……」  共鳴するかのように増幅していく嵐の中、破滅の刻が侵攻していく。彼は〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》。  〈邪〉《 、》〈魔〉《 、》〈な〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈が〉《 、》〈消〉《 、》〈え〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈て〉《 、》、〈あ〉《 、》〈ま〉《 、》〈り〉《 、》〈に〉《 、》〈気〉《 、》〈分〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈も〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「そうだ、遍く総て焼き払え」  そう、〈な〉《 、》〈に〉《 、》〈や〉《 、》〈ら〉《 、》〈と〉《 、》〈て〉《 、》〈も〉《 、》〈調〉《 、》〈子〉《 、》〈が〉《 、》〈よ〉《 、》〈い〉《 、》〈の〉《 、》〈だ〉《 、》。 「一人も残してはならんぞ」  〈身〉《 、》〈体〉《 、》〈が〉《 、》〈軽〉《 、》〈い〉《 、》。〈塵〉《 、》〈が〉《 、》〈払〉《 、》〈わ〉《 、》〈れ〉《 、》〈心〉《 、》〈晴〉《 、》〈れ〉《 、》〈や〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈感〉《 、》〈じ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「ああ。ああ──」  〈我〉《 、》〈は〉《 、》〈も〉《 、》〈っ〉《 、》〈と〉《 、》〈安〉《 、》〈ら〉《 、》〈か〉《 、》〈に〉《 、》〈在〉《 、》〈り〉《 、》〈た〉《 、》〈い〉《 、》。  そう願う心に、微塵たりとも否はない。  なあ、なあ、そうであろう? ──我を衝き動かす■■■よ。  おまえもまた、静寂の世が愛しかろう? 「──斯様であるか。相承った」  その声に、微笑をたたえながら中院冷泉は立ち上がった。  怪訝な顔の千種と岩倉へ、ほほえましいものを見るかのように視線をよこす。やはり愚鈍、まだ気づかぬかと。 「……冷泉殿?」 「いったい、何を──」 「いや、少しな。〈我〉《 、》は掃除を所望しておるらしい」  ゆえに。 「──おまえら、要らぬわ」  この者ども、不要であると断じた瞬間、横一文字の斬風が二つの首を断ち切った。  彼らは驚愕する暇もなく、肉の断面から鮮血を迸らせると痙攣しながら倒れ伏す。遺体を横目に、冷泉は確かな快感を覚えていた。  これはよい。数が減るのは喜ばしいと、端正な笑みがより深いものへとなっていく。  己の所業はもちろんのこと、その手際にも疑問を持たない。今の一閃が、人間の規格を遙かに超えた魔技であったことなど意中にないのだ。  本来、中院冷泉という男は人並みの武威しか持たなかったはずなのに……  これくらいのこと、出来るに決まっていると呼吸も同然の認識だった。何をおかしく思うことがある。でなくば我は我であるまいが。  その自負、密度はもはや人に非ず。天魔を超える怪物の領域に、彼は今触れているのだ。 「喰らい、犯し、奪い、誇れ」 「善き哉。これぞ我らが本懐なり。誰も要らぬさ、収束せよ」 「これより先は、〈我〉《 、》〈一〉《 、》〈人〉《 、》〈だ〉《 、》〈け〉《 、》〈在〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈い〉《 、》〈い〉《 、》」  邪神の波動が立ち上る。遍く天狗が蠢いた。飢える暴食の蝗が如く、異物を消さんと猛り狂える。  喝采せよ、礼賛せよ。これすなわち〈正道〉《てん》の意思。  騒ぎ轟き己をかざせ、我こそ至高と刻みつけよ。  あな素晴らしきかな鏖殺の宴。どいつもこいつも死ぬがよい──! 「ふふふふ……はははははははははははははははは!」  ──総て、滅びろ。  その意思を受け、列を成して兵が往く。  我先にと、我こそはと、我欲のままに進軍する。  天の加護を受けし、数多のさばる自愛の継嗣。己がために行軍し、己が未来を目指して進む。  彼らは一様に醜穢で、悦の相を張り付かせている天狗の群れだ。 「喰らえ!」 「犯せ!」 「奪え!」 「誇れ!」 「おまえら総て、俺の礎と成るがいい──!」  一片の疑いなく、一切の呵責なく、彼らは敵を求めて前進する。  先陣切って首を獲れば、己は誉れの一番槍なり。  逃げる兵を逃さず討てば、俺は紛れもなく強者なり。  目に映る獲物を討滅すれば、我は紛れもなく益荒男なり。  己を崇めるのは当然であり、違える者など一人も要らぬ。逸る心に揺るぎはなく、兵の一人一人が我が身を真と信じている。  だが駄目だ、まだ届かぬ、まだまだ全然足らぬのだ。賞賛が足らぬ、武勲が足らぬ、金が足らぬ、位が足らぬ。  この程度では満足できぬぞ。ゆえに殺し、いざ奪おう──!  誇らしい、素晴らしい。やれ討て、さあ討て。〈他人〉《おまえら》総て俺を輝かせる〈土台〉《いしくれ》だろう? 疾く死ねよ、骸がよいのだ呼吸をするな。生きていてはならぬだろうが。  彼らは等しく浮遊しながら狂騒している。我執に酔い痴れる酔漢の群れは、これほど列を成しながらも何一つ纏まりを見せていない。  隣に存在する同胞の名すら知らず、また最初から知ろうとさえしないだろう。綻びのない自愛に喝采を謳うその姿は、まさしく邪悪と呼ぶに相応しい。  己が道こそ至高と尊ぶ理由さえ、大したものを持っていない。  〈我〉《 、》〈が〉《 、》〈我〉《 、》〈で〉《 、》〈あ〉《 、》〈る〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》〈奪〉《 、》〈う〉《 、》という、根拠理屈のない妄信こそが兵を突き動かす衝動だった。  つまり、彼らは全員が『神』なのだ。  外界を関知せず、個で満ち足り、我に溺れている極少単位の邪神ども。彼らに仁義や礼智はない。武勲を求め、誉れを目指し、前へ前へと突き進むのみ。  下された討伐の任。滞りなく完遂すべしとはや猛り──  草の一本たりとも残さず〈鏖〉《みなごろし》にすべし。狂喜しながら血塗れの轍を〈地〉《みち》に刻む。  殺せ、殺せ、最後に残るは〈波旬〉《おれ》だけでいい。  さあ、平らかな安息をよこせ。 「  」 「  」  超深奥の座で一人笑い転げる狂天狗の〈覇道〉《かつぼう》が、全宇宙を覆いつくす。  大欲界天狗道、ここに完成。歴代の座における最悪最強の理が、ついに真の姿を見せた瞬間だった。  日も沈んだ宵の刻。寝所にて座禅を組み、静かに瞑想する影がある。  刑士郎は部屋着に着替えていない。昼に花畑を訪れた衣装のまま、じっと目を閉じて自らの裡へと潜っていた。  自身の精神が何処に存在しているのか。それを確かめるための行動を、似合わぬと知りながら行なっているのだ。  以前なら単調であったはずの心神は、今や持て余すほどに複雑だから。数多の感情がせめぎ合って揺れ動く。文を目にしてから悩み続けていた問題に小さく呻いた。 「迎え撃つか、ひとまず身を隠すか……」  この二択を選ばねばならぬことに心を痛めている。時間は有限だ。逃げないとは決めたが、それまでに方針は決めねばならない。  前者を選べば……咲耶を守るのみならば楽だろう。  他の凶月を囮にできる。陰を喪失した自分ではせいぜい百人力が関の山。犠牲になる人命に目を瞑れば、戦術的には悪くない。  後者を選べば、時間は稼げる代わりに、いずれ単身で一軍を相手にしなくてはならない。  こっちはいわば問題の先送りだ。都からの勅令である以上、兵は諦めたりしないだろう。さらに人海戦術にて捜索されれば、どこにいようと見つからぬはずがないのだ。  しかし先の案とは違い、こちらは里の面々を巻き添えから遠ざけることができる。田畑を、営みを守ることが出来る。  仮に咲耶と揃って討たれようと、残るものがあるのだ。ならば── 「は、何を弱気になってたんだか」  腹は決まったと、刑士郎は立ち上がった。自分は一人の男であり、里長でもある。ならば難度に惑わされるなど愚の骨頂。  守るべきだ、どちらも。帰る場所を渡してはならないと思えるから。 「生き場を差し出すわけにはいかねえよな。そういうものがどうなるか……しかとこの目に焼きついている」 「彷徨うのは面倒そうだ」  鉄の得物を確認し、小さく苦笑する。温くなったものだと、彼は自分自身を笑った。 「兄様。お召し物をお持ちしましたが……」 「いったい、どうしたのですか? そのように物々しい出で立ちで。このような時間に獣でも獲って来るおつもりでしょうか?」 「咲耶、丁度いい。支度を済ませろ」 「今から俺とおまえで里を出る。急げ」 「──え?」  簡潔に告げた言葉に咲耶の表情が凍った。  里を離れる、その言葉が信じられぬと瞠目した瞳が告げている。  罅割れたのは、何か……それはまさしく、彼女にとって最大の禁忌であった。 「兄様、いま、なんと……」 「理由は後でおいおい話す。なに、二度と帰らないってわけじゃねえ。ほんの少し雲隠れするだけだ」 「それより急げ。さっきから妙な感じがする」  第六感が警告を発している。刑士郎を今まで生き延びさせて来た感覚が、理屈を超えて彼に何かを訴えていた。  式を受け取って即日に決断したのは、それが理由だ。けれど── 「いいえ、行けません。里を離れるなど、わたくしには……とても」  女は目を伏せて、毅然と男の言葉に首を振った。 「やはり、この地を去りたいのですね? どこか別の地平を見ていらっしゃるから」 「あの時より、ずっと朧ながら感じておりました。もはや兄様の中に拘りはない。血の絆は楔にも鎖にもならぬと」 「……わたくしでは、繋ぎとめるに及ばぬのだと。気づいておりましたから」 「妄想だ。俺はどこにも行きはしねえ」 「いいえ。ならばどうして、我々の在処を後にするなど言えましょうか」 「一時? この時限り? 偽りでしょう、不安なのです。どのような理由があろうと、兄様が里を離れるということが」 「きっと、そのまま帰ってはこない……そう思えてならないのです」  それこそ咲耶の溜め込んでいた本音。東征を終えてより、心の奥で結晶と化していた恐れだった。  実際、限界が近かったのだろう。刑士郎は変わった。ならば、彼女がそこに気づかぬわけがない。  恋焦がれる男の垢抜けた姿を見続けたのだ。結果として寂静感と焦燥感が咲耶の精神を追い立てた。悟りを得た者に対し、取り残されたという思いは日増しに胸の内で強くなる。  刑士郎と咲耶の関係は、ある種の依存で成り立っていたから。  疎ましく思いながらも妹を手放せない男と、愛おしく焦がれながらも自身を捧げきれずにいた女。  彼らは互いに寄り掛かり、ぬるま湯にて馴れ合い、言い訳の理由にしあいながら生きてきたのだ。ゆえにこれは当然の帰結。片側が自立すれば、残る側はあらぬ支えに縋り続けやがては壊れてゆくしかない。  だから── 「……この頃、やけに抱かれたがっていたのは、そういうわけか?」  無言で肯定する姿は、胸をつくほど痛ましい。  確固たる証がほしいからこそ、身体を差し出していた。愛していると、幸福だと、何度も何度も囁いていたのはそういうわけだ。 「この地で永劫、兄様と睦みあい、暮らしていとうございます」 「一秒たりとて離れたくはございません。今の兄様ならどこへだとて行けましょうとも、わたくしにはこの地しかありませんゆえ」 「それこそ、生涯手の届かぬ場所へさえ……」  ……歩めるだろう。間違いなく。  自分を然りと持ち、惑いながらも確たる足跡を刻んでいく。男は魂の意義を知ったがために、咲耶を置いていくこともできる。  けれど彼女は違うのだ。この里に、あの花畑に、そして歪みの内にしか生き場がない。そう思い続けている限り、真実となって妄執は形を伴い発露する。  魂の業から逃れられない。  ならば、どうする? 何を自分は言ってやればいい? 此処から離れることを忌み続け、依存を求める女に何をしてやればよいのだろうか。  手を伸ばせば届くはずの距離があまりに遠い。決断以前の問題だと思い知った。  その時に、ふと。 「────待て」  微かな物音と、ただならぬ悪寒が脳裏をかすめ──  刹那、それは突如として現れた。  稚拙な悪意を飛沫の如く撒き散らした何者か。女の体躯を捕らえ、躊躇なく白刃を振り下ろした影が── 「獲ったぞ──!」 「あぁっ……!」  血が舞う寸前、割り込んだ影が刃を弾く。  先の一撃が何を狙ったものか、刑士郎は理解している。ゆえにこそ、激昂しながら腕を振るった。 「糞が。俺の女に……手を出すなッ!」  返しの刃が首を断ち、回し蹴りが体躯を砕く。胴体は砲弾となり、内蔵を潰れながら屋敷の外へと吹き飛んだ。  反応。膂力。共に一兵卒とは比べることすらおこがましい。  陰気の加護を失おうと練磨した感覚は未だ健在。地獄を駆けた豪の益荒男、凶月刑士郎は伊達ではないのだ。 「──咲耶ッ。怪我は!」 「ぁ……はい、兄様のおかげで大事ありません」 「ですが……」  これは何だと、転がり落ちた首を見つめて口を押さえる。  事情が飲み込めていない咲耶は単純に襲撃者の存在そのものに驚いているが、刑士郎は。 「どういうことだ? 早過ぎる……」  来るべきはずのものが既に到達していたこと、そこに絶大な不安を感じる。  己はもしや、取り返しのつかぬ過ちを犯してしまったのではないか? 冷や汗が背を伝う。胸騒ぎが止められない。 「……おまえはここにいろ。息を潜めて気配を殺せ、じっとしていればいい」 「気取られるなよ。あいつらの目的は、俺たちだ」 「ですが、兄様──わたくしは」 「いいな」  反論を封じ、咲耶を置いて屋敷から外へと駆ける。  一足にて敷地を飛び越え、開けた視界に映った光景は── 「────ッ」  醜悪さに身の毛もよだつ地獄だった。 「獲った、獲ったぞ! 俺が獲った、俺が討った、この首八つを見るがいい! 俺の証だ。俺の武功だ!」 「おお、おお、我は護国の刃なり。我、病の元をこれより討たん、化外の民め……いざ断ち切られて霧散せよ! 我が手によって、我が一刀にて!」 「ああ足らん。足らんぞ、まるで足らん!」 「よこせ! よこせ! 首を、命を!」 「もっとだ! さらに、多く、高くッ」 「おまえら総て、俺の礎と成るがいい──!」 「──、────」  ──吐き気と共に眩暈がする。  広がっていたのは地獄絵図。無間とはまた異なる、我欲の理。喝采賞賛巻き起こる、肯定と流血の壷中天だった。  響き渡る己、己、己の大合唱。口々に己を讃えて謳いあげ、虐殺に悦を見出す下衆の群れ。老若男女の区別なく里の者らを皆殺す。  下劣畜生、邪見即正の道理。  目玉が腐りそうになる醜穢さ。家々を焼き払い、炎の中で狂喜に耽るその様は…… 「こいつら、は……〈何〉《 、》〈だ〉《 、》?」  笑顔だ──どいつもこいつも〈哂〉《わら》っている。それが、それこそが何よりも刑士郎には恐ろしかった。  力量の大小など関係ない。これらの在り方そのものが汚らわしくて仕方がない。〈腐〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈み〉《 、》〈え〉《 、》〈る〉《 、》。肉の塊が酔いに狂っているようだ。  断言していい。化外の蜘蛛より、こいつらの方がおぞましいと。  誰も隣の同胞が非道を行なっているのを咎めない。それどころか、恐らく認識すらしていないのだろう。完全に自己のみで成り立っている様は、まさしく浮遊していると称すべき。  天を知らず、地を知らず、誰の都合さえ知らず──  我のみを愛して、喰らい、喰らい、喰らい── 「やめろ……気持ちが悪い、何だおまえら人じゃねえのか?」 「こんな、風に……ッ」  触れればそれだけで汚染されそうな、下衆の姿に。 「俺もまた見られていたと、いうのかよ!」  〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈達〉《 、》〈は〉《 、》〈気〉《 、》〈持〉《 、》〈ち〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》。そう口ずさんでいた者達の姿が、時を越えて刑士郎に突き刺さる。  あれがかつての自分が行き着く先だということ。仮に咲耶を喰らい、陰気を極めていたら……自分もまたあの場所で心地よく哄笑していたであろう事実が、容赦なく精神を嬲っていく。  里の者らを蹂躙され激怒する意思は確かにある。  だがそれ以上に、吐き気を催す光景が彼の足を止めていた。 「おお、見つけたぞ。凶月刑士郎! あれぞ此度の大将首か!」 「ここで討たねば士道の名折れよ。我が剣の極意にて、その首落とさん。置いて逝け!」 「首級をあげよ──!」 「首級をあげよ──!」  ──首を突き刺し、それら一斉に槍を掲げた。  杭に穿たれた死骸の如く、大小様々な頭部を誇らしげに見せびらかす。  ああ、見るがいい。これぞ我が武功なり。讃えてくれよ。伝えてくれ。俺はこれほど素晴らしいと、他を踏み躙って唱和する。  串刺しにされた幾十の顔を、総て刑士郎は知っていた。  土を耕していた男。〈機〉《はた》を織っていた女。野を駆けていた幼子。  歪みの喪失に涙を流して喜んでいた老人たちに、そして、そして──覚えている。覚えている。覚えている。  彼らの魂を覚えているから。故郷は喰い尽されたのだと……否が応にも理解したから。 「────てめぇらァァァァアアアアアア!」  ゆえに、刑士郎は憤激する。  かつてない純粋な怒り。生の冒涜を前に、非道さを許せぬのだと怒号をあげた。 「首級をあげよ──討ち果たせ!」 「首を! 首を!」 「──それ以上、喋るなッ!」  砂糖に群がる蟻の如く、兵の津波が刑士郎へと押し寄せる。  繰り出す攻撃は総てが稚拙だ。技巧は拙く、修練も足りない。さらに道理が立っていないため、どれもが我流の出来損ないだ。  俺が考えた。俺が編み出した。だから、これは必ず素晴らしい──  死の可能性を考慮せず、絵空事を愛して進む魔縁ども。都合のいい成功しか眺めていない醜悪にして粗雑な攻撃に、刑士郎は憐れみすら覚えて迎え撃つ。  ……醜くも、許せず、悲しい。  これら死んで然るべき存在だと、否応もなく理解した。 「外道どもが! こいつらが、何をした……!」 「凶の雨でも降らせたか。毒の霧でも吐いてたか。〈禍〉《わざわい》持って、てめえらを追い立てたりしたのかよ!」 「違う、俺たちは何もしてねえ! ただ──ただ生きていただけだ!」 「これからようやく、真っ当であろうとしただけだ! 罪? 罰だと? あるわけねえだろ、ふざけんなァッ」  歪みから解き放たれた日々を穏やかに過ごしたい。その想いすら、浮遊した外道の群れは感知しない。  他の願いなど判別つかず、またどうでもいいのだろう。その証拠に兵達は例外なく哂っていた。頭蓋を潰され、臓腑を穿たれてなお、屍となろうが構わず夢幻夢想に酔い痴れている。  〈俺〉《 、》〈が〉《 、》〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈死〉《 、》〈ぬ〉《 、》〈は〉《 、》〈ず〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  〈必〉《 、》〈ず〉《 、》〈奇〉《 、》〈跡〉《 、》〈が〉《 、》〈舞〉《 、》〈い〉《 、》〈降〉《 、》〈り〉《 、》〈る〉《 、》。  だから首を、首をよこせ。俺の願う通り、俺のために、俺の道となって死ぬがよいと── 「あるわけねえだろ。そんなもんが!」 「理由も持たず、見えもしねえのに、どうして奇跡を信じられる……!」  執心の塊へ、否定と叫びを叩き付ける。  胴を切り裂き、返り血に刃が鈍る。人の油が切れ味を落とし、小さく舌打ちしながら次撃にて背骨を断った。  殺した数は五十を超え、隔絶した武威を前に屍となる。されど、兵の志気に翳りはない。手にした武器を振りかざし刑士郎へ消耗をもたらす。  これほど力量差を見せ付けらても、まだ信じているのだろう。自分だけは死なぬのだと。一片の疑いもなく、真実へ視線すらよこさずに。  こんな連中に里が滅ぼされたと思うと、無念が胸を締め付けるのだ。  そして、何よりも辛いのは。 「安すぎるんだよ……てめえらの魂は」 「芯がねえ。空っぽだ。苛立ってむかついて仕方ねえのに……ちくしょう、こりゃなんだってんだ」  皮膚を擦り、身体を削ったものではない。かすり傷とは異なる痛苦が刑士郎を蝕んでいく。  この姿をよく知っているから。  天を知らず、地を知らず。湧き上がる我欲のまま、今生を唯一と定め、喰らい貪りひた突き進むその姿。ああ、看破するまでもないだろう。  因果の業が巡り巡ってきたのなら、これほど痛烈な皮肉はない。 「──目が痛ぇ」  かつての自分と被るのだ。絶望的に似通っている。 「──胸が軋む」  己を無条件に〈天〉《うえ》へ置き、それ以外を〈地〉《した》と蔑んで冷笑する。そこに如何なる御託も不要。生まれたときから、傲慢な絵図は完成している。  悪逆外道、三障四魔に溺れる様はこれほど醜く恐ろしい。 「が、ぁ──ちぃっ」  肩をつきぬけた熱が刑士郎の思惟を断ち切る。肉へ食い込む鉛の痛みに顔を顰め、物陰に隠れた砲手を一瞬で潰す。  血の花がまた一つ咲いた。屍となって崩れ落ちる兵、それを背から突き破って刃が生える。  死者を思う感情など彼らにない。いやそれどころか、己一人が生き残るこそ都合がいい。武勲の総てを手に入れるべく、死骸を踏みつけなお猛る。  なんという軽々しさか。譲れはしない、渡しはしないと切に思う。  生き場を追われた者として、消えたくないと願うのだ。 「──薄っぺらいぞ。てめえらは」  その末路が、胸裏へ刻み込まれているだけに。 「おら、来いよ。俺の首はここにある。欲しくねえのか……名が上がるぜ」 「ここに転がっている凡百どもとは、てめえらまったく違うんだろう? 勝てると信じているなら、いいさ、やってみるがいい」 「揃い揃って気持ちよく、益荒男を名乗るというのなら」 「この俺を……大凶方暗剣殺、凶月刑士郎を、疾く討ち獲ってみせやがれえッ!」  月に吼え、一層の覇気を漲らせながら飛び掛る。強襲にてさらに三体、上空から脳天を粉砕されて絶命した。  獲物の名乗りを前に、兵の狂騒は最高潮。  おお、素晴らしい。こういう展開を待っていたと、武器を携えながら狂喜乱舞し飛び掛る。  袈裟切り、斬首、蹴撃による死の烈風を浴びせつつ──誘導するように兵の布陣をかき乱していく 「そうだ……来てみろ。俺はここだ、捉えてみろや!」  自分自身を撒き餌とし、囮とすることで兵の注意を掻っ攫う。  苛烈になった突撃を捌くも、四方八方から追いすがる特攻に対応しきれない。もはや刑士郎に陰の祝福はないのだ。肉体は劇的に強度を落とし、今となっては損傷を回復することさえできない。  ゆえに、少しずつ裂傷が体躯へ走る。第六感と経験にて致命傷は避けるものの、元来彼は技より体に重きを置く者なのだ。  芳醇な生命力を盾に、人よりも野獣が如く襲撃する戦い方は、今や再現不可能だ。最も得手とした立ち回りを喪失すれば、当然その動きは〈鈍〉《 、》〈る〉《 、》。  十や二十の兵ならば、容易く摘み取り葬るだろう。  四十や五十の兵ならば、手傷あろうと生き残れる。  だが、百や二百の兵ならば──もはや決死の覚悟を抱かねばならない。  下降した体力。生物として劣化した持久力を理由に、動きから精彩が欠けていく。 「っ、おぉ──ッ」  胴を一閃するものの、交差の刹那に槍の刃先が脇腹を裂く。  回避しようにも離れた場所には砲手が七体。常に動き回らねば、眉間に穴が空くだろう。狂いながらも兵は次第に学習する。包囲網はより効果的な姿に形成されつつあった。  ならばこそ、先の宣誓は悪手だ。狙えと言わんばかりの吼えは、討伐軍の猛りを後押しする結果になっている。 「ぐぅ、か……はっ、どうしたどうした痴れ者どもが。ご覧の通り、俺はまだまだ健在だッ」 「似非風情が笑わせるなよ……武威だの何だのぬかしながら、臆病風に吹かれたか!」  されど、それで構わないと刑士郎は思っていた。こうしている限り、この連中は自分を狙う。  自分一人だけを狙う限り、彼女に累は及ぬのだから。  最後に残った自身の黄金──凶月咲耶を守るには、これしかないと確信していた。  だからこそ、この綱渡りを続行する。己を斃せば誉れなりと、兵の興を引くことで残した女を守っていた。  家屋は焼き払われ、炎に覆われた景色が凶月の終わりを告げていく。里での時間はもはや二度と戻らない。これらの兵を討ったところで、兄妹の死体が上がらぬ限り終わりがないともわかっていた。  無くしたものを思うたびに、心へ苦痛が走るけれど。  それでも、彼の心に残っているものがある限りは。 「──むざむざと、此処で死んでやる謂れはねえッ」 「俺の魂を、舐めるなァァァアアアア!」  身体を屈め、四足の獣が如く疾走しながら刃を放つ。すれ違い様に両脚を断ち、心臓に孔を空けて駆け抜けた。  八十、 九十、 そして百の大台へ。  精算した死骸の数は三桁へ乗る。残る砲手兵の一団へ、二の腕を撃たれながら跳躍し── 「づっ──ぉぉお、らぁッ!」  肉食獣が如く、喉に〈獲物〉《きば》を突き立てた。  第二射の装填など刑士郎は許さない。仰向けに絶命する兵を踏み台に真横へ飛ぶ。そのまま軽業師のような動きで、兵らの首をへし折った。  崩れ落ちる音が連続し、動くものがいなくなる。荒い息をつく刑士郎だけがその場で動く影だった。 「かはっ! はぁ、はぁ……はぁ……」 「……くそ、ちくしょうがッ!」  そして、荒々しく地面へ拳を叩きつける。達成感? 清涼感? そのような感情などあるはずない。  このような理不尽を前に、築かれた屍の山を前に、武威を誇るなど何故できよう? 「何が護国の益荒男だ」  力とは、願いを遂げた瞬間に始めて意味を持つのだ。たとえ百の兵を討てようと、失ってしまえればそれは愚図でしかないだろう。  もはや遅いとしても後悔が募るのだ。もしかしたら、いやきっと、彼はこの地を好きになれるはずだった。打ちひしがれる時間がないとわかっていても、その痛みが刑士郎へ圧し掛かる。  身体を無理に起こしたときさえ、表情は痛ましげに歪んでいた。まだ、ここで立ち止まるわけにはいかない。そう知っていたから。 「……悪い。少しの間、おまえらはここへ置いていく」 「だが、約束だ。いずれ必ず墓を作る。全員分、欠けることなくこの里に」  だから行かせてもらうと、駆け出した。  もはや戻らぬ光景に振り返らず、刑士郎は咲耶の許へ急いだ 瞬間──  彼女のいる屋敷から火の粉が激しく舞い上がった。 「────な、ぁ」  火勢が追いついたのか。それとも討ち損じた兵が残っていたのか。どちらにしても、それは、意識を凍らせるほど恐ろしい。  やめろ、それは奪うな。それだけは誰にも持って行かせない。  己が総てを秤に賭けても譲れない、凶月刑士郎の絆だけは──! 「咲耶ァァッ!」  炎を前に叫ぼうと返ってくる声はない。  倒壊していく屋敷。彼らの過ごした寝所ごと、寄り添った時間ごと炭と化して崩れていくのだが。  しかし。 「油の臭いがしねえ……」  飛散した皮脂の臭気を感じなかった。ここでは死者が出ていない。炎が抱くのは屋敷のみで、そこに生物の気配も感じ取れないのだ。  ならば、咲耶はいったい何処へ? 死が充満した集落にて、別の場所へ逃げ込んだとでもいうのなら。  それは──  それは── 「──まさか」  血染花が行くべき場所など、一つしか存在しない。  巡り巡った業。払拭しがたい因縁の恐ろしさを、この時何よりも強く感じた。  正直に言おう。足が、重い。  身体に受けた大小様々な傷が原因ではない。この山道を越えた先、そこにある場所へ到達することを刑士郎の魂が恐れていた。  何故、言いつけを破ってここへ来たのか。それがわかる。思い知る。闇の残滓が囁いてるのだ……故郷に帰っただけなのだと。  あの集落が凶月の民にとって〈陽〉《ひと》の古里というのなら。  この先に待つのは逆の古里。長きに渡り楔となった〈陰〉《かみ》に穢れし故郷だから。 「……ああ、兄様」 「やはり、ここへ来てくださったのですね」  ──かくして、凶月咲耶は其処にいた。  麗しく咲き乱れた血の花弁に、魂を縛られながら艶笑している。 「これで総て失ってしまいました。わたくしたちの生家が、生き場が。不浄なりと焼き払われ……すべて灰と成り果てる」 「それほどまでに我々は罪深いのでしょうか?」  違う。そう思うというのに、彼らは勝手な都合で淘汰された。 「ならば、もはやこの世に生き場はないのでしょう。どれほど嘆きくずおれようと、総意の前には瑣末なこと」 「既に、我ら滅びるが〈宿命〉《さだめ》……追いやられた鰐となる、その番が凶月に巡ってきたのですから」 「それでも、いいえ、わたくしは──」 「この地は絶対に渡さない、か?」  彼ら〈夜都賀波岐〉《やつかはぎ》のように、まさに歪みそのものであるかのごとく。  許さない。認めない。消えてなるものか、時よ止まれ──  この楽園は渡さない。  兄妹二人だけ、ここで永遠に戯れて──などという言葉。 「馬鹿馬鹿しい、囚われるなよ咲耶。俺たちはここから離れることができる」 「──どこへだって、行ける」  踏みしめた薔薇が足裏から絡みついてくる錯覚がある。ここで抱かれていればいいと、安らぎにも似た誘惑を確かに自分も感じている。  だが……それはどこまで行こうと、所詮はただの錯覚なのだ。悦び浸れば、先の兵らと何が違う。幻に逃げ続け、流血運河に足を踏み入れ何になる。  だから、ここで踏み出さねばならない。それがどれだけ苦しみを生む一歩であろうと、文字通り魂魄を削る所業だとしても、成さねば道は見えないのだ。 「俺が、おまえを連れて行く。自分だけの道理に甘えるな。外など知らぬと、逃げ出すな」 「俺一人だけ愛していれば、永劫変わらず幸福などと……独りよがりの檻に逃げるな」 「おまえの世界を、凶月刑士郎だけで形作るんじゃねえ」  あなたさえいれば幸せなどと、壊れた物言いをさせはしない。 「何故そのようなことを仰るのです? 想い焦がれる情念の、いずこが要らぬと言うのでしょうか?」 「咲耶はもう、五体総て兄様のものですのに」 「光栄だとは思うがよ。嬉しくねえのさ、そういうのは」 「おまえはおまえのものだろう。俺がずっと、俺だけの持ち物であったように」  一歩ずつ、花園を踏みしめながら静かに咲耶の声を否定する。 「そうだ、精一杯なんだよ……俺は。〈二〉《 、》〈人〉《 、》〈分〉《 、》で十分すぎる。これ以上は背負えねえ」 「徹頭徹尾、互い別のものでいいだろう。腹にあるのは臓腑だけだ。血染花など詰まっちゃいねえ」 「ならば、この地が潰えようと……」  そこで、僅か言葉に詰まったが。 「何処へだって行けるはずだ」 「どうにも、うまく言葉に出来ねえけどよ……久雅の姫さんが言いたかったのは、たぶんそういうことじゃねえのか?」 「〈陽光〉《まえ》を向け、ってことなんだろう?」  ここは心地のいい楽園で、何より夜に愛されている。  覚めない闇は、ああ確かに安寧を生み出すけれど。  だからといって……その代わり朝に怯えてはいけないのだ。  だからこそ、おまえが掴み取るべきだと刑士郎は手を伸ばした。共に行くならばこの手を掴めと、雄弁な態度で差し伸べる。 「っ。わた、くしは…………」  投げかけられた決断に、咲耶の瞳が相反する思いに揺れた。  魂からの呼び声と、自分自身の意思が鬩ぎあって葛藤する。軋轢に悲鳴を上げる心に、思わず心のまま視線を逸らし。  瞬間── 渇いた銃声が響いた。 「ぁ────」  綺麗な、綺麗な、血染花の花が咲く。 「────咲、耶……」  ゆっくりと、血を流して倒れゆく姿は、まるでよく出来た芝居のようで。  大輪の薔薇を胸に咲かせ、薔薇の園に抱かれて落ちる。伸ばした手が空を切り……愛しい女は人形の如く地に伏した。  その様を前に発砲した兵はひときわ高く喝采する。  突撃するなど愚かなことよ、賢者は油断を撃つのだと──己の策を褒め称えていた。 「は、ははは、はははは……獲ったぞ、獲ったぞ。俺がこの手で、俺がやった!」 「逆賊、〈禍津瀬織津比売〉《まがつせおりのひめ》、凶月咲耶──討ち取ったりッ!」 「討ち取ったりィィィッッ!」 「てめぇぇぇええええ──ッ!」  歪んだ悦を貼り付けたまま、哄笑している首が飛ぶ。  悲願成就の夢を見ながら絶頂と共に死亡する、醜い散華から目を逸らして刑士郎は一瞬で駆け寄りその身体を抱き起こした。  冷たい感触──ぞっとするほど血の抜けた身体に、喪失の恐怖が荒れ狂った。 「咲耶……おい、しっかりしろ! 咲耶っ!」 「ふ、ふふふ……」 「そう怒鳴らなくとも……ちゃんと、聞こえて、おりますから……」  ようよう搾り出した切れ切れの声に、生気は欠片も見られない。弛緩した腕は垂れ下がり、握るだけで熱が吸い取られていくようだった。  紅に染まるのは、胸の真芯。  中点を撃ち抜かれた小さな穴が、止め処なく緋色の染みを広げている。  一滴ずつ、少しずつ、命が零れ落ちていく。逃れえぬ死に向けて、咲耶は生を失いつつあった。 「っ……待ってろ。今すぐに」 「いいえ……ごほっ……そのような手間は、要りません」 「やはり、これが……我らの〈運命〉《さだめ》だったので、ございましょう」 「わたくしたちの道は、ここに始まり……ここで終わる。総ては、出会ったときから決まっていたことなのかも……しれません」 「兄様とわたくしが、共に業を背負っている限り」 「何言ってやがる。そんな言葉、誰が認めてやれるかよ!」 「業など俺は背負っちゃいねえ! 逃げるな、縋るな、そいつは最初から俺らに憑いた幻だ!」 「見果てぬ夢に過ぎねえんだよ!」 「くそっ……何故だ。どうなってやがる、傷が──」  歪みの恩恵、生命の強化が咲耶にはまるで適応していない。いや、それどころか余計に傷が開いていくようだ。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈ま〉《 、》〈ま〉《 、》〈死〉《 、》〈に〉《 、》〈た〉《 、》〈が〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈い〉《 、》〈る〉《 、》〈た〉《 、》〈め〉《 、》〈に〉《 、》。男に抱かれ、安息の吐息を濡らす。 「よいのです、兄様。本当に……ああ何故でしょう? 咲耶はいま、とても穏やかな心持ちにございます」 「こうして兄様の腕に抱かれ……そこで生を終えることを……ずっと」 「いいえ──この時をこそ、追い求めていた気がしますから」  蒼白い顔を向けているのに、涙さえ流しながら薄く微笑む。 「わたくしは……なんと、幸福な女でございましょう」 「これで、ようやく……ついに、やっと……」 「あるべき姿に、一つへ戻ることができましょう」  目尻を伝う雫は悲しみからのものではない。〈希〉《こいねが》った瞬間を追い求めた果て、成就した渇望にこそ泪している。  永劫別れぬ〈鎖〉《あい》が欲しい。  狂おしくも手を伸ばしてきた絆の形が、いま── 「ああ……かつて何処かで。そして、これほど幸福だったことが……あったでしょうか」  旧世界の〈呪詛〉《しゅくふく》となり紡がれた。 「兄様は、素晴らしい……賭け値なく素晴らしいのに……そのことを誰も知らず、また誰も気づきません」 「愚かなわたくしは……まだ、それを知らずに、おりました」 「ならば、わたくしは……誰なのでしょう? いったい、どうして、わたくしは……あなたのもとへ、来たのでしょうか?」 「もしわたくしが、花にあるまじき女なら……このまま死そうと構いません」 「何よりも幸福な、この瞬間を……咲耶は死しても、決して、忘れはしませんから……」 「ですから、さあ、兄様」  どうか、その〈犬歯〉《きば》を鳴らして── 「この血染花を、枯れ落とし」  白磁の首へ噛み付いて── 「死骸を──晒して」  今度こそ、二度と離れぬ〈比翼〉《つがい》となろう。  そうすれば、この窮地さえあなたは生き延びる。告げた誘いに対し、されど刑士郎の答えは一つ。 「──できるか、この馬鹿がッ!」  間髪いれず、毅然と誇りを持って男は誘惑を振り払った。  心は然りと決まっている。そんな願いは受け入れられない。  叶えてはならない。 「絶対に、何があろうと、俺は血など吸いやしねえ! あいつと約束したんだよっ」 「俺はあくまで俺のまま、この地を行くと決めたんだ。奇跡や何かに頭下げて、恵んでもらえば強くてすごいだぁ……?」 「見縊るのもいい加減にしやがれ」 「だから咲耶……吸うのは、おまえだ」 「あっ──」  言い放ち、自らの手を一息に裂く。  溢れ出した血が咲耶の傷へ滴り落ち──瞬間、変化はすぐに訪れた。 「兄様の、血が……」  陰気の波動が脈動し、生々しい傷痕が突如回復し始めたのだ。  〈こ〉《 、》〈の〉《 、》〈血〉《 、》〈液〉《 、》〈を〉《 、》〈待〉《 、》〈ち〉《 、》〈望〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈い〉《 、》〈た〉《 、》と言わんばかりに再生する。復元する肉体を見届けてから、刑士郎はそっと彼女の身を横たえた。  優しく、優しく髪を撫でる。不安になるほど切なく、指を絡めて踵を返した。 「ここでじっとしていろ。絶対に動くな、馬鹿な真似も一切やめろ」 「おまえにはまだ禍憑きが残っている。そのままじっとしてれば、これぐらいの傷で死んだりはしない」 「……俺に喰われようなど、間違っても考えるんじゃねえ」 「あ、ぁ──」  勝手に死のうとするな。そう言い残して、刑士郎は歩を進ませる。  一歩ずつ遠ざかっていく背中。そこに言いようのない不安を感じて、咲耶は手を伸ばした。  ……このまま消えてしまいそうな悪寒に。 「──待って、お待ちください、兄様……兄様」 「そのようなお身体で……何処へ、何故、行くおつもりなのですか?」 「わたくしを置いて、一人で……何処へ」  駄目だ。行かせてはならないと、そう感じているのだろう。  追いすがるよう伸ばした、震えている指先。そこへ振り返り── 「戦いへ── おまえを守るために 」  ──躊躇なく、刑士郎は何より雄々しく言い切った。 「まだ兵が来る。失いたくねえ。だから戦って、守るんだよ」 「与り知らないものに力を求めて、叶ったものに価値はねえ。ただのくだらない矜持かもしれないが……どうしてだろうな、間違っていないと思えるんだ」 「俺は、こういう生き方でいい」 「ありふれた、ただの人間なんだからよ」  窮地にありながら死地へ赴くというのに、笑い声は軽い。  この花園とは違う、爽やかな息吹を感じる。  刑士郎の心に、誇り高く風が吹いていた。 「惚れた女を守るために、命を賭けて何が悪い」 「ままならねえよ、生きてくことは。けどまあ……それでいいと思おうぜ」 「前にも言ったろ。俺は凶月刑士郎で、おまえは凶月咲耶だ。どこかの誰かにはなれねえんだよ」  たとえそれで、特別な力を得られたとしても。  胸に巣くう餓えや痛みから解放されるとしても。 「その大前提を譲っちゃいけねえ」 「なあ、そうだろう? 俺はおまえと生きると決めたんだ」 「兄、様……わ、わたくしは………」  清々しい笑みを咲耶は直視することができない。  遠ざかっていく背に追いすがることも、止める言葉も持っていない。  喰らってほしいと思う気持ちに──もう一つある、別の気持ち。  溢れ出した涙に混じり合った感情は、彼女自身にもわからない。だが、彼のそれがどれほど尊く、強い決断なのかだけはわかる。  宿る輝きだけは、わかったのだ。 「──おおおぉぉッ!」  遠くで、合戦の音が響く。  血の繋がりゆえか。遠く離れた花園に横たわりながら、咲耶は兄の戦う姿を感じ取っていた。  逆賊討伐軍の第二陣──都合、百二十六の兵。それがただ一人、凶月刑士郎だけを狙って襲い掛かっていく。  ここで動けぬ女を守るために。真実、人として生き抜くために。神にも鬼にも縋りつかず、自らの魂のみで立ち向かっていた。  もはや彼に加護などなく、兵には邪神の波動がある。より深く影響を受けたのか、第一陣の者らより生命力が高まっており、一撃や二撃程度で止まりはしない。 「が──ッ、ぐぅ!」  死に絶えない数の力に追いやられていく。我欲の暴走が、まるで正気という感情を食い殺しているかのようだ。  骨が砕かれ、血が流れるたびに咲耶の心もまた傷つく。  魂にて繋がった感覚は、切り離すことも目を逸らすことも許さない。 「邪魔だ! どきやがれ、俺は……!」 「魂、懸けて……生きるんだよッ!」  絶対的な戦力差にあろうとも、刑士郎はかつての自分に頼っていない。  吼えは鼓舞の用を成さず、今や虚勢だ。程なく討ち取られるのは目に見えている。一騎当千など、今の彼には到底不可能なことだから。  武器さえすぐにも壊れてしまいそう。裂傷はこれで何度目か。流れた血は全身を赤く染め、まばたきの間に失血死しそうに見えるのに。 「どうして……」  けれど──何故だろう。  その姿を見るたびに、咲耶は自分が惨めに思えるのだ。  血にまみれ、今にも息絶えそうなあの人が、何よりも高潔な存在に見えて仕方がないから。  〈血液〉《いのち》を吸ってほしかった。自分自身を捧げることで、男の糧と成りたかった。  愛した者を唯一無二にしたいのだと。魂の奥深く、囁く声に同意する。それが拒絶された想いだとわかっていても、どうしても、切り離すことができないまま。  いま、この時も……自分を守るために血を流す男の姿を見ても。  咲耶はどうしても見果てぬ〈妄執〉《ユメ》を捨てられない。 「誰が何と言ったって、わたしはあなた達を認めていない。だから勝負は終わってないのよ」 「本当に変われるか、あなたがその業から逃れられるか……いいわよ、見せてもらいましょう」  ──幻想にて夢叶おうとも、そこに幸福は訪れない。  ああ、そうだ、その通りだ。分かったから、思い知ったから、だからお願い……もう止めて。  思えば奴奈比売の言葉は、このことを予見していたのかもしれない。夢物語にて願いを遂げても、いつか必ず小さな齟齬がそれを奪いにやって来る。  爾子・丁禮もそれを知っていたのだろうか。男女の愛に己が身を総て捧げたがるその性根は、しかしその妄執によって己が首を絞めると、既に告げられていたはずだった。  飽きや餓えを許して生きると、口ずさむ刑士郎の言葉が真実なら……  これほど多くの英雄達に訴えられてなお、狂った愛を自分は捨てられないというのなら…… 「もう……もう、よいのです。どうか、おやめください……いや、いやぁっ」 「血を流さなくともよいのです。捨ておいて構いません。ですから、ですから……」 「おねがい、いたし……ます……」  思い知った。自分は、兄と生きてはならぬのだと。  あの輝きを穢してはいけないと……心の底から思ったのだ。  凶月咲耶は最低最悪の女だ。自分の足を動かさず、愛おしい男を縛り付けて死地に誘うしかできていないではないか。  何も、何一つ変わっていない。久雅竜胆の魂を見つめながら、欠片も抱いていないのは自分だった。分かったような振りをして、大切な部分を見落としたままだった。  仲間達の中で最も愚かで、救いようのない天狗はこの自分。  そして最も気高く、誇り高い選択を成したのは紛れもなく── 「わたくしなど、置いていってください……このような醜き女など、兄様に相応しくないのです……」 「抱かれることで、繋ぎとめようとし……」 「歪みを絆と、寄り掛かっていた、わたくしなど……」 「……〈輩〉《ともがら》たる資格は……最初から、なかったのです──!」  だから、蜜月に甘えていた。陰と里に縛ろうと必死だった。  刑士郎の変化が何よりも不安だったから、そうしなければ耐えられなかった。  東へ赴くまでは解き放たれたいと思っていたのに。いざ自由を与えられれば、その広大さに心の底から怯えている。  怖い。怖い。離れているのが恐ろしい。  自らに自由を与えるべく兄は戦ってきた。だから、目標を遂げれば遠くなるのは当然なのだろう。  男は〈未来〉《あした》を見据えて歩んでいる。  けれど、女は〈非業〉《きのう》に囚われているのだ。 「だめ、です……兄様、やめてください」 「ああ、また傷が……お逃げになってください……動けなくなる、まえに」 「咲耶に、そのような価値などございません……一秒でも早く、どうか見捨ててくださいまし」 「わたくしは、ここで一人……愚かな血染花となりますから」 「わたくしの恋焦がれた、自慢の、兄様は……」  どうか、生きてほしいから。 「愛している、などと──もう、言わずともよいのです!」 「穢れているわたくしなど……抱きしめずとも、よいのですからっ!」  業の捨てられない自分が、愛されていいはずはない。  生きている限り、この自殺にも似た思慕は消えないのだ。なんと薄汚い女だろう。想い人が雄々しくなっただけに、一層その愚かさが浮き彫りとなる。  咲耶は胸を張って言える。自分が愛した男は、この世で最高の男なのだと。  だからこそ、胸が痛い。己の愚劣な願望を叶えさせてはいけない。こんな自分でもあの人は愛してくれている、そこに喜びを感じている姿をこの上なく軽蔑する。  死なせてはならないと思っているのに、傷を負い、涙を流すことしかできない。  かつてないほど強く、咲耶は自分自身に根ざす非業を呪った。  変われない自分のことを、恨んだ。 「がぁッ──っ、はぁ……はぁ!」 「負けるか、よ……道を阻むな……」 「うおおおぉぉぉぉぉ───!」  咲耶の嘆きは届かぬまま、刑士郎は血を舞い散らせて刃を振るう。見る影も無い攻撃を繰り返し、異常なほどしぶとい兵を討ち取っていく。  身体は全身傷にまみれ、正直立っているのが不思議な姿だ。  削られた肉は血と共に離れ、傷口からは骨が覗いている。激痛と失血により意識は時折消えかけていた。  足を支えているのは、もはや胆力のみだろう。  負けられないという想い。一人の女へ向けた誓いが、彼に最後の力を与えていた。  張り詰めた身体は決壊寸前。武器を手放せば二度と握る力もない。魂に火をくべながら、銃弾の雨をかいくぐり胴を斬りつける。  討ちはしたものの、鈍った動きゆえ傷を増やす。容赦なく攻めかかる兵の津波はまだ途切れない。戦術眼は逃げろと叫ぶ──ああ、けれど。 「──守る」  この行いを幸福だと思える。誇りに感じる。だから刑士郎は後退しない。  二人で生き抜くために、これらの兵を押し返す。そして、この地を捨てても共に生きると決めていた。  裂帛の気迫に、兵達へ少しずつ動揺が走る。  彼らはその心情が理解できない。自分のために生きていないその行いが、あまりに奇異な姿へ映る。  それは遠い、何処ともしれぬ天の果て──  天狗道の理が、少しずつ、少しずつ──  少しずつ── 「こやつ〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈れ〉《 、》か? 物狂いめ。やはり化外は、骨の髄から壊れておるわ」 「なにゆえ逃げぬ……穢れた怪異は、命を惜しまぬとでもいうのか」 「はっ。さてなぁ」  一瞬、口端に笑みを象って。 「──てめえらには、一生わかんねえよ!」  それら退いたものへ飛び掛り、首を刎ねた。返り血にてさらに紅く染まりながら、気力のみで疾走を続ける。  死の〈颶風〉《ぐふう》と化した刑士郎に兵の飽和が崩れ始める。戦力差ではない。その姿が、己の理解を超えているがために。 「……何故だ。こやつ、まだ死なぬぞ!」  〈薄〉《 、》〈気〉《 、》〈味〉《 、》〈が〉《 、》〈悪〉《 、》〈い〉《 、》。己のみを愛する者たちに、その道は永劫分からぬものだったから。  自愛と武功の天秤が徐々に揺らぎ始めていき、少しずつ彼らを駆り立てていた自己愛に亀裂を走らせていく。  そう少しずつ、少しずつ──  自己愛という名の絶対法則に──  完全無欠の第六天に── 「退けよ──こんなもんじゃ足りねえな」 「俺を獲るというのなら、この十倍はつれて来い」  ……咄嗟に振るわれた槍を刑士郎は避けなかった。  胸に突き刺さっている穂先を傷が増えるのも厭わず、手で掴む。血で染まったそれをつまらなさげに見つめた後……力をこめて握り潰した。  完全に穿たれても死なず、無表情で佇む姿は、果たして兵達の目にどう映ったか。 「〈禍憑〉《まがつ》き――凶月一族」  茫洋と呟いた声に混じっていたものは、確かな畏れ。  殺しても死なぬ者など冗談ではない。それ即ち、逆賊どころか災厄ではないかと──  それは明確な畏敬であり、同時に覚者から邪神に翻弄される有象無象への洗礼であったかもしれない。  神を知らず、道を知らぬ兵達へ、悟りを得た人間が静かに自らの道を示している。  暗闇に目隠しされた無謬の世界を照らすように……死に瀕しながらも理不尽を受け入れて足掻く姿は、彼らの酔いに一石を投じるほどの衝撃を有していた。  それは本来あり得ないこと。天地覆う邪神の波動が、単なる一個人によって震壊し始めているという事実に他ならない。  それはつまり、天空に住まう太極座にとって、不倶戴天であることを示している。  座と呼ばれる仕組みにより生まれながら、座に囚われず己が魂で道を歩んでいける存在の証。  そう、それこそ、数多に続く太極の歴史において真実、彼のみが切り拓いた唯一の光。  星の定めを乗り越えた、何よりも輝ける魂だった。 「せめて憐憫してやるよ……おまえらは、〈悲〉《 、》〈し〉《 、》〈い〉《 、》」  〈仏〉《ほとけ》を知らぬ者達にとって、これほど恐ろしい相手はいないだろう。  この畏怖と戸惑いに通じる感情、神座の縛りに左右されぬ心神こそ、まさしく大欲界における鬼門なのだから。 「だがな、それで譲ってやれるはずもねえ」 「俺の守りたいものは──憐みでくれてやるほど、安くはねえんだよォッ!」  烏合の衆と化した兵へ突貫し、隊列を切り崩す。陶酔から一転、恐慌にかられた雑兵を蹂躙した。  止め処なく流れる血を振りまきながら、魂を燃やして疾走するのだ。  天の波動を失えば、彼らに成す術などない。  小天狗の群れが浴びた後押しは人の意思により砕かれて、己の個我がどこにあるかすら覚束ず、わけも分からぬまま潰えていった。  それからどれほど戦っただろう。数分かもしれないし、数時間かもしれない。満身創痍で佇む刑士郎にはもはや時間の感覚すらあやふやだった。  退却したのか……それとも、いま切り裂いたのが最後の一体だったのか。  血塗れの姿にて勝利をようやっと確信する。混濁した意識のまま、喉に詰まった血塊を吐き出した。 「……げ、ほっ」  吐血さえ搾り出さなければ出ない。自分の生死すら掴めぬまま、引き寄せられるようにその場を後にする。  千切れそうな足が、自然に動く。  守り抜いた者のもとへ……刑士郎はささやかな充足と共に、帰ろうとしていた。  行かないといけない。帰らないといけない。そして抱きしめるのだ、自分が彼女に道を示したいと強く思う。  そして、ついに紅の花園で倒れ伏す。  流れ出た血を瑞々しく吸う──血染花。  血に染まり、血を肥料に、血の色として咲き誇る。 「……兄様っ!」  限界などとうに超えていた。花に埋もれ、女に抱かれ、ついに男は命の果てを見ようとしている。  咲耶に頬を触れられながら、彼は薄く微笑んだ。まったくこれでは、撃たれたときと立場が逆だ。塞がった傷に指を這わせ、霞む視界で覗き込んだ女の顔を見上げる。  頬に、冷たい雫の雨を感じながら── 「逃げろ、咲耶……日をまたげば、また……奴らは都から、やって来る」 「俺が、ここで足を止めておく。だからおまえは、その間に──っ」  血の塊を吐かぬよう、飲み下して── 「……出来るだけ、遠くへ行け」 「後で、すぐに追いつくさ……」 「いやです!」  嘘を吐くものの、見抜けないわけがなかった。  消えようとしている命を見紛うほど愚鈍ではない。いや、愛しいからこそわかるのだろう。 「ここで兄様を置いていくなど……出来るわけがございません!」 「生きるべきは、わたくしなどではないでしょうに……どうして、なぜっ」 「こんな……これほどまでに、傷ついて」  血で汚れるのも気にせず、咲耶は強く抱きしめる。  本当に、困った。そういう顔をさせたくないがために足掻いたが、結果として悲しませていることが痛い。  それでも、これは男の意地なのだ。ここで見栄を張れない男であってはならないだろう。そう思う自分に、後悔などあるはずがない。 「兄様……兄様……兄様……兄様……」  けれど──彼女は。 「兄様……」  守られてばかりいた女が。 「────」  その背に何を思うのか?  魂の深奥に潜む渇望は、果たして何を選ぶのか? 「────さ、ない」 「───許さない、よくもっ」 「わたくしの刑士郎に、手をあげたなッ……!」  最後の一押しがついに、時を越えて具現する。  咲耶の魂にくすぶる鬼母神相──■■■・■■■■■■■が牙を鳴らした。  愛している。愛している。愛している。だから何者も、私の〈家族〉《おとこ》を傷つけさせない。いじめることなどさせはしない。 「ええ、ええ──その通り」  このような者達に奪わせたりなどしない。自分のような穢らわしい女の魂を背負わせてはならない。そう願うがためにこそ、彼女の中でかつてない領域の同調が始まる。  極大の激怒を拠り所に、あの恥知らずどもへと向けて歪みを振りまくその姿。まさしく天魔。化外の蜘蛛。  凶月咲耶の魂が、最大最悪の起爆装置へ目覚めていく。 「あなた方の命を、わたくしは絶対に認めません」 「我々は〈薄〉《 、》〈汚〉《 、》〈い〉《 、》。そんなこともわからぬ方々が、兄様に触れていいわけがない……!」  ゆえに、〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈滅〉《 、》〈ん〉《 、》〈で〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》。  このような命を下した輩。  後続に控える討伐軍。  いや、──いっそ秀真に住まう者ども総て。 「皆で、凶を被りましょう」  そして、兄に相応しくない自分もまた、返し風にて消えればいいと咲耶は願った。  総ての代償を受けきって刑士郎のみを生かす。彼の中に住めぬような、愚かな女はここで散るのだ。  それでいいと、思った。 「特級の禍津──それほど見たいというのなら、よいでしょう」 「いざ、その目に照覧あれ!」 「死出の光と刻みなさい──!」  紅に染まる両眼にて、睨みつける。  咲耶は己が秘めた最後の凶兆を弾けさせようとした。  ──寸前。 「……やめろ、咲耶。〈禍憑き〉《それ》は使うな」 「腹の子に障るだろうが」 「──え?」  本当に小さな言葉が彼女の憤怒を打ち砕いた。  漲っていた鬼母の念がわずか、その一言を前に霧散する。  まるで最初から嘘であったかのように。正気の淵まで、心を掴んで引き戻したのだ。 「はら、の──やや、こ……?」 「そうだ。俺たちの、子だ」 「ここに……」  傷だらけの手が咲耶の下腹部を優しく撫でた。そこに息づくものを伝えている。  ──手の平に返る、かすかな命の鼓動。  未だ曖昧な形でしかない息吹を刑士郎は確かめる。何度も、何度も、それを抱えている女へと。  自らの愛おしい伴侶へと。 「……感じるだろう? 生きてるってな」 「だから、それは使うな。こいつまで凶を被っちまう」 「母親が……ガキを殺してどうするんだよ」  その瞬間、優しい声に何かが砕けた。 「っ、ぁ……ぁあ……ああ、ぁ」 「あぁっ……あぁぁぁあああぁぁあぁぁ」  泣き崩れると同時、歪みが急速に薄れてゆく。  あれほど強固であった執念の残滓は、その先など知らぬとばかりに形を失い、消えつつあった。  そう、所詮その衝動は〈よ〉《 、》〈く〉《 、》〈似〉《 、》〈た〉《 、》〈誰〉《 、》〈か〉《 、》の業なのだ。  家族を求めながら得られなかったからこそ、餓えた願いに焼かれていた。愛を求めながら得られぬために、屈折した願望へ逃避した。  それは世界を超えてなお残り続けるほど、強く大きな〈渇望〉《のろい》だったけれど。  それでも、いまは── 「感じます……命の、息吹を………!」 「兄様とわたくしの子が……ここへ、お腹の中に、確かにっ!」  子の存在に咽び泣く涙を前に、凶の念が敵うはずなどない。  それは、彼らの魂に残っていた者らには成しえなかった未来。  他を慈しみ、共に手を取って生きる。新たに足を踏み出した、明日への確かな一歩だった。 「おまえは、さっき自分じゃ駄目だと言ったけどよ……そいつは、違うさ」 「俺は、おまえとこいつをもう背負ってる。おまえじゃなきゃ、駄目なんだ」 「だから……答えろ、咲耶──」 「……おまえにとって、〈家〉《 、》〈族〉《 、》〈と〉《 、》〈は〉《 、》〈誰〉《 、》〈だ〉《 、》?」  穏やかな問いに、彼女の心が静かにさざめく。  胸を突く魂の叫び。自らが拘泥し続けた総ての鎖を、ほんの一瞬だけ噛み締めて…… 「──兄様と、この子でございます!」 「わたくしの愛しい大切な、家族は……いま抱いている兄様と、もう一人、ここに生まれくる命として!」 「小さな鼓動を、鳴らしています」 「未来を求めて、生まれようとしています!」  ……陰の波動を断ち切って、遍く非業と決別した。  その姿を見て刑士郎は微笑をこぼす。ああ、やっと自分はやるべきことを遂げたのだと、心の底から思えたから。 「……そうか。なら、生きねえとな」 「飽いて……餓えて……見果てぬ夢に焦がれても……」 「自分の意思で、自分の足で歩いていくということ……」 「誰かを信じるということ……こいつにも、教えてやらねえとな」 「はい……はいっ……」 「信じております。兄様となら、必ずこの子を立派に育てられると……!」 「共に手を取って、たくさんの幸せを与えてあげられると。慈しむということを、きっと」  春には、揃って桜を囲み。  夏には、蝉時雨に耳を傾け。  秋には、紅葉に染まる山を眺めて。  冬には、三人寄り添って暖を取ろう。  男なら意地を持てる立派な男児に。女なら懐深く優しい淑女に。  子育てなど何一つわからぬまま、手探りでもいいから出来る限りの愛情を注いでみよう。成長する姿に一喜一憂して、喜びと悲しみを分かち合って生きればいい。  それで笑顔が絶えないのなら。  共に天照す光を仰げるなら。  ああ。それは、きっと── 「悪く、ねえなぁ」 「ええ。本当に、それは夢のような」  小さな小さな幸福の庭。その未来を形にしたいと、二人は優しい夢を見て微笑んだ。  そして、ついに──  いま、ついに──  ──この時、天に致命の亀裂が刻まれる。  それは髪の毛よりも細く、砂の一粒よりも小さい皹。  およそ人の目には捉えられず、また天自身すら気づきもしないささくれの如き一筋の軌跡。  宇宙に爪をたてた程度の極々小さな損傷であり。  ゆえに──この瞬間、ソレは完全無欠ではなくなったのだ。  無量大数に仇なした僅かな一の質量は、確かに世界を小さく削った。それがどのような結果を紡ぎ出すか……彼ら二人は気づかないし、生きている間に出会うこともないだろう。  血に縛られた兄妹の物語はこれにて終わり、今より始まる。  もう彼らの前へ神は姿を現さない。解き放たれた男と女は、人として地を踏みしめながら歩んでいく。天と地は、決して交わらぬものだから。  そして、それでいいと思えるために彼らは尊く美しいのだろう。 「咲耶……膝を、貸してくれ」 「さすがに、眠くなってきた……すぐに起きるから……いまは、少しだけ休ませてくれ……」 「少しだけ……」 「どうぞ。お好きなだけお眠りください」 「目が覚めたら、共に山を越えましょう。わたくしたちを知らぬ何処かまで」 「三人で、ずっと。心安らかであれる場所で、末永く……睦まじく」 「ああ……あぁ……」 「そう、だな……そいつは……きっと、何より、も───」  ……言い終える前に、刑士郎の腕が落ちた。  今までの生において恐らくは最も心安らかに、幸福に抱かれながら瞼を落とす。  よりかかった女の中に赤子の鼓動を感じながら、微笑をたたえて……眠りについたのだ。 「……兄様?」 「…………」  返らない声に涙を流し、唇をそっと重ねる。  流れ出た血が口紅となって咲耶を彩った。より一層、もう離さないと冷たい刑士郎の身体を抱きしめて── 「愛しております。兄様」  久遠の絆と共に血染花が花開く。  赤よりも力強く、紅よりも美しく。  いまや死にあらず、新しい命の色を咲き誇らせて。  〈未来〉《あした》へ向かい、咲いていた。  真にただの人間として生きていくという、輝ける魂と共に。  特別付録・人物等級項目―― 凶月咲耶、奥伝開放。  特別付録・人物等級項目―― 凶月咲耶、奥伝開放。  そして――  今こそ俺たちは、ここに最終的な結集を果たす。  それぞれがそれぞれの道を行き、辿り着いた答えと結末。その果てに抱いた想いをもって、一つの法則と成すために。  誰に強制されたわけでもない。俺たちが、俺たちのために選択した諸々が、この形へと収束すること。それこそが勝利を呼び込む光となるんだ。  まず自分を強く持ち、それによって知覚できる周囲との差異、そこには他者がいるということ。  己は己でありながら、大きな輪の一部でもあると認めること。  俺の想いは俺だけのものじゃない。  全は〈己〉《こ》であり、〈己〉《こ》は全である――座を象徴するその理念は、決して自分以外を排斥するためのものじゃないんだ。  己以外は〈塵芥〉《ちりあくた》。目障り、邪魔臭い、ゆえに消えよ――そんな理屈が通るかよ。  なぜなら俺たち一人一人が、それに反逆することでここに集まっているのだから。  万象滅尽滅相という法下にあって、新たな命を生んだあいつら。  次代を育み、魂を継承していく人の業こそ楽土の理。己のみを愛する者には天地が砕けようとも成せないこと。  共に高め、鎬を削り、認め合いながら求め合うからこそ成立する双方向の関係がある。  たとえそれが傷つけ合うものであろうとも、愛しい好敵手の存在しない世界などを威烈の魂は許さない。  たった一人じゃあ、誰とも契ることが出来ないから。  ゆえに真理は陰陽合一。どちらが欠けても成立しない。  〈陰〉《おんな》が生み、〈陽〉《おとこ》が拓く。誰よりそれを知るからこそ、咒皇は両翼を持ったときに真の飛翔を見せるんだ。  つまり、なあ、分かるか波旬――  すでにおまえの法は破綻している。亀裂が生じているんだよ。  誰にも何にも目を向けず、極限の唯我を誇るからこそおまえは強く、そして脆い。  〈畸形嚢腫〉《おれ》を排除したくて堪らないという渇望こそがおまえの覇道の根幹ならば、その時点で滅びを孕んでいたと知れ。  〈俺〉《 、》〈を〉《 、》〈意〉《 、》〈識〉《 、》〈し〉《 、》〈な〉《 、》〈け〉《 、》〈れ〉《 、》〈ば〉《 、》〈今〉《 、》〈の〉《 、》〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈は〉《 、》〈な〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈た〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。  おまえがそこまで〈強い〉《よわい》のは、つまるところ一人じゃなかったからなんだぜ。  その矛盾を、今こそ教えてやるよ兄弟。 「――太・極――」  皆で紡ぎ上げたこの一矢、いざ受けるがいい――勝負の時だ。 「――行くぜェッ!」 「――〈天照〉《あまてらす》」 「神咒神威神楽ッ!」  放たれた矢は煌く一筋の光と化し、無明の闇を切り払う。  ここに俺たちは、最後の戦いを迎えるべく超深奥の座へと入った。  決戦の場に集ったのは都合六名。すなわち俺、竜胆、紫織、宗次郎、夜行、龍水であり、凶月二人はここにいない。だがそれは、俺たちに欠員が出たという意味じゃないんだ。  人であることを選択したあいつらこそが、もっともでかい仕事を成してくれた。皆がそれを強く理解しているからこそ、奴らの勇気に敬意を表す。  なあ、咲耶よ、刑士郎よ――たとえ姿は見えなくたって、おまえらの魂を感じるぜ。安心しろよ、〈仲間〉《ダチ》のガキなら俺らの家族だ。その子が健やかに生きられるよう、輝く新世界を掴んでやる。  そのためには無論、言うまでもない。ここで負けるわけにはいかねえよな。  さあ一丁、でかい花火を上げようじゃねえか! 「滅尽滅相だと――よくも言った」 「あなたの存在を許したら、僕はもう、誰とも触れ合えなくなってしまう」 「この地上にただ一人、壬生宗次郎だけが残るまで……ああ、なんて浅はかな夢だったんだろう。誰もいなくなってしまえば、誰とも〈戦う〉《ちぎる》ことが出来ないのに」 「僕はあなたの渇望に操られる木偶じゃない。一個の人間、一個の剣だ」 「誰にも関わってほしくないなら、あんたが消えりゃあいいんだよ」 「出て行けだって? ――ふざけるんじゃない! 〈世界〉《ここ》はあんただけのものじゃないんだ。色んな人間、色んな可能性に満ちている」 「好きにやるのが楽しかった。自分を求め続けるのが誇らしかった。だけど反面、それ以外は、私を彩る装飾品としか見ていなかった」 「恋も、男も、戦いも、全部、全部そのために……馬鹿だったよ。対等にぶつかってくれる誰かがいないと、高めあうことすら出来ないのに」 「気持ちよく踊って果てて、それで満足する私なんかいらない。私はあんたに嗤われているだけの、単なる細胞じゃないんだから」 「然り――我らは我ら、貴様とは違う」 「ようも私を嬲ってくれた。ああ、細かい理屈はどうでもいい。ツケを清算してもらおうか」 「貴様の糞は、貴様が喰らえ」 「そうだ、私と――私の〈良人〉《おっと》を見縊るな」 「貴様などに玩弄される謂れはない。その腐りきった願望ごと、根こそぎ浄化してくれる」 「次代に何も残さぬ存在などに、森羅万象の座は釣り合わない!」  同時に噴き上がる気炎の奔流。空前絶後の大戦を前にして、高まる戦意が〈咒〉《ことば》となって紡ぎ出される。  それぞれここに持ち込んだ決意のほどを、誰劣ることのない魂の叫びを、その背に負って奮い立つのは、俺らの誇る総大将。  久雅竜胆が、静かに、そして強く告げる。 「どうだ波旬。これが我らだ、とくと見よ」 「皆が迷い、揺れて、傷つきながら、それでも立って掴み取った真実がある。それを守ろうという誇りがある」 「すなわち、その輝きこそが魂だ! 貴様の〈法〉《ソラ》には欠片も存在しないもの――」 「我が益荒男たちは我が朋友、そして掛け替えのない宝である! 断じて誰にも奪わせん。まして、己以外の何も見ていない貴様になど」 「役者が違うのだ、三流神! 我らの〈覇道〉《きずな》を見せてやる!」  凛然と喝破する声は光を増幅する水晶のように。眼前に立ち込める最後の帳を吹き払い、そこに在る者がついに俺たちの前に現れた。  鏖殺の宇宙、天狗道。その座を統べる第六天波旬――! 「ああ、うるさい」 「うるさいぞ……〈塵芥〉《ちりあくた》が何か分からないことを〈囀〉《さえず》っている」  まず、何よりも目を引いたのは三つの瞳。万象を見通す最強の天眼でありながら、その実何も見ていない白濁した眼光だった。  異国人? それもこれは子供なのか? 褐色の肌に緩やかな衣を纏い、くすんだ金髪を炎のように逆立てているその容貌は、どう見ても大和人のものではない。  俺もこいつと面と向かうのは初めてだから、それが第一に衝撃だった。加えて、蓮台に座した姿がある種の神聖性を有していたこと。  背後に広がる大曼荼羅が、後光のごとく輝く阿頼耶識の卍となって、こいつこそが無限に存在する平行宇宙を掌握する者だと告げている。  その様こそは、まさしく神座……頂点に在る者として、見る者に理屈抜きの畏怖を叩き込むことだけは間違いない。巨木や高峰がそうであるのと同じように、圧倒的な大質量を有するモノには必ずそうした効果が付随する。  だが……  しかしこいつは…… 「ある日、気が付いたときから不快だった」 「何かが俺に触っている。常に離れることなくへばりついてなくならない」 「なんだこれは。身体が重い。動きにくいぞ消えてなくなれ」 「俺はただ、一人になりたい。俺は俺で満ちているから、俺以外のものは要らない」  陰々と、独り言のように垂れ流す〈咒〉《ことば》が総てを語っている。その一音一音が紡がれるたび、背後の曼荼羅から〈星〉《いのち》が消滅しているのだ。  光が翳る。闇が版図を広げていく。今のたった数言だけで、いくつの宇宙が潰されたのか分からない。  こいつの神威は排除と殺戮のみしかなく、その総体に抱え込んだ無限数の魂を、己に纏わり付く不快な塵としか思ってないのだ。  理解はしていたはずなのに、それを前にして目眩を覚える。なんだこれは、これが神だと? 万象の根源から流れ出した存在が、万象をまったく無価値と断じている大矛盾。静謐とさえ言えるその念が、しかし激烈な濃度をもって煌く星々を駆逐していく。  まさしく、塵を払うかのように。それは当たり前のことであり、何の問題があるとでも言わんばかりに。  こいつは駄目だ。どうしようもなく救いがない。存在するだけで己以外を食い潰すという、ある意味覇道の典型だが、制覇という行為に対する理解も自覚もまったくないんだ。  支配であれ、管理であれ、導きであれ、何であれ、他者を率いるという気概がなく、それに対する責任がない。歴代、座に達するほどの者たちなら誰もが傲慢だったのだろうし、狂気と表現できる者もいたかもしれない。  だがこいつほど、盛大に終わってる奴は一人もいなかったはずだろう。それもそのはず、そもそも覇道の祈りは他者を思わなければ出来ないのだから。  あらゆる意味で、こいつは畸形だ。己のみしか見ていないから、己以外は消えろと言う。ああちくしょう、俺は今さら手遅れなことを考えている。 「なのに、ああ、なぜなんだ。ようやく見つけた〈他人〉《そいつら》を、消し潰したのに不快感がなくなるどころか増していく」 「俺の〈宇宙〉《なか》が塵で満ちる。奴らが持っていた〈魂〉《ゴミクズ》が、俺に纏わりついて離れない」 「要らない。要らない。俺はこんなものなど望んじゃない」 「俺以外、消えてなくなれ。〈宇宙〉《ここ》には俺だけ在ればいい」 「塵同士喰らい合って、綺麗さっぱり無くなれよォ」  総てを抱きしめるという女神の理。そしてその身にへばり付いていた俺の存在。  確かにおまえは〈唯一〉《ひとり》じゃなかった。 〈孤独〉《ひとり》じゃなかったんだよ馬鹿野郎! 「兄弟、哀れな野郎だな」 「てめえにだって、愛してくれる誰かがいたはずだろうによ」  光を見れる目があって、誰かと触れ合える手があって、外に歩いていける足があった。  俺が望んで、願って、狂おしいほど焦がれたものを持っていたのに、おまえはそれを屑と言うのか。祝福ではなく呪いと言うのか。  だったらよ、もはや言うことは一つしかねえ。 「底が浅いぜ――てめえのチンケな自己愛なんぞに、俺の生きる意志は崩されねえ!」  一人だからこそ無敵だなんて、魂懸けて言わせねえよ。 「さあ――」 「来いや波旬――第六天! てめえの座はこれで終わりだ!」 「俺は、いいや俺たちは――」 「朝日と共に生きていくって決めたんだよ!」 「―――――――」  そのとき、奴は初めて俺たちの言葉に反応した。ばらばらに動く三つの瞳が、宇宙を捻るようにしながらこちらに焦点を合わせてくる。 「ああ……」 「そうか、おまえだ。おまえなんだ」  膨れ上がる憎悪、歓喜、無限大の津波となって押し寄せてくる自己愛の覇道――  びびるな、退くな。ようやく〈畸形嚢腫〉《おれ》が何処にいるのか気付いたんだろう。出会いは感動的にいこうぜ兄弟――  この接触を、共に俺たちは森羅万象の理として望んでいたはず。 「見つけた。見つけた。見つけた見つけた見つけた見つけた見ツケタ見ツケタァァ――!」 「汚らわしいんだよ畸形どもめらァッ! 俺にへばりついた俺の成り損ないのくせによォッ!」 「滅尽滅相ォォ――!」  ――来る。  神座の殺意が――代々、座を乗り越えようとする者が例外なく受け止めてきただろう根源からの滅殺意志が、今ぞ俺たちに襲い掛かる! 「逃がさねえ、許さねえ! てめえだけはこの俺が、引き毟って滓も残さずバラ撒いてやらァッ!」  燃え狂う大曼荼羅を自ら消滅させながら、ついに波旬が最後の大戦に向ける火蓋を切った瞬間だった。 「ちィィ―――」  その密度、尋常じゃないことくらい百も承知だ。俺はもちろん俺の仲間も、今さらこんなものに怖じたりしねえ。  だからこれまでと同じように、一番槍を切る者は決まっているし変わらない。 「行くよ、宗次郎!」 「ええ、行きましょう紫織さん!」  劍神、壬生宗次郎――布都御霊の斬気が走る。 「〈梵天王魔王自在大自在〉《ぼんてんのうまおうじざいだいじざい》、〈除其衰患令得安穏〉《じょごすいがんりょうとくあんのん》、〈諸余怨敵皆悉摧滅〉《しょよおんてきかいしつざいめつ》」 「首飛ばしの〈颶風〉《かぜ》――〈蝿声〉《さばえ》ェェッ!」  神威一閃――迸る裂帛の気合いが宇宙を分かつ無謬の切断現象と化して放たれた。  その斬撃は回避不可能にして防御不能。〈宗次郎〉《剣》と交わったというその時点で、対象物は必ず何かを斬られている。俺たちの中でもっとも攻勢に特化した太極が、狙い過つことなどあろうはずがない。  ゆえに命中。それと同時に曼荼羅の光が一気に翳る。間違いなく今ので波旬は削られたと、この場の全員が確信した。  そう、それは確かだったのだが―― 「くくく、うははは、あははははははははははは!」 「僕は刃だ。刀剣だ。何者をも切り裂く天下一の〈剣〉《つるぎ》になりたい」 「〈経津主〉《ふつぬし》・〈布都御魂剣〉《ふつのみたまのけん》――あははははァ、なんだそりゃあナマクラかァ!」  波旬の本体、根源の太極には傷一つ残っていない。奴に言わせれば自らを囲む塵がいくらか消えただけ。視界はより晴れ、動きやすさも向上する。  ああ、知っていたし分かっていた。こいつに限り、総軍の減少は弱体化を意味しない。  陣地、領域の奪い合いという神座闘争の原則を、完全に逆転させているのが天狗道だ。こいつは攻撃すればするほど強くなり、〈唯一〉《ひとり》に近づくほど完成される。  ゆえに今の一閃も、波旬にとっては願ったりというものだろう。よくやったぞ役に立つ塵じゃないかと、嘲笑しながら毒塗れの祝福を飛ばすのみ。 「温いぜェ、てめえが斬ってきたのはなんだ? 滓かァ? あのなんとかいう腐れ程度か」 「木偶の剣だな、芯が無い――うわはははははははははははは!」 「くッ――」  その嘲りは、宗次郎の魂を根本から貶める呪いに他ならない。聞き流すことなど出来ないだろう。 「――貴様ァァァッ!」  激昂した宗次郎が、二撃、三撃目を続けて放つ。繚乱と舞う剣閃に重なる形で、自らの男を侮辱された蜃の神威も猛り狂った。 「玖錠荒神流―――〈陀羅尼孔雀王〉《だらにくじゃくおう》ォォォッッ!」  叩き込まれる摧滅の拳は無限の陽炎。波旬の曼荼羅がさらに減少していくが、やはりそれも奴にとっては都合のいいものでしかなく―― 「出来ないから、やれないからって、そんな理由で誰かの装飾品になんてなりたくない。私は私――玖錠紫織」 「だから、そう──私は最高の私でいたい」 「〈紅楼蜃夢〉《こうろうしんむ》・〈摩利支天〉《まりしてん》――透けてんだよォ、霧に殴られて効くか阿呆がァ!」  爆発する哄笑が、次の瞬間いきなり無感動なものに変わった。 「これだから、女はつまらん」 「自分の基準で他人決め付けてるとこが、馬鹿女丸出しで腹立つのよォォ――!」 「―――――ッ」  駄目だ、切れるな冷静になれ。 〈お〉《 、》〈ま〉《 、》〈え〉《 、》〈た〉《 、》〈ち〉《 、》〈の〉《 、》〈行〉《 、》〈動〉《 、》〈は〉《 、》〈間〉《 、》〈違〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈ゃ〉《 、》〈い〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》。  さらに激発しかける紫織を抑えようと手を伸ばしたとき、俺より早く割って入ったのは驚くべきことに夜行だった。 「呑まれるな。アレは下種だ。聞き流せ」  ある意味、俺よりも波旬に近く、奴の唯我を完成させる代行者だったこいつが仲間を慮った。この場にそろった以上、皆の結束を疑う心はなかったが、それでも呆気に取られてしまうのは仕方がない。  その辺りは他の全員も同じなようで――いいや龍水だけは何やら得意げにしていたが、ともかく一瞬にして頭は冷えた。鎮静効果としちゃあ抜群だろう。  そんな俺たち、即座に気持ちを立て直した塵の不遜さが気に入らないのか、波旬は殊更下卑た調子で夜行を嘲る。  おまえ、何を勘違いしているんだと言わんばかりに。 「よォ、カッコいいなあ、夜摩閻羅天」 「仏道に言う。閻魔とは、始まりの死者である――」 「俺の糞が俺の糞食って不味がってんなよ。今は〈幼女〉《ガキ》の小便で生きてんのか? てめえとんだアレだな、ああなんだ」 「あぁぁあぁ、――変態だ」 「くはははははははははははははははは―――」  同時、さらに密度を高めていく波旬の神威。次から攻撃に打って出ると、皆殺しの太極が言っている。もはや一刻の猶予もない。  だから夜行、おまえは諸々分かってんだろ? 直に波旬と接したことのあるおまえなら、こいつを斃しえる唯一の法を知ってるはずだ。  実際、戦術云々を呑み込ませるなら、俺なんぞが口にするよりこいつのほうが適任だろう。そういうところは信頼してるし――  俺からは言い難いことだから、おまえがそれを買って出てくれたんだと分かってる。  目配せ、頷き、そして夜行は口を開いた。 「皆、聞け――」 「あれが座だ。下種だが、歴代の誰よりも強い」 「そして奴は、〈そ〉《 、》〈の〉《 、》〈総〉《 、》〈て〉《 、》〈を〉《 、》〈使〉《 、》〈う〉《 、》」 「総て……?」 「座とは本来、そういうものだ。先代を喰い潰し、それが持っていた魂を奪い取り、代替わりするごとに強大となっていく」 「ゆえに無論、あれは歴代の座、総ての〈太極〉《ソラ》を呑んでいる。すでに消し去った残影だが、記憶として使ってくるぞ」  塵として、捨て去るべき滓として、糞便を投げつけるように使ってくる。  奴の〈宇宙〉《まんだら》が空になるまで。蓮台に座すのが真に己一人となる瞬間まで。  〈あ〉《 、》〈い〉《 、》〈つ〉《 、》〈は〉《 、》〈何〉《 、》〈が〉《 、》〈起〉《 、》〈き〉《 、》〈よ〉《 、》〈う〉《 、》〈と〉《 、》〈そ〉《 、》〈う〉《 、》〈せ〉《 、》〈ず〉《 、》〈に〉《 、》〈は〉《 、》〈い〉《 、》〈ら〉《 、》〈れ〉《 、》〈な〉《 、》〈い〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》。 「奴は六代目の座――己を含めて八つの〈太極〉《てん》を持っているのだ。その一つ一つを潰していかねば、斃すことなど到底できん!」  それは波旬の完成、かつて四柱の覇道神を同時に滅ぼした最強への回帰を意味するが、ここに一人だけ例外がいる。  一人だから強いなんてとぼけた法を、根本から突き崩せる存在が。 「覇吐――」 「奴自身の太極と対峙できるのはおまえだけだ。分かっているな」 「皆、そのために刺し違える覚悟はあるかッ」  奴の曼荼羅を空にする作業。最後を俺に任すため、命を懸けろという無茶な方針。だけど夜行は迷わずそれを促して、応じる奴らも泣きたくなるほど疑いを持たず―― 「無論」 「当たり前でしょ、やらなきゃね」 「夜行様が仰るなら、何も迷うことなどありません」 「ああ、今さら言われるまでもない」  頷き、笑って、威風堂々。ああこいつら、頼むよ――全員抱きしめさせてくれ。 「あれが〈座〉《かみ》だと? 私は断じて認めていない!」  人は弱い。法が要る。将であり為政者として、竜胆はそう思うからこそ誰より厳しく上に立つ者の資質を問う。  それを傲慢と言われようが何だろうが、本来覇道の魂とはそういうものだ。導くべき光となって世を照らす責任を持ち、ゆえに波旬の法を許さない。  おまえの覇道は畸形であると断言する。 「神は在るべき。だが奴は違う!」 「本来、誰がなっても変わらないようなものかもしれませんが」 「あれに座らせとくぐらいなら、誰でもいいから適当に代わっちゃったほうが世のためだよ」  その意見はこいつららしい。いい加減なようでいて、見極めるべきところは見極めている。 「まあ、私としてはこのような機構自体不要と思うが、あれが相応しくないということだけは同感だ」 「なんでもいいです。私は皆が選んだ道にどこまでも付き合うまで」  思いはそれぞれ、多種多様。だが芯の部分では間違いなく繋がっていた。  だからもう、変に感動するのはやめておこう。これが当たり前の仲間ってやつで、いちいち有り難がったりするもんじゃない。  俺は俺で、ここに至るまで培った総てのためにも、自分の出生に決着をつけなければいけないから。 「ああ、分かった。そうだよな……」 「誰よりも、何よりも、そもそもあいつは、俺がやらなきゃいけないんだよ」  全員、思いを込めて立ち向かう。そんな俺たちを前にして、波旬は奇異なものを見るように首を傾げるだけだった。  ああ、分かるまい。おまえに絆という概念などを、理解できるはずがないんだ。 「神? 神? 神だと? なんだ神が気になるのか?」 「〈天狗道〉《おれ》では不足? あぁそうかもな。俺も嫌だぜ、てめえらみたいな塵にかかずらう羽目になるなら、永劫ただ一人でいい」 「ならばよし、どの神がいい。選ばせてやる」 「二元論、堕天奈落、悲想天、永劫回帰、修羅道、無間、輪廻転生」 「どいつも指の一本程度で、消し潰せるような雑魚だがなァ」 「くッ――」  来やがる。旋回する背後の蓮座が鳴動を繰り返し、ひしりあげるように歴代神座の記憶が搾り出される。  すでにもういない、滅ぼされた過去の神たち。だが悲鳴めいたその点滅は、彼らが哭いているかのようだった。  お願いだ、この外道を滅ぼしてくれ。私たちは第六天の世で完結させるために在ったのではない。  血涙に咽ぶ哀絶の叫び。死した後の残影すら存在を許さないと、陵辱の限りを尽くされ消されようとしている彼らとて、かつてはそれぞれ争い合っていたのだろう。  だがそんな関係を度外視して、波旬だけは駄目であると一人残らず言っていた。そう感じるのは、決して俺の勝手な思い込みじゃないだろう。  だから任せろ、心配するな。あんたらどいつも何かの問題はあったんだろうが、こんな目に遭うほど腐った奴らじゃなかったことくらい知っている。  ちゃんと解放してやるよ。その意志を継いでやる。  誓いを胸に対峙する俺たちへ、波旬がまず投げつけてきたのは第三天――白の世界。 「――」 「――!」 「    」 「 ――」  それは哲学者めいた男の影。万象の愚かさを認めなかった理であり、機械のように整然とした数式と合理性の宇宙だった。 「――来るよ!」  原罪浄化――ゆえに人の悪性を対象の魂から抉り出す。 「      」 「   」 「 !   」 「!」  発生したのは海の砂を思わせるほどの〈蝗〉《イナゴ》の大群。飢えた暴食の具現として、それらが紫織の内部から無尽蔵に湧き出てくる。 「つあああああッッ」  浄化せよ、浄化せよ、おまえはこんなに罪深い――自らの欲望に喰われて聖性のみ王冠の頂に登るがいい。  裁きに一切の容赦はなく、人間性ごと消え去るまで紫織を貪り、貪り尽くす。数理の神が施す法は一か零で、かもしれないという可能性など入り込まない。  ゆえに危険だ。あれは紫織と相性が悪すぎる。見る見るうちに陽炎の数が減じていくその中で、さらなる追撃が放たれた。 「       …… 」  蓮座に凝縮していく白の輝き。発動前のそれを一瞬浴びただけで、俺たち全員の皮膚がばらばらと崩れながら粉になった。  いいや違う、これは塩だ。罪を純白の結晶へと変える断罪の光―― 「    」 「 」 「  」 「 」  放たれた白光は、万象罪深き者を塩の柱に変転させる。防御不能なその一閃を、しかし宗次郎が真っ向から叩き斬るように迎え撃った。 「くッ、あああああぁぁァァッ――!」  崩れる――しかし同時に切り裂く。背後の俺たちを守るかのように、この自己中野郎が悲想天の罰を断ち割ってそこにいる。  すでに剣など砕け散った。しかし己こそが刃なりと、自らの存在をもって拮抗する。群がる蝗に喰われながら、未だに可能性を捨てていない紫織もそこは同様だ。  ひび割れて、ぼろぼろになって、それでも折れないまさに益荒男。その様はあまりに眩しく、胸が締め上げられるほど格好よくて―― 「――紫織!」 「宗次郎!」  ちくしょう、てめえら、主役は俺らだって言ってんだろ。やばい気合いの入れ方するんじゃねえよ、こっちの面子が立たないだろ。 「だから……そんなマジになっちゃ嫌だって」 「この程度、なんでもない。それに言ったでしょう。僕らもあんなものなど認めてなんかいないんだ」 「私らはただ、竜胆さんの示す道を信じてるから」 「僕らが、その血路を開きましょう!」  瞬間、二人の神威が跳ね上がる。刺し違える覚悟はあるかと夜行に言われたことへ応えるように、全霊をもってまずは悲想天を討ってみせると――  後に続く俺たちの道となるべく、共に奥義を開放した。 「おおおおおおおおおぉぉぉォォッ!」  御言の伊吹・大宝楼閣――無尽の刃が蝗を切り裂き、浸透剄が白光の中を貫いていく。共に相手を守るかのように放たれた合体技が、第三天の蓮座に届き、撃ち抜いていた。  轟き渡る大音響。消え去る悲想天の残影が、慇懃に笑っていたように見えたのは錯覚じゃない。まあいいだろう、よくやったと、上目線だが及第点はくれたようだ。  それを見届け…… 「これで、あとは……」 「勝って、お願い……!」  全霊を使い果たした紫織たちも、この空間から退場する。死んだわけじゃない、死んじゃいねえ。死ぬはずないんだから大船に乗ったつもりでいろよ。  あとは俺たちが期待通り、がっつり決めてやるからよ。  さあ、ひとつ天を潰したぜ。次は何だ、クソ波旬――!  決意も新たに気炎をあげる俺たちに応じたのは、座を震撼させる獰猛極まりない咆哮だった。 「」  魔獣、神獣、獣の皇――武威において最強の、黄金に輝く覇王の魂。第四天の裏世界が、〈鬣〉《タテガミ》を振り乱して猛り立つ。 「――」 「     ―― 」 「  」 「――!」  それは典雅な、しかし無限の闘争を寿ぐ男の影。悪鬼羅刹の極楽浄土、戦争英雄を脅威の器で進軍させた終わらない戦いの宇宙だった。 「あれは――」  そして同時に俺たちは知る。この天に率いられた者の中に、見知った顔の数々があることを。 「   」 「   」  龍明、爾子・丁禮、そして夜都賀波岐の中にもちらほらと――  魔性の暴威と恐れられ、かなりやばい神格だったみたいだが、時空を超えた忠誠を得ていた天だ。その支配力は半端じゃない。  ああ、分かるぜ。あのおっかねえ誰かさんは、これの仇が討ちたかったのか。  まあ確かに、とんでもねえ色男ではあるけどよ。 「   」 「    」 「  」  龍明――俺らはあんたに義理がある。だからあんたが愛したこの男を、輝きのまま穢させないと約束しよう。  だってそうだろ? なぜならよ―― 「 」 「いけない、夜行様――!」  ここに、あんたの娘がいるんだから。 「がッ―――」 「龍水――!」  修羅の総軍を乗せて放たれた黄金の槍が夜行を襲い、それを庇って龍水が貫かれた。しかし俺たちは目をそむけない。  悲壮な光景だが信じてる。破壊の愛がどうだろうと、龍明の愛した天が龍水を滅ぼすなどあるはずがない。  だから夜行、言いだしっぺのおまえがそんな取り乱してんじゃねえよ。似合わねえし――  龍水に笑われちまうぞ。こいつの幸せ願望がやばい域だってことくらい、骨身にしみて分かってんだろ。 「は、あはは、なんですか……その顔は」 「嬉しい……でも、そんな夜行様……嫌いです」 「私ごときに、気など割かないでくださいませ。夜行様は、無敵の殿御なのでしょう?」 「ならば私も、それに相応しくありますから……」  夜行は強い。夜行は強い。自分が望んだ男は別格。拙く、夢見る年頃だから、思春期の妄想が凝り固まったような男が生まれた。  そしてこいつは、それを何より誇っている。自らの夢に負けない者であろうとしている。  それを鏡に恋している自己愛で終わらせないため、龍水を波旬の法から解き放つために夜行は再臨したんだろう。自分が自分であるためにも、俺はおまえの妄想じゃないと宣言して立つために。  ここで龍水に追いつかれたら話にならねえ。摩多羅夜行は、このチンチクリンの想像を遙かにぶっ千切った男で在り続けねばならないから。 「お願い、信じて……」 「ああ……」 「そうだ、そうよな。まったく手強い女子だことよ」 「ならば見ているがいい。おまえが望んだ男の力を!」  その領域を容易く今から超えてやると、喘ぐ女を一顧だにせず閻魔が猛る。そしてその背を、龍水は遠く見上げて―― 「はい、この目で然と!」  恋に恋する日は終わりを告げる。自己愛の先へと進まんとする成長を、しかし何度でも始点に戻れと言わんばかりに奇怪な神威が包み始めた。 「  !」  毒性、円環、回帰の理。成長など認めないし進ませない。万象、永劫繰り返す我が脚本の演者たれと、水銀の喜劇が第四天を紡ぎ始める。 「――」 「     」 「   」 「!  ――!」  それは病み衰えた枯れ木のような、しかしぎらつく妄執を内に抱えた男の影。生涯ただ一度の恋に生き、女のために総てを装置に変えた舞台演劇の宇宙だった。 「はッ――そうくるとは、舐めてくれたものだなァ!」  この神格は常に死にたがっていたのだと俺にも分かる。そしてならば、死者を在るべき所へ導くことこそ閻魔の業だ。  ああ、だから夜行ならきっと出来る。繰り返しという理を持つ、ある意味でもっとも面倒な第四天の残影を、見事昇華するに違いない。  魅せろよ、死後の理は無用の長物なんかじゃないってことを。 「   」 「      」 「     」  紡がれる詠唱は、これまでで一番意味不明なものだった。この水銀だけは時系列すら完全無視するという特性の表れなのか、こちらの理解を派手に逸脱している感がある。  だが、それでも夜行には見えているはずだろう。その天眼で、森羅殿で、永劫回帰の終着点を捉えているに違いない。  鳴動する双蛇の理が凝縮し、宇宙開闢を起こす刹那―― 「  」 「 !」  巻き起こった暗黒天体の神威を前に、夜行は一切退かず切り込んでいった。 「く、おおおおおぉぉォォォッ!」  超重力に潰される。光の欠片も脱出できない穴の中へと恐れることなく身を晒し、終わりと始まりが同時に存在するこの法則を解体するため、咒の間隙を縫っていく。  それがどれだけの難行か、俺には到底分からない。第四天は言わば咒法の神であり、武で終わらせることは出来ないものだ。流動円環する水銀に立ち向かえるのは、等しく咒を極めたこいつのみ。  だから今は、見守るしか出来ない。 「――夜行!」 「夜行、様……!」  噛み締めた歯が砕き割れて、握った手の爪が肉を抉る。いい加減こっちも我慢の限界だが、おまえの覚悟に水は差せねえ。見届けてやるから早く俺の出番に回してくれ。  きつすぎるんだよ、洒落にならねえ。傷ついてるおまえらを前に、のうのうと待ってられるわけねえだろう。  俺じゃあこの天に対抗できないと分かっていても、突っ込みたくて堪らなくなるからどうか頼む、頼むよ夜行――  いつものスカした調子で笑ってくれ。憎まれ口の一つも叩いて、頭悪ぃ俺を止めてくれ。  血を吐くようなその思いは、座など関係ない本当の神ってやつにでも通じたのか。 「馬鹿め、要らぬ心配だ……私を、誰だと思っている!」  慇懃にふてぶてしく、待ち望んでいた憎まれ口が返ってくる。それと同時に、猛威を振るっていた暗黒天体が徐々に縮小を始めていく。  始点終点の結合地点、ついにそれを見出したのだと夜行は笑って前を見据え。 「摩多羅夜行は、死を裁く者……死にたがりの神格なぞ、取るに足りんわァッ!」  乾・坤・印――第四天の妄執を唯一散らせる黄昏目掛けて押し返し、女神の抱擁を受けた水銀は安らぎに包まれながら消えていった。  満足したはずだろう。たとえ残影であろうとも、望んだ最上の終わりを迎えることが出来たんだから。  そして、それを成した夜行の妙技。すでに存在しない神格すら成仏させる閻羅天こそ、まさしく無窮で無謬に違いない。チンチクリンの妄想など、軽く振り切った境地に在るはず。 「さあ龍水、おまえも魅せろ。でなくば二度と抱いてやらんぞ!」 「はい、言われるまでもなく……!」  肩越しに振り返って嫌味なほど爽快に笑い、後は任せたと去る夜行。未だ猛り続ける黄金の神威に圧されながらも、その言葉にこいつが燃えないわけなどない。  たとえどれだけ離されようと、めげずに追い続けるのが御門龍水の魂だから。  胸を貫く槍に触れ、愛おしむかのように語りかける。 「母刀自殿……いま龍水は、あなたの真実に触れています」 「愛していたのですね。追いかけたのですね。在りし日のあなたは、私が知るあなたと寸分たがわず、どこまでも凄烈で美しい……」  槍が震える。歌うように鳴き始める。修羅の天に身命を賭した英雄たちの記憶が漏れ出て、龍水の身を包んでいく。  それはまるで、慰撫するような……同胞に対するもののようで。  〈黄〉《 、》〈金〉《 、》〈は〉《 、》〈こ〉《 、》〈う〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈奴〉《 、》〈が〉《 、》〈好〉《 、》〈き〉《 、》〈な〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。心酔した他者に魂の一片までも捧げ尽くすという龍水の在り方を激賛し、そしてだからか。 「ならばこそ、あなたが愛した殿方を、波旬の道具になどさせませぬ。この座は、必ず私たちが斃しますから」  輝く槍に亀裂が走る。ならばおまえは男を追って永劫戦い続けろと、修羅の理が飽和して―― 「きっと出来ると、私は信じているのです!」  自ら砕け散る破壊の愛。先に第四天の影が消えたことで、その自滅因子であるこの宇宙も後を追う。黄金の覇王はあくまで優雅に踵を返し、己が軍勢と共に去っていった。  その中には、笑ってこちらを見ているあいつもいて…… 「母刀自殿……」  ただの残影、本物の龍明がここにいたわけでは断じてない。しかしそれでも龍水は、確かに母と邂逅したのだと信じている。  信じているから、こいつにとっては紛れもない龍明だ。晴れ晴れとした顔でそれを見送り、龍水もまたこの座から去っていった。  ゆえに、さあ――これで三つの天が消えたぞ。決着の時は近づいている。  空座が目立ってきた曼荼羅を背負う波旬は、しかし腹を抱えてけたたましい笑い声を響かせていた。 「くふ、ふはは、はははははははは―――」 「いいな、いいぞおまえたち。役に立つな。塵掃除の才能がある」 「必死に気張って、次から次へと、勝手になにやら満足しつつ一緒に消えてくれるのか。いい子だねえ、嬉しいぞ。俺が純化されていく」 「ああ、なんて清々しい気分なんだ」  己が真なる唯我に近づいていると、酔い痴れて陶然とする。それを証明するかのように、波旬の神威は目に見えて増大していく。  こいつにとっては俺たちの行動など、自分の首を絞めているだけの痴愚にしか見えないのだろう。だがな―― 「その調子で、塵屑同士喰らい合えよ。他におまえたちが行く場所なんて、俺の天狗道の何処にもない」  分かってねえのはおまえなんだよ。それをこれから教えてやる。  その意志に応えるかのごとく、〈天〉《 、》〈狗〉《 、》〈道〉《 、》〈の〉《 、》〈内〉《 、》〈部〉《 、》〈か〉《 、》〈ら〉《 、》一筋の光が走った。 「違う。何処へだって行けるはずだ」  滅尽滅相の法を崩した命の輝き――次代へ繋ぐという当たり前の、しかし何より尊い人の業をおまえは知らない。 「もう俺たちは、何者にだって縛られちゃいねえ。そうだろう?」 「はい、他ならぬ兄様が道を示してくれましたから」 「わたくしたちは、夜明けを目指すことが出来るのです」  瞬間、それによって第一天と第二天が掻き消えた。もっとも人間くさかった神座だからこそ、刑士郎たちの選択に強く同調したのだろう。  そして無論、その真なる効果はさらにでかい意味がある。 「……あァ?」 「なんだこりゃ? 亀裂が、俺、にも……」  呆然と、次いでわなわなと震えながら、自らの傷を見下ろす波旬。  誕生の光はほんの僅かで、ほんの一瞬。文字通りただの赤子が持っている意志力程度のか弱いもので、波旬単体が有する質量とは比べ物になり得ない。  しかしそれでも、異物は異物だ。完成した天狗道の中で生じたそれは、たとえどんなに小さかろうと決定的な亀裂となる。  狂乱しろよクソ野郎――おまえは自己愛のみの塊だから、蚊に刺された以下の痛みにすら耐えられない。  てめえがてめえだけのものだと断じたその〈宇宙〉《カラダ》、まさか削られることなど考えてもいなかっただろう! 「俺の、身体が、おお、おお、おおおおおおおおおおぉぉぉォォ!」 「俺の! 俺の〈天狗道〉《カラダ》に何をしやがったてめえええァッ!」 「貴様はもう、完全無欠ではなくなったということだ!」 「たとえそれが、どれだけ小さなものであろうと、第六天に亀裂が走った。我が朋友たちが育んだ愛、そして黄昏の英雄たちが遺してくれた唯一の勝機!」 「勝つのは我らだ――滅びるがいい天狗道。貴様は一人で、ゆえに誰の力も仰げない!」 「この一矢、貴様に踏みにじられた者たちの怒りと知れ!」  放たれる弓の一閃が、波旬に生じた亀裂めがけて飛翔する。だがそれが命中する寸前で、再び曼荼羅が鳴動した。  痛みに叫びあげていた狂乱の熱が、瞬時にして零下に変わる。 「黄昏だと? ああ、これのことか」 「 」  それは若く、青くて、しかし何よりも光を愛した男の影。ああ、ちくしょう――言わなくても分かる。これはあいつだ。刹那を留める永劫無間の神無月。 「ぎぃィィ―――」 「ぐああぁァッ……」  時間停止の宇宙を前に、矢はもちろんのこと俺も竜胆も止められた。しかしその危機よりも、胸を掻き毟るのは極大の憤怒。  てめえが、てめえのようなくそったれが、あいつの法を騙るんじゃねえ! いま生きている総ての命に対する大恩人を、これ以上貶めるような真似は断じてさせねえ!  怒りに燃える俺たちを、だが波旬は嘲り倒すように次なる天を投げてきた。それが何かは、今さら語るまでもない。 「――」 「   」 「   」 「  ――」  それは柔らかな慈しみに満ちた女の影。誰よりも優しかった神座ゆえに、救いのない外道に滅ぼされた黄昏の女神だった。  その在り方が、いま冒涜的に歪められる。  身の毛もよだつ滑車の音と共に、俺たちの頭上に落ちてきたのは出鱈目に巨大な断頭刃――それは記憶にある夜刀の意匠にも通じるもので、この二人が恋仲であったことを何より雄弁に語っている。  そして、それだけに許せねえ。思いは竜胆も同じなようで、首に叩き落された刃の圧に抗いながらも怒号する。 「下種がァッ!」 「こんなもの、こんなもので彼らを騙るな……!」  こんな殺戮器械の写し身でしかない代物は、断じて黄昏の真実じゃない。彼女は触れ合いたくて、抱きしめたいから、慈愛をもって神座に昇った。ゆえに夜刀はそれを守ろうとしたんだよ。  こんな嘘っぱちの暴力に、俺たちの首を断てなどしない。俺たちの歩みを止められなどしない。 「どこまで彼らを穢せば気がすむ! 抱きしめるという意味すら知らない貴様ごときが……」 「この黄昏を、侮辱するなど私が絶対に許さない!」 「おおおおおおおぉぉぉォォッ!」  気炎爆轟――時間停止の縛鎖を千切り、断頭刃を粉砕する。夜刀の太極はもっと強く清廉で、チャチな紛い物なんかと比べるな。この程度のこと、なんでもねえ。  見せ付けた意志のほどに、黄昏の影が淡く微笑む。それはとても愛らしい、だけど儚く切ないもので…… 「泣かないでくれ。御身は真実、後に続く者たちへの〈道標〉《しるべ》となった」 「黄昏の光は、必ず朝へと受け継ぐよ。ここに約束させてくれ」 「だから……」  消えていく夜刀と女神の影を見送って、竜胆が俺のほうへと目を向ける。  ああ、分かってるよ。約束しただろ。俺は絶対死なねえから―― 「おまえの出番だ。私の〈益荒男〉《おとこ》なら気合いを入れろよ!」  凛と清々しく発破をかけて、竜胆もまた去っていった。これでこの場に残ったのは、俺と波旬の二人のみ。  ついに歴代神座の影を総て排除し、真に唯一の曼荼羅を完成させる寸前の波旬は、しかし溢れ返る猛悪な神威に反して白けたような溜息を吐いていた。 「あぁ、あぁ、あぁ……」 「つまらん。何の茶番だこれは」  心底から理解できない。いったいおまえたちは何なんだと。 「おまえらはあれか、ああいったものに何かを感じたりするものなのか。それは痴愚の成せる業なのか」  進んで他者と交わって、その魂に触れ涙を流す。  喜んだり悲しんだり、そして互いに誇ったり……人と己を繋ぐもの、そこに育まれる輝きの価値をこいつは微塵も分からない。 「結局のところ、他人だろう。そいつが何をして、何を言っても、己と何の関わりがある? なぜ他人の言動に影を受ける?」 「知ったことではないだろう。そもそも視界に入っていることのほうが異常なんだ。己の中に別の何者かを住まわせて、なぜそれを喜べる? 邪魔臭いとは思わんのか?」 「思わないね」 「おまえには、この気持ちが分からないのか?」 「分からんね。分かろうとも思わない」 「俺にあるのは、ただそれが不快だということだけだ。ああ、本当はそのココロすら煩わしい」 「平穏、というやつなのか。俺はそれのみを求めている。永劫に、無限に広がりながら続いていく凪――」 「起伏は要らない。真っ平らでいいんだよ。色は一つ、混じるもの無し」 「俺は俺のみで満ちる無謬の平穏だけが欲しい。さほど大層な望みじゃないだろう。そう思うが、違うのか?」 「極めてささやかなことを言っている。何も難しくないし、簡単だ。おまえら流に言うならば、誰もがそれなりに考えているという共感だって得られるはず」 「それが、自己愛」  己の己に対する愛を、〈自分〉《うちゅう》の法則とする思想。  他者は異物で、異端で、ただの化外で……己の純性を損なう穢れでしかないと言う。それは誰もが、多少なりとも理解できるはずだと言う。  否定は出来ない。今より〈波旬〉《たしゃ》を排除しようという俺だから。こいつの兄弟である〈畸形嚢腫〉《おれ》だから。その一点だけはどんなに極小でも共有している部分がある。 「そうだ。俺が俺を何より尊び、優先し、俺という世界を統べる王であること。俺の大事さに比べれば、他など目に入らない」 「なあ、それのどこがおかしい。狂っているのはおまえたちだ」 「なぜ俺を一人にしない。なぜ俺に触れようとする。なぜおまえたちはいつもいつも――」 「自分が何より大好きなくせに、他人と関わらなければ生きていけないなどと嘘ばかりを抜かすのか」 「その狂った趣味に、付き合わされる俺こそ不幸だ。どうしても俺を一人にしてくれないなら、滅ぼし尽くすしかないだろう」 「なあ、おまえがいたからその結論になったんだぜ。この俺にとって、忌むべき唯一、恥の記憶」 「俺に他者という存在を叩きつけ、その影を烙印した〈畸形嚢腫〉《きょうだい》よ」 「おまえさえいなければ――なんていう、何者にも影響されない俺の思想と矛盾する傷を根源に刻みつけた」 「それが不快なんだよ。許せないんだよ。掻き毟って真っ平らにしたいんだよ」 「そのときこそ、俺の生は本当に産声をあげることが出来るんだよ」 「俺が渇望し、焦がれてやまない、俺が俺であるために」 「なあ、〈畸形嚢腫〉《きょうだい》……俺はおまえの存在が邪魔なんだよ」  それは静かだが、これまでの何よりも強い原初の気持ちで、波旬の始まり。  〈畸形嚢腫〉《おれ》という他者に対する不快感。万象滅相してでも拭い去ってやると誓った渇望の根源だった。  ゆえに、俺が言うべきことも決まっている。 「……そうかい」 「言いたいことはそれだけか?」  おまえの気持ちがそういうものだってことくらい、遥かずっと前から知っていたし。  俺はだからこそ、何より生きたいと強く願った。  なあ、だってそうだろうがよ。 「俺は正直、ずっとおまえが羨ましいと思ってたぜ」 「手足があり、身体があり、目があって口がある」 「たとえどんなにイカレていようが、思考の出来る頭がある」  最初から肉の檻に閉じ込められていた俺と違って、おまえは外界を知っていた。なのにそれを見なかった。 「おまえは、道を選ぶことが出来たんだ」 「自分を名乗ることが出来たんだ」 「羨ましかったよ。怖かったよ。おまえとくっついていなけりゃあ、生きることも出来ない俺はいったい何なんだって……」 「いつかこいつに切り離される。こいつの手で殺される。やめてやめて、こんな様でも生きてるつもりなんだから」 「そう思って、思い続けて、俺は心底焦がれたよ。泣きたくなるほどてめえのようになりたかった」 「けどな」  そんなイジケた心は吹き払った。  俺は光を知ったから。共に歩いてくれる〈仲間〉《やつら》がいるから。  たとえどれほどの力があっても、内に収束していくしか出来ないおまえのことなど―― 「今はもう、欠片も羨ましいとは思わねえ」 「おまえは哀れな奴だ、兄弟。俺がおまえじゃなくて心底良かった」  ほんのわずかな掛け違いで、俺たちの立場はまったく逆だったかもしれない。ゆえに今の俺で在れたことに、心の底から感謝する。 「内に篭って生まれた俺だからこそ、外の世界に憧れることが出来たから」 「竜胆に、出会うことが出来たから」 「おまえは何も見えちゃいない。どんだけ立派な目があっても、そこには何も映ってなんかいないんだ」 「つまり、何が言いたいかって言うと――」  俺とおまえ、〈人〉《 、》〈と〉《 、》〈し〉《 、》〈て〉《 、》〈在〉《 、》〈る〉《 、》〈の〉《 、》〈は〉《 、》〈ど〉《 、》〈っ〉《 、》〈ち〉《 、》〈か〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈こ〉《 、》〈と〉《 、》〈で〉《 、》―― 「漢の価値は、どれだけ〈未来〉《まえ》を見据えているかで決まるんだぜ。てめえじゃ俺に勝てねえんだよォッ!」 「くは――――」 「くは、はははは、ははははははははは……」 「いいぞ、何を言っているのかさっぱりまったく分からない。俺は俺として純化している」 「もうおまえの存在などに、煩わされたりはしないんだ。ああ、本当に待っていたんだよ、この時を」 「さあ、それでは終わらせようか」  鳴動する曼荼羅に、唯我の神威が凝縮していく。  本来求道であったはずの波旬だから、たった一人になったときこそ無量大数の密度を持つ。求道型の覇道神という、完全に矛盾した存在として歴代最強に成り得たのはそのせいだ。  しかし、俺に対してだけはそんな出鱈目など通らない。他者廃絶という根幹の渇望に関わる俺の前のみ、波旬は〈並〉《 、》〈の〉《 、》〈覇〉《 、》〈道〉《 、》〈神〉《 、》〈と〉《 、》〈い〉《 、》〈う〉《 、》〈型〉《 、》〈に〉《 、》〈嵌〉《 、》〈っ〉《 、》〈て〉《 、》〈し〉《 、》〈ま〉《 、》〈う〉《 、》〈ん〉《 、》〈だ〉《 、》。  ゆえにそこでは、己の〈総軍〉《たましい》を捨てまくることで当たり前に弱くなる。なぜなら覇道っていうものは、どれだけ他者を愛しているかの勝負だから。  ここに至るまで、どれだけ魂を消し去った? おまえが茶番と言った俺の仲間たちの奮戦で、鎧も弾も無くなっただろう。哀れなおまえは、その事実に気付いていない。  純化されたと嘯くその今が、俺の前じゃあ裸の王様にすぎないってことを教えてやる。  だから―― 「せめて決着と言えよ、風情がないぜ」 「決着? 俺が俺となることの、どこにそんなものがあると言う。万象、俺以外が入り込む余地など微塵もないんだ」 「ああ、おまえ何だったかな? 知らないぞ。よく分からないものが目に前にいる。潰そうか」 「そうすれば、もはやこの目に映り込むものは何もないんだ」  真実、今こそ唯我の境地に達しようとする波旬を前に、だが俺は微塵たりとも臆しちゃいない。 「へッ――馬鹿抜かしやがれこの野郎」  なぜなら、ここに名もない畸形嚢腫はもういないから。たった一人じゃなくなったから。  おまえにこうして見つかろうと、それは死を意味しないんだよ。 「だったら教えてやるぜ、俺の名を――」 「坂上覇吐――覇を吐く新世界の益荒男だ!」  いつもそうしてきたように、威勢を振るって見得を切る。  総てはこの日、この時、この瞬間に――真なる人として天と地に向かい合うため。 「俺こそてめえの歪みで、化外で、救いの光になると知れッ!」  この宇宙でただ一人、俺だけがおまえの真実を分かってやれる。  共に俺たちは理解者で、だからこそおまえが本当に焦がれたところへ送ってやるよ。 「いざ尋常に――」 「勝負しようかァッ!」  共に全霊、存在を懸けた最後の勝負。同時に紡ぎあげた咒の歌は、双方示し合わせたように鏡合わせのものだった。 「――唵――」「――唵――」 「阿謨伽尾盧左曩 摩訶母捺囉摩抳 鉢納摩 入嚩攞 鉢囉韈哆野吽」「阿謨伽尾盧左曩 摩訶母捺囉摩抳 鉢納摩 入嚩攞 鉢囉韈哆野吽」  同じ言霊、同じ発音、しかしその意味するところはまったく違う。 「地・水・火・風・空に遍在する金剛界尊よ」「地・水・火・風・空に遍在する金剛界尊よ」 「今ぞ遍く光に帰依し奉る!」「今ぞ遍く光に滅相し奉る!」  共に光明を願う真言ながら、太陽というものに求める概念が正反対にかけ離れている。 「天地玄妙神辺変通力治――」「天地玄妙神辺変通力離――」  万象の癒しを求める俺の咒と、万象の滅相を求める波旬の咒。  光は命の象徴であるという俺の意と、光は命を消し去る放射線だという波旬の意。  その激突を前にして、俺たちは奇妙なことだが可笑しくなり。 「ふ、ふふふふふ……」 「へへへへへ……」  同時に泣きたくなったから、その激情を喉も張り裂けんばかりに迸らせた。 「はははははははははははははははは―――!」「はははははははははははははははは―――!」  兄弟、兄弟、ああ波旬よ――  おまえは俺の兄貴なのか弟なのか。俺たちの両親はいったいどんな奴だったのか。  もう今となっては分からない。分からないから俺は前を向いて歩いていくよ。 「曙光曼荼羅ァ――」「卍曼荼羅ァ――」  輝く日の光の中を、誇らしい仲間と共に―― 「――八百ォォ万!」「――無量大数ゥ!」  ここにぶつかり合う最後の一撃。共に絶対と信じる神威の具現。  質量は未だ波旬の方が遥かに膨大。並の覇道神という型に嵌ったといったところで、それはそれでとんでもない代物だということくらい分かっている。  ゆえに俺一人じゃ斃せない。こいつを超えるには決定的な楔となるものが要る。  すなわち―― 「ぐッ―――」  咲耶と刑士郎が育んだ命。  それをもって生じた天狗道の僅かな傷――  こいつはその〈温もり〉《いたみ》に耐えられないから―― 「俺のォ――」  最後の小蓮台が浮き上がり、波旬の傷口から俺の〈畸形嚢腫〉《ほんたい》が遊離していく。  首から延髄、脳にかけて、内部に食い込んでいた肉の塊――どんなに醜くても不完全でも、生きたいと願い続けた俺の器よ。おまえの魂を坂上覇吐は誇っている!  今こそ真に〈神〉《ヒト》として、融合を果たした俺たちの前に敵はない。額を突き破って顕現していた波旬の天眼は、嚢腫の分離と同時に機能を失い、閉じられて―― 「勝ちだァァッ―――!」  乾坤一擲、ここに唯一の勝利を掴む。第六の型、曙光の輝きに姿を変えた俺の剣が、大欲界天狗道を一刀の下に両断していた。 「――――――」  煌く残光は絆の星々。己が宇宙には存在しない理を叩き込まれて、波旬の太極が薄れていく。無量大数を謡った個我は、それによって一気に零へ落ちようとしていた。  そう、無の淵へ。本当に何もない永劫の凪の中へ…… 「逝けよ兄弟、おまえが望んでいた場所に」 「そこの寂しさに気付けたなら、また会おうや」  もしもそんな日が来るのなら、おまえも光をちゃんと感じられるはずだから。 「ふ、ふはは、はははは……」 「大きな、お世話だ」 「俺以外が無くならないなら、俺自身が無くなるまでだよ」 「ああ、いいぞ素晴らしい……そこは無謬の平穏に満ちている」  救いは、こいつにとっての幸せというものはそれしかない。他者がいて、自分がいて、その繋がりを寿げない魂ならば、そうなるしかなかったんだ。  分かってる。分かってるからここで柔弱な感傷など抱かない。俺に出来るのは見送ることだけ。  共に産まれ、共に生き、共に最後まで交わることがなかった兄弟の最期を…… 「今度こそ、今度こそおまえたち、俺には絶対構うんじゃない」 「どうしても殺されたければ、あの女にでも頼むんだな」 「……………」 「くく、くくく、かかかかかか……」 「結局おまえも、何より自分が好きなんだよ」 「なぜならあの女だって、要は〈自滅因子〉《おまえ》なんだからな」 「生憎――」  その運命ならもう乗り越えた。おまえに関わる俺の死は竜胆じゃなくなったし、俺たちが二人で一人だと言ったところであいつにはあいつの魂がある。  俺もそして竜胆も、互いに鏡を愛しているつもりはないから。 「そこは二人で見つけていくさ。自己愛だけじゃねえ、魂の道ってやつをな」 「そうかい……」 「まあ、それなら」  揶揄するように含み笑って、だけどそれは生涯初めて、こいつが他者としっかり向き合ったうえでの感情で…… 「好きに、しろやぁ……」  最後まで憎々しい嘲笑を遺しながら、第六天波旬は消えていった。  永劫、永遠に何処までも、真実一人になれる無を求めて…… 「…………」 「竜胆……」  顔を上げてそっと呟き、しかし同時に首を振る。そうだ、その呼び方はもうやめよう。約束したし、誓いは果たした。 「終わったぜ。俺たちが、勝ったんだ」  だから祝おう。いつか言った通りの宴をしよう。そしてどうかその前に……  今はおまえと二人だけで、この喜びを共に噛み締めさせてくれ。  目を閉じてそう念じ、愛しい女へ語りかける。空席となった太極座が、俺たち二人を呼んでいるのが分かっていた。 「鈴鹿……」  だから俺は知らず歩いて、いつしか走って、心からあいつを求めて名を呼んで―― 「鈴鹿ァァッ――――!」  それに応える声はすぐさま、俺とまったく同じ域で切羽詰った感じのもので―― 「覇吐……」 「覇吐ィィッ――――!」  別れたのはついほんのさっきだったというのに、離れ離れになっていたことがこれほどまでに胸を焦がす。  ちょっとこんなの耐えられねえから、俺たちはマジに全力疾走ぶちかまして駆け寄ると、ついに見出した相手の姿にまたしても速度をあげて――  お互いそのまま、激突するような勢いで力いっぱい抱き合っていた。 「待っていた。信じていた。必ずこうして、また抱き合えると」 「信じていたけど、怖かったぞ。不安で不安で、しょうがなかったんだぞ。どうしてくれる!」 「どうするって言われても……」  まあ、俺に出来ることなんて一つだけで。それはこれからも変わらないわけで。 「もう二度と、一瞬たりとも離れない。そういうことで、いいだろう?」 「当たり前だ。おまえがいない世界なんて、私はもう考えられないと言っただろう」 「今までずっと、何回も、おまえが吐いてきた大言の数々……私は全部、覚えているんだからな。口だけなんていうことは、許さないんだからな」 「終生、時の果てまで一緒にいよう。そして新たな〈太極〉《ソラ》を守り抜こう。誰も泣くことがないように」 「光を灯そう。あまねく天下に」 「……ああ」  たぶん鈴鹿は、いま波旬のことを考えてる。あいつは、俺の兄弟は確かに救えない奴だったが、あれはあれで他にどうなりようもなかったんだ。  生まれてきてはいけない奴っていう考えも、俺たちがあいつに直接関わったからこそ言えることで、実際は暴論だというのも分かっている。  俺たちがずっと一緒にいようと思うなら、新たな覇道太極が発生する可能性自体を摘み取るか、発生した端から返り討ちにしてしまうかの、どちらかしかない。  そして、結局のところどちらも非常に傲慢なことだ。神座の機構など要らない言った夜行の意見が、あるいは一番正しいかもしれないとも思う。  が、現実問題として今は波旬の代わりを用意せねばどうにもならない。神座は空席となったものの、それは天狗道の根源を絶っただけで、すでに流れ出した色は世に残っている。  新たな理を〈神座〉《ここ》に据えて塗り替えないと、滅尽滅相の法はなくならない。それを成せる力があるのに、面倒だから見て見ぬふりなんて真似は出来ないだろう。  だから、きっとこれこそが責任なんだ。夜刀がそうであったように、座と関わりを持った奴はでかい荷物を背負わないといけない。  望もうと望むまいと、それが新世界を担うということ。  その事実を重く受け止め、自分たちに出来る精一杯の色を生もう。そしてそれに誇りを持とう。  常に後世のことまで考えながら、この宇宙に生まれる命という星々を守れるように。その系譜だけは途切れさせないように。  まあ、引退したくなった頃、見所のある若いのが出てきたら笑って交代できたらいい。そこは鈴鹿も、俺に同意してくれるんじゃないかと思う。  それに正直、もう切った張ったはこりごりだし。  あとはこう、ずっとイチャイチャ、ヌキヌキポンでいいじゃんよ。 「おまえ、何か馬鹿なことを考えてないか?」 「いや、いやいや」  色々乗り越え、女としての完成度が上がったのか、とても鋭いお姫様だ。しかし実際、こいつのそんなところも良い。  要するに俺、めろめろだから。ずっと尻に敷かれてもいいし。 「なんでもねえよ。だから鈴鹿」 「ああ、覇吐」 「二人で――」 「ここから、流れ出していこう」  愛を誓うようにそっと呟き、溢れ出る光に包まれて二人の魂が座と合一する。  ここに今、このときをもって俺たちの新世界が誕生したんだ。  そして―― 「遅いー、咲耶ー。ほんともう待ちくたびれたよー」  いつしかわたくしの意識は朦朧となり、その中でとても懐かしい声を聞く。 「まあ、〈求道神〉《われら》と違って人たることを選択したのだから仕方あるまい。生身のままでは来れぬ場所だ」 「刑士郎さんは早かったですけどね」 「おまえ、さっさと死にすぎだぞ。なんと甲斐性のない男だ」 「うるっせえなあ。その説教はもう聞き飽きたっつってんだろ」  皆様、これは、もしや夢? いいや違う。 「つーわけでほら、超英雄爆誕の俺様にも酌してちょーだい!」  紫織様、夜行様、宗次郎様、龍水様、そして覇吐様に、ああ、兄様も…… 「まーた始まったよ」 「咲耶、虚けが〈感染〉《うつ》るぞ。相手にしなくてよいからな」  懐かしい顔ぶれは記憶のまま変わらなくて、それが何よりも嬉しくて…… 「はい、はい……本当に皆様、お久しぶりでございます」 「凶月咲耶、遅れましたがようやっと参りました」  溢れる涙に洗われたのか、いつしか自分が、在りし日の娘時分に戻っているのを自覚した。  あの輝ける日々、色褪せない情景、わたくしにとって何よりも大切な、黄金の記憶にあるままの姿で…… 「久しいな、咲耶。どうだ、新たな座は気に入ってくれたかな?」 「竜胆様……ええ、もちろんです」  彼女だからこそ成し得た〈太極〉《ソラ》は満開の桜吹雪で、あらゆる生の息吹きと祝福に満ちている。 「誠に感服いたしました。お見事でございます」 「ありがとう。だがそれは、皆があったればこそのものだ。誰か一人でも欠けていたら、この今はなかったのだよ」 「晴れの日に涙は要らない。さあ、笑って。ここに昔日の約束を果たそう」 「おっしゃあああ! なら俺がまず一席ぶってやるから聞けやコラ愚民ども!」 「宗次郎、あれ要らないや。斬っちゃえ」 「そうですね」 「おぉい! ほんとマジいい加減にしろよこの野郎。いったい何処の誰様のお陰で――」 「覇吐、おまえこそいい加減にしろ」 「はい」 「ぷっ」  この方は、なんとまあ相変わらずすぎるから。わたくしは年甲斐もなく噴き出して、そのままツボに嵌ってしまいました。  そんなわたくしを皆様は、それぞれ優しい眼差しで見てくれる。それが何よりも嬉しく感じる。 「ああ、やっと普通に笑ったな咲耶」 「その、なんだ。すまなかったな……俺が不甲斐ないせいで、おまえには随分苦労かけたろう」 「いいえ、そんなことはありません。わたくし、一人ではありませんでしたから」 「子も、孫も、そして曾孫も……皆が元気に育っていきました」 「兄さ……あ、いえ。その……」  申し訳ありません。これは本当にあのときだけのことだったので、まったく慣れていないというか。  ですけど、是非呼ばせてほしい。わたくしの愛する殿御のことを、ちゃんとした名で。 「刑士郎の、お陰です」 「お、おお……」 「くっくっく、くっくっくっくっく……」 「や、夜行様、笑っては駄目ですよ」 「あーはっはっはっはっはっはっは!」 「―――ッ、てめえ夜行!」  ああ、そうやってむきになるから、夜行様のような方の肴になるのに。殿御のこういったところとは、きっと幾つになっても変わらないものなのでしょうね。 「ええぇい、静かにせんか! 本当にいつまで経っても纏まりのない奴らめ」 「おまえたちに喋らせていては埒が明かん。音頭をとるからいいな、いくぞ!」 「はーい」 「では」 「お待たせしたぶん、とことん付き合わせていただきますから」 「早く始めようぜ」 「実は先ほどからもう飲み始めているのだが」 「そういうことは、言わぬが花というやつですよ」 「結局俺、最後の最後にこんなんかよ……」  それぞれ、手に杯を掲げ持ち、あのとき交わした誓いを今こそ。 「我らの絆と、魂に――」  この、満開の桜の下で…… 「かんぱーい」  皆で勝ち取った勝利をここに、心から祝いたいと思うのです。  特別付録・人物等級項目―― 坂上覇吐、久雅竜胆、奥伝開放。 波旬、奥伝開放。